刑法 刑事実体法演習 不真正不作為犯、不作為犯と共犯


1.設問へのアプローチ

2.Aの罪責
(1)問題の所在
・行為の危険性や行為時の主観(故意)を考慮しながら、検討対象となる行為を絞り込む。

作為=一定の身体的動作を行うこと
不作為=一定の期待された身体動作を行わないこと

ア 罪刑法定主義との関係

・禁止規範だけでなく命令規範も含まれている
→類推解釈の禁止に反しない。

・明確性の原則との関係

イ 処罰根拠
・構成要件的に同価値

(2)作為義務
ア 作為義務の発生根拠
法益侵害の結果発生の回避に当たるべき地位(保障人的地位)にあるときに作為義務が認められる。
(ア)主観説
(イ)多元説
①法令②契約・事務管理③慣習・条理
に基づき作為義務が発生。
実質的に作為と同視できるかどうかを総合的に判断することになる。
(ウ)限定説

イ 作為の可能性、容易性
+判例(札幌高判H12.3.16)
理由
本件控訴の趣意は、検察官佐藤孝明作成の控訴趣意書に、これに対する答弁は、弁護人古山忠作成の答弁書に、それぞれ記載されているとおりであるから、これらを引用する。
論旨は、要するに、「被告人は、平成九年六月ころ、先に協議離婚した甲野太郎と同棲を再開するに際し、自己が親権者となっていた乙山三郎と及び乙山四郎(当時三歳)を連れて太郎と内縁関係に入ったが、その後、太郎が四郎らにせっかんを繰り返すようになったのであるから、親権者兼監護者として四郎らに対する太郎のせっかんを制止して四郎らを保護すべき立場にあったところ、太郎が、同年一一月二〇日午後七時一五分ころ、釧路市鳥取南五丁目所在の△△マンション一号室(以下「△△マンション」という。)において、四郎に対し、顔面、頭部を平手及び手拳で多数回殴打し、転倒させるなどの暴行(以下「本件せっかん」という。)を加えて、四郎に硬膜下出血、くも膜下出血等の傷害を負わせ、翌二一日午前一時五五分ころ、同市内の市立釧路総合病院において、四郎を右傷害に伴う脳機能障害により死亡させた犯行(以下「本件傷害致死」という。)を行った際、同月二〇日午後七時一五分ころ、△△マンションにおいて、太郎が本件せっかんを開始しようとしたのを認識したのであるから、直ちにこれを制止する措置を採るべきであり、かつ、これを制止して容易に四郎を保護することができたのに、その措置を採ることなくことさら放置し、もって太郎の本件傷害致死を容易にしてこれを幇助した。」旨の訴因変更後の公訴事実に対し、原判決は、不作為による幇助犯の成立要件として「犯罪の実行をほぼ確実に阻止し得たにもかかわらずこれを放置したこと」を掲げ、被告人に具体的に要求される作為の内容として、太郎の暴行を実力をもって阻止する行為のみを想定した上で、被告人が、太郎の四郎への暴行を実力により阻止しようとした場合には、負傷していた相当の可能性があったほか、胎児の健康にまで影響の及んだ可能性もあった上、被告人としては実力による阻止が極めて困難な心理状態にあり、被告人が太郎の暴行を阻止することが著しく困難な状況にあったことにかんがみると、被告人の不作為を作為による傷害致死幇助罪と同視することはできないとして、被告人に無罪を言い渡したが、(一)関係証拠によれば、被告人は、太郎への強い愛情や肉体的執着から、太郎に嫌われることを恐れ、太郎の機嫌をうかがう余り、太郎が四郎らに暴行を振るっても、見て見ぬ振りをしていたことが認められ、太郎の暴行を阻止することが著しく困難な状況にあったものとはいえない上、(二)不作為による幇助犯が成立するには、不作為によって正犯の実行行為を容易ならしめれば足り、その不作為が正犯の実行に不可欠であることや、作為に出ることにより確実に正犯の実行を阻止し得ることを要しないというべきであり、被告人に具体的に要求される作為は、太郎の暴行を実力をもって阻止する行為に限られるものではないから、原判決には、判決に影響を及ぼすことが明らかな事実誤認及び法令適用の誤りがある、というのである。
そこで、記録を調査し、当審における事実取調べの結果を併せて検討する。
第一 本件において認められる事実について
原審で取り調べられた関係証拠によれば、本件においては、要旨次のような事実が認められる。
一 被告人と太郎が知り合った経緯等
1 被告人は、平成四年八月二七日、乙山次郎(以下「乙山」という。)と婚姻し、乙山との間に、平成五年三月二七日、長男三郎を、平成六年五月二八日、二男四郎をもうけたが、その後乙山と不仲になり、平成七年九月ころから三郎及び四郎を連れて別居し、同年一二月一八日、乙山と協議離婚し、三郎及び四郎の親権者となり、二人を引き取った。
2 被告人は、釧路市内のスナックで働いていた平成八年三月ころ、客として来店した太郎と親しくなり、同月二一日ころ、太郎と朝まで飲み歩き、そのままドライブに出かけた後、自ら太郎に同居を申し出、翌二二日ころから、太郎が当時住んでいた同市昭和北三丁目のアパート(以下「昭和北のアパート」という。)で、三郎及び四郎を連れて太郎と同棲するようになり、勤めていたスナックも辞めた。
二 昭和北のアパートでの生活状況及び太郎と婚姻した経緯等
1 被告人は、同棲開始後間もない平成八年四月中旬ころ、帰宅が遅くなったことなどから、太郎と口論になり、その際、反抗的な態度をとったことに激昂した太郎から、マイナスドライバーの先端を首筋に当てられ、赤い痕が残るほど力を込めて押し付けられるなどの暴行を受けた。
2 被告人は、同年八月ころ、太郎と口論になった際、かみそりで手首を切って自殺しようとしたところ、それに気付いた太郎からかみそりを取り上げられ、手拳や平手で顔面や肩を多数回殴打されるなどの暴行を受けた。
3 被告人は、昭和北のアパートに居住していた当時、このほかにも太郎から暴行を受けたことが何度かあったが、その都度、暴行を受けた数日後に太郎の留守を見計らって釧路市内の実母方に逃げ、しばらくすると、太郎から、戻るように優しく言われ、子供を可愛がり、暴行は振るわないなどと約束されて、再びよりを戻すということを三、四回繰り返していた。
4 被告人は、その間の平成八年六月ころ、太郎の子を妊娠したことを知り、同年七月二日、太郎と婚姻し、また、太郎は、同年一〇月三日、三郎及び四郎と養子縁組をし、被告人と太郎との間には、平成八年一月二二日、長女甲野冬子(以下「冬子」という。)が生まれた。
5 太郎は、昭和北のアパートに居住していた当時、三郎や四郎の食事の行儀が悪いときなどに、しつけ程度に二人の頬を平手で殴打していたほか、立たせたり、正座させたりしていた。
6 太郎は、被告人と同棲を始めたころ、鳶職人として働き、月収約二〇万円を得、生活も安定していたが、平成八年八月ころ鳶職を辞め、同年一〇月ころからは職を転々とするようになり、全く仕事をしないときもあって、生活が不安定になった。
三 太郎と離婚した経緯及び星が浦のアパートでの生活状況等
1 被告人は、平成九年二月ころ、太郎に暴行を振るわれたことから、太郎の留守を見計らい、三人の子供を連れて実母方に逃げ、その後、実母から強く言われたこともあって離婚を決意し、太郎もこれに応じたことから、同年三月六日、三郎及び四郎の親権者を被告人として協議離婚した。しかし、その数日後、太郎から、前同様に優しく言われてよりを戻すこととなり、当時太郎が昭和北のアパートを引き払って釧路市星が浦大通のアパート(以下「星が浦のアパート」という。)に住んでいたことから、同所で、三人の子供とともに太郎との同棲生活を再開した。
2 被告人は、同年五月ころ、太郎と口論となり、灯油を少量かぶって焼身自殺をする振りをしたところ、激昂した太郎から、両肩と両腿を手拳で殴打され、更に手や足を殴打するなどの暴行を執拗に加えられ、手足が腫れ上がって歩行も困難な状態となった。
3 太郎は、星が浦のアパートに居住していた当時、三郎や四郎の食事の行儀が悪いときなどに、二人の頬を平手で殴打するなどしていた。
四 材木町のアパートでの生活状況等
1 被告人は、前記三の2の暴行を受けた数日後、今度こそ太郎と別れようと決心し、太郎の留守を見計らって実母方に逃げたところ、実母から太郎と別れるように強く言われ、今度太郎の所に戻れば親子の縁を切るとまで言われた。そして、子供達との独立した生活をするため、生活保護の受給手続を進めるとともに、釧路郡釧路町豊美にアパートを見付け、平成九年六月初めころ、同所に転居することとなった。
2 被告人は、右アパートへの引っ越しの当日、突如現れた太郎から、前同様に優しく言われ、「やくざの卵売りの仕事だが、仕事も決まった。」などと言われて、またも太郎とやり直すことにし、翌日ころには二人で釧路市材木町のアパート(以下「材木町のアパート」という。)を新たに借り、同所で、三人の子供とともに太郎と同棲生活を再開した。なお、太郎は、同年六月六日、三郎及び四郎と協議離縁している。
3 太郎は、同月初めころから、暴力団の関与する三上郡弟子屈町硫黄山での蒸し卵売りの仕事を手伝うようになり、これをしている間、半月ごとに約一五万円の手当を得ており、被告人らは、安定した生活を送り、また、太郎が被告人や三郎及び四郎に暴力を振るうこともなくなった。なお、被告人は、同年七月ころ、太郎との間の第二子を懐妊したことに気付き、太郎にもその旨伝えた。
4 太郎は、暴力団関係者との人間関係の悩みなどから、蒸し卵売りの仕事に嫌気がさし、同年一〇月一日、世話になっていた暴力団組長方に置き手紙をして仕事を辞めてしまい、材木町のアパートも引き払って、被告人及び三人の子供とともに北海道内各地を自動車で転々とした後、同月一〇日過ぎころから、川上郡標茶町の太郎の実家に身を寄せた。
5 太郎は、実家に身を寄せるようになってから、三郎や四郎を長時間正座させたり、起立させ、平手や手拳で殴打したりするなどのせっかんを度々加えるようになったが、被告人は、これを見ても、制止することなく、「あんた達が悪いんだから怒られて当たり前だ。」などと言い放ち、また、自らも、四郎が夜尿をしたときに一、二度頬や臀部を叩いたことがあった。
五 △△マンションでの生活状況等
1 太郎と被告人は、太郎の両親から現金一〇万円の援助を受け、平成九年一〇月二五日ころ、△△マンションを借り、三人の子供とともに同棲生活を始めたが、このころ、被告人は、妊娠約六か月の状態にあり、太郎も、そのことを知っていた。
2 太郎は、△△マンションに移ってから、何度か被告人に対し、別れ話を持ち出しては子供を連れて出て行くように言い、同年一一月初めころ、「出て行け。」などと行って被告人の頬と肩を平手と手拳で七、八回殴打し、更に、その数日後、被告人を正座させた上、同様に言って手拳等で肩と両腿を五、六分ほど殴打し続けたが、いずれの際も、被告人は、「これまで何度も黙って出て行ったりして迷惑をかけていたから、もう出て行ったりしない。」などと言って、何ら抵抗することなく太郎の暴行を受け入れた。また、太郎は、これらとは別の機会に、被告人に裸で△△マンションから出て行くよう命じ、その際、被告人は、三人の子供とともに裸になり、子供達を連れて玄関まで行ったものの、太郎に制止され、屋外に出ることはなかった。
3 太郎は、△△マンションに入居して以降、新たな仕事に就く当てもなく、生活費にも事欠くようになったことなどから、不満や苛立ちを募らせ、その鬱憤晴らしなどのため、ほどんど毎日のように、三郎や四郎を半袖シャツとパンツだけで過ごさせた上、長時間立たせたり、正座させたりするなどしたほか、平手や手拳で顔面や頭部を殴打するなどの激しいせっかんを繰り返すようになった。なお、太郎は、三郎や四郎を注意したときには、一〇回に八回程度は、右のような暴行に及んでいた。
4 他方、被告人も、同年一一月一三日ころには、さしたる理由もないのに、太郎のせっかん等によってかなり衰弱している三郎及び四郎を並ばせ、「お前達なんか死んじゃえばいいのに。」などと言いながら、二人の顔面や頭部等を殴打し、腰部等を足蹴にして、二人をその場に転倒させるせっかんを加え、同月一五日ころにも、四郎に対し、平手で顔面を殴打し、その場に転倒させるせっかんを加えていた。
5 被告人は、太郎が三郎や四郎に激しいせっかんを加えていたのを見ても、三郎や四郎を助けるための行動には出ず、三郎や四郎が助けを求める視線を向けても、無関心な態度を示していた。
6 被告人一家は、△△マンションに入居して以降、一日一、二回の食事しかとれず、その食事も満足にできない状態であったため、四郎は、星が浦のアパート時代には15.5キログラムあった体重が、死亡当時には11.7キログラムにまで減っており、同年齢の児童の平均体重より3.2キログラムも劣る極度のるい痩状態にあった。
六 平成九年一一月二〇日の状況等
1 太郎と被告人は、平成九年一一月二〇日午後二時ころ、冬子を連れて太郎の友人である戊川一夫(以下「戊川」という。)方へ向かったが、その際、太郎は、三郎と四郎に留守番をさせ、半袖シャツとパンツだけの姿の四郎に壁に向かって立っているよう命じ、三郎には四郎を見張っているよう命じて外出した。
2 太郎と被告人は、同日午後三時四〇分ころから戊川方で過ごし、ビールを飲むなどして歓談し、同日午後六時四五分ころ戊川方を辞去したが、太郎は、帰途、機嫌が良かったこともあって、戊川方を訪ねる前に被告人が食べたいと言っていたドーナツを買ってやることにし、スーパーマーケットに寄ってドーナツ等を買った。
3 太郎と被告人は、冬子とともに、同日午後七時一五分ころ△△マンションに戻ったが、太郎は、子供部屋のおもちゃが少し移動していたため、三郎に誰が散らかしたのかと尋ねたところ、三郎が「四郎ちゃん。」と答えたことから、四郎が言い付けを守らずおもちゃで遊んでいたと思い込んで立腹し、隣の寝室で立っていた四郎の方に向かった。
4 被告人は、右の太郎と三郎のやりとりを聞き、太郎が四郎にいつものようなせっかんを加えるかも知れないと思ったが、これに対しては何もせず、数メートル離れた台所の流し台で夕食用の米をとぎ始め、太郎の行動に対しては無関心を装っていた。
5 太郎は、四郎を自分の方に向き直らせ、「おもちゃ散らかしたのはお前か。」などと強い口調で尋ねたものの、四郎が何も答えなかったため、更に大きな声で同じことを尋ねたが、四郎がそれにも答えず、太郎を睨み付けるような目つきをしたため、これに腹立ちを募らせ、「横目で睨むのはやめろ。」などと怒鳴り、四郎の左頬を右の平手で一回殴打し、続いて「お前がやったのか。」などと怒鳴ったが、四郎が同様の態度をとったため、四郎の左頬から左耳にかけての部位を右の平手で一回殴打したところ、四郎がよろけて右膝と右手を床についたので、四郎の左腕を掴んで引き起こした上、また同様に怒鳴ったが、なおも四郎が同様の態度をとり続けたことから、腹立ちが収まらず、四郎の左頬を右の平手で一回殴打した上、更に「お前がやったのか。」などと怒鳴りながら、一発ずつ間隔を置いて四郎の頭部右側を手拳あるいは裏拳で五回にわたり殴打した。すると、四郎は、突然短い悲鳴を上げ、身体の左から倒れて仰向けになり、意識を失った。
6 被告人は、太郎が寝室で四郎を大きな声で問い詰めるのを聞くとともに、頬を叩くようなぱしっという音を二、三回聞いて、やはりいつものせっかんが始まったと思ったものの、これに対して何もせず、依然として米をとぎ続け、太郎の行動に無関心を装っていたが、これまでにない四郎の悲鳴を聞き、慌てて寝室に行ったところ、既に四郎は太郎に抱えられ、身動きしない状態になっていた。
7 太郎と被告人は、その後、太郎の運転する自動車に四郎を乗せて病院に向かい、同日午後八時一〇分ころ、市立釧路総合病院に到着したが、四郎は、直ちに開頭手術を受けたものの、翌二一日午前一時五五分ころ、太郎の暴行による硬膜下出血、くも膜下出血等の傷害に伴う脳機能障害により死亡した。
8 被告人は、右病院で、担当医師から、四郎の命が助からない旨の説明を受け、これを聞いて太郎の身代わり犯人となることを決意し、待合室にいた太郎に対し、「私がやったことにするから、あなたは昼から出かけたことにしておいて。」などと言って太郎の身代わりになることを申し出た上、医師の通報により右病院に臨場した警察官に対し、自分の犯行である旨虚偽の申告をし、同月二一日午前三時一〇分、傷害致死罪により緊急逮捕され、捜査段階では終始一貫して自分の犯行である旨虚偽の供述をし、同年一二月一一日、同罪により起訴され、同月二四日に至り、初めて同房者に太郎の犯行である旨を告白した。
以上のような事実が認められる。
第二 原判決の事実認定及び法令の適用について
一 原判決は、前記第一とほぼ同旨の事実を認定しながら、被告人の内心の意思や動機等について、被告人の原審公判供述及び各検察官調書謄本(原審乙18ないし20)(以下「被告人の供述」と総称する。)に依拠して、被告人は、(1)△△マンションで太郎から強度の暴行を受けるようになって以降、太郎に愛情は抱いておらず、子供達を連れて太郎の下から逃げ出したいと考えていた、(2)しかし、太郎が働くこともなく家にいて留守になることがなかったことから、逃げ出そうとして太郎に見付かり、酷い暴行を受けることを恐れ、逃げ出せずにいた、(3)△△マンションに入居した後、太郎からは出て行けと何回か言われていたけれども、太郎の言葉は本心ではなく、被告人を試すために言っているものと思っていた、(4)太郎から激しい暴行を受けたときの恐怖心や、太郎が三郎や四郎に暴力を振るっているのを側で見ていて、太郎から「何見てんのよ。」などと怒鳴られたことがあったことなどから、太郎に逆らえば、酷い暴行を受けるのではないかと恐ろしかった上、太郎が逆上して三郎や四郎に更に酷いせっかんを加えるのではないかと思い、三郎や四郎を助けることができなかった、(5)身代わり犯人になったのは、四郎を見殺しにしてしまったという自責の念から自分自身が罰を受けたかったためであり、太郎をかばうつもりはなかった、との事実を認定している。
二 そして、右事実認定を前提に、(一)不作為による幇助犯が成立するためには、他人による犯罪の実行を阻止すべき作為義務を有する者が、犯罪の実行をほぼ確実に阻止し得たにもかかわらず、これを放置しており、要求される作為義務の程度及び要求される行為を行うことの容易性等の観点からみて、その不作為を作為による幇助と同視し得ることが必要と解すべきであるとした上、(二)被告人には、太郎が四郎に対して暴行に及ぶことを阻止すべき作為義務があったと認めながら、(三)その作為義務の程度は極めて強度とまではいえないとし、(四)被告人に具体的に要求される作為の内容としては、太郎の暴行をほぼ確実に阻止し得た行為、すなわち太郎の暴行を実力をもって阻止する行為を想定するのが相当であり、太郎と四郎の側に寄って太郎が四郎に暴行を加えないように監視する行為、あるいは、太郎の暴行を言葉で制止する行為を想定することは相当でないとした上で、(五)被告人が身を挺して制止すれば、太郎の暴行をほぼ確実に阻止し得たはずであるから、被告人が太郎の暴行を実力をもって阻止することは、不可能ではなかったが、そうしようとした場合には、かえって、太郎の反感を買い、被告人が太郎から激しい暴行を受けて負傷していた相当の可能性のあったことを否定し難く、場合によっては胎児の健康にまで影響の及んだ可能性もある上、被告人は、太郎の暴行を実力により阻止することが極めて困難な心理状態にあったのであるから、被告人が太郎の暴行を実力により阻止することは著しく困難な状況にあったとし、(六)右状況にかんがみると、被告人の不作為を作為による傷害致死幇助罪と同視することはできない旨判示している。
第三 原判決の事実誤認について
一 しかし、太郎の当審公判供述を含む関係証拠及びこれによって認められる諸事実に照らすと、前記第二の一の被告人の供述(1)ないし(5)は、いずれもたやすく信用することができない。すなわち、
1 被告人が太郎から強度の暴行を受けるようになったのは、前記第一の二のとおり、太郎と同棲を始めた直後の昭和北のアパート時代からのことで、同棲開始後間もない平成八年四月中旬ころには、太郎からマイナスドライバーの先端を首筋に押し付けられて赤い痕が残るほどの暴行を受け、同年八月ころには、手首を切って自殺を図り、平手や手拳で顔面等を多数回殴打され、平成九年五月ころには、灯油を少量かぶって焼身自殺をする振りをし、手拳等で手足を殴打されて歩行もできない状況になるなど、強度の暴行を何回も受け、その度に太郎の留守を見計らっては、実母方に逃げていたのに、被告人は、ほどなく太郎に戻るよう優しい言葉をかけられてはよりを戻すということを幾度も繰り返し、とりわけ同年五月ころ、星が浦のアパートから実母方に逃げた際には、実母から、今度太郎の所に戻れば親子の縁を切るとまで言われ、生活保護の受給手続まで進めながら、数日後には太郎とよりを戻して材木町のアパートで同棲するようになっていることなどに加え、原審公判廷においても、「母親としてじゃなく、女として、あの人のことが好きだというんで戻っていた。」などと供述していることに照らすと、被告人が、△△マンション入居後、それまでと比べてさほど強度とはいえない暴行を二度ほど受けたからといって、にわかに太郎に愛情を抱かなくなり、太郎の下から逃げ出したいと考えるようになったとは思われず、被告人の供述(1)はたやすく信用できない。
2 太郎が家にいて留守になることがなくても、被告人は、太郎から常時監視されたり、監禁、拘束されたりしていたわけではなく、原判決も指摘するように、太郎が寝ているときもあったのであるから、常識的に考えれば、被告人が△△マンションを出る機会や方法はいくらでもあった上、現に被告人は、これまで家出をする際には、子供達を残して単身実母方に逃げ帰り、後から子供達を迎えに行ったり、所持金のないまま子供達を連れてタクシーで実母方に逃げ帰り、実母に料金を払ってもらったりするなど、臨機の方法で太郎の下を逃れていたのであるから、太郎が家にいて留守になることがなかったとしても、被告人が逃げ出せずにいたとは考え難く、また、被告人がこれまで家を出ようとして太郎に見付かり、そのために暴行を受けた事実はなかったことに照らすと、そのようなことを恐れて逃げ出せずにいたとも考え難いので、被告人の供述(2)はたやすく信用できない。
3 標茶町の実家に身を寄せたとき以降、被告人に嫌気がさし、別れたいと思い、被告人にも繰り返しその旨話していた旨の太郎の原審公判供述や、△△マンションに入居後、週に三、四回被告人から性交を誘われたが、本件までの約四週間に一、二度応じたのみである旨の太郎の当審公判供述に加え、職も蓄えもない太郎が、自分の子である冬子のみならず、被告人やその連れ子で自分とは既に離縁している三郎及び四郎まで扶養しなければならない状況に置かれていたことや、これまで別れ話を持ち出したことのなかった太郎が、△△マンションに入居後は、被告人に何回も出て行けと言い、三郎及び四郎に対し、ほとんど毎日のように激しいせっかんを繰り返すようになったことなどに照らすと、太郎の出て行けとの言葉は本心であり、被告人もこれを察知していたものと認めるのが相当であるから、被告人の供述(3)はたやすく信用できない。
4 被告人が、これまでに、太郎のせっかんを制止しようとしたために、太郎から自己や胎児に危険が及ぶような激しいせっかんを受け、あるいは、三郎及び四郎に対するせっかんが更に激しくなったという事実はなく、被告人は、本件に至るまで、太郎のせっかんを制止しようとしたことすらないほか、標茶町時代及び△△マンション入居後、太郎が三郎及び四郎に激しいせっかんをしているのを見ても、「あんた達が悪いんだから怒られて当たり前だ。」などと言い放ち、太郎のせっかんに加担するような態度をとっていた上、自らも、本件直前の平成九年一一月一三日ころには、さしたる理由もないのに、太郎のせっかん等によってかなり衰弱している三郎及び四郎を並ばせ、「お前達なんか死んじゃえばいいのに。」などと言いながら、二人の顔面や頭部等を殴打し、腰部等を足蹴にして、二人をその場に転倒させるせっかんを加え、同月一五日ころにも、四郎に対し、平手で顔面を殴打し、その場に転倒させるせっかんを加えていたことなどに照らすと、被告人が四郎らを助けなかった理由が、太郎に逆らえば、酷い暴行を受けるのではないかと恐ろしかった上、太郎が逆上して四郎らに更に酷いせっかんを加えるのではないかと思ったことにあるとは考えられず、被告人の供述(4)はたやすく信用できない。
5 被告人は、更に太郎の身代わり犯人になっているのであるから、常識的には、太郎をかばおうとする意思があったものと考えられるほか、本件当夜、意識を失った四郎を病院に搬送した後、医師からその原因を尋ねられても、自己や太郎が殴打したとは答えず、「転んだ。」などと嘘を言い、四郎が助かる見込みがないことを医師から知らされた後、警察官から任意の取調べを受けた際にも、自分がせっかんを加えていたと述べる一方で、当初は「今日は殴っていない。」と述べるなど、四郎を見殺しにしてしまったという自責の念のみでは説明の付かない言動をしていた上、緊急逮捕後警察官から本格的な取調べを受けた際には、太郎を愛している旨を繰り返し述べる一方で、太郎の自己に対する暴力についてはほとんど述べず、「太郎が、三郎と四郎を殴ったことは一度もない。」などと、あえて虚偽の事実を述べるなど、太郎をかばおうとする意思がなければ説明の付かない言動をしていたことに照らすと、被告人の供述(5)はたやすく信用できない。
二 以上によれば、被告人の供述(1)ないし(5)に沿う事実はいずれもこれを認めることができず、前記第一の事実、とりわけ、被告人が自ら申し出て太郎との同棲を開始し、太郎から何回も暴力を振るわれながら、太郎との内縁ないし婚姻関係を継続していたこと、本件の五か月余り前からは、太郎の暴力の有無にかかわらず、実母方に逃げることもなかったこと、△△マンション入居後は、太郎から別れ話を持ち出され、子供を連れて出ていくように言われ、暴力まで振るわれたのに、最後まで出て行かなかったこと、標茶町時代以降、太郎が四郎らに激しいせっかんをしているのを見ても、これを制止せず、かえって太郎のせっかんに加担するような態度をとり、本件直前ころには、自らも三郎や四郎に相当強度のせっかんを加えていたこと、本件直後四郎の命が助からない旨を聞かされるや、躊躇なく太郎の身代わり犯人となることを決意し、自ら申し出て身代わり犯人になり、一か月余り虚偽の供述を維持していたことなどに照らすと、被告人が本件せっかんの際、太郎の暴行を制止しなかったのは、当時なお太郎に愛情を抱いており、太郎への肉体的執着もあり、かつ、太郎との間の第二子を懐妊していることもあって、四郎らの母親であるという立場よりも太郎との内縁関係を優先させ、太郎の四郎に対する暴行に目をつぶっていたものと認めるのが相当であるから、被告人が太郎の暴行を制止しなかった理由として、被告人の供述(4)に沿う事実を認定した原判決には、事実の誤認があるといわざるを得ない。
三 そうすると、被告人は、太郎の暴行を実力により阻止することが著しく困難な状況にあったとはいえず、前記第二の二の原判決の判示を前提としても、被告人の不作為を作為による傷害致死幇助罪と同視することができないとはいえないから、右事実誤認は、判決に影響を及ぼすことが明らかというべきである。
第四 原判決の法令適用の誤りについて
一 後述する不作為による幇助犯の成立要件に徴すると、原判決が掲げる「犯罪の実行をほぼ確実に阻止し得たにもかかわらず、これを放置した」という要件は、不作為による幇助犯の成立には不必要というべきであるから、実質的に作為義務がある者の不作為のうちでも結果阻止との因果性の認められるもののみを幇助行為に限定した上、被告人に具体的に要求される作為の内容として太郎の暴行を実力をもって阻止する行為のみを想定し、太郎と四郎の側に寄って太郎が四郎に暴行を加えないように監視する行為、あるいは、太郎の暴行を言葉で制止する行為を想定することは相当でないとした原判決には、罪刑法定主義の見地から不真正不作為犯自体の拡がりに絞りを掛ける必要があり、不真正不作為犯を更に拡張する幇助犯の成立には特に慎重な絞りが必要であることを考慮に入れても、なお法令の適用に誤りがあるといわざるを得ない。
二 そこで、被告人に具体的に要求される作為の内容とこれによる太郎の犯罪の防止可能性を、その容易性を含めて検討する。
1 まず、太郎と四郎の側に寄って太郎が四郎に暴行を加えないように監視する行為は、数メートル離れた台所の流し台から太郎と四郎のいる寝室に移動するだけでなし得る最も容易な行為であるところ、関係証拠によれば、太郎は、依然、被告人が太郎のせっかんの様子を見ているとせっかんがやりにくいとの態度を露わにしていた上、本件せっかんの途中でも、後ろを振り返り、被告人がいないかどうかを確かめていることが認められ、このような太郎の態度にかんがみると、被告人が太郎の側に寄って監視するだけでも、太郎にとっては、四郎への暴行に対する心理的抑制になったものと考えられるから、右作為によって太郎の暴行を阻止することは可能であったというべきである。
2 次に、太郎の暴行を言葉で制止する行為は、太郎を制止し、あるいは、宥める言葉にある程度の工夫を要するものの、必ずしも寝室への移動を要しない点においては、監視行為よりも容易になし得る面もあるところ、関係証拠によれば、太郎は、四郎に対する暴行を開始した後も、四郎及び被告人の反応をうかがいながら、一発ずつ間隔を置いて殴打し、右暴行をやめる機会を模索していたものと認められ、このような太郎の態度にかんがみると、被告人が太郎に対し、「やめて。」などと言って制止し、あるいは、四郎のために弁解したり、四郎に代わって謝罪したりするなどの言葉による制止行為をすれば、太郎にとっては、右暴行をやめる契機になったと考えられるから、右作為によって太郎の暴行を阻止することも相当程度可能であったというべきである(被告人自身も、原審公判廷において、本件せっかんの直前、言葉で制止すれば、その場が収まったと思う旨供述している。)。
3 最後に、太郎の暴行を実力をもって阻止する行為についてみると、原判決も判示するとおり、被告人が身を挺して制止すれば、太郎の暴行をほぼ確実に阻止し得たことは明らかであるところ、右作為に出た場合には、太郎の反感を買い、自らが暴行を受けて負傷していた可能性は否定し難いものの、太郎が、被告人が妊娠中のときは、胎児への影響を慮って、腹部以外の部位に暴行を加えていたことなどに照らすと、胎児の健康にまで影響の及んだ可能性は低く、前記第三の三のとおり、被告人が太郎の暴行を実力により阻止することが著しく困難な状況にあったとはいえないことを併せ考えると、右作為は、太郎の犯罪を防止するための最後の手段として、なお被告人に具体的に要求される作為に含まれるとみて差し支えない
4 そうすると、被告人が、本件の具体的状況に応じ、以上の監視ないし制止行為を比較的容易なものから段階的に行い、あるいは、複合して行うなどして太郎の四郎に対する暴行を阻止することは可能であったというべきであるから、右1及び2の作為による本件せっかんの防止可能性を検討しなかった原判決の法令適用の誤りは、判決に影響を及ぼすことが明らかというべきである。
第五 破棄自判
以上によれば、論旨はいずれも理由があるから、刑訴法三九七条一項、三八〇条、三八二条により原判決を破棄し、同法四〇〇条但書を適用して、当審において更に次のとおり判決をする。
(罪となるべき事実)
被告人は、平成九年六月ころ、先に協議離婚した甲野太郎と再び同棲を開始するに際し、当時自己が親権者となっていた、元夫乙山次郎との間にもうけた長男三郎及び二男四郎(当時三歳)を連れて太郎と内縁関係に入ったが、その後、太郎が四郎らにせっかんを繰り返すようになったのであるから、その親権者兼監護者として四郎らに対する太郎のせっかんを阻止して四郎らを保護すべき立場にあったところ、太郎が、平成九年一一月二〇日午後七時一五分ころ、釧路市鳥取南五丁目〈番地略〉△△マンション一号室において、四郎に対し、その顔面、頭部を平手及び手拳で多数回にわたり殴打し、転倒させるなどの暴行を加え、よって、四郎に硬膜下出血、くも膜下出血等の傷害を負わせ、翌二一日午前一時五五分ころ、同市春湖台〈番地略〉市立釧路総合病院において、四郎を右傷害に伴う脳機能障害により死亡させた犯行を行った際、同月二〇日午後七時一五分ころ、右△△マンション一号室において、太郎が前記暴行を開始しようとしたのを認識したのであるから、直ちに右暴行を阻止する措置を採るべきであり、かつ、これを阻止して四郎を保護することができたのに、何らの措置を採ることなく放置し、もって太郎の前記犯行を容易にしてこれを幇助したものである。
(証拠の標目)〈省略〉
(補足説明)
1 不作為による幇助犯は、正犯者の犯罪を防止しなければならない作為義務のある者が、一定の作為によって正犯者の犯罪を防止することが可能であるのに、そのことを認識しながら、右一定の作為をせず、これによって正犯者の犯罪の実行を容易にした場合に成立し、以上が作為による幇助犯の場合と同視できることが必要と解される。
2 被告人は、平成八年三月下旬以降、約一年八か月にわたり、太郎との内縁ないし婚姻関係を継続し、太郎の短気な性格や暴力的な行動傾向を熟知しながら、太郎との同棲期間中常に四郎らを連れ、太郎の下に置いていたことに加え、被告人は、わずか三歳六か月の四郎の唯一の親権者であったこと、四郎は栄養状態が悪く、極度のるい痩状態にあったこと、太郎が、△△マンションに入居して以降、三郎や四郎に対して毎日のように激しいせっかんを繰り返し、被告人もこれを知っていたこと、被告人は、本件せっかんの直前、太郎が、三郎におもちゃを散らかしたのは誰かと尋ね、三郎が、四郎が散らかした旨答えたのを聞き、更に太郎が寝室で四郎を大きな声で問い詰めるのを聞いて、太郎が四郎にせっかんを加えようとしているのを認識したこと、太郎が本件せっかんに及ぼうとした際、室内には、太郎と四郎のほかには、四歳八か月の三郎、生後一〇か月の冬子及び被告人しかおらず、四郎が太郎から暴行を受けることを阻止し得る者は被告人以外存在しなかったことにかんがみると、四郎の生命・身体の安全の確保は、被告人のみに依存していた状態にあり、かつ、被告人は、四郎の生命・身体の安全が害される危険な状況を認識していたというべきであるから、被告人には、太郎が四郎に対して暴行に及ぶことを阻止しなければならない作為義務があったというべきである。
ところで、原判決は、被告人は、△△マンションで、太郎から強度の暴行を受けるようになって以降、子供達を連れて太郎の下から逃げ出したいと考えていたものの、逃げ出そうとして太郎に見付かり、酷い暴行を受けることを恐れ、逃げ出せずにいたことを考えると、その作為義務の程度は極めて強度とまではいえない旨判示しているが、原判決が依拠する前記第二の一の被告人の供述(1)及び(2)は、前記第三の一の1及び2で検討したとおり、いずれもたやすく信用することができないから、右判示はその前提を欠き、被告人の作為義務を基礎付ける前記諸事実にかんがみると、右作為義務の程度は極めて強度であったというべきである。
3 前記第四の二のとおり、被告人には、一定の作為によって太郎の四郎に対する暴行を阻止することが可能であったところ、関係証拠に照らすと、被告人は、本件せっかんの直前、太郎と三郎とのやりとりを聞き、更に太郎が寝室で四郎を大きな声で問い詰めるのを聞いて、太郎が四郎にせっかんを加えようとしているのを認識していた上、自分が太郎を監視したり制止したりすれば、太郎の暴行を阻止することができたことを認識しながら、前記第四の二のいずれの作為にも出なかったものと認められるから、被告人は、右可能性を認識しながら、前記一定の作為をしなかったものというべきである。
4 関係証拠に照らすと、被告人の右不作為の結果、被告人の制止ないし監視行為があった場合に比べて、太郎の四郎に対する暴行が容易になったことは疑いがないところ、被告人は、そのことを認識しつつ、当時なお太郎に愛情を抱いており、太郎への肉体的執着もあり、かつ、太郎との間の第二子を懐妊していることもあって、四郎らの母親であるという立場よりも太郎との内縁関係を優先させ、太郎の四郎に対する暴行に目をつぶり、あえてそのことを認容していたものと認められるから、被告人は、右不作為によって太郎の暴行を容易にしたものというべきである。
5 以上によれば、被告人の行為は、不作為による幇助犯の成立要件に該当し、被告人の作為義務の程度が極めて強度であり、比較的容易なものを含む前記一定の作為によって太郎の四郎に対する暴行を阻止することが可能であったことにかんがみると、被告人の行為は、作為による幇助犯の場合と同視できるものというべきである。
(法令の適用)
被告人の判示行為は、刑法六二条一項、二〇五条に該当するところ、右は従犯であるから、同法六三条、六八条三号により法律上の減軽をした刑期の範囲内で被告人を懲役二年六月に処し、同法二一条を適用して原審における未決勾留日数中一〇〇日を右刑に算入し、情状により同法二五条一項を適用してこの裁判確定の日から四年間右刑の執行を猶予することとし、原審及び当審における訴訟費用については、刑訴法一八一条一項但書を適用して被告人に負担させないこととする。
(量刑の理由)
本件は、当時三歳の男児四郎の親権者兼監護者であった被告人が、内縁の夫太郎による四郎に対する激しいせっかんを阻止せず、太郎による四郎の傷害致死を容易にしてこれを幇助したという事案である。
被告人は、△△マンションに入居して以降とりわけ激しくなった太郎の四郎らに対する恒常的なせっかんを放置し続けていたもので、本件は起こるべくして起きた事案といってよい。被告人は、本件せっかんの当日、太郎及び冬子とともに五時間余り外出し、その間、電灯もストーブも点いていない暗く寒い室内で、半袖シャツとパンツだけの姿で起立させられていた四郎を思い遣ることなく、太郎が帰宅するなり、おもちゃを散らかしたといえる状況もない四郎を問い詰め、暴行に及ぼうとしたのを認識しながら、四郎の母親であるという立場よりも太郎との内縁関係を優先させ、太郎の四郎に対する暴行に目をつぶり、太郎や四郎の姿が見通せない台所の流しで夕食用の米をとぐなどしていたもので、動機に酌量すべきものはほとんどない。被告人は、太郎が四郎に対して暴行に及ぶことを阻止しなければならない極めて強度の作為義務を負っており、かつ、比較的容易なものを含む一定の作為によってこれを阻止することが可能であったのに、何らの作為にも出ず、母親として果たさなければならない義務を放棄していたもので、被告人が当時妊娠約六か月の状態であったことを考慮しても、犯行態様は決して芳しいものではない。四郎は、太郎の暴行及びこれを阻止しなかった被告人の不作為により、硬膜下出血等の傷害を負い、直ちに病院に搬送されて手術を受けたものの、既に手遅れの状態となっており、受傷から七時間足らずで死亡したもので、その結果は誠に重大であり、太郎から連日のように無慈悲かつ理不尽なせっかんを加え続けられた挙げ句、おもちゃを散らかしたとの濡れ衣を着せられて、いわれのない激しいせっかんを受け、全身に新旧多数の打撲傷や痣、皮膚の変色を残したまま、僅か三歳六か月の幼い命を奪われた四郎の無念さは察するに余りあり、実父である乙山が、太郎に対する厳罰を望んでいるほか、四郎を助けなかった被告人も許せない旨警察官に供述しているのも、誠に無理からぬところである。加えて、被告人は、本件犯行後自ら進んで太郎の身代わり犯人となり、緊急逮捕後は一貫して自分が四郎を殴って死亡させたのであり、太郎は無関係である旨の虚偽の供述を繰り返し、逮捕後一か月余りを経た起訴勾留中に、ようやく真犯人が太郎である旨を同房者に打ち明けたもので、犯行後の行状も甚だ芳しくない。以上のようにみてくると、被告人の刑事責任は誠に重い。
しかしながら、本件傷害致死の正犯者はあくまで太郎であり、被告人の幇助の態様は不作為という消極的なものであったこと、被告人自身も太郎からしばしば相当強度の暴力を振るわれており、前記妊娠の点をも併せ考慮すると、被告人が期待された作為に出なかったことについては、一概に厳しい非難を浴びせ難い面もあること、被告人自身、本件により自らが腹を痛めた四郎を亡くしており、自責の念を抱いていること、被告人は、累犯前科を有する太郎と異なり、これまで前科なく生活しており、原審係属中の平成一〇年五月二七日勾留取消決定により釈放された後は、飲食店従業員として稼働していること、被告人には四郎のほかに三児があり、現在三郎及び冬子は施設に入所しているものの、いずれは同児らを引き取り、自ら養育していくべき責任があること、被告人には釧路市内に住む実母がいて、将来も折あるごとに被告人の相談に乗り、被告人を監督していくものと期待されることなどの諸事情も認められ、これらを前記諸事情と併せ考えると、この際、被告人に対しては、直ちに実刑をもって臨むよりも、四郎の冥福を祈らせつつ、社会内で更生の道を歩ませるのが相当と考えられる。
(原審における求刑 懲役三年)
よって、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官近江清勝 裁判官渡邊壯 裁判官嶋原文雄)

