刑法 事例演習教材2 D子は見ていた


1.財布の占有について
(1)Aの占有
占有の存否が領得行為段階の事実であることを重視すれば、領得した時点の事実を重視!

+判例(H16.8.25)
理由
弁護人滝谷滉の上告趣意は、単なる法令違反、量刑不当の主張であって、刑訴法405条の上告理由に当たらない。
所論にかんがみ、本件における窃盗罪の成否につき、職権で判断する。
1 原判決の認定及び記録によれば、本件の事実関係は、次のとおりである。
(1) 被害者は、本件当日午後3時30分ころから、大阪府内の私鉄駅近くの公園において、ベンチに座り、傍らに自身のポシェット(以下「本件ポシェット」という。)を置いて、友人と話をするなどしていた。
(2) 被告人は、前刑出所後いわゆるホームレス生活をし、置き引きで金を得るなどしていたものであるが、午後5時40分ころ、上記公園のベンチに座った際に、隣のベンチで被害者らが本件ポシェットをベンチ上に置いたまま話し込んでいるのを見掛け、もし置き忘れたら持ち去ろうと考えて、本を読むふりをしながら様子をうかがっていた
(3) 被害者は、午後6時20分ころ、本件ポシェットをベンチ上に置き忘れたまま、友人を駅の改札口まで送るため、友人と共にその場を離れた。被告人は、被害者らがもう少し離れたら本件ポシェットを取ろうと思って注視していたところ、被害者らは、置き忘れに全く気付かないまま、駅の方向に向かって歩いて行った。
(4) 被告人は、被害者らが、公園出口にある横断歩道橋を上り、上記ベンチから約27mの距離にあるその階段踊り場まで行ったのを見たとき、自身の周りに人もいなかったことから、今だと思って本件ポシェットを取り上げ、それを持ってその場を離れ、公園内の公衆トイレ内に入り、本件ポシェットを開けて中から現金を抜き取った
(5) 他方、被害者は、上記歩道橋を渡り、約200m離れた私鉄駅の改札口付近まで2分ほど歩いたところで、本件ポシェットを置き忘れたことに気付き、上記ベンチの所まで走って戻ったものの、既に本件ポシェットは無くなっていた。
(6) 午後6時24分ころ、被害者の跡を追って公園に戻ってきた友人が、機転を利かせて自身の携帯電話で本件ポシェットの中にあるはずの被害者の携帯電話に架電したため、トイレ内で携帯電話が鳴り始め、被告人は、慌ててトイレから出たが、被害者に問い詰められて犯行を認め、通報により駆けつけた警察官に引き渡された。

2 以上のとおり、被告人が本件ポシェットを領得したのは、被害者がこれを置き忘れてベンチから約27mしか離れていない場所まで歩いて行った時点であったことなど本件の事実関係の下では、その時点において、被害者が本件ポシェットのことを一時的に失念したまま現場から立ち去りつつあったことを考慮しても、被害者の本件ポシェットに対する占有はなお失われておらず、被告人の本件領得行為は窃盗罪に当たるというべきであるから、原判断は結論において正当である。
よって、刑訴法414条、386条1項3号、181条1項ただし書、刑法21条により、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり決定する。
(裁判長裁判官 金谷利廣 裁判官 濱田邦夫 裁判官 上田豊三 裁判官 藤田宙靖)

++解説
《解  説》
1 本件は,被害者が公園のベンチ上に置き忘れたポシェット(以下「被害品」という。)をその立ち去った直後に領得した被告人の行為が,窃盗罪に当たるか占有離脱物横領罪にとどまるかという,窃盗罪の要件たる被害者の占有継続の有無が問題となった事案である。

2 本決定は,窃盗罪の成立を認めた原判決の結論を是認したものであるが,その理由付けが原判決と異なっていることも,併せて注目されると思われる。すなわち,原判決は,被害者が,被害品をベンチ上に置き忘れた後,2分位歩いて,約200m位離れた駅改札口付近まで来た際に置き忘れに気付き,公園まで走って戻ったことや,それから被害品を取り戻し,被告人を犯人として警察官に引き渡すまでの事実経過を詳しく摘示した上,①被害者が被害品の現実的握持から離れた距離及び時間は,極めて短かった,②この間,公園内はそれほど人通りがなかった,③被害者は置き忘れた場所を明確に認識していた,④持ち去った者についての心当たりを有していた,⑤実際にも,すぐさま携帯電話を使って所在を探り出す工夫をするなどして,まもなく被害品を被告人から取り戻すことができている,といった事実を挙げた上,被告人が被害品を不法に領得した際,被害者の被害品に対する実力支配は失われていなかったとして,被害者の占有継続を認めた。
これに対し,本決定は,「被告人が被害品を領得したのは,被害者がベンチから約27mしか離れていない場所まで歩いて行った時点であった」という,原決定が判示していない事実を記録により認定した上,原判決が挙げた上記①~⑤の点には格別言及せず,そのような事実関係の下では,その時点において,被害者が被害品のことを一時的に失念したまま現場から立ち去りつつあったことを考慮しても,被害者の被害品に対する占有はなお失われていなかったとして,窃盗罪の成立を認めている。つまり,原判決は,被害者が被害品を取り戻すまでの事情を検討しているのに対し,本決定は,端的に被告人が被害品を領得した時点の事情を問題としていると理解されるのである。

3 被害者の現実的握持から離れた財物を犯人が領得した行為が窃盗罪に当たるかどうかが問題となるケースには,被害者が意識して特定の場所に置いた場合と,本件のように公衆が自由に出入りする場所に置き忘れた場合等とあるが,後者では前者に比して被害者の占有継続が認められる範囲が限定される傾向にあると指摘される(前田雅英・刑法各論講義〔第3版〕169頁,池田耕平・研修527号25頁等)。後者に属する最高裁判例には,バス待ちの行列に並んでいた被害者が,近くの台の上に写真機を置き忘れたまま行列の移動に伴って離れ,置き忘れに気づいて引き返すまでの間に,犯人がそれを持ち去ったという事案に係る(1)最二小判昭32.11.8刑集11巻12号3061頁がある。この判決は,刑法上の占有は人が物を実力的に支配する関係であるが,必ずしも物の現実の所持又は監視を必要とするものではなく,社会通念上物が占有者の支配内にあるといえれば足りる旨を判示した上,当該事案では,「行列が動き始めてから引き返すまでの時間」が約5分にすぎず,「置き忘れた場所と引き返した地点との距離」が20m弱にすぎなかったことなどを指摘し,写真機はなお被害者の実力的支配のうちにあったとして,窃盗罪の成立を認めたものである。
このような置き忘れの事例に係る下級審裁判例には,被害者の占有継続を肯定したものとして,(2)東京高判昭35.7.15東高刑時報11巻7号191頁(ただし故意を否定),(3)東京高判昭35.7.26東高刑時報11巻7号202頁,判タ107号53頁,(4)東京高判昭54.4.12判時938号133頁,否定したものとして,(5)東京高判平3.4.1判時1400号128頁等がある。これら裁判例も,前記(1)の最判と同様,時間や場所の近接性等を検討して,被害品がなお被害者の実力的支配のうちにあったといえるかどうかを判断していると見られるが,被害者が置き忘れてからいつの時点までの近接性を問題にするのか(被告人の領得行為時までか,被害者が置き忘れに気付いた時点までか,被害品を取り戻した時点までか等)については,判文上は必ずしも軌を一にしていないことが指摘できるところであった。
学説においては,近時は前記(1)の最判の結論を支持する立場が一般的であるといってよいと思われる(反対説として,小暮得雄・刑法判例百選Ⅱ133頁等)が,その理由付けにおいては,時間的・場所的近接性を重視する立場(前田・前掲,山口厚・刑法各論177頁,田中利幸「刑法における『占有』の概念」刑法理論の現代的展開・各論192頁等)と,同事案では行列が続いていることから他人の事実的支配の継続を推認させる状況があったことを重要な根拠とする立場(西田典之・刑法各論143頁,大谷實・刑法各論202頁)とに分かれている。そして,後者の立場からは,「被害者が駅の窓口に財布を置き忘れ,1~2分後,15~16mのところで引き返した」という前記(4)の事案では,占有の継続は認められないと主張されている(もっとも,同事案では,「被告人は,被害者が窓口に財布を置き忘れて立ち去る一部始終を5~6m離れた地点で見ていて,被害者がその場を離れるや直ちに窓口に近付き財布を手中に収めた」という事実も判決中に認定されているのであるが,この点に意識的に言及した学説は見当たらないようである。)。

4 このような中で出された本決定の第1の意義は,本件のような事案において占有継続の有無の判断に当たり考慮されるべきものは,被害者が置き忘れてから被告人の領得行為の時点までの時間的・場所的近接性であることを明確にしている点にあるといえよう。確かに,窃盗罪の成立には,領得行為時に被害者の占有の侵害が認められるのであればそれで必要十分であって,被害者がそのまま立ち去ったことから,たとえ当該領得行為がなかったとしても,いずれ被害者は占有を喪失したはずであったと考えられるとしても,いったん成立した窃盗罪が消滅するはずはないであろう。逆に,領得行為より以前に被害者の占有が失われていたのであれば,窃盗罪が成立しないことは当然であって,その後たまたま被害者が犯人から被害品を取り返して占有を回復したとしても,占有離脱物横領罪が窃盗罪に格上げされるわけはないであろう。これに対し,前記(1)の最判の事案では,被告人が犯行を否認していたこと等のために領得行為の時点を特定できなかったことから,疑わしきは被告人の利益にとの立場で,被害者の供述を基にして想定される最大限の時間的・場所的間隔を前提として,占有継続の有無を判断しているため,「被害者が離れてから引き返すまでの時間」や「置き忘れた場所と引き返した地点との距離」を判断要素としたように読めるものとなっていると理解されよう!!!!!。ナルホド!!!!!このように考えてみると,この点はあまり異論がないところではないかと思われるが,従来の下級審裁判例の一部に混乱があったことは否定できないし,学説も,上記最判の判文上の表現をそのまま受け入れて論ずるものが一般であったようであるから,本決定の意義は小さくないものと思われる。

5 さらに,本決定が被害者の占有継続を肯定した点自体にも事例的な意義があると思われる。本件では,領得行為は,被害者が友人を駅まで送るため歩き出して約27m離れた場所に達した時点で行われたというのであり,時間的にも置き忘れてからせいぜい数十秒が経過した程度であったと考えられるから,時間的・場所的近接性に着目する限り,前記(1)~(5)等の従来の裁判例の一般的傾向に照らしても,被害者の占有継続を肯定することは可能であるように思われる。また,学説がいう,「気が付いて探せば容易に発見し得る状態」にあったかどうか(昭32最判解説(刑)578頁(寺尾正二),木村静子・判例刑法研究6巻29頁等)や,「眼の届く範囲内でのごく短時間の握持・監視の喪失」にとどまるかどうか(田中・前掲190頁)といった考え方を当てはめても,本件では占有継続を肯定する結論に至るのではないかと考えられる(なお,本決定では,「被告人が約27m先に被害者の姿を見たとき,今だと思って被害品を取り上げた」ことが認定されているから,逆に言えば,仮に被害者がその時点で振り返れば,被告人の姿や被害品を目にすることもできたと思われることなども,本件で占有継続を肯定する方向の事情として指摘できるであろう。)。これに対し,前記(1)の最判の事案では行列が続いていたからこそ占有継続が肯定されたとする前記学説によれば,そのような事情がない本件では占有を否定するという結論もあり得ないではないが,本決定はこのような考え方を採らなかったものと思われる(鈴木左斗志「刑法における『占有』概念の再構成」学習院大学法学会雑誌34巻2号153頁等参照)。

6 本決定は,刑法の基本的かつ古典的な論点に係るものであるが,事例判断としての意義に加え,従来必ずしも明確でなかったこの種事案に関する判断の枠組みを示した意義も有している。この種事件の審理,ひいて立件・捜査に当たっては,領得行為の時点をできる限り明らかにし,その時点における被害者の占有継続の有無に焦点を当てた事案の解明を尽くすべきであることを改めて明確にしたものとして,刑事実務にとって注目すべき決定であると思われる。

(2)D子の占有
どの程度の管理状態までを保護すべきかという価値判断。
単に注視しているだけでは、保護に値する実質的が利益にかける!

