刑事訴訟法 捜査法演習 第1講 自動車検問、職務質問・所持品検査その1


第1 自動車検問の適法性
1.自動車検問の意義・種類
自動車検問
=犯罪の予防、検挙のため、警察官が走行中の自動車を停止させて、自動車の見分、運転者又は同乗者に対し必要な質問を行うこと!

2.自動車検問の問題性
(1)自動車検問の法的根拠
・不審検問
警察官職務執行法
+(質問)
第二条  警察官は、異常な挙動その他周囲の事情から合理的に判断して何らかの犯罪を犯し、若しくは犯そうとしていると疑うに足りる相当な理由のある者又は既に行われた犯罪について、若しくは犯罪が行われようとしていることについて知つていると認められる者を停止させて質問することができる。
2  その場で前項の質問をすることが本人に対して不利であり、又は交通の妨害になると認められる場合においては、質問するため、その者に附近の警察署、派出所又は駐在所に同行することを求めることができる。
3  前二項に規定する者は、刑事訴訟に関する法律の規定によらない限り、身柄を拘束され、又はその意に反して警察署、派出所若しくは駐在所に連行され、若しくは答弁を強要されることはない。
4  警察官は、刑事訴訟に関する法律により逮捕されている者については、その身体について凶器を所持しているかどうかを調べることができる。

+第百九十七条  捜査については、その目的を達するため必要な取調をすることができる。但し、強制の処分は、この法律に特別の定のある場合でなければ、これをすることができない
○2  捜査については、公務所又は公私の団体に照会して必要な事項の報告を求めることができる。
○3  検察官、検察事務官又は司法警察員は、差押え又は記録命令付差押えをするため必要があるときは、電気通信を行うための設備を他人の通信の用に供する事業を営む者又は自己の業務のために不特定若しくは多数の者の通信を媒介することのできる電気通信を行うための設備を設置している者に対し、その業務上記録している電気通信の送信元、送信先、通信日時その他の通信履歴の電磁的記録のうち必要なものを特定し、三十日を超えない期間を定めて、これを消去しないよう、書面で求めることができる。この場合において、当該電磁的記録について差押え又は記録命令付差押えをする必要がないと認めるに至つたときは、当該求めを取り消さなければならない。
○4  前項の規定により消去しないよう求める期間については、特に必要があるときは、三十日を超えない範囲内で延長することができる。ただし、消去しないよう求める期間は、通じて六十日を超えることができない。
○5  第二項又は第三項の規定による求めを行う場合において、必要があるときは、みだりにこれらに関する事項を漏らさないよう求めることができる。

警戒検問
+判例(東京高判S57.4.21)

交通検問
+判例(東京高判S48.4.23)
理由
本件控訴の趣意は、弁護人奥毅の控訴趣意書に記載されたとおりであるから、これを引用する。
控訴趣意第一点について。
論旨は要するに、原判示第二の公務執行妨害の事実について、同判示の道路において交通事犯(飲酒運転)取締りに従事していたA巡査らがなした被告人運転の普通乗用自動車(以下、被告車という。)に対する自動車検問ないし職務質問は、その前提要件を欠く違法なものであるのにかかわらず、同巡査らは進行中の被告車を強制的に停車させようとし、引続きA巡査は強制的手段によつて職務質問をなし、自動車の停止および自動車からの下車を要求したものであつて、A巡査が被告人に自動車の停止および下車を求める行為も違法たるを免れず、仮りにA巡査らがなした自動車検問が職務質問の前提要件をみたし、正当なものと認められるとしても、その後にとつたA巡査の行為は、明らかに被告人の意思を無視した強制的手段を用いた違法なものであつて、到底適法な職務行為とは認めることができないから、公務執行妨害罪は成立しないものというべく、従つてA巡査の右のような違法な職務行為を適法なものとした原判決は法令の適用を誤つたものであつて、その誤りが判決に影響を及ぼすことが明らかであるというのである。
しかし原判決の挙示した証拠を総合すれば、所論のA巡査らがなした被告車に対する自動車検問などの適法性の点を含め、原判示第二の公務執行妨害の事実を肯認するに十分であり、当審における事実取調の結果を参酌しても、右認定を左右するに足るものはない。すなわち、右各証拠によれば、警視庁小岩警察署勤務のB巡査部長、前記A巡査およびC巡査の三名は本件犯行当日である昭和四七年八月一七日午後一一時二〇分ころから原判示道路付近で、酒酔い運転および無免許運転を主とする交通取締を実施し、右道路付近にある交通整理の行なわれていない交差点を徐行しないで進行する車両とか前照灯をつけていない車両または蛇行運転する車両などのいわゆる不審車両について停止を求めるなどして自動車検問をなし、職務質問をしていたこと、右取締の場所は、D小岩駅前の繁華街に通ずる道路で酒酔い運転の多いところであるため、それまでにも何回となく取締を実施していたこと、被告人は当夜右小岩駅南口のキヤバレーなどでビール大瓶一本、中瓶二本位を飲んで午後一一時四〇分ころ被告車を運転し、原判示道路を小岩駅前方向からE街道方向へ時速約三〇キロメートルないし四〇キロメートルで進行してきて、前記交通整理の行なわれていない交差点を全然徐行することなく通過したので、被告車の右のような走行状況を目撃した右B巡査部長らは、被告人が酒酔い運転をしているのではないかと判断して、被告人に対し赤色の懐中電灯を振り、または警笛を吹いて被告車の停止を求める合図をしたが、被告人は右警察官らの合図を認めるや、酒気帯び運転の発覚を怖れ、逃げようとして加速し、そのまま、検問実施中の右警察官らの前を通過したこと、前記三名の警察官はバイクまたは自転車で被告車を追跡し、被告車が同所からE街道方向へ約二〇〇メートル進行した際、付近にあつた交通整理の行なわれている交差点の手前で赤色の停止信号に従い停車したので、バイクに乗つて被告車を追跡してきて間もなく同車に追い付いたB巡査部長が、先ず被告車の運転席のところへ赴き、被告人の開けた運転席の窓側に寄り、被告人に対し、「何故逃げたのか。」と質問したが、その際被告人には酒の臭いがし、顔面が赤くみえたのだ、更に同巡査部長が「酒を飲んでいるな。」と聞いたところ、被告人は返事をしなかつたこと、そのころ自転車に乗つて被告車を追跡してきて右現場に到着したA巡査が被告車の前面へ自転車を停めようとしたところ、被告人が更に発進しようとしたため、被告車がA巡査の自転車に接触し、同巡査がよろけたので、B巡査部長は被告人に被告車のエンジンを止めて降車するように指示したが、被告人が降車しないため、同巡査部長は危険を感じて被告車のエンジンを停めようとしてそのドアを開けて右手を入れ、キーをひねつたところ、被告人が同巡査部長の右腕の肘を一回殴打したこと、更に被告人の側へ寄つたA巡査も被告人に酒の臭いがしたところから、酒酔い運転の疑いが濃厚であると判断し、同人に対し、「酒を飲んでいるな、何故逃げるんだ。」と質問し、酒気の検知をする必要もあると認めて再三にわたつて降車を求めたが、被告人はこれを聞きいれないのみならず、急に被告車のエンジンを入れギアに手をかけて発進しようとしたので、同巡査はこれを阻止すべく、そのエンジンを切ろうとして、被告車のドアから右手を差し入れたところ、被告人は同巡査の右腕の肘の下辺を約三回殴打し、右襟首をつかんで前後にゆさぶり、更に被告車のハンドルの中に入つた同巡査の右手をハンドルに押さえつけたまま被告車を後退させて約一〇メートル同巡査を引きずるなどの暴行を加えたこと、その際被告人から押さえられていた同巡査の手が離れたので、同巡査が被告人の肩か頸部をつかんで外へ引出し、被告人を降車させたことがいずれも認められる。被告人の原審、当時各公判供述のうち右認定に反する部分はにわかに措信しがたく、他に右認定を左右するに足る証拠はない。
以上のような事実関係によれば、前記A巡査らの被告人に対する自動車検問ないし職務質問は、道路交通法第六七条第一項ないし警察官職務執行法(以下、警職法と略称する。)第二条第一項に照らし適法な職務行為であることは明らかであり、従つて、右A巡査が、同巡査らの停車の合図に従わずにかえつて加速して検問場所を通過して逃げようとした被告車を追跡してこれに追い付き、被告人の酒酔い運転について取調べる必要を認め、同人に対して降車を求め、更に、発進しようとした被告車のエンジンを切るため手を同自動車内に差し入れたこともまた、前記自動車検問ないし職務質問に関連する適法な職務行為として是認することができる。そしてそうである以上、被告人の同巡査に対する前記のような暴行は公務執行妨害に該当することは明白といわねばならない。
ところで所論は、自動車検問ないし職務質問が是認されるためには警職法第二条第一項の要件がそのままみたされねばならないと解すべきところ、被告車が徐行しなかつたとされる本件交差点の客観的状況、その時刻が深夜であることなどに照らせば、A巡査らにおいて被告人が飲酒運転等道路交通法に違反していると認知するについて合理的根拠となりうる徴表はなんら存しないし、被告人は徐行義務を免除されると考えるのが相当であり、また仮りに被告人が徐行義務を免除されないとしても、右のような客観的諸状況のもとにおいては、いわゆる信頼の原則などから徐行の程度は緩和されるものと考えるのが相当であるから、A巡査らが被告車を停車させようとしたことは、自動車検問ないし職務質問の前提条件を欠く違法な職務行為であり、従つて被告人が右検問を通過してもなんら責めらるべきいわれはないと主張する。
しかし前記道路交通法第六七条第一項によれば、警察官は、自動車運転者が酒気帯び運転をしていると認めるときは、当該自動車を停止させる権限を有することは明らかであり、また前記警職法第二条第一項は警察官に対し、一定の要件のもとに、自動車運転者に対する検問ないし職務質問の権限を与えているものと解すべきであり、警察官が職務質問の要件の存否を確認するため、自動車運転者に停車を求め、場合によつては停車を指示する権限をも合わせて与えたものというべく、もとよりそれは、すべての自動車に対し無制限にその停車を求める権限があるとは考えられないとしても、個々の自動車について検問の合理的必要性があり、かつその方法が適切であつて、自動車運転者に対する自由の制限が最小限度に止められる場合においては、職務質問の前提として自動車の停止を求め、場合によつては停車を指示することも許容されるものということができる。
そこで本件につきこれをみるのに、前認定のように取締の場所は往々飲酒運転の行なわれる道路であるのみならず、被告人は前記交差点を徐行義務を尽さないで通過しており(この点について、被告車が時速約三〇キロメートルないし四〇キロメートルで進行していたことは前認定のとおりであつて、所論のように本件交差点の状況、当時交通量が特に少なかつたことなどの事情をもつて、被告人が徐行義務を免除されるものとはいえないし、また本件においては信頼の原則を適用する余地はないのであるから、所論のように徐行の程度が緩和されるものともいえず、更に右の速度が道路交通法第二条にいう徐行にあたらないことは論をまたないところであつて、時速三〇キロメートル程度の速度をもつて徐行義務に違反したとはいえないとする所論の採ることをえないことは当然である。)、しかも警察官の停車の合図を無視し検問を通過して逃げたものであるから、これらの場所的関係および被告人の運転状況から、A巡査らにおいて被告人が飲酒運転をしているのではないかとの疑念を抱くに至つたことは、合理的に判断してけだし当然というべく、従つて同巡査らが自らの疑念を確かめるため職務質問をすることは許さるべきであり、そのためには前記道路交通法第六七条第一項および警職法第二条第一項の各法意に従い、逃走する被告車を停止させて質問することができるものと解すべきであると同時に、またこれをなすことがその忠実な職務の遂行でもあるといいうるのである。してみれば、本件自動車検問ないし職務質問が前提条件を欠くことを根拠とする所論の失当なることは明らかである。
そして本件の自動車検問ないし職務質問が適法であると認むべきことは前説示のとおりであるから、右検問に引続くA巡査の被告車の停止および下車を求める行為も違法とはいえないし、この場合自動車の停止を求めるためにこれを追跡することは通常の手段方法であつて、これを停止させるために場合によつては多少の実力を加えることもまた正当な職務執行の範囲内の行為であるといいうべく、もとより職務質問にあたつては、任意になされることが要求されており、決して暴行にわたるような態度に出ることは許されないが、前認定のようにA巡査が被告人に酒の臭いがしたのを知覚して降車を求めたのに、被告人は下車しないのみならず、かえつて急に発進しようとしたのであるから、これを阻止しようとした同巡査の行為は、正当な職務行為として是認されるものというべきである。しかるに被告人は同巡査に対し前認定のような暴行を加えているのであるから、同巡査の以上の行為が違法であることを前提とし、公務執行妨害罪の成立を争う所論もまた失当といわねばならない。(なお所論引用の各下級審判決はいずれも本件とは事案を異にしており、本件については適切ではない。)
以上の次第であつて、本件についてA巡査のなした行為は、警察官としての適法な職務行為に該当することが明白であり、原判決が被告人の同巡査に対する原判示第二のような暴行の所為につき、公務執行妨害罪を認定したのは正当として是認すべきであつて、同所為につき、刑法第九五条第一項を適用処断した原判決にはなんら法令適用の誤りは存しない。論旨は理由がない。
控訴趣意第二点について。
しかし記録によれば、本件は、被告人が酒気帯び運転をしたという事案と、前記のようにA巡査の職務の執行を妨害したという事案とであつて、右各犯行の罪質、動機、態度などにてらせば、その犯情は決して軽視を許されず、被告人は無免許運転(二回)、酒気帯び運転(一回)、業務上過失傷害等(一回)および傷害(二回)の各罪による罰金刑の前科が六犯あるのにかかわらず、更に本件酒気帯び運転の犯行に及び、加うるに交通取締の警察官に暴行を加え、同警察官の職務の執行を妨害したものであつて、その刑責は重く、当審における事実取調の結果を合わせ、所論指摘の被告人に有利な諸事情を参酌しても、原審の量刑はやむをえないものであると認められる。論旨は理由がない。
よつて刑事訴訟法第三九六条により本件控訴を棄却することとして、主文のとおり判決する。
第11刑事部
(裁判長判事 石田一郎 判事 菅間英男 判事 柳原嘉藤)

(2)考え方

(3)判例の立場

警察法
+(警察の責務)
第二条  警察は、個人の生命、身体及び財産の保護に任じ、犯罪の予防、鎮圧及び捜査、被疑者の逮捕、交通の取締その他公共の安全と秩序の維持に当ることをもつてその責務とする。
2  警察の活動は、厳格に前項の責務の範囲に限られるべきものであつて、その責務の遂行に当つては、不偏不党且つ公平中正を旨とし、いやしくも日本国憲法 の保障する個人の権利及び自由の干渉にわたる等その権限を濫用することがあつてはならない。

+判例(S55.9.22)
理由
被告人本人の上告趣意のうち、憲法違反をいう点は、原審において主張、判断を経ていないものであり、また、判例違反をいう点は、引用の判例は事案を異にし本件に適切でなく、その余は、事実誤認、単なる法令違反の主張であつて、いずれも刑訴法四〇五条の上告理由にあたらない。
なお、所論にかんがみ職権によつて本件自動車検問の適否について判断する。警察法二条一項が「交通の取締」を警察の責務として定めていることに照らすと、交通の安全及び交通秩序の維持などに必要な警察の諸活動は、強制力を伴わない任意手段による限り、一般的に許容されるべきものであるが、それが国民の権利、自由の干渉にわたるおそれのある事項にかかわる場合には、任意手段によるからといつて無制限に許されるべきものでないことも同条二項及び警察官職務執行法一条などの趣旨にかんがみ明らかである。しかしながら、自動車の運転者は、公道において自動車を利用することを許されていることに伴う当然の負担として、合理的に必要な限度で行われる交通の取締に協力すべきものであること、その他現時における交通違反、交通事故の状況などをも考慮すると、警察官が、交通取締の一環として交通違反の多発する地域等の適当な場所において、交通違反の予防、検挙のための自動車検問を実施し、同所を通過する自動車に対して走行の外観上の不審な点の有無にかかわりなく短時分の停止を求めて、運転者などに対し必要な事項についての質問などをすることは、それが相手方の任意の協力を求める形で行われ、自動車の利用者の自由を不当に制約することにならない方法、態様で行われる限り、適法なものと解すべきである。原判決の是認する第一審判決の認定事実によると、本件自動車検問は、右に述べた範囲を越えない方法と態様によつて実施されており、これを適法であるとした原判断は正当である。
よつて、刑訴法四一四条、三八六条一項三号により、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり決定する。
(裁判長裁判官 寺田治郎 裁判官 環昌一 裁判官 横井大三 裁判官 伊藤正己)

(4)上記最高裁判例の射程
一斉警戒検問にも及ぶ。

3.判例の考え方の本事案へのあてはめ
必要性
相当性

第2 エンジンキーの抜き取り行為の適法性
1.問題の所在
2.職務質問のための停止行為の限界についての判例の基本的考え方
(1)任意処分と強制処分の区別等に関する51年判例の理論
+判例(S51.3.16)岐阜呼気検査事件
理由
弁護人大野悦男の上告趣意のうち、憲法三三条違反をいう点は、実質は単なる法令違反の主張に過ぎず、その余の点は、事実誤認、単なる法令違反の主張であつて、すべて刑訴法四〇五条の上告理由にあたらない。
なお、所論にかんがみ職権により判断すると、原判決が公務執行妨害罪の成立を認めたのは、次の理由により、これを正当として支持することができる。
一 原判決が認定した公務執行妨害の事実は、公訴事実と同一であつて、「被告人は、昭和四八年八月三一日午前六時ころ、岐阜市美江寺町二丁目一五番地岐阜中警察署通信指令室において、岐阜県警察本部広域機動警察隊中濃方面隊勤務巡査A(当時三一年)、同B(当時三一年)の両名から、道路交通法違反の被疑者として取調べを受けていたところ、酒酔い運転についての呼気検査を求められた際、職務遂行中の右A巡査の左肩や制服の襟首を右手で掴んで引つ張り、左肩章を引きちぎつたうえ、右手拳で同巡査の顔面を一回殴打するなどの暴行を加え、もつて同巡査の職務の執行を妨害したものである。」というにある。

二 原判決が認定した事件の経過は、(一)被告人は、昭和四八年八月三一日午前四時一〇分ころ、岐阜市a町b丁目c番地先路上で、酒酔い運転のうえ、道路端に置かれたコンクリート製のごみ箱などに自車を衝突させる物損事故を起し、間もなくパトロールカーで事故現場に到着したA、Bの両巡査から、運転免許証の提示とアルコール保有量検査のための風船への呼気の吹き込みを求められたが、いずれも拒否したので、両巡査は、道路交通法違反の被疑者として取調べるために被告人をパトロールカーで岐阜中警察署へ任意同行し、午前四時三〇分ころ同署に到着した、(二)被告人は、当日午前一時ころから午前四時ころまでの間にビール大びん一本、日本酒五合ないし六合位を飲酒した後、軽四輪自動車を運転して帰宅の途中に事故を起したもので、その際顔は赤くて酒のにおいが強く、身体がふらつき、言葉も乱暴で、外見上酒に酔つていることがうかがわれた、(三)被告人は、両巡査から警察署内の通信指令室で取調べを受け、運転免許証の提示要求にはすぐに応じたが、呼気検査については、道路交通法の規定に基づくものであることを告げられたうえ再三説得されてもこれに応じず、午前五時三〇分ころ被告人の父が両巡査の要請で来署して説得したものの聞き入れず、かえつて反抗的態度に出たため、父は、説得をあきらめ、母が来れば警察の要求に従う旨の被告人の返答を得て、自宅に呼びにもどつた、(四)両巡査は、なおも説得をしながら、被告人の母の到着を待つていたが、午前六時ころになり、被告人からマツチを貸してほしいといわれて断わつたとき、被告人が「マツチを取つてくる。」といいながら急に椅子から立ち上がつて出入口の方へ小走りに行きがけたので、A巡査は、被告人が逃げ去るのではないかと思い、被告人の左斜め前に近寄り、「風船をやつてからでいいではないか。」といつて両手で被告人の左手首を掴んだところ、被告人は、すぐさま同巡査の両手を振り払い、その左肩や制服の襟首を右手で掴んで引つ張り、左肩章を引きちぎつたうえ、右手拳で顔面を一回殴打し、同巡査は、その間、両手を前に出して止めようとしていたが、被告人がなおも暴れるので、これを制止しながら、B巡査と二人でこれを元の椅子に腰かけさせ、その直後公務執行妨害罪の現行犯人として逮捕した、(五)被告人がA巡査の両手を振り払つた後に加えた一連の暴行は、同巡査から手首を掴まれたことに対する反撃というよりは、新たな攻撃というべきものであつた、(六)被告人が頑強に呼気検査を拒否したのは、過去二回にわたり同種事犯で取調べを受けた際の経験などから、時間を引き延して体内に残留するアルコール量の減少を図るためであつた、というのである。

三 第一審判決は、A巡査による右の制止行為は、任意捜査の限界を超え、実質上被告人を逮捕するのと同様の効果を得ようとする強制力の行使であつて、違法であるから、公務執行妨害罪にいう公務にあたらないうえ、被告人にとつては急迫不正の侵害であるから、これに対し被告人が右の暴行を加えたことは、行動の自由を実現するためにしたやむをえないものというべきであり、正当防衛として暴行罪も成立しない、と判示した。原判決は、これを誤りとし、A巡査が被告人の左斜め前に立ち、両手でその左手首を掴んだ行為は、その程度もさほど強いものではなかつたから、本件による捜査の必要性、緊急性に照らすときは、呼気検査の拒否に対し翻意を促すための説得手段として客観的に相当と認められる実力行使というべきであり、また、その直後にA巡査がとつた行動は、被告人の粗暴な振舞を制止するためのものと認められるので、同巡査のこれらの行動は、被告人を逮捕するのと同様の効果を得ようとする強制力の行使にあたるということはできず、かつ、被告人が同巡査の両手を振り払つた後に加えた暴行は、反撃ではなくて新たな攻撃と認めるべきであるから、被告人の暴行はすべてこれを正当防衛と評価することができない、と判示した。

四 原判決の事実認定のもとにおいて法律上問題となるのは、出入口の方へ向つた被告人の左斜め前に立ち、両手でその左手首を掴んだA巡査の行為が、任意捜査において許容されるものかどうか、である。
捜査において強制手段を用いることは、法律の根拠規定がある場合に限り許容されるものである。しかしながら、ここにいう強制手段とは、有形力の行使を伴う手段を意味するものではなく、個人の意思を制圧し、身体、住居、財産等に制約を加えて強制的に捜査目的を実現する行為など、特別の根拠規定がなければ許容することが相当でない手段を意味するものであつて、右の程度に至らない有形力の行使は、任意捜査においても許容される場合があるといわなければならない。ただ、強制手段にあたらない有形力の行使であつても、何らかの法益を侵害し又は侵害するおそれがあるのであるから、状況のいかんを問わず常に許容されるものと解するのは相当でなく、必要性、緊急性などをも考慮したうえ、具体的状況のもとで相当と認められる限度において許容されるものと解すべきである。
これを本件についてみると、A巡査の前記行為は、呼気検査に応じるよう被告人を説得するために行われたものであり、その程度もさほど強いものではないというのであるから、これをもつて性質上当然に逮捕その他の強制手段にあたるものと判断することはできない。また、右の行為は、酒酔い運転の罪の疑いが濃厚な被告人をその同意を得て警察署に任意同行して、被告人の父を呼び呼気検査に応じるよう説得をつづけるうちに、被告人の母が警察署に来ればこれに応じる旨を述べたのでその連絡を被告人の父に依頼して母の来署を待つていたところ、被告人が急に退室しようとしたため、さらに説得のためにとられた抑制の措置であつて、その程度もさほど強いものではないというのであるから、これをもつて捜査活動として許容される範囲を超えた不相当な行為ということはできず、公務の適法性を否定することができない。したがつて、原判決が、右の行為を含めてA巡査の公務の適法性を肯定し、被告人につき公務執行妨害罪の成立を認めたのは、正当というべきである。
よつて、刑訴法四一四条、三八六条一項三号により、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり決定する。
(裁判長裁判官 天野武一 裁判官 坂本吉勝 裁判官 江里口清雄 裁判官 高辻正己 裁判官 服部高顯)

ア 任意処分と強制処分の区別の基準
「意思の制圧」
=抵抗不能状態下におく
イ 任意処分の適法性の基準
(2)職務質問のための停止に関する判例


会社法 事例で考える会社法 事例3 消えた報酬


1.初めに

+(取締役の報酬等)
第三百六十一条  取締役の報酬、賞与その他の職務執行の対価として株式会社から受ける財産上の利益(以下この章において「報酬等」という。)についての次に掲げる事項は、定款に当該事項を定めていないときは、株主総会の決議によって定める
一  報酬等のうち額が確定しているものについては、その額
二  報酬等のうち額が確定していないものについては、その具体的な算定方法
三  報酬等のうち金銭でないものについては、その具体的な内容
2  監査等委員会設置会社においては、前項各号に掲げる事項は、監査等委員である取締役とそれ以外の取締役とを区別して定めなければならない。
3  監査等委員である各取締役の報酬等について定款の定め又は株主総会の決議がないときは、当該報酬等は、第一項の報酬等の範囲内において、監査等委員である取締役の協議によって定める。
4  第一項第二号又は第三号に掲げる事項を定め、又はこれを改定する議案を株主総会に提出した取締役は、当該株主総会において、当該事項を相当とする理由を説明しなければならない。
5  監査等委員である取締役は、株主総会において、監査等委員である取締役の報酬等について意見を述べることができる。
6  監査等委員会が選定する監査等委員は、株主総会において、監査等委員である取締役以外の取締役の報酬等について監査等委員会の意見を述べることができる。

+判例(H4.12.18)
理由
上告代理人佐々木信行の上告理由について
株式会社において、定款又は株主総会の決議(株主総会において取締役報酬の総額を定め、取締役会において各取締役に対する配分を決議した場合を含む。)によって取締役の報酬額が具体的に定められた場合には、その報酬額は、会社と取締役間の契約内容となり、契約当事者である会社と取締役の双方を拘束するから、その後株主総会が当該取締役の報酬につきこれを無報酬とする旨の決議をしたとしても、当該取締役は、これに同意しない限り、右報酬の請求権を失うものではないと解するのが相当である。この理は、取締役の職務内容に著しい変更があり、それを前提に右株主総会決議がされた場合であっても異ならない
これを本件についてみるのに、原審の適法に確定した事実関係によると、(一) 被上告会社は、倉庫業を営む株式会社であり、上告人は、昭和四五年一二月から昭和六〇年六月一四日に任期満了により退任するまで被上告会社の取締役であった、(二) 被上告会社においては、その定款に取締役の報酬は株主総会の決議をもって定める旨の規定があり、株主総会の決議によって取締役報酬総額の上限が定められ、取締役会において各取締役に期間を定めずに毎月定額の報酬を支払う旨の決議がされ、その決議に従って上告人に対し毎月末日限り定額の報酬が支払われており、その額は昭和五八年一二月現在五〇万円であった、(三) 被上告会社の株主総会は、昭和五九年七月一三日、上告人が常勤取締役から非常勤取締役に変更されたことを前提として上告人の報酬につきこれを無報酬とする旨を決議したが、上告人はこれに同意していなかった、というのであるから、株主総会において上告人の報酬につきこれを無報酬とする旨の決議がされたことによって、上告人がその任期中の報酬の請求権を失うことはないというべきである。
したがって、右株主総会決議によって、上告人は、その翌日である昭和五九年七月一四日以降の取締役報酬請求権を失ったとして、上告人の本訴請求のうち同日から上告人が取締役を退任した昭和六〇年六月一四日までの報酬及び各月分の報酬についての翌月一日から支払済みまでの遅延損害金の支払を求める部分を棄却すべきものとした原審の判断は、株式会社の取締役の報酬についての法令の解釈適用を誤ったものというべきであり、この違法が原判決の結論に影響することは明らかである。論旨は理由があり、原判決中の上告人の敗訴部分は破棄を免れない。そして、前記事実関係の下においては、上告人の本訴請求は理由があるので、右部分を棄却した第一審判決を取り消し、昭和五九年七月一四日から昭和六〇年六月一四日までの間の報酬合計五五二万三六五六円及びこれに対する各月分についての翌月一日以降支払済みまで商事法定利率年六分の割合による遅延損害金の支払を求める部分についても上告人の請求を認容すべきものである。
よって、民訴法四〇八条、三九六条、三八六条、九六条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 大西勝也 裁判官 藤島昭 裁判官 中島敏次郎 裁判官 木崎良平)

++解説
《解  説》
一 本判決は、具体的な額が定められた取締役の報酬を、株主総会決議によって一方的に変更することの可否が争点となった取締役報酬請求事件について、具体的に定まった取締役報酬を一方的に無報酬に変更することができないことを判示した最高裁の判決である。
原告は、被告株式会社の取締役であり、毎月月末に定額の報酬を支給されていたが、常勤の取締役から非常勤取締役に職務を変更されたことに伴い、取締役会の支給停止の決議、その後の株主総会の原告の報酬を無報酬とする旨の決議に基づき、原告は取締役を退任するまで報酬を支給されなかった。そこで、原告が右の期間の取締役報酬を請求した。
一審は、取締役の職務内容に変更が生じたときには、次の営業年度から取締役報酬を無報酬に変更することができるとして、支給停止後の新営業年度からの報酬請求は棄却し、二審(判時一三七三号一三三頁)は、取締役の職務内容の著しい変更を前提として株主総会で決議したときは、例外的に、同意なくして将来に向かって減額ないし無報酬とすることができるとして、株主総会までの報酬請求の限度で認容した。
これに対し、本判決は、判決要旨のとおり判示して、原告の請求を認容した。
二 商法二六九条は取締役の報酬は、定款で定めるか株主総会決議で定めることとしているので、有償委任契約であっても、それだけでは、抽象的な報酬請求権があるにすぎず、定款あるいは株主総会決議で具体的な報酬金額が定められなければ具体的な報酬請求権は発生しないことになる。しかし、株主総会決議等によって報酬額が定められたときには、それが会社と取締役間の契約内容となり、当事者の一方が他方の同意なしにこれを変更することができない。この点は、学説もほとんど異論がない(大隅=今井・会社法論(第三版)中巻一六七頁、味村=品川・役員報酬の実務(改訂版)九七頁など)。判例(最二小判昭31・10・5集民二三号四〇九頁)も取締役報酬を一方的に変更することができないことを明らかにしている(取締役会決議によって減額した事案)。
右の判例の事案は、取締役会決議によって報酬を減額し、また、取締役の職務内容変更を伴わない事案であったため、株主総会決議によって、職務に著しい変更があったことを理由とする場合は例外とならないかが争われたのが本件である。
この点について、大阪地判昭58・11・29本誌五一五号一六二頁は、常勤取締役であった者が同意して非常勤取締役となり、それに伴い一方的に報酬を取締役会の決議によって減額されたという事案において、任期中に当該取締役の承諾の下に従前担当していた業務執行を担当しなくなってその職務内容に変更が生ずる等の事情の変更があった場合には、例外的に一方的に報酬を減額することができる旨を判示して、報酬の減額を認めた。この判決は、事情変更の原則を適用して、一方的な取締役報酬の減額を認めたものと理解されている。本件の原判決は、取締役報酬が職務執行の対価であるから、職務内容に著しい変更があれば報酬もそれに応じた変更を加える必要があること、株主総会に報酬金額を定める権限があることを理由とするだけであって、それ以上の根拠を示していないが、右大阪地判と同様の考え方に立つものであろうか。学説中にも、職務内容の著しい変更に応じて、取締役の業務執行と対価たる報酬の間に甚だしい不均衡を生じ、従来の契約をそのまま存続させることが信義衡平の原則に反する結果となる場合には取締役報酬の変更は認められるとするもの(加美「判批」判評三九二号四三頁)もある。
これに対し、本判決は、右の場合も例外とならないことを明らかにしたものである。取締役の報酬額の変更は、会社と取締役間の契約の変更の問題であって、会社の組織に関する問題ではないから、会社内部の意思決定手続を履践することは取締役と会社間の契約を一方的に変更し得る理由とならないし(前記最二小判の場合とは、報酬額の決定に関する会社の意思決定機関が報酬の変更を決議したという点では異ならない。)、任期中の役職の変更は稀なことではなく、また、報酬額の定めが当事者を拘束する期間も最大二年とそれほど長期でないことから、取締役としての職務の変更は、事情変更の原則が問題となるような場合ではないとしたものであろう。学説も、職務の変更の場合に事情変更の原則を適用して報酬額の変更を認めることには消極のものが多い(宮島「判批」法研六二巻一一号一一九頁、川島「判批」ひろば四五巻二号七五頁など)。
本判決は、直接には無報酬に変更することを否定したものである。そして、取締役である限り、その役職にかかわらず一定の取締役としての職務及び責任を有するのであるから、役職の変更は、無報酬とするのを相当とするような事情の変更とは考えられず、無報酬化については減額とは同一ではないが、本判決は、契約の拘束力を理由とするところからすると、減額についても同様であろう。また、各取締役の報酬が役職ごとに定められているような場合などに報酬変更についての黙示の同意があると見られる、そのような場合には報酬の減額も可能とする学説(味村=品川・前掲一〇〇頁、大隅=今井・前掲一七一頁など)、裁判例(東京地判平2・4・20本誌七六五号二二三頁、判時一三五〇号一三八頁)があるが、本判決は、黙示の同意がある場合の報酬の減額を否定するものでもないと考えられる。
本判決は、原則的な報酬額の決定機関である株主総会の決議により、取締役としての職務の著しい変更を理由とする場合であっても、いったん決定された取締役の報酬額を一方的に変更できないことを確認したものとして実務上参考となろう。本判決の判批として、弥永・法教一五二号一四六頁、西山・平4重判解説(ジュリ一〇二四号)一一九頁がある。

Ⅱ 報酬請求権の成立

+判例(S60.3.26)
理由
上告人の上告理由について
所論の点に関する原審の事実認定は、記録に照らし、正当として是認することができる。そして、右事実関係のもとにおいて、
昭和六〇年三月二六日判決 昭和五九年(オ)第一一〇〇号
(1) 商法二六九条の規定の趣旨は取締役の報酬額について取締役ないし取締役会によるいわゆるお手盛りの弊害を防止する点にあるから、株主総会の決議で取締役全員の報酬の総額を定め、その具体的な配分は取締役会の決定に委ねることができ、株主総会の決議で各取締役の報酬額を個別に定めることまでは必要でなく、この理は、使用人兼務取締役が取締役として受ける報酬額の決定についても、少なくとも被上告会社のように使用人として受ける給与の体系が明確に確立されており、かつ、使用人として受ける給与がそれによつて支給されている限り、同様であるということができる、(2) 右のように使用人として受ける給与の体系が明確に確立されている場合においては、使用人兼務取締役について、別に使用人として給与を受けることを予定しつつ、取締役として受ける報酬額のみを株主総会で決議することとしても、取締役としての実質的な意味における報酬が過多でないかどうかについて株主総会がその監視機能を十分に果たせなくなるとは考えられないから、右のような内容の本件株主総会決議が商法二六九条の脱法行為にあたるとはいえない、(3) 代表取締役以外の通常の取締役が当該会社の使用人を兼ねることが会社の機関の本質に反し許されないということもできない、とした原審の判断もまた、正当として是認することができ、その過程に所論の違法はなく、所論引用の判例の趣旨に抵触するところもない。右違法のあることを前提とする所論違憲の主張は、失当である。論旨は、採用することができない。
よつて、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
(木戸口久治 伊藤正己 安岡滿彦 長島敦)

Ⅲ 参考判例の理解と本問事実へのあてはめ

Ⅳ 継続的契約としての任用契約

+(解任)
第三百三十九条  役員及び会計監査人は、いつでも、株主総会の決議によって解任することができる。
2  前項の規定により解任された者は、その解任について正当な理由がある場合を除き、株式会社に対し、解任によって生じた損害の賠償を請求することができる。

Ⅴ 減額の成否について
事前の同意を認めるかどうか

Ⅵ 会計処理の変更について


刑法 刑事実体法演習 不真正不作為犯、不作為犯と共犯


1.設問へのアプローチ

2.Aの罪責
(1)問題の所在
・行為の危険性や行為時の主観(故意)を考慮しながら、検討対象となる行為を絞り込む。

作為=一定の身体的動作を行うこと
不作為=一定の期待された身体動作を行わないこと

ア 罪刑法定主義との関係

・禁止規範だけでなく命令規範も含まれている
→類推解釈の禁止に反しない。

・明確性の原則との関係

イ 処罰根拠
・構成要件的に同価値

(2)作為義務
ア 作為義務の発生根拠
法益侵害の結果発生の回避に当たるべき地位(保障人的地位)にあるときに作為義務が認められる。
(ア)主観説
(イ)多元説
①法令②契約・事務管理③慣習・条理
に基づき作為義務が発生。
実質的に作為と同視できるかどうかを総合的に判断することになる。
(ウ)限定説

イ 作為の可能性、容易性
+判例(札幌高判H12.3.16)
理由
本件控訴の趣意は、検察官佐藤孝明作成の控訴趣意書に、これに対する答弁は、弁護人古山忠作成の答弁書に、それぞれ記載されているとおりであるから、これらを引用する。
論旨は、要するに、「被告人は、平成九年六月ころ、先に協議離婚した甲野太郎と同棲を再開するに際し、自己が親権者となっていた乙山三郎と及び乙山四郎(当時三歳)を連れて太郎と内縁関係に入ったが、その後、太郎が四郎らにせっかんを繰り返すようになったのであるから、親権者兼監護者として四郎らに対する太郎のせっかんを制止して四郎らを保護すべき立場にあったところ、太郎が、同年一一月二〇日午後七時一五分ころ、釧路市鳥取南五丁目所在の△△マンション一号室(以下「△△マンション」という。)において、四郎に対し、顔面、頭部を平手及び手拳で多数回殴打し、転倒させるなどの暴行(以下「本件せっかん」という。)を加えて、四郎に硬膜下出血、くも膜下出血等の傷害を負わせ、翌二一日午前一時五五分ころ、同市内の市立釧路総合病院において、四郎を右傷害に伴う脳機能障害により死亡させた犯行(以下「本件傷害致死」という。)を行った際、同月二〇日午後七時一五分ころ、△△マンションにおいて、太郎が本件せっかんを開始しようとしたのを認識したのであるから、直ちにこれを制止する措置を採るべきであり、かつ、これを制止して容易に四郎を保護することができたのに、その措置を採ることなくことさら放置し、もって太郎の本件傷害致死を容易にしてこれを幇助した。」旨の訴因変更後の公訴事実に対し、原判決は、不作為による幇助犯の成立要件として「犯罪の実行をほぼ確実に阻止し得たにもかかわらずこれを放置したこと」を掲げ、被告人に具体的に要求される作為の内容として、太郎の暴行を実力をもって阻止する行為のみを想定した上で、被告人が、太郎の四郎への暴行を実力により阻止しようとした場合には、負傷していた相当の可能性があったほか、胎児の健康にまで影響の及んだ可能性もあった上、被告人としては実力による阻止が極めて困難な心理状態にあり、被告人が太郎の暴行を阻止することが著しく困難な状況にあったことにかんがみると、被告人の不作為を作為による傷害致死幇助罪と同視することはできないとして、被告人に無罪を言い渡したが、(一)関係証拠によれば、被告人は、太郎への強い愛情や肉体的執着から、太郎に嫌われることを恐れ、太郎の機嫌をうかがう余り、太郎が四郎らに暴行を振るっても、見て見ぬ振りをしていたことが認められ、太郎の暴行を阻止することが著しく困難な状況にあったものとはいえない上、(二)不作為による幇助犯が成立するには、不作為によって正犯の実行行為を容易ならしめれば足り、その不作為が正犯の実行に不可欠であることや、作為に出ることにより確実に正犯の実行を阻止し得ることを要しないというべきであり、被告人に具体的に要求される作為は、太郎の暴行を実力をもって阻止する行為に限られるものではないから、原判決には、判決に影響を及ぼすことが明らかな事実誤認及び法令適用の誤りがある、というのである。
そこで、記録を調査し、当審における事実取調べの結果を併せて検討する。
第一 本件において認められる事実について
原審で取り調べられた関係証拠によれば、本件においては、要旨次のような事実が認められる。
一 被告人と太郎が知り合った経緯等
1 被告人は、平成四年八月二七日、乙山次郎(以下「乙山」という。)と婚姻し、乙山との間に、平成五年三月二七日、長男三郎を、平成六年五月二八日、二男四郎をもうけたが、その後乙山と不仲になり、平成七年九月ころから三郎及び四郎を連れて別居し、同年一二月一八日、乙山と協議離婚し、三郎及び四郎の親権者となり、二人を引き取った。
2 被告人は、釧路市内のスナックで働いていた平成八年三月ころ、客として来店した太郎と親しくなり、同月二一日ころ、太郎と朝まで飲み歩き、そのままドライブに出かけた後、自ら太郎に同居を申し出、翌二二日ころから、太郎が当時住んでいた同市昭和北三丁目のアパート(以下「昭和北のアパート」という。)で、三郎及び四郎を連れて太郎と同棲するようになり、勤めていたスナックも辞めた。
二 昭和北のアパートでの生活状況及び太郎と婚姻した経緯等
1 被告人は、同棲開始後間もない平成八年四月中旬ころ、帰宅が遅くなったことなどから、太郎と口論になり、その際、反抗的な態度をとったことに激昂した太郎から、マイナスドライバーの先端を首筋に当てられ、赤い痕が残るほど力を込めて押し付けられるなどの暴行を受けた。
2 被告人は、同年八月ころ、太郎と口論になった際、かみそりで手首を切って自殺しようとしたところ、それに気付いた太郎からかみそりを取り上げられ、手拳や平手で顔面や肩を多数回殴打されるなどの暴行を受けた。
3 被告人は、昭和北のアパートに居住していた当時、このほかにも太郎から暴行を受けたことが何度かあったが、その都度、暴行を受けた数日後に太郎の留守を見計らって釧路市内の実母方に逃げ、しばらくすると、太郎から、戻るように優しく言われ、子供を可愛がり、暴行は振るわないなどと約束されて、再びよりを戻すということを三、四回繰り返していた。
4 被告人は、その間の平成八年六月ころ、太郎の子を妊娠したことを知り、同年七月二日、太郎と婚姻し、また、太郎は、同年一〇月三日、三郎及び四郎と養子縁組をし、被告人と太郎との間には、平成八年一月二二日、長女甲野冬子(以下「冬子」という。)が生まれた。
5 太郎は、昭和北のアパートに居住していた当時、三郎や四郎の食事の行儀が悪いときなどに、しつけ程度に二人の頬を平手で殴打していたほか、立たせたり、正座させたりしていた。
6 太郎は、被告人と同棲を始めたころ、鳶職人として働き、月収約二〇万円を得、生活も安定していたが、平成八年八月ころ鳶職を辞め、同年一〇月ころからは職を転々とするようになり、全く仕事をしないときもあって、生活が不安定になった。
三 太郎と離婚した経緯及び星が浦のアパートでの生活状況等
1 被告人は、平成九年二月ころ、太郎に暴行を振るわれたことから、太郎の留守を見計らい、三人の子供を連れて実母方に逃げ、その後、実母から強く言われたこともあって離婚を決意し、太郎もこれに応じたことから、同年三月六日、三郎及び四郎の親権者を被告人として協議離婚した。しかし、その数日後、太郎から、前同様に優しく言われてよりを戻すこととなり、当時太郎が昭和北のアパートを引き払って釧路市星が浦大通のアパート(以下「星が浦のアパート」という。)に住んでいたことから、同所で、三人の子供とともに太郎との同棲生活を再開した。
2 被告人は、同年五月ころ、太郎と口論となり、灯油を少量かぶって焼身自殺をする振りをしたところ、激昂した太郎から、両肩と両腿を手拳で殴打され、更に手や足を殴打するなどの暴行を執拗に加えられ、手足が腫れ上がって歩行も困難な状態となった。
3 太郎は、星が浦のアパートに居住していた当時、三郎や四郎の食事の行儀が悪いときなどに、二人の頬を平手で殴打するなどしていた。
四 材木町のアパートでの生活状況等
1 被告人は、前記三の2の暴行を受けた数日後、今度こそ太郎と別れようと決心し、太郎の留守を見計らって実母方に逃げたところ、実母から太郎と別れるように強く言われ、今度太郎の所に戻れば親子の縁を切るとまで言われた。そして、子供達との独立した生活をするため、生活保護の受給手続を進めるとともに、釧路郡釧路町豊美にアパートを見付け、平成九年六月初めころ、同所に転居することとなった。
2 被告人は、右アパートへの引っ越しの当日、突如現れた太郎から、前同様に優しく言われ、「やくざの卵売りの仕事だが、仕事も決まった。」などと言われて、またも太郎とやり直すことにし、翌日ころには二人で釧路市材木町のアパート(以下「材木町のアパート」という。)を新たに借り、同所で、三人の子供とともに太郎と同棲生活を再開した。なお、太郎は、同年六月六日、三郎及び四郎と協議離縁している。
3 太郎は、同月初めころから、暴力団の関与する三上郡弟子屈町硫黄山での蒸し卵売りの仕事を手伝うようになり、これをしている間、半月ごとに約一五万円の手当を得ており、被告人らは、安定した生活を送り、また、太郎が被告人や三郎及び四郎に暴力を振るうこともなくなった。なお、被告人は、同年七月ころ、太郎との間の第二子を懐妊したことに気付き、太郎にもその旨伝えた。
4 太郎は、暴力団関係者との人間関係の悩みなどから、蒸し卵売りの仕事に嫌気がさし、同年一〇月一日、世話になっていた暴力団組長方に置き手紙をして仕事を辞めてしまい、材木町のアパートも引き払って、被告人及び三人の子供とともに北海道内各地を自動車で転々とした後、同月一〇日過ぎころから、川上郡標茶町の太郎の実家に身を寄せた。
5 太郎は、実家に身を寄せるようになってから、三郎や四郎を長時間正座させたり、起立させ、平手や手拳で殴打したりするなどのせっかんを度々加えるようになったが、被告人は、これを見ても、制止することなく、「あんた達が悪いんだから怒られて当たり前だ。」などと言い放ち、また、自らも、四郎が夜尿をしたときに一、二度頬や臀部を叩いたことがあった。
五 △△マンションでの生活状況等
1 太郎と被告人は、太郎の両親から現金一〇万円の援助を受け、平成九年一〇月二五日ころ、△△マンションを借り、三人の子供とともに同棲生活を始めたが、このころ、被告人は、妊娠約六か月の状態にあり、太郎も、そのことを知っていた。
2 太郎は、△△マンションに移ってから、何度か被告人に対し、別れ話を持ち出しては子供を連れて出て行くように言い、同年一一月初めころ、「出て行け。」などと行って被告人の頬と肩を平手と手拳で七、八回殴打し、更に、その数日後、被告人を正座させた上、同様に言って手拳等で肩と両腿を五、六分ほど殴打し続けたが、いずれの際も、被告人は、「これまで何度も黙って出て行ったりして迷惑をかけていたから、もう出て行ったりしない。」などと言って、何ら抵抗することなく太郎の暴行を受け入れた。また、太郎は、これらとは別の機会に、被告人に裸で△△マンションから出て行くよう命じ、その際、被告人は、三人の子供とともに裸になり、子供達を連れて玄関まで行ったものの、太郎に制止され、屋外に出ることはなかった。
3 太郎は、△△マンションに入居して以降、新たな仕事に就く当てもなく、生活費にも事欠くようになったことなどから、不満や苛立ちを募らせ、その鬱憤晴らしなどのため、ほどんど毎日のように、三郎や四郎を半袖シャツとパンツだけで過ごさせた上、長時間立たせたり、正座させたりするなどしたほか、平手や手拳で顔面や頭部を殴打するなどの激しいせっかんを繰り返すようになった。なお、太郎は、三郎や四郎を注意したときには、一〇回に八回程度は、右のような暴行に及んでいた。
4 他方、被告人も、同年一一月一三日ころには、さしたる理由もないのに、太郎のせっかん等によってかなり衰弱している三郎及び四郎を並ばせ、「お前達なんか死んじゃえばいいのに。」などと言いながら、二人の顔面や頭部等を殴打し、腰部等を足蹴にして、二人をその場に転倒させるせっかんを加え、同月一五日ころにも、四郎に対し、平手で顔面を殴打し、その場に転倒させるせっかんを加えていた。
5 被告人は、太郎が三郎や四郎に激しいせっかんを加えていたのを見ても、三郎や四郎を助けるための行動には出ず、三郎や四郎が助けを求める視線を向けても、無関心な態度を示していた。
6 被告人一家は、△△マンションに入居して以降、一日一、二回の食事しかとれず、その食事も満足にできない状態であったため、四郎は、星が浦のアパート時代には15.5キログラムあった体重が、死亡当時には11.7キログラムにまで減っており、同年齢の児童の平均体重より3.2キログラムも劣る極度のるい痩状態にあった。
六 平成九年一一月二〇日の状況等
1 太郎と被告人は、平成九年一一月二〇日午後二時ころ、冬子を連れて太郎の友人である戊川一夫(以下「戊川」という。)方へ向かったが、その際、太郎は、三郎と四郎に留守番をさせ、半袖シャツとパンツだけの姿の四郎に壁に向かって立っているよう命じ、三郎には四郎を見張っているよう命じて外出した。
2 太郎と被告人は、同日午後三時四〇分ころから戊川方で過ごし、ビールを飲むなどして歓談し、同日午後六時四五分ころ戊川方を辞去したが、太郎は、帰途、機嫌が良かったこともあって、戊川方を訪ねる前に被告人が食べたいと言っていたドーナツを買ってやることにし、スーパーマーケットに寄ってドーナツ等を買った。
3 太郎と被告人は、冬子とともに、同日午後七時一五分ころ△△マンションに戻ったが、太郎は、子供部屋のおもちゃが少し移動していたため、三郎に誰が散らかしたのかと尋ねたところ、三郎が「四郎ちゃん。」と答えたことから、四郎が言い付けを守らずおもちゃで遊んでいたと思い込んで立腹し、隣の寝室で立っていた四郎の方に向かった。
4 被告人は、右の太郎と三郎のやりとりを聞き、太郎が四郎にいつものようなせっかんを加えるかも知れないと思ったが、これに対しては何もせず、数メートル離れた台所の流し台で夕食用の米をとぎ始め、太郎の行動に対しては無関心を装っていた。
5 太郎は、四郎を自分の方に向き直らせ、「おもちゃ散らかしたのはお前か。」などと強い口調で尋ねたものの、四郎が何も答えなかったため、更に大きな声で同じことを尋ねたが、四郎がそれにも答えず、太郎を睨み付けるような目つきをしたため、これに腹立ちを募らせ、「横目で睨むのはやめろ。」などと怒鳴り、四郎の左頬を右の平手で一回殴打し、続いて「お前がやったのか。」などと怒鳴ったが、四郎が同様の態度をとったため、四郎の左頬から左耳にかけての部位を右の平手で一回殴打したところ、四郎がよろけて右膝と右手を床についたので、四郎の左腕を掴んで引き起こした上、また同様に怒鳴ったが、なおも四郎が同様の態度をとり続けたことから、腹立ちが収まらず、四郎の左頬を右の平手で一回殴打した上、更に「お前がやったのか。」などと怒鳴りながら、一発ずつ間隔を置いて四郎の頭部右側を手拳あるいは裏拳で五回にわたり殴打した。すると、四郎は、突然短い悲鳴を上げ、身体の左から倒れて仰向けになり、意識を失った。
6 被告人は、太郎が寝室で四郎を大きな声で問い詰めるのを聞くとともに、頬を叩くようなぱしっという音を二、三回聞いて、やはりいつものせっかんが始まったと思ったものの、これに対して何もせず、依然として米をとぎ続け、太郎の行動に無関心を装っていたが、これまでにない四郎の悲鳴を聞き、慌てて寝室に行ったところ、既に四郎は太郎に抱えられ、身動きしない状態になっていた。
7 太郎と被告人は、その後、太郎の運転する自動車に四郎を乗せて病院に向かい、同日午後八時一〇分ころ、市立釧路総合病院に到着したが、四郎は、直ちに開頭手術を受けたものの、翌二一日午前一時五五分ころ、太郎の暴行による硬膜下出血、くも膜下出血等の傷害に伴う脳機能障害により死亡した。
8 被告人は、右病院で、担当医師から、四郎の命が助からない旨の説明を受け、これを聞いて太郎の身代わり犯人となることを決意し、待合室にいた太郎に対し、「私がやったことにするから、あなたは昼から出かけたことにしておいて。」などと言って太郎の身代わりになることを申し出た上、医師の通報により右病院に臨場した警察官に対し、自分の犯行である旨虚偽の申告をし、同月二一日午前三時一〇分、傷害致死罪により緊急逮捕され、捜査段階では終始一貫して自分の犯行である旨虚偽の供述をし、同年一二月一一日、同罪により起訴され、同月二四日に至り、初めて同房者に太郎の犯行である旨を告白した。
以上のような事実が認められる。
第二 原判決の事実認定及び法令の適用について
一 原判決は、前記第一とほぼ同旨の事実を認定しながら、被告人の内心の意思や動機等について、被告人の原審公判供述及び各検察官調書謄本(原審乙18ないし20)(以下「被告人の供述」と総称する。)に依拠して、被告人は、(1)△△マンションで太郎から強度の暴行を受けるようになって以降、太郎に愛情は抱いておらず、子供達を連れて太郎の下から逃げ出したいと考えていた、(2)しかし、太郎が働くこともなく家にいて留守になることがなかったことから、逃げ出そうとして太郎に見付かり、酷い暴行を受けることを恐れ、逃げ出せずにいた、(3)△△マンションに入居した後、太郎からは出て行けと何回か言われていたけれども、太郎の言葉は本心ではなく、被告人を試すために言っているものと思っていた、(4)太郎から激しい暴行を受けたときの恐怖心や、太郎が三郎や四郎に暴力を振るっているのを側で見ていて、太郎から「何見てんのよ。」などと怒鳴られたことがあったことなどから、太郎に逆らえば、酷い暴行を受けるのではないかと恐ろしかった上、太郎が逆上して三郎や四郎に更に酷いせっかんを加えるのではないかと思い、三郎や四郎を助けることができなかった、(5)身代わり犯人になったのは、四郎を見殺しにしてしまったという自責の念から自分自身が罰を受けたかったためであり、太郎をかばうつもりはなかった、との事実を認定している。
二 そして、右事実認定を前提に、(一)不作為による幇助犯が成立するためには、他人による犯罪の実行を阻止すべき作為義務を有する者が、犯罪の実行をほぼ確実に阻止し得たにもかかわらず、これを放置しており、要求される作為義務の程度及び要求される行為を行うことの容易性等の観点からみて、その不作為を作為による幇助と同視し得ることが必要と解すべきであるとした上、(二)被告人には、太郎が四郎に対して暴行に及ぶことを阻止すべき作為義務があったと認めながら、(三)その作為義務の程度は極めて強度とまではいえないとし、(四)被告人に具体的に要求される作為の内容としては、太郎の暴行をほぼ確実に阻止し得た行為、すなわち太郎の暴行を実力をもって阻止する行為を想定するのが相当であり、太郎と四郎の側に寄って太郎が四郎に暴行を加えないように監視する行為、あるいは、太郎の暴行を言葉で制止する行為を想定することは相当でないとした上で、(五)被告人が身を挺して制止すれば、太郎の暴行をほぼ確実に阻止し得たはずであるから、被告人が太郎の暴行を実力をもって阻止することは、不可能ではなかったが、そうしようとした場合には、かえって、太郎の反感を買い、被告人が太郎から激しい暴行を受けて負傷していた相当の可能性のあったことを否定し難く、場合によっては胎児の健康にまで影響の及んだ可能性もある上、被告人は、太郎の暴行を実力により阻止することが極めて困難な心理状態にあったのであるから、被告人が太郎の暴行を実力により阻止することは著しく困難な状況にあったとし、(六)右状況にかんがみると、被告人の不作為を作為による傷害致死幇助罪と同視することはできない旨判示している。
第三 原判決の事実誤認について
一 しかし、太郎の当審公判供述を含む関係証拠及びこれによって認められる諸事実に照らすと、前記第二の一の被告人の供述(1)ないし(5)は、いずれもたやすく信用することができない。すなわち、
1 被告人が太郎から強度の暴行を受けるようになったのは、前記第一の二のとおり、太郎と同棲を始めた直後の昭和北のアパート時代からのことで、同棲開始後間もない平成八年四月中旬ころには、太郎からマイナスドライバーの先端を首筋に押し付けられて赤い痕が残るほどの暴行を受け、同年八月ころには、手首を切って自殺を図り、平手や手拳で顔面等を多数回殴打され、平成九年五月ころには、灯油を少量かぶって焼身自殺をする振りをし、手拳等で手足を殴打されて歩行もできない状況になるなど、強度の暴行を何回も受け、その度に太郎の留守を見計らっては、実母方に逃げていたのに、被告人は、ほどなく太郎に戻るよう優しい言葉をかけられてはよりを戻すということを幾度も繰り返し、とりわけ同年五月ころ、星が浦のアパートから実母方に逃げた際には、実母から、今度太郎の所に戻れば親子の縁を切るとまで言われ、生活保護の受給手続まで進めながら、数日後には太郎とよりを戻して材木町のアパートで同棲するようになっていることなどに加え、原審公判廷においても、「母親としてじゃなく、女として、あの人のことが好きだというんで戻っていた。」などと供述していることに照らすと、被告人が、△△マンション入居後、それまでと比べてさほど強度とはいえない暴行を二度ほど受けたからといって、にわかに太郎に愛情を抱かなくなり、太郎の下から逃げ出したいと考えるようになったとは思われず、被告人の供述(1)はたやすく信用できない。
2 太郎が家にいて留守になることがなくても、被告人は、太郎から常時監視されたり、監禁、拘束されたりしていたわけではなく、原判決も指摘するように、太郎が寝ているときもあったのであるから、常識的に考えれば、被告人が△△マンションを出る機会や方法はいくらでもあった上、現に被告人は、これまで家出をする際には、子供達を残して単身実母方に逃げ帰り、後から子供達を迎えに行ったり、所持金のないまま子供達を連れてタクシーで実母方に逃げ帰り、実母に料金を払ってもらったりするなど、臨機の方法で太郎の下を逃れていたのであるから、太郎が家にいて留守になることがなかったとしても、被告人が逃げ出せずにいたとは考え難く、また、被告人がこれまで家を出ようとして太郎に見付かり、そのために暴行を受けた事実はなかったことに照らすと、そのようなことを恐れて逃げ出せずにいたとも考え難いので、被告人の供述(2)はたやすく信用できない。
3 標茶町の実家に身を寄せたとき以降、被告人に嫌気がさし、別れたいと思い、被告人にも繰り返しその旨話していた旨の太郎の原審公判供述や、△△マンションに入居後、週に三、四回被告人から性交を誘われたが、本件までの約四週間に一、二度応じたのみである旨の太郎の当審公判供述に加え、職も蓄えもない太郎が、自分の子である冬子のみならず、被告人やその連れ子で自分とは既に離縁している三郎及び四郎まで扶養しなければならない状況に置かれていたことや、これまで別れ話を持ち出したことのなかった太郎が、△△マンションに入居後は、被告人に何回も出て行けと言い、三郎及び四郎に対し、ほとんど毎日のように激しいせっかんを繰り返すようになったことなどに照らすと、太郎の出て行けとの言葉は本心であり、被告人もこれを察知していたものと認めるのが相当であるから、被告人の供述(3)はたやすく信用できない。
4 被告人が、これまでに、太郎のせっかんを制止しようとしたために、太郎から自己や胎児に危険が及ぶような激しいせっかんを受け、あるいは、三郎及び四郎に対するせっかんが更に激しくなったという事実はなく、被告人は、本件に至るまで、太郎のせっかんを制止しようとしたことすらないほか、標茶町時代及び△△マンション入居後、太郎が三郎及び四郎に激しいせっかんをしているのを見ても、「あんた達が悪いんだから怒られて当たり前だ。」などと言い放ち、太郎のせっかんに加担するような態度をとっていた上、自らも、本件直前の平成九年一一月一三日ころには、さしたる理由もないのに、太郎のせっかん等によってかなり衰弱している三郎及び四郎を並ばせ、「お前達なんか死んじゃえばいいのに。」などと言いながら、二人の顔面や頭部等を殴打し、腰部等を足蹴にして、二人をその場に転倒させるせっかんを加え、同月一五日ころにも、四郎に対し、平手で顔面を殴打し、その場に転倒させるせっかんを加えていたことなどに照らすと、被告人が四郎らを助けなかった理由が、太郎に逆らえば、酷い暴行を受けるのではないかと恐ろしかった上、太郎が逆上して四郎らに更に酷いせっかんを加えるのではないかと思ったことにあるとは考えられず、被告人の供述(4)はたやすく信用できない。
5 被告人は、更に太郎の身代わり犯人になっているのであるから、常識的には、太郎をかばおうとする意思があったものと考えられるほか、本件当夜、意識を失った四郎を病院に搬送した後、医師からその原因を尋ねられても、自己や太郎が殴打したとは答えず、「転んだ。」などと嘘を言い、四郎が助かる見込みがないことを医師から知らされた後、警察官から任意の取調べを受けた際にも、自分がせっかんを加えていたと述べる一方で、当初は「今日は殴っていない。」と述べるなど、四郎を見殺しにしてしまったという自責の念のみでは説明の付かない言動をしていた上、緊急逮捕後警察官から本格的な取調べを受けた際には、太郎を愛している旨を繰り返し述べる一方で、太郎の自己に対する暴力についてはほとんど述べず、「太郎が、三郎と四郎を殴ったことは一度もない。」などと、あえて虚偽の事実を述べるなど、太郎をかばおうとする意思がなければ説明の付かない言動をしていたことに照らすと、被告人の供述(5)はたやすく信用できない。
二 以上によれば、被告人の供述(1)ないし(5)に沿う事実はいずれもこれを認めることができず、前記第一の事実、とりわけ、被告人が自ら申し出て太郎との同棲を開始し、太郎から何回も暴力を振るわれながら、太郎との内縁ないし婚姻関係を継続していたこと、本件の五か月余り前からは、太郎の暴力の有無にかかわらず、実母方に逃げることもなかったこと、△△マンション入居後は、太郎から別れ話を持ち出され、子供を連れて出ていくように言われ、暴力まで振るわれたのに、最後まで出て行かなかったこと、標茶町時代以降、太郎が四郎らに激しいせっかんをしているのを見ても、これを制止せず、かえって太郎のせっかんに加担するような態度をとり、本件直前ころには、自らも三郎や四郎に相当強度のせっかんを加えていたこと、本件直後四郎の命が助からない旨を聞かされるや、躊躇なく太郎の身代わり犯人となることを決意し、自ら申し出て身代わり犯人になり、一か月余り虚偽の供述を維持していたことなどに照らすと、被告人が本件せっかんの際、太郎の暴行を制止しなかったのは、当時なお太郎に愛情を抱いており、太郎への肉体的執着もあり、かつ、太郎との間の第二子を懐妊していることもあって、四郎らの母親であるという立場よりも太郎との内縁関係を優先させ、太郎の四郎に対する暴行に目をつぶっていたものと認めるのが相当であるから、被告人が太郎の暴行を制止しなかった理由として、被告人の供述(4)に沿う事実を認定した原判決には、事実の誤認があるといわざるを得ない。
三 そうすると、被告人は、太郎の暴行を実力により阻止することが著しく困難な状況にあったとはいえず、前記第二の二の原判決の判示を前提としても、被告人の不作為を作為による傷害致死幇助罪と同視することができないとはいえないから、右事実誤認は、判決に影響を及ぼすことが明らかというべきである。
第四 原判決の法令適用の誤りについて
一 後述する不作為による幇助犯の成立要件に徴すると、原判決が掲げる「犯罪の実行をほぼ確実に阻止し得たにもかかわらず、これを放置した」という要件は、不作為による幇助犯の成立には不必要というべきであるから、実質的に作為義務がある者の不作為のうちでも結果阻止との因果性の認められるもののみを幇助行為に限定した上、被告人に具体的に要求される作為の内容として太郎の暴行を実力をもって阻止する行為のみを想定し、太郎と四郎の側に寄って太郎が四郎に暴行を加えないように監視する行為、あるいは、太郎の暴行を言葉で制止する行為を想定することは相当でないとした原判決には、罪刑法定主義の見地から不真正不作為犯自体の拡がりに絞りを掛ける必要があり、不真正不作為犯を更に拡張する幇助犯の成立には特に慎重な絞りが必要であることを考慮に入れても、なお法令の適用に誤りがあるといわざるを得ない。
二 そこで、被告人に具体的に要求される作為の内容とこれによる太郎の犯罪の防止可能性を、その容易性を含めて検討する。
1 まず、太郎と四郎の側に寄って太郎が四郎に暴行を加えないように監視する行為は、数メートル離れた台所の流し台から太郎と四郎のいる寝室に移動するだけでなし得る最も容易な行為であるところ、関係証拠によれば、太郎は、依然、被告人が太郎のせっかんの様子を見ているとせっかんがやりにくいとの態度を露わにしていた上、本件せっかんの途中でも、後ろを振り返り、被告人がいないかどうかを確かめていることが認められ、このような太郎の態度にかんがみると、被告人が太郎の側に寄って監視するだけでも、太郎にとっては、四郎への暴行に対する心理的抑制になったものと考えられるから、右作為によって太郎の暴行を阻止することは可能であったというべきである。
2 次に、太郎の暴行を言葉で制止する行為は、太郎を制止し、あるいは、宥める言葉にある程度の工夫を要するものの、必ずしも寝室への移動を要しない点においては、監視行為よりも容易になし得る面もあるところ、関係証拠によれば、太郎は、四郎に対する暴行を開始した後も、四郎及び被告人の反応をうかがいながら、一発ずつ間隔を置いて殴打し、右暴行をやめる機会を模索していたものと認められ、このような太郎の態度にかんがみると、被告人が太郎に対し、「やめて。」などと言って制止し、あるいは、四郎のために弁解したり、四郎に代わって謝罪したりするなどの言葉による制止行為をすれば、太郎にとっては、右暴行をやめる契機になったと考えられるから、右作為によって太郎の暴行を阻止することも相当程度可能であったというべきである(被告人自身も、原審公判廷において、本件せっかんの直前、言葉で制止すれば、その場が収まったと思う旨供述している。)。
3 最後に、太郎の暴行を実力をもって阻止する行為についてみると、原判決も判示するとおり、被告人が身を挺して制止すれば、太郎の暴行をほぼ確実に阻止し得たことは明らかであるところ、右作為に出た場合には、太郎の反感を買い、自らが暴行を受けて負傷していた可能性は否定し難いものの、太郎が、被告人が妊娠中のときは、胎児への影響を慮って、腹部以外の部位に暴行を加えていたことなどに照らすと、胎児の健康にまで影響の及んだ可能性は低く、前記第三の三のとおり、被告人が太郎の暴行を実力により阻止することが著しく困難な状況にあったとはいえないことを併せ考えると、右作為は、太郎の犯罪を防止するための最後の手段として、なお被告人に具体的に要求される作為に含まれるとみて差し支えない
4 そうすると、被告人が、本件の具体的状況に応じ、以上の監視ないし制止行為を比較的容易なものから段階的に行い、あるいは、複合して行うなどして太郎の四郎に対する暴行を阻止することは可能であったというべきであるから、右1及び2の作為による本件せっかんの防止可能性を検討しなかった原判決の法令適用の誤りは、判決に影響を及ぼすことが明らかというべきである。
第五 破棄自判
以上によれば、論旨はいずれも理由があるから、刑訴法三九七条一項、三八〇条、三八二条により原判決を破棄し、同法四〇〇条但書を適用して、当審において更に次のとおり判決をする。
(罪となるべき事実)
被告人は、平成九年六月ころ、先に協議離婚した甲野太郎と再び同棲を開始するに際し、当時自己が親権者となっていた、元夫乙山次郎との間にもうけた長男三郎及び二男四郎(当時三歳)を連れて太郎と内縁関係に入ったが、その後、太郎が四郎らにせっかんを繰り返すようになったのであるから、その親権者兼監護者として四郎らに対する太郎のせっかんを阻止して四郎らを保護すべき立場にあったところ、太郎が、平成九年一一月二〇日午後七時一五分ころ、釧路市鳥取南五丁目〈番地略〉△△マンション一号室において、四郎に対し、その顔面、頭部を平手及び手拳で多数回にわたり殴打し、転倒させるなどの暴行を加え、よって、四郎に硬膜下出血、くも膜下出血等の傷害を負わせ、翌二一日午前一時五五分ころ、同市春湖台〈番地略〉市立釧路総合病院において、四郎を右傷害に伴う脳機能障害により死亡させた犯行を行った際、同月二〇日午後七時一五分ころ、右△△マンション一号室において、太郎が前記暴行を開始しようとしたのを認識したのであるから、直ちに右暴行を阻止する措置を採るべきであり、かつ、これを阻止して四郎を保護することができたのに、何らの措置を採ることなく放置し、もって太郎の前記犯行を容易にしてこれを幇助したものである。
(証拠の標目)〈省略〉
(補足説明)
1 不作為による幇助犯は、正犯者の犯罪を防止しなければならない作為義務のある者が、一定の作為によって正犯者の犯罪を防止することが可能であるのに、そのことを認識しながら、右一定の作為をせず、これによって正犯者の犯罪の実行を容易にした場合に成立し、以上が作為による幇助犯の場合と同視できることが必要と解される。
2 被告人は、平成八年三月下旬以降、約一年八か月にわたり、太郎との内縁ないし婚姻関係を継続し、太郎の短気な性格や暴力的な行動傾向を熟知しながら、太郎との同棲期間中常に四郎らを連れ、太郎の下に置いていたことに加え、被告人は、わずか三歳六か月の四郎の唯一の親権者であったこと、四郎は栄養状態が悪く、極度のるい痩状態にあったこと、太郎が、△△マンションに入居して以降、三郎や四郎に対して毎日のように激しいせっかんを繰り返し、被告人もこれを知っていたこと、被告人は、本件せっかんの直前、太郎が、三郎におもちゃを散らかしたのは誰かと尋ね、三郎が、四郎が散らかした旨答えたのを聞き、更に太郎が寝室で四郎を大きな声で問い詰めるのを聞いて、太郎が四郎にせっかんを加えようとしているのを認識したこと、太郎が本件せっかんに及ぼうとした際、室内には、太郎と四郎のほかには、四歳八か月の三郎、生後一〇か月の冬子及び被告人しかおらず、四郎が太郎から暴行を受けることを阻止し得る者は被告人以外存在しなかったことにかんがみると、四郎の生命・身体の安全の確保は、被告人のみに依存していた状態にあり、かつ、被告人は、四郎の生命・身体の安全が害される危険な状況を認識していたというべきであるから、被告人には、太郎が四郎に対して暴行に及ぶことを阻止しなければならない作為義務があったというべきである。
ところで、原判決は、被告人は、△△マンションで、太郎から強度の暴行を受けるようになって以降、子供達を連れて太郎の下から逃げ出したいと考えていたものの、逃げ出そうとして太郎に見付かり、酷い暴行を受けることを恐れ、逃げ出せずにいたことを考えると、その作為義務の程度は極めて強度とまではいえない旨判示しているが、原判決が依拠する前記第二の一の被告人の供述(1)及び(2)は、前記第三の一の1及び2で検討したとおり、いずれもたやすく信用することができないから、右判示はその前提を欠き、被告人の作為義務を基礎付ける前記諸事実にかんがみると、右作為義務の程度は極めて強度であったというべきである。
3 前記第四の二のとおり、被告人には、一定の作為によって太郎の四郎に対する暴行を阻止することが可能であったところ、関係証拠に照らすと、被告人は、本件せっかんの直前、太郎と三郎とのやりとりを聞き、更に太郎が寝室で四郎を大きな声で問い詰めるのを聞いて、太郎が四郎にせっかんを加えようとしているのを認識していた上、自分が太郎を監視したり制止したりすれば、太郎の暴行を阻止することができたことを認識しながら、前記第四の二のいずれの作為にも出なかったものと認められるから、被告人は、右可能性を認識しながら、前記一定の作為をしなかったものというべきである。
4 関係証拠に照らすと、被告人の右不作為の結果、被告人の制止ないし監視行為があった場合に比べて、太郎の四郎に対する暴行が容易になったことは疑いがないところ、被告人は、そのことを認識しつつ、当時なお太郎に愛情を抱いており、太郎への肉体的執着もあり、かつ、太郎との間の第二子を懐妊していることもあって、四郎らの母親であるという立場よりも太郎との内縁関係を優先させ、太郎の四郎に対する暴行に目をつぶり、あえてそのことを認容していたものと認められるから、被告人は、右不作為によって太郎の暴行を容易にしたものというべきである。
5 以上によれば、被告人の行為は、不作為による幇助犯の成立要件に該当し、被告人の作為義務の程度が極めて強度であり、比較的容易なものを含む前記一定の作為によって太郎の四郎に対する暴行を阻止することが可能であったことにかんがみると、被告人の行為は、作為による幇助犯の場合と同視できるものというべきである。
(法令の適用)
被告人の判示行為は、刑法六二条一項、二〇五条に該当するところ、右は従犯であるから、同法六三条、六八条三号により法律上の減軽をした刑期の範囲内で被告人を懲役二年六月に処し、同法二一条を適用して原審における未決勾留日数中一〇〇日を右刑に算入し、情状により同法二五条一項を適用してこの裁判確定の日から四年間右刑の執行を猶予することとし、原審及び当審における訴訟費用については、刑訴法一八一条一項但書を適用して被告人に負担させないこととする。
(量刑の理由)
本件は、当時三歳の男児四郎の親権者兼監護者であった被告人が、内縁の夫太郎による四郎に対する激しいせっかんを阻止せず、太郎による四郎の傷害致死を容易にしてこれを幇助したという事案である。
被告人は、△△マンションに入居して以降とりわけ激しくなった太郎の四郎らに対する恒常的なせっかんを放置し続けていたもので、本件は起こるべくして起きた事案といってよい。被告人は、本件せっかんの当日、太郎及び冬子とともに五時間余り外出し、その間、電灯もストーブも点いていない暗く寒い室内で、半袖シャツとパンツだけの姿で起立させられていた四郎を思い遣ることなく、太郎が帰宅するなり、おもちゃを散らかしたといえる状況もない四郎を問い詰め、暴行に及ぼうとしたのを認識しながら、四郎の母親であるという立場よりも太郎との内縁関係を優先させ、太郎の四郎に対する暴行に目をつぶり、太郎や四郎の姿が見通せない台所の流しで夕食用の米をとぐなどしていたもので、動機に酌量すべきものはほとんどない。被告人は、太郎が四郎に対して暴行に及ぶことを阻止しなければならない極めて強度の作為義務を負っており、かつ、比較的容易なものを含む一定の作為によってこれを阻止することが可能であったのに、何らの作為にも出ず、母親として果たさなければならない義務を放棄していたもので、被告人が当時妊娠約六か月の状態であったことを考慮しても、犯行態様は決して芳しいものではない。四郎は、太郎の暴行及びこれを阻止しなかった被告人の不作為により、硬膜下出血等の傷害を負い、直ちに病院に搬送されて手術を受けたものの、既に手遅れの状態となっており、受傷から七時間足らずで死亡したもので、その結果は誠に重大であり、太郎から連日のように無慈悲かつ理不尽なせっかんを加え続けられた挙げ句、おもちゃを散らかしたとの濡れ衣を着せられて、いわれのない激しいせっかんを受け、全身に新旧多数の打撲傷や痣、皮膚の変色を残したまま、僅か三歳六か月の幼い命を奪われた四郎の無念さは察するに余りあり、実父である乙山が、太郎に対する厳罰を望んでいるほか、四郎を助けなかった被告人も許せない旨警察官に供述しているのも、誠に無理からぬところである。加えて、被告人は、本件犯行後自ら進んで太郎の身代わり犯人となり、緊急逮捕後は一貫して自分が四郎を殴って死亡させたのであり、太郎は無関係である旨の虚偽の供述を繰り返し、逮捕後一か月余りを経た起訴勾留中に、ようやく真犯人が太郎である旨を同房者に打ち明けたもので、犯行後の行状も甚だ芳しくない。以上のようにみてくると、被告人の刑事責任は誠に重い。
しかしながら、本件傷害致死の正犯者はあくまで太郎であり、被告人の幇助の態様は不作為という消極的なものであったこと、被告人自身も太郎からしばしば相当強度の暴力を振るわれており、前記妊娠の点をも併せ考慮すると、被告人が期待された作為に出なかったことについては、一概に厳しい非難を浴びせ難い面もあること、被告人自身、本件により自らが腹を痛めた四郎を亡くしており、自責の念を抱いていること、被告人は、累犯前科を有する太郎と異なり、これまで前科なく生活しており、原審係属中の平成一〇年五月二七日勾留取消決定により釈放された後は、飲食店従業員として稼働していること、被告人には四郎のほかに三児があり、現在三郎及び冬子は施設に入所しているものの、いずれは同児らを引き取り、自ら養育していくべき責任があること、被告人には釧路市内に住む実母がいて、将来も折あるごとに被告人の相談に乗り、被告人を監督していくものと期待されることなどの諸事情も認められ、これらを前記諸事情と併せ考えると、この際、被告人に対しては、直ちに実刑をもって臨むよりも、四郎の冥福を祈らせつつ、社会内で更生の道を歩ませるのが相当と考えられる。
(原審における求刑 懲役三年)
よって、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官近江清勝 裁判官渡邊壯 裁判官嶋原文雄)

++解説
《解  説》
一 本件は、被告人が、親権者となっていた次男D(当時三歳)らを連れて、Aと同棲を始めたが、AがDらにせっかんを繰り返すようになったのであるから、親権者兼監護者としてせっかんを制止して保護すべき立場にあったところ、AがDに対し暴行を加え、硬膜下出血等の傷害を負わせて、脳機能障害により死亡させた際、Aの暴行を制止する措置を採るべきであり、かつ、これを制止して容易にDを保護できたのに、その措置を採ることなくことさら放置し、もってAの犯行を幇助したというものである。原判決は、不作為による幇助犯の成立要件として「犯罪の実行をほぼ確実に阻止し得たにもかかわらずこれを放置したこと」を掲げ、被告人に具体的に要求される作為の内容として、Aの暴行を実力をもって阻止する行為のみを想定した上で、その場合には、負傷していた相当の可能性のあったほか、胎児(当時被告人は妊娠していた。)の健康にまで影響の及んだ可能性もあった上、被告人としては実力による阻止が極めて困難な心理状態にあったことなどにかんがみると、被告人の不作為を作為による傷害致死幇助罪と同視することはできないとして、被告人に無罪を言い渡したところ、検察官から控訴が申し立てられた。
二 本判決は、被告人とAが知り合って、婚姻した経緯、その生活状況や本件当日の状況等について、事実経過を詳細に認定し、原判決の認定とほぼ同旨としている。しかし、本件当時の被告人の内心の意思や動機等については、原判決が、被告人の供述に依拠して認定したのに対して、その供述の信用性を否定し、本件せっかんの際Aの暴行を制止しなかったのは、当時なおAに愛情を抱き、肉体的執着もあり、かつ、Aとの第二子を懐妊していたこともあって、Dらの母親としての立場よりもAとの内縁関係を優先させ、Aの暴行に目をつぶっていたと認めるのが相当であり、そうすると、被告人は、Aの暴行を実力により阻止することが著しく困難な状態にあったとはいえず、被告人の不作為を作為による傷害致死幇助罪と同視することができないとはいえないとして、事実誤認を認めた。

三 次に、本判決は、不作為による幇助犯の成立要件として、正犯者の犯罪を防止しなければならない作為義務のある者が、一定の作為によって正犯者の犯罪を防止することが可能であるのに、そのことを認識しながら、右一定の作為をせず、これによって正犯者の犯罪の実行を容易にした場合に成立し、以上が作為による幇助犯の場合と同視できることが必要であるとしている。そして、右成立要件に徴すると、原判決が掲げる「犯罪の実行をほぼ確実に阻止し得たにもかかわらずこれを放置した」との要件は不必要というべきであるから、実質的に結果阻止との因果性の認められる不作為のみを幇助行為に限定した上、被告人に具体的に要求される作為の内容としてAの暴行を実力を持って阻止する行為のみを想定する原判決には、法令適用の誤りがあるとした。さらに、本判決は、被告人に具体的に要求される作為の内容とこれによるAの犯罪の防止可能性・容易性について検討し、①Aの暴行を実力をもって阻止する行為のみならず、②AとDの側によってAがDに暴行を加えないように監視する行為、③Aの暴行を言葉で制止する行為をも含めて、被告人が、本件の具体的状況に応じて、以上の監視ないし制止行為を比較的容易なものから行い、あるいは、複合して行うなどしてAのDに対する暴行を阻止することは可能であったというべきであるから、②、③による本件せっかんの防止可能性を検討しなかった原判決の法令適用の誤りは、判決に影響を及ぼすことは明らかとした。

四 さらに、本判決は、前記不作為による幇助犯の成立要件にしたがって、作為義務の有無・程度等について具体的な検討を行い、その要件該当性を認めている。その上で、被告人の作為義務の程度は極めて強度であり、比較的容易なものを含む前記一定の作為によってAのDに対する暴行を阻止することが可能であったことにかんがみると、被告人の行為は作為による幇助犯の場合と同視できるものというべきであるとして原判決を破棄し、傷害致死幇助罪の成立を認めたものである。
五 不作為による幇助については、肯定説、否定説両説があるが、これを肯定するのが通説である。原判決は、その要件の一つとして、単に犯罪実行の防止が可能であったことだけでなく、犯罪の実行をほぼ確実に阻止し得たことまで要求しており、本判決も指摘するとおり、実質的に、結果阻止との因果性の認められる不作為のみを幇助行為に限定していたといえるであろう。この点について、本判決は、正犯者の犯罪の実行を容易にした場合に、不作為による幇助が成立するものとしている。作為による幇助について、正犯の実行行為を容易にすれば足りるとの考えに立ち、不作為による幇助について作為とパラレルに捉える立場からすれば、原判決が要求した作為の内容は厳格に過ぎると言わざるを得ず、本判決のような見解になるものと思われる。
なお、本判決の評釈として村越一浩・研修六二四号一三頁、原判決の評釈として高橋則夫・現代刑事法一四号一〇一頁、大山弘・法セミ五三九号一〇九頁、松生光正・判例セレクト’99〔法教二三四号〕三一頁等がある。また、近時不作為による幇助が問題となった事例としては、東京高判平11・1・29判時一六八三号一五三頁がある。

ウ 実行の着手時期

(3)殺人罪に関して不真正不作為犯を認めた裁判例

+判例(前橋地高崎支S46.9.17)

+判例(東京地八王子支S57.12.22)
理由
(被告人両名の身上経歴及び犯行に至る経緯)
被告人佐藤秀夫(以下単に秀夫ということがある。被告人佐藤シヅ子についても同様である。)は、昭和三五年に福島県内の中学校を卒業後、集団就職で上京し、以来、工員、タクシーの運転手など種々の仕事に就きながら、都内各地を転々としていた者、被告人佐藤シヅ子は、埼玉県内で出生し、一六歳のころから、同県内のいわゆる米軍(当時)朝霞キャンプ付近で、米軍人などを相手方として売春をするようになり、以来、結婚したことなどにより中断もあつたが、概ね、同県内の朝霞市内などで売春などをして生活していた者、六田愛子(昭和五年三月二八日生、以下単に六田ということがある。)は、石川県内で出生し、尋常高等小学校を卒業し、洋裁学校に一年間通学した後、工員として働いていたが、昭和二一年ころ両親の許を飛び出し、埼玉県朝霞市内で飲食店の従業員などをして働き、シヅ子とも顔見知りとなり、同じ店で共に売春をしたこともあつた者である。秀夫とシヅ子は、昭和五一年一一月に結婚するとともに、互いに相手方の連れ子と養子縁組をし、子供二人と東京都練馬区石神井町一丁目一番都営南田中住宅三五号棟二〇四号室(鉄筋コンクリート五階建住宅の二階)に居住していたが、昭和五三年七月ころ、埼玉県朝霞市栄町五丁目八番二号所在の店舗を借り受けて、飲食店「三春」を開店し、秀夫が同店のいわゆるマスター、シヅ子がいわゆるママとして働くようになつた。しかし、次第に客足が遠のき、通常の飲食店としての営業だけでは苦しくなつたため、シヅ子と女性の従業員が、同店に来た客などを相手に売春もするようになつたが、右従業員が同店を辞めたため、その代わりに昭和五五年五月ころ六田を雇い入れ、秀夫は、六田に競艇の賭金などを貸し付けたが、その取立のためもあつて、同年一〇月ころから同女にも売春をさせるようになつた。ところで、昭和五六年二月ころ、被告人らは、六田が逃げ出したり、「三春」に関する悪口を言い触らすのを防ぎ、また同女のために借りていたアパート代を節約するため、同女を朝霞市内のアパートから前記被告人ら方に転居させたが、同女の客扱いには、その接待中に居眠りをするなど、種々の不行届きがあり、売春の相手方となつた客からの苦情もあつたため、秀夫は、同女に対し、叱責を加えたうえ、その頭部や顔面を平手あるいは手拳で殴打することがあり、シヅ子も、六田の不手際は、秀夫の注意の仕方が足りないからだなどと言つて、秀夫の右のような行動を助長する態度をとつていた。このようにして、被告人らは、しばしば、「三春」の営業を終えて自宅に帰つた後、六田に対し、布団も与えずにベランダで寝かせるなどの虐待を加えるようになつた。
(罪となるべき事実)
第一 被告人両名は、昭和五六年三月初旬ころの午前零時ころ、前記「三春」店舗内において、六田に対し、営業時間中に居眠りしたことを注意したところ、同女がこれに口答えをしたうえ、シヅ子を片輪者呼ばわりしたことに立腹し、共謀のうえ、シヅ子が同店舗内の石油ストーブにかけてあつた鍋内の熱湯を六田の両下腿部に浴びせ、更に、秀夫が、同女の両肩を同店舗内畳席部分の畳の上に押さえつけたうえ、シヅ子が前同様の熱湯を六田の両下腿部に浴びせ、よつて、同女に対し、加療約一か月間を要する両下腿第三度熱傷等の傷害を負わせた。
第二 同年七月一三日午後一一時ころ、前記「三春」店舗内において、被告人秀夫は、六田の客扱いが悪く、同女が接客中に居眠りをしたことに立腹し、同女に対し、シャッター降し用鉄棒(長さ約1.05メートル、直径約1.3センチメートル、昭和五六年押第二三九号の五)で、その頭部、顔面、肩部及び腰部などを多数回にわたつて強打し、更に、サンダル(同号の七)を履いた右足で、その頭部及び顔面などを多数回にわたつて足蹴にするなどの暴行を加え、その後前記被告人ら方に連れ帰つてからも、被告人両名は、同所において、六田が小便を漏らしたり、食事を摂らないことに立腹し、共謀のうえ、同女に対し、木刀(押収してある木刀、昭和五六年押第二三九号の八と同様のもの)などで、同月一四日の昼ころ、それぞれ、その腰部、腕部を数回殴打するなどの暴行を加え、同日夕刻ころ、シヅ子がその右肩部などを数回殴打し、秀夫が、その胸部、鼻根部を強く突き、その頭部、肩部、腰部を数回殴打するなどの暴行を加え、更に、同月一五日の午前中及び夕刻ころ、それぞれ、右木刀で、その肩部、腕部を数回殴打するなどの暴行を加え、よつて、同女に対し、鼻骨骨折を伴う鼻根部挫創ないし挫裂創、下口唇挫創、後頭部挫創等の傷害を負わせた。このため、同女は、同月一四日の昼から食欲が減退し、同日夕刻からは、食事を殆どしなくなり、また、体温も、同日の夜に、39.5度に達し、以来四〇度を前後し、息遣いも荒い状態が続き、同月一五日午後からは、自力で起き上がることもできず、布団の中で失禁するようになり、同月一六日には、その意識も判然としなくなるなど、かなり重篤な症状を呈するに至つた。ところで、同月一六日当時、六田の容態は、直ちに医師による適切な治療を受けさせれば、死の結果を予防することが十分に可能であり、かつ、被告人らには、同女をして直ちに医師による適切な治療を受けさせ、もつて、その生命を維持すべき法的義務があるにも拘らず、被告人両名は、医師による治療を受けさせた結果、六田に傷害を与えた事実が発覚し、その刑事責任を問われることをおそれるあまり、六田をして、直ちに医師による治療を受けさせなければ、同女が死亡するかもしれないことを認識しながら、それもやむをえないと決意し、共謀のうえ、そのころ以降も、同女に対し、飲み物を吸い呑みで与え、また、自宅内にあつた、化膿止めの錠剤、解熱剤及び栄養剤を投与し、氷枕をあてがうなどしただけで、医師による治療を受けさせるなどの有効適切な救護の措置を講ずることなく、同女を自宅六畳間に就床させたまま、これを放置し、よつて、同月一九日午後一時三〇分ころ、同所において、同女をして、前記創傷を誘因とする心冠動脈狭窄に基づく心機能不全、もしくは、右創傷に起因する感染症、更に合併症としての就下性肺炎、細菌毒素によるシヨツク、炎症による脱水シヨツクないし末梢性循環不全を誘因とする冠動脈閉塞により死亡させて殺害した。
第三 被告人両名は、息子の○○(当時一七歳)と共謀のうえ、同月一九日午後一〇時ころ、前記被告人ら方において、秀夫が、六田の死体をロープ(押収してある白紐三本、昭和五六年押第二三九号の二ないし四はその一部)で縛つたうえ、秀夫と○○において、布団袋(同号の九)に詰めて運び出し、これを自家用普通乗用自動車の後部トランク内に押し込め、翌二〇日午前零時ころ、東京都西多摩郡奥多摩町原九五〇番地(奥多摩有料道路川野料金所から9.8キロメートルの地点付近)に赴き、同所東側道路脇の草地において、秀夫及び右○○が、深さ約三〇センチメートルの穴を掘つたうえ、その中に六田の死体を落とし入れて土石をかぶせて埋め、もつて死体を遺棄した。
(証拠の標目)〈省略〉
(判示第二の殺人罪を認定した理由について)
弁護人は、判示第二の所為について、一、被告人らに不真正不作為犯における作為義務はなかつた、二、被告人らは、六田に対し、飲食物を供与し、各種薬品を投与していたのであるから、不作為には該らない、三、被告人らに殺意はなかつた旨各主張するので、以下、この点について検討する。
一 作為義務について
弁護人は、1、加害行為がいわゆる「先行行為」として不作為による殺人罪の要件である作為義務を発生させるためには、当該加害行為の結果、死に至る高度の蓋然性があることが必要であるが、被告人らの七月一三日ないし一六日の行為は、創傷を生じたとしても、それが六田の直接の死因ではなく誘因に過ぎず、また、医学に素人である被告人らにとつて右創傷を誘因として死亡するに至ることは予見不可能であり、いわゆる「先行行為」には該らない、2、被告人らは、六田の雇主で同居者であるに過ぎず、同女に対する救助を「引き受け」た事実はなく、また、同女を隔離して第三者による救済を不能にするような行為はしておらず「支配領域」に置いた事実もない、として、被告人らには、六田に対する法的作為義務がなかつた旨主張する。
しかしながら、1、前掲の関係各証拠によれば、(一)七月一三日における暴行の態様は、前認定のとおり、かなり強力なものであつたこと、(二)同日ないし一六日の暴行によつて、六田は、その顔面、頭部及び肩部に合計一一箇所の創傷を被り、その中には、長さ約二センチメートルの鼻骨々折を伴う鼻根部正中の創や長さ2.3センチメートルの唇を貫通した下口唇の創など、それ自体、かなりの重傷というべきものがあること、(三)証人内藤道興の当公判廷における供述(以下内藤証言ということがある)によれば、右のような創傷に対して縫合などの治療が施されない場合は、これが細菌の感染を受けて化膿性の炎症を起こす高度の蓋然性が存し、その結果、化膿菌が血中に入つて敗血症等の重篤な症状を来たすなどして死亡する可能性の存すること、このような事実が認められるのであつて、これらを総合すれば、被告人両名は、自己の行為により六田を死亡させる切迫した危険を生じさせた者と認められる。
2、また、前掲の関係各証拠によれば、(一)六田は、知能や判断力がやや劣る者であつたが、被告人らは、昭和五五年五月ころ、このような同女を雇い入れ、同年一〇月ころからは、同女に売春をさせてその代金なども取り上げるようになつたうえ、翌五六年二月ころ、もつぱら被告人らの都合により、六田が二〇年近く住んでいた埼玉県朝霞市内から東京都練馬区内の被告人ら方に転居させ、同所で生活させていたこと、(二)その後、被告人らは、六田に対し、しばしば折檻を加えるようになり、このため、六田も、判示第一記載の被害に遭つた直後ころ、「三春」から一旦逃げ出したが、被告人らは同女を捜し出して、再び元の様に働かせていたこと、(三)一方、六田は、シヅ子が警察にも手を回しているため、警察も被告人らの仕打ちを取り上げないものと考え、日頃の虐待により逃げ出せば殺されるのではないかとの恐怖にかられていたこと、更に、(四)本件七月一三日の事件の際、六田は、一旦「三春」から逃げ出したものの途中で転倒し、これを追いかけた秀夫は、同女を認めて「大丈夫か」などと声を掛けている森田泰蔵に対して「引つ込んでいろ」などと怒鳴りつけたうえ、同女を「三春」店舗内に引きずり込み、同店付近飲食店からの通報により臨場した警察官らが、再三店内に入れるよう要請したにも拘らず、内側から鍵をかけてこれに応ぜず、被告人両名は、右警察官らが、六田の「大丈夫」との声を聞いて、その場を立ち去るや、同女を自家用普通乗用自動車で被告人ら方に連れ帰つていること、(五)翌一四日には被告人らは仕事にも出かけず、同女を見守り、判示の暴行を加えて同女を畏怖させ、同女は被告人らに看護をすべて委ね、病状が進み同月一五日から起居も一人ではできず、自ら救済を求めることもできなかつたこと、以上の事実が認められ、右各事実を総合すれば、本件犯行に至るまでの被告人両名と六田との関係は、単なる飲食店の経営者とその従業員というに止まらず、被告人両名が、六田に対し、その全生活面を統御していたと考えられるのであつて、同女が被告人両名の「家畜」であつたとの検察官の論旨はいささか誇大に過ぎるにしても、これに近い支配服従関係にあつたことは否めないと認められ、また、七月一三日以後、被告人両名において、受傷した六田の救助を引き受けたうえ、同女を、その支配領域内に置いていたと認めるのが相当である。
3、前認定のとおりの六田の創傷の程度及び七月一四日ないし一六日の同女の病状、更に、後述のとおり、その任意性、信用性に疑いをさしはさむ余地がないと認められる、被告人両名の各供述調書によれば、被告人らが、いずれも六田に対し医療行為が必要であると認識し、同月一六日には、同女の死を予見していたと認められることからすると、被告人らが、すでに同月一四日には、同女の創傷が医師による適切な医療行為を必要とする程度の重いものであることを認識し、更に、遅くとも、同月一六日には、同女の死を予見しえ、また予見していたと認めるのが相当である。
以上1ないし3の各事実のほか、本件当時、被告人らが六田をして、医師による治療を受けさせることが格別困難であつたと認められる事情も存しないことを総合考慮すれば、被告人らには、六田に対し、七月一三日ないし一五日の暴行による創傷の悪化を防止し、その生命を維持するため、同女をして医師による治療を受けさせるべき法的作為義務があつたというべきである。
二 不作為について
弁護人は、不真正作為犯たる殺人罪が成立するためには、当該不作為が作為犯たる殺人罪における定型的実行行為と同価値であること、すなわち、生命維持に必要な行為を積極的に放棄ないし阻止していることを要するが、被告人両名は、六田に対し、同女の生命維持に必要な基本的行為たる飲食物の供与のほか、化膿止めの錠剤、解熱剤及び栄養剤を投与し、氷枕をあてがうなどの被告人らにとつて最善と思われる治療をなしていたのであるから、殺人罪の実行行為と同価値の不作為には該当しない旨主張する。
しかしながら、前掲の関係各証拠によれば、1、当時、六田が必要としていた処置は、創傷の消毒・縫合、症状に即応した抗生物質の投与、持続点滴などであつたこと、2、被告人らがなした右のような薬品の投与は、しないよりまし、といつた程度のものであり、被告人らも、六田の病状に鑑み、医師による適切な医療的処置を必要としていることを認識しながら自己の犯罪発覚を恐れ、単なる気休め程度の考えで、そのような行為をするにとどめていたこと、3、被告人らが、同女をして、右1記載の処置を受けさせることは容易であつたこと、が認められる。これらを総合すれば、前認定のとおり、被告人らに課せられた作為義務の内容は、自ら与えた創傷の悪化を防止すべく、医師による適切な治療を受けさせること、というものであり、本項冒頭記載のような行為を被告人らがしていたことのみをもつて、右作為義務を果たしたとは到底認められないばかりか、前認定のような被告人らと六田との関係、被告人らが七月一三日以後同女を支配内においていたことも考え合わせると、病状が悪化していくにもかかわらず適切な医療措置を講じさせないという不作為は、不作為による殺人の実行行為と評価できる。
三 殺意について
弁護人は、被告人らに殺意はなかつた旨主張し、当公判廷において、秀夫は、七月一八日に至つて初めて六田の死を予見した旨、シヅ子は、六田が死亡するまで、同女の死を予見しなかつた旨各供述する。
しかしながら、シヅ子の当公判廷における供述態度は、およそ真摯にその感得した事実を供述しているとは認められず、また、被告人両名の捜査段階における供述証拠を除いた他の証拠によつても、1、六田の病状は、ほぼ前認定のとおりのものであつたと認められるところ、この点に関する被告人両名の当公判廷における各供述は、これと少なからぬくい違いを見せていること、2、七月一七日、秀夫とシヅ子が、六田はもうだめではないかとの話をしていたと認められること、などに徴すれば、被告人らの右のような当公判廷における各供述は、俄には信用し難い。
結局、六田の病状、これをめぐる被告人らの言動などのほか、被告人両名も、捜査段階においては、七月一六日に同女の死を予見し、これもやむをえないと思つた旨供述していることに鑑みれば、被告人らは、それぞれ、同日に、未必的殺意を抱いていたと認めるのが相当である。
なお、弁護人は、被告人両名が殺意を認めた各供述調書は、いずれも、長時間にわたる精神的威圧の下で、誘導、理詰めの尋問などに基づき作成されたものであつて、任意性がない旨主張する。
しかしながら、右各供述調書においては、被告人らの争つている点は、そのまま記載されており、その時々の被告人らの供述するところをそのまま録取したと認められ、取調官から何らかの強制が加えられたことを窺わせる形跡は見当たらない。結局、右各供述調書は、その任意性に疑いをさしはさむ余地はなく、その内容も、他の証拠から認められる客観的状況とよく符合し、その信用性も高いと認められる。
以上の次第で、被告人らの判示第二の所為に関する弁護人の各主張は、いずれも採用しえないものというべきである。
(法令の適用)〈省略〉
よつて、主文のとおり判決する。
(和田啓一 犬飼眞二 富永良朗)

+判例(東京高H19.1.29)
被告人の作為義務について
1 被告人は、被害児の実父でもないし、被害児の母親であるAと婚姻しているわけでもないから、被害児を救命することについて、身分関係を基礎とした作為義務が生じることはないといえる。
しかし、以下の事情を総合考慮すると、条理ないし社会通念から見て、被告人には、不作為の殺人罪における作為義務となる、被害児を救命すべき作為義務があったと認められる。
なお、原判決は、被告人の作為義務として、「その救命のために速やかに医療機関による治療を受けさせるべき義務」を認定している。そのことに誤りはないが、共犯者との同一の表現になっているところから、その意義について補足しておく。
原判決にも「被告人の負うべき治療機会提供義務は、被害児の実母である共犯者のそれを補完するものにとどまる」旨説示されているように、実母である共犯者と被告人の各作為義務が完全に同一の内容であるわけではない
被告人の負う原判決のいう治療機会提供義務は、被告人自身がその義務を直接果たす作為に出ることを不可欠の要件としているわけではなく、Aを始めとする第三者を介して、或いは働きかけるなどして、最終的に治療機会提供義務が尽くされるようにすることによっても果たされるものであるが、同時に、単に自分の希望を表明したり、相手の意向を打診したりするといった程度では足りず、確実に治療機会提供義務が尽くされるようにする必要はあるものといえる
原判決も、同趣旨と解される。ここでは、そのことを前提として、前記のように、便宜「被害児を救命すべき作為義務」という言い方をしている。

2(1) Aとの前記合意がその作為義務を認める基軸となる事柄であることは明らかである。同時に、被告人が、その合意を反故にして、被害児の救命のための行動に出ることを困難とする事情など何もなかったのである。
(2)ア そして、本件では、その合意に加えて、被告人とAや被害児との生活実態といった事情も、被告人の作為義務を認める根拠の一つとなり得るものと解される。即ち、〈1〉被告人は、Aと恋愛関係となり、原判決説示のとおり、同居を提案して、被害児を連れて実家を出たA親子を受け入れ、平成16年4月22日ころから、被告人の自室に住まわせ、以後被害児死亡当日まで約9か月にわたって(原判決が、作為義務の発生時期としている「12月上旬」、当裁判所のこれまでの認定によれば、それは遅くとも12月6日ということになるが、それまでに限っても、7か月余りの期間ということになる。)、3人で一緒に生活をしてきた、〈2〉被告人は、Aが食事の準備等ができないときは、Aに代わって食事を作ったこともあったし、被害児を風呂に入れたり、寝かしつけたりしたこともあり、8月7日には、Aと被告人とで、被害児の誕生日祝いもし、被害児も被告人に懐くなど円満な生活を送っていた、〈3〉ところが、被告人は、9月に入って、被害児を疎んじるようになって、結局は被害児を死亡させる契機を作った、〈4〉Aは、スナックや派遣先の職場で働きながら、交通費や昼食代といった経費を除いた収入全額を被告人に渡していたこともあって、被告人も出張ホストのアルバイトをしたことがあるものの、3人の生活費は、主として、Aの収入と被告人の実家からの5~6万円の仕送りに頼っており、被告人は、収入面からだけ見ると、Aに依存していたともいえるが、一家の金銭を一人で管理して家計を取り仕切り、被告人に好意を寄せているAの心情も考慮すれば、一家の実権を握っていたのは被告人であった、などが、その生活実態であった。
なお、原判決は、前記のような生活実態の一つとして、Aが被害児に対して行った叩くなどの虐待行動に、被告人も、寝具等を新聞紙で代替することを示唆するなど一定程度関与していたことも挙げている。
しかし、被害児の右大腿骨の骨折がその虐待によるものであるとすれば、まさに看過できない事柄といえることは明らかであるものの、原判決自身、その発生原因や、仮に虐待によるものとした場合の加害者を具体的に認定しているわけではないから、虐待に関する点は、作為義務に関する生活実態からは、一応除外して考えることにした。
また、生活実態に関連するものとして付言すれば、原判決にある、被告人が「日常生活を謳歌」していた旨の措辞は、適切さに欠けている。
イ 被告人が、被害児との同居を望んだからといって、事後的な殺人の作為義務の発生根拠と直ちになるものではないことは、明らかである。
しかし、本件は、原判決も指摘しているように、被害児を救命するための行動に出ることのできる者がAを除くと被告人しかいないといった、密室的な環境の中での不作為による殺人事件であることからすれば、前記のような生活実態といったものも、被告人の前記作為義務を認める根拠の一つとなることを肯定して良いと解される。
換言すれば、被告人が、そのような作為義務を負わないようにしようと思えば、〈1〉A親子との同居を速やかに解消する、〈2〉被害児を疎んじる態度を直ちに改めて、Aに対して被害児を適切に養育するように真剣に働きかける、〈3〉関係者などに伝えて被害児の苦境の速やかな打開を図る、など比較的容易に取り得る手段が他に複数あり得たから、前記のような作為義務を被告人に認めたからといって特に過大な義務を負わせることにはならないからである。
3 以上の検討からすれば、被告人に対して作為義務を認めた原判決の判断は、その結論において支持することができる。