++解説
《解  説》
一 本件は、被告人が、親権者となっていた次男D(当時三歳)らを連れて、Aと同棲を始めたが、AがDらにせっかんを繰り返すようになったのであるから、親権者兼監護者としてせっかんを制止して保護すべき立場にあったところ、AがDに対し暴行を加え、硬膜下出血等の傷害を負わせて、脳機能障害により死亡させた際、Aの暴行を制止する措置を採るべきであり、かつ、これを制止して容易にDを保護できたのに、その措置を採ることなくことさら放置し、もってAの犯行を幇助したというものである。原判決は、不作為による幇助犯の成立要件として「犯罪の実行をほぼ確実に阻止し得たにもかかわらずこれを放置したこと」を掲げ、被告人に具体的に要求される作為の内容として、Aの暴行を実力をもって阻止する行為のみを想定した上で、その場合には、負傷していた相当の可能性のあったほか、胎児(当時被告人は妊娠していた。)の健康にまで影響の及んだ可能性もあった上、被告人としては実力による阻止が極めて困難な心理状態にあったことなどにかんがみると、被告人の不作為を作為による傷害致死幇助罪と同視することはできないとして、被告人に無罪を言い渡したところ、検察官から控訴が申し立てられた。
二 本判決は、被告人とAが知り合って、婚姻した経緯、その生活状況や本件当日の状況等について、事実経過を詳細に認定し、原判決の認定とほぼ同旨としている。しかし、本件当時の被告人の内心の意思や動機等については、原判決が、被告人の供述に依拠して認定したのに対して、その供述の信用性を否定し、本件せっかんの際Aの暴行を制止しなかったのは、当時なおAに愛情を抱き、肉体的執着もあり、かつ、Aとの第二子を懐妊していたこともあって、Dらの母親としての立場よりもAとの内縁関係を優先させ、Aの暴行に目をつぶっていたと認めるのが相当であり、そうすると、被告人は、Aの暴行を実力により阻止することが著しく困難な状態にあったとはいえず、被告人の不作為を作為による傷害致死幇助罪と同視することができないとはいえないとして、事実誤認を認めた。

三 次に、本判決は、不作為による幇助犯の成立要件として、正犯者の犯罪を防止しなければならない作為義務のある者が、一定の作為によって正犯者の犯罪を防止することが可能であるのに、そのことを認識しながら、右一定の作為をせず、これによって正犯者の犯罪の実行を容易にした場合に成立し、以上が作為による幇助犯の場合と同視できることが必要であるとしている。そして、右成立要件に徴すると、原判決が掲げる「犯罪の実行をほぼ確実に阻止し得たにもかかわらずこれを放置した」との要件は不必要というべきであるから、実質的に結果阻止との因果性の認められる不作為のみを幇助行為に限定した上、被告人に具体的に要求される作為の内容としてAの暴行を実力を持って阻止する行為のみを想定する原判決には、法令適用の誤りがあるとした。さらに、本判決は、被告人に具体的に要求される作為の内容とこれによるAの犯罪の防止可能性・容易性について検討し、①Aの暴行を実力をもって阻止する行為のみならず、②AとDの側によってAがDに暴行を加えないように監視する行為、③Aの暴行を言葉で制止する行為をも含めて、被告人が、本件の具体的状況に応じて、以上の監視ないし制止行為を比較的容易なものから行い、あるいは、複合して行うなどしてAのDに対する暴行を阻止することは可能であったというべきであるから、②、③による本件せっかんの防止可能性を検討しなかった原判決の法令適用の誤りは、判決に影響を及ぼすことは明らかとした。

四 さらに、本判決は、前記不作為による幇助犯の成立要件にしたがって、作為義務の有無・程度等について具体的な検討を行い、その要件該当性を認めている。その上で、被告人の作為義務の程度は極めて強度であり、比較的容易なものを含む前記一定の作為によってAのDに対する暴行を阻止することが可能であったことにかんがみると、被告人の行為は作為による幇助犯の場合と同視できるものというべきであるとして原判決を破棄し、傷害致死幇助罪の成立を認めたものである。
五 不作為による幇助については、肯定説、否定説両説があるが、これを肯定するのが通説である。原判決は、その要件の一つとして、単に犯罪実行の防止が可能であったことだけでなく、犯罪の実行をほぼ確実に阻止し得たことまで要求しており、本判決も指摘するとおり、実質的に、結果阻止との因果性の認められる不作為のみを幇助行為に限定していたといえるであろう。この点について、本判決は、正犯者の犯罪の実行を容易にした場合に、不作為による幇助が成立するものとしている。作為による幇助について、正犯の実行行為を容易にすれば足りるとの考えに立ち、不作為による幇助について作為とパラレルに捉える立場からすれば、原判決が要求した作為の内容は厳格に過ぎると言わざるを得ず、本判決のような見解になるものと思われる。
なお、本判決の評釈として村越一浩・研修六二四号一三頁、原判決の評釈として高橋則夫・現代刑事法一四号一〇一頁、大山弘・法セミ五三九号一〇九頁、松生光正・判例セレクト’99〔法教二三四号〕三一頁等がある。また、近時不作為による幇助が問題となった事例としては、東京高判平11・1・29判時一六八三号一五三頁がある。

ウ 実行の着手時期

(3)殺人罪に関して不真正不作為犯を認めた裁判例

+判例(前橋地高崎支S46.9.17)

+判例(東京地八王子支S57.12.22)
理由
(被告人両名の身上経歴及び犯行に至る経緯)
被告人佐藤秀夫(以下単に秀夫ということがある。被告人佐藤シヅ子についても同様である。)は、昭和三五年に福島県内の中学校を卒業後、集団就職で上京し、以来、工員、タクシーの運転手など種々の仕事に就きながら、都内各地を転々としていた者、被告人佐藤シヅ子は、埼玉県内で出生し、一六歳のころから、同県内のいわゆる米軍(当時)朝霞キャンプ付近で、米軍人などを相手方として売春をするようになり、以来、結婚したことなどにより中断もあつたが、概ね、同県内の朝霞市内などで売春などをして生活していた者、六田愛子(昭和五年三月二八日生、以下単に六田ということがある。)は、石川県内で出生し、尋常高等小学校を卒業し、洋裁学校に一年間通学した後、工員として働いていたが、昭和二一年ころ両親の許を飛び出し、埼玉県朝霞市内で飲食店の従業員などをして働き、シヅ子とも顔見知りとなり、同じ店で共に売春をしたこともあつた者である。秀夫とシヅ子は、昭和五一年一一月に結婚するとともに、互いに相手方の連れ子と養子縁組をし、子供二人と東京都練馬区石神井町一丁目一番都営南田中住宅三五号棟二〇四号室(鉄筋コンクリート五階建住宅の二階)に居住していたが、昭和五三年七月ころ、埼玉県朝霞市栄町五丁目八番二号所在の店舗を借り受けて、飲食店「三春」を開店し、秀夫が同店のいわゆるマスター、シヅ子がいわゆるママとして働くようになつた。しかし、次第に客足が遠のき、通常の飲食店としての営業だけでは苦しくなつたため、シヅ子と女性の従業員が、同店に来た客などを相手に売春もするようになつたが、右従業員が同店を辞めたため、その代わりに昭和五五年五月ころ六田を雇い入れ、秀夫は、六田に競艇の賭金などを貸し付けたが、その取立のためもあつて、同年一〇月ころから同女にも売春をさせるようになつた。ところで、昭和五六年二月ころ、被告人らは、六田が逃げ出したり、「三春」に関する悪口を言い触らすのを防ぎ、また同女のために借りていたアパート代を節約するため、同女を朝霞市内のアパートから前記被告人ら方に転居させたが、同女の客扱いには、その接待中に居眠りをするなど、種々の不行届きがあり、売春の相手方となつた客からの苦情もあつたため、秀夫は、同女に対し、叱責を加えたうえ、その頭部や顔面を平手あるいは手拳で殴打することがあり、シヅ子も、六田の不手際は、秀夫の注意の仕方が足りないからだなどと言つて、秀夫の右のような行動を助長する態度をとつていた。このようにして、被告人らは、しばしば、「三春」の営業を終えて自宅に帰つた後、六田に対し、布団も与えずにベランダで寝かせるなどの虐待を加えるようになつた。
(罪となるべき事実)
第一 被告人両名は、昭和五六年三月初旬ころの午前零時ころ、前記「三春」店舗内において、六田に対し、営業時間中に居眠りしたことを注意したところ、同女がこれに口答えをしたうえ、シヅ子を片輪者呼ばわりしたことに立腹し、共謀のうえ、シヅ子が同店舗内の石油ストーブにかけてあつた鍋内の熱湯を六田の両下腿部に浴びせ、更に、秀夫が、同女の両肩を同店舗内畳席部分の畳の上に押さえつけたうえ、シヅ子が前同様の熱湯を六田の両下腿部に浴びせ、よつて、同女に対し、加療約一か月間を要する両下腿第三度熱傷等の傷害を負わせた。
第二 同年七月一三日午後一一時ころ、前記「三春」店舗内において、被告人秀夫は、六田の客扱いが悪く、同女が接客中に居眠りをしたことに立腹し、同女に対し、シャッター降し用鉄棒(長さ約1.05メートル、直径約1.3センチメートル、昭和五六年押第二三九号の五)で、その頭部、顔面、肩部及び腰部などを多数回にわたつて強打し、更に、サンダル(同号の七)を履いた右足で、その頭部及び顔面などを多数回にわたつて足蹴にするなどの暴行を加え、その後前記被告人ら方に連れ帰つてからも、被告人両名は、同所において、六田が小便を漏らしたり、食事を摂らないことに立腹し、共謀のうえ、同女に対し、木刀(押収してある木刀、昭和五六年押第二三九号の八と同様のもの)などで、同月一四日の昼ころ、それぞれ、その腰部、腕部を数回殴打するなどの暴行を加え、同日夕刻ころ、シヅ子がその右肩部などを数回殴打し、秀夫が、その胸部、鼻根部を強く突き、その頭部、肩部、腰部を数回殴打するなどの暴行を加え、更に、同月一五日の午前中及び夕刻ころ、それぞれ、右木刀で、その肩部、腕部を数回殴打するなどの暴行を加え、よつて、同女に対し、鼻骨骨折を伴う鼻根部挫創ないし挫裂創、下口唇挫創、後頭部挫創等の傷害を負わせた。このため、同女は、同月一四日の昼から食欲が減退し、同日夕刻からは、食事を殆どしなくなり、また、体温も、同日の夜に、39.5度に達し、以来四〇度を前後し、息遣いも荒い状態が続き、同月一五日午後からは、自力で起き上がることもできず、布団の中で失禁するようになり、同月一六日には、その意識も判然としなくなるなど、かなり重篤な症状を呈するに至つた。ところで、同月一六日当時、六田の容態は、直ちに医師による適切な治療を受けさせれば、死の結果を予防することが十分に可能であり、かつ、被告人らには、同女をして直ちに医師による適切な治療を受けさせ、もつて、その生命を維持すべき法的義務があるにも拘らず、被告人両名は、医師による治療を受けさせた結果、六田に傷害を与えた事実が発覚し、その刑事責任を問われることをおそれるあまり、六田をして、直ちに医師による治療を受けさせなければ、同女が死亡するかもしれないことを認識しながら、それもやむをえないと決意し、共謀のうえ、そのころ以降も、同女に対し、飲み物を吸い呑みで与え、また、自宅内にあつた、化膿止めの錠剤、解熱剤及び栄養剤を投与し、氷枕をあてがうなどしただけで、医師による治療を受けさせるなどの有効適切な救護の措置を講ずることなく、同女を自宅六畳間に就床させたまま、これを放置し、よつて、同月一九日午後一時三〇分ころ、同所において、同女をして、前記創傷を誘因とする心冠動脈狭窄に基づく心機能不全、もしくは、右創傷に起因する感染症、更に合併症としての就下性肺炎、細菌毒素によるシヨツク、炎症による脱水シヨツクないし末梢性循環不全を誘因とする冠動脈閉塞により死亡させて殺害した。
第三 被告人両名は、息子の○○(当時一七歳)と共謀のうえ、同月一九日午後一〇時ころ、前記被告人ら方において、秀夫が、六田の死体をロープ(押収してある白紐三本、昭和五六年押第二三九号の二ないし四はその一部)で縛つたうえ、秀夫と○○において、布団袋(同号の九)に詰めて運び出し、これを自家用普通乗用自動車の後部トランク内に押し込め、翌二〇日午前零時ころ、東京都西多摩郡奥多摩町原九五〇番地(奥多摩有料道路川野料金所から9.8キロメートルの地点付近)に赴き、同所東側道路脇の草地において、秀夫及び右○○が、深さ約三〇センチメートルの穴を掘つたうえ、その中に六田の死体を落とし入れて土石をかぶせて埋め、もつて死体を遺棄した。
(証拠の標目)〈省略〉
(判示第二の殺人罪を認定した理由について)
弁護人は、判示第二の所為について、一、被告人らに不真正不作為犯における作為義務はなかつた、二、被告人らは、六田に対し、飲食物を供与し、各種薬品を投与していたのであるから、不作為には該らない、三、被告人らに殺意はなかつた旨各主張するので、以下、この点について検討する。
一 作為義務について
弁護人は、1、加害行為がいわゆる「先行行為」として不作為による殺人罪の要件である作為義務を発生させるためには、当該加害行為の結果、死に至る高度の蓋然性があることが必要であるが、被告人らの七月一三日ないし一六日の行為は、創傷を生じたとしても、それが六田の直接の死因ではなく誘因に過ぎず、また、医学に素人である被告人らにとつて右創傷を誘因として死亡するに至ることは予見不可能であり、いわゆる「先行行為」には該らない、2、被告人らは、六田の雇主で同居者であるに過ぎず、同女に対する救助を「引き受け」た事実はなく、また、同女を隔離して第三者による救済を不能にするような行為はしておらず「支配領域」に置いた事実もない、として、被告人らには、六田に対する法的作為義務がなかつた旨主張する。
しかしながら、1、前掲の関係各証拠によれば、(一)七月一三日における暴行の態様は、前認定のとおり、かなり強力なものであつたこと、(二)同日ないし一六日の暴行によつて、六田は、その顔面、頭部及び肩部に合計一一箇所の創傷を被り、その中には、長さ約二センチメートルの鼻骨々折を伴う鼻根部正中の創や長さ2.3センチメートルの唇を貫通した下口唇の創など、それ自体、かなりの重傷というべきものがあること、(三)証人内藤道興の当公判廷における供述(以下内藤証言ということがある)によれば、右のような創傷に対して縫合などの治療が施されない場合は、これが細菌の感染を受けて化膿性の炎症を起こす高度の蓋然性が存し、その結果、化膿菌が血中に入つて敗血症等の重篤な症状を来たすなどして死亡する可能性の存すること、このような事実が認められるのであつて、これらを総合すれば、被告人両名は、自己の行為により六田を死亡させる切迫した危険を生じさせた者と認められる。
2、また、前掲の関係各証拠によれば、(一)六田は、知能や判断力がやや劣る者であつたが、被告人らは、昭和五五年五月ころ、このような同女を雇い入れ、同年一〇月ころからは、同女に売春をさせてその代金なども取り上げるようになつたうえ、翌五六年二月ころ、もつぱら被告人らの都合により、六田が二〇年近く住んでいた埼玉県朝霞市内から東京都練馬区内の被告人ら方に転居させ、同所で生活させていたこと、(二)その後、被告人らは、六田に対し、しばしば折檻を加えるようになり、このため、六田も、判示第一記載の被害に遭つた直後ころ、「三春」から一旦逃げ出したが、被告人らは同女を捜し出して、再び元の様に働かせていたこと、(三)一方、六田は、シヅ子が警察にも手を回しているため、警察も被告人らの仕打ちを取り上げないものと考え、日頃の虐待により逃げ出せば殺されるのではないかとの恐怖にかられていたこと、更に、(四)本件七月一三日の事件の際、六田は、一旦「三春」から逃げ出したものの途中で転倒し、これを追いかけた秀夫は、同女を認めて「大丈夫か」などと声を掛けている森田泰蔵に対して「引つ込んでいろ」などと怒鳴りつけたうえ、同女を「三春」店舗内に引きずり込み、同店付近飲食店からの通報により臨場した警察官らが、再三店内に入れるよう要請したにも拘らず、内側から鍵をかけてこれに応ぜず、被告人両名は、右警察官らが、六田の「大丈夫」との声を聞いて、その場を立ち去るや、同女を自家用普通乗用自動車で被告人ら方に連れ帰つていること、(五)翌一四日には被告人らは仕事にも出かけず、同女を見守り、判示の暴行を加えて同女を畏怖させ、同女は被告人らに看護をすべて委ね、病状が進み同月一五日から起居も一人ではできず、自ら救済を求めることもできなかつたこと、以上の事実が認められ、右各事実を総合すれば、本件犯行に至るまでの被告人両名と六田との関係は、単なる飲食店の経営者とその従業員というに止まらず、被告人両名が、六田に対し、その全生活面を統御していたと考えられるのであつて、同女が被告人両名の「家畜」であつたとの検察官の論旨はいささか誇大に過ぎるにしても、これに近い支配服従関係にあつたことは否めないと認められ、また、七月一三日以後、被告人両名において、受傷した六田の救助を引き受けたうえ、同女を、その支配領域内に置いていたと認めるのが相当である。
3、前認定のとおりの六田の創傷の程度及び七月一四日ないし一六日の同女の病状、更に、後述のとおり、その任意性、信用性に疑いをさしはさむ余地がないと認められる、被告人両名の各供述調書によれば、被告人らが、いずれも六田に対し医療行為が必要であると認識し、同月一六日には、同女の死を予見していたと認められることからすると、被告人らが、すでに同月一四日には、同女の創傷が医師による適切な医療行為を必要とする程度の重いものであることを認識し、更に、遅くとも、同月一六日には、同女の死を予見しえ、また予見していたと認めるのが相当である。
以上1ないし3の各事実のほか、本件当時、被告人らが六田をして、医師による治療を受けさせることが格別困難であつたと認められる事情も存しないことを総合考慮すれば、被告人らには、六田に対し、七月一三日ないし一五日の暴行による創傷の悪化を防止し、その生命を維持するため、同女をして医師による治療を受けさせるべき法的作為義務があつたというべきである。
二 不作為について
弁護人は、不真正作為犯たる殺人罪が成立するためには、当該不作為が作為犯たる殺人罪における定型的実行行為と同価値であること、すなわち、生命維持に必要な行為を積極的に放棄ないし阻止していることを要するが、被告人両名は、六田に対し、同女の生命維持に必要な基本的行為たる飲食物の供与のほか、化膿止めの錠剤、解熱剤及び栄養剤を投与し、氷枕をあてがうなどの被告人らにとつて最善と思われる治療をなしていたのであるから、殺人罪の実行行為と同価値の不作為には該当しない旨主張する。
しかしながら、前掲の関係各証拠によれば、1、当時、六田が必要としていた処置は、創傷の消毒・縫合、症状に即応した抗生物質の投与、持続点滴などであつたこと、2、被告人らがなした右のような薬品の投与は、しないよりまし、といつた程度のものであり、被告人らも、六田の病状に鑑み、医師による適切な医療的処置を必要としていることを認識しながら自己の犯罪発覚を恐れ、単なる気休め程度の考えで、そのような行為をするにとどめていたこと、3、被告人らが、同女をして、右1記載の処置を受けさせることは容易であつたこと、が認められる。これらを総合すれば、前認定のとおり、被告人らに課せられた作為義務の内容は、自ら与えた創傷の悪化を防止すべく、医師による適切な治療を受けさせること、というものであり、本項冒頭記載のような行為を被告人らがしていたことのみをもつて、右作為義務を果たしたとは到底認められないばかりか、前認定のような被告人らと六田との関係、被告人らが七月一三日以後同女を支配内においていたことも考え合わせると、病状が悪化していくにもかかわらず適切な医療措置を講じさせないという不作為は、不作為による殺人の実行行為と評価できる。
三 殺意について
弁護人は、被告人らに殺意はなかつた旨主張し、当公判廷において、秀夫は、七月一八日に至つて初めて六田の死を予見した旨、シヅ子は、六田が死亡するまで、同女の死を予見しなかつた旨各供述する。
しかしながら、シヅ子の当公判廷における供述態度は、およそ真摯にその感得した事実を供述しているとは認められず、また、被告人両名の捜査段階における供述証拠を除いた他の証拠によつても、1、六田の病状は、ほぼ前認定のとおりのものであつたと認められるところ、この点に関する被告人両名の当公判廷における各供述は、これと少なからぬくい違いを見せていること、2、七月一七日、秀夫とシヅ子が、六田はもうだめではないかとの話をしていたと認められること、などに徴すれば、被告人らの右のような当公判廷における各供述は、俄には信用し難い。
結局、六田の病状、これをめぐる被告人らの言動などのほか、被告人両名も、捜査段階においては、七月一六日に同女の死を予見し、これもやむをえないと思つた旨供述していることに鑑みれば、被告人らは、それぞれ、同日に、未必的殺意を抱いていたと認めるのが相当である。
なお、弁護人は、被告人両名が殺意を認めた各供述調書は、いずれも、長時間にわたる精神的威圧の下で、誘導、理詰めの尋問などに基づき作成されたものであつて、任意性がない旨主張する。
しかしながら、右各供述調書においては、被告人らの争つている点は、そのまま記載されており、その時々の被告人らの供述するところをそのまま録取したと認められ、取調官から何らかの強制が加えられたことを窺わせる形跡は見当たらない。結局、右各供述調書は、その任意性に疑いをさしはさむ余地はなく、その内容も、他の証拠から認められる客観的状況とよく符合し、その信用性も高いと認められる。
以上の次第で、被告人らの判示第二の所為に関する弁護人の各主張は、いずれも採用しえないものというべきである。
(法令の適用)〈省略〉
よつて、主文のとおり判決する。
(和田啓一 犬飼眞二 富永良朗)

+判例(東京高H19.1.29)
被告人の作為義務について
1 被告人は、被害児の実父でもないし、被害児の母親であるAと婚姻しているわけでもないから、被害児を救命することについて、身分関係を基礎とした作為義務が生じることはないといえる。
しかし、以下の事情を総合考慮すると、条理ないし社会通念から見て、被告人には、不作為の殺人罪における作為義務となる、被害児を救命すべき作為義務があったと認められる。
なお、原判決は、被告人の作為義務として、「その救命のために速やかに医療機関による治療を受けさせるべき義務」を認定している。そのことに誤りはないが、共犯者との同一の表現になっているところから、その意義について補足しておく。
原判決にも「被告人の負うべき治療機会提供義務は、被害児の実母である共犯者のそれを補完するものにとどまる」旨説示されているように、実母である共犯者と被告人の各作為義務が完全に同一の内容であるわけではない
被告人の負う原判決のいう治療機会提供義務は、被告人自身がその義務を直接果たす作為に出ることを不可欠の要件としているわけではなく、Aを始めとする第三者を介して、或いは働きかけるなどして、最終的に治療機会提供義務が尽くされるようにすることによっても果たされるものであるが、同時に、単に自分の希望を表明したり、相手の意向を打診したりするといった程度では足りず、確実に治療機会提供義務が尽くされるようにする必要はあるものといえる
原判決も、同趣旨と解される。ここでは、そのことを前提として、前記のように、便宜「被害児を救命すべき作為義務」という言い方をしている。

2(1) Aとの前記合意がその作為義務を認める基軸となる事柄であることは明らかである。同時に、被告人が、その合意を反故にして、被害児の救命のための行動に出ることを困難とする事情など何もなかったのである。
(2)ア そして、本件では、その合意に加えて、被告人とAや被害児との生活実態といった事情も、被告人の作為義務を認める根拠の一つとなり得るものと解される。即ち、〈1〉被告人は、Aと恋愛関係となり、原判決説示のとおり、同居を提案して、被害児を連れて実家を出たA親子を受け入れ、平成16年4月22日ころから、被告人の自室に住まわせ、以後被害児死亡当日まで約9か月にわたって(原判決が、作為義務の発生時期としている「12月上旬」、当裁判所のこれまでの認定によれば、それは遅くとも12月6日ということになるが、それまでに限っても、7か月余りの期間ということになる。)、3人で一緒に生活をしてきた、〈2〉被告人は、Aが食事の準備等ができないときは、Aに代わって食事を作ったこともあったし、被害児を風呂に入れたり、寝かしつけたりしたこともあり、8月7日には、Aと被告人とで、被害児の誕生日祝いもし、被害児も被告人に懐くなど円満な生活を送っていた、〈3〉ところが、被告人は、9月に入って、被害児を疎んじるようになって、結局は被害児を死亡させる契機を作った、〈4〉Aは、スナックや派遣先の職場で働きながら、交通費や昼食代といった経費を除いた収入全額を被告人に渡していたこともあって、被告人も出張ホストのアルバイトをしたことがあるものの、3人の生活費は、主として、Aの収入と被告人の実家からの5~6万円の仕送りに頼っており、被告人は、収入面からだけ見ると、Aに依存していたともいえるが、一家の金銭を一人で管理して家計を取り仕切り、被告人に好意を寄せているAの心情も考慮すれば、一家の実権を握っていたのは被告人であった、などが、その生活実態であった。
なお、原判決は、前記のような生活実態の一つとして、Aが被害児に対して行った叩くなどの虐待行動に、被告人も、寝具等を新聞紙で代替することを示唆するなど一定程度関与していたことも挙げている。
しかし、被害児の右大腿骨の骨折がその虐待によるものであるとすれば、まさに看過できない事柄といえることは明らかであるものの、原判決自身、その発生原因や、仮に虐待によるものとした場合の加害者を具体的に認定しているわけではないから、虐待に関する点は、作為義務に関する生活実態からは、一応除外して考えることにした。
また、生活実態に関連するものとして付言すれば、原判決にある、被告人が「日常生活を謳歌」していた旨の措辞は、適切さに欠けている。
イ 被告人が、被害児との同居を望んだからといって、事後的な殺人の作為義務の発生根拠と直ちになるものではないことは、明らかである。
しかし、本件は、原判決も指摘しているように、被害児を救命するための行動に出ることのできる者がAを除くと被告人しかいないといった、密室的な環境の中での不作為による殺人事件であることからすれば、前記のような生活実態といったものも、被告人の前記作為義務を認める根拠の一つとなることを肯定して良いと解される。
換言すれば、被告人が、そのような作為義務を負わないようにしようと思えば、〈1〉A親子との同居を速やかに解消する、〈2〉被害児を疎んじる態度を直ちに改めて、Aに対して被害児を適切に養育するように真剣に働きかける、〈3〉関係者などに伝えて被害児の苦境の速やかな打開を図る、など比較的容易に取り得る手段が他に複数あり得たから、前記のような作為義務を被告人に認めたからといって特に過大な義務を負わせることにはならないからである。
3 以上の検討からすれば、被告人に対して作為義務を認めた原判決の判断は、その結論において支持することができる。

+判例(H17.7.4)
理由
弁護人西村正治及び被告人本人の各上告趣意のうち、憲法21条違反をいう点は、本件公訴の提起及び審理が被告人やその関係する団体に対する予断等に基づくものとは認められないから、前提を欠き、その余の弁護人西村正治の上告趣意は、憲法違反、判例違反をいう点を含め、実質は単なる法令違反、事実誤認の主張であり、その余の被告人本人の上告趣意のうち、判例違反をいう点は、引用の判例が事案を異にし、あるいは所論のような趣旨を判示したものではないから、前提を欠き、その余は、憲法違反をいう点を含め、実質は単なる法令違反、事実誤認の主張であって、いずれも適法な上告理由に当たらない。
なお、所論にかんがみ、不作為による殺人罪の成否につき、職権で判断する。
1 原判決の認定によれば、本件の事実関係は、以下のとおりである。
(1) 被告人は、手の平で患者の患部をたたいてエネルギーを患者に通すことにより自己治癒力を高めるという「シャクティパット」と称する独自の治療(以下「シャクティ治療」という。)を施す特別の能力を持つなどとして信奉者を集めていた。
(2) Aは、被告人の信奉者であったが、脳内出血で倒れて兵庫県内の病院に入院し、意識障害のため痰の除去や水分の点滴等を要する状態にあり、生命に危険はないものの、数週間の治療を要し、回復後も後遺症が見込まれた。Aの息子Bは、やはり被告人の信奉者であったが、後遺症を残さずに回復できることを期待して、Aに対するシャクティ治療を被告人に依頼した。
(3) 被告人は、脳内出血等の重篤な患者につきシャクティ治療を施したことはなかったが、Bの依頼を受け、滞在中の千葉県内のホテルで同治療を行うとして、Aを退院させることはしばらく無理であるとする主治医の警告や、その許可を得てからAを被告人の下に運ぼうとするBら家族の意図を知りながら、「点滴治療は危険である。今日、明日が山場である。明日中にAを連れてくるように。」などとBらに指示して、なお点滴等の医療措置が必要な状態にあるAを入院中の病院から運び出させ、その生命に具体的な危険を生じさせた。
(4) 被告人は、前記ホテルまで運び込まれたAに対するシャクティ治療をBらからゆだねられ、Aの容態を見て、そのままでは死亡する危険があることを認識したが、上記(3)の指示の誤りが露呈することを避ける必要などから、シャクティ治療をAに施すにとどまり、未必的な殺意をもって、痰の除去や水分の点滴等Aの生命維持のために必要な医療措置を受けさせないままAを約1日の間放置し、痰による気道閉塞に基づく窒息によりAを死亡させた。

2 以上の事実関係によれば、被告人は、自己の責めに帰すべき事由により患者の生命に具体的な危険を生じさせた上、患者が運び込まれたホテルにおいて、被告人を信奉する患者の親族から、重篤な患者に対する手当てを全面的にゆだねられた立場にあったものと認められる。その際、被告人は、患者の重篤な状態を認識し、これを自らが救命できるとする根拠はなかったのであるから、直ちに患者の生命を維持するために必要な医療措置を受けさせる義務を負っていたものというべきである。それにもかかわらず、未必的な殺意をもって、上記医療措置を受けさせないまま放置して患者を死亡させた被告人には、不作為による殺人罪が成立し、殺意のない患者の親族との間では保護責任者遺棄致死罪の限度で共同正犯となると解するのが相当である。
以上と同旨の原判断は正当である。
よって、刑訴法414条、386条1項3号、181条1項本文、刑法21条により、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり決定する。
(裁判長裁判官 中川了滋 裁判官 福田博 裁判官 滝井繁男 裁判官 津野修 裁判官 今井功)