(3)スーパーマーケットBの占有
誰でも立ち入りやすい場所に放置されていたか、それとも何らかの管理措置が取られていたかという区別。

(4)甲の故意

2.クレジットカードの不正使用
たとえ名義人の許諾がある場合でも、加盟店を被害者とする一行詐欺罪が成立する!
損害について→加盟店の本人確認義務違反を理由として、信販会社から加盟店に対する立て替え払いが行われない可能性があるから、加盟店にも損害が発生し得る!
私文書偽造・同行使罪とは牽連犯の関係。

+判例(H16.2.9)
理由
弁護人渡邉靖子の上告趣意は、単なる法令違反、事実誤認の主張であって、刑訴法405条の上告理由に当たらない。
なお、所論にかんがみ、詐欺罪の成否について、職権をもって判断する。
1 原判決及びその是認する第1審判決並びに記録によれば、本件の事実関係は、次のとおりである。
(1) Aは、友人のBから、同人名義の本件クレジットカードを預かって使用を許され、その利用代金については、Bに交付したり、所定の預金口座に振り込んだりしていた
その後、本件クレジットカードを被告人が入手した。その入手の経緯はつまびらかではないが、当時、Aは、バカラ賭博の店に客として出入りしており、暴力団関係者である被告人も、同店を拠点に賭金の貸付けなどをしていたものであって、両者が接点を有していたことなどの状況から、本件クレジットカードは、Aが自発的に被告人を含む第三者に対し交付したものである可能性も排除できない。なお、被告人とBとの間に面識はなく、BはA以外の第三者が本件クレジットカードを使用することを許諾したことはなかった
(2) 被告人は、本件クレジットカードを入手した直後、加盟店であるガソリンスタンドにおいて、本件クレジットカードを示し、名義人のBに成り済まして自動車への給油を申し込み、被告人がB本人であると従業員を誤信させてガソリンの給油を受けた上記ガソリンスタンドでは、名義人以外の者によるクレジットカードの利用行為には応じないこととなっていた
(3) 本件クレジットカードの会員規約上、クレジットカードは、会員である名義人のみが利用でき、他人に同カードを譲渡、貸与、質入れ等することが禁じられている。また、加盟店規約上、加盟店は、クレジットカードの利用者が会員本人であることを善良な管理者の注意義務をもって確認することなどが定められている。
2 以上の事実関係の下では、被告人は、本件クレジットカードの名義人本人に成り済まし、同カードの正当な利用権限がないのにこれがあるように装い、その旨従業員を誤信させてガソリンの交付を受けたことが認められるから、被告人の行為は詐欺罪を構成する。仮に、被告人が、本件クレジットカードの名義人から同カードの使用を許されており、かつ、自らの使用に係る同カードの利用代金が会員規約に従い名義人において決済されるものと誤信していたという事情があったとしても、本件詐欺罪の成立は左右されない。したがって、被告人に対し本件詐欺罪の成立を認めた原判断は、正当である。
よって、刑訴法414条、386条1項3号、181条1項本文により、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり決定する。
(裁判長裁判官 福田博 裁判官 北川弘治 裁判官 亀山継夫 裁判官 滝井繁男)

++解説
《解  説》
1 本件起訴状記載の詐欺の訴因の要旨は,「被告人は,不正に入手した他人名義Aのクレジットカードを使用し,加盟店であるガソリンスタンドの従業員に対し,A本人に成り済まし,同カードの正当な利用権限がなく,かつ,同カード会員規約に従いカードの利用代金を支払う意思及び能力がないのにこれがあるように装い,同カードを提示して給油を申し込み,店員らをしてその旨誤信させてガソリンの給油を受け,もって人を欺いて財物の交付を受けた。」というものである。
上記詐欺は,1審における検察官の主張によると,Bが本件クレジットカードの名義人Aから同カードの使用を許されてこれを所持していたところ,市中で強盗の被害に遭って同カードを奪われ,その直後,被告人がこれを不正に入手して本件利用行為に及んだという事実関係を前提とするものであり,①被告人が名義人A本人に成り済まして名義を偽ったこと,②利用代金の支払意思・能力を偽ったことの2点をとらえ,2重の欺もう行為による詐欺として訴因が構成されている。

2 ところが,審理において,Bが強盗に遭ったというのは実は狂言であって,Bは,賭博場で金を借りるため自発的に被告人を含む第三者に対し本件クレジットカードを交付したのではないかとの合理的な疑いが生じ,その結果,被告人は,名義人Aから同カードの使用を許されており,名義人Aにおいて利用代金が決済されるものと誤信して同カードを使用した可能性も排除できないこととなった。
そこで,1審判決は,上記詐欺の訴因のうち,②の「利用代金の支払意思・能力を偽った」点の欺もう行為を認定から落とし,①の「名義の偽り」の点のみの欺もう行為による詐欺罪の成立を認めた。
これに対し,被告人が控訴し,弁護人は,「クレジットカードの名義人本人から使用を許され,名義人が利用代金の決済を引き受けている場合には,利用者が名義を偽っても,決済が円滑に行なわれ,関係者に財産的損害は生じないから,詐欺罪は成立しない。したがって,被告人が,名義人から使用を許されていたなどと誤信していた以上,詐欺の故意は認められない。」として法令解釈の誤りを主張したが,原判決は,その主張をしりぞけた。
被告人が上告し,上告趣意においても,上記と同旨の主張がされたが,本決定は,本件の事実関係を摘示した上で,その事実関係の下では,「被告人は,本件クレジットカードの名義人本人に成り済まし,同カードの正当な利用権限がないのにこれがあるように装い,その旨従業員を誤信させてガソリンの交付を受けたことが認められるから,被告人の行為は詐欺罪を構成する。仮に,被告人が,本件クレジットカードの名義人から同カードの使用を許されており,かつ,自らの使用に係る同カードの利用代金が会員規約に従い名義人において決済されるものと誤信していたという事情があったとしても,本件詐欺罪の成立は左右されない。」と判示し,上告を棄却した。

3 本件の論点は,クレジットカードの名義人から使用を許され,かつ,自らの使用に係る同カードの利用代金が会員規約に従い名義人において決済されるものと誤信していた場合において,被告人が名義人本人に成り済ましてクレジットカードを使用する行為が詐欺罪に当たるか否かという点である。
通常,名義人がクレジットカードの使用を許している場合は,本人と偽っても,決済が円滑にされて問題が顕在化しないため,「名義の偽り」のみの欺もう行為による詐欺で起訴されることは実際上ほとんどないと思われる。しかし,不正にクレジットカードを入手してこれを使用したとして起訴された詐欺事案において,本件のような弁解がされることはまま見られるところであり,その場合,弁解を排斥できないときに本件の論点が法的問題として顕在化することになる。
下級審の裁判例をみると,本件と同様にクレジットカードの名義人の許諾を得ていた旨の弁解が通った事案において,詐欺罪の成立を否定した裁判例として,東京地八王子支判平8.2.26刑裁資料273号130頁があり,「クレジットカード・システムが私的な経済取引のためのシステムに過ぎず,それ自体強度の公的利益を含まない以上,名義の偽りのみの詐欺の成立を肯定してシステムを保護する必要はない。また,実質的な財産的法益侵害が発生していないのに財産犯として処罰するのは行き過ぎである。」旨を判示している。he—-なお,名義人の許諾を得てクレジットカードを使用したが名義人自身に代金決済の意思がなく,その旨被告人も認識していた事案について,詐欺の成立を肯定した裁判例として,大阪地判平9.9.22判タ997号293頁がある。
これに対し,事案は異なるが,一般論として,クレジットカード・システム上,「名義の偽り」自体が欺もう行為を構成することを肯定した裁判例として,東京高判昭60.5.9刑月17巻5・6号519頁,東京高判平3.12.26判タ787号272頁がある。
このうち,上記東京高判平3.12.26は,他人名義の既存のクレジットカードを不正に入手して使用した事案において,「クレジットカード制度は,カード名義人本人に対する個別的な信用を供与することが根幹となっているのであるから,カード使用者がカードを利用する正当な権限を有するカード名義人本人であるかどうかがクレジットカード制度の極めて重要な要素であることは明らかで,カード名義人を偽り自己がカード使用の正当な権限を有するかのように装う行為はまさに欺もう行為そのものというべきである」旨を説示し,1審判決が,「カード名義人であるかの如く装った点や,代金決済の能力を装った点は,代金決済意思の有無という要証事実を検討するための重要な間接事実にすぎない」とし,これらの点をことさら欺もう行為として判示しなかったことについて,クレジットカードの不正使用に関する欺もう行為の解釈について誤りを冒すものであるとしている。

4 学説あるいは実務家の見解をみると,①クレジットカード・システムでは名義人自身による利用行為のみが予定されているとして,名義の偽りのみで詐欺罪が成立するとする積極説(和田正隆「クレジットカードシステムと犯罪(4)」月間消費者金融1983年12月号86頁,片岡聡「クレジットカードと犯罪」捜査研究34巻9号11頁),②「名義の偽り」それ自体は欺もう行為には当たらず,「クレジットカード・システムにより最終的に代金が決済される状況がないにも関わらずこれがあるかのように装ったこと」が欺もう行為となるとする消極説(石井芳光「クレジットカードの不正利用と法律問題」手研160号54頁,山中敬一「他人名義のクレジットカードの不正使用と詐欺の成否」法セ455号127頁等),③その中間的な見解として,名義人がごく近い近親者であって名義人本人と同視し得る者については詐欺が成立しないが,それ以外の者が名義を偽った場合には詐欺が成立するという説(平井義丸「消費者信用をめぐる犯罪の実態と法律上の問題点について」法務研究74集1号56頁)とに分かれている。

5 クレジットカード・システムは,カード名義人の個別的な信用に基づいて担保的措置をも講ずることなく一定限度内の信用を供与することが根幹となっている。
規約上,名義人本人以外の利用は許さず,加盟店に本人確認義務を負わせていることなどからすると,加盟店は,名義人本人が使用を許諾している等の事情が確認できたとしても,名義人本人でない者の利用を許してはならないというのが制度の建前といえる。取引の実態として,仮に,名義人本人以外の者の利用を許す不正規な運用があるとしても,それはあくまで加盟店の判断で行う事実上の措置とみるべきであると思われる。
このようなクレジットカード・システムについての理解を前提とするならば,利用者と名義人の同一性はカード利用の極めて重要な要素であり,この点を偽ることは,名義人の許諾の有無にかかわらず,加盟店に対する欺もう行為を構成するという積極説が支持されよう。
本決定は,基本的にはこのような考え方から詐欺罪の成立を肯定したものといえるが,一方で,③の中間説が述べるように,名義人の近親者がその許諾の下に利用するようなごく例外的な場合においては,実質的違法性がない等の理由により詐欺罪の成立が否定される余地もないではないことから,本件の事案に即した判示がされたのではないかと推察される。

6 本決定は,学説上,積極,消極と見解が分かれており,消極説に立った下級審裁判例も存した法解釈上の論点について,最高裁として初めて判断を示したものである。事例判例にとどまるが,実質的には一般法理を含むものであり,先例として重要な意義があり,実務に与える影響も少なくないと思われる。