+判例(H17.7.4)
理由
弁護人西村正治及び被告人本人の各上告趣意のうち、憲法21条違反をいう点は、本件公訴の提起及び審理が被告人やその関係する団体に対する予断等に基づくものとは認められないから、前提を欠き、その余の弁護人西村正治の上告趣意は、憲法違反、判例違反をいう点を含め、実質は単なる法令違反、事実誤認の主張であり、その余の被告人本人の上告趣意のうち、判例違反をいう点は、引用の判例が事案を異にし、あるいは所論のような趣旨を判示したものではないから、前提を欠き、その余は、憲法違反をいう点を含め、実質は単なる法令違反、事実誤認の主張であって、いずれも適法な上告理由に当たらない。
なお、所論にかんがみ、不作為による殺人罪の成否につき、職権で判断する。
1 原判決の認定によれば、本件の事実関係は、以下のとおりである。
(1) 被告人は、手の平で患者の患部をたたいてエネルギーを患者に通すことにより自己治癒力を高めるという「シャクティパット」と称する独自の治療(以下「シャクティ治療」という。)を施す特別の能力を持つなどとして信奉者を集めていた。
(2) Aは、被告人の信奉者であったが、脳内出血で倒れて兵庫県内の病院に入院し、意識障害のため痰の除去や水分の点滴等を要する状態にあり、生命に危険はないものの、数週間の治療を要し、回復後も後遺症が見込まれた。Aの息子Bは、やはり被告人の信奉者であったが、後遺症を残さずに回復できることを期待して、Aに対するシャクティ治療を被告人に依頼した。
(3) 被告人は、脳内出血等の重篤な患者につきシャクティ治療を施したことはなかったが、Bの依頼を受け、滞在中の千葉県内のホテルで同治療を行うとして、Aを退院させることはしばらく無理であるとする主治医の警告や、その許可を得てからAを被告人の下に運ぼうとするBら家族の意図を知りながら、「点滴治療は危険である。今日、明日が山場である。明日中にAを連れてくるように。」などとBらに指示して、なお点滴等の医療措置が必要な状態にあるAを入院中の病院から運び出させ、その生命に具体的な危険を生じさせた。
(4) 被告人は、前記ホテルまで運び込まれたAに対するシャクティ治療をBらからゆだねられ、Aの容態を見て、そのままでは死亡する危険があることを認識したが、上記(3)の指示の誤りが露呈することを避ける必要などから、シャクティ治療をAに施すにとどまり、未必的な殺意をもって、痰の除去や水分の点滴等Aの生命維持のために必要な医療措置を受けさせないままAを約1日の間放置し、痰による気道閉塞に基づく窒息によりAを死亡させた。

2 以上の事実関係によれば、被告人は、自己の責めに帰すべき事由により患者の生命に具体的な危険を生じさせた上、患者が運び込まれたホテルにおいて、被告人を信奉する患者の親族から、重篤な患者に対する手当てを全面的にゆだねられた立場にあったものと認められる。その際、被告人は、患者の重篤な状態を認識し、これを自らが救命できるとする根拠はなかったのであるから、直ちに患者の生命を維持するために必要な医療措置を受けさせる義務を負っていたものというべきである。それにもかかわらず、未必的な殺意をもって、上記医療措置を受けさせないまま放置して患者を死亡させた被告人には、不作為による殺人罪が成立し、殺意のない患者の親族との間では保護責任者遺棄致死罪の限度で共同正犯となると解するのが相当である。
以上と同旨の原判断は正当である。
よって、刑訴法414条、386条1項3号、181条1項本文、刑法21条により、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり決定する。
(裁判長裁判官 中川了滋 裁判官 福田博 裁判官 滝井繁男 裁判官 津野修 裁判官 今井功)

++解説
《解  説》
1 本決定の理解のためには,事実関係を押さえる必要があると思われるので,やや詳しくなるが,2審判決の認定した本件の経過について概略説明する。
被告人は,昭和58年ころから,有限会社ライフスペースの代表取締役として自己開発セミナーを開催するなどしていたが,平成7年に起きたセミナー受講生の死亡事件をきっかけに,同社がカルト団体と見られるようになって受講生が激減し,代表取締役を退いた。他方で,被告人は,平成6年ころから,インドの教育哲学者サイババの弟子であると名乗るようになり,その後,自らをサイババによって指名された「シャクティパット・グル」であると称するようになって,手の平で患者の患部をたたいて「シャクティ」というエネルギーを通すことにより患者の自己治癒力を高めるという「シャクティパット治療」(以下「シャクティ治療」という。)を施す特別の能力を有するとして信奉者を集め,秘書らを通じて自己の考えを「メッセージ」として発するようになり,平成9年5月には,被告人の正しい「メッセージ」を伝えることなどを目的とする「シャクティパット・グル・ファウンデーション(SPGF)」という団体が設立された。
被告人の信奉者で友人でもあったAは,脳内出血で倒れ,意識障害のある重篤な状態で兵庫県内の病院に入院し,点滴による水分補給や薬物投与,痰を除去する措置等を受けていた。主治医の診断は,出血は止まっており手術の必要はないが,3日から1週間は様子を見る,治療には3,4週間を要し,その後はリハビリをする,快復後も右半身の麻痺等が残るなどというものであった。Aの息子でSPGFのメンバーであったBは,Aに後遺症を残さないようにしたいと考え,被告人に連絡して,シャクティ治療の有効性を尋ねた(なお,兵庫県内の病院にいるBと千葉県成田市内のホテルにいる被告人との連絡は,全て,電話又は電子メールで被告人の秘書を介して行われている。)。被告人は,それまで脳内出血等の重篤な患者につきシャクティ治療を施したことはなかったが,Bに対し,シャクティ治療が有効である旨の応答をした。なお,被告人は,かねて薬物が人体に有害であるとの見解を述べており,Bは,Aに投与される薬物の害についても心配していた。Bが,主治医に対し,シャクティ治療をAに受けさせたいとの希望を伝えたところ,主治医は,Aを病院外に移動することは3,4週間は絶対にできず,すぐに移動すれば命の保証はない,病院内でシャクティ治療を行うことは,病院の治療に支障がない限り可能である旨を答えた。そこで,Bは,被告人に対し,3,4週間後に移動できるようになってからシャクティ治療をスタートするのが最善であるが,もっと早く治療を始めなければならないとの被告人の見立てであれば,病院まで来て治療してほしいと頼んだ。これに対し,被告人は,シャクティ治療は成田で行う,走らなければ移動させても大丈夫であるなどと答えた。Bは,主治医に対し,投与される薬物の負担に対する懸念を述べるとともに,できるだけ早くシャクティ治療を受けさせたいとの希望を述べるなどした。主治医は,点滴を外したらAは干からびてしまうし,衰弱しているから肺炎で死亡する危険がある,退院に向けて点滴と流動食を併用できるようになるまでにも10日間は要する旨の説明をした。Bは,これを10日間で退院できるとの趣旨に誤解した上,その旨を被告人に連絡したところ,被告人は,点滴は非常に危険であり,動けないというのには根拠がない,3日以内に退院の日取りの確約がなければ秘書に相談するようになどと述べた。さらに,その後,Bからの経過報告に対し,被告人は,その都度,「今日,明日が山場です。Bも早くグルの所に帰っておいで。これ以上いると,病院のおもちゃにされてしまうぞ。」「もう夜逃げしかないんだ。私は明日ここにいる。明日中に私の所に来るんだよ。」などと指示した。Bは「グル」である被告人を深く信頼していたことから,上記指示により,Aを病院から運び出す決意を固め,被告人の信奉者らの協力を得て,医師らの反対を押し切って,上記指示の翌日で入院から8日後に当たる日に,Aの身体から点滴装置,痰を除去する装置等を外し,意識が回復していないAを車いすに乗せて病院から運び出し,飛行機等を利用して上記ホテルの客室まで運び込んだ。ここにおいて,被告人は,「グル」である被告人を全面的に信頼し,シャクティ治療により後遺症を残さずにAを治癒させることを念願するBらから,重篤な状態にあるAに対する手当てを現実にゆだねられた。被告人は,Aに対し,同所において,2日間にわたり合計3回のシャクティ治療を施したが,痰の除去や水分の点滴等,Aの生命維持のために必要な医療措置を受けさせずに放置し,Aがホテルに運び込まれた翌日,痰による気道閉塞に基づく窒息によりAを死亡させた。
2 被告人は,Bに指示してAを病院から運び出させた時点から未必的な殺意を有していたとして,殺人罪で起訴され,1審判決もほぼ公訴事実どおり認定し,Bらと共謀の上,Aを病院から連れ出した作為と,運び込まれたホテルでAを放置した不作為の複合した殺人罪に当たるとして,被告人を懲役15年に処した。
被告人から控訴した。2審判決は,Bらに指示してAを病院から運び出させた行為は客観的には殺人罪の実行行為に当たるが,その時点で被告人に未必的殺意を認めるには合理的な疑いが残るとした。その上で,2審判決は,Aがホテルに運び込まれてその容態を現認した時点では,被告人は,そのままではAが死亡する危険があると認識したが,Aに救急医療を受けさせたのでは,病院から運び出させた自己の判断の誤りを露呈することになり,シャクティパット・グルとしての権威が著しく失墜することから,Aが死亡してもやむを得ないと考えるに至ったものと認定した。そして,その段階で被告人にはAの生命維持のために必要な医療措置を受けさせる義務があったものと認め,これを怠りAを放置して死亡させた不作為による殺人罪が成立し,Bらとの関係では保護責任者遺棄致死の限度で共同正犯となるとして,1審判決を破棄の上,被告人を懲役7年に処した。
被告人から上告して,憲法違反,判例違反の主張などを展開し,原判決が不作為による殺人罪を認めたことを争うなどした。
本決定は,憲法違反,判例違反の主張が前提を欠き,あるいは実質は単なる法令違反,事実誤認の主張であるとして不適法とした上,不作為による殺人罪について職権で判断を示した。
3 不作為による殺人罪については,大判大4.2.10刑録21輯90頁が,もらい受けた生後6か月の子に生存に必要な食物を与えず餓死させた事案において,「養育の義務を負う者が殺害意思をもってことさらに被養育者の生存に必要なる食物を給与せずよってこれを死に致したるときは殺人罪となる」としている。その他,下級審の裁判例に,不作為による殺人罪を認めたものがある(名古屋地岡崎支判昭43.5.30下刑10巻5号580頁,福岡地久留米支判昭46.3.8判タ264号403頁,前橋地高崎支判昭46.9.17判時646号105頁,東京地八王子支判昭57.12.22判タ494号142頁等,その他のひき逃げ事案として,横浜地判昭37.5.30下刑4巻5=6号499頁,東京地判昭40.9.30下刑7巻9号1828頁,判タ185号189頁等)。
これまで,最高裁の判例では,不作為による放火罪に関するもの(最三小判昭33.9.9刑集12巻13号2882頁)があるが,不作為による殺人罪の成否につき判断を示したものはなかった。
4 学説は,一般に,通常は作為により実現されることが想定される構成要件を不作為により実現するいわゆる「不真正不作為犯」を認める。ただ,その成立範囲が不明確なことから,例外的なものに限定する必要があるといわれている。その基準として,社会生活上,その人が当然にその法益の保護に当たるべき地位すなわち「保障人的地位」にあるときに法律上の作為義務があるとするのが一般で,そのような地位を生ずる根拠については,法令,契約・事務管理,慣習,条理(特に先行行為)など多元的なものに求めるのが通説である(団藤,平野,大塚,福田等)。しかし,例えば,道交法上の救護義務違反が直ちに不作為による殺人罪とならないように,一定の作為を義務付ける「法令」があるだけで刑法上の作為義務が基礎付けられるわけではなく,それ以外の実質的考慮が働いていることは否定できない。そこで,近時は,作為義務の発生根拠の根底にある実質的な要素を分析して,「先行行為」「事実上の引受行為」「結果に対する排他的な支配」あるいは「支配領域性」などの要件に帰一させ,不作為犯の成立範囲を限定しようとする見解も有力である(日高義博『不真正不作為犯の理論』148頁,堀内捷三『不作為犯論』249頁,西田典之「不作為犯論」芝原邦爾ほか編『刑法理論の現代的展開(総論1)』80頁,佐伯仁志「保証人的地位の発生根拠について」香川達夫博士古稀祝賀『刑事法学の課題と展望』95頁,山口厚『刑法総論』(補訂版)84頁等)。
5 本決定は,前述のような経過で,被告人において,入院中の患者を運び出させて自己の責めに帰すべき事由により患者の生命に具体的な危険を生じさせた上,患者の運び込まれたホテルで,被告人を信奉する患者の親族から患者に対する手当てを全面的にゆだねられた状態にあったものと認めた。その際,患者の重篤な状態を認識し,これを自らが救命できるとする根拠はなかったのであるから,被告人は,直ちに患者の生命を維持するために必要な医療措置を受けさせる義務を負っていたものとし,未必的な殺意をもって,上記医療措置を受けさせないまま放置して死亡させた被告人には,不作為による殺人罪が成立し,殺意のない患者の親族との間では保護責任者遺棄致死罪の限度で共同正犯となるとした(なお,Bは保護責任者遺棄致死罪による執行猶予付き有罪判決を受けている。)。
以上のとおり,本決定は,具体的な事実関係の下で,被告人が,自己の責めに帰すべき事由により患者の生命に具体的な危険を生じさせた点と,被告人を信奉する患者の親族から重篤な患者に対する手当てを全面的にゆだねられた立場にあった点を重視して,被告人の作為義務を認めている。本件は,いわゆる「先行行為」「事実上の引受行為」「結果に対する排他的な支配」あるいは「支配領域」のいずれについても肯定することのできる事案と思われ,通説及び前記有力説中どの見解に立っても,被告人の作為義務の発生根拠を説明することができると思われるが,各説を検証する上で興味深い事例といえよう。
なお,殺意のない患者の親族との関係で保護責任者遺棄致死罪の限度で共同正犯となるとした点は,真正不作為犯と不真正不作為犯の共同正犯を認め,かつ共犯者間に錯誤があることによるものであり,通常の処理と思われる。
6 本件は特殊な事件に関する事例判断ではあるが,不作為による殺人罪の成立を認めた最高裁として初めての判例であり,今後の実務や不真正不作為犯に関する議論にも有益な示唆を与えるものと思われる。

(5)Aの作為義務

(6)因果関係
ア 不作為犯における因果関係
一定の期待された作為を仮定したうえで、その作為がされれば結果を回避できたかどうかを判断することになる。

+判例(S63.1.19)
理由
弁護人池宮城紀夫、同新里恵二、同上間瑞穂連名の上告趣意のうち、判例違反をいう点は、所論引用の各判例はいずれも事案を異にし本件に適切でなく、その余の点は、すべて単なる法令違反、事実誤認の主張であつて、刑訴法四〇五条の上告理由に当たらない。なお、保護者遺棄致死の点につき職権により検討すると、原判決の是認する第一審判決の認定によれば、被告人は、産婦人科医師として、妊婦の依頼を受け、自ら開業する医院で妊娠第二六週に入つた胎児の堕胎を行つたものであるところ、右堕胎により出生した未熟児(推定体重一〇〇〇グラム弱)に保育器等の未熟児医療設備の整つた病院の医療を受けさせれば、同児が短期間内に死亡することはなく、むしろ生育する可能性のあることを認識し、かつ、右の医療を受けさせるための措置をとることが迅速容易にできたにもかかわらず、同児を保育器もない自己の医院内に放置したまま、生存に必要な処置を何らとらなかつた結果、出生の約五四時間後に同児を死亡するに至らしめたというのであり、右の事実関係のもとにおいて、被告人に対し業務上堕胎罪に併せて保護者遺棄致死罪の成立を認めた原判断は、正当としてこれを肯認することができる。
よつて、刑訴法四一四条、三八六条一項三号により、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり決定する。
(裁判長裁判官 坂上壽夫 裁判官 伊藤正己 裁判官 安岡滿彦 裁判官 長島敦)

イ 不作為犯における因果関係の認定
作為がされれば合理的な疑いを超える程度に確実に結果が発生しなかったといえることが必要

+判例(H1.12.15)
理由
被告人本人の上告趣意のうち、憲法三八条違反をいう点は、原判決が被告人又は共犯者の自白のみによって被告人を有罪としたものでないことは判文に照らして明らかであるから、所論は前提を欠き、その余は、違憲をいうかのような点を含め、実質は事実誤認、単なる法令違反、量刑不当の主張であり、弁護人吉川由己夫の上告趣意は、量刑不当の主張であって、いずれも刑訴法四〇五条の上告理由に当たらない。
なお、保護者遺棄致死の点につき職権により検討する。原判決の認定によれば、被害者の女性が被告人らによって注射された覚せい剤により錯乱状態に陥った午前零時半ころの時点において、直ちに被告人が救急医療を要請していれば、同女が年若く(当時一三年)、生命力が旺盛で、特段の疾病がなかったことなどから、十中八九同女の救命が可能であったというのである。そうすると、同女の救命は合理的な疑いを超える程度に確実であったと認められるから、被告人がこのような措置をとることなく漫然同女をホテル客室に放置した行為と午前二時一五分ころから午前四時ころまでの間に同女が同室で覚せい剤による急性心不全のため死亡した結果との間には、刑法上の因果関係があると認めるのが相当である。したがって、原判決がこれと同旨の判断に立ち、保護者遺棄致死罪の成立を認めたのは、正当である。
よって、刑訴法四一四条、三八六条一項三号、一八一条一項但書、刑法二一条により、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり決定する。
(裁判長裁判官 貞家克己 裁判官 安岡滿彦 裁判官 坂上壽夫 裁判官 園部逸夫)

ウ 第三者の行為の介在した場合
+判例(H2.11.20)
理由
弁護人門井節夫の上告趣意は、単なる法令違反、事実誤認、量刑不当の主張であって、刑所法四〇五条の上告理由に当たらない。
なお、原判決及びその是認する第一審判決の認定によると、本件の事実関係は、以下のとおりである。すなわち、被告人は、昭和五六年一月一五日午後八時ころから午後九時ころまでの間、自己の営む三重県阿山郡a町b町所在の飯場において、洗面器の底や皮バンドで本件被害者の頭部等を多数回殴打するなどの暴行を加えた結果、恐怖心による心理的圧迫等によって、被害者の血圧を上昇させ、内因性高血圧性橋脳出血を発生させて意職消失状態に陥らせた後、同人を大阪市a区b所在の建材会社の資材置場まで自動車で運搬し、右同日午後一〇時四〇分ころ、同所に放置して立ち去ったところ、被害者は、翌一六日未明、内因性高血圧性橋脳出血により死亡するに至った。ところで、右の資材置場においてうつ伏せの状態で倒れていた被害者は、その生存中、何者かによって角材でその頭頂部を数回殴打されているが、その暴行は、既に発生していた内因性高血圧性橋脳出血を拡大させ、幾分か死期を早める影響を与えるものであった、というのである。
このように、犯人の暴行により被害者死因となった傷害が形成された場合には、仮にその後第三者により加えられた暴行によって死期が早められたとしても、犯人の暴行と被害の死亡との間の因果関係を肯定することができ、本件において傷害致死罪の成立を認めた原判断は、正当である。
よって、同法四一四条、三八六条一項三号、一八一条一項但書により、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり決定する。
(裁判長裁判官 可部恒雄 裁判官 坂上夫 裁判官 園部逸夫 裁判官 佐藤庄市郎)

++解説
《解  説》
一、事案の概要は、以下のとおりである。被告人は、昭和五六年一月の夜三重県内の自己の飯場において被害者の頭部を洗面器等で多数回殴打するなどの暴行(第一暴行)を加えた後、意識を失った同人を約一〇〇キロメートル離れた大阪府の南港まで運んで資材置場に放置したまま立ち去ったところ、同所において何者かが被害者の頭頂部を角材で数回殴打する暴行(第二暴行)を更に加えた。そして、翌日未明に被害者は内因性高血圧性橋脳出血により死亡したが、この傷害は第一暴行によって形成されたものであり、第二暴行は幾分かその死期を早める影響を与えるものであったと認められた。このような事実関係を前提にして、本決定は、被告人の第一暴行と死亡との因果関係を肯定したものである。
本件は、次のような訴訟経過を辿った。
検察官は、①第一、第二暴行とも被告人によって加えられたものであり、②第二暴行を加えた際には殺意を抱いていた、③第二暴行による頭部打撲により被害者が死亡したとの見解に立ち、全体として殺人罪に当たるとして起訴した。公判において被告人は、第一暴行を加えたこと及び大阪の港まで被害者を搬送して放置したまま立ち去ったことは認めたが、第二暴行を加えた点については否認し、右の争点をめぐって証拠調べが行われた。その後の審理において特筆すべき点として、まず、第二暴行を自白した被告人の捜査官に対する供述調書全部について、任意性に疑いがあるとして、その証拠能力が否定されたことが挙げられる(この決定は、刑裁月報一六巻三・四号三四四頁に登載されている。)。また、被害者の死因に関して、捜査段階の鑑定受託者は、起訴状に沿う知見を示していたのに対して、公判における鑑定は、第一暴行に起因するものであるとの見解に立つものであったため、検察官の請求により、「第一、第二の一連の暴行により内因性高血圧性橋脳出血により死亡させた」旨の予備的訴因の変更が行われている。
一審判決は、第二暴行の存在は、現場に残された角材に付着した血痕や被害者頭部の傷害から認定できるが、それが被告人によるものであるとするにはなお合理的疑いが残るとする一方で、第二暴行による殴打行為と被害者の死亡との間に因果関係はなく、これに先立つ被告人の第一暴行と死亡(死因は、内因性高血圧性橋脳出血)との間の因果関係が肯定できるとして、傷害致死罪を認定した。
被告人の控訴趣意中事実誤認の所論の中心は、第二暴行が被害者の死亡に何らかの影響を与えたのであるから、第一暴行との因果関係は否定されるべきであるという点にあった。
これに対して二審判決は、新たな鑑定結果をも踏まえた上で、「被告人の飯場での暴行により既に死因となるに十分な程度の内因性高血圧性橋脳出血が被害者に惹起され、それのみによって近接した時間内に被害者は死に至ったものと認められるのであり、それに対し南港における角材暴行は、それによって頭蓋骨骨折や頭蓋内出血あるいは脳挫傷等の頭蓋内損傷が引き起こされていないことなどに照らすと、いまだ死に至る脳傷害をもたらす程度のものとは認められず、せいぜい既に発生していた右内因性高血圧性橋脳出血を拡大させ幾分か死期を早める影響を与えたにとどまると推認される」として、傷害致死罪の成立を認めた一審の判断を是認した。
本決定は、右のような一、二審の認定事実を前提にした上で、第三者の暴行が介在した場合でも、当初の被告人の暴行と死亡との間の因果関係が認められる旨の職権判断を示したものである。

二、因果関係について判例は、従来の学説の対立についてどの立場をとるかを明言することを避けて、具体的事例を通じてその考え方を示していくという態度を堅持してきており、集積された事例について類型的にその判断基準を検討することが必要であると考えられてきた。いま、第一暴行の後第三者による第二暴行が加えられ、被害者が死亡した場合を類型化すると、①第一暴行により死因が形成され、第二暴行はその死期を早めるにとどまった場合、②第一暴行と第二暴行が重畳的に作用して死因が形成された場合、③第一暴行により重篤な傷害が発生したが、第二暴行によりこれとは無関係の傷害が生じ、後者が原因で死亡した場合、④競合して死の結果が生じたのか、第二暴行のみが死の原因になったのか不明の場合といった分類が可能であろう。これらの類型に関して因果関係を判断した先例は極めて限られており、②の類型に属するケースについて第一暴行との因果関係を肯定したものとして、大判昭5・10・25刑集九巻七六一頁がある程度である(なお、最三小決昭42・10・24刑集二一巻八号一一一六頁、本誌二一四号一九八頁―いわゆる米兵ひき逃げ事件―は、当初の行為が過失行為であった点で直接の先例とは言いがたいが、④の類型の結論を考えるに当たって参考になる事案であったと理解される。)。
本件は、右①の類型に属する事案について因果関係を肯定した初めての最高裁判例である。右の大審院の判断からすれば、本件についても因果関係が肯定されることになろうし、また、学説上のどの見解に立っても、おそらく異論はないのではないかと思われるが、①の類型は、第三者の介在の影響が(死期を早めるという)最小限の程度にとどまったという点で、この種事例の基本型に当たるともいうことができ、その点に本決定の先例的意義を認めることができよう(なお、一、二審判決は、第二暴行と死亡との間の因果関係はない旨を判示しているが、本決定は、その点に関しては判断を示しておらず、なお議論の余地があるように思われる。)。
最近の因果関係論の状況について概説したものとして、曽根威彦「因果関係論」法学教室一〇三号、一〇四号、一〇五号がある。

+判例(H4.12.17)
理由
弁護人森本宏、同内藤秀文、同山本健司の上告趣意は、判例違反をいうが、所論引用の判例は事案を異にし本件に適切でないから、刑訴法四〇五条の上告理由に当たらない。
なお、所論にかんがみ、被告人の過失行為と被害者の死亡という結果との間の因果関係につき、職権により判断する。
一 本件の事実関係は、原判決及びその是認する第一審判決の認定によると、次のとおりである。
1 被告人は、スキューバダィビングの資格認定団体から認定を受けた潜水指導者として、潜水講習の受講生に対する潜水技術の指導業務に従事していた者であるが、昭和六三年五月四日午後九時ころ、和歌山県a町の海岸近くの海中において、指導補助者三名を指揮しながら、本件被害者を含む六名の受講生に対して圧縮空気タンクなどのアクアラング機材を使用して行う夜間潜水の講習指導を実施した。当時海中は夜間であることやそれまでの降雨のため視界が悪く、海上では風速四メートル前後の風が吹き続けていた。被告人は、受講生二名ごとに指導補助者一名を配して各担当の受講生を監視するように指示した上、一団となって潜水を開始し、一〇〇メートル余り前進した地点で魚を捕えて受講生らに見せた後、再び移動を開始したが、その際、受講生らがそのまま自分についてくるものと考え、指導補助者らにも特別の指示を与えることなく、後方を確認しないまま前進し、後ろを振り返ったところ、指導補助者二名しか追従していないことに気付き、移動開始地点に戻った。この間、他の指導補助者一名と受講生六名は、逃げた魚に気をとられていたため被告人の移動に気付かずにその場に取り残され、海中のうねりのような流れにより沖の方に流された上、右指導補助者が被告人を探し求めて沖に向かって水中移動を行い、受講生らもこれに追随したことから、移動開始地点に引き返した被告人は、受講生らの姿を発見できず、これを見失うに至った。右指導補助者は、受講生らと共に沖へ数十メートル水中移動を行い、被害者の圧縮空気タンク内の空気残圧量が少なくなっていることを確認して、いったん海上に浮上したものの、風波のため水面移動が困難であるとして、受講生らに再び水中移動を指示し、これに従った被害者は、水中移動中に空気を使い果たして恐慌状態に陥り、自ら適切な措置を採ることができないままに、でき死するに至った
2 右受講生六名は、いずれも前記資格認定団体における四回程度の潜水訓練と講義を受けることによって取得できる資格を有していて、潜水中圧縮空気タンク内の空気残圧量を頻繁に確認し、空気残圧量が少なくなったときは海上に浮上すべきこと等の注意事項は一応教えられてはいたが、まだ初心者の域にあって、潜水の知識、技術を常に生かせるとは限らず、ことに夜間潜水は、視界が悪く、不安感や恐怖感が助長されるため、圧縮空気タンク内の空気を通常より多量に消費し、指導者からの適切な指示、誘導がなければ、漫然と空気を消費してしまい、空気残圧がなくなった際に、単独では適切な措置を講ぜられないおそれがあった。特に被害者は、受講生らの中でも、潜水経験に乏しく技術が未熟であって、夜間潜水も初めてである上、潜水中の空気消費量が他の受講生より多く、このことは、被告人もそれまでの講習指導を通じて認識していた。また、指導補助者らも、いずれもスキューバダイビングにおける上級者の資格を有するものの、更に上位の資格を取得するために本件講習に参加していたもので、指導補助者としての経験は極めて浅く、潜水指導の技能を十分習得しておらず、夜間潜水の経験も二、三回しかない上、被告人からは、受講生と共に、海中ではぐれた場合には海上に浮上して待機するようにとの一般的注意を受けていた以外には、各担当の受講生二名を監視することを指示されていたのみで、それ以上に具体的な指示は与えられていなかった
二 右事実関係の下においては、被告人が、夜間潜水の講習指導中、受講生らの動向に注意することなく不用意に移動して受講生らのそばから離れ、同人らを見失うに至った行為は、それ自体が、指導者からの適切な指示、誘導がなければ事態に適応した措置を講ずることができないおそれがあった被害者をして、海中で空気を使い果たし、ひいては適切な措置を講ずることもできないままに、でき死させる結果を引き起こしかねない危険性を持つものであり、被告人を見失った後の指導補助者及び被害者に適切を欠く行動があったことは否定できないが、それは被告人の右行為から誘発されたものであって、被告人の行為と被害者の死亡との間の因果関係を肯定するに妨げないというべきである。右因果関係を肯定し、被告人につき業務上過失致死罪の成立を認めた原判断は、正当として是認することができる。
よって、同法四一四条、三八六条一項三号により、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり決定する。
(裁判長裁判官 橋元四郎平 裁判官 大堀誠一 裁判官 味村治 裁判官 小野幹雄 裁判官 三好達)

++解説
《解  説》
一 本件の事実関係は、本決定自体に相当詳しく摘示されているが、要するに、潜水指導者として潜水技術の指導業務に従事していた被告人が、昭和六三年五月の午後九時ころ、和歌山県串本町の海岸近くの海中で、指導補助者三名を指揮しながら、本件被害者を含む六名の受講生に対して夜間潜水の講習指導を実施し、一団となって潜水を開始して一〇〇メートル余り前進した地点で魚を捕えて受講生らに見せた後、再び移動を開始する際、受講生らの動向に注意することなく不用意に移動して受講生らのそばから離れたため、同人らを見失うに至り、その後、二記載のような客観的経緯をたどって、受講生が海中ででき死したというものである。
二 本件は、右でき死事故に関して、潜水指導者に業務上過失致死罪が成立するとされた事件であるが、潜水指導者の過失と受講生のでき死という結果との間に、指導補助者及び被害者自身の不適切な行動が介在していたため、因果関係の存否が争われた。すなわち、被告人は、一、二審においては、因果関係のほかに過失の存在も争ったが、一審が、被告人には、「各受講生の圧縮タンク内の空気残圧量を把握すべく絶えず受講生のそばにいてその動静を注視し、受講生の安全を図るべき業務上の注意義務があるのに、」「不用意に一人その場から移動を開始して受講生のそばを離れ、間もなく同人らを見失った過失」があったとして、業務上過失致死罪の成立を認め(罰金一五万円)、控訴審も被告人の控訴を棄却したため、上告して、次のように主張した。
本件においては被告人の過失と結果発生との間に、取り残された指導補助者が、被告人の事前の注意に反して、受講生らと共に沖に向かって数十メートル水中移動を行うといった勝手な行動を採った上に、被害者の空気残圧量が少なくなっていることを確認していたにもかかわらず水中移動を指示するという致命的な判断ミスを犯したこと、さらに被害者本人による自分の空気残圧量を確認することなく右指導補助者の指示に従って、水中移動中に空気を使い果たし水中で残圧ゼロの事態を迎えるという極めて不注意なミスが介入しており、その結果、被害者が恐慌状態に陥り、自ら適切な措置を採ることができないままに、海中ででき死するに至るという結果が発生したものである。そうすると、本件は、いわゆる米兵ひき逃げ事件についての最三小決昭42・10・24刑集二一巻八号一一一六頁、本誌二一四号一九八頁(自動車運転手の被害者をはねた過失と被害者の死亡との間に、同乗者による被害者を車の屋根から路上へひきずり落とすという行為が介在した事案について、右運転者の過失と結果との間の因果関係を否定したもの)と比較しても、被告人の過失と結果との間に因果関係を認めることはできない事案であり、これを認めた原判決は右判例に違反する。
三 本決定は、本件は右判例とは事案を異にするとして、上告趣意を適法な判例違反の主張と取り扱わなかったが、因果関係について職権で次のような判断を示し、被告人に業務上過失致死罪の成立を認めた原判断を是認した。
前記のような事情に加えて、本件受講生らは、まだ初心者の域にあって、潜水の知識、技術を常に生かせるとは限らず、ことに夜間潜水は、通常より多量に空気を消費し、指導者からの適切な指示、誘導がなければ、漫然と空気を消費してしまい、空気残圧がなくなった際に、単独では適切な措置を講ぜられないおそれがあったこと、特に被害者は、潜水経験に乏しく技術が未熟であって、夜間潜水も初めてである上、潜水中の空気消費量が他の受講生より多く、被告人もそのことを認識していたこと、また、指導補助者らも、その経験は極めて浅く、潜水指導の技能を十分習得していなかったことなどの事情があった本件事実関係の下では、被告人が、夜間潜水講習中に不用意に移動して受講生らを見失うに至った行為は、それ自体が、被害者をして、海中で空気を使い果たし、適切な措置を講ずることもできないままに、でき死させる結果を引き起こしかねない危険性を持つものであり、被告人を見失った後の指導補助者及び被害者の不適切な行動は、被告人の右行為から誘発されたものであって、被告人の行為と被害者の死亡との間の因果関係を肯定するに妨げない。
四 因果関係の問題について判例は、それが極めて個別的色彩が強い問題であることなどからして、明確な理論的立場の表明を避け、具体的な事例の集積を通じてその考え方を示していく態度を基本としているといわれる。そこで、本件のように、被告人の過失と結果との間に、第三者ないし被害者の落度が介在した事例(監督過失的態様のものを除く。)に関する最高裁の先例をみると、次のようなものがある(⑥を除いていずれも因果関係を認めた事例である。)。
まず、第三者の落度が介在した事例としては、
① 最三小判昭28・12・22刑集七巻一三号二六〇八頁(病院薬剤師、薬剤科事務員、看護婦らの過失が順次競合して、患者にぶどう糖注射液と誤信して劇薬を注射し、中毒死させたもの。業務上過失致死等事件)
② 最一小決昭32・1・24刑集一一巻一号二三〇頁(国鉄信号保安係員の過失と機関車脱線との間に、他の国鉄職員の過失が介入。業務上過失往来妨害事件)
③ 最二小決昭34・5・15刑集一三巻五号七一三頁(油槽船甲板長のガソリン流出に関する過失と港内での船舶火災との間に、石油会社火気取扱責任者の過失が介入。重過失失火事件)
④ 最二小決昭35・4・15刑集一四巻五号五九一頁(鉄道職員の過失の順次競合。業務上過失致死傷事件。いわゆる桜木町駅事件)
⑤ 最三小決昭36・9・26刑集一五巻八号一五一一頁(鉄道職員の過失の競合。業務上過失傷害、業務上過失往来妨害事件)
⑥ 前記最三小決昭42・10・24刑集二一巻八号一一一六頁(業務上過失致死等事件)
等があり、被害者の落度が介在した事例として、
⑦ 最一小決昭63・5・11刑集四二巻五号八〇七頁、本誌六六八号一三四頁(医師の資格のない柔道整復師の誤った指示に患者が忠実に従った結果、その病状が悪化し死亡したもの。業務上過失致死事件)
がある。
五 これらの先例と比較した場合の本件の特徴としては、そもそもその過失態様自体、夜間潜水講習中に潜水指導者が受講生らを見失った過失により受講生ができ死するという珍しい事例であること、因果関係に関してみても、被告人の過失と結果発生との間に、第三者たる指導補助者及び被害者自身による結果発生に直結したとみられる不適切な行動が順次介入するという、これまでの先例に類例のみられない類型であることが指摘できる。加えて、本決定は事実の経過のみならず、被害者ないし第三者側の事情についても、前記三のとおり相当詳しい事実関係を摘示した上で、これらの事実関係によれば、因果関係が認められるとの結論を示している。このように、本決定は、事例判例ではあるが、最高裁として新たな類型について貴重な積極判断例を付け加えるものであり、介入事情が存する場合における因果関係の問題を考えるに当たって、格好の素材を提供するものといえよう。
なお、被告人の過失と結果との間に被害者の落度が介在した場合の因果関係の問題について判断を示した最近の先例として前記⑦があるが、同決定の特徴として危険の現実化に重点を置いた説示がみられることがあげられている(永井敏雄・昭63最判解説(刑)二七五頁)。同様の傾向は、本決定にも、前記のとおり被害者、第三者側の事情をも踏まえた上で「(被告人の)行為は、それ自体が……被害者をして……でき死させる結果を引き起こしかねない危険性を持つもの」との説示がみられることなどからして、これをうかがうことができるように思われる。併せて、本決定の趣旨を考えるに当たっては、本決定が第三者及び被害者の不適切な行動があったことを認めながら、因果関係を肯定する理由付けとして、それが「被告人の右行為から誘発されたもの」であることを指摘していることの意味合いも検討の対象となろう(被告人の行為自体が有する危険性ないしその具体的な実現を意味するものとみる、又は相当性判断における介入事情の異常性を否定する趣旨のものとみる、など種々の理解が可能であろう。)。

(7)故意
未必の故意を含む。

(8)殺人罪と保護責任者遺棄致死罪との区別
殺意の有無で区別!

3.Bの罪責
(1)問題の所在
(2)①の行為

・作為者と不作為者の共謀共同正犯
+判例(大阪高判H13.6.21)
第3 破棄自判
以上のとおりであって、結局、花子事件についての弁護人の事実誤認の論旨には理由がないが、花子事件及び秋子事件についての検察官の事実誤認の論旨には、いずれも理由があるところ、原判決は、以上の両事件に関する原判示第一及び第二の各殺人の事実が、原判示第三の詐欺の事実と刑法四五条前段の併合罪の関係にあるものとして、一個の刑をもって処断しているのであるから、刑訴法三九七条一項、三八二条により、原判決は、結局、その全部について破棄を免れない。よって、その余の検察官の量刑不当の論旨に関する判断を省略し、同法四〇〇条ただし書に従い、当裁判所において、被告事件について、更に次のとおり判決する。(罪となるべき事実)
被告人は、
第1 平成六年二月七日、甲野太郎と婚姻し、同年三月上旬ころから、大阪市大正区三軒家東〈番地略〉所在のB株式会社社宅〈略〉号室で居住していたものであるが、長女花子(同年四月二六日生)の発育が遅れがちで愛嬌がないなどとして、日ごろ同児を疎ましく感じていたところ、平成七年九月二三日、被告人の両親から同児の発育が不良だとして、太郎とともに、その育児方法等について厳しく注意を受けるなどしたことから、夫婦で同児を一層嫌悪するようになり、同年一〇月末ころ、太郎から「食わん奴には、もう飯食わすな。」などと花子に今後食事を与えないようにと言われ、ここに、同児に対し、生存に必要な飲食物を与えないで殺害しようと決意し、太郎と共謀の上、そのころから、同室において、同児が泣くときなどにわずかな菓子やジュースを与えたりする以外には、同児に飲食物を与えず、同児が栄養失調により徐々にやせ細るのを放置し続け、よって、平成八年一月四日、同室又は同室から同市此花区西九条〈番地略〉所在の財団法人大阪市救急医療休日診療所に向かう自動車内において、同児を栄養失調に基づく全身衰弱により死亡させ、もって、殺害した
第2 平成九年六月上旬から、神戸市西区平野町西戸田〈番地略〉所在のC株式会社社宅〈略〉号室に一家で居住していたものであるが、出生を望まないまま産み落とした三女秋子(平成八年五月三一日生)を、日ごろから太郎とともに疎ましく感じ、同児がいない方がよいとの思いから、同児を花子と同じ様に餓死させようなどと話し合い、離乳食を与える時期になってもこれを与えず、ミルクだけを与えていたため、同児が日々やせ細っていたところ、平成九年七月二一日ころ、同児のことを心配して同室を訪れた母親から、「秋子にちゃんと食べさせているの、花子みたいにしたら承知しないよ。私が連れて帰って育てる。」などと言われたことから、もう、秋子を餓死させても、これを取り繕うことはできず、かといって、他に秋子を亡き者にするための適当な方法も見出せないまま、互いに追い詰められた心境に立ち至っていた折りから、同月二七日午後一一時ころ、同室において、太郎とともに就寝しようとした際、同児が泣き出したため、被告人において、同児にミルクを与えた後、再び寝ようとしたものの、同児が泣き止まず、太郎からは、「秋子、泣いているぞ。静かにさせろ。」「うるさいんじゃ、何でもいいいから黙らせ。」などと再三にわたって言われ、やむなく起き上がったが、同児の世話をしようとはせず文句だけを言う身勝手な太郎と、ミルクを与えても泣き止もうとしない秋子に立腹し、秋子の傍らにしゃがみ込んで、仰向けに寝ていた秋子の顔面及び腹部を右手拳で数回ずつ殴打し、同児を両手で抱き上げて、敷布団上に数回叩きつけたが、太郎が一向に制止しようとしないことから、秋子を抱きかかえて、隣室に置かれたこたつの前に移動して立ち、同児を自分の右肩付近まで持ち上げたまま、太郎の方を振り返り、同人に対し「止めへんかったらどうなっても知らんから。」と申し向けて、太郎の意向を問いただしたところ、これに背中を向けて布団上に横臥していた太郎において、顔だけを被告人の方に向けて、秋子を抱え上げた被告人の表情等を見て、被告人が同児をこたつの天板に叩きつけようとしていることに気付いたが、嫌悪していた秋子を被告人に殺害させる意図から、黙ったまま顔を反対側に背けたことから、その様子を見た被告人においても、太郎が自分を制止する気がなく、自分に同児を殺害させようとしていることを知り、ここに太郎と暗黙のうちに秋子を殺害することを共謀の上、被告人において、右肩付近に持ち上げていた秋子をこたつの天板目がけて思い切り叩きつけ、約一メートル下方のこたつの天板上にその後頭部を強打させ、よって、同年八月一一日午後一時三〇分ころ、同市中央区港島中町〈番地略〉神戸市立中央市民病院において、同児を頭部外傷に基づく急性硬膜下血腫による低酸素性脳障害により死亡させ、もって、殺害した
第3 太郎と共謀の上、太郎と明治生命保険相互会社との間で新夫婦保険付帯ファミリー特約(子型)契約を締結していたことから、被告人らが殺害した三女秋子が事故死したように装って前記ファミリー特約に基づく保険金を詐取しようと企て、同年九月一一日ころ、同市西区糀台〈番地略〉西神センタービル七階明治生命保険相互会社神戸支社西神営業所において、同営業所係員西井英理に対し、真実は、被告人らが前記第2のとおり秋子を殺害したのにこれを秘し、「平成九年七月二七日午後一一時三〇分ころ、神戸市西区平野町西戸田〈番地略〉C内〈略〉号室において、階段を降りようとした時に滑って、過って抱いていた秋子を落としてしまった」旨虚偽の内容を記載した受傷事情書、医師姜裕作成名義の「甲野秋子が、平成九年八月一一日午後一時三〇分ころ、神戸市中央区港島中町〈番地略〉神戸市立中央市民病院において、急性硬膜下血腫により死亡した」旨記載された死亡診断書等を保険金請求書とともに提出して、秋子の死亡に基づく保険金を請求し、前記西井及び同会社担当者をして、真実秋子が階段から過って落ちて死亡したもので、死亡保険金及び災害保険金の支払いをしなければならないものと誤信させ、よって、同年九月二六日、同会社係員をして、同市西区王塚台〈番地略〉株式会社さくら銀行西神中央支店太郎名義の普通預金口座に死亡保険金等名下に九〇万一四八円を振込送金させて、これを詐取した
ものである。
(証拠の標目)〈省略〉
(法令の適用)
被告人の判示第1及び第2の各所為は、いずれも刑法六〇条、一九九条に、判示第3の所為は、同法六〇条、二四六条一項に該当するところ、判示第1及び第2の各所為につき、いずれも有期懲役刑を選択し、以上は同法四五条前段の併合罪であるから、同法四七条本文、一〇条により、刑及び犯情の最も重い判示第2の罪の刑に同法一四条の制限内で法定の加重をした刑期の範囲内で、被告人を懲役一五年に処し、同法二一条を適用して、原審における未決勾留日数中五五〇日を前記の刑に算入し、原審及び当審における訴訟費用は、刑訴法一八一条一項ただし書を適用して、これらを被告人に負担させないこととする。
(量刑の理由)
本件は、被告人が、当時の夫太郎と共謀して、(1)当時一歳八か月の長女花子を、自宅において餓死させて殺害し(判示第1)、(2)当時一歳二か月の三女秋子を、自宅のこたつの天板に思い切り叩きつけ、後頭部外傷に基づく急性硬膜下血腫による低酸素性脳障害により死亡させて殺害し(判示第2)、(3)上記秋子を殺害したことを隠し、事故死したように装って、保険会社を欺き、保険金九〇万円を騙し取った(判示第3)という、夫婦による幼児虐待に伴う二件の殺人及びこれにまつわる一件の保険金詐欺の事案である。
(1)の犯行は、明確な生活設計を持たず、無計画に妊娠、出産を繰り返すなかで、夫の協力も得られないまま、育児や家事に自信が持てず、かといって、近隣住民や自己の両親らから育児の不手際を責められることを毛嫌いしていた被告人が、花子に対して、上手に離乳食を与えることができず、その成長の遅さを周囲から指摘されるようになって、次第に同児をうとましく感じるようになっていたところ、夫から、これからは食事を与えなくてもよいと指示されるに及んで、唯々諾々とこれに従い、夫とともに、同児を餓死させて殺害することを決意したというものであり、(2)の犯行も、秋子に対し、出産当時から、その出生を望んでいなかったとして、成長の途上にあるのに、離乳食を与えることを拒否するほどこれを嫌悪しては、夫とともに暴力を振るうなどの虐待を繰り返し、なんとか、同児を亡き者にしようとして、夫とともに、事故死を装って同児を殺害することまで相談するなど、あれこれと苦慮していた折から、泣き止もうとしない秋子を黙らせるよう夫から指示されて口論となり、被告人において、同児に激しい暴行を加え、さらに、怒りに駆られるまま、同児をこたつの天板に叩きつける姿勢を示したのに、夫が制止するどころか、これを積極的に承認し、殺害したい意向であることを察して、夫とともに殺害を決意した、というものである。花子及び秋子は、被告人ら両親の適切な保護の下でなければ、健全な成長はおろか、その生存すらも覚束ない幼児であったのに、被告人及び太郎は、そのことを一顧だにすることなく、上記のような身勝手かつ無責任極まりない動機から、わずか一年半余りのうちに、相次いで、親の手で殺害することを企図したというのであって、その経緯や動機は、人道に悖ること甚だしく、許し難いものである。
犯行の態様も、(1)の犯行においては、長期間にわたって、その生存に必要な飲食物を一切与えず、同児が食卓に近寄ってきても、これを払いのけるなどということまでし、生命維持に到底役立たないことを熟知しながら、同児が泣き止まないときなどに、わずかの菓子類やジュースを与える程度で、しかも、これらを、被告人ら自らの手から与えるのではなく、同児の傍らに置くにとどめるといった冷酷なものであったのであり、こうして、日々やせ細って衰弱し、しまいには、骨と皮ばかりとなって、動くことも、声を上げることすらできない状態にまで陥らせ、そのような状況に至っていることを知悉しながら、なおも放置を続け、ついに餓死させたというものであり、(2)の犯行は、離乳食も与えることなく、成長も遅れて衰弱した状態にある同児に対し、日頃から殴るなどの虐待を繰り返し、ついに、激情に駆られたあげく、布団の上に繰り返し落下させるなどの激しい暴力を加えた上、最後には、夫とともに殺害を決意して、こたつの天板に後頭部から叩きつけて死亡させた、というものであって、ともに、冷酷非情かつ残忍というほかはなく、悪質極まりない。さらに、これらの犯行後、被告人らは、犯行を隠蔽するための種々の画策まで弄し、これによって当面の事態が切り抜けられたとみるや、それまでと全く変わることのない無計画、無軌道な日常に埋没するという生活態度を取ってきたものであって、被告人及び太郎らが取ったそのような所業の中からは、実の子を死なせてしまったということに対する、被告人らの、親として、あるいは人間としての道徳的な悔悟の念の断片すらも見出すことは困難であったといわねばならない。
最も愛情を注がれて大切に養育されるべき立場にある両親から、かような身勝手極まりない動機によって、かくも無慈悲、無情な態様の仕打ちを受けて殺害された花子及び秋子は、誠に哀れというほかはなく、もたらされた結果は余りにも重大であり、本件が、社会に与えた影響も軽視することができない。
(3)の犯行も、上記のような犯行に走りながら、なんら反省・悔悟することなく、金銭欲に駆られるまま、その事故死を装って敢行したものであって、動機に酌むべきものはなく、態様も悪質である。騙し取った現金は、短期間のうちに、生活費や遊興費に費消してしまっており、被害弁償もなされていない。
そうすると、夫の太郎が、苦しい経済事情の下、育児や家事の負担を被告人にのみ押しつけ、被告人に精神的に依存するだけの生活態度を続け、そのような事情が本件各犯行の重要な背景となっていたこと、(1)の犯行では、太郎が犯行を直接指示したという経緯があること、(2)の犯行でも、夫である太郎において、被告人の行為を制止する機会が十分にあったのに、そのような行為に出ることなく、むしろ、太郎自らが手を下さずに、被告人の手により殺害を実行させたという側面があったこと、被告人においては、本件で逮捕、起訴され、公判審理が進む中で、ことの重大性に対する自覚を深め、犯した罪の重さを一生背負っていく覚悟を固めるに至っており、真摯な反省の態度を示していること、被告人には、前科がないことなど、被告人のために酌むべき事情を十二分に考慮しても、被告人に対しては、主文の刑は免れないと思料される。
よって、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官・那須彰、裁判官・樋口裕晃、裁判官・宮本孝文)

++解説
《解  説》
一 本件は、被告人が、当時の夫と共謀して、(1)当時一歳八か月の長女を殺害しようと決意し、二か月間以上にわたりその生育に必要なだけの飲食物を与えず、自宅において栄養失調に基づく全身衰弱により死亡させて殺害し、(2)深夜、当時一歳二か月の三女が泣き出したことから、同児を殺害しようと決意し、被告人において、顔面、腹部を殴打した上、だき抱えた同児を布団上に叩きつけ、更にこたつの天板に叩きつけてその頭部を強打させ、頭部外傷等による急性硬膜下血腫により死亡させて殺害し、(3)三女を殺害したことを隠して、同児が事故死したように装って、保険会社を欺いて、保険金約九〇万円を騙し取ったとして、二件の殺人罪及び詐欺罪で起訴された事案である。

二 原判決は、(1)については、二か月余りの犯行期間中に、被告人に長女を死亡させることにつき逡巡する気持ちがあったことなどを理由に未必的殺意の限度で殺意を認め、(2)については、三女の殺害につき、被告人と夫との共謀を否定して、被告人の単独犯と認定した上、やはり未必的殺意の限度で殺意を認め、(3)については、ほぼ起訴事実どおりの認定をして、被告人に懲役一三年の刑を言い渡したところ、検察官からは、(1)については、被告人に確定的殺意が認められるとし、(2)については、被告人には三女の殴打開始時点から、同児に対する未必的殺意が認められる上、こたつの天板上に叩きつける時点では、被告人と夫との間に殺人の共謀と確定的殺意が認められるから、原判決には事実誤認があるとし、仮に、原判決が認定した事実関係を前提としても、原判決の量刑が軽すぎて不当であるとして、他方、弁護人は、(1)について、被告人は、長女に殺意を抱いたことも、夫とその殺害を共謀した事実もないから、保護責任者遺棄致死罪を適用すべきであり、原判決には事実誤認があるとして、それぞれ控訴の申立がなされた。

三 本判決は、(2)につき、殴打開始時点からの未必の故意を認めなかった以外は、検察官の事実誤認の主張を容れて、原判決を破棄し、新たに認定した事実(判文を参照されたい。)を基に、改めて被告人に懲役一五年の刑を言い渡したものである。まず、本判決は、(1)については、被告人と夫の捜査段階の供述内容と本件の事実経過につき詳細な検討を加えた上、被告人と夫の共謀内容は、その日以降、長女に対して、正規の食事を与えずに死亡させるという明確な合意を内容としており、その後同児には全く正規の食事が与えられたことがなく、前記合意内容を変更した形跡もなく、同児が死亡した場合には、拒食症だということにしようと話し合っていたことなどに照らすと、被告人の殺意は、相当に強固なものであったと推認されるとし、一時的に同児を死亡させることにためらいの気持ちを抱いたとしても、その殺意につき、全体的に法的評価を加えると、確定的殺意に該当するとみるのが相当であるとした。原判決と本判決で、殺意の程度に関する認定評価が分かれた大きな理由は、原判決が、今後は長女に飲食物を与えないという夫との共謀成立後も、被告人が、長女を餓死させることに時折ためらいの気持ちを覚えて、わずかながらも菓子やジュース等の飲食物を与え続け、その身の回りの世話をし、死亡までに二か月余りを要したことを被告人の殺意の弱さに結び付け、未必的殺意に止まるとしたとみられるのに対し、本判決は、被告人が、長女を直ちに死なせることに対する一時的な逡巡からだけではなく、泣き止まない長女を泣き止ますための手段としたり、同児が拒食症により次第に衰弱して死亡したと見せかけることをも考えて、周囲の者に怪しまれることがないように、わずかな量の飲食物を時折長女の傍らに置くに止め、身の回りの世話をしていたともみられるとし、これらの被告人の行為や死亡までに時間を要した点が、被告人の確定的な殺意と矛盾するような事情ではないとしたことによるとみられる。
また、本判決は、(2)については、同様に詳細な事実関係を認定した上、本件犯行に至る経緯や動機、犯行態様、本件犯行前後の被告人の言動や行動状況を総合して、被告人が三女をこたつの天板に叩きつけた時点における確定的殺意とその時点における夫との同児殺害の共謀を肯認したが、本判決が認定した共謀の事実関係は、被告人が、こたつの前に立ち、三女を右肩付近に抱え上げた状態で、布団上にいた夫の方を振り向き、夫に制止を求める気持ちから、止めなかったらどうなっても知らない旨警告的な言葉を発したのに、夫が、一旦は被告人と目を合わせたものの、被告人に背中を向け、これを制止しようとしなかったことから、被告人において、三女をこたつの天板に投げつけて殺害するのを夫が容認したと理解したとし、他方、夫も、被告人と同様三女の親権者、保護者の立場にあり、その場で被告人の本件犯行を制止することができた唯一の人物であったのに、被告人が三女をこたつの天板に叩きつけようとしているのを十分理解し、被告人の前記発言の意味及び制止を求める気持ちをも熟知しながら、自らも三女に死んで欲しいという気持ちから、被告人と一旦合った目を逸らし、あえて被告人を制止しないという行動に出ることによって、三女を殺害するのを容認したといえるとして、この時点で、両者間に同児を殺害する暗黙の共謀が成立したとしたものである。本判決は、三女にミルクを与えるだけで離乳食を与えず栄養不良状態に陥れたり、殴打するなどの虐待を続けるなどしていたという本件に至るまでの経緯に加え、言葉による相談を経た共謀ではなく、被告人の発言に背を向けて、その行動を制止しなかったという夫の不作為的態度を主たる根拠として、夫婦間における三女殺害の暗黙の共謀を認めたものであり、共謀の成立過程に関する判断として興味深い事例である。本件に比較的類似した事例としては、内縁の夫が幼児にせっかんを加えているのを知りながら母親である被告人がこれを放置して同児を死亡させたことが傷害致死幇助罪に問われたものとして、札幌高判平12・3・16本誌一〇四四号二六三頁、判時一七一一号一七〇頁がある。不作為犯と共犯の問題をどのように解するかについては、学説上も諸説がみられるところである(中義勝「不作為による共犯」刑法雑誌二七巻四号一頁(七三九頁)、神山敏雄『不作為をめぐる共犯論』(成文堂)を参照されたい。)が、本判決は、新たな一事例を付け加えるものであり、実務の参考になろう。なお、被告人と同一事実で起訴され、原審の途中まで被告人と一緒に審理を受けていた夫については、大阪地裁(本件とは別の合議体)において、長女及び三女に対する確定的殺意及び被告人との共謀が認められて、懲役一八年の刑が言い渡されたが、本判決後の平成一三年九月二一日、大阪高裁第三刑事部において量刑不当(刑事訴訟法三九七条一項、二項)を理由に原判決が破棄され、懲役一五年の刑が確定している。

(3)②の行為
ア 不作為と共犯
イ 不作為犯に対する幇助犯
肯定。
ウ 片面的幇助
幇助を受けているとの意識が正犯になくても、正犯の実行行為を容易にすることは可能であり、文理上も、刑法60条が共同正犯の成立要件として犯罪の「共同」実行を規定しているのに対し、刑法62条は意思の連絡又は相互了解を求めていないことから認められていると解される!!

+(共同正犯)
第六十条  二人以上共同して犯罪を実行した者は、すべて正犯とする。

(幇助)
第六十二条  正犯を幇助した者は、従犯とする。
2  従犯を教唆した者には、従犯の刑を科する。

エ 幇助行為の時期
オ 幇助の故意
幇助者が①正犯の実行行為を認識し、かつ、②自己の幇助行為が正犯の実行を容易にさせるものであることを認識、認容する必要がある!!!!

カ 不作為犯に対する幇助犯の成立を認めた裁判例
+前橋地高崎支判S46.9.17

(4)結論


会社法 事例で考える会社法 事例2 やったもの勝ち


Ⅰ はじめに
+第二百十条  次に掲げる場合において、株主が不利益を受けるおそれがあるときは、株主は、株式会社に対し、第百九十九条第一項の募集に係る株式の発行又は自己株式の処分をやめることを請求することができる。
一  当該株式の発行又は自己株式の処分が法令又は定款に違反する場合
二  当該株式の発行又は自己株式の処分が著しく不公正な方法により行われる場合

+(会社の組織に関する行為の無効の訴え)
第八百二十八条  次の各号に掲げる行為の無効は、当該各号に定める期間に、訴えをもってのみ主張することができる。
一  会社の設立 会社の成立の日から二年以内
二  株式会社の成立後における株式の発行 株式の発行の効力が生じた日から六箇月以内(公開会社でない株式会社にあっては、株式の発行の効力が生じた日から一年以内)
三  自己株式の処分 自己株式の処分の効力が生じた日から六箇月以内(公開会社でない株式会社にあっては、自己株式の処分の効力が生じた日から一年以内)
四  新株予約権(当該新株予約権が新株予約権付社債に付されたものである場合にあっては、当該新株予約権付社債についての社債を含む。以下この章において同じ。)の発行 新株予約権の発行の効力が生じた日から六箇月以内(公開会社でない株式会社にあっては、新株予約権の発行の効力が生じた日から一年以内)
五  株式会社における資本金の額の減少 資本金の額の減少の効力が生じた日から六箇月以内
六  会社の組織変更 組織変更の効力が生じた日から六箇月以内
七  会社の吸収合併 吸収合併の効力が生じた日から六箇月以内
八  会社の新設合併 新設合併の効力が生じた日から六箇月以内
九  会社の吸収分割 吸収分割の効力が生じた日から六箇月以内
十  会社の新設分割 新設分割の効力が生じた日から六箇月以内
十一  株式会社の株式交換 株式交換の効力が生じた日から六箇月以内
十二  株式会社の株式移転 株式移転の効力が生じた日から六箇月以内
2  次の各号に掲げる行為の無効の訴えは、当該各号に定める者に限り、提起することができる。
一  前項第一号に掲げる行為 設立する株式会社の株主等(株主、取締役又は清算人(監査役設置会社にあっては株主、取締役、監査役又は清算人、指名委員会等設置会社にあっては株主、取締役、執行役又は清算人)をいう。以下この節において同じ。)又は設立する持分会社の社員等(社員又は清算人をいう。以下この項において同じ。)
二  前項第二号に掲げる行為 当該株式会社の株主等
三  前項第三号に掲げる行為 当該株式会社の株主等
四  前項第四号に掲げる行為 当該株式会社の株主等又は新株予約権者
五  前項第五号に掲げる行為 当該株式会社の株主等、破産管財人又は資本金の額の減少について承認をしなかった債権者
六  前項第六号に掲げる行為 当該行為の効力が生じた日において組織変更をする会社の株主等若しくは社員等であった者又は組織変更後の会社の株主等、社員等、破産管財人若しくは組織変更について承認をしなかった債権者
七  前項第七号に掲げる行為 当該行為の効力が生じた日において吸収合併をする会社の株主等若しくは社員等であった者又は吸収合併後存続する会社の株主等、社員等、破産管財人若しくは吸収合併について承認をしなかった債権者
八  前項第八号に掲げる行為 当該行為の効力が生じた日において新設合併をする会社の株主等若しくは社員等であった者又は新設合併により設立する会社の株主等、社員等、破産管財人若しくは新設合併について承認をしなかった債権者
九  前項第九号に掲げる行為 当該行為の効力が生じた日において吸収分割契約をした会社の株主等若しくは社員等であった者又は吸収分割契約をした会社の株主等、社員等、破産管財人若しくは吸収分割について承認をしなかった債権者
十  前項第十号に掲げる行為 当該行為の効力が生じた日において新設分割をする会社の株主等若しくは社員等であった者又は新設分割をする会社若しくは新設分割により設立する会社の株主等、社員等、破産管財人若しくは新設分割について承認をしなかった債権者
十一  前項第十一号に掲げる行為 当該行為の効力が生じた日において株式交換契約をした会社の株主等若しくは社員等であった者又は株式交換契約をした会社の株主等、社員等、破産管財人若しくは株式交換について承認をしなかった債権者
十二  前項第十二号に掲げる行為 当該行為の効力が生じた日において株式移転をする株式会社の株主等であった者又は株式移転により設立する株式会社の株主等、破産管財人若しくは株式移転について承認をしなかった債権者

+(新株発行等の不存在の確認の訴え)
第八百二十九条  次に掲げる行為については、当該行為が存在しないことの確認を、訴えをもって請求することができる。
一  株式会社の成立後における株式の発行
二  自己株式の処分
三  新株予約権の発行

Ⅱ 若干の検討
1.新株発行規制の変遷
・授権資本制度
=取締役会決議により定款所定の発行可能㈱総数の範囲内で自由に新株発行をすることができるという制度

+(募集事項の決定)
第百九十九条  株式会社は、その発行する株式又はその処分する自己株式を引き受ける者の募集をしようとするときは、その都度、募集株式(当該募集に応じてこれらの株式の引受けの申込みをした者に対して割り当てる株式をいう。以下この節において同じ。)について次に掲げる事項を定めなければならない。
一  募集株式の数(種類株式発行会社にあっては、募集株式の種類及び数。以下この節において同じ。)
二  募集株式の払込金額(募集株式一株と引換えに払い込む金銭又は給付する金銭以外の財産の額をいう。以下この節において同じ。)又はその算定方法
三  金銭以外の財産を出資の目的とするときは、その旨並びに当該財産の内容及び価額
四  募集株式と引換えにする金銭の払込み又は前号の財産の給付の期日又はその期間
五  株式を発行するときは、増加する資本金及び資本準備金に関する事項
2  前項各号に掲げる事項(以下この節において「募集事項」という。)の決定は、株主総会の決議によらなければならない
3  第一項第二号の払込金額が募集株式を引き受ける者に特に有利な金額である場合には、取締役は、前項の株主総会において、当該払込金額でその者の募集をすることを必要とする理由を説明しなければならない。
4  種類株式発行会社において、第一項第一号の募集株式の種類が譲渡制限株式であるときは、当該種類の株式に関する募集事項の決定は、当該種類の株式を引き受ける者の募集について当該種類の株式の種類株主を構成員とする種類株主総会の決議を要しない旨の定款の定めがある場合を除き、当該種類株主総会の決議がなければ、その効力を生じない。ただし、当該種類株主総会において議決権を行使することができる種類株主が存しない場合は、この限りでない。
5  募集事項は、第一項の募集ごとに、均等に定めなければならない。

+(公開会社における募集事項の決定の特則)
第二百一条  第百九十九条第三項に規定する場合を除き、公開会社における同条第二項の規定の適用については、同項中「株主総会」とあるのは、「取締役会」とする。この場合においては、前条の規定は、適用しない。
2  前項の規定により読み替えて適用する第百九十九条第二項の取締役会の決議によって募集事項を定める場合において、市場価格のある株式を引き受ける者の募集をするときは、同条第一項第二号に掲げる事項に代えて、公正な価額による払込みを実現するために適当な払込金額の決定の方法を定めることができる。
3  公開会社は、第一項の規定により読み替えて適用する第百九十九条第二項の取締役会の決議によって募集事項を定めたときは、同条第一項第四号の期日(同号の期間を定めた場合にあっては、その期間の初日)の二週間前までに、株主に対し、当該募集事項(前項の規定により払込金額の決定の方法を定めた場合にあっては、その方法を含む。以下この節において同じ。)を通知しなければならない。
4  前項の規定による通知は、公告をもってこれに代えることができる。
5  第三項の規定は、株式会社が募集事項について同項に規定する期日の二週間前までに金融商品取引法第四条第一項 から第三項 までの届出をしている場合その他の株主の保護に欠けるおそれがないものとして法務省令で定める場合には、適用しない。

+(株主に株式の割当てを受ける権利を与える場合)
第二百二条  株式会社は、第百九十九条第一項の募集において、株主に株式の割当てを受ける権利を与えることができる。この場合においては、募集事項のほか、次に掲げる事項を定めなければならない。
一  株主に対し、次条第二項の申込みをすることにより当該株式会社の募集株式(種類株式発行会社にあっては、当該株主の有する種類の株式と同一の種類のもの)の割当てを受ける権利を与える旨
二  前号の募集株式の引受けの申込みの期日
2  前項の場合には、同項第一号の株主(当該株式会社を除く。)は、その有する株式の数に応じて募集株式の割当てを受ける権利を有する。ただし、当該株主が割当てを受ける募集株式の数に一株に満たない端数があるときは、これを切り捨てるものとする。
3  第一項各号に掲げる事項を定める場合には、募集事項及び同項各号に掲げる事項は、次の各号に掲げる場合の区分に応じ、当該各号に定める方法によって定めなければならない
一  当該募集事項及び第一項各号に掲げる事項を取締役の決定によって定めることができる旨の定款の定めがある場合(株式会社が取締役会設置会社である場合を除く。) 取締役の決定
二  当該募集事項及び第一項各号に掲げる事項を取締役会の決議によって定めることができる旨の定款の定めがある場合(次号に掲げる場合を除く。) 取締役会の決議
三  株式会社が公開会社である場合 取締役会の決議
四  前三号に掲げる場合以外の場合 株主総会の決議
4  株式会社は、第一項各号に掲げる事項を定めた場合には、同項第二号の期日の二週間前までに、同項第一号の株主(当該株式会社を除く。)に対し、次に掲げる事項を通知しなければならない。
一  募集事項
二  当該株主が割当てを受ける募集株式の数
三  第一項第二号の期日
5  第百九十九条第二項から第四項まで及び前二条の規定は、第一項から第三項までの規定により株主に株式の割当てを受ける権利を与える場合には、適用しない。

2.平成17年改正前商法の元での最高裁判所例

授権資本制度
+判例(S36.3.31)
理由
上告代理人大久保兤の上告理由第一、二点について。
原判決が本件に関し、昭和二五年法律第一六七号によつて改正された商法の解釈として、株式会社の新株発行に関し、いやしくも対外的に会社を代表する権限のある取締役が新株を発行した以上、たとえ右新株の発行について有効な取締役会の決議がなくとも、右新株の発行は有効なものと解すべきであるとした判示は、すべて正当である。そして原判決が右判断の理由として、改正商法(株式会社法)はいわゆる授権資本制を採用し、会社成立后の株式の発行を定款変更の一場合とせず、その発行権限を取締役会に委ねており、新株発行の効力発生のためには、発行決定株式総数の引受及び払込を必要とせず、払込期日までに引受及び払込のあつた部分だけで有効に新株の発行をなし得るものとしている(第二八〇条の九)等の点から考えると、改正法にあつては、新株の発行は株式会社の組織に関することとはいえ、むしろこれを会社の業務執行に準ずるものとして取扱つているものと解するのが相当であることをあげていることもすべて首肯し得るところである。なお、取締役会の決議は会社内部の意思決定であつて、株式申込人には右決議の存否は容易に知り得べからざるものであることも、又右判断を支持すべき一事由としてあげることができる。論旨は右と反対の見地に立つて原判決を非難するものであるが、論旨の見解は当裁判所の採らないところである。よつて、民訴三九六条、三八四条、九五条、八九条、九三条を適用して裁判官全員の一致で主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 藤田八郎 裁判官 池田克 裁判官 河村大助 裁判官 奥野健一)

+判例(S46.7.16)
理由
上告人の上告理由について。
株式会社の代表取締役が新株を発行した場合には、右新株が、株主総会の特別決議を経ることなく、株主以外の者に対して特に有利な発行価額をもつて発行されたものであつても、その瑕疵は、新株発行無効の原因とはならないものと解すべきである。このことは当裁判所の判例(最高裁判所昭和三九年(オ)第一〇六二号、同四〇年一〇月八日第二小法廷判決、民集一九巻七号一七四五頁参照)の趣旨に徴して明らかである。そうであれば、特別決議のないことをもつて本件新株発行の無効をいう上告人の本訴請求は、失当であつて、棄却を免れず、これを排斥した原審の判断は結論として相当であり、本件上告は、上告理由について判断するまでもなく、失当として棄却を免れない。
よつて、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員の一致で、主文のとおり判決する。(村上朝一 色川幸太郎 岡原昌男 小川信雄)

+判例(40.10.8)
理由
上告人の上告理由について。
新株引受権を株主以外の者に付与することについては株主総会の特別決議を要するのであるが、既に取締役会の決定に基づき対外的に会社の代表権限を有する取締役が当該新株を発行したものであるかぎり、右第三者引受についての株主総会の特別決議がなされなかつたことは、新株発行無効の原因となるものではないと解すべきである。けだし、新株の発行は、元来株式会社の組織に関するものではあるが、授権資本制度を採用する現行商法が新株発行の権限を取締役会に委ねており、たゞ株主以外の者に新株引受権を与える場合には、株式の額面無額面の別、種類、数及び最低発行価額について株主総会の特別決議を要するに過ぎないものとしている点等にかんがみるときは、新株発行は、むしろ、会社の業務執行に準ずるものとして、取り扱つているものと解するのを相当とすべく、右株主総会の特別決議の要件も、取締役会の権限行使についての内部的要件であつて、取締役会の決議に基づき代表権を有する取締役により既に発行された新株の効力については、会社内部の手続の欠缺を理由にその効力を否定するよりは右新株の取得者および会社債権者の保護等の外部取引の安全に重点を置いてこれを決するのが妥当であり、従つて新株発行につき株主総会の決議のなかつた欠缺があつても、これをもつて新株の発行を無効とすべきではなく、取締役の責任問題等として処理するのが相当であるからである。このことは、既に当裁判所判例の趣旨とするところである(当裁判所昭和三二年(オ)第七九号同三六年三月三一日第二小法廷判決判例集第一五巻六四五頁)。論旨は、右と異なる見解に立つて原判決を非難するものであるから、採用できない。
よつて、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員の一致で、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 奥野健一 裁判官 草鹿浅之介 裁判官 城戸芳彦 裁判官 石田和外 裁判官山田作之助は外国出張につき署名押印することができない。裁判長裁判官 奥野健一)

+判例(H6.7.14)
理由 
 上告代理人吉田朝彦の上告理由一について 
 一 被上告人の本訴請求は、(一) 昭和六一年一一月一四日開催の上告人会社の取締役会は、その招集通知が当時の代表取締役である被上告人に対してされておらず同人も出席していないので不適法であり、右のような瑕疵のある取締役会における新株発行決議に基づく本件新株発行は無効である、(二) 本件新株発行は、藤井捷之助(以下「捷之助」という。)がこれを全部自ら引き受け、自己の株式持分比率を高めて実質上自らが上告人会社を支配できるようにする目的の下にしたものであり、著しく不公正な方法によりされたものであるから無効である旨を主張して、本件新株発行の無効を求めるものである。 
 二 原審は、右(二)の主張について、1の事実を認定した上、2の判断を示し、被上告人の請求を認容した第一審判決を是認して、上告人の控訴を棄却した。 
  1 上告人会社の取締役であった捷之助は、創業以来の代表取締役で発行済株式の過半数を有する被上告人と不仲となり、その信頼を失ったことから、被上告人が株主総会を招集して上告人会社を解散する決議をしたり又は捷之助を解任する決議をすることを恐れるに至った。そこで、捷之助は、これを阻止する目的をもって、専ら、被上告人から上告人会社の支配権を奪い取り、自己及び自己の側に立つ者が過半数の株式を有するようにするために、昭和六一年九月一六日に取締役会を開催して自らの代表取締役選任決議を経て代表取締役に就任し、同年一一月一四日に当時入院中であった被上告人に招集通知をしないで取締役会を開催し、本件新株発行の決議を得て、被上告人に秘したまま右新株を発行し、右決議において新株の募集の方法は公募によるものとされていたが、その全部を自らが引き受けて払い込み、現在これを保有している。 
  2 右の経緯によれば、本件新株発行は著しく不公正な方法によりされたものであるというべきである。そして、著しく不公正な方法による新株発行は特別の事情がある場合に限って無効となると解すべきところ、本件においては、新株はすべてその発行を計画した捷之助によって引き受けられ、保有されているのであるから、取引の安全のために新株発行を無効とすることを特に制限する事情はなく、上告人会社が小規模で閉鎖的な会社で、本件新株発行が前記の目的でされたことを併せ考えると、右の特別事情がある場合に当たるというべきである。したがって、本件新株発行は無効である。 
 三 しかしながら、原審の右2の判断は、是認することができない。その理由は、次のとおりである。 
 新株発行は、株式会社の組織に関するものであるとはいえ、会社の業務執行に準じて取り扱われるものであるから、右会社を代表する権限のある取締役が新株を発行した以上、たとい、新株発行に関する有効な取締役会の決議がなくても、右新株の発行が有効であることは、当裁判所の判例(最高裁昭和三二年(オ)第七九号同三六年三月三一日第二小法廷判決・民集一五巻三号六四五頁)の示すところである。この理は、新株が著しく不公正な方法により発行された場合であっても、異なるところがないものというべきである。また、発行された新株がその会社の取締役の地位にある者によって引き受けられ、その者が現に保有していること、あるいは新株を発行した会社が小規模で閉鎖的な会社であることなど、原判示の事情は、右の結論に影響を及ぼすものではない。けだし、新株の発行が会社と取引関係に立つ第三者を含めて広い範囲の法律関係に影響を及ぼす可能性があることにかんがみれば、その効力を画一的に判断する必要があり、右のような事情の有無によってこれを個々の事案ごとに判断することは相当でないからである。そうすると、本件新株発行を無効と判断した原判決には、商法二八〇条ノ一五の解釈適用を誤った違法があり、右違法は判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、この点をいう論旨は理由がある。 
 四 以上の説示によれば、前記一の(一)及び(二)のいずれもその主張自体理由がなく、本訴請求は失当であるから、原判決を破棄し、第一審判決中主文第一項を取り消した上、被上告人の本訴請求を棄却すべきである。 
 よって、民訴法四〇八条、三九六条、三八六条、九六条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。 
 (裁判長裁判官大白勝 裁判官大堀誠一 裁判官小野幹雄 裁判官三好達 裁判官高橋久子)
++解説
 《解  説》
 一 本件は、いわゆる不公正発行が新株発行の無効事由に当たるかどうかが問題になった事案であるが、その事実関係の概要は、次のとおりである。
 Y株式会社は、創業以来、Xのワンマン会社であって、Xが発行済株式の過半数を有して代表取締役に就任していた。ところが、Xが健康を害してから、Y会社の取締役であったAは、その業務全般を取り仕切っていたが、その後の営業成績が不振ということもあってXと不仲になり、その信頼を失ったことから、Xが株主総会を招集してY会社を解散する決議をしたり又はAを解任する決議をすることを恐れるに至った。そこで、Aは、これを阻止する目的をもって、専ら、XからY会社の支配権を奪い取り、A及びAの側に立つ者が過半数の株式を有するようにするために、まず①取締役会を開催して自らが代表取締役に選任される旨の決議を経て代表取締役に就任し、次いで当時入院中であったXに招集通知をしないで②取締役会を開催し、本件新株発行の決議を得て、Xに秘したまま右新株を発行し、右決議においては新株の募集の方法は公募によるものとされていたが(公募に応ずる者はなかったので)、その全部を自らが引き受けて払い込んだ。その結果、A及びAの側に立つ者の持株の合計が過半数を超え、Xとの立場は逆転した。
 そのため、Xは、(1)右の②取締役会は、その招集通知が当時の代表取締役であるXに対してされておらず同人も出席していないので不適法であり、このように瑕疵のある取締役会での新株発行決議に基づく本件新株発行は無効である、(2)本件新株発行は、Aがこれを全部自ら引き受け、自己の株式持分比率を高めて実質上自らがY会社を支配できるようにする目的の下にしたものであり、著しく不公正な方法によりされたものであるから無効である旨主張して、右新株発行の無効を求める訴えを提起した。
 第一、二審とも、Xの請求を認容したが、その理由として右(2)の点を取り上げて、本件新株発行は著しく不公正な方法によりなされたものであるところ、不公正な方法による新株の発行は原則として無効原因とはならないが、本件においては、新株がすべてAによって引き受けられ保有されていること、Y会社は小規模閉鎖会社であることを併せ考えると、これを無効と解しても株式取引の安全を害しない特別事情がある場合に当たるとして、これを例外的に無効とする旨判示した。これに対してY会社から上告。
 二 新株発行が(a)手続的に有効な取締役会に基づかないで発行された場合、(b)不公正な方法又は目的により発行された場合に、これらを無効とすべきかどうかについては、古くから学説上の争いがある((a)との関係で学説等の状況を整理したものに植村啓治郎・ジュリ・商法の判例第三版一一二頁)。まず無効説は、新株発行が資本増加に影響する組織法上の行為であることに重点を置き、これを社債発行等のような取引行為と同視することができないとして、(a)(b)いずれの場合も無効事由に当たり、新株発行は一律無効であるとする(田中誠二・再全訂会社法詳論下巻九六七頁、野津務「代表取締役」株式会社法講座三巻一一〇五頁、大隅健一郎・新訂会社法概説一九六頁等)。これに対して、有効説は、新株発行が取引法上の行為ないし業務執行に準ずる行為であることに重点を置き、とくにそれによって生ずる法律関係の安定を図ることを重視するためには、取引法上の原理が組織法上の原理に優先すべきであるとして、いずれの場合であっても、新株発行がされた限り、一律有効であるとしている(石井照久・会社法下巻六一頁、西原寛一・会社法一五八頁、伊沢孝平・注解新会社法四三〇頁、山崎悠基・注釈会社法(5)二三五頁等)。
 この点について判例をみると、(ア)(有効な取締役会の決議を経ない新株発行の効力につき)株式会社を代表する権限のある取締役が新株を発行した以上、これにつき有効な取締役会の決議がなくとも、右新株の発行は有効であるとするもの(最判昭36・3・31民集一五卷三号六四五頁)、(イ)(新株引受権を株主以外の第三者に付与することについて株主総会の特別決議を経ない新株発行の効力につき)株式会社の代表取締役が新株を発行した場合には、右新株が、新株引受権を株主以外の者に付与することについての株主総会の特別決議を経ることなく右株主以外の者に引受権を付与して発行されたものであっても、その瑕疵は新株発行の無効原因にはならないとされたもの(最判昭40・10・8民集一九卷七号一七四五頁、本誌一八三号二〇四頁、同昭46・7・16裁集民一〇三号四〇七頁、本誌二六六号一七七頁、同昭52・10・11金法八四三号二四頁)がある。これら一連の最高裁判例は、当然、右のうち有効説を採ったものと理解されていたが、その後に、原則的に有効説に立ちながら、瑕疵についての悪意の株式引受人ないし当初の株式引受人の手元に発行新株が保有されている場合など特別の事情がある場合には新株の発行が無効になるとの折衷説が出現した(鈴木竹雄・商法研究Ⅲ会社法(2)二三一頁)。そして、下級審の裁判例には、この折衷説に従って、新株数が少なく、引受人が代表取締役と特殊な関係にある少数者に限られ、その新株が発行後六か月以内に譲渡されておらず、会社が小規模閉鎖会社であるなどの事案においては、「新株発行を無効としても株式取引の安全を害さない特別の事情」がある場合として、有効な取締役会決議に基づかない等の瑕疵ある新株発行を無効としたものが現れた(大分地判昭47・3・30判時六六五号九〇頁、名古屋地判昭50・6・10判時七九二号八四頁、浦和地判昭59・7・23本誌五三三号二四三頁、大阪高判平3・9・20本誌七六七号二二四頁)。本件の第一、二審判決も、これらの見解に従ったことは明らかである。前記の一連の最高裁判例では、こうした特別事情が問題になる事案ではなかっただけに、最高裁がこうした折衷説を全面的に排斥したものかどうかについては議論があり、実務的にも若干の混乱があって、この点についての最高裁の判断が待たれていたのである。
 三 本判決は、以上のような背景事情の下で、前記(a)事由がある場合だけでなく、(b)の不公正方法による発行の場合であっても、新株発行が有効である旨を判示して、有効説の立場を採ることを再確認した上、折衷説を全面的に排斥することを明示して、一部の下級審の動揺に終止符を打ったのである(x主張のとおり(a)(b)の事由があったとしても主張自体失当であるとして、原判決を破棄して請求を棄却した。)。新株発行の効力の問題は、株主との利害関係だけでなく、会社と取引関係に立つ第三者を含めて広い範囲の法律に影響を及ぼす可能性があるから、新株発行が発行後どのような状態にあるかどうか、あるいは引受人等の善意・悪意いかんによって、その効力を個別事案ごとに判断するものとすれば、法律関係をいたずらに錯綜させることになろう。そうしたことから、本判決は、右のような特別事情の存否にかかわらず、その効力を画一的に判断する必要があるとしたものである。学説上議論のある新株発行の無効事由について、最高裁の見解をさらに明確にしたものとして、実務上も注目すべき判決である。
・非公開会社について
+判例(H24.4.24)
理 由
 上告補助参加人Aの代理人源光信及び上告補助参加人B,同Cの代理人内田智,同石岡修の各上告受理申立て理由について
 1 本件は,上告人の監査役である被上告人が,上告人の取締役であった上告補助参加人(以下,単に「補助参加人」という。)らによる新株予約権の行使は,行使条件を変更する取締役会決議が無効であるにもかかわらずそれに従ってされたものであって,当初定められた行使条件に反するものであるから,上記新株予約権の行使による株式の発行は無効であると主張して,主位的に会社法828条1項2号に基づいて上記株式の発行を無効とすることを求め,予備的に上記株式の発行は当然に無効であるとしてその確認を求める事案である。
 
2 原審の適法に確定した事実関係の概要は,次のとおりである。
 (1) 上告人は,信用保証業務等を目的として昭和56年に設立された株式会社であり,発行する株式の全部について,譲渡により取得するためには取締役会の承認を受けなければならない旨の定款の定めを設けている。
 (2) 上告人は,経営陣の意欲や士気の高揚を目的として,ストックオプションを付与することとし,平成15年6月24日,その株主総会において,以下のとおり,平成17年法律第87号による改正前の商法(以下「旧商法」という。)280条ノ20,280条ノ21及び280条ノ27の規定により,新株予約権(以下「本件新株予約権」という。)を発行する旨の特別決議(以下「本件総会決議」という。)がされた。
 ア 新株予約権の目的である株式の種類及び数 普通株式6万株
 イ 発行する新株予約権の総数 6万個
 ウ 新株予約権の割当てを受ける者
 平成15年6月25日及び新株予約権の発行日の各時点において上告人の取締役である者
 エ 新株予約権の発行価額 無償
 オ 新株予約権の発行日 平成15年8月25日
 カ 新株予約権の行使に際して払込みをすべき額
 新株予約権1個当たり750円
 キ 新株予約権の行使期間
 平成16年6月19日から平成25年6月24日まで
 ク 新株予約権の行使条件
 (ア) 新株予約権の行使時に上告人の取締役であること
 (イ) その他の行使条件は,取締役会の決議に基づき,上告人と割当てを受ける取締役との間で締結する新株予約権の割当てに係る契約で定めるところによる(以下,本件総会決議による上記の委任を「本件委任」という。)。
 (3) 上告人の取締役会において,平成15年8月11日,補助参加人Aに対し4万個,同Cに対し1万個,同Bに対し1万個の本件新株予約権を割り当てる旨の決議がされた。そして,同月,上告人と補助参加人らは,上記決議に基づき,本件新株予約権の行使条件として,上告人の株式が店頭売買有価証券として日本証券業協会に登録された後又は日本国内の証券取引所に上場された後6箇月が経過するまで本件新株予約権を行使することができないとの条件(以下「上場条件」という。)を定めるなどして,新株予約権の割当てに係る各契約を締結し,上告人は,本件新株予約権を発行した。
 (4) 上告人は,平成17年10月頃から補助参加人Aが収受したリベート等をめぐって税務調査を受けるようになり,税務当局から重加算税を賦課する可能性があることを指摘され,株式を公開することが困難な状況となった。
 (5) 上告人の取締役会において,平成18年6月19日,本件新株予約権の行使条件としての上場条件を撤廃するなどの決議(以下「本件変更決議」という。)がされ,同日,上告人と補助参加人らは,上記各契約の内容を本件変更決議に沿って変更する旨の各契約を締結した。
 (6) 補助参加人らは,平成18年6月から同年8月までの間に,本件新株予約権を行使し,上告人は,これに応じて,補助参加人らに対し,合計2万6000株の普通株式を発行した(以下,この発行を「本件株式発行」という。)。
 (7) 上告人の株式は,店頭売買有価証券として日本証券業協会に登録されたことはなく,また,日本国内の証券取引所に上場されたこともない。
 3 原審は,上記事実関係の下において,取締役会には,所定の手続を経て新株予約権が発行された後において,行使条件を新たに設定し,又は変更する権限はないから,本件変更決議に上場条件を撤廃するなどの効力はなく,本件変更決議による行使条件の変更を前提とする本件株式発行は無効であるとして,被上告人の主位的請求を認容すべきものと判断した。
 
4 所論は,本件総会決議による本件委任は,本件新株予約権の発行後に上場条件を取締役会決議によって撤廃することも委任の範囲内のこととして許容するものであるから,本件変更決議は有効であり,本件株式発行に無効原因はないというのである。
 