++解説
《解  説》
1 本決定の理解のためには,事実関係を押さえる必要があると思われるので,やや詳しくなるが,2審判決の認定した本件の経過について概略説明する。
被告人は,昭和58年ころから,有限会社ライフスペースの代表取締役として自己開発セミナーを開催するなどしていたが,平成7年に起きたセミナー受講生の死亡事件をきっかけに,同社がカルト団体と見られるようになって受講生が激減し,代表取締役を退いた。他方で,被告人は,平成6年ころから,インドの教育哲学者サイババの弟子であると名乗るようになり,その後,自らをサイババによって指名された「シャクティパット・グル」であると称するようになって,手の平で患者の患部をたたいて「シャクティ」というエネルギーを通すことにより患者の自己治癒力を高めるという「シャクティパット治療」(以下「シャクティ治療」という。)を施す特別の能力を有するとして信奉者を集め,秘書らを通じて自己の考えを「メッセージ」として発するようになり,平成9年5月には,被告人の正しい「メッセージ」を伝えることなどを目的とする「シャクティパット・グル・ファウンデーション(SPGF)」という団体が設立された。
被告人の信奉者で友人でもあったAは,脳内出血で倒れ,意識障害のある重篤な状態で兵庫県内の病院に入院し,点滴による水分補給や薬物投与,痰を除去する措置等を受けていた。主治医の診断は,出血は止まっており手術の必要はないが,3日から1週間は様子を見る,治療には3,4週間を要し,その後はリハビリをする,快復後も右半身の麻痺等が残るなどというものであった。Aの息子でSPGFのメンバーであったBは,Aに後遺症を残さないようにしたいと考え,被告人に連絡して,シャクティ治療の有効性を尋ねた(なお,兵庫県内の病院にいるBと千葉県成田市内のホテルにいる被告人との連絡は,全て,電話又は電子メールで被告人の秘書を介して行われている。)。被告人は,それまで脳内出血等の重篤な患者につきシャクティ治療を施したことはなかったが,Bに対し,シャクティ治療が有効である旨の応答をした。なお,被告人は,かねて薬物が人体に有害であるとの見解を述べており,Bは,Aに投与される薬物の害についても心配していた。Bが,主治医に対し,シャクティ治療をAに受けさせたいとの希望を伝えたところ,主治医は,Aを病院外に移動することは3,4週間は絶対にできず,すぐに移動すれば命の保証はない,病院内でシャクティ治療を行うことは,病院の治療に支障がない限り可能である旨を答えた。そこで,Bは,被告人に対し,3,4週間後に移動できるようになってからシャクティ治療をスタートするのが最善であるが,もっと早く治療を始めなければならないとの被告人の見立てであれば,病院まで来て治療してほしいと頼んだ。これに対し,被告人は,シャクティ治療は成田で行う,走らなければ移動させても大丈夫であるなどと答えた。Bは,主治医に対し,投与される薬物の負担に対する懸念を述べるとともに,できるだけ早くシャクティ治療を受けさせたいとの希望を述べるなどした。主治医は,点滴を外したらAは干からびてしまうし,衰弱しているから肺炎で死亡する危険がある,退院に向けて点滴と流動食を併用できるようになるまでにも10日間は要する旨の説明をした。Bは,これを10日間で退院できるとの趣旨に誤解した上,その旨を被告人に連絡したところ,被告人は,点滴は非常に危険であり,動けないというのには根拠がない,3日以内に退院の日取りの確約がなければ秘書に相談するようになどと述べた。さらに,その後,Bからの経過報告に対し,被告人は,その都度,「今日,明日が山場です。Bも早くグルの所に帰っておいで。これ以上いると,病院のおもちゃにされてしまうぞ。」「もう夜逃げしかないんだ。私は明日ここにいる。明日中に私の所に来るんだよ。」などと指示した。Bは「グル」である被告人を深く信頼していたことから,上記指示により,Aを病院から運び出す決意を固め,被告人の信奉者らの協力を得て,医師らの反対を押し切って,上記指示の翌日で入院から8日後に当たる日に,Aの身体から点滴装置,痰を除去する装置等を外し,意識が回復していないAを車いすに乗せて病院から運び出し,飛行機等を利用して上記ホテルの客室まで運び込んだ。ここにおいて,被告人は,「グル」である被告人を全面的に信頼し,シャクティ治療により後遺症を残さずにAを治癒させることを念願するBらから,重篤な状態にあるAに対する手当てを現実にゆだねられた。被告人は,Aに対し,同所において,2日間にわたり合計3回のシャクティ治療を施したが,痰の除去や水分の点滴等,Aの生命維持のために必要な医療措置を受けさせずに放置し,Aがホテルに運び込まれた翌日,痰による気道閉塞に基づく窒息によりAを死亡させた。
2 被告人は,Bに指示してAを病院から運び出させた時点から未必的な殺意を有していたとして,殺人罪で起訴され,1審判決もほぼ公訴事実どおり認定し,Bらと共謀の上,Aを病院から連れ出した作為と,運び込まれたホテルでAを放置した不作為の複合した殺人罪に当たるとして,被告人を懲役15年に処した。
被告人から控訴した。2審判決は,Bらに指示してAを病院から運び出させた行為は客観的には殺人罪の実行行為に当たるが,その時点で被告人に未必的殺意を認めるには合理的な疑いが残るとした。その上で,2審判決は,Aがホテルに運び込まれてその容態を現認した時点では,被告人は,そのままではAが死亡する危険があると認識したが,Aに救急医療を受けさせたのでは,病院から運び出させた自己の判断の誤りを露呈することになり,シャクティパット・グルとしての権威が著しく失墜することから,Aが死亡してもやむを得ないと考えるに至ったものと認定した。そして,その段階で被告人にはAの生命維持のために必要な医療措置を受けさせる義務があったものと認め,これを怠りAを放置して死亡させた不作為による殺人罪が成立し,Bらとの関係では保護責任者遺棄致死の限度で共同正犯となるとして,1審判決を破棄の上,被告人を懲役7年に処した。
被告人から上告して,憲法違反,判例違反の主張などを展開し,原判決が不作為による殺人罪を認めたことを争うなどした。
本決定は,憲法違反,判例違反の主張が前提を欠き,あるいは実質は単なる法令違反,事実誤認の主張であるとして不適法とした上,不作為による殺人罪について職権で判断を示した。
3 不作為による殺人罪については,大判大4.2.10刑録21輯90頁が,もらい受けた生後6か月の子に生存に必要な食物を与えず餓死させた事案において,「養育の義務を負う者が殺害意思をもってことさらに被養育者の生存に必要なる食物を給与せずよってこれを死に致したるときは殺人罪となる」としている。その他,下級審の裁判例に,不作為による殺人罪を認めたものがある(名古屋地岡崎支判昭43.5.30下刑10巻5号580頁,福岡地久留米支判昭46.3.8判タ264号403頁,前橋地高崎支判昭46.9.17判時646号105頁,東京地八王子支判昭57.12.22判タ494号142頁等,その他のひき逃げ事案として,横浜地判昭37.5.30下刑4巻5=6号499頁,東京地判昭40.9.30下刑7巻9号1828頁,判タ185号189頁等)。
これまで,最高裁の判例では,不作為による放火罪に関するもの(最三小判昭33.9.9刑集12巻13号2882頁)があるが,不作為による殺人罪の成否につき判断を示したものはなかった。
4 学説は,一般に,通常は作為により実現されることが想定される構成要件を不作為により実現するいわゆる「不真正不作為犯」を認める。ただ,その成立範囲が不明確なことから,例外的なものに限定する必要があるといわれている。その基準として,社会生活上,その人が当然にその法益の保護に当たるべき地位すなわち「保障人的地位」にあるときに法律上の作為義務があるとするのが一般で,そのような地位を生ずる根拠については,法令,契約・事務管理,慣習,条理(特に先行行為)など多元的なものに求めるのが通説である(団藤,平野,大塚,福田等)。しかし,例えば,道交法上の救護義務違反が直ちに不作為による殺人罪とならないように,一定の作為を義務付ける「法令」があるだけで刑法上の作為義務が基礎付けられるわけではなく,それ以外の実質的考慮が働いていることは否定できない。そこで,近時は,作為義務の発生根拠の根底にある実質的な要素を分析して,「先行行為」「事実上の引受行為」「結果に対する排他的な支配」あるいは「支配領域性」などの要件に帰一させ,不作為犯の成立範囲を限定しようとする見解も有力である(日高義博『不真正不作為犯の理論』148頁,堀内捷三『不作為犯論』249頁,西田典之「不作為犯論」芝原邦爾ほか編『刑法理論の現代的展開(総論1)』80頁,佐伯仁志「保証人的地位の発生根拠について」香川達夫博士古稀祝賀『刑事法学の課題と展望』95頁,山口厚『刑法総論』(補訂版)84頁等)。
5 本決定は,前述のような経過で,被告人において,入院中の患者を運び出させて自己の責めに帰すべき事由により患者の生命に具体的な危険を生じさせた上,患者の運び込まれたホテルで,被告人を信奉する患者の親族から患者に対する手当てを全面的にゆだねられた状態にあったものと認めた。その際,患者の重篤な状態を認識し,これを自らが救命できるとする根拠はなかったのであるから,被告人は,直ちに患者の生命を維持するために必要な医療措置を受けさせる義務を負っていたものとし,未必的な殺意をもって,上記医療措置を受けさせないまま放置して死亡させた被告人には,不作為による殺人罪が成立し,殺意のない患者の親族との間では保護責任者遺棄致死罪の限度で共同正犯となるとした(なお,Bは保護責任者遺棄致死罪による執行猶予付き有罪判決を受けている。)。
以上のとおり,本決定は,具体的な事実関係の下で,被告人が,自己の責めに帰すべき事由により患者の生命に具体的な危険を生じさせた点と,被告人を信奉する患者の親族から重篤な患者に対する手当てを全面的にゆだねられた立場にあった点を重視して,被告人の作為義務を認めている。本件は,いわゆる「先行行為」「事実上の引受行為」「結果に対する排他的な支配」あるいは「支配領域」のいずれについても肯定することのできる事案と思われ,通説及び前記有力説中どの見解に立っても,被告人の作為義務の発生根拠を説明することができると思われるが,各説を検証する上で興味深い事例といえよう。
なお,殺意のない患者の親族との関係で保護責任者遺棄致死罪の限度で共同正犯となるとした点は,真正不作為犯と不真正不作為犯の共同正犯を認め,かつ共犯者間に錯誤があることによるものであり,通常の処理と思われる。
6 本件は特殊な事件に関する事例判断ではあるが,不作為による殺人罪の成立を認めた最高裁として初めての判例であり,今後の実務や不真正不作為犯に関する議論にも有益な示唆を与えるものと思われる。

(5)Aの作為義務

(6)因果関係
ア 不作為犯における因果関係
一定の期待された作為を仮定したうえで、その作為がされれば結果を回避できたかどうかを判断することになる。

+判例(S63.1.19)
理由
弁護人池宮城紀夫、同新里恵二、同上間瑞穂連名の上告趣意のうち、判例違反をいう点は、所論引用の各判例はいずれも事案を異にし本件に適切でなく、その余の点は、すべて単なる法令違反、事実誤認の主張であつて、刑訴法四〇五条の上告理由に当たらない。なお、保護者遺棄致死の点につき職権により検討すると、原判決の是認する第一審判決の認定によれば、被告人は、産婦人科医師として、妊婦の依頼を受け、自ら開業する医院で妊娠第二六週に入つた胎児の堕胎を行つたものであるところ、右堕胎により出生した未熟児(推定体重一〇〇〇グラム弱)に保育器等の未熟児医療設備の整つた病院の医療を受けさせれば、同児が短期間内に死亡することはなく、むしろ生育する可能性のあることを認識し、かつ、右の医療を受けさせるための措置をとることが迅速容易にできたにもかかわらず、同児を保育器もない自己の医院内に放置したまま、生存に必要な処置を何らとらなかつた結果、出生の約五四時間後に同児を死亡するに至らしめたというのであり、右の事実関係のもとにおいて、被告人に対し業務上堕胎罪に併せて保護者遺棄致死罪の成立を認めた原判断は、正当としてこれを肯認することができる。
よつて、刑訴法四一四条、三八六条一項三号により、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり決定する。
(裁判長裁判官 坂上壽夫 裁判官 伊藤正己 裁判官 安岡滿彦 裁判官 長島敦)

イ 不作為犯における因果関係の認定
作為がされれば合理的な疑いを超える程度に確実に結果が発生しなかったといえることが必要

+判例(H1.12.15)
理由
被告人本人の上告趣意のうち、憲法三八条違反をいう点は、原判決が被告人又は共犯者の自白のみによって被告人を有罪としたものでないことは判文に照らして明らかであるから、所論は前提を欠き、その余は、違憲をいうかのような点を含め、実質は事実誤認、単なる法令違反、量刑不当の主張であり、弁護人吉川由己夫の上告趣意は、量刑不当の主張であって、いずれも刑訴法四〇五条の上告理由に当たらない。
なお、保護者遺棄致死の点につき職権により検討する。原判決の認定によれば、被害者の女性が被告人らによって注射された覚せい剤により錯乱状態に陥った午前零時半ころの時点において、直ちに被告人が救急医療を要請していれば、同女が年若く(当時一三年)、生命力が旺盛で、特段の疾病がなかったことなどから、十中八九同女の救命が可能であったというのである。そうすると、同女の救命は合理的な疑いを超える程度に確実であったと認められるから、被告人がこのような措置をとることなく漫然同女をホテル客室に放置した行為と午前二時一五分ころから午前四時ころまでの間に同女が同室で覚せい剤による急性心不全のため死亡した結果との間には、刑法上の因果関係があると認めるのが相当である。したがって、原判決がこれと同旨の判断に立ち、保護者遺棄致死罪の成立を認めたのは、正当である。
よって、刑訴法四一四条、三八六条一項三号、一八一条一項但書、刑法二一条により、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり決定する。
(裁判長裁判官 貞家克己 裁判官 安岡滿彦 裁判官 坂上壽夫 裁判官 園部逸夫)

ウ 第三者の行為の介在した場合
+判例(H2.11.20)
理由
弁護人門井節夫の上告趣意は、単なる法令違反、事実誤認、量刑不当の主張であって、刑所法四〇五条の上告理由に当たらない。
なお、原判決及びその是認する第一審判決の認定によると、本件の事実関係は、以下のとおりである。すなわち、被告人は、昭和五六年一月一五日午後八時ころから午後九時ころまでの間、自己の営む三重県阿山郡a町b町所在の飯場において、洗面器の底や皮バンドで本件被害者の頭部等を多数回殴打するなどの暴行を加えた結果、恐怖心による心理的圧迫等によって、被害者の血圧を上昇させ、内因性高血圧性橋脳出血を発生させて意職消失状態に陥らせた後、同人を大阪市a区b所在の建材会社の資材置場まで自動車で運搬し、右同日午後一〇時四〇分ころ、同所に放置して立ち去ったところ、被害者は、翌一六日未明、内因性高血圧性橋脳出血により死亡するに至った。ところで、右の資材置場においてうつ伏せの状態で倒れていた被害者は、その生存中、何者かによって角材でその頭頂部を数回殴打されているが、その暴行は、既に発生していた内因性高血圧性橋脳出血を拡大させ、幾分か死期を早める影響を与えるものであった、というのである。
このように、犯人の暴行により被害者死因となった傷害が形成された場合には、仮にその後第三者により加えられた暴行によって死期が早められたとしても、犯人の暴行と被害の死亡との間の因果関係を肯定することができ、本件において傷害致死罪の成立を認めた原判断は、正当である。
よって、同法四一四条、三八六条一項三号、一八一条一項但書により、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり決定する。
(裁判長裁判官 可部恒雄 裁判官 坂上夫 裁判官 園部逸夫 裁判官 佐藤庄市郎)

++解説
《解  説》
一、事案の概要は、以下のとおりである。被告人は、昭和五六年一月の夜三重県内の自己の飯場において被害者の頭部を洗面器等で多数回殴打するなどの暴行(第一暴行)を加えた後、意識を失った同人を約一〇〇キロメートル離れた大阪府の南港まで運んで資材置場に放置したまま立ち去ったところ、同所において何者かが被害者の頭頂部を角材で数回殴打する暴行(第二暴行)を更に加えた。そして、翌日未明に被害者は内因性高血圧性橋脳出血により死亡したが、この傷害は第一暴行によって形成されたものであり、第二暴行は幾分かその死期を早める影響を与えるものであったと認められた。このような事実関係を前提にして、本決定は、被告人の第一暴行と死亡との因果関係を肯定したものである。
本件は、次のような訴訟経過を辿った。
検察官は、①第一、第二暴行とも被告人によって加えられたものであり、②第二暴行を加えた際には殺意を抱いていた、③第二暴行による頭部打撲により被害者が死亡したとの見解に立ち、全体として殺人罪に当たるとして起訴した。公判において被告人は、第一暴行を加えたこと及び大阪の港まで被害者を搬送して放置したまま立ち去ったことは認めたが、第二暴行を加えた点については否認し、右の争点をめぐって証拠調べが行われた。その後の審理において特筆すべき点として、まず、第二暴行を自白した被告人の捜査官に対する供述調書全部について、任意性に疑いがあるとして、その証拠能力が否定されたことが挙げられる(この決定は、刑裁月報一六巻三・四号三四四頁に登載されている。)。また、被害者の死因に関して、捜査段階の鑑定受託者は、起訴状に沿う知見を示していたのに対して、公判における鑑定は、第一暴行に起因するものであるとの見解に立つものであったため、検察官の請求により、「第一、第二の一連の暴行により内因性高血圧性橋脳出血により死亡させた」旨の予備的訴因の変更が行われている。
一審判決は、第二暴行の存在は、現場に残された角材に付着した血痕や被害者頭部の傷害から認定できるが、それが被告人によるものであるとするにはなお合理的疑いが残るとする一方で、第二暴行による殴打行為と被害者の死亡との間に因果関係はなく、これに先立つ被告人の第一暴行と死亡(死因は、内因性高血圧性橋脳出血)との間の因果関係が肯定できるとして、傷害致死罪を認定した。
被告人の控訴趣意中事実誤認の所論の中心は、第二暴行が被害者の死亡に何らかの影響を与えたのであるから、第一暴行との因果関係は否定されるべきであるという点にあった。
これに対して二審判決は、新たな鑑定結果をも踏まえた上で、「被告人の飯場での暴行により既に死因となるに十分な程度の内因性高血圧性橋脳出血が被害者に惹起され、それのみによって近接した時間内に被害者は死に至ったものと認められるのであり、それに対し南港における角材暴行は、それによって頭蓋骨骨折や頭蓋内出血あるいは脳挫傷等の頭蓋内損傷が引き起こされていないことなどに照らすと、いまだ死に至る脳傷害をもたらす程度のものとは認められず、せいぜい既に発生していた右内因性高血圧性橋脳出血を拡大させ幾分か死期を早める影響を与えたにとどまると推認される」として、傷害致死罪の成立を認めた一審の判断を是認した。
本決定は、右のような一、二審の認定事実を前提にした上で、第三者の暴行が介在した場合でも、当初の被告人の暴行と死亡との間の因果関係が認められる旨の職権判断を示したものである。

二、因果関係について判例は、従来の学説の対立についてどの立場をとるかを明言することを避けて、具体的事例を通じてその考え方を示していくという態度を堅持してきており、集積された事例について類型的にその判断基準を検討することが必要であると考えられてきた。いま、第一暴行の後第三者による第二暴行が加えられ、被害者が死亡した場合を類型化すると、①第一暴行により死因が形成され、第二暴行はその死期を早めるにとどまった場合、②第一暴行と第二暴行が重畳的に作用して死因が形成された場合、③第一暴行により重篤な傷害が発生したが、第二暴行によりこれとは無関係の傷害が生じ、後者が原因で死亡した場合、④競合して死の結果が生じたのか、第二暴行のみが死の原因になったのか不明の場合といった分類が可能であろう。これらの類型に関して因果関係を判断した先例は極めて限られており、②の類型に属するケースについて第一暴行との因果関係を肯定したものとして、大判昭5・10・25刑集九巻七六一頁がある程度である(なお、最三小決昭42・10・24刑集二一巻八号一一一六頁、本誌二一四号一九八頁―いわゆる米兵ひき逃げ事件―は、当初の行為が過失行為であった点で直接の先例とは言いがたいが、④の類型の結論を考えるに当たって参考になる事案であったと理解される。)。
本件は、右①の類型に属する事案について因果関係を肯定した初めての最高裁判例である。右の大審院の判断からすれば、本件についても因果関係が肯定されることになろうし、また、学説上のどの見解に立っても、おそらく異論はないのではないかと思われるが、①の類型は、第三者の介在の影響が(死期を早めるという)最小限の程度にとどまったという点で、この種事例の基本型に当たるともいうことができ、その点に本決定の先例的意義を認めることができよう(なお、一、二審判決は、第二暴行と死亡との間の因果関係はない旨を判示しているが、本決定は、その点に関しては判断を示しておらず、なお議論の余地があるように思われる。)。
最近の因果関係論の状況について概説したものとして、曽根威彦「因果関係論」法学教室一〇三号、一〇四号、一〇五号がある。

+判例(H4.12.17)
理由
弁護人森本宏、同内藤秀文、同山本健司の上告趣意は、判例違反をいうが、所論引用の判例は事案を異にし本件に適切でないから、刑訴法四〇五条の上告理由に当たらない。
なお、所論にかんがみ、被告人の過失行為と被害者の死亡という結果との間の因果関係につき、職権により判断する。
一 本件の事実関係は、原判決及びその是認する第一審判決の認定によると、次のとおりである。
1 被告人は、スキューバダィビングの資格認定団体から認定を受けた潜水指導者として、潜水講習の受講生に対する潜水技術の指導業務に従事していた者であるが、昭和六三年五月四日午後九時ころ、和歌山県a町の海岸近くの海中において、指導補助者三名を指揮しながら、本件被害者を含む六名の受講生に対して圧縮空気タンクなどのアクアラング機材を使用して行う夜間潜水の講習指導を実施した。当時海中は夜間であることやそれまでの降雨のため視界が悪く、海上では風速四メートル前後の風が吹き続けていた。被告人は、受講生二名ごとに指導補助者一名を配して各担当の受講生を監視するように指示した上、一団となって潜水を開始し、一〇〇メートル余り前進した地点で魚を捕えて受講生らに見せた後、再び移動を開始したが、その際、受講生らがそのまま自分についてくるものと考え、指導補助者らにも特別の指示を与えることなく、後方を確認しないまま前進し、後ろを振り返ったところ、指導補助者二名しか追従していないことに気付き、移動開始地点に戻った。この間、他の指導補助者一名と受講生六名は、逃げた魚に気をとられていたため被告人の移動に気付かずにその場に取り残され、海中のうねりのような流れにより沖の方に流された上、右指導補助者が被告人を探し求めて沖に向かって水中移動を行い、受講生らもこれに追随したことから、移動開始地点に引き返した被告人は、受講生らの姿を発見できず、これを見失うに至った。右指導補助者は、受講生らと共に沖へ数十メートル水中移動を行い、被害者の圧縮空気タンク内の空気残圧量が少なくなっていることを確認して、いったん海上に浮上したものの、風波のため水面移動が困難であるとして、受講生らに再び水中移動を指示し、これに従った被害者は、水中移動中に空気を使い果たして恐慌状態に陥り、自ら適切な措置を採ることができないままに、でき死するに至った
2 右受講生六名は、いずれも前記資格認定団体における四回程度の潜水訓練と講義を受けることによって取得できる資格を有していて、潜水中圧縮空気タンク内の空気残圧量を頻繁に確認し、空気残圧量が少なくなったときは海上に浮上すべきこと等の注意事項は一応教えられてはいたが、まだ初心者の域にあって、潜水の知識、技術を常に生かせるとは限らず、ことに夜間潜水は、視界が悪く、不安感や恐怖感が助長されるため、圧縮空気タンク内の空気を通常より多量に消費し、指導者からの適切な指示、誘導がなければ、漫然と空気を消費してしまい、空気残圧がなくなった際に、単独では適切な措置を講ぜられないおそれがあった。特に被害者は、受講生らの中でも、潜水経験に乏しく技術が未熟であって、夜間潜水も初めてである上、潜水中の空気消費量が他の受講生より多く、このことは、被告人もそれまでの講習指導を通じて認識していた。また、指導補助者らも、いずれもスキューバダイビングにおける上級者の資格を有するものの、更に上位の資格を取得するために本件講習に参加していたもので、指導補助者としての経験は極めて浅く、潜水指導の技能を十分習得しておらず、夜間潜水の経験も二、三回しかない上、被告人からは、受講生と共に、海中ではぐれた場合には海上に浮上して待機するようにとの一般的注意を受けていた以外には、各担当の受講生二名を監視することを指示されていたのみで、それ以上に具体的な指示は与えられていなかった
二 右事実関係の下においては、被告人が、夜間潜水の講習指導中、受講生らの動向に注意することなく不用意に移動して受講生らのそばから離れ、同人らを見失うに至った行為は、それ自体が、指導者からの適切な指示、誘導がなければ事態に適応した措置を講ずることができないおそれがあった被害者をして、海中で空気を使い果たし、ひいては適切な措置を講ずることもできないままに、でき死させる結果を引き起こしかねない危険性を持つものであり、被告人を見失った後の指導補助者及び被害者に適切を欠く行動があったことは否定できないが、それは被告人の右行為から誘発されたものであって、被告人の行為と被害者の死亡との間の因果関係を肯定するに妨げないというべきである。右因果関係を肯定し、被告人につき業務上過失致死罪の成立を認めた原判断は、正当として是認することができる。
よって、同法四一四条、三八六条一項三号により、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり決定する。
(裁判長裁判官 橋元四郎平 裁判官 大堀誠一 裁判官 味村治 裁判官 小野幹雄 裁判官 三好達)

++解説
《解  説》
一 本件の事実関係は、本決定自体に相当詳しく摘示されているが、要するに、潜水指導者として潜水技術の指導業務に従事していた被告人が、昭和六三年五月の午後九時ころ、和歌山県串本町の海岸近くの海中で、指導補助者三名を指揮しながら、本件被害者を含む六名の受講生に対して夜間潜水の講習指導を実施し、一団となって潜水を開始して一〇〇メートル余り前進した地点で魚を捕えて受講生らに見せた後、再び移動を開始する際、受講生らの動向に注意することなく不用意に移動して受講生らのそばから離れたため、同人らを見失うに至り、その後、二記載のような客観的経緯をたどって、受講生が海中ででき死したというものである。
二 本件は、右でき死事故に関して、潜水指導者に業務上過失致死罪が成立するとされた事件であるが、潜水指導者の過失と受講生のでき死という結果との間に、指導補助者及び被害者自身の不適切な行動が介在していたため、因果関係の存否が争われた。すなわち、被告人は、一、二審においては、因果関係のほかに過失の存在も争ったが、一審が、被告人には、「各受講生の圧縮タンク内の空気残圧量を把握すべく絶えず受講生のそばにいてその動静を注視し、受講生の安全を図るべき業務上の注意義務があるのに、」「不用意に一人その場から移動を開始して受講生のそばを離れ、間もなく同人らを見失った過失」があったとして、業務上過失致死罪の成立を認め(罰金一五万円)、控訴審も被告人の控訴を棄却したため、上告して、次のように主張した。
本件においては被告人の過失と結果発生との間に、取り残された指導補助者が、被告人の事前の注意に反して、受講生らと共に沖に向かって数十メートル水中移動を行うといった勝手な行動を採った上に、被害者の空気残圧量が少なくなっていることを確認していたにもかかわらず水中移動を指示するという致命的な判断ミスを犯したこと、さらに被害者本人による自分の空気残圧量を確認することなく右指導補助者の指示に従って、水中移動中に空気を使い果たし水中で残圧ゼロの事態を迎えるという極めて不注意なミスが介入しており、その結果、被害者が恐慌状態に陥り、自ら適切な措置を採ることができないままに、海中ででき死するに至るという結果が発生したものである。そうすると、本件は、いわゆる米兵ひき逃げ事件についての最三小決昭42・10・24刑集二一巻八号一一一六頁、本誌二一四号一九八頁(自動車運転手の被害者をはねた過失と被害者の死亡との間に、同乗者による被害者を車の屋根から路上へひきずり落とすという行為が介在した事案について、右運転者の過失と結果との間の因果関係を否定したもの)と比較しても、被告人の過失と結果との間に因果関係を認めることはできない事案であり、これを認めた原判決は右判例に違反する。
三 本決定は、本件は右判例とは事案を異にするとして、上告趣意を適法な判例違反の主張と取り扱わなかったが、因果関係について職権で次のような判断を示し、被告人に業務上過失致死罪の成立を認めた原判断を是認した。
前記のような事情に加えて、本件受講生らは、まだ初心者の域にあって、潜水の知識、技術を常に生かせるとは限らず、ことに夜間潜水は、通常より多量に空気を消費し、指導者からの適切な指示、誘導がなければ、漫然と空気を消費してしまい、空気残圧がなくなった際に、単独では適切な措置を講ぜられないおそれがあったこと、特に被害者は、潜水経験に乏しく技術が未熟であって、夜間潜水も初めてである上、潜水中の空気消費量が他の受講生より多く、被告人もそのことを認識していたこと、また、指導補助者らも、その経験は極めて浅く、潜水指導の技能を十分習得していなかったことなどの事情があった本件事実関係の下では、被告人が、夜間潜水講習中に不用意に移動して受講生らを見失うに至った行為は、それ自体が、被害者をして、海中で空気を使い果たし、適切な措置を講ずることもできないままに、でき死させる結果を引き起こしかねない危険性を持つものであり、被告人を見失った後の指導補助者及び被害者の不適切な行動は、被告人の右行為から誘発されたものであって、被告人の行為と被害者の死亡との間の因果関係を肯定するに妨げない。
四 因果関係の問題について判例は、それが極めて個別的色彩が強い問題であることなどからして、明確な理論的立場の表明を避け、具体的な事例の集積を通じてその考え方を示していく態度を基本としているといわれる。そこで、本件のように、被告人の過失と結果との間に、第三者ないし被害者の落度が介在した事例(監督過失的態様のものを除く。)に関する最高裁の先例をみると、次のようなものがある(⑥を除いていずれも因果関係を認めた事例である。)。
まず、第三者の落度が介在した事例としては、
① 最三小判昭28・12・22刑集七巻一三号二六〇八頁(病院薬剤師、薬剤科事務員、看護婦らの過失が順次競合して、患者にぶどう糖注射液と誤信して劇薬を注射し、中毒死させたもの。業務上過失致死等事件)
② 最一小決昭32・1・24刑集一一巻一号二三〇頁(国鉄信号保安係員の過失と機関車脱線との間に、他の国鉄職員の過失が介入。業務上過失往来妨害事件)
③ 最二小決昭34・5・15刑集一三巻五号七一三頁(油槽船甲板長のガソリン流出に関する過失と港内での船舶火災との間に、石油会社火気取扱責任者の過失が介入。重過失失火事件)
④ 最二小決昭35・4・15刑集一四巻五号五九一頁(鉄道職員の過失の順次競合。業務上過失致死傷事件。いわゆる桜木町駅事件)
⑤ 最三小決昭36・9・26刑集一五巻八号一五一一頁(鉄道職員の過失の競合。業務上過失傷害、業務上過失往来妨害事件)
⑥ 前記最三小決昭42・10・24刑集二一巻八号一一一六頁(業務上過失致死等事件)
等があり、被害者の落度が介在した事例として、
⑦ 最一小決昭63・5・11刑集四二巻五号八〇七頁、本誌六六八号一三四頁(医師の資格のない柔道整復師の誤った指示に患者が忠実に従った結果、その病状が悪化し死亡したもの。業務上過失致死事件)
がある。
五 これらの先例と比較した場合の本件の特徴としては、そもそもその過失態様自体、夜間潜水講習中に潜水指導者が受講生らを見失った過失により受講生ができ死するという珍しい事例であること、因果関係に関してみても、被告人の過失と結果発生との間に、第三者たる指導補助者及び被害者自身による結果発生に直結したとみられる不適切な行動が順次介入するという、これまでの先例に類例のみられない類型であることが指摘できる。加えて、本決定は事実の経過のみならず、被害者ないし第三者側の事情についても、前記三のとおり相当詳しい事実関係を摘示した上で、これらの事実関係によれば、因果関係が認められるとの結論を示している。このように、本決定は、事例判例ではあるが、最高裁として新たな類型について貴重な積極判断例を付け加えるものであり、介入事情が存する場合における因果関係の問題を考えるに当たって、格好の素材を提供するものといえよう。
なお、被告人の過失と結果との間に被害者の落度が介在した場合の因果関係の問題について判断を示した最近の先例として前記⑦があるが、同決定の特徴として危険の現実化に重点を置いた説示がみられることがあげられている(永井敏雄・昭63最判解説(刑)二七五頁)。同様の傾向は、本決定にも、前記のとおり被害者、第三者側の事情をも踏まえた上で「(被告人の)行為は、それ自体が……被害者をして……でき死させる結果を引き起こしかねない危険性を持つもの」との説示がみられることなどからして、これをうかがうことができるように思われる。併せて、本決定の趣旨を考えるに当たっては、本決定が第三者及び被害者の不適切な行動があったことを認めながら、因果関係を肯定する理由付けとして、それが「被告人の右行為から誘発されたもの」であることを指摘していることの意味合いも検討の対象となろう(被告人の行為自体が有する危険性ないしその具体的な実現を意味するものとみる、又は相当性判断における介入事情の異常性を否定する趣旨のものとみる、など種々の理解が可能であろう。)。

(7)故意
未必の故意を含む。

(8)殺人罪と保護責任者遺棄致死罪との区別
殺意の有無で区別!

3.Bの罪責
(1)問題の所在
(2)①の行為

・作為者と不作為者の共謀共同正犯
+判例(大阪高判H13.6.21)
第3 破棄自判
以上のとおりであって、結局、花子事件についての弁護人の事実誤認の論旨には理由がないが、花子事件及び秋子事件についての検察官の事実誤認の論旨には、いずれも理由があるところ、原判決は、以上の両事件に関する原判示第一及び第二の各殺人の事実が、原判示第三の詐欺の事実と刑法四五条前段の併合罪の関係にあるものとして、一個の刑をもって処断しているのであるから、刑訴法三九七条一項、三八二条により、原判決は、結局、その全部について破棄を免れない。よって、その余の検察官の量刑不当の論旨に関する判断を省略し、同法四〇〇条ただし書に従い、当裁判所において、被告事件について、更に次のとおり判決する。(罪となるべき事実)
被告人は、
第1 平成六年二月七日、甲野太郎と婚姻し、同年三月上旬ころから、大阪市大正区三軒家東〈番地略〉所在のB株式会社社宅〈略〉号室で居住していたものであるが、長女花子(同年四月二六日生)の発育が遅れがちで愛嬌がないなどとして、日ごろ同児を疎ましく感じていたところ、平成七年九月二三日、被告人の両親から同児の発育が不良だとして、太郎とともに、その育児方法等について厳しく注意を受けるなどしたことから、夫婦で同児を一層嫌悪するようになり、同年一〇月末ころ、太郎から「食わん奴には、もう飯食わすな。」などと花子に今後食事を与えないようにと言われ、ここに、同児に対し、生存に必要な飲食物を与えないで殺害しようと決意し、太郎と共謀の上、そのころから、同室において、同児が泣くときなどにわずかな菓子やジュースを与えたりする以外には、同児に飲食物を与えず、同児が栄養失調により徐々にやせ細るのを放置し続け、よって、平成八年一月四日、同室又は同室から同市此花区西九条〈番地略〉所在の財団法人大阪市救急医療休日診療所に向かう自動車内において、同児を栄養失調に基づく全身衰弱により死亡させ、もって、殺害した
第2 平成九年六月上旬から、神戸市西区平野町西戸田〈番地略〉所在のC株式会社社宅〈略〉号室に一家で居住していたものであるが、出生を望まないまま産み落とした三女秋子(平成八年五月三一日生)を、日ごろから太郎とともに疎ましく感じ、同児がいない方がよいとの思いから、同児を花子と同じ様に餓死させようなどと話し合い、離乳食を与える時期になってもこれを与えず、ミルクだけを与えていたため、同児が日々やせ細っていたところ、平成九年七月二一日ころ、同児のことを心配して同室を訪れた母親から、「秋子にちゃんと食べさせているの、花子みたいにしたら承知しないよ。私が連れて帰って育てる。」などと言われたことから、もう、秋子を餓死させても、これを取り繕うことはできず、かといって、他に秋子を亡き者にするための適当な方法も見出せないまま、互いに追い詰められた心境に立ち至っていた折りから、同月二七日午後一一時ころ、同室において、太郎とともに就寝しようとした際、同児が泣き出したため、被告人において、同児にミルクを与えた後、再び寝ようとしたものの、同児が泣き止まず、太郎からは、「秋子、泣いているぞ。静かにさせろ。」「うるさいんじゃ、何でもいいいから黙らせ。」などと再三にわたって言われ、やむなく起き上がったが、同児の世話をしようとはせず文句だけを言う身勝手な太郎と、ミルクを与えても泣き止もうとしない秋子に立腹し、秋子の傍らにしゃがみ込んで、仰向けに寝ていた秋子の顔面及び腹部を右手拳で数回ずつ殴打し、同児を両手で抱き上げて、敷布団上に数回叩きつけたが、太郎が一向に制止しようとしないことから、秋子を抱きかかえて、隣室に置かれたこたつの前に移動して立ち、同児を自分の右肩付近まで持ち上げたまま、太郎の方を振り返り、同人に対し「止めへんかったらどうなっても知らんから。」と申し向けて、太郎の意向を問いただしたところ、これに背中を向けて布団上に横臥していた太郎において、顔だけを被告人の方に向けて、秋子を抱え上げた被告人の表情等を見て、被告人が同児をこたつの天板に叩きつけようとしていることに気付いたが、嫌悪していた秋子を被告人に殺害させる意図から、黙ったまま顔を反対側に背けたことから、その様子を見た被告人においても、太郎が自分を制止する気がなく、自分に同児を殺害させようとしていることを知り、ここに太郎と暗黙のうちに秋子を殺害することを共謀の上、被告人において、右肩付近に持ち上げていた秋子をこたつの天板目がけて思い切り叩きつけ、約一メートル下方のこたつの天板上にその後頭部を強打させ、よって、同年八月一一日午後一時三〇分ころ、同市中央区港島中町〈番地略〉神戸市立中央市民病院において、同児を頭部外傷に基づく急性硬膜下血腫による低酸素性脳障害により死亡させ、もって、殺害した
第3 太郎と共謀の上、太郎と明治生命保険相互会社との間で新夫婦保険付帯ファミリー特約(子型)契約を締結していたことから、被告人らが殺害した三女秋子が事故死したように装って前記ファミリー特約に基づく保険金を詐取しようと企て、同年九月一一日ころ、同市西区糀台〈番地略〉西神センタービル七階明治生命保険相互会社神戸支社西神営業所において、同営業所係員西井英理に対し、真実は、被告人らが前記第2のとおり秋子を殺害したのにこれを秘し、「平成九年七月二七日午後一一時三〇分ころ、神戸市西区平野町西戸田〈番地略〉C内〈略〉号室において、階段を降りようとした時に滑って、過って抱いていた秋子を落としてしまった」旨虚偽の内容を記載した受傷事情書、医師姜裕作成名義の「甲野秋子が、平成九年八月一一日午後一時三〇分ころ、神戸市中央区港島中町〈番地略〉神戸市立中央市民病院において、急性硬膜下血腫により死亡した」旨記載された死亡診断書等を保険金請求書とともに提出して、秋子の死亡に基づく保険金を請求し、前記西井及び同会社担当者をして、真実秋子が階段から過って落ちて死亡したもので、死亡保険金及び災害保険金の支払いをしなければならないものと誤信させ、よって、同年九月二六日、同会社係員をして、同市西区王塚台〈番地略〉株式会社さくら銀行西神中央支店太郎名義の普通預金口座に死亡保険金等名下に九〇万一四八円を振込送金させて、これを詐取した
ものである。
(証拠の標目)〈省略〉
(法令の適用)
被告人の判示第1及び第2の各所為は、いずれも刑法六〇条、一九九条に、判示第3の所為は、同法六〇条、二四六条一項に該当するところ、判示第1及び第2の各所為につき、いずれも有期懲役刑を選択し、以上は同法四五条前段の併合罪であるから、同法四七条本文、一〇条により、刑及び犯情の最も重い判示第2の罪の刑に同法一四条の制限内で法定の加重をした刑期の範囲内で、被告人を懲役一五年に処し、同法二一条を適用して、原審における未決勾留日数中五五〇日を前記の刑に算入し、原審及び当審における訴訟費用は、刑訴法一八一条一項ただし書を適用して、これらを被告人に負担させないこととする。
(量刑の理由)
本件は、被告人が、当時の夫太郎と共謀して、(1)当時一歳八か月の長女花子を、自宅において餓死させて殺害し(判示第1)、(2)当時一歳二か月の三女秋子を、自宅のこたつの天板に思い切り叩きつけ、後頭部外傷に基づく急性硬膜下血腫による低酸素性脳障害により死亡させて殺害し(判示第2)、(3)上記秋子を殺害したことを隠し、事故死したように装って、保険会社を欺き、保険金九〇万円を騙し取った(判示第3)という、夫婦による幼児虐待に伴う二件の殺人及びこれにまつわる一件の保険金詐欺の事案である。
(1)の犯行は、明確な生活設計を持たず、無計画に妊娠、出産を繰り返すなかで、夫の協力も得られないまま、育児や家事に自信が持てず、かといって、近隣住民や自己の両親らから育児の不手際を責められることを毛嫌いしていた被告人が、花子に対して、上手に離乳食を与えることができず、その成長の遅さを周囲から指摘されるようになって、次第に同児をうとましく感じるようになっていたところ、夫から、これからは食事を与えなくてもよいと指示されるに及んで、唯々諾々とこれに従い、夫とともに、同児を餓死させて殺害することを決意したというものであり、(2)の犯行も、秋子に対し、出産当時から、その出生を望んでいなかったとして、成長の途上にあるのに、離乳食を与えることを拒否するほどこれを嫌悪しては、夫とともに暴力を振るうなどの虐待を繰り返し、なんとか、同児を亡き者にしようとして、夫とともに、事故死を装って同児を殺害することまで相談するなど、あれこれと苦慮していた折から、泣き止もうとしない秋子を黙らせるよう夫から指示されて口論となり、被告人において、同児に激しい暴行を加え、さらに、怒りに駆られるまま、同児をこたつの天板に叩きつける姿勢を示したのに、夫が制止するどころか、これを積極的に承認し、殺害したい意向であることを察して、夫とともに殺害を決意した、というものである。花子及び秋子は、被告人ら両親の適切な保護の下でなければ、健全な成長はおろか、その生存すらも覚束ない幼児であったのに、被告人及び太郎は、そのことを一顧だにすることなく、上記のような身勝手かつ無責任極まりない動機から、わずか一年半余りのうちに、相次いで、親の手で殺害することを企図したというのであって、その経緯や動機は、人道に悖ること甚だしく、許し難いものである。
犯行の態様も、(1)の犯行においては、長期間にわたって、その生存に必要な飲食物を一切与えず、同児が食卓に近寄ってきても、これを払いのけるなどということまでし、生命維持に到底役立たないことを熟知しながら、同児が泣き止まないときなどに、わずかの菓子類やジュースを与える程度で、しかも、これらを、被告人ら自らの手から与えるのではなく、同児の傍らに置くにとどめるといった冷酷なものであったのであり、こうして、日々やせ細って衰弱し、しまいには、骨と皮ばかりとなって、動くことも、声を上げることすらできない状態にまで陥らせ、そのような状況に至っていることを知悉しながら、なおも放置を続け、ついに餓死させたというものであり、(2)の犯行は、離乳食も与えることなく、成長も遅れて衰弱した状態にある同児に対し、日頃から殴るなどの虐待を繰り返し、ついに、激情に駆られたあげく、布団の上に繰り返し落下させるなどの激しい暴力を加えた上、最後には、夫とともに殺害を決意して、こたつの天板に後頭部から叩きつけて死亡させた、というものであって、ともに、冷酷非情かつ残忍というほかはなく、悪質極まりない。さらに、これらの犯行後、被告人らは、犯行を隠蔽するための種々の画策まで弄し、これによって当面の事態が切り抜けられたとみるや、それまでと全く変わることのない無計画、無軌道な日常に埋没するという生活態度を取ってきたものであって、被告人及び太郎らが取ったそのような所業の中からは、実の子を死なせてしまったということに対する、被告人らの、親として、あるいは人間としての道徳的な悔悟の念の断片すらも見出すことは困難であったといわねばならない。
最も愛情を注がれて大切に養育されるべき立場にある両親から、かような身勝手極まりない動機によって、かくも無慈悲、無情な態様の仕打ちを受けて殺害された花子及び秋子は、誠に哀れというほかはなく、もたらされた結果は余りにも重大であり、本件が、社会に与えた影響も軽視することができない。
(3)の犯行も、上記のような犯行に走りながら、なんら反省・悔悟することなく、金銭欲に駆られるまま、その事故死を装って敢行したものであって、動機に酌むべきものはなく、態様も悪質である。騙し取った現金は、短期間のうちに、生活費や遊興費に費消してしまっており、被害弁償もなされていない。
そうすると、夫の太郎が、苦しい経済事情の下、育児や家事の負担を被告人にのみ押しつけ、被告人に精神的に依存するだけの生活態度を続け、そのような事情が本件各犯行の重要な背景となっていたこと、(1)の犯行では、太郎が犯行を直接指示したという経緯があること、(2)の犯行でも、夫である太郎において、被告人の行為を制止する機会が十分にあったのに、そのような行為に出ることなく、むしろ、太郎自らが手を下さずに、被告人の手により殺害を実行させたという側面があったこと、被告人においては、本件で逮捕、起訴され、公判審理が進む中で、ことの重大性に対する自覚を深め、犯した罪の重さを一生背負っていく覚悟を固めるに至っており、真摯な反省の態度を示していること、被告人には、前科がないことなど、被告人のために酌むべき事情を十二分に考慮しても、被告人に対しては、主文の刑は免れないと思料される。
よって、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官・那須彰、裁判官・樋口裕晃、裁判官・宮本孝文)