追加でネタ判例。
+判例(高判H3.4.1)
理由
本件控訴の趣意は、弁護人瀬戸和宏作成名義の控訴趣意書に、これに対する答弁は、検察官八峠剛一作成名義の答弁書に、それぞれ記載されたとおりであるから、これらを引用するが、弁護人の所論は、次に記載する控訴趣意第一のほか、同第二として量刑不当を主張するものである。
控訴趣意第一(事実誤認の主張)について
所論は、要するに、本件被害品である本件札入れは、被害者が原判示「イトーヨーカドー」六階のベンチの上に置き忘れたものであって、しかも被害者は六階から地下一階に移動し、時間にして一〇分以上も右ベンチ上に放置されていたのであるから、本件札入れは何人の占有下にもない占有離脱物であり、かつ、被告人は、これを忘れ物(遺失物)と認識し、何人かの占有下にある物とは認識していなかったのであるから、被告人には窃盗の故意がなく、被告人の本件所為は遺失物横領に該当するにとどまるのに、窃盗に当たるとして刑法二三五条を適用した原判決は、事実を誤認し、ひいては法令の適用を誤ったものであって、右事実誤認が判決に影響を及ぼすことは明らかである、というのである。
所論にかんがみ、原審記録を調査し、当審における事実取調べの結果をも併せて検討するに、原判決には、所論指摘のとおり、判決に影響を及ぼすことが明らかな事実の誤認があり、原判決はこの点で破棄を免れない。

これを所論に即して説示すると、以下のとおりである。すなわち、関係証拠によると、
<1> 本件当日の午後、原判示「イトーヨーカドー」(鉄骨鉄筋地上七階・地下一階建)に家族とともに買い物に来た被害者は、六階エスカレーター脇の通路に置かれたベンチでアイスクリームを食べたが、午後三時五〇分ころ、その場を立ち去る際に、他の手荷物などは持ったものの、本件札入れ(縦約一〇センチメートル、横約二三センチメートル、革製のからし色のもの)を右ベンチの上に置き忘れて立ち去ってしまったこと
<2> 被害者は、六階からエスカレーターで地下一階の食料品売場に行き(六階から地下一階までのエスカレーターによる所要時間は約二分二〇秒である。)、売場の様子などを見渡してから買物をするため、札入れを取り出そうとして、これがないことに気付き、すぐに本件札入れを右六階のベンチに置き忘れてきたことを思い出し、直ちに六階の右ベンチまで引き返したが、その時には既に被告人が本件札入れを持ち去ってしまっており、本件札入れは見当たらなかったこと
<3> 被告人は、同日午後四時前ころ、「イトーヨーカドー」六階のゲームセンターへ行こうとした際に誰もいないベンチの上に、手荷物らしき物もなく、本件札入れだけがあるのを目にとめ、付近に人が居なかったことから、誰かが置き忘れたか置放しにしているものと思い、持ち主が戻って来ないうちにこれを領得しようと考えて右ベンチに近づいたところ、斜め前方に数メートル離れた先の別のベンチに居たA子が本件札入れを注視しているのに気付いたこと
<4> そこで、被告人は、本件札入れのあった右ベンチに座って暫く様子を窺っていたが、なおもA子が被告人を監視するようにして見ていたことから、A子に本件札入れが右ベンチにある事情を尋ね、誰かが置き忘れていったものであることを確めたうえで、これを落とし物として警備員に届けるふりを装うこととし、同日午後四時ころ、A子に「財布を警備員室に届けてやる。」旨伝えて本件札入れを持ってその場を離れたこと
<5> その後、被告人は三階のトイレで本件札入れの中身を確認したうえ、これを持って店外へ出たこと
以上の事実が認められる。
右認定の事実に徴すると、被害者は、開店中であって公衆が客などとして自由に立ち入ることのできるスーパーマーケットの六階のベンチの上に本件札入れを置き忘れたままその場を立ち去って、同一の建物内であったとはいえ、エスカレーターを利用しても片道で約二分二〇秒を要する地下一階まで移動してしまい、約一〇分余り経過した後に本件札入れを置き忘れたことに気付き引き返して来たが、その間に被告人が右ベンチの上にあった本件札入れを不法に領得したというのである。
このような本件における具体的な状況、とくに、被害者が公衆の自由に出入りできる開店中のスーパーマーケットの六階のベンチの上に本件札入れを置き忘れたままその場を立ち去って地下一階に移動してしまい、付近には手荷物らしき物もなく、本件札入れだけが約一〇分間も右ベンチ上に放置された状態にあったことなどにかんがみると、被害者が本件札入れを置き忘れた場所を明確に記憶していたことや、右ベンチの近くに居あわせたA子が本件札入れの存在に気付いており、持ち主が取りに戻るのを予期してこれを注視していたことなどを考慮しても、社会通念上、被告人が本件札入れを不法に領得した時点において、客観的にみて、被害者の本件札入れに対する支配力が及んでいたとはたやすく断じ得ないものといわざるを得ない。
そうすると、被告人が本件札入れを不法に領得した時点では、本件札入れは被害者の占有下にあったものとは認め難く、結局のところ、本件札入れは刑法二五四条にいう遺失物であって、「占有ヲ離レタル他人ノ物」に当たるものと認めるのが相当である。
右の次第であるから、本件札入れを不法に領得した被告人の所為を窃盗に当たると認定した原判決には、事実の誤認があり、右の事実誤認は判決に影響を及ぼすことが明らかであるので、所論のその余の主張について判断するまでもなく、原判決はこの点で破棄を免れない。論旨は理由がある。
よって、刑訴法三九七条一項、三八二条により原判決を破棄したうえ、同法四〇〇条但書により当裁判所において更に判決する。
(罪となるべき事実)
被告人は、平成二年一〇月一日午後四時ころ、新潟県長岡市城内町二丁目三番地一二所在の株式会社丸大イトーヨーカドー丸大長岡駅前店六階エスカレーター脇付近において、B子が同所のベンチに置き忘れた遺失物である現金三万八七七五円在中の札入れ一個(時価約一万円相当)を発見し、これを自分のものにするつもりで拾い取って横領したものである
(証拠の標目)《省略》
(法令の適用)
被告人の判示所為は刑法二五四条、罰金等臨時措置法三条一項一号に該当するので、所定刑中懲役刑を選択し、その所定刑期の範囲内で被告人を懲役五月に処し、刑法二一条を適用して原審における未決勾留日数中一〇日を右刑に算入し、原審及び当審における訴訟費用については、刑訴法一八一条一項但書により被告人に負担させないこととして、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 小泉祐康 裁判官 秋山規雄 川原誠)


民法択一 債権各論 契約各論 請負


・請負報酬支払請求訴訟の請求原因事実は、①請負契約を締結したこと②仕事が完成したこと、であり、目的物を引き渡したことは請求原因事実ではない!!

・請負報酬請求権発生時を契約成立時と考える判例通説の立場によると、仕事が完成したことが請求原因となるのは、報酬支払と目的物引渡しが同時履行であることから(633条本文)、その前提として仕事の完成が先履行義務となっており、契約成立の主張をすると、仕事の完成の先履行義務があることが表れるため、この義務を履行したこともせり上げて主張立証しなければならないから!!!!!!!
+(報酬の支払時期)
第633条
報酬は、仕事の目的物の引渡しと同時に、支払わなければならない。ただし、物の引渡しを要しないときは、第624条第1項の規定を準用する。

・請負契約は、報酬額が具体的に定められていない場合であっても、報酬額の決定方法が定められていれば成立する!!!!
=報酬基準などの慣行や契約内容に応じて、額が定められれば成立する!

・中途で契約が解除された場合の完成部分の所有権は注文者であるAに帰属するとの特約がある場合で、下請契約に特約のない場合、志儲け人が自ら材料を提供して出来形部分を築造したとしても、特段の事情のない限り、当該出来形部分の所有権は注文者に帰属する!!!!!!
+判例(H5.10.19)
理由
上告代理人右田堯尭雄の上告理由第一点について
一 原審の適法に確定した事実関係の概要は、次のとおりである。
1 上告人は、昭和六〇年三月二〇日、建設業者である住吉建設株式会社との間で、上告人を注文者、住吉建設を請負人とし、代金三五〇〇万円、竣工期同年八月二五日と定めて、上告人所有の宅地上に本件建物を建築する旨の工事請負契約を締結した(以下「本件元請契約」という)。この契約には、注文者は工事中契約を解除することができ、その場合工事の出来形部分は注文者の所有とするとの条項があった。

2 住吉建設は、同年四月一五日、上告人から請け負った本件建物の建築工事を代金二九〇〇万円、竣工期同年八月二五日の約定で、建設業者である被上告人に一括して請け負わせた(以下「本件下請契約」という)。被上告人も住吉建設が上告人から請け負った工事を一括して請け負うものであることは知っていたが、住吉建設も被上告人もこの一括下請負について上告人の承諾を得ていなかった。なお、本件下請契約には、完成建物や出来形部分の所有権帰属についての明示の約定はなかった

3 被上告人は、自ら材料を提供して本件建物の建築工事を行ったが、被上告人が昭和六〇年六月下旬に工事を取りやめた時点においては、基礎工事のほか、鉄骨構造が完成していたものの、陸屋根や外壁は完成しておらず、右工事の出来高は、工事全体の二六・四パーセントであった(以下、右時点までの工事出来形部分を「本件建前」という)。

4 上告人は、住吉建設との約定に基づき、請負代金の一部として、契約締結時に一〇〇万円、昭和六〇年四月一〇日に九〇〇万円、同年五月一三日に九五〇万円の合計一九五〇万円を支払った。
他方、上棟工事は同年五月一〇日に完了し、それまでの工事分として住吉建設から被上告人に支払が予定されていた第一回の支払分五八〇万円の支払時期は同年六月一五日であったが、その前々日の同月一三日に住吉建設が京都地方裁判所に自己破産の申立てをし、同年七月四日に破産宣告を受けたため、被上告人は、下請代金の支払を全く受けられなかった

5 上告人は、同年六月一七日ころ、被上告人から聞かされて初めて本件下請契約の存在を知り、同月二一日、住吉建設に対して本件元請契約を解除する旨の意思表示をするとともに、被上告人との間で建築工事の続行について協議したが、工事代金額のことから合意は成立しなかった。そこで、上告人は、同月二九日、被上告人に工事の中止を求め、次いで、同年七月二二日、被上告人を相手に本件建前の執行官保管、建築妨害禁止等の仮処分命令を得て、その執行をした。

6 その後、上告人は、同年七月二九日、株式会社稲富との間で代金二五〇〇万円、竣工期同年一〇月一六日の約定で、本件建前を基に建物を完成させる旨の請負契約を締結し、稲富は、同月二六日までに右工事を完成させ、そのころ上告人から代金全額の支払を受けて本件建物を引き渡し、上告人は、本件建物につき所有権保存登記をした。

二 原審は、右事実に基づき、(一) 本件建前は、いまだ不動産たる建物とはなっていなかった、(二) 住吉建設と被上告人との間では出来形部分の所有権帰属の合意がなく、被上告人は本件元請契約には拘束されないから、本件建前の所有権は、材料を自ら提供して施工した被上告人に帰属する、(三) 本件建物は、本件建前を基に稲富が自ら材料を提供して建物として完成させたものであり、稲富の施工価格とその提供した材料の価格の合算額は本件建前の価格を超えると認められるから、本件建物の所有権は稲富に帰属し、稲富と上告人の合意により上告人に帰属した、(四) 被上告人は、本件建前が本件建物の構成部分となってその所有権を失ったことにより、本件建前の価格相当の損失を被り、他方、上告人は、本件建前を基に建物を完成させることを稲富に請け負わせ、その請負代金も本件建前分を除外した部分に対して支払われたから、本件建前価格に相当する利得を得た、(五) したがって、上告人は被上告人に対し、民法二四六条、二四八条により、本件建前価格に相当する七六五万六〇〇〇円(下請代金二九〇〇万円の出来高二六・四パーセントに相当する額)を支払う義務がある、と判断した。