5(1) そこでまず,本件変更決議の効力について検討する。
 旧商法280条ノ21第1項は,株主以外の者に対し特に有利な条件をもって新株予約権を発行する場合には,同項所定の事項につき株主総会の特別決議を要する旨を定めるが,同項に基づく特別決議によって新株予約権の行使条件の定めを取締役会に委任することは許容されると解されるところ,株主総会は,当該会社の経営状態や社会経済状況等の株主総会当時の諸事情を踏まえて新株予約権の発行を決議するのであるから,行使条件の定めについての委任も,別途明示の委任がない限り,株主総会当時の諸事情の下における適切な行使条件を定めることを委任する趣旨のものであり,一旦定められた行使条件を新株予約権の発行後に適宜実質的に変更することまで委任する趣旨のものであるとは解されない。また,上記委任に基づき定められた行使条件を付して新株予約権が発行された後に,取締役会の決議によって行使条件を変更し,これに沿って新株予約権を割り当てる契約の内容を変更することは,その変更が新株予約権の内容の実質的な変更に至らない行使条件の細目的な変更にとどまるものでない限り,新たに新株予約権を発行したものというに等しく,それは新株予約権を発行するにはその都度株主総会の決議を要するものとした旧商法280条ノ21第1項の趣旨にも反するものというべきである。そうであれば,取締役会が旧商法280条ノ21第1項に基づく株主総会決議による委任を受けて新株予約権の行使条件を定めた場合に,新株予約権の発行後に上記行使条件を変更することができる旨の明示の委任がされているのであれば格別,そのような委任がないときは,当該新株予約権の発行後に上記行使条件を取締役会決議によって変更することは原則として許されず,これを変更する取締役会決議は,上記株主総会決議による委任に基づき定められた新株予約権の行使条件の細目的な変更をするにとどまるものであるときを除き,無効と解するのが相当である。
 これを本件についてみると,前記事実関係によれば,本件総会決議による本件委任を受けた取締役会決議に基づき,上場条件をその行使条件と定めて本件新株予約権が発行されたものとみるべきところ,本件総会決議において,取締役会決議により一旦定められた行使条件を変更することができる旨の明示的な委任がされたことはうかがわれない。そして,上場条件の撤廃が行使条件の細目的な変更に当たるとみる余地はないから,本件変更決議のうち上場条件を撤廃する部分は無効というべきである。
 (2) 以上のように,本件変更決議のうちの上場条件を撤廃する部分が無効である以上,本件変更決議に従い上場条件が撤廃されたものとしてされた補助参加人らによる本件新株予約権の行使は,当初定められた行使条件に反するものである。そこで,行使条件に反した新株予約権の行使による株式発行の効力について検討する。
 会社法上,公開会社(同法2条5号所定の公開会社をいう。以下同じ。)については,募集株式の発行は資金調達の一環として取締役会による業務執行に準ずるものとして位置付けられ,発行可能株式総数の範囲内で,原則として取締役会において募集事項を決定して募集株式が発行される(同法201条1項,199条)のに対し,公開会社でない株式会社(以下「非公開会社」という。)については,募集事項の決定は取締役会の権限とはされず,株主割当て以外の方法により募集株式を発行するためには,取締役(取締役会設置会社にあっては,取締役会)に委任した場合を除き,株主総会の特別決議によって募集事項を決定することを要し(同法199条),また,株式発行無効の訴えの提訴期間も,公開会社の場合は6箇月であるのに対し,非公開会社の場合には1年とされている(同法828条1項2号)。これらの点に鑑みれば,非公開会社については,その性質上,会社の支配権に関わる持株比率の維持に係る既存株主の利益の保護を重視し,その意思に反する株式の発行は株式発行無効の訴えにより救済するというのが会社法の趣旨と解されるのであり,非公開会社において,株主総会の特別決議を経ないまま株主割当て以外の方法による募集株式の発行がされた場合,その発行手続には重大な法令違反があり,この瑕疵は上記株式発行の無効原因になると解するのが相当である。所論引用の判例(最高裁昭和32年(オ)第79号同36年3月31日第二小法廷判決・民集15巻3号645頁,最高裁平成2年(オ)第391号同6年7月14日第一小法廷判決・裁判集民事172号771頁)は,事案を異にし,本件に適切でない。
 そして,非公開会社が株主割当て以外の方法により発行した新株予約権に株主総会によって行使条件が付された場合に,この行使条件が当該新株予約権を発行した趣旨に照らして当該新株予約権の重要な内容を構成しているときは,上記行使条件に反した新株予約権の行使による株式の発行は,これにより既存株主の持株比率がその意思に反して影響を受けることになる点において,株主総会の特別決議を経ないまま株主割当て以外の方法による募集株式の発行がされた場合と異なるところはないから,上記の新株予約権の行使による株式の発行には,無効原因があると解するのが相当である。
 これを本件についてみると,本件総会決議の意味するところは,本件総会決議の趣旨に沿うものである限り,取締役会決議に基づき定められる行使条件をもって,本件総会決議に基づくものとして本件新株予約権の内容を具体的に確定させることにあると解されるところ,上場条件は,本件総会決議による委任を受けた取締役会の決議に基づき本件総会決議の趣旨に沿って定められた行使条件であるから,株主総会によって付された行使条件であるとみることができる。また,本件新株予約権が経営陣の意欲や士気の高揚を目的として発行されたことからすると,上場条件はその目的を実現するための動機付けとなるものとして,本件新株予約権の重要な内容を構成していることも明らかである。したがって,上場条件に反する本件新株予約権の行使による本件株式発行には,無効原因がある。
 6 以上によれば,会社法828条1項2号に基づき本件株式発行を無効とした原審の判断は,結論において是認することができる。論旨は採用することができない。
 よって,裁判官全員一致の意見で,主文のとおり判決する。なお,裁判官大谷剛
彦,同寺田逸郎の各補足意見がある。
+補足意見
 裁判官寺田逸郎の補足意見は,次のとおりである。
 1(1) 戦後,昭和25年の会社法制の整備において,株式の自由な流通が想定される会社を典型視し,授権株式制度の下で,新株の発行を資金調達の一環として取締役会の業務執行の枠内で捉える新たな制度整備が図られてから,この制度は長く株式会社法制の一つの柱をなしており,昭和41年の商法等の一部改正により定款による株式の譲渡制限に道が開かれた後も揺らぐことなく,今日に至っても柱であり続けている。しかし,平成2年の商法等の一部改正において,典型視されてきた定款に株式譲渡につき取締役会の承認を要する旨の定めのない株式会社においては,第三者に対する有利発行の場合を除き,取締役会の権限で新株の発行を行うこの原則が堅持されたのに対し(旧商法280条ノ2),定款に株式譲渡につき取締役会の承認を要する旨の定めのある株式会社(株式譲渡制限会社)については,有限会社法(平成17年会社法整備法により廃止)にならって,新株の発行には原則として株主が新株の引受権を有するとする制約が課され,この制約を排して株主以外の者を相手に新株を発行しようとするときは,株主総会の特別決議を要するものとされ(旧商法280条ノ5ノ2第1項),増資と既存の株主の新株引受権との関係の整理とともに,株式の流通性を基礎とする資金調達と株主保護とのバランスの再調整が図られた。一般に,株主は投資家という側面と会社という組織の構成員という側面とを持つわけであるが,ここでは,株式譲渡に制限のない会社に比べて後者の側面がより前面に出る株式譲渡制限会社の特質が考慮され,どのような株主間にどういう割合で株式保有がされているかが重要であることから株式の取得に制約が課されている株式譲渡制限会社においては,既存の株主の権利を尊重し,株主総会の権限を基本に据えようとする姿勢が明らかにされたものといえるであろう。これが会社法制定に当たって受け継がれ,自己株式の処分をも新株発行とひとくくりにして募集株式の発行等と位置付けた上で,公開会社(株式の一部にでも譲渡に会社の承認を要する旨の定款の定めがない株式会社)における募集株式の発行等に当たっては,取締役会が決定権限を有するのに対し,非公開会社(全株式につき譲渡に会社の承認を要する旨の定款の定めがある株式会社)における募集株式の発行等に当たっては,株主総会が決定権限を有することを原則とする仕組みがとられたのである(会社法2条5号,199条から202条まで,204条,309条2項5号)。
 (2) 他方,平成9年の商法の一部改正によって,いわゆるストックオプション
としての新株引受権が定款により取締役及び使用人に対して与えられる制度として
発足した当初は,その権利の内容は全て株主総会の特別決議により決めるべきもの
とされていたものの,平成13年の商法の一部改正により,汎用的な新株予約権と
して,原則として内容も取締役会が決める権限を有するものへと利用しやすさへの
譲歩がされた際に,株式譲渡制限会社については,新株の発行にならって,原則と
して株主が新株予約権の引受権を有するとする制約が課され,この制約を排して株
主以外の者を相手に新株予約権を発行しようとするときは,株主総会の特別決議を
要するものとされ(旧商法280条ノ19,20,280条ノ27),会社法にお
いては,これが実質的に引き継がれて,公開会社が新株予約権を発行する場合に
は,原則として募集事項の決定が取締役会によって行われるのに対し,非公開会社
が新株予約権を発行する場合については,原則として募集事項を株主総会決議自体
で決めなければならないものとされると同時に,取締役ないし取締役会に委任する
ことができる一部の事項の中にも新株予約権の内容は含まれないという扱いに改め
られた(会社法238条から240条まで,243条,309条2項6号)。旧商
法当時は,新株予約権にどのような行使条件を付すかについては株主総会が取締役
会に決定を委任することができるとする解釈が広くとられていたが,会社法の下で
は,新株予約権の行使条件のうち少なくともその実質的内容に当たるものは取締役
会に委任することができないものとされたと解され,旧商法下でのように取締役会
によって上記のような行使条件が決められる余地はなくなったのであって,募集株
– 10 –
式の発行等と同様,非公開会社における株主の権利の尊重への歩みが確実に進めら
れたものといえる。
 (3) 本件においては,会社法施行前に,定時株主総会における特別決議(本件
総会決議)による新株予約権の発行から,上場条件を含む行使条件の決定,3人の
取締役との間でのこれに従った新株予約権割当契約の締結,登記手続の完了までの
一連の手続により当該3人の取締役が新株予約権を取得した。そして,その後に会
社の株式上場が困難な事態が生ずるや,取締役会で上場条件を行使条件から削除
し,行使時に取締役でなくても取締役会が認めた者ならよいとすることに条件を改
めた上で,新株予約権が行使され,株式が発行されたのであるが(会社法282
条),これらは,平成18年5月の会社法施行直後のことなのである。
 会社法の下では,本件のような経過で新株予約権が行使され,3人の取締役らが
株主としての地位を獲得することはあり得ない。上記のような取締役らによる,お
手盛り的で,株主総会の意向に背く処理は,(1),(2)で要約した会社法制の進んで
きた方向に対する真っ向からの挑戦というほかないのである。外部監査役とみられ
る監査役がこの事態を見過ごすことなく提訴したことも,その意味で頷ける。
 2(1) 株主総会による委任に基づき一旦決められた行使条件を変更できるかど
うかについては,法廷意見のとおり,旧商法施行当時の基準として,原則として,
決議のあった株主総会当時の諸事情の下における適切な行使条件を新株予約権の発
行までに定めることが委任の趣旨であるとみて,以後の変更を許容することが明示
されていない限り変更は許されないという考え方に基づき,本件における行使条件
の変更が許されないものであるとの結論が導かれるのであって,そのことが当事者
の主張に対応する判断として相当である。しかし,本件において,会社法の施行に
– 11 –
より,会社自体,旧商法施行時の譲渡制限の定め,株主総会決議,取締役会決議及
び登記がそれぞれ会社法上の相当存在となって,以後,会社法が適用されることと
なり(会社法附則2項,会社法整備法66条1項,2項,76条1項,3項,91
条,96条,113条1項),また,株式及び新株予約権については規定を欠くも
のの,当然会社法上の相当存在となるものと解されるから,以後の新株予約権のあ
りようを計るには,全て会社法の規定に照らしてみることが本来の在り方ともいえ
る。そうであるとすると,上記1(2)のとおり,そもそも会社法の下においては新
株予約権の内容としての行使条件を取締役会が決めることはできないのであるか
ら,一旦決められた条件を取締役会が変更することなどおよそ許される余地などな
く,本件の行使条件の変更が許されないことがより強い形で説明できるようにも思
える。
 (2) かねて,当審は,株式譲渡制限会社において行われるものを含めて,新株
発行を無効とすることに慎重であるとみられてきた。補助参加人らが原審判断を判
例違反と主張するに当たって引用する2つの当審裁判例が,その根拠とされるので
あろう。しかし,それは旧商法の下で長く新株発行が取締役会の業務執行と位置付
けられてきたことにかかわる解釈であると考えられる。
 本件での新株予約権行使による株式発行の有効性については,会社法の下で判断
されるべきところ(会社法整備法98条1項は,施行時に発行されていない新株予
約権の発行手続について旧商法を適用すべきとする規定であり,会社法整備法11
1条1項は,施行前に提起された新株発行無効の訴えの手続を旧商法等を適用して
行うものとする規定にすぎない。),法廷意見に示されたとおり,第一に,非公開
会社における株主割当て以外の方法による募集株式の発行が株主総会の特別決議を
– 12 –
欠く状況で行われると,株式発行無効原因となるとの考え方が十分成り立ち,第二
に,新株予約権の行使が株主総会の付した行使条件に反している場合には,この行
使条件が当該新株予約権を発行した趣旨に照らしてその重要な内容を構成している
ものである限り,既存の株主にとって持株比率の在り方が株主総会決議時に想定し
ていたものと異なる形で歪められることになる(取締役会が設置されていない非公
開会社(会社法139条1項参照)の既存株主を中心に殊に関心の強い株主構成の
在り方までも歪められることになる)点で株主総会決議を欠いた募集株式の発行の
場合と基本的な差がないとみることができるのである。そこで,さらに,会社法の
下では,もはや取締役会が前記のとおり行使条件の決定を行う余地はないことを正
面から受け止めるならば,同法施行前に株主総会が取締役会に委任した結果付され
た行使条件を施行後は株主総会が付した条件と同視するほかないというべきで,し
かも,条件変更は単なる手続違背ではなく,およそ受け入れる余地がない性格のも
のなのであるから,結局,本件の取締役会による変更後の条件に従った新株予約権
の行使による株式の発行については,株主総会決議を欠く募集株式の発行と同視す
るという結論に至らざるを得ず,したがって,これを無効視する結論がより明確に
導かれるように思われる。なお,このように解しても,非公開会社の株式流通には
限界があり,取引安全に支障が生ずる余地が限られていることも付言しておくこと
が適切であろう。もっとも,上記の株主の権利の尊重及び会社運営における決定機
関としての株主総会重視という角度からこのような解釈を導くについては,本来,
その会社が非公開会社であるかどうかということだけでなく,取締役会が設置され
ているかどうか,あるいは株式の譲渡承認が株主総会自体によって行われるかどう
か(会社法施行前の有限会社型かどうか)という要素を含めて判断すべきであると
– 13 –
いう考え方もあり得るであろう。しかし,ここでの解釈においては,非公開会社と
いう法律の定める大枠に着目することが,簡明でありながら,概ねとはいえ相当性
を見出せるという意味で,無理がないところといえるように思われる。
 3 以上のとおり,会社法の施行下での株式発行であるということをより強く受
け止めて施行後の経過を意味付けようとすることも見方としてあり得るところで,
その見方に立つと,株式発行無効原因があることをより抵抗なく受け止めることが
できるように思えるのである。
 裁判官大谷剛彦は,裁判官寺田逸郎の補足意見に同調する。
(裁判長裁判官 岡部喜代子 裁判官 田原睦夫 裁判官 大谷剛彦 裁判官寺田逸郎) 
Ⅲ 設問について
1.はじめに
2.株主総会の特別決議によらない新株の有利発行
・「特に有利な金額」に当たるかどうか
+判例(S50.4.8)
理由 
 上告代理人渡辺忠雄の上告理由一、二について。 
 控訴審がその判決の理由を記載するにあたつては一審判決の理由を引用することができる(民訴法三九一条)のであるから、原審のした一審判決の引用に違法はなく、また、所論指摘の主張は、ひつきよう、事実認定又は法律解釈についての主張であつて、原審がこれにつき逐一判断を示さなければならないものではない。原判決に所論の違法はなく、論旨は採用することができない。 
 同一、三ないし六について。 
 所論の点に関する原審の事実認定は、原判決挙示の証拠関係に照らして是認することができる。 
 ところで、普通株式を発行し、その株式が証券取引所に上場されている株式会社が、額面普通株式を株主以外の第三者に対していわゆる時価発行をして有利な資本調達を企図する場合に、その発行価額をいかに定めるべきかは、本来は、新株主に旧株主と同等の資本的寄与を求めるべきものであり、この見地からする発行価額は旧株の時価と等しくなければならないのであつて、このようにすれば旧株主の利益を害することはないが、新株を消化し資本調達の目的を達成することの見地からは、原則として発行価額を右より多少引き下げる必要があり、この要請を全く無視することもできない。そこで、この場合における公正発行価額は、発行価額決定前の当該会社の株式価格、右株価の騰落習性、売買出来高の実績、会社の資産状態、収益状態、配当状況、発行ずみ株式数、新たに発行される株式数、株式市況の動向、これらから予測される新株の消化可能性等の諸事情を総合し、旧株主の利益と会社が有利な資本調達を実現するという利益との調和の中に求められるべきものである。 
 本件についてみるに、原審認定の前記事実によれば、株式会社横河電機製作所(以下「横河電機」という。)発行にかかる本件新株(記名式額面普通株式、一株の金額五〇円)の発行価額は、本件新株を買取引受の方式によつて引受けた証券業者である被上告人らが昭和三六年一月七日に横河電機に対して具申した意見に基づき、同月九日の取締役会において右意見どおり決定されたものであるところ、右意見は、具申の前日である同月六日の終値三六五円、前一週間(昭和三五年一二月二六日から昭和三六年一月六日まで)の終値平均三五九円一七銭、前一か月(昭和三五年一二月七日から昭和三六年一月六日まで)の終値平均三五〇円二七銭の三者の単純平均三五八円一五銭から、新株の払込期日が期中であつたので、配当差二円四一銭を差引いた三五五円七四銭を基準とし、横河電機の株式の価格動向としては人気化していたため急落する可能性が強く過去六年間における一か月以内の下落率の大勢は一〇ないし一四パーセントに集中していたこと、その売買出来高が昭和三五年九月から同年一二月まで一日平均一九万三〇〇〇株であるのに比べると本件公募株数は一五〇万株の大量であること、その他、当時における株式市況の見通し等を勘案すれば、本件新株を売出期間中に消化するためには前記基準額を最低一〇パーセント値引する必要がある等の事由による減額修正をして、発行価額としては一株あたり三二〇円をもつて相当とするというのである。このように、右の意見が出されるにあたつては、客観的な資料に基づいて前記考慮要因が斟酌されているとみることができ、そこにおいてとられている算定方法は前記公正発行価額の趣旨に照らし一応合理的であるというを妨げず、かつ、その意見に従い取締役会において決定された右価額は、決定直前の株価に近接しているということができるこのような場合、右の価額は、特別の事情がないかぎり、商法二八〇条ノ一一に定める「著シク不公正ナル発行価額」にあたるものではないと解するのを相当とすべく、右価額が当該新株をいわゆる買取引受方式によつて引受ける証券業者が具申した意見に基づきその意見どおり決定されたとの前記事実も、右の意見の合理性が肯定できる以上、それだけで右の判断を異にすべき理由にはならない。そして、本件新株の発行後横河電機の株価が値上りしたことは原審の確定するところであるが、本件発行価額決定時点においてそのことが確実であることを保証する事実が顕著であつたとはいえないとする原審確定の事実関係のもとにおいては、右値上りの事実をもつて特別の事情と認めるには足りず、他に特別の事情を認めるに足る事実関係のない本件においては、本件発行価額が「著シク不公正ナル発行価額」であるということはできないのである。これと同旨の原審判断は、正当として是認することができ、原判決に所論の違法はない。論旨は、採用することができない。 
 よつて、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。 
 (裁判長裁判官 江里口清雄 裁判官 関根小郷 裁判官 天野武一 裁判官 坂本吉勝 裁判官 髙辻正己) 
+判例(東京地決H16.6.1)
第三 当裁判所の判断 
  一 被保全権利について 
   (1) 商法二八〇条ノ二第二項にいう「特ニ有利ナル発行価額」とは、公正な発行価額よりも特に低い価額をいうところ、株式会社が普通株式を発行し、当該株式が証券取引所に上場され証券市場において流通している場合において、新株の公正な発行価額は、旧株主の利益を保護する観点から本来は旧株の時価と等しくなければならないが、新株を消化し資本調達の目的を達成する見地からは、原則として発行価額を時価より多少引き下げる必要もある。そこで、この場合における公正な発行価額は、発行価額決定前の当該会社の株式価格、上記株価の騰落習性、売買出来高の実績、会社の資産状態、収益状態、配当状況、発行済株式数、新たに発行される株式数、株式市況の動向、これらから予測される新株の消化可能性等の諸事情を総合し、旧株主の利益と会社が有利な資本調達を実現するという利益との調和の中に求められるべきものである。もっとも、上記の公正な発行価額の趣旨に照らすと、公正な発行価額というには、その価額が、原則として、発行価額決定直前の株価に近接していることが必要であると解すべきである(最高裁判所昭和五〇年四月八日第三小法廷判決・民集二九巻四号三五〇頁参照)。 
   (2) これを本件についてみると、本件発行価額三九三円は、平成一六年五月一七日時点の証券市場における一株あたりの株価一〇一〇円と比較して約三九パーセントにすぎない。また、前記自主ルールは、旧株主の利益と会社が有利な資本調達を実現するという利益との調和の観点から日本証券業協会における取扱いを定めたものとして一応の合理性を認めることができるところ、本件発行価額は、本件新株発行決議の直前日の価額に〇・九を乗じた九〇九円と比較して約四三パーセント、本件新株発行決議の日の前日から六か月前までの平均の価額に〇・九を乗じた六五〇円と比較しても約六〇パーセントにすぎない。 
 本件発行価額は、本件鑑定に基づいて決定されたものであるが、上記のとおり、本件新株発行決議の直前日の株価と著しく乖離しており、本件鑑定を精査しても、こうした乖離が生じた理由が客観的な資料に基づいて前記考慮要因を斟酌した結果であると認めることはできず、その算定方法が前記公正発行価額の趣旨に照らし合理的であるということはできない。 
   (3) これに対し、債務者は、債務者の株価は本年一月以降に急激に上昇しており、平成一六年五月一七日時点における債務者株式の市場価格一株当たり一〇一〇円の数値は、株価の操縦、投機を目的とした債権者らによる違法な買占めを原因とするものであり、債務者の企業価値を正確に反映したものではないので、本年一月以降の市場価格は公正な発行価額算定基礎から排除すべきであると主張する。 
 なるほど、前記第二の三のとおり、債務者の一株当たりの株価は、平成一五年八月ころは概ね二〇〇円台で推移していたところ、同年九月ころから上昇し、平成一六年一月に入り概ね五〇〇円台に上昇し、同年二月には概ね六〇〇円台から七〇〇円台で推移し、同年三月には八〇〇円台を超えて九〇〇円台ないし一〇〇〇円台に上昇し、同年四月には九〇〇円台から一〇〇〇円台で推移し、同年五月には概ね一〇〇〇円台で推移していることが認められ、本件各《証拠省略》によれば、債権者らによる大量の株式取得が、債務者株式の証券市場における株価に影響を与えていることは否定できない。しかし、本件各《証拠省略》によれば、債権者らは債務者への経営参加や技術提携の要望を有しており、債務者に対する企業買収を目的として長期的に保有するために株式を取得したものであることが窺われ、本件全証拠を精査しても、債権者らが不当な肩代わりや投機的な取引を目的として株式を取得したものと認めるに足りる資料はない。また、本件各《証拠省略》によれば、債務者の業績も改善していること、証券業界(会社四季報)における債務者の業績の評価も向上していること、債務者と同様にバルブ事業を営む企業においても、昨年後半から今年にかけて株価が二倍ないし四倍に高騰している事例があることの各事実が認められ、これらの事実に加え、前記のとおり債務者の一株当たりの株価が今年に入って五〇〇円以上で推移している事実に照らせば、債務者株式の株価の上昇が一時的な現象に止まると認めることはできない。 
 そうすると、本件において、公正な発行価額を決定するに当たって、本件新株発行決議の直前日である平成一六年五月一七日の株価、又は本件新株発行決議以前の相当期間内における株価を排除すべき理由は見出しがたい。 
   (4) 以上によれば、本件発行価額三九三円は、公正な発行価額より特に低い価額すなわち「特ニ有利ナル発行価額」といわざるを得ず、商法三四三条の特別決議を経ないで行われた本件新株発行は、商法二八〇条ノ二第二項に違反するというべきである。 
 そして、本件新株発行が行われた場合、既存株主が株価下落による不利益を被ることは明らかであり、債権者らは、債務者に対して商法二八〇条ノ一〇に基づく本件新株発行の差止請求権を有する。 
  二 保全の必要性 
 本件新株発行決定時の株価と本件発行価額との差額の程度及び従前の発行済株式総数一六三〇万株に対し本件新株発行に係る発行予定総数が七七〇万株であるというその数量にかんがみると、既存株主の被る不利益は極めて重大なものであるから、著しい損害を被るおそれを認めることができる。 
 そして、本件新株発行の払込期日は、平成一六年六月三日と定められていて間近に迫っているところ、その期日が到来し、引受人が払込みをして本件新株発行の効力が生じた場合、その後は商法二八〇条ノ一〇に基づく差止請求権それ自体が無意味なものとなるだけでなく、商法三四三条所定の特別決議を経ないで株主以外の者に特に有利なる発行価額をもって新株を発行したことは、新株発行無効の訴え(商法二八〇条ノ一五)における無効原因とならないと解されるから、本件新株発行の手続を差し止めるについての保全の必要性も認めることができる。 
  三 結論 
 以上によれば、債権者の申立ては、その余の点を判断するまでもなく理由があると認められるから、債権者らに代わり債権者代理人弁護士新保克芳に、債権者らの共同の担保として金一〇〇〇万円の担保を立てさせたうえでこれを認容することとし、申立費用につき民事保全法七条、民事訴訟法六一条を適用して主文のとおり決定する。 
 (裁判長裁判官 鹿子木康 裁判官 佐々木宗啓 名島亨卓) 
・非上場会社について
+判例(H27.2.19)
理 由
上告代理人加々美博久ほかの上告受理申立て理由(ただし,排除されたものを除く。)について
1 本件は,上告補助参加人(以下「参加人」という。)の株主である被上告人が,参加人の取締役であった上告人らに対し,平成16年3月の新株発行(以下「本件新株発行」という。)における発行価額は商法(平成17年法律第87号による改正前のもの。以下同じ。)280条ノ2第2項の「特ニ有利ナル発行価額」に当たるのに,上告人らは同項後段の理由の開示を怠ったから,同法266条1項5号の責任を負うなどと主張して,同法267条に基づき,連帯して22億5171万5618円及びこれに対する遅延損害金を参加人に支払うことを求める株主代表訴訟である。
上告人らは,本件新株発行における発行価額は「特ニ有利ナル発行価額」に当たらないなどと主張して,これを争っている。
2 原審の適法に確定した事実関係の概要等は,次のとおりである。
(1) 参加人は,平成16年3月当時,非上場会社であり,株式の譲渡につき取締役会の承認を要する旨の定款の定めがあった。
本件新株発行前における参加人の発行済株式の総数は40万株であり,これらは役員,幹部従業員等によって保有されていた。
(2) 参加人は,株式の上場を計画し,平成12年5月,新株引受権の権利行使価額を1株1万円とする新株引受権付社債を発行した。しかしながら,その後,参加人では,主力商品の展開に失敗して売上げの減少が続いた上,不動産について巨額の含み損を抱えるに至り,有利子負債の額も増大した。参加人は,取引銀行に対して返済停止や追加融資を要請したが,いずれも断られたり,難色を示されたりした。そこで,参加人は,役員報酬及び従業員給与の削減,定期昇給の凍結,広告費の削減等を断行したほか,不動産を順次売却した。参加人では,平成10年度から平成12年度までの3事業年度(4月1日から翌年の3月31日までをいう。以下同じ。)には1株当たり150円の配当がされていたが,平成13年度及び平成14年度には配当がされなかった。
(3) 参加人では,平成13年頃から,参加人の株式を保有する役員,幹部従業員等の退職が相次いだ。代表取締役の上告人Y1その他の役員等は,退職者からその保有する株式の買取りを求められ,その都度,1株1500円でこれらを買い取った。
参加人は,平成14年7月から同年10月までの間,上告人Y1から上記株式の一部を1株1500円で購入し,自己株式とした。もっとも,参加人は,取引銀行からの要請等を踏まえ,平成15年11月,上告人Y1に対してこれらの自己株式を1株1500円で売却した。
なお,上告人Y1は,平成14年12月,幹部従業員約40名に対し,上告人Y1の引き続き保有する株式を1株1500円で購入するよう希望者を募ったが,希望者はほとんど現れなかった。また,上記(2)の新株引受権付社債については,平成15年6月,参加人の株主総会において,新株引受権の権利行使価額を1株1500円に変更する旨の特別決議がされた。
(4) 参加人は,平成15年11月に行われた自己株式の処分に先立ち,B公認会計士(以下「B会計士」という。)に参加人の株価の算定を依頼した。B会計士は,平成15年10月頃,参加人から,①平成12年度から平成14年度までの決算書(貸借対照表,損益計算書及び利益処分計算書),営業報告書及び附属明細書,②平成14年度の法人税確定申告書及び勘定科目内訳書,③参加人の過去の株式売買実績例及び株式移動表並びに株主名簿,④相続税路線価による参加人保有土地の評価資料,ゴルフ場等の含み損益に関する資料及び債権の貸倒引当金の明細等の提出を受けた。また,B会計士は,参加人の担当部長と面談し,建物及び子会社株式にも含み損があることや,株価算定の基礎資料となる事業計画は存在しないことなどを確認した。その上で,B会計士は,平成15年10月31日,次のアからウまでの理由により,参加人の同年6月26日以降の株価を1株1500円と算定し,その旨参加人に報告した。
ア 参加人の株式は,一時的に無配であるものの,それ以前は継続して配当が行われてきたことや,一定期間,利益配当に係る期待値によって評価された価格により株式売買が行われてきたことを考慮すると,配当還元法により算定するのが適切と考えられる。
イ 参加人では,従前は1株当たり150円の配当がされており,直近の過去2事業年度は経営体質の強化を目的として一時的に無配としたものにすぎず,今後,利益配当を復活させることを予定しているのであって,直近の取引事例にも照らすと,株価の算定に当たっては,1株当たりの配当金額を150円とするのが相当である。そして,これを財産評価基本通達の配当還元法の算式で用いられている資本還元率で還元すると,1株当たりの評価額は1500円と算定される。
ウ 参加人の時価純資産に巨額のマイナスが生じていることや,株価算定の基礎資料となる事業計画はないこと,売上げも減少傾向にあることなどからすれば,簿価純資産法,時価純資産法,収益還元法,DCF法及び類似会社比準法は採用しない。
(5)ア 参加人は,店舗改修等の設備投資資金及び運転資金を調達するとともに,役員や幹部従業員に株式を保有させて経営への参画意識を高めることを目的として,本件新株発行を行うことにした。もっとも,これは上記(3)の自己株式の処分と同一事業年度内での新株発行であり,B会計士の算定結果の報告から4箇月程度しか経過していなかったため,改めて専門家の意見を聴取することはなかった。
イ まず,平成16年2月19日,参加人の取締役会において,次のとおり本件新株発行を行う旨の決議がされた。
新株の種類及び数 普通株式4万株
発行価額 1株1500円
払込期日 同年3月24日
割当先 上告人Y12万3000株,上告人Y25000株,上告人Y31000株,C6000株,D2000株,E2000株,F1000株
ウ これを踏まえ,上告人Y1は,株主らに対し,本件新株発行における新株の種類及び数,発行価額,払込期日,割当先等を記載した株主総会招集通知を送付した。
そして,平成16年3月8日,参加人の株主総会において,本件新株発行を行う旨の特別決議がされた。その際,上告人らは,「特ニ有利ナル発行価額」をもって株主以外の者に対し新株を発行することを必要とする理由の説明はしなかった。
(6) 参加人の平成15年度の決算は増収増益となり,有利子負債の額も減少に転じ,1株100円の配当が行われた。また,平成16年度には広告宣伝の効果もあって新商品の売上げが伸び,増収増益となり,有利子負債の額も大きく減少し,1株150円の配当がされた。平成17年度には,新商品の相次ぐ投入や,店舗の刷新等の設備投資の結果,商品の売行きは好調となった。参加人は,株式の上場を再び視野に入れるようになり,平成18年2月には1株を10株にする株式分割を行い,同年3月には新株22万株を1株900円で発行した。
3 原審は,次のとおり判断して,被上告人の請求を一部認容すべきものとした。
参加人の株式は,平成12年5月時点で1株1万円程度,平成18年3月時点で1株(株式分割前)9000円程度の価値を有していたというべきところ,DCF法によれば平成16年3月時点の価値は1株7897円と算定されるのであって,これに諸般の事情も併せ考慮すると,本件新株発行における公正な価額は少なくとも1株7000円を下らないというべきであるから,本件新株発行の発行価額(1株1500円)は「特ニ有利ナル発行価額」に当たる。なお,B会計士の採用した配当還元法は,主として少数株主の株式評価において,安定した配当が継続的に行われている場合に用いられる評価手法であって,本件においては相当性を欠く。
しかしながら,原審の上記判断は是認することができない。その理由は,次のとおりである。
(1) 非上場会社の株価の算定については,簿価純資産法,時価純資産法,配当還元法,収益還元法,DCF法,類似会社比準法など様々な評価手法が存在しているのであって,どのような場合にどの評価手法を用いるべきかについて明確な判断基準が確立されているというわけではない。また,個々の評価手法においても,将来の収益,フリーキャッシュフロー等の予測値や,還元率,割引率等の数値,類似会社の範囲など,ある程度の幅のある判断要素が含まれていることが少なくない。
株価の算定に関する上記のような状況に鑑みると,取締役会が,新株発行当時,客観的資料に基づく一応合理的な算定方法によって発行価額を決定していたにもかかわらず,裁判所が,事後的に,他の評価手法を用いたり,異なる予測値等を採用したりするなどして,改めて株価の算定を行った上,その算定結果と現実の発行価額とを比較して「特ニ有利ナル発行価額」に当たるか否かを判断するのは,取締役らの予測可能性を害することともなり,相当ではないというべきである。
したがって,非上場会社が株主以外の者に新株を発行するに際し,客観的資料に基づく一応合理的な算定方法によって発行価額が決定されていたといえる場合には,その発行価額は,特別の事情のない限り,「特ニ有利ナル発行価額」には当たらないと解するのが相当である。
(2) これを本件についてみると,B会計士は決算書を初めとする各種の資料等を踏まえて株価を算定したものであって,B会計士の算定は客観的資料に基づいていたということができる。
B会計士は,参加人の財務状況等から配当還元法を採用し,従前の配当例や直近の取引事例などから1株当たりの配当金額を150円とするなどして株価を算定したものであって,本件のような場合に配当還元法が適さないとは一概にはいい難く,また,B会計士の算定結果の報告から本件新株発行に係る取締役会決議までに4箇月程度が経過しているが,その間,参加人の株価を著しく変動させるような事情が生じていたことはうかがわれないから,同算定結果を用いたことが不合理であるとはいえない。これに加え,本件新株発行の当時,上告人Y1その他の役員等による買取価格,参加人による買取価格,上告人Y1が提案した購入価格,株主総会決議で変更された新株引受権の権利行使価額及び自己株式の処分価格がいずれも1株1500円であったことを併せ考慮すると,本件においては一応合理的な算定方法によって発行価額が決定されていたということができる。
そして,参加人の業績は,平成12年5月以降は下向きとなり,しばらく低迷した後に上向きに転じ,平成18年3月には再度良好となっていたものであって,平成16年3月の本件新株発行における発行価額と,平成12年5月及び平成18年3月当時の株式の価値とを単純に比較することは相当でなく,他に上記特別の事情に当たるような事実もうかがわれない。
したがって,本件新株発行における発行価額は「特ニ有利ナル発行価額」には当たらないというべきである。
5 以上と異なる原審の判断には,判決に影響を及ぼすことが明らかな法令の違反がある。論旨は理由があり,原判決中上告人ら敗訴部分は破棄を免れない。そして,以上説示したところによれば,上記部分に関する被上告人の請求はいずれも理由がないから,同部分につき第1審判決を取り消し,同部分に関する請求をいずれも棄却すべきである。
よって,裁判官全員一致の意見で,主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 山浦善樹 裁判官 櫻井龍子 裁判官 金築誠志 裁判官白木 勇)
+判例(H27.2.19)同日だったけど違ったか・・・。一応。
理 由
上告代理人清永敬文,上告復代理人小林敬正の上告受理申立て理由第3の1及び第4について
1 原審の適法に確定した事実関係の概要等は,次のとおりである。
(1) 上告人は,特例有限会社であり,その発行済株式の総数は3000株である。
上記3000株のうち2000株は,Aが保有していたが,Aが平成19年に死亡したため,いずれもAの妹である被上告人及びBが法定相続分である各2分の1の割合で共同相続した。Aの遺産の分割は未了であり,上記2000株は,被上告人とBとの共有に属する(以下,上記2000株を「本件準共有株式」という。)。
(2) Bは,平成22年11月11日に開催された上告人の臨時株主総会(以下「本件総会」という。)において,本件準共有株式の全部について議決権の行使(以下「本件議決権行使」という。)をした。上告人の発行済株式のうちその余の1000株を有するCも,本件総会において,議決権の行使をした。他方,被上告人は,本件総会に先立ち,その招集通知を受けたが,上告人に対し,本件総会には都合により出席できない旨及び本件総会を開催しても無効である旨を通知し,本件総会には出席しなかった。
(3) 本件総会において,上記(2)の各議決権の行使により,①Dを取締役に選任する旨の決議,②Dを代表取締役に選任する旨の決議並びに③本店の所在地を変更する旨の定款変更の決議及び本店を移転する旨の決議がされた(以下,上記各決議を「本件各決議」という。)。
(4) 本件準共有株式について,会社法106条本文の規定に基づく権利を行使する者の指定及び上告人に対するその者の氏名又は名称の通知はされていなかったが,上告人は,本件総会において,本件議決権行使に同意した。
2 本件は,被上告人が,本件各決議には決議の方法等につき法令違反があると主張して,上告人に対し,会社法831条1項1号に基づき,本件各決議の取消しを請求する訴えである。会社法106条本文の規定に基づく指定及び通知を欠いたままされた本件議決権行使が,同条ただし書の上告人の同意により適法なものとなるか否かが争われている。
3 原審は,会社法106条ただし書について,同条本文の規定に基づく権利を行使する者の指定及び通知の手続を欠いていても,株式の共有者間において当該株式についての権利の行使に関する協議が行われ,意思統一が図られている場合に限って,株式会社の同意を要件に当該権利の行使を認めたものであるとした。その上で,原審は,本件は上記の場合には当たらないから,上告人が本件議決権行使に同意していても,本件議決権行使は不適法であり,決議の方法に法令違反があることになるとして,本件各決議を取り消した。
4 所論は,会社法106条ただし書は株式会社の同意さえあれば特定の共有者が共有に属する株式について適法に権利を行使することができる旨を定めた規定であるというものである。
5 会社法106条本文は,「株式が二以上の者の共有に属するときは,共有者は,当該株式についての権利を行使する者一人を定め,株式会社に対し,その者の氏名又は名称を通知しなければ,当該株式についての権利を行使することができない。」と規定しているところ,これは,共有に属する株式の権利の行使の方法について,民法の共有に関する規定に対する「特別の定め」(同法264条ただし書)を設けたものと解される。その上で,会社法106条ただし書は,「ただし,株式会社が当該権利を行使することに同意した場合は,この限りでない。」と規定しているのであって,これは,その文言に照らすと,株式会社が当該同意をした場合には,共有に属する株式についての権利の行使の方法に関する特別の定めである同条本文の規定の適用が排除されることを定めたものと解される。そうすると,共有に属する株式について会社法106条本文の規定に基づく指定及び通知を欠いたまま当該株式についての権利が行使された場合において,当該権利の行使が民法の共有に関する規定に従ったものでないときは,株式会社が同条ただし書の同意をしても,当該権利の行使は,適法となるものではないと解するのが相当である。
そして,共有に属する株式についての議決権の行使は,当該議決権の行使をもって直ちに株式を処分し,又は株式の内容を変更することになるなど特段の事情のない限り,株式の管理に関する行為として,民法252条本文により,各共有者の持分の価格に従い,その過半数で決せられるものと解するのが相当である。
6 これを本件についてみると,本件議決権行使は会社法106条本文の規定に基づく指定及び通知を欠いたままされたものであるところ,本件議決権行使の対象となった議案は,①取締役の選任,②代表取締役の選任並びに③本店の所在地を変更する旨の定款の変更及び本店の移転であり,これらが可決されることにより直ちに本件準共有株式が処分され,又はその内容が変更されるなどの特段の事情は認められないから,本件議決権行使は,本件準共有株式の管理に関する行為として,各共有者の持分の価格に従い,その過半数で決せられるものというべきである。そして,前記事実関係によれば,本件議決権行使をしたBは本件準共有株式について2分の1の持分を有するにすぎず,また,残余の2分の1の持分を有する被上告人が本件議決権行使に同意していないことは明らかである。そうすると,本件議決権行使は,各共有者の持分の価格に従いその過半数で決せられているものとはいえず,民法の共有に関する規定に従ったものではないから,上告人がこれに同意しても,適法となるものではない。
7 以上によれば,本件議決権行使が不適法なものとなる結果,本件各決議は,決議の方法が法令に違反するものとして,取り消されるべきものである。これと結論を同じくする原審の判断は,是認することができる。論旨は採用することができない。よって,裁判官全員一致の意見で,主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 櫻井龍子 裁判官 金築誠志 裁判官 白木 勇 裁判官山浦善樹 裁判官 池上政幸)
3.瑕疵ある取締役会決議に基づく新株発行
+判例(S44.12.2)
理由 
 上告代理人梅澤秀次の上告理由第一点について。 
 取締役会を招集するにあたり、取締役全員に対してその通知を発しなければならないことは、商法二五九条ノ二の規定に徴して明らかであり、所論のように、たんに名目的に取締役の地位にあるにすぎない者に対しては右通知を発することを要しないと解すべき合理的根拠はないから、原判決に所論の違法はない。論旨は、独自の見解に立つものにすぎず、採用するに足りない。 
 同第三点について。 
 取締役会の開催にあたり、取締役の一部の者に対する招集通知を欠くことにより、その招集手続に瑕疵があるときは、特段の事情のないかぎり、右瑕疵のある招集手続に基づいて開かれた取締役会の決議は無効になると解すべきであるが、この場合においても、その取締役が出席してもなお決議の結果に影響がないと認めるべき特段の事情があるときは、右の瑕疵は決議の効力に影響がないものとして、決議は有効になると解するのが相当である(最高裁判所昭和三六年(オ)第一一四七号同三九年八月二八日第二小法廷判決、民集一八巻七号一三六六頁参照)。 
 しかるところ、記録に徴すれば、第一審判決は、右の法理に基づき、被上告会社取締役会において本件取引に対する承認決議がなされた際の事情を認定したうえ、右取締役会に出席しなかつた訴外Aおよび同Bに対しては取締役会の招集通知がなされなかつたが、右Aはいわば名目的に取締役に名を連ねているにすぎず、したがつて、同人らに対して適法を招集通知がなされ、同人らが取締役会に出席しても、前記承認の意思決定に影響がなかつたものと認められるとし、本件承認決議が有効になされたものとの判断を示したところ、上告人は、原審において右判断を援用し、本件決議の有効性を主張していることが認められるから、上告人は、原審において前記特段の事情を主張していたものと解すべきである。しかるに、原判決は、本件取締役会の開催については、取締役の一人であるAに対し招集通知がなされなかつたこと(Bに対する招集手続の有無については確定するところがない。)、AおよびBが前記取締役会に出席しないまま前記承認決議がなされたこと、右両名がのちに右決議内容を承認した事実は認められないことを確定しただけで、上告人の前記主張については格別の判断を示さないまま本件承認決議は無効であると断定し、これが有効であることを前提とする上告人の請求を排斥しているのである。 
 してみれば、原判決には当事者の主張に対する判断を遺脱した違法があるが、右主張の成否は原判決の結論に影響を及ぼすものであるから、同旨をいう論旨は理由があり、その余の論旨について判断するまでもなく、原判決は破棄を免れない。 
 よつて、右主張の成否についてさらに審理を尽くさせるため、民訴法四〇七条に従い本件を原審に差し戻すべきものとし、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。 
 (裁判長裁判官 松本正雄 裁判官 田中二郎 裁判官 下村三郎 裁判官 飯村義美 裁判官 関根小郷) 
4.選定決議に瑕疵がある代表取締役による新株発行
+判例(S44.11.27)
理由 
 上告代理人黒須弥三郎、同五十嵐芳男の上告理由第一点一について。 
 朝日商工株式会社取締役Aが使用した朝日商工株式会社代表取締役代行者なる名称は、外観上第三者をして代表権の存在を窺わしめるに十分であり、商法二六二条にいう会社を代表する権限を有するものと認むべき名称に該当する旨の原審の判断は是認できる。原判決(その引用する第一審判決を含む。以下同じ。)に所論の違法はなく、論旨は、採用することができない。 
 同第一点二について。 
 朝日商工株式会社の取締役は、当時、代表取締役B、取締役A、同C、同Dの四名であつたが、代表取締役Bが昭和三四年九月中旬頃から、金策に行くと称して出掛けたまま所在不明となる緊急状態が生じたので、右代表取締役を除く取締役三名は、取締役Aをして会社を代表する権限を行使せしめるため、昭和三四年九月三〇日、「朝日商工株式会社代表取締役Bが昭和三四年九月一六日以降所在不明につき朝日商工株式会社の代表取締役の権限は取締役Aが代行することを承認する」旨の承認書に、いわゆる持ち廻りの方式により、各自の自宅等において署名押印して、取締役Aが朝日商工株式会社の代表取締役の権限を代行することを明示的に表明し、これに基づき、取締役Aは朝日商工株式会社代表取締役代行者名義の被上告人宛通告書を以て、被上告人に対し、本件ブルドーザー売買契約の合意解除を申込み、被上告人は右承諾書及び通告書の交付をうけて、取締役Aに右会社を代表する権限があると信じ右申込を承諾したものであること、以上の事実は、原審の適法に確定するところである。 
 右の事実によれば、行方不明の代表取締役を除く、朝日商工株式会社の取締役全員は、代表取締役B行方不明の間、取締役Aをして会社を代表させるため、同取締役に代表権を付与することとし、同取締役が朝日商工株式会社代表取締役代行者なる名称を以て代表権を行使することを承認したものと認められる。しかし、取締役らの右承認は、いわゆる持ち廻りの方式でなされたものにすぎないから、有効な取締役会の選任ということはできず、取締役Aは、これによつて、会社の代表権を取得することはできない。 
 しかし、株式会社の代表取締役が行方不明のため、他の取締役全員により、正式に代表取締役が選任せられるまでの間一時的に、会社の代表権を行使することを承認された取締役が、右承認にもとづき、代表権を有するものと認むべき名称を使用してその職務を行つたようなときは、右承認が有効な取締役会の代表者選任決議と認められず、無効である場合においても、会社は商法二六二条の法意に鑑み、同条の類推適用により、右名称を附した取締役の行為につき、善意の第三者に対してその責に任ずべきものと解するのが相当である。 
 そして、前記説示の本件事実関係は、右の場合にあたるものというべきであるから、朝日商工株式会社は、代表取締役代行者取締役Aのなした本件所為につき、商法二六二条に則り、被上告人に対しその責に任ずべきものである。結論において右と同旨の原審の判断は結局正当であり、論旨は採用することができない。 
 同第二点、第三について。 
 所論摘示の原審の事実認定は、原判決の挙示する証拠に照らして首肯するに足り、原判決に所論の違法はなく、論旨は採用することができない。 
 よつて、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員の一致で、主文のとおり判決する。 
 (裁判長裁判官 長部謹吾 裁判官 入江俊郎 裁判官 松田二郎 裁判官 岩田誠 裁判官 大隅健一郎) 
+判例(S56.4.24)
理由 
 上告代理人小林昭の上告理由第一点について 
 原審の確定したところによれば、昭和四七年四月当時、上告会社の取締役は、代表取締役木山元度、取締役木山錦也、同高山太幹、同太田義夫、同高山祐吉の五名であつたが、取締役高山太幹は、同月一三日、代表取締役木山元度に通知しないで上告会社の取締役会を招集し、取締役高山太幹、同太田義夫、同高山祐吉の三名が出席した取締役会において、木山元度を代表取締役から解任したうえ高山太幹を上告会社の代表取締役に選任してその旨の登記を了し、次いで、高山太幹は、同月二〇日、上告会社の代表取締役として同会社所有の本件採掘権を被上告会社に譲渡し、同月二六日、その旨の移転登録を経由した、というのである。 
 右の事実によれば、上告会社の右取締役会の開催にあたり代表取締役木山元度に対する招集通知を欠いていたのであるから、高山太幹を上告会社の代表取締役に選任する右決議は商法二五九条ノ二に違反して無効であり(最高裁昭和四三年(オ)第一一四四号同四四年一二月二日第三小法廷判決・民集二三巻一二号二三九六頁参照)、高山太幹は、これによつて、上告会社の代表権を取得したということはできないが、上告会社の代表取締役木山元度、取締役木山錦也を除いた取締役高山太幹、同太田義夫、同高山祐吉の三名は、取締役会を開催して高山太幹を代表取締役に選任し、同人が上告会社の代表権を行使することを承認したものと認められる。 
判旨 ところで、代表取締役に通知しないで招集された取締役会において代表取締役に選任された取締役が、この選任決議に基づき代表取締役としてその職務を行つたときは、右選任が有効な取締役会の代表取締役選任決議として認められず、無効である場合であつても、会社は、商法二六二条の規定の類推適用により、代表取締役としてした取締役の行為について、善意の第三者に対してその責に任ずべきものと解するのが相当である。したがつて、これと同旨の原審の判断は、正当であり、原判決に所論の違法はない。論旨は、採用することができない。 
 同第二点について 
 本件採掘権の譲渡が商法二四五条一項一号にいう「営業ノ譲渡」にあたらないとした原審の判断は、正当として是認することができ、原判決に所論の違法はない。論旨は、採用することができない。 
 同第三点について 
 原判決は、(一) 被上告会社の代表取締役小林富雄こと具宅書が韓国滞在中同会社の一切の事務を代行処理していた専務取締役の吉川寿一は、本件採掘権の譲渡の交渉当初から、高山太幹が上告会社の代表取締役であると思つていたが、本件譲渡契約が締結された昭和四七年四月二〇日の二、三日前に、法務局で、上告会社の商業登記簿を閲覧して高山太幹が上告会社の代表取締役として登記されていることを確認したこと、(二) 右譲渡契約締結の当日、吉川寿一は、高山太幹から、上告会社は同月一八日同人、太田義夫及び高山祐吉の三名が出席した取締役会で本件採掘権を代金一二〇〇万円で被上告会社に譲渡することにし、その日時、代金授受の方法等は高山太幹に一任することを承認した旨の取締役会議事録とこれに添付された右三名の取締役の印鑑証明書及び上告会社の資格証明書等の交付を受け、真実、高山太幹が上告会社の代表取締役であり、かつ、上告会社では本件採掘権の譲渡が取締役会で承認されているものと信じて、本件譲渡契約を締結し、同月二六日前記のとおりその移転登録を経由したこと、(三) 被上告会社は、鉱業を実施した実績がなかつたのに、あらかじめ本件採掘権の価値について客観的な資料による調査、検討を加えることなく本件譲渡契約を締結したこと、(四) 本件譲渡契約においては、上告会社の被上告会社に対する本件採掘権の移転登録手続は直ちにすべきものとされているのに、被上告会社の上告会社に対する譲渡代金の支払は、分割払で、しかもその期限は採掘事業開始後七か月目の末日から起算するという不確定なものであること、(五) 本件譲渡契約締結後、まもなく上告会社の代表取締役として契約締結にあたつた高山太幹や上告会社の取締役太田義夫、同高山祐吉は、被上告会社の取締役に就任し、そのうち太田義夫は、吉川寿一とともに被上告会社の代表取締役に就任し、本件採掘権の移転登録を経由した日と同日の同月二六日いずれもその旨の商業登記を経由するとともに具宅書の取締役及び代表取締役の退任登記をしていること、以上の事実を認定したうえ、右(三)ないし(五)の事実関係からすると、本件譲渡契約は、その目的物が採掘権であることを考慮に入れてもなお不自然の感を抱かせるものがあるとしながらも、本件譲渡代金の支払方法が前記のごとく約定されたのは、高山太幹が上告会社の代表取締役木山元度に気付かれないうちに、同人を出し抜いて何とか当時手持資金のない被上告会社に本件採掘権を譲り受けてもらうために譲歩したことによるものであり、また、高山太幹、太田義夫、高山祐吉が被上告会社の取締役や代表取締役に就任したのも、上告会社の譲渡代金の支払確保のためであるということも十分考えられるので、右(三)ないし(五)の諸事情があるからといつて、右吉川寿一が当時高山太幹が上告会社の正規の代表取締役でないことにつき悪意であつたとは断定し難い、と判示している。 
 しかしながら、(一) 上告会社が重要な会社財産である本件採掘権を譲渡するのに取締役五名のうち三名のみが出席した取締役会でこれを承認するというのは、上告会社のような規模の会社の運営としては異例のことのように考えられるし、また、本件採掘権のような会社の重要な財産を譲渡するにあたつては、譲渡人側に緊急に資金を獲得する必要があるのを普通とし、その移転登録手続のごときも代金と引換えに行うのが経験則上通例であるのにかかわらず、本件では、その登録手続は直ちに行うが、代金は採掘事業開始後に分割して支払うというのであつて、取引としては極めて異常であるといわざるをえない。(二) 他方、被上告会社としても、真実鉱業を実施しようとする意図があつたとすれば、本件採掘権の譲渡を受けるにあたつてあらかじめ本件採掘権の価値について十分調査し、また将来の採掘の可能性、操業計画、採算等についても深く検討してしかるべきものであると考えられるのに、このような点について調査、検討をしなかつたというのは、会社経営の衝にあたる者のとる措置、態度としては極めて不自然であるとみられる。(三) のみならず、さらに重要な点は、上告会社の代表取締役として契約の締結にあたつた高山太幹が同会社の取締役太田義夫、同高山祐吉とともに本件譲渡契約締結直後に被上告会社の代表取締役や取締役に就任し、しかも本件採掘権の移転登録のされた日と同日に右各就任の商業登記を経由していることであつて、原審は、この点について、その目的は上告会社の譲渡代金支払確保のためである旨判示するが、さらに特段の説明がないかぎり、右三名の被上告会社の役員就任が何故に上告会社の代金支払確保のためになるのかは容易に首肯し難いところである。 
 以上のような諸点に照らして考えると、上告会社の取締役高山太幹、同太田義夫、同高山祐吉の三名は、被上告会社の吉川寿一と意を通じ、上告会社の正規の代表取締役木山元度の承認を得ないで本件採掘権を被上告会社名義に移転したものであると疑われてもやむをえない状況にあつたと窺われないではないから、原判決のような説示だけから、直ちに被上告会社において高山太幹が上告会社の正規の代表取締役でないことにつき悪意であつたとは断定し難いとした原判決には、経験則の適用を誤つたか又は審理不尽の違法があるものといわざるをえず、その違法が原判決の結論に影響を及ぼすことが明らかであるから、論旨は理由があり、原判決はこの点において破棄を免れない。そして、本件については、なお審理を尽くさせるため、これを原審に差し戻す必要がある。 
 よつて、民訴法四〇七条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。 
   (宮﨑梧一 栗本一夫 木下忠良 塚本重頼 鹽野宜慶) 
5.著しく不公正な方法による新株発行と無効事由
+第二百十条  次に掲げる場合において、株主が不利益を受けるおそれがあるときは、株主は、株式会社に対し、第百九十九条第一項の募集に係る株式の発行又は自己株式の処分をやめることを請求することができる。
一  当該株式の発行又は自己株式の処分が法令又は定款に違反する場合
二  当該株式の発行又は自己株式の処分が著しく不公正な方法により行われる場合
主要目的ルール
支配維持目的と資金調達目的のいずれが上回るか。
+判例(東京地決H1.7.25)
第二、当裁判所の判断 
一、当事者間に争いのない事実並びに一件記録及び当事者各審尋の結果によって認められる事実は次のとおりである。 
 1. 被申請人は、資本の額が一二五億五九八二万四六九四円、発行済株式総数が九〇二九万二四七六株(額面金五〇円)で、東京証券取引所一部上場の株式会社であり、申請人は、被申請人の株式三〇一一万一〇〇〇株を有する株主である。 
 2. 被申請人の東京証券取引所における株価は、昭和六二年一二月ころまでは九〇〇円ないし一二〇〇円前後で推移していたが、昭和六三年一月以降急騰し、同年二月から同年五月ころまでには四〇〇〇円前後となり、その後さらに上昇して、同年八月にはいったん八〇〇〇円をつけたものの、その後は概ね四八〇〇円ないし六〇〇〇円程度の価格で推移し、本件仮処分申請時まで、被申請人の株価が、昭和六三年二月以降は三〇〇〇円を、同年七月以降は四〇〇〇円を、同年一〇月以降は四六〇〇円をそれぞれ下まわったことはない。 
 3. 申請人は、昭和六二年一〇月ころから、被申請人の株式を大量に取得し始めたが、その後現在までの東京証券取引所における被申請人の株式の取引高総数に占める申請人の取得株式数の割合は約四分の一に過ぎない。 
 4. 申請人は、昭和六三年六月から一〇月にかけて、被申請人と会談し、被申請人の株式を二七〇〇万株ないし二八〇〇万株取得したことを明らかにしたうえで、被申請人、いなげやと株式会社ライフストア(以下「ライフストア」という。)の三社合併を提案し、それにともなう人事についても申請人の構想を述べたが、被申請人及びいなげやは右の提案を拒否した。 
 5. 被申請人といなげやは、昭和六三年一二月に本件業務提携の交渉を開始し、業務提携をすることについては直ちに合意した後、その具体的方法について交渉を継続し、平成元年二月以降、野村企業情報株式会社にその方法についての情報の提供を依頼した。両社間の業務提携の機運は従来からあったが、右両社間でそれを真剣に話し合ったことは昭和六三年一二月まではなく、本件業務提携は、被申請人、いなげやとライフストアの合併を申請人から提案されたことに誘発され、申請人の要求に対抗し、これを拒否するため、一気に具体化したものである。 
 6. 申請人は、平成元年七月七日に三〇〇九万株の、同月一〇日に二万一〇〇〇株の、被申請人株式の各名義書換手続をし、その名義人となった。 
 7. 被申請人は、平成元年七月八日、いなげやとの間で、各会社の取締役会の承認決議を停止条件として、本件業務提携及び資本提携をすることを合意し、同月一〇日両社の取締役会において、それぞれの承認決議をするとともに、次のとおり本件新株発行をすることを決議し、その発行価額の決定にあたっては、市場価格が極めて高騰していたことを理由に、これを基礎とすることなく、他の株式価格算定方式を用いて被申請人としてあるべき株式価格を算定し、これを基準にした価格を発行価額とした。 
 (一) 発行新株数 記名式額面普通株式 
   二二〇〇万株 
 (二) 割当方法 発行する株式全部をいなげやに割り当てる。 
 (三) 発行価額 一株につき 
   金一一二〇円 
 (四) 払込期日 平成元年七月二六日 
 また、申請人といなげやは、同日、業務提携のためのプロジェクト・チームを発足させ、その後、業務提携のための具体的作業を進行中である。 
 8. 本件新株発行は、被申請人といなげやとの本件業務提携にともない、同時期に相互に新株を発行して資本提携をする目的でされるものであり、相互に相手方会社の発行済株式総数の一九・五パーセントの株式を保有することとしている。そして、被申請人のいなげやに対して発行する新株二二〇〇万株の発行価額総額は二四六億四〇〇〇万円、いなげやの被申請人に対して発行する新株一二四〇万株の発行価額総額は一九五億九二〇〇万円である。両社は、いずれもインパクト・ローンによって右資金を調達し、払込期日の直後に相手会社からの新株払込金をもってその返済にあてるが、右発行価額総額の差額である約五〇億円についても、被申請人においてこれを特定の業務上の資金として使用する具体的な目的のもとに本件新株発行がされたわけではなく、いなげやにおいては金融機関からの長期借入金としてこれを処理することとしている。 
 9. 本件新株発行にあたっては、商法二八〇条の二第二項所定の被申請人の株主総会決議はされていない。 
 10. 本件新株発行が実行されると、被申請人の発行済株式総数に対する申請人の持株比率は、三三・三四パーセントから二六・八一パーセントに低下するうえ、東京証券取引所における被申請人の株価が一挙に低下する蓋燃性が極めて高い。 
二、そこで、まず、本件新株発行の発行価額が商法二八〇条の二第二項所定の「特ニ有利ナル発行価額」に該当するか否かについて判断する。 
 ところで、新株の公正な発行価額とは、取締役会が新株発行を決議した当時において、発行会社の株式を取得させるにはどれだけの金額を払い込ませることが新旧株主の間において公平であるかという観点から算定されるべきものである。本件のように、発行会社が上場会社の場合には、会社資産の内容、収益力および将来の事業の見通し等を考慮した企業の客観的価値が市場価格に反映されてこれが形成されるものであるから、一般投資家が売買をできる株式市場において形成された株価が新株の公正な発行価額を算定するにあたっての基準になるというべきである。そして、株式が株式市場で投機の対象となり、株価が著しく高騰した場合にも、市場価格を基礎とし、それを修正して公正な発行価額を算定しなければならない。なぜなら、株式市場での株価の形成には、株式を公開市場における取引の対象としている制度からみて、投機的要素を無視することはできないため、株式が投機の対象とされ、それによって株価が形成され高騰したからといって、市場価格を、新株発行における公正な発行価額の算定基礎から排除することはできないからである。もっとも、株式が市場においてきわめて異常な程度にまで投機の対象とされ、その市場価格が企業の客観的価値よりはるかに高騰し、しかも、それが株式市場における一時的現象に止まるような場合に限っては、市場価格を、新株発行における公正な発行価額の算定基礎から排除することができるというべきである。 
 これを本件についてみるに、被申請人の東京証券取引市場における株価の推移は前記一2に認定のとおりであって、三〇〇〇円以上の状態が一年五か月間、四〇〇〇円以上の状態が一年間と相当長期間にわたって続いており、しかもこのような株価の高騰は、申請人が被申請人の株式を大量に取得したことにその原因の一があるとともに、被申請人の株式が投機の対象となっていることは否定できないところであると考えられる。しかし、本件においては、被申請人の株価の推移、特に一定額以上の株価が相当長期間にわたって維持されていることに照らすと、その価格を新株発行にあたっての公正な発行価額の算定基礎から排除することは相当ではない。したがって、本件新株発行において市場価格を無視してこれを基準とすることなく算定され決定された一一二〇円という発行価額は、当時の市場価格からはるかに乖離したものであることからみて、商法二八〇条の二第二項所定の「特ニ有利ナル発行価額」に該当するというべきである。よって、それにもかかわらず同条項所定の株主総会決議を経ていない本件新株発行は、その手続に法令違反があるといわなければならない。 
三、次に、本件新株発行が不公正発行に該当するか否かについて判断する。 
 商法は、株主の新株引受権を排除し、割当自由の原則を認めているから、新株発行の目的に照らし第三者割当を必要とする場合には、授権資本制度のもとで取締役に認められた経営権限の行使として、取締役の判断のもとに第三者割当をすることが許され、その結果、従来の株主の持株比率が低下しても、それをもってただちに不公正発行ということはできないしかし、株式会社においてその支配権につき争いがある場合に、従来の株主の持株比率に重大な影響を及ぼすような数の新株が発行され、それが第三者に割り当てられる場合、その新株発行が特定の株主の持株比率を低下させ現経営者の支配権を維持することを主要な目的としてされたものであるときは、その新株発行は不公正発行にあたるというべきであり、また、新株発行の主要な目的が右のところにあるとはいえない場合であっても、その新株発行により特定の株主の持株比率が著しく低下されることを認識しつつ新株発行がされた場合は、その新株発行を正当化させるだけの合理的な理由がない限り、その新株発行もまた不公正発行にあたるというべきである。 
 これを本件新株発行についてみるに、前記認定事実によると、被申請人といなげやとの業務提携の機運は従来からまったくなかったわけではないものの、右両者間でそれが真剣に話し合われたことはなく、本件業務提携は、被申請人、いなげや、ライフストアの三社合併を申請人から提案されたことにより、被申請人といなげやが、申請人の要求を拒否し、対抗するため具体化したものであるところ、本件業務提携にあたり被申請人がいなげやに対し従来の発行済株式総数の一九・五パーセントもの多量の株式を割り当てることが業務提携上必要不可欠であると認めることのできる十分な疎明はなくしかも、本件新株発行によって調達された資金の大半は、実質的には、いなげやが発行する新株の払込金にあてられるものであって、差額として被申請人のもとに留保される約五〇億円についても、特定の業務上の資金としてこれを使用するために本件新株発行がされたわけではないこと、また、申請人が被申請人の経営に参加することが被申請人の業務にただちに重大な不利益をもたらすことの疎明もないことからみると、被申請人がした本件新株発行は、申請人の持株比率を低下させ現経営者の支配権を維持することを主要な目的とするものであり、又は少なくともこれにより申請人の持株比率が著しく低下されることを認識しつつされたものであるのに、本件のような多量の新株発行を正当化させるだけの合理的な理由があったとは認められないから、本件新株発行は著しく不公正な方法による新株発行にあたるというべきである。 
四、本件新株発行により申請人が損害を被ることは前記認定のとおりであって、それは容易に回復することのできない損害というべきであり、他方、本件新株発行を差し止めることによって被申請人が重大な不利益を被ることの疎明はない。そして、本件新株発行の払込期日が間近に迫っており、その期日が到来して引受人が払込みを済ませ本件新株発行の効力が生じた後は差止請求自体が無意味となることも明らかであるから、本件仮処分申請については保全の必要性もあるというべきである。 
五、よって、本件仮処分申請は理由があるから、申請人に担保を立てさせることなくこれを認容することとし、申請費用の負担につき民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり決定する。 
民事第8部 
 (裁判長裁判官 山口和男 裁判官 佐賀義史 垣内正) 
+判例(東京高決H17.3.23)
第3 当裁判所の判断 
 1 当裁判所は、本件における新株予約権が商法280条ノ39第4項、280条ノ10に規定する「著シク不公正ナル方法」によるものであり、これを事前に差し止める必要があると認めるべきであるから、本件仮処分命令申立てには被保全権利及び保全の必要性が存するとして、これを認容した原審仮処分決定は正当であり、したがってこれに対する異議申立事件において原審仮処分決定を認可した原審異議決定も正当であると判断する。その理由は、以下のとおりである。 
 2 本件新株予約権の発行の適否について 
  (1) 商法は授権資本制度を採用し(166条1項3号)、授権資本枠内の新株等の発行を、原則として取締役会の決議事項としている(280条ノ2第1項、280条ノ20第2項)。そして、公開会社においては、株主に新株等の引受権は保障されていないから(280条ノ5ノ2、280条ノ27参照)、取締役会決議により第三者に対する新株等の発行が行われ、既存株主の持株比率が低下する場合があること自体は、商法も許容しているということができる。 
  しかしながら、一方で、商法280条ノ39第4項、280条ノ10が株主に新株等の発行を差し止める権能を付与しているのは、取締役会が上記権限を濫用するおそれがあることを認め、新株等の発行を株主総会の決議事項としない代わりに、会社の取締役会が株主の利益を毀損しないよう牽制する権能を株主に直接的に与えたものである。 
  取締役会の上記権限は、具体化している事業計画の実施のための資金調達、他企業との業務提携に伴う対価の提供あるいは業務上の信頼関係を維持するための株式の持ち合い、従業員等に対する勤務貢献等に対する報賞の付与(いわゆる職務貢献のインセンティブとしてのストック・オプションの付与)や従業員の職務発明に係る特許権の譲受けの対価を支払う方法としての付与などというような事柄は、本来取締役会の一般的な経営権限にゆだねている。これらの事項について、実際にこれらの事業経営上の必要性と合理性があると判断され、そのような経営判断に基づいて第三者に対する新株等の発行が行われた場合には、結果として既存株主の持株比率が低下することがあっても許容されるが、会社の経営支配権に現に争いが生じている場面において、取締役会が、支配権を争う特定の株主の持株比率を低下させ、現経営者又はこれを支持して事実上の影響力を及ぼしている特定の株主の経営支配権を維持・確保することを主要な目的として新株等を発行することまで、これを取締役会の一般的権限である経営判断事項として無制限に認めているものではないと解すべきである。 
  商法上、取締役の選任・解任は株主総会の専決事項であり(254条1項、257条1項)、取締役は株主の資本多数決によって選任される執行機関といわざるを得ないから、被選任者たる取締役に、選任者たる株主構成の変更を主要な目的とする新株等の発行をすることを一般的に許容することは、商法が機関権限の分配を定めた法意に明らかに反するものである。この理は、現経営者が、自己あるいはこれを支持して事実上の影響力を及ぼしている特定の第三者の経営方針が敵対的買収者の経営方針より合理的であると信じた場合であっても同様に妥当するものであり、誰を経営者としてどのような事業構成の方針で会社を経営させるかは、株主総会における取締役選任を通じて株主が資本多数決によって決すべき問題というべきである。したがって、現経営者が自己の信じる事業構成の方針を維持するために、株主構成を変更すること自体を主要な目的として新株等を発行することは原則として許されないというべきである。
  一般論としても、取締役自身の地位の変動がかかわる支配権争奪の局面において、果たして取締役がどこまで公平な判断をすることができるのか疑問であるし、会社の利益に沿うか否かの判断自体は、短期的判断のみならず、経済、社会、文化、技術の変化や発展を踏まえた中長期的展望の下に判断しなければならない場合も多く、結局、株主や株式市場の事業経営上の判断や評価にゆだねるべき筋合いのものである。 
  そして、仮に好ましくない者が株主となることを阻止する必要があるというのであれば、定款に株式譲渡制限を設けることによってこれを達成することができるのであり、このような制限を設けずに公開会社として株式市場から資本を調達しておきながら、多額の資本を投下して大量の株式を取得した株主が現れるやいなや、取締役会が事後的に、支配権の維持・確保は会社の利益のためであって正当な目的があるなどとして新株予約権を発行し、当該買収者の持株比率を一方的に低下させることは、投資家の予測可能性といった観点からも許されないというべきである。 
  これに対して、債務者は、会社の機関等の権限分配を根拠とするのであれば事前の対抗策も全部否定されることになって明らかに不当であるし、原審異議決定が機関の権限分配を根拠としながら事前の対抗策の余地を残したのは矛盾していると主張する。しかし、上記の機関権限の分配を前提としても、今後の立法によって、事前の対抗策を可能とする規定を設けることまで否定されるわけではない。また、後記のとおり、機関権限の分配も、株主全体の利益保護の観点からの対抗策をすべて否定するものではないから、新たな立法がない場合であっても、事前の対抗策としての新株予約権発行が決定されたときの具体的状況・新株予約権の内容(株主割当か否か、消却条項が付いているか否か)・発行手続(株主総会による承認決議があるか否か)等といった個別事情によって、適法性が肯定される余地もある。このように、機関権限の分配を根拠としたからといって、事前の対抗策が論理必然的に否定されることになるわけではないから、債務者の上記主張は失当である。 
  (2) 以上のとおり、会社の経営支配権に現に争いが生じている場面において、株式の敵対的買収によって経営支配権を争う特定の株主の持株比率を低下させ、現経営者又はこれを支持し事実上の影響力を及ぼしている特定の株主の経営支配権を維持・確保することを主要な目的として新株予約権の発行がされた場合には、原則として、商法280条ノ39第4項が準用する280条ノ10にいう「著シク不公正ナル方法」による新株予約権の発行に該当するものと解するのが相当である。 
  もっとも、経営支配権の維持・確保を主要な目的とする新株予約権発行が許されないのは、取締役は会社の所有者たる株主の信認に基礎を置くものであるから、株主全体の利益の保護という観点から新株予約権の発行を正当化する特段の事情がある場合には、例外的に、経営支配権の維持・確保を主要な目的とする発行も不公正発行に該当しないと解すべきである。 
  例えば、株式の敵対的買収者が、〈1〉真に会社経営に参加する意思がないにもかかわらず、ただ株価をつり上げて高値で株式を会社関係者に引き取らせる目的で株式の買収を行っている場合(いわゆるグリーンメイラーである場合)〈2〉会社経営を一時的に支配して当該会社の事業経営上必要な知的財産権、ノウハウ、企業秘密情報、主要取引先や顧客等を当該買収者やそのグループ会社等に移譲させるなど、いわゆる焦土化経営を行う目的で株式の買収を行っている場合〈3〉会社経営を支配した後に、当該会社の資産を当該買収者やそのグループ会社等の債務の担保や弁済原資として流用する予定で株式の買収を行っている場合〈4〉会社経営を一時的に支配して当該会社の事業に当面関係していない不動産、有価証券など高額資産等を売却等処分させ、その処分利益をもって一時的な高配当をさせるかあるいは一時的高配当による株価の急上昇の機会を狙って株式の高価売り抜けをする目的で株式買収を行っている場合など、当該会社を食い物にしようとしている場合には、濫用目的をもって株式を取得した当該敵対的買収者は株主として保護するに値しないし、当該敵対的買収者を放置すれば他の株主の利益が損なわれることが明らかであるから、取締役会は、対抗手段として必要性や相当性が認められる限り、経営支配権の維持・確保を主要な目的とする新株予約権の発行を行うことが正当なものとして許されると解すべきである。そして、株式の買収者が敵対的存在であるという一事のみをもって、これに対抗する手段として新株予約権を発行することは、上記の必要性や相当性を充足するものと認められない。 
  したがって、現に経営支配権争いが生じている場面において、経営支配権の維持・確保を目的とした新株予約権の発行がされた場合には、原則として、不公正な発行として差止請求が認められるべきであるが、株主全体の利益保護の観点から当該新株予約権発行を正当化する特段の事情があること、具体的には、敵対的買収者が真摯に合理的な経営を目指すものではなく、敵対的買収者による支配権取得が会社に回復し難い損害をもたらす事情があることを会社が疎明、立証した場合には、会社の経営支配権の帰属に影響を及ぼすような新株予約権の発行を差し止めることはできない。 
 3 本件新株発行予約権の発行の目的について 
  (1) 債務者は、本件新株予約権の発行の目的は、Aの子会社となり債務者の企業価値を維持・向上させる点にあり、現経営陣の経営支配権の維持が主な目的であるとはいえないと主張する。 
  そこで検討すると、甲14、15、37の1及び2、乙62、93、121、122によれば、債務者取締役会は、債権者等が債務者の株式を大量に取得する以前から、債務者をAの完全子会社化して株式の上場廃止も意図し、Aによる公開買付けに賛同することを決議していたものであり、社外取締役4名が本件新株予約権の発行に賛成していることが認められ、これらの事実からみて、本件新株予約権の発行が債務者の現取締役個人の保身を目的として決定されたとは認められない。また、Bに属する経営陣の個人的利益を図る目的で本件新株予約権の発行が決定されたことをうかがわせる資料もない。 
  しかしながら、甲4、23及び審尋の全趣旨によれば、本件新株予約権の発行は、債権者等が債務者の発行済株式総数の約29.6%に相当する株式を買い付けた後にこれに対する対抗措置として決定されたものであり、かつ、その予約権すべてが行使された場合には、現在の発行済株式総数の約1.44倍にも当たる膨大な株式が発行され、債権者等による持株比率は約42%から約17%となり、Aの持株比率は新株予約権を行使した場合に取得する株式数だけで約59%になることが認められる。 
  そうすると、債務者は企業価値の維持・向上が目的であると主張しているものの、その実体をみる限り、会社の経営支配権に現に争いが生じている場面において、株式の敵対的買収を行って経営支配権を争う債権者等の持株比率を低下させ、現経営者を支持し事実上の影響力を及ぼしている特定の株主であるAによる債務者の経営支配権確保を主要な目的とするものであることは明白である。 
  (2) また、債務者は、本件新株予約権の発行の目的は、Aと共同で計画しているOプロジェクトへの整備資金を調達することにあるとも主張する。 
  甲18、25、26の1及び2、乙42、43、61によれば、上記プロジェクトの整備資金のうち債務者が負担する分は、当初債務者の保有しているA株をAに売却することで調達されることが予定されていたのであり、その後それでは資金不足のおそれがあることが判明したとの理由で本件新株予約権の発行による手取金約158億円でもって調達することに計画を一部変更したことが認められる。しかしながら、本件新株予約権の発行及びその行使に基づく新株発行によって債務者が調達する資金は上記金額をはるかに上回るものであり、その後にもAは本件新株予約権の全部を取得しても債務者の株式の過半数を取得する限りでしか権利行使しないことを表明しているから(乙168)、本件新株予約権の発行の主要な目的が上記プロジェクトへの整備資金にあるというのは、本件紛争になって言い出した口実である疑いが強く、にわかに信用し難い。かえって、債権者等による株式の敵対的買収対抗策としてAによる債務者の経営支配権の確保を主要な目的としていることが認められる。 
  (3) 以上によれば、本件新株予約権の発行は、債務者の取締役が自己又は第三者の個人的利益を図るために行ったものでないとはいえるものの、会社の経営支配権に現に争いが生じている場面において、株式の敵対的買収を行って経営支配権を争う債権者等の持株比率を低下させ、現経営者を支持し事実上の影響力を及ぼしている特定の株主であるAによる債務者の経営支配権を確保することを主要な目的として行われたものであるから、上記2のとおりのこれを正当化する特段の事情がない限り、原則として著しく不公正な方法によるもので、株主一般の利益を害するものというべきである。 
 4 本件新株予約権の発行を正当化する特段の事情について 
  債務者は、債権者がマネーゲーム本位で債務者のラジオ放送事業を解体し、資産を切り売りしようとしていると主張する。 
  しかしながら、債権者が上記のような債務者の事業や資産を食い物にするような目的で株式の敵対的買収を行っていることを認めるに足りる確たる資料はない。 
 5 債権者による債務者の経営支配による企業価値の毀損のおそれとBに属して債務者を経営支配することの企業価値との対比について 
  (1) 債務者は、債権者が債務者の親会社となり経営支配権を取得した場合、債務者及びその子会社に回復し難い損害が生ずるのは極めて明らかであり、債務者がBにとどまり、Aの子会社となって経営されることがより企業価値を高めることから、そのための企業防衛目的の新株予約権の発行であると主張する。 
  しかしながら、債務者が債権者の経営支配下あるいはその企業グループとして経営された場合の企業価値とAの子会社としてBの企業として経営された場合の企業価値との比較検討は、事業経営の当否の問題であり、経営支配の変化した直後の短期的事情による判断評価のみでこと足りず、経済事情、社会的・文化的な国民意識の変化、事業内容にかかわる技術革新の状況の発展などを見据えた中長期的展望の下に判断しなければならない場合が多く、結局、株主や株式取引市場の事業経営上の判断や評価にゆだねざるを得ない事柄である。そうすると、それらの判断要素は、事業経営の判断に関するものであるから、経営判断の法理にかんがみ司法手続の中で裁判所が判断するのに適しないものであり、上記のような事業経営判断にかかわる要素を、本件新株予約権の発行の適否の判断において取り込むことは相当でない。 
  したがって、債務者の上記主張は主張自体失当といわざるを得ない。 
  (2) なお、上記(1)の点は原審以来事実上争点とされ、原審仮処分決定も原審異議決定もこれに言及しているので、当裁判所も念のため、以下のとおり判断を付加しておく。 
  ア 債務者の企業価値毀損の防止策について 
  (ア) 債務者は、本件新株予約権の発行は、債務者の当初からの事業戦略(Bとの連携強化)を妨害している債権者を排除することにより、債務者の企業価値の毀損を防ぎ、企業価値を維持・向上させるために行ったものであり、本件新株予約権の発行は正当なものであると主張する。 
  そして、債務者は、債権者の子会社になりBから離脱すると企業価値が毀損するおそれがあることの根拠として、〈1〉放送事業のうち看板放送である野球放送について契約を打ち切られ、番組作成についてグループからの協力が得られず聴取率が低下してスポンサーを失い、グループ各社との共催によって実施していたイベントができなくなって収入が激減する、〈2〉債務者の子会社らもB各社との取引を中止されることにより収入が激減する、〈3〉債務者の従業員は債権者の経営参画に反対する旨の声明を出しており、債務者が債権者の子会社となると、債務者の人的資産が流出する、〈4〉Bとしての債務者のブランド価値も失われる、〈5〉既に債権者が債務者の経営支配をするなら債務者との出演契約を見合わせることなども表明する芸能人、タレント、パーソナリティなどがいることなどを挙げる。 
  (イ) しかしながら、新株予約権の発行差止めは、新株予約権の違法又は不公正な発行によって株主が不利益を被ることを防ぐために株主に認められた権利であり、その抗弁事由として位置づけられる特段の事情が株主全体の利益保護の観点から認められるものであることに照らすと、特段の事情の有無は、基本的には買収者による支配権の獲得が株主全体の利益を回復し難いほどに害するものであるか否かによって判断すべきである。 
  そうすると、債務者の主張する企業価値毀損の防止策のうち、債務者が債権者の子会社となった場合に、債務者がBから離脱することにより債務者やその子会社の売上げ及び粗利益が債務者が主張するとおり減少し、債権者による支配権取得が債務者に回復し難い損害をもたらすかどうかは、一応特段の事情として引き直す余地もある。これに対し、買収者による支配権の獲得についての従業員の意向等の事情は、経営者が代わった段階での労使間の処理問題であり、株式の取引等の次元で制約要因として法的に論ずるのが相当な事柄にならないというべきである。 
  以下、個別の論点ごとに順に検討する。 
  (ウ) 債務者は、債権者がインターネットにおいてアダルトサイトを運営したり、Sの粉飾決算にかかわったり、架空取引を行うなど問題のある会社であることや、債権者代表者の言動等からすると、債務者が債権者の子会社となり、Bから離脱した場合に、債務者の取引先やB各社から取引を打ち切られるのは当然であり、そのような取引の打切りは独占禁止法違反に当たらないと主張する。 
  しかしながら、債務者は、債権者が債務者の経営支配権を手中にした場合には、A等から債務者やその子会社が取引を打ち切られ多大な損失を被ることを主張しており、このことは有力な取引先であるA等は取引の相手方である債務者及びその子会社が自己以外に容易に新たな取引先を見い出せないような事情にあることを認識しつつ、取引の相手方の事業活動を困難に陥らせること以外の格別の理由もないのに、あえて取引を拒絶するような場合に該当することを自認していると同じようなものである。そうであれば、これらの行為は、独占禁止法及び不公正な取引方法の一般指定第2項に違反する不公正な取引行為に該当するおそれもある。 
  そして、債務者が債権者の子会社となった場合に、AやB各社が取引停止を示唆したことが独占禁止法違反に該当するか否かについては、個々の取引関係を詳細に検討して判断すべきであり、B各社の取引打切りの当否について、現段階で断定的に論ずることはできず、独占禁止法違反に当たらず当然に適法に行うことができるものともいい難い。 
  そもそも、Aが株式の公開買付けの期間中に、公開買付けがその所期の目的を達することができず、敵対的買収者に株式買収競争において敗れそうな状況にあるとき、公開買付価格を上回っている株式時価を引き下げるような債務者の企業価値についてのマイナス情報を流して、公開買付けに有利な株式市場の価格状況を作り出すことは、証券取引法159条に違反するとまでいわないとしても、公開買付けを実行する者として公正を疑われるような行動といわなければならない。 
  また、B各社以外の取引先との取引についても、それらの取引先の取引打切りが許されるかどうかは、個々の取引関係を詳細に検討して判断すべきものである。 
  そうすると、債務者の上記主張は、その前提とする事実がいまだ不確実であるから、このような不確実な前提事実を基に算出した企業価値毀損の数値の信用性も疑義があるといわざるを得ない。 
  この点をおき、債務者の主張する企業価値毀損に関する資料についても念のため検討しておく。 
  株式会社Hなどの債務者の子会社には、その事業につきBとの取引に大きく依存しているものが少なくなく、債務者が債権者の子会社になったことにより同グループから取引を打ち切られた場合には、少なからぬ影響を受けることは否定できない(乙15の1から4まで、乙48、68)。また、B各社以外の取引先も、債務者がBの一員であるために取引を継続しており、債務者が同グループを離脱した場合には取引継続を再考する場合もあることも否定できない(乙67、124から130まで、184、185)。 
  しかし、債務者の放送事業のうち野球放送の契約が打ち切られる点については、球団との契約の中に債務者の主張する解除条項が従前の契約にはなかった平成17年2月22日になって加えられていることは認められるが(乙12の1及び2、乙13)、本件係争を債務者が有利に展開することを狙って意図的に合意した疑いが強く、債務者が債権者の子会社になった場合に球団側が放送権料の収入を放棄してまで解除権を行使するのか否かは、現段階では明確ではないといわざるを得ない。 
  さらに、番組に出演する芸能人、タレント、パーソナリティの人材の確保ができなくなるとの点についても、それらの人材には代替性がないわけでもないことなどをも考慮すると、将来継続するか、代替の人員で行うのか、多様な展開が予想されるのであって、現段階でそれらの人材の確保ができなくなることまでを認めるに足りる的確な資料があるとはいえない。また、番組コンテンツの提供を受けることができなくなるとの点についても、上記人材の確保の点と同様である。 
  これに加え、債務者とB各社との取引は、平成16年3月期の売上高の実績で13億4000万円、同期の債務者の単体の売上高が308億円以上であることを考慮すると、B各社との取引中止が債務者の単体の業績に及ぼす影響は必ずしも甚大ということはできない。 
  以上によると、債務者の単体に対する売上等の低下が債務者の試算するほどの金額に上ることの確たる資料はない。 
  (エ) 債務者は、Bの一員として大きなブランド力を有しており、それによって強い営業力を維持しているとし、債権者の子会社となってBを離れれば、ブランド力は大きく毀損されると主張する。 
  しかしながら、債務者はもともとAMラジオ業界における売上高1位のラジオ局であり、高い知名度を有すること等からみて、債務者の事業がBのブランド力にどれほど依存しているかは必ずしも明らかとはいえず、債務者がBから離脱することによってブランドイメージが毀損され、中長期的にも回復し難いほどに著しく営業力が損なわれるとまで認めるに足りる確たる資料はない。 
  逆に、債務者がBのグループ内取引に拘束されないという営業上の利点が生ずる可能性もある。 
  (オ) 放送事業者において、人的ネットワークや各種特殊技能を用いて番組の企画制作や営業に当たる従業員は、極めて重要な役割を担う利害関係者であるところ、債務者の従業員らは、債権者が支配株主となることに反対を表明している(乙56から58まで)。 
  しかし、債権者が債務者の従業員らに対し、これまで自らの事業計画を説明したことはなく、債務者の従業員らが反対しているのは債権者代表者の発言をとらえてのことであることなどを考慮すると、債務者が債権者の子会社になった場合に、債権者が信認した新しい経営者が従業員らと十分な協議を行うとともに、真摯な経営努力を続ける可能性がないわけでなく、債務者の従業員らの大量流出が生ずるとまでは認めるに足りない。 
  イ 債権者の真摯な合理的経営意思の有無について 
  (ア) 債務者は、債権者は真摯に債務者との事業提携、債務者の合理的経営を目指すものでないと主張し、その根拠として、〈1〉債権者は、債務者の株式の大量取得に先立ち、債務者と業務提携を行うことを前提とした詳細な事業計画を一切検討していない、〈2〉債権者作成の事業計画書の試算は極めていいかげんであり、提案内容は実現困難なものである、〈3〉債権者の事業は主に金融子会社の収益によって成り立っており、ポータルサイト運営事業の基盤は極めて脆弱である、〈4〉債権者の真の意図は、債務者との事業提携でなく、Aを支配することであることを挙げる。 
  (イ) しかしながら、債権者が債務者の経営支配権を確立していない段階で債務者の上記主張のような事柄を明らかにすることは無理であり、企業秘密上得策でないこともあるから、その一事をもって債権者に債務者を合理的に経営する意思も能力もないと断定するわけにはいかない。 
  ウ まとめ 
  以上のとおりであるから、債権者が債務者の支配株主となった場合に、債務者に回復し難い損害が生ずることを認めるに足りる資料はなく、また、債権者が真摯に合理的経営を目指すものでないとまでいうことはできない。 
 6 株式買収者の株式買収手段の証券取引法上の適否と現経営者による対抗手段としての新株予約権発行との関係について 
  (1) 債務者は、債権者等が本件ToSTNeT取引により平成17年2月8日に発行済株式総数の約30%に当たる債務者株式を買い付け、その結果、発行済株式総数の約35%の債務者株式を保有することとなったのは、証券取引法27条の2に違反するものであり、仮にこれが証券取引法違反ではないとしても、公開買付規制の趣旨に反した不当な株式買占行為であるとし、このような買収者の違法性は「著シク不公正ナル方法」に該当するかどうかの判断において当然に勘案すべきであり、これに対する対抗措置として本件新株予約権の発行を行うことは不公正発行に該当しないと主張する。 
  (2) 債務者の上記主張は、まず、本件ToSTNeT取引につき、〈1〉ToSTNeT取引によって抗告人の発行済株式総数の3分の1超を取得した点、〈2〉売主との事前合意に基づくものである点において、証券取引法27条の2に違反するというものである。 
  しかしながら、上記〈1〉の点につき、証券取引法は、その規制対象の明確化を図るため、その2条において定義規定を置き、「取引所有価証券市場」は「証券取引所の開設する有価証券市場」と定義しているところ(2条17項)、ToSTNeT-1は、東京証券取引所が立会外取引を執行するためのシステムとして多数の投資家に対し有価証券の売買等をするための場として設けているものであるから、取引所有価証券市場に当たる。そうすると、本件ToSTNeT取引は、東京証券取引所が開設する、証券取引法上の取引所有価証券市場における取引であるから、取引所有価証券市場外における買付け等には該当せず、取引所有価証券市場外における買付け等の規制である証券取引法27条の2に違反するとはいえない。 
  また、上記〈2〉の点につき、乙101、103、193によれば、売主に対する事前の勧誘や事前の交渉があったことが推認されるものの、それ自体は証券取引法上違法視できるものでなく、売主との事前売買合意に基づくものであることを認めるに足りる資料はないから、この点の証券取引法違反をいう主張は、その前提において失当である。 
  (3) ところで、ToSTNeT-1は競争売買の市場ではないから、そこにおいて投資者に対して十分な情報開示がされないまま、会社の経営支配権の変動を伴うような大量の株式取得がされるおそれがあることは否定できない。これに対し、公開買付制度は、支配権の変動を伴うような株式の大量取得について、株主が十分に投資判断をなし得る情報開示を担保し、会社の支配価値の平等分配に与る機会を与えることを制度的に保障するものである。公開買付制度の上記趣旨に照らすと、債権者等が、Aによる債務者の株式の公開買付期間中に、本件ToSTNeT取引によって発行済株式総数の約30%にも上る債務者の株式の買付けを行ったことは、それによって市場の一般投資家が会社の支配価値の平等分配に与る機会を失う結果となって相当でなく、その程度の大規模の株式を買い付けるのであれば、公開買付制度を利用すべきであったとの批判もあり得るところである。 
  しかしながら、本件ToSTNeT取引が取引所有価証券市場外における買付け等の規制である証券取引法27条の2に違反するものでないことは前示のとおりであるから、上記問題があるとしても、それは証券取引運営上の当不当の問題にとどまり、証券取引法上の処分や措置をもって対処すべき事柄であって、それ故に債権者の本件株式の取得を無効視したり、債務者に対抗的な新株予約権の発行を許容して証券取引法の不当を是正すべく制裁的処置をさせる権能を付与する根拠にはならない。 
  そうすると、債権者等が本件ToSTNeT取引によって債務者の株式を大量に買い付けたことが、証券取引法27条の2以下の公開買付制度の趣旨・目的に照らし相当性を欠くとみる余地があるとの一事をもって、主要な目的が経営支配権確保にある本件新株予約権の発行を正当化する特段の事情があるということはできない。 
  (4) したがって、債務者の上記主張は採用することができない。 
 7 株主としての不利益が存在しないとの主張について 
  (1) 債務者は、商法280条ノ39第4項、280条ノ10にいう不利益を受けるおそれがある株主とは、当然株主であることを会社に対抗できる株主のことをいうから、名義書換を完了していない分も含めて債権者の不利益性を判断するのは同法206条に違反すると主張する。 
  (2) 債権者等への実質株主名簿の書換えがされていない現時点では、債権者は3万1420株を超える株主であることを、株式会社Kは1062万7410株(平成17年3月7日現在)の株主であることを、債務者に対抗することができない。 
  しかしながら、本件のように、債務者も債権者等が大量の株式を有することを自認しており(甲11、16)、名義書換請求を拒絶し得る正当な理由も特になく、間もなく実質株主名簿が書き換えられることが確実であるにもかかわらず、保管振替機関からの実質株主名簿書換えのための通知が9月末日と3月末日に限られている制度上の制約ゆえに、名義書換未了の株式数を不利益性判断の基礎から除外するのは明らかに不合理というべきである。上記のような事実関係の下においては、平成17年3月31日以降に債務者に対抗できることになる株式数も含めて不利益性を判断すべきである。 
  したがって、債務者の上記主張は採用することができない。 
  (3) 平成17年3月24日に発行され、翌25日から行使請求期間となる本件新株予約権がすべて行使された場合、債権者等による債権者株式の保有割合は約42%から約17%に減少することからすると、債権者が本件新株予約権の発行によって著しい不利益ないし損害を被るおそれがあることが明らかである。 
 8 保全の必要性について 
  債務者の本件新株予約権の発行によって債権者が著しい損害を被るおそれがあることは、前記7に判示したとおりであるから、保全の必要性も認めることができる。 
 9 結論 
  以上述べたとおりであって、債務者による本件新株予約権の発行は、その内容及び発行の経緯に照らしても、債権者等による債務者の経営支配を排除し、現在債務者の経営に事実上の影響力を及ぼす関係にある特定の株主であるAによる債務者に対する経営支配権を確保するために行われたことが明らかである。そして、本件に現れた事実関係の下では、債権者による株式の敵対的買収に対抗する手段として採用した本件新株予約権の大量発行の措置は、既に論じたとおり、債務者の取締役会に与えられている権限を濫用したもので、著しく不公正な新株予約権の発行と認めざるを得ない。 
  したがって、債権者の本件仮処分命令申立ては理由があるから、これを認容した原審仮処分決定及びこれを認可した原審異議決定は正当である。 
  よって、本件抗告を棄却することとし、主文のとおり決定する。 
第16民事部 
 (裁判長裁判官 鬼頭季郎 裁判官 福岡右武 裁判官 畠山稔) 
++解説
《解  説》
 1 事案の概要
 本件は,仮処分申立て当時すでに債務者の発行済株式総数の約35パーセントの割合を保有する株主であった債権者が,ラジオ放送事業を行う株式会社であり,その発行する普通株式を東京証券取引所第2部に上場している債務者に対して,そのすべてが行使されると従来の発行済株式総数の1.44倍にあたる数量の普通株式が発行されることとなる数量の新株予約権を発行して,これをテレビ放送事業を行う株式会社である第三者に割り当てるとする内容の債務者の新株予約権発行が,商法280条ノ39第4項,280条ノ10の「著シク不公正ナル方法」による新株予約権の発行に当たるとして,その発行差止めを求めた仮処分申立ての事案である。
 抗告審の決定に至るまでの債務者株式の保有状況等に関する簡単な事実経過は以下のとおりである。
 第三者であるテレビ局は,以前より債務者の発行済株式総数の約12パーセントの割合を保有していたが,平成17年1月17日(以下の日付の記載は全て平成17年の日付である),債務者の全ての発行済株式の取得を目指して,証券取引法に定める公開買付けを開始することを決定し(買付価格1株5950円,当初の買付株式数の下限は発行済株式総数の50パーセントと設定),これを公表した。債務者は,同日,この公開買付けに賛同する旨を公表した。
 債権者は,以前より債務者の発行済株式総数の約5パーセントの株主であったが,2月8日,東京証券取引所のToSTNeT-1を利用した取引により,子会社を通じて債務者の発行済株式総数の約30パーセントを買い付けて,約35パーセントの株主となった。
 債務者の取締役会は,2月23日,割当先を当該テレビ局として,発行価額を1株当たり336円,払込期日を3月24日,当初行使価格を5950円,行使請求期間を3月25日以降とする内容の新株予約権を発行する旨の決議をした。なお,同決議の前日における債務者株式の東京証券取引所での終値は6750円であった。
 この新株予約権発行の発表を受けて,債権者は,東京地方裁判所に,①「特ニ有利ナル条件」による発行であるのに株主総会の特別決議を経ていないという法令違反があること,②「著シク不公正ナル方法」による発行であることを理由として,新株予約権発行差止め仮処分の本件申立てを行った。
 当該テレビ局の公開買付けは3月7日に終了し,当該テレビ局は,これにより新たに債務者株式を取得して,債務者の発行済株式総数の約37パーセントを保有する株主になった。他方,債権者は,さらに市場で債務者株式を買い進め,3月7日時点で,発行済株式総数の約42パーセントを有する株主となった。
 本件申立ての原審である東京地方裁判所は,3月11日,本件新株予約権の発行は「特ニ有利ナル条件」による発行とは認められないが,「著シク不公正ナル方法」による発行にあたるとして,5億円の担保を立てることを条件に本件新株予約権の発行差止めを認める旨の仮処分決定をした。
 債務者はこの仮処分決定に対して直ちに異議を申し立てた。これに対して,東京地方裁判所は,3月16日,やはり本件新株予約権発行を「著シク不公正ナル方法」であると認めて,上記仮処分決定を認可する旨の決定をした。
 債務者はこの異議決定を不服として直ちに抗告した。これに対して,抗告審である東京高等裁判所は,3月23日,原審仮処分決定及び原審異議決定と同じく本件新株予約権発行を「著シク不公正ナル方法」であると認め,抗告を棄却した(なお,抗告審において,債権者は本件新株予約権発行が「特ニ有利ナル条件」による新株予約権の発行である旨の主張を撤回した。)。
 2 抗告審決定の内容
 抗告審の決定(本決定)は,本件新株予約権の発行は「著シク不公正ナル方法」にあたるとする原審仮処分決定及び原審異議決定をいずれも正当と判断し,その理由について概要以下のとおり述べた。
 まず,会社の経営支配権に現に争いが生じている場面において,株式の敵対的買収によって経営支配権を争う特定の株主の持株比率を低下させ,現経営者またはこれを支持し事実上の影響力を及ぼしている特定の株主の経営支配権を維持・確保することを主要な目的として新株予約権の発行がされた場合には,原則として,商法280条ノ39第4項,280条ノ10の「著シク不公正ナル方法」による新株予約権の発行に該当するとする法解釈論を述べ,そのような解釈をすべき理由について,商法が機関権限の分配を定めた法意,支配権争奪の局面では取締役による公平な判断が難しいこと,投資家の予測可能性などの点を指摘した。その上で,株主全体の利益の保護という観点から新株予約権の発行を正当化する特段の事情がある場合には,例外的に経営支配権の維持・確保を主要な目的とする発行であっても不公正発行に該当しないと述べた。そして,敵対的買収者が会社を食い物にしようとしている場合には,濫用目的をもって株式を取得した当該敵対的買収者は株主として保護するに値しないし,当該敵対的買収者を放置すれば他の株主の利益が損なわれることが明らかであるから,取締役会は,対抗手段として必要性や相当性が認められる限り,経営支配権の維持・確保を主要な目的とする新株予約権の発行を行うことが正当なものとして許されるとして,上記特段の事情を認めることができる敵対的買収者が会社を食い物にしている場合として,敵対的買収者がグリーンメイラー(会社関係者に株式を高値で引き取らせることを目的とする者)である場合などの4つの類型を指摘した。そして,これらの特段の事情があることについては会社側に立証責任があるとした。
 次に,以上の規範を前提とし,本件新株予約権発行の概要及び本件新株予約権発行前後における債務者株式の保有や売買を巡る状況等についての一連の事実経過を前提として,本件新株予約権の発行の目的が当該テレビ局の子会社となり債務者の企業価値を維持・向上させる点にあり,現経営陣の経営支配権の維持が主な目的ではないなどとする債務者の主張に対して,会社の経営支配権に現に争いが生じている場面において,株式の敵対的買収を行って経営支配を争う債権者等の持株比率を低下させ,現経営者を支持し事実上の影響力を及ぼしている特定の株主である当該テレビ局による債務者の経営支配権確保を主要な目的とするものであることは明白であるとし,他方で,そのような本件新株予約権の発行を正当化する特段の事情を認める確たる資料はない旨判示した。
 さらに,債権者が債務者の親会社となる場合には債務者に回復し難い損害が生じるのは明らかであり,債務者が当該テレビ局の親会社となる場合には企業価値が高まるとする債務者の主張について,そのような企業価値の比較検討は事業経営の当否の問題であり,そうした問題は経営判断の法理にかんがみ司法手続の中で裁判所が判断するのに適しないものであるから,債務者の主張は主張自体失当であるとして,これを退け(もっとも,この点については念のために判断するものであるとして,債務者の主張するような企業価値に関する事実について検討を加えた上で,そのような事実を認めるに足りない旨を指摘している。),また,債権者が行った証券取引法違反となるToSTNeT取引の対抗措置として債務者が本件新株予約権の発行を行うことは不公正発行に該当しないとの債務者の主張については,債権者のToSTNeT取引は証券取引法違反にあたらないとし,仮に問題があるとしても証券取引法上の運営の当不当の問題に止まり,債務者に対抗的な新株予約権の発行を許容する根拠にはならず,これにより本件新株予約権の発行を正当化する特段の事情があるとはいえないとした。
 3 説明
 新株の発行差止めの要件である「著シク不公正ナル方法」とは,不当な目的を達成する手段として新株発行が利用される場合であり,会社支配の帰属をめぐる争いがあるときに,取締役会が自派で議決権の過半数を維持・争奪する目的のため新株発行を行う場合などはこれにあたると解されている。これまでの下級裁判例も新株発行差止めの仮処分事件において基本的にそのような考え方に沿った判断をしている(東京地決平1.7.25判タ704号84頁等)。会社の経営支配権に現に争いが生じている場面において,株式の敵対的買収によって経営支配権を争う特定の株主の持株比率を低下させ,現経営者またはこれを支持し事実上の影響力を及ぼしている特定の株主の経営支配権を維持・確保することを主要な目的として新株予約権の発行がされた場合には,原則として,「著シク不公正ナル方法」にあたると述べる本決定の判示部分は,そのような従来からの新株発行をめぐる不公正発行の考え方と基本的にはほぼ同じものであると考えてよいと思われる。
 次に,本決定は,特定の株主の経営支配権を維持・確保することを主要な目的として新株予約権の発行がされた場合であっても,「株主全体の利益の保護という観点から新株予約権の発行を正当化する特段の事情」がある場合には不公正発行にあたらないと述べている。すなわち,これまでそのような特段の事情について言及した裁判例はなく,支配権維持目的であっても正当化される場合があることを明らかにした点に意義があるといえよう。一口に敵対的買収者といってもそれは支配的株主になることを現経営陣に拒絶されているものというだけであって,それ自体では何ら会社から排除されるべき理由はないのであるが,本決定は,どのような敵対的買収者であれば取締役会の判断により新株予約権発行等の相当な手段でこれを排除することが許されるのかについて,敵対的買収者が会社を食い物にしようとしている場合であるとして,4つの具体例を上げてその内容を明らかにしている。これらの具体例は,現行法においても敵対的買収者への対抗措置として新株予約権を発行することが許容されると本決定が考えているものであり,現行法上における一応の規範として参考になろう。
 これまで不公正な新株発行について判断した多くの下級裁判例では,新株発行が複数の目的をもって行われる場合にはそのうち主要な目的が何かにより新株発行の公正性を判断することとし,すなわち,種々の目的ないし動機のうち,会社の支配関係上の争いに介入するという不当な目的が資金調達目的等の他の正当な目的よりも優越し,それが新株発行の主要な目的と認められる場合に,不公正発行であるとする考え方(いわゆる主要目的ルール)が採用されてきた(東京地決平1.9.5判タ711号256頁,大阪地決平2.7.12判時1364号100頁,東京地決平16.7.30,東京高決平16.8.4)。ところが,本件において債務者は本件新株予約権の発行には企業価値毀損防止という正当な目的がある旨主張したものの,本決定においては,新株予約権発行の目的が並列的に存在することを前提として,それらのうち不当な目的が優越するものかどうかという判断の過程を経てはいない。これは,例えば新株発行差止め事件の場合における資金調達目的を問題とするのであれば,そうした目的はその性質上,常に特定の株主の支配権の確保・維持を通じて達成されることを必然とするものではないことから,そこでは目的の並存というものが観念できるのに対して(新株とは異なり,新株予約権が資金調達目的で発行されること自体あまり考えられないが,当然ながら新株予約権の発行においても,ストックオプションを付与する目的など,支配権維持目的と性質の異なる発行目的は存在する。),債務者がいうところの目的は,結局のところ債権者を排除して特定の株主の支配権の確保・維持をする方法によらなけば達成されることのないものであることから,そこではもはや目的が並存している状況がない(いわば,実質的に同じ目的について,別の言い方をするものに過ぎない。)と本決定が考えたことによるものと思われる。そうした考え方によれば,本件については目的の並存を前提としてその優越を比較する主要目的ルールの枠組みは問題にならないことになる。
 ところで,本決定に関する一連の事実の報道を契機として,巷ではいわゆるポイズンピル導入の議論が立法レベルないし現行法を前提とした運用レベルでなされているようである。本決定は,会社の経営支配権に現に争いが生じている場面における取締役会による株主構成変更目的の新株等の発行を原則として不公正発行としたものであるが,敵対的買収者に対する事前の対抗策に関しては,株主全体の利益保護の観点から個別事情に応じてその適法性が肯定される余地があると述べている。もっとも,会社の機関権限の分配秩序を重視する本決定の考え方からすれば,基本的には現行法のままでは事前の対抗策としてであっても取締役会が意図的に会社の株主構成を決定することについては一定の限界があるものと解すべきであろう。そして,今後,取締役会に会社の株主構成の決定権を付与する方向での立法を行うのであれば,公開会社の場合には会社が何らかの事前の対抗策を導入しているか否かは株式の市場価格に明らかに影響を与えるものであろうから,本決定も指摘しているように投資家の予測可能性の観点からの手当てをも配慮する必要があると思われる。
 なお,原審異議決定及び原審仮処分決定とも,「著シク不公正ナル方法」にあたるかの判断については,その判断基準と判断枠組み,そして,本件におけるあてはめとその結論は,いずれも抗告審決定のそれとほぼ同じ内容のものとなっている。その詳細については各決定文を参照されたい。また,原審仮処分決定では,本件新株予約権発行が「特ニ有利ナル条件」による発行であるかについての判断もなされているところ,本件の新株予約権の発行数量が巨大であることなどもあり特殊な事例であると思われるが,新株予約権の発行に関してこの論点が争われた裁判例が公刊物に見当たらないこともあり,実務上の参考になると思われる。
6.官報による公告
+判例(H9.1.28)
理由 
 上告代理人奥村回の上告理由について 
 原審の適法に確定したところによれば、上告会社の昭和六三年六月の新株発行については、(一) 新株発行に関する事項について商法二八〇条ノ三ノ二に定める公告又は通知がされておらず、(二) 新株発行を決議した取締役会について、取締役Aに招集の通知(同法二五九条ノ二)がされておらず、(三) 代表取締役Bが来る株主総会における自己の支配権を確立するためにしたものであると認められ、(四) 新株を引き受けた者が真実の出資をしたとはいえず、資本の実質的な充実を欠いているというのである。 
 原判決は、このうち(三)及び(四)の点を理由として右新株発行を無効としたが、原審のこの判断は是認することができない。けだし、会社を代表する権限のある取締役によって行われた新株発行は、それが著しく不公正な方法によってされたものであっても有効であるから(最高裁平成二年(オ)第三九一号同六年七月一四日第一小法廷判決・裁判集民事一七二号七七一頁参照)、右(三)の点は新株発行の無効原因とならず、また、いわゆる見せ金による払込みがされた場合など新株の引受けがあったとはいえない場合であっても、取締役が共同してこれを引き受けたものとみなされるから(同法二八〇条ノ一三第一項)、新株発行が無効となるものではなく(最高裁昭和二七年(オ)第七九七号同三〇年四月一九日第三小法廷判決・民集九巻五号五一一頁参照)、右(四)の点も新株発行の無効原因とならないからである。 
 しかしながら新株発行に関する事項の公示(同法二八〇条ノ三ノ二に定める公告又は通知)は、株主が新株発行差止請求権(同法二八〇条ノ一〇)を行使する機会を保障することを目的として会社に義務付けられたものであるから(最高裁平成元年(オ)第六六六号同五年一二月一六日第一小法廷判決・民集四七巻一〇号五四二三頁参照)、新株発行に関する事項の公示を欠くことは、新株発行差止請求をしたとしても差止めの事由がないためにこれが許容されないと認められる場合でない限り、新株発行の無効原因となると解するのが相当であり、右(三)及び(四)の点に照らせば、本件において新株発行差止請求の事由がないとはいえないから、結局、本件の新株発行には、右(一)の点で無効原因があるといわなければならない。 
 したがって、本件の新株発行を無効とすべきものとした原判決は、結論において是認することができる。論旨は、原判決の結論に影響のない事項についての違法をいうものにすぎず、採用することができない。 
 よって、民訴法三九六条、三八四条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。 
 (裁判長裁判官 可部恒雄 裁判官 園部逸夫 裁判官 大野正男 裁判官 千種秀夫 裁判官 尾崎行信) 
++解説
《解  説》
 一 本判決は、別掲の五年(オ)第三一六号事件(本誌本号一七九頁)と同一の原判決のうち昭和六三年の新株発行に関するものである(別掲コメントの二項を参照)。A社の昭和六三年の二四〇〇株の新株発行のうち九〇〇株をXが引き受け、Yの引受けはなかった。その結果、Xが一二七〇株、Yが八〇〇株となって、両者の持株数が再び逆転した。そこで、Yは、Aを被告として、新株発行無効の訴え(商法二八〇条ノ一五)をその出訴期間内に提起し、昭和六三年の新株発行を無効とすることを請求した(この事件と昭和五四年の新株発行についてXがYに対して提起した不存在確認の訴えとが、併合審理された。)。
 第一審は、Yの請求を認容して昭和六三年の新株発行を無効とし、原審も、Aの控訴を棄却した。原審は、昭和六三年の新株発行について大要次のように認定した。①新株発行に関する事項について商法二八〇条ノ三ノ二に定める公告又は通知がされていない、②新株発行を決議した取締役会について、取締役Bに招集の通知(同法二五九条ノ二)がされていない、③代表取締役Xが来る株主総会における自己の支配権を確立するためにしたものと認められる、④新株を引き受けた者が真実の出資をしたとはいえず、資本の実質的な充実を欠いている。原判決は、このうち③④の点を理由として新株発行を無効とするものである。
 二 本判決は、③④の点は新株発行の無効原因とならず、逆に①の点が無効原因になるとして、理由を差し替えてAの上告を棄却した。
 まず③の点であるが、ある者の支配権を確立する等の意図によって著しく不公正な方法でされた新株発行の効力については、かつて有効説、無効説、折衷説の対立があったが、本件原判決後に言い渡された最一小判平6・7・14(裁集民一七二号七七一頁)は、「株式会社を代表する権限のある取締役によって行われた新株の発行は、それが著しく不公正な方法によって行われたもので……ある場合でも、有効である」として、有効説を採用した。本判決は、右判例を引用して、③の点は新株発行の無効原因とならないとした。
 次に④の点は、いわゆる「見せ金」による払込みであることが問題とされたものである。「見せ金」とは、当初から真実の株式払込みとして会社資金を確保する意図なく、一時的借入金をもって単に払込みの外形を整え、株式会社成立ないし新株発行の手続後直ちに右払込金を払い戻してこれを借入先に返済するような行為のことであり、最二小判昭38・12・6(民集一七巻一二号一六三三頁)は、会社設立時における株式払込みについて、見せ金による払込みは払込みとしての効力を有しないとした。しかし、払込みとしての効力はなくても、新株の払込みについては、払込期日までに引受けと払込みのあった部分のみで有効に新株発行が成立するとされており(鈴木竹雄=竹内昭夫・会社法〔第三版〕四一九頁等通説)、新株発行による変更登記がされた場合には、引受けのなかった株式について取締役が共同して引受担保責任を負う(商法二八〇条ノ一三第一項)のであるから、「見せ金」による払込みであっても、取締役の引受担保責任の問題として処理すれば足り、新株発行が無効になるわけではないと考えるべきである(新版注釈会社法(7)三二二頁〔近藤弘二〕、注釈会社法(5)〔旧版〕二〇六頁〔喜多了祐〕。なお、東京地判昭57・3・30本誌四七一号二二〇頁参照)。昭和二五年改正前の商法が規定する増資手続について、本判決が引用する最三小判昭30・4・19(民集九巻五号五一一頁)が、一万五〇〇〇株の増資のうち五九五〇株に引受けの欠缺があっても、特別の事情のない限り、右欠缺は取締役の引受払込みの責任により補充されるものであって、直ちに増資の無効を来すものではないと判示しているのも、この趣旨をいうものと解される。本判決は、右最三小判を引用して、④の点も新株発行の無効原因とならないとした。
 三 そこで、商法二八〇条ノ三ノ二に定める公告又は通知を欠いたという①の点であるが、公告又は通知を欠いてされた新株発行の効力については、有効説(取引の安全を理由とする)、無効説(株主が新株発行差止請求権を行使する機会を保障するためとする)、折衷説(原則として無効となるが、会社が当該新株発行について公示義務違反のほかには新株発行差止めの事由がないことを立証すれば、瑕疵が治癒するとするものなど)の対立があるが、近時は折衷説が有力であるといわれる(新版注釈会社法(7)一四五頁〔森本滋〕参照)。公刊物に登載された最高裁判決でこの問題を直接判示したものは見当たらず、下級審裁判例は、有効説を採ったものもある(東京高判平7・10・25金判一〇〇四号一一頁)が、大部分のものは無効説又は折衷説を採っている。
 最一小判平5・12・16(民集四七巻一〇号五四二三頁、本誌八四二号一三一頁)は、新株発行差止めの仮処分命令に違反して新株発行がされたことは新株発行の無効原因となるとしたものであるが、その理由中で、「〔商〕法二八〇条ノ三ノ二は、新株発行差止請求の制度の実効性を担保するため、払込期日の二週間前に新株の発行に関する事項を公告し、又は株主に通知することを会社に義務付け、もって株主に新株発行差止めの仮処分命令を得る機会を与えていると解される」と判示している。その趣旨からすれば、本件の問題点については、やはり無効説又は折衷説がなじむであろう。有効説を採ると、公告又は通知がなかったために株主が新株発行の差止め(商法二八〇条ノ一〇)を請求する機会を得られなくても、新株の発行がされてしまえば、他に無効原因がない限りこれを無効とする余地はないということになってしまうからである。
 そして、商法二八〇条ノ三ノ二の趣旨が新株発行差止請求の制度の実効性を担保することにあるとすると、新株発行差止請求をしたとしても差止めの事由がないためにこれが許容されない場合にまで、公告又は通知を欠くことが一律に新株発行の無効原因になるとする無効説は、いささか行き過ぎであるということになろう。したがって、折衷説が最も妥当な見解であると考えられる。折衷説を採る場合には、差止めの事由の有無についていずれの当事者が立証責任を負うのかが問題になるが、差止事由がなかったことについて会社側が立証責任を負うという見解が有力である(大隅健一郎=今井宏・新版会社法論中巻Ⅱ六三一頁、鈴木=竹内・前掲書四二八頁)。本判決は、この見解を採用して、「〔新株発行差止請求〕が許容されないと認められる場合でない限り、新株発行の無効原因となる」と判示した。折衷説とはいっても、あくまでも原則は無効であり、公告又は通知を欠くにもかかわらず新株発行が有効とされるのは例外にすぎないと考えるものであるといえよう。本件においては、前記③④の点に照らして新株発行差止請求の事由がないとはいえないから、右例外の場合には当たらず、折衷説によっても新株発行の無効原因があることになる。本判決は、以上の理由で原判決の結論だけを是認したものである。
 なお、前記②の点であるが、最二小判昭36・3・31(民集一五巻三号六四五頁)は、「株式会社を代表する権限のある取締役が新株を発行した以上、これにつき有効な取締役会の決議がなくても、右新株の発行は有効である」としているから、本件新株発行の無効原因にはならないと考えられる。
 四 本判決の判示したところは従前の判例・学説の流れに沿ったものにすぎないともいえるが、新株発行の無効原因の一つについて最高裁の見解が明らかになったことの意義は大きいといえよう。
+判例(H5.12.16)
理由 
 一 上告代理人小林昭、同大戸英樹、同南出喜久治の上告理由二、三について 
 1 本件記録及び原審の適法に確定したところによると、訴えの変更に関する事実関係の概要は次のとおりである。 
 (一) 上告人は、昭和三三年に設立されたタクシー事業及び貸切バス事業等を営む株式会社であり、昭和五九年八月当時の資本の額は三五〇〇万円、会社が発行する株式の総数は一〇万株、発行済株式の総数は七万株(一株の額面金額は五〇〇円)であったところ、同年八月二三日開催の取締役会において、発行株式の種類及び数を記名式普通額面株式一万株、発行価額を一株につき三九〇七円、申込期日を同年九月一三日、払込期日を同月一四日、募集の方法を第三者割当、割当てを受ける者を株式会社明星観光サービスとする新株発行を決議した。 
 (二) 上告人の株主である被上告人Aは、本件新株発行に対して、京都地方裁判所に商法二八〇条ノ一〇に基づく新株発行差止請求訴訟を本案とする新株発行差止めの仮処分の申立てをし、昭和五九年九月一二日、仮処分命令(以下「本件仮処分命令」という。)を得た。その上で、上告人の株主である被上告人ら(被上告人B、同Cを除く。)及びD(以下「被上告人ら」という。)は、同月二〇日、新株発行差止請求の訴えを提起した。右訴えの理由とするところは、本件新株発行は、現在の取締役会の方針に反対する株主の持株比率を減少させ、上告人会社の支配確立を目的としたもので、商法二八〇条ノ二第二項に違反し、かつ、著しく不公正な方法によるものであって、株主である被上告人らが不利益を受けるおそれがあるというものであった。 
 (三) 上告人は、昭和五九年九月一三日、本件仮処分命令に対して異議を申し立てたが、本件新株発行はそのまま実施することにし、前記明星観光サービスから払込期日に新株払込金の支払を受けた。 
 (四) 本件新株発行に対する差止請求訴訟は、昭和五九年一〇月二三日に第一審の第一回口頭弁論期日が開かれて以来審理が続けられたが、昭和六〇年一〇月三一日の第一審第八回口頭弁論期日において、上告人から本件新株発行は既に実施されているから新株発行差止請求は訴えの利益がなくなったとの主張がされた。 
 (五) そのため、被上告人らは、昭和六〇年一二月二日に第一審に提出した同日付け準備書面で、本件仮処分命令に違反する新株発行は効力を生じないが、仮に効力を有するとすれば、予備的に、右新株発行差止請求の訴えを商法二八〇条ノ一五に基づく新株発行無効の訴えに変更する旨の申立てをした。右新株発行無効の訴えで主張する無効事由は、仮処分命令違反が付加された以外は、それまで差止事由として主張してきたものと同一であった。 
 2 右事実関係に照らすと、本件新株発行に対する差止請求の訴えと右訴えを本案とする本件仮処分命令に違反してされた新株発行に対する無効の訴えとは、事前と事後の違いはあるが、ともに本件新株発行により不利益を受けるとする被上告人ら株主がその新株発行を阻止し、若しくはその効力を否定しようとするものであって、同一の経済的利益を追求するものということができる上、新株発行差止請求の訴えの訴訟資料、証拠資料を新株発行無効の訴えの審理に利用することが期待できる関係にあるということができるから、旧訴である新株発行差止請求の訴えと新訴である新株発行無効の訴えとの間には請求の基礎に同一性があるものというべきである。 
 3 ところで、訴えの変更は、変更後の新請求については新たな訴えの提起にほかならないから、変更後の訴えにつき出訴期間の制限がある場合には、出訴期間の遵守の有無は、原則として、訴えの変更の時を基準としてこれを決すべきであるが、変更前後の請求の間に存する関係から、変更後の新請求に係る訴えを当初の訴えの提起時に提起されたものと同視することができる特段の事情があるときは、出訴期間が遵守されたものとして取り扱うのが相当である(最高裁昭和五九年(行ツ)第七〇号同六一年二月二四日第二小法廷判決・民集四〇巻一号六九頁参照)。 
 これを本件についてみるに、前示事実関係によれば、本件新株発行に対する差止請求の訴えは、被上告人Aが本件仮処分命令を得た後、新株発行がされることにより持株比率の減少等の不利益を受けるとする被上告人らによって、本件新株発行を阻止する目的の下に提起されたものであって、被上告人らは、右訴えの提起により、万一右仮処分命令に違反して新株が発行された場合には右新株発行の効力を争い、仮処分命令違反をその理由とする意思をも表明していると認められるから、本件で変更された新株発行無効の訴えについては、新株発行差止請求の訴え提起の時に提起されたものと同視することができる特段の事情が存するものというべきである。 
 4 以上の次第であるから、新株発行無効の訴えへの変更を認め、無効原因として本件仮処分命令違反の主張をすることは許されるとした原審の判断は、その結論において是認することができる。論旨はいずれも採用することができない。 
 二 同四について 
 商法二八〇条ノ一〇に基づく新株発行差止請求訴訟を本案とする新株発行差止めの仮処分命令があるにもかかわらず、あえて右仮処分命令に違反して新株発行がされた場合には、右仮処分命令違反は、同法二八〇条ノ一五に規定する新株発行無効の訴えの無効原因となるものと解するのが相当である。けだし、同法二八〇条ノ一〇に規定する新株発行差止請求の制度は、会社が法令若しくは定款に違反し、又は著しく不公正な方法によって新株を発行することにより従来の株主が不利益を受けるおそれがある場合に、右新株の発行を差し止めることによって、株主の利益の保護を図る趣旨で設けられたものであり、同法二八〇条ノ三ノ二は、新株発行差止請求の制度の実効性を担保するため、払込期日の二週間前に新株の発行に関する事項を公告し、又は株主に通知することを会社に義務付け、もって株主に新株発行差止めの仮処分命令を得る機会を与えていると解されるのであるから、この仮処分命令に違反したことが新株発行の効力に影響がないとすれば、差止請求権を株主の権利として特に認め、しかも仮処分命令を得る機会を株主に与えることによって差止請求権の実効性を担保しようとした法の趣旨が没却されてしまうことになるからである。
 右と同旨の見解に立ち、本件仮処分命令に違反して行われた本件新株発行を無効とした原審の判断は正当として是認することができる。論旨は採用することができない。 
 三 その余の上告理由について 
 所論の点に関する原審の認定判断及び措置は、原判決挙示の証拠関係及び記録に照らし、正当として是認することができ、その過程に所論の違法はない。論旨は、原審の裁量に属する審理上の措置の不当をいうものにすぎず、採用することができない。 
 四 よって、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官味村治、同大白勝の補足意見、裁判官大堀誠一、同三好達の反対意見があるほか、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。 
7.新株が当初の引受人(B)のもとにあることについて
・新株発行の効力は画一的に判断!
+判例前出(H6.7.14)
Ⅳ 蛇足~H26改正会社法について
1.支配株主の異動を伴う新株発行
+(公開会社における募集株式の割当て等の特則)
第二百六条の二  公開会社は、募集株式の引受人について、第一号に掲げる数の第二号に掲げる数に対する割合が二分の一を超える場合には、第百九十九条第一項第四号の期日(同号の期間を定めた場合にあっては、その期間の初日)の二週間前までに、株主に対し、当該引受人(以下この項及び第四項において「特定引受人」という。)の氏名又は名称及び住所、当該特定引受人についての第一号に掲げる数その他の法務省令で定める事項を通知しなければならない。ただし、当該特定引受人が当該公開会社の親会社等である場合又は第二百二条の規定により株主に株式の割当てを受ける権利を与えた場合は、この限りでない。
一  当該引受人(その子会社等を含む。)がその引き受けた募集株式の株主となった場合に有することとなる議決権の数
二  当該募集株式の引受人の全員がその引き受けた募集株式の株主となった場合における総株主の議決権の数
2  前項の規定による通知は、公告をもってこれに代えることができる。
3  第一項の規定にかかわらず、株式会社が同項の事項について同項に規定する期日の二週間前までに金融商品取引法第四条第一項 から第三項 までの届出をしている場合その他の株主の保護に欠けるおそれがないものとして法務省令で定める場合には、第一項の規定による通知は、することを要しない。
4  総株主(この項の株主総会において議決権を行使することができない株主を除く。)の議決権の十分の一(これを下回る割合を定款で定めた場合にあっては、その割合)以上の議決権を有する株主が第一項の規定による通知又は第二項の公告の日(前項の場合にあっては、法務省令で定める日)から二週間以内に特定引受人(その子会社等を含む。以下この項において同じ。)による募集株式の引受けに反対する旨を公開会社に対し通知したときは、当該公開会社は、第一項に規定する期日の前日までに、株主総会の決議によって、当該特定引受人に対する募集株式の割当て又は当該特定引受人との間の第二百五条第一項の契約の承認を受けなければならない。ただし、当該公開会社の財産の状況が著しく悪化している場合において、当該公開会社の事業の継続のため緊急の必要があるときは、この限りでない。
5  第三百九条第一項の規定にかかわらず、前項の株主総会の決議は、議決権を行使することができる株主の議決権の過半数(三分の一以上の割合を定款で定めた場合にあっては、その割合以上)を有する株主が出席し、出席した当該株主の議決権の過半数(これを上回る割合を定款で定めた場合にあっては、その割合以上)をもって行わなければならない。
2.見せ金による新株発行
+判例(S38.12.6)
理由 
 上告代理人吉永多賀誠、同徳田敬二郎の上告理由第一点および同第二点について。 
 所論は、原審の確定した事実によれば、本件株式の払込は単に外形上払込の形式を整えたに過ぎず、いわゆる見せ金による払込であつて、現実に払込のなされたものでないことが明らかであるのに、右仮装の払込を以て真実の払込としてその効力を認めた原判決には、商法一七七条一項の解釈適用を誤つた違法があり、また、本件のような仮装の払込について、発起人たる被上告人らに同法一九二条所定の払込責任を負わせないためには、なんらかの事情がある筈であるのに、かかる特段の事情を判示することなく、有効な払込があつたものと認めて被上告人らの払込責任を否定した原判決には、理由不備の違法があるという。 
 よつて審案するに株式の払込は、株式会社の設立にあたつてその営業活動の基盤たる資本の充実を計ることを目的とするものであるから、これにより現実に営業活動の資金が獲得されなければならないものであつて、このことは、現実の払込確保のため商法が幾多の規定を設けていることに徴しても明らかなところである。従つて、当初から真実の株式の払込として会社資金を確保するの意図なく、一時的の借入金を以て単に払込の外形を整え、株式会社成立の手続後直ちに右払込金を払い戻してこれを借入先に返済する場合の如きは、右会社の営業資金はなんら確保されたことにはならないのであつて、かかる払込は、単に外見上株式払込の形式こそ備えているが、実質的には到底払込があつたものとは解し得ず、払込としての効力を有しないものといわなければならない。しかして本件についてこれを見るに、原判決の確定するところによれば、訴外中部缶詰株式会社は資本金二〇〇万円全額払込ずみの株式会社として昭和二四年一一月五日その設立登記を経由したものであるが、被上告人Aは、発起人総代として同じく発起人たるその余の被上告人らから、設立事務一切を委任されて担当し、株式払込については、被上告人Aが主債務者としてその余の被上告人らのため一括して訴外第一銀行名古屋支店から金二〇〇万円を借り受け、その後右金二〇〇万円を払込取扱銀行である右銀行支店に株式払込金として一括払い込み、同支店から払込金保管証明書の発行を得て設立登記手続を進め、右手続を終えて会社成立後、同会社は右銀行支店から株金二〇〇万円の払戻を受けた上、被上告人Aに右金二〇〇万円を貸し付け、同被上告人はこれを同銀行支店に対する前記借入金二〇〇万円の債務の弁済にあてたというのであつて、会社成立後前記借入金を返済するまでの期間の長短、右払戻金が会社資金として運用された事実の有無、或は右借入金の返済が会社の資金関係に及ぼす影響の有無等、その如何によつては本件株式の払込が実質的には会社の資金とするの意図なく単に払込の外形を装つたに過ぎないものであり、従つて株式の払込としての効力を有しないものではないかとの疑いがあるのみならず、むしろ記録によれば、被上告人Aの前記銀行支店に対する借入金二〇〇万円の弁済は会社成立後間もない時期であつて、右株式払込金が実質的に会社の資金として確保されたものではない事情が窺われないでもない。然るに、原審がかかる事情につきなんら審理を尽さず、従つてなんら特段の事情を判示することなく、本件株式の払込につき単にその外形のみに着目してこれを有効な払込と認めて被上告人らの本件株式払込責任を否定したのは、審理不尽理由不備の違法があるものといわざるを得ず、その結果は判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、論旨は理由があり、原判決は、その余の論点に対する判断を俟つまでもなく、破棄を免れない。 
 よつて民訴四〇七条一項に従い、裁判官全員の一致で、主文のとおり判決する。 
 (裁判長裁判官 奥野健一 裁判官 山田作之助 裁判官 草鹿浅之介 裁判官 城戸芳彦 裁判官 石田和外) 
+判例(H9.1.28)
理由 
 上告代理人奥村回の上告理由について 
 原審の適法に確定したところによれば、上告会社の昭和六三年六月の新株発行については、(一) 新株発行に関する事項について商法二八〇条ノ三ノ二に定める公告又は通知がされておらず、(二) 新株発行を決議した取締役会について、取締役Aに招集の通知(同法二五九条ノ二)がされておらず、(三) 代表取締役Bが来る株主総会における自己の支配権を確立するためにしたものであると認められ、(四) 新株を引き受けた者が真実の出資をしたとはいえず、資本の実質的な充実を欠いているというのである。 
 原判決は、このうち(三)及び(四)の点を理由として右新株発行を無効としたが、原審のこの判断は是認することができない。けだし、会社を代表する権限のある取締役によって行われた新株発行は、それが著しく不公正な方法によってされたものであっても有効であるから(最高裁平成二年(オ)第三九一号同六年七月一四日第一小法廷判決・裁判集民事一七二号七七一頁参照)、右(三)の点は新株発行の無効原因とならず、また、いわゆる見せ金による払込みがされた場合など新株の引受けがあったとはいえない場合であっても、取締役が共同してこれを引き受けたものとみなされるから(同法二八〇条ノ一三第一項)、新株発行が無効となるものではなく(最高裁昭和二七年(オ)第七九七号同三〇年四月一九日第三小法廷判決・民集九巻五号五一一頁参照)、右(四)の点も新株発行の無効原因とならないからである。 
 しかしながら新株発行に関する事項の公示(同法二八〇条ノ三ノ二に定める公告又は通知)は、株主が新株発行差止請求権(同法二八〇条ノ一〇)を行使する機会を保障することを目的として会社に義務付けられたものであるから(最高裁平成元年(オ)第六六六号同五年一二月一六日第一小法廷判決・民集四七巻一〇号五四二三頁参照)、新株発行に関する事項の公示を欠くことは、新株発行差止請求をしたとしても差止めの事由がないためにこれが許容されないと認められる場合でない限り、新株発行の無効原因となると解するのが相当であり、右(三)及び(四)の点に照らせば、本件において新株発行差止請求の事由がないとはいえないから、結局、本件の新株発行には、右(一)の点で無効原因があるといわなければならない。 
 したがって、本件の新株発行を無効とすべきものとした原判決は、結論において是認することができる。論旨は、原判決の結論に影響のない事項についての違法をいうものにすぎず、採用することができない。 
 よって、民訴法三九六条、三八四条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。 
 (裁判長裁判官 可部恒雄 裁判官 園部逸夫 裁判官 大野正男 裁判官 千種秀夫 裁判官 尾崎行信) 
Ⅴ 終わりに