++解説
《解  説》
一 本件は、被告人が、当時の夫と共謀して、(1)当時一歳八か月の長女を殺害しようと決意し、二か月間以上にわたりその生育に必要なだけの飲食物を与えず、自宅において栄養失調に基づく全身衰弱により死亡させて殺害し、(2)深夜、当時一歳二か月の三女が泣き出したことから、同児を殺害しようと決意し、被告人において、顔面、腹部を殴打した上、だき抱えた同児を布団上に叩きつけ、更にこたつの天板に叩きつけてその頭部を強打させ、頭部外傷等による急性硬膜下血腫により死亡させて殺害し、(3)三女を殺害したことを隠して、同児が事故死したように装って、保険会社を欺いて、保険金約九〇万円を騙し取ったとして、二件の殺人罪及び詐欺罪で起訴された事案である。

二 原判決は、(1)については、二か月余りの犯行期間中に、被告人に長女を死亡させることにつき逡巡する気持ちがあったことなどを理由に未必的殺意の限度で殺意を認め、(2)については、三女の殺害につき、被告人と夫との共謀を否定して、被告人の単独犯と認定した上、やはり未必的殺意の限度で殺意を認め、(3)については、ほぼ起訴事実どおりの認定をして、被告人に懲役一三年の刑を言い渡したところ、検察官からは、(1)については、被告人に確定的殺意が認められるとし、(2)については、被告人には三女の殴打開始時点から、同児に対する未必的殺意が認められる上、こたつの天板上に叩きつける時点では、被告人と夫との間に殺人の共謀と確定的殺意が認められるから、原判決には事実誤認があるとし、仮に、原判決が認定した事実関係を前提としても、原判決の量刑が軽すぎて不当であるとして、他方、弁護人は、(1)について、被告人は、長女に殺意を抱いたことも、夫とその殺害を共謀した事実もないから、保護責任者遺棄致死罪を適用すべきであり、原判決には事実誤認があるとして、それぞれ控訴の申立がなされた。

三 本判決は、(2)につき、殴打開始時点からの未必の故意を認めなかった以外は、検察官の事実誤認の主張を容れて、原判決を破棄し、新たに認定した事実(判文を参照されたい。)を基に、改めて被告人に懲役一五年の刑を言い渡したものである。まず、本判決は、(1)については、被告人と夫の捜査段階の供述内容と本件の事実経過につき詳細な検討を加えた上、被告人と夫の共謀内容は、その日以降、長女に対して、正規の食事を与えずに死亡させるという明確な合意を内容としており、その後同児には全く正規の食事が与えられたことがなく、前記合意内容を変更した形跡もなく、同児が死亡した場合には、拒食症だということにしようと話し合っていたことなどに照らすと、被告人の殺意は、相当に強固なものであったと推認されるとし、一時的に同児を死亡させることにためらいの気持ちを抱いたとしても、その殺意につき、全体的に法的評価を加えると、確定的殺意に該当するとみるのが相当であるとした。原判決と本判決で、殺意の程度に関する認定評価が分かれた大きな理由は、原判決が、今後は長女に飲食物を与えないという夫との共謀成立後も、被告人が、長女を餓死させることに時折ためらいの気持ちを覚えて、わずかながらも菓子やジュース等の飲食物を与え続け、その身の回りの世話をし、死亡までに二か月余りを要したことを被告人の殺意の弱さに結び付け、未必的殺意に止まるとしたとみられるのに対し、本判決は、被告人が、長女を直ちに死なせることに対する一時的な逡巡からだけではなく、泣き止まない長女を泣き止ますための手段としたり、同児が拒食症により次第に衰弱して死亡したと見せかけることをも考えて、周囲の者に怪しまれることがないように、わずかな量の飲食物を時折長女の傍らに置くに止め、身の回りの世話をしていたともみられるとし、これらの被告人の行為や死亡までに時間を要した点が、被告人の確定的な殺意と矛盾するような事情ではないとしたことによるとみられる。
また、本判決は、(2)については、同様に詳細な事実関係を認定した上、本件犯行に至る経緯や動機、犯行態様、本件犯行前後の被告人の言動や行動状況を総合して、被告人が三女をこたつの天板に叩きつけた時点における確定的殺意とその時点における夫との同児殺害の共謀を肯認したが、本判決が認定した共謀の事実関係は、被告人が、こたつの前に立ち、三女を右肩付近に抱え上げた状態で、布団上にいた夫の方を振り向き、夫に制止を求める気持ちから、止めなかったらどうなっても知らない旨警告的な言葉を発したのに、夫が、一旦は被告人と目を合わせたものの、被告人に背中を向け、これを制止しようとしなかったことから、被告人において、三女をこたつの天板に投げつけて殺害するのを夫が容認したと理解したとし、他方、夫も、被告人と同様三女の親権者、保護者の立場にあり、その場で被告人の本件犯行を制止することができた唯一の人物であったのに、被告人が三女をこたつの天板に叩きつけようとしているのを十分理解し、被告人の前記発言の意味及び制止を求める気持ちをも熟知しながら、自らも三女に死んで欲しいという気持ちから、被告人と一旦合った目を逸らし、あえて被告人を制止しないという行動に出ることによって、三女を殺害するのを容認したといえるとして、この時点で、両者間に同児を殺害する暗黙の共謀が成立したとしたものである。本判決は、三女にミルクを与えるだけで離乳食を与えず栄養不良状態に陥れたり、殴打するなどの虐待を続けるなどしていたという本件に至るまでの経緯に加え、言葉による相談を経た共謀ではなく、被告人の発言に背を向けて、その行動を制止しなかったという夫の不作為的態度を主たる根拠として、夫婦間における三女殺害の暗黙の共謀を認めたものであり、共謀の成立過程に関する判断として興味深い事例である。本件に比較的類似した事例としては、内縁の夫が幼児にせっかんを加えているのを知りながら母親である被告人がこれを放置して同児を死亡させたことが傷害致死幇助罪に問われたものとして、札幌高判平12・3・16本誌一〇四四号二六三頁、判時一七一一号一七〇頁がある。不作為犯と共犯の問題をどのように解するかについては、学説上も諸説がみられるところである(中義勝「不作為による共犯」刑法雑誌二七巻四号一頁(七三九頁)、神山敏雄『不作為をめぐる共犯論』(成文堂)を参照されたい。)が、本判決は、新たな一事例を付け加えるものであり、実務の参考になろう。なお、被告人と同一事実で起訴され、原審の途中まで被告人と一緒に審理を受けていた夫については、大阪地裁(本件とは別の合議体)において、長女及び三女に対する確定的殺意及び被告人との共謀が認められて、懲役一八年の刑が言い渡されたが、本判決後の平成一三年九月二一日、大阪高裁第三刑事部において量刑不当(刑事訴訟法三九七条一項、二項)を理由に原判決が破棄され、懲役一五年の刑が確定している。

(3)②の行為
ア 不作為と共犯
イ 不作為犯に対する幇助犯
肯定。
ウ 片面的幇助
幇助を受けているとの意識が正犯になくても、正犯の実行行為を容易にすることは可能であり、文理上も、刑法60条が共同正犯の成立要件として犯罪の「共同」実行を規定しているのに対し、刑法62条は意思の連絡又は相互了解を求めていないことから認められていると解される!!

+(共同正犯)
第六十条  二人以上共同して犯罪を実行した者は、すべて正犯とする。

(幇助)
第六十二条  正犯を幇助した者は、従犯とする。
2  従犯を教唆した者には、従犯の刑を科する。

エ 幇助行為の時期
オ 幇助の故意
幇助者が①正犯の実行行為を認識し、かつ、②自己の幇助行為が正犯の実行を容易にさせるものであることを認識、認容する必要がある!!!!

カ 不作為犯に対する幇助犯の成立を認めた裁判例
+前橋地高崎支判S46.9.17

(4)結論


刑法 気になる判例 不動産侵奪罪


要旨
他人の不動産の侵奪とは、不法領得の意思をもって不動産に対する他人の意思に反し、その事実上の占有を排除し、これに自己の事実上の支配を設定する行為であって、侵奪の成否については、具体的事案に応じ不動産の種類、占有侵奪の方法、態様、程度、占有期間の長短、原状回復の難易、占有排除および占有設定意思の強弱、相手方に与えた損害の有無などを総合的に判断し、社会通念に従って決しなければならない
自己の敷地に隣接する他人所有の空地に、将来その土地を買受ける予定で、それまで一時利用させてもらう意思で排水口を設置しても、その排水口の構造が29×23平方センチの口で、外側のふちの部分を入れても45×52平方センチの大きさで深さ17.5センチのものであり、地上に突出した部分もなく地下深く築造されたものでもなく、現状回復が容易であって、右排水口設置によって空地所有者の受ける損害が皆無に等しい場合には、社会通念上他人の不動産を侵奪したものということはできない。
理由
本件控訴の趣意は弁護人村岡素行作成の控訴趣意書記載のとおりであり、これに対する答弁は検察官石岡敏夫作成の意見書と題する書面中第一弁護人の控訴趣意についての意見の項記載のとおりであるからこれらを引用する。
論旨は原判示の如く本件排水口がA所有地内に築造されていることは疑いないが、(一)右排水口を右場所に設けたことは被告人の関知しなかつたことであるから、被告人には犯意がない。(二)仮りに被告人が右排水口設置について関知していたとしても、被告人は昭和三六年四月頃右A所有の土地の当時の所有者であつたBから原判示家屋とその敷地を買受けた際同女との間に、右排水口設置箇所を含む約一〇坪の土地を更にガレージ用地として買受けるため、その売買予約をなし、坪当り一万二、〇〇〇円ないし一万三、〇〇〇円の代金を提供するときは売買を完結する旨の契約が成立していたが、Bは右土地を含めた宅地をAに売却し、同人に対し被告人が右宅地のうち約一〇坪を買受ける意思があるから被告人に売つてやつてほしい旨の申入をしていたところ、被告人はこれを知つて更にAに対し右約一〇坪の土地の売買について電話で交渉し、同女から今売る意思はないが後から買つてもらうかも知れないという返事を得たが、右の如き経緯に照らし同人から売つて貰えるものと信じていたのである。従つて被告人は早晩自分の所有地になる土地に排水口を設置する位のことはAが承認しているものと信じたのであつて、右排水口設置によつて他人の不動産を侵奪する意思はなかつたものであるというのである。
よつて所論にかんがみ記録を精査し、当審における事実の取調の結果をも参酌して次のとおり判断する。
一、先ず所論(一)について案ずるに、原判決挙示の証拠殊に証人Cの原審公判廷における供述記載によれば、被告人は昭和三六年一〇月頃から昭和三七年一月頃にかけて門真市大字ab番地のc地上の妻D所有の木造瓦葺二階建居宅の改築工事をしたが、右工事にあたりその工事の請負人Cに対し同居宅の敷地西側に隣接するA所有の同町大字ab番地のd所在宅地一一一坪との境界線の二尺ないし三尺内側にあつた従来の右居宅の基礎を同境界線まで移し、右居宅の西側の壁が奥行一〇・三米にわたり同境界の限界線一杯にくるように設計を指示して工事に当らせると共に同年一一月頃従来右居宅と境界線との間にあつた排水口を改めて設置する箇所につきCから相談を受けた際隣地は買うことになつているから、右境界線の外側に設置してもかまわないといつて特に同人に指示して空地となつていた前記A所有の土地内に原判示排水口を設置させたことが認められる。この点に関し被告人は原審第五回公判においても、当審第四回公判においても、右認定に反し所論にそう供述をしているが、右供述は前記証人Cの証言及び被告人の検察官に対する供述調書に照らし措信できないのみならず、被告人は原審第一回公判における冒頭陳述において本件排水口が右Aの所有地に設置されることの認識を有したことを前提とする弁解をしており、当審第四回公判においても供述を翻えして右認識があつたことを供述しているのである。
従つて所論は到底肯認することができない。
二、次に所論(二)について案ずるに、原判決挙示の証拠並びに被告人の原審及び当審公判廷における供述記載又は供述、証人Eに対する尋問調書、証人Fの当審公判廷における供述によると、
前記D所有の本件家屋及びその敷地は昭和三六年四月頃被告人が被告人ら家族の住居として使用する目的で妻である同女に代り同女名義でBから買受けたものであるが、その際被告人はガレージ用地として西側に隣接する空地のうち約一〇坪を更に買受けたい意向をもつていたが、当時の所有者てあつたBに対し、その意向を話したことがあつたことは認められるが、同女との間にその際所論のような売買予約があつたことは証拠上認められない。(被告人も当審公判廷において所論のように坪当りの代価についてBに話したことを否定しているのである。)そして、右西側の空地はその後同年六月末頃BからAに売却され、その所有権移転登記を了したこと、被告人は同年九月の第二室戸台風により本件家屋が破損し改築の必要に迫られたために同年一〇月頃大工Cに改築工事を請負わせることとなつたが、右工事にあたりその家屋の西側にガレージ用地を設けると共に家屋の西側部分を前記の如く拡張して増築工事をしようと計画し、Bに対し改めて隣地約一〇坪を買受けたい旨申入れが、既にAの所有となつていたため、更に同女に対し電話で交渉したところ、同女から今売る意思はないといつて断わられたこと、その後同女に対し交渉を重ねることなく、右計画に従つて本件家屋の増改築工事をCに進めさせ、本件排水口を前記の如くA所有の土地に設置させたことが認められる。従つて右の如き経緯に照らし被告人が本件排水口を設置することについて同人が承認しているものと信じたといら所論は到底肯認することができない。
三、以上の次第で所論(一)(二)はいずれも理由がないが、右の如く承諾なしに本件の排水口を他人所有の空地に設置したことが不動産侵奪罪を構成するかどうかについては主観、客観の両側面から尚検討を要するものと考えられるので、更にこの点について職権をもつて調査し検討することとする。
案ずるに刑法二三五条の二の不動産侵奪罪は右規定の位置と右規定が刑法の一部を改正する法律(昭和三五年法律八三号)によつて制定されるに至つた立法の趣旨と経緯からみてその性質は一種の財産犯であるから右規定にいう他人の不動産の侵奪とは不法領得の意思をもつて不動産に対する他人の意思に反し、その事実上の占有を排除し、これに自己の占有すなわち事実上の支配を設定する行為であると解せられ、右にいう侵奪には主観的要件として窃盗罪におけると同様に不法領得の意思を必要とすると共に客観的要件として不動産に対する他人の占有の排除と自己の占有の設定とが必要である。そして如何なる行為があつたときにこれを侵奪とみるかについては具体的事案に応じ、不動産の種類、占有侵奪の方法、態様、程度、占有期間の長短、原状回復の難易、占有排除及び占有設定意思の強弱、相手方に与えた損害の有無などを綜合的に判断して社会通念にしたがつて決しなければならないものである。
よつて先ず行為の主観的側面について考察すると、前記の如く被告人は昭和三六年一〇月より昭和三七年一月にかけて本件家屋を改築するに際し、前記の如き経緯でAから西側に隣接する同女所有の宅地のうち約一〇坪の買受の申入を一応拒否されたのに拘らず、改築工事の請負人Cに対し、右家屋西側部分を同女所有の宅地との境界線まで拡張して工事をするように指示し、これにともないその拡張された右家屋の西側部分の庇が境界をこえる工事をさせると共に同女の所有地内に土管を通し本件排水口を設置させたものであつて、このような工事をすることにつき被告人は同女の承認を得ていないけれども、その宅地が隣接の空地てあつていずれは交渉によつて買受けることができるかも知れないと考え、一応その前提に立つていたものであり、もし買受けができない場合には本件排水口を取壊して収去するつもりであつたことは被告人の司法警察員及び検察官に対する各供述調書、原審及び当審公判廷において供述するところと、原審証人C、当審証人Fの各証言に徴し認められるところであり、被告人が供述するようにAに電話でその所有地の分譲の申入をして同人から断わられた際今は売るつもりがないが、時期がくれば売るかも知れないと同女がいつた点は否定できないのであつてこれに反する同女の証言は同女の所有地が空地であつて将来アパート建設のつもりで買受けながら現在も尚空地のままであることに徴し措信できない。
そして被告人が本件排水口を収去するつもりであつたことは次に述べるようなその構造からみても容易に首肯できるところであつて、被告人が現在に至るも尚右収去ができないでいるのは、Aの夫Eが司法警察員作成の実況見分調書添付の写真で明らかなように本件家屋西側外壁に接してバラツクの小屋を建て本件排水口をその小屋の中にとりこみ立入を禁止しているからであると認められる。従つて被告人が本件排水口をA所有の宅地内に設置したことはその当該土地部分を買受けることを一応予定しての行為てあつて、右設置によつて他人の土地をとりこむ意思がなかつたことは勿論たまたま空地となつていたので、もし買受けができなくなつても、それまでの間空地を一時的に利用させて貰う意思であつたものと考えられるから、本件排水口の設置にあたり被告人に不法領得の意思があつたものとは認め難いのである。
次に行為の客観的側面を考察すると、本件空地における排水口の構造は原判示によれば縦約四〇糎、横約三〇糎、深さ約五〇糎のコンクリート製のものというのであるが、司法警察員作成の実況見分調書によると、本件家屋の表側より四・六米入つた右家屋の西側の地点に東西に三〇糎、南北に四〇糎の排水口が設けられているとの記載があり、右実況見分調書添付の写真6号と当審の検証調書によつて右排水口の外見上の構造をみるとその口は本件家屋の西側壁から約一七糎の処に東西二九糎、南北二三糎の矩形の穴て深さは一七・五糎であり排水口の側壁となつているふちの部分を入れて四五×五二平方糎の大きさであり、口の内側の東と南の部分に土管の口があり、右側壁の内側とふちの部分のほか矩形のふちをはみ出して土地の上部に半円形にセメントが塗つてあるという構造のものであり、地上に突出した部分もなく、又地下深く築造したものでもないのであつて、当審証人Fの証言にあるように右排水口を取壊して収去し元の現状に回復するには半時間位で費用も一、〇〇〇円位を要する簡単な作業ですみ、右排水口をとりのけた後の排水は本件家屋の床下に土管を設置して表側の別の排水口へ流すことが可能であると認められ、従つて本件排水口の設置により空地所有者の受ける損害は皆無に等しいのである。その他本件につきこのような排水口を設置するに際し、所有者の占有を排除するため塀その他の工作方法を特に講じた形跡も存しないのである。さすれば右排水口の設置部分についてその空地の所有者であるAの土地占有が客観的に完全に排除され、被告人が本件排水口を設置することによつてその部分の土地につき自己の支配を確定的にする占有を新たに設定したと認めることは社会通念上到底許容できないところである。
以上認定の如く本件排水口を設置した部分の土地を買受けることを予定し、もし買受けることができなければ直ちにこれを収去するが、それまで他人の空地を一時利用させて貰う意思で約一一一坪に及ぶ広い空地に前記の如きその口がわずか二九糎×二三糎のそれも容易に収去できる排水口を設置した行為はその主観、客観両側面を綜合し、社会通念に照らして考察するときは一種の使用侵奪ともいうべき行為であり、いまだもつて不動産侵奪罪にいう他人の不動産を侵奪した行為に該当しないというべきである。すなわち本件排水口の設置の行為が不動産侵奪罪を構成するには侵奪の客観的要件において既に充足がなく、主観的要件においても領得の意思が欠除していたものと認めざるを得ないのである。
本件起訴状の公訴事実によると「………排水口を築造する等してA所有の不動産を侵奪したものである。」と記載され「築造する等して」の等は前記実況見分調書の記載にあるように本件家屋の西側壁がA所有地との境界線を約一〇糎、右家屋西側の庇が地上約二米の箇所で右境界線を約三五糎越境していることも含ませた趣旨に考えられるが、右実況見分調書の境界線は本件家屋の増改築修了後同家屋の北側道路に設けられた境界杭を基準とするものであつて、右基準が正当のものであるかどうか直ちに断定し難いのみならず、被告人の捜査機関に対する各供述調書や前記C、同Fの各証言に徴し右庇の部分が越境していたことは疑いがないが、右家屋西側壁が越境していたものとは認め難く、そして庇の越境については地上より上空二米の位置にあつて、土地所有者の利用を特段に妨げるものではなく、又前記の如くもし隣地が買取れない場合は越境部分を取除く意思であり、わずか上空の庇が三五糎つき出したからといつてこれを以つて不動産侵奪罪を構成するものとはいえないことは明らかである。前記排水口の設置を含め被告人が本件家屋の改築にあたり従前の家屋を拡張するためとつた処置は民法二一八条、二三四条、二三七条に違反するものであるが、右違法は刑事法上可罰的な違法ではなく犯罪の成否に関係がないのである。
以上の如く被告人の本件所為については不動産侵奪罪を構成するものとは認められないにも拘らず原審が被告人に対し本件排水口の設置につき有罪の言渡をしたのは法律の解釈適用を誤り延いては事実を誤認した違法があると認められ、この違法は判決に影響を及ぼすものであることは明らかである。
よつて刑事訴訟法三九七条一項、三八〇条、三八二条により原判決を破棄し、同法四〇〇条但書により更に判決することとする。
本件公訴事実に「被告人は昭和三六年一〇月頃から翌三七年一月初頃にかけて門真市大字a所在自己所有の木造二階建居宅敷地の西側に隣接するE所有の右大字ab番地のdの宅地に縦約四〇糎、横約三〇糎、深さ約五〇糎のコンクリート製排水口を築造する等して同人所有の不動産を侵奪したものである。」というのであるが、前記の如く不動産を侵奪したものと認めるに足る証拠はないから、刑事訴訟法三三六条により被告人に対し無罪の言渡をすることてして主文のとおり判決する。
刑事第2部
(裁判長裁判官 畠山成伸 裁判官 松浦秀寿 裁判官 八木直道)


刑法 気になる判例 パニーカード事件 偽造有価証券行使と窃盗の関係


+判例(広島地裁H7.7.18)
主文
被告人を懲役一年二月に処する。
この裁判確定の日から三年間右刑の執行を猶予する。
押収してあるパニーカード一枚(平成七年押第四二号の1)を没収する。

理由
(罪となるべき事実)
被告人は、使用済みで無効となった日本ゲームカード株式会社発行にかかるパニーカードの、使用した旨の表示箇所等を埋め、券種を表示する箇所に一万円の券種を表示するパンチ孔を開けるなどの方法で、有効度数を一万円として偽造されたカード一枚(平成七年押第四二号の1)を入手し、右カードが偽造の有価証券であることを知りながら、これを用いてパチンコ玉を窃取しようと企て、平成七年四月二九日午前一一時ころから同日午前一一時二五分ころまでの間、広島市安佐北区〈住所省略〉所在のパチンコ遊技場「○○店」において、右偽造カードを同店に設置されたパチンコ遊技機七〇八番台及び七一三番台に取り付けてある各カード専用玉貸機のカード挿入口に挿入し、続いて同玉貸機の貸出ボタンを操作する不正な方法で、同玉貸機内から同店支配人A管理にかかるパチンコ玉約九五〇個(貸出し価格約三八〇〇円相当)を取り出し、もって偽造有価証券を行使するとともに、右パチンコ玉を窃取したものである。
(証拠の標目)〈省略〉

(法令の適用)
被告人の判示所為中、偽造有価証券行使の点は平成七年法律第九一号附則二条一項により、同法による改正前の刑法(以下、同法という。)一六三条一項に、窃盗の点は同法二三五条にそれぞれ該当するが、右は一個の行為で二個の罪名に触れる場合であるから、同法五四条一項前段、一〇条により一罪として重い偽造有価証券行使罪の刑で処断することとし、その所定刑期の範囲内で被告人を懲役一年二月に処し、情状により同法二五条一項を適用してこの裁判確定の日から三年間右刑の執行を猶予し、押収してあるパニーカード一枚(平成七年押第四二号の1)は、判示偽造有価証券行使の犯罪行為を組成した物で、何人の所有をも許さないものであるから、同法一九条一項一号、二項本文を適用してこれを没収することとする。

(なお、右偽造有価証券行使罪と窃盗罪の罪数に関する当裁判所の判断を付加して説明するに、関係証拠によると、パニーカードによるパチンコ玉貸出の仕組みは、パチンコ遊技台脇に設置されたカードユニット部にあるカード挿入口にパニーカードを挿入するとカード挿入中ランプが点灯するとともに、遊技台側にある貸出スイッチLEDが点灯して、玉貸しが可能な状態になり、貸出スイッチの押し下げによりパチンコ玉が受け皿に排出される(本件では、右スイッチ一回の押し下げにより五〇〇円相当のパチンコ玉が排出される。)構造になっていることが認められる。そうすると、被告人は、偽造の右パニーカードを使って、パチンコ玉を窃取しようとして、同パニーカードを挿入して、続いて貸出スイッチを押し下げて判示パチンコ玉を取り出したものであり、右パニーカードの挿入行為自体がパチンコ玉取り出し行為の開始であり、その後、貸出スイッチを押し下げてパチンコ玉を取り出す一連の行為自体を窃取行為ということができる(右貸出スイッチの押し下げを窃取行為の実行の着手とみることは相当と解されない。)。そうすると偽造の右パニーカードを挿入することによって成立する偽造有価証券行使の行為と右窃取行為とは、構成要件の主要部分が重なり合うものであって、同法五四条一項前段の「一個ノ行為」ということができる。)
よって、主文のとおり判決する。
(裁判官片岡博)

《参考・起訴状》
公訴事実
被告人は、使用済みで無効となった日本ゲームカード株式会社発行にかかるパニーカードの、使用した旨の表示箇所等を埋め、券種を表示する箇所に一万円の券種を表示するパンチ孔を開けるなどの方法で、有効度数を一万円として偽造されたカード一枚を入手し、右カードが偽造の有価証券であることを知りながら、これを用いてパチンコ玉を窃取しようと企て、平成七年四月二九日午前一一時ころから同日午前一一時二五分ころまでの間、広島市安佐北区〈住所省略〉所在、パチンコ遊技場「○○店」において、右偽造カードを同店に設置されたパチンコ遊技機七〇八番台及び七一三番台に取り付けてある各カード専用玉貸機のカード挿入口に挿入し、もって、偽造有価証券を行使した上、同玉貸機の貸出ボタンを操作する不正な方法で、同玉貸機内から同店支配人A管理にかかるパチンコ玉約九五〇個(貸出し価格約三、八〇〇円相当)を窃取したものである。

++解説
《解  説》
一 本件は、使用済みで無効となったパチンコ玉のプリペイドカードの、使用した旨の表示箇所等を埋め、券種を表示する箇所に一万円の券種を表示するパンチ孔を開ける等の方法によって、有効度数を一万円として偽造されたカードを入手した被告人が、右偽造カードを用いてパチンコ玉を窃取しようと企て、パチンコ店において、右偽造カードをパチンコ遊技機に取り付けてあるカード専用玉貸機のカード挿入口に挿入し、続いて同玉貸機の貸出ボタンを操作する不正な方法で、同玉貸機からパチンコ玉を窃取したという事案である。

二 本件のような事案においては、①プリペイドカードの有価証券性、②右の方法による有効度数の変更は有価証券の「偽造」か「変造」か、③右偽造カードを玉貸機のカード挿入口に挿入することが「行使」にあたるか等の論点が問題とされる。
プリペイドカードであるテレホンカードについては、同様の問題点について最高裁判例(最三小決平3・4・5刑集四五巻四号一七一頁、本誌七五六号一一六頁)によって一応の決着が得られ、本裁判例においても右の諸点は問題とされていない(なお、パチンコ店で使用されるプリペイドカードである「パッキーカード」の有価証券性を認めたものとして東京高判平6・8・17判時一五四九号一三四頁がある。)。

三 本裁判例は、偽造したプリペイドカードである「パニーカード」の使用にかかる偽造有価証券行使とパチンコ玉窃盗の罪数関係について、これを観念的競合の関係にあることを判示したものである(公訴事実の記載は後記「参考」のとおり、牽連犯として構成している。)。すなわち、公訴事実のように、(玉貸機のカード挿入口に偽造カードを挿入後)玉貸機の貸出ボタンを操作する(貸出スイッチを押し下げる)行為を窃盗の実行の着手とみることは相当ではなくパチンコ玉窃取の意思で偽造カードをカード挿入口に挿入する行為自体がパチンコ玉取り出し行為(窃取行為)の開始であり、その後、貸出スイッチを押し下げてパチンコ玉を取り出す一連の行為が窃取行為ということができ、そうすると、偽造カードをカード挿入口に挿入することによって成立する偽造有価証券行使と右窃取行為とは、構成要件の主要部分が重なり合うものであって観念的競合になると判示している。窃盗の着手時期は、窃取行為すなわち占有侵害の開始時であることからすると、パチンコ玉を窃取するため、偽造カードをカード挿入口に挿入して貸出スイッチLEDが点灯し、玉貸しが可能な状態になれば、占有侵害行為(しかもその主たる部分)が開始したものとみること(さらに貸出スイッチを押す行為がなくてもすでに占有侵害行為の開始があるものとみること)は、不自然ではないであろう。本裁判例は、このような見地から偽造カードをカード挿入口に挿入し、貸出スイッチを操作してパチンコ玉の取り出しに至る一連の行為を窃取行為とみたものであろう(占有侵害開始時期につき、パチンコ玉をパチンコ機械から不正に取得する目的で、セルロイド板を使用して、はじいた種玉を当り穴に誘導するように機械内部の釘の辺に仕かけるため右セルロイド板をパチンコ機械ガラス扉下面の隙に押し当てたときに窃盗の着手があるとする東京高判昭35・1・19東高刑時報一一巻一号一頁の事例が参考となろう。)。

四 偽造有価証券行使罪と窃盗罪について牽連犯関係を認めた裁判例は公刊物上目に触れないが、本件と類似の事例として、私電磁的記録不正作出とその供用と窃盗につき牽連犯とした裁判例として、東京地判平1・2・17本誌七〇〇号二七九頁、同平1・2・22判時一三〇八号一六一頁、甲府地判平1・3・31本誌七〇七号二六五頁、判時一三一一号一六〇頁がある。私電磁的記録不正作出罪(刑法一六一条の二第一項)とその供用罪(同三項)の関係を牽連犯とすることは異論のないところであろう(大コンメンタール刑法第六巻一八四頁〔米澤執筆部分〕参照)。また、有価証券偽造罪と偽造有価証券行使罪と詐欺罪は牽連犯とするのが通説・判例(大判明43・11・15刑録一六輯一九四一頁等)である。しかし、右供用罪(または本裁判例の事例である偽造有価証券行使罪)と窃盗罪の関係については、「数罪間に罪質上通例その一方が他方の手段又は結果となる関係にある」こと(抽象的牽連性)を求める近時の判例の立場(最三小判昭57・3・16刑集三六巻三号二六〇頁、本誌四六七号一〇〇頁等)からすると、これを牽連犯とすることは議論の存するところではないかと考えられる(偽造文書行使と詐欺のような典型的な牽連犯の場合と同列に論じるにはやや困難があろう。なお、「牽連性」の詳細については、大コンメンタール刑法第三巻一七三頁〔中谷執筆部分〕以下参照)。

五 本裁判例は、このような牽連性の点にはふれることなく、窃取行為の着手時期(占有侵害行為開始時期)に着目して、偽造有価証券行使と窃取の各行為が主要部分で重なることから「行為の一個性」(右同書一三六頁〔中谷執筆部分〕参照)を認めて観念的競合の成立を認めたものと思われる。私電磁的記録不正作出とその供用と窃盗の事案について、右不正作出と供用の関係の他に、同供用と窃盗の関係についても牽連犯関係にあることを認める前記裁判例は、たとえば、「不正に作出したカードを預金管理等のオンラインシステムに接続されているATM機に挿入して同機を作動させ、もって、不正に作出された電磁的記録をC信用金庫の事務処理の用に供し、同機から、右金庫支店長管理にかかる現金〇万円を払い出してこれを窃取し」たと判示する(前記東京地判平1・2・17)にとどまり、窃取行為の具体的内容や右供用と窃盗の牽連関係は格別明示していない(牽連犯の関係を表わす場合の犯罪事実の記載は、通例、本裁判例の場合の「公訴事実」のように「カード挿入口に挿入し、もって、偽造有価証券を行使した上、同玉貸機の貸出ボタンを操作する不正な方法で……パチンコ玉を窃取した」などと表現することが多いと思われる。)。本裁判例は、窃取行為の内容を検討した上で、右両罪の関係について論及し、類似事例である前記裁判例の罪数処理とは異なった結果を導いている(なお、その法令の適用からみて、本裁判例は、観念的競合であり、かつ、牽連犯である場合とはしていないことはあきらかであろう。)。
同様な事犯が多発している昨今、実務上の罪数処理を検討する上で参考になるものと思われる。


刑法 気になる判例 強盗と職務質問と自首と・・・


・+判例(東京地判H13.7.25)
主文
被告人を懲役三年に処する。
未決勾留日数中九〇日をその刑に算入する。
この裁判確定の日から四年間その刑の執行を猶予する
被告人をその猶予の期間中保護観察に付する。
押収してある文化包丁一丁(平成一三年押第四七九号の一)を没収する。
理由
(罪となるべき事実)
被告人は、平成一三年二月四日午後六時四五分ころ、東京都《番地省略》所在の理髪店「理容A野」店内において、散髪を終えた後、同店店主B(当時五四歳)から理容代金の支払いを請求されたところ、その支払いを免れようと考え、同人に対し、「金ないんだよ」と申し向けながら所携の刃体の長さ約一四・五センチメートルの文化包丁(平成一三年押第四七九号の一)を同人に向けて脅迫し、その反抗を抑圧してその場から逃走し、よって上記理容代金三六〇〇円の支払いを免れて同金額相当の財産上不法の利益を得たが、その犯行後直ちに警視庁千住警察署に向かい、同警察署前において、同警察署司法警察員に対し自首したものである。
(証拠の標目)《省略》
(事実認定の補足説明)
一 弁護人は、被告人の本件脅迫行為は、<1>被害者の反抗を抑圧する程度に達していないし、<2>財産上不法な利益を得るためのものでもなく、<3>ごく一般的に債権者の追求を免れるだけの効果しかなかったものであるから、いずれにしても、被告人には強盗罪は成立せず、脅迫罪かせいぜい恐喝罪が成立するにすぎないと主張するのでその検討をするとともに、自首の成立についても付言することにする。