三 しかしながら、原審の右判断は是認することができない。その理由は、次のとおりである。
建物建築工事請負契約において、注文者と元請負人との間に、契約が中途で解除された際の出来形部分の所有権は注文者に帰属する旨の約定がある場合に、当該契約が中途で解除されたときは、元請負人から一括して当該工事を請け負った下請負人が自ら材料を提供して出来形部分を築造したとしても、注文者と下請負人との間に格別の合意があるなど特段の事情のない限り、当該出来形部分の所有権は注文者に帰属すると解するのが相当である。
けだし、建物建築工事を元請負人から一括下請負の形で請け負う下請契約は、その性質上元請契約の存在及び内容を前提とし、元請負人の債務を履行することを目的とするものであるから、下請負人は、注文者との関係では、元請負人のいわば履行補助者的立場に立つものにすぎず、注文者のためにする建物建築工事に関して、元請負人と異なる権利関係を主張し得る立場にはないからである。
これを本件についてみるのに、前示の事実関係によれば、注文者である上告人と元請負人である住吉建設との間においては、契約が中途で解除された場合には出来形部分の所有権は上告人に帰属する旨の約定があるところ、住吉建設倒産後、本件元請契約は上告人によって解除されたものであり、他方、被上告人は、住吉建設から一括下請負の形で本件建物の建築工事を請け負ったものであるが、右の一括下請負には上告人の承諾がないばかりでなく、上告人は、住吉建設が倒産するまで本件下請契約の存在さえ知らなかったものであり、しかも本件において上告人は、契約解除前に本件元請代金のうち出来形部分である本件建前価格の二倍以上に相当する金員を住吉建設に支払っているというのであるから、上告人への所有権の帰属を肯定すべき事情こそあれ、これを否定する特段の事情を窺う余地のないことが明らかである。してみると、たとえ被上告人が自ら材料を提供して出来形部分である本件建前を築造したとしても、上告人は、本件元請契約における出来形部分の所有権帰属に関する約定により、右契約が解除された時点で本件建前の所有権を取得したものというべきである。

四 これと異なる判断の下に、被上告人は上告人と住吉建設との間の出来形部分の所有権帰属に関する合意に拘束されることはないとして、本件建前の所有権が契約解除後も被上告人に帰属することを前提に、その価格相当額の償金請求を認容した原審の判断には、法令の解釈適用を誤った違法があるものといわざるを得ず、右違法が判決に影響を及ぼすことは明らかである。この点の違法をいう論旨は理由があり、その余の上告理由について判断するまでもなく、原判決中上告人敗訴の部分は破棄を免れない。
そして前記説示に徴すれば、被上告人の上告人に対する償金請求は理由のないことが明らかであるから、これを失当として棄却すべきであり、これと同趣旨の第一審判決は正当であるから、原判決中上告人敗訴の部分を破棄し、右部分につき被上告人の控訴を棄却することとする。
よって、民訴法四〇八条、三九六条、三八四条、九六条、八九条に従い、裁判官可部恒雄の補足意見があるほか、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

+補足意見
裁判官可部恒雄の補足意見は、次のとおりである。
一 本件は、注文者甲と元請負人乙及び下請負人丙とがある場合に、乙が倒産したときは甲丙間の法律関係はどのようなものとして理解さるべきか、との論点が中心となる事案で、請負関係について実務上しばしば遭遇する典型的事例の一つであり、本件において下請負人丙(被上告人)の請求を排斥した第一審判決を取り消した上これを認容すべきものとした原判決の理由中に、右甲乙丙三者間の法律関係につき特段の言及をした説示が見られるので、法廷意見に補足して、私の考えるところを述べておくこととしたい。
二 原判決は、その理由の三の1において、上告人甲と乙との間の元請契約には、甲は工事途中で右契約を解除することができ、その場合乙が施工した出来形部分の所有権は甲に帰属する旨の条項が設けられ、その後、右契約は解除されたが、右特約条項は注文者甲と元請負人乙との間の約定であって、下請負人たる被上告人丙を拘束するものではなく、乙丙間の下請契約には、丙が施工した出来形部分の所有権の帰属に関する特約はなされていなかったから、右元請契約の解除により直ちに本件建前の所有権が甲に移転する理はないと解される旨を判示した。
甲乙丙三者間の法律関係は原判決説示のようなものとして理解され得るか、これが本件の問題点である。
三 本件事案の概要は、注文者甲がその所有地上に家屋を築造しようとして乙に請け負わせたところ、乙は注文者甲と関りなくこれを一括して丙に下請させ、丙が乙との間の契約に従って施工中に元請負人乙が倒産した、甲は工事請負代金中の相当部分を乙に支払済みであったが、乙から丙への下請代金は支払われていなかった、というものである。
そして、本件において被上告人丙が建築工事を取り止めた時点における出来形部分の状態は、法廷意見に記述のとおりであるが、本件において工事を施工したのは一括下請負人たる丙のみであり、材料は丙が提供し、工事施工の労賃は丙の出捐にかかるものである。したがって、この点のみに着目すれば、出来形部分は丙の所有というべきものとなろう。工事途中の出来形部分の所有権は、材料の提供者が請負人である場合は、原則として請負人に帰属する、というのが古くからの実務の取扱いであり、この態度は施工者が下請負人であるときも異なるところはない。
四 しかし、此処で特段の指摘を要するのは、工事途中の出来形部分に対する請負人(下請負人を含む)の所有権が肯定されるのは、請負人乙の注文者甲に対する請負代金債権、下請についていえば丙の元請負人乙に対する下請代金債権確保のための手段としてである(注)という基本的な構成についての理解が、従前の実務上とかく看過されがちであったことである。
注 この点をつとに指摘した裁判例として、東京高裁昭和五四年四月一九日判決・判例時報九三四号五六頁を挙げることができよう。
本件において、下請負人丙の出来形部分に対する所有権の帰属の主張が、丙の元請負人乙に対する下請代金債権確保のための、いわば技巧的手段であり、かつ、それにすぎないものであることは、丙が出来形部分の収去を土地所有者甲から求められた局面を想定すれば、容易に理解され得るであろう。
すなわち、元請負人乙に対する丙の代金債権確保のために、下請負人丙の出来形部分に対する所有権を肯定するとしても、敷地の所有者(又は地上権、賃借権等を有する者)は注文者甲であって、丙はその敷地上に出来形部分を存続させるための如何なる権原をも有せず、甲の請求があればその意のままに、自己の費用をもって出来形部分を収去して敷地を甲に明け渡すほかはない。丙が甲の所有(借)地上に有形物を築造し、甲がこれを咎めなかったのは、一に甲乙間に元請契約の存するが故であり、丙による出来形部分の築造は、注文者甲から工事を請け負った乙の元請契約上の債務の履行として、またその限りにおいて、甲によって承認され得たものにほかならない。
五 本件の法律関係に登場する当事者は、まず注文者たる甲及び元請負人乙であり、次いで乙から一括下請負をした丙であるが、この甲、乙、丙の三者は平等並立の関係にあるものではない。基本となるのは甲乙間の元請契約であり、元請契約の存在及び内容を前提として、乙丙間に下請契約が成立する。比喩的にいえば、元請契約は親亀であり、下請契約は親亀の背に乗る子亀である。丙は乙との間で契約を締結した者で、乙に対する関係での丙の権利義務は下請契約によって定まるが、その締結が甲の関与しないものである限り、丙は右契約上の権利をもって甲に直接対抗することはできず(下請契約上の乙、丙の権利義務関係は、注文者甲に対する関係においては、請負人側の内部的事情にすぎない)、丙のする下請工事の施工も、甲乙間の元請契約の存在と内容を前提とし、元請契約上の乙の債務の履行としてのみ許容され得るのである。
このように、注文者甲に対する関係において、下請負人丙はいわば元請負人乙の履行補助者的立場にあるものにすぎず、下請契約が元請契約の存在と内容を前提として初めて成立し得るものである以上、特段の事情のない限り、丙は、契約が中途解除された場合の出来形部分の所有権帰属に関する甲乙間の約定の効力をそのまま承認するほかはない。甲に対する関係において丙は独立平等の第三者ではなく、基本となる甲乙間の約定の効力は、原則として下請負人丙にも及ぶものとされなければならない。子亀は親亀の行先を知ってその背に乗ったものであるからである。ただし、甲が乙丙間の下請契約を知り、甲にとって不利益な契約内容を承認したような場合(法廷意見にいう特段の事情─甲と丙との間の格別の合意─の存する場合)は別であるが、このような例外的事情は通常は認められ難いであろう(甲丙間に格別の合意がない限り、甲が丙の存在を知っていたか否かによって結論が左右されることはない。法廷意見中に、上告人は本件下請契約の存在さえ知らなかったものである旨言及されているのは、単なる背景的事情の説明にほかならない)。
六 しかるに原判決が、前記のように、中途解除の場合の出来形部分の所有権帰属についての特約は甲乙間の約定であって、下請負人丙を拘束するものでないとしたのは、さきに見たような元請契約と下請契約との関係、下請負人丙の地位が注文者甲に対する関係においては、元請負人乙の履行補助者的地位にとどまることを忘れたものとの非難を免れないであろう。
もとより、下請負人丙のための債権確保の要請も考慮事項の一たるを失わない。しかし、この点における丙の安否は、もともと、基本的には元請負人乙の資力に依存するものであり、事柄は乙と注文者甲との間においても共通である。ただ、甲乙間においては、通常、乙の施工の程度が甲の代金支払に見合ったものとなるので(したがって、乙が材料を提供した場合でも、実質的には甲が材料費を負担しているのが実態ということができ、この点を度外視して材料の提供者が乙であるか否かを論ずるのは、むしろ空疎な議論というべきであろう)、出来形部分に対する所有権の乙への帰属の有無がその死命を制することにはならず、もともと甲のための建物としての完成を予定されている出来形部分の所有権の甲への帰属を認めた上で、甲乙間での代金の精算を図ることが社会経済上も理に適い、また、乙にとっても不利益とならないのが通常であるといえよう。
他方、下請の関係についていえば、下請負人丙の請負代金債権は、元請負人乙に対するものであって、甲とは関りがない。一般に、出来形部分に対する所有権の請負人への帰属は、請負代金債権確保のための技巧的手段であるが、最終的には敷地に対する支配権を有する注文者甲に対抗できないことは、さきに見たとおりであって、元請負人乙の資力を見誤った丙の保護を、下請契約に関りのない、しかも乙に対しては支払済みの注文者甲の負担において図るのは、理に合わないことである(注)。
注 これを先例になぞらえていえば、本来丙において乙に対して自ら負担すべき代金回収不能の危険を甲に転嫁しようとするもの、ということができよう(最高裁昭和四九年(オ)第一〇一〇号同五〇年二月二八日第二小法廷判決・民集二九巻二号一九三頁参照)。
七 もし、甲が乙に対して全く代金の支払をせず、又はそれが過少であるのに、倒産した乙からの下請負人丙が一定の出来形を築造していた場合には、現実の出捐をした丙に対する甲の不当利得の成立を考える余地があろう。しかし、問題の多い不当利得による構成よりも、出来形部分の所有権の帰属に関する甲乙間の特約の効力が丙に及ぶことを端的に肯定した上で、甲に対する乙の代金債権の丙による代位行使を認める構成こそ、遥かによく実情に合致する。
これに対し、丙の施工による出来形部分に見合う代金が既に甲から乙に支払済みであるときは、乙の履行補助者的地位にある丙の下請代金債権の担保となるものは、乙の資力のみである(丙の保護、丙のための権利確保の方策は、甲ではなく乙との関係においてこそ考慮されなければならない)。一見酷であるかに見えるこの結論は、元請と下請という契約上の二重構造(子亀は親亀の背の上でしか生きられないという仕細み)から来る、いわば不可避の帰結にほかならず、これと異なる見地に立って、下請契約に関与せずしかも乙に対しては支払済みの注文者甲に請負代金の二重払いを強いることとなる原判決の見解を、丙の本訴請求に対する結論として選択する余地はないものといわなければならない。
八 従前、請負関係の紛争に関する実務の取扱いは、請負人が材料を提供した場合の出来形部分の所有権は原則として請負人に帰属するとの見地に立ち、むしろこれを最上位の指導原理として紛争の処理に当たって来たといえるが、その結果、元請負人の倒産事例において、出来形部分に見合う代金を元請負人乙に支払済みの注文者甲と、乙から下請代金の支払を受けていない下請負人丙との利害の調整に苦しみ、あるいは出来形部分の所有者である丙の注文者甲に対する明渡請求を権利の濫用として排斥し(東京高裁昭和五八・七・二八判決・判例時報一〇八七号六七頁)、あるいは出来高に見合う代金を支払った上で甲のした保存登記の抹消を求める丙の請求を権利の濫用として排斥している(東京地裁昭和六一・五・二七判決・同一二三九号七一頁)。私は、請負人が材料を提供した場合の出来形部分の所有権は原則として請負人に帰属するとの従前の実務の取扱いとの整合性に配慮しつつ、それぞれの事案において妥当な結論を導き出そうとしたこれら裁判例に見られる努力に敬意を表するにやぶさかではないが、丙の請負代金債権確保の手段として出来形部分に対する所有権の丙への帰属を肯定しようとする解釈上の努力が、それにも拘らず当の出来形部分の存在それ自体が甲の収去敷地明渡しの請求に抗する術がないという、より一層基本的な構造の認識に欠けていた点につき改めて注意を喚起し、元請倒産事例についての実務の取扱いが、一種の袋小路を思わせるような状態から脱却して行くことを期待したいと思う。