会社法 事例で考える会社法 事例1 苦しい台所事情


Ⅰ はじめに
+(役員等の第三者に対する損害賠償責任)
第四百二十九条  役員等がその職務を行うについて悪意又は重大な過失があったときは、当該役員等は、これによって第三者に生じた損害を賠償する責任を負う
2  次の各号に掲げる者が、当該各号に定める行為をしたときも、前項と同様とする。ただし、その者が当該行為をすることについて注意を怠らなかったことを証明したときは、この限りでない。
一  取締役及び執行役 次に掲げる行為
イ 株式、新株予約権、社債若しくは新株予約権付社債を引き受ける者の募集をする際に通知しなければならない重要な事項についての虚偽の通知又は当該募集のための当該株式会社の事業その他の事項に関する説明に用いた資料についての虚偽の記載若しくは記録
ロ 計算書類及び事業報告並びにこれらの附属明細書並びに臨時計算書類に記載し、又は記録すべき重要な事項についての虚偽の記載又は記録
ハ 虚偽の登記
ニ 虚偽の公告(第四百四十条第三項に規定する措置を含む。)
二  会計参与 計算書類及びその附属明細書、臨時計算書類並びに会計参与報告に記載し、又は記録すべき重要な事項についての虚偽の記載又は記録
三  監査役、監査等委員及び監査委員 監査報告に記載し、又は記録すべき重要な事項についての虚偽の記載又は記録
四  会計監査人 会計監査報告に記載し、又は記録すべき重要な事項についての虚偽の記載又は記録

・両損害包含説
+判例(S44.11.26)
理由
上告代理人岡本治太郎名義の上告理由一および三について。
商法は、株式会社の取締役の第三者に対する責任に関する規定として二六六条ノ三を置き、同条一項前段において、取締役がその職務を行なうについて悪意または重大な過失があつたときは、その取締役は第三者に対してもまた連帯して損害賠償の責に任ずる旨を定めている。もともと、会社と取締役とは委任の関係に立ち、取締役は、会社に対して受任者として善良な管理者の注意義務を負い(商法二五四条三項、民法六四四条)、また、忠実義務を負う(商法二五四条ノ二)ものとされているのであるから、取締役は、自己の任務を遂行するに当たり、会社との関係で右義務を遵守しなければならないことはいうまでもないことであるが、第三者との間ではかような関係にあるのではなく、取締役は、右義務に違反して第三者に損害を被らせたとしても、当然に損害賠償の義務を負うものではない
しかし、法は、株式会社が経済社会において重要な地位を占めていること、しかも株式会社の活動はその機関である取締役の職務執行に依存するものであることを考慮して、第三者保護の立場から、取締役において悪意または重大な過失により右義務に違反し、これによつて第三者に損害を被らせたときは、取締役の任務懈怠の行為と第三者の損害との間に相当の因果関係があるかぎり、会社がこれによつて損害を被つた結果、ひいて第三者に損害を生じた場合であると、直接第三者が損害を被つた場合であるとを問うことなく、当該取締役が直接に第三者に対し損害賠償の責に任ずべきことを規定したのである。
このことは、現行法が、取締役において法令または定款に違反する行為をしたときは第三者に対し損害賠償の責に任ずる旨定めていた旧規定(昭和二五年法律第十六七号による改正前の商法二六六条二項)を改め、右取締役の責任の客観的要件については、会社に対する義務違反があれば足りるものとしてこれを拡張し、主観的要件については、重過失を要するものとするに至つた立法の沿革に徴して明らかであるばかりでなく、発起人の責任に関する商法一九三条および合名会社の清算人の責任に関する同法一三四条ノ二の諸規定と対比しても十分に首肯することができる。
したがつて、以上のことは、取締役がその職務を行なうにつき故意または過失により直接第三者に損害を加えた場合に、一般不法行為の規定によつて、その損害を賠償する義務を負うことを妨げるものではないが、取締役の任務懈怠により損害を受けた第三者としては、その任務懈怠につき取締役の悪意または重大な過失を主張し立証しさえすれば、自己に対する加害につき故意または過失のあることを主張し立証するまでもなく、商法二六六条ノ三の規定により、取締役に対し損害の賠償を求めることができるわけであり、また、同条の規定に基づいて第三者が取締役に対し損害の賠償を求めることができるのは、取締役の第三者への加害に対する故意または過失を前提として会社自体が民法四四条の規定によつて第三者に対し損害の賠償義務を負う場合に限る必要もないわけである。
つぎに、株式会社の代表取締役は、自己のほかに、他の代表取締役が置かれている場合、他の代表取締役は定款および取締役会の決議に基づいて、また、専決事項についてはその意思決定に基づいて、業務の執行に当たるのであつて、定款に別段の定めがないかぎり、自己と他の代表取締役との間に直接指揮監督の関係はない。しかし、もともと、代表取締役は、対外的に会社を代表し、対内的に業務全般の執行を担当する職務権限を有する機関であるから、善良な管理者の注意をもつて会社のため忠実にその職務を執行し、ひろく会社業務の全般にわたつて意を用いるべき義務を負うものであることはいうまでもない。したがつて、少なくとも、代表取締役が、他の代表取締役その他の者に会社業務の一切を任せきりとし、その業務執行に何等意を用いることなく、ついにはそれらの者の不正行為ないし任務懈怠を看過するに至るような場合には、自らもまた悪意または重大な過失により任務を怠つたものと解するのが相当である。
これを本件についてみると、原審は、
一、訴外aは、訴外菊水工業株式会社の資産状態が相当悪化しており約束手形を振り出しても満期に支払うことができないことを容易に予見することができたにもかかわらず、代表取締役としての注意義務を著しく怠つたため、その支払の可能なことを軽信し、代金支払の方法として右訴外会社代表者としての上告人名義の本件七二万円の約束手形を振り出した上、被上告人をして本件鋼材一六トンを引き渡させ、右約束手形が支払不能となつた結果、被上告人に右金額に相当する損害を被らせたこと
二、右訴外会社の代表取締役である上告人は他の代表取締役であるaの職務執行上の重過失または不正行為を未然に防止すべき義務があるにもかかわらず、著しくこれを怠り、訴外会社の業務一切をaに任せきりとし、自己の不知の間に同人をして支払不能になるような前示訴外会社代表者上告人名義の本件約束手形を振り出して本件取引をさせ、上告人の代表取締役としての任務の遂行について重大な過失があつたことにより、被上告人に前記損害を被らせるに至つたものであること
を認定し、商法二六六条ノ三第一項前段の規定に基づいて、上告人に損害賠償の責任があるとしているのである。原審の右判断は、さきに説示したところに徴すれば、正当として是認できる。原判決に所論の違法はなく、論旨は採用することができない。
同二および四について。
原判決の認定によれば、前記のように、上告人が右訴外会社の代表取締役に就任中重大な過失による任務懈怠により被上告人に損害を被らせたというのであるから上告人には右損害を賠償すべき義務があるものというべく、その後、上告人が所論のように取締役を辞任したとしても、右義務に影響を及ぼさないものというべきである。原判決に所論の違法はなく、論旨は採ることができない。
よつて、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官田中二郎、同松田二郎、同岩田誠、同松本正雄の反対意見があるほか、裁判官全員の一致で主文のとおり判決する。

Ⅱ 事後の債権者保護としての会社法429条1項

Ⅲ 両損害包含説の意味(Aの責任について)
1.代金支払いの見込みのない取引・放漫経営

2.直接損害・間接損害
(1)教科書の説明
直接損害=会社が損害を受けたか否かを問わず、取締役の行為によって第三者が直接被った損害
間接損害=第1次的に会社に損害が生じ、その結果第2次的に第三者が被った損害

(2)もし会社法429条1項がなかったら

(3)直接責任限定説・間接損害限定説・両損害包含説

3.代金の支払見込みのない取引と任務懈怠

4.経営悪化時における取締役の注意義務

Ⅳ 監視義務違反に基づく会社法429条1項の責任
1.監視義務の内容
・間接損害構成の場合
=その時期における取締役の業務執行全般が審査の対象になる。
←これに対する監視
・直接損害構成の場合
=業務執行の中の一取引のみを取り出して、その際の取締役の悪意・重過失が問われる
←これに対する監視

2.名目上の取締役
・監視義務
+判例(S48.5.22)
理由
上告代理人逢坂修造の上告理由第一、二点について。
株式会社の取締役会は会社の業務執行につき監査する地位にあるから、取締役会を構成する取締役は、会社に対し、取締役会に上程された事柄についてだけ監視するにとどまらず、代表取締役の業務執行一般につき、これを監視し、必要があれば、取締役会を自ら招集し、あるいは招集することを求め、取締役会を通じて業務執行が適正に行なわれるようにする職務を有するものと解すべきである。
そして、原審の確定した事実関係のもとにおいて、上告人らに右職務を行なうにつき重大な過失があり、そのため被上告人らに本件損害を生じたとする原審の認定・判断は正当として肯認することができる。原判決に所論の違法はなく、論旨は採用することができない。
よつて、民訴法四〇一条、九五条、八九条、九三条に従い、裁判官全員の一致で、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 関根小郷 裁判官 天野武一 裁判官 坂本吉勝 裁判官 江里口清雄)

+判例(S55.3.18)
理由
上告代理人木戸徹夫の上告理由Aの一について
所論の点に関する原審の認定判断は、原判決挙示の証拠関係に照らし、正当として是認することができ、原判決に所論の違法はない。論旨は、採用することができない。
同Aの二について
原審が確定した事実の要旨は、被上告人岸武は、村田満津次(第一審被告)が代表取締役を勤めていた訴外淀川ラセン株式会社(以下「訴外会社」という。)の取引先である宇野工業株式会社の代表取締役であつたが、村田の要請によつて、訴外会社が新株一万株(一株五〇〇円)を発行した際(これによりその資本の額は一〇〇〇万円となる。)、そのうち四〇〇〇株(二〇〇万円)を引き受けるとともに、訴外会社の取締役に就任したものの、右就任は、同被上告人において訴外会社に常勤せずその経営内容にも深く関与しないことを前提とするいわゆる社外重役として名目的にしたものであり、実際にも同被上告人は訴外会社に一度も出社したことがなく、その業務の執行は村田の独断専行に任せこれにつき何ら監視することもなく、村田に対し取締役会を招集することを求めたり、自らそれを招集したりしたこともなかつたところ、その間、村田は、代金支払の見込みもないのに訴外会社を代表して上告会社から液体アルゴン等を買い受け、その代金を支払うことができなかつたため、上告会社に損害を与えた、というのである。
ところで、株式会社の取締役は、会社に対し、取締役会に上程された事項についてのみならず、代表取締役の業務執行の全般についてこれを監視し、必要があれば代表取締役に対し取締役会を招集することを求め、又は自らそれを招集し、取締役会を通じて業務の執行が適正に行われるようにするべき職責を有するものである(最高裁昭和四六年(オ)第六七三号同四八年五月二二日第三小法廷判決・民集二七巻五号六五五頁)が、このことは、前記被上告人岸武につき原審が認定したような会社の内部的事情ないし経緯によつていわゆる社外重役として名目的に就任した取締役についても同様であると解するのが相当である。そうすると、前記のように同被上告人が取締役として訴外会社の業務執行を監視するにつき何らなすところがなかつたことはその職責を尽くさなかつたものといわなければならないから、これと見解を異にし、同被上告人には村田の業務の執行につきこれを監視する義務はないとしたものと解される原判決は、法令の解釈適用を誤つたものであり、その誤りは判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、論旨はこの点において理由がある。もつとも原判決は、村田が被上告人菅以外の者の要求によつて取締役会を招集したことがないことや取締役会が開かれた際にも村田に出席取締役の意見を尊重する態度が全く見られなかつたとの認定事実に基づいて、被上告人岸武において村田が前記のような上告会社からの買入れをすることを事前に阻止すべきであるといつてもそれはいうべくして実際上は不可能であつたから、同被上告人は上告人の被つた前記損害につき責任を負わないことをも付加して判示するのであるが、前記のように、同被上告人が訴外会社の取引先の会社の代表者であり、村田の要請によつて、訴外会社の資本の五分の一に当たる株式を保有する株主となり、かつ、その取締役に就任した事情・経緯にかんがみると、同被上告人の村田に対する影響力は少なくなかつたものと考えられるから、右のような事実があつたからといつて直ちに同被上告人が前記職責を尽くすことが不可能であつたとすることは、たやすく肯認しがたいところといわなければならない。そうすると、結局、原判決中上告会社の同被上告人に対する請求を排斥した部分は破棄を免れず、本件は、以上の点について更に審理を尽くさせるのを相当とするから、右部分につきこれを原審に差し戻すこととする。
同Bについて
所論の点に関する原審の認定判断は、原判決挙示の証拠関係に照らし、正当として是認することができ、原判決に所論の違法はない。論旨は、採用することができない。
よつて、民訴法四〇七条一項、三九六条、三八六条、三八四条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
(環昌一 江里口清雄 横井大三 伊藤正己)

・悪意重過失がない、相当因果関係がないことを理由に責任を否定する例もある!!

Ⅴ 直接損害と監視義務


民法 総則 時効 その1 


第1節 時効総論
1.時効の意義

2.時効制度の正当化根拠
(1)社会の法律関係の安定
(2)権利の上に眠る者は保護に値しない
(3)証明困難の救済

3.時効制度の法的位置づけ
(1)実体法説
実体法上の権利の得喪という実体法上の効果が生じる制度であるとする見解
(2)訴訟法説
裁判で援用することにより、他の権利得喪原因の証明を要することなく、権利得喪の裁判を受けることを認める制度であるとする見解

4.多元的理解

第2節 取得時効

1.所有権の取得時効
(1)長期取得時効
+(所有権の取得時効)
第百六十二条  二十年間、所有の意思をもって、平穏に、かつ、公然と他人の物を占有した者は、その所有権を取得する。
2  十年間、所有の意思をもって、平穏に、かつ、公然と他人の物を占有した者は、その占有の開始の時に、善意であり、かつ、過失がなかったときは、その所有権を取得する。

(2)短期取得時効
+(所有権の取得時効)
第百六十二条  二十年間、所有の意思をもって、平穏に、かつ、公然と他人の物を占有した者は、その所有権を取得する。
2  十年間、所有の意思をもって、平穏に、かつ、公然と他人の物を占有した者は、その占有の開始の時に、善意であり、かつ、過失がなかったときは、その所有権を取得する。

・単なる誤信に基づく事実行為による占有取得にも短期取得時効を適用!
→162条2項類推適用
+判例(大正8.10.13)

2.要件
(1)物の占有
a)「他人の物」要件
・取得時効の完成を主張するための前提として、当該物が占有者以外の他人の所有に属することを積極的に立証する必要はない!
+判例(大正9.7.16)

b)自己物の取得時効
+判例(S44.12.18)
要旨
永続した事実状態を尊重するという趣旨は売買契約の契約当事者間にも等しく妥当

・対抗問題において
理由
上告代理人和田珍頼の上告理由一について。原判決は、上告人Aが昭和二七年一一月訴外Bから本件家屋の贈与を受けた事実を確定したうえ、所有権について取得時効が成立するためには、占有の目的物が他人の物であることを要するという見解のもとに、上告人Aが時効によつて本件家屋の所有権を取得した旨の上告人らの抗弁に対し、上告人Aは自己の物の占有者であり、取得時効の成立する余地はない旨説示して、右抗弁を排斥している。
しかし民法一六二条所定の占有者には、権利なくして占有をした者のほか、所有権に基づいて占有をした者をも包含するものと解するのを相当とする(大審院昭和八年(オ)第二三〇一号同九年五月二八日判決、民集一三巻八五七頁参照)。すなわち、所有権に基づいて不動産を占有する者についても、民法一六二条の適用があるものと解すべきである。けだし、取得時効は、当該物件を永続して占有するという事実状態を、一定の場合に、権利関係にまで高めようとする制度であるから、所有権に基づいて不動産を永く占有する者であつても、その登記を経由していない等のために所有権取得の立証が困難であつたり、または所有権の取得を第三者に対抗することができない等の場合において、取得時効による権利取得を主張できると解することが制度本来の趣旨に合致するものというべきであり、民法一六二条が時効取得の対象物を他人の物としたのは、通常の場合において、自己の物について取得時効を援用することは無意味であるからにほかならないのであつて、同条は、自己の物について取得時効の援用を許さない趣旨ではないからである。しかるに、原判決は、右と異なる見解のもとに上告人ら主張の取得時効の抗弁を排斥したものであつて、右民法一六二条の解釈を誤つた違法があるから、その余の論旨について判断を加えるまでもなく、破棄を免れない。そして、上告人ら主張の右取得時効の抗弁の成否についてさらに審理を尽す必要がある。
(裁判長裁判官 奥野健一 裁判官 草鹿浅之介 裁判官 城戸芳彦 裁判官 石田和外 裁判官 色川幸太郎)

c)公物
+判例(S44.5.22)
理由
上告代理人納富義光の上告理由および上告補助参加代理人中村益之助の上告理由の各第一点について。
原審が適法に確定した事実関係のもとにおいては、所論の点について被上告人らの先代に過失がないとした原審の判断は、相当である。本件において、差戻の後の原審としては、あらたに事実の確定を必要とするような事実上の主張がなされない以上、すでに取り調べた証拠のみに基づいて所論の争点を審理判断しうることは当然であつて、所論の点について特段の説示をしなかつたとしても、原判決になんら所論の違法があるとはいえない。所論引用の判例はいずれも本件に適切でなく、これを引用する上告人の主張は、原審においてあらたな証拠の取り調べを必要ならしめるものとはいえない。原判決に所論の違法はなく、論旨は採用することができない。
同第二点について。
自作農創設特別措置法の規定に基づき、政府から売渡を受けて現に被上告人らの先代が耕作していた本件士地に対し、建設大臣が都市計画上公園と決定したとしても、原審の確定するところによれば、上告人京都市は右土地につき直ちに現実に外見上児童公園の形態を具備させたわけではなく(公用開始行為がないことは上告人も自認している)、したがつて、それは現に公共用財産としてその使命をはたしているものではなく、依然としてこれにつき被上告人らの先代の耕作占有状態が継続されてきたというのであるからかかる事実関係のもとにおいては、被上告人らの先代の本件土地に対する取得時効の進行が妨げられるものとは認められない。それゆえ、これと同旨の見解に立つて本件土地に対する被上告人らの先代の取得時効を肯定した原審の判断は、正当として是認するに足りる。原判決に所論の違法はなく、論旨は採用することができない。
同第三点について。
取得時効の要件としての所有の意思の有無は、占有の根拠となつた客観的事実によつて決定さるべきところ、原審の確定するところによれば、被上告人らの先代は、自作農創設特別措置法に基づいて政府から本件土地の売渡を受けたもので、その無効であることを知らず、右売渡によつてその所有権を取得したものと信じて以後その占有を継続していたというのであるから、被上告人らの先代は右処分以来本件土地を所有の意思をもつて占有していたものということができ、これと同旨の原審の認定判断は、正当である。原判決に所論の違法はなく、論旨は採用するに足りない。
同第四点について。
かりに、本件土地の売渡処分に所論のような瑕疵があり、それが無効であるとしても、そのことから直ちに被上告人らの先代による本件土地の占有につき所有の意思が否定されることにはならないから、所論の点について原審が直接判断を加えなかつたからといつて、原判決に所論の違法は認められない。それゆえ、論旨は採用に値いしない。
同第五点について。
原審の確定した事実関係のもとにおいては、被上告人らの先代の取得時効の主張が権利の濫用とは認められない旨の原審の判断は、首肯するに足りる。原判決に所論の違法はなく、論旨は採用することができない。
よつて、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員の一致で、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 大隅健一郎 裁判官 入江俊郎 裁判官 長部謹吾 裁判官 松田二郎 裁判官 岩田誠)

+判例(S51.12.24)
理由
上告代理人貞家克己、同菊池信男、同宮村素之、同森脇勝、同相川俊明、同柳本俊三、同星晃一の上告理由について
公共用財産が、長年の間事実上公の目的に供用されることなく放置され、公共用財産としての形態、機能を全く喪失し、その物のうえに他人の平穏かつ公然の占有が継続したが、そのため実際上公の目的が害されるようなこともなく、もはやその物を公共用財産として維持すべき理由がなくなつた場合には、右公共用財産については、黙示的に公用が廃止されたものとして、これについて取得時効の成立を妨げないものと解するのが相当である。これと趣旨を異にする所論引用の大審院判例(大正九年(オ)第八四一号同一〇年二月一日判決・民録二七輯三巻一六〇頁、昭和四年(オ)第二八九号同年一二月一一日判決・民集八巻一二号九一四頁)は、変更されるべきであり、また、その他の引用の大審院判例は、事案を異にし、本件に適切でない。
これを本件についてみるに、原審の確定するところによれば、(一)本件係争地は、公図上水路として表示されている国有地であつたが、古くから水田、あるいは畦畔に作りかえられ、本件田あるいはその畦畔の一部となり、水路としての外観を全く喪失し、本件係争地及び本件田は、被上告人の祖父が訴外Aから借り受けて小作していた当時から、幅六〇糎ないし七五糎程度の細い畦畔によつて合計四五枚の水田に区分けされていた(原判決別紙図面参照)、(二)被上告人は、昭和二二年七月二日自作農創設特別措置法により上告人から本件田の売渡を受けたが、その当時の本件田と本件係争地の位置関係及び使用状況は、被上告人の祖父が耕作していた状態と全く同様であつたため、被上告人は、本件田及び本件係争地を含んだ水田と畦畔全体を売り渡されたものと信じ、水田あるいは畦畔として平穏かつ公然に本件係争地の占有を続けたというのであり(この事実の認定は、原判決挙示の証拠関係に照らして是認することができる。)、右事実によれば、本件係争地は、公共用財産としての形態、機能を全く喪失し、被上告人の祖父の時代から引き続き私人に占有されてきたが、そのために実際上公の目的が害されることもなく、もはやこれを公共用財産として維持すべき理由がなくなつたことは明らかであるから、本件係争地は、黙示的に公用が廃止されたものとして、取得時効の対象となりうるものと解すべきである。これと同旨の見解に立つて本件係争地に対する被上告人の取得時効の成立を肯定した原審の判断は、正当として是認することができる。原判決に所論の違法はなく、論旨は採用することができない。
よつて、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 岡原昌男 裁判官 大塚喜一郎 裁判官 吉田豊 裁判官 本林讓 裁判官 栗本一夫)

(2)一定期間の占有の継続
a)占有継続の推定
+(占有の態様等に関する推定)
第百八十六条  占有者は、所有の意思をもって、善意で、平穏に、かつ、公然と占有をするものと推定する。
2  前後の両時点において占有をした証拠があるときは、占有は、その間継続したものと推定する
←法律上の事実推定

b)自然中断
+(占有の中止等による取得時効の中断)
第百六十四条  第百六十二条の規定による時効は、占有者が任意にその占有を中止し、又は他人によってその占有を奪われたときは、中断する。

+(占有権の消滅事由)
第二百三条  占有権は、占有者が占有の意思を放棄し、又は占有物の所持を失うことによって消滅する。ただし、占有者が占有回収の訴えを提起したときは、この限りでない

(3)占有の態様
a)自主占有
所有の意思をもってする占有

・所有の意思の有無は、占有取得の原因たる事実によって外形的・客観的に決定され、個々的な占有者の内心の意思は問題ない
+判例(S45.6.18)
理由
上告人の上告理由および上告代理人幸野国夫の上告理由について。
所論指摘の事実関係に関する原審の認定判断は、原判決挙示の証拠関係に照らして是認することができ、右認定判断の過程に何らの違法も存しない。上告人が昭和二一年五月一日被上告人から賃借して占有するに至つた土地が、等一審判決添付目録記載の区画整理前の本件土地二筆であることは、原判文上、その挙示する証拠と対比して明らかであり、所論の甲号各証は、必ずしも原審の所論の事実認定の妨げとなるものではないから、原判決がこれらの書証を判文上いちいち排斥し、または排斥する理由を説示することがなくても、これをもつて所論の違法があるとすることはできない。そして、占有における所有の意思の有無は、占有取得の原因たる事実によつて外形的客観的に定められるべきものであるから、賃貸借が法律上効力を生じない場合にあつても、賃貸借により取得した占有は他主占有というべきであり、原審の確定した事実によれば、前示の賃貸借が農地調整法五条(昭和二一年法律第四二号による改正前のもの)所定の認可を受けなかつたため効力が生じないものであるとしても、上告人の占有をもつて他主占有というに妨げなく、同旨の原審の判断は正当として首肯することができる。したがつて、民法一八六第所定の所有の意思の推定はくつがえされたものというべきであり、上告人が同決一八五条の規定により右占有の性質が変じたことを主張立証しないかぎり、上告人において本件土地を時効により取得したとする余地はないところ、所論の主張事実により占有の性質が変じたとすることができないことはいうまでもなく、上告人は他に同条の規定の適用を受けるべき事実関係を主張立証しないのであるから、原審が上告人において所論の期間所論の土地を占有したかどうか、またその占有が自主占有であるか否かにつき、いちいち判示することがなくても、これをもつて違法とすることはできないのである。原判決に所論の違法はなく、論旨は、すべて、原審の専権に属する証拠の取捨、事実の認定を非難するか、独自の見解に基づき原判決を攻撃するに帰し、採用することができない。
よつて、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員の一致で、主文のとおり判決する。(岩田誠 入江俊郎 長部謹吾 大隅健一郎)

←原始取得だから占有者の主観を重視する必要はない。

・所有権移転の効果発生に法定の条件が付されている場合は
+判例(H13.10.26)
理由
上告代理人高間栄の上告受理申立て理由第2の2について
1 本件は、上告人が被上告人から農地を買い受け、農地法5条所定の転用許可を条件とする条件付所有権移転仮登記が経由されたのち、22年以上同許可申請が行われなかったところ、被上告人が、上告人の同許可申請手続協力請求権が時効により消滅したと主張し、当該農地の所有権に基づく妨害排除として、上告人に対し、同仮登記の抹消登記手続を求めている事案である。
原審の適法に確定した事実関係の概要は、次のとおりである。
(1) 被上告人は、原判決物件目録記載の土地(以下「本件農地」という。)を所有していた。
(2) 上告人は、昭和52年7月17日、被上告人との間で、本件農地を代金800万円で買い受ける旨の売買契約(以下「本件売買契約」という。)を締結した。本件売買契約においては、昭和54年3月31日までに農地法5条所定の転用許可(以下「本件許可」という。)の申請手続を行う旨が約されていた。
(3) 上告人は、被上告人に対し、昭和52年7月23日までに本件売買契約の代金を完済した。
(4) 本件農地につき、昭和52年7月19日売買(条件 農地法5条の許可)を原因とし、上告人を権利者とする、条件付所有権移転仮登記が経由された。
(5) 上告人は、本件売買契約が成立した直後には自ら本件農地を管理していたが、その後被上告人に管理を委託し、平成元年11月ころからは、被上告人に対し、年5万円の賃料で本件農地を貸与し、被上告人は本件農地の耕作を再開した。
(6) 本件許可申請手続を行うべき期限として合意された昭和54年3月31日を経過しても、上告人は被上告人に対して、本件許可申請手続に対する協力を請求しなかった。
(7) 上告人は、被上告人との間で、平成3年11月15日付けで、本件農地につき、賃料年5万円、期間2年間とする賃貸借契約書を交わし、さらに、平成5年11月15日、これを更新して同様の賃貸借契約書を交わした。
(8) 本訴において、上告人は、本件売買契約の直後から本件農地の占有を開始し20年間占有を継続したことにより本件農地の所有権を時効取得した旨主張して、本件農地の取得時効を援用し、被上告人の所有権を争った
2 原審は、大略次のとおり判断して、本件農地の所有権を時効取得した旨の上告人の抗弁を排斥し、被上告人の本訴請求を全部認容した。
(1) 本件許可がない以上、本件売買契約によっても本件農地の所有権は上告人に移転せず、なお被上告人に保留されている。
(2) 本件売買契約において、本件許可が必要であることが明示され、登記簿上も本件許可を条件とする条件付所有権移転仮登記がされているのであるから、上告人の占有における所有の意思の内容も、条件付の所有権取得の意思であったと認められる。したがって、同条件が未成就である以上、上告人の占有における所有の意思も不完全な所有の意思であったと認めざるを得ず、上告人の占有は完全な所有の意思を欠くものというべきであるから、上告人による本件農地の時効取得を認めることはできない。
3 しかしながら、原審の上記2(2)の判断は是認することができない。その理由は、次のとおりである。
【要旨】農地を農地以外のものにするために買い受けた者は、農地法5条所定の許可を得るための手続が執られなかったとしても、特段の事情のない限り、代金を支払い当該農地の引渡しを受けた時に、所有の意思をもって同農地の占有を始めたものと解するのが相当である。
これを本件についてみると、上告人は、本件売買契約を締結した直後に本件農地の引渡しを受け、代金を完済して、自らこれを管理し、その後は被上告人に管理を委託し、又は賃貸していたのであるから、本件許可を得るための手続が執られなかったとしても、上告人は、所有の意思をもって本件農地を占有したものというべきである。
4 以上によれば、上告人の本件農地の占有につき所有の意思を欠くものとした原審の判断には、判決に影響を及ぼすことが明らかな法令の違反がある。論旨はこれと同趣旨をいうものとして理由があり、原判決は破棄を免れない。そして、前記事実関係によれば、上告人は、20年間の占有の継続により本件農地の所有権を時効取得したというべきであり、被上告人の本訴請求は理由がないことに帰するから、第1審判決中上告人敗訴部分を取り消した上、同部分につき被上告人の本訴請求を棄却することとする。
よって、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 河合伸一 裁判官 福田博 裁判官 北川弘治 裁判官 亀山継夫 裁判官 梶谷玄)

++解説
《解  説》
一 本件は、Xから本件農地を買受け、農地法五条の転用移転許可を条件とする条件付所有権移転仮登記を経由していたYが、二二年以上転用許可申請を行わなかったところ、Xが、Yの転用許可申請手続協力請求権が時効により消滅したと主張して、本件農地の所有権に基づく妨害排除として、Yに対し、同仮登記の抹消登記手続を求めた事案である。

二 本件の事実関係の概要は次のとおりであり、Yの取得時効の抗弁が主たる争点であった。
(1) Yは、昭和五二年七月一七日、本件農地を所有していたXとの間で、本件農地を代金八〇〇万円で買い受ける旨の本件売買契約を締結した。本件売買契約においては、昭和五四年三月三一日までに農地法五条所定の転用許可申請手続を行う旨が約されていた。
(2) Yは、Xに対し、昭和五二年七月二三日までに本件売買契約の代金を完済した。
(3) 本件農地につき、昭和五二年七月一九日売買(条件 農地法五条の許可)を原因としYを権利者とする条件付所有権移転仮登記が経由された。
(4) Yは、本件売買契約が成立した直後には自ら本件農地を管理していたが、その後Xに管理を委託し、平成元年一一月ころからは、Xに対し、本件農地を貸与し、Xが本件農地の耕作を再開した。
(5) 本訴において、Xは、Yの転用許可申請手続協力請求権の消滅時効を援用した。
(6) 他方、Yは、本件売買契約の直後から本件農地の占有を開始し二〇年間占有を継続したことにより、本件農地の所有権を時効取得した旨主張して、取得時効を援用した。

三 一審は、Yが売買契約の代金を完済したことにより自主占有を開始したものとは認め難いとして、Yの取得時効の抗弁を排斥した。原審は、(1)転用許可がない以上、本件農地の所有権はYに移転せず、なお、Xに保留されている、(2)本件売買契約において、転用許可が必要であることが明示され、登記簿上も転用許可を条件とする条件付所有権移転仮登記がされているのであるから、Yの占有における所有の意思の内容も、条件付の所有権取得の意思であったと認められる、したがって、同条件が未成就である以上、Yの占有における所有の意思も不完全な所有の意思であったと認めざるを得ず、Yの占有は完全なる所有の意思を欠くものというべきであり、Yの本件農地に対する時効取得を認めることはできない、として、Yの取得時効の抗弁を排斥し、Xの請求を認容した。原判決に対し、Yの本件農地の占有が自主占有であることを否定した点に判例と相反する判断を含むことなどを理由として、Yから上告受理申立てがされた(この点以外の受理申立理由は、受理決定において排除されている。)。

四 本判決は、「農地を農地以外のものにするために買い受けた者は、農地法五条所定の許可を得るための手続が執られなかったとしても、特段の事情のない限り、代金を支払い農地の引渡しを受けた時に、所有の意思をもって農地の占有を始めたものと解するのが相当である。」と判示し、Yの本件農地の占有につき所有の意思を欠くものとした原審の判断には、判決に影響を及ぼすことが明らかな法令の違反があるとして、原判決を破棄し、Xの本訴請求を棄却する旨の自判をした。

五 取得時効の要件としての自主占有とは、占有者が所有権と同一内容の支配する意思をもって物に対してする事実支配であり、自主占有かどうかは、権原の性質すなわち事実上占有の根拠となった客観的性質によって決せられると解するのが判例通説(最一小判昭45・6・18裁判集民九九号三七五頁、本誌二五一号一八五頁、最一小判昭45・10・29裁判集民一〇一号二四三頁、本誌二五五号一五六頁、我妻榮・新訂民法総則四七八頁など)である。売買や贈与は、所有権の移転を目的とする法律行為であって、自主占有権原となることは明らかであろうが、取得時効の成否が争われる場合には、自主占有権原の根拠となる法律行為には何らかの瑕疵があるのが通常であるため、どのような内容程度の瑕疵があるときに自主占有を開始したといえるかは一つの問題である。本件では、農地法五条の許可の欠けつしたままの占有開始が自主占有といえるかという形でこの問題が問われている。
最一小判昭52・3・3民集三一巻二号一五七頁、本誌三四八号一九五頁は、農地を賃借していた者が所有者から同農地を買い受けたが農地調整法四条所定の知事の許可等を得るための手続が執られていない場合について、「農地調整法四条によって農地の所有権移転の効力発生要件とされていた許可等の手続がとられなかったとしても、買主は特段の事情のない限り、売買契約を締結し代金を支払った時に民法一八五条にいう新権原により所有の意思をもって同農地の占有を始めたものというべきである。」と判示している。また、その後の最二小判昭59・5・25民集三八巻七号七六四頁、本誌五四〇号一八六頁及び最三小判昭63・12・6裁判集民一五五号一八七頁も農地調整法四条所定の知事の許可等を受けることなく贈与、売買に基づき農地の占有を開始した事案において、その占有が自主占有であることを前提とした判示をしている。これらの判例の事案は、いずれも農地を農地として他に所有権を移転する場合等に知事の許可等を得なければならない旨規定していた農地調整法四条の許可についての事案であり、農地法でいうと三条の許可に当たる事案である。本件で問題となる農地法五条は、農地等を他の目的に転用するために他人に権利を移動する場合に、知事の許可を得なければならない旨定めたものであるが、権利の移動そのものを制限するいう点では農地法三条の制限と同様の性質を持っており、同条の場合と同様、知事の許可は法定条件の一種と考えられ、現実に知事の許可がない以上、農地所有権移転の効力は生じないと解されている(最二小判昭36・5・26民集一五巻五号一四〇四頁)。そうすると、前記昭和五二年判例の理は、農地法五条の転用許可未取得の場合でも変わることはないと解される。
六 本判決は、転用目的の農地の売買につき農地法五条所定の許可を得るための手続が執られていない場合における買主の自主占有の開始時期について、農地調整法四条(農地法三条)に関する前記昭和五二年判例の示した法理と同様に、特段の事情のない限り、代金を支払い農地の引渡しを受けた時に、所有の意思をもって農地の占有を始めたものと解するのが相当である旨判示した初めての最高裁判例であり、今後の執務の参考となると考えられるので、ここに紹介する。

b)平穏かつ公然の占有

c)占有の態様等に関する推定
+(占有の態様等に関する推定)
第百八十六条  占有者は、所有の意思をもって、善意で、平穏に、かつ、公然と占有をするものと推定する。
2  前後の両時点において占有をした証拠があるときは、占有は、その間継続したものと推定する。

・他主占有について
+判例(S58.3.24)
理由
上告代理人金井清吉の上告理由第一点一について
原判決は、(1) 被上告人は、Aの長男として生れ、昭和二〇年に結婚したのちは被上告人夫婦が主体となつてAと共に農業に従事してきたが、昭和三三年元旦に本件各不動産の所有者であるAからいわゆる「お綱の譲り渡し」を受け、本件各不動産の占有を取得した、(2) 右「お綱の譲り渡し」は、熊本県郡部で今でも慣習として残つているところがあり、所有権を移転する面と家計の収支に関する権限を譲渡する面とがあつて、その両面にわたつて多義的に用いられている、(3) 被上告人は、右「お綱の譲り渡し」以後農業の経営とともに家計の収支一切を取りしきり、農業協同組合に対する借入金等の名義をAから被上告人に変更し、同組合から自己の一存で金融を得ていたほか、当初同組合からの信用を得るためその要望に応じてA所有の山林の一部を被上告人名義に移転したりし、本件各不動産の所有権の贈与を受けたと信じていた、(4) Aは、昭和四〇年三月一日死亡し、その子である被上告人及び上告人らがAを相続した、以上の事実を認定したうえ、右事実関係のもとでは、被上告人は、「お綱の譲り渡し」により、Aから家計の収支面の権限にとどまらず、本件各不動産を含む財産の処分権限まで付与されていたと認められるものの、所有権の贈与を受けたものとまでは断じ難いが、前記のように本件各不動産の所有権を取得したと信じたとしても無理からぬところがあるというべきであるとし、被上告人は本件各不動産を所有の意思をもつて占有を始めたものであり、その占有の始め善意無過失であつたから、占有開始時より一〇年を経過した昭和四三年一月一日本件各不動産を時効により取得したものと判断して、右時効取得を登記原因とする被上告人の上告人らに対する本件各不動産の所有権移転登記手続の請求を認容している。
ところで、民法一八六条一項の規定は、占有者は所有の意思で占有するものと推定しており、占有者の占有が自主占有にあたらないことを理由に取得時効の成立を争う者は右占有が所有の意思のない占有にあたることについての立証責任を負うのであるが(最高裁昭和五四年(オ)第一九号同年七月三一日第三小法廷判決・裁判集民事一二七号三一七頁参照)、右の所有の意思は、占有者の内心の意思によつてではなく、占有取得の原因である権原又は占有に関する事情により外形的客観的に定められるべきものであるから(最高裁昭和四五年(オ)第三一五号同年六月一八日第一小法廷判決・裁判集民事九九号三七五頁、最高裁昭和四五年(オ)第二六五号同四七年九月八日第二小法廷判決・民集二六巻七号一三四八頁参照)、占有者がその性質上所有の意思のないものとされる権原に基づき占有を取得した事実が証明されるか、又は占有者が占有中、真の所有者であれば通常はとらない態度を示し、若しくは所有者であれば当然とるべき行動に出なかつたなど、外形的客観的にみて占有者が他人の所有権を排斥して占有する意思を有していなかつたものと解される事情が証明されるときは、占有者の内心の意思のいかんを問わず、その所有の意思を否定し、時効による所有権取得の主張を排斥しなければならないものである。しかるところ、原判決は、被上告人はAからいわゆる「お綱の譲り渡し」により本件各不動産についての管理処分の権限を与えられるとともに右不動産の占有を取得したものであるが、Aが本件各不動産を被上告人に贈与したものとは断定し難いというのであつて、もし右判示が積極的に贈与を否定した趣旨であるとすれば、右にいう管理処分の権限は所有権に基づく権限ではなく、被上告人は、A所有の本件各不動産につき、実質的にはAを家長とする一家の家計のためであるにせよ、法律的には同人のためにこれを管理処分する権限を付与されたにすぎないと解さざるをえないから、これによつて被上告人がAから取得した本件各不動産の占有は、その原因である権原の性質からは、所有の意思のないものといわざるをえない。また、原判決の右判示が単に贈与があつたとまで断定することはできないとの消極的判断を示したにとどまり、積極的にこれを否定した趣旨ではないとすれば、占有取得の原因である権原の性質によつて被上告人の所有の意思の有無を判定することはできないが、この場合においても、Aと被上告人とが同居中の親子の関係にあることに加えて、占有移転の理由が前記のようなものであることに照らすと、その場合における被上告人による本件各不動産の占有に関し、それが所有の意思に基づくものではないと認めるべき外形的客観的な事情が存在しないかどうかについて特に慎重な検討を必要とするというべきところ、被上告人がいわゆる「お綱の譲り渡し」を受けたのち家計の収支を一任され、農業協同組合から自己の一存で金員を借り入れ、その担保とする必要上A所有の山林の一部を自己の名義に変更したことがあるとの原判決挙示の事実は、いずれも必ずしも所有権の移転を伴わない管理処分権の付与の事実と矛盾するものではないから、被上告人の右占有の性質を判断する上において決定的事情となるものではなく、かえつて、右「お綱の譲り渡し」後においても、本件各不動産の所有権移転登記手続はおろか、農地法上の所有権移転許可申請手続さえも経由されていないことは、被上告人の自認するところであり、また、記録によれば、Aは右の「お綱の譲り渡し」後も本件各不動産の権利証及び自己の印鑑をみずから所持していて被上告人に交付せず、被上告人もまた家庭内の不和を恐れてAに対し右の権利証等の所在を尋ねることもなかつたことがうかがわれ、更に審理を尽くせば右の事情が認定される可能性があつたものといわなければならないのである。そして、これらの占有に関する事情が認定されれば、たとえ前記のような被上告人の管理処分行為があつたとしても、被上告人は、本件各不動産の所有者であれば当然とるべき態度、行動に出なかつたものであり、外形的客観的にみて本件各不動産に対するAの所有権を排斥してまで占有する意思を有していなかつたものとして、その所有の意思を否定されることとなつて、被上告人の時効による所有権取得の主張が排斥される可能性が十分に存するのである。しかるに原審は、前記のような事実を認定したのみで、それ以上格別の理由を示すことなく、また、さきに指摘した点等について審理を尽くさないまま、被上告人による本件各不動産の占有を所有の意思によるそれであるとし、被上告人につき時効によるその所有権の取得を肯定しているのであつて、原判決は、所有の意思に関する法令の解釈適用を誤り、ひいて審理不尽ないし理由不備の違法をおかしたものというべく、右の違法が判決の結論に影響を及ぼすことは明らかである。論旨は右の趣旨をいう点において理由があり、原判決は破棄を免れない。そして、本件については、更に審理を尽くさせるのが相当であるから、これを原審に差し戻すこととする。よつて、民訴法四〇七条一項に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 中村治朗 裁判官 団藤重光 裁判官 藤崎萬里 裁判官 谷口正孝 裁判官 和田誠一)

+判例(H7.12.15)
理由
一 上告代理人長戸路政行の上告理由について
1 上告人らの第二次的請求は、A(上告人Bの父)による昭和三〇年一〇月三日の本件土地の占有をその起算点とする期間一〇年又は二〇年(昭和四二年一月初旬に上告人らが占有を承継)の取得時効の成立を理由として、被上告人らに対し、各持分移転登記手続を求めるものであり、第三次的請求は、上告人らによる昭和四二年四月三〇日の本件土地の占有をその起算点とする期間一〇年又は二〇年の取得時効の成立を理由として、被上告人らに対し、各持分移転登記手続を求めるものである。
原審は、(1) 本件土地の当時の所有者であったC(被上告人Dの夫Eの父、被上告人Fの祖父)とA(Cの弟)との間で、昭和三〇年一〇月に本件土地とA所有の五八九番の土地との交換契約が成立したと認めるに足りないこと、及びAが上告人らに対し、昭和四二年一月に本件土地を贈与したと認めるに足りないことを理由に、Aによる昭和三〇年一〇月ころの本件土地の占有の開始が交換契約により所有権を取得したと認識した上のものであると認めるに足りず、上告人らによる昭和四二年四月ころの本件土地の占有の開始も贈与契約により所有権を取得したと認識した上のものであると認めるに足りないとし、また、(2) A及び上告人らは、本件土地につき、登記簿上の所有名義がC又はEにあり、Aに移転していないことを知りながら、その移転登記手続を求めることなく長期間放置し、本件土地の固定資産税を負担することもしなかったなど、所有者としてとるべき当然の措置をとっていないことを総合して考慮すると、A及び上告人らには本件土地を占有するにつき所有の意思がなかったというのが相当であると判断した。

2 しかしながら、原審の右判断は、是認することができない。その理由は、次のとおりである。
民法一八六条一項の規定は、占有者は所有の意思で占有するものと推定しており、占有者の占有が自主占有に当たらないことを理由に取得時効の成立を争う者は、右占有が所有の意思のない占有に当たることについての立証責任を負うのであるが、右の所有の意思は、占有者の内心の意思によってではなく、占有取得の原因である権原又は占有に関する事情により外形的客観的に定められるべきものであるから、占有者の内心の意思のいかんを問わず、占有者がその性質上所有の意思のないものとされる権原に基づき占有を取得した事実が証明されるか、又は占有者が占有中、真の所有者であれば通常はとらない態度を示し、若しくは所有者であれば当然とるべき行動に出なかったなど、外形的客観的にみて占有者が他人の所有権を排斥して占有する意思を有していなかったものと解される事情(このような事情を以下「他主占有事情」という。)が証明されて初めて、その所有の意思を否定することができるものというべきである(最高裁昭和五七年
(オ)第五四八号同五八年三月二四日第一小法廷判決・民集三七巻二号一三一頁参照)。
これを本件についてみると、原審の(1)の判断は、A又は上告人らの内心の意思が所有の意思のあるものと認めるに足りないことを理由に、同人らの本件土地の占有は所有の意思のない占有に当たるというに帰するものであって、同人らがその性質上所有の意思のないものとされる権原に基づき占有を取得した事実を確定した上でしたものではない。
原審の(2)の判断は、A及び上告人らが本件土地の登記簿上の所有名義人であったC又はEに対し長期間にわたって移転登記手続を求めなかったこと、及び本件土地の固定資産税を全く負担しなかったことをもって他主占有事情に当たると判断したものである。まず、所有権移転登記手続を求めないことについてみると、この事実は、基本的には占有者の悪意を推認させる事情として考慮されるものであり、他主占有事情として考慮される場合においても、占有者と登記簿上の所有名義人との間の人的関係等によっては、所有者として異常な態度であるとはいえないこともある。次に、固定資産税を負担しないことについてみると、固定資産税の納税義務者は「登記簿に所有者として登記されている者」である(地方税法三四三条一、二項)から、他主占有事情として通常問題になるのは、占有者において登記簿上の所有名義人に対し固定資産税が賦課されていることを知りながら、自分が負担すると申し出ないことであるが、これについても所有権移転登記手続を求めないことと大筋において異なるところはなく、当該不動産に賦課される税額等の事情によっては、所有者として異常な態度であるとはいえないこともある。すなわち、これらの事実は、他主占有事情の存否の判断において占有に関する外形的客観的な事実の一つとして意味のある場合もあるが、常に決定的な事実であるわけではない
本件においては、原審は、A又は上告人らの本件土地の使用状況につき、(ア)Aは、それまで借家住まいであったが、昭和三〇年一〇月ころ、本件土地に建物を建築し、妻子と共にこれに居住し始めた、(イ)Aは、昭和三八年ころ、本件土地の北側角に右建物を移築した、(ウ)Aは、昭和四〇年八月ころ、移築した右建物の東側に建物を増築した、(エ)上告人Bと結婚していた上告人Gは、昭和四二年四月ころ、Aが移築し、増築した建物の東側に隣接して作業所兼居宅を建築した、(オ)上告人Gは、昭和六〇年、Aが移築し、増築した建物と上告人Gが建築した作業所兼居宅とを結合するなどの増築工事をして現在の建物とした、(カ)C又はEは、以上のA又は上告人Gによる建物の建築等について異議を述べたことがなかった、との事実を認定しているところ、AはCの弟であり、いわばA家が分家、C家が本家という関係にあって、当時経済的に苦しい生活をしていたA家がC家に援助を受けることもあったという原判決認定の事実に加えて、右(ア)ないし(カ)の事実をも総合して考慮するときは、A及び上告人らが所有権移転登記手続を求めなかったこと及び固定資産税を負担しなかったことをもって他主占有事情として十分であるということはできない。なお、原審は、本件土地の固定資産税につき、Cらに対していつからどの程度の金額が賦課されていたのか、A又は上告人らにおいていつそれを知ったのかについて審理判断していない。

3 以上の次第で、原審の右(1)、(2)の判断は、所有の意思に関する法令の解釈適用を誤った違法があり、ひいて審理不尽、理由不備の違法をおかしたものであり、右違法は、原判決のうち上告人らの被上告人らに対する第二次的及び第三次的請求に係る部分の結論に影響を及ぼすことが明らかである。
論旨は、右の趣旨をいうものとして理由があり、原判決は右部分につき破棄を免れない。そこで、更に審理を尽くさせるため、右部分につき本件を原審に差し戻すこととする。
二 本件上告について提出された上告状及び上告理由書には上告人らの被上告人らに対する第一次的請求に係る部分についての上告理由の記載がないから、右部分については適法な上告理由書提出期間内に上告理由書の提出がなかったことに帰する。そうすると、右部分についての上告は、不適法であるから、これを却下すべきである。
三 よって、民訴法四〇七条一項、九五条、八九条、九三条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 大西勝也 裁判官 根岸重治 裁判官 河合伸一 裁判官 福田博)

(4)他主占有の自主占有への転換
a)総論
+(占有の性質の変更)
第百八十五条  権原の性質上占有者に所有の意思がないものとされる場合には、その占有者が、自己に占有をさせた者に対して所有の意思があることを表示し、又は新たな権原により更に所有の意思をもって占有を始めるのでなければ、占有の性質は、変わらない。
+判例(S51.12.2)
理由 
 上告代理人臼居直道の上告理由について 
 原判決の引用する第一審判決添付別紙目録記載の土地(以下「本件土地」という。)は、昭和一四年四月二七日上告人が家督相続によりその所有権を取得したものであるが、かねてより訴外Aが小作人としてこれを耕作し、その小作料は、同人から本件土地の管理人のように振舞つていた訴外Bに支払われていたところ、昭和三一年七月二三日ごろ、上告人の代理人と称するBとAとの間で、上告人がAに本件土地を代金六〇万円で売り渡す旨の合意が成立し、Aは、右譲受につき農地法三条所定の許可を受けたうえで、昭和三二年三月九日その所有権移転登記を経由し、そのころ代金全額を支払つた。 
 かくしてAが本件土地の所有権を取得したものと信じてその占有を始めたが、本件土地の一部についてはその後Aによつてされた売買、交換に基づいてこれを取得した者がAの占有を承継している。 
 なお、Bには上告人を代理するなんらかの権限を有していたと認めるに足りる証拠はない。 
 以上は、原審が適法に確定したところであつて、本件土地の譲渡につきされた農地法所定の許可及び所有権移転登記の各申請手続になんらかの瑕疵があつたことは確定されていないところ、土地所有者である上告人には、すくなくとも、Bに公然と本件土地の管理人のような行動をする余地を与えた(事柄の性質上長期にわたるものであつたと推測することができ、原審認定の趣旨もここにあるものと考えられる。)等の点において権利者として本件土地につき適切な管理を怠つていたものといわれてもやむをえないところがあり、これらの点からすると、右所有権移転登記を経由したAがBを通じて適法に本件土地を譲り受けることができるものと信じ、その代金を支払つたことは無理ではないといえる。従つて、以上の事実関係のもとにおいては、Bに上告人を代理する権限がなかつたことを考慮に入れても、本件土地の小作人としてこれを他主占有していたAは、遅くとも右の登記がされた昭和三二年三月九日には民法一八五条にいう新権原により所有の意思をもつて本件土地の占有を始めたものであり、かつ、その占有の始めに土地所有権を取得したものと信じたことには過失がなかつたものというべきである。これと同旨の原審の判断は正当として是認することができ、その過程に所論の違法はない。論旨は、採用することができない。 
 よつて、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。 
 (裁判長裁判官 岸盛一 裁判官 下田武三 裁判官 岸上康夫 裁判官 団藤重光) 
+判例(S52.3.3)
理由 
 上告代理人下向井貞一の上告理由第一点及び第三点について 
 農地を賃借していた者が所有者から右農地を買い受けその代金を支払つたときは、当時施行の農地調整法四条によつて農地の所有権移転の効力発生要件とされていた都道府県知事の許可又は市町村農地委員会の承認を得るための手続がとられていなかつたとしても買主は、特段の事情のない限り、売買契約を締結し代金を支払つた時に民法一八五条にいう新権原により所有の意思をもつて右農地の占有を始めたものというべきである。これと同旨の見地に立つて、被上告人は売買契約を締結し代金を支払つた日に本件土地につき新権原により所有の意思をもつて占有を始めたものということができるとした原審の認定判断は、原判決挙示の証拠関係に照らし、正当として是認することができ、その過程に所論の違法はない。論旨は、採用することができない。 
 同第二点について 
 所論の点に関する原審の認定判断は、原判決挙示の証拠に照らし、正当として是認することができ、その過程に所論の違法はない。論旨は、採用することができない。 
 よつて、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。 
 (裁判長裁判官 岸盛一 裁判官 下田武三 裁判官 岸上康夫) 
b)相続を契機とする転換
+判例(S46.11.30)
理由 
 上告代理人大西芳雄の上告理由について。 
 所論の事実関係に関する原審の認定判断は、原判決挙示の証拠関係に照らして首肯できないものではなく、右認定判断の過程に所論の違法を認めることはできない。 
 そして、原審の確定した事実によれば、訴外Aは、かねて兄である被上告人から、その所有の本件土地建物の管理を委託されたため、本件建物の南半分に居住し、本件土地および本件建物の北半分の賃料を受領していたところ、同訴外人は昭和二四年六月一五日死亡し、上告人らが相続人となり、その後も、同訴外人の妻上告人Bにおいて本件建物の南半分に居住するとともに、本件土地および本件建物の北半分の賃料を受領してこれを取得しており、被上告人もこの事実を了知していたというのである。しかも、上告人Cおよび同Dが、右訴外人死亡当時それぞれ六才および四才の幼女にすぎず、上告人Bはその母であり親権者であつて、上告人Cおよび同Dも上告人Bとともに本件建物の南半分に居住していたことは当事者間に争いがない。 
 以上の事実関係のもとにおいては、上告人らは、右訴外人の死亡により、本件土地建物に対する同人の占有を相続により承継したばかりでなく、新たに本件土地建物を事実上支配することによりこれに対する占有を開始したものというべく、したがつて、かりに上告人らに所有の意思があるとみられる場合においては、上告人らは、右訴外人の死亡後民法一八五条にいう「新権原ニ因リ」本件土地建物の自主占有をするに至つたものと解するのを相当とする。これと見解を異にする原審の判断は違法というべきである。 
 しかしながら、他方、原審の確定した事実によれば、上告人Bが前記の賃料を取得したのは、被上告人から右訴外人が本件土地建物の管理を委託された関係もあり、同人の遺族として生活の援助を受けるという趣旨で特に許されたためであり、右上告人は昭和三二年以降同三七年まで被上告人に本件家屋の南半分の家賃を支払つており、上告人らが右訴外人の死亡後本件土地建物を占有するにつき所有の意思を有していたとはいえないというのであるから、上告人らは自己の占有のみを主張しても、本件土地建物を、時効により取得することができないものといわざるをえない。したがつて、上告人らの取得時効に関する右主張を排斥した原審の判断は、結局相当であり、原判決の前記の違法はその結論に影響を及ぼすものではない。 
 その余の点については、原判決に所論の違法はなく、論旨は採用することができない。 
 よつて、民訴法四〇一条、九五条、八九条、九三条に従い、裁判官全員の一致で、主文のとおり判決する。 
 (裁判長裁判官 下村三郎 裁判官 田中二郎 裁判官 松本正雄 裁判官 関根小郷) 
+判例(H8.11.12)
理由 
 上告代理人山口定男の上告理由第二点について 
 一 原審の適法に確定した事実関係等の概要は、次のとおりである。 
 1 旧門司市所在の本件土地建物、すなわちa町の土地、東門司の土地並びに花月園の土地及び建物は、いずれも、昭和二九年当時、Cの所有であり、このうち東門司の土地及び花月園の建物は第三者に賃貸されていた。Cの五男であったDは、当時福岡県門司市に居住していたところ、同年五月ころからCの所有不動産のうち同市に所在していた本件土地建物につき占有管理を開始し、本件土地建物のうち東門司の土地及び花月園の建物については、貸借人との間で、賃料の支払、賃貸家屋の修繕等についての交渉の相手方となり、賃料を取り立ててこれを生活費として費消していた。 
 2 Dが昭和三二年七月二四日に死亡したことから、その相続人である妻の上告人A(相続分三分の一)及び長男の上告人B(相続分三分の二。昭和三〇年七月一三日生)が本件土地建物の占有を承継したところ、上告人Aは、Dの死亡後、本件土地建物の管理を専行し、東門司の土地及び花月園の建物については、賃借人との間で、賃料額の改定、賃貸借契約の更新、賃貸家屋の修繕等を専決して、保守管理を行い、賃料を取り立ててこれを生活費の一部として費消している。 
 3 上告人Aは、本件土地建物の登記済証を所持し、昭和三三年以降現在に至るまで継続して本件土地建物の固定資産税を納付している。 
 4 Cは、昭和三六年二月二七日に死亡し、その相続人は、妻である被上告人E、長男であるF、二男である被上告人G、四男であるH、長女である被上告人I及び孫である上告人B(代襲相続人)であった。Cは、生前、その所有する多数の土地建物につきその評価額、賃料収入額等を記載したノートを作成していたところ、右ノートには本件土地建物について「Dニ分与スルモノ」との記載がされている。Fは、昭和三八年ないし三九年ころ、Cの経営に係る福井商店の債務整理のため本件土地建物を売却しようとしたが、上告人Aは、Dが本件土地建物をCから贈与された旨をDからその生前に聞いていたので、当時所持していた右ノートをFに示して本件土地建物の売却に反対し、結局、本件土地建物は売却されなかった。 
 5 本件土地建物の登記簿上の所有名義人は、Cの死亡後も依然として同人のままであったことから、上告人Aは、昭和四七年六月、本件土地建物につき上告人ら名義に所有権移転登記をしようと考えて、被上告人Eに協力を求めたところ、同被上告人は、上告人Aの求めに応じて、本件土地建物につき「亡C名義でありますが生前五男D夫婦に贈与せしことを認めます」との記載のある「承認書」に署名押印した。被上告人Eの助言もあったことから、上告人Aは、これに引き続いて、被上告人G及び被上告人Iを訪れて、本件土地建物につき上告人ら名義に所有権移転登記をすることの同意を求めたが、被上告人GはFの意向次第であると答え、被上告人Iは経緯を知らなかったことから同意せず、結局、本件土地建物について上告人ら名義への所有権移転登記はされなかった。 
 二 本件請求は、Cの相続人又はその順次の相続人である被上告人らに対して、上告人らが本件土地建物につき所有権移転登記手続を求めるものであるところ、上告人らの主張は、(1)Dは昭和三〇年七月にCから本件土地建物の贈与を受けた、(2)Dが昭和三〇年七月に本件土地建物の占有を開始した後(同三二年七月二四日に同人の死亡により上告人らが占有を承継)、一〇年又は二〇年が経過したことにより取得時効が成立した、(3)上告人らが昭和三二年七月二四日に本件土地建物の占有を開始した後、一〇年又は二〇年が経過したことにより取得時効が成立した、というものである。 
 原審は、次のとおり判断して、上告人らの請求を棄却した。 
 1 CからDに対する本件土地建物の贈与については、これを推認させる間接事実ないし証拠があるが、贈与の事実の心証までは得られず、Cは本件土地建物をDに贈与する心積もりはあったがこれを履行しないうちにDが死亡したという限度で事実を認定し得るにとどまる。 
 2 Dは昭和二九年五月ころに有償の委任契約に基づく受任者として本件土地建物の占有を開始したものであり、上告人らの主張する昭和三〇年七月の贈与が認められないのであるから、Dはその後も依然として受任者としての占有を継続していたものというべきであり、同人の占有は占有権原の性質上他主占有である。 
 3 上告人らはDの死亡に伴う相続により本件土地建物の占有を開始したものであるが、(1)Cの死亡に伴い提出された昭和三八年一二月三日付け相続税の修正申告書には本件土地建物のほか東門司の土地の賃料及び花月園の建物の賃料が相続財産として記載されているところ、上告人Aはそのころ右修正申告書の写しを受け取りながら、その記載内容について格別の対応をしなかったこと、(2)上告人らが昭和四七年になって初めて本件土地建物につき自己名義への所有権移転登記手続を求めたことなどに照らせば、Dの他主占有が相続を境にして上告人らの自主占有に変更されたとは認められない。 
 三 しかしながら、原審の右判断中3の部分は是認することができない。その理由は、次のとおりである。 
 1 被相続人の占有していた不動産につき、相続人が、被相続人の死亡により同人の占有を相続により承継しただけでなく、新たに当該不動産を事実上支配することによって占有を開始した場合において、その占有が所有の意思に基づくものであるときは、被相続人の占有が所有の意思のないものであったとしても、相続人は、独自の占有に基づく取得時効の成立を主張することができるものというべきである(最高裁昭和四四年(オ)第一二七〇号同四六年一一月三〇日第三小法廷判決・民集二五巻八号一四三七頁参照)。 
 ところで、右のように相続人が独自の占有に基づく取得時効の成立を主張する場合を除き、一般的には、占有者は所有の意思で占有するものと推定されるから(民法一八六条一項)、占有者の占有が自主占有に当たらないことを理由に取得時効の成立を争う者は、右占有が他主占有に当たることについての立証責任を負うべきところ(最高裁昭和五四年(オ)一九号同年七月三一日第三小法廷判決・裁判集民事一二七号三一五頁)、その立証が尽くされたか否かの判定に際しては、(一)占有者がその性質上所有の意思のないものとされる権原に基づき占有を取得した事実が証明されるか、又は(二)占有者が占有中、真の所有者であれば通常はとらない態度を示し、若しくは所有者であれば当然とるべき行動に出なかったなど、外形的客観的にみて占有者が他人の所有権を排斥して占有する意思を有していなかったものと解される事情(ちなみに、不動産占有者において、登記簿上の所有名義人に対して所有権移転登記手続を求めず、又は右所有名義人に固定資産税が賦課されていることを知りながら自己が負担することを申し出ないといった事実が存在するとしても、これをもって直ちに右事情があるものと断ずることはできない。)が証明されて初めて、その所有の意思を否定することができるものというべきである(最高裁昭和五七年(オ)第五四八号同五八年三月二四日第一小法廷判決・民集三七巻二号一三一頁、最高裁平成六年(オ)一九〇五号同七年一二月一五日第二小法廷判決・民集四九巻一〇号三〇八八頁参照)。 
 これに対し、他主占有者の相続人が独自の占有に基づく取得時効の成立を主張する場合において、右占有が所有の意思に基づくものであるといい得るためには、取得時効の成立を争う相手方ではなく、占有者である当該相続人において、その事実的支配が外形的客観的にみて独自の所有の意思に基づくものと解される事情を自ら証明すべきものと解するのが相当である。けだし、右の場合には、相続人が新たな事実的支配を開始したことによって、従来の占有の性質が変更されたものであるから、右変更の事実は取得時効の成立を主張する者において立証を要するものと解すべきであり、また、この場合には、相続人の所有の意思の有無を相続という占有取得原因事実によって決することはできないからである。 
 2 これを本件についてみるに、前記事実関係によれば、上告人Aは、Dの死亡後、本件土地建物について、Dが生前にCから贈与を受け、これを上告人らが相続したものと信じて、幼児であった上告人Bを養育する傍ら、その登記済証を所持し、固定資産税を継続して納付しつつ、管理使用を専行し、そのうち東門司の土地及び花月園の建物について、賃借人から賃料を取り立ててこれを専ら上告人らの生活費に費消してきたものであり、加えて、本件土地建物については、従来からCの所有不動産のうち門司市に所在する一団のものとして占有管理されていたことに照らすと、上告人らは、Dの死亡により、本件土地建物の占有を相続により承継しただけでなく、新たに本件土地建物全部を事実上支配することによりこれに対する占有を開始したものということができる。そして、他方、上告人らが前記のような態様で本件土地建物の事実的支配をしていることについては、C及びその法定相続人である妻子らの認識するところであったところ、同人らが上告人らに対して異議を述べたことがうかがわれないばかりか、上告人Aが昭和四七年に本件土地建物につき上告人ら名義への所有権移転登記手続を求めた際に、被上告人Eはこれを承諾し、被上告人G及び被上告人Iもこれに異議を述べていない、というのである。右の各事情に照らせば、上告人らの本件土地建物についての事実的支配は、外形的客観的にみて独自の所有の意思に基づくものと解するのが相当である。原判決の挙げる(1)Cの遺産についての相続税の修正申告書の記載内容について上告人Aが格別の対応をしなかったこと、(2)上告人らが昭和四七年になって初めて本件土地建物につき自己名義への所有権移転登記手続を求めたことは、上告人らとC及びその妻子らとの間の人的関係等からすれば所有者として異常な態度であるとはいえず、前記の各事情が存在することに照らせば、上告人らの占有を所有の意思に基づくものと認める上で妨げとなるものとはいえない。 
 右のとおり、上告人らの本件土地建物の占有は所有の意思に基づくものと解するのが相当であるから、相続人である上告人らは独自の占有に基づく取得時効の成立を主張することができるというべきである。そうすると、被上告人らから時効中断事由についての主張立証のない本件においては、上告人らが本件土地建物の占有を開始した昭和三二年七月二四日から二〇年の経過により、取得時効が完成したものと認めるのが相当である。 
 四 したがって、これと異なる判断の下に、上告人らの本件土地建物の占有を他主占有として取得時効の主張を排斥し、上告人らの請求を棄却した原審の判断には、法令の解釈適用の誤り、ひいては審理不尽、理由不備の違法があるものといわざるを得ず、右違法は原判決の結論に影響を及ぼすことが明らかである。論旨は右の趣旨をいうものとして理由があり、その余の論旨について判断するまでもなく、原判決は破棄を免れない。そして、前に説示したところによれば、本件土地建物について所有権移転登記手続を求める上告人らの請求は理由があるから、これを認容すべきであり、これと結論を同じくする第一審判決は正当であって、被上告人らの控訴は棄却すべきものである。なお、第一審判決主文第一項に明白な誤謬があることがその理由に照らして明らかであるから、民訴法一九四条により主文のとおり更正する。 
 よって、民訴法四〇八条、三九六条、三八四条、九六条、八九条、九三条に従い、裁判官可部恒雄の補足意見があるほか、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。 
+補足意見
 裁判官可部恒雄の補足意見は、次のとおりである。 
 一 本判決は、法廷意見の引用する「相続と民法一八五条にいう『新権原』」についての昭和四六年一一月三〇日第三小法廷判決を主要な先例とするものであり、これについては優れた判例解説及び評釈があるが(柳川・同年度解説〔42〕、四宮・法協九一巻一号一八八頁)、右判決の採り上げた取得時効の成否については、民法一八六条一項の推定規定をめぐって、(1)実務上大きな影響をもたらした昭和五八年三月二四日第一小法廷判決と、(2)その法理の運用に修正を加えた平成七年一二月一五日第二小法廷判決の二つがあり、本判決もこれら先例を踏まえて原判決の判断を覆した上、自判の結論に至っているので、昭和五八年第一小法廷判決以後の裁判例の動向を上告事件の審理の実際に当たって眺めて来た者の一人として、以下に若干の所見を述べて法廷意見の補足とすることにしたい。 
 二 「占有者は所有の意思で占有するものと推定されるのであるから(民法一八六条一項)、占有者の占有が自主占有にあたらないことを理由に取得時効の成立を争う者は右占有が他主占有にあたることの立証責任を負う」(前掲昭和五四年七月三一日第三小法廷判決)ところ、(一)「占有における所有の意思の有無[占有が自主占有であるかどうか]は、占有取得の原因たる事実によって外形的客観的に定められるべきものである」(最高裁昭和四五年(オ)第三一五号同年六月一八日第一小法廷判決・裁判集民事九九号三七五頁、前掲昭和五四年七月三一日第三小法廷判決)とすること判例である。 
  また、判例は、(二)家督相続制度の下にあった昭和十年代において、戸主甲が、家族乙の死亡による 相続が共同遺産相続であることに想到せず、戸主たる自己が「単独に相続したものと信じて疑わず、相続開始とともに相続財産を現実に占有し、その管理、使用を専行してその収益を独占し、公租公課も自己の名でその負担において納付してきており、これについて他の相続人がなんら関心をもたず、もとより異議を述べた事実もなかったような場合には、前記相続人はその相続のときから自主占有を取得したものと解するのが相当である」(最高裁昭和四五年(オ)第二六五号同四七年九月八日第二小法廷判決・民集二六巻七号一三四八頁)とした。 
 三 これらの先例を踏まえて「民法一八六条一項の所有の意思の推定が覆される場合」について判示したのが、法廷意見の引用する昭和五八年三月二四日第一小法廷判決(いわゆる「お綱の譲り渡し」事件判決)である。 
  同判決は、占有者による占有の意思は、占有者の内心の意思によってではなく、(一)占有取得の原因である権原(前掲昭和四五年六月一八日第一小法廷判決参照)又は(二)占有に関する事情(前掲昭和四七年九月八日第二小法廷判決参照)により外形的客観的に定められるべきものである、とした上で、「1」「占有者がその性質上所有の意思のないものとされる権原に基づき占有を取得した事実が証明されるか」、又は「2」「占有者が占有中、真の所有者であれば通常はとらない態度を示し、若しくは所有者であれば当然とるべき行動に出なかったなど、外形的客観的にみて占有者が他人の所有権を排斥して占有する意思を有していなかつたものと解される事情が証明されるときは」、占有者の内心の意思のいかんを問わず、その所有の意思を否定し、時効による所有権取得の主張を排斥しなければならない旨を判示した。 
 四 判例集に登載された同判決の判示事項は、前述のとおり「民法一八六条一項の所有の意思の推定が覆される場合」であり、この点についての判例・学説は、同事件の判例解説や評釈に詳しい(淺生・同年度解説[6]、後掲有地=生野評釈等参照)。そして、同判決の意義は、「占有の権原」だけでなく「占有に関する事情」もまた、右の推定を覆す事実に当たることを正面から認めた点にある(解説七五頁)とされる。問題は、「2」の占有に関する事情(態様)のうち、a「真の所有者であれば通常はとらない態度を示し」、若しくはb「所有者であれば当然とるべき行動に出なかった」という、抽象的で美しく、一見分かり易くみえる判示の表現するところが、現実の具体的事案に適用される段階で果たしてどのように機能するか、の点にある。 
  同事件判例解説は、a「真の所有者であれば通常はとらない態度を示し」というのは、占有者が係争地の一部を相手方から買い受けた事実がある以上、係争地が相手方の所有であることを承認していたものであるとし(大判大四・三・一〇)、共同相続人の一人である占有者が相続人間で分割の話を持ち出してほしいと依頼したことから所有の意思を否定した(東京高決昭四二・四・一二)例の如きものを指し、また、b「所有者であれば当然とるべき行動に出なかつた」というのは、「占有者密ニ占有ヲ為シ他人ノ其原因ヲ糺スモ曖昧ナル答弁ヲ為シテ所有者ニ其所為ヲ知ラシメサルヲ勉ムルトキ」(ボアソナード)とか、会社が土地の贈与を受けたといいながら、長期間登記を受けずまた公租公課を納付していない(大判昭一〇・九・一八)例の如きものを指すものとしている(解説七六頁)。 
  右の解説の例示するところは、それぞれに、一応素直に肯定することができるもののように思われる。 
 五 ところで、この点について昭和五八年第一小法廷判決の判示するところはどうであろうか。 
  同事件の原審は、亡父Jから同居中の長xが「お綱の譲り渡し」を受け、単に家計の収支面の権限にとどまらず財産的な処分権限まで付与されていたもので、その処分権限の付与を以て未だ所有権の贈与と断じ難いとしても、なお「お綱の譲り渡し」によってxに移転した占有は、xの自主占有に当たるとした。 
  これに対し上告審判決は、原判決の判示が単に贈与があったとまで断定することはできないとの消極的判断を示したにとどまる趣旨であるとすれば、占有取得の原因である権原の性質によってxの所有の意思の有無[自主占有なりや否や]を判定することはできないが、Jとxとが同居中の親子の関係にあることに加えて、Jからxへの占有の移転がいわゆる「お綱の譲り渡し」により本件各不動産についての管理処分権の付与とともになされたことに照らすと、xによる本件各不動産の占有に関し、「それが所有の意思に基づくものではないと認めるべき外形的客観的な事情が存在しないかどうかについて特に慎重な検討を必要とする」とした上で、原判決がxの占有を自主占有と認める根拠として挙げた事実は、所有権の移転を伴わない管理処分権の付与の事実と必ずしも矛盾するものではないから、xの占有が自主占有なりや否やを判断する上において決定的事情となるものではない、と判示した。そして、第一小法廷判決は更に次のような説示を加える。 
  「かえって、右『お綱の譲り渡し』後においても、本件各不動産の所有権移転登記手続はおろか、農地法上の所有権移転許可申請手続さえも経由されていないことは、xの自認するところであり、また、記録によれば、Jは右の『お綱の譲り渡し』後も本件各不動産の権利証及び自己の印鑑をみずから所持していてxに交付せず、xもまた家庭内の不和を恐れてJに対し右の権利証等の所在を尋ねることもなかつたことがうかがわれ、更に審理を尽くせば右の[所有の意思に基づくものではないと認めるべき外形的客観的な]事情が認定される可能性があつたものといわなければならないのである。そして、これらの占有に関する事情が認定されれば、たとえ前記のようなxの管理処分行為があつたとしても、xは、本件各不動産の所有者であれば当然とるべき態度、行動に出なかったものであり、外形的客観的にみて本件各不動産に対するJの所有権を排斥してまで占有する意思を有していなかつたものとして、その所有の意思を否定されることとなつて、xの時効による所有権取得の主張が排斥される可能性が十分に存するのである」と。 
 六 占有が所有の意思に基づくものであるか否か[自主占有なりや否や]を占有に関する事情(態様)に着目して、具体的事案において判定するための指標として、同判決が一般的立言の形式において判示したのは、占有者が占有中、a「真の所有者であれば通常はとらない態度を示し」、若しくはb「所有者であれば当然とるべき態度に出なかつた」ことであるが、判決が同事件において後者bの実例として挙げたのは、「本件各不動産の所有権移転登記手続はおろか、農地法上の所有権移転許可申請手続さえも経由されていないこと」及びJが「お綱の譲り渡し」後も本件各不動産の権利証や自己の実印をxに交付しなかったのに、xが「家庭内の不和を恐れてJに対し右の権利証等の所在を尋ねることもなかつたこと」である。 
  判決の言及するJからxへの所有権移転登記手続及び農地法上の許可申請手続については、係争不動産の所在地である熊本県下益城郡a村及び係争不動産自体についての実体調査に基づく判例評釈において、「判決が指摘するような登記手続などがされていないこと、権利書が交付されていないことだけで、農地承継につき所有者であれば当然とるべき行動に出なかったというのはあまりにも農村の実状を無視した論拠ではないであろうか」との批判がなされている(注)。 
  (注)有地=生野・民商九〇巻五号七四八頁。なお、同評釈は、引用の結論部分に先立って次のように述べている。「本件で指摘された事実[bの実例として判決が挙げた箇所参照]は農村における実態からみれば、かなり現実離れした事実であることは否めない。農村社会では、農地について親からあとつぎへと相続がなされ、所有権が移転しても、移転登記手続や農地法上の所有権移転許可申請が一般になされない場合がむしろ普通であって、不動産の登記名義が二~三代前のもののままであることも珍しくない。本件不動産所在地の豊野村も例外ではなく、農地の名義換えは特別の事情がなければなされなかったようである。本件でも、本件不動産の中にはいまだ祖父名義のままのが残っているものもあるのがこのことを裏書している……本件の不動産の中には権利書が存在しないものもある」と。 
 七 この事件では、第一次的に同居中の父からの生前贈与が主張され、なお予備的にxによる時効取得が主張されているが、それがこの種の事案における紛争の通常の形態であり、同居の親族間においては互いに権利義務関係を露骨に主張することを憚り、結果として、法律的に明確な措置に出ることを怠って、後日に紛争の火種を残すことになるのがむしろ通常であるといえよう。そのような風土、習性、人情が日本の長所であるとはいい難いが、さりとて経済的な競争社会において、個人間の権利義務関係が契約によって初めて規律される状況を前提として、所有権が移転したというなら何故その旨の登記が経由されていないのか、何故その登記を求めなかったのかと声高に指摘して、その一点に贈与の有無ないし自主占有の成否をかからしめるのは、およそこの種紛争の実態に合致しない態度というべきであろう。贈与を原因とする登記が経由されれば、相続税よりも高額の贈与税の負担が目前に迫ることになる。被相続人が死亡した場合は、相続人にとって相続税の負担は、どのような状況の下においても免れることのできないものであるが、生前贈与があった場合には、登記即贈与税の賦課という目前の負担が、贈与を原因とする所有権移転登記の経由という明確な法律的処理をする上での大きな制約となろう。もし、その負担を敢えてして所有権移転登記が経由されたならば、実際上もはや紛争発生の余地はなく、生前贈与の有無や取得時効の成否が論議されることもない。のみならず、占有者が悪意であるときは、悪意の占有者が所有名義人に対し所有権移転登記を求めることがないのは当然であって、移転登記手続を求めないからといって、占有者の所有の意思が否定されることにならないのは、自明のことというべきであろう。要するに、生前贈与の有無ないし取得時効の成否が争われている事案において、所有権移転登記が経由されているか否かをこと新しく指摘してみても、基本的な事実関係を認定する上でさしたる意味を持ち得ないことを知るべきである。 
 八 翻って第一小法廷判決の判示するところをみるのに、判文中所有権移転登記に言及する箇所があるのはさきにみたとおりであるが、その文脈からすれば、必ずしも被相続人Jから同居中の長男xへの所有権移転登記の経由いかんを以て、占有者xの所有の意思の有無(自主占有の成否)を決する上での重要なポイントとしたものとはいえないのではないかと思われる。 
  この点につき特に注目されるのは、法廷意見の引用する平成七年一二月一五日第二小法廷判決の判旨である。同判決は、「登記簿上の所有名義人に対して所有権移転登記手続を求めないなどの土地占有者の態度が他主占有と解される事情として十分であるとはいえないとされた事例」に関するものであるが、同判決は、占有者から登記簿上の所有名義人に対し所有権移転登記手続を求めなかったとしても、「占有者と登記簿上の所有名義人との間の人的関係等によっては、所有者として異常な態度であるとはいえないこともある」とし、また、登記簿上の所有名義人に固定資産税が賦課されていることを知りながら、占有者がその負担を申し出なかったとしても、その「税額等の事情によっては、所有者として異常な態度であるとはいえないこともある」として、「これらの事実は、他主占有事情の存否の判断において占有に関する外形的客観的な事実の一つとして意味のある場合もあるが、常に決定的な事実であるわけではない」旨を判示した。 
  その判示するところは、「お綱の譲り渡し」事件につき第一小法廷判決が、占有者が占有中「真の所有者であれば通常はとらない態度を示し、若しくは所有者であれば当然とるべき行動に出なかつたなど」云々と判示して以来、下級審裁判例において、占有者から登記簿上の所有名義人に対し所有権移転登記手続を求めず、その登記が経由されていないことを以て、自主占有の成否を決する上での重要なポイントであるかの如き解釈運用が少なからず見受けられた近時の状況の下において、その運用上の偏りを修正する上で、その意味するところは大きい。本判決も、この点につき第二小法廷判決と趣旨を同じくするものである。 
 (裁判長裁判官 尾崎行信 裁判官 園部逸夫 裁判官 可部恒雄 裁判官 大野正男 裁判官 千種秀夫) 
+判例(S47.9.8)
理由 
 上告代理人大滝一雄の上告理由について。 
 原審の適法に確定したところによれば、昭和一五年一二月二八日訴外Aの死亡により同人所有の本件土地について、遺産相続が開始し、原判示の続柄にあるB、C、上告人D、上告人E、上告人Fの五名が共同相続をしたが、そのうちCが昭和一八年二月一日死亡したので、原判示の続柄にあるG、H、I、J、Kの五名が同人の遺産相続をしたものであるところ、BはA死亡当時林家の戸主であつたので、当時は家督相続制度のもとにあつた関係もあり、家族であるAの死亡による相続が共同遺産相続であることに想到せず、本件土地は戸主たる自己が単独で相続したものと誤信し、原判示のような方法で自己が単独に所有するものとして占有使用し、その収益はすべて自己の手に収め、地租も自己名義で納入してきたが、昭和三〇年初頃長男である被上告人に本件土地を贈与して引渡し、爾後、被上告人においてB同様に単独所有者として占有し、これを使用収益してきた。一方、前記亡C、上告人D、上告人E、上告人Fらは、いずれもそれぞれAの遺産相続をした事実を知らず、Bおよび被上告人が右のように本件土地を単独所有者として占有し、使用収益していることについて全く関心を寄せず、異議を述べなかつたというのである。 
 ところで、右のように、共同相続人の一人が、単独に相続したものと信じて疑わず、相続開始とともに相続財産を現実に占有し、その管理、使用を専行してその収益を独占し、公租公課も自己の名でその負担において納付してきており、これについて他の相続人がなんら関心をもたず、もとより異議を述べた事実もなかつたような場合には、前記相続人はその相続のときから自主占有を取得したものと解するのが相当である。叙上のような次第でBしたがつて被上告人は本件土地を自主占有してきたものというべきであり、これと同趣旨の原審の判断は相当である。所論引用の判例は事案を異にし、本件に適切でない。原判決に所論の違法はなく、論旨は採用することができない。 
 よつて、民訴法四〇一条、九五条、八九条、九三条に従い、裁判官全員の一致で、主文のとおり判決する。 
 (裁判長裁判官 岡原昌男 裁判官 色川幸太郎 裁判官 村上朝一 裁判官 小川信雄) 
(5)占有の承継
a)選択可能性
+(占有の承継)
第百八十七条  占有者の承継人は、その選択に従い、自己の占有のみを主張し、又は自己の占有に前の占有者の占有を併せて主張することができる
2  前の占有者の占有を併せて主張する場合には、その瑕疵をも承継する。

+判例(S37.5.18)
要旨
特定承継による場合のみならず、相続のような包括承継にも適用がある!

b)瑕疵の承継
+(占有の承継)
第百八十七条  占有者の承継人は、その選択に従い、自己の占有のみを主張し、又は自己の占有に前の占有者の占有を併せて主張することができる。
2  前の占有者の占有を併せて主張する場合には、その瑕疵をも承継する

c)無瑕疵の承継
・占有開始時に善意無過失でありさえすればよい。
+判例(S53.3.6)
理由
上告代理人貞家克己、同仙田富士夫、同岩渕正紀、同遠藤きみ、同村長剛二、同仲村参郎、同冨田穰、同小山内宏、同山内敏男の上告理由について
一〇年の取得時効の要件としての占有者の善意・無過失の存否については占有開始の時点においてこれを判定すべきものとする民法一六二条二項の規定は、時効期間を通じて占有主体に変更がなく同一人により継続された占有が主張される場合について適用されるだけではなく、占有主体に変更があつて承継された二個以上の占有が併せて主張される場合についてもまた適用されるものであり、後の場合にはその主張にかかる最初の占有者につきその占有開始の時点においてこれを判定すれば足りるものと解するのが相当である。
しかるに、原審は、原判示第二物件目録(三)ないし(七)の土地に関し、上告人から提出された、訴外Aの占有から訴外国の占有を経て訴外Bに至る占有期間中に一〇年の時効が完成した旨の抗弁を判断するにつき、占有主体に変更があつて悪意又は有過失の者が善意・無過失の者の占有を特定承継した場合には、前主の占有に瑕疵のないことについてまで承継してその者が瑕疵のない占有者となるものではなく、かつ、瑕疵のある中間者から更に占有を特定承継した者について取得時効の完成をいう場合には、前々主及び自己の占有に瑕疵がないときであつても、瑕疵のある中間者の占有期間を併せて主張する以上は全体として瑕疵のある占有となる旨の判断を示したうえ、本件の場合、右にいう中間者である訴外国の占有に過失があつたことを理由として取得時効の完成を否定し、上告人の右抗弁を排斥したものであつて、前記説示に照らせば、原審の右判断には民法一六二条二項、一八七条一、二項の解釈を誤つた違法があるというべきである。そして、右違法は、原判決中前記土地に関し被上告人らの上告人に対する所有権確認並びに所有権移転登記手続及び引渡しの各請求を認容した部分につき、その結論に影響を及ぼすことが明らかであるから、論旨は理由があり、右部分は破棄を免れないところ、上告人の主張にかかる最初の占有者である訴外Aの善意・無過失の点につき更に審理を尽くさせる必要があるから、右部分につき本件を原審に差し戻すのが相当である。
よつて、民訴法四〇七条一項に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 吉田豊 裁判官 大塚喜一郎 裁判官 本林讓 裁判官 栗本一夫)

3.時効完成の効果
(1)権利の原始取得

・地役権について
+(承役地の時効取得による地役権の消滅)
第二百八十九条  承役地の占有者が取得時効に必要な要件を具備する占有をしたときは、地役権は、これによって消滅する。

+(抵当不動産の時効取得による抵当権の消滅)
第三百九十七条  債務者又は抵当権設定者でない者が抵当不動産について取得時効に必要な要件を具備する占有をしたときは、抵当権は、これによって消滅する。

(2)事項の遡及効
+(時効の効力)
第百四十四条  時効の効力は、その起算日にさかのぼる。

・起算点について
+判例(S35.7.27)
理由
上告代理人石川功の上告理由第一点について。
元来時効の制度は、長期間継続した事実状態に法的価値を認め、これを正当なものとして、そのまま法律上の秩序たらしめることを期するものであつて、これにより社会生活における法的安定性を保持することを目的とする。従つて、時効制度の本来の性質からいえば、いわゆる起算日は常に暦日の上で確定していなければならないわけのものではなく、起算日を何時と定めるにしても、その時から法律の認めた一定期間を通じ同一の事実状態が継続し、いわゆる時効期間が経過した場合には、その事実に即して、遡って当初から権利の取得又は消滅があつたものとして取扱うことは、時効の当事者間にあつては、必ずしも不合理であるとはいえないであろう。しかし、時効による権利の取得の有無を考察するにあたつては、単に当事者間のみならず、第三者に対する関係も同時に考慮しなければならぬのであつて、この関係においては、結局当該不動産についていかなる時期に何人によつて登記がなされたかが問題となるのである。そして時効が完成しても、その登記がなければ、その後に登記を経由した第三者に対しては時効による権利の取得を対抗しえない(民法一七七条)のに反し、第三者のなした登記後に時効が完成した場合においてはその第三者に対しては、登記を経由しなくとも時効取得をもつてこれに対抗しうることとなると解すべきである。しからば、結局取得時効完成の時期を定めるにあたつては、取得時効の基礎たる事実が法律に定めた時効期間以上に継続した場合においても、必らず時効の基礎たる事実の開始した時を起算点として時効完成の時期を決定すべきものであつて、取得時効を援用する者において任意にその起算点を選択し、時効完成の時期を或いは早め或いは遅らせることはできないものと解すべきである。大正一四年七月八日大審院連合部判決、および昭和一三年五月七日、同一四年七月一九日の各大審院判決等は右の趣旨に出でたもので正当というべく、当裁判所においても、今日右判例を変更すべき必要を認めない。
原判決は右と趣旨を同じうするものであつて、その判断は正当である。所論はこれと異なる見解に立つて原判決の違法をいうものであつて、採るを得ない。
同第二点について。
所論の点に関する原審の事実の認定は、挙示の証拠によりこれを是認できる。所論は原審の裁量に属する証拠の取捨、事実の認定を非難するに帰し、原判決には所論の違法は認められない。
よつて、民訴四〇一条、九五条、八九条、九三条に従い、裁判官全員の一致で、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 入江俊郎 裁判官 斎藤悠輔 裁判官 下飯坂潤夫 裁判官 高木常七)

4.所有権以外の財産権の取得時効
(1)意義
+(所有権以外の財産権の取得時効)
第百六十三条  所有権以外の財産権を、自己のためにする意思をもって、平穏に、かつ、公然と行使する者は、前条の区別に従い二十年又は十年を経過した後、その権利を取得する。

←継続して行使することが可能な権利に限られる!