二 まず、関係各証拠によれば、以下の事実が認められる。
(1) 被告人は、日雇いの土木作業員等として稼働していたが、平成一二年一〇月ころからは仕事もなく、次第に所持金も少なくなって、平成一三年一月中旬ころからは、簡易宿泊所などに泊まることもできず、満足な食事もできない状態で、駅や公園等で野宿する生活を送るようになった。被告人は、こうした生活のなかで、寒さや空腹から逃れるため、暖かくなるころまで警察の留置場で世話になった方がよいと考えるようになり、平成一三年一月末には、喫茶店で無銭飲食をして付近の交番に出頭し、自分が無銭飲食をしてきた旨申告したが、被害者側が被害届を出さなかったために事件にならず、警察官からは、警察はホテルではない旨言われて帰されてしまった
(2) 平成一三年二月四日、被告人は、後楽園の場外馬券売り場にいってモニターに写る競馬を見たりした後、生まれ育った千住に戻り、髪もボサボサで無精髭も生えていたことから、床屋で散髪してもらうと無銭飲食より金額も高いので、警察にも捕まりやすい等と考え、散髪の後にその料金を支払わずその店から逃走し自分で警察に行って捕まるつもりで(当時の所持金四〇〇円余)、判示の理髪店「理容A野」(以下「理容A野」という。)に入り、同店店主のBに散髪をしてもらった。
(3) 散髪終了後、Bが理容A野店内の奥にあるレジの所に行って、同店内入口付近でコートを着用した被告人に対し、利用代金三六〇〇円を請求すると、被告人は、右手でコートの内ポケットから所携の文化包丁(刃体の長さ約一四・五センチメートル)を取り出し、「金ないんだよ」と言いながら、Bに対してこの文化包丁の刃先を向け、同人は、これを見て、二、三歩後ろに下がった。
このときの被告人とBの距離は四~五メートルであり、刃先は四五度くらい上に向いている状態であった。
なお、被告人は、公判廷で、文化包丁をBに向けていない旨供述するが、Bは、上記に認定したとおり被告人が文化包丁の刃先を向けたなどと公判廷で明確に供述し、その際の被告人の言動や文化包丁の形状などについても具体的に述べているのであって、その供述自体の信用性は高いと考えられる上、被告人も捜査段階では文化包丁をBに向けた旨の供述をしているのに対し、公判廷での被告人の供述は、これらと矛盾し、被告人の供述経過も考えると、捜査段階からの変遷について必ずしも説得力のある説明ができているわけでもなく、そのまま信用することはできない。結局、Bが公判廷で供述するとおりの事実を認定することができる。
(4) 被告人が包丁を示すなどの行動を取ったのは、その場から逃走するためであり、被告人としては、その場で取り押さえられたり、追跡されて取り押さえられることがないようにするためであった。被告人としても、文化包丁を見せて逃げれば被害者が怖がって追ってこないであろうと考えていた。
(5) Bは、被告人に無理に散髪代金を請求して被告人ともみ合いになれば、刺されて怪我をしたり、最悪の場合は死ぬ可能性もあると思い、怖くて、散髪代金の請求はできず、先の料金請求に続いての請求の言葉は出なかった。
(6) 被告人は、すぐに文化包丁をポケット内にしまい、理容A野店内から出て、やや早足で立ち去った。
Bは、被告人が立ち去るのに対して何もせず、散髪代金の請求は断念した。
(7) この間、理容A野店内には、他に男性客一名がいてBの妹が接客に当たっており、同女は、被告人が「金ないんだよ」と言った際には、「冗談じゃないわよ」と言ったが、被告人の方は見ていなかった。
(8) 被告人は、当時七二歳で、身長約一六〇センチメートル、体重約四〇キログラムであった。他方で被害者Bは、当時五四歳で身長約一七五センチメートル、体重約六八キログラムであった。
(9) Bは、警察に電話連絡し、被害状況等を説明した。警察では、無線で、千住仲町で、六〇歳ぐらいの黒いコートを着た男性が散髪料金を踏み倒し、刃物を突きつけ逃げた等との情報が流され、捜査が開始された
(10) 被告人は、理容A野を出た後、すぐに付近の千住警察署の方に向かい、同署の前まで歩いていった。一方、本件の捜査に従事し始めて先のような情報を得ていた警察官Cらは、被告人の姿を見てその人相風体から本件の犯人であると考え、被告人に対する職務質問を開始した。被告人は、その職務質問において、警察官らから「床屋やったの、お前だな。」「包丁持っているな。」などと確認され、被害者の方から電話がなされて事件の内容が既に警察官に分かっていると思い、本件犯行を行ったとの趣旨でこれをいずれも認め、包丁を出すように言われて包丁も差し出した。その後、被告人は、強盗罪で緊急逮捕された
なお、証人C(以下、「C」という。)は、公判廷で、被告人は自ら事件の話はせず、Cらが被告人から事件の内容を確認したのは、千住警察署の取調室に被告人を任意同行し、被害者が同所に到着して被告人が犯人であると指示してからで、その後被告人が包丁を差し出し、事件についての話をしたなどとこれに反する供述をしているが、同時にその供述部分において、同証人は、被告人が犯人であると考えて事件のことで聞きたいことがあるとして取調室に任意同行したというのに、取調室での数分間(五分以上)に事件の話は何もせず、凶器についての確認もしていないなどそれ自体不自然不合理な供述をし、また、そうした不自然な点について合理的な説明もできていないばかりか、その供述態度においても、当然に説明できる事項について、言いよどんだり、結局合理的な説明ができないなどのことから、たやすくこれを信用することはできない。これに対し、被告人の述べるところは、捜査段階からほぼ一貫しており、一連の被告人の行動経緯からして、その供述内容にも特段不自然なところはなく、証人Cの供述との対比では、基本的にこれを信用することができる。もっとも、警察官に職務質問を受けた場所については、公判廷では、警察署の玄関に入ってからである旨供述しているが、捜査段階では一貫して警察署の前であったとしており、これに符合する証人Cの公判廷での供述も加味して考えると、警察署前であったと認定するのが相当である。

三 そこで、以上認定した事実関係を前提にして、強盗罪の成否について、以下検討することにする。
(1) まず、被告人の脅迫が、被害者の反抗を抑圧する程度に達しているかどうかについては、上記認定の<1>被告人が被害者に示した刃体の長さ約一四・五センチメートルの殺傷能力十分の鋭利な文化包丁の性状、<2>被告人が「金ないんだよ」と申し向けながらその刃先を被害者に向けて示した脅迫の態様、<3>五三歳の普通の理髪店の店主である被害者が被告人から脅迫された際の主観的な心理状態、<4>被害者が現実に理髪料金の請求を断念していることなどの諸点に照らすと、弁護人指摘の被告人と被害者との年齢や体格の違い(被告人の方が劣っている)、被告人と被害者との距離、被告人が殺すぞなどの脅迫文言は述べていないことなどの事情を考慮しても、本件脅迫行為は、社会通念上、客観的にみて被害者の反抗を抑圧するに足りるものと評価することができるし、現実に被害者の反抗を抑圧し理髪料金請求を被害者に断念させたと認めることができる。
(2) 次に、被告人の脅迫行為が財産上不法な利益を得るためのものといえるかどうかについては、上記認定のとおり、被告人は、理髪料金を請求された理容A野から逃走するために文化包丁を示して被害者を脅迫し、文化包丁を見せて脅迫した上で逃げれば被害者が怖れて追ってこないと考えて行動してもおり、結局、被害者に散髪料金請求を断念させてその請求を免れているのであるから、被告人の脅迫行為は、財産上不法な利益に向けてなされたものと評価することができる。被告人の行為は、確かに最終的には警察に捕まるためになされたものという面があるものの、そのことによって、被告人の脅迫行為が財産上不法な利益を得るためのものではなかったということにはならず、上記の認定が左右されるものではない
(3) さらに、財産上不法な利益を得たかどうかについては、上記認定のとおり、本件では、被害者は、その反抗を抑圧され、被告人に対する散髪料金の請求を断念し、被告人が店を出て逃走した段階で、被告人から散髪料金を回収することは事実上不可能になったと評価することができ、この時点で、被告人は財産上不法な利益を得たと認めることができるこのことは、その後、被告人が警察署に出頭するつもりであったかどうかという被告人の主観的な心理によって左右されるべきものとは言い難く、弁護人の主張を採用することはできない。
(4) 以上の検討によれば、被告人の本件行為は、強盗罪を構成するものであり、弁護人の主張には理由がない。

四 なお、弁護人は自首の成立を主張し、検察官はその成立を争うので、自首を認めたことについて付言するに、上記二で認定した事実関係からすると、まず、被告人が千住警察署前で職務質問を受けて犯行を自認する際には、捜査機関には本件の犯人のおよその年齢・人相・服装・体格等が判明していたものの、犯人の氏名や住所などは分かっておらず、犯人の特定にはなお不十分な状況であったと認められ、捜査機関に発覚する前の段階にあったと認定することができるし、また、前記のとおり、被告人は寒さや飢えから逃れるために警察に捕まりたいと考えて本件犯行を行い、その犯行直後に捕まえてもらおうと思って千住警察署に向かい、同警察署前で、本件犯行の概要や犯人の人相・風体等を把握し被告人が犯人であると考えた警察官から、職務質問を受けて、床屋で事件を起こしたこと等を確認されると、すぐにこれを自認し、犯行に使用した包丁も差し出しているのであって、こうした事実関係からすると、職務質問の前に被告人から明示的に事実を申告したわけではないものの、被告人が自ら捜査機関に自己の犯罪事実を申告したものと評価することができ、自首が成立するということができる。検察官は、被告人が、警察官の職務質問を受け、その問に答えて犯行を申告したのであるから自首は成立しない旨主張するが、前記認定の事実関係からすると、被告人は、警察官の職務質問という契機があったとはいえ、上記のとおり自ら犯罪事実を申告したと評価できる上、被告人は、警察に捕まりたいとの考えで本件犯行を行ってその直後に自らを捕まえてもらうために警察署に向かい、まさにその警察署の前まで至っており、そのまま推移すれば、警察署に自ら入って犯罪事実を申告したと推測され、自首が成立していたと考えられることからすると、その直前に警察官の職務質問という契機によって自己の犯罪事実を自認したことをとらえて、自ら捜査機関に自己の犯罪事実を申告したことにならないというのは合理的とは言い難い。被告人については、自首が成立するというべきである。
(法令の適用)
被告人の判示所為は刑法二三六条二項に該当するが、自首が成立するので、同法四二条一項、六八条三号を適用して法律上の減軽をし、その刑期の範囲内で被告人を懲役三年に処し、同法二一条を適用して未決勾留日数中九〇日をその刑に算入し、情状により同法二五条一項を適用してこの裁判が確定した日から四年間その刑の執行を猶予し、なお同法二五条の二第一項前段を適用して被告人をその猶予の期間中保護観察に付すこととし、押収してある文化包丁一丁(平成一三年押第四七九号の一)は判示強盗の用に供した物で被告人以外の者に属しないから、同法一九条一項二号、二項本文を適用してこれを没収し、訴訟費用は、刑事訴訟法一八一条一項ただし書を適用して被告人に負担させないこととする。
(量刑の理由)
本件は、包丁を示して散髪代金を免れた強盗の事案である。
本件犯行は、被告人が、散髪代金を請求されてその場から逃走するため殺傷能力の高い凶器を用いて被害者を脅迫したもので、その犯行態様は危険であり、被害者に現実的な身体的被害は及ばなかったものの、被害者に強い恐怖感を与えてもおり、その犯情はよくない。被害者は、本件後、その被害を思い出して恐怖感をよみがえらせるなどもしており、被害は金銭的なものにとどまらない。そして、被告人の経済状態もあって、被害者に対する被害弁償や慰謝の措置は何もなされていない。被告人は、寒さと飢えから逃れるために警察に逮捕されることを目的として本件犯行に及んだというのであって、そもそもその規範意識に問題がある上、そうした場合にも、凶器を使用してまで犯行に及ぶ必然性は何もなく、安易で身勝手な犯行といわざるを得ず、動機において特に酌量すべき事情があるともいえない。
こうした事情からすると、被告人の刑事責任は重いというべきである。
しかし、他方、強盗にまで至ったことについては被告人が当初から意図していたとはいえず、強盗の犯行自体は偶発的に行われた面があること、被害者の財産的被害は散髪代金三六〇〇円相当であり、必ずしも高額ではないこと、被告人は、事実関係について、概ねこれを認め、公判廷でも反省の態度を示し、被害者に対して謝罪の気持ちを表していること、本件犯行の動機自体には斟酌すべき事情があるとはいえないものの、無銭散髪をして警察に逮捕されようと考えるまで追い込まれていた被告人の生活状況には同情の余地があること、本件犯行後直ちに警察署に向かい自首していること、被告人には古い前科はあるものの、その後は約四〇年間にわたって前科もなく、何とか自らの生活を維持してきたものであること、すでに七三歳の高齢であること、被告人は、社会復帰後は、生活保護などを受け、何とか通常の社会生活を送っていきたいと述べ、本件のような犯行は二度と行わないと約束していること、本件によって五か月余りの身柄拘束も受けていることなど被告人にとって斟酌すべき事情が認められ、これらの事情からすると、被告人に対しては、実刑に処して矯正施設内での処遇を施すよりは、監督者がないなどの状況については、保護観察による補導援護を受けながら、社会の中で更生の道を歩ませるのが相当と認め、主文のとおり量刑した。
よって、主文のとおり判決する。
(求刑 懲役五年)
(裁判官 安井久治)


刑法 刑法各論 取引等の安全に対する罪 ~通貨偽造


第1節 総説
証明・決算手段に対する公衆の信用を保護しようとする。

第2節 通貨偽造罪

+   第十六章 通貨偽造の罪

(通貨偽造及び行使等)
第百四十八条  行使の目的で、通用する貨幣、紙幣又は銀行券を偽造し、又は変造した者は、無期又は三年以上の懲役に処する。
2  偽造又は変造の貨幣、紙幣又は銀行券を行使し、又は行使の目的で人に交付し、若しくは輸入した者も、前項と同様とする。

(外国通貨偽造及び行使等)
第百四十九条  行使の目的で、日本国内に流通している外国の貨幣、紙幣又は銀行券を偽造し、又は変造した者は、二年以上の有期懲役に処する。
2  偽造又は変造の外国の貨幣、紙幣又は銀行券を行使し、又は行使の目的で人に交付し、若しくは輸入した者も、前項と同様とする。

(偽造通貨等収得)
第百五十条  行使の目的で、偽造又は変造の貨幣、紙幣又は銀行券を収得した者は、三年以下の懲役に処する。

未遂罪
第百五十一条  前三条の罪の未遂は、罰する。

(収得後知情行使等)
第百五十二条  貨幣、紙幣又は銀行券を収得した後に、それが偽造又は変造のものであることを知って、これを行使し、又は行使の目的で人に交付した者は、その額面価格の三倍以下の罰金又は科料に処する。ただし、二千円以下にすることはできない。

(通貨偽造等準備)
第百五十三条  貨幣、紙幣又は銀行券の偽造又は変造の用に供する目的で、器械又は原料を準備した者は、三月以上五年以下の懲役に処する。

1.総説
保護法益=通貨の真正に対する公衆の信用、国の通貨発行権

2.通貨偽造罪・同行使等罪
(1)総説
偽造通貨行使罪=侵害犯
通貨偽造罪=危険犯

(2)通貨偽造罪

・実行行為=行使目的による偽造変造
←行使目的の存在により偽造通貨が流通におかれる優位な危険が発生するから

・行使=真正な通貨として流通におくこ

・他人に行使させる目的でもよい

・偽造=権限のない者が通貨に似た外観のものを作成することをいい
作成された物が一般人をして真正の通貨と誤認させる程度に至っていることが必要!
程度が至らなければ未遂になる。

・変造=権限にない者が真正な通貨に加工して通貨に似た外観のものを作成すること
真正な通貨と同一性を失わない範囲での加工。

(3)偽造通貨等行使

・行使の目的をもって偽造変造されたことを必要とせず、また、誰により偽造変造されたかを問わない!

・行使=偽貨を真正な通貨として流通におくこと。
自動販売機での使用も含む。
ただし、一見にして偽貨であることが明白で単に自動販売機を作動させるだけのものは含まない!!!

交付=偽貨であることを告げ、又は偽貨であることを知る者に偽貨の占有を移転すること。
有償無償を問わない。

罪数
・通貨偽造罪と偽造通貨行使罪は牽連犯
・詐欺罪は行使罪に吸収される!
←収得後知情行使罪を軽く処罰する趣旨が没却されるから!

3.外国通貨偽造罪・同行使

4.偽造通貨等収得罪

5.収得後知情行使等罪

6.通貨偽造等準備罪
・自己予備のみならず他人予備を含む。
・機器又は原料の購入代金の提供は通貨偽造準備罪の幇助となる
+判例(S4.2.19)


刑法 気になる判例 「所持」

■28065275
最高裁判所第三小法廷
平成13年(あ)第882号
平成13年11月12日
主文
本件上告を棄却する。
当審における未決勾留日数中60日を本刑に算入する。
理由
弁護人村田武茂外3名の上告趣意のうち、判例違反をいう点は、原判決は、被告人の主観面のみで覚せい剤の所持を認定したものではなく、客観的状況を考慮していることが明らかであるから、所論は前提を欠き、その余は、単なる法令違反、事実誤認の主張であって、いずれも適法な上告理由に当たらない。
所論にかんがみ、本件における覚せい剤所持罪の成否について、職権で判断する。
1 原判決の認定及び記録によれば、本件の事実関係は、次のとおりである。
(1) 被告人は、平成10年12月1日午後9時ころ、愛知県豊橋市内のAホテルに入り、同ホテルの客室内で知人とともに覚せい剤を自己の身体に注射して使用した後、同日午後9時21分ころ、同ホテル4階の405号室に移ってチェックインの手続をした。
(2) 被告人は、その後間もなく覚せい剤使用の影響によると思われる幻覚に襲われ、恐怖心から、ビニール袋入り覚せい剤(4.919g。以下「本件覚せい剤」という。)、注射器2本、被告人名義の一般旅券や自動車運転免許証等の入ったセカンドバッグ(以下「本件バッグ」という。)を、現金130万円在中の財布及び携帯電話とともに、そのころ405号室の窓から外に投げた。
(3) 本件バッグは、同ホテル敷地内の北側駐車場の通路上に、上記財布や携帯電話とともに落ちており、この場所は、405号室の直下から北寄りの地点にあり、同室の北側窓から直線距離で約12m(検甲33号証の実況見分調書添付の見取図等によれば、水平距離で約4mと推定される。)離れていた。本件バッグは、同月2日午前4時ころ、同所を自動車で通りかかった第三者によって発見され、豊橋警察署に拾得物として届けられた。
(4) 同ホテルは、いわゆるラブホテルであって、1階はすべて駐車場となっており、32台分の駐車場所があり、駐車場に出入りする車両が上記通路を通行していた。
(5) 被告人は、同日午前7時ころチェックアウトするまで405号室から出たことはなく、チェックアウトした直後、同室に戻り、同ホテルの支配人に、バッグの忘れ物がなかったかと尋ねたほか、そのころ同ホテル駐車場でバッグを探していた。
2 本件覚せい剤所持の公訴事実は、被告人が同月2日午前4時ころ同ホテル駐車場において本件覚せい剤を所持したというものであるところ、第1審判決及び原判決は、いずれも公訴事実どおりの事実を認定して、被告人を覚せい剤所持罪で有罪とした。しかしながら、前記の事実関係の下で、上記公訴事実につき覚せい剤所持罪の成立を認めた原判決の解釈は、是認することができない。その理由は、次のとおりである。【要旨】覚せい剤取締法14条、41条の2第1項にいう「所持」とは、人が物を保管する実力支配関係を内容とする行為をいい、この関係は、必ずしも覚せい剤を物理的に把持することまでは必要でなく、その存在を認識してこれを管理し得る状態にあれば足りると解される(最高裁昭和30年(あ)第2311号同年12月21日大法廷判決・刑集9巻14号2946頁、最高裁昭和31年(あ)第300号同年5月25日第二小法廷判決・刑集10巻5号751頁参照)。
しかしながら、これを本件についてみると、本件覚せい剤が落ちていた場所は、同ホテル敷地内の北側駐車場の通路上であって、被告人がいた4階の客室の北側窓から直線距離で約12m、水平距離で約4m離れていること、同ホテルはいわゆるラブホテルであって、夜間相当数の客が出入りし、その客の車両が上記通路上を通りかかるものであって、第三者が本件バッグを発見することも困難であったとはいえないこと、被告人が本件バッグを同室の窓から投げてから、本件バッグが第三者によって発見されるまでに、少なくとも6時間以上が経過していたこと、この間、被告人は本件バッグを取り戻しに行くこともなく、翌朝午前7時ころまでこれを放置していたことが認められ、被告人は、本件バッグの落ちていた場所を確認しておらず、一時本件バッグを同室の窓から投げたこと自体の記憶も不確かになっていたことがうかがわれる。以上の事実関係に照らすと、本件バッグが第三者によって発見されるまでの間、被告人が同場所において他の者が容易に発見できないような形態で本件覚せい剤を保管、隠匿していたとはいえず、これに対する実力支配関係があったとはいえないから、本件覚せい剤を所持していたとは認め難いといわざるを得ない。
3 したがって、被告人に上記の時点及び場所における覚せい剤所持罪の成立を認めた原判決は、覚せい剤取締法41条の2第1項の解釈適用を誤ったものといわなければならない。しかしながら、原判決及びその是認する第1審判決の認定によれば、被告人は、平成10年12月1日午後9時ころ同ホテルに赴いた後、同日午後9時21分ころ同ホテル405号室にチェックインし、本件覚せい剤を同室の窓から外に投げるまでの間、本件覚せい剤を同室内等において所持していたことが明らかであり、本件公訴事実とそのころにおける同室内等での所持の事実との間には公訴事実の同一性があると認められるから、後者の事実に訴因を変更すれば、被告人に覚せい剤所持罪の成立を認めることができるというべきである。しかも、被告人は、第1審以来、本件覚せい剤を同室の窓から外に投げたことも、これを同ホテルにおいて所持したこともないとして、覚せい剤所持罪の成立を争っており、前記の同室内等における本件覚せい剤所持の事実についても、攻撃防御は十分尽くされていると考えられる。そうすると、前記の法令の解釈適用の誤りをもって原判決を破棄しなければ著しく正義に反するものとは認められない。
よって、刑訴法414条、386条1項3号、刑法21条により、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり決定する。
(裁判長裁判官 濱田邦夫 裁判官 千種秀夫 裁判官 金谷利廣 裁判官 奥田昌道)

+解説
《解  説》
一 本件は、ホテルの駐車場内に放置されたセカンドバッグの中に入っていた覚せい剤について、ホテルの宿泊客による「所持」が認められるか否かが問題となった事案である。
本件の事実関係は、決定中に摘示されているが、要約すると、次のようなものである。すなわち、被告人は、午後九時ころ、いわゆるラブホテルに知人とともに入り、同ホテルの客室内で知人とともに覚せい剤を自己の身体に注射して使用した後、同日午後九時二一分ころ、同ホテル四階の客室に移ってチェックインの手続をした。被告人は、その後間もなく覚せい剤使用の影響によると思われる幻覚に襲われ、恐怖心から、ビニール袋入り覚せい剤、被告人名義のパスポート等の入ったセカンドバッグ(以下「本件バッグ」という。)を、現金一三〇万円在中の財布及び携帯電話とともに、そのころこの客室の窓から外に投げた。本件バッグは、同ホテル敷地内の北側駐車場の通路上に、上記財布や携帯電話とともに落ちており、この場所は、前記客室の北側窓から直線距離で約一二m、水平距離で約四m離れていた。本件バッグは、翌日午前四時ころ、同所を自動車で通りかかった第三者によって発見され、警察署に拾得物として届けられた。被告人は、同日午前七時ころチェックアウトするまで前記客室から出たことはなく、チェックアウトした直後、同室に戻り、同ホテルの支配人に、バッグの忘れ物がなかったかと尋ねたほか、そのころ同ホテル駐車場でバッグを探していた。
二 本件公訴事実は、翌朝午前四時ころ本件バッグが第三者によって発見された時点において被告人が本件覚せい剤を所持していたとするものである。一審裁判所は、検察官に訴因変更の意思について求釈明したが、検察官は、あくまでも当初の訴因を維持すると釈明したようである(検察官が訴因変更に応じなかった理由は明らかでない。)。一、二審判決とも、本件公訴事実について、被告人の本件覚せい剤の所持が認められるとして、被告人を有罪とした。
これに対し、被告人から上告があり、弁護人は、上告趣意において、原判決が覚せい剤「所持」の意義に関する判例に違反すると主張したほか、被告人が本件覚せい剤を所持したことはないと原判決の認定を争う事実誤認の主張をした。
三 本決定は、弁護人の上告趣意が適法な上告理由に当たらないとして、これを斥ける一方、本件における覚せい剤所持罪の成否について職権で判断を示し、本件公訴事実について覚せい剤所持罪の成立を認めた原判決の解釈は、是認できないとしたものの、後に述べるような理由で、結論としては上告を棄却した。
すなわち、本決定は、覚せい剤取締法における覚せい剤「所持」の意義に関して、最大判昭30・12・21刑集九巻一四号二九四六頁及び最二小判昭31・5・25刑集一〇巻五号七五一頁を引用して、同法にいう「所持」とは、人が物を保管する実力支配関係を内容とする行為をいい、この関係は、必ずしも覚せい剤を物理的に把持することまでは必要でなく、その存在を認識してこれを管理し得る状態にあれば足りると解されると判示した上、①本件覚せい剤が落ちていた場所は被告人がいた四階の客室の北側窓から直線距離で約一二m、水平距離で約四m離れていること、②同ホテルはいわゆるラブホテルであって、夜間相当数の客が出入りし、その客の車両が上記通路上を通りかかるものであり、第三者が本件バッグを発見することも困難であったとはいえないこと、③被告人が本件バッグを同室の窓から投げてから、本件バッグが第三者によって発見されるまでに、少なくとも六時間以上が経過していたこと、④この間、被告人は本件バッグを取り戻しに行くこともなく、翌朝午前七時ころまでこれを放置していたこと、⑤被告人は、本件バッグの落ちていた場所を確認しておらず、一時本件バッグを同室の窓から投げたこと自体の記憶も不確かになっていたことを挙げ、本件バッグが第三者によって発見されるまでの間、被告人が同場所において他の者が容易に発見できないような形態で本件覚せい剤を保管、隠匿していたとはいえず、これに対する実力支配関係があったとはいえないから、本件覚せい剤を所持していたとは認め難いといわざるを得ないと判示した。さらに、本決定は、被告人が同ホテルに赴いた後、客室にチェックインし、本件覚せい剤を客室の窓から外に投げるまでの間、これを客室内等において所持していたことが明らかであり、本件公訴事実とそのころにおける同室内等での所持の事実との間には公訴事実の同一性があると認められるから、後者の事実に訴因を変更すれば、被告人に覚せい剤所持罪の成立を認めることができ、しかも、被告人は、第一審以来、本件覚せい剤を同室の窓から外に投げたことも、これを同ホテルにおいて所持したこともないとして、覚せい剤所持罪の成立を争っており、同室内等における本件覚せい剤所持の事実についても、攻撃防御は十分尽くされているとして、原判決の法令の解釈適用の誤りをもって原判決を破棄しなければ著しく正義に反するもの(刑訴法四一一条一号)とは認められないと判断した。
四 覚せい剤取締法に限らず、薬物、危険物等の各種の取締法規においては、「所持」を構成要件とする犯罪類型が少なくないが、このような「所持」の概念については、前記の引用判例等により、「人が物を保管する実力支配関係を内容とする行為をいう」とする定義が、一般論として確立しており、学説(香城敏麿・注解特別刑法5ーⅡ〔第二版〕一四六頁等)も、判例の立場を支持している。従前判例に現われた事例としては、例えば、被告人が肩掛け鞄の中に覚せい剤を入れて知人方に赴き、同人の部屋に覚せい剤を置いて雑談中、警察らしい者を認めたので、覚せい剤を遺留したまま帰宅したという事案について、被告人に覚せい剤所持を認めたもの(前掲最大判)や、被告人が覚せい剤入りの注射液三七〇本を知人方の同居人に委託して預けた事案において、被告人に覚せい剤所持を認めたもの(前掲最二小判)などがある。これらは、被告人が覚せい剤を物理的に直接支配しているとはいえないが、他人を通じて自らの意思によりこれを支配しているといい得る場合である。
本決定は、本件覚せい剤の置かれていた状況、被告人と本件覚せい剤との距離的関係、被告人が本件覚せい剤を投げてから第三者がこれを発見するまでの時間的隔たり、この間の被告人の主観面を総合的に考慮した結果、本件においては、被告人が他の者が容易に発見できないような形態で本件覚せい剤を保管、隠匿していたわけでもないので、従来の判例によって認められてきたような実力支配関係が認め難いとして、覚せい剤の「所持」に当たらないとしたものである。
五 なお、原判決の法令違反が「著しく正義に反しない」とした部分は、検察官が本件公訴事実にこだわらず、本件覚せい剤を客室の窓から外に投げるまでの間の客室内等における所持の事実に訴因を変更していれば、被告人を有罪とすることができたと考えられるところ、原審までの段階であれば、裁判所が検察官に訴因の変更を勧告した上で変更された訴因について有罪とすべきであったが、上告審の段階においては、原審までに上記の事実についても攻撃防御が十分尽くされているので、本件を破棄して自判しあるいは差し戻すまでもないという判断から、上告を棄却したものと解される。
六 本決定は、被告人が覚せい剤をホテルの窓から外へ投げたという、かなり特異な事例に関する判断ではあるが、本件は、被告人に覚せい剤の「所持」が認められるか否かをめぐって、一、二審判決が積極の判断を示したことからもうかがえるように、かなり微妙な事案であるといえ、このような事案について消極の判断を示した本決定は、「所持」の概念に関する判例理論の外延を明らかにしたものとして、意義のあるものといえよう。

刑法 事例演習教材2 D子は見ていた


1.財布の占有について
(1)Aの占有
占有の存否が領得行為段階の事実であることを重視すれば、領得した時点の事実を重視!

+判例(H16.8.25)
理由
弁護人滝谷滉の上告趣意は、単なる法令違反、量刑不当の主張であって、刑訴法405条の上告理由に当たらない。
所論にかんがみ、本件における窃盗罪の成否につき、職権で判断する。
1 原判決の認定及び記録によれば、本件の事実関係は、次のとおりである。
(1) 被害者は、本件当日午後3時30分ころから、大阪府内の私鉄駅近くの公園において、ベンチに座り、傍らに自身のポシェット(以下「本件ポシェット」という。)を置いて、友人と話をするなどしていた。
(2) 被告人は、前刑出所後いわゆるホームレス生活をし、置き引きで金を得るなどしていたものであるが、午後5時40分ころ、上記公園のベンチに座った際に、隣のベンチで被害者らが本件ポシェットをベンチ上に置いたまま話し込んでいるのを見掛け、もし置き忘れたら持ち去ろうと考えて、本を読むふりをしながら様子をうかがっていた
(3) 被害者は、午後6時20分ころ、本件ポシェットをベンチ上に置き忘れたまま、友人を駅の改札口まで送るため、友人と共にその場を離れた。被告人は、被害者らがもう少し離れたら本件ポシェットを取ろうと思って注視していたところ、被害者らは、置き忘れに全く気付かないまま、駅の方向に向かって歩いて行った。
(4) 被告人は、被害者らが、公園出口にある横断歩道橋を上り、上記ベンチから約27mの距離にあるその階段踊り場まで行ったのを見たとき、自身の周りに人もいなかったことから、今だと思って本件ポシェットを取り上げ、それを持ってその場を離れ、公園内の公衆トイレ内に入り、本件ポシェットを開けて中から現金を抜き取った
(5) 他方、被害者は、上記歩道橋を渡り、約200m離れた私鉄駅の改札口付近まで2分ほど歩いたところで、本件ポシェットを置き忘れたことに気付き、上記ベンチの所まで走って戻ったものの、既に本件ポシェットは無くなっていた。
(6) 午後6時24分ころ、被害者の跡を追って公園に戻ってきた友人が、機転を利かせて自身の携帯電話で本件ポシェットの中にあるはずの被害者の携帯電話に架電したため、トイレ内で携帯電話が鳴り始め、被告人は、慌ててトイレから出たが、被害者に問い詰められて犯行を認め、通報により駆けつけた警察官に引き渡された。

2 以上のとおり、被告人が本件ポシェットを領得したのは、被害者がこれを置き忘れてベンチから約27mしか離れていない場所まで歩いて行った時点であったことなど本件の事実関係の下では、その時点において、被害者が本件ポシェットのことを一時的に失念したまま現場から立ち去りつつあったことを考慮しても、被害者の本件ポシェットに対する占有はなお失われておらず、被告人の本件領得行為は窃盗罪に当たるというべきであるから、原判断は結論において正当である。
よって、刑訴法414条、386条1項3号、181条1項ただし書、刑法21条により、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり決定する。
(裁判長裁判官 金谷利廣 裁判官 濱田邦夫 裁判官 上田豊三 裁判官 藤田宙靖)

++解説
《解  説》
1 本件は,被害者が公園のベンチ上に置き忘れたポシェット(以下「被害品」という。)をその立ち去った直後に領得した被告人の行為が,窃盗罪に当たるか占有離脱物横領罪にとどまるかという,窃盗罪の要件たる被害者の占有継続の有無が問題となった事案である。

2 本決定は,窃盗罪の成立を認めた原判決の結論を是認したものであるが,その理由付けが原判決と異なっていることも,併せて注目されると思われる。すなわち,原判決は,被害者が,被害品をベンチ上に置き忘れた後,2分位歩いて,約200m位離れた駅改札口付近まで来た際に置き忘れに気付き,公園まで走って戻ったことや,それから被害品を取り戻し,被告人を犯人として警察官に引き渡すまでの事実経過を詳しく摘示した上,①被害者が被害品の現実的握持から離れた距離及び時間は,極めて短かった,②この間,公園内はそれほど人通りがなかった,③被害者は置き忘れた場所を明確に認識していた,④持ち去った者についての心当たりを有していた,⑤実際にも,すぐさま携帯電話を使って所在を探り出す工夫をするなどして,まもなく被害品を被告人から取り戻すことができている,といった事実を挙げた上,被告人が被害品を不法に領得した際,被害者の被害品に対する実力支配は失われていなかったとして,被害者の占有継続を認めた。
これに対し,本決定は,「被告人が被害品を領得したのは,被害者がベンチから約27mしか離れていない場所まで歩いて行った時点であった」という,原決定が判示していない事実を記録により認定した上,原判決が挙げた上記①~⑤の点には格別言及せず,そのような事実関係の下では,その時点において,被害者が被害品のことを一時的に失念したまま現場から立ち去りつつあったことを考慮しても,被害者の被害品に対する占有はなお失われていなかったとして,窃盗罪の成立を認めている。つまり,原判決は,被害者が被害品を取り戻すまでの事情を検討しているのに対し,本決定は,端的に被告人が被害品を領得した時点の事情を問題としていると理解されるのである。

3 被害者の現実的握持から離れた財物を犯人が領得した行為が窃盗罪に当たるかどうかが問題となるケースには,被害者が意識して特定の場所に置いた場合と,本件のように公衆が自由に出入りする場所に置き忘れた場合等とあるが,後者では前者に比して被害者の占有継続が認められる範囲が限定される傾向にあると指摘される(前田雅英・刑法各論講義〔第3版〕169頁,池田耕平・研修527号25頁等)。後者に属する最高裁判例には,バス待ちの行列に並んでいた被害者が,近くの台の上に写真機を置き忘れたまま行列の移動に伴って離れ,置き忘れに気づいて引き返すまでの間に,犯人がそれを持ち去ったという事案に係る(1)最二小判昭32.11.8刑集11巻12号3061頁がある。この判決は,刑法上の占有は人が物を実力的に支配する関係であるが,必ずしも物の現実の所持又は監視を必要とするものではなく,社会通念上物が占有者の支配内にあるといえれば足りる旨を判示した上,当該事案では,「行列が動き始めてから引き返すまでの時間」が約5分にすぎず,「置き忘れた場所と引き返した地点との距離」が20m弱にすぎなかったことなどを指摘し,写真機はなお被害者の実力的支配のうちにあったとして,窃盗罪の成立を認めたものである。
このような置き忘れの事例に係る下級審裁判例には,被害者の占有継続を肯定したものとして,(2)東京高判昭35.7.15東高刑時報11巻7号191頁(ただし故意を否定),(3)東京高判昭35.7.26東高刑時報11巻7号202頁,判タ107号53頁,(4)東京高判昭54.4.12判時938号133頁,否定したものとして,(5)東京高判平3.4.1判時1400号128頁等がある。これら裁判例も,前記(1)の最判と同様,時間や場所の近接性等を検討して,被害品がなお被害者の実力的支配のうちにあったといえるかどうかを判断していると見られるが,被害者が置き忘れてからいつの時点までの近接性を問題にするのか(被告人の領得行為時までか,被害者が置き忘れに気付いた時点までか,被害品を取り戻した時点までか等)については,判文上は必ずしも軌を一にしていないことが指摘できるところであった。
学説においては,近時は前記(1)の最判の結論を支持する立場が一般的であるといってよいと思われる(反対説として,小暮得雄・刑法判例百選Ⅱ133頁等)が,その理由付けにおいては,時間的・場所的近接性を重視する立場(前田・前掲,山口厚・刑法各論177頁,田中利幸「刑法における『占有』の概念」刑法理論の現代的展開・各論192頁等)と,同事案では行列が続いていることから他人の事実的支配の継続を推認させる状況があったことを重要な根拠とする立場(西田典之・刑法各論143頁,大谷實・刑法各論202頁)とに分かれている。そして,後者の立場からは,「被害者が駅の窓口に財布を置き忘れ,1~2分後,15~16mのところで引き返した」という前記(4)の事案では,占有の継続は認められないと主張されている(もっとも,同事案では,「被告人は,被害者が窓口に財布を置き忘れて立ち去る一部始終を5~6m離れた地点で見ていて,被害者がその場を離れるや直ちに窓口に近付き財布を手中に収めた」という事実も判決中に認定されているのであるが,この点に意識的に言及した学説は見当たらないようである。)。

4 このような中で出された本決定の第1の意義は,本件のような事案において占有継続の有無の判断に当たり考慮されるべきものは,被害者が置き忘れてから被告人の領得行為の時点までの時間的・場所的近接性であることを明確にしている点にあるといえよう。確かに,窃盗罪の成立には,領得行為時に被害者の占有の侵害が認められるのであればそれで必要十分であって,被害者がそのまま立ち去ったことから,たとえ当該領得行為がなかったとしても,いずれ被害者は占有を喪失したはずであったと考えられるとしても,いったん成立した窃盗罪が消滅するはずはないであろう。逆に,領得行為より以前に被害者の占有が失われていたのであれば,窃盗罪が成立しないことは当然であって,その後たまたま被害者が犯人から被害品を取り返して占有を回復したとしても,占有離脱物横領罪が窃盗罪に格上げされるわけはないであろう。これに対し,前記(1)の最判の事案では,被告人が犯行を否認していたこと等のために領得行為の時点を特定できなかったことから,疑わしきは被告人の利益にとの立場で,被害者の供述を基にして想定される最大限の時間的・場所的間隔を前提として,占有継続の有無を判断しているため,「被害者が離れてから引き返すまでの時間」や「置き忘れた場所と引き返した地点との距離」を判断要素としたように読めるものとなっていると理解されよう!!!!!。ナルホド!!!!!このように考えてみると,この点はあまり異論がないところではないかと思われるが,従来の下級審裁判例の一部に混乱があったことは否定できないし,学説も,上記最判の判文上の表現をそのまま受け入れて論ずるものが一般であったようであるから,本決定の意義は小さくないものと思われる。

5 さらに,本決定が被害者の占有継続を肯定した点自体にも事例的な意義があると思われる。本件では,領得行為は,被害者が友人を駅まで送るため歩き出して約27m離れた場所に達した時点で行われたというのであり,時間的にも置き忘れてからせいぜい数十秒が経過した程度であったと考えられるから,時間的・場所的近接性に着目する限り,前記(1)~(5)等の従来の裁判例の一般的傾向に照らしても,被害者の占有継続を肯定することは可能であるように思われる。また,学説がいう,「気が付いて探せば容易に発見し得る状態」にあったかどうか(昭32最判解説(刑)578頁(寺尾正二),木村静子・判例刑法研究6巻29頁等)や,「眼の届く範囲内でのごく短時間の握持・監視の喪失」にとどまるかどうか(田中・前掲190頁)といった考え方を当てはめても,本件では占有継続を肯定する結論に至るのではないかと考えられる(なお,本決定では,「被告人が約27m先に被害者の姿を見たとき,今だと思って被害品を取り上げた」ことが認定されているから,逆に言えば,仮に被害者がその時点で振り返れば,被告人の姿や被害品を目にすることもできたと思われることなども,本件で占有継続を肯定する方向の事情として指摘できるであろう。)。これに対し,前記(1)の最判の事案では行列が続いていたからこそ占有継続が肯定されたとする前記学説によれば,そのような事情がない本件では占有を否定するという結論もあり得ないではないが,本決定はこのような考え方を採らなかったものと思われる(鈴木左斗志「刑法における『占有』概念の再構成」学習院大学法学会雑誌34巻2号153頁等参照)。

6 本決定は,刑法の基本的かつ古典的な論点に係るものであるが,事例判断としての意義に加え,従来必ずしも明確でなかったこの種事案に関する判断の枠組みを示した意義も有している。この種事件の審理,ひいて立件・捜査に当たっては,領得行為の時点をできる限り明らかにし,その時点における被害者の占有継続の有無に焦点を当てた事案の解明を尽くすべきであることを改めて明確にしたものとして,刑事実務にとって注目すべき決定であると思われる。

(2)D子の占有
どの程度の管理状態までを保護すべきかという価値判断。
単に注視しているだけでは、保護に値する実質的が利益にかける!