++解説
《解  説》
本件は、下請が材料を提供して施工した工事出来形の所有権の帰属が争われた事件である。確定された事実関係はおおよそ次のとおりである。注文者Yが自分の土地に建物を建てることを建設業者Aに発注したところ、Aがこの工事を一括して建設業者Xに下請に出し、実際の工事はXが自ら材料を提供して行った。しかし、工事途中でAが倒産してしまったため、YはAとの契約を解除し、他の業者に依頼して建物を完成させた。YとAとの請負契約(元請契約)では、注文者は工事中契約を解除することができ、その場合の工事の出来形部分は注文者の所有とするとの約定があったが、AとXとの契約(下請契約)にはこのような約定はなかった。元請契約も下請契約もその代金は分割支払の約定であり、Yは元請契約に従ってAの倒産時までに代金の約五六パーセントをAに支払っていたが、AはXに下請代金を全く支払わないままに倒産した。Xは工事全体の約二六パーセント程度まで施工していたが、建物といえる段階にまでは達していなかった。ちなみに、注文者の承諾のない一括下請は建設業法で禁止されているところであるが(同法二二条)、本件の一括下請もYの承諾はなく、YはAが倒産するまでXが下請していたことも知らなかった。
右のような事実関係の下で、Xは、Yに対して、完成建物の所有権はXに帰属するとして建物明渡、所有権確認を求め、予備的に、完成建物の所有権はXにないとしても倒産時までに施工した出来形(建前)はXの所有であるとして民法二四八条、二四六条に基づく償金の支払を求めた。第一審(本誌六六〇号一四二頁)は、完成建物はもちろん、出来形(建前)の所有権もYに帰属するとしてXの請求をいずれも棄却したが、第二審(本誌六九五号二一九頁)は、完成建物の所有権は認めなかったものの、出来形の所有権はXに帰属するとして、予備的請求である償金請求を認容したため、Yから上告された。本判決は、出来形(建前)の所有権もYに帰属するとして、第二審判決を破棄し、第一審判決に対するXの控訴を棄却した。
請負契約において、完成建物の所有権が注文者と請負人のいずれに帰属するかについては、判例は、周知のように、特約があればこれに従うが、特約がない場合には、材料を誰が提供したかによって分け、注文者が材料の全部又は主要部分を提供したときは原始的に注文者に帰属するが、請負人が材料の全部又は主要部分を提供したときは、完成建物は原始的に請負人に帰属し、引渡によって注文者に所有権が移転するとの理論を採っている。この理は、下請負人がいる場合も同様であるとされている(大判大4・10・22民録二一輯一七四六頁。なお、最判昭54・1・25民集三三巻一号二六頁もこのことを前提としているものと思われる。)。学説は、かつては判例の立場を支持するのが通説(我妻・債権各論中二・六一六頁)といわれてきたが、近時は、材料を提供したのが請負人であっても原始的に注文者に帰属するとする説がむしろ有力である(広中・注釈民法(16)一〇三頁、加藤・民法教室債権編一二〇頁、来栖・契約法四六七頁など)。
それでは、判例理論を前提にすると、注文者と元請との元請契約には所有権帰属の特約があるが、元請と下請との下請契約には特約がなく、かつ、材料を下請が提供して施工した場合には、所有権は誰に帰属するのであろうか。本件では正にこの点が争われたのである。
下請負人と注文者との間で完成建物の所有権帰属が争われた事例は、判例雑誌に掲載されたものだけをみても、比較的多数ある(大阪高判昭52・7・6ジュリ六五二号六頁、大阪地判昭53・10・30本誌三七五号一〇九頁、東京地判昭57・7・9本誌四七九号一二四頁、判時一〇六三号一八九頁、東京高判昭58・7・28判時一〇八七号六七頁、仙台高決昭59・9・4本誌五四二号二二〇頁、東京高判昭59・10・30判時一一三九号四二頁、東京地判昭61・5・27判時一二三九号七一頁、東京地判昭63・4・22金判八〇七号三四頁など)。その多くは本件と同じように元請業者が倒産し、注文者は代金を支払っているが、下請には下請代金の全部又は一部が支払われていないケースである。このような場合に注文者と下請のどちらを保護すべきかという問題になるが、下級審の裁判例でみる限り、前述の判例理論を前提にしつつも、あるいは注文者、元請、下請の三者間に暗黙の合意があると認定したり、あるいは下請からの所有権の主張は権利濫用であるとしたり、あるいは下請は元請の履行補助者、履行代行者にすぎないとして下請の権利主張を制限するなど、注文者を保護しようとするのが実務の傾向であるといってよい。
本判決は、注文者の承諾がないままに一括下請されたケースにつき、このような下請負人は元請負人の履行補助者的立場にあるものであるから注文者に対して元請負人と異なる権利関係を主張し得る立場にはないとして、元請契約の約定によって出来形の所有権帰属も決せられるとした注文者の関与できない元請や下請など工事をする側の内部事情いかんによって元請契約で定められた注文者の地位や権利が変動し、結果として注文者が代金の二重払いを余儀なくさせられるような事態になることは不合理であるとの判断に基づくものと思われる。紛争事例が多くみられる注文者と下請の関係を扱った最高裁判決であり、実務に与える影響が大きい判例といえよう。なお、本判決には可部裁判官の詳細な補足意見が付されている。

+(付合、混和又は加工に伴う償金の請求)
第248条
第242条から前条までの規定の適用によって損失を受けた者は、第703条及び第704条の規定に従い、その償金を請求することができる。

+(加工)
第246条
1項 他人の動産に工作を加えた者(以下この条において「加工者」という。)があるときは、その加工物の所有権は、材料の所有者に帰属する。ただし、工作によって生じた価格が材料の価格を著しく超えるときは、加工者がその加工物の所有権を取得する
2項 前項に規定する場合において、加工者が材料の一部を供したときは、その価格に工作によって生じた価格を加えたものが他人の材料の価格を超えるときに限り、加工者がその加工物の所有権を取得する。

・請負人が注文者に対して報酬請求をした場合に、仕事の目的物に瑕疵があり、注文者が瑕疵の修補を請求したときは、注文者は法主の支払いを拒むことができる!!
←注文者の報酬支払義務と請負人の瑕疵修補義務とは、同時履行の関係にある(634条2項・533条)。そして、注文者が瑕疵修補請求をした場合、請負人の債務は、完全に履行されていないのであるから、信義則に反しない限り、注文者は修補が終了するまで、報酬の全部の支払いを拒むことができる!!!!

+(請負人の担保責任)
第634条
1項 仕事の目的物に瑕疵があるときは、注文者は、請負人に対し、相当の期間を定めて、その瑕疵の修補を請求することができる。ただし、瑕疵が重要でない場合において、その修補に過分の費用を要するときは、この限りでない。
2項 注文者は、瑕疵の修補に代えて、又はその修補とともに、損害賠償の請求をすることができる。この場合においては、第533条の規定を準用する

+(同時履行の抗弁)
第533条
双務契約の当事者の一方は、相手方がその債務の履行を提供するまでは、自己の債務の履行を拒むことができる。ただし、相手方の債務が弁済期にないときは、この限りでない。

・請負人が仕事を完成しない間は、注文者はいつでも損害を賠償して契約の解除をすることができるが、仕事の内容が可分であり、既にその一部が完成し、完成部分が注文者にとって有益なものである場合には、注文者は、未完成部分に限り契約を解除することができる!!
←「仕事の完成」についての判断。
+(注文者による契約の解除)
第641条
請負人が仕事を完成しない間は、注文者は、いつでも損害を賠償して契約の解除をすることができる。

・請負契約は有償契約であり、報酬は、目的物の引渡しを要するときはその引渡しと引き換えに支払わなければならない!
+(報酬の支払時期)
第633条
報酬は、仕事の目的物の引渡しと同時に、支払わなければならない。ただし、物の引渡しを要しないときは、第624条第1項の規定を準用する。

・物の引渡しを要しないときは後払いが原則。
=仕事の完成とは同時履行の関係に立たない!
+(報酬の支払時期)
第633条
報酬は、仕事の目的物の引渡しと同時に、支払わなければならない。ただし、物の引渡しを要しないときは、第624条第1項の規定を準用する。

+(報酬の支払時期)
第624条
1項 労働者は、その約した労働を終わった後でなければ、報酬を請求することができない。
2項 期間によって定めた報酬は、その期間を経過した後に、請求することができる。

・建物建築を目的とした請負契約において、建物が完成する前に不可抗力によって建物が減失し、完成が不能となった場合、その危険は請負人が負担することになるので、請負人は、注文者に対して報酬の支払いを請求することはできない!!

・建物建築請負契約の目的物である建物に重大な瑕疵があるためにこれを建て替えざるを得ない場合には、注文者は、請負人に対し、建物の建て替えに要する費用相当額を損害としてその賠償を請求することができる!