(2)財産権
a)用益物権
+(地役権の時効取得)
第二百八十三条  地役権は、継続的に行使され、かつ、外形上認識することができるものに限り、時効によって取得することができる。

・「継続的に行使され」
+判例(S30.12.26)
理由
上告代理人重富義男、同佐藤英一の上告理由第一点について。
所論原判示は、所論不動産についての所有権移転登記が日本観光株式会社からAに対してなされていることにつき、当事者間に争なき趣旨を判示したものと認められるから、原判決には所論のような違法はない。論旨は理由がない。
同第二点について。
原判決は、上告人所有の土地を要役地とし本件土地を承役地とする通行地役権が設定されたとの上告人の主張については、これを肯認させるに足る疏明がない、と判示しているのである。それ故所論は、原判決の結論に影響のない民法一七七条の解釈に関する原判示を、独自の見解を前提として非難するに帰し、採用することができない。
同第三点、第四点及び第六点について。
原判決は、上告人の地役権の時効取得に関する主張を排斥するにつき、第一審判決の理由を引用しているのであつて、両者の間には何等の齟齬も存しない。従つて論旨第三点に主張するような違法はない。
民法二八三条による通行地役権の時効取得については、いわゆる「継続」の要件として、承役地たるべき他人所有の土地の上に通路の開設を要し、その開設は要役地所有者によつてなされることを要するものと解すべくこれと同趣旨に出でた原審の判断は相当である。論旨第四点及び第六点はいずれも独自の見解を前提として原判決を攻撃するものであるから採用することができない。
同第五点について。
袋地である上告人所有の土地のための最少限度の通路としては、字ab番のcの土地を以て足り、字de番のfの土地を必要としないとする趣旨の原判示は、相当と認められるから、論旨は理由がない。後段所論の大審院判例は本件に適切でない。
同第七点について。
所論の原判示は、仮りに本件土地を承役地とする上告人主張の地役権設定契約があつたとしても、これにつき登記なき以上、その後において承役地の所有権を取得した被上告人に対抗し得ないとする趣旨であつて所論のように時効による地役権取得に関し、登記の欠缺を云為するものではない。そうして原判決は本件について地役権の時効取得を否定しているのであるから、所論のような対抗要件に関しては問題を生ずる余地がない。論旨は採用することができない。
よつて、民訴三九六条、三八四条、九五条、八九条に従い、裁判官全員の一致で、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 島保 裁判官 河村又介 裁判官 小林俊三 裁判官 本村善太郎) 

b)賃借権・使用借権
+判例(S43.10.8)
理由
上告代理人高野篤信、同平野保、同宇津呂公子の上告理由について。
原審が原判決添付第一号目録(二)記載の土地(以下たんに第一(二)土地という。その他これに準ずる。)について賃貸借の成立を否定した認定・判断は、その挙示する証拠関係によつて是認しえないものではなく、この点に関する論旨は、ひつきよう、原審の専権に属する証拠の取捨判断、事実の認定を非難するに帰し、採用できない。
次に、所論土地賃借権の時効取得については、土地の継続的な用益という外形的事実が存在し、かつ、それが賃借の意思に基づくことが客観的に表現されているときは、民法一六三条に従い土地賃借権の時効取得が可能であると解するのが相当である。
しかるに、記録によれば、上告人が原審において、第一(一)(二)土地、第二土地、第三土地について仮定的に賃借権の時効取得を主張したこと、これに対し原審は第一(一)土地について賃貸借の成立を認め、第二、第三土地について時効取得を否定したが、第一(二)土地については賃貸借の成立を否定しながら、時効取得の主張に対してなんら判断を加えていないことが明らかである。論旨はこの点において理由があり、原判決は第一(二)土地について判断遺脱の違法あることを免れない。
また、原審は、第二土地について賃借権の時効取得を否定し、その判決理由一の(三)において「第一審原告(上告人)が第二土地については昭和二二年四月頃以降現在までこれを占有していることは、さきに、みたとおりで……あるが、前認定の事実関係に徴すると、未だ、第一審原告はその主張の如き賃借権を享受する意思を以て右……土地を占有していたとは認め難い」云々と判示するが、これに先だつ原判決理由中のどこにも、原判決が「さきにみた」といい、また「前認定」という、その判示に照応する事実の認定説示を発見することができない。しかも、占有開始の時期については、被上告人において、上告人が第一(二)土地および第二土地の一部の占有を始めたのは、昭和二五年一二月以降のことであると争つているところであり、また、第三土地はともかくとして、第二土地は、原審の認定によつても、賃貸借の成立した第一(一)土地と同時に占有を開始して現在に至り、また、上告人が土地使用の対価として被上告人に賃料を支払つて来たことは(土地の範囲は別として)争いがないというのであるから、原判示のように、上告人において賃借権享受の意思がなかつたとするには、当然なんらかの説明を要するところである。しかるに、原判決理由が「さきにみた」とする「前認定」事実の説示を欠くことは、前述のとおりであつて、原判決は第二土地につき賃借権の時効取得を否定した点において、審理不尽、理由不備の違法あることを免れず、論旨は、けつきよく、この点においても理由あるものといわなければならない。
なお、上告人は第三土地に関する請求が排斥されたことをも不服として上告するが、上告状および上告理由書中に、この点に関する上告理由として認めるに足りる記載がなく、排斥を免れない。
以上、原判決には第一(二)土地について賃借権の時効取得の主張に対する判断遺脱の違法、第二土地について賃借権の時効取得の主張を排斥するにつき審理不尽、理由不備の違法があり、これらの点において破棄を免れないが、その余の点については上告を失当として棄却すべきであり、右破棄部分については、さらに審理を尽くさせるため原審に差し戻すべきである。
よつて、民訴法四〇七条一項、三九六条、三八四条、九五条、八九条に従い、裁判官全員の一致により、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 横田正俊 裁判官 田中二郎 裁判官 下村三郎 裁判官 松本正雄 裁判官 飯村義美)

第3節 消滅時効

1.要件
(1)債権の消滅時効の要件
a)消滅時効の起算点

+(消滅時効の進行等)
第百六十六条  消滅時効は、権利を行使することができる時から進行する。
2  前項の規定は、始期付権利又は停止条件付権利の目的物を占有する第三者のために、その占有の開始の時から取得時効が進行することを妨げない。ただし、権利者は、その時効を中断するため、いつでも占有者の承認を求めることができる。

・権利の行使につき法律上の障害がなく、さらに権利の性質上、その権利行使が現実に期待できる時をいう
+判例(S45.7.15)
理由
上告指定代理人岩佐善已、同柿原増夫の上告理由について。
原審判決が確定した事実は、次のとおりである。
被上告人は訴外A所有の宅地二二坪につき賃借権を有するとして同訴外人に対し賃料を提供したが、受領を拒絶されたため、昭和二七年五月七日から同訴外人を被供託者として東京法務局に対し賃料を一か月二〇〇〇円の割合で弁済のため供託してきた。その後、同訴外人は被上告人を被告として建物収去土地明渡の訴を提起したが、昭和三八年一月一八日上告審たる最高裁判所で和解が成立し、被上告人は右土地に賃借権を有しないことを認め、同年六月三〇日までに建物を収去して右土地を同訴外人に明け渡し、同訴外人は右土地に対する昭和二七年三月一四日から右土地明渡に至るまでの賃料相当の損害金債権を放棄することとなつた。そこで、被上告人は民法四九六条一項に基づき昭和三八年五月九日上告人に対して昭和二七年五月七日から昭和二八年二月二七日までに供託した合計二万四〇〇〇円の供託金の取戻を請求したところ、上告人は時効により消滅したことを理由に右請求を却下した。
以上の事実に基づいて、被上告人は上告人を被告として行政事件訴訟法三条二項により右却下処分の取消を求める訴を提起し、第一審判決はこれを認容し、該判決に対し上告人は控訴したが、原審判決はこれを棄却したことは、記録上明らかである。
よつて、まず、上告人のした本件却下処分の取消を求める被上告人の本訴が適法であるかどうかを検討する。
元来、債権者が金銭債務の弁済の受領を拒むときは、弁済者は債権者のために弁済の目的物を供託してその債務を免れることができ、債権者が供託を受諾せずまたは供託を有効と宣告した判決が確定しない間は、弁済者は供託物を取り戻すことができることは、民法四九四条および四九六条の定めるところである。そうして、右供託事務を取り扱うのは国家機関である供託官であり(供託法一条、同条ノ二)、供託官が弁済者から供託物取戻の請求を受けた場合において、その請求を理由がないと認めるときは、これを却下しなければならず(供託規則三八条)、右却下処分を不当とする者は監督法務局または地方法務局の長に審査請求をすることができ、右の長は、審査請求を理由ありとするときは供託官に相当の処分を命ずることを要する(供託法一条ノ三ないし六)と定められており、実定法は、供託官の右行為につき、とくに、「却下」および「処分」という字句を用い、さらに、供託官の却下処分に対しては特別の不服審査手続をもうけているのである。
以上のことから考えると、もともと、弁済供託は、弁済者の申請により供託官が債権者のために供託物を受け入れ管理するもので、民法上の寄託契約の性質を有するものであるが、供託により弁済者は債務を免れることとなるばかりでなく、金銭債務の弁済供託事務が大量で、しかも、確実かつ迅速な処理を要する関係上、法律秩序の維持、安定を期するという公益上の目的から、法は、国家の後見的役割を果たすため、国家機関である供託官に供託事務を取り扱わせることとしたうえ、供託官が弁済者から供託物取戻の請求を受けたときには、単に、民法上の寄託契約の当事者的地位にとどまらず、行政機関としての立場から右請求につき理由があるかどうかを判断する権限を供託官に与えたものと解するのが相当である。
したがつて、右のような実定法が存するかぎりにおいては、供託官が供託物取戻請求を理由がないと認めて却下した行為は行政処分であり、弁済者は右却下行為が権限のある機関によつて取り消されるまでは供託物を取り戻すことができないものといわなければならず、供託関係が民法上の寄託関係であるからといつて、供託官の右却下行為が民法上の履行拒絶にすぎないものということは到底できないのである。
なお、供託官の処分を不当とする者の監督法務局または地方法務局の長に対してする前示不服審査請求については、期間の制限がないのである(供託法一条ノ七、行政不服審査法一四条参照)が、これは、供託官の処分が供託上の権利関係の有無を判断する確認行為であり、これに対する不服につきその利益のあるかぎりは不服を許すことが相当であるから、とくに期間の制限をもうけなかつたものであり、このことから、供託官の処分を行政処分として取り扱うべきでないとするのは、理由がない(不動産登記法一五七条ノ二参照)。
これを要するに、上告人が本件供託物取戻の請求を却下した処分に対し、被上告人が行政事件訴訟法三条二項に基づき上告人を被告として提起した本訴は適法というべきである。
つぎに、上告人は、本件供託金については民法四九六条一項に基づき被上告人において供託の時から取戻の請求をすることができたのであるから、本件供託金取戻請求権の消滅時効は供託の時から進行すると主張する。
もとより、債権の消滅時効が債権者において債権を「行使スルコトヲ得ル時ヨリ進行ス」るものであることは、民法一六六条一項に規定するところであるしかし、弁済供託における供託物の払渡請求、すなわち供託物の還付または取戻の請求について「権利ヲ行使スルコトヲ得ル」とは、単にその権利の行使につき法律上の障害がないというだけではなく、さらに権利の性質上、その権利行使が現実に期待のできるものであることをも必要と解するのが相当である。けだし、本来、弁済供託においては供託の基礎となつた事実をめぐつて供託者と被供託者との間に争いがあることが多く、このような場合、その争いの続いている間に右当事者のいずれかが供託物の払渡を受けるのは、相手方の主張を認めて自己の主張を撤回したものと解せられるおそれがあるので、争いの解決をみるまでは、供託物払渡請求権の行使を当事者に期待することは事実上不可能にちかく、右請求権の消滅時効が供託の時から進行すると解することは、法が当事者の利益保護のために認めた弁済供託の制度の趣旨に反する結果となるからである。したがつて、弁済供託における供託物の取戻請求権の消滅時効の起算点は、供託の基礎となつた債務について紛争の解決などによつてその不存在が確定するなど、供託者が免責の効果を受ける必要が消滅した時と解するのが相当である。
上告人は、右のような見解をとると、供託者と被供託者との間の争いの有無など供託官の知ることのできない事柄で時効の起算点が決定されることとなり、客観的な時効制度の本質に反する旨主張する。
しかし、弁済供託は、もともと、供託者と被供託者との間の実体上の法律関係に基づいているものであるから、供託物の払渡請求権の時効の起算点を供託官と供託者との関係だけで画一的、客観的に決定されるものとすることはできないし、また、供託官において右の請求権の行使が期待できる時期を知ることができない場合のあることは、実定法上やむをえない結果というべきである。
上告人は、また、供託者は供託証明書の交付を受けることによつて、時効の中断をすることができる旨主張するが、供託物の払渡請求権の行使が期待できない場合において、当事者にこのような時効中断のための措置をとることを期待することは、通常人としての当事者に難きを強いる結果となるものというべく、右中断の方法があることは、供託物払渡請求権の時効の起算点を前示のように解することの妨げとなるものではない。
以上の次第で、本件供託金取戻請求権の消滅時効の起算点に関する前記所論はいずれも理由がなく、その余の所論もまた前記判示するところに照らし採用することはできない。
なお、弁済供託における供託物払渡請求権の消滅時効の期間に関し、原審判決は、供託は国が設けた金品保管の制度で、供託の原因も法定されており、供託官は供託が適法であればこれを受理しなければならず、契約自由の原則は適用されないというだけの理由から、供託上の法律関係は公法関係であり、供託金の払渡請求権は会計法三〇条の規定により五年の消滅時効にかかるものと解している。しかしながら、弁済供託が民法上の寄託契約の性質を有するものであることは前述のとおりであるから、供託金の払渡請求権の消滅時効は民法の規定により、一〇年をもつて完成するものと解するのが相当である。
したがつて、この点に関し、原審は、法令の解釈を誤つたものといわなければならない。
してみれば、上告人は、本件供託金取戻請求権の時効が本件供託の時から進行したことを前提として、すでに時効により消滅したことを理由に、被上告人の供託金取戻の請求を却下することはできないものというほかはない。したがつて、被上告人の右請求を却下した上告人の処分の取消を求める被上告人の本訴請求は正当で、これを認容した第一審判決に対する上告人の控訴を棄却した原審判決は、結局、正当である。なお、供託物取戻請求権の時効期間に関する前記法令解釈の誤りは結論に影響を及ぼすものではない。
よつて、本件上告はこれを棄却すべきものとし、行政事件訴訟法七条、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官入江俊郎、同長部謹吾、同松田二郎、同岩田誠、同大隅健一郎、同松本正雄の反対意見があるほか、裁判官全員一致の意見により主文のとおり判決する。

+反対意見
裁判官入江俊郎、同長部謹吾、同大隅健一郎、同松本正雄の反対意見は、次のとおりである。
われわれは、供託および供託官のする行為の法律上の性質は、供託官が行政機関であること等からして一見行政処分の如くであるけれども、その本質は、専ら私法上の法律関係と考えるのが相当であり、従つて、供託官の行為を不服とする場合の訴訟は、専ら民事訴訟によるべきものと解すべきであると考える。そして、かく解することが、実定法の解釈として正当であり、かつ、当事者の権利、利益保護の上からも極めて妥当であると思う。それ故、われわれは、多数意見が、本件訴訟は専ら行政訴訟たる抗告訴訟(取消訴訟)によるべきであり、民事訴訟によるべきではないとし、民事訴訟の形式による訴は不適法としてこれを却下すべきであるとする点には、同調することができず、本件のごとき行政訴訟の形式による訴こそ、不適法として却下すべきであると考える。その理由は、次のとおりである。(なお、多数意見のその余の、本案に関する法律判断には、われわれも同意見である。)
一 供託および供託官のする行為の法律上の性質
(一) 供託は、供託者の申請によつて供託機関が供託物を受け入れ、管理し、供託者または被供託者にこれを交付するものであつて、その法律上の性質は、民法上の寄託の性質を有する。従つて、供託法等には民法と異なる若干の規定が存在しているけれども、これを全体として観察すれば、元来私法的関係の事柄というべく、供託機関が法務局等の国家機関である場合においても、この理を異にするものではない。このことは、供託事務を民間の倉庫業者、銀行等が扱う場合(供託法五条、民法四九五条二項、非訟事件手続法八一条、八二条等参照)において、その間に何ら公権的作用は存しないことからも推論しうるところである。
しかし、事柄の実体が全体として私法関係に属するとしても、立法政策の必要から、法律は必要に応じこれに公法的要素を添加し、供託関係の発生、変更、消滅を行政行為にかからしめることは可能であり、そのような場合には、その限度において、これを公法関係の面から把握し理解せねばならぬ場合もある。そして、それは供託に関する実定法の解釈によりこれを決するほかない。
(二) そこで、供託の申請および受理ならびに供託物の払渡(還付、取戻)に関する供託法および供託規則の規定を見るに、
(1) 金銭および有価証券の供託の申請および受理については、供託官の受理行為がないかぎり、供託は成立せず、供託に伴う法の所期する法律上の効果は発生する余地がないのであつて、供託法は供託の申請を受理するか否かを供託官の判断にかからせているように見えないことはない。しかし、この場合の供託官の行為は、供託書や添付書類について、申請の適法、不適法を審査し、適法であると認めるときは、これを受理しなければならず、適法でないと認めるときは、却下するほかはないというだけであつて、これを行政処分とみることは相当でない。むしろ、供託官の右供託受理の行為は、供託申請者の寄託契約の申込に対する承諾であり、その法律上の性質は私法上の行為であつて、供託官は、適法な供託受理の申請(契約の申込)に対しては、これを受理(契約の承諾)すべき私法上の義務を供託法によつて課せられているとみるべきである。
(2) 金銭および有価証券たる供託物の払渡(還付または取戻)についても同様であつて、供託物の還付請求権や取房請求権自体は供託に伴い法律上当然に発生するものであり、一般の私法上の債権と同様、譲渡、質権設定、仮差押等の目的とされるものであり、供託官の認可によつて、はじめてその権利が発生するというようなものではない。供託物の払渡をするか杏かを供託官の判断にかからせているものではなく、供託官の右行為が私法上の行為であることは、供託の申請および受理についての供託官の行為の場合と同様である。
(3) そもそも、行政行為には一般に公定力が認められるが、これを認める理論的根拠は、要するに、行政庁の公権力の行使に当たる行為は、一般に公共性の強いものであるから、それが法律上当然無効とされる場合は別として、たとえそれに瑕疵があつたとしても、瑕疵あるが故に、何人によつてもただちにその効力が否定されるというような不安定なものとしておくことは、公共性の強い行政権の作用としては妥当ではないという理由によつて、権限ある機関による取消があるまでは、一応適法性の推定を受け、有効な行為として尊重され、他の国家機関も第三者もその効力を否定しえないものとし、これによつて公共的な面から社会生活の安定と法的秩序の保持を図ろうとする点にあるのである。また、本質は私法関係と何ら異ならないものにおいても、公益上の必要から行政行為を介在させる立法も考えられるが、この場合には、行政行為とする以上、一般的には公定力を認めることとなるであろう。供託法、供託規則に基づく供託官の行為のごときは、本来公権力の行使に当たる行政行為というべきではなく、民法上の寄託契約の当事者の地位におけるものにすぎず、また、後述するところからみて、立法政策として供託官の行政行為を介在させる必要もないと考えられるから、供託官の行為に公定力を認めることは、理論的にも実定法的にもまことに根拠が薄弱である。
なお、付言すれば、供託官の行為を行政行為であるとして、これに公定力を認めるとすれば、これを争う途は、現行法上抗告訴訟によるほかはないであろう。ところで、抗告訴訟には周知のごとく一定の出訴期間の定めがあるが、これも、公権力の行使に当たる行政権の作用は、行政権の公共的性質に鑑み、たとえ、これに瑕疵があり、取り消さるべきものであつたとしても、その効果を長く不安定の状態に置くことは公共的な要請からいつて好ましくないとして、これにいわゆる確定力(不可争力)を認めているからであつて、公定力を認めるとすれば、同時に確定力を認めるというのが、特段の事由のないかぎり、本来の姿というべきであろう。もし、多数意見のように、供託法に定める文言に従つて行政処分とみるとしても、供託官の供託法上の行為については、審査請求が認められ(供託法一条ノ三)、審査請求には行政不服審査法の規定が適用されていながら、供託法一条ノ七は、行政不服審査法中の重要な規定の適用を排除し、なかんずく、不服申立期間に関する同法一四条の規定を排除した関係で、供託官の行為に対しては審査請求の期間の制限はなく、従つて、当事者はいつでも審査請求をすることができ、右行為または裁決に対してはさらに抗告訴訟が提起できる(抗告訴訟自体には行政事件訴訟法一四条による出訴期間の定めのあることはもちろんである。)筋合いとなつているから、結局、供託官の行為については、行政不服審査法による審査請求をし、その裁決があつた後もとの行為または裁決に対し出訴するという手続をとることによつて、行政訴訟の面において出訴期間の定めがないことと同様となる(行政事件訴訟法一四条四項)のであつて、いわゆる確定力(不可争力)を欠いているのである。供託官の処分に公定力を認めるとすれば、これに確定力を認めるのが相当というべきであるが、実定法は、供託官の行為が実質的には私法上の法律関係に属するものとし、これに確定力を認めていないのではなかろうか。供託関係は、既に触れたように、必ずしも供託官が取扱うもののみではなく、民間の倉庫業者または銀行をして扱わしめる場合もある点を併せ考えれば、実定法は、供託官の行為につき、公定力のないことを前提として確定力をも認めなかつたと解することは、決して無理を解釈ではないと思う(もちろん、確定力がなければ理論上必ず公定力がないというわけではなく、例えば不動産登記法一五七条ノ二のような事例もないことはないが、要は実定法の解釈如何にかかるというべきであろう。)。
二 供託官の行為を不服とする場合の争訟の形式
供託官の行為を不服とする者が行政不服審査法による審査請求をなしうることは明文上問題はない(供託法一条ノ三)が、訴訟の形式については、供託法上供託官の行為がいかなる性質のものかという点に着眼し、実定法上いかに解するのが最も妥当であるかによつて決せらるべきものと思う。
(一) 供託の申請に対する供託官の行為について
この場合の供託官の行為は供託受理の決定(供託規則一八条)または供託申請の拒否であるが、前者についてはこれを争う訴の利益は通常考えられないが後者については、供託に伴う法律上の効果が発生しないことになるから、その効果の発生を求める者にとつては、訴の利益のあることは明らかである。そして、この場合には、法令は供託官の「却下」「処分」という語を使用している(供託法一条ノ三、供託規則三八条)けれども、既に述べたように、供託官の供託の受理は、寄託契約申込に対する承諾という私法上の行為であつて、権力的要素を含むものではないから、右供託官の却下に不服ある者は、民事訴訟により、国を相手方として供託官が供託受理行為をなすことを訴求することができると解して何ら差支えはなく、当事者の権利保護の上からもこれが事案に最も即した救済手段である。右供託官の行為が一見行政処分の如きものであるからといつて、これに公定力を認むべきものでないことが前叙の如くである以上はこれを不服とする場合における訴訟を行政訴訟である抗告訴訟(取消訴訟)によらしむべきであるとする合理的根拠は到底見出だしがたい。
(二) 供託物の払渡(還付または取戻)に関する供託官の行為について
この場合の供託官の行為の性質も、既に述べたごときものであつて、事柄の実体は専ら私法上の法律関係に関するものであつて、権力的要素を含むものではない。すなわち、供託官は供託法、供託規則の定めるところ(供託法八条、一〇条、供託規則二八条、二九条、三八条等)により、請求の理由の有無を審査し、許否を決するのであるが、還付請求権や取戻請求権自体は元来供託に伴う私法上の権利であつて、供託官のかかる行為によつて何ら実体を左右されるものではなく、払渡をするか否かを供託官の判断にかからせているものでもないと解するのを相当とするから、その請求が不法に拒否された場合には、還付または取戻を民事訴訟である給付訴訟によつて訴求させることが事案に最も即した救済手段というべきである。右供託官の行為が一見行政処分の如くであるからといつて、これに公定力を認むべきでないことが前叙の如くである以上は、これを不服とする場合における訴訟を行政訴訟である抗告訴訟(取消訴訟)によらしむべきであるとする合理的根拠は到底見出だしがたい。
仮りに、右の二つの場合について行政訴訟である抗告訴訟にのみよらしめるとするときは、これに勝訴しても、供託官の処分が取り消されるだけであつて、右勝訴判決によつては、当事者が実体的に争つている私法上の権利、利益自体の救済が直接的に裁判所によつて認められたことにはならない。また、抗告訴訟は行政行為の適法、不適法を審査するものであるから、この場合は、供託官が供託法、供託規則によつてした行為の適法、不適法を審査することが目的であつて、裁判所がどの程度まで実体的の司法審査ができるかの限界については、種々困難な問題がある。行政訴訟において、裁判所は、供託官の権限に属し、またはこれと表裏一体をなす事柄の限度までは審査をなしうるとは思うが、それにしても、供託官が供託法、供託規則に則り審査しうる範囲には限界があり、供託の受理、供託物の払渡に関連する私法上の権利関係の一切に及びうるものと解することには多くの問題があり、事案ごとにその限界を定めるほかはない。従つて、供託官の処分が行政訴訟で争われうるとした場合にも、司法審査の及びうる範囲については、理論的にも実務的にも必ずしも明確になつてはいないのであつて、その限界如何によつては、当事者の私法上の権利、利益の保護の面に問題が残るように思う。なお、供託法、供託規則に定める供託官の審査の方法は、供託官が私法関係である供託の当事者たる地位において遵守すべき事項にすぎないと解すべきであり、従つて、民事訴訟においては、供託官の審査権限内の事項はもとより、権限外の事項についても、審査することができると解せられる。
以上の次第で、われわれは、供託官の行為を不服とする場合の訴訟は、民事訴訟によらしめることをもつて、必要かつ充分であると考える。これを専ら行政訴訟のみによらしめるとする考え方は、供託関係の法律上の実体に適合せず、当事者の権利、利益の保護の上からも不充分であると思う。また、本件のごとき事案につき、民事訴訟のみによらしむべしとする詳細な理由を示した下級裁判所の判決も少なくなく、それらの事件が現に最高裁判所に係属していることを考えると、多数意見の説示をもつてしては、本件のごとき事案をすべて行政訴訟にのみよらしむべきであるとする実定法解釈上の具体的な論拠を、充分に示しえたものとは考えられない。(なお、最高裁判所昭和三六年(オ)第二九九号、同年一〇月一二日第一小法廷判決、裁判集民事五五号一二五頁は、供託官の供託受理処分に関して行政訴訟を認めている。同判決は、行政訴訟として第一審に係属した事案に対する上告審判決であるが、本件で職権事項として取り上げた本案前の問題については、何ら審理、判断をしたものでないから、右判決は右本案前の問題に関する最高裁判所の判例と目すべきものではない。)
よつて、本件訴は不適法として却下すべきである。

+反対意見
裁判官松田二郎の反対意見は、次のとおりである。
(一) 本件のごとき金銭債務の弁済供託は民法の債権編に規定されるとともに、これに関する供託所における事務は国家機関たる供託官によつて取扱われ(供託法一条ノ二)、そこには、私法的要素と公法的要素が存在する。そして、供託が公法上の法律関係であるか、私法上の法律関係であるかは、かつて大いに争われたところである。私は、供託の法律的性質を寄託契約、すなわち、私法上の法律関係であると解する。ただ、供託手続が確実にかつ迅速に行なわれるために、国家機関たる供託官がその事務を行なうのであるが、そのことは、何等供託そのものが私法的の法律関係たることに影響するものではない。したがつて、供託者と供託官との間の関係も私法上の寄託関係であり、金銭を供託した場合、その払渡請求権は、金銭債権として一般の金銭債権同様、譲渡、相続、質権設定、仮差押等の目的となり得、供託金払渡請求権は、供託官を機関とする国に対する私法上の権利である。
しかして、本件においてまず問題となるのは、払渡請求者が供託関係法令に基づく供託官の行為を不服とする場合の争訟の形式は、通常訴訟によるべきか、あるいは抗告訴訟によるべきかの点である。この点につき、多数意見は、供託法および供託規則の規定を挙げて、次のごとくいう、「右のような実定法が存するかぎりにおいては、供託官が供託物取戻請求を理由がないと認めて却下した行為は行政処分であり、弁済者は右却下行為が権限のある機関によつて取り消されるまでは供託物を取り戻すことができないものといわなければならす、供託関係が民法上の寄託関係であるからといつて、供託官の右却下行為が民法上の履行拒絶にすぎないものということは到底できない」と。そして、多数意見はかかる見地に立ち、本件についていう、「これを要するに、上告人が本件供託物取戻の請求を却下した処分に対し、被上告人が行政事件訴訟法三条二項に基づき上告人を被告として提起した本訴は適法というべきである」と。そして、右に掲げた多数意見は、供託官が供託物の取戻請求を却下した行為に関するものであるが、そのいうところより見れば、多数意見は単に右の場合のみにとどまらず、一般に、供託申請または供託物払渡請求に関する供託官の行為を行政処分であるとし、したがつて、これを不服とするときは、常に審査請求ないし抗告訴訟によるべきものとする趣旨と解されるのである。しかし、私は後に述べるごとく、供託官の処分に対する争訟の形式としては、審査請求ないし抗告訴訟によるべき場合と通常の民事訴訟によるべき場合とがあると考える者である。以下、この点につき私の考えるところを述べる(なお、卑見は供託金払渡請求権の消滅時効の起算点については、多数意見と同一の見地に立つ)。
以上の争訟の形式を論じるにあたつては、まず、供託官の審査権限が形式的審査権のみか、実質的審査権をも含むかについて検討することを要する。私の解するところによれば、供託が実質関係と常に符合することは望ましく、この点を無視することは供託制度の信用を失わしめるものであるが、しかし、このことを余りに強調して実質関係を確保しようとすれば、供託関係手続は渋滞し、迅速を欠くこととなろう。しかも、供託は今日、かつてのように裁判所の所管に属さず、供託官は、裁判所の行なう非訟的の権限は有していないのである。ここにおいて、この実質的関係の確保と供託関係手続の迅速の双方を考慮に容れるとき、供託官の審査権限は、申請者によつて提出された書類による書面審理の範囲にとどまるものとし、その書面の成立または内容の実質的真正については、審査の権限なしとするのが原則であると考える(そしてこの点につき、留意を要するのは、供託官は、当事者が関係法令に基づいて提出した書面のみによつて申請の適否を判断すべく、提出された書面の実質的真正を審査するため、当事者に対しさらに書面の提出を求めることは許されないのである)。したがつて、たとえば、当該書面の成立の真正を担保するため法令の要求する要件が具備している場合、なおそこに押捺された印章が偽造または盗用にかかるものでないか否かについて、また供託の原因たる契約の存否について、あるいは後述のように書面の記載内容から一見して明らかに判断し得る場合でないのにかかわらずなお契約の効力の有無について、供託官は審査権を行使し得ないのである(登記官吏の審査権限についての昭和三三年(オ)第一〇六号同三五年四月二一日第一小法廷判決、民集一四巻六号九六三頁参照)。
ただし、叙上の原則に対し、次のような例外が存するものと思われる。すなわち、供託官が供託契約の当事者(債務者)的地位において当然知り得る事項が払渡請求の許否につき問題となる場合が、それである。たとえば、還付請求権者が供託書正本によつて供託金の還付または内渡を受けたのにかかわらず、供託通知書によつて再度その申請をしたとき(供託規則二四条、三一条参照)、払渡請求権が第三者に譲渡または転付され、譲渡通知または転付命令が供託官に到達した後に、譲渡人または旧権利者が払渡の請求をしたとき、払渡請求権につき仮差押または差押が競合する場合において優先権を有しない一の差押債権者が転付命令を得て払渡の請求をしたとき、のごときが右の例外にあたるものと解されるのである。かかる場合において、供託官は、供託契約の当事者(債務者)的地位において当然知り得た事項を理由として、払渡請求を却下し得るのである。なお、供託申請書の記載自体からして、当該契約が無効であり、したがつて供託によつて免責を得ようとする債務の不存在が一見して明らかである場合、たとえば、妾契約による債務の弁済供託のごときにおいては、供託官は、申請書の記載自体から一見して明らかな契約の無効、したがつて債務の不存在を理由として、供託申請を却下し得るものというべきである。
要するに、以上のような例外は存するが、供託官の審査権限は、申請書類による書面審理の範囲内にとどまり、その書面の実質的真正については審査権が及ばないのが原則である。すなわち、供託に関する法令は、供託を能う限り実質関係に符合させ、しかもその手続の迅速を図るという、いわば相反する二つの要請を満足させるため、実質的関係を確保するための詳細な規定を設けつつ、その規定を形式的に履践させることによつて手続の迅速を図り、大量処理の目的を達しようとするものであり、供託官の審査権限の範囲はこの目的によつて制約されるのである。供託官の審査権限は、叙上に説示した意味において形式的のものといい得るのである。そしてこの権限が、供託関係手続につきかかる意味において形式的のものであるからには、これに対する不服申立も簡易の方法によるのが便宜であり、これは国民の要望するところでもあろう。私の解するところによれば、供託法が「供託官ノ処分ヲ不当トスル者ハ監督法務局又ハ地方法務局ノ長ニ審査請求ヲナスコトヲ得」(同法一条ノ三)とし、その審査請求につき行政不服審査法の規定によるものとしたのは、このためである。しかも、この点に関し留意すべきことは、供託法が一面において、審査請求期間について行政不服審査法一四条の適用を排除しているため、供託の申請や払渡の請求を却下された者は何時にても審査請求をなし得ることであり、他面において、供託法自体が「法務局又ハ地方法務局ノ長ハ審査請求ヲ理由アリトスルトキハ供託官二相当ノ処分ヲ命スルコトヲ要ス」(同法一条ノ六)との規定を特に設けていることである。
叙上のことは、供託官の審査権が形式的のものであることを前提として、供託官がその審査権の行使を誤つた場合、何時たりともこれについて不服の申立を認め、それが理由があるときは、容易にその処分を取消し得る便法を設けたものと解されるのである。おそらく、供託官の処分に対する不服の多くは、この便法によつて解決されるであろうと思われる。もつとも、この審査請求の結果に不服のある者は、供託官の処分に対し、もし監督法務局または地方法務局の長の裁決に固有の瑕疵があると主張するときはその裁決に対して、抗告訴訟を提起することとなるが、この場合における裁判所の判断の範囲も、供託官の形式的審査権の行使の適否という、いわば形式面に限局されるので、迅速に行なわれ得るのである。これに反し、もし、抗告訴訟において裁判所は、本来供託官の権限に属しない実質的審査にわたる事項についてまで判断すべきものであるとすれば、その訴訟は迅速に行なわれ難くなるのみならず、供託官は自己の権限に属しない実質的審査の点について、その処分に違法があるとして取消される場合を生じることとなるのである。
(二) 叙上のごとく、供託官の処分につき、その不服申立が審査請求ないし抗告訴訟の手続によるのは、専ら供託関係手続の形式面に争いの存する場合であるが、これに対し、供託関係手続の実質面に争いの存する場合は、これと同一に論じ得ないのである。たとえば、払渡請求に対する形式的審査の結果、権利者と称する者が払渡を受けたが、関係書類が偽造にかかるものであつた場合においては、真の権利者は、供託官の処分が形式的審査の範囲内のみにおいては是認されるから、審査請求ないし抗告訴訟によつては救済され得ない。また、債権者不確知による弁済供託(民法四九四条)の場合において、真実債権者たる者であつても、その権利を有することを証する書面(供託規則二四条)を提出することが困難なとき、その権利の実現については、供託法令に基づく払渡請求またはその却下に対する審査請求ないし抗告訴訟によつては救済され難いであろう。
叙上のごとく、私は、供託関係法令に基づく供託官の処分に対する不服申立は審査請求ないし抗告訴訟によるべき場合と通常の民事訴訟手続によるべき場合とがあると考えるのである。そして、この後者の場合、供託官の処分の存するにかかわらず、直接国に対して供託金の支払等を請求することとなるが、既に述べたように、供託官の審査権限は形式面に限局され、審査請求における裁決庁ないし抗告訴訟における裁判所の判断の範囲も、また従つてこれに限局される以上、供託官の処分の有する公定力もこれに応じて制限され、当該処分の実質面に存する争いについては、民事訴訟において裁判所がその実質面について処分の当否を判断することとなるのである。
しかるに、叙上の見解に反し、多数意見によるときは、供託官の処分に対する不服は、常に行政不服審査法による審査請求ないし抗告訴訟によるべきものとなろう。しかし、このような手段によるときは、次のような煩瑣な結果を生じよう。
(1) 供託官が権限なき者に対し供託物を払渡したとき、真の請求権ある者は、まず供託官が権限なき者に対して払渡した処分そのものの取消を求めることを要することとなる。そして、その処分が取消されない限り、真の請求権者といえどもその払渡を請求し得ないこととなろう。これは、すこぶる迂遠のように思われる。
(2) 実際問題として、供託金払渡請求権については、差押命令や転付命令の発せられる場合が多いのであるが、多数意見によるときは(イ)払渡請求権につき有効な転付命令があつたのにかかわらず、供託官が供託書を提出した旧権利者に誤つて供託金を支払つたとき、転付命令を得た者もその払渡を求めるには、供託官の処分取消のため審査請求をなし、あるいは抗告訴訟を提起し、これが容れられなければ、払渡の請求をなし得ないこととなろう。また、(ロ)転付命令が無効であるのに、供託官がこれを有効として払渡したとき、真の供託物払渡請求権を有する者は、供託官の先にした払渡処分取消のため審査請求をなし、あるいは抗告訴訟を提起するを要しよう。私は、供託官をしてそのような審査をさせることは、妥当でないとともに煩瑣な手続を強いるものと考える。
もつとも、私のごとく供託官の処分の不服申立につき、形式面の不服については審査請求ないし抗告訴訟により、実質面の不服については通常訴訟によるべしと解することに対しては、あるいは形式面と実質面との境界が必ずしも明らかでなく、徒に何れによるべきかの問題を生じるとの非難があり得るであろう。おそらく、多数意見は、このことを一つの根拠として、すべて供託官の処分についての不服は審査請求ないし抗告訴訟によるべしと主張するのであろう。しかし、強制執行の異議の方法として、債務名義そのものの執行力の排除を目的とするところのもつとも根本的の強制執行阻止の手段たる請求異議の訴(民訴五四五条)と竝んで執行文付与の異議(民訴五二二条)および執行方法に関する異議(民訴五四四条)の存在を見るとき、たとえ、具体的場合にこれらの何れに帰属するかにつき疑問を生ずるものがないわけではないにせよ、かかる異議方法の併存に十分の理論的根拠と実際的必要があるのである。そして、その異議方法間の限界に不明の場合のあり得ることを理由として、強制執行における異議方法の併存を否定すべきでないことを思うとき、供託官の処分に関し、私の主張するごとき二方法の併存も理解し得るところであろう。
(三) 今、本件を見るに、被上告人は上告人に対し弁済供託における供託物の取戻を請求したところ、上告人は、供託の時より既に十年を経過し、取戻請求権は時効により既に消滅したとしてその請求を却下したのである。これに対し、被上告人は、本件の弁済供託の基礎となつた債務が、その後、裁判上の和解によつてその不存在が確定したのであるから、取戻請求権の消滅時効はその和解成立の時より進行することとなり、したがつて、該請求権は未だ時効により消滅しているのではないというのである。その争点たるや、民法一六六条の「消滅時効ハ権利ヲ行使スルコトヲ得ル時ヨリ進行ス」につき、その「権利ヲ行使スルコトヲ得ル時」の解釈に関する。そして、叙上論じたところによれば、このような法律上の解釈の争いは、前記の意味における「実質面」の問題に属するものというべきものと解される。したがつて、被上告人は、本件については民事訴訟によつて争うべきであり、審査請求ないし抗告訴訟によつて争うべきものではないのである。
要するに、私は、叙上の見地に立つて見るとき、原判決を破棄し、本件訴を却下すべきものと考える(もつとも、このような見解をとるのは、訴訟経済上望ましくないとの反論があろう。しかし、このような反論は採り得ない。けだし、現在、供託官の処分の不服につき民事訴訟手続による請求が相当数裁判所に繋属している以上、本件の多数意見によるときは、すべて民事訴訟手続による訴を却下すべきこととなり、やはり訴訟経済上望ましくないからである)。
裁判官岩田誠は、裁判官松田二郎の反対意見に同調する。
(裁判長裁判官 石田和外 裁判官 入江俊郎 裁判官 長部謹吾 裁判官 城戸芳彦 裁判官 田中二郎 裁判官 松田二郎 裁判官 岩田誠 裁判官 下村三郎 裁判官 色川幸太郎 裁判官 大隅健一郎 裁判官 松本正雄 裁判官 飯村義美 裁判官 村上朝一 裁判官 関根小郷)

+判例(H8.3.5)
理由
上告代理人松本光寿の上告理由について
一 本件は、交通事故の被害者である上告人が被上告人に対して自動車損害賠償保障法(以下「自賠法」という。)七二条一項前段の規定(以下「本件規定」という。)に基づき後遺障害による損害のてん補を請求するものである。被上告人は、上告人が本件規定による請求権を有していたこと及び上告人に少なくとも自動車損害賠償保障法施行令(以下「施行令」という。)別表の第一二級一四号に該当する後遺障害が存することを認めた上で、右請求権の時効による消滅を主張している。

二 原審の適法に確定した事実関係の概要は、次のとおりである。
1 上告人は、昭和五九年三月二四日午後六時五五分ころ、鳥取県岩美郡a町b番地先路上を歩行中に自動車に衝突された。右自動車は、そのまま走り去り行方不明となった。上告人は、本件交通事故により入院治療二四〇日、通院治療三箇月を要する左脛骨膝関節内骨折、顔面挫創等の傷害を受け、昭和六〇年二月二日に症状固定し、左膝の関節や外貌などに後遺障害が残った。
2 Aは、本件交通事故直後の午後七時前ころ、相当程度酒に酔った状態で自動車を運転して本件交通事故現場付近に所在する自宅に帰り、そのまま寝入った。Aの妻は、Aが飲酒運転をしてきたこと、Aの自動車を見分したところ軽度の損傷がみられたこと、救急車のサイレンを聞いたことから、Aが交通事故を起こしたのではないかと心配して現場付近を捜査中の警察官に届け出た。警察は、Aを業務上過失傷害事件等の被疑者として捜査を開始した。Aは、本件交通事故当日以来一貫して司法警察員及び検察官に対して本件事故当時の記憶がないと供述したが、昭和五九年四月二三日付け司法警察員に対する供述調書及び同六〇年二月四日付け検察官に対する供述調書においては罪を認める旨の供述をし、その間二度にわたり上告人を見舞って謝罪し、見舞金を送った。しかし、Aは、昭和六一年二月二七日、業務上過失傷害事件については嫌疑不十分のため不起訴処分となった。
3 上告人は、Aの締結した自動車損害賠償責任共済契約に基づき農業協同組合から治療費相当額の給付を受けていたが、昭和六一年二月二七日にAについて不起訴処分がされたことにより右治療費の給付を打ち切られ、その後農業協同組合に対して右責任共済契約に基づき後遺障害による損害賠償額の支払も請求したが、同年五月八日に支払を拒絶された。上告人は、Aが本件交通事故の加害車両の保有者であると考えていたため、昭和六二年一月二〇日にAを被告として本件交通事故による後遺障害に係る損害賠償として五二二万円の支払を求める訴えを鳥取地方裁判所に提起した。同裁判所は、同六三年一二月二三日、Aが本件交通事故の加害車両の保有者であるとは認め難いとの理由で上告人の請求を棄却する旨の判決を言い渡し、右判決は昭和六四年一月六日の経過により確定した。
4 上告人は、平成元年二月六日に政府に対して本件規定に基づき後遺障害による損害のてん補の請求をしたが、同二年二月六日に消滅時効の完成を理由に右請求を却下する旨の通知(同年一月二四日付け)を受けたので、同年二月一三日に本件訴訟を提起した。
5 自動車安全運転センターが上告人の症状固定後に上告人に対して交付した本件交通事故についての交通事故証明書には、Aが事故当事者として記載されていた。本件交通事故の加害車両の保有者は、現在のところ明らかでない。

三 原審は、右事実関係の下において、次のとおり上告人の本件請求権は自賠法七五条の定める二年の時効期間の経過により消滅したと判断して、上告人の請求を棄却すべきものとした。
1 本件規定による請求権は、不法行為による損害賠償請求権とは異なり、その消滅時効は民法一六六条一項の規定により権利を行使することを得る時から進行する。
2 自動車損害賠償保障法施行規則二七条二項二号は、本件規定に基づき政府に対して損害のてん補の請求をするには本件規定により政府に対し損害のてん補を請求することができる理由を証するに足りる書面を添付しなければならないと定めているが、右の書面は自動車安全運転センターの交付する交通事故証明書などの公的文書に限られるものではないし、そもそも政府に対する右請求手続を経ずに本件規定に基づく損害のてん補を求めて訴えを提起することも可能であるから、自動車安全運転センターの交通事故証明書にAが事故当事者として記載されていたことが本件規定による請求権の行使についての法律上の障害に当たるということはできない。
3 上告人には本件交通事故の加害者が自白をしたAであると考えたことについて無理からぬ事情があったから時効は進行しない旨の上告人の主張は、本件の事実関係や時効制度の趣旨に照らして採用することができない。
4 以上によれば、上告人の本件請求権は、症状固定の翌日である昭和六〇年二月三日に権利の行使が可能となったもので、同日から時効が進行し、昭和六二年二月二日の経過により消滅した。

四 しかしながら、原審の右三の3及び4の判断は是認することができない。その理由は、次のとおりである。
1 まず、上告人の本件請求権が症状固定の翌日である昭和六〇年二月三日に権利の行使が可能となった旨の原審の判断は是認することができない。
けだし、(一) 上告人は、少なくとも昭和六一年二月二七日までの間にはAの締結した自動車損害賠償責任共済契約に基づいて治療費相当額の給付を受けていたものであり、右の責任共済契約に基づく治療費相当額の給付は、実質的には、Aによる上告人への治療費相当額の賠償金の支払と評価することができる、(二) そうすると、他に特段の事情の認められない本件においては、Aは、右(一)の期間中には上告人に対する自賠法三条の責任を自認していたものと解される、(三) したがって、昭和六〇年二月三日の時点におい
ては、上告人の本件請求権は、本件規定の定める要件を欠くため、その行使が不可能であったといえるからである。
2 そもそも、ある者が交通事故の加害自動車の保有者であるか否かをめぐって、右の者と当該交通事故の被害者との間で自賠法三条による損害賠償請求権の存否が争われている場合においては、自賠法三条による損害賠償請求権が存在しないことが確定した時から被害者の有する本件規定による請求権の消滅時効が進行するというべきである。
けだし、(一) 民法一六六条一項にいう「権利ヲ行使スルコトヲ得ル時」とは、単にその権利の行使につき法律上の障害がないというだけではなく、さらに権利の性質上、その権利行使が現実に期待のできるものであることをも必要と解するのが相当である(最高裁昭和四〇年(行ツ)第一〇〇号同四五年七月一五日大法廷判決・民集二四巻七号七七一頁参照)、(二) 交通事故の被害者に対して損害賠償責任を負うのは本来は加害者であって、本件規定は、自動車損害賠償責任保険等による救済を受けることができない被害者に最終的に最小限度の救済を与える趣旨のものであり、本件規定による請求権は、自賠法三条による請求権の補充的な権利という性質を有する、(三) 交通事故の被害者に対して損害額の全部の賠償義務を負うのも加害者であって、本件規定による請求権は、請求可能な金額に上限があり、損害額の全部をてん補するものではない、(四) そうすると、交通事故の加害者ではないかとみられる者が存在する場合には、被害者がまず右の者に対して自賠法三条により損害賠償の支払を求めて訴えを提起するなどの権利の行使をすることは当然のことであるというべきであり、また、右の者に対する自賠法三条による請求権と本件規定による請求権は両立しないものであるし、訴えの主観的予備的併合も不適法であって許されないと解されるから、被害者に対して右の二つの請求権を同時に行使することを要求することには無理がある、(五) したがって、交通事故の加害者ではないかとみられる者との間で自賠法三条による請求権の存否についての紛争がある場合には、右の者に対する自賠法三条による請求権の不存在が確定するまでは、本件規定による請求権の性質からみて、その権利行使を期待することは、被害者に難きを強いるものであるからである。
本件においては、上告人とAとの間で本件交通事故の加害車両の保有者がAであるか否かをめぐつて自賠法三条による請求権の存否についての紛争があったところ、上告人のAに対する敗訴判決が昭和六四年一月六日に確定したので、上告人の本件請求権の消滅時効は、その翌日である同月七日から進行し、本件訴訟が提起された平成二年二月一三日に中断されたことになるから、上告人の本件請求権が時効により消滅したということはできない。

五 以上によれば、原判決には法令の解釈適用を誤った違法があり、右違法が判決の結論に影響を及ぼすことは明らかである。論旨はこの趣旨をいうものとして理由があり、原判決は破棄を免れない。そして、前記事実関係の下においては、上告人の本件請求を施行令別表の第一二級に相当する二〇九万円の限度で認容した第一審判決の結論は正当であるから、被上告人の控訴を棄却すべきである。
よって、民訴法四〇八条、三九六条、三八四条、九六条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 大野正男 裁判官 園部逸夫 裁判官 可部恒雄 裁判官 千種秀夫 裁判官 尾崎行信)

・債権者が権利の存在あるいは権利を行使し得ることを知らなくとも消滅時効は進行する!
+判例(S12.9.17)
・その例外
+(詐害行為取消権の期間の制限)
第四百二十六条  第四百二十四条の規定による取消権は、債権者が取消しの原因を知った時から二年間行使しないときは、時効によって消滅する。行為の時から二十年を経過したときも、同様とする。
+(不法行為による損害賠償請求権の期間の制限)
第七百二十四条  不法行為による損害賠償の請求権は、被害者又はその法定代理人が損害及び加害者を知った時から三年間行使しないときは、時効によって消滅する。不法行為の時から二十年を経過したときも、同様とする。
+(相続回復請求権)
第八百八十四条  相続回復の請求権は、相続人又はその法定代理人が相続権を侵害された事実を知った時から五年間行使しないときは、時効によって消滅する。相続開始の時から二十年を経過したときも、同様とする。

・債務不履行に基づく損害賠償債務については、損害賠償債務は本来の債務の拡張ないし内容の変更であって、債務の同一性に変更はないから、本来の債務の履行期が起算点になる!
+判例(H10.4.24)
理由
上告代理人野間美喜子、同宮﨑直己の上告理由三1について
所論の点に関し原審が確定した事実関係の下においては、所論の点に関する原審の判断は、正当として是認することができ、その過程に所論の違法はない。論旨は、独自の見解に立って原判決を論難するものにすぎず、採用することができない。
しかしながら、職権をもって調査するのに、原判決には次のとおり法令の解釈適用の誤りがあり、破棄を免れないものというべきである。
一 本件は、被上告人が、上告人の先代との間で農地の売買契約を締結し、被上告人を権利者とする条件付所有権移転仮登記を経由していたところ、上告人が確定判決により右仮登記の抹消登記を経由した上で右土地を第三者に売却して所有権移転登記を経由したとして、上告人に対し、履行不能による損害賠償を求めている事案である。

二 原審の確定した事実関係は、次のとおりである。
1 被上告人は、昭和三九年三月一二日、上告人の父近藤頼一との間で、当時農地であった同人所有の第一審判決添付物件目録記載の土地(以下「本件土地」という。)を代金二〇〇万円で買い受ける旨の契約(以下「本件契約」という。)を締結し、そのころ、右代金全額を支払うとともに、本件土地につき、同月一三日受付で被上告人を権利者とする条件付所有権移転仮登記(以下「本件仮登記」という。)を経由した。
2 頼一は、昭和五一年九月ころ、本件契約に基づく所有権移転義務を履行するため、本件土地を農地から転用する手続を試みたものの果たせなかったが、被上告人は、そのころ、頼一に対し、右手続に要する費用の負担及び本件契約締結後の本件土地に係る固定資産税の精算のために、仲介業者を介して二二万円を支払った。
3 頼一は、昭和五四年七月二二日死亡し、相続人である上告人が本件土地及び本件契約に関する一切の権利義務を承継した。
4 上告人は、昭和六三年六月、被上告人を被告として、本件仮登記の抹消登記手続を求める訴訟を名古屋地方裁判所に提起し、右訴状において、本件契約に基づく本件土地についての所有権移転許可申請協力請求権の消滅時効を援用した。右訴訟においては、被上告人の住居所が不明であるとして、公示送達により手続が進められ、同年九月二七日、上告人勝訴の判決が言い渡されて確定した。上告人は、右確定判決に基づき、昭和六三年一〇月二四日、本件仮登記の抹消登記を経由した。
5 上告人は、昭和六三年一二月九日、本件土地を高見重男に売り渡し、同人に対する所有権移転登記を経由した。
6 上告人は、被上告人に対し、平成五年一月二五日ころ、本件契約に基づく所有権移転許可申請協力請求権につき消滅時効を援用した。

三 原審は、本件契約に基づく所有権移転許可申請義務を含む所有権移転義務は、上告人が昭和六三年一二月九日に高見に本件土地を売却してその旨の所有権移転登記を経由したことにより、履行不能となったところ、上告人が平成五年一月二五日ころにした本件契約に基づく所有権移転許可申請協力請求権についての消滅時効の援用は、右売却後にされたものであるから、履行不能による損害賠償請求権の帰すうを左右しないとして、被上告人の本件請求を認容すべきものと判断した。

四 しかしながら、原審の右判断は是認することができない。その理由は、次のとおりである。
契約に基づく債務について不履行があったことによる損害賠償請求権は、本来の履行請求権の拡張ないし内容の変更であって、本来の履行請求権と法的に同一性を有すると見ることができるから、債務者の責めに帰すべき債務の履行不能によって生ずる損害賠償請求権の消滅時効は、本来の債務の履行を請求し得る時からその進行を開始するものと解するのが相当である(大審院大正八年(オ)第五八五号同年一〇月二九日判決・民録二五輯一八五四頁、最高裁昭和三三年(オ)第五九九号同三五年一一月一日第三小法廷判決・民集一四巻一三号二七八一頁参照)。
これを本件についてみるのに、前記事実関係の下においては、上告人が本件土地を高見に売却してその旨の所有権移転登記を経由したことにより、本件契約に基づく上告人の売主としての義務は、上告人の責めに帰すべき事由に基づき履行不能となったのであるが、これによって生じた損害賠償請求権の消滅時効は、所有権移転許可申請義務の履行を請求し得る時、すなわち、本件契約締結時からその進行を開始するのであり、また、上告人が平成五年一月二五日ころにした消滅時効の援用は、本来の履行請求権とこれに代わる損害賠償請求権との法的同一性にかんがみれば、右損害賠償請求権についての消滅時効を援用する趣旨のものと解し得るものである。そうすると、右損害賠償請求権は、格別の事情がなければ、上告人の右時効の援用によって消滅することとなるはずのものである

五 してみると、これと異なる見解に立って、上告人のした消滅時効の援用が履行不能による損害賠償請求権の帰すうを左右しないとして、直ちに被上告人の本件請求を認容すべきものとした原審の判断には、法令の解釈適用を誤った違法があり、この違法は原判決の結論に影響を及ぼすことが明らかであるから、その余の上告理由につき判断するまでもなく、原判決中、上告人の本件請求を認容した部分は破棄を免れない。
もっとも、本件においては、前示時効の進行開始後においてこれを阻害する事由が存在したこと及び上告人において消滅時効を援用することが信義則に照らして許されないと認めるべき特段の事情があること等が主張されており、これらの点につき更に審理を尽くさせる必要があるので、右破棄部分につきこれを原審に差し戻すのが相当である。
よって、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官根岸重治 裁判官大西勝也 裁判官河合伸一 裁判官福田博)

++解説
《解  説》
一 本件は、Xが、Yの先代から買い受けた農地(本登記未了・仮登記経由)につき、売買から二〇年以上経過した後に、YがXのために経由されていた仮登記を抹消した上で第三者に売却したとして、Yに対し、債務不履行(履行不能)による損害賠償を求め、Yが消滅時効を主張して争っている事案である。
二 本件の事実関係及び訴訟経過の概要は、次のとおりである。
1 Xは、昭和三九年三月一二日、Yの先代Aとの間で、A所有の本件土地(農地)を代金二〇〇万円で買い受ける旨の契約(本件売買契約)を締結し、Xは、そのころ、代金全額を支払うとともに、Xのために条件付所有権移転仮登記(本件仮登記)を経由した。なお、本件土地については、昭和四五年に農業振興地域の整備に関する法律に基づく農業振興地域・農用地区域内の指定を受けて、農用地利用計画上農用地(畑)と用途指定されており、昭和四七年には農業振興地域整備計画が認可された。
2 Aは、昭和五一年九月ころ、本件土地を農地から転用する手続を試みたものの果たせなかったが、Xは、そのころ、Aに対し、右手続に要する費用の負担及び従来の固定資産税の精算として二二万円を支払った。
3 昭和五四年に死亡したAを相続したYは、昭和六三年六月、Xを相手方として本件仮登記の抹消を求める訴えを提起し、Xの住居所不明として公示送達により手続が進められた結果、勝訴判決を得て、同年一〇月に本件仮登記を抹消した。
4 Yは、昭和六三年一二月九日、本件土地を訴外Bに売却し、農地法三条所定の許可を得て所有権移転登記を経由した。
5 Xは、平成四年二月、Yに対し、本件土地のBへの譲渡によりXに対する所有権移転義務が履行不能となったとして、右譲渡時における本件土地の価格相当額の損害賠償を求めて、本訴を提起した。これに対してYは、本件売買契約上の所有権移転義務の履行不能、本件売買契約に基づく許可申請協力請求権等の時効消滅等を主張してこれを争っている。なお、Yは、本訴提起後の平成五年一月、Xに対し、改めて本件売買契約に基づく許可申請協力請求権の消滅時効を援用する旨の意思表示をしている。
6 一審は、本件土地が昭和六三年一二月のBへの譲渡時までに非農地化しており、本件売買契約によるXへの本件土地の所有権移転の効果が生じていたところ、Yによる本件土地の二重譲渡の結果、Xが本件土地の所有権を喪失したとして、履行不能による損害賠償を認めた。原審は、本件土地がBへの譲渡時においても農地であったとした上で、本件売買契約に基づく所有権移転許可申請義務を含む所有権移転義務は、YがBに本件土地を売却してその旨の所有権移転登記を経由したことにより履行不能となったところ、Yが本訴提起後にした本件売買契約に基づく所有権移転許可申請協力請求権についての消滅時効の援用は、右売却後にされたものであって、履行不能による損害賠償請求権の帰趨を左右しないとして、Xの損害賠償請求を認容すべきものと判断した。これに対してYから上告。

三 本件では、YがBに本件土地を売却してその旨の所有権移転登記を経由したことにより、本件売買契約に基づくYの売主としての義務は、Yの責めに帰すべき事由により履行不能となったいうことができるところ、原審は、本件売買契約に基づく本来の履行請求権とこれに代わる填補賠償請求権とが全く別個のものであって、後者の消滅時効の起算点は履行不能時であるとの見解を前提としているようである。
しかしながら、債務不履行による損害賠償請求権は、本来の履行請求権の拡張(遅延賠償の場合)ないし内容の変更(填補賠償の場合)であって、本来の履行請求権と法的に同一性を有するとして、本来の履行請求権が時効消滅する前に債務不履行により損害賠償請求権に変じても、このために時効期間が更新されることはなく、本来の履行請求権が時効消滅した後に、これにつき債務不履行による損害賠償請求権を生ずることはないと解するのが通説である(我妻榮・新訂債権総論一〇一頁、林良平=石田喜久夫=高木多喜男・債権総論[改訂版]一一四頁、北川善太郎・注釈民法10四六六頁、奥田昌道・債権総論[増補版]一四九頁)。大判大8・10・29民録二五輯一八五四頁は、期限の定めのない動産賃貸借契約の成立から一〇年経過後に目的物返還債務につき履行不能を生じ、その後になされた貸主からの履行不能による填賠償請求に対して、借主が消滅時効を援用したという事案につき、これと同旨の判示をしており、最三小判昭35・11・1民集一四巻一三号二七八一頁、本誌一一四号三三頁は、動産の修理請負契約が締結され(商行為)、一年後に修理義務不履行により請負契約を解除したところ、その二年後に請負人が目的物を紛失したため、解除に基づく原状回復としての目的物の返還義務が履行不能となり、更にその四年後(解除の六年後)に解除に基づく原状回復請求権の履行不能による填補賠償請求がされたのに対して、消滅時効が援用された事案につき、契約の解除に基づく原状回復義務の履行不能による損害賠償請求権の消滅時効は、契約解除の時から進行する旨判示している。このほか、大判昭18・6・15法学一三巻四号二六五頁(ただし、事案の詳細は不明)も、同旨の判示をしているところである。
債務者の責めに帰すべき履行不能の場合に認められる填賠償請求権は、本来の履行請求権が履行不能により消滅し、これに代わるものとして成立するものであって、両請求権は実体上併存しないと考えられるが、通説判例は、前記のとおり、両者の法的同一性を根拠として、填補賠償請求権についての消滅時効の起算点を本来の履行請求権についての「権利行使可能時、すなわち債務履行請求可能時」であるとする立場を採っているのに対し、債務不履行に対する救済手段としての損害賠償請求権の機能、債務不履行による損害賠償請求権の新規独立の権利性、債務不履行による契約解除に基づく原状回復請求権の消滅時効の起算点が契約解除時とされていることとの権衡等を理由として、債務不履行による損害賠償請求権の消滅時効の起算点を債務不履行時と解する説もある(平井宜雄・注釈民法(5)二九八頁)。
履行不能による填補賠償請求権の消滅時効の起算点の問題は、実質的には、債権者の本来の履行請求権についての権利不行使とその不履行による損害賠償請求権についての権利不行使とをどのように関連評価するべきかという問題であり、本来の履行請求権と填補賠償請求権との「同一性」の有無をもって一律に割り切れるものかどうかについては議論の余地がないわけではないが、通説判例の立場からすれば、本来の履行請求権に履行不能が生じたからといって、そのことの故に債権者の権利行使(本来の履行請求にしろ填補賠償にしろ)が妨げられるものではないから、消滅時効の事実的基礎である債権者の権利不行使の態度に関しては、両請求権を通じて一貫して評価するのが不当とはいえないし(両請求権に同一性があるとして、担保の不消滅や時効期間の点では同じ取扱いがされていることとの権衡からしても、その方が首尾一貫しているといえよう。)、填補賠償請求権につき債務不履行時を新たな時効の起算点とすると、時効期間経過直前に債務不履行となった場合等を想定すれば、権利関係の不安定な期間が長くなりすぎるということにもなろう(内池慶四郎・民法学1三二四頁)。
四 本判決は、右先例を引用しつつ、通説と同旨の理由付けにより、契約に基づく債務の不履行による損害賠償請求権の消滅時効は、本来の債務の履行を請求し得る時から進行する旨判示した上、本件においてYが平成五年一月にした消滅時効の援用は、履行不能による損害賠償請求権についての消滅時効を援用する趣旨のものと解し得るとして、原判決を破棄し、消滅時効の援用が信義則に照らして許されないかどうかなどにつき更に審理を尽くさせるために事件を原審に差し戻したものである(なお、Yの上告理由には的確な指摘がなかったため、職権による破棄となっている。)。
本判決が一般論として判示する点は、従来の通説の立場ないし判例の流れに沿うものであって、格別目新しいところはないが、「契約に基づく債務の履行不能」については、これまで最高裁において明示の判断を示した先例がなかったため、裁判集に登載されることとなったものである。

・安全配慮義務違反による損害賠償債務については、債務の同一性の理論は採用されておらず、その損害が発生したときに成立し、同時にその権利を行使することが法律上可能になる!
+判例(H6.2.22)
理由
上告人ら代理人横山茂樹及び上告人A1、同A2、同A3、同A4、同A5、同A6、同A7、同A8、同A9、同A10の代理人佐伯静治の上告理由第一点ないし第五点について
一 本件は、被上告人が経営していた長崎県北松浦郡所在の各炭鉱の従業員として炭鉱労務に従事し、じん(塵)肺に罹患した患者六三名(別紙従業員目録(一)(二)(三)記載のとおり)の本人又は相続人が、被上告人に対し、雇用契約上の安全配慮義務の不履行に基づく損害賠償を請求するものである(以下、右患者六三名、すなわち、上告人らのうち被上告人に雇用されていた者及びその余の各上告人の被相続人全員を「上告人ら元従業員」という)。
原審の適法に確定した事実関係は、次のとおりである。
1 被上告人は、昭和一四年に設立された株式会社であり、同年八月北松鉱業所を設け、鹿町、矢岳、神田、御橋などの各炭鉱を開発経営し、また同二九年から伊王島鉱業所も経営するようになったが、各炭鉱の終掘により、同四〇年北松鉱業所を廃止し、同四七年伊王島鉱業所を閉山した。
上告人ら元従業員は、被上告人と雇用契約を締結し、それぞれ、右各炭鉱のいずれかにおいて、炭鉱労務に従事した。
2 「粉じんを吸入することによって肺に生じた線維増殖性変化を主体とする疾病」(じん肺法二条一項一号)であるじん肺は、粉じん(粉塵)が肺内に沈着すると、肺組織が、長い年月をかけて、これを細胞内部に取り込む線維化と呼ばれる生体反応を続け、やがて肺胞腔内の線維が固い結節となり、最後には融合して手拳大の塊になり、肺胞壁を閉塞させるというものであり、吸い込む粉じんの種類により、けい(珪)肺、金属じん肺、炭素じん肺、有機じん肺等に分類される。
じん肺による病変は不可逆的であり、現在の医学では治療は不可能である。また、肺内に粉じんが存在する限り右反応が継続するところ、肺の線維増殖性変化は、粉じんの量に対応する進行であり、無限の進行ではないが、気管支変化、肺気腫は進行し続ける。そのため、粉じんを発散する職場を離れた後、長年月を経て初めてじん肺の所見が発現することも少なくない。進行の程度、速度は多様であるが、進行する場合の予後は不良であり、心肺機能障害は乏酸素血症を招き、その結果全身萎縮を来し、あるいは心不全より肺性心を招き、また肺感染症を合併して死亡に至るとされている。
3 昭和三〇年七月二九日けい肺及び外傷性せき髄障害に関する特別保護法(以下「けい特法」という)が制定され、けい肺第一症度からけい肺第四症度までのけい肺の症状を決定する手続が定められた。
そして、昭和三五年三月一日じん肺法が制定され、エックス線写真像、心肺機能検査の結果、結核精密検査の結果、胸部に関する臨床検査の結果の組合せによる、管理一から管理四までの「健康管理の区分」を決定する手続が定められ、更に同五二年七月一日同法が改正され、エックス線写真像と肺機能障害の組合せによる、管理一から管理四までの「じん肺管理区分」を決定する手続が定められた。じん肺の所見があると認められる者は、管理二以上に区分され、管理四と決定された者は、療養を要するものとされている。
4 上告人ら元従業員六三名は、いずれも、じん肺(けい肺)の所見がある旨の行政上の決定(けい持法に基づくけい肺の症度の決定、前記改正前のじん肺法に基づく管理二以上の健康管理の区分の決定又はじん肺法に基づく管理二以上のじん肺管理区分の決定)を受けており、その最終の行政上の決定をみると、五八名が管理四とされ、その余の二名は管理三に、また三名は管理二にとどまっている。
そして、右六三名のうち、別紙従業員目録(三)記載の二〇名については、最終の行政上の決定(最も重い行政上の決定)を受けた日から本訴提起の日までに一〇年を超える期間が経過している。その余の四三名については、最終の行政上の決定を受けた日から一〇年未満のうちに本訴が提起されているが、このうち別紙従業員目録(一)記載の一〇名については、最初の行政上の決定を受けた日から本訴提起の日までに一〇年を超える期間が経過している。右一〇名の中には、昭和四一年にじん肺の所見がある旨の最初の行政上の決定を受け、その四年後である同四五年に管理四の決定を受けた者もあれば、同三〇年にじん肺の所見がある旨の最初の行政上の決定を受け、その二一年後である同五一年に管理三の、次いで同五三年に管理四の決定を受けた者もある。

二 被上告人は、本訴において、民法一六七条一項の一〇年の消滅時効を援用した。
第一審は、上告人ら元従業員が最終の行政上の決定を受けた時から消滅時効が進行するとして、別紙従業員目録(三)記載の二〇名に係る損害賠償請求権は時効により消滅したと判断し、上告人目録(三)記載の上告人ら(右二〇名の本人又は相続人)の請求を棄却したところ、原審は、上告人ら元従業員が最初の行政上の決定を受けた時から消滅時効が進行するとして、右二〇名及び別紙従業員目録(一)記載の一〇名に係る損害賠償請求権は時効により消滅したと判断し、別紙上告人目録(三)記載の上告人らの控訴を棄却するとともに、別紙上告人目録(一)記載の上告人ら(右一〇名の本人又は相続人)の請求をも棄却した。

三 しかしながら、別紙従業員目録(一)記載の一〇名に係る損害賠償請求権が時効により消滅したとする原審の判断は、是認することができない。その理由は、次のとおりである。
雇用契約上の付随義務としての安全配慮義務の不履行に基づく損害賠償請求権の消滅時効期間は、民法一六七条一項により一〇年と解され(最高裁昭和四八年(オ)第三八三号同五〇年二月二五日第三小法廷判決・民集二九巻二号一四三頁参照)、右一〇年の消滅時効は、同法一六六条一項により、右損害賠償請求権を行使し得る時から進行するものと解される。そして、一般に、安全配慮義務違反による損害賠償請求権は、その損害が発生した時に成立し、同時にその権利を行使することが法律上可能となるというべきところ、じん肺に罹患した事実は、その旨の行政上の決定がなければ通常認め難いから、本件においては、じん肺の所見がある旨の最初の行政上の決定を受けた時に少なくとも損害の一端が発生したものということができる
しかし、このことから、じん肺に罹患した患者の病状が進行し、より重い行政上の決定を受けた場合においても、重い決定に相当する病状に基づく損害を含む全損害が、最初の行政上の決定を受けた時点で発生していたものとみることはできない。すなわち、前示事実関係によれば、じん肺は、肺内に粉じんが存在する限り進行するが、それは肺内の粉じんの量に対応する進行であるという特異な進行性の疾患であって、しかも、その病状が管理二又は管理三に相当する症状にとどまっているようにみえる者もあれば、最も重い管理四に相当する症状まで進行した者もあり、また、進行する場合であっても、じん肺の所見がある旨の最初の行政上の決定を受けてからより重い決定を受けるまでに、数年しか経過しなかった者もあれば、二〇年以上経過した者もあるなど、その進行の有無、程度、速度も、患者によって多様であることが明らかである。そうすると、例えば、管理二、管理三、管理四と順次行政上の決定を受けた場合には、事後的にみると一個の損害賠償請求権の範囲が量的に拡大したにすぎないようにみえるものの、このような過程の中の特定の時点の病状をとらえるならば、その病状が今後どの程度まで進行するのかはもとより、進行しているのか、固定しているのかすらも、現在の医学では確定することができないのであって、管理二の行政上の決定を受けた時点で、管理三又は管理四に相当する病状に基づく各損害の賠償を求めることはもとより不可能である。以上のようなじん肺の病変の特質にかんがみると、管理二、管理三、管理四の各行政上の決定に相当する病状に基づく各損害には、質的に異なるものがあるといわざるを得ず、したがって、重い決定に相当する病状に基づく損害は、その決定を受けた時に発生し、その時点からその損害賠償請求権を行使することが法律上可能となるものというべきであり、最初の軽い行政上の決定を受けた時点で、その後の重い決定に相当する病状に基づく損害を含む全損害が発生していたとみることは、じん肺という疾病の実態に反するものとして是認し得ない。これを要するに、雇用者の安全配慮義務違反によりじん肺に罹患したことを理由とする損害賠償請求権の消滅時効は、最終の行政上の決定を受けた時から進行するものと解するのが相当である。
そうすると、原審がこれと異なる見解に立ち、別紙従業員目録(一)記載の一〇名に係る損害賠償請求権が時効により消滅したとの理由で、別紙上告人目録(一)記載の上告人らの請求を棄却したのは、民法一六六条一項の解釈適用を誤った違法があるというべきであり、この違法は原判決中右棄却部分に影響を及ぼすことが明らかである。論旨のうち、右の違法をいう部分は理由があり、原判決中、別紙上告人目録(一)記載の上告人らに関する部分は破棄を免れない。そして、右破棄部分については、右上告人らが主張する損害と安全配慮義務違反との間の因果関係の有無、損害の額等につき更に審理を尽くさせる必要があるから、右部分につき本件を原審に差し戻すこととする。

四 次に、別紙従業員目録(三)記載の二〇名に係る損害賠償請求権が時効により消滅したとする原審の判断は、前記説示に照らして是認することができ、その過程にも所論の違法はない。右部分に関する論旨は、採用することができない。
同第六点について
所論の点に関する原審の事実認定は、原判決挙示の証拠関係に照らして首肯するに足り、右事実関係の下においては、被上告人が消滅時効を援用することをもって権利の濫用に該当し、又は信義則に反するとはいえないとした原審の判断は正当として是認することができる。原判決に所論の違法はない。論旨は採用することができない。

同第八点について
一 別紙上告人目録(二)記載の上告人らは、別紙従業員目録(二)記載の上告人ら元従業員三三名の本人又は相続人であるところ、本訴において、被上告人に対し、本件安全配慮義務違反による損害賠償として、右上告人ら元従業員一人当たり一律三〇〇〇万円の慰謝料と弁護士費用三〇〇万円の支払を求め、財産上の損害を別途請求する意思がない旨を陳述した。
原審は、右三三名の慰謝料の額について、基本的に管理区分を重視するが、管理四該当者のうち原審における鑑定の結果軽度の障害と判定された者については、これを減額事情として斟酌すべきであるとした上、戦前及び終戦直後において本件安全配慮義務の履行が必ずしも容易であったとはいえないこと、石炭鉱業の社会的有用性及び被上告人が戦中・戦後に果たした社会的役割、上告人ら元従業員がその管理区分に対応する労働者災害補償保険法、厚生年金保険法に基づく保険給付を受けていること等のすべての事情を考慮して、〔A〕死者を含む管理四該当者(一八名)につき一二〇〇万円、〔B〕管理四該当者のうち鑑定により軽度の障害と判定された者(一一名)につき一〇〇〇万円、〔C〕管理三該当者(二名)につき六〇〇万円、〔D〕管理二該当者(二名)につき三〇〇万円とするのが相当と判断し、なお、弁護士費用については右各慰謝料額の一割に当たる金員を相当とした上、右上告人らの請求中、被上告人に対し右各慰謝料額及び各弁護士費用の合計額を超える金員の支払を求める部分を棄却した。

二 しかしながら、慰謝料額に関する原審の右判断は是認することができない。その理由は、次のとおりである。
元来、慰謝料とは、物質的損害ではなく精神的損害に対する賠償、いわば内心の痛みを与えられたことへの償いを意味し、その苦痛の程度を彼此比較した上、客観的・数量的に把握することは困難な性質のものであるから、当裁判所の先例においても、「慰謝料額の認定は原審の裁量に属する事実認定の問題であり、ただ右認定額が著しく不相当であって経験則又は条理に反するような事情でも存するならば格別」である(最高裁昭和三五年(オ)第二四一号同三八年三月二六日第三小法廷判決・裁判集民事六五号二四一頁)とされている。
しかし、ここで留意を要するのは、上告人らによる本訴請求は慰謝料を対象とするものであるが、物質的損害の賠償は別途請求するというのではなく、かえって他に財産上の請求をしない旨を上告人らにおいて訴訟上明確に宣明し、上告人ら自身これに拘束されているのが本件であることである。
したがって、上告人らは、被上告人の安全配慮義務の不履行に起因するところの、財産上のそれを含めた全損害につき、本訴において請求し、かつ、認容される以外の賠償を受けることはできないのであるから、本訴請求の対象が慰謝料であるとはいえ、他に財産上の請求権の留保のないものとして、原審が慰謝料額を認定するに当たっても、その裁量にはおのずから限界があり、その裁量権の行使は社会通念により相当として容認され得る範囲にとどまることを要するのは当然である。
以上の考察に立って本件をみるのに、まず、上告人ら元従業員が被上告人の経営する炭鉱において長期間にわたって炭鉱労務に従事した結果、じん肺に罹患したものであること、じん肺が重篤な進行性の疾患であり、現在の医学では治療が不可能とされ、進行する場合の予後は不良であることは、前示のとおりである。
そして管理四該当者はすべて療養を要するものとされているが、前記管理四該当者合計二九名の個別の症状の経過及び生活状況に関する原審確定事実によれば、右二九名のうち、原審がAランクに格付けし慰謝料額一二〇〇万円をもって相当とした者は、症状が重篤で長期間にわたって入院し、あるいは入院しないまでも寝たり起きたりの状態であったり、呼吸困難のため日常の起居にも不自由を来すという状況にあり、そのままじん肺に伴う合併症により苦しみながら死亡した者もあること、また、原審がBランクに格付けし慰謝料額一〇〇〇万円をもって相当とした鑑定により軽度障害と判定された者でも、重い咳や息切れ等の症状に苦しみ、坂道等の歩行は困難で、家でも休んでいることが多く、夜間に重い咳が続いたり呼吸困難に陥るため、家族の介護を要するといった状況にあること、右の二九名は総じて、被上告人を退職した後じん肺の進行により徐々に労働能力を喪失して行ったもので、労働者災害補償保険法等による保険給付を受けるまでの間、極めて窮迫した生活を余儀なくされた者が少なくないこと等が明らかである。
これによると、本件において死者を含む管理四該当者の被った精神的損害に対する評価については、一般の不法行為等により労働能力を完全に喪失し、又は死亡するに至った場合のそれに比してさしたる違いを見出すことはできず、したがって、以上の事実関係の下においては、特段の事情がない限り、原審の認定した一二〇〇万円又は一〇〇〇万円という慰謝料額は低きに失し、著しく不相当であって、経験則又は条理に反し、右にみるような慰謝料額認定についての原審の裁量判断は、社会通念により相当として容認され得る範囲を超えるものというほかはない。
この点につき、原判決は種々の事情を挙げているが、被上告人が上告人ら元従業員の雇用者としてその健康管理・じん肺罹患の予防につき深甚の配慮をなすべき立場にあったことを勘案すれば、本件安全配慮義務の履行が必ずしも容易であったとはいい難い一時期があったことその他、原判決説示の被上告人側の事情を考慮しても、なお前記慰謝料額認定についての原審の裁量判断を正当化するには遠く、結局、原審の右判断には、損害の評価に関する法令の解釈適用を誤った違法があるというに帰着する。そして、このことは、管理四該当者の慰謝料額の認定を前提とするとみられる管理三及び管理二該当者各二名の慰謝料額の認定判断にも、同様の違法があることを裏付けるものであって、以上の違法は原判決の結論に影響を及ぼすことが明らかである。
したがって、この点の違法をいう論旨は理由があり、その余の上告理由について判断するまでもなく、原判決中、別紙上告人目録(二)記載の上告人らの敗訴部分は、破棄を免れない。そして、慰謝料額を当審において認定することはもとより相当でないから、右に説示したところに従い原審において改めて審理判断させるため、右部分につき本件を原審に差し戻すこととする。
以上のとおりであるから、原判決中、別紙上告人目録(一)記載の上告人らに関する部分及び別紙上告人目録(二)記載の上告人らの敗訴部分を破棄し、右各部分につき本件を原審に差し戻すこととし、原判決中別紙上告人目録(三)記載の上告人らに関する部分については、その請求を棄却すべきものとした原審の判断は正当であって右上告人らの上告は理由がないから、これを棄却することとする。
よって、民訴法四〇七条一項、三九六条、三八四条、九五条、八九条、九三条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 可部恒雄 裁判官 園部逸夫 裁判官 佐藤庄市郎 裁判官 大野正男 裁判官 千種秀夫)

++解説
《解  説》
一 事案の概要
1 本件は、Yが、戦中、戦後にわたって経営していた長崎県所在の各炭鉱(既に閉山されている。)の従業員として粉じん作業に従事し、じん肺法によるじん肺管理区分等の行政上の決定を受けたじん肺患者(元従業員)六三名の本人又は相続人(Xら)が、Yに対し、雇用契約上の安全配慮義務の不履行に基づく損害賠償(患者一名につき三〇〇〇万円及び弁護士費用三〇〇万円)を請求した事件の上告審判決である。一審判決は本誌五五一号三五一頁に、原判決は本誌六九八号六四頁に掲載されているので、併せて参照されたい。
じん肺は、現在の医学では治療不可能とされる特異な進行性の職業病であり、昭和三〇年から法的手当てがされるようになった。現行じん肺法は、エックス線写真像と肺機能障害の組合せによる、管理一から管理四までの「じん肺管理区分」を決定する手続を定めており、じん肺の所見があると認められる者は管理二以上に区分され、管理三とされた者については作業転換の勧奨又は指示がされ、管理四とされた者は療養を要するものとされているところ、この管理区分は、じん肺患者の症状の程度を知る客観的な指標であり、慰謝料額を認定するに際しての裁判実務上の主要な判断基準とされている。エックス線写真で確認し得るのは、吸い込まれた粉じんに対して肺の組織が反応して何年もかかってでき上がった線維化した組織であり、粉じんを発散する職場を離れて長年月を経過した後じん肺の所見が現れるというケースも少なくない。本件の元従業員の多くも、退職後にじん肺の所見がある旨の行政上の決定を受けており、潜伏期間の長い疾病といえる。そして、進行の程度、速度も患者によって多様であり、管理四まで病状が進行する者もあれば、管理二、三にとどまっているようにみえる者もあり、最初の行政上の決定を受けてから重い決定を受けるまでに、数年しか経過しなかった者もあれば、二〇年以上経過した者もある。
2 一審、原審とも、安全配慮義務の不履行を認めたが、消滅時効の成否、損害額(慰謝料額)の算定についての判断を異にした。冒頭掲記の判旨もこの二点に関する。
一審は、最終の行政上の決定を受けた時から時効が進行するとして、元従業員六三名中二〇名につき消滅時効の完成を理由に請求を棄却し、残り四三名については、①死亡又は管理区分四該当者三七名につき二三〇〇万円、②管理区分三該当者三名につき一八〇〇万円、③管理区分二該当者三名につき一〇〇〇万円の各一律の慰謝料と各弁護士費用の限度で請求を認容した。これに対し、原審は、最初の行政上の決定を受けた時から時効が進行するとして、元従業員六三名中、一審より一〇名多い三〇名につき消滅時効の完成を理由に、請求を棄却し、残り三三名については、原審で実施した鑑定の結果に基づき一ランクを加え、①死亡又は管理区分四該当者(次の者を除く)一八名につき一二〇〇万円、②管理区分四該当者中鑑定により軽度障害と判定された者一一名につき一〇〇〇万円、③管理区分三該当者二名につき六〇〇万円、④管理区分二該当者二名につき三〇〇万円の各一律の慰謝料と各弁護士費用の限度で、請求を認容した。
Yは、請求を一部認容されたXらに対する関係で上告し(平成元年(オ)第一六六六号)、Xらは全員が上告した(平成元年(オ)第一六六七号)。最高裁はYの上告は棄却した。
本判決は、Xらの上告に対するものであるが、(1) 右消滅時効は、最終の行政上の決定を受けた時から進行するとして、原判決中、原審で新たに請求を棄却された元従業員一〇名に関する部分を破棄し(差戻し)、一審、原審とも請求を棄却された元従業員二〇名に関する部分の上告を棄却し、(2) 原判決中、原審で請求を一部認容された三三名に関する部分については、原審認定の慰謝料額は低きに失し、著しく不相当であって、右認定には経験則又は条理に反する違法があるとして、破棄した(差戻し)。
二 判旨一について(消滅時効の起算点)
1 雇用契約上の使用者に対する安全配慮義務違反による損害賠償請求権は、債務不履行に基づく損害賠償請求権の一であり、その時効期間は民法一六七条一項により一〇年となる(最三小判昭50・2・25民集二九巻二号一四三頁参照)。消滅時効は「権利ヲ行使スルコトヲ得ル時」から進行するのが原則だが(民法一六六条一項)、短期消滅時効が定められたいくつかの場合については権利者が一定の事情を知った時から時効が進行する旨の特則がある(民法四二六条、七二四条、八八四条等)。債務不履行に基づく損害賠償請求権については右のような特則はないから民法一六六条一項が適用されることになるが、判例(最二小判昭49・12・20民集二八巻一〇号二〇七二頁、本誌三一八号二二六頁)、通説は、右の特則との対比等から、同項の「権利ヲ行使スルコトヲ得ル」とは、権利を行使する上で法律上の障害(履行期未到来等)がないことを意味し、権利を行使し得ることを権利者が知らなかった等の事実上の障害は時効の進行を妨げないとしている。安全配慮義務違反による損害賠償請求権は、権利として成立すればこれを行使する上での法律上の障害はないから、その成立時、すなわち損害が発生した時が右時効の起算点となるものと解される。
ところで、債務不履行に基づく損害賠償債務は、本来の債務と同一性を有するから、その消滅時効は、本来の債務の履行を請求しうる時から進行すると解されている(最三小判昭35・11・1民集一四巻一三号二七八一頁)。そこで、安全配慮義務違反による損害賠償債務についても、この債務の同一性理論により、使用者に対し安全配慮義務の履行を請求し得るのは在職中に限られるから、退職後に損害が発生した場合であっても、安全配慮義務違反による損害賠償請求権の消滅時効は被用者が退職した時から進行するという見解を生じ、本訴においてYも同様の主張をしていた。しかし、最高裁は、本判決と同日に言い渡したYの上告に対する判決において、「安全配慮義務違反に基づく損害賠償債務は、安全配慮義務と同一性を有するものではない。けだし、安全配慮義務は、特定の法律関係の付随義務として一方が相手方に対して負う信義則上の義務であって、この付随義務の不履行による損害賠償請求権は、付随義務を履行しなかった結果により積極的に生じた損害についての賠償請求権であり、付随義務履行請求権の変形物ないし代替物であるとはいえないからである。」と判示して、この見解を否定した(最三小判平6・2・22平元(オ)第一六六六号。裁判集不登載)。
2 じん肺にかかった否かは、事後的な行政上の決定がなければ通常認定し得ないから、本件では、じん肺の所見がある旨の最初の行政上の決定があった時に損害が発生したとみてよい(厳密には、右決定の根拠となった診断を受けた時に損害が発生したというべきであるが、一〇年の時効が争われるような事件では、当該決定がいつの診断に基づくものかは、証拠上認定し得ないことが多い。)。
ところで、判例、通説は、加害行為は一回限りであったが、その損害の発生が継続的又は間歇的である場合、当初の加害行為時に将来起こるべき損害を含む全損害が発生したもの(全損害につき損害賠償請求権が成立している)という前提に立ち、その上で、不法行為については、損害を知った時から時効が進行する旨の民法七二四条の特則があるので、時効の関係では予見可能性の有無によって損害を分離し、当初予見しえなかった後発損害については、その発生を予見し得る時から別個に時効が進行すると解することができるとしている(最三小判昭42・7・18民集二一巻六号一五五九頁、本誌二一〇号一四八頁、末川博「不法行為による損害賠償請求権の時効」民法論集二九九頁等)。この考え方によると、継続的な加害行為が終了した後一定の期間を経て損害が発生し、その損害が進行拡大していく場合にも、実体法上は、最初の損害が発生した時点で将来生ずるべき全損害が発生しているとみるべきことになり、したがって、民法七二四条のような特則のない安全配慮義務違反による損害賠償請求権の消滅時効は、一般に、最初の損害が発生した時から進行すると解すべきこととなろう。
3 問題は、じん肺についても右の考え方が妥当するか、すなわち、最初の行政上の決定を受けた時点で、その後の重い決定に相当する病状に基づく損害を含む全損害が発生していたものといえるかという点にある。
原審は、これを肯定し、最初の行政上の決定時から全損害について時効が進行するとした。この見解によると、(a)管理二程度の症状であったため、提訴まではしなかったところ、それから一〇年以上経過後に、管理三以上の決定を受けたという場合はもとより、(b)管理二の決定を受けて提訴したものの、口頭弁論終結時においても病状が進行していなかったため管理二に相当する病状に基づく損害の限度でしか認容判決を得ることができず、その判決が確定したところ、それから一〇年以上経過後に管理三以上の決定を受けたという場合(民法一五七条二項参照)であっても、安全配慮義務違反を理由とする損害賠償請求権は、既に全損害について時効消滅しているため、管理三以上の決定に相当する現在の病状に基づく損害の賠償は得られないことになる。
しかし、本判決は、じん肺が特異な進行性の疾患であること、最初の決定から次の重い決定を受けるまでの間に二〇年以上経過する例もある等、その進行の有無、程度、速度等も多様であること、それゆえ、「管理二、管理三、管理四と順次行政上の決定を受けた場合には、事後的にみると一個の損害賠償請求権の範囲が量的に拡大したにすぎないようにみえるものの、このような過程の中の特定の時点の病状をとらえるならば、その病状が今後どの程度まで進行するのかはもとより、進行しているのか、固定しているのかすらも、現在の医学では確定することができない」こと等を理由に、これを否定し、管理二、管理三、管理四の各行政上の決定に相当する病状に基づく各損害は質的に異なり、したがって、重い決定に相当する病状に基づく損害は、その決定を受けた時に発生し、その時点からその損害賠償請求権を行使することが法律上可能となるとした。これによれば、口頭弁論終結時において認定し得る最終の症状に基づく損害は、最終の行政上の決定を受けた時に発生し、この時からその(安全配慮義務違反による)賠償請求権の時効が進行すると解すべきことになる。
4 一審は、本判決と結論を同じくしたが、損害が発生したことを認識し又はその可能性がある時から時効が進行するとしており、全損害が発生してしまっているという前提に立った上で、損害の全部を認識し得ないという事実上の障害が時効の進行を妨げると解したもののようにも読める。しかし、本判決が詳細に説示しているじん肺の病変の特質に照らすと、最初の損害発生時に本来全損害が発生していたとする伝統的な考え方を、じん肺にも当てはめようとするのは無理がある。将来の重い決定に相当する病状に基づく損害は、認識し得ないのではなく、そもそも発生していないのだと考える方が適切であろう。本判決は、このような考慮に基づいて、各行政上の決定毎に別個の損害賠償請求権が成立し、各別に時効にかかることを明らかにしたものと考えられ、特殊な疾病の実態に即した権利構成を指向した判例として注目されよう。
なお、本判決は、じん肺というきわめて特異な進行性の疾患に限って、右の伝統的な考え方に対する例外を認めたものであり、その射程距離には限界がある。予見可能性のない後発損害はすべて別個の損害とみるとか、後遺症が進行する場合、その等級毎に各別の損害賠償請求権が発生するとみるのは、損害賠償請求権(訴訟物)の統一的理解を妨げることになりかねず、もとより、本判決はこのような考え方を採ったものではない。したがって、通常の労災事件において当初の予想を超えて症状が次第に悪化したというような場合については、民法七二四条の特則のある不法行為構成によった方が、時効の起算点の関係では被害者に有利であることに変わりはないから、注意しておく必要がある。
(参考文献として、民法七二四条に関する前記四二年判例につき、平井宜雄・法協八五巻七号三二一頁、飯塚重雄「判決の既判力と後遺症」新実務民訴法講座四巻一三七頁等、じん肺事件の時効論につき、牛山積・法時六一巻一三号四五頁等参照。)
三 判旨二(慰謝料額の認定)について
慰謝料額の認定は原審の裁量に属する事実認定の問題であり、右認定が著しく不相当であって経験則又は条理に反するような事情がない限り、違法とはいえない(最三小判昭38・3・26昭三五(オ)第二四一号裁集民六五号二四一頁)。これは確立した判例法理であり、これまで、慰謝料額の認定そのものの違法を理由に最高裁が原判決を破棄した先例はなかった。本判決は、この判断枠組みの中で例外的事情を認めた珍しい事例ということになる。Xらは財産上の損害の賠償を別途請求する意思のない旨を訴訟上明らかにしているから、慰謝料額の認定に関する原審の裁量にはおのずから限界があること、本件事実関係の下では、死者を含む管理四該当者の精神的損害に対する評価については、一般の不法行為等により労働能力を完全に喪失し、又は死亡するに至った場合のそれに比してさしたる違いを見出せないこと(一二〇〇万円又は一〇〇〇万円では低きに失する)等、詳細な理由が説示されており、実務上留意すべき事例判例といえよう。

・不法行為に基づく損害賠償請求について
+(不法行為による損害賠償請求権の期間の制限)
第七百二十四条  不法行為による損害賠償の請求権は、被害者又はその法定代理人が損害及び加害者を知った時から三年間行使しないときは、時効によって消滅する。不法行為の時から二十年を経過したときも、同様とする。

・起算点について
+判例(H15.4.22)
理由
第1 事案の概要
1 本件は、上告人の従業員であった被上告人が、上告人に対し、職務発明について特許を受ける権利を上告人に承継させたことにつき、特許法35条3項の規定に基づき、相当の対価の支払を求めた事案である。

2 原審の適法に確定した事実関係の概要は、次のとおりである。
(1) 上告人は、光学機械の製造販売等を業とする会社である。被上告人は、昭和44年5月に上告人に入社し、同48年から同53年ころまでの間、上告人の研究開発部に在籍して、ビデオディスク装置の研究開発に従事していた。被上告人は、平成6年11月に上告人を退職した。
(2) 被上告人は、昭和52年に、発明の名称を「ピックアップ装置」とする第1審判決別紙特許目録記載3の発明(以下「本件発明」という。)をした。本件発明は、上告人の業務範囲に属し、かつ、被上告人の職務に属するものであって、特許法35条1項所定の職務発明に当たる。
(3) 上告人においては、その従業者がした職務発明に関して、「発明考案取扱規定」(以下「上告人規定」という。)が定められている。上告人規定には、従業者の職務発明について特許を受ける権利が上告人に承継されること、上告人は、職務発明をした従業者に対して工業所有権収入取得時報償等の報償を行うこと、上告人が従業者の職務発明につき第三者から工業所有権収入を継続的に受領した場合には、受領開始日より2年間を対象として、上限額を100万円とする1回限りの工業所有権収入取得時報償を行うことなどの定めがある。
(4) 上告人は、上告人規定に基づいて、本件発明について特許を受ける権利を被上告人から承継し、これにつき特許出願をして、特許権を取得した。上告人は、この特許権を含めたピックアップ装置に関する多数の特許権及び実用新案権につき、平成2年10月以降、ピックアップ装置の製造会社数社と実施許諾契約を締結して、その後継続的に実施料を受領した。
(5) 被上告人は、本件発明について特許を受ける権利を上告人に承継させたことに関して、上告人規定に基づき、昭和53年1月5日に出願補償として3000円、平成元年3月14日に登録補償として8000円、同4年10月1日に工業所有権収入取得時報償として20万円を上告人から受領した。

3 原審は、以上の事実関係の下で、次のとおり判断し、本件における相当の対価の額であると認定した250万円から被上告人が既に受領した工業所有権収入取得時報償等の金額を差し引いた228万9000円の支払を求める限度で、被上告人の請求を認容すべきものとした。
(1) 職務発明について使用者等が定めた勤務規則その他の定めにより算出された対価の額が、特許法35条3項、4項所定の相当の対価に満たない場合には、従業者等は、上記定めに基づき使用者等が算出した額に拘束されることなく、上記各項による相当の対価を請求することができる。
(2) 被上告人に対し工業所有権収入取得時報償が支払われた平成4年10月1日までは、相当の対価の算定の基礎となる工業所有権収入が明らかではなく、被上告人が受領し得る報償金の額が不確定であったから、被上告人が相当の対価の支払を受ける権利を行使することを期待し得ない状況にあった。したがって、同日までは消滅時効が進行しないから、被上告人が本件訴訟を提起した同7年3月3日の時点において、被上告人の上記権利の消滅時効は完成していない。

第2 上告代理人大場正成、同鈴木修、同大平茂の上告受理申立て理由第1について
1 特許法35条は、職務発明について特許を受ける権利が当該発明をした従業者等に原始的に帰属することを前提に(同法29条1項参照)、職務発明について特許を受ける権利及び特許権(以下「特許を受ける権利等」という。)の帰属及びその利用に関して、使用者等と従業者等のそれぞれの利益を保護するとともに、両者間の利害を調整することを図った規定である。すなわち、(1) 使用者等が従業者等の職務発明に関する特許権について通常実施権を有すること(同法35条1項)、(2) 従業者等がした発明のうち職務発明以外のものについては、あらかじめ使用者等に特許を受ける権利等を承継させることを定めた条項が無効とされること(同条2項)、その反対解釈として、職務発明については、そのような条項が有効とされること、(3) 従業者等は、職務発明について使用者等に特許を受ける権利等を承継させたときは、相当の対価の支払を受ける権利を有すること(同条3項)、(4) その対価の額は、その発明により使用者等が受けるべき利益の額及びその発明につき使用者等が貢献した程度を考慮して定めなければならないこと(同条4項)などを規定している。これによれば、使用者等は、職務発明について特許を受ける権利等を使用者等に承継させる意思を従業者等が有しているか否かにかかわりなく、使用者等があらかじめ定める勤務規則その他の定め(以下「勤務規則等」という。)において、特許を受ける権利等が使用者等に承継される旨の条項を設けておくことができるのであり、また、その承継について対価を支払う旨及び対価の額、支払時期等を定めることも妨げられることがないということができる。しかし、いまだ職務発明がされておらず、承継されるべき特許を受ける権利等の内容や価値が具体化する前に、あらかじめ対価の額を確定的に定めることができないことは明らかであって、上述した同条の趣旨及び規定内容に照らしても、これが許容されていると解することはできない。換言すると、勤務規則等に定められた対価は、これが同条3項、4項所定の相当の対価の一部に当たると解し得ることは格別、それが直ちに相当の対価の全部に当たるとみることはできないのであり、その対価の額が同条4項の趣旨・内容に合致して初めて同条3項、4項所定の相当の対価に当たると解することができるのである。したがって、【要旨1】勤務規則等により職務発明について特許を受ける権利等を使用者等に承継させた従業者等は、当該勤務規則等に、使用者等が従業者等に対して支払うべき対価に関する条項がある場合においても、これによる対価の額が同条4項の規定に従って定められる対価の額に満たないときは、同条3項の規定に基づき、その不足する額に相当する対価の支払を求めることができると解するのが相当である。

2 本件においては、前記第1の2のとおり、上告人規定に、上告人の従業者がした職務発明について特許を受ける権利が上告人に承継されること、上告人が工業所有権収入を受領した場合には工業所有権収入取得時報償を行うものとするが、その上限額は100万円とすることなどが規定されていたのであり、また、被上告人は、上告人規定に従って、本件発明につき報償金を受領したというのである。そうすると、特許法35条3項、4項所定の相当の対価の額が上告人規定による報償金の額を上回るときは、上告人はこの点を主張して、不足額を請求することができるというべきである。
3 原審の上記第1の3(1)の判断は、以上の趣旨をいうものとして、是認することができる。論旨は、独自の見解に立って原判決を非難するものにすぎず、採用することができない。

第3 同第3について
1 職務発明について特許を受ける権利等を使用者等に承継させる旨を定めた勤務規則等がある場合においては、従業者等は、当該勤務規則等により、特許を受ける権利等を使用者等に承継させたときに、相当の対価の支払を受ける権利を取得する(特許法35条3項)。対価の額については、同条4項の規定があるので、勤務規則等による額が同項により算定される額に満たないときは同項により算定される額に修正されるのであるが、対価の支払時期についてはそのような規定はない。したがって、勤務規則等に対価の支払時期が定められているときは、勤務規則等の定めによる支払時期が到来するまでの間は、相当の対価の支払を受ける権利の行使につき法律上の障害があるものとして、その支払を求めることができないというべきである。そうすると、【要旨2】勤務規則等に、使用者等が従業者等に対して支払うべき対価の支払時期に関する条項がある場合には、その支払時期が相当の対価の支払を受ける権利の消滅時効の起算点となると解するのが相当である。
2 本件においては、上告人規定に、上告人が工業所有権収入を第三者から継続的に受領した場合には、受領開始日より2年間を対象として、1回限りの報償を行う旨が定められていたこと、上告人が、平成2年10月以降、本件発明について実施料を受領したことは、前記第1の2のとおりである。そうすると、上告人規定に従って上記報償の行われるべき時が本件における相当の対価の支払を受ける権利の消滅時効の起算点となるから、被上告人が本件訴訟を提起した同7年3月3日までに、被上告人の権利につき消滅時効期間が経過していないことは明らかである。
3 所論の点に関する原審の上記第1の3(2)の判断は、結論において正当であり、原判決に所論の違法はない。論旨は採用することができない。
第4 なお、第1審判決主文第一項に明白な誤りがあることがその理由に照らして明らかであるから、民訴法257条1項により主文のとおり更正する。
よって、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 上田豊三 裁判官 金谷利廣 裁判官 濱田邦夫 裁判官 藤田宙靖)