(3)スーパーマーケットBの占有
誰でも立ち入りやすい場所に放置されていたか、それとも何らかの管理措置が取られていたかという区別。

(4)甲の故意

2.クレジットカードの不正使用
たとえ名義人の許諾がある場合でも、加盟店を被害者とする一行詐欺罪が成立する!
損害について→加盟店の本人確認義務違反を理由として、信販会社から加盟店に対する立て替え払いが行われない可能性があるから、加盟店にも損害が発生し得る!
私文書偽造・同行使罪とは牽連犯の関係。

+判例(H16.2.9)
理由
弁護人渡邉靖子の上告趣意は、単なる法令違反、事実誤認の主張であって、刑訴法405条の上告理由に当たらない。
なお、所論にかんがみ、詐欺罪の成否について、職権をもって判断する。
1 原判決及びその是認する第1審判決並びに記録によれば、本件の事実関係は、次のとおりである。
(1) Aは、友人のBから、同人名義の本件クレジットカードを預かって使用を許され、その利用代金については、Bに交付したり、所定の預金口座に振り込んだりしていた
その後、本件クレジットカードを被告人が入手した。その入手の経緯はつまびらかではないが、当時、Aは、バカラ賭博の店に客として出入りしており、暴力団関係者である被告人も、同店を拠点に賭金の貸付けなどをしていたものであって、両者が接点を有していたことなどの状況から、本件クレジットカードは、Aが自発的に被告人を含む第三者に対し交付したものである可能性も排除できない。なお、被告人とBとの間に面識はなく、BはA以外の第三者が本件クレジットカードを使用することを許諾したことはなかった
(2) 被告人は、本件クレジットカードを入手した直後、加盟店であるガソリンスタンドにおいて、本件クレジットカードを示し、名義人のBに成り済まして自動車への給油を申し込み、被告人がB本人であると従業員を誤信させてガソリンの給油を受けた上記ガソリンスタンドでは、名義人以外の者によるクレジットカードの利用行為には応じないこととなっていた
(3) 本件クレジットカードの会員規約上、クレジットカードは、会員である名義人のみが利用でき、他人に同カードを譲渡、貸与、質入れ等することが禁じられている。また、加盟店規約上、加盟店は、クレジットカードの利用者が会員本人であることを善良な管理者の注意義務をもって確認することなどが定められている。
2 以上の事実関係の下では、被告人は、本件クレジットカードの名義人本人に成り済まし、同カードの正当な利用権限がないのにこれがあるように装い、その旨従業員を誤信させてガソリンの交付を受けたことが認められるから、被告人の行為は詐欺罪を構成する。仮に、被告人が、本件クレジットカードの名義人から同カードの使用を許されており、かつ、自らの使用に係る同カードの利用代金が会員規約に従い名義人において決済されるものと誤信していたという事情があったとしても、本件詐欺罪の成立は左右されない。したがって、被告人に対し本件詐欺罪の成立を認めた原判断は、正当である。
よって、刑訴法414条、386条1項3号、181条1項本文により、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり決定する。
(裁判長裁判官 福田博 裁判官 北川弘治 裁判官 亀山継夫 裁判官 滝井繁男)

++解説
《解  説》
1 本件起訴状記載の詐欺の訴因の要旨は,「被告人は,不正に入手した他人名義Aのクレジットカードを使用し,加盟店であるガソリンスタンドの従業員に対し,A本人に成り済まし,同カードの正当な利用権限がなく,かつ,同カード会員規約に従いカードの利用代金を支払う意思及び能力がないのにこれがあるように装い,同カードを提示して給油を申し込み,店員らをしてその旨誤信させてガソリンの給油を受け,もって人を欺いて財物の交付を受けた。」というものである。
上記詐欺は,1審における検察官の主張によると,Bが本件クレジットカードの名義人Aから同カードの使用を許されてこれを所持していたところ,市中で強盗の被害に遭って同カードを奪われ,その直後,被告人がこれを不正に入手して本件利用行為に及んだという事実関係を前提とするものであり,①被告人が名義人A本人に成り済まして名義を偽ったこと,②利用代金の支払意思・能力を偽ったことの2点をとらえ,2重の欺もう行為による詐欺として訴因が構成されている。

2 ところが,審理において,Bが強盗に遭ったというのは実は狂言であって,Bは,賭博場で金を借りるため自発的に被告人を含む第三者に対し本件クレジットカードを交付したのではないかとの合理的な疑いが生じ,その結果,被告人は,名義人Aから同カードの使用を許されており,名義人Aにおいて利用代金が決済されるものと誤信して同カードを使用した可能性も排除できないこととなった。
そこで,1審判決は,上記詐欺の訴因のうち,②の「利用代金の支払意思・能力を偽った」点の欺もう行為を認定から落とし,①の「名義の偽り」の点のみの欺もう行為による詐欺罪の成立を認めた。
これに対し,被告人が控訴し,弁護人は,「クレジットカードの名義人本人から使用を許され,名義人が利用代金の決済を引き受けている場合には,利用者が名義を偽っても,決済が円滑に行なわれ,関係者に財産的損害は生じないから,詐欺罪は成立しない。したがって,被告人が,名義人から使用を許されていたなどと誤信していた以上,詐欺の故意は認められない。」として法令解釈の誤りを主張したが,原判決は,その主張をしりぞけた。
被告人が上告し,上告趣意においても,上記と同旨の主張がされたが,本決定は,本件の事実関係を摘示した上で,その事実関係の下では,「被告人は,本件クレジットカードの名義人本人に成り済まし,同カードの正当な利用権限がないのにこれがあるように装い,その旨従業員を誤信させてガソリンの交付を受けたことが認められるから,被告人の行為は詐欺罪を構成する。仮に,被告人が,本件クレジットカードの名義人から同カードの使用を許されており,かつ,自らの使用に係る同カードの利用代金が会員規約に従い名義人において決済されるものと誤信していたという事情があったとしても,本件詐欺罪の成立は左右されない。」と判示し,上告を棄却した。

3 本件の論点は,クレジットカードの名義人から使用を許され,かつ,自らの使用に係る同カードの利用代金が会員規約に従い名義人において決済されるものと誤信していた場合において,被告人が名義人本人に成り済ましてクレジットカードを使用する行為が詐欺罪に当たるか否かという点である。
通常,名義人がクレジットカードの使用を許している場合は,本人と偽っても,決済が円滑にされて問題が顕在化しないため,「名義の偽り」のみの欺もう行為による詐欺で起訴されることは実際上ほとんどないと思われる。しかし,不正にクレジットカードを入手してこれを使用したとして起訴された詐欺事案において,本件のような弁解がされることはまま見られるところであり,その場合,弁解を排斥できないときに本件の論点が法的問題として顕在化することになる。
下級審の裁判例をみると,本件と同様にクレジットカードの名義人の許諾を得ていた旨の弁解が通った事案において,詐欺罪の成立を否定した裁判例として,東京地八王子支判平8.2.26刑裁資料273号130頁があり,「クレジットカード・システムが私的な経済取引のためのシステムに過ぎず,それ自体強度の公的利益を含まない以上,名義の偽りのみの詐欺の成立を肯定してシステムを保護する必要はない。また,実質的な財産的法益侵害が発生していないのに財産犯として処罰するのは行き過ぎである。」旨を判示している。he—-なお,名義人の許諾を得てクレジットカードを使用したが名義人自身に代金決済の意思がなく,その旨被告人も認識していた事案について,詐欺の成立を肯定した裁判例として,大阪地判平9.9.22判タ997号293頁がある。
これに対し,事案は異なるが,一般論として,クレジットカード・システム上,「名義の偽り」自体が欺もう行為を構成することを肯定した裁判例として,東京高判昭60.5.9刑月17巻5・6号519頁,東京高判平3.12.26判タ787号272頁がある。
このうち,上記東京高判平3.12.26は,他人名義の既存のクレジットカードを不正に入手して使用した事案において,「クレジットカード制度は,カード名義人本人に対する個別的な信用を供与することが根幹となっているのであるから,カード使用者がカードを利用する正当な権限を有するカード名義人本人であるかどうかがクレジットカード制度の極めて重要な要素であることは明らかで,カード名義人を偽り自己がカード使用の正当な権限を有するかのように装う行為はまさに欺もう行為そのものというべきである」旨を説示し,1審判決が,「カード名義人であるかの如く装った点や,代金決済の能力を装った点は,代金決済意思の有無という要証事実を検討するための重要な間接事実にすぎない」とし,これらの点をことさら欺もう行為として判示しなかったことについて,クレジットカードの不正使用に関する欺もう行為の解釈について誤りを冒すものであるとしている。

4 学説あるいは実務家の見解をみると,①クレジットカード・システムでは名義人自身による利用行為のみが予定されているとして,名義の偽りのみで詐欺罪が成立するとする積極説(和田正隆「クレジットカードシステムと犯罪(4)」月間消費者金融1983年12月号86頁,片岡聡「クレジットカードと犯罪」捜査研究34巻9号11頁),②「名義の偽り」それ自体は欺もう行為には当たらず,「クレジットカード・システムにより最終的に代金が決済される状況がないにも関わらずこれがあるかのように装ったこと」が欺もう行為となるとする消極説(石井芳光「クレジットカードの不正利用と法律問題」手研160号54頁,山中敬一「他人名義のクレジットカードの不正使用と詐欺の成否」法セ455号127頁等),③その中間的な見解として,名義人がごく近い近親者であって名義人本人と同視し得る者については詐欺が成立しないが,それ以外の者が名義を偽った場合には詐欺が成立するという説(平井義丸「消費者信用をめぐる犯罪の実態と法律上の問題点について」法務研究74集1号56頁)とに分かれている。

5 クレジットカード・システムは,カード名義人の個別的な信用に基づいて担保的措置をも講ずることなく一定限度内の信用を供与することが根幹となっている。
規約上,名義人本人以外の利用は許さず,加盟店に本人確認義務を負わせていることなどからすると,加盟店は,名義人本人が使用を許諾している等の事情が確認できたとしても,名義人本人でない者の利用を許してはならないというのが制度の建前といえる。取引の実態として,仮に,名義人本人以外の者の利用を許す不正規な運用があるとしても,それはあくまで加盟店の判断で行う事実上の措置とみるべきであると思われる。
このようなクレジットカード・システムについての理解を前提とするならば,利用者と名義人の同一性はカード利用の極めて重要な要素であり,この点を偽ることは,名義人の許諾の有無にかかわらず,加盟店に対する欺もう行為を構成するという積極説が支持されよう。
本決定は,基本的にはこのような考え方から詐欺罪の成立を肯定したものといえるが,一方で,③の中間説が述べるように,名義人の近親者がその許諾の下に利用するようなごく例外的な場合においては,実質的違法性がない等の理由により詐欺罪の成立が否定される余地もないではないことから,本件の事案に即した判示がされたのではないかと推察される。

6 本決定は,学説上,積極,消極と見解が分かれており,消極説に立った下級審裁判例も存した法解釈上の論点について,最高裁として初めて判断を示したものである。事例判例にとどまるが,実質的には一般法理を含むものであり,先例として重要な意義があり,実務に与える影響も少なくないと思われる。

追加でネタ判例。
+判例(高判H3.4.1)
理由
本件控訴の趣意は、弁護人瀬戸和宏作成名義の控訴趣意書に、これに対する答弁は、検察官八峠剛一作成名義の答弁書に、それぞれ記載されたとおりであるから、これらを引用するが、弁護人の所論は、次に記載する控訴趣意第一のほか、同第二として量刑不当を主張するものである。
控訴趣意第一(事実誤認の主張)について
所論は、要するに、本件被害品である本件札入れは、被害者が原判示「イトーヨーカドー」六階のベンチの上に置き忘れたものであって、しかも被害者は六階から地下一階に移動し、時間にして一〇分以上も右ベンチ上に放置されていたのであるから、本件札入れは何人の占有下にもない占有離脱物であり、かつ、被告人は、これを忘れ物(遺失物)と認識し、何人かの占有下にある物とは認識していなかったのであるから、被告人には窃盗の故意がなく、被告人の本件所為は遺失物横領に該当するにとどまるのに、窃盗に当たるとして刑法二三五条を適用した原判決は、事実を誤認し、ひいては法令の適用を誤ったものであって、右事実誤認が判決に影響を及ぼすことは明らかである、というのである。
所論にかんがみ、原審記録を調査し、当審における事実取調べの結果をも併せて検討するに、原判決には、所論指摘のとおり、判決に影響を及ぼすことが明らかな事実の誤認があり、原判決はこの点で破棄を免れない。

これを所論に即して説示すると、以下のとおりである。すなわち、関係証拠によると、
<1> 本件当日の午後、原判示「イトーヨーカドー」(鉄骨鉄筋地上七階・地下一階建)に家族とともに買い物に来た被害者は、六階エスカレーター脇の通路に置かれたベンチでアイスクリームを食べたが、午後三時五〇分ころ、その場を立ち去る際に、他の手荷物などは持ったものの、本件札入れ(縦約一〇センチメートル、横約二三センチメートル、革製のからし色のもの)を右ベンチの上に置き忘れて立ち去ってしまったこと
<2> 被害者は、六階からエスカレーターで地下一階の食料品売場に行き(六階から地下一階までのエスカレーターによる所要時間は約二分二〇秒である。)、売場の様子などを見渡してから買物をするため、札入れを取り出そうとして、これがないことに気付き、すぐに本件札入れを右六階のベンチに置き忘れてきたことを思い出し、直ちに六階の右ベンチまで引き返したが、その時には既に被告人が本件札入れを持ち去ってしまっており、本件札入れは見当たらなかったこと
<3> 被告人は、同日午後四時前ころ、「イトーヨーカドー」六階のゲームセンターへ行こうとした際に誰もいないベンチの上に、手荷物らしき物もなく、本件札入れだけがあるのを目にとめ、付近に人が居なかったことから、誰かが置き忘れたか置放しにしているものと思い、持ち主が戻って来ないうちにこれを領得しようと考えて右ベンチに近づいたところ、斜め前方に数メートル離れた先の別のベンチに居たA子が本件札入れを注視しているのに気付いたこと
<4> そこで、被告人は、本件札入れのあった右ベンチに座って暫く様子を窺っていたが、なおもA子が被告人を監視するようにして見ていたことから、A子に本件札入れが右ベンチにある事情を尋ね、誰かが置き忘れていったものであることを確めたうえで、これを落とし物として警備員に届けるふりを装うこととし、同日午後四時ころ、A子に「財布を警備員室に届けてやる。」旨伝えて本件札入れを持ってその場を離れたこと
<5> その後、被告人は三階のトイレで本件札入れの中身を確認したうえ、これを持って店外へ出たこと
以上の事実が認められる。
右認定の事実に徴すると、被害者は、開店中であって公衆が客などとして自由に立ち入ることのできるスーパーマーケットの六階のベンチの上に本件札入れを置き忘れたままその場を立ち去って、同一の建物内であったとはいえ、エスカレーターを利用しても片道で約二分二〇秒を要する地下一階まで移動してしまい、約一〇分余り経過した後に本件札入れを置き忘れたことに気付き引き返して来たが、その間に被告人が右ベンチの上にあった本件札入れを不法に領得したというのである。
このような本件における具体的な状況、とくに、被害者が公衆の自由に出入りできる開店中のスーパーマーケットの六階のベンチの上に本件札入れを置き忘れたままその場を立ち去って地下一階に移動してしまい、付近には手荷物らしき物もなく、本件札入れだけが約一〇分間も右ベンチ上に放置された状態にあったことなどにかんがみると、被害者が本件札入れを置き忘れた場所を明確に記憶していたことや、右ベンチの近くに居あわせたA子が本件札入れの存在に気付いており、持ち主が取りに戻るのを予期してこれを注視していたことなどを考慮しても、社会通念上、被告人が本件札入れを不法に領得した時点において、客観的にみて、被害者の本件札入れに対する支配力が及んでいたとはたやすく断じ得ないものといわざるを得ない。
そうすると、被告人が本件札入れを不法に領得した時点では、本件札入れは被害者の占有下にあったものとは認め難く、結局のところ、本件札入れは刑法二五四条にいう遺失物であって、「占有ヲ離レタル他人ノ物」に当たるものと認めるのが相当である。
右の次第であるから、本件札入れを不法に領得した被告人の所為を窃盗に当たると認定した原判決には、事実の誤認があり、右の事実誤認は判決に影響を及ぼすことが明らかであるので、所論のその余の主張について判断するまでもなく、原判決はこの点で破棄を免れない。論旨は理由がある。
よって、刑訴法三九七条一項、三八二条により原判決を破棄したうえ、同法四〇〇条但書により当裁判所において更に判決する。
(罪となるべき事実)
被告人は、平成二年一〇月一日午後四時ころ、新潟県長岡市城内町二丁目三番地一二所在の株式会社丸大イトーヨーカドー丸大長岡駅前店六階エスカレーター脇付近において、B子が同所のベンチに置き忘れた遺失物である現金三万八七七五円在中の札入れ一個(時価約一万円相当)を発見し、これを自分のものにするつもりで拾い取って横領したものである
(証拠の標目)《省略》
(法令の適用)
被告人の判示所為は刑法二五四条、罰金等臨時措置法三条一項一号に該当するので、所定刑中懲役刑を選択し、その所定刑期の範囲内で被告人を懲役五月に処し、刑法二一条を適用して原審における未決勾留日数中一〇日を右刑に算入し、原審及び当審における訴訟費用については、刑訴法一八一条一項但書により被告人に負担させないこととして、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 小泉祐康 裁判官 秋山規雄 川原誠)


刑法気になる判例 Winny事件

・理 由
 検察官の上告趣意のうち,判例違反をいう点は,事案を異にする判例を引用するものであって,本件に適切でなく,その余は,事実誤認,単なる法令違反の主張であって,刑訴法405条の上告理由に当たらない。
 所論に鑑み,被告人によるファイル共有ソフトの公開,提供行為につき著作権法違反罪の幇助犯が成立するかどうかを職権で判断すると,原判決には,幇助犯の成立要件に関する法令の解釈を誤った違法があるものの,被告人の行為につき著作権法違反罪の幇助犯の成立を否定したことは,結論において正当として是認できる。
 その理由は,以下のとおりである。
 1 本件は,被告人が,ファイル共有ソフトであるWinnyを開発し,その改良を繰り返しながら順次ウェブサイト上で公開し,インターネットを通じて不特定多数の者に提供していたところ,正犯者2名が,これを利用して著作物であるゲームソフト等の情報をインターネット利用者に対し自動公衆送信し得る状態にして,著作権者の有する著作物の公衆送信権(著作権法23条1項)を侵害する著作権法違反の犯行を行ったことから,正犯者らの各犯行に先立つ被告人によるWinnyの最新版の公開,提供行為が正犯者らの著作権法違反罪の幇助犯に当たるとして起訴された事案である。原判決の認定及び記録によれば,以下の事実を認めることができる。
 (1) Winnyは,個々のコンピュータが,中央サーバを介さず,対等な立場にあって全体としてネットワークを構成するP2P技術を応用した送受信用プログラムの機能を有するファイル共有ソフトである。Winnyは,情報発信主体の匿名性を確保する機能(匿名性機能)とともに,クラスタ化機能,多重ダウンロード機能,自動ダウンロード機能といったファイルの検索や送受信を効率的に行うため
の機能を備えており,それ自体は多様な情報の交換を通信の秘密を保持しつつ効率的に行うことを可能とし,様々な分野に応用可能なソフトであるが,本件正犯者がしたように著作権を侵害する態様で利用することも可能なソフトである。
 (2) 被告人は,匿名性と効率性を兼ね備えた新しいファイル共有ソフトが実際に稼動するかの技術的な検証を目的として,平成14年4月1日にWinnyの開発に着手し,同年5月6日,自己の開設したウェブサイトでWinnyの最初の試用版を公開した。被告人は,その後も改良を加えたWinnyを順次公開し,同年12月30日にWinnyの正式版であるWinny1.00を公開し,翌平成15年4月5日にWinny1.14を公開してファイル共有ソフトとしてのWinny(Winny1)の開発に一区切りを付けた。その後,被告人は,同月9日,今度はP2P技術を利用した大規模BBS(電子掲示板)の実現を目的として,そのためのソフトであるWinny2の開発に着手し,同年5月5日,Winny2
の最初の試用版を公開し,同年9月には,本件正犯者2名が利用したWinny2.0β6.47やWinny2.0β6.6(以下,両者を併せて「本件Winny」という。)を順次公開した。なお,Winny2は,上記のとおり大規模BBSの実現を目指して開発されたものであるが,Winny1とほぼ同様のファイル共有ソフトとしての機能も有していた(以下,Winny1とWinny2を総称して「Winny」という。)。被告人は,Winnyを公開するに当たり,ウェブサイト上に「これらのソフトにより違法なファイルをやり取りしないようお願いします。」などの注意書きを付記していた
 (3) 本件正犯者であるBは,平成15年9月3日頃,被告人が公開していたWinny2.0β6.47をダウンロードして入手し,法定の除外事由がなく,かつ,著作権者の許諾を受けないで,同月11日から翌12日までの間,B方において,プログラムの著作物である25本のゲームソフトの各情報が記録されているハードディスクと接続したコンピュータを用いて,インターネットに接続された状態の下,上記各情報が特定のフォルダに存在しアップロードが可能な状態にある上記Winnyを起動させ,同コンピュータにアクセスしてきた不特定多数のインターネット利用者に上記各情報を自動公衆送信し得るようにし,著作権者が有する著作物の公衆送信権を侵害する著作権法違反の犯行を行った。また,本件正犯者であるCは,同月13日頃,被告人が公開していたWinny2.0β6.6をダウンロードして入手し,法定の除外事由がなく,かつ,著作権者の許諾を受けないで,同月24日から翌25日までの間,C方において,映画の著作物2本の各情報が記録されているハードディスクと接続したコンピュータを用いて,インターネットに接続された状態の下,上記各情報が特定のフォルダに存在しアップロードが可能な状態にある上記Winnyを起動させ,同コンピュータにアクセスしてきた不特定多数のインターネット利用者に上記各情報を自動公衆送信し得るようにし,著作権者が有する著作物の公衆送信権を侵害する著作権法違反の犯行を行った。

 2 第1審判決は,Winnyの技術それ自体は価値中立的であり,価値中立的な技術を提供すること一般が犯罪行為となりかねないような,無限定な幇助犯の成立範囲の拡大は妥当でないとしつつ,結局,そのような技術を外部へ提供する行為自体が幇助行為として違法性を有するかどうかは,その技術の社会における現実の利用状況やそれに対する認識,さらに提供する際の主観的態様いかんによると解するべきであるとした。その上で,本件では,インターネット上においてWinny等のファイル共有ソフトを利用してやりとりがなされるファイルのうちかなりの部分が著作権の対象となるもので,Winnyを含むファイル共有ソフトが著作権を侵害する態様で広く利用されており,Winnyが社会においても著作権侵害をしても安全なソフトとして取りざたされ,効率もよく便利な機能が備わっていたこともあって広く利用されていたという現実の利用状況の下,被告人は,そのようなファイル共有ソフト,とりわけWinnyの現実の利用状況等を認識し,新しいビジネスモデルが生まれることも期待して,Winnyがそのような態様で利用されることを認容しながら,本件Winnyを自己の開設したホームページ上に公開して,不特定多数の者が入手できるようにし,これによって各正犯者が各実行行為に及んだことが認められるから,被告人の行為は,幇助犯を構成すると評価することができるとして,著作権法違反罪の幇助犯の成立を認め,被告人を罰金150万円
に処した。

 3 この第1審判決に対し,検察官が量刑不当を理由に,被告人が訴訟手続の法令違反,事実誤認,法令適用の誤りを理由に控訴した。原判決は,幇助犯の成否に関する法令適用の誤りの主張に関し,インターネット上におけるソフトの提供行為で成立する幇助犯というものは,これまでにない新しい類型の幇助犯であり,刑事罰を科するには罪刑法定主義の見地からも慎重な検討を要するとした上,「価値中立のソフトをインターネット上で提供することが,正犯の実行行為を容易ならしめたといえるためには,ソフトの提供者が不特定多数の者のうちには違法行為をする者が出る可能性・蓋然性があると認識し,認容しているだけでは足りず,それ以上に,ソフトを違法行為の用途のみに又はこれを主要な用途として使用させるようにインターネット上で勧めてソフトを提供する場合に幇助犯が成立すると解すべきである。」とし,被告人は,本件Winnyをインターネット上で公開,提供した際,著作権侵害をする者が出る可能性・蓋然性があることを認識し,認容していたことは認められるが,それ以上に,著作権侵害の用途のみに又はこれを主要な用途として使用させるようにインターネット上で勧めて本件Winnyを提供していたとは認められないから,被告人に幇助犯の成立を認めることはできないと判示し,第1審判決を破棄し,被告人に無罪を言い渡した。

 4 所論は,刑法62条1項が規定する幇助犯の成立要件は,「幇助行為」,「幇助意思」及び「因果性」であるから,幇助犯の成立要件として「違法使用を勧める行為」まで必要とした原判決は,刑法62条の解釈を誤るものであるなどと主張する。そこで,原判決の認定及び記録を踏まえ,検討することとする。
 (1) 刑法62条1項の従犯とは,他人の犯罪に加功する意思をもって,有形,無形の方法によりこれを幇助し,他人の犯罪を容易ならしむるものである(最高裁昭和24年(れ)第1506号同年10月1日第二小法廷判決・刑集3巻10号1629頁参照)。すなわち,幇助犯は,他人の犯罪を容易ならしめる行為を,それと認識,認容しつつ行い,実際に正犯行為が行われることによって成立する。原判決は,インターネット上における不特定多数者に対する価値中立ソフトの提供という本件行為の特殊性に着目し,「ソフトを違法行為の用途のみに又はこれを主要な用途として使用させるようにインターネット上で勧めてソフトを提供する場合」に限って幇助犯が成立すると解するが,当該ソフトの性質(違法行為に使用される可能性の高さ)や客観的利用状況のいかんを問わず,提供者において外部的に違法使用を勧めて提供するという場合のみに限定することに十分な根拠があるとは認め難く,刑法62条の解釈を誤ったものであるといわざるを得ない。
 (2) もっとも,Winnyは,1,2審判決が価値中立ソフトと称するように,適法な用途にも,著作権侵害という違法な用途にも利用できるソフトであり,これを著作権侵害に利用するか,その他の用途に利用するかは,あくまで個々の利用者の判断に委ねられている。また,被告人がしたように,開発途上のソフトをインターネット上で不特定多数の者に対して無償で公開,提供し,利用者の意見を聴取しながら当該ソフトの開発を進めるという方法は,ソフトの開発方法として特異なものではなく,合理的なものと受け止められている。新たに開発されるソフトには社会的に幅広い評価があり得る一方で,その開発には迅速性が要求されることも考慮すれば,かかるソフトの開発行為に対する過度の萎縮効果を生じさせないためにも,単に他人の著作権侵害に利用される一般的可能性があり,それを提供者において認識,認容しつつ当該ソフトの公開,提供をし,それを用いて著作権侵害が行われたというだけで,直ちに著作権侵害の幇助行為に当たると解すべきではない。かかるソフトの提供行為について,幇助犯が成立するためには,一般的可能性を超える具体的な侵害利用状況が必要であり,また,そのことを提供者においても認識,認容していることを要するというべきである。すなわち,ソフトの提供者において,当該ソフトを利用して現に行われようとしている具体的な著作権侵害を認識,認容しながら,その公開,提供を行い,実際に当該著作権侵害が行われた場合や,当該ソフトの性質,その客観的利用状況,提供方法などに照らし,同ソフトを入手する者のうち例外的とはいえない範囲の者が同ソフトを著作権侵害に利用する蓋然性が高いと認められる場合で,提供者もそのことを認識,認容しながら同ソフトの公開,提供を行い,実際にそれを用いて著作権侵害(正犯行為)が行われたときに限り,当該ソフトの公開,提供行為がそれらの著作権侵害の幇助行為に当たると解するのが相当である。

 (3) これを本件についてみるに,まず,被告人が,現に行われようとしている具体的な著作権侵害を認識,認容しながら,本件Winnyの公開,提供を行ったものでないことは明らかである。
 次に,入手する者のうち例外的とはいえない範囲の者が本件Winnyを著作権侵害に利用する蓋然性が高いと認められ,被告人もこれを認識,認容しながら本件Winnyの公開,提供を行ったといえるかどうかについて検討すると,Winnyは,それ自体,多様な情報の交換を通信の秘密を保持しつつ効率的に行うことを可能とするソフトであるとともに,本件正犯者のように著作権を侵害する態様で利用する場合にも,摘発されにくく,非常に使いやすいソフトである。そして,本件当時の客観的利用状況をみると,原判決が指摘するとおり,ファイル共有ソフトによる著作権侵害の状況については,時期や統計の取り方によって相当の幅があり,本件当時のWinnyの客観的利用状況を正確に示す証拠はないが,原判決が引用する関係証拠によっても,Winnyのネットワーク上を流通するファイルの4割程度が著作物で,かつ,著作権者の許諾が得られていないと推測されるものであったというのである。そして,被告人の本件Winnyの提供方法をみると,違法なファイルのやり取りをしないようにとの注意書きを付記するなどの措置を採りつつ,ダウンロードをすることができる者について何ら限定をかけることなく,無償で,継続的に,本件Winnyをウェブサイト上で公開するという方法によっている。これらの事情からすると,被告人による本件Winnyの公開,提供行為は,客観的に見て,例外的とはいえない範囲の者がそれを著作権侵害に利用する蓋然性が高い状況の下での公開,提供行為であったことは否定できない
 他方,この点に関する被告人の主観面をみると,被告人は,本件Winnyを公開,提供するに際し,本件Winnyを著作権侵害のために利用するであろう者がいることや,そのような者の人数が増えてきたことについては認識していたと認められるものの,いまだ,被告人において,Winnyを著作権侵害のために利用する者が例外的とはいえない範囲の者にまで広がっており,本件Winnyを公開,提供した場合に,例外的とはいえない範囲の者がそれを著作権侵害に利用する蓋然性が高いことを認識,認容していたとまで認めるに足りる証拠はない
 確かに,①被告人がWinnyの開発宣言をしたスレッド(以下「開発スレッド」という。)には, Winnyを著作権侵害のために利用する蓋然性が高いといえる者が多数の書き込みをしており,被告人も,そのような者に伝わることを認識しながらWinnyの開発宣言をし,開発状況等に関する書き込みをしていたこと,②本件当時,Winnyに関しては,逮捕されるような刑事事件となるかどうかの観点からは摘発されにくく安全である旨の情報がインターネットや雑誌等において多数流されており,被告人自身も,これらの雑誌を購読していたこと,③被告人自身がWinnyのネットワーク上を流通している著作物と推定されるファイルを大量にダウンロードしていたことの各事実が認められる。これらの点からすれば,被告人は,本件当時,本件Winnyを公開,提供した場合に,その提供を受けた者の中には本件Winnyを著作権侵害のために利用する者がいることを認識していたことは明らかであり,そのような者の人数が増えてきたことも認識していたと認められる。
 しかし,①の点については,被告人が開発スレッドにした開発宣言等の書き込みには,自己顕示的な側面も見て取れる上,同スレッドには,Winnyを著作権侵害のために利用する蓋然性が高いといえる者の書き込みばかりがされていたわけではなく,Winnyの違法利用に否定的な意見の書き込みもされており,被告人自身も,同スレッドに「もちろん,現状で人の著作物を勝手に流通させるのは違法ですので,βテスタの皆さんは,そこを踏み外さない範囲でβテスト参加をお願いします。これは Freenet 系 P2P が実用になるのかどうかの実験だということをお忘れなきように。」などとWinnyを著作権侵害のために利用しないように求める書き込みをしていたと認められる。これによれば,被告人が著作権侵害のために利用する蓋然性の高い者に向けてWinnyを公開,提供していたとはいえない。被告人が,本件当時,自らのウェブサイト上などに,ファイル共有ソフトの利用拡大により既存のビジネスモデルとは異なる新しいビジネスモデルが生まれることを期待しているかのような書き込みをしていた事実も認められるが,この新しいビジネスモデルも,著作権者側の利益が適正に保護されることを前提としたものであるから,このような書き込みをしていたことをもって,被告人が著作物の違法コピーをインターネット上にまん延させて,現行の著作権制度を崩壊させる目的でWinnyを開発,提供していたと認められないのはもとより,著作権侵害のための利用が主流となることを認識,認容していたとも認めることはできない。また,②の点については,インターネットや雑誌等で流されていた情報も,当時の客観的利用状況を正確に伝えるものとはいえず,本件当時,被告人が,これらの情報を通じてWinnyを著作権侵害のために利用する者が増えている事実を認識していたことは認められるとしても,Winnyは著作権侵害のみに特化して利用しやすいというわけではないのであるから,著作権侵害のために利用する者の割合が,前記関係証拠にあるような4割程度といった例外的とはいえない範囲の者に広がっていることを認識,認容していたとまでは認められない。③の被告人自身がWinnyのネットワーク上から著作物と推定されるファイルを大量にダウンロードしていた点についても,当時のWinnyの全体的な利用状況を被告人が把握できていたとする根拠としては薄弱である。むしろ,被告人が,P2P技術の検証を目的としてWinnyの開発に着手し,本件Winnyを含むWinny2については,ファイル共有ソフトというよりも,P2P型大規模BBSの実現を目的として開発に取り組んでいたことからすれば,被告人の関心の中心は,P2P技術を用いた新しいファイル共有ソフトや大規模BBSが実際に稼動するかどうかという技術的な面にあったと認められる。現に,Winny2においては,BBSのスレッド開設者のIPアドレスが容易に判明する仕様となっており,匿名性機能ばかりを重視した開発がされていたわけではない。そして,前記のとおり,被告人は,本件Winnyを含むWinnyを公開,提供するに当たり,ウェブサイト上に違法なファイルのやり取りをしないよう求める注意書を付記したり,開発スレッド上にもその旨の書き込みをしたりして,常時,利用者に対し,Winnyを著作権侵害のために利用することがないよう警告を発していたのである。
 これらの点を考慮すると,いまだ,被告人において,本件Winnyを公開,提供した場合に,例外的とはいえない範囲の者がそれを著作権侵害に利用する蓋然性が高いことを認識,認容していたとまで認めることは困難である。
 (4) 以上によれば,被告人は,著作権法違反罪の幇助犯の故意を欠くといわざるを得ず,被告人につき著作権法違反罪の幇助犯の成立を否定した原判決は,結論において正当である。
 5 よって,刑訴法414条,386条1項3号により,裁判官大谷剛彦の反対意見があるほか,裁判官全員一致の意見で,主文のとおり決定する。