+判例(H14.9.24)
主文
本件上告を棄却する。
上告費用は上告人の負担とする。
理由
上告代理人鎌田哲成の上告受理申立て理由(ただし、排除されたものを除く。)について
1 本件は、建物の建築工事を注文した被上告人が、これを請け負った上告人に対し、建築された建物には重大な瑕疵があって建て替えるほかはないとして、請負人の瑕疵担保責任等に基づき、損害賠償を請求する事案である。建て替えに要する費用相当額の損害賠償を請求することが、民法六三五条ただし書の規定の趣旨に反して許されないかどうかが争われている。

2 原審が適法に確定した事実関係の概要は次のとおりである。
被上告人から注文を受けて上告人が建築した本件建物は、その全体にわたって極めて多数の欠陥箇所がある上、主要な構造部分について本件建物の安全性及び耐久性に重大な影響を及ぼす欠陥が存するものであった。すなわち、基礎自体ぜい弱であり、基礎と土台等の接合の仕方も稚拙かつ粗雑極まりない上、不良な材料が多数使用されていることもあいまって、建物全体の強度や安全性に著しく欠け、地震や台風などの振動や衝撃を契機として倒壊しかねない危険性を有するものとなっている。このため、本件建物については、個々の継ぎはぎ的な補修によっては根本的な欠陥を除去することはできず、これを除去するためには、土台を取り除いて基礎を解体し、木構造についても全体をやり直す必要があるのであって、結局、技術的、経済的にみても、本件建物を建て替えるほかはない

3 請負契約の目的物が建物その他土地の工作物である場合に、目的物の瑕疵により契約の目的を達成することができないからといって契約の解除を認めるときは、何らかの利用価値があっても請負人は土地からその工作物を除去しなければならず、請負人にとって過酷で、かつ、社会経済的な損失も大きいことから、民法六三五条は、そのただし書において、建物その他土地の工作物を目的とする請負契約については目的物の瑕疵によって契約を解除することができないとしたしかし請負人が建築した建物に重大な瑕疵があって建て替えるほかはない場合に、当該建物を収去することは社会経済的に大きな損失をもたらすものではなく、また、そのような建物を建て替えてこれに要する費用を請負人に負担させることは、契約の履行責任に応じた損害賠償責任を負担させるものであって、請負人にとって過酷であるともいえないのであるから、建て替えに要する費用相当額の損害賠償請求をすることを認めても、同条ただし書の規定の趣旨に反するものとはいえない。したがって、建築請負の仕事の目的物である建物に重大な瑕疵があるためにこれを建て替えざるを得ない場合には、注文者は、請負人に対し、建物の建て替えに要する費用相当額を損害としてその賠償を請求することができるというべきである。
4 以上と同旨の原審の判断は、正当として是認することができる。原判決に所論の違法はなく、論旨は採用することができない。
よって、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

++解説
《解  説》
一 本件は、建物の建築工事を注文したXが、これを請け負ったYに対し、建築された建物には重大な瑕疵があって建て替えるほかはないとして、請負人の瑕疵担保責任等に基づき、損害賠償を請求した事案である。建て替えに要する費用相当額の損害賠償を請求することが、「建物其他土地ノ工作物」については重大な瑕疵があっても請負契約を解除することはできないと定めている民法六三五条ただし書の規定の趣旨に反して許されないかどうかが争点となった。

二 Xは、Yに対し、本件建物(三世帯居住用の木造ステンレス鋼板葺二階建て建物)の建築工事を代金四三五二万二〇〇〇円で注文した。ところが、Yが建築した本件建物は、その全体にわたって極めて多数の欠陥箇所がある上、主要な構造部分について安全性及び耐久性に重大な影響を及ぼす欠陥があり、地震や台風などの振動や衝撃を契機として倒壊しかねない危険性を有するものであった。このため、本件建物については、個々の継ぎはぎ的な補修によっては根本的な欠陥を除去することはできず、技術的、経済的にみても、建て替えるほかはないというものであった。

三 そこで、Xは、Yに対し、瑕疵担保責任等に基づき建て替え費用等の損害賠償を請求した。これに対し、Yは、瑕疵の存在を争うとともに、仮に、本件建物に欠陥が存在するとしても、すべて補修可能であり、補修が不能であるとしても、民法六三五条ただし書により、建物については瑕疵の存在を理由に契約の解除をすることはできないのであるから、建て替え費用を損害として認めることは、契約の解除以上のことを認める結果となるから許されず、損害賠償の額は、本件建物の客観的価値が減少したことによる損害とされるべきであると主張した。

四 第一、二審とも、本件建物には重大な瑕疵があって建て直す必要があると判断し、瑕疵担保責任に基づき、建て替え費用相当額の損害の賠償をYに命じた。
原審の認定した本件建物の建て替えに要する費用は、建て替え費用三四四四万円のほか、建て替えに伴う引越費用、建て替え工事中の代替住居の借賃等の合計三八三〇万二五六〇円である。そして、原審は、本件建物の居住によってXが受けた利益を六〇〇万円と認め、これと未払残代金等を控除した後の二三二八万一九二四円と弁護士費用二三〇万円の合計額の限度でXの請求を認容した。なお、原判決は、このように解することが民法六三五条ただし書の規定の趣旨に反するとはいえないとの判断を示している。

五 Yの上告受理申立ての理由のうち、民法六三五条ただし書の解釈適用の誤りをいう論旨は、建物その他土地の工作物について請負契約の解除を認めない民法六三五条ただし書の規定の趣旨に照らせば、建物の建て替えに要する費用相当額の損害賠償を認めることは許されないというものであった。
これに対し、本判決は、「建築請負の仕事の目的物である建物に重大な瑕疵があるためにこれを建て替えざるを得ない場合には、注文者は、請負人に対し、建物の建て替えに要する費用相当額を損害としてその賠償を請求することができる。」との判断を示して、上告を棄却した。

六 民法六三四条に基づく建物の瑕疵修補に代わる損害賠償請求において、建て替え費用の損害賠償請求を認めることが民法六三五条ただし書の規定の趣旨に反するかという問題について、論旨と同様に建て替え費用の損害賠償請求は許されないとする裁判例として、神戸地判昭63・5・30本誌六九一号一九三頁、判時一二九七号一〇九頁、東京地判平3・6・14本誌七七五号一七八頁、判時一四一三号七八頁がある。また、同旨の学説として、後藤勇「最近の裁判例からみた請負に関する諸問題」本誌三六五号五四頁、同「請負建築建物に瑕疵がある場合の損害賠償の範囲」本誌七二五号八頁がある。
これに対し、瑕疵修補に代わる損害賠償として建物の建て替え費用相当額の損害賠償請求を認めた裁判例として、大阪高判昭58・10・27本誌五二四号二三一頁、判時一一一二号六七頁など(大阪地判昭59・12・26本誌五四八号一八一頁、大阪地判昭62・2・18本誌六四六号一六五頁、判時一三二三号六八頁、大阪高判平1・2・17本誌七〇五号一八五頁、判時一三二三号八三頁)があり、同旨の学説もいくつか発表されている(青野博之「建築請負契約における担保責任と損害賠償」法時六一巻九号一〇四頁、池田恒男「いわゆる欠陥住宅と建築請負人の責任」本誌七九四号四一頁、内山尚三165C山口康夫・叢書民法総合判例研究 請負〔新版〕一七二頁)。

七 本判決は、まず、民法六三五条ただし書の趣旨について、「請負契約の目的物が建物その他土地の工作物である場合に、目的物の瑕疵により契約の目的を達成することができないからといって契約の解除を認めるときは、何らかの利用価値があっても請負人は土地からその工作物を除去しなければならず、請負人にとって過酷で、かつ、社会経済的な損失も大きいことから、民法六三五条は、そのただし書において、建物その他土地の工作物を目的とする請負契約については目的物の瑕疵によって契約を解除することができないとした」と判示している。しかし、その上で、本判決は、「請負人が建築した建物に重大な瑕疵があって建て替えるほかはない場合に、当該建物を収去することは社会経済的に大きな損失をもたらすものではなく、また、そのような建物を建て替えてこれに要する費用を請負人に負担させることは、契約の履行責任に応じた損害賠償責任を負担させるものであって、請負人にとって過酷であるともいえないのであるから、建て替えに要する費用相当額の損害賠償請求をすることを認めても、民法六三五条ただし書の規定の趣旨に反するものとはいえない」と判示して、建て替え費用相当額の損害賠償を認めた原審の判断を正当として是認した。(なお、民法六三五条ただし書の規定の趣旨については、本判決と同旨を述べるものとして、我妻榮・債権各論2305中二・六四〇頁、幾代通165C広中俊雄編・新版注釈民法16債権(7)一五二頁(内山尚三執筆部分)等がある。)
八 本判決は、裁判例、学説が分かれていた論点について、最高裁判所として初めての判断を示したものであるので、実務上参考となると思われる。

+(請負人の担保責任)
第635条
仕事の目的物に瑕疵があり、そのために契約をした目的を達することができないときは、注文者は、契約の解除をすることができるただし、建物その他の土地の工作物については、この限りでない。

・請負契約における仕事の目的物の瑕疵の修補に代わる損害賠償請求権は、建物の引渡しを受けたときに発生し、しかも期限の定めのない債権としてその発生の時から弁済期にある!(注文者が瑕疵の存在を認識したときに発生するわけではない!!)

+判例(S54.3.20)
理由
一 上告代理人新川晴美の上告理由について
本件造塀工事の進行と上告人主張の樹木の枯死によつて上告人が被つたとする損害との間には相当因果関係が認められないとした原審の認定判断は、原審の確定した事実関係及び本件記録中の証拠関係に徴して首肯するに足り、原判決に所論の違法はない。論旨は、採用することができない。

二 しかしながら、職権をもつて考えると、原判決には次の点において法令の解釈適用を誤つた違法があり、原判決は、結局、破棄を免れない。
1 原審は、被上告人が、昭和五〇年三月一二日に上告人に到達した書面により塀の築造についての原判示の追加工事分を含む請負契約を解除した結果、上告人に対し、二一七万一七四〇円の損害賠償債権(うち金二一〇万四九三〇円が本訴請求債権)を取得した事実、他方、上告人もまた、原判示建物の建築請負契約の注文主として、浄化槽及び排水設備工事の瑕疵について五五万六〇〇〇円、また、ボイラー室工事の瑕疵について一万五〇〇〇円、合計五七万一〇〇〇円の損害賠償債権を取得した事実をそれぞれ確定したうえ、上告人が昭和五一年一一月八日に被上告人訴訟代理人に到達の準備書面によつてした上告人の被上告人に対する右損害賠償債権を自働債権とし、被上告人の上告人に対する右損害賠償債権(本訴請求債権)を受働債権とする相殺の意思表示により、右相殺の日である昭和五一年一一月八日をもつて、自働債権五七万一〇〇〇円のうち二〇万九六八一円がまず受働債権二一七万一七四〇円のうち本訴請求にかかる二一〇万四九三〇円に対する昭和五〇年三月一三日(上告人に対する本件訴状の送達により原判示請負契約が解除された日の翌日)から同五一年一一月八日までの遅延損害金債権に充当され、その残額三六万一三一九円が前示二一〇万四九三〇円の元本債権に充当される結果、上告人は被上告人に対し、右元本の残額一七四万三六一一円及びこれに対する昭和五一年一一月九日以降完済にいたるまで年六分の割合による遅延損害金の支払義務がある旨の判断を示し、上告人に対し、右金額による金員の支払を命じている。
しかしながら相殺の意思表示は双方の債務が互いに相殺をするに適するにいたつた時点に遡つて効力を生ずるものである(民法五〇六条二項)から、その計算をするにあたつては、双方の債務につき弁済期が到来し、相殺適状となつた時期を基準として双方の債権額を定め、その対当額において差引計算をすべきものである。本件についてこれをみるのに、自働債権である上告人の被上告人に対する債権は、民法六三四条二項所定の損害賠償債権であるから、上告人において注文にかかる建物の引渡を受けた時(原審の確定するところによれば、昭和四八年一二月二五日である。)に発生したもので、しかも期限の定めのない債権としてその発生の時から弁済期にあるものと解すべく、他方、受働債権である被上告人の上告人に対する損害賠償債権は本件請負契約につき解除の効力を生じた昭和五〇年三月一二日に発生したもので、この債権もまた期限の定めがないものとしてその発生と同時に弁済期が到来したものと解すべきである。そうすると、右両債権は昭和五〇年三月一二日をもつて相殺適状となつたものであるから、上告人が昭和五一年一一月八日にした相殺の意思表示により、昭和五〇年三月一二日に遡つて相殺の効力を生じたものというべきである。そして、右相殺により、被上告人主張の損害賠償債権二一〇万四九三〇円のうち五七万一〇〇〇円が消滅し、結局、上告人は、被上告人に対し、残額一五三万三九三〇円及びこれに対する昭和五〇年三月一三日以降支払ずみにいたるまで商事法定利率年六分の割合による遅延損害金の支払義務を負担するにいたつたものといわなければならない。
しかるに、原審は、上告人が相殺の意思表示をした昭和五一年一一月八日の時点における双方の債権額を計算したうえ、差引計算により被上告人の上告人に対する債権額を算出しているのであつて、右は相殺の効力に関する民法五〇六条二項の規定の解釈適用を誤つたものであつて、この違法は原判決の結論に影響を及ぼすことが明らかであるから、原判決の上告人敗訴部分中一五三万三九三〇円及びこれに対する昭和五〇年三月一三日以降完済にいたるまで年六分の割合による金額を超えて認容した部分は破棄を免れない。そして、前記説示に徴し、右部分については当審において裁判をするに熟するので、原判決主文第一項を本判決主文第一項1のとおり変更すべきものである。