++解説
《解  説》
一 会社の従業員等が職務上行った発明、すなわち、「職務発明」については、特許を受ける権利又は特許権が会社、従業員のいずれに帰属するのか、会社に帰属するとした場合に従業員は会社から代償を受けられるのかが問題となる。職務発明に関する法制度は国ごとにかなり異なるが、我が国の現行特許法では三五条にその定めがある。同条は、特許を受ける権利が従業員に原始的に帰属することを前提に、会社は、あらかじめ勤務規則で定めておけば、従業員から特許を受ける権利の承継を受けられること、従業員はその代償として相当の対価の支払を受ける権利を有することなどを規定して、会社と従業員の利害の調整を図っている。本件は、勤務規則により職務発明について特許を受ける権利を会社Yに承継させた元従業員Xが「相当の対価」の支払を求めた訴訟である。
二 事実関係及び訴訟の経過の概要は、次のとおりである。
1 Xは、Yの元従業員であり、その職務として「ピックアップ装置」に関する発明をした。Yは、従業員の職務発明について「発明考案取扱規定」を設けており、特許を受ける権利が発明をした従業員から会社に承継されること、この承継がされた場合、会社は当該従業員に対し、特許出願時や特許登録時に補償金を支払うこと、さらに、その発明により利益を上げたときは、実績に応じて報償金を支払うことなどを定めていた。本件発明についても、このY規定に従って、特許を受ける権利がXからYに承継され、Yは、特許出願をして特許権を取得した。また、YからXに対して、出願補償、登録補償、工業所有権収入取得時報償として、合計約二一万円が支払われた。
2 Xは、Yは本件発明について他社から多額の実施料収入を得ており、本件における相当の対価の額は一〇億円を下らないなどと主張して、内金二億円の支払を求めた。争点は、①会社があらかじめ定める勤務規則に、職務発明について特許を受ける権利を承継した会社が従業員に対して支払うべき報償金等の定めがある場合に、従業員が、相当の対価の額は勤務規則による額を上回ると主張して、不足額を請求できるか、②本件における相当の対価の額はいくらか、③Xの権利について消滅時効が完成しているかである。
3 一審(本誌一〇〇二号二五八頁)、二審(本誌一〇六四号一九六頁)とも、①勤務規則による額が特許法三五条三項、四項により定められる相当の対価に満たない場合、従業員は不足額を請求できる、②本件における相当の対価の額は二五〇万円である、③Y規定に基づく報償金がXに支払われた日までは、Xが相当の対価の支払を受ける権利を行使することを期待し得ない状況にあり、消滅時効が進行しないから、Xが本件訴訟を提起した時点では消滅時効は完成していないと判断して、原告の請求を一部(右②の額から被告規定による支払額を差し引いた額の支払を求める限度で)認容した(その余の請求は棄却されたわけであるが、一審判決の主文にその旨の記載が欠落しており、原審もこれを看過したため、本判決の主文において更正がされている。)。
4 本判決は、原判決に対するYの上告受理申立てを受理した上で、後述のように判示して、上告を棄却した(ただし、争点②については、Yの上告受理申立て理由〔原判決が、本件特許に無効原因が存在する蓋然性が極めて高いとしながら、本件発明の価値を認めて相当の対価の支払を命じたのは、無効であることが明らかな特許権に基づく損害賠償等の請求は許されないとする最三小判平12・4・11民集五四巻四号一三六八頁に違反する旨を主張〕が排除されたため〔民訴法三一八条三項〕、上告審の判断は示されていない。個々の職務発明に係る相当の対価の額がいくらであるかは、基本的には、下級審裁判例の積み重ねを待つべき事柄であると考えられよう。また、原判決に対するXの上告及び上告受理申立てについては、平15・3・25付けで、上告棄却・不受理の決定がされた。)。
三 争点①について
1 本判決は、勤務規則により職務発明について特許を受ける権利を会社に承継させた従業員は、勤務規則に会社が従業員に対して支払うべき対価に関する条項があり、従業員がこれに従って会社から報償金等を受領した場合であっても、その額が特許法三五条四項に従って定められる対価の額に満たないときは、同条三項に基づき、不足額の支払を求めることができる旨を判示した。
2 右の判断は、職務発明に関する特許法の規定内容及びその趣旨(職務発明について特許を受ける権利は元来従業員に帰属するが、会社は勤務規則をもってこの権利が会社に承継されることをあらかじめ定めておけば、従業員が実際に譲渡する意思を有しているかどうかを問わず、従業員から特許を受ける権利の承継を受けることができ、他方、その代償として、従業員に相当の対価の支払を受ける権利が保障されていること)に照らすと、現行法の解釈論としては、異論の余地の少ないところと思われる。
この点に関し、Yは、会社は、特許を受ける権利を承継することだけでなく、対価の額についても勤務規則で定めることができ、それが名目的な金額であるような場合は格別、Y規定の内容は同業他社のものと比べても遜色がない合理的なものであるから、それ以上の支払義務を負うことはないなどと主張した。また、従前の企業実務においては、Yの主張するように、会社は勤務規則に定める報償金等を支払えばそれで足りるとの取扱いが多くの企業で長年にわたり続けられてきたようである。本判決は、このような取扱いは特許法三五条に違反して許されないとしたものであって、実務に大きな影響を与えるものと思われる。
3 従業員が勤務規則の定めを上回る対価を請求できるとの判断自体は一審、二審、上告審とも共通するが、その根拠につき、(ⅰ)一審が、Y規定はYが一方的に定めたものであるから、個々の承継の対価の額についてXがこれに拘束される理由はない旨を、(ⅱ)二審が、特許法三五条三項、四項は強行規定である旨を、それぞれ判示したのに対し、本判決は、いまだ職務発明がされておらず、承継されるべき特許を受ける権利の内容や価値が具体化する前に、あらかじめ対価の額を確定的に定めることができないなどと判示するにとどまっている。一審、二審の判断に対しては、(ⅰ)XがYへの入社に当たりYの社内規則を遵守するとの誓約書を提出していること、消滅時効との関係ではY規定における支払時期の定めが拘束力を持つとされることに照らすと、会社が一方的に定めたから拘束力がないといい切れるのか、(ⅱ)強行規定であるとすると、発明がされた後に会社と従業員が特許を受ける権利の承継につき契約をしたときや、相当の対価に関して和解が成立したときでも、対価の合意は拘束力を持たず、従業員は相当の対価に達するまでの請求権を失わないことになるのか、従業員から会社への特許を受ける権利の贈与や、従業員による相当の対価の放棄も認められないのかなどといった疑問が生じ得る。また、強行規定とみる見解は労働者保護の観点を重視するようであるが、同条が会社役員等にも適用されること、特許法の目的が産業の発達に寄与すること(同法一条)にあることに照らすと、異論もあり得よう。以上の点は、本判決(会社があらかじめ定めた勤務規則により職務発明について特許を受ける権利が会社に承継され、その勤務規則に対価の定めがある事案に関するもの)の射程範囲をどうみるのか(個別の契約を締結した場合、就業規則に定めがある場合等でも、従業員は拘束されないのか、会社役員や公務員の場合はどうかなど)にも関係すると思われ、今後の課題となると解される。
四 争点③について
1 本判決は、勤務規則に会社が従業員に対して支払うべき対価の支払時期が定められているときは、相当の対価の支払を受ける権利の消滅時効はこの支払時期から進行する、本件においては、Y規定に従って報償金の支払われるべき時が消滅時効の起算点となるから、Xが本件訴訟を提起した日までに消滅時効期間は経過していない旨を判示して、消滅時効の成立を否定した。
2 相当の対価の支払を受ける権利の消滅時効に関しては、特許を受ける権利の承継の時が起算点となると判示した大阪高判平6・5・27知的裁集二六巻二号三五六頁、名古屋地判平11・1・27本誌一〇二八号二二七頁等がある。Yは、Xによる本件訴訟の提起は本件発明について特許を受ける権利がXからYに承継されてから一〇年以上を経過した後であったから、既に消滅時効が完成しているなどと主張した。しかし、右の裁判例は、対価につき定めた勤務規則がない事案に関するものであるのに対し、本件ではY規定にその定めがある点において事案が異なるので、直ちに同様の理が妥当するとはいえないであろう。
一審、二審は、XがY規定に従って報償金を受領した日まではXにおいて相当の対価の支払を受ける権利を現実に行使することができなかったから、消滅時効が成立しないと判断した。これは、消滅時効は法律上の障害がない限り進行するのが原則であるが、例外的に、権利の性質上その行使を現実に期待できないときは消滅時効が進行しないとの考え方(最大判昭45・7・15民集二四巻七号七七一頁、本誌二五一号一六六頁等参照)によるものと推測される。しかし、相当の対価の額の算定が困難であることは、勤務規則に支払時期の定めがない場合も同様であり、また、在職中の従業員が会社に対して訴訟を提起することが現実的でないとしても事実上の障害にすぎないから、一審、二審の考え方を是認するのは困難であると思われる。
本判決は、消滅時効が成立しないとした原判決の結論は維持したが、その理由については次のように判示した。従業員から会社に対して特許を受ける権利が承継されるのは、その旨が勤務規則に定められているからであり、勤務規則が承継の根拠となるのであるから、会社と従業員との関係は勤務規則によって規律されるのが原則である、対価の額については特許法三五条四項の規定があるので勤務規則の定めがこれによって修正されるが、支払時期に関してはそのような規定がないので勤務規則に従うことになる、したがって、勤務規則の定める支払時期が従業員による相当の対価の支払を受ける権利の行使の上での法律上の障害となるから、その支払時期までは消滅時効が進行しない。
3 消滅時効の起算点につき、学説上は、勤務規則に支払時期の定めのないときは特許を受ける権利の承継の時であり、定めがあるときはその支払時期であるとする見解が有力であり(中山信弘編・注解特許法〔第三版〕(上)三五四頁〔中山〕、紋谷暢男編・特許法50講〔第四版〕四三頁〔紋谷〕、高林龍・標準特許法七六頁等)、本判決はこれに沿ったものと一応解し得る(ただし、これらの学説が、いかなる理論的根拠を採るのか〔一審、二審判決又は本判決のいずれかと同様に考えるのか、異なる理論によるのか。〕、また、勤務規則の定める額を上回る請求をする場合も念頭に置いて、従業員は勤務規則の定める支払時期まで相当の対価を請求することができないとみるのかは、必ずしも定かといい難い。)。
消滅時効の起算点を勤務規則の定めの有無によって分けることに対しては、勤務規則に対価の定めを設けて、発明をした従業員の保護を図ろうとする会社の方が、そうでない会社よりも、消滅時効の成立に関して不利益に扱われることとなり、バランスを欠くとの批判もあり得る。しかし、本判決は、特許法の明文に反しない限り勤務規則の定めを尊重しようというものであり、また、勤務規則の定める支払時期が到来するまで会社は従業員に対して対価の支払を拒むことができるわけであるから、会社に有利な面もあるということができると思われる。
他方、本判決の判断は、本件事案の解決としては従業員に有利なものであるが、会社が勤務規則をもって支払時期を自由に定めることができるとすると、相当の対価の支払を速やかに求めることができず、従業員に不利益となる場合もあるとの批判もあり得る。これに対しては、対価の額や支払時期に関する勤務規則の定めが著しく不合理で、特許法三五条三項が従業員に相当の対価の支払を受ける権利を保障した趣旨に反するようなときは、支払時期に関する条項が公序良俗に違反するとみて、従業員を救済する途もあると考えられよう。
4 本判決は、(ⅰ)本件における消滅時効の起算点はY規定に従って工業所有権収入取得時報償の行われるべき時であると判示するのみで、その年月日を特定することなく、また、(ⅱ)時効期間が何年であるかに触れることなく、消滅時効期間が経過していないことが明らかであるとして、消滅時効の成立をいうYの主張を排斥した。これは、本件においては、消滅時効の起算点(Y規定によれば、Yが実施料を取得した平成二年一〇月以降となる。)から訴訟の提起(平成七年三月)までに五年を経過していないので、いずれにしても消滅時効が成立しないから、あえて立ち入らなかったものと思われるが、これに関連する以下のような問題があり、今後の検討課題となると考えられる。
(ⅰ) 消滅時効の起算点が具体的にいつであるかは、基本的には各事案における規定内容に従って判断されることになる。なお、勤務規則が報償金を分割して支払うと定める場合などにおける消滅時効の起算点は、本判決の判示からは明確といい難いが、今後事案に応じて判断されることになると思われる(例えば、勤務規則が報償金を三回に分けて支払うと定めている場合には、特許法三五条による相当の対価の三分の一ごとに、勤務規則所定の各分割支払時期が起算点となるなどといった処理が考えられよう。)。
(ⅱ) 時効期間に関しては、勤務規則に対価の定めのない事案につき、従業員の権利は特許法三五条三項によって認められた法定の債権であるとして、これを一〇年とみる説が有力であるが(高林龍「前記大阪高判平6・5・27の判批」ジュリ一〇九一号二三二頁等)、商行為により生じた債権であるとして五年とする説もある(渋谷達紀「本件原判決の判批」発明九九巻二号一二二頁)。従業員の相当の対価の支払を受ける権利の性質については、勤務規則に対価の定めがない場合には特許法三五条三項により認められた権利であると解されようが、その定めがある場合には、消滅時効の起算点に関する本判決の判示によれば、勤務規則により発生する権利であるということとなろう。そうすると、時効期間についても、勤務規則に対価の定めがない場合とは異なるとする見解もあり得ると思われる。
五 職務発明については、近時、巨額の対価を請求をする訴訟が相次いでいると報道されるなどしたため、社会的な関心が高まっており、また、立法論を含めて、広く議論されている。本判決は、現行法の下における最高裁の解釈を示したものとして重要な意義を有すると思われる。

+判例(H19.4.24)
理由
上告代理人石田英治の上告受理申立て理由について
1 本件は、被上告人が、上告人に対し、自動継続特約付き定期預金(以下「自動継続定期預金」という。)の元本200万円並びにこれに対する預金の預入日の翌日である昭和62年2月24日から支払済みまで約定の年3.86%の割合による利息及び遅延損害金の支払を求める事案である。
2 原審の適法に確定した事実関係の概要等は、次のとおりである。
(1) 被上告人は、昭和62年2月23日、A信用組合に対し、200万円を次の約定で預け入れた(以下、この預入れによる預金契約を「本件預金契約」という。)。
ア 利息 年3.86%
イ 期間 1年
ウ 満期日 昭和63年2月23日
(2) 本件預金契約においては、特約として、本件預金契約が満期日に前回と同一の期間の預金契約として自動的に継続されること、預金者が本件預金契約の継続を停止するときは満期日までにその旨を申し出るべきこと(以下、この申出を「継続停止の申出」という。)などが定められている(この特約は一般の金融機関において通常用いられている自動継続定期預金の特約と同旨のものであり、以下、このような特約を「自動継続特約」という。)。なお、上記特約によれば、預金者から本件預金契約の解約の申入れがあっても、A信用組合がこれに応じない場合には、預金者は、直ちに預金の払戻しを受けることはできず、その後に到来する満期日においてそれ以降自動継続の取扱いがされなくなって初めて預金の払戻しを受けることができることとされている。
(3) その後、A信用組合は、合併によりB信用組合となり、B信用組合は、平成14年8月19日、上告人に対し、営業の全部を譲渡した。
(4) 被上告人は、平成14年8月13日、B信用組合に対し、本件預金契約に係る定期預金証書を提示し、本件預金契約の解約を申し入れて(以下、この解約申入れを「本件解約申入れ」という。)、同契約に基づく預金(以下「本件預金」という。)の払戻しを請求した。これに対し、B信用組合は、本件預金が既に払い戻されているとして、本件解約申入れに応じなかった。
(5) 被上告人は、平成15年6月23日、本件訴えを提起したが、上告人は、同年9月5日の第1審第1回口頭弁論期日において、本件預金契約締結の約3か月後である昭和62年5月26日に同契約は解約され、本件預金は払い戻されたとして、弁済の主張をするとともに、本件預金の払戻請求権の消滅時効が既に完成しているとして、これを援用した。

3 第1審、原審とも、本件預金の弁済の事実は認められないとした。他方、本件預金の払戻請求権の消滅時効について、第1審は、本件預金契約締結後最初に到来する満期日(以下「初回満期日」という。)である昭和63年2月23日から時効が進行するから、その後10年の経過によりこれが完成したとして、被上告人の請求を棄却したのに対し、原審は、上記消滅時効は、本件解約申入れ後最初に到来する満期日である平成15年2月23日から進行するから、いまだ完成してはいないとして、第1審判決を取り消して被上告人の請求を認容した。

4(1) 自動継続定期預金契約における自動継続特約は、預金者から満期日における払戻請求がされない限り、当事者の何らの行為を要せずに、満期日において払い戻すべき元金又は元利金について、前回と同一の預入期間の定期預金契約として継続させることを内容とするものである(最高裁平成11年(受)第320号同13年3月16日第二小法廷判決・裁判集民事201号441頁参照)。消滅時効は、権利を行使することができる時から進行する(民法166条1項)が、自動継続定期預金契約は、自動継続特約の効力が維持されている間は、満期日が経過すると新たな満期日が弁済期となるということを繰り返すため、預金者は、解約の申入れをしても、満期日から満期日までの間は任意に預金払戻請求権を行使することができないしたがって、初回満期日が到来しても、預金払戻請求権の行使については法律上の障害があるというべきである。
もっとも、自動継続特約によれば、自動継続定期預金契約を締結した預金者は、満期日(継続をしたときはその満期日)より前に継続停止の申出をすることによって、当該満期日より後の満期日に係る弁済期の定めを一方的に排除し、預金の払戻しを請求することができる。しかし、自動継続定期預金契約は、預金契約の当事者双方が、満期日が自動的に更新されることに意義を認めて締結するものであることは、その内容に照らして明らかであり、預金者が継続停止の申出をするか否かは、預金契約上、預金者の自由にゆだねられた行為というべきである。したがって、預金者が初回満期日前にこのような行為をして初回満期日に預金の払戻しを請求することを前提に、消滅時効に関し、初回満期日から預金払戻請求権を行使することができると解することは、預金者に対し契約上その自由にゆだねられた行為を事実上行うよう要求するに等しいものであり、自動継続定期預金契約の趣旨に反するというべきである。そうすると、初回満期日前の継続停止の申出が可能であるからといって、預金払戻請求権の消滅時効が初回満期日から進行すると解することはできない。
以上によれば、自動継続定期預金契約における預金払戻請求権の消滅時効は、預金者による解約の申入れがされたことなどにより、それ以降自動継続の取扱いがされることのなくなった満期日が到来した時から進行するものと解するのが相当である。
(2) 前記事実関係等によれば、本件預金契約は、本件解約申入れのあった平成14年8月13日の後における初めての満期日である平成15年2月23日において、それ以降自動継続の取扱いがされることがなくなったものと解されるから、本件預金の払戻請求権の消滅時効は、同満期日から進行するというべきである。
5 以上のとおりであるから、被上告人の請求を認容した原審の判断は、正当として是認することができる。論旨は採用することができない。
よって、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 藤田宙靖 裁判官 上田豊三 裁判官 堀籠幸男 裁判官 那須弘平 裁判官 田原睦夫)

++解説
《解  説》
1 本件(①,②事件)は,自動継続特約付きの定期預金(以下「自動継続定期預金」という。)の預金契約における預金払戻請求権の消滅時効の起算点がいつかが問題となった事案である。
(1) ①事件の事案は,原告X1が,昭和62年2月23日にA信用組合に対し200万円を,期間1年,利息の利率年3.86%,自動継続特約付きで預け入れていたところ,A信用組合を承継したB信用組合に対し,預入れから約15年半後の平成14年8月にその定期預金契約の解約を申し入れたが,これを拒絶されたことから,B信用組合を承継した被告Y1銀行に対し,預金払戻しを請求するものである。同預金契約においては,継続の回数の制限や最長預入期間は定められていない。
A信用組合作成の取引明細表には,同預金契約が,契約締結の約3か月後である昭和62年5月26日に解約され,同日元金200万円及び利息2570円が支払われた旨の記載があるが,他方で,X1は,払戻しや再発行をうかがわせる記載のない定期預金証書を現に所持しており,昭和62年の解約については全く覚えがないと主張している。なお,Y1銀行は,当時の個別取引の資料等を引き継いでいないとして,取引明細表に前記の記載がされた経緯についての立証はしておらず,また,昭和62年当時,預金証書が再発行されたこと,あるいは預金証書の受戻しや預金証書への払戻し記載をしないまま払戻しがされたことなどをうかがわせる具体的な事情の立証もされていない。
1審(千葉地判平16.7.22金判1198号5頁)は,自動継続定期預金契約締結後最初に到来する満期日(以下「初回満期日」という。)である昭和63年2月23日から消滅時効が進行するから,その後10年の経過によりこれが完成したとして,X1の請求を棄却した。これに対し,原審(東京高判平17.1.19金法1736号57頁)は,その消滅時効期間は,前記解約申入れ後最初に到来する満期日(以下「申出後満期日」という。)の翌日から進行を開始するものであり,消滅時効はいまだ完成してはいないとして,1審判決を取り消してX1の請求を認容した。
①事件の最高裁判決は,Y1の上告受理申立てを受理した上,判決要旨のとおり判示して原審の判断を是認し,Y1の上告を棄却した。
(2) ②事件は,原告X2が,昭和61年11月19日にC信用組合に対し100万円を,期間1年,利息の利率年4.23%,自動継続特約付きで預け入れていたが,預入れから約16年半後の平成15年6月,C信用組合を承継した被告Y2銀行に対し,預金払戻しを請求し,これを拒絶されたことから,預金返還請求訴訟を提起したものである。②事件の自動継続定期預金契約においては,継続の回数は10回を限度とする旨が定められている。
Y2銀行がC信用組合から引き継いだ定期預金勘定残高一覧表等には,本件の預金が存在する旨の記載はなかったが,他方で,X2は,払戻しや再発行をうかがわせる記載のない定期預金証書を現に所持している。なお,C信用組合は,過去に,X2が経営する会社の定期積金等のうち何件かにつき,「便宜扱い」として,預金証書の返還を受けずに払戻しに応ずるといった取扱いをしていた。また,X2は,C信用組合に対する別の定期預金について,定期預金証書の喪失届けをして証書の再発行を受けた後,当該定期預金解約の際,喪失したはずの旧証書を提示したことがあった。
1審,原審とも,②事件の自動継続定期預金払戻請求権について,Y2銀行の主張する過去の払戻しの事実は立証が不十分であるとして排斥した上で,初回満期日である昭和62年11月19日から消滅時効が進行し,10年間の経過によりこれが完成したとして,X2の請求を棄却すべきものとした。
②事件の最高裁判決は,X2の上告受理申立てを受理した上,①事件判決と同旨の判断を示して原判決を破棄し,X2の請求を認容した。
2 民法166条1項は,権利を行使することができる時から消滅時効が進行すると定めるが,「権利を行使することができる時」とは,権利の行使に「法律上の障害」がなくなった時を意味すると解するのが通説であり,債権に関する「弁済期未到来」は,典型的な「法律上の障害」であると解されている。
ところで,自動継続定期預金契約における自動継続特約は,預金者から満期日における払戻請求がされない限り,当事者の何らの行為を要せずに,満期日において払い戻すべき元金又は元利金について,前回と同一の預入期間の定期預金契約として継続させることを内容とするものと解されており(最二小判平13.3.16判タ1059号56頁参照),各満期日における権利行使は可能であるから,このような場合,初回満期日以降にも,弁済期未到来という障害があるか否かが問題となる。
この点について,本件各判決は,預金者が,満期日から満期日までの間は任意に預金払戻請求権を行使することができないことを指摘して初回満期日以降における障害を肯定する。各満期日にのみ単発的に権利行使が可能となるとしても,自動継続定期預金の権利関係を全体としてみれば,自動継続中においては預金払戻請求権の行使について弁済期未到来という障害があるといえると解したものと考えられる。
3 次に,債権に弁済期未到来という障害があっても,例えば,債権に留置権の抗弁,同時履行の抗弁権,保証人の抗弁権が付着する場合など,当該障害を債権者側の意思によって取り除くことができる場合には,当該障害は,時効の進行を止めないものと解されている(川島武宜編『注釈民法(5)』281頁〔森島昭夫〕等)。そして,自動継続定期預金契約においても,預金者は,満期日(継続をしたときはその満期日)より前に継続停止の申出をすることによって,当該満期日より後の満期日に係る弁済期の定めを一方的に取り除くことができ,これにより最も早い段階では初回満期日から預金払戻請求権を行使し得ることから,初回満期日から消滅時効が進行するか否かが問題となる。
この問題については,大別すると,消滅時効が初回満期日から進行するという説(以下「初回満期日説」という。)と,継続停止の申出後の満期日から進行するという説(以下「申出後満期日説」という。)とがある。下級審の判断は分かれるが,どちらかというと初回満期日説ないしこれに近いものの方が多かった(初回満期日説ないしこれに近いものとして,①事件の1審,②事件の1審及び原審のほか,東京地判昭54.4.12判時926号109頁,大阪高判平15.3.18金法1740号33頁及びその原審があり,申出後満期日説ないしこれに近いものとして,①事件の原審のほか,大阪高判平14.11.12金法1740号40頁がある。潮見佳男・銀法676号4頁参照)。
他方,学説上は,両説のほかにも諸説があるが(学説の整理等について,関沢正彦「自動継続特約付定期預金債権の消滅時効の起算点」塩崎勤ほか編『新・裁判実務大系銀行関係訴訟法』134頁参照),全体としては,申出後満期日説が優勢な状況にあり,①事件の原判決に対する評釈も申出後満期日説を支持する見解が多数であった(原判決を支持するものとして,小磯武男・金法1743号32頁,山田誠一・金法1748号26頁,吉野内謙志・銀法652号32頁,賀集唱・銀法658号11頁等。反対するものとして,小田垣亨・金法1738号80頁,菅原胞治・銀法648号22頁等)。
4 本件各判決は,預金者が継続停止の申出をするか否かは,預金契約上,預金者の自由にゆだねられた行為というべきであるとした上で,消滅時効に関し,初回満期日から預金払戻請求権を行使することができると解することは,預金者に対し契約上その自由にゆだねられた行為を事実上行うよう要求するに等しいものであり,自動継続定期預金契約の趣旨に反するとして,初回満期日説は採用できないとし,権利の行使に法律上の障害がある間は消滅時効は進行しないという原則に従って申出後満期日説を採る旨を判示した。
この判示は,自動継続定期預金契約において継続停止の申出が預金者の自由にゆだねられている点を重視し,その結果,本件の論点が,債権に留置権の抗弁が付着する場合などとは,同列には論じられないことをいうものと解される。
5 本判決の採用した申出後満期日説に対しては,①事件のように,契約上,自動継続の反復に対する制限が定められていない場合には,債権者たる預金者が継続停止の申出をしない限り,いつまでも時効が進行しないことになり時効制度の趣旨に反する,あるいは,時効の利益を予め放棄することができないとする民法146条に実質的に違反するといった批判がある(菅原・前掲26頁等)。しかし,預金契約に当たり自動継続が反復されている限り最終的な弁済期が到来しないものと当事者が合意することは契約自由の原則から可能であるというべきであり,その結果,債権者からの申出等がない限り消滅時効の進行が開始しないこととなるとしても,そのことは当事者が特殊な弁済期を定めたことによる反射的な結果であって,当該弁済期の合意が時効制度の趣旨に反するものではないということも可能ではないかと思われる(小磯・前掲38頁は,消滅時効がいつまでも進行しないような弁済期の定めが時効制度の強行法規性に反して違法であるというのであれば,そもそも自動継続定期預金契約全体の効力が否定されることにならないかと指摘する。)。そして,このことによる金融機関側の不都合は,①事件の原審が指摘するように,金融機関において当初から自動継続の回数の制限や最長預入期間を定めることなどにより解消することが可能であろう(昭和40年代ころの文献によれば,その当時の自動継続定期預金契約においては,最長預入期間を5年としたり,自動継続の回数を4~5回に制限するのが普通であったものとみられる。)。また,民法146条違反の点については,自動継続特約が債務者である金融機関の窮状に乗じて締結されたなどの状況にはないから,同条の趣旨に照らし,実質的違反は生じていないといえよう(吉野内・前掲36頁)。
他方,初回満期日説によれば,例えば,銀行における1年物の自動継続定期預金契約においては,最短で6年で預金払戻請求権が時効消滅するといった事態が生じ得ることになり,そのままでは,自動継続が反復されていると信頼して権利行使をしなかった預金者の保護に欠けることは明らかである。
本件各判決が申出後満期日説を相当とした背景には,以上の点も考慮されているものとみられる。
6 なお,本件各判決は,消滅時効が申出後満期日から進行すると判示するが,これは,民法166条1項所定の消滅時効の起算点(「権利を行使することができる時」がいつか)を判示したものであって,時効期間の計算に当たり民法140条本文の適用を排除して初日を算入すべきことをいうものではないと解される。弁済期日の定めのある債権の消滅時効が進行する場合,その時効期間は当該弁済期日の翌日から起算されるとするのが大審院以来の判例であるが(大判昭6.6.9新聞3292号14頁等),本件各判決からは,自動継続定期預金契約における預金払戻請求権についてこれを変更する趣旨はうかがわれないものである。
7 ②事件は,X2が過去に払戻しを受けながら二重に請求している可能性を必ずしも否定できない事案であるが,②事件判決は,そのことから直ちに消滅時効の起算点に関する法解釈が左右されるものではないという前提で判示されたものと考えられる(差戻しとされずに,自判とされたのは,過去の弁済の事実が認定できないなどとした原判決の事実認定の下では,更なる審理の対象がないことによるものであろう。)。もっとも,一般的には,預金者の払戻請求に至る経緯等に不自然・不合理な点の大きい事案では,そのことが,過去の預金払戻しの事実の認定や,預金払戻請求権行使に係る権利濫用の成否の認定判断などに影響を及ぼし,その結果,預金者の請求が棄却される場合も生じ得るものと思われる。
また,②事件は,10回にわたる自動継続の際における預金利率の変更(低下)について,Y2から主張立証がされなかった事案であるが,②事件判決は,X2の請求する10年分の利息について,預入れ当初の利率である年4.23%を適用して42万3000円を認容している。①事件の原審も同様の手法を用いて判断している。このことからすると,本件各判決は,自動継続の際における利息の利率の変更,その他自動継続定期預金契約の内容の変更の事実は,預金者が請求原因事実として主張立証する必要はなく,当該事実を有利に援用する者が主張立証すべきであると解しているものと考えられる。
8 本件各判決は,自動継続定期預金契約における預金払戻請求権の消滅時効の起算点という下級審判例及び学説が分かれる論点について,最高裁の2つの小法廷が同様の判断を示したものであり,実務上,重要な意義を有するものと考えられるので,紹介する。

+判例(H21.1.22)
理由
上告代理人山口正徳の上告受理申立て理由について
1 本件は、被上告人が、貸金業者である上告人に対し、基本契約に基づく継続的な金銭消費貸借取引に係る弁済金のうち利息制限法(平成18年法律第115号による改正前のもの。以下同じ。)1条1項所定の利息の制限額を超えて利息として支払われた部分を元本に充当すると、過払金が発生していると主張して、不当利得返還請求権に基づき、その支払を求める事案である。
上告人は、上記不当利得返還請求権の一部については、過払金の発生時から10年が経過し、消滅時効が完成していると主張して、これを援用した。
2 原審の適法に確定した事実関係の概要は、次のとおりである。
貸主である上告人と借主である被上告人は、1個の基本契約に基づき、第1審判決別紙「法定金利計算書〈8〉」の「借入金額」欄及び「弁済額」欄記載のとおり、昭和57年8月10日から平成17年3月2日にかけて、継続的に借入れと返済を繰り返す金銭消費貸借取引を行った。
上記の借入れは、借入金の残元金が一定額となる限度で繰り返し行われ、また、上記の返済は、借入金債務の残額の合計を基準として各回の最低返済額を設定して毎月行われるものであった。
上記基本契約は、基本契約に基づく借入金債務につき利息制限法1条1項所定の利息の制限額を超える利息の弁済により過払金が発生した場合には、弁済当時他の借入金債務が存在しなければ上記過払金をその後に発生する新たな借入金債務に充当する旨の合意(以下「過払金充当合意」という。)を含むものであった。

3 このような過払金充当合意においては、新たな借入金債務の発生が見込まれる限り、過払金を同債務に充当することとし、借主が過払金に係る不当利得返還請求権(以下「過払金返還請求権」という。)を行使することは通常想定されていないものというべきである。したがって、一般に、過払金充当合意には、借主は基本契約に基づく新たな借入金債務の発生が見込まれなくなった時点、すなわち、基本契約に基づく継続的な金銭消費貸借取引が終了した時点で過払金が存在していればその返還請求権を行使することとし、それまでは過払金が発生してもその都度その返還を請求することはせず、これをそのままその後に発生する新たな借入金債務への充当の用に供するという趣旨が含まれているものと解するのが相当である。そうすると、過払金充当合意を含む基本契約に基づく継続的な金銭消費貸借取引においては、同取引継続中は過払金充当合意が法律上の障害となるというべきであり、過払金返還請求権の行使を妨げるものと解するのが相当である。
借主は、基本契約に基づく借入れを継続する義務を負うものではないので、一方的に基本契約に基づく継続的な金銭消費貸借取引を終了させ、その時点において存在する過払金の返還を請求することができるが、それをもって過払金発生時からその返還請求権の消滅時効が進行すると解することは、借主に対し、過払金が発生すればその返還請求権の消滅時効期間経過前に貸主との間の継続的な金銭消費貸借取引を終了させることを求めるに等しく、過払金充当合意を含む基本契約の趣旨に反することとなるから、そのように解することはできない(最高裁平成17年(受)第844号同19年4月24日第三小法廷判決・民集61巻3号1073頁、最高裁平成17年(受)第1519号同19年6月7日第一小法廷判決・裁判集民事224号479頁参照)。
したがって、過払金充当合意を含む基本契約に基づく継続的な金銭消費貸借取引においては、同取引により発生した過払金返還請求権の消滅時効は、過払金返還請求権の行使について上記内容と異なる合意が存在するなど特段の事情がない限り、同取引が終了した時点から進行するものと解するのが相当である。

4 これを本件についてみるに、前記事実関係によれば、本件において前記特段の事情があったことはうかがわれず、上告人と被上告人の間において継続的な金銭消費貸借取引がされていたのは昭和57年8月10日から平成17年3月2日までであったというのであるから、上記消滅時効期間が経過する前に本件訴えが提起されたことが明らかであり、上記消滅時効は完成していない。
以上によれば、原審の判断は結論において是認することができる。論旨は採用することができない。
よって、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 泉徳治 裁判官 甲斐中辰夫 裁判官 涌井紀夫 裁判官 宮川光治 裁判官 櫻井龍子)

++解説
《解  説》
1 本件は,貸金業者Yとの間で,基本契約に基づく継続的金銭消費貸借取引をしていた借主Xが,不当利得返還請求権に基づき過払金の返還を請求する事案である。Yは,過払金に係る不当利得返還請求権(以下「過払金返還請求権」という。)は,過払金発生時から消滅時効が進行するから,過払金の発生時から10年が経過した過払金返還請求権については消滅時効が完成していると主張し,時効を援用した。
2 XとYは,1個の基本契約に基づき,昭和57年8月10日から平成17年3月2日にかけて,継続的に借入れと返済を繰り返す金銭消費貸借取引を行った(以下「本件取引」という。)。
上記の借入れは,借入金の残元金が一定額となる限度で繰り返し行われ,また,上記の返済は,借入金債務の残額の合計を基準として各回の最低返済額を設定して毎月行われるものであった。また,上記基本契約は,基本契約に基づく借入金債務につき利息制限法所定の利息の制限額を超える利息の弁済により過払金が発生した場合には,弁済当時他の借入金債務が存在しなければ上記過払金をその後に発生する新たな借入金債務に充当する旨の合意(以下「過払金充当合意」という。)を含むものであった。
3 本判決は,次のとおり判示して,過払金充当合意を含む基本契約に基づく継続的な金銭消費貸借取引により発生した過払金返還請求権の消滅時効は,特段の事情がない限り,同取引が終了した時点から進行するとして,Yの消滅時効の主張を排斥した。
すなわち,過払金充当合意においては,新たな借入金債務の発生が見込まれる限り,過払金を同債務に充当することとし,借主が過払金返還請求権を行使することは通常想定されていないものというべきである。したがって,一般に,過払金充当合意には,借主は基本契約に基づく新たな借入金債務の発生が見込まれなくなった時点,すなわち,基本契約に基づく継続的な金銭消費貸借取引が終了した時点で過払金が存在していればその返還請求権を行使することとし,それまでは過払金が発生してもその都度その返還を請求することはせず,これをそのままその後に発生する新たな借入金債務への充当の用に供するという趣旨が含まれているものと解するのが相当である。そうすると,過払金充当合意を含む基本契約に基づく継続的な金銭消費貸借取引においては,同取引継続中は過払金充当合意が法律上の障害となるというべきであり,過払金返還請求権の行使を妨げるものと解するのが相当である。
借主は,基本契約に基づく借入れを継続する義務を負うものではないので,一方的に基本契約に基づく継続的な金銭消費貸借取引を終了させ,その時点において存在する過払金の返還を請求することができるが,それをもって過払金発生時からその返還請求権の消滅時効が進行すると解することは,借主に対し,過払金が発生すればその返還請求権の消滅時効期間経過前に貸主との間の継続的な金銭消費貸借取引を終了させることを求めるに等しく,過払金充当合意を含む基本契約の趣旨に反することとなるから,そのように解することはできない。
4 消滅時効は,権利を行使することができる時から進行する(民法166条1項)。「権利を行使することができる」という要件については,最大判昭45.7.15民集24巻7号771頁,判タ251号166頁は,①権利の行使につき法律上の障害がないことのほか,②権利の性質上,その権利行使が現実に期待できるものであることが必要であると述べた。
このうち,①の法律上の障害とは,権利は存在するが,停止条件が未成就であるとか,履行期が未到来であるなどの理由でその行使ができないことを指すが,法律上の障害が債権者の意思により除去可能なものであれば,時効の進行を妨げるものではないと解される(川島武宜編『注釈民法(5)』281頁〔森島昭夫〕)。
また,②は,「権利の性質上」とされていることに注意を要する。すなわち,民法166条1項は,その立法経緯に照らして,不法行為に基づく損害賠償請求権の消滅時効を規定した同法724条前段と異なり,権利者の知不知など主観的事情を時効起算点の考慮要素としていないと解されるので,権利者の主観的事情により権利行使が現実に期待できない場合であっても,本来,時効の進行は妨げられないのである。
前掲最大判昭45.7.15は,前記の一般論を提示した上で,弁済供託における供託金取戻請求権の消滅時効起算点は供託時ではなく供託の基礎となった紛争の終了時であるとした。その理由は,供託者は法律的には供託後いつでも取戻請求をすることができ法律上の障害はないものの,供託者は紛争が発生したからこそ弁済供託をしたのであって,上記紛争が終了する以前に取戻請求をすることは,これと矛盾した行為であり期待できないためであると解される(供託時から時効が進行するとすれば,紛争が10年以上にわたった場合は紛争終了前に時効期間が経過するので,供託者は,紛争が発生したために供託した金員を,紛争が解決する前に取戻請求をしなければならないという矛盾した行為を強いられることになる。)。
5 過払金返還請求権の時効起算点に関する説は,過払金発生時説,取引終了時説,取引履歴開示時説などに分類される。
このうち取引履歴開示時説は,借主は取引履歴開示を受けるまでは過払金返還請求権の存在,内容を知ることができないから,権利行使を現実に期待できないということを主な根拠とするが,前記のとおり権利者の知不知を問題にしない民法166条1項の解釈論としては,やや無理があるといわざるを得ない。残るは,過払金発生時説と取引終了時説であり,地裁や高裁の裁判例も両説に分かれていた。
不当利得返還請求権は,一般的な期限の定めのない債権と同様に,権利発生時(不当利得成立時)から権利行使が可能であり,消滅時効が進行すると解されるから,過払金返還請求権も同様に過払金発生時から消滅時効が進行するという過払金発生時説は素直な考え方である(近藤昌昭=影山智彦「過払金返還請求訴訟における一連計算の可否をめぐる問題点について」判タ1250号14頁等)。したがって,過払金返還請求権は,原則として,過払金発生時から消滅時効が進行するといってよい。
しかし,問題になっているのは,過払金が基本契約に基づく継続的金銭消費貸借につき発生したという事情により,この原則が何らかの修正を受けるかである。
本判決は,本件取引が過払金充当合意を含む基本契約に基づくものであることに着目し,これを法律上の障害であると判断した。
最一小判平19.6.7民集61巻4号1537頁,判タ1248号113頁は,いわゆるリボルビング方式の基本契約に基づく継続的金銭消費貸借取引について,契約当事者の合理的意思解釈として,弁済により生じた過払金は,弁済当時他の借入金債務がなくても,その後に発生する新たな借入金債務(将来債務)に充当する旨の過払金充当合意を含んでいるものと解されるとした。本判決は,この過払金充当合意の内容を更に敷えんし,取引の継続中は,発生した過払金につきその都度返還請求権を行使するのではなく,過払金は将来債務に充当するため温存し,取引終了時に精算するというのが契約当事者の合理的意思解釈であり,過払金返還請求権の精算方法及び精算時期につき取引終了時とする旨の内容が含まれているものと解し,それまでは法律上の障害があると判断したものと考えられる。
なお,借主はいつでも取引を終了して過払金返還請求をすることができるから,過払金充当合意は法律上の障害とはいえないのではないかという問題があるが,本判決は,これについて,自動継続定期預金に関する2件の判決(最三小判平19.4.24民集61巻3号1073頁,判タ1248号107頁,最一小判平19.6.7判タ1248号107頁)を引用し,借主はいつでも取引を終了させ過払金返還請求をすることができるものの,時効成立までに取引を終了することを強制することになるから,取引の継続性を認めた基本契約の趣旨に反すると述べた。前記最大判昭45.7.15についても同様であるが,相当期間継続することが予定されている法律関係に関する権利について,その法律関係が終了する以前に時効が進行し権利が消滅することを避けるためには当事者はその法律関係を終了させなければならないという場合には,最高裁は,時効の起算点を判断するに当たって,当該法律関係の趣旨,目的をかなり慎重に検討していることがうかがわれる。
6 本判決の射程距離は,前掲最一小判平19.6.7のいう過払金充当合意が認められる範囲と一致するものと理解される。すなわち,過払金充当合意が認められない事案では,本判決のいう法律上の障害はないから,他に時効障害がない限り,原則どおり過払金発生時から時効が進行すると解するのが自然であろう。
また,本判決の説示内容からすれば,基本契約に基づく取引が複数存在する場合であって,第1取引により発生した過払金が第2取引に充当されない場合は,時効期間は取引毎に別途進行するということになろう。すなわち,第1取引が昭和60年4月1日から平成5年3月31日にかけて,第2取引が平成10年4月1日から平成20年3月31日にかけて行われた事案において,第1取引により発生した過払金が第2取引に充当されない場合には(充当の可否の判断基準については最二小判平20.1.18民集62巻1号28頁,判タ1264号115頁等を参照),第1取引に係る過払金返還請求権の消滅時効起算点は,第1取引が終了した平成5年3月31日と解される。
7 本判決は,高裁レベルで判断が分かれ,最高裁による判例統一が切望されていた争点に関する新判断であり,実務に与える影響は大きいものと思われる。
なお,本判決と同一の争点を含む事件について,最高裁第三小法廷及び第二小法廷も,それぞれ平成21年3月3日及び同月6日に,本判決と同様に取引終了時説に立った判決を言い渡した(最高裁HP参照)。

・割賦払債務
①ある回の不履行があると当然に期限到来と同じ効果が発生するという場合には、その不履行の時から全額について消滅時効が進行
②ある会の債務不履行があると、債権者は一方的意思表示によって期限到来と同じ効果を生じさせることができるというものである場合には、債権者が期限の利益を失わせる意思表示をした時から

b)消滅時効期間の長さ
+(債権等の消滅時効)
第百六十七条  債権は、十年間行使しないときは、消滅する。
2  債権又は所有権以外の財産権は、二十年間行使しないときは、消滅する。

・定期金債権
+(定期金債権の消滅時効)
第百六十八条  定期金の債権は、第一回の弁済期から二十年間行使しないときは、消滅する。最後の弁済期から十年間行使しないときも、同様とする。
2  定期金の債権者は、時効の中断の証拠を得るため、いつでも、その債務者に対して承認書の交付を求めることができる。

・定期給付債権
+(定期給付債権の短期消滅時効)
第百六十九条  年又はこれより短い時期によって定めた金銭その他の物の給付を目的とする債権は、五年間行使しないときは、消滅する。

c)短期消滅時効
3年
+(三年の短期消滅時効)
第百七十条  次に掲げる債権は、三年間行使しないときは、消滅する。ただし、第二号に掲げる債権の時効は、同号の工事が終了した時から起算する。
一  医師、助産師又は薬剤師の診療、助産又は調剤に関する債権
二  工事の設計、施工又は監理を業とする者の工事に関する債権
+第百七十一条  弁護士又は弁護士法人は事件が終了した時から、公証人はその職務を執行した時から三年を経過したときは、その職務に関して受け取った書類について、その責任を免れる。

2年
+(二年の短期消滅時効)
第百七十二条  弁護士、弁護士法人又は公証人の職務に関する債権は、その原因となった事件が終了した時から二年間行使しないときは、消滅する。
2  前項の規定にかかわらず、同項の事件中の各事項が終了した時から五年を経過したときは、同項の期間内であっても、その事項に関する債権は、消滅する。
第百七十三条  次に掲げる債権は、二年間行使しないときは、消滅する。
一  生産者、卸売商人又は小売商人が売却した産物又は商品の代価に係る債権
二  自己の技能を用い、注文を受けて、物を製作し又は自己の仕事場で他人のために仕事をすることを業とする者の仕事に関する債権
三  学芸又は技能の教育を行う者が生徒の教育、衣食又は寄宿の代価について有する債権

1年
+(一年の短期消滅時効)
第百七十四条  次に掲げる債権は、一年間行使しないときは、消滅する。
一  月又はこれより短い時期によって定めた使用人の給料に係る債権
二  自己の労力の提供又は演芸を業とする者の報酬又はその供給した物の代価に係る債権
三  運送賃に係る債権
四  旅館、料理店、飲食店、貸席又は娯楽場の宿泊料、飲食料、席料、入場料、消費物の代価又は立替金に係る債権
五  動産の損料に係る債権

+判例(S44.10.7)
理由
上告代理人春原源太郎の上告理由第一、二点について。
民法一七三条一号が、生産者、卸売商人および小売商人が売却した産物および商品の代金債権について、特に二年の短期消滅時効を規定したのは、この種物品の流通性に鑑み、その売買ないし売買類似の有償契約による代金決済が一般の経済取引の実情に照らして早期迅速に処理されることに基づくものと解するのが相当である。本件旅館白雲閣の宣伝用パンフレツトのように、その性質上、その内容、体裁等を注文者の個別的注文に合わせて作成しなければその契約の目的を果たしえず、したがつて、その製品も流通を予定していないような場合には、その代金債権は同条号の債権に該当しないものと解すべきである。
また、同条二号が、居職人および製造人の仕事に関する債権について同様の短期消滅時効を規定したのは、手工業、家内工業的規模で注文により他人のために仕事をし、または物を製造加工する者の代金決済が、社会の取引の実情に照らして短期に決済されることを理由とするものと解せられるから、近代工業的な機械設備を備えた製造業者の如きはこれに含まれないと解するのが相当である。原審の確定するところによれば、被上告人は資本金四、四八〇万円で従業員二三〇名を擁し、高度な印刷技術を要する高級印刷物の印刷販売を目的とする相当規模の会社であるというのであるから、被上告人は同号の製造人に該当しないものというべきである。
したがつて、これと同旨の見解にたち、本件印刷物の代金債権が民法一七三条により二年の短期消滅時効により消滅したものとはいえないとする原審の判断は相当であつて、これと異なる論旨は採用することができない。
よつて、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員の一致で、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 松本正雄 裁判官 田中二郎 裁判官 下村三郎 裁判官 飯村義美 裁判官 関根小郷) 

・判決で確定した権利
+(判決で確定した権利の消滅時効)
第百七十四条の二  確定判決によって確定した権利については、十年より短い時効期間の定めがあるものであっても、その時効期間は、十年とする。裁判上の和解、調停その他確定判決と同一の効力を有するものによって確定した権利についても、同様とする。
2  前項の規定は、確定の時に弁済期の到来していない債権については、適用しない。
(2)債権以外の財産権の消滅時効の要件
a)所有権
+(債権等の消滅時効)
第百六十七条  債権は、十年間行使しないときは、消滅する。
2  債権又は所有権以外の財産権は、二十年間行使しないときは、消滅する。
b)債権及び所有権以外の財産権
・用益物権
・担保物権
抵当権については、債務者でも抵当権設定者でもない者との関係では、被担保債権と独立に20年の消滅時効にかかる!
・占有権、留置権
消滅時効にはかからない。

c)形成権
・期限の定めのない形成権について
+判例(S62.10.8)
理由
上告代理人菅生浩三、同葛原忠知、同川崎全司、同丸山恵司、同甲斐直也、同川本隆司、同藤田整治の上告理由第一点について
所論の点についての原審の認定判断は、原判決挙示の証拠関係に照らし、正当として是認することができ、その過程に所論の違法はない。論旨は、ひつきよう、原審の専権に属する証拠の取捨判断、事実の認定を非難するものにすぎず、採用することができない。
同第二点について
賃貸土地の無断転貸を理由とする賃貸借契約の解除権は、賃借人の無断転貸という契約義務違反事由の発生を原因として、賃借人を相手方とする賃貸人の一方的な意思表示により賃貸借契約関係を終了させることができる形成権であるから、その消滅時効については、債権に準ずるものとして、民法一六七条一項が適用され、その権利を行使することができる時から一〇年を経過したときは時効によつて消滅するものと解すべきところ、右解除権は、転借人が、賃借人(転貸人)との間で締結した転貸借契約に基づき、当該土地について使用収益を開始した時から、その権利行使が可能となつたものということができるから、その消滅時効は、右使用収益開始時から進行するものと解するのが相当である。
これを本件についてみるに、原審の適法に確定したところによれば、(1) 本件(一)土地の所有者であるAは、大正初年ころ、六ノ坪合資会社(以下「訴外会社」という。)を設立し、同社をして右土地を含む自己所有不動産の管理をさせてきたものであるところ、上告人は、昭和三四年六月二二日、相続により、本件(一)土地の所有権を取得した、(2) Bは、前賃借人の賃借期間を引き継いで、昭和一一年七月二九日、訴外会社から本件(一)土地を昭和一五年九月三〇日までの約定で賃借し、同地上に三戸一棟の建物(家屋番号二二番、二二番の二及び二二番の三)を所有していたものであるところ、被上告人Cは、昭和二〇年三月一七日、家督相続によりBの権利義務を承継した(右賃貸借契約は昭和一五年九月三〇日及び同三五年九月三〇日にそれぞれ法定更新された。)、(3) 被上告人伊藤染工株式会社(以下「被上告人伊藤染工」という。)は、昭和二五年一二月七日、被上告人Cから前記二二番の三の建物を譲り受けるとともに、本件(一)土地のうち右建物の敷地に当たる本件(四)土地を訴外会社の承諾を受けることなく転借し、同日以降これを使用収益している、(4) 訴外会社は、昭和五一年七月一六日到達の書面をもつて被上告人Cに対し、右無断転貸を理由として本件(一)土地の賃貸借契約を解除する旨の意思表示をした、というのであり、また、被上告人伊藤染工及び同Dを除くその余の被上告人らが、本訴において、右無断転貸を理由とする本件(一)土地の賃貸借契約の解除権の消滅時効を援用したことは訴訟上明らかである。以上の事実関係のもとにおいては、右の解除権は、被上告人伊藤染工が本件(四)土地の使用収益を開始した昭和二五年一二月七日から一〇年後の昭和三五年一二月七日の経過とともに時効により消滅したものというべきであるから、上告人主張に係る訴外会社の被上告人Cに対する前記賃貸借契約解除の意思表示は、その効力を生ずるに由ないものというべきである。これと同旨の原審の判断は、正当として是認することができ、原判決に所論の違法はない。論旨は、これと異なる見解に基づいて原判決を論難するものにすぎず、採用することができない。
同第三点について
原判決が上告人の被上告人伊藤染工及び同Dに対する請求に関して所論指摘の判示をしているものでないことは、その説示に照らし明らかであるから、原判決に所論の違法があるものとは認められない。論旨は、原判決を正解しないでその違法をいうものにすぎず、採用することができない。
同第四点について
原審の適法に確定した事実関係のもとにおいて、被上告人伊藤染工は、訴外会社ひいて上告人に対抗できる転借権を時効により取得したものということができるものというべきであるから、これと同旨の原審の判断は、結論において是認することができる。論旨は、ひつきよう、判決の結論に影響しない事由について原判決の違法をいうものにすぎず、採用することができない。
よつて、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 佐藤哲郎 裁判官 角田禮次郎 裁判官 髙島益郎 裁判官 大内恒夫 裁判官 四ツ谷巖)

2.効果(遡及効)

+(時効の効力)
第百四十四条  時効の効力は、その起算日にさかのぼる。

+(時効により消滅した債権を自働債権とする相殺)
第五百八条  時効によって消滅した債権がその消滅以前に相殺に適するようになっていた場合には、その債権者は、相殺をすることができる

3.消滅時効類似の制度
(1)除斥期間
a)除斥期間の意義と特質
=一定の権利について権利関係を速やかに確定するために、法律の予定する権利の存続期間!

+判例(H10.6.12)
理由
上告代理人中平健吉、同大野正男、同廣田富男、同山川洋一郎、同秋山幹男、同河野敬の上告理由について
一 本件訴訟において、予防接種法(昭和二八年法律第二一三号による改正前のもの)に基づいて実施された痘そうの予防接種により重度の心身障害者となった上告人Aは、その両親である上告人B及び同Cと共に、被上告人に対し、国家賠償法に基づく損害賠償(以下「国家賠償」という。)を求めている。原審の確定した事実関係の概要及び記録上明らかな本件訴訟の経過は、次のとおりである。
1 上告人Aは、昭和二七年五月一九日、出生し、同年一〇月二〇日、呉市保健所において、予防接種法(昭和二八年法律第二一三号による改正前のもの)五条、一〇条一項一号に基づき呉市長が実施した痘そうの集団接種(以下「本件接種」という。)を受けた。ところが、上告人Aは、同月二七日から、けいれん、発熱を発症し、以後、けいれんが止まらず、通常ならば直立や歩行ができる時期に至っても、これができない状態となった
2 上告人Aは、昭和三五年一月ころには、座ったり、身体を転がして移動することができるようになり、また、わずかに歩けるようになった時期もあったが、その後、高度の精神障害、知能障害、運動障害及び頻繁なけいれん発作を伴う寝たきりの状態となっている。
3 上告人Aの右1及び2の症状は、本件接種を原因とするものである。
4 上告人らは、昭和四九年一二月五日、本件訴訟を提起した。なお、上告人Aについては、同人が既に成年に達していたにもかかわらず、上告人B及び同Cが同Aの親権者と称して弁護士中平健吉外五名(以下「中平弁護士ら」という。)に本件訴訟の提起ないし追行を委任し、同弁護士らによって第一審の訴訟手続が追行された。
5 上告人Aは、第一審判決の言渡しの後である昭和五九年一〇月一九日、禁治産宣告を受け、上告人Bが後見人に就職した。上告人Bは、上告人Aの後見人として、改めて中平弁護士らに本件訴訟の追行を委任し、同年一一月一日、原審にその旨の訴訟委任状を提出し、同弁護士らは、以降の訴訟手続を追行した。

二 原審は、右事実関係の下において、上告人らの国家賠償請求について次のように判示して、第一審判決のうち上告人らの請求を一部認容した部分を取り消し、上告人らの請求をいずれも棄却した。
1 上告人らの本件訴訟の提起は、不法行為の時から二〇年を経過した後にされたことが明らかであり、上告人らの損害賠償請求権は、既に本件訴訟提起前の右二〇年の期間が経過した時点で法律上当然に消滅した。
2 民法七二四条後段の規定は損害賠償請求権の除斥期間を定めたものであるから、当事者からの主張がなくても、除斥期間の経過により右請求権が消滅したものと判断すべきであり、除斥期間の主張が信義則違反又は権利濫用であるという上告人らの主張は、主張自体失当である。
3 一定の時の経過によって法律関係を確定させるため、被害者側の事情等は特に顧慮することなく、請求権の存続期間を画一的に定めるという除斥期間の趣旨からすると、本件で訴えの提起が遅れたことにつき被害者側にやむを得ない事情があったとしても、本件で除斥期間の経過を認定することが正義と公平に著しく反する結果をもたらすということはできない。

三 上告人らの国家賠償請求に関する原審の右判断のうち、上告人B及び同Cの請求を棄却した部分は是認することができるが、同Aの請求を棄却した部分は是認することができない。その理由は、次のとおりである。
1 民法七二四条後段の規定は、不法行為による損害賠償請求権の除斥期間を定めたものであり、不法行為による損害賠償を求める訴えが除斥期間の経過後に提起された場合には、裁判所は、当事者からの主張がなくても、除斥期間の経過により右請求権が消滅したものと判断すべきであるから、除斥期間の主張が信義則違反又は権利濫用であるという主張は、主張自体失当であると解すべきである(最高裁昭和五九年(オ)第一四七七号平成元年一二月二一日第一小法廷判決・民集四三巻一二号二二〇九頁参照)。
2 ところで、民法一五八条は、時効の期間満了前六箇月内において未成年者又は禁治産者が法定代理人を有しなかったときは、その者が能力者となり又は法定代理人が就職した時から六箇月内は時効は完成しない旨を規定しているところ、その趣旨は、無能力者は法定代理人を有しない場合には時効中断の措置を執ることができないのであるから、無能力者が法定代理人を有しないにもかかわらず時効の完成を認めるのは無能力者に酷であるとして、これを保護するところにあると解される。 
これに対し、民法七二四条後段の規定の趣旨は、前記のとおりであるから、右規定を字義どおりに解すれば、不法行為の被害者が不法行為の時から二〇年を経過する前六箇月内において心神喪失の常況にあるのに後見人を有しない場合には、右二〇年が経過する前に右不法行為による損害賠償請求権を行使することができないまま、右請求権が消滅することとなる。 
  しかし、これによれば、その心神喪失の常況が当該不法行為に起因する場合であっても、被害者は、およそ権利行使が不可能であるのに、単に二〇年が経過したということのみをもって一切の権利行使が許されないこととなる反面、心神喪失の原因を与えた加害者は、二〇年の経過によって損害賠償義務を免れる結果となり、著しく正義・公平の理念に反するものといわざるを得ない。そうすると、少なくとも右のような場合にあっては、当該被害者を保護する必要があることは、前記時効の場合と同様であり、その限度で民法七二四条後段の効果を制限することは条理にもかなうというべきである。
したがって、不法行為の被害者が不法行為の時から二〇年を経過する前六箇月内において右不法行為を原因として心神喪失の常況にあるのに法定代理人を有しなかった場合において、その後当該被害者が禁治産宣告を受け、後見人に就職した者がその時から六箇月内に右損害賠償請求権を行使したなど特段の事情があるときは、民法一五八条の法意に照らし、同法七二四条後段の効果は生じないものと解するのが相当である。
3 これを本件についてみると、原審の確定した事実は、上告人Aは、本件接種の七日後にけいれん等を発症し、その後、高度の精神障害、知能障害等を有する状態にあり、かつ、右の各症状はいずれも本件接種を原因とするものであったというのであるから、不法行為の時から二〇年を経過する前六箇月内においても、本件接種を原因とする心神喪失の常況にあったというべきである。そして、本件訴訟が提起された後、上告人Aが昭和五九年一〇月一九日に禁治産宣告を受け、その後見人に就職した上告人Bが、中平弁護士らに本件の訴訟委任をし、同年一一月一日にその旨の訴訟委任状を原審に提出することによって、上告人Aの本件損害賠償請求権を行使したのであるから、本件においては前記特段の事情があるものというべきであり、民法七二四条後段の規定にかかわらず、右損害賠償請求権が消滅したということはできない
そうすると、これと異なる見解に立ち、上告人Aの国家賠償請求にっき、右請求権は本件訴訟が提起される前に既に消滅したとしてこれを棄却した原審の判断には、法令の解釈適用を誤った違法があり、この違法は、原判決のうち右請求に関する部分の結論に影響を及ぼすことが明らかである。論旨はこの趣旨をいうものとして理由があり、原判決はこの限度で破棄を免れない。

4 他方、上告人B及び同Cについては、原審の適法に確定した事実関係の下においては、何ら除斥期間の適用を妨げる事情は認められないから、同人らの国家賠償請求につき、右請求権は本件訴訟が提起される前に既に消滅したものであるとしてこれらをいずれも棄却した原審の判断は、正当として是認することができる。右部分に関する論旨は、採用することができない。
四 以上の次第であるから、原判決中、上告人Aの国家賠償請求に関する部分を破棄し、更に審理を尽くさせるため右部分につき本件を原審に差し戻すこととし、上告人B及び同Cの本件上告は棄却することとする。
よって、上告人Aの上告について裁判官河合伸一の意見、上告人B及び同Cの上告について同裁判官の反対意見があるほか、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

+意見・反対意見
裁判官河合伸一の意見及び反対意見は、次のとおりである。
多数意見は、民法七二四条後段の規定は除斥期間を定めたものであり、裁判所は当事者の主張がなくても期間の経過による権利の消滅を判断すべきであるから、除斥期間の主張が信義則違反又は権利濫用であるという主張はそれ自体失当であると判示している。私は、これに賛成することができない。その理由は、次のとおりである。
一 不法行為制度の究極の目的は損害の公平な分担を図ることにあり、公平が同制度の根本理念である(注)。この理念は、損害の分担の当否とその内容すなわち損害賠償請求権の成否とその数額を決する段階においてのみならず、分担の実現すなわち同請求権の実行の段階に至るまで、貫徹されなければならない。
これを民法七二四条(以下「本条」という。)後段の規定についていうと、不法行為に基づく損害賠償請求権の権利者が右規定の定める期間内に権利を行使しなかったが、その権利の不行使について義務者の側に責むべき事由があり、当該不法行為の内容や結果、双方の社会的・経済的地位や能力、その他当該事案における諸般の事実関係を併せ考慮すると、右期間経過を理由に損害賠償請求権を消滅せしめることが前記公平の理念に反すると認めるべき特段の事情があると判断される場合には、なお同請求権の行使を許すべきである。けだし、右のような特段の事情(以下「前記特段の事情」という。)がある場合にまで、それを顧慮することなく、単に期間経過の一事をもって損害の分担の実現を遮断することは、その限りにおいて、前記不法行為制度の究極の目的を放棄することになるからである。そして、この理は、国家賠償法に基づく損害賠償請求についても、そのまま適用されるべきものである(同法四条)。
注 最高裁昭和三六年(オ)第四一三号同三九年六月二四日第三小法廷判決・民集一八巻五号八七四頁、最高裁昭和四七年(オ)第四五七号同五一年三月二五日第一小法廷判決・民集三〇巻二号一六〇頁、最高裁昭和四九年(オ)第一〇七三号同五一年七月八日第一小法廷判決・民集三〇巻七号六八九頁、最高裁昭和五九年(オ)第三三号同六三年四月二一日第一小法廷判決・民集四二巻四号二四三頁、最高裁昭和六三年(オ)第一三八三号平成三年一〇月二五日第二小法廷判決・民集四五巻七号一一七三頁、最高裁昭和六三年(オ)第一〇九四号平成四年六月二五日第一小法廷判決・民集四六巻四号四〇〇頁等参照
二 多数意見の頭記判示は、本条後段の規定は除斥期間を定めたものであると解すべきことを根拠として、上告人らの主張を主張自体失当としているのであるが、右のように解すべき理由を自ら示さず、最高裁平成元年一二月二一日判決(以下「平成元年判決」という。)を引用するのみである。そこで、同判決を見ると、右の理由として、(1)本条がその前段及び後段のいずれにおいても時効を規定していると解することは、不法行為をめぐる法律関係の速やかな確定を意図する同条の規定の趣旨に沿わないこと、及び、(2)本条後段の規定は、一定の時の経過によって法律関係を確定させるため、請求権の存続期間を画一的に定めたものと解するのが相当であることの二点が示されている。
1 しかし、本条後段の規定も時効を定めたものと解しても、本条前段の規定によっては被害者が損害等を知らない限り時効期間の進行が開始しないところ、後段によれば被害者の右認識の有無にかかわらず行為の時から時効期間が進行することになるのであるから、後段の規定もまた、前段の規定とは別の意味で、法律関係の速やかな確定に寄与し得るものである。したがって、右(1)の理由で、本条後段の規定は除斥期間を定めたものと断定することはできない。
2 次に、右(2)の理由であるが、まず、本条後段の規定の文理はむしろ時効を定めたものと解するのが、その沿革からしても、妥当であろう。ことを実質的に考えても、一定期間の経過によって法律関係を確定させるため、権利の存続期間ないし行使期間を画一的に定めるものとして除斥期間制度を採ることが相当とされる理由としては、一般に、相手方の保護、それ以外の取引関係者等の法的地位の安定、その他公益上の必要等があり得るところ、これを本条後段の規定について見ると、権利者の期間徒過を理由としてその徒過につき責むべき事由のある相手方を画一的に保護するというのは不当であり、前記の不法行為法の究極の目的にも沿わない。取引関係者の地位の安定、その他公益上の必要という理由も、不法行為に基づく損害賠償請求権については考えることができない。
平成元年判決が掲げる前記(1)(2)の理由は、いずれも、本条後段の規定をもって除斥期間を定めたものと断定する理由としては、十分でないというほかはない。
三 そもそも、ここでの問題の核心は、不法行為に基づく損害賠償請求権の権利者が本条後段の期間内にこれを行使しなかった場合に、(イ)当該事案における具体的事情を審理判断し、その内容によっては例外的に右期間経過後の権利行使を許すこととするのか、それとも、(ロ)そのような審理判断をすることなく、常に期間経過の一事をもって画一的に権利行使を許さないこととするかである。そして右のいずれの立場を採るにしても、その理由が示されなければならない。しかるに、平成元年判決の判示するところは、除斥期間の概念を中間的に用いてはいるけれども、結局、(ロ)と解するのが相当であるからそう解するというに尽きるのであって、問題の核心について十分な理由を示しているとはいえないと思われる。
以上のとおり、平成元年判決は、不法行為に基づく損害賠償請求権の権利者が本条後段の規定の定める期間内に訴えを提起しなかったときは、そのしなかったことに関する事情のいかんを問わず、同請求権は期間の経過によって当然に消滅するから、これに反する主張はそれ自体失当として排斥すべきものとしているのであるが、少なくとも前記特段の事情のある場合については、そのように解することは不法行為制度の目的ないし理念に反するものであり、また、そのように解する十分な理由も示されていないといわざるを得ない。したがって私は、平成元年判決は、少なくとも右の限度で変更されるべきものと考えるのである。
四 ところで、前項で述べた(イ)(ロ)いずれの立場を採るかは、学説上、本条後段の規定による期間制限を時効と解するか、又は除斥期間と解するかの問題として、論じられている。そして、かっては右規定をもって除斥期間を定めたものと解する学説が通説であるとされていた。しかし、実は、それらの学説は、本件のような事案とそこに含まれる前記の問題を視野に入れて検討した上で提唱されたものではなかった。平成元年判決以後、この判決が契機となって前記問題が鮮明に意識されるようになり、多くの学説が発表されたが、そのほとんどは右規定をもって消滅時効を定めたものと解している。私は、これら近時の時効説の説くところは概ね首肯できると考えるし、また、その説を採れば、義務者の時効援用権の行使を信義則あるいは権利濫用の法理によって制限するという既に確立した調整手法を用いることによって、私の正当と考える結論を容易に導くことができる。
しかしながら、本条後段の規定が除斥期間と消滅時効のいずれを定めたものとするかについては、前記の問題のほかにも多くの重要な問題があり、関連する論点も多岐にわたる。他方、たとえ除斥期間を定めたものとしても、義務者がその利益を受けることを制限する方法があり得ることは近時の学説が明らかにしているところである。したがって、本件において除斥期間説と時効説のいずれが正しいかを決する必要はなく、相当でもない。要は、前記特段の事情の存在が主張され、あるいはうかがわれるときには、期間経過の一事をもって直ちに権利者の権利行使を遮断するべきではなく、当該事案における諸事情を考究して具体的正義と公平にかなう解決を発見することに努めるべきなのであって、それについて民法一条の宣言する信義誠実ないし権利濫用禁止の法理に依拠するか、あるいは、前述の不法行為制度の目的ないし理念から出発するかは、結局、同じ山頂に達する道の相違として、いずれであってもよいと考えるのである。
五 本件においては、上告人らがその主張する不法行為に基づく損害賠償請求権について本条後段の規定の定める期間内に訴えを提起しなかったことは原審の確定するところであるが、上告人らは、原審において、前記特段の事情の存在を理由に右規定による制限を受けない旨を主張していると解することができる。そして、かかる主張を主張自体失当として排斥すべきものとした平成元年判決が変更されるべきものであることは前述のとおりであるから、これと同旨の理由により上告人らの右主張を採用しなかった原判決は、まずその点で法令の解釈を誤った違法があるというべきである。この違法は、原判決のうち上告人らの国家賠償請求に関する部分の結論に影響を及ぼすことが明らかであるから、原判決中の右部分は破棄を免れず、更に審理を尽くさせるため右部分を原審に差し戻すべきものである。
(裁判長裁判官 福田博 裁判官 大西勝也 裁判官 根岸重治 裁判官 河合伸一)

++解説
《解  説》
一 本件は、いわゆる予防接種禍集団訴訟のうちの東京訴訟であって、原審で敗訴した一家族(被害児X1とその両親X2、X3)が上告した事件であり、上告審における争点は、民法七二四条後段の適用の有無である。事案の概要は、次のとおりである。
X1は、生後五月時に予防接種法に基づき痘そうの集団接種を受けたが、その一週間後からけいれん、発熱を発症し、全く意思能力を有しない寝たきりの状態になった。
接種の時から二二年経過後(X1の二二歳時)、Xらは、X1が予防接種によって右の状態になったことについて、Y国に対し、国賠法一条に基づく損害賠償、安全配慮義務違反による損害賠償又は憲法に基づく損失補償を求める本件訴訟を提起した。なお、X1については、X2、X3が親権者と称して弁護士に訴訟委任したものであり、一審判決後、X1は禁治産宣告を受け、その後見人に選任されたX2が従前の弁護士に再度訴訟委任をした。Yは、本件訴訟は民法七二四条後段の除斥期間の経過後に提起されたものであるなどと主張したのに対し、Xらは、Yの右主張は、信義則に反し、権利の濫用であるなどと主張した。
原審は、Xらの請求をいずれも棄却したが、国家賠償請求を棄却する理由は、本件請求は右除斥期間の経過後のものであるから、Xらの請求権は消滅したというものであった。
これに対し、Xらは、国家賠償請求についてのみ上告し、原審の判断には民法七二四条の解釈適用を誤った違法があると主張した。
二 本判決は、次のとおりの理由により、X1については国家賠償請求について破棄差戻、X2、X3については上告棄却した。
後記最一小判平1・12・21民集四三巻一二号二二〇九頁を引用し、不法行為による損害賠償を求める訴えが除斥期間経過後に提起された場合には、裁判所は、除斥期間の経過により右損害賠償請求権が消滅したと判断すべきであるから、除斥期間の主張が信義則違反又は権利濫用であるという主張は、主張自体失当である。しかし、不法行為の被害者が不法行為の時から二〇年経過する前六箇月内において右不法行為を原因として心神喪失の常況にあるのに法定代理人を有しない場合において、禁治産宣告により就職した後見人が六箇月内に右損害賠償請求権を行使したなど特段の事情があるときは、民法一五八条の法意に照らし、同法七二四条後段の効果は生じない。
(なお、河合裁判官は、民法七二四条後段の規定が時効を定めたものか、又は除斥期間を定めたものかはともかくとして、特段の事情があるときは、期間経過の一事をもって権利行使を遮断すべきではないとの見解から、平成元年判決を変更し、被害児と両親とも破棄差戻すべきであるとの個別意見を述べた。したがって、判旨に関する部分の結論に異論を述べたものではない。)
三 従来、民法七二四条後段の規定の法意について、除斥期間説と消滅時効説の対立があった。最一小判平1・12・21民集四三巻一二号二二〇九頁(河野信夫・平1最判解説六〇〇頁)は、右規定は、不法行為による損害賠償請求権の除斥期間を定めたものであり、裁判所は、除斥期間の性質にかんがみ、不法行為による損害賠償請求権が除斥期間の経過により消滅した旨の主張がなくても、右期間の経過により右請求権が消滅したものと判断すべきであり、信義則違反又は権利濫用の主張は、主張自体失当であるとした。これに対し、内池慶四郎・リマークス一九九一〈上〉七八頁、半田吉信・民商一〇三巻一号一三一頁、大村敦志・法律協会雑誌一〇八巻一二号二一二四頁等は、こぞって右判決を強く批判した。しかし、最三小判平2・3・6裁判集民一五九号一九九頁が右平成元年判決を踏襲することを明らかにし、その後、下級審もこれに追随し、右平成元年判決は定着していった。
ところで、除斥期間は、明文の規定のない講学上の用語であるが、判例・学説ともその存在自体は承認している。しかし、その性質や内容について、消滅時効との相違点として、中断が認められないこと、当事者の援用が不要であること以外は、見解の一致をみない。時効の停止の規定が除斥期間に適用されるかについても見解が分かれている(川島武宜・民法総則五七四頁は、特定の規定に限定することなく時効の停止の規定を除斥期間に類推することを認め、我妻榮・新版民法総則四三七頁は、民法一六一条の類推を認める。)。民法七二四条後段の除斥期間について民法一五八条が類推適用されるか論じたものはなく、右類推を認めた裁判例として、大阪高判平6・3・16判時一五〇〇号一五頁(本件と同様の争点の予防接種禍大阪訴訟)があるだけである。
本判決は、平成元年判決を前提にしながら、前記のとおり、その例外を認めた。しかし、本判決は、一般的に民法七二四条後段の除斥期間に民法一五八条の時効の停止の類推適用の可否について検討をしてこれを認めたのではなく、本件の被害児のような不法行為の被害者であって不法行為を原因として心神喪失の常況にある者について民法七二四条後段を適用することが正義・公平の理念に反することから、右の者に限って例外を認めたのである。したがって、本判決は、それ以外の場合について民法七二四条後段の適用の例外が認められるかについては言及してない。本判決が平成元年判決の枠組みの中でのものであることからすると、本判決の適用の範囲は極めて狭いものと思われる。以上のとおり、本判決は、最高裁として初めて平成元年判決の例外を認めたものであるので紹介する。

+判例(H21.4.28)
理由
上告代理人秋山賢三、同今村核の上告受理申立て理由について
1 本件は、殺人事件の被害者の有していた権利義務を相続した被上告人らが、加害者である上告人に対して、不法行為に基づく損害賠償を請求する事案であり、不法行為から20年が経過したことによって、民法724条後段の規定に基づき損害賠償請求権が消滅したか否かが争われている

2 原審の適法に確定した事実関係の概要は、次のとおりである。
(1) Aは、D区立a小学校(以下「本件小学校」という。)に図工教諭として勤務していた者であり、上告人は、本件小学校に学校警備主事として勤務していた者である。
(2) 上告人は、昭和53年8月14日、本件小学校内においてAを殺害し(以下「本件殺害行為」という。)、その死体を同月16日までに上告人の自宅の床下に掘った穴に埋めて隠匿した。
(3) Aの両親であるB及びCは、Aの行方が分からなくなったため、警察に捜索願を出し、本件小学校の教職員らと共に校内やAの住んでいたアパートの周辺を捜すなどしたが、手掛かりをつかむことができなかった。
(4) Bは、昭和57年▲月▲日に死亡し、C及び被上告人ら(いずれもBとCの間の子であり、Aの弟である。)が、その権利義務を相続した。
(5) 上告人は、本件殺害行為の発覚を防ぐため、自宅の周囲をブロック塀、アルミ製の目隠し等で囲んで内部の様子を外部から容易にうかがうことができないようにし、かつ、サーチライトや赤外線防犯カメラを設置するなどした。
(6) 上告人の自宅を含む土地は、平成6年ころ、土地区画整理事業の施行地区となった。上告人は、当初は自宅の明渡しを拒否していたが、最終的には明渡しを余儀なくされたため、死体が発見されることは避けられないと思い、本件殺害行為から約26年後の平成16年8月21日に、警察署に自首した。
(7) 上告人の自宅の捜索により床下の地中から白骨化した死体が発見され、DNA鑑定の結果、平成16年9月29日、それがAの死体であることが確認された。これにより、C及び被上告人らは、Aの死亡を知った。
(8) C及び被上告人らは、平成17年4月11日、本件訴えを提起した。
(9) Cは平成19年▲月▲日に死亡し、被上告人らがその権利義務を相続した。

3 民法724条後段の規定は、不法行為による損害賠償請求権の除斥期間を定めたものであり、不法行為による損害賠償を求める訴えが除斥期間の経過後に提起された場合には、裁判所は、当事者からの主張がなくても、除斥期間の経過により上記請求権が消滅したものと判断すべきである(最高裁昭和59年(オ)第1477号平成元年12月21日第一小法廷判決・民集43巻12号2209頁参照)。
ところで、民法160条は、相続財産に関しては相続人が確定した時等から6か月を経過するまでの間は時効は完成しない旨を規定しているが、その趣旨は、相続人が確定しないことにより権利者が時効中断の機会を逸し、時効完成の不利益を受けることを防ぐことにあると解され、相続人が確定する前に時効期間が経過した場合にも、相続人が確定した時から6か月を経過するまでの間は、時効は完成しない(最高裁昭和35年(オ)第348号同年9月2日第二小法廷判決・民集14巻11号2094頁参照)。そして、相続人が被相続人の死亡の事実を知らない場合は、同法915条1項所定のいわゆる熟慮期間が経過しないから、相続人は確定しない
これに対し、民法724条後段の規定を字義どおりに解すれば、不法行為により被害者が死亡したが、その相続人が被害者の死亡の事実を知らずに不法行為から20年が経過した場合は、相続人が不法行為に基づく損害賠償請求権を行使する機会がないまま、同請求権は除斥期間により消滅することとなる。しかしながら、被害者を殺害した加害者が、被害者の相続人において被害者の死亡の事実を知り得ない状況を殊更に作出し、そのために相続人はその事実を知ることができず、相続人が確定しないまま除斥期間が経過した場合にも、相続人は一切の権利行使をすることが許されず、相続人が確定しないことの原因を作った加害者は損害賠償義務を免れるということは、著しく正義・公平の理念に反する。このような場合に相続人を保護する必要があることは、前記の時効の場合と同様であり、その限度で民法724条後段の効果を制限することは、条理にもかなうというべきである(最高裁平成5年(オ)第708号同10年6月12日第二小法廷判決・民集52巻4号1087頁参照)。
そうすると、被害者を殺害した加害者が、被害者の相続人において被害者の死亡の事実を知り得ない状況を殊更に作出し、そのために相続人はその事実を知ることができず、相続人が確定しないまま上記殺害の時から20年が経過した場合において、その後相続人が確定した時から6か月内に相続人が上記殺害に係る不法行為に基づく損害賠償請求権を行使したなど特段の事情があるときは、民法160条の法意に照らし、同法724条後段の効果は生じないものと解するのが相当である。
4 これを本件についてみるに、前記事実関係によれば、上告人が本件殺害行為後にAの死体を自宅の床下に掘った穴に埋めて隠匿するなどしたため、B、C及び被上告人らはAの死亡の事実を知ることができず、相続人が確定せず損害賠償請求権を行使する機会がないまま本件殺害行為から20年が経過したというのである。 
 そして、C及び被上告人らは、平成16年9月29日にAの死亡を知り、それから3か月内に限定承認又は相続の放棄をしなかったことによって単純承認をしたものとみなされ(民法915条1項、921条2号)、これにより相続人が確定したところ、更にそれから6か月内である平成17年4月11日に本件訴えを提起したというのであるから、本件においては前記特段の事情があるものというべきであり、民法724条後段の規定にかかわらず、本件殺害行為に係る損害賠償請求権が消滅したということはできない。 
5 以上と同旨の原審の判断は、正当として是認することができる。論旨は採用することができない。
よって、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。なお、裁判官田原睦夫の意見がある。

+意見
裁判官田原睦夫の意見は、次のとおりである。
私は、上告人の殺害行為によって死亡した被害者の遺族たる被上告人らの、本件損害賠償請求を認容した原判決は維持されるべきである、との多数意見の結論に賛成するものであるが、その理由は、多数意見とは異なる。私は、民法724条後段の規定は、時効と解すべきであって、本件においては民法160条が直接適用される結果、被上告人らの請求は認容されるべきものと考える。以下敷衍する。
民法724条後段の規定の法的性質について、時効と解すべきか、除斥期間と解すべきかにつき、かつて学説、下級審裁判例でそれぞれ見解の対立が存したところ、最高裁昭和59年(オ)第1477号平成元年12月21日第一小法廷判決・民集43巻12号2209頁(以下「平成元年判決」という。)は、同規定は、除斥期間を定めたものと解すべきものとし、除斥期間の性質にかんがみ、その期間の経過により原告の主張する損害賠償請求権は消滅した旨の主張がなくても、裁判所は同期間の経過により、同請求権は消滅したものと判断すべきであり、除斥期間の経過を主張することが信義則違反又は権利濫用であるとの主張は、主張自体失当である、と判示した。
平成元年判決の説くところに従えば、本件訴えは、被害者が殺害されてから26年余を経て提起されたものであって、被上告人らの損害賠償請求権は、既に除斥期間の経過によって消滅しているところ、多数意見は、本件事案にかんがみ法的には既に消滅している請求権の行使を認めるものであって、論理的には極めて困難な解釈をしているものと言わざるを得ない。
ところで、上記平成元年判決は、民法724条後段の規定を除斥期間と解すべきであるとする理由として、〈1〉同条後段の規定を時効と解することは、不法行為をめぐる法律関係の速やかな確定を意図する同条の趣旨に沿わないこと、〈2〉同条後段の規定は、一定の時の経過によって法律関係を確定させるため請求権の存続期間を画一的に定めたものと解するのが相当であること、の二点を示している。
しかし、そのうち〈1〉の点は、時効と解しても法律関係の速やかな確定に寄与するものと評することができるのであり、また、〈2〉の点は、除斥期間の制度は、相手方の保護、取引関係者の法的地位の安定、その他公益上の必要から一定期間の経過によって法律関係を確定させるために権利の存続期間ないし行使期間を画一的に定めることを目的とするものと一般に解されているところ、不法行為に基づく損害賠償請求権について、加害者につき時効制度と別に除斥期間によって保護すべき特段の事情は認められず、また、被害者の損害賠償請求権の行使期間を一定の期間に制限すべき公益上の必要性も認められないのであって、〈2〉に掲げる理由が同条後段の規定を除斥期間と解すべき理由とならないというべきである。これらの点については、最高裁平成5年(オ)第708号同10年6月12日第二小法廷判決・民集52巻4号1087頁におけるE裁判官の意見及び反対意見において詳細に指摘されているところである。
また、民法724条後段の規定を時効と解した場合には、中断の規定が適用される結果、法律関係の速やかな確定が損なわれるとする見解が存するが、民法724条後段の20年の時効期間が中断されるのは、事実上は同条前段の3年の時効期間の中断によるものであって、最長で20年の期間が23年に延びるにすぎず、その3年間の伸長をもって法的安定が害されると評するには値しない(論理的には、その後3年の時効の中断が更に更新されることがあり得るが、それは債務者による承認等極めて特殊な事例であり、法的安定性という側面からは個別に評価すれば足りることである。)。
次に民法724条後段の規定を時効と解することが、民法の定める不法行為法体系と整合するか否かが問題となり得るところ、一般に時効に関する民法の諸規定のうち、除斥期間には類推適用されないものとして、〈1〉中断、〈2〉援用、〈3〉起算点、〈4〉遡及効、〈5〉停止、〈6〉放棄、〈7〉確定判決による期間延長(民法174条の2)、〈8〉相殺(民法508条)の諸規定が上げられる。そのうち、〈1〉の中断については、上記に検討したとおりであり、また、〈3〉の起算点の点は、加害行為から長期間を経て損害が発生する事案においては、民法724条後段の適用については、損害発生時をその起算点とすることは、当裁判所の判例(最高裁平成13年(受)第1760号同16年4月27日第三小法廷判決・民集58巻4号1032頁、最高裁平成13年(オ)第1194号、第1196号、同年(受)第1172号、第1174号同16年10月15日第二小法廷判決・民集58巻7号1802頁、最高裁平成16年(受)第672号、第673号同18年6月16日第二小法廷判決・民集60巻5号1997頁)であり、また通説も認めているところであって、後段の規定を時効と解することに何ら支障をもたらすものではない。また、上記のうちのその余の諸点についても、同規定を時効と解し、その適用を認めることについて理論上、実務上支障となるような点は認められない。
かえって、同規定を除斥期間と解し、不法行為時(損害の発生が遅発するものについては損害発生時)から20年の経過によって、その損害賠償請求権が絶対的に消滅するものと解する場合には、19年目に被害者が損害の発生及び加害者を知り、加害者が債務を承認した場合であっても、20年の終了までに訴えを提起しなければ(除斥期間説に立つ学説も、20年以内に訴えを提起すれば、20年を経過した後でもその訴訟を遂行することができると解している。)その権利を行使できないこととなり、また、不法行為時から15年目に損害賠償請求にかかる勝訴判決が確定して、民法174条の2により時効期間が判決確定時から10年伸長したと思っていたところ、不法行為時から20年の経過によって、権利が失効し、同判決に基づいて強制執行することができないと解すべきことになるが、かかる結論には何人も違和感を禁じ得ないであろう。また、損害賠償請求権の存在が明確ではあるが、種々の事情からその具体的行使を控えていたところ、不法行為時から21年目に、加害者からの反対債権に基づく請求に対し、被害者がその損害賠償請求権を自働債権として相殺の主張をすることが許されないとすることについても、同様に違和感を禁じ得ないであろう。
さらに、民法724条後段の規定を時効と解することにより、その適用は加害者の援用をまたなければならないと解することとなるが、そのことにより、個々の事案において、その援用が権利濫用や信義則違反に該当すると認められる場合には、その援用の効力を否定するという既に確立した手法を用いることができるのであって、損害賠償請求権という個別性の強い事案において、当該事案に応じた社会的に妥当な解決を導くことができることとなるのである。
他方、民法724条の文意からすれば、後段の規定は時効と解するのが自然な解釈であり、また、学説が指摘するようにその立法経緯からしても時効と解すべきものであることに加え、学界では、平成元年判決に対しては批判が強く、今日では、民法724条後段の規定は除斥期間ではなく、時効期間を定めたものと解する説が多数を占めており、また、近年、債権法改正の一環として時効制度の見直しを含めた法改正がなされたドイツ、フランス、オランダ等の欧州諸国においても、不法行為による損害賠償請求権について、民法724条と同様、二重の期間制限を設ける場合において、長期の期間については、何れも「時効」とする制度が設けられているのである。
このように、民法724条後段の規定を、除斥期間と解する場合には、本件に典型的に見られる如く具体的妥当な解決を図ることは、法論理的に極めて難しく、他方、時効期間を定めたものと解することにより、本件において具体的に妥当な解決を図る上で理論上の問題はなく、また、そのように解しても上記のとおり不法行為法の体系に特段の支障を及ぼすとは認められないのであり、さらに、そのように解することが、今日の学界の趨勢及び世界各国の債権法の流れに沿うことからすれば、平成元年判決は変更されるべきである。
そして、上記のように解することによって、今後、不法行為時から20年以上経過した損害賠償請求訴訟が提起された場合には、上記のとおり既に確立している権利濫用、信義則違反の法理に則って適切な解決を図ることができるのである。
なお、実務上は、上記の平成元年判決を受け、その後の下級審裁判例が、民法724条後段の規定を除斥期間と解する運用をなしているところから、ここで上記判例変更をなす場合には、一定の混乱が生じかねない可能性がある。しかし、上記の判例変更の結果を受けて真に救済せざるを得ない事案は、社会的には極く僅かに止まり、また、それは個別に対応することが可能であると推察されるのであって、判例変更が社会的に相当な混乱を引き起こすおそれはないと思われる。
おって、現在、法務省において債権法の改正作業が開始されているところ、時効制度の見直しに当たっては、かかる観点を踏まえた見直しがなされることを望むものである。
(裁判長裁判官 那須弘平 裁判官 藤田宙靖 裁判官 堀籠幸男 裁判官 田原睦夫 裁判官 近藤崇晴)

++解説
《解  説》
1 本件は,YがAをひそかに殺害してその死体を隠匿したため,Aは長期間にわたって行方不明とされていたが,約26年後にYが自首して死体が発見されたという事案において,Aの相続人XのYに対する不法行為に基づく損害賠償請求権が,民法724条後段の規定により消滅したか否かが問題になった事案である。
2 本件の事実関係の概要は,次のようなものである。
(1) Yは,昭和53年8月14日,Aを殺害し(以下「本件殺害行為」という。),その死体を同月16日までにYの自宅の床下に掘った穴に埋めて隠匿した。
(2) Aの家族は,警察に捜索願を出すなどしてAの行方を捜したが,手掛かりをつかむことができなかった。
(3) Yは,本件殺害行為の発覚を防ぐため,自宅の周囲をブロック塀,アルミ製の目隠し等で囲んで内部の様子を外部から容易にうかがうことができないようにし,かつ,サーチライトや赤外線防犯カメラを設置するなどした。
(4) しかし,Yの自宅を含む土地は,平成6年ころ,土地区画整理事業の施行地区となった。Yは,当初は自宅の明渡しを拒否していたが,最終的には明渡しを余儀なくされたため,死体が発見されることは避けられないと思い,本件殺害行為から約26年後の平成16年8月21日に,警察署に自首した。
(5) 上告人の自宅の捜索により床下の地中から白骨化した死体が発見され,DNA鑑定の結果,平成16年9月29日,それがAの死体であることが確認された。これにより,Aの相続人であるXらは,Aの死亡を知った。
(6) Xらは,平成17年4月11日,本件訴えを提起した。
3 1審(東京地判平18.9.26判タ1222号90頁,判時1945号61頁)は,民法724条後段の規定する20年の期間は除斥期間であると解されるところ,本件殺害行為に係る不法行為の除斥期間の起算点は,本件殺害行為のあった昭和53年8月14日であり,同日から20年の経過によって上記不法行為に基づく損害賠償請求権は消滅したと判断した(ただし,死体遺棄に関する不法行為については,その消滅時効及び除斥期間の起算点は死体発見日であるとして,慰謝料等合計330万円を認容した。)。
これに対し,原審(東京高判平20.1.31判タ1268号208頁,判時2013号68頁)は,不法行為により被害者が死亡し,不法行為の時から20年を経過する前に相続人が確定しなかった場合において,その後相続人が確定し,当該相続人がその時から6か月以内に相続財産に係る被害者本人の取得すべき損害賠償請求権を行使したなど特段の事情があるときは,民法160条の法意に照らし,上記相続財産に係る損害賠償請求権について同法724条後段の効果は生じないものと解するのが相当であるとした上で,本件において,Xらが相続開始を知ったのは,DNA鑑定により発見された死体がAのものであると確認された平成16年9月29日であり,その時から3か月の熟慮期間が経過して法定単純承認により相続人が確定した時(同年12月29日)から6か月以内である平成17年4月11日に本件訴えを提起したものであるから,上記の特段の事情があり,民法724条後段の効果は生じないとして,本件殺害行為に係る不法行為に基づく損害賠償請求を認容した。
1審判決に対する主な評釈は,橋本英史「生死不明であった死亡被害者の遺族による加害者に対する不法行為に基づく損害賠償請求と除斥期間の適用」判時1946号3頁,松本克美「後発顕在型不法行為と民法724条後段の20年期間の起算点」立命310号424頁が,原判決に対する主な評釈は,福田健太郎・法時81巻2号116頁,加藤雅信・判タ1284号83頁,田中宏治・判評602号13頁がある。
4 本判決は,要旨次のとおり説示して,原審の判断を是認した。
民法160条の趣旨は,相続人が確定しないことにより権利者が時効中断の機会を逸し,時効完成の不利益を受けることを防ぐことにあり,相続人が確定する前に時効期間が経過した場合にも,相続人が確定した時から6か月を経過するまでの間は,時効は完成しない。そして,相続人が被相続人の死亡の事実を知らない場合は,同法915条1項所定のいわゆる熟慮期間が経過しないから,相続人は確定しない。
民法724条後段の規定は,不法行為による損害賠償請求権の除斥期間を定めたものであり,その規定を字義どおりに解すれば,不法行為により被害者が死亡したが,その相続人が被害者の死亡の事実を知らずに不法行為から20年が経過した場合は,相続人が不法行為に基づく損害賠償請求権を行使する機会がないまま,同請求権は除斥期間により消滅することとなる。しかしながら,被害者を殺害した加害者が,被害者の相続人において被害者の死亡の事実を知り得ない状況を殊更に作出し,そのために相続人はその事実を知ることができず,相続人が確定しないまま除斥期間が経過した場合にも,相続人は一切の権利行使をすることが許されず,相続人が確定しないことの原因を作った加害者は損害賠償義務を免れるということは,著しく正義・公平の理念に反する。このような場合に相続人を保護する必要があることは,前記の時効の場合と同様であり,その限度で民法724条後段の効果を制限することは,条理にもかなうというべきである。
そうすると,上記の場合において,その後相続人が確定した時から6か月内に相続人が上記殺害に係る不法行為に基づく損害賠償請求権を行使したなど特段の事情があるときは,民法160条の法意に照らし,同法724条後段の効果は生じないものと解するのが相当である。
これを本件についてみるに,前記事実関係によれば,Yが本件殺害行為後にAの死体を隠匿するなどしたため,XらはAの死亡の事実を知ることができず,相続人が確定せず損害賠償請求権を行使する機会がないまま本件殺害行為から20年が経過し,Xらは,相続人確定時から6か月内に本件訴えを提起したから,本件においては前記特段の事情があり,民法724条後段の規定にかかわらず,本件殺害行為に係る損害賠償請求権が消滅したということはできない。
5(1) 除斥期間説と時効説
周知のとおり,民法724条後段の法的性質については,除斥期間説と時効説の激しい対立がある。
通説は除斥期間説であり(我妻栄=有泉亨『債権法』592頁,四宮和夫『事務管理・不当利得・不法行為(下)』651頁等),最一小判平1.12.21民集43巻12号2209頁,判タ753号84頁(以下「平成元年判決」という。)も除斥期間説を採用することを明らかにしたが,平成元年判決に対する評釈は,時効説の立場から判例を批判するものが多数を占めている状況にある(内池慶四郎・リマークス1991(上)78頁,半田吉信・民商103巻1号131頁,大村敦志・法協108巻12号2124頁等)。
本判決の多数意見は,平成元年判決を引用して除斥期間説を前提とすることを明らかにしている。
(2) 民法160条の趣旨
ところで,民法158条~161条に規定する時効の停止とは,時効完成直前に権利者の権利行使を不能又は著しく困難とする事由がある場合は,その事由の消滅後一定期間が経過するまで,時効の完成を延期させる制度である。時効の中断と異なり,それまでに経過した期間が無意味になる(リセットされる)わけではない。
本件で問題になっている民法160条は,相続財産に関する時効停止の規定である。相続財産に関する権利については,相続人未確定の間は時効中断の措置をとることが困難であり,その間に時効が完成してしまうと権利者の保護に欠けることから,相続人が確定した時,相続財産管理人が選任された時又は相続財産につき破産手続開始決定があった時から6か月が経過するまでの間は時効が完成しないものとされた。
同条は,「相続人が確定した時……から6か月を経過するまでの間は,時効は,完成しない」と規定するが,これをもって,同条は相続人確定時から6か月を経過するまでの間に時効期間が経過した場合についてのみ適用される規定であって,相続人確定前に時効期間が経過した場合(時効期間経過後に相続人が確定した場合)についてまで定めたものではないという限定的な解釈も考えられる。
しかし,最二小判昭35.9.2民集14巻11号2094頁,判タ110号55頁は,「民法160条は時効期間経過前6か月前に相続財産管理人が選任された場合の規定であって,時効完成後に管理人が選任された場合にはその適用がない」とした原判決の限定的な解釈を誤りであるとし,「相続財産に関しては相続人が確定し又は管理人の選任せられた時より6か月以内は時効が完成しないことは民法160条の明定するところであって,従って相続人確定又は管理人選任なき限り相続財産に属する権利及び相続財産に対する権利については時効完成はあり得ないのである」と判示して,時効期間経過後に相続人が確定し又は相続財産管理人が選任された場合にも民法160条の適用があり,相続人確定又は相続財産管理人選任の時から6か月が経過するまでの間は時効が完成しないことを明らかにした。
(3) 除斥期間への時効停止の規定の類推の可否
学説は,除斥期間については時効中断の規定は適用されないこと及び債務者による援用を要しないことについては一致しているが,時効の停止の規定を適用することができるか否かについては議論が分かれている。
除斥期間の制度は権利関係の早期・画一的な確定を目的とするものであることを重視し,時効の停止の規定の類推適用を否定する説(梅謙次郎『民法要義 巻之一 総則編』322頁,鳩山秀夫『注釈民法全書(2)』594頁等),客観的に権利行使が不可能である時効停止事由が存在する場合にも除斥期間経過により一律に権利が消滅するのは相当性を欠くことや,時効停止による期間延長は一時的なものであるし,客観的な事由であるから法律関係の早期確定という除斥期間制度の趣旨目的に著しく反するわけではないことなどを根拠に,時効の停止の規定の類推適用を肯定する説(川島武宜『民法総則』574頁,星野英一『民法概論Ⅰ』292頁等),少なくとも天災による時効停止を定めた民法161条については,類推適用を認めるべきであるとする説(我妻栄『新訂版民法総則』437頁)などがある。
(4) 平成10年判決
最二小判平10.6.12民集52巻4号1087頁,判タ980号85頁は,被害者が予防接種を原因として重い障害を負い,心神喪失の常況にあるという事案において,不法行為の被害者が不法行為の時から20年を経過する前6箇月内において不法行為を原因として心神喪失の常況にあるのに法定代理人を有しなかった場合において,その後当該被害者が禁治産宣告を受け,後見人に就職した者がその時から6箇月内に右損害賠償請求権を行使したなど特段の事情があるときは,民法158条の法意に照らし,同法724条後段の効果は生じないと説示した。
この平成10年判決は,民法724条後段の除斥期間の例外を認めた初めての判断として知られている。
同判決は,時効停止の規定である民法158条を類推適用するのではなく,その「法意」に照らして除斥期間の適用を制限すると説示しているが,これは,おそらく,法律関係の速やかな確定のために期間の経過により画一的に権利が消滅するという除斥期間の性質に照らして,その例外を広く認めるのは相当ではないので,単に時効停止事由に相当する事由があるというだけで時効停止の規定を除斥期間に類推適用するのではなく,条理や正義・衡平の理念を根拠とし,加害者側による権利行使妨害があったことも要件に加えることにより,除斥期間の例外にいっそうの絞りをかけた趣旨ではないかと思われる。
そうすると,同判決の射程距離は,極めて短いものと解される(春日通良・平10最判解説(民)576頁)が,①時効の停止等その根拠となる規定があり,②適用することが著しく正義・公平に反する事案については,これと同様に民法724条後段の効果を否定する余地があるといえるような場合には,やはり時効の停止の規定の「法意」に照らして除斥期間の適用を制限する余地がないわけではない
本判決は,平成10年判決の枠組みに従い,時効停止規定である民法160条の趣旨と,本件においてXらが不法行為から20年内に権利を行使しなかったのは加害者Yの証拠隠滅工作によるもので,Xらの側に落度はないことなどを考慮して,除斥期間の例外を認めたものであると解される。そうすると,本判決の射程も,平成10年判決のそれと同様,極めて短いものであるというべきであろう。
本件は,前記のような特殊な事情の下で,民法724条後段の除斥期間に2つ目の例外を認めたものであり,理論上及び実務上重要な意義があるものと思われる。
なお,本判決には,平成10年判決の河合裁判官の意見及び反対意見に賛同し,民法724条後段の規定は除斥期間ではなく時効期間と解すべきである旨の田原裁判官の意見が付されている。

b)除斥期間とされる期間制限規定
・形成権の期間制限
・請求権に関する短期期間制限
・長短二重期間がある場合
+判例(H1.12.21)
理由
上告代理人藤井俊彦、同並木茂、同横山匡輝、同前田順司、同北野節夫、同森脇勝、同堀江憲二、同末永紘一、同長谷川哲、同松下邦男、同谷山幸雄、同田林均、同石山利夫、同大重五男の上告理由第一点について
一 原審が適法に確定した事実関係は、次のとおりである。
(一) 被上告人Aは、昭和二四年二月一四日、鹿児島県鹿児島郡a村b(現在、鹿児島市b町)cの山林中において、同山林中で発見された三個の不発油脂焼夷弾の処理作業に伴う山林の防火活動に従事していたものであるが、その際、右不発弾の一個が同人の至近距離で突然爆発し、燃焼した油脂を顔面その他身体前面部全体に浴びて重傷を負った(以下「本件事故」という。)。(二)右不発弾の処理は、国の公権力の行使に当たる公務員である国家地方警察鹿児島地区警察署西桜島派出所勤務、同警察署二俣派出所補勤の巡査B又はその要請を受けた米軍小倉弾薬処理班の将兵二名がその職務として行ったものであり、前記山林の防火活動は、B巡査の出動要請を受けた東桜島消防分団高免分団長Cの求めに応じて消防団員でない被上告人Aがb部落の消防団員約二〇名と共に参加したものであった。(三)右不発弾の処理作業は、米兵が不発弾の露出部分に爆薬を詰めて爆破装置により爆発させる方法をとり、爆破の際は全員が不発弾から五、六〇メートル離れた箇所に避難して行われた。このような方法で二個の不発弾の処理作業は終わったが、三個目の不発弾に前記爆破装置を付けて爆発させようとしたところ爆発せず、不発弾の胴体が割れ、そこから火が出て燻焼し、山火事の発生のおそれがある状況であったので、B巡査らの指図で被上告人Aや消防団員らが右不発弾にスコップで砂をかぶせる作業をした。ところが、その作業が終わると同時に不発弾が突然爆発して本件事故が発生した。(四)本件事故は、不発弾の爆発による人身事故等の発生を未然に防止すべき義務を負っていたB巡査が、被上告人Aら消防団員に燻焼し続ける極めて危険な不発弾にスコップで砂をかぶせる作業をさせる等した過失により発生したものである。(五)本件事故の結果、被上告人Aは、全身の火傷に丹毒症を併発し、約六か月間入院加療して漸く一命をとりとめたものの、現在、顔面全体の瘢痕、高度の醜貌、左無眼球、右眼視力の極度の低下、両耳の難聴、瘢痕性萎縮による左肘関節の伸展位の固定等の後遺症がある。(六)上告人は、昭和二四年八月から同年一二月までの間、四回にわたり療養見舞金として合計五万二三九〇円、同年一一月に療養費として四万五〇六〇円、昭和二六年三月及び同二八年二月に特別補償費事故見舞金として合計一〇万八〇〇〇円を被上告人Aに支払った。また、上告人は、昭和三七年九月に被上告人Aに対し、連合国占領軍等の行為等による被害者等に対する給付金の支給に関する法律(昭和三六年法律第二一五号)に基づく障害給付金として一三万円、休業給付金として七五〇〇円を支払い、同四二年一二月には同法(昭和四二年法律第二号による改正後のもの)に基づき、被上告人Aに対し特別障害給付金として一八万四〇〇〇円、同人の妻である被上告人Dに対し障害者の妻に対する支給金として七万五〇〇〇円を支払った。(七)被上告人A及び同Dは、上告人に対し、本件事故発生の日から二八年一〇か月余を経過した昭和五二年一二月一七日、国家賠償法一条に基づき、本件事故による損害の賠償を求めて本訴を提起した。