+反対意見
 裁判官大谷剛彦の反対意見は,次のとおりである。
 私は,本件において,多数意見と結論を異にし,被告人には著作権である公衆送
信権侵害の罪の幇助犯が成立すると考えるので,反対意見を述べる。
 1 本件の事実関係は,多数意見の1に詳しく摘示されているとおりであるが,
本件において被告人の著作権侵害の幇助行為とされているファイル共有ソフトWi
nnyの提供行為の特徴は,そのソフトそれ自体は多様な情報の交換を通信の秘密
を保持しつつ効率的に行うことを可能にするという技術的有用性を持つ一方,その
効率性及び特に匿名性の機能のゆえに,利用の仕方によっては著作権という法益の
侵害可能性も併せ持っており(両者は表裏の関係をなしている。),そして,その
ソフトは不特定多数の者に提供され,提供の範囲,対象には全く限定はない,とい
うところにあろう。
 このようなソフトの提供行為は,ソフトを侵害的に利用して違法にファイルをア
ップロードするという正犯の著作権(公衆送信権)侵害行為を容易にし,また助長
した幇助行為として可罰性が問われることになるが,提供行為の幇助犯としての可
罰性は,提供行為が一般的,抽象的に著作権侵害の可能性を持っていれば足りるも
のではなく,正犯者が侵害的に利用するという具体的でより高度の蓋然性が認めら
れる状況で提供行為が行われる場合に,幇助行為としての可罰性が肯定されると考
えられる。この点では,多数意見とほぼ認識,理解を共通にしている。
 2 すなわち,Winnyの提供行為それ自体は,適法目的に沿って利用される
– 12 –
以上何ら法益侵害の危険性を有しないが,その有用性がいわば濫用され侵害的に利
用される場合に,提供行為が法益侵害の現実的な危険性,違法性を持つことになる
(その意味で価値中立的行為ともいえよう。)。提供行為の法益侵害の危険性は,
ソフトの利用者がどのような目的で,どのような対象にこれを利用するかという具
体的な利用目的,態様にかかっており,侵害的利用の単なる可能性という程度では
足りず,利用者の適法利用ではない侵害的利用についての具体的でより高度の蓋然
性がある場合に,提供行為自体が現実的な法益侵害の危険性を持ち,その違法性,
可罰性が肯定されるといえよう。
 そして,利用者の侵害的利用の蓋然性は,個々の利用者の利用における侵害的利
用の可能性と,このソフトが不特定多数者に提供されていることとの関連で,侵害
的に利用する者の生ずる可能性との両面からの検討を要する。前者については,提
供されるソフトや提供行為の性質,内容が,公衆送信権という著作権の侵害に容易
に利用され得るものか,侵害を誘発するようなものか,侵害的利用を抑制する手立
ての有無などが主な考慮要素となろう。また,後者については,この侵害的利用の
可能性のあるソフトがより多くの侵害的利用の目的を持つ者に供されれば,それだ
け(量的にも確率的にも)現実的な法益侵害の危険性は高まることになり,この点
ではソフト提供の態様,対象者の範囲等が考慮要素となろう。さらに,実際に侵害
的な利用が少なからず生じているという客観的状況下で,このような侵害的利用の
可能性のあるソフトの提供が続けられることにより法益侵害の危険性は高まるので
あり,高度の蓋然性の判断に当たり,この客観的な利用の状況も重要な考慮要素に
なろう。
 3 以上のように,前記1のような特徴を持つ本件の被告人の提供行為の可罰性
– 13 –
を判断するに当たり,侵害的利用についての具体的でより高度の蓋然性が客観的に
認められる状況下で提供されることを要件としたが,この点は幇助行為の可罰性の
違法要素であり,構成要件要素とも考えられるのであり,そうすると犯罪成立の主
観的要素(幇助の故意)として,この高度の蓋然性について認識・認容も求められ
ることになる(なお,具体的な正犯の特定性については,いわゆる概括的な故意と
しての認識・認容で足りよう。)。
 なお,原判決は,更に進んで,本件のような価値中立的行為の幇助犯の成立には
侵害的利用を「勧める」ことを要するとしているが,独立従犯ではない幇助犯の成
立をこのような積極的な行為がある場合に限定する見解が採り得ないことは,多数
意見4(1)のとおりである。
 また,同様に,幇助犯としての主観的要素としては,この高度の蓋然性について
の認識と認容が認められることをもって足り,それ以上に正犯行為を助長する積極
的な意図や目的までを要するものではないといえよう。
 4 そこで,本件についてみるに,①いわゆるファイル共有ソフトは被告人の開
発したWinnyに限られていたわけではなく,Win‐MXその他のソフトも提
供されており,ネット上での公衆送信権という著作権の侵害にWinnyが不可欠
というものでは決してないが,被告人の追究により効率性が上がり(例えば,多重
ダウンロード機能,自動ダウンロード機能,それ自体は当時違法ではなかった自己
使用目的の許諾なき著作物ファイルのダウンロードが,即,違法性を持つ公衆への
送信としてのアップロードに繋がるような仕組み等),また匿名性機能も備わり
(ファイルが中継を経ると発信源の位置情報(キー情報)の追及が困難になる仕組
み等),侵害的利用の抑制として警告の掲示はあるものの,侵害的利用が至って容
– 14 –
易である上,侵害的利用への誘引性も高く,それゆえ利用者の侵害的利用が促進さ
れ,②提供行為の態様も,不特定多数の者に広汎かつ無限定で提供され,利用につ
いて申込みや承諾を要することなく,誰もがいつでもアクセスでき,利用に何ら制
約はなく,③客観的利用状況については,多数意見4(3)のとおり,当時(平成1
5年)の利用状況を正確に示す証拠はないが,原判決が引用する関係証拠によれ
ば,Winnyのネットワーク上を流通するファイルの4割程度が著作物で,か
つ,著作権者の許諾が得られていないと推測されるものであったという状況にあっ
た。
 これらの事情からすれば,少なくとも平成15年9月に行われていた本件Win
nyの公開・提供行為については,その提供ソフトの侵害的利用の容易性,助長性
というソフトの性質,内容,また提供の対象,範囲が無限定という提供態様,さら
に上記の客観的利用状況等に照らし,まずは客観的に侵害的利用の「高度の蓋然
性」を認めるに十分と考えられる。
 なお,付言すれば,侵害的利用が推測される4割程度という割合は,一つにはW
inny上に流通していた一時期のサンプル120万件のファイル情報(キー)に
ついて,著作権侵害性を調べたところ,そのうち著作権のある音楽やDVDなど市
販著作物そのままのコピーが40%程度であったという調査結果に基づいている。
サンプルにして40数万という数の市販の著作物そのままのコピーが流通していた
ことになり,およそ例外的とはいえない侵害的な利用を示しているといえよう。ま
た,原審が取り調べた社団法人甲協会の行った約2万件のファイル情報(キー)の
調査結果として,そのうち約5割が映像,音楽,ゲームソフトなどの著作物であ
り,その約9割が許諾なき利用と推定されるという報告にも基づいている(原判決
– 15 –
20頁)。Winny利用者の正確な数は把握できないが,インターネット利用者
(当時3000万人強と推定)の約3%がファイル共有ソフトの利用者であり(第
1審判決15頁),その約3分の1がWinnyを最もよく利用するという調査も
ある。利用の割合を利用者の量(人数)に置き換えてみると,弁護人の主張する調
査の難点を考慮しても,およそ例外的利用とはいえない多数の者による侵害的利用
が推認されるのである。これらの調査には,本件の2年半後の平成18年当時の調
査も含まれており,その間のファイル共有ソフト利用者の増加も考慮すると,これ
らデータから本件当時の状況を推し測るに当たっては,相応の下方への修正を施し
て考えるべきは当然であるが,以上の見方の基本に誤りはないと思われる。
 5 前記3のとおり,幇助犯が成立するには,主観的要素として,この客観的な
高度の蓋然性についての認識と認容という幇助者の故意が求められる。多数意見
は,結論として,被告人において,例外的とはいえない範囲の者がそれを著作権侵
害に利用する蓋然性が高いことを認識,認容していたとまで認めることは困難であ
る,として被告人の幇助の故意を認定していない。私は,本件において,被告人に
侵害的利用の高度の蓋然性についての認識と認容も認められると判断するものであ
り,多数意見に反対する理由もここに尽きるといえよう。
 (1) まず,侵害的利用の蓋然性について,このソフト自体の有用性の反面とし
ての侵害的利用の容易性,誘引性があることや,また提供行為の態様として対象が
広汎,無限定であることについては,開発者として当然認識は有していると認めら
れる。また,客観的な利用状況については,多数意見が理由4(3)で挙げる①開発
宣言をしたスレッドへの侵害的利用をうかがわせる書き込み,②本件当時のWin
nyの侵害的利用に関する雑誌記事などの情報への接触,③被告人自身の著作物フ
– 16 –
ァイルのダウンロード状況などに照らせば,被告人において,もちろん当時として
正確な利用状況の調査がなされていたわけではないので4割が侵害的利用などとい
う数値的な利用実態の認識があったとはいえないにしても,Winnyがかなり広
い範囲(およそ例外的とはいえない範囲)で侵害的に利用され,流通しつつあるこ
とについての認識があったと認めるべきであろう。
 多数意見の指摘する被告人の侵害的利用状況の認識・認容に関わる諸事情は,そ
の蓋然性の認識の判断に当たり消極に働く事情として慎重に検討すべき点ではあろ
う。しかし,これらの事情を考慮し,また,被告人の研究開発者としての志向,す
なわち有用性というプラス面の技術開発への傾倒,没頭と,一方で副作用ともいう
べき侵害的利用というマイナス面への関心,配慮の薄さという面を考慮しても,侵
害的利用についての高度の蓋然性の認識を否定するには至らないと思われる。そし
て,通常は,このような侵害的利用の高度の蓋然性に関する客観的な状況について
の認識を持ちながら,なお提供行為を継続すれば,侵害的利用の高度の蓋然性につ
いての認容もまた認めるべきと思われる。
 (2) 前述したとおり,本件のような技術提供行為が技術的有用性と法益侵害性
を併せ持ち,また不特定多数の者への提供が行われる場合の幇助の故意の成立に,
一般の故意の内容以上に,法益侵害性への積極的な意図や目的を有する場合に限定
することは,やはり十分な根拠を得るものではなく,躊躇せざるを得ないところで
ある。
 私も,多数意見と同様,検察官の主張するような,被告人がWinnyを利用し
た著作物の違法コピーのまん延を望んでいたとか,侵害的利用を主目的に開発・提
供をしていた,などの積極的侵害意図を認めるものではない。被告人のソフト開発
– 17 –
とその提供が,多様な情報の交換を通信の秘密を保持しつつ効率的に行うことを可
能にするということを主目的としていたと認めるにやぶさかではない。
 多数意見は,被告人の幇助の故意を消極的,否定的に評価する事情として,開発
スレッドへの書き込みに自らソフトの開発・提供の意図を書き込んでいたとか,著
作権者側の利益が適正に保護されることを前提とした新たなビジネスモデルの出現
を期待していたとか,侵害的利用についてこれをしないよう警告のメッセージを発
していたという点を挙げるが,これらは被告人に法益侵害の積極的意図が無かった
という事情としてはもっともであるにしても,これらの事情が必ずしも法益侵害の
危険性の認識・認容と抵触し,これを否定することにはならないと考えられる。提
供行為の法益侵害の危険性を認識しているからこそ,このような利用が自らの開発
の目的や意図ではなく,本意ではないとして警告のメッセージとして発したものと
考えられる。被告人は,このようなメッセージを発しながらも,侵害的利用の抑制
への手立てを講ずることなく提供行為を継続していたのであって,侵害的利用の高
度の蓋然性を認識,認容していたと認めざるを得ない。
 6 以上のとおり,私は,被告人に幇助犯としての構成要件該当性及びその故意
を認め得ると考えるが,弁護人の主張に実質的な違法性阻却の主張が含まれている
とも考えられるので,若干この点についての意見も付言しておく。
 既に述べたとおり,被告人のWinnyの開発・提供の主目的は,P2P方式に
よるファイル共有ソフトの効率性,匿名性をこれまで以上に高め,それ自体多様な
情報の交換を通信の秘密を保持しつつ効率的に行うことを可能にするという技術的
有用性の追求にあったことが認められ,また不特定多数の者にこれを提供して意見
を徴しながら開発を進めるという方法も,特段相当性を欠くとは認められないとこ
– 18 –
ろである。
 このような点を踏まえると,本件において,行為の目的,手段の相当性,法益侵
害の比較,あるいは政策的な配慮などを総合考慮し,社会通念上許容し得る場合,
あるいは法秩序全体の見地から許容し得る場合に違法性を阻却するとする実質的違
法性の問題についても検討の余地はあろう。
 確かに,本件で著作権侵害の違法行為を行ったのは正犯者であり,被告人のWi
nnyの提供行為はその一手段を提供したにすぎず,また,手段としてのファイル
共有ソフトは何もWinnyに限られていたというわけではなく,P2P方式のも
のとしてもより汎用されていたWin‐MXなども存在していた。このように被告
人のWinnyの提供行為は,著作権侵害・法益侵害への因果性は薄く,民事の不
法行為責任は問い得ないとする見解もあり,その意味で微罪性を持つといえないわ
けではない。
 しかしながら,個々の侵害行為におけるソフトの果たす役割が大きくないにして
も,前述のように,本件Winnyは,侵害的利用の容易性といったその性質,不
特定多数の者への無限定の提供というその態様などから,大量の著作権侵害を発生
させる素地を有しており,現にそのような侵害的な利用が前述のように多発もして
いたのであって,法益侵害という観点からは社会的に見て看過し得ない危険性を持
つという評価も成り立ち得よう。侵害される法益は,侵害に対しては懲役刑(本件
当時長期3年以下の懲役)をもって保護される法益である。
 一方,被告人の開発・提供行為は,ネット社会においてその有用性について一定
の評価がなされているが,このような分野での技術の開発はまさに日進月歩であ
り,開発中のソフトについて,その技術開発分野での十分な検証を踏まえて客観的
– 19 –
な評価を得ることも甚だ困難を伴う。
 このような本件Winnyの持つ法益侵害性と有用性とは,「法益比較」といっ
た相対比較にはなじまないともいえよう。本件Winnyの有用性については,幇
助犯の成立について,侵害的利用の高度の蓋然性を求めるところでも配慮がなされ
ているところであり,改めてこの点を考慮しての実質的違法性阻却を論ずるのは適
当ではないように思われる。
 (なお,先に政策的な配慮という点を挙げたが,前述したとおり,被告人の開
発,提供していたWinnyはインターネット上の情報の流通にとって技術的有用
性を持ち,被告人がその有用性の追求を開発,提供の主目的としていたことも認め
られ,このような情報流通の分野での技術的有用性の促進,発展にとって,その効
用の副作用ともいうべき他の法益侵害の危険性に対し直ちに刑罰をもって臨むこと
は,更なる技術の開発を過度に抑制し,技術の発展を阻害することになりかねず,
ひいては他の分野におけるテクノロジーの開発への萎縮効果も生みかねないのであ
って,このような観点,配慮からは,正犯の法益侵害行為の手段にすぎない技術の
提供行為に対し,幇助犯として刑罰を科すことは,慎重でありまた謙抑的であるべ
きと考えられる。多数意見の不可罰の結論の背景には,このような配慮もあると思
われる。本件において,権利者等からの被告人への警告,社会一般のファイル共有
ソフト提供者に対する表立った警鐘もない段階で,法執行機関が捜査に着手し,告
訴を得て強制捜査に臨み,著作権侵害をまん延させる目的での提供という前提での
起訴に当たったことは,いささかこの点への配慮に欠け,性急に過ぎたとの感を否
めない。その他,被告人には営利の目的もなく,また法執行機関からの指摘を受け
て,Winnyの公開のためのウェブサイトを直ちに閉じる措置を採るなど,有利
– 20 –
な事情も認められる。
 一方で,一定の分野での技術の開発,提供が,その効用を追求する余り,効用の
副作用として他の法益の侵害が問題となれば,社会に広く無限定に技術を提供する
以上,この面への相応の配慮をしつつ開発を進めることも,社会的な責任を持つ開
発者の姿勢として望まれるところであろう。私は,前記の1ないし5から,被告人
に幇助犯としての犯罪の成立が認められ,上記のような被告人にとっての事情は,
幇助犯として刑の減軽もある量刑面で十分考慮されるべきものと考える。)
 7 以上により,私は,原判決の破棄は免れないものと考える。

刑法 刑法各論 傷害の罪 身体の安全に対する罪


一.傷害罪の構成要件
1.傷害罪の保護法益
(1)暴行・障害・傷害致死

+(傷害)
第204条
人の身体を傷害した者は、15年以下の懲役又は50万円以下の罰金に処する。

+(傷害致死)
第205条
身体を傷害し、よって人を死亡させた者は、3年以上の有期懲役に処する。

・傷害致死罪では、生命の侵害を理由として加重処罰されるため、身体の安全だけでなく、個人の生命も保護法益となる。

・反対に、犯人が意図した傷害の結果が生じなかった場合は、暴行罪(208条)が成立する!

(2)傷害罪の特例
・特異な共犯形態について
+(現場助勢)
第206条
前2条の犯罪が行われるに当たり、現場において勢いを助けた者は、自ら人を傷害しなくても、1年以下の懲役又は10万円以下の罰金若しくは科料に処する。

+(同時傷害の特例)
第207条
2人以上で暴行を加えて人を傷害した場合において、それぞれの暴行による傷害の軽重を知ることができず、又はその傷害を生じさせた者を知ることができないときは、共同して実行した者でなくても、共犯の例による。

・集団犯罪(多衆犯)
+(凶器準備集合及び結集)
第208条の3
1項 2人以上の者が他人の生命、身体又は財産に対し共同して害を加える目的で集合した場合において、凶器を準備して又はその準備があることを知って集合した者は、2年以下の懲役又は30万円以下の罰金に処する。
2項 前項の場合において、凶器を準備して又はその準備があることを知って人を集合させた者は、3年以下の懲役に処する。

・他にも・・・
+(危険運転致死傷)
第208条の2
1項 アルコール又は薬物の影響により正常な運転が困難な状態で自動車を走行させ、よって、人を負傷させた者は15年以下の懲役に処し、人を死亡させた者は1年以上の有期懲役に処する。その進行を制御することが困難な高速度で、又はその進行を制御する技能を有しないで自動車を走行させ、よって人を死傷させた者も、同様とする。
2項 人又は車の通行を妨害する目的で、走行中の自動車の直前に進入し、その他通行中の人又は車に著しく接近し、かつ、重大な交通の危険を生じさせる速度で自動車を運転し、よって人を死傷させた者も、前項と同様とする。赤色信号又はこれに相当する信号を殊更に無視し、かつ、重大な交通の危険を生じさせる速度で自動車を運転し、よって人を死傷させた者も、同様とする。

2.障害という概念

・生理的機能の障害とみる見解。

・他人の毛髪やひげのように、せいぜい、保護装飾の作用を営むものを切断したり、そり落とした場合にも、被害者の健康状態を不良に変更するわけでもなく、その生理的機能を棄損しないため、暴行罪に当たる!!

+判例(H17.3.29)
理由
弁護人〓昌章の上告趣意のうち、判例違反をいう点は、事案の異なる判例を引用するものであって本件に適切でなく、その余は、単なる法令違反、事実誤認、量刑不当の主張であって、刑訴法405条の上告理由に当たらない。
なお、原判決の是認する第1審判決の認定によれば、被告人は、自宅の中で隣家に最も近い位置にある台所の隣家に面した窓の一部を開け、窓際及びその付近にラジオ及び複数の目覚まし時計を置き、約1年半の間にわたり、隣家の被害者らに向けて、精神的ストレスによる障害を生じさせるかもしれないことを認識しながら、連日朝から深夜ないし翌未明まで、上記ラジオの音声及び目覚まし時計のアラーム音を大音量で鳴らし続けるなどして、同人に精神的ストレスを与え、よって、同人に全治不詳の慢性頭痛症、睡眠障害、耳鳴り症の傷害を負わせたというのである。以上のような事実関係の下において、被告人の行為が傷害罪の実行行為に当たるとして、同罪の成立を認めた原判断は正当である。
よって、刑訴法414条、386条1項3号、刑法21条により、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり決定する。

++解説
《解  説》
1 本件は,住宅街での隣人による騒音について,傷害罪の成否が争われた事件である。事案の概要は決定に要約されているとおりであり,被告人は,自宅から隣家の被害者らに向けて,ラジオの音声や目覚まし時計のアラーム音を,約1年半の間にわたり,連日早朝から深夜・未明まで鳴らし続けるなどして,同人に精神的ストレスを与え,よって,同人に全治不詳の慢性頭痛症等の障害を負わせたとして,傷害罪により起訴された。
1審判決等によると,被告人と被害者は共に主婦であるが,両家の間にはかねてから確執があり,被告人は,嫌がらせのため,隣家に向けてラジオ音等を流し始め,起訴に係る当時は,ラジオを連日朝7~8時から翌午前1~2時まで継続的に大音量で鳴らし,その間や未明に複数の目覚まし音も断続的に鳴らし,家族や警察官の制止も一切きかないという状態であり,隣家でも在宅時間が最も長い被害者に,上記のような症状が生じたものである。その音量の最大値は,地下鉄や電車の車内等の騒音に匹敵すると認定されている。
被告人は,公判で,その行為は暴行の実行行為にも傷害の実行行為にも当たらず,暴行の故意も傷害の故意もないなどと主張したが,1審判決(判時1854号160頁),控訴審判決共に,暴行によらない傷害の実行行為に該当し,その故意もあるとして傷害罪の成立を認め,本決定も,その結論を是認した。
2 本決定は,事例として,無形的方法による傷害罪,すなわち暴行によらない傷害罪の成立を是認したものである。傷害罪は,有形的方法,すなわち「人の身体に対する有形力の行使」である暴行を手段としてなされるのが通例であり,この場合には,暴行について故意があれば,結果的加重犯としての傷害罪が成立する。しかし,傷害罪の実行行為は,条文上「人の身体を傷害」すると規定されているだけで(刑法204条),その手段・方法に制限はなく,無形的方法による傷害も認めるのが判例・通説とされており,現に,最二小判昭27.6.6刑集6巻6号795頁,判タ22号46頁は,「傷害罪は他人の身体の生理的機能を毀損するものである以上,その手段が何であるかを問わない」として,他人に性病を感染させた場合に傷害罪の成立を認めている。この無形的方法による傷害の場合,被告人の行為に傷害の結果発生の現実的危険性がなければ傷害の実行行為とはいえないこと,傷害の結果発生について認識がなければ傷害罪の故意が認められないことは,通常の犯罪の実行行為,故意と同様である。
騒音の場合も,騒音そのものが暴行に当たれば結果的加重犯としての傷害罪が成立し得るが,1審判決は,本件の騒音の程度が被害者の身体に物理的な影響を与えるものとまではいえず,暴行に当たらないとした上で,傷害罪の実行行為は,人の生理的機能を害する現実的危険性があると社会通念上評価される行為であって,そのような生理的機能を害する手段については限定がなく,無形的方法によることも含むとし,被告人の行為は,その期間,時間帯,騒音の程度等に照らすと,被害者に対して精神的ストレスを生じさせ,睡眠障害等の症状を生じさせる現実的危険性のある行為と評価できるから,傷害の実行行為に当たり,その未必的故意もあるとして傷害罪の成立を認め,控訴審判決,本決定もこれを支持している。

3 騒音が暴行と認められた先例として,多数名が室内の被害者の間近で大太鼓等を連打した事例である最二小判昭29.8.20刑集8巻8号1277頁のほか,拡声器を被害者の耳の近くにあてて大声を出し,感音性難聴の傷害を負わせた事例である大阪高判昭59.6.26高検速報昭和59年6号37頁等があり,これらはまさに音波を物理的な空気振動として利用したと見られる場合である。これに対して,通常言われるところの「騒音」は,音としての物理力は弱く,これを暴行と見ることは,暴行の通常の語義から離れ,日常の生活騒音なども暴行に当たりかねない問題があるように思われる(大塚仁ほか編・大コンメンタール刑法(8)251頁〔渡辺咲子〕)。しかし,このような騒音も,過大・不快なもので,長時間反復されるときは,聞く者に精神的ストレスを生じさせ,生理的障害をも引き起こす危険がある行為として,無形的方法による傷害の実行行為に当たり得るものと思われる。ここでの傷害を引き起こす危険性の有無は,音量,音質,時間帯,期間のほか,行為者と被害者の関係や流された経緯等を斟酌して総合的に判断する必要があり,実務上は,上記の危険性を中心とする傷害としての実行行為性のほか,具体的な傷害の結果発生,傷害の故意,因果関係等が争点となり,微妙な認定や判断が要求される場合が多くなるように思われる。本件の1審判決においても,実行行為性の判断に当たって騒音の実測値が詳細に検討され,故意の判断に当たっては,被告人がラジオ等を置いた状況,家族や警察官から受けた警告,被害者との確執等の状況が相当具体的に認定されている。
このような無形的方法による傷害に関する先例は極めて少なく,最高裁判例としては上記最二小判昭27.6.6しかなく,下級審でも,無言電話・嫌がらせ電話等の事例が散見されるほかは(東京地判昭54.8.10判時943号122頁,富山地判平13.4.19判タ1081号291頁,東京地判平16.4.20判時1877号154頁等),被害者宅の周辺を徘徊して怒号するなどの嫌がらせ行為を繰り返して不安及び抑うつ状態に陥れた事例が見られる程度である(名古屋地判平6.1.18判タ858号272頁)。

4 民事事件における騒音問題は,大型の公害・環境訴訟だけでなく,近隣住民間の差止めや損害賠償請求の裁判例も多く,受忍限度論の一場面として議論が深められてきたが,刑事事件としては,基本的に隣人間のトラブルとして警察も介入せず,立件されることも少なかったようである。また,騒音の値に関する公的な規制として,騒音規制法,環境基本法(環境基準,規制基準),風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律,これらを受けた都道府県の条例等に規定があり,本件の1審判決でも,測定された騒音値が規制の基準を超えていたことが認定されているが,これらの公的な基準は,基本的には特定業種の事業者や特定種類の騒音等に向けられた規制や国等の施策目標であり,本件のような近隣騒音等を規制するものではない。そして,騒音に関して端的な処罰規定を設けているものとしては,軽犯罪法1条14号程度しか見当たらない。
しかし,昨今は,本件のほかにも,近隣に対し,長年にわたり騒音を出し続けるという異常な行為に出て傷害で検挙されるなどの報道が相次いでいる。本件も,異常な騒音の内容・態様等に加え,懲役1年の実刑という量刑判断が注目されていた。本件を含め,いずれも,被害者が仮処分や損害賠償請求等に訴えても行為者がやめないなど,民事上の手段による解決が困難なケースであり,刑事事件としての立件も視野に入れざるを得ない事案が現れる時代となっているようである。

5 本件は,このように,社会的にも注目を集めている近隣騒音に関する刑事事件につき,先例の乏しい無形的方法による傷害罪の成立を認めたものであり,これをきっかけとして,今後,暴行や無形的方法による傷害に関し,改めてその意義や成立範囲等が議論されることが期待される。

+判例(S27.6.6)
理由
弁護人堂野達也の上告趣意第一点について
しかし、傷害罪は他人の身体の生理的機能を毀損するものである以上、その手段が何であるかを問はないのであり、本件のごとく暴行によらずに病毒を他人に感染させる場合にも成立するのである。従つて、これと見解を異にする論旨は採用できない(所論引用の判例は暴行を手段とした傷害の案件に関するものであつて、本件には適切でない。)
同第二点について
性病を感染させる懸念あることを認識して本件所為に及び他人に病毒を感染させた以上、当然傷害罪は成立するのであるから論旨は理由なき見解というべく、憲法違反の問題も成立する余地がない。
よつて刑訴四〇八条により裁判官全員一致の意見で主文のとおり判決する。

+判例(S32.4.23)
理由
弁護人今長高雄の上告趣意第一点について。
所論は、原判決の傷害の解釈を非難し大審院判例に違反すると主張する。しかし原判決が、刑法にいわゆる傷害とは、他人の身体に対する暴行によりその生活機能に障がいを与えることであつて、あまねく健康状態を不良に変更した場合を含むものと解し、他人の身体に対する暴行により、その胸部に疼痛を生ぜしめたときは、たとい、外見的に皮下溢血、腫脹又は肋骨骨折等の打撲痕は認められないにしても、前示の趣旨において傷害を負わせたものと認めるのが相当であると判示したのは正当であつて誤りはない。所論引用の各判例は、いずれも前示と同趣旨に帰する判断を示しているものであるから、判例違反というは全く当らない。所論は結局原審の正当にした証拠の取捨判断ないし事実認定を非難するに、判例違反の名をもつてするにすぎず、採用のかぎりでない。
同二点について。
所論は、単なる法令違反の主張であつて、刑訴四〇五条の上告理由に当らないのみならず、第一点について説示したとおり原判決の判断に誤りはない。
同第三点(原本に第二点とあるが誤記と認める)について。
所論は、判例違反をいうが、実質は、量刑不当を主張するにすぎない。そして原審の量刑に不当のかどはない。また記録を調べても刑訴四一一条を適用すべきものとは認められない。
よつて同四一四条、三八六条一項三号により裁判官全員一致の意見で主文のとおり決定する。

+判例(S46.2.2)キスマーク事件
理由
本件控訴の趣意は、弁護人小山隼太および被告人本人提出の各控訴趣意書に記載されたとおりであるから、これらを引用し、これに対し当裁判所は次のとおり判断する。
弁護人の控訴趣意第一、二点について
所論は、原判決が被告人において被害者の左乳房部に、いわゆるキスマークと称される、吸引による皮下出血を加えたことをもつて強姦致傷罪にいう傷害と解したことを非難するが、原審証人A、同Bの各供述によれば、本件の二個のいわゆるキスマークは、被害者の左乳房のやや上部にあるものは長さ約二・二センチメートル、幅の一番広いところ約一・二センチメートル、二個の乳房間のやや左よりにあるものは長さ約二・ニセンチメートル、幅の一番広いところ約〇・二センチメートルの楕円形もしくは偏平状の各吸引性皮下出血で、通例のキスマークであれば四日ないし一週間で消退するのに、この場合は一〇日間もかかつたことが認められるのであるから、本件のキスマークは、相当に強度の皮下出血であつたというべきであつて、人体の生活機能に障害を与え、その健康状態を不良に変更したものであることは明らかであり、また被害者本人がこれを自覚せず、一般の日常生活において看過するごとき軽微なものであつたともいえない。従つて原判決が右のキスマークをもつて強姦致傷罪にいう傷害に当たるとしたのは正当であつて、所論は採用することができない。 ((笑))
次に所論は、右キスマークは姦淫行為とは別に独立した行為によつてつけられたものであるから、強姦致傷罪を構成するものではないと主張するが、強姦致傷罪における傷害は、姦淫行為自体または強姦の手段たる暴行脅迫行為によつて生じたものに限らず、強姦行為に随伴する行為によつて発生したものをも含むと解すべきところ、原判決挙示の関係証拠並びに当審における事実取調の結果によれば、被告人は第一回目の姦淫が行なわれてから、暫く時間をおいた後に、被害者に畏怖の状態がつづいている情況のもとで第二回目の姦淫がはじまる直前に、自己の性欲を昂進させるためしいて本件のキスマークをつけたことが認められるから、右の傷害は第二回目の姦淫行為に随伴する行為によつて生じたものというべく、原判決がこれに強姦致傷罪の擬律をしたのは正当である。
従つて論旨は、すべて採用することができない。

+判例(H24.1.30)
弁護人門馬博ほかの上告趣意のうち,判例違反をいう点は,事案を異にする判例を引用するものであって,本件に適切でなく,その余は,憲法違反をいう点を含め,実質は単なる法令違反,量刑不当の主張であって,刑訴法405条の上告理由に当たらない。
  なお,所論に鑑み,職権で判断する。
原判決及びその是認する第1審判決の認定によれば,被告人は,大学病院内において,フルニトラゼパムを含有する睡眠薬の粉末を混入した洋菓子を同病院の休日当直医として勤務していた被害者に提供し,事情を知らない被害者に食させて,被害者に約6時間にわたる意識障害及び筋弛緩作用を伴う急性薬物中毒の症状を生じさせ,6日後に,同病院の研究室において,医学研究中であった被害者が机上に置いていた飲みかけの缶入り飲料に上記同様の睡眠薬の粉末及び麻酔薬を混入し,事情を知らない被害者に飲ませて,被害者に約2時間にわたる意識障害及び筋弛緩作用を伴う急性薬物中毒の症状を生じさせたものである。
所論は,昏酔強盗や女子の心神を喪失させることを手段とする準強姦において刑法239条や刑法178条2項が予定する程度の昏酔を生じさせたにとどまる場合には強盗致傷罪や強姦致傷罪の成立を認めるべきでないから,その程度の昏酔は刑法204条の傷害にも当たらないと解すべきであり,本件の各結果は傷害に当たらない旨主張する。しかしながら,上記事実関係によれば,被告人は,病院で勤務中ないし研究中であった被害者に対し,睡眠薬等を摂取させたことによって,約6時間又は約2時間にわたり意識障害及び筋弛緩作用を伴う急性薬物中毒の症状を生じさせ,もって,被害者の健康状態を不良に変更し,その生活機能の障害を惹起したものであるから,いずれの事件についても傷害罪が成立すると解するのが相当である。所論指摘の昏酔強盗罪等と強盗致傷罪等との関係についての解釈が傷害罪の成否が問題となっている本件の帰すうに影響を及ぼすものではなく,所論のような理由により本件について傷害罪の成立が否定されることはないというべきである。
したがって,本件につき傷害罪の成立を認めた第1審判決を維持した原判断は正当である。
よって,刑訴法414条,386条1項3号により,裁判官全員一致の意見で,主文のとおり決定する。

+(昏酔強盗)
第239条
人を昏酔させてその財物を盗取した者は、強盗として論ずる。

+(準強制わいせつ及び準強姦)
第178条
1項 人の心神喪失若しくは抗拒不能に乗じ、又は心神を喪失させ、若しくは抗拒不能にさせて、わいせつな行為をした者は、第176条の例による。
2項 女子の心神喪失若しくは抗拒不能に乗じ、又は心神を喪失させ、若しくは抗拒不能にさせて、姦淫した者は、前条の例による。

++解説
調べておく!

+判例(H24.7.24)

 弁護人長谷川紘一,同水野泰孝の上告趣意のうち,判例違反をいう点は,事案を異にする判例を引用するものであって,本件に適切でなく,その余は,憲法違反をいう点を含め,実質は単なる法令違反,事実誤認,量刑不当の主張であって,刑訴法405条の上告理由に当たらない。
 なお,所論に鑑み,職権で判断する。
 原判決及びその是認する第1審判決の認定によれば,被告人は,本件各被害者を不法に監禁し,その結果,各被害者について,監禁行為やその手段等として加えられた暴行,脅迫により,一時的な精神的苦痛やストレスを感じたという程度にとどまらず,いわゆる再体験症状,回避・精神麻痺症状及び過覚醒症状といった医学的な診断基準において求められている特徴的な精神症状が継続して発現していることなどから精神疾患の一種である外傷後ストレス障害(以下「PTSD」という。)の発症が認められたというのである。所論は,PTSDのような精神的障害は,刑法上の傷害の概念に含まれず,したがって,原判決が,各被害者についてPTSDの傷害を負わせたとして監禁致傷罪の成立を認めた第1審判決を是認した点は誤っている旨主張する。しかし,上記認定のような精神的機能の障害を惹起した場合も刑法にいう傷害に当たると解するのが相当である。したがって,本件各被害者に対する監禁致傷罪の成立を認めた原判断は正当である。
 よって,刑訴法414条,386条1項3号,181条1項ただし書,刑法21条により,裁判官全員一致の意見で,主文のとおり決定する。 
++解説
調べておく!
3.傷害罪と暴行罪
・結果的加重犯の側面もあるため、傷害罪には、暴行の故意があればよいとされる。
+判例(S25.11.9)
弁護人杉本粂太郎の上告趣意第一点について。
しかし、原判決挙示の証拠を綜合すれば原判決の認定を肯認することができる。そして傷害罪は結果犯であるから、その成立には傷害の原因たる暴行についての意思が存すれば足り、特に傷害の意思の存在を必要としないのである。されば、仮りに、所論のように被告人には被害者に傷害を加える目的をもたなかつたとしても、傷害の原因たる判示の暴行についての意思が否定されえない限り、原判決には所論のような理由不備の違法は存しない。論旨は理由がない。
同第二点について。
被害者が打撲傷を負うた直接の原因が過つて鉄棒に躓いて顛倒したことであり、この顛倒したことは被告人が大声で「何をボヤボヤしているのだ」等と悪口を浴せ矢庭に拳大の瓦の破片を同人の方に投げつけ、尚も「殺すぞ」等と怒鳴りながら側にあつた鍬をふりあげて追かける気勢を示したので同人は之に驚いて難を避けようとして夢中で逃げ出し走り続ける中におこつたことであることは判文に示すとおりであるから、所論のように被告人の追ひ掛けた行為と被害者の負傷との間には何等因果関係がないと解すべきではなく、被告人の判示暴行によつて被害者の傷害を生じたものと解するのが相当である。されば、原判決には所論のような法律を誤解して事実を認定した違法は存しない。論旨は理由がない。
よつて旧刑訴四四六条に従ひ裁判官全員一致の意見で主文のとおり判決する。

・暴行罪と傷害罪は、犯人が暴行の故意又は障害の故意のいずれであっても、客観的に障害の結果を発生させたかで区別。

二.暴行罪と傷害致死罪
1.暴行罪の成立要件
・暴行とは不法な有形力の行使をいうが、暴行罪では、直接に人の身体に向けられた有形力の行使でなければならない(狭義の暴行)!!