2 次に、原審は、第一審判決に付された仮執行の宣言に基づく強制執行により、昭和五一年四月二二日、上告人が給付した本訴請求金二一〇万四九三〇円とこれに対する昭和五〇年三月一三日から同五一年三月一二日までの年六分の割合による遅延損害金一二万六二九五円との合計額である二二三万一二二五円及びこれに対する右強制執行による給付の翌日である昭和五一年四月二三日以降支払ずみにいたるまで商事法定利率年六分の割合による遅延損害金の支払を求める旨の民訴法一九八条二項所定の申立について、右事実関係について争いがないとしたうえ、その一部を認容して被上告人に対し五五万六八一四円及び内金三六万一三一九円に対する昭和五一年一一月九日以降支払ずみにいたるまでの年六分の割合による金員の支払を命じ、その余の請求を棄却している。
しかしながら、前記1の説示に照らすと、上告人の申立は、上告人が強制執行を受けたために給付した二二三万一二二五円のうち、当審において原判決を変更し、上告人に支払を命ずべき一五三万三九三〇円とこれに対する昭和五〇年三月一三日以降同五一年三月一二日までの遅延損害金九万二〇三五円との合計額一六二万五九六五円を控除した金額である六〇万五二六〇円は、第一審判決が変更されることにより被上告人から上告人に対し返環義務が生ずる金員であるから、上告人の申立は右金額及びこれに対する仮執行による支払の翌日である昭和五一年四月二三日から支払ずみにいたるまで商事法定利率年六分の割合による遅延損害金相当額の限度で認容されるべきものである。
してみれば、これと異なる原判決には民訴法一九八条二項の解釈適用を誤つた違法があることに帰し、原判決の上告人敗訴部分中上告人の申立額と前記金額との差額を超えて上告人の請求を棄却した部分は破棄を免れない。そして、前記説示に徴し、右部分についても当審において裁判をするに熟するので、原判決主文第二項を本判決主文第一項2のとおり変更すべきものである。
三 よつて、民訴法四〇八条、三九六条、三八六条、九六条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

・仕事の目的物に瑕疵があるときは、注文者は、瑕疵の修補が可能であっても、修補を請求せずに直ちに修補に代わる損害賠償を請求することができる!!!!

+判例(S54.3.20)同日(笑)
理由
上告代理人能登要の上告理由について
仕事の目的物に瑕疵がある場合には、注文者は、瑕疵の修補が可能なときであつても、修補を請求することなく直ちに修補に代わる損害の賠償を請求することができるものと解すべく、これと同旨の見解を前提とする原判決に所論の違法はない。論旨は、独自の見解に基づいて原判決を論難するにすぎないものであつて、採用することができない。
よつて、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
(高辻正己 江里口清雄 服部高顯 環昌一 横井大三)

上告代理人能登要の上告理由
原判決がその理由において、上告人(第一審原告)(以下原告という)の被上告人(第一審被告)(以下被告という)に対する出来残代金二一七万一七四〇円相当の損害賠償債権を認定していることはその理由の示すとおりであり、正当である。これに対する被告の上告理由の論旨は理由がない。
しかし、原判決は被告の原告に対する五五万六〇〇〇円の損害賠償債権の成立を認定(原判決の理由四項2)したことは以下記載のとおり、釈明不行使、審理不尽の違法があると思料する。
第一点 原判決には釈明不行使、審理不尽の違法がある。
一、すなわち、原判決はその理由(四項2)において、本件建物の浄化槽及び排水設備工事に瑕疵があり、被告が昭和五〇年九月から一〇月頃にかけて訴外三王建設興産株式会社に請負わせて右瑕疵の改修工事をさせ、その代金として金五五万六〇〇〇円を支払つている旨認定したうえ、これを瑕疵の修補に代る損害賠償として原告に請求しうると判断し、被告の相殺抗弁を認容した。
二、瑕疵修補が可能な場合には、民法第六三四条一項の規定によるべきであり、直ちに同条二項を適用することは原則としてできないと解するのが相当である。但し、この場合でも請負人の担保責任を規定した民法第六三四条二項による請求をするためには、同条一項の「相当ノ期間ヲ定メテ其ノ瑕疵ノ修補ヲ請求」しても請負人が修補義務を履行しないときに、注文者は同条二項により修補に代えて損害賠償の請求をすることができることを定めたものと解するのが相当である。
同条二項は本来修補が不能であるか、または瑕疵が重要でなくその修補に過分の費用を要する場合に適用されるもので、瑕疵修補が可能な場合には同条一項による修補を請求することが信義則の要求するところである。瑕疵修補が可能な場合に同条二項が適用されるのは前記のように請負人の修補義務不履行の場合に限定するのが相当と思料する。
民法第六三四条で一項と二項を規定したのは、瑕疵の内容により適用区別したもので、瑕疵修補可能な場合も単純に選択的規定と理解すべきではない。然らざれば、無過失責任の本規定の適用について、請負人に苛酷な結果となる。また、同条一項の立法の趣旨を没却させることにもなるからである。また、請負契約の内容からみても、先づ請負人が目的物を完成させる義務があり、完成後においても先づ瑕疵修補義務があるとするのが当事者双方の合理的な意思であり、公平の理念にも合致する。
三、しかるに、被告は本件建物の浄化槽及び排水設備工事の瑕疵について、原告に対する「相当期間を定めた修補請求」をすることなく、一方的に三王建設興産株式会社に請負わせて改修工事をさせた。
原告が被告から相当期間を定めて瑕疵修補の請求を受けたのであれば、原告の下請をした配管業者に指図して原告の計算によらずして瑕疵の改修工事をさせることができたのである。下請配管業者も原告に対して瑕疵担保責任を負担していたからである。
四、被告は原告に対し、先づ「相当期間を定めて瑕疵修補請求」すべきであるのに、この請求をしないで原告に無断で第三者に修補させたのであるから、民法第六三四条二項を適用する要件を欠いているというべく、その損害額が五五万六〇〇〇円であるとしても、原告に対する請求権は発生しない。
また、原審が損害額の成立を認定するについて、被告が原告に対する「相当期間を定めて瑕疵修補の請求」をしたか否かについて釈明権を行使するなどして、充分なる審理を尽くすべきであるのに、これを看過して前記認定をしたことは釈明不行使、審理不尽の違法があるといわねばならない。

・注文者が請負人に対し修補を請求したが、請負人がこれに応じないので、瑕疵の修補に代えて損害賠償を請求する場合における損害額の算定の基準時は、修補請求の時である。
+判例(S36.7.7)
調べておく

・請負契約の目的物に瑕疵がある場合、修補に代わる損害賠償請求権と請負代金請求権は全体として同時履行の関係に立ち、注文者は、信義則に反する場合を除き、請負人から修補に代わる損害賠償を受けるまでは、報酬全額の支払いを拒むことができる!!!

+判例(H9.2.14)
理由
上告代理人渡部邦昭の上告理由第一点について
一 本件請求は、請負人である上告人が注文者である被上告人に対して工事残代金及びこれに対する約定遅延損害金の支払を求めるものである。
原審の適法に確定したところは、次のとおりである。(1) 上告人は、昭和六一年一二月二四日、被上告人との間に、被上告人が従来有していた納屋を解体して新たに住居を建築する工事について、工事代金を一六五〇万円、その支払遅滞による違約金の割合を一日当たり未払額の一〇〇〇分の一とする請負契約を締結した。(2) 上告人は、昭和六二年一一月三〇日までに、被上告人に対し、右工事を完成させて引き渡したほか、追加工事(工事代金三四万四一四七円)も行った結果、既払分を控除した工事残代金は、合計で一一八四万四一四七円である。(3) 他方、右工事の目的物である建物には、一〇箇所の瑕疵が存在し、その修補に要する費用は、合計一三二万一三〇〇円である。

二 被上告人は、上告人の本件請求に対し、右瑕疵の修補に代わる損害賠償債権との同時履行の抗弁を主張し、上告人は、被上告人が同時履行の抗弁を主張し得るのは、公平の原則上、右損害賠償額の範囲内に限られるべきであり、被上告人が工事残代金全額について同時履行の抗弁を主張するのは、信義則に反し、権利の濫用として許されない旨主張して争っている。

三 請負契約において、仕事の目的物に瑕疵があり、注文者が請負人に対して瑕疵の修補に代わる損害の賠償を求めたが、契約当事者のいずれからも右損害賠償債権と報酬債権とを相殺する旨の意思表示が行われなかった場合又はその意思表示の効果が生じないとされた場合には、民法六三四条二項により右両債権は同時履行の関係に立ち、契約当事者の一方は、相手方から債務の履行を受けるまでは、自己の債務の履行を拒むことができ、履行遅滞による責任も負わないものと解するのが相当である。しかしながら瑕疵の程度や各契約当事者の交渉態度等に鑑み、右瑕疵の修補に代わる損害賠償債権をもって報酬残債権全額の支払を拒むことが信義則に反すると認められるときは、この限りではない。そして、同条一項但書は「瑕疵カ重要ナラサル場合ニ於テ其修補力過分ノ費用ヲ要スルトキ」は瑕疵の修補請求はできず損害賠償請求のみをなし得ると規定しているところ、右のように瑕疵の内容が契約の目的や仕事の目的物の性質等に照らして重要でなく、かつ、その修補に要する費用が修補によって生ずる利益と比較して過分であると認められる場合においても、必ずしも前記同時履行の抗弁が肯定されるとは限らず、他の事情をも併せ考慮して、瑕疵の修補に代わる損害賠償債権をもって報酬残債権全額との同時履行を主張することが信義則に反するとして否定されることもあり得るものというべきである。
けだし、右のように解さなければ、注文者が同条一項に基づいて瑕疵の修補の請求を行った場合と均衡を失し、瑕疵ある目的物しか得られなかった注文者の保護に欠ける一方、瑕疵が軽微な場合においても報酬残債権全額について支払が受けられないとすると請負人に不公平な結果となるからである(なお、契約が幾つかの目的の異なる仕事を含み、瑕疵がそのうちの一部の仕事の目的物についてのみ存在する場合には、信義則上、同時履行関係は、瑕疵の存在する仕事部分に相当する報酬額についてのみ認められ、その瑕疵の内容の重要性等につき、当該仕事部分に関して、同様の検討が必要となる)。