二 原審は、以上の事実関係のもとにおいて、次の理由により、被上告人らは、上告人に対し、国家賠償法一条に基づき、損害賠償請求権(以下「本件請求権」という。)を有するとした上、被上告人らの請求は、被上告人Aにつき慰謝料五〇〇万円、被上告人Dにつき慰謝料二五〇万円及び右両名に対しそれぞれ右各金員に対する訴状送達の日の翌日である昭和五三年一月六日から完済まで年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で認容すべきものであり、被上告人らの請求を全部棄却した第一審判決は右のとおり変更すべきである旨判決した。
1 本件事故は国の公権力の行使に当たるB巡査らがその職務を行うにつき過失によって被上告人らに損害を加えたものであり、上告人は、被上告人らに対し、国家賠償法一条により本件事故による損害を賠償する責任がある。
2 上告人は、本件事故発生の日から本訴提起の日まで二八年一〇か月余を経過しており、本件請求権は民法七二四条後段に規定する二〇年の除斥期間の経過により消滅した旨を主張するが、同条後段の二〇年の期間は、同条の規定の文言、立法者の説明、三年の短期時効に対する補充的機能、時効の中断、停止、援用を認めないと被害者に極めて酷な場合が生ずること等に照らし消滅時効を定めたものと考えるべきであり、仮に、これを除斥期間と解するとしても、被害者保護の観点から中断、停止を認めるいわゆる弱い除斥期間(混合除斥期間)であると解すべきである。
3 そして、本件事故当時、上告人の被用者である前記鹿児島地区警察署係員らにおいて上告人の右損害賠償義務を知り、又は容易に知りうべかりし状況にあった上、右事故直後、同警察署長名で本件事故の責任の所在を不明確にしたと認められる被害調査書が作成されたこと、被上告人らは、本件事故後、鹿児島市役所、鹿児島県庁等上告人の出先機関等に何度となく被害の救済を求めており、権利の上に眠る者とはいえないこと等原判示の事情を総合すると、上告人が本訴において被上告人らの本件請求権につき二〇年の長期の消滅時効を援用し、又は前記除斥期間の徒過を主張することは信義則に反し、権利の濫用として許されない。

三 しかしながら、原審の右判断は是認することができない。その理由は、次のとおりである。
民法七二四条後段の規定は、不法行為によって発生した損害賠償請求権の除斥期間を定めたものと解するのが相当である。けだし、同条がその前段で三年の短期の時効について規定し、更に同条後段で二〇年の長期の時効を規定していると解することは、不法行為をめぐる法律関係の速やかな確定を意図する同条の規定の趣旨に沿わず、むしろ同条前段の三年の時効は損害及び加害者の認識という被害者側の主観的な事情によってその完成が左右されるが、同条後段の二〇年の期間は被害者側の認識のいかんを問わず一定の時の経過によって法律関係を確定させるため請求権の存続期間を画一的に定めたものと解するのが相当であるからである。
これを本件についてみるに、被上告人らは、本件事故発生の日である昭和二四年二月一四日から二〇年以上経過した後の昭和五二年一二月一七日に本訴を提起して損害賠償を求めたものであるところ、被上告人らの本件請求権は、すでに本訴提起前の右二〇年の除斥期間が経過した時点で法律上当然に消滅したことになる。そして、このような場合には、裁判所は、除斥期間の性質にかんがみ、本件請求権が除斥期間の経過により消滅した旨の主張がなくても、右期間の経過により本件請求権が消滅したものと判断すべきであり、したがって、被上告人ら主張に係る信義則違反又は権利濫用の主張は、主張自体失当であって採用の限りではない
してみると、被上告人らの本訴請求は、その余の点について判断するまでもなく理由がなく、これを棄却すべきものである。しかるに、これと異なる見解に立って本訴請求を一部認容した原判決は、民法七二四条後段の解釈適用を誤った違法があり、その違法は判決の結論に影響を及ぼすことが明らかであるから、この点の違法をいう論旨は理由があり、その余の論旨について判断するまでもなく、原判決中、上告人敗訴部分は破棄を免れない。そして、以上判示したところと結論を同じくする第一審判決は正当であるから、右部分に対する控訴は理由がなくこれを棄却すべきものである。
よって、民訴法四〇八条、三九六条、三八四条、九六条、八九条、九三条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 佐藤哲郎 裁判官 角田禮次郎 裁判官 大内恒夫 裁判官 四ツ谷巖 裁判官 大堀誠一)

++解説
《解  説》
一、事案の概要は、次のとおりである。
甲は、昭和二四年二月一四日、鹿児島県鹿児島郡東桜島村高免(現在、鹿児島市高免町)の山林中において、不発焼夷弾の爆破作業中、不発弾一発が至近距離で爆発し、燃焼した油脂を体に浴びて重度の火傷を負った。この作業は、当時の国家地方警察鹿児島地区の巡査A又はその要請を受けた米軍小倉弾薬処理班の将兵二名が職務として行った不発弾処理作業中に発生したもので、甲は、Aの出動要請を受けた地元消防分団長の求めに応じて右処理に伴う山林の防火活動に従事していたものであった。甲は、現在、右事故の後遺症として顔面全体の瘢痕、高度の醜貌、左無眼球、視力の極度の低下、難聴、肘関節の固定等の障害がある。甲とその妻乙は、丙(国)に対し、右事故から二八年一〇か月を経過した後の昭和五二年一二月一七日、鹿児島地裁に訴えを提起し、国家賠償法一条に基づき、慰謝料として甲は一〇〇〇万円、乙は五〇〇万円の支払を請求した。乙は夫甲の看病に尽くし、夫に代わって農業に従事し家計を支え、多大の精神的苦痛を被ったことを理由とする。
二、一審は、甲、乙の請求を棄却した(事故発生から三年間の経過により時効消滅)が、原審は、ア 三年の短期時効消滅を認めることができないこと、イ 民法七二四条後段の長期時効の援用ないし除斥期間経過の主張は信義則違反又は権利の濫用であって許されないこと等を理由に、甲につき五〇〇万円、乙につき二五〇万円の限度で慰謝料請求を認めた。
三、本判決は、前記のとおり、民法七二四条後段の規定は、不法行為による損害賠償請求権の除斥期間を定めたものと解すべきであるとして、丙の主張を採用し、原判決を破棄して控訴を棄却した。結局、甲、乙の請求を棄却した一審判決を結論において維持したことになる。なお、丙側で甲、乙の権利行使を妨害した事実は是認されていない。本判決は、二〇年の期間を除斥期間と解する理由として、要旨次のとおり述べる。すなわち、同条がその前段で三年の短期時効を規定し、更に同条後段で二〇年の長期時効を規定していると解するのは、不法行為をめぐる法律関係の速やかな確定を意図する同条の規定の趣旨に沿わないこと、むしろ同条前段の三年の時効は損害及び加害者の認識という被害者側の主観的な事情によってその完成が左右されるが、同条後段の二〇年は被害者側の認識のいかんを問わず一定の時の経過によって法律関係を確定させるため請求権の存続期間を画一的に定めたものと解するのが相当である。
四、我が民法上、一定の期間の経過による権利消滅の原因として消滅時効のほかに、明文の規定はないけれども、除斥期間があることは、学説、判例のひとしく認めるところである。消滅時効と除斥期間の主な相違点として従来、ア 除斥期間は中断が認められないこと、イ 除斥期間の経過による権利消滅の効果は当然かつ絶対的に生じ、当事者の援用がなくても裁判所はこれに基づいて裁判しなければならないことなどの点が指摘されている。しかし、民法の規定だけから時効期間と除斥期間を区別することが必ずしも容易でないものが多い。近時の学説は、法文の字句から形式的に判別するのでなく、権利の性質や規定の趣旨・目的などに従って実質的に判定すべきであるという(我妻・民法総則四三八頁等)。七二四条後段の二〇年の期間の性質については、かつての通説は立法関係者の説明等に従い、これを時効期間と解していた(梅・民法要義巻之三債権篇九〇四頁、岡松・註釈民法理由債権編五〇四頁、鳩山・日本債権法各論下巻九四六頁等)。しかし、現在の通説はこれを除斥期間と解しており(我妻=有泉・債権法五九二頁、加藤・不法行為二六三頁、谷口=植松・損害賠償法概説一八四頁、幾代・不法行為三二八頁、四宮・事務管理・不当利得・不法行為六五一頁、広中・債権各論講義第五版四八九頁等)、これを時効期間と解する説(内池・「損害賠償請求権の消滅時効」現代損害賠償法講座I二一一頁、新美・ジュリ七五八号七四頁等)は少数説である。下級審の裁判例の多くも除斥期間と解している(東京高判昭53・12・18本誌三七八号九九頁等)。更に、最一小判昭54・3・15裁判集民一二六号二四三頁は、これを除斥期間と解した原審の判断を是認している。本判決は右期間が除斥期間であることを明確にした最高裁の初めての判例である。
五、本判決は、当事者が除斥期間の経過により請求権が消滅した旨を主張しなくても、裁判所は、除斥期間の性質から、当然に右期間の経過により請求権が消滅したものと判断すべきものであり、信義則違反や権利濫用の主張は、主張自体失当である旨を述べる。除斥期間は期間中の経過により権利消滅の効果が当然に生じ、当事者の援用がなくても裁判所はこれに基づいて裁判しなければならない性質を有するから(司法研修所・民事訴訟における要件事実第一巻一七六頁、通説)、信義則違反や権利濫用の判断の対象となる当事者の主張の存在は本来予定されていないと解される。
なお、最三小判平2・3・6裁判集民一五九号一九九頁は、不法行為(暴行・傷害)の時から約四一年を経過した後に訴えを提起した私人間の損害賠償請求事件につき、前記二〇年の期間を除斥期間と解すべきであるとして、右請求を棄却した原判決を結論において是認し、本判決を引用してこれと同旨の判断を示している。

(2)権利失効の原則
+判例(S30.11.22)
理由
上告代理人成富信夫の上告理由第一点について。
権利の行使は、信義誠実にこれをなすことを要し、その濫用の許されないことはいうまでもないので、解除権を有するものが、久しきに亘りこれを行使せず、相手方においてその権利はもはや行使せられないものと信頼すべき正当の事由を有するに至つたため、その後にこれを行使することが信義誠実に反すると認められるような特段の事由がある場合には、もはや右解除は許されないものと解するのを相当とする。ところで、本件において所論解除権が久しきに亘り行使せられなかったことは、正に論旨のいうとおりであるが、しかし原審判示の一切の事実関係を考慮すると、いまだ相手方たる上告人において右解除権がもはや行使せられないものと信頼すべき正当の事由を有し、本件解除権の行使が信義誠実に反するものと認むべき特段の事由があつたとは認めることができない。それ故、原審が本件解除を有効と判断したのは正当であつて、原判決には所論の違法はない。なお、論旨中には憲法二九条違反を主張しているけれども、その実質は、要するに民法上本件解除が許されないという見解に帰着するものであるから、違憲の論旨として採用することはできない。
同第二点について。
原判決が本件につき所論失効の原則適用の主張を排斥した趣旨であることは、原判決理由(ハ)の判文に徴し明らかであるから、原判決には所論のような判断遺脱はない。また、論旨引用の大審院判例は本件に適切でなく、原判決は右判例と相反する判断をしたものではない。
よつて、民訴四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員の一致で、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 島保 裁判官 河村又介 裁判官 小林俊三 裁判官 本村善太郎 裁判官 垂水克己)

(3)抗弁権の永久性

第4節 時効の中断と停止
1.時効の中断
(1)時効中断の意義と根拠
a)時効中断の意義
+(時効の中断事由)
第百四十七条  時効は、次に掲げる事由によって中断する。
一  請求
二  差押え、仮差押え又は仮処分
三  承認

b)時効中断の根拠

(2)中断事由
a)請求
理由
上告人ら代理人三宅仙太郎の上告理由第一点について。
本件記録によれば、上告人らは、本件係争物件は上告人らの所有(共有)に属するとして、所有権(共有権)に基づき被上告人らに対しその所有権移転登記抹消登記手続請求の訴(後に本件係争物件の持分の割合による所有権移転登記、建物退去明渡等請求の訴に変更)を提起し、上告人らの所有権取得の原因として予備的に昭和一三年六月二七日を始期とする取得時効の完成を主張したのに対し、被上告人らは、本件係争物件につき自己の所有権を主張し、これと相容れない上告人らの所有権を否認して上告人らの本訴請求を棄却するとの判決を求める旨の答弁書を提出し、第一審の昭和三三年三月四日第二回準備手続期日においてこれを陳述したことが明らかである。
右の場合において、被上告人らの右答弁書による所有権の主張は、その主張が原審で認められた本件においては、裁判上の請求に準ずるものとして民法一四七条一号の規定により上告人らの主張する二〇年の取得時効を中断する効力を生じたものと解すべきである。けだし、原判決は、本件係争物件につき、上告人らに所有権(共有権)に基づく所有権移転登記請求権がないことを確定しているに止まらず、進んで被上告人らにその所有権(共有権)があることを肯定していると解されるのであるから、時効制度の本旨にかんがみ、被上告人らの前示主張には、時効中断の関係においては、所有権そのものに基づく裁判上の請求に準じ、これと同じ効力を伴うものとするのが相当であるからである。したがつて、取得時効の中断があつたとした原審の判断は正当であつて、原判決に所論の違法はなく、論旨は採用しえない。
同第二点について。
取得時効に関しても消滅時効におけると同様、裁判上の請求が時効中断の効力を生ずるものと解すべきである(大審院昭和一二年(オ)第二四二九号昭和一三年五月一一日判決、民集一七巻一一号九〇一頁、同昭和一五年(オ)第八四五号昭和一六年三月七日判決、判決全集八輯一二号九頁参照)から、これと同趣旨の見解に立つ原審の判断は正当であつて、原判決に所論の違法はなく、論旨は採用しえない。
よつて、民訴法四〇一条、九五条、八九条、九三条一項本文に従い、裁判官全員の一致で、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 横田正俊 裁判官 入江俊郎 裁判官 奥野健一 裁判官 草鹿浅之介 裁判官 長部謹吾 裁判官 城戸芳彦 裁判官 石田和外 裁判官 田中二郎 裁判官 松田二郎 裁判官 岩田誠 裁判官 下村三郎 裁判官 色川幸太郎 裁判官 大隅健一郎 裁判官 松本正雄 裁判官 飯村義美)

・留置権について
+判例(S38.10.30)
理由
上告代理人浅野亨の上告理由について。
民法三〇〇条は「留置権ノ行使ハ債権ノ消滅時効ノ進行ヲ妨ケス」と規定する。その趣旨は、留置権によつて目的物を留置するだけでは、留置権の行使に止り、被担保債権の行使ではないから、被担保債権の消滅時効の中断、停止の効力を生ずるものでないことを規定したものと解するのを相当とする従つて、単に留置物を占有するに止らず、留置権に基づいて被担保債権の債務者に対して目的物の引渡を拒絶するに当り、被担保債権の存在を主張し、これが権利の主張をなす意思が明らかである場合には、留置権行使と別個なものとしての被担保債権行使ありとして民法一四七条一号の時効中断の事由があるものと認めても、前記三〇〇条に反するものとはなし得ない
そして、訴訟において留置権の抗弁を提出する場合には、留置権の発生、存続の要件として被担保債権の存在を主張することが必要であり、裁判所は被担保債権の存否につき審理判断をなし、これを肯定するときは、被担保債権の履行と引換に目的物の引渡をなすべき旨を命ずるのであるから、かかる抗弁中には被担保債権の履行さるべきものであることの権利主張の意思が表示されているものということができる。従つて、被担保債権の債務者を相手方とする訴訟における留置権の抗弁は被担保債権につき消滅時効の中断の効力があるものと解するのが相当である。固より訴訟上の留置権の主張は反訴の提起ではなく、単なる抗弁に過ぎないのであり、訴訟物である目的物の引渡請求権と留置権の原因である被担保債権とは全く別個な権利なのであるから、目的物の引渡を求むる訴訟において、留置権の抗弁を提出し、その理由として被担保債権の存在を主張したからといつて、積極的に被担保債権について訴の提起に準ずる効力があるものということはできない。従つて、原判決が本件の留置権の主張に訴の提起に準ずる時効中断の事由があると判断したことは、法令の解釈を誤つたものといわなければならない。
しかし、訴訟上の留置権の抗弁は、これを撤回しない限り、当該訴訟の係属中継続して目的物の引渡を拒否する効力を有するものであり、従つて、該訴訟が被担保債権の債務者を相手方とするものである場合においては、右抗弁における被担保債権についての権利主張も継続してなされているものいい得べく。時効中断の効力も訴訟係属中存続するものと解すべきである。そして、当該訴訟の終結後六ケ月内に他の強力な中断事由に訴えれば、時効中断の効力は維持されるものと解する。然らば、本件留置権の主張は裁判上の請求としての時効中断の効力は有しないが、訴訟係属中継続して時効中断の効力を有するものであるから、本件につき被担保債権の時効は完成しないとして、留置権の存続を肯定した原判決の判断は、結局これを正当として是認し得るものというべきである。
上告人の上伸書と題する書面記載の上告理由について。
所論は、原審の専権に属する事実認定、証拠の取捨判断に対する非難ないしは原審の認定しない事実を前提として、原判決を攻撃するものであつて、採用できない。
よつて、民訴三九六条、三八四条、九五条、八九条に従い、裁判官山田作之助の意見あるほか、全裁判官一致の意見により主文のとおり判決する。

+意見
裁判官や間だ作之助の意見は次のとおりである。
一、被上告人は、本件において、上告人の係争株券返還の請求に対する抗弁として、該株券について上告人に対して金七万五千円也の立替金債権があることを原因として、留置権を主張し、所謂留置権の抗弁を提出したのである。原審は、この留置権の抗弁につき審理の結果、被上告人主張の金七万五千円也の立替金債権の存在する事を確定し、その結果、主文において「被告(被上告人)は原告(上告人)より金七万五千円の支払を受けるのと引換に原告に対し訴外A名義の訴外株式会社台湾銀行旧株式七百九十四株及び同新株式七百九十四株を引渡せ」とした第一審判決主文をそのまま維持しているのである。
二、被上告人の本件留置権の主張は、訴訟物としての権利の主張でないことは勿論ではあるが、少くとも、訴訟手続において、自己に請求権あることを主張し、右について裁判所の審理判断を求めているものであることはいうまでもない(裁判所は、この抗弁が提出されたるときは、その基本の権利の存否につき審理判断すべき責を負担するのである)。しかも、訴訟における審理判断の過程は、訴訟物となりたるの権利関係についての審理判断をなすと少しも異なるところがないのであるから、かかる抗弁の提出は、訴の提起ありたるに準じて取扱われてしかるべきものと考える。多数意見が、この点につき、単に催告の効力のみを認めていることには、にわかに賛同することは出来ない。
三、被上告人が、本訴において抗弁中主張した、上告人に対する金七万五千円也の立替金債権については、裁判所が審理判断した結果、その存在を認め、判決主文において、その金額を示しているのであるから、その債権関係を確定しているものといわなくてはならない。
四、このように、裁判所の審理判断を経、判決主文でその債権関係が確定明示された債権についての、所謂時効中断の関係を考えてみると、それが訴訟物として争われたる権利関係たると、抗弁として提出された権利関係であるとを問わず、裁判所の審理判断を受け、判決主文において明示されているという点については変ることがないのであるから、いずれも、民法一七四条ノ二に所謂「判決ニ依リテ確定シタル権利」に準ずるものとして取扱うのが相当であると考える。そうして、その権利は同条の規定による判決確定後十年の時効により消滅するものと解すべきである。多数意見が「判決確定後六ケ月以内に更に有効なる時効中断の手続をとるを要する」としているのは、前示民法一七四ノ二の立法理由から考えてみても、また訴訟経済の点からするも、たやすく賛同することが出来ない。
(裁判長裁判官 横田喜三郎 裁判官 河村又介 裁判官 入江俊郎 裁判官 奥野健一 裁判官 石坂修一 裁判官 山田作之助 裁判官 横田正俊 裁判官 斎藤朔郎 裁判官 草鹿浅之介 裁判官 長部謹吾 裁判官五鬼上堅磐は海外出張のため署名押印することができない。裁判長裁判官 横田喜三郎)

・一部請求と中断
+判例(S34.2.20)
理由
上告代理人鈴木於用の上告理由並びに民訴第一九八条第二項の裁判を求める申立の趣旨及び理由は、いずれも本判決末尾添付の別紙(一)(二)(三)記載のとおりである。
右上告理由第一点について。
裁判上の請求による時効の中断が、請求のあつた範囲においてのみその効力を生ずべきことは、裁判外の請求による場合と何等異るところはない。そして、裁判上の請求があつたというためには、単にその権利が訴訟において主張されたというだけでは足りず、いわゆる訴訟物となつたことを要するものであつて、民法一四九条、同一五七条二項、民訴二三五条等の諸規定はすべてこのことを前提としていものと解すべきである。
ところで、一個の債権の数量的な一部についてのみ判決を求める旨を明示して訴が提起された場合、原告が裁判所に対し主文において判断すべきことを求めているのは債権の一部の存否であつて全部の存否でないことが明らかであるから、訴訟物となるのは右債権の一部であつて全部ではない
それ故、債権の一部についてのみ判決を求める旨明示した訴の提起があつた場合、訴提起による消滅時効中断の効力は、その一部の範囲においてのみ生じ、その後時効完成前残部につき請求を拡張すれば、残部についての時効は、拡張の書面を裁判所に提出したとき中断するものと解すべきである。(民訴二三五条参照)若し、これに反し、かかる場合訴提起と共に債権全部につき時効の中断を生ずるとの見解をとるときは、訴提起当時原告自身裁判上請求しない旨明示している残部についてまで訴提起当時時効が中断したと認めることになるのであつて、このような不合理な結果は到底是認し得ない。
これを本件について見るに、本訴が本件不法行為により各自の蒙つた損害の全額を明らかにした上そのうち一割に相当する各金額についてのみ権利を行使する旨明示して提起されたものであることは原判示のとおりであるから、右訴の提起による消滅時効中断の効力は右当初訴求の金額の範囲に限つて生ずべく、その後請求の拡張により訴訟物となつた残額には及ばないものと解すべきところ、原判決がこれを右残額に及ぶものと解し、この理由をもつて右残額に関する上告人の時効の抗弁をたやすく排斥し去つたのは、法令の解釈を誤り審理不尽の違法に陥つたものであつて、論旨は理由がある。
されば、原判決中請求拡張にかかる残額につき被上告人らの請求を認容した部分を破棄し、なお時効完成の有無につき更に審理を遂げさせるためこれを原審に差戻すべきものとする。
右上告理由第二点ないし第五点について。
論旨は、すべて原審が適法にした証拠の取捨判断、事実の認定を非難するに帰し、上告適法の理由とならない。
されば、原判決中前記破棄すべき部分を除くその余については本件上告を棄却すべきものとする。
民訴第一九八条第二項の裁判を求める申立について。
上告人が右申立の理由として主張する事実関係は、被上告人らの争わないところである。そして、本件原判決の一部が破棄を免れないこと前説示の如くなる以上、原判決に付せられた仮執行宣言がその限度で効力を失うべきこと勿論である。
されば、右仮執行宣言に基き給付した金員を仮執行宣言失効の限度において返還を求めると共にこれに対する給付の翌日から返還済まで民事法定利率たる年五分の割合による損害金の支払を求める上告人の申立は、これを正当として認容しなければならない。
よつて、民訴四〇七条、三九六条、三八四条、一九八条二項、九五条、八九条、九三条一項本文に従い、主文のとおり判決する。
この判決は、藤田裁判官の少数意見を除き、全裁判官一致の意見である。

+少数意見
藤田裁判官の少数意見は次のとおりである。
被上告人等(その前主を含む以下同じ)は、本件訴提起の当初にあたつて、その訴状に、上告人の不法行為を原因とする本件損害賠償債権を特定し、該不法行為に因つて被上告人各自の蒙つた損害の全額を明らかにした上、本訴において、その一割に相当する金額の支払を請求したのであるが、後、本訴の第一審に係属中に右請求の趣旨を拡張して原料決摘記の金額の支払を請求するに至つたことは、本件記録上明白である。
多数意見は、本訴のごとき一部請求の場合に、残部については訴の提起による時効中断の効力を認めず従つて右請求の趣旨拡張にかかる部分は右拡張申立の当時、既に消滅時効にかかつていたものであるとの見解の下に、上告人の時効の抗弁を排斥した原判決を破棄したのである。
しかし、自分は本件におけるがごとく、訴状に損害賠償債権の全部について、その請求の原因、並びに損害額の全額を明示し、ただ、本訴においてその一割に相当する金額の支払を請求する旨の訴を提起した場合には、この訴の提起によつて、該債権の全額について消滅時効中断の効力を生ずるものと解する。
多数意見は「一個の債権の数量的な一部についてのみ判決を求める旨を明示して訴が提起された場合、原告が裁判所に対し主文において判断すべきことを求めているのは債権の一部の存否であつて全部の存否でないことが明らかであるから、訴訟物となるのは右債権の一部であつて全部ではない。それ故、債権の一部についてのみ判決を求める旨明示した訴提起による消滅時効中断の効力はその一部の範囲においてのみ生じ」、残部については訴の提起による時効中断の効力は認められないとするのである。請求の一部訴求の場合、その一部についてのみ訴訟法上、訴訟係属の効力を生じ残部について訴訟係属の効力の生じないこと、その残部は、その訴訟において、訴訟物となつていないことは多数意見の説くとおりである。
が、訴訟法上訴訟係属の効果が生ずるということと民法の規定する消滅時効中断の効力との間に、しかく必然的な関係があるものであろうか。
わが民法は、時効中断の事由としては「請求」、「裁判上ノ請求」と規定していて、独乙民法のごとく訴の提起とは規定していないのである。独民法は、権利者が請求権の履行を求める訴又は確認の訴を提起したときに消滅時効は中断する旨を規定している、(独民法二〇九条)そして独民訴は独民法が訴の提起に附着する効力は訴の提起のあつたときから始まる旨(二六七条)訴の提起は訴状の送達をもつてする旨(二五三条)を規定し、訴の提起によつて訴訟事件の権利拘束を生ずと規定しているから、(二六三条)独乙法では訴の提起による時効中断と訴訟事件の権利拘束―訴訟係属―とは切つても切れない関係を生ずるのである。であるから、一部訴訟では、他の部分については権利拘束―訴訟係属―の関係を生じないのであるから、その部分については時効中断の効力を生じないとすることも当然の結論である。
また、独乙法では、時効の規定の本源をなす民法の規定自体に中断の事由として、請求権の履行を求める訴(給付訴訟)又はその確認の訴を提起したときと規定しているのであるから、中断の効力を生ずるのはその訴訟において判決を求める対象となつている請求の部分に限るのであつて、その訴訟において判決の対象となつていない請求の一部のごときは問題とならない、後に請求の拡張によつてその部分が判決の対象となつたときは、その部分につき権利拘束を生じたときから中断の効力を生ずるということは当然である。又確認の訴についても、積極的に権利の存在の確認を求める訴に限るのであつて、不存在確認訴訟における被告としての主張のごときは、中断の効力はないとせられるのである。
これと異つてわが民法では、時効中断の事由としては「裁判上の請求」という解釈上きわめてゆとりのある言葉を使つているのみならず、裁判外の請求にすら一定の条件の下に時効中断の効力をみとめているのであつて、(独乙民法においてはかかる中断事由を認めていない)かかる法制の下においては独乙法のように、厳格な意義における訴訟係属なる観念にこだわる要はないのであつて、民法が時効中断の制度を設けた本来の趣旨に従つてその実質的な理由にもとづいて「裁判上ノ請求」の意義を究明すれば足るのである。
翻つて、従来のわが大審院判例の趨勢を見るに、大審院が、「請求ニ因ル時効ノ中断ハ裁判上ノ請求タルト裁判外ノ請求タルトヲ問ハス其ノ請求アリタル範囲ニ於テノミ時効ノ中断ヲ来スモノナルヲ以テ一部ノ請求ハ残部ノ請求ニ対スル時効中断ノ効カヲ生スルコトナシ従テ債権者カ裁判上一部ノ請求ヲ為シタル後其ノ訴ノ申立ヲ拡張シテ残部ノ請求ヲ為シタル場合ニ於テモ其ノ申立拡張ノ時ニ始メテ残部ノ請求ニ対シテ時効中断ノ効カヲ生スルモノト解セサルヘカラス」(昭和四年(オ)第一一六号同年三月一九日民事第二部判決)としていることは上告論旨指摘のとおりである。
しかしながら、大審院にもこれと反対の判例もある。船舶の沈没の為め生じた損害について、船舶沈没当時の価格を基礎とする積極的損害賠償の請求の訴は、之によりまだ、訴の目的となつていない船舶価格騰貴に因る利益喪失及び船舶使用不能に因る利益喪失の各消極的損害賠償債権の消滅時効をも中断するとするものである。(大正一〇年(オ)六九八号同一一年七月一〇日民事第二部判決)右のように、この問題に関する大審院の判例は、必ずしも一貫していないといわなければならない。
さらに、確認訴訟の提起による時効中断の問題についても、大審院は、「債務者ヨリ提起セラレタル債権不存在確認ノ訴ニ於テ被告トシテ債権ノ存在ヲ主張スルカ如キハ単ニ防禦ヲ為スニ止マリ権利者自ラ権利ヲ行使スル行動タラサルヲ以テ時効中断ノ効力アルモノニアラス」との判例を持続して来たのであつたが、(大正一一年(オ)二四号同年四月一四日民事第一部判決、昭和六年(オ)四七八号同年一二月一九日民事第三部判決)昭和一四年に至り民事聯合部の判決をもつてこれを変改し「相手方カ自己ノ権利ノ存在ヲ争ヒ消極的債務不存在ノ確認訴訟ヲ提起シタル場合ニ於テ之ニ対シ被告トシテ自己ノ権利ノ存在ヲ主張シ原告ノ請求棄却ノ判決ヲ求ムルコトハ之ヲ裁判上ノ権利行使ノ一態様ト做スニ何等ノ妨ケナク」として「被告カ請求棄却ノ判決ヲ求ムル答弁書又ハ準備書面ヲ裁判所ニ提出シタル時ヲ以テ又若シ斯ル書面ヲ提出セサル場合ニハ口頭弁論ニ於テ同様ノ主張ヲ為シタル時ヲ以テ債権ノ消滅時効ハ中断スルモノト解スルヲ妥当ト断セサルヲ得ス」と判示している。(昭和一二年(オ)一五五三号同一四年三月二二日民事聯合部中間判決)そしてこの判決においては訴訟において被告として自己の権利の存在を主張することも、民法の「裁判上ノ請求ニ準スヘキ」ものとしているのであつて、時効中断の事由として訴の提起なる観念にとらわれていないことを注目すべきである。
なお、大審院の判例に保険契約関係の存在確認の訴は、その後に生じた保険事故に基く保険金請求権の時効を中断するとするものがある。(昭和四年(オ)一九五六号同五年六月二七日民事第二部判決)かかる保険金請求権は当該訴訟の目的となつていない従つて訴訟係属の関係を生じないことは勿論であるけれども、その基本的法律関係である保険契約について存在確認の訴の提起があればかかる訴はまた保険金請求権の「裁判上ノ請求」に包含せられるものと解するを妥当とするというのである。ここに至つては大審院も請求権の消滅時効中断の事由としての「裁判上ノ請求」は、その請求権の訴訟係属と必然の関係あるものとはみていないのである。
かくして、旧来の大審院もその態度は必ずしも一貫していない憾はあるけれども民法の「裁判上ノ請求」とは必ずしも、訴の提起たるを要せず、訴訟においてその権利の存在を主張するをもつて足る場合もあるものとし、又必ずしもその請求権の訴訟係属と必然的な関係に在るものと見ていないことが理解されるのである。
そもそも請求をもつて請求権の消滅時効中断の事申とした所以のものは、前示大審院聯合部判決もいうごとく「蓋シ消滅時効ノ中断ハ法律カ権利ノ上ニ眠レル者ノ保護ヲ拒否シテ社会ノ永続セル状態ヲ安定ナラシムルコトヲ一事由トスル時効制度ニ対シ其ノ権利ノ上ニ眠レル者ニ非サル所以ヲ表明シテ該時効ノ効カヲ遮断セントスルモノ」であつて、民法が単なる請求をもつて確定的に中断の効力あるものとせず、更に「裁判上ノ請求」に因ることを要するものとした所以は、訴訟という確定の形式をもつて、確実に権利の存在主張することを必要としたのにとどまるのであつて、必ずしも権利拘束乃至訴訟係属というまでの訴訟法上の効果を要求するものと解する必要はないのである。権利の上に眠らずとするにはさまでの訴訟法上の効果を必要としないからである。
殊に本件のごとき当初から特定の損害賠償債権そのものは訴訟物とされ、その請求の一部につき判決が訴求されている状態であつて、権利者は訴訟の係属中は、なんどきでも、請求の拡張という方法によつて残部の請求全部につき容易に判決を求めることができる状態におかれているのである。(請求の潜在的訴訟係属)これをしも民法の「裁判上ノ請求」若しくは前記大審院聯合部判決のいわゆる「裁判上ノ請求ニ準スヘキモノ」と看做すことは民法時効中断の制度の趣旨に何の背反するところもないのではないか。
また、現に損害賠償債権の存否そのものが訴訟において争われ、その請求の一部が訴訟係属している以上、残部の請求についても、後に確実な証拠による証明の困難を避けんとする時効制度存在の一理由もその事由の大半を失うこととなりこの点からしても時効中断の合理的な事由となり得るものと解してあやまりないであろう。(さらに、給付訴訟は、必然的に権利の存在確認の請求をその前提として包含するものと云われる。この見地に立てば本訴のごとき一部請求の給付訴訟においても基本たる損害賠償債権の存在確認の趣旨はこれに包含されているのであつて、基本たる保険契約存在確認の訴訟は、その契約から派生する保険金支払請求権の時効を中断するという前掲大審院判例の趣旨を是認するならば、本件給付訴訟に包含される損害賠償債権存在確認の訴旨は、まだ訴訟係属を生じていない残部の請求をも含めて損害全額の請求権について時効中断の効力を生ずるものと解することもできるであろう。)いずれにしても、同一債権が訴訟物とされてその存否が訴訟上争われ、その訴訟が現に進行中であるにかかわらず、その一部が時効によつて消滅するという考え方のごときは著しく吾人の常識に反するというべきではなかろうか。右大審院判例も「一方ニ於テ権利関係ノ存否カ訴訟上争ハレツツアル間ニ他ノ一方ニ於テ該権利カ時効ニ因リ消滅スルコトアルヲ是認セントスルカ如キ結果ヲ招来スヘキ解釈ヲ採用スルコトハ条理ニモ合致セサルモノト謂フヘケレハナリ」といつているのであるがこの論法は、またもつて本件の場合にも妥当するのではなかろうか。
論者、或は、民訴二三五条の規定をもつて、以上のごとき解釈の妨げとなるものとする。しかし、同条は訴の提起による時効中断の効力は、訴の提起、即ち訴状を裁判所に提出したときに効力を生ずるのであつて、訴状が相手方に送達されたとき(独民訴はかく解する)でもなければ、口頭弁論において訴状に基き陳述がなされたときでもないとして時効中断の効力を生ずべき時点を明らかにしたにすぎない。わが旧民訴においては「訴訟物ノ権利拘束ハ訴状ノ送達ニ因リテ生ス」(一九五条一項)という規定があつたにかかわらず、当時から、時効中断の効力は訴状を裁判所に差出すことによつて生ずるものとされていた。(ここにも、訴訟係属と時効中断とは必ずしも、必然の関係に立つものでないとする考え方があらわれている)民訴二三五条はこの旧民訴の考え方を踏襲してこれを明文化したものである。従つて同条後段の「二三二条二項の規定により書面を裁判所に提出したときに時効中断の効力を生ずる旨」の規定も、二三二条二項の規定により書面を提出して新訴を提起する場合にも訴提起の例にならいその書面を裁判所に提出した時をもつて時効中断の効力発生の時点とするということをあきらかにしたまでのものであつて、二三二条二項により書面を提出するすべての場合につきその時効中断の効力は書面提出の時に生ずるとの趣旨を規定したものと解すべきでない。例えば損害の額につき鑑定の結果、後に至つて賠償請求額を増額する場合にも、その増額の請求は必ず、二三二条の書面を裁判所に提出して為すべきであるが、この場合においても時効中断の効力はその全額につき当初の訴提起のときに生ずると解すべきことについてはおそらく異論を見ないであろう。(時効中断と権利拘束との関係について厳格な規定を有する独乙法においてすら、貨幣価値の変動による請求額の増加の場合は当初訴提起のときよりその全額につき時効中断の効ありとすること判例学説の一致するところのようである。)民訴二三五条の趣旨を以上のごとく解する以上、本件のごとき場合、二三二条により書面を提出して請求の趣旨を拡張するときと雖も、時効中断の効力はその全額について訴提起のときに生ずると解しても、何ら二三五条の規定に牴触するところはないのである。
以上自分は民法が消滅時効中断を認めた制度の趣旨から理解して、本件のごとき場合において、時効中断の効力は、後に請求の趣旨拡張によつて拡張された請求の部分についても訴提起のときに生ずる、そして、右中断の効力は訴訟の係属中は持続するのであるから、本件のごとく、訴提起の時から請求の趣旨拡張までの間に時効期間を経過した事実があるとしても、これによつて消滅時効が完成したと解すべきものでないと思料するのである。
(裁判長裁判官 小谷勝重 裁判官 藤田八郎 裁判官 河村大助 裁判官 奥野健一)

+判例(S45.7.24)
理由
上告代理人佐野正秋、同香川文雄の上告理由一、二について。
上告人Aによる加害自動車の運転状況と被害者たる被上告人の行動および現場の交通事情等、本件事故発生当時における事実関係について原審(第一審判決引用部分を含む。以下同じ。)の認定するところは、挙示の証拠関係に照らし、首肯することができ、右事実関係によるときは、本件事故は同上告人が自動車運転者としての注意義務を守らなかつた過失に基因するものというべく、被上告人にも歩行者としての注意義務違反があるにせよ、いわゆる信頼の原則を適用して同上告人に過失の責がないということはできないとした原審の判断は、正当であつて、右認定判断に関し、原判決に、所論のような理由不備、審理不尽等の違法は認められない。論旨は、その実質において、原審の専権に属する証拠の取捨判断、事実の認定を非難するものか、その認定にそわない事実を前提として原判決の違法をいうものにすぎず、採用することができない。
同三について。
被上告人が本件事故による負傷のためたばこ小売業を廃業するのやむなきに至り、右営業上得べかりし利益を喪失したことによつて被つた損害額を算定するにあたつて、営業収益に対して課せられるべき所得税その他の租税額を控除すべきではないとした原審の判断は正当であり、税法上損害賠償金が非課税所得とされているからといつて、損害額の算定にあたり租税額を控除すべきものと解するのは相当でない。したがつて、原判決に所論の違法はなく、論旨は採用することができない。
同四について。
一個の債権の一部についてのみ判決を求める趣旨を明らかにして訴を提起した場合、訴提起による消滅時効中断の効力は、その一部についてのみ生じ、残部には及ばないが、右趣旨が明示されていないときは、請求額を訴訟物たる債権の全部として訴求したものと解すべくこの場合には、訴の提起により、右債権の同一性の範囲内において、その全部につき時効中断の効力を生ずるものと解するのが相当である。これを本件訴状の記載について見るに、被上告人の本訴損害賠償請求をもつて、本件事故によつて被つた損害のうちの一部についてのみ判決を求める趣旨であることを明示したものとはなしがたいから、所論の治療費金五万〇一九八円の支出額相当分は、当初の請求にかかる損害額算定根拠とされた治療費中には包含されておらず、昭和四一年一〇月五日の第一審口頭弁論期日においてされた請求の拡張によつてはじめて具体的に損害額算定の根拠とされたものであるとはいえ、本訴提起による時効中断の効力は、右損害部分をも含めて生じているものというべきである。
したがつて、これと同旨の見解に立つて、上告人らの時効の抗弁を排斥すべきものとした原審の判断は正当であつて、原判決に所論の違法はなく、論旨は採用することができない。
よつて、民訴法四〇一条、九五条、八九条、九三条に従い、裁判官全員の一致で、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 草鹿浅之介 裁判官 城戸芳彦 裁判官 色川幸太郎 裁判官 村上朝一)

・支払督促
+(支払督促)
第百五十条  支払督促は、債権者が民事訴訟法第三百九十二条 に規定する期間内に仮執行の宣言の申立てをしないことによりその効力を失うときは、時効の中断の効力を生じない。

・和解、調停
+(和解及び調停の申立て)
第百五十一条  和解の申立て又は民事調停法 (昭和二十六年法律第二百二十二号)若しくは家事事件手続法 (平成二十三年法律第五十二号)による調停の申立ては、相手方が出頭せず、又は和解若しくは調停が調わないときは、一箇月以内に訴えを提起しなければ、時効の中断の効力を生じない。

・催告
=裁判外で債務者に対して履行を請求する債権者の意思の通知
+(催告)
第百五十三条  催告は、六箇月以内に、裁判上の請求、支払督促の申立て、和解の申立て、民事調停法 若しくは家事事件手続法 による調停の申立て、破産手続参加、再生手続参加、更生手続参加、差押え、仮差押え又は仮処分をしなければ、時効の中断の効力を生じない。

+判例(S45.9.10)
理由
上告人らの上告理由について。
原審の適法に確定したところによると、本訴請求にかかる貸金債権については、その消滅時効期間の経過前に、被上告人の先代Aが、外六名と共同で上告人両名を被申立人として破産の申立をし、その審理手続上、破産原因の存在を明らかにするため、右債権の元利金の明細を記載した計算書およびその立証方法たる約束手形等を提出して、上告人らに対し権利行使の意思を表示したが、右吉助の相続人たる被上告人およびその余の選定者において、本訴を提起したのち、右破産の申立を取り下げたというのであり、右認定は、原判決挙示の証拠関係に照らし首肯することができる。
右のような事実関係のもとにおいては、被上告人の先代が破産手続上においてした右権利行使の意思の表示は、破産の申立が申立の適法要件として申述された債権につき消滅時効の中断事由となるのと同様に、一種の裁判上の請求として、当該権利の消滅時効の進行を中断する効力を有するものというべきであり、かつ、破産の申立がのちに取り下げられた場合でも、破産手続上権利行使の意思が表示されていたことにより継続してなされていたものと見るべき催告としての効力は消滅せず、取下後六ケ月内に他の強力な中断事由に訴えることにより、消滅時効を確定的に中断することができるものと解するのを相当とする。それゆえ、破産申立の取下前にされた本訴の提起をもつて、時効完成前にされたものと認めた原審の判断は結局正当であり、論旨は、これと異なる独自の見解に立つて原判決の違法をいうものにすぎず、採用することができない。
よつて、民訴法四〇一条、九五条、八九条、九三条に従い、裁判官全員の一致で、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 長部謹吾 裁判官 入江俊郎 裁判官 岩田誠 裁判官 大隅健一郎)

b)差押え、仮差押え、仮処分
+判例(H10.11.24)
理由
上告代理人浜田次雄の上告理由について
一 本件は、被上告人の上告人に対する貸金債務が時効により消滅したことを理由として、被上告人がその不存在確認を求める事件である。原審の確定した事実関係は、次のとおりである。
1 上告人の亡夫Aは、被上告人に対し、昭和四八年一月一〇日から同年六月五日までの間、五回にわたり、合計二七五〇万円を貸し渡した(弁済期は、内金一〇〇〇万円につき昭和五〇年四月末日、内金一七五〇万円につき昭和五一年四月末日)。
2 Aは、昭和五一年一一月二二日、右金銭消費貸借契約に基づく債権(以下「本件貸金債権」という。)の内金一〇〇〇万円を被保全債権として、被上告人所有の原判決別紙物件目録記載(一)ないし(五)の各不動産に対する仮差押命令(以下「本件仮差押え」という。)を得て、同月二五日、仮差押えの登記を了した
3 Aは、昭和五四年、被上告人に対し、本件貸金債権について支払を求める本案訴訟を提起し(京都地方裁判所昭和五四年(ク)第五九二号貸金請求事件)、昭和五五年三月一八日、Aの請求どおり、二七五〇万円及び内金一〇〇〇万円に対する昭和五〇年五月一日から、内金一七五〇万円に対する昭和五一年五月一日から、各支払済みまで年三割の割合による遅延損害金の支払を命ずる判決(以下「本件判決」という。)が言い渡され、同年四月三日ころ、本件判決は確定した。
4 原判決別紙物件目録記載(一)及び(二)の各不動産について、昭和五五年一〇月、Aの申立てにより、本件判決を債務名義として、強制競売手続が開始され、その後、昭和五七年一〇月一四日ころ、Aが配当を受けたことによって右手続は終了した。
5 原判決別紙物件目録記載(三)ないし(五)の各不動産については、仮差押えの登記が存しており、本件仮差押命令の執行保全の効力が、仮差押命令の取消し、申請の取下げ等によって消滅した事実はない。
6 Aは、平成五年九月三〇日に死亡し、相続により上告人が本件貸金債権を承継した。
7 被上告人は、平成六年一月一一日、本件訴訟を提起し、本件貸金債権につき、消滅時効を援用した。

二 原審は、右事実関係の下において、次のとおり判示して、本件仮差押えの被保全債権につき、消滅時効の完成を肯定して、被上告人の債務不存在確認請求を認容すべきものとした。
1 時効中断事由としての不動産仮差押えの手続は、仮差押えの登記と仮差押命令の債務者への送達とが終わった時に終了し、その時から新たな時効が進行を開始するというべきであり、仮に、そうでないとしても、仮差押え後、被保全債権について本案の勝訴判決が確定した場合には、仮差押えによる時効中断の効力は、確定判決の時効中断の効力に吸収され、判決確定後一〇年の時効期間の経過により右債権は消滅すると解すべきである。
2 本件貸金債権については、本件仮差押えの登記及びその直後に終了したと推認される仮差押命令の被上告人への送達により、いったん中断された時効が進行を開始し、本案訴訟提起により再び時効が中断されて(そうでないとしても、その時まで本件仮差押えによる時効中断の効力が存続した後)、昭和五五年四月三日ころ、本件判決の確定により時効が進行を開始し、その後、同年一〇月、原判決別紙物件目録記載(一)及び(二)の各不動産に対する差押えによって時効が中断し、昭和五七年一〇月一四日ころ、右執行手続が終了した後、新たに時効が進行を開始し、その後一〇年を経過することにより、時効が完成した。

三 しかしながら、原審の右判断は是認することができない。その理由は、次のとおりである。
1 仮差押えによる時効中断の効力は、仮差押えの執行保全の効力が存続する間は継続すると解するのが相当である(最高裁昭和五八年(オ)第八二四号同五九年三月九日第二小法廷判決・裁判集民事一四一号二八七頁、最高裁平成二年(オ)第一二一一号同六年六月二一日第三小法廷判決・民集四八巻四号一一〇一頁参照)。けだし、民法一四七条が仮差押えを時効中断事由としているのは、それにより債権者が、権利の行使をしたといえるからであるところ、仮差押えの執行保全の効力が存続する間は仮差押債権者による権利の行使が継続するものと解すべきだからであり、このように解したとしても、債務者は、本案の起訴命令や事情変更による仮差押命令の取消しを求めることができるのであっで、債務者にとって酷な結果になるともいえないからである。
また、民法一四七条が、仮差押えと裁判上の請求を別個の時効中断事由と規定しているところからすれば、仮差押えの被保全債権につき本案の勝訴判決が確定したとしても、仮差押えによる時効中断の効力がこれに吸収されて消滅するものとは解し得ない
2 これを本件についてみると、前記の事実関係によれば、原判決別紙物件目録記載(三)ないし(五)の各不動産については、本件仮差押えの執行保全の効力が現在まで存続しているのであるから、本件仮差押えの被保全債権について時効は中断しているものといわなければならない。したがって、以上と異なり、右債権について消滅時効の完成を肯定した原判決の判断には、法令の解釈適用を誤った違法があり、その違法は原判決の結論に影響を及ぼすことが明らかである。論旨は理由があり、原判決は破棄を免れない。そして、本件仮差押えの被保全債権の残存額について、更に審理を尽くさせるため、本件を原審に差し戻すこととする。
よって、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 千種秀夫 裁判官 園部逸夫 裁判官 尾崎行信 裁判官 元原利文 裁判官 金谷利廣)

++解説
《解  説》
一 本件は、仮差押えによる時効中断の効力の継続に関して、学説及び下級審判決において対立のあった論点について、最高裁の見解を明らかにした判例である。
二 Yの夫であるAは、Xに対して貸金債権を有していたが、内金一〇〇〇万円を被保全債権として、Xの所有する(一)から(五)の物件につき仮差押えをした。その後、AはXに対して貸金請求訴訟を提起して勝訴判決を受け、判決は確定した。そこで、Aは、仮差押えをした不動産の一部である(一)及び(二)の物件について強制競売を申し立て、右手続において配当を受けた。(三)ないし(五)の物件については強制競売の申立てはされず、仮差押えがされたままであった(Aが右各物件について強制競売の申立てをしなかったのは、右物件には抵当権が設定されているなどの事情があったためのようである。)。右配当から約一一年を経過した後に、Xが、貸金債権は一〇年の経過により時効によって消滅したとして、Aの相続人であるYを相手に債務不存在の確認を求めたのが本件訴訟である。これに対して、Yは、貸金債権のうち仮差押えの被保全債権である一〇〇〇万円については、仮差押えによって時効が中断していると主張した。
原判決は、(1)時効中断事由としての不動産仮差押えの手続は、仮差押えの登記と仮差押命令の債務者への送達が終わったときに終了し、その時から新たな時効が進行を開始する、(2)そうでないとしても、仮差押えの後、本案の勝訴判決が確定した場合には、仮差押えの時効中断の効力は、確定判決の時効中断の効力に吸収されると述べ、本件の場合は、(一)及び(二)の物件に対する執行手続が終了したとき(すなわち配当時)から一〇年が経過したので、消滅時効が完成したと判断し、Xの請求を認容した。Yが上告。
三 本判決は、(1)仮差押えの時効中断の効力は、仮差押えの執行保全の効力が存続する間は継続する、(2)仮差押えの被保全債権につき本案の勝訴判決が確定したとしても、仮差押えによる時効中断の効力がこれに吸収されて消滅すると解することはできないと判示し、本件の場合、仮差押えによる時効中断は継続しているとして原判決を破棄し、仮差押えの被保全債権の残存額を明らかにさせるために(原判決は、Aに対する前記配当額を認定していなかった。)、本件を原審に差し戻したものである。
四 民法一四七条二号は仮差押えを時効の中断事由とし、同一五七条一項は「中断ノ事由ノ終了シタル時」から新たな時効が進行すると規定する。仮差押えが「終了シタル時」とは、「仮差押えの手続終了の時」と解するのが通説であるが、それがいつなのかが問題である。
基本的には次の二つの説が対立している。(一) 仮差押えの執行保全の効力が存続する限り時効中断が継続するとの説(継続説と呼ぶ。継続説の内部でも仮差押えの効力の終期をいつと解するかによって見解の相違がある。)と(2) 仮差押えの執行行為が終了したとき(不動産仮差押えについては、仮差押登記のとき。民事保全法四七条一項)に中断事由が終了するとの説(非継続説と呼ぶ。)である。
継続説は、(a)仮差押えの効力が存続する以上、債権者の権利行使は継続している、(b)(継続説に立った場合時効中断の効力がいつまでも存続することになるから不当であるとの批判に応えて)債権者が仮差押執行後に本案訴訟を提起せず放置している場合、債務者は起訴命令の申立てができ、債権者が右命令に従わなければ仮差押命令が取り消される(同法三七条)のであるし、債権者が債務名義を取得したにもかかわらず強制執行に着手しない場合は、債務者は、保全の必要性が失われたことを理由に、事情変更による仮差押命令の取消しを求めることができる(同法三八条)、債権者が仮差押えを通じて権利行使をしているのに、債務者が右の対抗手段を執らない場合には時効中断の効力を継続しても不当とはいえないことなどを理由とする(なお、右各事由により仮差押命令が取り消された場合、民法一五四条により時効中断の効力は生じなかったことになると解される。)。一方、非継続説は、(a)時効中断の終期を執行保全の効力の終期と同一に解する必要はない、(b)仮差押えは暫定的な手続にすぎないのに、時効中断の効力がいつまでも終了しないことになるのは、確定判決を得た場合でさえ一〇年で消滅時効が完成する(民法一七四条ノ二)ことと対比して強力にすぎ、不当であることなどを理由とするが、(b)をもって理由の中核とする。
大審院及び最高裁判例は、次のとおり一貫して継続説を採っている。①大判明37・12・16民録一〇輯一六三二頁(仮差押執行が本執行に移転したときは、仮差押えの時効中断の効力はその時点で本執行の中断の効力に引き継がれる)、②大判昭3・7・21民集七巻五六九頁(仮差押債権者が債務名義を取得したとしても、仮差押えが存続する限り仮差押えによる時効中断の効力は存続する)、③大判昭8・10・28新聞三六六四号七頁(仮差押えの執行継続中は時効の進行は開始しない)、④最二小判昭59・3・9裁判集民一四一号二八七頁、本誌五二五号九八頁(仮差押後、不動産が第三者に譲渡され、新所有者に対する債権者が申し立てた強制競売の結果、仮差押登記が抹消された場合、右抹消時まで時効中断の効力が続く)、⑤最三小判平6・6・21民集四八巻四号一一〇一頁、本誌八六五号一三一頁(仮差押解放金の供託により仮差押えの執行が取り消された場合においても、仮差押えの執行保全の効力は供託金取戻請求権の上に存続するから、仮差押えによる時効中断の効力は継続する)。④、⑤の最高裁判決は、仮差押えの執行行為が終了しても、時効中断の効力が終了しないことを当然の前提としたものである(滝澤泉・平6最判解説四二七頁)。
下級審判決も、継続説が多数であり、⑥東京高判昭48・5・31金法七〇二号三頁、⑦東京高判昭56・5・28本誌四五〇号九九頁、⑧東京高判平6・3・30判時一四九八号八三頁、⑨東京高判平6・4・28本誌八七五号一三六頁、判時一四九八号八六頁、⑩東京高判平9・10・29金商一〇三三号二七頁がある。これに対して、非継続説をとる下級審判決として、⑪東京高判平4・10・28判時一四四一号七九頁(上告取下げにより確定)、⑫東京地裁平5・11・17金法一三八八号三九頁(⑧判決により破棄された。)、⑬京都地判平6・1・13判時一五三五号一二四頁(確定)、⑭大阪高判平7・2・28(金法一四一九号三七頁・本件の原判決)がある。
学説においても、継続説が通説の地位を占めていた(民法学説では、川島武宜・民法総則四九九頁、川井健・注釈民法(5)一一七頁、岡本坦・注釈民法(5)一三六頁(改説前)、石田穣・民法総則五八九頁、篠原弘志・手研四七五号一二八頁など。明言はしないが我妻榮・新訂民法総則四六八頁も継続説を前提としていると解される。手続法学説では、吉川大二郎・保全処分の研究一〇八頁、同・増補保全訴訟の基本問題二四九頁、山内敏彦「保全執行の終了」保全処分の体系上巻四四一頁など)。
ところが、最二小昭59年判決(④判決)の評釈として、非継続説を採る松久三四彦・判評三〇九号三三頁が現れ、ついで戸根住夫「仮差押、仮処分による時効中断」姫路法学二号一六七頁が続き、平成4年に至って⑪判決が詳細な理由付けをもって非継続説に立つことを明らかにしたところ、学説はこれを好意的に迎え、非継続説が有力になった(⑪判決の評釈として、岡本坦・手研四八九号四頁、金山直樹・判評四一四号四一頁、山本克己・金法一三九六号三三頁、松久三四彦・金法一三九八号三六頁、上野隆司・金法一三五四号四頁)。そして、前記⑫、⑬の地裁判決がこれに追随したのであるが、平成6年に、東京高裁の二つの部において、継続説に立つ旨の詳細な説示をした⑧、⑨の判決が示され(⑫は⑧に破棄された。)、さらに最高裁が継続説を前提とした⑤判決を示すに及んで、実務的には継続説で落ち着くかに見えたところへ、本件の原判決(⑭判決)が示されたのである。右以外に非継続説に立つか、これに好意的な論文として、野村秀敏「仮差押えによる時効中断の時期(一)~(四)」判時一五六六号、一五六八号、一五六九号、一五七一号(判例、学説等を網羅的に研究した論文)、金山直樹・本誌八八二号三三頁、同・リマークス一九九五年度〈上〉一四頁、栗田隆・判評四四一号六四頁、松岡久和・金法一四二八号二五頁、中田裕康・平6重判解六三頁などがある。これに対し、継続説に立つものとして、石川明「仮差押解放金の供託による仮差押えの執行の取消しと時効中断の効力」法研六八巻九号一四五頁(非継続説に対する詳細な反論を行った論文)、秦光昭・NBL五六九号六八頁がある。一方、弁護士などの実務家には、非継続説では従前より継続説で運用してきた債権管理の実務に混乱を招くことなどから、継続説を支持する見解が強い(中務嗣治郎・金法一三八八号一頁、北秀昭・銀法21五三二号三六頁、佐伯一郎・銀法21五三四号四頁など)。
本件判決の判示事項一は、先例に従った判断ではあるが、以上のような学説や下級審判決の状況にかんがみて、判示の理由を付して継続説に立つ判例の立場を確認したものである。
なお、東京高裁の⑧、⑩判決は、継続説に立ちつつ、「権利の上に眠っていることの具体的事実」や「客観的に見て権利行使の意思を撤回し若しくは権利行使を断念ないし放棄したものと推認することを相当とする特段の事情」がある場合には、例外的に時効中断の効力が消滅する場合を認めている。これは、中断期間が長きに失するとの非継続説の批判を意識したものと思われるが、定型的事実を中断事由とし、その中断事由の終了の時から時効が改めて進行するとした民法の構造の中に、非定型的な時効中断の終了事由を持ち込むことは理論的に問題があるし、債務者が本案の起訴命令や事情変更による保全命令取消の申立権を行使しないのに中断の効力の消滅を認めることは、継続説の基本的立場に反するように思われる。本判決も、右高裁判決のような例外について触れていない。
五 また、仮差押登記後も時効中断の効力が継続するとの見解の中にも、暫定的な制度である仮差押えの時効中断の効力を本案の債務名義が確定した後まで存続させるのは不当であるとの理由から、仮差押えの時効中断の効力は、後に確定した本案の債務名義に吸収されるとの見解(吸収説と呼ぶ。)があり(宮崎孝治郎・判例民事法昭和三年度二八二頁。吸収説に立つ判決として、福井地判昭44・5・26民集二〇巻五・六号三八九頁、新潟地判平9・3・17金商一〇三三号三〇頁がある。後者は⑩判決により破棄された。)、原判決の前記説示(2)はこれに従ったものである。しかし、吸収説は、仮差押えと請求とを同列の中断事由として定めている民法の条文を離れた説であり、採り得ないものと思われ、②の大審院判決、⑦、⑩の東京高裁判決は、いずれも吸収説の結論を否定していたところである。本件判決の判示事項二は、吸収説を採り得ないことを明らかにしたものである。
六 本件判決は、仮差押えの執行保全の効力が存続する間は仮差押えの時効中断の効力が継続することを明らかにしたが、(一)本執行が無剰余によって取り消された場合の仮差押えの効力の消長など、本執行がされた場合の仮差押えの効力をめぐる問題や、(二)具体的にどのような場合に事情変更による仮差押命令の取消が認められるか(たとえば、本案判決を取得したものの、執行を申し立てると無剰余取消になるので、仮差押えをしただけで先順位抵当権者に対する弁済や不動産価格の上昇を待っているような場合に、事情変更による取消が認められるか。)といった点は、残された問題である。
七 本判決は、学説、下級審判決において対立があった仮差押えの時効中断の効力の継続をめぐる議論に決着を付けたもので、実務的に重要な判決であると思われるので、紹介する。

+(差押え、仮差押え及び仮処分)
第百五十四条  差押え、仮差押え及び仮処分は、権利者の請求により又は法律の規定に従わないことにより取り消されたときは、時効の中断の効力を生じない
第百五十五条  差押え、仮差押え及び仮処分は、時効の利益を受ける者に対してしないときは、その者に通知をした後でなければ、時効の中断の効力を生じない

+判例(S50.11.21)
理由
上告代理人菅井俊明、同塩谷脩の上告理由第一点について
抵当権実行のためにする競売法による競売は、被担保債権に基づく強力な権利実行手段であるから、時効中断の事由として差押と同等の効力を有すると解すべきことは、判例(大審院大正九年(オ)第一〇九号同年六月二九日判決・民録二六輯九四九頁、同昭和一三年(ク)第二一九号同年六月二七日決定・民集一七巻一四号一三二四頁)の趣旨とするところである。そして、差押による時効中断の効果は、原則として中断行為の当事者及びその承継人に対してのみ及ぶものであることは、民法一四八条の定めるところであるが、他人の債務のために自己所有の不動産につき抵当権を設定した物上保証人に対する競売の申立は、被担保債権の満足のための強力な権利実行行為であり、時効中断の効果を生ずべき事由としては、債務者本人に対する差押と対比して、彼此差等を設けるべき実質上の理由はない民法一五五条は、右のような場合について、同法一四八条の前記の原則を修正し、時効中断の効果が当該中断行為の当事者及びその承継人以外で時効の利益を受ける者にも及ぶべきことを定めるとともに、これにより右のような時効の利益を受ける者が中断行為により不測の不利益を蒙ることのないよう、その者に対する通知を要することとし、もつて債権者と債務者との間の利益の調和を図つた趣旨の規定であると解することができる
したがつて、債権者より物上保証人に対し、その被担保債権の実行として任意競売の申立がされ、競売裁判所がその競売開始決定をしたうえ、競売手続の利害関係人である債務者に対する告知方法として同決定正本を当該債務者に送達した場合には、債務者は、民法一五五条により、当該被担保債権の消滅時効の中断の効果を受けると解するのが相当である。同条所定の差押等を受ける者の範囲を所論の如く限定しなければならない理由はなく(所論引用の当裁判所昭和三九年(オ)第五二三号、第五二四号同四二年一〇月二七日第二小法廷判決・民集二一巻八号二一一〇頁及び昭和四一年(オ)第七七号同四三年九月二六日第一小法廷判決・民集二二巻九号二〇〇二頁各判例は、同条にいわゆる「時効ノ利益ヲ受クル者」の範囲について判示したものではない。)、また、競売裁判所による前記の競売開始決定の送達は債務者に対する同条所定の通知として十分であり、右通知が所論の如く債権者から発せられねばならないと解すべき理由も見出し難い。これと同趣旨の原審の判断は正当であり、所論はこれと異なる独自の見解に基づいて原判決を非難するものであつて、論旨は採用することができない。
同第二点について
所論の点に関する原審の判断は正当であり、その過程に所論の違法はなく、原判決に所論の法令違背のあることを前提とする所論違憲の主張もまた理由がない。論旨は、採用することができない。
よつて、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 大塚喜一郎 裁判官 岡原昌男 裁判官 吉田豊 裁判官 本林讓)

+判例(H8.7.12)
理由
上告代理人戸田隆俊の上告理由について
一 本件請求は、上告人らが被上告人に対し、上告人らの所有する不動産に設定された被上告人のAに対する求償債権等を被担保債権とする根抵当権(以下「本件根抵当権」という。)の設定登記の抹消を求めるものである。原審の確定したところによれば、被上告人からAに対して本件根抵当権の被担保債務の履行を求める訴訟が提起され、昭和五七年四月一八日に被上告人勝訴の判決が確定しているところ、被上告人は、平成四年四月三日に本件根抵当権の実行としての不動産競売を申し立て、これに基づいて、同月七日に競売開始決定がされ、同年六月一三日に債務者であるAに右競売開始決定正本が送達されたものである。
上告人らは右判決確定の時から一〇年を経過した平成四年四月一八日に本件根抵当権の被担保債権は時効によって消滅した旨を主張し、被上告人は不動産競売の申立てをした同月三日に右債権についての時効中断の効力が生じた旨を主張している。したがって、本件においては、物上保証人に対する不動産競売の申立てによって時効中断の効力が生ずる時期が、債権者が競売を申し立てた時であると解するか、競売開始決定正本が債務者に送達された時であると解するかによって、消滅時効の成否の判断が左右されることになる。

二 原審は、物上保証人に対する不動産競売の申立てによる被担保債権の消滅時効の中断の効力は、債権者が執行裁判所に競売の申立てをした時に生ずると解するのが相当であるところ、本件においては、時効期間の満了前に本件根抵当権の実行としての不動産競売の申立てがされているから、これにより本件根抵当権の被担保債権の消滅時効は中断されたとして、上告人らの本件請求を棄却すべきものとした。

三 しかしながら、原審の右判断は是認することができない。その理由は、次のとおりである。
債権者から物上保証人に対する不動産競売の申立てがされ、執行裁判所のした競売開始決定による差押えの効力が生じた後、同決定正本が債務者に送達された場合には、民法一五五条により、債務者に対し、当該担保権の実行に係る被担保債権についての消滅時効の中断の効力が生ずるが(最高裁昭和四七年(オ)第七二三号同五〇年一一月二一日第二小法廷判決・民集二九巻一〇号一五三七頁、最高裁平成七年(オ)第三七四号同年九月五日第三小法廷判決・民集四九巻八号二七八四頁参照)、右の時効中断の効力は、競売開始決定正本が債務者に送達された時に生ずると解するのが相当である。けだし、民法一五五条は、時効中断の効果が当該時効中断行為の当事者及びその承継人以外で時効の利益を受ける者に及ぶべき場合に、その者に対する通知を要することとし、もって債権者と債務者との間の利益の調和を図った趣旨の規定であると解されるところ(前掲昭和五〇年一一月二一日第二小法廷判決参照)、競売開始決定正本が時効期間満了後に債務者に送達された場合に、債権者が競売の申立てをした時にさかのぼって時効中断の効力が生ずるとすれば、当該競売手続の開始を了知しない債務者が不測の不利益を被るおそれがあり、民法一五五条が時効の利益を受ける者に対する通知を要求した趣旨に反することになるからである。
したがって、右の場合に、債権者が競売の申立てをした時をもって消滅時効の中断の効力が生ずるとの見解に立って、上告人らの本件請求を棄却した原審の判断には、法令の解釈適用を誤った違法があり、右違法は原判決の結論に影響を及ぼすことが明らかである。論旨は理由があり、原判決は破棄を免れない。そして、本件においては、被上告人は、債務者であるAが昭和五七年一二月二二日に本件根抵当権の被担保債務を承認したとの主張をしているので、更に審理を尽くさせるため、本件を原審に差し戻すことにする。
よって、民訴法四〇七条一項に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 根岸重治 裁判官 大西勝也 裁判官 河合伸一 裁判官 福田博)

++解説
《解  説》
本件は、物上保証人に対する抵当権の実行によって被担保債権の消滅時効の中断効の生ずる時点についての解釈が争われた事件である。
本件土地の所有者であるAとX1は、昭和五四年一二月四日、その所有する本件土地上に債務者をBとし、Yを権利者とする極度額一九〇〇万円の本件根抵当権を設定した。その後、YはBに対し、本件根抵当権の被担保債権である求償金の支払を求める訴えを提起し、昭和五七年四月一八日にY勝訴の判決が確定した。Yは平成四年四月三日に本件根抵当権に基づく競売を申立て、四月七日競売開始決定がされた。そして、四月九日に本件土地についての差押えの登記が経由されたが、競売開始決定正本がBに送達されたのは六月一三日であった。
本件訴訟は、A及びX1が、Yに対し、本件根抵当権の抹消登記手続を求めるものであり、A及びX1は、昭和五七年四月一八日の判決確定後、一〇年が経過した平成四年四月一八日に本件根抵当権の被担保債権は、時効によって消滅した旨主張した。これに対し、Yは、(1)Bは、昭和五七年一二月二二日、別件訴訟において、本件根抵当権の被担保債権の存在を認める証言をしたから、主債務者が債務を承認したことにより右債権の消滅時効は中断した、(2)不動産競売開始決定がBに送達されたことによって、本件根抵当権の被担保債権についての消滅時効中断の効力は、競売申立てをした平成四年四月三日にさかのぼって生じた、との抗弁を提出した。
原判決は、(1)の抗弁についての判断は示さなかったが、不動産執行による金銭債権についての消滅時効の中断の効力は、債権者が執行裁判所に当該金銭債権についての不動産執行の申立てをした時に生ずるものと解するのが相当である、と述べて(2)の抗弁を採用し、X1らの請求を棄却した。A及びX1が上告したが、Aは上告提起後死亡し、X1ないしX4がAの地位を承継した。本判決は、原審の(2)の抗弁に対する判断に法令の解釈適用を誤った違法があるとして、(1)の抗弁についての審理を更に尽くさせるため、事件を原審に差し戻した。
本判決の引用する最二小判昭50・11・21民集二九巻一〇号一五三七頁、本誌三三〇号二五〇頁は、民法一五五条は時効中断行為の当事者以外で時効の利益を受ける者を保護するための規定であり、債権者が物上保証人に対して不動産競売を申立てた場合にも右の規定が適用されると判示している。
民法の立法担当者は、法典調査会の審議において、時効による利益を受ける者の知らない間に時効中断の効力が生ずることはその者に酷であることを民法一五五条の立法理由として強調していたが、その後、物上保証人に対して競売の申立てがされる場合にも民法一五五条が適用されるとの解釈を打ち出した。これに対し、物上保証人のように、時効中断が問題となる当の当事者以外の者を法律上の当事者として差押えなどがなされた場合に、一片の通知をもって当の債務者についても中断の効力を生ぜしめることは、中断の人的相対効の原則(民法一四八条)を逸脱する解釈であり、民法一五五条は、執行手続が事実上第三者に対してなされた場合(債務者所有動産を占有ないし所持している第三者について差押えがなされる場合など)に限って適用されると解すべきであるとする反対説がある。しかしながら、通説は、立法担当者と同様に、物上保証人に対して抵当権の実行としての競売申立てがなされる場合にも、民法一五五条が適用されるとの立場を採っている(我妻栄・新訂民法総則四六九頁等)。
民法の立法担当者は、物上保証人に対して競売が申し立てられ、差押えがされた場合には、債権者が自ら債務者に対して差押えの事実の通知をしなければならない、と考えていた。ところが、その後、民訴法二〇四条を根拠に、物上保証人に対して競売が申し立てられた場合、書留郵便等により、債務者に対しても競売開始決定を告知すべきであるとの解釈がとられるようになり、債務者に対しても競売開始決定を送達する裁判所が多数を占めるようになった。前掲最二小判昭50・11・21は、右のような執行実務を前提に、民法一五五条の通知は必ずしも債権者自身から発せられなければならないと解する必要はなく、競売開始決定正本が債務者に送達された場合には、債務者は、民法一五五条により、当該被担保債権の消滅時効の中断の効果を受けると解するのが相当である、と判示したものである。最近の学説においても、物上保証人に対する競売申立ての場合には、民法一五五条が適用されるとの理解が一般的であり(清水暁「連帯保証債務の物上保証人に対する担保権の実行としての競売手続の申立・追行が、主債務の消滅時効の中断事由となるか」判評三九六号四〇頁〔平成四年〕、山野目章夫「民法判例レビュー43」本誌八三一号四八頁〔平成六年〕)、最三小判平7・9・5民集四九巻八号二七八四頁も、前掲最二小判昭50・11・21が示した解釈が、民事執行法が施行された後も妥当することを前提とした説示をしている。
物上保証人に対する不動産競売の申立てによって時効中断効の生ずる時期に関しては、従来から競売申立時に時効中断効が生ずるという申立時説(石田穣・民法総則五八二頁、秦光昭「物上保証人に対する競売申立てと被担保債権についての時効中断効等」金法一三三〇号一二頁(通知の到達を条件として、申立時に遡って中断の効力が生ずるとする。))と、債務者に対する競売開始決定が到達した時に時効中断効が生ずるという到達時説(友納治夫・昭50最判解説(民)五二一頁、菊井=村松「全訂民事訴訟法Ⅱ」二〇七頁、上野隆司「不動産競売手続における時効中断」三二三頁(鈴木正和先生古稀記念『債権回収の法務と問題点』)、荒木新吾「民法一五五条の通知と競売開始決定の告知」ジュリ臨時増刊=担保法の判例Ⅱ三五九頁、野村重信「競売の申立による時効中断効の発生時期」手研四七五号一九四頁、廣渡鉄「不動産の仮差押え、差押えと時効中断効」金法一三七六号二三頁、高山満「不動産競売と時効の中断」金法一三七八号一〇七頁、酒井廣幸「時効の管理」〔増補改訂版〕二四五頁等)とが対立していた。訴えの提起については、訴状を裁判所に提出した時点で時効中断の効力が発生する旨の明文の規定があり(民訴法二三五条)、支払命令の申立てについては、送達されることを条件として、申請の時に効力を生ずると解されている。申立時説は、このような他の事由による時効中断効の発生時期とのバランスをとる意味からも、申立時に時効中断効を認めるべきであるとするものである。これに対し、到達時説は、民法一五五条の「之ヲ其者ニ通知シタル後ニ非サレハ時効中断ノ効力ヲ生セス」との規定の文言等を根拠とするものである。
動産執行による金銭債権の消滅時効中断の効力は、債権者が執行官に対しその執行の申立てをした時に生ずる旨を判示した最三小判昭59・4・24民集三八巻六号六八七頁、本誌五二六号一三八頁は、傍論として、時効中断の効力が生ずる時期は、権利者が法定の手続に基づく権利の行使に当たる行為に出たと認められる時期、すなわち、差押えについては債権者が執行機関である裁判所又は執行官に対し金銭債権について執行の申立てをした時であると解すべきであると述べている。原判決は、右の債務者に対する競売申立ての場合に申立て時に時効中断の効力が生ずるとの解釈を物上保証人に対する競売申立ての場合にも及ぼすことができると解したものと思われる。原判決に対する評釈として、金山直樹「物上保証人に対する担保権実行としての不動産競売と被担保債権の消滅時効の中断時期(競売申立時)」判評四二八号四二頁、吉田光碩「物上保証人に対する競売実行と主債務の時効中断効」金法一三九八号四八頁、松久三四彦「物上保証人に対する担保権実行通知の送達と被担保債権の時効中断時期」法時別冊リマークス一〇号一〇頁がある。
ところで、最三小判平7・9・5民集四九巻八号二七八四頁は、競売開始決定正本の債務者に対する送達に関し、付郵便送達による発送の手続が執られただけではいまだ時効中断の効力を生ぜず、右正本の送達によって初めて、債務者に対して消滅時効の中断の効力を生ずるとの判断を示した。右最判は、時効の利益を受ける者の保護を図っている民法一五五条所定の通知の趣旨からすれば、債務者に右の通知がされたというためには、債務者自身が当該競売手続の開始を了知し得る状態に置かれることを要すると解したものである。右最判は、物上保証人に対する競売の申立てによって当然に債務者に対する時効中断の効力が発生しないことを前提にするものであるが、競売開始決定正本が債務者に現実には到達していない事案に関するものであるため、物上保証人に対する不動産競売の申立てによって時効中断効の生ずる時期に関して直接の判断はされていない。このため、右最判が出された後も、物上保証人に対する競売の申立てがされ、競売開始決定が債務者に送達された場合には、申立時に遡って時効中断効が生ずると解すべきであるとの学説が公表されている(秦光昭「物上保証人に対する抵当権実行としての競売開始決定の正本が書留郵便に付して発送された場合と民法一五五条による時効中断効」銀行法務21五二一号四頁)。なお、執行実務においては、債務者、所有者の所在不明により、競売開始決定正本が送達できないことが多いが、債務者の所在不明により送達ができない場合に、民事訴訟法四三三条により命令の申立て却下される支払命令の場合とは異なり、執行手続においては、競売開始決定がされた後長期間経過した後に債務者に対する送達が行われることも稀ではない。
本判決は、以上のような学説判例等の状況を踏まえ、民法一五五条が時効の利益を受ける者に対する通知を要求することによって時効の利益を受ける者の立場に配慮していることを考慮し、物上保証人に対する競売が申し立てられた場合に、競売開始決定が債務者に送達されることを条件として時効中断の効力が申立時に遡って生ずると解することは相当ではなく、競売開始決定正本が債務者に送達された時に時効中断の効力が生ずると解すべきことを明らかにしたものである。
本判決は、物上保証人に対する不動産競売の申立てによって時効中断効の生ずる時期に関し、最高裁として初めての判断を示したものであり、実務に与える影響も大きいと思われる。

・連帯保証債務を被担保債権とする抵当権の実行によって主債務の時効が中断することはない!!!!
+判例(H8.9.27)
理由
上告代理人森本紘章及び上告補助参加代理人小山晴樹、同渡辺実の上告理由について
一 原審の適法に確定した事実関係の概要及び記録によって明らかな本件訴訟の経緯等は、次のとおりである。
1 住宅ローン融資等を業とする被上告人は、株式会社都市開発(以下「訴外会社」という。)の販売又は仲介する不動産を購入した顧客との間で住宅ローン取引を行っていたが、訴外会社は、昭和五九年二月八日ころ、被上告人に対し、訴外会社の顧客が被上告人から住宅ローンの融資を受けたことにより負担する債務につき、合計一億一〇〇〇万円を限度として、包括して連帯保証する旨を約した
2 上告補助参加人らは、昭和五九年二月九日、被上告人に対し、上告補助参加人ら各所有の不動産に、被上告人の訴外会社に対する右連帯保証契約上の債権を被担保債権とする極度額一億一〇〇〇万円の根抵当権を設定した(以下「本件根抵当権」という。)。
3 被上告人は、昭和五九年六月二七日、訴外会社の顧客である上告人aとの間で、一九〇〇万円を同上告人に貸し付ける旨の契約(以下「本件ローン契約」という。)を締結し、上告人bは、同日、被上告人に対し、右契約に基づく上告人aの債務を連帯保証する旨を約した
なお、上告人aは、真実マンションを購入する意思がないのに、訴外会社の資金繰りのため、訴外会社から三〇万円の謝礼を受け取る約束の下に、マンション購入者として本件ローン契約を締結し、被上告人から一九〇〇万円の交付を受けたものであり、上告人bも、訴外会社の勧誘に応じて右連帯保証をしたものである。
4 上告人cは、昭和五九年八月七日、割賦金の返済を怠ったため、本件ローン契約所定の約定により、期限の利益を喪失した。
5 被上告人は、昭和五九年一〇月二六日、本件根抵当権の実行としての競売を各管轄裁判所に申し立て、東京地方裁判所は同月二九日上告補助参加人ら各所有の不動産について、千葉地方裁判所佐倉支部は同月三〇日上告補助参加人小郷建設株式会社所有の不動産について、それぞれ競売開始決定をし、各競売開始決定正本は、前者については同年一一月一四日、後者については同年一二月二八日、右各競売事件の債務者である訴外会社に送達された。
6 被上告人は、平成元年一〇月二五日、上告人aに対しては本件ローン契約上の債務の履行を求め、上告人bに対してはその連帯保証債務の履行を求めて本件訴訟を提起し、上告人らは、本件訴訟において、本件ローン契約上の債権についての五年の商事消滅時効を援用した。

二 原審は、右事実関係の下において、次のとおり判断して、本件ローン契約上の債権が時効により消滅したとの上告人らの主張を排斥した。
1(一) 物上保証人所有の不動産を目的とする抵当権の実行としての競売を申し立てた債権者は、右手続において被担保債権の弁済を受けることを最終の目的とするものであること、右手続の競売開始決定正本は債務者に送達されることになっており、被担保債権の弁済を求める債権者の意思を債務者に通知することが手続的に保障されていること、競売開始決定正本が債務者に送達されたときは、差押えの効力として、被担保債権についての消滅時効は中断すると解されるが、一つの行為が効力を異にする二個の中断事由に重畳的に該当することを否定すべき理由はないこと等を考慮すれば、右競売の申立ては、債務者に対する関係で民法一四七条一号の「請求」に当たるものと解するのが相当である。そして、抵当権の実行としての競売手続は、請求権の存否を確定する効力を有するものではないから、右競売の申立ては、裁判上の請求に当たらず、催告としての効力を有するにすぎないものといわなければならないが、右競売の申立てによる催告は、その手続の進行中はその効力が継続的に維持され、そのことを前提に、債権者の弁済要求にこたえるための競売手続が行われるものというべきであるから、右催告は、手続終了後六箇月以内に債務者に対し裁判上の請求等をすることにより確定的に時効中断の効力を生じさせることができるいわゆる裁判上の催告に当たるものと解するのが相当である。
(二) 民法四五八条において準用される同法四三四条により、連帯保証人に対する履行の請求は主債務者に対しても効力を生ずるから、本件ローン契約上の債務の連帯保証人である訴外会社を債務者とする本件根抵当権の実行としての競売の申立てによる裁判上の催告の効力の継続中に本件訴訟が提起されたことにより、本件ローン契約上の債権の消滅時効は中断している。
2 また、上告人aは、訴外会社から三〇万円の謝礼を受け取る約束の下に、訴外会社の資金繰りのために本件ローン契約を締結したものであり、上告人bも訴外会社と相通じた連帯保証人であること等からすれば、上告人らが本件ローン契約上の債権についての消滅時効を援用することは、信義則に反し、許されないというべきである。

三 しかしながら、原審の右1、2の判断はいずれも是認することができない。その理由は、次のとおりである。
1(一) 物上保証人所有の不動産を目的とする抵当権の実行としての競売の申立てがされ、執行裁判所が、競売開始決定をした上、同決定正本を債務者に送達した場合には、債務者は、民法一五五条により、当該抵当権の被担保債権の消滅時効の中断の効果を受けるが(最高裁昭和四七年(オ)第七二三号同五〇年一一月二一日第二小法廷判決・民集二九巻一〇号一五三七頁参照)、債権者甲が乙の主債務についての丙の連帯保証債務を担保するために抵当権を設定した物上保証人丁に対する競売を申し立て、その手続が進行することは、乙の主債務の消滅時効の中断事由に該当しないと解するのが相当である。
けだし、抵当権の実行としての競売手続においては、抵当権の被担保債権の存否及びその額の確定のための手続が予定されておらず、競売開始決定後は、執行裁判所が適正な換価を行うための手続を職権で進め、債権者の関与の度合いが希薄であることにかんがみれば、債権者が抵当権の実行としての競売を申し立て、その手続が進行することは、抵当権の被担保債権に関する裁判上の請求(同法一四九条)又はこれに準ずる消滅時効の中断事由には該当しないと解すべきであり、また、執行裁判所による債務者への競売開始決定正本の送達は、本来債権者の債務者に対する意思表示の方法ではなく、競売の申立ての対象となった財産を差し押さえる旨の裁判がされたことを競売手続に利害関係を有する債務者に告知し、執行手続上の不服申立ての機会を与えるためにされるものであり、右の送達がされたことが、直ちに抵当権の被担保債権についての催告(同法一五三条)としての時効中断の効力を及ぼすものと解することもできないことなどに照らせば、債権者が抵当権の実行としての競売を申し立て、その手続が進行すること自体は、同法一四七条一号の「請求」には該当せず、したがって、右抵当権が連帯保証債務を担保するために設定されたものである場合にも、同法四五八条において準用される同法四三四条による主債務者に対する「履行ノ請求」としての効力を生ずる余地がないと解すべきであるからである。
(二) 以上によれば、本件においても、被上告人がした本件根抵当権の実行としての競売の申立ては、本件ローン契約上の債権の消滅時効を中断しないというべきである。
2 被上告人は、上告人らによる本件ローン契約上の債権についての消滅時効の援用が信義則に反すると主張するけれども、上告人aが、真実マンションを購入する意思がなく、訴外会社の資金繰りのために本件ローン契約を締結したとしても、上告人らは、自らマンション購入者として本件ローン契約を締結するなどしたのであるから、上告人らが本件ローン契約上の債権の消滅時効を援用することが信義則に反するということはできない。
以上のとおり、本件ローン契約上の債権が時効により消滅したとの上告人らの主張を排斥した原審の判断には、法令の解釈を誤った違法があるというべきであり、右違法が判決に影響を及ぼすことは明らかである。この点の違法をいう論旨は理由があり、原判決は破棄を免れない。
四 被上告人は、上告人らと訴外会社及び上告補助参加人らは取引上一体というべき関係にあるとして、上告補助参加人らが被上告人に対して本件根抵当権の設定登記の抹消登記手続を求めて提起した訴訟(東京地方裁判所昭和六〇年(ワ)第三八七六号事件。以下「別件訴訟」という。)に被上告人が応訴し、請求棄却を求めるとともに、上告人a及び訴外会社に対する債権の存在を主張立証したことには裁判上の請求に準ずるもの又は裁判上の催告としての時効中断の効力があり、上告補助参加人らが別件訴訟の和解手続において被上告人に対する債務の存在を認めたことは時効中断事由としての承認に当たる旨を主張するが、記録によってうかがわれる被上告人の主張事実によっても、上告人らと訴外会社及び上告補助参加人らが取引上一体というべき関係にあったということはできない上、上告人ら及び訴外会社はいずれも別件訴訟の当事者ではなかったのであるから、別件訴訟における被上告人又は上告補助参加人らの訴訟活動が本件ローン契約上の債権につき消滅時効の中断の効力を及ぼすと解する余地のないことは明らかである。そして、他に右債権の消滅時効の中断事由に関する主張立証はない。そうすると、本件ローン契約上の債権は上告人らによる時効の援用により消滅し、それに伴い、上告人bの連帯保証債務も消滅したものであるから、被上告人の本訴請求はいずれも理由がなく、これを棄却すべきものである。
よって、原判決を破棄し、第一審判決を取り消した上、被上告人の請求をいずれも棄却することとし、民訴法四〇八条、三九六条、三八六条、九六条、八九条に従い、裁判官河合伸一の意見があるほか、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

+意見
裁判官河合伸一の意見は、次のとおりである。
私は、本件ローン契約上の債権が時効によって消滅したとする多数意見の結論には賛成するが、その理由を異にするので、私見の要点を述べておきたい。
一 民法一五三条のいう催告とは、債務者に対して債務の履行を求める債権者の意思の通知であって、その形式、方法の如何を問わないというのが、一般的な理解である。
競売の申立ては、債権者が被担保債権の弁済を得るためにする強力な手続であるから、直接的には抵当権の行使であっても、その背後に債務者に対して債務の履行を求める意思が含まれていることは明らかである。そして、その債権者の意思は、競売開始決定正本の送達により、債務者に到達することが予定されている。これを受領した債務者が債権者の右意思を認識することもまた当然である。したがって、頭記の一般的理解に従い、債権者が競売を申し立て、これに基づく競売開始決定正本が債務者に送達されることは、民法一四七条二号の差押えとなることとは別に、同法一五三条の催告にも当たると解すべきである。
二 しかしながら、いわゆる裁判上の催告として通常の催告を超える効力があるとされるのは、単に裁判所における手続で権利を主張したというだけでは足りず、(1) その手続において、当該権利の存否につき審理、判断されることが予定されているため、権利者が、その審理中、当該権利の存在を継続して主張していると認め得る場合、又は、(2) その手続が係属している間、権利者が別途当該権利の時効中断の手続をとることが著しく困難又は不合理であるなど、特段の事情があり、右の間の時効の進行を暫定的に中断しなければ権利者に酷であると認め得る場合であると考える。
抵当権の実行としての競売手続においては、債務者から執行異議の申立てがあった場合などを除き、原則として被担保債権の存否を審理、判断することは予定されていないから、右の(1)の場合に当たるとすることはできない。また、抵当権に基づく競売手続の係属中に、主債務者に対して訴えを提起するなど、被担保債権について適宜の時効中断措置をとることが著しく困難又は不合理であるとはいえず、その他一般に右(2)の場合に当たると認めることもできない。
したがって、抵当権の実行としての競売手続が係属していることをもって、一般的に、被担保債権につきいわゆる裁判上の催告があったと解することはできない。
三 これを本件についてみると、被上告人が本件根抵当権の実行としての競売を申し立て、各競売開始決定正本が訴外会社に送達されたことは、本件ローン契約上の債務についての連帯保証人たる同社に対して民法一五三条の催告があったものと解することができ、かつ、その催告は同法四五八条により準用される同法四三四条の履行の請求に含まれると解すべきであるから、主債務者たる上告人aに対する関係でも、時効中断の効力を生じたというべきである。
しかしながら、右の中断は暫定的なものにすぎず、その後の競売手続の係属をもって直ちにいわゆる裁判上の催告と解し得ないこと前示のとおりであり、その例外とすべき事情も認められないから、被上告人が右送達後六箇月以内に民法一五三条所定の手続をしなかったことにより右暫定的中断の効力は失われ、結局、本件ローン契約上の債権は上告人らの時効の援用により消滅したものというべきなのである。
(裁判長裁判官 河合伸一 裁判官 大西勝也 裁判官 根岸重治 裁判官 福田博)

++解説
《解  説》
一 連帯保証債務を担保するための抵当権に基づく競売の申立て及び競売開始決定正本の連帯保証人に対する送達が、連帯保証の主債務の時効中断の効力を有するかが争われた事件である。
二 本件の事実関係の概要は次のとおりである。
1 Xは、住宅ローン融資などを業とする会社、Aは、不動産の販売、仲介を業とする会社であり、Xは、Aが販売、仲介する物件の買主との間で住宅ローン取引を行ってきた。ところが、Aが、買主への移転登記が経由される前に実行された住宅ローンの融資金の一部を資金繰りのために流用するようになったため、Xの融資が実行されながら、買主への移転登記が経由されず、このため、Xが融資対象物件に抵当権を設定できない事態が生じた。このような事情から、昭和五八年一二月ころ、一旦、XとAの紹介した買主との間の住宅ローン取引が打ち切られることになった。その後、XとAとの間で、Aが買主の住宅ローン債務を連帯保証し、Z1、Z2の所有不動産にAの右連帯保証債務を担保するための抵当権を設定することを条件に、XとAの紹介した買主との住宅ローン取引を再開する話がまとまった。そして、昭和五九年二月八日、Aは、同社が販売又は仲介する不動産の買主のXに対する住宅ローン債務を一億円(後に二億一一〇三万円に変更)の限度で連帯保証する旨の契約(差し入れた保証書の日付は、昭和五八年一〇月七日とされた。)を締結し、Yらは、翌九日、Aの右連帯保証債務を担保するため、Z1、Z2所有の本件不動産にXを権利者とする根抵当権(本件根抵当権)を設定した。
2 XとAの顧客との住宅ローン取引が再開された後は、Xの担当者が、Aの顧客が予め作成した住宅ローンの融資金の振込先の預金口座の預金払戻請求書を預かり、融資の担保となる物件の登記関係書類が揃ったことを確認してから、預金払戻請求書をAに渡すようになった。しかしながら、その後も、Aが紹介したY1を含む九名の顧客(住宅ローン主債務者)に対してXが実行した住宅ローン融資については、融資が実行されながら抵当権設定登記が経由されないまま残ることになった。右の住宅ローン契約では、住宅ローン主債務者は、毎月及び毎ボーナス時(八月及び二月)に元利金を分割弁済し、右の分割金の支払を一回でも怠ったときは当然に期限の利益を失うことが定められていたが、Y1ら九名の住宅ローン主債務者は、期日に支払うべき分割金の支払を怠り、いずれも昭和五九年八月七日までに期限の利益を失った。なお、住宅ローン主債務者の中には、真実マンションを購入する意思がないのに、Aから謝礼を受け取る約束の下にAの資金繰りのためにマンション購入の名義人となることを了承した者も含まれていた。
3 Xは、昭和五九年一〇月二六日、本件根抵当権に基づいて東京地裁及び千葉地裁佐倉支部に対して本件不動産の競売を申し立て、東京地裁は同月二九日、千葉地裁佐倉支部は同月三〇日、それぞれ競売開始決定をなし、その開始決定正本は、同年一一月一四日(東京地裁関係)及び一二月二八日(千葉地裁佐倉支部関係)、それぞれAに送達された。
4 昭和六〇年四月九日、Z1、Z2は、本件根抵当権の被担保債権となっているXのY1ら九名に対する融資は、消費貸借契約における要物性の要件を充足していない、本件根抵当権の設定契約は錯誤により無効であるなどと主張して、本件根抵当権設定登記の抹消登記手続を請求する訴訟(別件抹消登記請求訴訟)を提起した。
5 Z1は、千葉地方裁判所佐倉支部における昭和六三年五月一六日の右競売事件の配当期日において、同裁判所がXが提出した債権計算書に基づいて作成した配当表の記載に対する異議を述べ、配当異議の訴え(別件配当異議訴訟)を提起した。なお、東京地裁に申し立てられた競売事件については、売却前に抵当権実行禁止の仮処分が発令されたことにより、売却手続が停止された。
6 Z1、Z2は、平成元年九月二五日の別件抹消登記請求訴訟の口頭弁論期日及び平成元年一一月二九日の別件配当異議訴訟の口頭弁論期日において、住宅ローン主債務者の消滅時効を援用した。
7 Xは、平成元年一〇日二五日及び二六日に、Y1ら九名の住宅ローン主債務者に対してはローン契約上の貸金債務の履行を求め、各連帯保証人(Y2はY1の連帯保証人)に対しては連帯保証債務の履行を求める九件の訴訟を提起した。
三 民法四五八条、四四〇条、四三四条によれば、連帯保証人に生じた時効中断事由は主債務者に効力を及ぼさないが、民法四三四条の「履行の請求」に該当する事由は、主債務者にもその効力が及ぶことになる。
民法四三四条と一四七条の関係につき、大判大3・10・19(民録二〇輯七七七頁)は、民法四三四条の「履行の請求」は民法一四七条一号の「請求」のみを意味し、同条二号の「差押」は「履行の請求」に含まれないとの解釈を明らかにし、大判昭14・8・30(法律新聞四四六五号七頁)は、物上保証人が同時に連帯保証人である場合にも、抵当権による競売申立ては、主たる債務の消滅時効を中断しないと判示している。通説も、民法一四七条二項の「差押」は、民法四五八条によって準用される民法四三四条の「履行の請求」には含まれないと解している。
最二小昭和50・11・21(民集二九巻一〇号一五三七頁)は、物上保証人に対する抵当権の実行により、競売裁判所が競売開始決定をし、これを債務者に告知した場合には、被担保債権についての消滅時効は中断すると判示したが、右最判は、競売開始決定正本の債務者への送達に民法一五五条による時効中断効を認めたものであるから、本件の事案では、右の最判の示した解釈から、主債務の消滅時効が中断することを根拠付けることはできない。このため、Xは、不動産競売の申立て及びAに対する開始決定の送達は、Aに対する催告としての効力を有し、この催告は、裁判所の手続を通じて継続的に権利を行使するものであるから、いわゆる「裁判上の催告」として、競売事件の係属中はその効果が継続すると解すべきであり、Xは右催告の効果の継続中に住宅ローン主債務者に対する貸金等請求の訴えを提起したから、本件住宅ローン契約上の債務の消滅時効は完成していないと主張した。民法一四七条の「請求」には一四九条の「請求」から一五三条の「催告」までが含まれると解されているため、抵当権に基づく競売の申立てに「裁判上の催告」としての暫定的時効中断効が認められるとすれば、主債務者に対しても時効中断の効力が及ぶことになると考えられる。そこで、一連の一一件の訴訟において抵当権に基づく競売の申立てが「裁判上の催告」に当たるか否かが本件の主たる争点となった。

四 一、二審判決のうち、東京地判平2・8・23(判時一三八六号一一六頁、本誌七三三号一一五頁、金法一二八一号二八頁、金商八六七号三〇頁)、東京地判裁平2・10・22(本誌七五六号二二三頁、金法一二九四号二六頁)、東京髙判平7・5・31(本誌八九五号一三四頁、金法一四二五号四一頁。同一の裁判体が同日付けで三件の判決を言い渡している。)は右の点を積極に解し、競売事件の係属による時効中断効を認めてXを勝訴させたが、その余の一、二審判決は、右の点を消極に解し、Xを敗訴させた。なお、消極説に立つ下級審判決のうち、東京地判平2・10・25(金法一二九四号二六頁)、東京高判平4・2・17(本誌七八六号一八六頁、金法一三四〇号三一頁、金商八九二号一三頁。同一の裁判体が同日付けで二件の判決を言い渡している。)は、競売開始決定正本の債務者への送達に催告としての側面を否定することはできないとしながらも、競売事件が係属する限り催告が継続的にされていると評価することはできないと解しているが、その余の消極説の判決(東京地判平2・3・28(判時一三七四号五八頁、本誌七四三号一六〇頁、金法一二八一号二八頁、金商八五七号一七頁)、東京地判平2・8・27(本誌七五六号二二三頁、金商八六七号三三頁)、東京地判平2・8・30(本誌七五六号二二三頁)、東京地判平2・12・4(判時一三八六号一一六頁、本誌七四六号一五九頁)、東京地判平3・12・20(本誌七八三号一三八頁)、東京高判平4・1・29(本誌七九二号一六六頁、金法一三六三号三八頁、金商八九一号三頁)等)は、競売開始決定正本の債務者への送達は、民法一五三条の「催告」に当たらないと解している。

五 本判決は、積極説に立つ原判決を破棄し、Xの請求に係る債権は時効によって消滅したとして請求棄却の自判をしたものである。なお、Xは、Y1の主債務の時効中断事由として、(1)Z1、Z2とY1及びY2とは実質的に一体であるから、別件抹消登記請求訴訟においてXがY1に対する貸金債権の存在を主張立証し、Z1、Z2が和解金の支払いを提案したことによってY1の主債務の消滅時効は中断した、(2)Y1らはAと共謀してXから不正に資金を借り入れたものであるから、Y1らが消滅時効を援用することは信義誠実の原則に反し、権利の濫用として許されないなどと主張していたが、これらの主張はいずれも採用されなかった。

六 裁判上の催告に関する最高裁の裁判例には、裁判上の請求に準ずる時効中断効を認めたものとして、最大判昭43・11・13(民集二二巻一二号二五一〇頁、本誌二三〇号一五六頁。所有権に基づく登記手続請求の訴訟において、被告が自己に所有権があることを主張して請求棄却の判決を求め、その主張が判決によって認められた場合には、右主張は、裁判上の請求に準ずるものとして、原告のための取得時効を中断する効力を生ずる、と判示したもの)、最一小判昭44・11・27(民集二三巻一一号二二五一頁、本誌二四二号一七三頁。債務者兼抵当権設定者が債務の不存在を理由として提起した抵当権設定登記抹消登記手続請求訴訟において、債権者兼抵当権者が請求棄却の判決を求め被担保債権の存在を主張したときは、右主張は、裁判上の請求に準ずるものとして、被担保債権につき消滅時効中断の効力を生ずる、と判示したもの)があり、講学上の「裁判上の催告」と同様の時効中断効を認めたものとして、最大判昭38・10・30(民集一七巻九号一二五二頁。留置権の抗弁は、被担保債権の債務者が原告である訴訟において提出された場合には、当該債権について消滅時効中断の効力があり、かつ、その効力は、右抗弁の撤回されないかぎり、その訴訟係属中存続すると判示したもの)、最三小判昭43・12・24(裁集民九三号九〇七頁。農地の受贈者から贈与者に対し、時効期間内に、農地所有権移転登記手続の請求が提訴された場合において、その後、時効期間経過後に知事に対する許可申請手続の請求が追加されたときは、これにより右許可申請の請求権の消滅時効は中断される、と判示したもの)、最一小判昭45・9・10(民集二四巻一〇号一三八九頁。破産の申立債権者の破産宣告手続における権利行使意思の表示は、破産の申立が取り下げられた場合においても、債務者に対する催告としての時効中断の効力を有し、右債権者は、取下の時から六か月内に訴を提起することにより、当該債権の消滅時効を確定的に中断することができる、と判示したもの)、最三小昭48・10・30(民集二七巻九号一二五八頁、本誌三〇七号一七七頁。代理人がした商行為による債権につき本人が提起した債権請求訴訟の係属中に、相手方が商法五〇四条但書に基づき債権者として代理人を選択したときは、本人の請求は、右訴訟が係属している間代理人の債権につき催告に準じた時効中断の効力を及ぼす、と判示したもの)がある。一方、最二小判昭48・2・16(民集二七巻一号一四七頁、本誌二九一号一九一頁)は、公正証書に関する請求異議訴訟において、債権者が応訴して債権の存在を主張した場合でも、右証書の作成嘱託についての代表権欠缺を理由に請求が認容され、その債権の存否が判断されなかったときは、右債権につき、裁判上の請求に準ずる消滅時効中断の効力は生じない、と判示している。
「裁判上の催告」と呼ばれる考え方の適用が問題になる場面には、時効中断事由である「裁判上の請求」の外延を、補充的に拡張する機能を果たす観念として用いられる場面と、取り下げや却下によって失効した「裁判上の請求」を、別の中断事由としての催告に転換するための観念として用いられる場面とがあるとされている(昭45最判解説(民)五〇五頁〔横山長〕)。
学説は、時効中断効を認めたこれらの裁判例の結論を支持しているが、法律構成としては、「裁判上の請求に準ずるもの」としての時効中断効を広く認めれば足り、「裁判上の催告」という概念を認める必要はないとする立場(石田穣・民法総則五六七頁以下、平井一雄「裁判上の請求と時効の中断」民法の争点Ⅰ九三頁)と、「裁判上の請求」は、当該権利が債務名義につながる一連の手続に接続する形で主張される場合に限られると解すべきであり、「訴え提起」以外の形式で裁判上の権利主張がなされた場合には、「裁判上の催告」としての暫定的な時効中断効が認められるにすぎないと解すべきであるとする立場(松久三四彦「消滅時効制度の根拠と中断の範囲」北大法学論集三一巻二号八一〇頁以下)とがある。
七 消極説は、立法者は民法一四七条一号の「請求」は実体上の請求による時効中断に関する規定、二号の「差押」は執行手続による時効中断に関する規定ととらえていたから、差押えの申請行為だけを取り出して「請求」に含めたり、不動産競売開始決定の送達が一四七条一号と二号の時効中断事由の両方に該当するという解釈は、右の立法者の意図を超えるものであること、積極説によれば、主債務者に対する通知等を全く行わずに主債務の消滅時効が中断することを認めることになり、民法一四八条の原則に対する例外を拡張することになること、不動産の競売手続は被担保債権の確定を目的とする手続ではないため、債権者や債務者は限られた場面で手続に関与するにすぎないこと、物上保証人に対する競売においては、手続の相手方は債務者ではなく、所有者と見るべきであること等を理由とする。これに対し、積極説は、抵当権の実行としての競売の申立ては、被担保債権の満足を受けることを目的として行われるものであること、競売開始決定正本の送達により、被担保債務の履行を求める債権者の意思(権利主張の意思)が債務者に伝達されることになっている上、入札期間等の通知、配当期日の呼出しにより、債務の履行を求める債権者の意思が継続的に債務者に伝達されることが予定されていること、時効中断のためだけに主債務者を訴訟に巻き込むことは妥当でないこと等を理由とする。
なお、最一小判平5・4・22(裁集民一六九号二五頁)は、仮差押えは、民法四三四条にいう「履行の請求」に含まれない、と判示している(右判決に対する評釈として、山野目章夫「民法判例レビュー43―連帯保証人に対する仮差押と主たる債務に係る消滅時効の中断」本誌八三一号四四頁がある。)が、本件の原判決は、差押えが請求権の履行を目的とするのとは異なり、仮差押え、仮処分は、請求権の保全を目的とするものであるから、仮差押え、仮処分には、裁判上の催告としての機能はないと説示している。