・その性質上、当然に障害の結果を引き起こすものである必要はなく、人の身体に対する不法な攻撃方法の一切が含まれる!
+判例(S39.1.28)
理由
弁護人稲本錠之助の上告趣意第一点及び第二点は、事実誤認、単なる法令違反の主張であつて刑訴四〇五条の上告理由に当らない(なお、原判決が、判示のような事情のもとに、狭い四畳半の室内で被害者を脅かすために日本刀の抜き身を数回振り廻すが如きは、とりもなおさず同人に対する暴行というべきである旨判断したことは正当である)。同第三点は、事実誤認、量刑不当の主張であつて同四〇五条の上告理由に当らない。
また記録を調べても同四一一条を適用すべきものとは認められない。
よつて同四一四条、三八六条一項三号により裁判官全員一致の意見で主文のとおり決定する。

+判例(S25.6.10)
調べておく
←人体に向けられた投石、自動車の幅寄せとか

+暴行の概念
・最広義の暴行=物理的有形力の行使全般をいう(対物暴行を含む。騒乱罪など)

・広義の暴行=およそ人に向けられたもの(間接暴行を含む。公務執行妨害罪など)

・狭義の暴行=直接に人の身体に向けられたもの(暴行罪)

・最狭義の暴行=相手方の反抗を抑圧する程度のもの(強盗罪・強姦罪)

2.傷害致死罪の成立要件
成立要件は、犯人の傷害行為から被害者の死亡結果が生じた事であるが、この加重結果には、暴行・傷害と相当因果関係がなければならない!(判例は条件関係)

+判例(S49.7.5)
要旨
被告人が被害者を地上に突倒し同人の大腿部、腰部等を地下足袋で数回踏付けるなどの暴行を加え、同人に対し左血胸(胸腔内血液貯留)、左大腿打撲症の傷害を負わせたところ、同人の胸腔内貯留液を消滅させるため医師が投与した薬剤の作用により、かねて同人の体内にあった未知の乾酪型の結核性病巣が滲出型に変化し、これが炎症を惹起して左胸膜炎を起こし、これに起因する心機能不全のため同人が死亡した場合において、被告人の暴行と被害者の死亡との間には因果関係がある


刑法択一 刑法各論 生命身体に関する罪 殺人の罪


・甲は乙を自宅に招いて毒入りの菓子を食べさせて毒殺しようと考え、菓子に致死量の毒薬を混入し、乙に自宅に招待する旨電話したが、乙が多忙を理由にこれを断ったため、乙を殺害することができなかった。この場合、甲には殺人未遂罪は成立しない!!←実行の着手なし。実行の着手アリといえるには、それが飲食できる状態に置かれることが必要
+判例(大正7.11.16)
1.毒薬混入の砂糖を小包郵便に付したときは、名宛人がこれを受領した時において、右毒物を飲食することができる状態においたものであり、毒殺行為の着手があったということができる。

・甲は統合失調症にり患した乙に対する治療の責任を免れるため、乙が通常の意思能力もなく自殺のなんたるかを理解せず、しかも甲の命ずることはなんでも服従するのを利用して、首つりの方法を教えて実行させ死亡するに至らせた。判例によれば、自殺関与罪ではなく、間接正犯による殺人罪が成立する!!!!
+判例(S27.2.21)
これの第1審
 被告人はもと和歌山県方面で警察官や逓信官吏等を勤め、又昭和二十一年一月頃渡満して興農合作社に勤めたりしていたが、既に二十余年以前から法華宗に帰依しその修行をしていたので、昭和二十三年十月頃以降は殺虫剤の販売と共に他人の為に加持祈祷等して生活をしていたものであるところ、昭和二十四年八月中旬頃偶々畠中近蔵から神戸市垂水区伊川谷町永井谷七百三十六番地の一、村上しげ子の長女昭子(当二十一年)が精神病者であることを聞いたので、同月二十六日頃自ら右村上方に行き、しげ子の話や昭子の様子等から同女を相当強度の精神分裂症患者であると認めたが、しげ子に対し「約五十日の祈祷でこれを全治させる。」と言つて同女との間に、全治した場合は謝礼金一万五千円、全治しない場合は無料、但し被告人の食事はいずれにしても同女が負担するとの約定で右昭子の治療を引受け、爾来同女方に泊り込み昭子の為に祈祷、水行、断食等を行い、又投薬、灸等を施し、同年九月十九日頃一時これを中止して肩書被告人自宅に帰つたが、予て加持祈祷等の方法で病気を治療してやつたことのある和歌山県西牟婁郡佐本村藤本賀々代(当三十年)に昭子の治療の応援方を依頼した上、同年十月八日頃再び村上方に来り、次で右賀々代も来たので同月十二日頃からは昭子及び右賀々代と共に村上方の北方、徒歩で約八分の距離にある神戸市垂水区伊川谷町永井谷字深谷山所在妙見堂内に篭り、前同様の方法で昭子の治療を続けていたが、予定の五十日は夙に過ぎて同年末が近ずいても昭子の病状は殆んど変らず、依然として独語症状を続けたり又大小便をしくじつたりしていた為、被告人としても最早やこれを全快させる自信を失つていた。併し被告人はその間数回に亘り予てより準備携帯していた蛍石をあたかも昭子の身体から取出した如く詐つてこれをしげ子等に示し「これが気狂いの癌である、このような石を全部取り除くと病気は全快する」等と言つて同女等を信用させると共に、しげ子に対し再三金を貸せと言つて未だ昭子が全快しておらないのに同年十二月始頃までに同女から謝礼金一万五千円を数回に受取つたのであるが、正月を目前にして金銭の必要もあつたので同月二十七日頃、しげ子に対し「昭子は石が全部とれたのでやがて全快するからもう一万円出して貰い度い、出して呉れなければ昭子をこの侭放つて帰る」と言つて、しげ子をして右一万円の醵出を承諾せしめ、その頃賀々代を通じて該金員を受取つたところ昭和二十五年一月四日頃、従来昭子の身辺の世話を主として見て呉れ、且つ当時巳に被告人と情交関係のあつた前記賀々代が和歌山県の同人宅に帰つてからは、被告人は到底全快の見込のない気狂い娘の昭子と唯二人山中の一軒家である前記妙見堂に起居することになり、加えて昭子はその頃しばしば独語症状を呈し又毎夜のように大小便をしくじつてそのあと始末等に追われる有様であつた為、これ以上昭子の世話をすることがつくづく嫌になり、或いはいつそ同女を放置して逃げ帰ろうかとも考えたが、それでは既に受取つている前記二万五千円を返還しなければならず、苦慮した末、遂に浅慮にも同女を殺害して治療の責任を免れようと考え、その殺害の方法として、昭子が通常の意志能力もなく自殺の何たるかを理解せず而も被告人の命ずることは何でも服従するのを利用してこれに縊首の方法を教えて縊死せしめ、而も同女が自発的に自殺したように装つて自己の罪跡を陰蔽しようと決意し、同月八日午前一時半頃から同六時頃までの間に、右妙見堂内において同女に対し「先生が神様にお願いして呉れるので大分楽になつたが、先生が帰つてしまうと誰も自分の為に神様にお願いして呉れる人がないから自分は死ぬ」という趣旨の遺書の文言を口授し、同女をしてこれを有り合せた便箋四枚に筆記せしめて同女自筆の遺書(証第二号)を作成し、次で同女に指示して附近にあつた同女の淡緑色の兵児帯(証第一号)で同女の頸部を二重に巻きこれを後頸部において二回結び更にその両端を互に結び合せて輪状にさせた上、被告人において同堂内にあつた三段よりなる木製供物台を、同堂内居室大井の北方寄りを東西に走る梁の北側面、その東端から約五十五糎の箇所に打ち込まれている提灯吊用の五寸釘の下方床上に立て、右供物台の上段に同女を登らせて前記のように結んだ帯の輪の一端を右五寸釘に懸けさせ,これと同時に右供物台が中心を失つて倒れた為同女をして縊首による窒息の為即時その場において死亡するに至らしめ、もつて殺害の目的を遂げたものである。
(証拠説明省略)
被告人及び弁護人は(一)判示一月八日の朝は被告人は午前六時頃妙見堂を出たが、その時には昭子も起きて写経をしていたから昭子の縊死はそれ以後のことである、しかも医師上田政雄の鑑定書によれば昭子の死亡時刻は同日午前九時頃となり、又村上義美が昭子の死体を発見したのが同午前八時過頃であつたとしても、当時妙見堂内の火鉢にかかつていた茶瓶の湯が沸いていたのであるから、薪火の保持時間から考えて被告人が妙見堂を出た後に他の何人かが火鉢の薪を補給したことが明かであつて、この点からも昭子の縊死は被告人の出た後のことである。又(二)昭子は精神分裂症ではあつたがその死亡の前頃には病気も大分良くなり、元来字はよく知つている上に手紙の書方等も被告人が教えてやつたことがあるので判示の遺書位は十分自分で書き得ると思うと弁疏し、いずれにしても昭子の縊死は何等被告人の関知しない所であると主張するが、(一)被告人が判示一月八日の朝午前六時或いは六時半頃迄に妙見堂を出たことは証拠上明かな所であるけれども、被告人が右妙見堂を出た当時昭子が写経していたとのことは、当裁判所の措信しない被告人の供述又は供述調書を除いては之を認むべき何等の証拠がない、又上田政雄の鑑定書には死後経過時間三十時間前後とあつて之から推算すると昭子の死亡時刻は一月八日午前九時前後ということになるが、元来死後経過時間は死体を解剖する場合においてもそれ程正確に測定し得るものではなく、或る程度の誤差は免れないものであるから、本件の場合も右鑑定書の記載をもつて直ちに被告人が妙見堂を出た後になお昭子が生存していたことの証左とすることはできない。又昭子の死体を最初に発見した午前八時過頃火鉢にかかつていた急須の湯が沸いていたことは証人村上義美の当公廷の供述等によつて認め得るけれども、それが薪火であつたとしても、熱灰中に薪を適当に埋めておくときは徐々に熱焼して優に数時間は火力を保持するものであつて、且つ被告人が従来右妙見堂内では薪火のみを煖房用燃料として使用していたことに徴すれば、右一月八日の朝も被告人が早朝火鉢の熱灰中に薪を埋めておいたのが除々に燃焼して午前八時過頃にも急須の湯を沸していたものとも考えられるから、この一事によつて被告人が妙見堂を立ち去つた後に被告人以外の者が火鉢に薪を補給したものと断ずることもできない、次に(二)判示遺書の点については、前掲各証拠によつて認め得べき昭子の症状及び智能程度、即ち死亡した一月八日の直前頃においても絶えず独語症状を呈し又屡々大小便をしくじつて夜具や衣類を汚し、自分では月経の始末もせず気分の良い時でも通常の会話はできず、或る程度文字は知つているが自分から文章や手紙を書くという事はなく、他人から命ぜられて掃除、水汲み、寝床の始末等の機械的な仕事をすることはあるが炊事、裁縫等はできず、又金銭に対する観念もなく、留守番もできないのは勿論常に看護人を要し一人で置いておくことはできない状態で、その意思能力は通常人に及ばないこと遥かに遠く、自殺の何たるかも理解することはできないことと、一面判示遺書(証第二号)は三十数行に亘る相当長文のもので且つその文章も一応整然として筋も通つていることから見れば、昭子が自己の意思に基いてかかる遺書を作成する能力があるとは到底認められない、尤もこの点の反証として弁護人は、昭子より藤本小梅に宛てた明石郵便局昭和二十四年十二月十一日附消印のある葉書一通(証第十六号)を提出しているけれども、第十回公判における証人村上しげ子の証言や前示の如き昭子の智能程度並びに右証第十六号の葉書の内容等を考慮すれば、該葉書は被告人がその文案を教示して昭子に書かせたものと認めることができるから、右葉書の存在は前記の認定を覆すに足るものではない、結局判示昭子の遺書は昭子が自己の意思によつて書いたものではなく、他人の指示に基きその教示を受けて書いたものと認めざるを得ない、而して右に挙示した各事実や昭子が縊死した一月八日の朝前後には判示妙見堂には昭子の外被告人のみしか居らなかつたこと、右遺書の内容が殆んど祈祷師としての被告人に関係のある事柄のみであつて昭子の家族すら知らないような事柄も記載されていること、昭子は従来被告人の命ずることは何でもよく服従していたこと、本件死体の発見当時妙見堂には被告人の衣類その他の身廻品は殆んど一物も残つて居らず凡てそれ迄に田辺市の被告人方へ送り返され又は当日被告人の手で持ち帰られていること、被告人は当日は初めは須磨の竹中孝次の所へ寒行の打合せに行く積りで出たので午頃には妙見堂に帰る予定であつたと云うに拘らず、布製手提鞄の外にランドセル(証第三号)をも携帯し而も約一升五合の米を之に入れて持ち帰つていること並びに縊首に使用された帯(証第一号)の結び方、縊首の際踏台に使用されたと思われる供物台の安定性等から見て本件の如き縊首を昭子が独力ですることは不可能と思われること等前掲各証拠によつて認められる諸般の状況を彼此考量すれば、結局判示認定の如く被告人は自殺の何たるかを理解しない昭子に対し、判示の如き遺書の内容を教示して筆記せしめた上縊首の方法を指導して縊死せしめ、而もその犯跡を陰蔽しようとして諸種の偽装手段を講じたものと認めるの外はない、被告人及び弁護人等の弁解は之を採用し得ない。 
法律に照すと被告人の判示所為は刑法第百九十九条に該当するから所定刑中有期懲役刑を選択し、その刑期範囲内において被告人を懲役十年に処し、なお同法第二十一条により未決勾留日数中百五十日を右本刑に算入すべく、訴訟費用については刑事訴訟法第百八十一条第一項に則り全部被告人をして負担させることとする。
よつて主文の通り判決する。

・甲は同棲中の愛人乙女が回復の見込みがない病気にかかったのでわずらわしくなり、殺そうと思っていた。ところが、乙女に死にたいから毒薬をくれと頼まれたので、これ幸いと毒薬を乙女に渡し、乙女はこれを飲んで死亡した。甲には自殺幇助罪が成立する。
←甲は自殺の意味を理解し自由意思に基づき死を望んでいる乙女に頼まれ毒薬を渡しており、客観的には自殺幇助罪(202条前段)の行為を行っているに過ぎない。したがって、甲が、主観において殺人の意思を有していたとしても、抽象的事実の錯誤として、構成要件が実質的に重なり合う限度で自殺幇助罪が成立する。
+(自殺関与及び同意殺人)
第202条
人を教唆し若しくは幇助して自殺させ、又は人をその嘱託を受け若しくはその承諾を得て殺した者は、6月以上7年以下の懲役又は禁錮に処する。

+++抽象的事実の錯誤の処理
◇抽象的事実の錯誤の処理~罪種が類似する場合
Aが、Vが「殺してくれ」と真意で言っていると誤信して、Vを殺してしまった場合。
被害者に頼まれて殺人を犯す罪を嘱託殺人罪(刑法202条)といい、法定刑は、「六月以上七年以下の懲役又は禁固」となっています(殺人罪の法定刑は「死刑又は無期懲役若しくは五年以上の有期懲役」)。 
この事例では、嘱託があったかなかったについて錯誤があるのみで、「人を殺したこと」には錯誤がなく、このような場合まで、故意が阻却され、過失致死罪にしか問えないとするのは、不合理な話です。
これについて、故意責任の本質に立ち返って考えると、規範に直面したといえる部分については故意責任を負うべきなのですが、そうすると、少なくとも主観的に認識した犯罪事実の構成要件と、客観的に発生した犯罪事実の構成要件で、重なり合っている部分については、規範に直面したといえます。
したがって、このような抽象的事実の錯誤の事案で、罪種が類似する場合には、構成要件が重なり合っている部分について、故意が認められることになります。
この重なり合いの判断は、①保護法益が共通か否か、②構成要件的行為が共通か否かを基礎として、社会通念上重なり合っているか否かを判断します。
上記の嘱託殺人の事案では、殺人罪と嘱託殺人罪は、①保護法益は人の生命で、②構成要件的行為は、人を殺すことという部分が共通しているので、両罪の軽い罪の限度で重なり合いが認められ、その限度で故意が認められることになり、嘱託殺人罪が成立します。

・甲は、重病で苦しんでいる妻乙に同情して、同人の首を絞めて窒息死させた。乙の殺害について乙があらかじめ甲に対して承諾をしていた場合、甲には同意殺人罪が成立する。

・被害者が真意なく自己の殺害を嘱託したところ、加害者が真実の嘱託と誤信し、殺害者を殺そうとして遂げなかった場合、被告人の行為は客観的には殺人未遂罪(203条、199条)に該当するが、38条2項により、同意殺人罪が成立する。

+第38条
1項 罪を犯す意思がない行為は、罰しない。ただし、法律に特別の規定がある場合は、この限りでない。
2項 重い罪に当たるべき行為をしたのに、行為の時にその重い罪に当たることとなる事実を知らなかった者は、その重い罪によって処断することはできない
3項 法律を知らなかったとしても、そのことによって、罪を犯す意思がなかったとすることはできない。ただし、情状により、その刑を減軽することができる。

・甲は交際中の乙の心中する気持ちがないにもかかわらず、後から自らも追死するもののように装い、乙に青化ソーダを与え服用させて死亡させた。判例によれば甲に殺人罪が成立する!

+判例(S33.11.21)
同第二点は判例違反を主張するのであるが、所論掲記の大審院判決(昭和八年(れ)第一二七号同年四月一九日言渡、集一二巻四七一頁)の要旨は「詐言ヲ以テ被害者ヲ錯誤ニ陥ラシメ之ヲテ自殺スルノ意思ナク自ラ頸部ヲ縊リ一時仮死状態ト為ルモ再ヒ蘇生セシメラルヘシト誤信セシメ自ラ其ノ頸部ヲ縊リテ死亡スルニ至ラシメタルトキハ殺人罪ヲ構成ス」というのであり、又次の大審院判決(昭和九年(れ)第七五七号同年八月二七日言渡、集一三巻一〇八六頁)の要旨は「自殺ノ何タルカヲ理解スルノ能力ナキ幼児ハ自己ヲ殺害スルコトヲ嘱託シ又ハ殺害ヲ承諾スルノ能力ナキモノトス」というのであつて、原判決はこれらを本件被害者の「心中の決意実行は正常な自由意思によるものではなく、全く被告人の欺罔に基くものであり、被告人は同女の命を断つ手段としてかかる方法をとつたに過ぎない」から「被告人には心中する意思がないのにこれある如く装い、その結果同女をして被告人が追死してくれるものと誤信したことに因り心中を決意せしめ、被告人がこれに青化ソーダを与えて嚥下せしめ同女を死亡せしめた」被告人の所為は殺人罪に当り単に自殺関与罪に過ぎないものてはない、という判示に参照として引用したものである。してみれば、原判決の意図するところは、被害者の意思に重大な瑕疵がある場合においては、それが被害者の能力に関するものであると、はたまた犯人の欺罔による錯誤に基くものであるとを問わず、要するに被害者の自由な真意に基かない場合は刑法二〇二条にいう被殺者の嘱託承諾としては認め得られないとの見解の下に、本件被告人の所為を殺人罪に問擬するに当り如上判例を参照として掲記したものというべく、そしてこの点に関する原判断は正当であつて、何ら判例に違反する判断あるものということはできない。所論はまた前記大審院判例の事案は真実自殺する意思なきものの自殺行為を利用して殺害した場合であるに対し、本件被害者は死を認識決意していたものであり錯誤は単に動機縁由に関するものにすぎないが故に判例違反の違法があるというが、その主張は事実誤認を前提とするか独自の見解の下に原判示を曲解した論難というべきであつて採用できない。(なお所論高裁判例は正に本件と趣旨を同じくするものであり、所論は事実誤認を前提とするもので採用できない。)

・強度の暴行を受けて肉体的にも精神的にも疲弊した状態にある被害者を脅迫して、高さ50メートルの崖のうえまで追い込み、さらに暴行を加える態度を示して、逃げ場を失った被害者自身に崖から飛び降りさせて死亡させた事案では、被害者に当該行為によって、自らが死亡する認識はあるものの、当該行為を行う意思決定過程に重大な瑕疵があることから、自殺関与罪ではなく殺人罪が成立すると解することができる!!

+判例(S59.3.27)
弁護人小田成光の上告趣意は、憲法三一条違反をいう点を含め、実質は事実誤認、単なる法令違反、量刑不当の主張であり、被告人本人の上告趣意は、事実誤認の主張であつて、いずれも刑訴法四〇五条の上告理由にあたらない。
なお、原判決及びその是認する第一審判決の認定によれば、被告人は、外二名と共に、厳寒の深夜、かなり酩酊しかつ被告人らから暴行を受けて衰弱していた被害者を、都内荒川の河口近くの堤防上に連行し、同所において同人を川に転落させて死亡させるのもやむを得ない旨意思を相通じ、上衣、ズボンを無理矢理脱がせたうえ、同人を取り囲み、「この野郎、いつまでふざけてるんだ、飛び込める根性あるか。」などと脅しながら護岸際まで追いつめ、さらにたる木で殴りかかる態度を示すなどして、遂には逃げ場を失つた同人を護岸上から約三メートル下の川に転落するのやむなきに至らしめ、そのうえ長さ約三、四メートルのたる木で水面を突いたり叩いたりし、もつて同人を溺死させたというのであるから、右被告人の所為は殺人罪にあたるとした原判断は相当である。
よつて、刑訴法四一四条、三八六条一項三号、一八一条一項本文、刑法二一条により、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり決定する。

+判例(H16.1.20)
弁護人立田廣成の上告趣意は、事実誤認、単なる法令違反の主張であり、被告人本人の上告趣意は、事実誤認の主張であって、いずれも刑訴法405条の上告理由に当たらない。
所論にかんがみ、本件における殺人未遂罪の成否について職権で判断する。
1 第1審判決が被告人の所為につき殺人未遂罪に当たるとし、原判決がそれを是認したところの事実関係の概要は、次のとおりである。
被告人は、自己と偽装結婚させた女性(以下「被害者」という。)を被保険者とする5億9800万円の保険金を入手するために、かねてから被告人のことを極度に畏怖していた被害者に対し、事故死に見せ掛けた方法で自殺することを暴行、脅迫を交えて執ように迫っていたが、平成12年1月11日午前2時過ぎころ、愛知県知多半島の漁港において、被害者に対し、乗車した車ごと海に飛び込んで自殺することを命じ、被害者をして、自殺を決意するには至らせなかったものの、被告人の命令に従って車ごと海に飛び込んだ後に車から脱出して被告人の前から姿を隠す以外に助かる方法はないとの心境に至らせて、車ごと海に飛び込む決意をさせ、そのころ、普通乗用自動車を運転して岸壁上から下方の海中に車ごと転落させたが、被害者は水没する車から脱出して死亡を免れた。
これに対し、弁護人の所論は、仮に被害者が車ごと海に飛び込んだとしても、それは被害者が自らの自由な意思に基づいてしたものであるから、そうするように指示した被告人の行為は、殺人罪の実行行為とはいえず、また、被告人は、被害者に対し、その自由な意思に基づいて自殺させようとの意思を有していたにすぎないから、殺人罪の故意があるとはいえないというものである。

2 そこで検討すると、原判決及びその是認する第1審判決の認定並びに記録によれば、本件犯行に至る経緯及び犯行の状況は、以下のとおりであると認められる。
・被告人は、いわゆるホストクラブにおいてホストをしていたが、客であった被害者が数箇月間にたまった遊興費を支払うことができなかったことから、被害者に対し、激しい暴行、脅迫を加えて強い恐怖心を抱かせ、平成10年1月ころから、風俗店などで働くことを強いて、分割でこれを支払わせるようになった。
・しかし、被告人は、被害者の少ない収入から上記のようにしてわずかずつ支払を受けることに飽き足りなくなり、被害者に多額の生命保険を掛けた上で自殺させ、保険金を取得しようと企て、平成10年6月から平成11年8月までの間に、被害者を合計13件の生命保険に加入させた上、同月2日、婚姻意思がないのに被害者と偽装結婚して、保険金の受取人を自己に変更させるなどした。 
・被告人は、自らの借金の返済のため平成12年1月末ころまでにまとまった資金を用意する必要に迫られたことから、生命保険契約の締結から1年を経過した後に被害者を自殺させることにより保険金を取得するという当初の計画を変更し、被害者に対し直ちに自殺を強いる一方、被害者の死亡が自動車の海中転落事故に起因するものであるように見せ掛けて、災害死亡時の金額が合計で5億9800万円となる保険金を早期に取得しようと企てるに至った。そこで被告人は、自己の言いなりになっていた被害者に対し、平成12年1月9日午前零時過ぎころ、まとまった金が用意できなければ、死んで保険金で払えと迫った上、被害者に車を運転させ、それを他の車を運転して追尾する形で、同日午前3時ころ、本件犯行現場の漁港まで行かせたが、付近に人気があったため、当日は被害者を海に飛び込ませることを断念した。
・被告人は、翌10日午前1時過ぎころ、被害者に対し、事故を装って車ごと海に飛び込むという自殺の方法を具体的に指示し、同日午前1時30分ころ、本件漁港において、被害者を運転席に乗車させて、車ごと海に飛び込むように命じた。被害者は、死の恐怖のため飛び込むことができず、金を用意してもらえるかもしれないので父親の所に連れて行ってほしいなどと話した。被告人は、父親には頼めないとしていた被害者が従前と異なる話を持ち出したことに激怒して、被害者の顔面を平手で殴り、その腕を手拳で殴打するなどの暴行を加え、海に飛び込むように更に迫った。被害者が「明日やるから。」などと言って哀願したところ、被告人は、被害者を助手席に座らせ、自ら運転席に乗車し、車を発進させて岸壁上から転落する直前で停止して見せ、自分の運転で海に飛び込む気勢を示した上、やはり1人で飛び込むようにと命じた。しかし、被害者がなお哀願を繰り返し、夜も明けてきたことから、被告人は、「絶対やれよ。やらなかったらおれがやってやる。」などと申し向けた上、翌日に実行を持ち越した。
・被害者は、被告人の命令に応じて自殺する気持ちはなく、被告人を殺害して死を免れることも考えたが、それでは家族らに迷惑が掛かる、逃げてもまた探し出されるなどと思い悩み、車ごと海に飛び込んで生き残る可能性にかけ、死亡を装って被告人から身を隠そうと考えるに至った。
・翌11日午前2時過ぎころ、被告人は、被害者を車に乗せて本件漁港に至り、運転席に乗車させた被害者に対し、「昨日言ったことを覚えているな。」などと申し向け、さらに、ドアをロックすること、窓を閉めること、シートベルトをすることなどを指示した上、車ごと海に飛び込むように命じた。被告人は、被害者の車から距離を置いて監視していたが、その場にいると、前日のように被害者から哀願される可能性があると考え、もはや実行する外ないことを被害者に示すため、現場を離れた。
・それから間もなく、被害者は、脱出に備えて、シートベルトをせず、運転席ドアの窓ガラスを開けるなどした上、普通乗用自動車を運転して、本件漁港の岸壁上から海中に同車もろとも転落したが、車が水没する前に、運転席ドアの窓から脱出し、港内に停泊中の漁船に泳いでたどり着き、はい上がるなどして死亡を免れた。
・本件現場の海は、当時、岸壁の上端から海面まで約1.9m、水深約3.7m、水温約11度という状況にあり、このような海に車ごと飛び込めば、脱出する意図が運転者にあった場合でも、飛び込んだ際の衝撃で負傷するなどして、車からの脱出に失敗する危険性は高く、また脱出に成功したとしても、冷水に触れて心臓まひを起こし、あるいは心臓や脳の機能障害、運動機能の低下を来して死亡する危険性は極めて高いものであった

3 上記認定事実によれば、被告人は、事故を装い被害者を自殺させて多額の保険金を取得する目的で、自殺させる方法を考案し、それに使用する車等を準備した上、被告人を極度に畏怖して服従していた被害者に対し、犯行前日に、漁港の現場で、暴行、脅迫を交えつつ、直ちに車ごと海中に転落して自殺することを執ように要求し、猶予を哀願する被害者に翌日に実行することを確約させるなどし、本件犯行当時、被害者をして、被告人の命令に応じて車ごと海中に飛び込む以外の行為を選択することができない精神状態に陥らせていたものということができる。
被告人は、以上のような精神状態に陥っていた被害者に対して、本件当日、漁港の岸壁上から車ごと海中に転落するように命じ、被害者をして、自らを死亡させる現実的危険性の高い行為に及ばせたものであるから、被害者に命令して車ごと海に転落させた被告人の行為は、殺人罪の実行行為に当たるというべきである。
また、前記2のとおり、被害者には被告人の命令に応じて自殺する気持ちはなかったものであって、この点は被告人の予期したところに反していたが、被害者に対し死亡の現実的危険性の高い行為を強いたこと自体については、被告人において何ら認識に欠けるところはなかったのであるから、上記の点は、被告人につき殺人罪の故意を否定すべき事情にはならないというべきである。
したがって、本件が殺人未遂罪に当たるとした原判決の結論は、正当である。
よって、刑訴法414条、386条1項3号、181条1項ただし書、刑法21条により、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり決定する。

++解説
《解  説》
1 本件は,自動車事故を装った方法により女性の被害者を自殺させて保険金を取得しようと企てた被告人が,暴行,脅迫を交え,被害者に,漁港の岸壁上から乗車した車ごと海中に飛び込むように執拗に命令し,自殺の決意を生じさせるには至らなかったものの,被告人の命令に応じて車ごと海中に飛び込む以外の行為を選択することができない精神状態に陥らせ,そのとおり実行させたが,被害者は水没前に車内から脱出して死亡を免れたという事案である。
その経緯や犯行状況は,決定文に詳しく説示されている。

2 被告人は,被害者が車ごと海に飛び込んだのは自らの自由な意思に基づくものであるから,そのように指示した被告人の行為は,殺人罪の実行行為に当たらないと主張した。
本件のように,行為者が相手方に働きかけてその者自身の行為により死亡させた場合で,殺人罪を認めた最高裁の判例は次のとおり3件ある。
通常の意思能力もなく,自殺の何たるかを理解せず,しかも被告人の命ずることは何でも服従するのを利用して,被害者に首を吊る方法を教えて首を吊らせて死亡させた事案(最一小決昭27.2.21刑集6巻2号275号)。②心中する気持ちがないにもかかわらず,追死してくれるものと被害者が信じているのを奇貨として,追死するように装い,その旨被害者を誤信させ,致死量の毒物を飲ませて死亡させた事案(最二小判昭33.11.21刑集12巻15号3519頁)。③真冬の深夜,かなり酩酊しかつ被告人らから暴行を受けて衰弱していた被害者を河川堤防上に連行して3名で取り囲み,「飛び込める根性あるか。」などと脅しながら護岸際まで追い詰め,さらに垂木で殴りかかる態度を示すなどして,逃げ場を失った被害者を護岸上から約3メートル下の川に転落させ,そのうえ長さ約3,4メートルの垂木で水面を突いたり叩いたりして溺死させた事案(最一小決昭59.3.27刑集38巻5号2064頁,判タ526号142頁)。
本件は,被害者の意思を制圧して自らを死亡させる危険性のある行為に及ばせたものであるから③に近いところがある。しかし,同事案では,被害者を物理的に川に突き落としたわけではないものの,被害者を護岸際まで追い詰めて垂木で殴りかかる態度を示すなどしていて,転落させるための暴行により直接的に突き落としたのと近いところがあり,しかも転落後も更に溺死させるための暴行を加えている。これに対し,本件では,被害者に対して,車ごと海中に飛び込むように命令したものであり,犯行の際,海中に飛び込ませるため被告人が暴行を加えた事実はない。また,被害者は,被告人の命令に応じて車ごと海に飛び込む以外の行為を選択することはできない精神状態にあったものの,飛び込んだ上で死亡したように装って被告人から身を隠して生き延びようと考えていたことや,実際に死亡を免れた点にも本件の特徴がある。

3 学説は,暴行,脅迫等により被害者を自殺させたときに,自殺教唆罪に止まる場合の外,意思決定の自由を阻却する程度の威迫を加えて自殺させた場合,あるいは,自殺に関与する行為が殺人罪の実行行為として評価できる場合に,殺人罪の成立を認める(西田典之・刑法各論[第2版]16頁,大谷実・[新版]刑法各論の重要問題25頁,前田雅英・刑法各論講義[第2版]30頁。なお,意思決定の自由が完全に失われるに至らない場合でも殺人罪の成立を認める見解として金築誠志・大コンメンタール刑法(8)116頁参照)。
前記②の偽装心中の事例を契機として,学説には種々議論があって,殺人罪と自殺関与罪を区別する基準について,自殺者の意思を問題とする見解,殺人罪の実行行為性を問題とする見解,両者が問題となるとする見解があるが,自殺者の意思を基準とする見解も,本件のように,被害者を死亡させる行為を被告人が直接行っていない殺人罪の訴因について審判するときに,殺人罪の実行行為性が問題となることを否定するものではないであろう。
殺人罪の実行行為性の内容としては,被告人が強いて行わせた被害者自身の行為が死亡の現実的危険性を有していたかという点と,被告人が被害者に強いてその行為を行わせたことが,被害者自身の行為を利用したものとして,被告人自らがその行為を直接行ったのと同様に評価できるかという点がある。前者が否定されれば,後者が肯定されても,海に飛び込むという義務のないことを行わせた強要罪(刑法223条)が成立するにすぎない。前者が肯定されても,後者が認められなければ,殺人罪の実行行為とは認められず,自殺教唆未遂罪が問題となるに止まる。後者の点は,通常,被害者自身の行為を利用した間接正犯の成否として議論されるところであろう。

4 本件では,漁港の岸壁上から車ごと海中に飛び込む行為は,車から脱出する意図があった場合でも,死亡の現実的危険性が高いものであったと認定されている。そうすると,そのような行為を命じて行わせたことは,命令による強要の程度が一定の強さに達していれば,被害者自身の行為を利用した殺人罪の実行行為に当たると考えられる。
被害者は,被告人の命令に応じて車ごと海中に飛び込む以外の行為を選択することができない精神状態にあったというのであるから,被害者の行為は,被告人の命令により余儀なくされたものということができ,所論がいうような自らの自由な意思に基づくものとは到底いえないであろう。その反面,被害者は,被告人の命令によって自殺を決意したわけではなく,生きる意思を放棄させられるほどに強く意思を制圧されていたわけではない(殺人罪の実行行為性の問題を一応離れて,自殺教唆罪の成立する可能性を考えると,被告人の命令にもかかわらず被害者は自殺の意思を生じていないのであるから,車ごと海中に飛び込む行為は自殺行為とはいえず,教唆行為だけで自殺教唆罪の実行の着手を認める立場をとらない限り,自殺教唆未遂罪にもならない。)。被害者は,被告人の執拗な命令等によって,車ごと海中に飛び込む以外の行為を選択することができない精神状態に陥り,そこまでは意思決定の自由が奪われていたが,自殺させようという被告人の意思に反して,車内から脱出して生き延びようと考えていたというのであるから,その限度では,行為に及ぶにつき言わば自発的意思が働いていたものともいえる。このような状態を意思決定の自由が阻却されていたものとまでいえるかどうかは問題であろう。しかし,被害者にとっては,被告人に逆らうこともできず,逃亡してもまた探し出されるなどと考え,車ごと海に飛び込んで生き残る可能性にかけ,死亡を装って被告人から身を隠そうと考えるに至ったというのであるから,他に選択肢がない状況にあったということができよう。
本決定は,認定された事実関係の下で,被害者をして,被告人の命令に応じて車ごと漁港の岸壁上から海中に飛び込む以外の行為を選択することができない精神状態に陥らせていたものと認め,そのような精神状態にある被害者に対し,車ごと海中に転落するように命じて,それを実施させた被告人の行為が殺人罪の実行行為に当たるとしたものである。

5 被告人は,被害者に自由な意思で自殺させようとの意思を有していたにすぎないなどとして,殺人の故意も争った。しかし,死亡の現実的危険性の高い行為を強いたこと自体の認識に欠けるところがなかった以上,殺人罪の故意は否定されず,被告人の予期したところに反して被害者に自殺する意思がなかったことは,故意を否定すべき事情にならないとされた。
被告人の認識と被害者の内心との間には食い違いがあるが,これは重要な点に関するものではなく,被害者に行為を強いた点を含め,殺人の実行行為に当たる客観的な事実の認識に欠けるところがないから,故意に影響しないとされたものと思われる。なお,被告人は,自己の犯罪が自殺教唆(未遂)罪にすぎないと考えていたようでもあるが,それは当てはめの錯誤にすぎないから,その意味でも故意を阻却しないのは当然である。
本件は,被害者自身の行為を利用した殺人未遂罪に関する興味深い一事例として,貴重な先例となるものと思われる。

・自殺幇助とは、自殺者が自殺の意思を有し自らこれを実行しようとするに当たり、方法の指示や器具の提供等その行為を容易ならしめることをいう。