八 「裁判上の催告」としての時効中断効がどのような場合に認められるかに関する一般論を述べた最高裁の判例はないが、最高裁の判例は、権利行使と権利確定の両面から時効中断効の有無を判断しているものと解される。一方、最二小判平1・10・13(民集四三巻九号九八五頁、本誌七一三号六九頁)は、不動産強制競売手続において申立債権者以外の抵当権者がする債権の届出は、その届出に係る債権に関する裁判上の請求、破産手続参加又はこれらに準ずる時効中断事由に該当しないと判示し、最一小判平8・3・28(民集五〇巻四号一一七二頁、本誌九〇六号二七七頁)は、申立債権者以外の抵当権者が、債権の届出をし、その届出に係る債権の一部に対する配当を受けたとしても、右配当を受けたことは、右債権の残部について、差押えその他の消滅時効の中断事由に該当しないと判示している。右最判は、執行手続においては、債権者の届出に係る債権の存否及びその額の確定のための手続が予定されていないことに言及している。
九 本判決の法廷意見は、権利の行使と権利の確定のいずれの面から考察しても抵当権の実行としての競売手続に裁判上の請求に準ずるものとしての時効中断効を認めることは相当ではないこと、競売開始決定正本の債務者への送達が民法一五三条の催告に当たると解することもできないこと等を理由に、抵当権の実行としての競売の申立てが民法一四七条一項の請求に当たらないとの解釈を明らかにしたものである。なお、本判決には、競売開始決定正本の債務者への送達は民法一五三条の催告に当たると解した上で、「裁判上の催告」が認められるための要件を検討し、抵当権の実行としての競売手続が裁判所に係属することは「裁判上の催告」に当たらないとされる河合裁判官の意見が付されている。
本判決は、下級審の裁判例が分かれ、学説上の対立があった問題について最高裁としての初めての判断を示したものであり、金融実務等に与える影響も大きいものと思われる。

c)承認
+(承認)
第百五十六条  時効の中断の効力を生ずべき承認をするには、相手方の権利についての処分につき行為能力又は権限があることを要しない。

(3)中断の効果
a)中断の基本的効果
+(中断後の時効の進行)
第百五十七条  中断した時効は、その中断の事由が終了した時から、新たにその進行を始める。
2  裁判上の請求によって中断した時効は、裁判が確定した時から、新たにその進行を始める。

+(判決で確定した権利の消滅時効)
第百七十四条の二  確定判決によって確定した権利については、十年より短い時効期間の定めがあるものであっても、その時効期間は、十年とする。裁判上の和解、調停その他確定判決と同一の効力を有するものによって確定した権利についても、同様とする。
2  前項の規定は、確定の時に弁済期の到来していない債権については、適用しない。

b)中断の効果の人的範囲
+(時効の中断の効力が及ぶ者の範囲)
第百四十八条  前条の規定による時効の中断は、その中断の事由が生じた当事者及びその承継人の間においてのみ、その効力を有する。

+判例(H7.3.10)
理由
上告代理人吉成重善の上告理由について
他人の債務のために自己の所有物件につき根抵当権等を設定したいわゆる物上保証人が、債務者の承認により被担保債権について生じた消滅時効中断の効力を否定することは、担保権の付従性に抵触し、民法三九六条の趣旨にも反し、許されないものと解するのが相当である。右判断は、所論引用の判例に抵触するものではない。これと同旨の原審の判断は、正当として是認することができ、原判決に所論の違法はない。論旨は採用することができない。
よって、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官中島敏次郎 裁判官大西勝也 裁判官根岸重治 裁判官河合伸一)

++解説
《解  説》
一 Xは、Sに対する貸金債権の回収が滞ったため、連帯保証人であるAの所有物件につき強制競売の申立てをした。Y信用組合も、Sに対して貸金債権を有し、右Aの被相続人(父)から右物件につきSのために信用組合取引による債権等を被担保債権とする根抵当権の設定を受けていたため、債権届出をした。本件は、Xが、右根抵当権による被担保債権は民法三九八条ノ二〇第一項四号により元本確定したところ、その債権は既に時効消滅しているとして、Aに代位し、Yに対し、右根抵当権設定登記の抹消登記手続を請求した事案である。
二 原審は、時効完成前にSが本件債務を逐次承認した事実が認められ、順次時効が中断したといえるから、本件債務は有効に存在し、そうである以上、本件根抵当権は別個に時効消滅することはないから、本件請求は認容できないとして、請求を棄却した。これに対し、Xは上告して、債務者の時効利益の放棄は物上保証人(当該事案では、自己所有物を弱い譲渡担保に供した者)に影響を及ぼさないとした最二小判昭42・10・27民集二一巻八号二一一〇頁を援用し、債務承認の効果が相対的であることは、時効利益の放棄と時効中断とで異なる理由はないとして、Sの債務承認によりA(に代位したX)の時効援用も認められないとした原審の判断は、右判例に反すると主張した。

三 上告理由の引用する右最二小判昭42・10・27は、他人の債務のために自己の所有物件につき抵当権等を設定した物上保証人は、民法一四五条にいう当事者に当たり、独自の時効援用権を有することを認めている。したがって、物上保証人であるAはSと別に本件債務の消滅時効について固有の時効援用権を有することになる。そこで、Aは、被担保債権の消滅時効につき債務者Sの承認により時効中断が生じた場合でも、自己の時効援用権の行使に当たっては、それを否定し得るのかどうかが問題となる。民法一四八条は、「時効中断は当事者及びその承継人の間においてのみその効力を有す」と規定しており、主たる債務者に対する時効の中断は保証人に対してもその効力を生ずるとする民法四五七条一項のような例外規定は、物上保証人との関係については存在しない。したがって、債務者の承認による時効中断効は物上保証人には及ばず、物上保証人は独自に中断されていない時効を援用し得るとする見解もないわけではない(鈴木祿弥・民法総則講義二三二頁)。しかし、民法一四八条は、事物の性質上、中断の効力を他者に及ぼすべき場合があることを否定するものではない。抵当権設定者との間だけで中断されないことを認めることは、抵当権の付従性に反し、抵当権は債務者及び抵当権設定者に対しては被担保債権と同時でなければ時効によって消滅しないとする民法三九六条の趣旨にも反することとなろう。保証人の場合は、保証人自身も保証債務を負うものであり、主債務に生じた事由が保証債務にどのような影響を与えるかが問題となるため、民法四五七条一項のような規定を設ける必要があるところ、物上保証人については、中断が問題となる権利義務関係は被担保債権に係る債権債務関係以外にはなく、その債権債務当事者間に生じた事由を物上保証人において否定することができると解すべき理由はないため、特に規定を設ける必要がなかったものと考えられる。したがって、債務者の承認による中断の効力は、物上保証人が債務の時効を援用する場合にもこれを否定することはできないものと解される(四宮和夫「時効」新民法演習1二四八~二五〇頁、松久三四彦・民法注解財産法1民法総則七一二頁、塩崎勤・金法一二四七号一四頁参照。なお、保証債務に関する民法四五七条一項の類推適用を理由に同様の結論を採るものとして、柳川俊一・金法七二三号一六~一七頁、丸山昌一「被担保債権の消滅時効の中断」裁判実務大系14三七頁)。前記最二小判昭42・10・27は、時効利益の放棄の効果は相対的であって、被担保債権の消滅時効の利益を債務者が放棄しても、それは物上保証人に影響を及ぼすものではないとしている。しかし、時効利益の放棄は、既に時効が完成していることを前提として、各人がそれぞれの援用権の行使に当たりこれを援用するかどうかという形で個別に判断し得る問題である。これに対し、その債務について時効が完成しているかどうかを判断する際の中断事由の有無の問題は相対的認定に親しまない事実の問題である。両者を同視することはできないであろう。
他方、物上保証人は時効中断としての承認をすることはできず、物上保証人が被担保債権の存在を承認していても、当該物上保証人に対する関係においても時効中断の効力を生ずる余地はないと解されている。(最一小判昭62・9・3裁集民一五一号六三三頁、判時一三一六号九一頁)。したがって、債権者としては、担保権を実行してそれが債務者に通知されない限り、債務者との間で中断の措置をとるほかはなく、仮に債務者との間での中断事由を生じさせても物上保証人に及ばないと解すると、債権者としては不測の不利益を受けることになる。金融実務は、右のような見解に従った時効管理をしているものとされ、同様の判断を判示する下級審裁判例(大阪高判平5・10・27金判九四八号三〇頁)も見られるところであった。本判決は、こうした多数説的見解を明示的に是認したものとして意義がある。なお、参考文献として、本文中に記したもののほか、菅野佳夫「時効の中断効について」本誌八六四号五六頁などがある。

2.時効の停止
(1)停止の意義
(2)停止事由
+(未成年者又は成年被後見人と時効の停止)
第百五十八条  時効の期間の満了前六箇月以内の間に未成年者又は成年被後見人に法定代理人がないときは、その未成年者若しくは成年被後見人が行為能力者となった時又は法定代理人が就職した時から六箇月を経過するまでの間は、その未成年者又は成年被後見人に対して、時効は、完成しない。
2  未成年者又は成年被後見人がその財産を管理する父、母又は後見人に対して権利を有するときは、その未成年者若しくは成年被後見人が行為能力者となった時又は後任の法定代理人が就職した時から六箇月を経過するまでの間は、その権利について、時効は、完成しない。
(夫婦間の権利の時効の停止)
第百五十九条  夫婦の一方が他の一方に対して有する権利については、婚姻の解消の時から六箇月を経過するまでの間は、時効は、完成しない。
(相続財産に関する時効の停止)
第百六十条  相続財産に関しては、相続人が確定した時、管理人が選任された時又は破産手続開始の決定があった時から六箇月を経過するまでの間は、時効は、完成しない。
(天災等による時効の停止)
第百六十一条  時効の期間の満了の時に当たり、天災その他避けることのできない事変のため時効を中断することができないときは、その障害が消滅した時から二週間を経過するまでの間は、時効は、完成しない。


民法 基本事例で考える民法演習 民法の判例とは~判例の位置づけを正確に把握する


1.条文の構造からスタートする~無権代理と他人物売買との比較

+(他人の権利の売買における売主の義務)
第五百六十条  他人の権利を売買の目的としたときは、売主は、その権利を取得して買主に移転する義務を負う。

+(無権代理人の責任)
第百十七条  他人の代理人として契約をした者は、自己の代理権を証明することができず、かつ、本人の追認を得ることができなかったときは、相手方の選択に従い、相手方に対して履行又は損害賠償の責任を負う。
2  前項の規定は、他人の代理人として契約をした者が代理権を有しないことを相手方が知っていたとき、若しくは過失によって知らなかったとき、又は他人の代理人として契約をした者が行為能力を有しなかったときは、適用しない

2.単純な例で考えてみる~基本線を確認するための思考実験
(1)他人物売買の場合
(2)無権代理の場合

3.基本線と判例を照合してみる~判例はどこをどのように変化させたのか

・他人物売買と相続
+判例(S49.9.4)
理由
上告人らの上告理由について。
他人の権利を目的とする売買契約においては、売主はその権利を取得して買主に移転する義務を負い、売主がこの義務を履行することができない場合には、買主は売買契約を解除することができ、買主が善意のときはさらに損害の賠償をも請求することができる。他方、売買の目的とされた権利の権利者は、その権利を売主に移転することを承諾するか否かの自由を有しているのである。
ところで、他人の権利の売主が死亡し、その権利者において売主を相続した場合には、権利者は相続により売主の売買契約上の義務ないし地位を承継するが、そのために権利者自身が売買契約を締結したことになるものでないことはもちろん、これによつて売買の目的とされた権利が当然に買主に移転するものと解すべき根拠もない。また、権利者は、その権利により、相続人として承継した売主の履行義務を直ちに履行することができるが、他面において、権利者としてその権利の移転につき諾否の自由を保有しているのであつて、それが相続による売主の義務の承継という偶然の事由によつて左右されるべき理由はなく、また権利者がその権利の移転を拒否したからといつて買主が不測の不利益を受けるというわけでもない。それゆえ、権利者は、相続によつて売主の義務ないし地位を承継しても、相続前と同様その権利の移転につき諾否の自由を保有し、信義則に反すると認められるような特別の事情のないかぎり、右売買契約上の売主としての履行義務を拒否することができるものと解するのが、相当である。
このことは、もつぱら他人に属する権利を売買の目的とした売主を権利者が相続した場合のみでなく、売主がその相続人たるべき者と共有している権利を売買の目的とし、その後相続が生じた場合においても同様であると解される。それゆえ、売主及びその相続人たるべき者の共有不動産が売買の目的とされた後相続が生じたときは、相続人はその持分についても右売買契約における売主の義務の履行を拒みえないとする当裁判所の判例(昭和三七年(オ)第八一〇号同三八年一二月二七日第二小法廷判決・民集一七巻一二号一八五四頁)は、右判示と牴触する限度において変更されるべきである。
そして、他人の権利の売主をその権利者が相続した場合における右の法理は、他人の権利を代物弁済に供した債務者をその権利者が相続した場合においても、ひとしく妥当するものといわなければならない。 
しかるに、原判決(その引用する第一審判決を含む。)は、亡Aが被上告人に代物弁済として供した本件土地建物が、Aの所有に属さず、上告人Bの所有に属していたとしても、その後Aの死亡によりBが、共同相続人の一人として、右土地建物を取得して被上告人に給付すべきAの義務を承継した以上、これにより右物件の所有権は当然にBから被上告人に移転したものといわなければならないとしているが、この判断は前述の法理に違背し、その違法は判決の結論に影響を及ぼすことが明らかである。
以上のとおりであるから、論旨は理由があり、原判決は破棄を免れないところ、本件土地建物がだれの所有に属するか等につきさらに審理を尽くさせる必要があるので、本件を原審に差し戻すのを相当とする。
よつて、民訴法四〇七条一項に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 村上朝一 裁判官 大隅健一郎 裁判官 関根小郷 裁判官 藤林益三 裁判官 岡原昌男 裁判官 小川信雄 裁判官 下田武三 裁判官 岸盛一 裁判官 天野武一 裁判官 坂本吉勝 裁判官 岸上康夫 裁判官 江里口清雄 裁判官 大塚喜一郎 裁判官 髙辻正己 裁判官 吉田豊)

・無権代理と相続
本人死亡の場合
+判例(S40.6.18)
理由 
 上告代理人諏訪徳寿の上告理由について。 
 原審の確定するところによれば、亡Aは上告人に対し何らの代理権を付与したことなく代理権を与えた旨を他に表示したこともないのに、上告人はAの代理人として訴外Bに対しA所有の本件土地を担保に他から金融を受けることを依頼し、Aの印鑑を無断で使用して本件土地の売渡証書にAの記名押印をなし、Aに無断で同人名義の委任状を作成し同人の印鑑証明書の交付をうけこれらの書類を一括してBに交付し、Bは右書類を使用して昭和三三年八月八日本件土地を被上告人Cに代金二四万五千円で売渡し、同月一一日右売買を原因とする所有権移転登記がなされたところ、Aは同三五年三月一九日死亡し上告人においてその余の共同相続人全員の相続放棄の結果単独でAを相続したというのであり、原審の前記認定は挙示の証拠により是認できる。 
 ところで、無権代理人が本人を相続し本人と代理人との資格が同一人に帰するにいたつた場合においては、本人が自ら法律行為をしたのと同様な法律上の地位を生じたものと解するのが相当であり(大判・大正一五年(オ)一〇七三号昭和二年三月二二日判決、民集六巻一〇六頁参照)、この理は、無権代理人が本人の共同相続人の一人であつて他の相続人の相続放棄により単独で本人を相続した場合においても妥当すると解すべきである。したがつて、原審が、右と同趣旨の見解に立ち、前記認定の事実によれば、上告人はBに対する前記の金融依頼が亡Aの授権に基づかないことを主張することは許されず、Bは右の範囲内においてAを代理する権限を付与されていたものと解すべき旨判断したのは正当である。そして原審は、原判示の事実関係のもとにおいては、Bが右授与された代理権の範囲をこえて本件土地を被上告人Cに売り渡すに際し、同被上告人においてBに右土地売渡につき代理権ありと信ずべき正当の事由が存する旨判断し、結局、上告人が同被上告人に対し右売買の効力を争い得ない旨判断したのは正当である。所論は、ひつきよう、原審の前記認定を非難し、右認定にそわない事実を前提とする主張であり、原判決に所論の違法は存しないから、所論は採用できない。 
 よつて、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員の一致で、主文のとおり判決する。 
 (裁判長裁判官 奥野健一 裁判官 山田作之助 裁判官 草鹿浅之介 裁判官 城戸芳彦 裁判官 石田和外) 
+判例(H10.7.17)
理由
上告人Bの代理人八代紀彦、同佐伯照道、同西垣立也、上告人C及びDの代理人新原一世、同田口公丈、同浜口卯一の上告理由二について
一 原審の適法に確定した事実等の概要は、次のとおりである。
1 Eは、第一審判決別紙物件目録記載の各物件(以下「本件各物件」という。なお、右各物件は、同目録記載の番号に従い「物件(一)」のようにいう。)を所有していたが、遅くとも昭和五八年一一月には、脳循環障害のために意思能力を喪失した状態に陥った。
2 昭和六〇年一月二一日から同六一年四月一九日までの間に、被上告人兵庫県信用保証協会は物件(一)ないし(三)について第一審判決別紙登記目録記載の(一)の各登記(以下「登記(一)」という。なお、同目録記載の他の登記についても、同目録記載の番号に従い右と同様にいう。)を、被上告人株式会社第一勧業銀行(以下「被上告銀行」という。)は物件(一)ないし(三)について各登記(二)を、被上告人Aは物件(一)ないし(三)について各登記(三)、物件(三)について登記(四)、物件(四)について登記(五)を、被上告人株式会社コミティ(以下「被上告会社」という。)は物件(一)について登記(六)、物件(二)について登記(七)、物件(三)について登記(八)及び登記(九)をそれぞれ経由した。しかし、右各登記は、同六〇年一月一日から同六一年四月一九日までの間に、Eの長男であるFがEの意思に基づくことなくその代理人として被上告人らとの間で締結した根抵当権設定契約等に基づくものであった。
3 Fは、昭和六一年四月一九日、Eの意思に基づくことなくその代理人として、被上告会社との間で、Eが有限会社あざみの被上告会社に対する商品売買取引等に関する債務を連帯保証する旨の契約を締結した。
4 Fは、昭和六一年九月一日、死亡し、その相続人である妻のG及び子の上告人らは、限定承認をした。
5 Eは、昭和六二年五月二一日、神戸家庭裁判所において禁治産者とする審判を受け、右審判は、同年六月九日、確定した。そして、Eは、同人の後見人に就職したGが法定代理人となって、同年七月七日、被上告人らに対する本件各登記の抹消登記手続を求める本訴を提起したが、右事件について第一審において審理中の同六三年一〇月四日、Eが死亡し、上告人らが代襲相続により、本件各物件を取得するとともに、訴訟を承継した。

二 本件訴訟において、上告人らは、被上告人らに対し、本件各物件の所有権に基づき、本件各登記の抹消登記手続を求め、被上告会社は、反訴として、上告人らに対し、Eの相続人として前記連帯保証債務を履行するよう求めている。被上告人らは、本件各登記の原因となる根抵当権設定契約等がFの無権代理行為によるものであるとしても、上告人らは、Fを相続した後に本人であるEを相続したので、本人自ら法律行為をしたと同様の地位ないし効力を生じ、Fの無権代理行為についてEがした追認拒絶の効果を主張すること又はFの無権代理行為による根抵当権設定契約等の無効を主張することは信義則上許されないなどと主張するとともに、被上告銀行及び被上告会社は、Fの右行為について表見代理の成立をも主張する。これに対し、上告人らは、Eが本訴を提起してFの無権代理行為について追認拒絶をしたから、Fの無権代理行為がEに及ばないことが確定しており、また、上告人らはFの相続について限定承認をしたから、その後にEを相続したとしても、本人が自ら法律行為をしたのと同様の効果は生じないし、前記根抵当権設定契約等が上告人らに対し効力を生じないと主張することは何ら信義則に反するものではないなどと主張する。

三 原審は、前記事実関係の下において、次の理由により、上告人らの請求を棄却し被上告会社の反訴請求を認容すべきものとした。
1 Eは被上告銀行及び被上告会社が主張する表見代理の成立時点以前に意思能力を喪失していたから、右被上告人らの表見代理の主張は前提を欠く。
2 上告人らは、無権代理人であるFを相続した後、本人であるEを相続したから、本人と代理人の資格が同一人に帰したことにより、信義則上本人が自ら法律行為をしたのと同様の法律上の地位を生じ、本人であるEの資格において本件無権代理行為について追認を拒絶する余地はなく、本件無権代理行為は当然に有効になるものであるから、本人が訴訟上の攻撃防御方法の中で追認拒絶の意思を表明していると認められる場合であっても、その訴訟係属中に本人と代理人の資格が同一人に帰するに至った場合、無権代理行為は当然に有効になるものと解すべきである。

四 しかしながら、原審の右三2の判断は是認することができない。その理由は、次のとおりである。
本人が無権代理行為の追認を拒絶した場合には、その後に無権代理人が本人を相続したとしても、無権代理行為が有効になるものではないと解するのが相当である。けだし、無権代理人がした行為は、本人がその追認をしなければ本人に対してその効力を生ぜず(民法一一三条一項)、本人が追認を拒絶すれば無権代理行為の効力が本人に及ばないことが確定し、追認拒絶の後は本人であっても追認によって無権代理行為を有効とすることができず、右追認拒絶の後に無権代理人が本人を相続したとしても、右追認拒絶の効果に何ら影響を及ぼすものではないからである。このように解すると、本人が追認拒絶をした後に無権代理人が本人を相続した場合と本人が追認拒絶をする前に無権代理人が本人を相続した場合とで法律効果に相違が生ずることになるが、本人の追認拒絶の有無によって右の相違を生ずることはやむを得ないところであり、相続した無権代理人が本人の追認拒絶の効果を主張することがそれ自体信義則に反するものであるということはできない
これを本件について見ると、Eは、被上告人らに対し本件各登記の抹消登記手続を求める本訴を提起したから、Fの無権代理行為について追認を拒絶したものというべく、これにより、Fがした無権代理行為はEに対し効力を生じないことに確定したといわなければならない。そうすると、その後に上告人らがEを相続したからといって、既にEがした追認拒絶の効果に影響はなく、Fによる本件無権代理行為が当然に有効になるものではない。そして、前記事実関係の下においては、その他に上告人らが右追認拒絶の効果を主張することが信義則に反すると解すべき事情があることはうかがわれない。
したがって、原審の判断には法令の解釈適用を誤った違法があり、右違法は原判決の結論に影響を及ぼすことが明らかである。論旨は理由があり、原判決はその余の上告理由について判断するまでもなく破棄を免れない。そして、前記追認拒絶によってFの無権代理行為が本人であるEに対し効力を生じないことが確定した以上、上告人らがF及びEを相続したことによって本人が自ら法律行為をしたのと同様の法律上の地位を生じたとする被上告人らの主張は採用することができない。また、前記事実関係の下においては、被上告銀行及び被上告会社の表見代理の主張も採用することができない。上告人らの請求は理由があり、被上告会社の反訴請求は理由がないから、第一審判決を取り消し、上告人らの請求を認容し、被上告会社の反訴請求を棄却することとする。
よって、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 根岸重治 裁判官 大西勝也 裁判官 河合伸一 裁判官 福田博)

++解説
《解  説》
本件は、本人に無断で不動産に抵当権設定登記等が設定されたとして、本人がこの抵当権設定登記等の抹消登記手続を求めるなどの訴訟であり、本人と無権代理人の死亡によって両者を相続した場合の法律関係が問題になった。
事実関係は、次のとおりである。Aは、本件不動産を所有していたが、当時、脳循環障害のために意思能力を喪失した状態であった。Aの子であるBは、Aに無断で本件不動産にYらのために抵当権設定登記等をした。その後、Bが死亡し、その相続人である妻Cと子Xらは、Bの相続について限定承認をした。Aが禁治産宣告を受け、その後見人になったCは、本件訴訟を提起した。そして、一審係属中にAが死亡したため、孫であるXらが代襲相続するとともに本件の訴訟承継をした。
本件の争点は、第一に、Aの相続人であり、無権代理人Bの相続人であるXらは、Bの無権代理行為について追認拒絶をすることができるか、第二に、Aが本件訴訟の提起により追認拒絶をしたことになるとした場合、Xらは、Aのした追認拒絶の効果を主張することができるかである。
一審、原審とも、Xらが無権代理人を相続した後、本人を相続したから、本人と代理人の資格が同一人に帰したことにより、信義則上本人自ら法律行為をしたのと同様の法律上の地位を生じ、本人の資格で追認を拒絶する余地はなく、また、無権代理行為は当然に有効になったとして、Xの請求を棄却した。
これに対し、Xらは、原審の判断には、前記第一、第二の争点に関する法令の解釈適用を誤った違法があるとして、上告した。
本判決は、第二の争点(Aが追認拒絶した後にA、Bの相続人であるXらが追認拒絶の効果を主張することができるか)について、本人であるAが追認を拒絶した以上、その後に無権代理人が本人を相続したとしても、無権代理行為が有効になるものではないとして、原判決を破棄してXらの請求を認容する判決を言い渡した。
従来、本人が無権代理人を相続した場合や無権代理人が本人を相続した場合等、本人が無権代理行為の追認拒絶をする前に相続が生じた場合に、相続人は無権代理行為の追認拒絶ができるかについては、多いに論じられ、多数の判例がある(本人が無権代理人を相続した場合につき、最二小判昭37・4・20民集一六巻四号九五五頁、無権代理人が本人を相続した場合につき、最二小判昭40・6・18民集一九巻四号九八六頁、無権代理人を相続した者が更に本人を相続した場合につき、最三小判昭63・3・1本誌六九七号一九五頁、判時一三一二号九二頁等)。これに対し、本人が無権代理行為を追認拒絶した後に相続が開始された場合の法律関係については、あまり論じられてこなかったところであり、奥田昌道・法学論叢一三四巻五~六号二〇頁の相続人は追認拒絶の効果を当然に主張することができるとする見解と、安永正昭・曹時四二巻四号七九二頁のこれを否定する見解がある程度であった。本判決は、本人が無権代理行為を追認拒絶することにより、無権代理行為の効力が本人に及ばないことが確定するから、本人を相続した無権代理人も追認拒絶の効果を主張することができるとしたものである。なお、本判決は、追認拒絶の効果に関する原則を述べたものであり、信義則の適用を排除する趣旨ではないものと思われる。すなわち、相続人が本人の追認拒絶の効果を主張することが信義則に反するような特段の事情がある場合には、例外として、右相続人は追認拒絶の効果を主張することはできないことになるであろう。本件において、一方でBの相続について限定承認をし、他方でAの相続について単純承認をすることにより、Xらは、何の負担もない不動産を取得することになるが、これが信義則に反しないか一応問題になる。しかし、本判決は、相続において単純承認するか限定承認するかは、法律の規定に基づくものであることから、右のような事情だけでは信義則に反することにはならないとしたのである(Yらは、右以外に信義則に反するような具体的事実を主張しなかった。なお、最三小判平6・9・13民集四八巻六号一二六三頁、本誌八六七号一五九頁(禁治産者の後見人がその就職前に無権代理人によって締結された契約の追認を拒絶することが信義則に反するか否かの判断についての考慮すべき要素)、最一小判平7・11・9本誌九〇一号一三一頁、判時一五五七号七四頁(禁治産者の後見人がその就職前にした無権代理による訴えの提起等の効力を再審の訴えにおいて否定することの可否)参照)。仮にYらが右の具体的事情を主張していた場合には、最高裁としては、自判することはできず、原審に差し戻すことになった可能性もあると思われる。
また、本判決は、第二の争点で本件の決着をつけたため、第一の争点(無権代理人を限定承認相続した後、本人を相続した者は、無権代理行為の追認拒絶ができるか)について、何ら判断しておらず、これは残された問題である。
以上のとおり、本判決は、本人が無権代理行為の追認を拒絶した後に無権代理人が本人を相続した場合における無権代理行為の効力について最高裁として初めて判断したものであるので、ここに紹介する。

・本人が無権代理人の地位を相続した場合
+判例(S37.4.20)
理由
上告代理人長尾章の上告理由は、本判決末尾添付の別紙記載のとおりである。
右上告理由第一点ないし第三点について。
原判決は、無権代理人が本人を相続した場合であると本人が無権代理人を相続した場合であるとを問わず、いやしくも無権代理人たる資格と本人たる資格とが同一人に帰属した以上、無権代理人として民法一一七条に基いて負うべき義務も本人として有する追認拒絶権も共に消滅し、無権代理行為の瑕疵は追完されるのであつて、以後右無権代理行為は有効となると解するのが相当である旨判示する。
しかし、無権代理人が本人を相続した場合においては、自らした無権代理行為につき本人の資格において追認を拒絶する余地を認めるのは信義則に反するから、右無権代理行為は相続と共に当然有効となると解するのが相当であるけれども、本人が無権代理人を相続した場合は、これと同様に論ずることはできない後者の場合においては、相続人たる本人那被相続人の無権代理行為の追認を拒絶しても、何ら信義に反するところはないから、被相続人の無権代理行為は一般に本人の相続により当然有効となるものではないと解するのが相当である。
然るに、原審が、本人たる上告人において無権代理人亡Aの家督を相続した以上、原判示無権代理行為はこのときから当然有効となり、本件不動産所有権は被上告人に移転したと速断し、これに基いて本訴および反訴につき上告人敗訴の判断を下したのは、法令の解釈を誤つた結果審理不尽理由不備の違法におちいつたものであつて、論旨は結局理由があり、原判決中上告人敗訴の部分は破棄を免れない。
よつて、その他の論旨に対する判断を省略し、民訴四〇七条に従い、裁判官全員の一致で、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 藤田八郎 裁判官 池田克 裁判官 河村大助 裁判官 奥野健一 裁判官 山田作之助) 

+判例(S48.7.3)
理由 
 上告代理人君野駿平の上告理由第一点について。 
 所論の点に関する原審の認定判断は、原判決(その引用する第一審判決を含む。以下同じ。)挙示の証拠に照らし首肯するに足り、原判決に所論の違法はない。論旨は採用することができない。 
 同第二点について。 
 民法一一七条による無権代理人の債務が相続の対象となることは明らかであつて、このことは本人が無権代理人を相続した場合でも異ならないから、本人は相続により無権代理人の右債務を承継するのであり、本人として無権代理行為の追認を拒絶できる地位にあつたからといつて右債務を免れることはできないと解すべきである。まして、無権代理人を相続した共同相続人のうちの一人が本人であるからといつて、本人以外の相続人が無権代理人の債務を相続しないとか債務を免れうると解すべき理由はない。 
 してみると、これと同旨の原審の判断は正当として首肯することができる(原判示のいう損害賠償債務、責任は履行債務、責任を含む趣旨であることが明らかである。)。 
 なお、所論引用の判例(最高裁昭和三五年(オ)第三号同三七年四月二〇日第二小法廷判決・民集一六巻四号九五五頁)は、本人が無権代理人を相続した場合、無権代理行為が当然に有効となるものではない旨判示したにとどまり、無権代理人が民法一一七条により相手方に債務を負担している場合における無権代理人を相続した本人の責任に触れるものではないから、前記判示は右判例と抵触するものではない。論旨は採用することができない。 
 よつて、民訴法四〇一条、九五条、八九条、九三条に従い、裁判官全員の一致で、主文のとおり判決する。 
 (裁判長裁判官 天野武一 裁判官 関根小郷 裁判官 坂本吉勝 裁判官 江里口清雄 裁判官 髙辻正己) 
4.判例の事案を読み解く~その事案はいかなる事案に対して下されたのか。
(1)無権代理人が本人を相続した場合と、本人が無権代理人を相続した場合
・資格融合説はいわば履行責任が追及された事案で展開されているにすぎず、資格並存説をとりつつ、無権代理人による追認拒絶を信義則に反するとする考え方と結論において差はない!
・+判例(H5.1.21)
理由 
 上告代理人佐々木健次の上告理由について 
 一 原審が適法に確定した事実は、次のとおりである。 
 (一) 訴外Aは、昭和五七年二月二日、訴外Bから二〇〇万円の融資を依頼されたが、Bに対し、さきにAがBに貸し付け、未回収となっていた貸金債権六〇〇万円に金利を加え、これに依頼された新規の融資分二〇〇万円を加えた八五〇万円について、改めてBが借用証書を書き換え、上告人の父であるCがそれに連帯保証人として署名捺印することを求めた。そこで、Bは、上告人に対し、短期間内に自己の責任で債務全額の処理をすることを誓って、借用証書に連帯保証人としてのCの名による署名捺印を依頼した。 
 (二) 上告人は、前同日、Cから代理権を授与されていなかったにもかかわらず、その了解を得ずにBの依頼に応じ、貸金額八五〇万円、借主B、弁済期昭和五七年四月二〇日、遅延損害金年三割、公正証書を作成すべきこと等を内容とする借用証書に連帯保証人としてCの名を記載し、預かっていた同人の実印を押捺し、同人が右貸金債務について連帯保証をする旨の契約(以下「本件連帯保証契約」という。)を締結した。 
 (三) 被上告人は、昭和五七年五月一一日、Aから、Bに対する前記八五〇万円の貸金債権の譲渡を受けた。 
 (四) Cは、昭和六二年四月二〇日に死亡し、同人の妻の訴外D及び上告人が、Cの権利義務を各二分の一の割合で相続により承継した。 
 二 原審は、右事実関係の下において、無権代理人が単独で本人を相続した場合に限らず、無権代理人と他の者とが共同で本人を相続した場合であっても、その無権代理人が承継すべき被相続人(本人)の法的地位の限度では、本人自らしたのと同様の効果が生じるとした上、本件においては、Dと無権代理人たる上告人とが、金銭債務について、本件連帯保証契約の当事者たる本人の地位を各二分の一の割合により相続承継し、この地位は既に確定的なものとなっているのであるから、無権代理人たる上告人が相続により本人たるCの地位を承継した分について、本人自らが本件連帯保証契約をしたのと同様の効果が生じ、上告人がその連帯保証責任を負うべきであり、上告人は、被上告人に対し、Cの連帯保証のうち上告人が相続承継した二分の一に相当する部分、すなわち、被上告人の請求額の二分の一の四二五万円及びこれに対する弁済期の翌日である昭和五七年四月二一日から完済まで約定の年三割の割合による遅延損害金の支払をすべきことを命じた。 
 三 しかし、原審の右判断は、これを是認することができない。その理由は、次のとおりである。 
 すなわち、無権代理人が本人を他の相続人と共に共同相続した場合において、無権代理行為を追認する権利は、その性質上相続人全員に不可分的に帰属するところ無権代理行為の追認は、本人に対して効力を生じていなかった法律行為を本人に対する関係において有効なものにするという効果を生じさせるものであるから、共同相続人全員が共同してこれを行使しない限り、無権代理行為が有効となるものではないと解すべきである。そうすると、他の共同相続人全員が無権代理行為の追認をしている場合に無権代理人が追認を拒絶することは信義則上許されないとしても、他の共同相続人全員の追認がない限り、無権代理行為は、無権代理人の相続分に相当する部分においても、当然に有効となるものではない。そして、以上のことは、無権代理行為が金銭債務の連帯保証契約についてされた場合においても同様である。 
 これを本件についてみるに、前記の事実関係によれば、上告人は、Cの無権代理人として本件連帯保証契約を締結し、Cの死亡に伴い、Dと共にCの権利義務を各二分の一の割合で共同相続したものであるが、右無権代理行為の追認があった事実について被上告人の主張立証のない本件においては、上告人の二分の一の相続分に相当する部分においても本件連帯保証契約が有効になったものということはできない。 
 四 そうすると、以上判示したところと異なる見解に立って、被上告人の上告人に対する請求を前記のとおり一部認容した原審の判断には、法令の解釈適用を誤った違法があるものといわざるを得ず、その違法は判決に影響を及ぼすことが明らかである。これと同旨をいう論旨は、理由があり、その余の点について判断するまでもなく、原判決中の上告人敗訴部分は破棄を免れない。そして、右説示に徴すれば、被上告人の請求は棄却すべきものであり、これと結論を同じくする第一審判決は正当であり、被上告人の右部分に対する控訴は理由がなくこれを棄却すべきものである。 
 よって、民訴法四〇八条、三九六条、三八四条、九六条、八九条に従い、裁判官三好達の反対意見があるほか、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。 
+反対意見
 裁判官三好達の反対意見は、次のとおりである。 
 私は、多数意見と異なり、原判決を維持し、上告人の上告を棄却すべきものと考えるので、以下その理由を述べる。 
 一 無権代理人が本人を単独相続した場合においては、本人が自ら法律行為をしたのと同様な法律上の地位を生じたものと解するのが相当であるとされている(最高裁昭和三九年(オ)第一二六七号同四〇年六月一八日第二小法廷判決・民集一九巻四号九八六頁)。これは、大審院以来裁判実務が一貫して採用し、また理論付けにおいて異なるところがあるにしても、その結論は、学説の大方の支持も得てきていたところである。しかし、本来追認という行為によってのみ有効となるべき無権代理行為につき、本人の死亡により開始した相続の効果だけから、本人又は相続人による何らの行為なくして、これを有効なものとするのには、理論的に困難な点があることは否定できないのであって、この結論を導く理論付けについて判例、学説等が必ずしも一致していないのもその故である。それにもかかわらず、そのような法理が採られてきている根底にあるものは、自ら無権代理行為をした者が本人を相続した場合に、本人の資格において追認を拒み、その行為の効果が自己に帰属するのを回避するのは、身勝手に過ぎるという素朴な衡平感覚であるといえよう。してみれば、右法理は、次のように理論付けるのが相当である。すなわち、本人を相続した無権代理人が、自らした無権代理行為につき、相手方からその行為の効果を主張された場合に、本人を保護するために設けられた追認拒絶権を本人の資格において行使して、追認を拒むことは、信義則に違背し、許されないといわなければならず、このように無権代理人において追認を拒み得ない以上、相手方は、追認の事実を主張立証することなくして、無権代理人たる相続人に対しその行為の効果を主張することができることとなり、結局相続人は、本人が自ら法律行為をしたのと同様な法律上の地位におかれる結果となる(最高裁昭和三五年(オ)第三号同三七年四月二〇日第二小法廷判決・民集一六巻四号九五五頁参照)。 
 二 これまで、この法理が採られてきたのは、本人の相続人が無権代理人のみである場合、あるいは無権代理人が共同相続人の一人であるが、他の共同相続人の相続放棄により単独で本人を相続した場合についてであるが、無権代理人が他の相続人と共に共同相続をした場合においても、相手方から、その相続分に相当する限度において、無権代理行為の効果を主張されたときには、同様に考えるのが相当である。けだし、その行為の効果が自己に帰属するのを回避するため、その追認を拒むことが信義則に違背することは、唯一の相続人であったときと同様であるのみならず、他の共同相続人が追認しておらず、又は拒絶した事実を自己の利益のために主張することもまた、自ら無権代理行為をした者としては、同じく信義則に違背するものとして、許されないというべきであるからである。そうしてみると、無権代理人は、相手方から、自己の相続分に相当する限度において、その行為の効果を主張された場合には、共同相続人全員の追認がないことを主張して、その効果を否定することは信義則上許されず、このように無権代理人において追認がないことを主張し得ない以上、相手方は、追認の事実を主張立証することなくして、無権代理人たる相続人に対して、その相続分に相当する限度において、その行為の効果を主張することができることとなり、無権代理人たる相続人は、右の限度において本人が自ら法律行為をしたと同様な法律上の地位におかれる結果となるというべきである。 
 多数意見は、無権代理人が本人を他の相続人と共に共同相続した場合は、共同相続人全員において追認をしなければ、無権代理行為が有効となることはないとするが、この点は私も肯認するところである。私の意見も、共同相続人全員の追認がない場合に、無権代理行為それ自体が、たとえ無権代理人の相続分に相当する限度においても、当然に有効となるとするものではなく、ただ、信義則適用の効果として、相手方は、右の限度においては、追認の事実を主張立証することなくして、無権代理人たる相続人に対しその行為の効果を主張することができることとなるというのである。 
 三 付言するに、私の意見は、二に述べたように、無権代理行為それ自体がその相続分に相当する限度において有効となると説くものではない。したがって、これを有効とすることに伴う難点が生ずることはなく、それを理由とする批判は当たらないといえる。すなわち、部分的に有効とすることに伴う難点は、部分的有効は相手方に不利益をもたらし、かえってその保護に欠けるというものであるが、私の意見は、無権代理人が相手方からその相続分に相当する限度で無権代理行為の効果を主張された場合には、追認がないことを理由として、これを否定することはできないとするものであるにすぎないから、相手方において、民法一一五条の取消権を行使し、あるいは同法一一七条により無権代理人の責任を追及するという法的手段を採ることを妨げるものでないことはいうまでもなく、相手方に対し何ら不利益をもたらすことはないのである。 
 なお、このように、相続分に相当する限度において、相手方に対して無権代理行為の効果を否定することができないとすることは、特定物の取引行為等に関しては、相手方と他の相続人その他関係人との法律関係を複雑にするとの批判があり得よう。しかし、相手方は、右の限度での無権代理行為の効果を主張した以上、たとえその結果複雑な法律関係を生じても、それは自らの選択によるものといわなければならないし、他の相続人その他当該特定物に法律関係を有する者に及ぼす影響としては、共同相続人の一人が、相続財産たる物件につき、自己の相続分と共に、他の共同相続人の相続分についてもその無権代理人として、他と取引をした場合、あるいは当該物件につきその相続分の限度において他と取引をした場合に生ずる法律関係の複雑さと径庭はないといえるから、他の相続人その他においては、これを甘受せざるを得ないというべきである。 
 (裁判長裁判官 大堀誠一 裁判官 橋元四郎平 裁判官 味村治 裁判官 小野幹雄 裁判官 三好達) 
++解説
《解  説》
 一 本件は、無権代理人であるBが、本人である父親Aを代理して、第三者の債務につきA名義で連帯保証契約を締結した後、Aの死亡に伴い、母親と共にAの権利義務を各二分の一の割合で共同相続したため、債権者Kが、Bに対し、貸金八五〇万円の支払を求めて提起した貸金請求事件である。Kは、八五〇万円の連帯保証債務の請求につき、その二分の一は資格融合を理由とする無権代理人Bの相続分に相当する契約責任の履行を求め、残る二分の一は民法一一七条の無権代理人の責任の履行を求める旨を主張した。
 争点は、無権代理人が他の相続人と共に本人を共同相続した場合に、連帯保証契約が、無権代理人の相続分に相当する限度で、当然に有効となるか否かである。
 二 原審は、貸主には過失があるので民法一一七条に基づくBの無権代理人としての責任は認められないとしたが、無権代理人が単独で本人を相続した場合に限らず、無権代理人と他の者とが共同で本人を相続した場合であっても、その無権代理人が承継すべき本人の法的地位の限度では、本人自らしたのと同様の効果が生じるとした上、本件においては、母親と無権代理人たるBとが、金銭債務について、本件連帯保証契約の当事者たる本人Aの地位を各二分の一の割合により相続承継し、この地位は既に確定的なものとなっているのであるから、無権代理人たるBが相続により本人たるAの地位を承継した分について、本人自らが本件連帯保証契約をしたのと同様の効果を生じ、Bがその連帯保証責任を負うべきであり、Bは、Kに対し、Aの連帯保証のうちBが相続承継した二分の一に相当する部分、すなわち、Kの請求額の二分の一の四二五万円の支払をなすべきであると判断し、その限度でKの請求を認容した。
 Bが上告し、無権代理人が他の相続人と共に本人を共同相続した場合に、無権代理行為が無権代理人の相続分に相当する部分において有効となるとした原審の判断には、法令の解釈適用の誤りがあると主張した。
 三 本判決は、「無権代理人が本人を他の相続人と共に共同相続した場合において、無権代理行為を追認する権利は、その性質上相続人全員に不可分的に帰属するところ、無権代理行為の追認は、本人に対して効力を生じていなかった法律行為を本人に対する関係において有効なものにするという効果を生じさせるものであるから、共同相続人全員が共同してこれを行使しない限り、無権代理行為が有効となるものではないと解すべきである。」として、共同相続人全員が共同して無権代理行為の追認をしない限り、無権代理行為は無権代理人の相続分に相当する部分においても有効とはならない旨を判示して、KのBに対する請求を一部認容した原審の判断には、法令の解釈適用を誤った違法があるとして、原判決を破棄し、原告の請求を棄却した。
 四 無権代理と相続に関する判例には、(1) 最二小判昭40・6・18民集一九巻四号九八六頁、本誌一七九号一二四頁(無権代理人相続型の事案につき、「無権代理人が本人を相続し、本人と代理人との資格が同一人に帰するにいたった場合には、本人が自ら法律行為をしたのと同様な法律上の地位を生じたものと解するのが相当である。」旨を判示して、資格融合説に立ち、無権代理行為が当然有効となるとするもの)、(2) 最二小判昭37・4・20民集一六巻四号九五五頁、本誌一三九号六五頁(本人相続型の事案につき、「本人が無権代理人の家督を相続した場合、被相続人の無権代理行為は、右相続により当然には有効となるものではない。」旨を判示して、信義則説に立ち、無権代理行為が当然有効とはならないとするもの)などがある。しかし、無権代理人が他の相続人と共に本人を共同相続した場合に、右(1)判例と同様の結論となるか否かは、残された問題とされていた。
 五 金銭債権と金銭債務の共同相続の効果に関する判例としては、金銭債権の共同相続につき、「相続人数人ある場合において、相続財産中に金銭その他の可分債権あるときは、その債権は法律上当然分割され各共同相続人がその相続分に応じて権利を承継するものと解すべきである。」旨を判示する最一小判昭29・4・8民集八巻四号八一九頁、及び、金銭債務の共同相続につき「連帯債務者の一人が死亡し、その相続人が数人ある場合に、相続人らは、被相続人の債務の分割されたものを承継し、各自その承継した範囲において、本来の債務者とともに連帯債務者となると解すべきである。」を判示する最二小判昭34・6・19民集一三巻六号七五七頁があり、金銭その他の可分債権及び金銭債務その他の可分債務は、法律上当然に分割され、各共同相続人がその相続分に応じてこれを承継するとの判例法理が確立しているものと解される。
 しかしながら、無権代理人は、無権代理人としての地位(民一一七条の責任のある地位)と、本人から相続により承継取得した本人としての地位(追認ないし追認拒絶をなし得る地位)とを併有し、無権代理人を含む共同相続人が、本人の有していた無権代理行為の追認権を共同で不可分的に承継取得する場合には、追認権の準共有関係が生じ(民二六四条)、無権代理行為を有効とするには無権代理人を含む相続人全員の同意が必要であり(民二五一条)、相続人全員の同意があってはじめて有効となるものと解される。無権代理人が本人を共同相続した場合に、無権代理行為が無権代理人の相続分に相当する部分において当然有効になるとする見解は、他の共同相続人の利益を損ない、法律関係を複雑にするのみならず、相手方の利益をも害する結果となる。
 そして、前記のとおり、本人から相続するのは追認権であり、本件における追認の対象はあくまでも無権代理行為たる連帯保証契約であり、右追認権の分割行使も許されないものと考えられるから、共同相続人全員が追認をした事実、あるいは、他の共同相続人が追認をした事実も認められない本件においては、無権代理行為たる連帯保証契約は、無権代理人の相続分に相当する部分についても当然に有効になるものではないと解すべきであろう。
 なお、無権代理行為が当然に有効とならないとする本判決の見解に立つと、(1)共同相続人は、本人の資格で追認をするかどうかを各自の立場で選択することができ(民一一三条)、(2)共同相続人の全員で追認をすれば無権代理行為は当初から有効なものと確定するが(民一一六条)、(3)追認のない場合ないし共同相続人の一人でも追認を拒絶した場合には、無権代理人自身の法的責任が問題となり、無権代理人において相手方が悪意・有過失であったことを証明しない限り(民一一七条二項)、相手方の選択に従い、無権代理人は履行ないし損害賠償の義務を負担しなければならないものとなる(民一一七条一項)。
 六 本判決は、無権代理人が本人を共同相続した場合における無権代理行為の効力につき、最高裁として初めての判断を示したもので、重要な判例である。
 なお、本判決と同日に言い渡された最高裁第一小法廷判決(本誌八一五号一二一頁)も、不動産を処分した無権代理人が、他の相続人と共に本人を共同相続した事案につき、無権代理行為は無権代理人の相続分に相当する部分においても当然に有効となるものではない旨、本判決と同じ法理を示して、無権代理人を含む共同相続人から右不動産に根抵当権設定登記を得た者に対する抹消登記請求を認容している。
(2)無権代理人相続型における、悪意ないし有過失の相手方の処遇
(3)本人相続型における、本人が相続する無権代理人の責任の範囲
5.理解をさらに展開する~より複雑な事案に挑戦する
・双方相続型
+判例(S63.3.31)
・無権代理人が本人から譲り受けた場合
+判例(S41.4.26)
理由
上告代理人入谷規一、同守田利弘の上告理由について。
原審の確定するところによれば、上告人Aは、昭和三四年一一月二六日訴外Bの無権代理人として同訴外人所有の本件不動産を被上告人に売り渡したところ、その後の同三五年一月五日同訴外人から右不動産の譲渡をうけ、その所有権を取得するにいたつたというのである。
右の事実によれば、前記売買契約は、上告人Aの無権代理行為に基づくもので無効であるが、無権代理人たる同上告人は、民法一一七条の定めるところにより、相手方たる被上告人の選択に従い履行又は損害賠償の責に任ずべく、相手方が履行を選訳し無権代理人が前記不動産の所有権を取得するにいたつた場合においては、前記売買契約が無権代理人(同上告人)自身と、相手方(被上告人)との間に成立したと同様の効果を生ずると解するのが相当である。したがつて、上告人Aが被上告人の代金支払債務不履行を理由に本件売買契約を解除した旨主張していること記録上明らかな本件においては、右契約の効果が被上告人主張の追認により本人たるBに帰属し上告人Aは民法一一七条による履行の責に任じない等の事実が明らかにされないかぎり、原審としては前記上告人主張事実の存否について審理判断すべきであるにかゝわらず、原審が、前記追認の存否について審理することなく原判示の理由のもとに上告人Aは本件売買契約における売主でないとして、上告人の前記主張を排斥したのは違法であり、原判決はこの点において破棄を免れない。そして、前記事実の存否については、なお審理をする必要があるから、この点についてさらに審理を尽くさせるため、本件を原審に差し戻すのを相当と認める。
よつて、民訴法四〇七条に従い、裁判官全員の一致で、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 柏原語六 裁判官 五鬼上堅磐 裁判官 横田正俊 裁判官 田中二郎 裁判官 下村三郎) 


民法 基本事例で考える民法演習 委任の解除をめぐる法律関係~請負の解除と比較して


1.小問1(1)について(基礎編)
+(委任)
第六百四十三条  委任は、当事者の一方が法律行為をすることを相手方に委託し、相手方がこれを承諾することによって、その効力を生ずる。

+(準委任)
第六百五十六条  この節の規定は、法律行為でない事務の委託について準用する。

+(委任の解除)
第六百五十一条  委任は、各当事者がいつでもその解除をすることができる
2  当事者の一方が相手方に不利な時期に委任の解除をしたときは、その当事者の一方は、相手方の損害を賠償しなければならない。ただし、やむを得ない事由があったときは、この限りでない。

・解除権放棄特約は有効である!!!

・「受任者の利益をも目的とするとき」には、委任者は651条1項に基づく解除ができない!

・単に報酬の特約があるだけでは、受益者の利益を目的とした委任とはいえない!
+判例(S43.9.3)

+判例(S58.9.20)
理由
上告代理人鶴見祐策の上告理由第一点ないし第六点、並びに上告人の上告理由第一、第二点について
原審が適法に確定した事実関係によれば、本件税理士顧問契約は、被上告会社が、税理士である上告人の高度の知識及び経験を信頼し、上告人に対し、税理士法二条に定める租税に関する事務処理のほか、被上告会社の経営に関する相談に応じ、その参考資料を作成すること等の事務処理の委託を目的として締結されたというのであるから、全体として一個の委任契約であるということができる。
ところで、委任契約は、一般に当事者間の強い信頼関係を基礎として成立し存続するものであるから、当該委任契約が受任者の利益をも目的として締結された場合でない限り、委任者は、民法六五一条一項に基づきいつでも委任契約を解除することができ、かつ、解除にあたつては、受任者に対しその理由を告知することを要しないものというべきであり、この理は、委任契約たる税理士顧問契約についてもなんら異なるところはないものと解するのが相当である。
所論は、税理士顧問契約においては、税理士が受任事務を処理するにあたつては税理士法により諸種の規制を受けており、これによつて委任者の民法六五一条一項に基づく解除権は制限されていると主張する。しかしながら、税理士法による規制は、税理士顧問契約の委任契約としての性質をなんら変更するものでないから、同法による規制があるといつて、委任者の契約解除権が制限されると解することはできない。論旨は、独自の見解であつて、採用することができない。
所論は、さらに本件税理士顧問契約は、顧問料を支払う旨の特約があるから、受任者の利益をも目的として締結された契約であると主張する。しかしながら委任契約において委任事務処理に対する報酬を支払う旨の特約があるだけでは、受任者の利益をも目的とするものといえないことは、当裁判所の判例とするところであり(最高裁昭和四二年(オ)第一三八四号同四三年九月三日第三小法廷判決・裁判集民事九二号一六九頁)、また、税理士顧問契約における受任事務は、一般に、契約が長期間継続することがその的確な処理に資する性質を有し、当事者も、通常は、相当期間継続することを予定して税理士顧問契約を締結するものであり、本件税理士顧問契約において、依頼者たる被上告会社から継続的、定期的に支払われていた顧問料が上告人の事務所経営の安定の資となつていた等の原判決判示の事由も、これをもつて受任者の利益に該当するものということはできない。論旨は、独自の見解であつて、採用することができない。
以上説示したところによれば、本件税理土顧問契約は、被上告会社が民法六五一条一項に基づき、いつでも解除しえたものであるから、被上告会社がした本件解除の意思表示により終了したものというべきであり、これと結論を同じくする原審の判断は、結局、正当として是認することができる。所論中その余の点は、判決の結論に影響を及ぼさない原判決の説示部分を論難するか、又は独自の見解に基づいて原判決の不当をいうものにすぎず、論旨はいずれも採用することができない。
上告代理人鶴見祐策の上告理由第七点及び第八点、並びに上告人の上告理由第三点について
所論の点に関する原審の認定判断は、原判決挙示の証拠関係に照らし、正当として是認することができ、その過程に所論の違法はない。論旨は、ひつきよう、原審の専権に属する証拠の取捨判断、事実の認定を非難するか、又は独自の見解に基づいて原判決を論難するものにすぎず、いずれも採用することができない。
よつて、民訴法四〇一条、三九六条、三八四条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
(木戸口久治 横井大三 伊藤正己 安岡滿彦)

・受任者の利益を目的とした委任であっても、受任者に債務不履行があった時には、委任者は委任契約を解除できる。

・受任者が著しく不誠実な行為に出る等やむを得ない事由があるときには651条1項に基づく解除ができる!!
+判例(S40.12.17)

+判例(S43.9.20)
理由
上告代理人福間昌作の上告理由第一点について。
原審の確定する事実によれば、合名会社米山商事をも含めた訴外真水建設株式会社に対する債権者が、右真水建設の事業を継続せしめてその再建をはかることにより自らの債権の満足をえようとして、米山商事の代表者米山らが真水建設よりその経営一切の委任を受けたというのであり、右委任に基づいて米山らは本件請負工事を続行したというのであるから、本件委任事務の処理は、委任者の利益であると同時に受任者の利益でもある場合にあたるものというべきである。そして、委任が当事者双方の対人的信用関係を基礎とする契約であることに徴すれば、右のような場合において、受任者が著しく不誠実な行動に出た等やむをえない事由があるときは、委任者は民法六五一条に則り委任契約を解除することができるものと解するのを相当とする(昭和三九年(オ)第九八号・同四〇年一二月一七日第二小法廷判決・裁判集八一号五六一頁)。
而して、原審の確定する事実によれば、米山商事は、真水建設の乗用車一台を私物視して他の債権者に非難され、また、真水建設所有の不動産を他の債権者および真水建設の承諾もなく所有名義を米山商事に移転したため、他の債権者の足並みが乱れ、右事実に端を発し、他の債権者も我勝ちに真水建設の動産類を持ち出し、遂に真水建設は不渡を出すに至つた、というのであるから、このような受任者である会社の代表者米山らの行動は、著しく不誠実なものというべく委任者たる真水建設としては、委任契約を解除するに足りるやむをえない事由あるものということができる。したがつて、真水建設のした本件委任契約解除の意思表示を有効と認めた原審の判断は、結局、正当である。
所論は、米山に対する経営委任と本件建築工事遂行および代金受領事務の委任とを別個の委任契約に基づくものであるとの前提のもとに、米山商事の不信行為は、建築工事請負代金受領事務の委任を解除する理由たりえない旨主張するが、原審の確定する事実によれば、所論のごとく別個の委任契約が成立したものではないから、右論旨は、原審の確定しない事実関係に立つて原判決を非難するに帰し、採ることをえない。また、原審の確定する事実関係に照らせば、本件委任契約の解除をもつて、信義誠実の原則に反し、権利の濫用にあたるものとすることはできず、原審の判断は正当である。それ故、原判決には所論のごとき違法はなく、論旨は理由がない。
同第二点について。
所論の約定遅延損害金債権に基づく相殺契約の主張は、上告人の被承継人である有限会社加藤与吉商店と米山商事との間に成立した旨主張されているのであることは本件記録上明らかであり、被上告人に対し右反対債権をもつて相殺の主張がされているものと解することはできない。所論引用の判例はいずれも本件に適切でなく、原判決には所論のごとき違法はない。それ故、論旨は理由がない。
同第三点について。
所論の点に関する上告人の抗弁の要旨は、米山商事との間の法律行為により請負代金債務が消滅したものであることを主張するものであることは本件記録に照らして明らかであり、所論のごとく真水建設との間の債務消滅の法律行為を主張するものではない。したがつて、この点につき判断を加えなかつた原判決に所論のごとき違法ありとはいえず、論旨は理由がない。
同四点について。
原審に所論のごとき釈明義務あるものとすることはできないから、所論の点について釈明権を行使しなかつた原審に釈明権不行使の違法ありとすることはできない。所論引用の判例は必ずしも本件に適切なものとはいえず、原判決には所論の違法はなく、論旨は理由がない。
よつて、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員の一致で、主文のとおり判決する。(奥野健一 草鹿浅之介 城戸芳彦 石田和外 色川幸太郎)

・解除権の放棄について
+判例(S56.1.19)
理由
上告代理人岩田豊の上告理由について
原審が適法に確定した事実関係は、おおよそ次のとおりである。
訴外Aは、昭和三七年九月一三日その所有の共同住宅である本件建物を、一括して訴外菱造船不動産株式会社(商号変更後は関東菱重興産株式会社)に賃貸し、同日建築及び不動産の管理を業とする被上告人との間で、本件建物の管理契約を締結した。
2本件管理契約において、被上告人は、貸借人からの賃料の徴収、本件建物の公租公課の支払、修理等本件建物の賃貸に関する事務の一切を任されたほか、貸借人がAに差し入れる保証金八八〇万円の保管を委ねられた
3そして、被上告人は、右の管理を無償で行うほか、保証金を保管する間、月一分の利息をAに支払う旨約したが、その代わりにAは、被上告人が右の保証金を自己の事業資金として常時自由に利用することを許した。
4本件建物の賃貸借契約の期間は二年であるが、このような短かい期間が定められたのはその間の物価の変動を考慮したものにすぎず、本件管理契約の期間は五年と定められ、更新も認められた。
5その後両契約とも順次更新され、被上告人は、昭和四八年八月までの約一一年間、右の保証金を自己の事業資金として利用していたところ、Aは、同年九月一日被上告人に対し、本件管理契約の解除の意思表示をし、右の保証金の返還を請求した。
以上の原審の認定は、原判決挙示の証拠関係に照らし、正当として是認することができ、右の事実関係のもとでは、本件管理契約は、委任者たるAに利益を与えるのみならず、受任者たる被上告人にも、本件建物の賃貸借契約及び本件管理契約が存続する限り、右の保証金を自己の事業資金として常時自由に利用することができる利益を与えるものであるとした原審の判断は、正当として是認することができる。右認定判断の過程に所論の違法はない。
ところで、本件管理契約は、委任契約の範ちゆうに属するものと解すべきところ、本件管理契約の如く単に委任者の利益のみならず受任者の利益のためにも委任がなされた場合であつても、委任契約が当事者間の信頼関係を基礎とする契約であることに徴すれば、受任者が著しく不誠実な行動に出る等やむをえない事由があるときは、委任者において委任契約を解除することができるものと解すべきことはもちろんであるが(最高裁昭和三九年(オ)第九八号同四〇年一二月一七日第二小法廷判決・裁判集八一号五六一頁、最高裁昭和四二年(オ)第二一九号同四三年九月二〇日第二小法廷判決・裁判集九二号三二九頁参照)、さらに、かかるやむをえない事由がない場合であつても、委任者が委任契約の解除権自体を放棄したものとは解されない事情があるときは、該委任契約が受任者の利益のためにもなされていることを理由として、委任者の意思に反して事務処理を継続させることは、委任著の利益を阻害し委任契約の本旨に反することになるから、委任者は、民法六五一条に則り委任契約を解除することができ、ただ、受任者がこれによつて不利益を受けるときは、委任者から損害の賠償を受けることによつて、その不利益を填補されれば足りるものと解するのが相当である。
しかるに原審が、受任者である被上告人の利益のためにも委任がなされた以上、委任者であるAはやむをえない事由があるのでない限り、本件管理契約を解除できないと解し、Aが解除権自体を放棄したものとは解されない事情があるか否かを認定しないで、同人のした本件管理契約の解除の効力を否定したのは、委任の解除に関する法令の解釈適用を誤り、ひいては、審理不尽、理由不備の違法をおかしたものというべく、右違法が判決に影響を及ぼすことは明らかである。この点に関する論旨は、結局理由があり、その余の論旨について判断するまでもなく、原判決は破棄を免れない。そして、本件についてはさらに審理を尽くさせるのが相当であるから、これを原審に差し戻すこととする。
よつて、民訴法四〇七条一項に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 宮﨑梧一 裁判官 栗本一夫 裁判官 木下忠良 裁判官 塚本重頼 裁判官 鹽野宜慶)

・委任契約の解除には、遡及効は認められていない!
債務不履行に基づく解除も同様である!
+(委任の解除の効力)
第六百五十二条  第六百二十条の規定は、委任について準用する。
+(賃貸借の解除の効力)
第六百二十条  賃貸借の解除をした場合には、その解除は、将来に向かってのみその効力を生ずる。この場合において、当事者の一方に過失があったときは、その者に対する損害賠償の請求を妨げない。

2.小問1(1)について(応用編)
・登記申請事務の委託の場合

+判例(S53.7.10)
理由
上告代理人松尾利雄の上告理由について
一 原判決によれば、上告人らが本件請求の原因として主張するところは、次のとおりである。
(1) 上告人A、同B及び訴外Cは、昭和四二年六月一二日から昭和四三年一月一八日までの間に株式会社入江工務店から第一審判決添付の目録に記載の三筆の土地(以下「本件土地」という。)をそれぞれ買い受け、手付を支払い、Cは、上告人Dに対し、買主の地位を譲渡した。
(2) 上告人らは、昭和四三年二月八日、売主とともに司法書士である被上告人に対し、本件士地について所有権移転の仮登記手続を委託し、売主及び買王の委任状、印鑑証明書、資格証明書等登記手続に必要な書類を交付したところ、被上告人は、その数日後、売主からその交付にかかる登記手続に必要な書類の返還を求められ、買主である上告人らの同意を得ることなく、直ちにこれを売主に返還した。
(3) 売主は、それから程なく同年三月初めに倒産し、本件土地は、他に売却され所有権移転登記がされたため、上告人らは、本件土地について登記を経由することができず、結局、本件土地の所有権を取得することができなくなり、損害を被つた。右損害の額は、少なくとも、上告人らが売主に交付した手付のうちその後、売主から一部返還を受けた額を控除した残額に相当する額である。
(4) 登記権利者、登記義務者の双方から登記手続の委託を受けた被上告人としては、登記義務者からその交付にかかる登記手続に必要な書類の返還を求められても、登記権利者の同意がなければ、返還すべきではなく、これを返還したことは、上告人らとの委任契約上の債務不履行となるものであり、被上告人は、上告人らの被つた前記損害を賠償すべきである。

二 上告人らの右主張についての原審の判断は、次のとおりである。
(1) 不動産の売買契約の履行として、売主と買主の双方が司法書士に登記手続を委託する場合に、右三者間に特段の約定がされない限り、各委任契約は、単純に併存するのにすぎず、一方が他方の制約を受けたり、運命を共にしなければならない関係にはなく、一方の委任者は、他方の委任者の同意を要することなく委任契約を解除することができる。
(2) このように、一方の委任者である入江工務店は、受任者である被上告人との間の登記手続の委任契約をいつでも解除することができるのであるから、受任者としては、登記手続に必要な書類の返還を求められれば、それを拒むことはできない。それ故、被上告人が入江工務店の求めに応じて右書類を返還したため、登記手続が不能になつたとしても、上告人らと被上告人との間の委任契約の債務不履行又は善管注意義務違反になるものではなく、被上告人に対して損害賠償を求める上告人らの請求は、理由がない。

三 思うに、不動産の売買契約においては、当事者は、代金の授受、目的物の引渡し、所有権移転等の登記の経由等が障害なく行われ、最終的に目的物の所有権が完全に移転することを期待して契約を締結するものであり、法律も当事者の右期待にそい、その権利を保叢すべく機能しているというべきである。そして、不動産の買主は、登記を経由しない限り、第三者に対抗しうる完全な所有権を取得することができないのであるから、登記手続の履行は、売買契約の当事者が行うべき最も重要な行為の一つであるということができるが、登記所に対して登記申請をするには、ある程度の専門的知識を必要とするから、現今の社会では、右のような登記手続は、司法書士に委託して行われるのが一般であるといつてよく、この場合に、売買契約の当事者双方がいつたん右手続を同一の司法書士に委託した以上、特段の事情のない限り、右当事者は、登記手続が支障なく行われることによつて右契約が履行され、所有権が完全に移転することを期待しているものであり、登記手続の委託を受けることを業とする司法書士としても、そのことを十分に認識しているものということができる。このことは、所有権移転登記手続に限らず、その前段階ともいえる所有権移転の仮登記手続の場合も同様である。そうすると、売主である登記義務者と司法書士との間の登記手続の委託に関する委任契約と買主である登記権利者と司法書士との間の登記手続の委託に関する委任契約とは、売買契約に起因し、相互に関連づけられ、前者は、登記権利者の利益をも目的としているというべきであり、司法書士が受任に際し、登記義務者から交付を受けた登記手続に必要な書類は、同時に登記権利者のためにも保管すべきものというべきである。したがつて、このような場合には、登記義務者と司法書士との間の委任契約は、契約の性質上、民法六五一条一項の規定にもかかわらず、登記権利者の同意等特段の事情のない限り、解除することができないものと解するのが相当である。このように、登記義務者は、登記権利者の同意等かない限り、司法書士との間の登記手続に関する委任契約を解除することができないのであるから、受任者である司法書士としては、登記義務者から登記手続に必要な書類の返還を求められても、それを拒むことができるのである。また、それと同時に、前記のように、司法書士としては、登記権利者との関係では、登記義務者から交付を受けた登記手続に必要な書類は、登記権利者のためにも保管すべき義務を負担しているのであるから、登記義務者からその書類の返還を求められても、それを拒むべき義務があるものというべきである。したがつて、それを拒まずに右書類を返還した結果、登記権利者への登記手続が不能となれば、登記権利者との委任契約は、履行不能となり、その履行不能は、受任者である司法書士の責めに帰すべき事由によるものというべきであるから、同人は、債務不履行の責めを負わなければならない。
そうすると、前記のとおり、被上告人に委任契約の債務不履行又は善管注意義務違反はないとして上告人らの損害賠償請求を排斥した原審の判断は、法令の解釈適用を誤つたものであり、その誤りは、判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、この点に関する論旨は、理由があり、その余の点について判断するまでもなく、原判決は破棄を免れず、更に、審理を尽くさせるため、本件を原審に差し戻すこととする。
よつて、民訴法四〇七条一項に従い、裁判官全員一致の意見で主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 岸盛一 裁判官 岸上康夫 裁判官 団藤重光 裁判官 藤崎萬里 裁判官 本山亭)

3.小問1(2)について
+(受任者の報酬)
第六百四十八条  受任者は、特約がなければ、委任者に対して報酬を請求することができない。
2  受任者は、報酬を受けるべき場合には、委任事務を履行した後でなければ、これを請求することができない。ただし、期間によって報酬を定めたときは、第六百二十四条第二項の規定を準用する。
3  委任が受任者の責めに帰することができない事由によって履行の中途で終了したときは、受任者は、既にした履行の割合に応じて報酬を請求することができる

+(受任者による費用の前払請求)
第六百四十九条  委任事務を処理するについて費用を要するときは、委任者は、受任者の請求により、その前払をしなければならない

←これについても後払いの特約をすることもできる。

+(受任者による費用等の償還請求等)
第六百五十条  受任者は、委任事務を処理するのに必要と認められる費用を支出したときは、委任者に対し、その費用及び支出の日以後におけるその利息の償還を請求することができる
2  受任者は、委任事務を処理するのに必要と認められる債務を負担したときは、委任者に対し、自己に代わってその弁済をすることを請求することができる。この場合において、その債務が弁済期にないときは、委任者に対し、相当の担保を供させることができる。
3  受任者は、委任事務を処理するため自己に過失なく損害を受けたときは、委任者に対し、その賠償を請求することができる。

+(受任者による受取物の引渡し等)
第六百四十六条  受任者は、委任事務を処理するに当たって受け取った金銭その他の物を委任者に引き渡さなければならない。その収取した果実についても、同様とする。
2  受任者は、委任者のために自己の名で取得した権利を委任者に移転しなければならない。

+(受任者による報告)
第六百四十五条  受任者は、委任者の請求があるときは、いつでも委任事務の処理の状況を報告し、委任が終了した後は、遅滞なくその経過及び結果を報告しなければならない。
+(委任の終了後の処分)
第六百五十四条  委任が終了した場合において、急迫の事情があるときは、受任者又はその相続人若しくは法定代理人は、委任者又はその相続人若しくは法定代理人が委任事務を処理することができるに至るまで、必要な処分をしなければならない。
4.小問2について
・請負契約の場合
+第六百三十五条  仕事の目的物に瑕疵があり、そのために契約をした目的を達することができないときは、注文者は、契約の解除をすることができる。ただし、建物その他の土地の工作物については、この限りでない。
+(注文者による契約の解除)
第六百四十一条  請負人が仕事を完成しない間は、注文者は、いつでも損害を賠償して契約の解除をすることができる。
=請負人の債務不履行を前提としない。
・「損害賠償」とは一般に「履行利益の賠償」と解されている!
・請負契約の解除の遡及効について。
545条1項本文がそのまま妥当し遡及効があることになる。
ただし、
+判例(S7.4.30)
要旨
事実上の遡及効の制限
一部の建物がすでに竣工した後に注文者が641条に基づき契約を解除した事案につき、給付が可分であって、完成した部分だけでも当事者にとって利益があるときは、完成部分について契約を解除することはできず、未完成部分に関してのみ解除できる。
+判例(S56.2.17)
理由 
 上告代理人榊原正毅、同榊原恭子の上告理由一について 
 原審が確定したところによれば、(1) 訴外株式会社中谷工務店(以下「中谷工務店」という。)は、昭和四六年六月九日被上告人から西舞子建売住宅の新築工事を請負つた(以下「本件建築請負契約」という。)、(2) 上告人は、中谷工務店に対し四八万七〇〇〇円の約束手形金債権を有していたところ、これを保全するため、昭和四六年七月三一日中谷工務店が被上告人に対して有していた本件建築請負契約に基づく工事代金債権のうち四八万七〇〇〇円につき債権仮差押決定をえ、右決定は同年八月二日第三債務者である被上告人に送達された、(3) 当時、被上告人は中谷工務店に対し少くとも四八万七〇〇〇円の工事代金債務を負つていた、(4) 次いで、上告人は、中谷工務店に対する右約束手形金の請求を認容した確定判決に基づき、右仮差押中の債権についての債権差押及び取立命令をえ、右命令は同年一〇月三〇日、被上告人に送達された、(5) ところが、中谷工務店は、これより先の昭和四六年八月下旬ごろには建築現場に来なくなり、同年九月一〇日までには全工事を完成することを約しながらこれを履行せず、経営困難により工事を完成することができないことが明らかとなつたため、被上告人は、右同日、中谷工務店に対し口頭で本件建築請負契約を解除する旨の意思表示をした、というのである。 
 原審は、右事実関係に基づき、本件建築請負契約が中谷工務店の債務不履行を理由に解除されたことにより、中谷工務店の被上告人に対する工事代金債権も消滅したとして、上告人の差押にかかる前記四八万七〇〇〇円の工事代金債権についての本件取立請求を排斥した。 
判旨 しかしながら建物その他土地の工作物の工事請負契約につき、工事全体が未完成の間に注文者が請負人の債務不履行を理由に右契約を解除する場合において、工事内容が可分であり、しかも当事者が既施工部分の給付に関し利益を有するときは、特段の事情のない限り、既施工部分については契約を解除することができず、ただ未施工部分について契約の一部解除をすることができるにすぎないものと解するのが相当であるところ(大審院昭和六年(オ)第一七七八号同七年四月三〇日判決・民集一一巻八号七八〇頁参照)、原判決及び記録によれば、被上告人は、本件建築請負契約の解除時である昭和四六年九月一〇日現在の中谷工務店による工事出来高が工事全体の49.4パーセント、金額にして六九一万〇五九〇円と主張しているばかりでなく、右既施行部分を引き取つて工事を続行し、これを完成させたとの事情も窺えるのであるから、かりにそのとおりであるとすれば、本件建築工事は、その内容において可分であり、被上告人は既施行部分の給付について利益を有していたというべきである。原判決が、これらの点について何ら審理判断することなく、被上告人がした前記解除の意思表示によつて本件建築請負契約の全部が解除されたとの前提のもとに、既存の四八万七〇〇〇円の工事代金債権もこれに伴つて消滅したと判示したのは、契約解除に関する法令の解釈適用を誤つたものであり、その誤りは判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、論旨は理由があり、原判決は破棄を免れない。そして、叙上の点についてさらに審理を尽くす必要があるから、本件を原審に差し戻すのが相当である。 
 よつて、その余の上告理由に対する判断を省略し、民訴法四〇七条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。 
   (伊藤正己 環昌一 横井大三 寺田治郎) 


刑法 気になる判例 不動産侵奪罪


要旨
他人の不動産の侵奪とは、不法領得の意思をもって不動産に対する他人の意思に反し、その事実上の占有を排除し、これに自己の事実上の支配を設定する行為であって、侵奪の成否については、具体的事案に応じ不動産の種類、占有侵奪の方法、態様、程度、占有期間の長短、原状回復の難易、占有排除および占有設定意思の強弱、相手方に与えた損害の有無などを総合的に判断し、社会通念に従って決しなければならない
自己の敷地に隣接する他人所有の空地に、将来その土地を買受ける予定で、それまで一時利用させてもらう意思で排水口を設置しても、その排水口の構造が29×23平方センチの口で、外側のふちの部分を入れても45×52平方センチの大きさで深さ17.5センチのものであり、地上に突出した部分もなく地下深く築造されたものでもなく、現状回復が容易であって、右排水口設置によって空地所有者の受ける損害が皆無に等しい場合には、社会通念上他人の不動産を侵奪したものということはできない。
理由
本件控訴の趣意は弁護人村岡素行作成の控訴趣意書記載のとおりであり、これに対する答弁は検察官石岡敏夫作成の意見書と題する書面中第一弁護人の控訴趣意についての意見の項記載のとおりであるからこれらを引用する。
論旨は原判示の如く本件排水口がA所有地内に築造されていることは疑いないが、(一)右排水口を右場所に設けたことは被告人の関知しなかつたことであるから、被告人には犯意がない。(二)仮りに被告人が右排水口設置について関知していたとしても、被告人は昭和三六年四月頃右A所有の土地の当時の所有者であつたBから原判示家屋とその敷地を買受けた際同女との間に、右排水口設置箇所を含む約一〇坪の土地を更にガレージ用地として買受けるため、その売買予約をなし、坪当り一万二、〇〇〇円ないし一万三、〇〇〇円の代金を提供するときは売買を完結する旨の契約が成立していたが、Bは右土地を含めた宅地をAに売却し、同人に対し被告人が右宅地のうち約一〇坪を買受ける意思があるから被告人に売つてやつてほしい旨の申入をしていたところ、被告人はこれを知つて更にAに対し右約一〇坪の土地の売買について電話で交渉し、同女から今売る意思はないが後から買つてもらうかも知れないという返事を得たが、右の如き経緯に照らし同人から売つて貰えるものと信じていたのである。従つて被告人は早晩自分の所有地になる土地に排水口を設置する位のことはAが承認しているものと信じたのであつて、右排水口設置によつて他人の不動産を侵奪する意思はなかつたものであるというのである。
よつて所論にかんがみ記録を精査し、当審における事実の取調の結果をも参酌して次のとおり判断する。
一、先ず所論(一)について案ずるに、原判決挙示の証拠殊に証人Cの原審公判廷における供述記載によれば、被告人は昭和三六年一〇月頃から昭和三七年一月頃にかけて門真市大字ab番地のc地上の妻D所有の木造瓦葺二階建居宅の改築工事をしたが、右工事にあたりその工事の請負人Cに対し同居宅の敷地西側に隣接するA所有の同町大字ab番地のd所在宅地一一一坪との境界線の二尺ないし三尺内側にあつた従来の右居宅の基礎を同境界線まで移し、右居宅の西側の壁が奥行一〇・三米にわたり同境界の限界線一杯にくるように設計を指示して工事に当らせると共に同年一一月頃従来右居宅と境界線との間にあつた排水口を改めて設置する箇所につきCから相談を受けた際隣地は買うことになつているから、右境界線の外側に設置してもかまわないといつて特に同人に指示して空地となつていた前記A所有の土地内に原判示排水口を設置させたことが認められる。この点に関し被告人は原審第五回公判においても、当審第四回公判においても、右認定に反し所論にそう供述をしているが、右供述は前記証人Cの証言及び被告人の検察官に対する供述調書に照らし措信できないのみならず、被告人は原審第一回公判における冒頭陳述において本件排水口が右Aの所有地に設置されることの認識を有したことを前提とする弁解をしており、当審第四回公判においても供述を翻えして右認識があつたことを供述しているのである。
従つて所論は到底肯認することができない。
二、次に所論(二)について案ずるに、原判決挙示の証拠並びに被告人の原審及び当審公判廷における供述記載又は供述、証人Eに対する尋問調書、証人Fの当審公判廷における供述によると、
前記D所有の本件家屋及びその敷地は昭和三六年四月頃被告人が被告人ら家族の住居として使用する目的で妻である同女に代り同女名義でBから買受けたものであるが、その際被告人はガレージ用地として西側に隣接する空地のうち約一〇坪を更に買受けたい意向をもつていたが、当時の所有者てあつたBに対し、その意向を話したことがあつたことは認められるが、同女との間にその際所論のような売買予約があつたことは証拠上認められない。(被告人も当審公判廷において所論のように坪当りの代価についてBに話したことを否定しているのである。)そして、右西側の空地はその後同年六月末頃BからAに売却され、その所有権移転登記を了したこと、被告人は同年九月の第二室戸台風により本件家屋が破損し改築の必要に迫られたために同年一〇月頃大工Cに改築工事を請負わせることとなつたが、右工事にあたりその家屋の西側にガレージ用地を設けると共に家屋の西側部分を前記の如く拡張して増築工事をしようと計画し、Bに対し改めて隣地約一〇坪を買受けたい旨申入れが、既にAの所有となつていたため、更に同女に対し電話で交渉したところ、同女から今売る意思はないといつて断わられたこと、その後同女に対し交渉を重ねることなく、右計画に従つて本件家屋の増改築工事をCに進めさせ、本件排水口を前記の如くA所有の土地に設置させたことが認められる。従つて右の如き経緯に照らし被告人が本件排水口を設置することについて同人が承認しているものと信じたといら所論は到底肯認することができない。
三、以上の次第で所論(一)(二)はいずれも理由がないが、右の如く承諾なしに本件の排水口を他人所有の空地に設置したことが不動産侵奪罪を構成するかどうかについては主観、客観の両側面から尚検討を要するものと考えられるので、更にこの点について職権をもつて調査し検討することとする。
案ずるに刑法二三五条の二の不動産侵奪罪は右規定の位置と右規定が刑法の一部を改正する法律(昭和三五年法律八三号)によつて制定されるに至つた立法の趣旨と経緯からみてその性質は一種の財産犯であるから右規定にいう他人の不動産の侵奪とは不法領得の意思をもつて不動産に対する他人の意思に反し、その事実上の占有を排除し、これに自己の占有すなわち事実上の支配を設定する行為であると解せられ、右にいう侵奪には主観的要件として窃盗罪におけると同様に不法領得の意思を必要とすると共に客観的要件として不動産に対する他人の占有の排除と自己の占有の設定とが必要である。そして如何なる行為があつたときにこれを侵奪とみるかについては具体的事案に応じ、不動産の種類、占有侵奪の方法、態様、程度、占有期間の長短、原状回復の難易、占有排除及び占有設定意思の強弱、相手方に与えた損害の有無などを綜合的に判断して社会通念にしたがつて決しなければならないものである。
よつて先ず行為の主観的側面について考察すると、前記の如く被告人は昭和三六年一〇月より昭和三七年一月にかけて本件家屋を改築するに際し、前記の如き経緯でAから西側に隣接する同女所有の宅地のうち約一〇坪の買受の申入を一応拒否されたのに拘らず、改築工事の請負人Cに対し、右家屋西側部分を同女所有の宅地との境界線まで拡張して工事をするように指示し、これにともないその拡張された右家屋の西側部分の庇が境界をこえる工事をさせると共に同女の所有地内に土管を通し本件排水口を設置させたものであつて、このような工事をすることにつき被告人は同女の承認を得ていないけれども、その宅地が隣接の空地てあつていずれは交渉によつて買受けることができるかも知れないと考え、一応その前提に立つていたものであり、もし買受けができない場合には本件排水口を取壊して収去するつもりであつたことは被告人の司法警察員及び検察官に対する各供述調書、原審及び当審公判廷において供述するところと、原審証人C、当審証人Fの各証言に徴し認められるところであり、被告人が供述するようにAに電話でその所有地の分譲の申入をして同人から断わられた際今は売るつもりがないが、時期がくれば売るかも知れないと同女がいつた点は否定できないのであつてこれに反する同女の証言は同女の所有地が空地であつて将来アパート建設のつもりで買受けながら現在も尚空地のままであることに徴し措信できない。
そして被告人が本件排水口を収去するつもりであつたことは次に述べるようなその構造からみても容易に首肯できるところであつて、被告人が現在に至るも尚右収去ができないでいるのは、Aの夫Eが司法警察員作成の実況見分調書添付の写真で明らかなように本件家屋西側外壁に接してバラツクの小屋を建て本件排水口をその小屋の中にとりこみ立入を禁止しているからであると認められる。従つて被告人が本件排水口をA所有の宅地内に設置したことはその当該土地部分を買受けることを一応予定しての行為てあつて、右設置によつて他人の土地をとりこむ意思がなかつたことは勿論たまたま空地となつていたので、もし買受けができなくなつても、それまでの間空地を一時的に利用させて貰う意思であつたものと考えられるから、本件排水口の設置にあたり被告人に不法領得の意思があつたものとは認め難いのである。
次に行為の客観的側面を考察すると、本件空地における排水口の構造は原判示によれば縦約四〇糎、横約三〇糎、深さ約五〇糎のコンクリート製のものというのであるが、司法警察員作成の実況見分調書によると、本件家屋の表側より四・六米入つた右家屋の西側の地点に東西に三〇糎、南北に四〇糎の排水口が設けられているとの記載があり、右実況見分調書添付の写真6号と当審の検証調書によつて右排水口の外見上の構造をみるとその口は本件家屋の西側壁から約一七糎の処に東西二九糎、南北二三糎の矩形の穴て深さは一七・五糎であり排水口の側壁となつているふちの部分を入れて四五×五二平方糎の大きさであり、口の内側の東と南の部分に土管の口があり、右側壁の内側とふちの部分のほか矩形のふちをはみ出して土地の上部に半円形にセメントが塗つてあるという構造のものであり、地上に突出した部分もなく、又地下深く築造したものでもないのであつて、当審証人Fの証言にあるように右排水口を取壊して収去し元の現状に回復するには半時間位で費用も一、〇〇〇円位を要する簡単な作業ですみ、右排水口をとりのけた後の排水は本件家屋の床下に土管を設置して表側の別の排水口へ流すことが可能であると認められ、従つて本件排水口の設置により空地所有者の受ける損害は皆無に等しいのである。その他本件につきこのような排水口を設置するに際し、所有者の占有を排除するため塀その他の工作方法を特に講じた形跡も存しないのである。さすれば右排水口の設置部分についてその空地の所有者であるAの土地占有が客観的に完全に排除され、被告人が本件排水口を設置することによつてその部分の土地につき自己の支配を確定的にする占有を新たに設定したと認めることは社会通念上到底許容できないところである。
以上認定の如く本件排水口を設置した部分の土地を買受けることを予定し、もし買受けることができなければ直ちにこれを収去するが、それまで他人の空地を一時利用させて貰う意思で約一一一坪に及ぶ広い空地に前記の如きその口がわずか二九糎×二三糎のそれも容易に収去できる排水口を設置した行為はその主観、客観両側面を綜合し、社会通念に照らして考察するときは一種の使用侵奪ともいうべき行為であり、いまだもつて不動産侵奪罪にいう他人の不動産を侵奪した行為に該当しないというべきである。すなわち本件排水口の設置の行為が不動産侵奪罪を構成するには侵奪の客観的要件において既に充足がなく、主観的要件においても領得の意思が欠除していたものと認めざるを得ないのである。
本件起訴状の公訴事実によると「………排水口を築造する等してA所有の不動産を侵奪したものである。」と記載され「築造する等して」の等は前記実況見分調書の記載にあるように本件家屋の西側壁がA所有地との境界線を約一〇糎、右家屋西側の庇が地上約二米の箇所で右境界線を約三五糎越境していることも含ませた趣旨に考えられるが、右実況見分調書の境界線は本件家屋の増改築修了後同家屋の北側道路に設けられた境界杭を基準とするものであつて、右基準が正当のものであるかどうか直ちに断定し難いのみならず、被告人の捜査機関に対する各供述調書や前記C、同Fの各証言に徴し右庇の部分が越境していたことは疑いがないが、右家屋西側壁が越境していたものとは認め難く、そして庇の越境については地上より上空二米の位置にあつて、土地所有者の利用を特段に妨げるものではなく、又前記の如くもし隣地が買取れない場合は越境部分を取除く意思であり、わずか上空の庇が三五糎つき出したからといつてこれを以つて不動産侵奪罪を構成するものとはいえないことは明らかである。前記排水口の設置を含め被告人が本件家屋の改築にあたり従前の家屋を拡張するためとつた処置は民法二一八条、二三四条、二三七条に違反するものであるが、右違法は刑事法上可罰的な違法ではなく犯罪の成否に関係がないのである。
以上の如く被告人の本件所為については不動産侵奪罪を構成するものとは認められないにも拘らず原審が被告人に対し本件排水口の設置につき有罪の言渡をしたのは法律の解釈適用を誤り延いては事実を誤認した違法があると認められ、この違法は判決に影響を及ぼすものであることは明らかである。
よつて刑事訴訟法三九七条一項、三八〇条、三八二条により原判決を破棄し、同法四〇〇条但書により更に判決することとする。
本件公訴事実に「被告人は昭和三六年一〇月頃から翌三七年一月初頃にかけて門真市大字a所在自己所有の木造二階建居宅敷地の西側に隣接するE所有の右大字ab番地のdの宅地に縦約四〇糎、横約三〇糎、深さ約五〇糎のコンクリート製排水口を築造する等して同人所有の不動産を侵奪したものである。」というのであるが、前記の如く不動産を侵奪したものと認めるに足る証拠はないから、刑事訴訟法三三六条により被告人に対し無罪の言渡をすることてして主文のとおり判決する。
刑事第2部
(裁判長裁判官 畠山成伸 裁判官 松浦秀寿 裁判官 八木直道)


民法 基本事例で考える民法演習 表見代理と脅迫~占有者の保護


1.小問1について(基礎編)

+(無権代理)
第百十三条  代理権を有しない者が他人の代理人としてした契約は、本人がその追認をしなければ、本人に対してその効力を生じない。
2  追認又はその拒絶は、相手方に対してしなければ、その相手方に対抗することができない。ただし、相手方がその事実を知ったときは、この限りでない。

+(代理権授与の表示による表見代理)
第百九条  第三者に対して他人に代理権を与えた旨を表示した者は、その代理権の範囲内においてその他人が第三者との間でした行為について、その責任を負う。ただし、第三者が、その他人が代理権を与えられていないことを知り、又は過失によって知らなかったときは、この限りでない。

・白紙委任状の補充
+判例(S39.5.23)
理由
上告代理人笠島永之助の上告理由について。
原判決引用の第一審判決は、被上告人は昭和三三年四月一七日訴外Aから一二万円を借り受けるに当り、右債務の担保として本件土地、建物に抵当権を設定することとし、その登記手続のため右土地、建物の権利証および被上告人名義の白紙委任状、印鑑証明書をAに交付したが、Aは自己のための抵当権設定登記手続をすることなく、訴外Bを介して金融を得る目的でこれらの書類をCに交付したところ、Cはこれらの書類を用い、被上告人の代理人であると偽り、上告人と債権極度額一〇〇万円とする本件根抵当権設定契約および停止条件付代物弁済契約を締結したこと、AやCがこのようにこれらの書類を使用することについては上告人が承諾を与えたことがないとの事実を確定したものである。
論旨は、以上の場合において、被上告人は民法一〇九条にいわゆる「第三者ニ対シテ他人ニ代理権ヲ与ヘタル旨ヲ表示シタル者」に当るという。しかしながら不動産所者者がその所有不動産の所有権移転、抵当権設定等の登記手続に必要な権利証、白紙委任状、印鑑証明書を特定人に交付した場合においても、右の者が右書類を利用し、自ら不動産所有者の代理人として任意の第三者とその不動産処分に関する契約を締結したときと異り、本件の場合のように、右登記書類の交付を受けた者がさらにこれを第三者に交付し、その第三者において右登記書類を利用し、不動産所有者の代理人として他の第三者と不動産処分に関する契約を締結したときに、必ずしも民法一〇九条の所論要件事実が具備するとはいえない。けだし、不動産登記手続に要する前記の書類は、これを交付した者よりさらに第三者に交付され、転輾流通することを常態とするものではないから、不動産所有者は、前記の書類を直接交付を受けた者において濫用した場合や、とくに前記の書類を何人において行使しても差し支えない趣旨で交付した場合は格別、右書類中の委任状の受任者名義が白地であるからといつて当然にその者よりさらに交付を受けた第三者がこれを濫用した場合にまで民法一〇九条に該当するものとして、濫用者による契約の効果を甘受しなければならないものではないからである。本件において原判決が前掲の事実を確定しCの判示行為につき民法一〇九条を適用することができないとしたのは相当であり、原判決に所論の法律解釈を誤つた違法はない。所論引用の判例は本件に適切でない。論旨は採用できない。
(裁判長裁判官 奥野健一 裁判官 山田作之助 裁判官 城戸芳彦 裁判官 石田和外)

・観念の通知である代理権授与の表示にも、性質の許す限り、意思表示の規定が類推適用されるから、AはBの強迫を理由に、Cに対する代理権授与の表示を取り消すことができる。

+(権限外の行為の表見代理)
第百十条  前条本文の規定は、代理人がその権限外の行為をした場合において、第三者が代理人の権限があると信ずべき正当な理由があるときについて準用する。

2.小問1について(応用編)

+(即時取得)
第百九十二条  取引行為によって、平穏に、かつ、公然と動産の占有を始めた者は、善意であり、かつ、過失がないときは、即時にその動産について行使する権利を取得する。

・即時取得は有効な契約に基づき、所有者でない者から動産の引渡しを受けた者を保護する制度であり、意思表示の瑕疵や行為能力の制限あるいは無権代理といった取引行為自体の問題を治癒する制度ではない!

・Zにおける善意無過失の対象は、XY間の事情を知らず、かつ、知らなかったことに過失がなかったことに求められる!!

・留置権の成否について
+(留置権の内容)
第二百九十五条  他人の物の占有者は、その物に関して生じた債権を有するときは、その債権の弁済を受けるまで、その物を留置することができる。ただし、その債権が弁済期にないときは、この限りでない。
2  前項の規定は、占有が不法行為によって始まった場合には、適用しない。

+判例(S43.11.21)
理由
上告代理人下山昊、同下山量平の上告理由(1)について。
上告人ら主張の債権はいずれもその物自体を目的とする債権がその態様を変じたものであり、このような債権はその物に関し生じた債権とはいえない旨の原審の認定判断は、原判決挙示の証拠関係に照らして首肯できる。原判決には所論の違法はない。論旨は採用できない。
同(2)について。
原判決が適法に確定した事実関係のもとにおいて、被上告人が背信的悪意者にあたらず、被上告人の本件明渡請求が権利の濫用でない旨の原審の判断は是認できる。原判決には所論の違法はない。論旨は採用できない。
同(3)について。
本件家屋は被上告人が訴外株式会社神戸商会から買つたもので、被上告人の所有であり、上告人Aと被上告人との共有でない旨の原審の認定は、原判決挙示の証拠関係に照らして首肯できる。原判決には所論の違法はない。論旨は採用できない。
よつて、民訴法四〇一条、九五条、八九条、九三条に従い、裁判官全員の一致で、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 岩田誠 裁判官 入江俊郎 裁判官 長部謹吾 裁判官 松田二郎 裁判官 大隅健一郎)
要旨
甲所有の建物を乙が競落した後、甲乙間で買戻し契約が締結されたが、甲が買戻代金の一部を支払つたままでいたところ、その建物を乙が丙に売却し、丙が移転登記をしてしまつたという場合に、甲は、乙に対する買戻契約の履行不能を理由とする損害賠償債権、既払代金の不当利得返還請求権に基づく留置権を主張しても、いずれの債権も家屋に関して生じた債権とはいえないから、留置権は認められない

+判例(S51.6.17)
理由
上告代理人西本剛、同大蔵永康の上告理由第一点について
上告人Aが本件各土地の自主占有を開始した時期は、同上告人が国から本件各土地の売渡を受けその売渡通知書が交付された昭和二六年七月一日であるとした原審の認定判断は、原判決挙示の証拠関係に照らし、正当として是認することができ、その過程に所論の違法はない。論旨は、採用することができない。
同第二点について
他人の物の売買における買主は、その所有権を移転すべき売主の債務の履行不能による損害賠償債権をもつて、所有者の目的物返還請求に対し、留置権を主張することは許されないものと解するのが相当である。蓋し、他人の物の売主は、その所有権移転債務が履行不能となつても、目的物の返還を買主に請求しうる関係になく、したがつて、買主が目的物の返還を拒絶することによつて損害賠償債務の履行を間接に強制するという関係は生じないため、右損害賠償債権について目的物の留置権を成立させるために必要な物と債権との牽連関係が当事者間に存在するとはいえないからである。原審の判断は、その結論において正当であり、原判決に所論の違法はない。論旨は、採用することができない。
同第三点について
国が自作農創設特別措置法に基づき、農地として買収したうえ売り渡した土地を、被売渡人から買い受けその引渡を受けた者が、土地の被買収者から右買収・売渡処分の無効を主張され所有権に基づく土地返還訴訟を提起されたのち、右土地につき有益費を支出したとしても、その後右買収・売渡処分が買収計画取消判決の確定により当初に遡つて無効とされ、かつ、買主が有益費を支出した当時右買収・売渡処分の無効に帰するかもしれないことを疑わなかつたことに過失がある場合には、買主は、民法二九五条二項の類推適用により、右有益費償還請求権に基づき土地の留置権を主張することはできないと解するのが相当である。
原審の適法に確定したところによれば、(一)本件土地は、被上告人の所有地であつたが、昭和二三年四月二八日、大阪市城東区農地委員会は、右土地が自作農創設特別措置法三条一項一号に該当する農地であるとして買収時期を同年七月二日とする買収計画を樹立し、公告、縦覧の手続を経たうえ、国がこれを被上告人から買収し、同農地委員会の樹立した売渡計画に従つて、昭和二六年七月一日上告人Aに対し、本件土地を売り渡したこと、(二)右買収計画は、本件土地が自作農創設特別措置法五条五号に該当する買収除外地であるにもかかわらず、これを看過した点において違法なものであつたので、被上告人は、昭和二三年七月右買収計画取消訴訟を提起し、被上告人の請求は、一審で棄却されたが、二審で認容され、その買収計画取消判決は、昭和四〇年一一月五日上告棄却判決により確定したこと、(三)上告人Bは、昭和三四年一一月一九日上告人Aから本件土地を買い受けてその引渡をも受けたが、昭和三五年一〇月被上告人から買収及び売渡は無効であるとして所有権に基づく本件土地明渡請求訴訟を提起され、その訴状は同月二五日上告人Bに送達されたこと、(四)上告人Bは、右明渡訴訟提起後の昭和三六、七年ころ、本件土地の地盛工事に一七万円、下水工事に七万円、水道引込工事に六万円の有益費を支出したこと、がそれぞれ認められるというのである。
土地占有者が所有者から所有権に基づく土地返還請求訴訟を提起され、結局その占有権原を立証できなかつたときは、特段の事情のない限り、土地占有が権原に基づかないこと又は権原に基づかないものに帰することを疑わなかつたことについては過失があると推認するのが相当であるところ、原審の確定した事実関係のもとにおいて、右特段の事情があるとは未だ認められない。したがつて、右事実関係のもとにおいて、上告人Bが、所論の有益費を支出した当時、本件土地の占有が権原に基づかないものに帰することを疑わなかつたことについては、同上告人に過失があるとした原審の認定判断は、正当として是認することができる。そうすると、右のような状況のもとで上告人Bが本件土地につき支出した所論の有益費償還請求権に基づき、本件土地について留置権を主張することが許されないことは、前判示に照らし、明らかであり、これと結論を同じくする原審の判断は正当である。その過程に所論の違法はなく、論旨は採用することができない。
よつて、民訴法四〇一条、九五条、八九条、九三条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 岸上康夫 裁判官 下田武三 裁判官 岸盛一)

3.小問2について
(1)DがCを所有者と信じ、かつ、そのように信じた事に過失がなかった場合

(2)DはCを所有者だと信じたが、そのように信じた事に過失があった場合
+(善意の占有者による果実の取得等)
第百八十九条  善意の占有者は、占有物から生ずる果実を取得する。
2  善意の占有者が本権の訴えにおいて敗訴したときは、その訴えの提起の時から悪意の占有者とみなす。

+(占有者による費用の償還請求)
第百九十六条  占有者が占有物を返還する場合には、その物の保存のために支出した金額その他の必要費を回復者から償還させることができる。ただし、占有者が果実を取得したときは、通常の必要費は、占有者の負担に帰する。
2  占有者が占有物の改良のために支出した金額その他の有益費については、その価格の増加が現存する場合に限り、回復者の選択に従い、その支出した金額又は増価額を償還させることができる。ただし、悪意の占有者に対しては、裁判所は、回復者の請求により、その償還について相当の期限を許与することができる。

(3)DがCが所有者でないことを知っていた場合
+(悪意の占有者による果実の返還等)
第百九十条  悪意の占有者は、果実を返還し、かつ、既に消費し、過失によって損傷し、又は収取を怠った果実の代価を償還する義務を負う。
2  前項の規定は、暴行若しくは強迫又は隠匿によって占有をしている者について準用する。

・196条は不当利得の特則とされているから、付合を理由とする償金請求よりも費用償還請求鳥も優先される!!!
+(付合、混和又は加工に伴う償金の請求)
第二百四十八条  第二百四十二条から前条までの規定の適用によって損失を受けた者は、第七百三条及び第七百四条の規定に従い、その償金を請求することができる。

・Dの占有は不法行為によって始まったといえるから、期限の許与を問うまでもなく、留置権は認められないことになる!
+(留置権の内容)
第二百九十五条  他人の物の占有者は、その物に関して生じた債権を有するときは、その債権の弁済を受けるまで、その物を留置することができる。ただし、その債権が弁済期にないときは、この限りでない。
2  前項の規定は、占有が不法行為によって始まった場合には、適用しない。