四 これを本件についてみるのに、原審の適法に確定した事実関係によれば、本件の請負契約は、住居の新築を契約の目的とするものであるところ、右工事の一〇箇所に及ぶ瑕疵には、(1) 二階和室の床の中央部分が盛り上がって水平になっておらず、障子やアルミサッシ戸の開閉が困難になっていること、(2) 納屋の床にはコンクリートを張ることとされていたところ、上告人は、被上告人に無断で、右床についてコンクリートよりも強度の乏しいモルタルを用いて施工し、しかも、その塗りの厚さが不足しているため亀裂が生じていること、(3) 設置予定とされていた差掛け小屋が設置されていないこと等が含まれ、その修補に要する費用は、(1)が三五万八〇〇〇円、(2)が三〇万八〇〇〇円、(3)が一八万二〇〇〇円であるというのであり、また、被上告人は、昭和六二年一一月三〇日までに建物の引渡しを受けた後、右のような瑕疵の処理について上告人と協議を重ね、上告人から翌六三年一月二五日ころ右瑕疵については工事代金を減額することによって処理したいとの申出を受けた後は、瑕疵の修補に要する費用を工事残代金の約一割とみて一〇〇〇万円を支払って解決することを提案し、右金額を代理人である弁護士に預けて上告人との交渉に当たらせたが、上告人は、被上告人の右提案を拒否する旨回答したのみで、他に工事残代金から差し引くべき額について具体的な対案を提示せず、結局、右交渉は決裂してしまったというのである。そして、記録によれば、上告人はその後間もない同年四月一五日に、本件の訴えを提起している。
そうすると、本件の請負契約の目的及び目的物の性質等に照らし、本件の瑕疵の内容は重要でないとまではいえず、また、その修補に過分の費用を要するともいえない上、上告人及び被上告人の前記のような交渉経緯及び交渉態度をも勘案すれば、被上告人が瑕疵の修補に代わる損害賠償債権をもって工事残代金債権全額との同時履行を主張することが信義則に反するものとは言い難い
原判決は、被上告人に対し、工事残代金を損害賠償債権のうち八二万四〇〇〇円と引換えに支払うよう命ずるに当たり、その理由として、単に右損害賠償債権の合計額を工事残代金債権額と比較してこれが軽微な金額とはいえないなどとしたかのような措辞を用いている部分もあるが、その趣旨は右に説示したところと同旨と理解することができ、被上告人の同時履行の抗弁を認めた原審の判断は、これを是認することができる。論旨は、独自の見解に基づき又は原判決を正解しないでその法令違背をいうものであって、採用することができない。

同第二点について
所論の点に関する原審の認定判断は、原判決挙示の証拠関係に照らし、正当として是認することができ、その過程に所論の違法はない。論旨は、原審の専権に属する証拠の取捨判断、事実の認定を非難するものであって、採用することができない。
よって、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 可部恒雄 裁判官 園部逸夫 裁判官 大野正男 裁判官 千種秀夫 裁判官 尾崎行信)

++解説
《解  説》
本件は、民法六三四条二項後段が請負契約の報酬債権と瑕疵の修補に代わる損害賠償債権との間に同法五三三条を準用していることにつき、その意義が問題とされた事例である。
一 事案の概要 Yは、昭和六一年暮れ、建築業者であるXとの間に、自宅建築につき請負契約を締結した(代金一六五〇万円、その不払の際の遅延損害金は一日当たり残代金の一〇〇〇分の一の割合)。Xは、昭和六二年一一月三〇日までに、工事を完成させてYに建物を引き渡した(この間に、Xは追加変更工事を行い、Yは代金のうち五〇〇万円を支払っている。)。ところが、Yは、工事に幾つかの欠陥があることを指摘して残代金の支払を拒んだため、Xは、昭和六三年四月、残代金一一九六万八六四七円(追加変更工事の代金も含む。)及びこれに対する建物引渡しの日の翌日以降の約定の率による遅延損害金の支払を求めて、本件訴訟を提起した。Yは、工事の瑕疵の修補に代わる損害賠償との同時履行等を主張して争ったが、Xは、右同時履行の抗弁につき、注文者が残代金の支払を拒めるのは瑕疵の修補に代わる損害額に見合う額の範囲に限られると反論していた。第一審判決(平成四年三月言渡し)は、工事の残代金一一五九万八八四七円と瑕疵の修補に代わる損害額八二万四〇〇〇円との引換給付を命じ、遅延損害金請求は棄却した。これに対し、Xが控訴したが、Yは、その直後ころに、第一審判決に付された仮執行宣言に基づくXの仮執行に応じて、支払を行っている。その後の控訴審の審理において、Xは、瑕疵の修補に代わる損害賠償債権に対する工事の残代金債権による相殺の主張を追加した(Xは本件訴訟提起前に相殺の意思表示をしており、そうでなくても、控訴審の口頭弁論期日において相殺の意思表示をするとした。)。本件の原判決は、工事の残代金として一一八四万四一四七円を、一〇箇所に及ぶ瑕疵の修補に代わる損害として一三二万一三〇〇円を認め、Xの相殺の主張を排斥し(訴訟提起前にXが相殺の意思表示をしていたとは認め難く、また、本件においてはYが第一審判決に基づく仮執行に応じた際にXにおいて相殺権を放棄していたものと認められるから控訴審における相殺の意思表示もその効果を認め難いとする。)、不利益変更禁止の原則を適用して、工事の残代金一一八四万四一四七円と瑕疵の修補に代わる損害額のうち八二万四〇〇〇円との引換給付を命じ、遅延損害金請求は棄却した。これに対し、Xが上告した。

二 Xは、上告理由において、請負契約の報酬債権と瑕疵の修補に代わる損害賠償債権との相殺が認められていることからすると、右の間の同時履行関係は、それぞれの見合う額の範囲に限られるべきであると主張した。
これに対し、本判決は、右両債権間の同時履行関係は、原則としてその全額の間に認められるとした上、本件は右の例外には当たらないとして、上告を棄却した。

三 周知のとおり、ある二つの債権が同時履行関係にある場合の効果としては、一方の債権の債務者が訴訟において他方との同時履行を主張した場合に引換給付の判決を得ることができるといういわゆる行使効果のほかに、履行期が到来してもいずれの債務も当然には履行遅滞とはならないといういわゆる存在効果が挙げられる。そして、金銭債権の支払請求に対し、債務者は、債権者の同時履行の抗弁の付着する他の債権をもって相殺に供することはできないとされているが、これについては、債務者の一方的な意思表示により債権者の同時履行の抗弁を失わせることはできないからと説明されている(大判昭13・3・1民集一七巻三一八頁ほか)。
ところで、民法六三四条二項後段は、請負契約の目的物に瑕疵があった場合に請負人の報酬債権と注文者の瑕疵の修補に代わる損害賠償債権とにつき民法五三三条の規定を準用する旨規定しており、文理上は、右両債権の間には、それぞれの金額のいかんを問わず、前記のような同時履行関係が認められることとなるはずである。ところが、判例は、右両債権は金額の大小にかかわらず相殺できるとしている(最一小判昭51・3・4民集三〇巻二号四八頁、最一小判昭53・9・21裁集民一二五号八五頁、本誌三七一号六八頁)。この判例法理を、前記の同時履行関係についての一般論と整合させようとすると、請負人の報酬債権と注文者の瑕疵の修補に代わる損害賠償債権とはそれぞれの見合う額の範囲においてのみ同時履行関係に立つという考え方も、成り立たないではない。本件の上告理由は、このような考え方に立脚するものと理解される。
この点に関する立法者の考えは、請負契約において請負人は目的物を瑕疵なく完成させる債務を負うとの理解の下に、注文者が瑕疵の修補を求める場合(民法六三四条一項)は、請負人に本来の債務の完全な履行を求めるものであって、報酬請求との間につき契約の総則規定である民法五三三条が正に適用されるが、注文者が瑕疵の修補に代わる損害の賠償を求める場合(民法六三四条二項)は、請負人の本来の債務の履行を求めるのではないから、報酬請求に対して当然には同時履行を主張し得ないはずであるところ、それでは注文者に酷な結果となるので、民法五三三条の規定を準用した上、最終的には、両債権間の相殺によって清算させて売買契約における代金減額請求(民法五六五条、五六三条参照)に類する結果を実現させようというものであった(法典調査会における民法六四一条案に関する議論等参照)。
実際にも、上告理由の立脚する見解に従うと、瑕疵の修補に要する額が報酬額を下回る場合に、注文者は、瑕疵の修補請求を選択したときには、報酬全額につき履行遅滞の責任を負わないが、請負人が修補に応じないなどの事情によりやむを得ず損害賠償請求を選択したときには、報酬と損害との差額につき当然に履行遅滞に陥ってしまうことになって、不均衡が生ずる。本判決は、右の点を指摘しつつ、民法六三四条二項後段につき、文理に忠実に解釈すべきことを判示するものである。

四 一方、本判決は、右の例外についても判示し、その一つとして、瑕疵の程度や当事者の交渉態度等を考慮し右に述べた原則をそのまま適用することが信義則に反する場合を挙げている。
同時履行の抗弁につき信義則上の制限を認める考え方は、ドイツ法において採用されているものであり、我が国でも多くの学説が支持している(学説の状況につき、新版注釈民法(13)五一二頁〔沢井裕=清水元〕等参照)。請負契約に関しては、最三小判昭38・2・12裁集民六四号四二五頁が、注文者は、工事の未完成部分が未払代金に比し極めて僅少であるときは、信義則上代金支払期日の未到来を主張することが許されないと解すべき旨を判示していた。また、明示的に信義則に言及してはいないが、大判大3・12・1民録二〇輯九九九頁が、民法五三三条の適用に関し、当事者の一方において債務の履行をしない意思が明確な場合には、相手方が債務の履行の提供をしなくても、債務不履行の責任を負うことがある旨判示しているのも、同様の考えに立脚するものと理解される。
本判決は、右の考え方に立脚しつつ、請負契約における信義則の適用について、更に具体的な目安を示している。すなわち、民法六三四条一項ただし書は、「瑕疵カ重要ナラサル場合ニ於テ其修補カ過分ノ費用ヲ要スルトキ」には注文者は瑕疵の修補に代わる損害賠償請求のみをし得ることとしているところ、文理上は、この場合にも、同条二項後段の適用があり報酬請求との間に同法五三三条が準用されると解釈すべきことを念頭において、信義則の適用につき、瑕疵の程度に関しては、右の「瑕疵カ重要ナラサル場合ニ於テ其修補カ過分ノ費用ヲ要スルトキ」との比較が一応のメルクマールとなるとし、これに当事者の交渉態度等を併せ考慮して判断すべきものとしている。その上で、本件の事実関係の下においては、瑕疵の修補に代わる損害の額は報酬残債権の額の一〇分の一程度であるが、なお信義則に反するとは見難いとしており、事例的にも興味深いものといえよう。

五 なお、本判決は、傍論ながら、同時履行の抗弁の信義則による制限につき、契約が複数の内容から成る一種の複合契約に当たる場合についても考え方を示している。このような場合に同時履行の抗弁の制限が問題となり得ることは、最三小判昭41・11・1裁集民八五号一頁(ただし、信義則については特に言及するところはない。)、最一小判昭63・12・22金法一二一七号三四頁において示唆されていたところである。本判決は、請負契約においても、右の考え方が基本的に妥当することを示すもので、やはり参考となろう。

六 本件は、冒頭に紹介したようなやや特殊な経過の下に、請負人である上告人Xの相殺の主張が認められず、その結果、報酬債権と瑕疵の修補に代わる損害賠償債権との同時履行関係が問題となったのであるが、本判決は、実務上も頻繁に見られる基本的な問題でありながら、従来あまり掘り下げた議論が行われていなかった分野につき、考え方を明確にしたものとして、その意義は小さくないものと考えられる。

+(請負人の担保責任)
第634条
1項 仕事の目的物に瑕疵があるときは、注文者は、請負人に対し、相当の期間を定めて、その瑕疵の修補を請求することができる。ただし、瑕疵が重要でない場合において、その修補に過分の費用を要するときは、この限りでない
2項 注文者は、瑕疵の修補に代えて、又はその修補とともに、損害賠償の請求をすることができる。この場合においては、第533条の規定を準用する。

・土地の工作物以外の請負契約における瑕疵担保責任の存続期間は、仕事の目的物の引渡しを受けたときから(引渡しを要しない場合には仕事の終了時から)(×注文者が瑕疵を知った時から)1年以内にしなければならない!!!
+(請負人の担保責任の存続期間)
第637条
1項 前三条の規定による瑕疵の修補又は損害賠償の請求及び契約の解除は、仕事の目的物を引き渡した時から一年以内にしなければならない。
2項 仕事の目的物の引渡しを要しない場合には、前項の期間は、仕事が終了した時から起算する。

・建物の請負契約における請負人の担保責任の存続期間は、原則として引渡しの時より5年である。
+(請負人の担保責任の存続期間)
第638条
1項 建物その他の土地の工作物の請負人は、その工作物又は地盤の瑕疵について、引渡しの後五年間その担保の責任を負う。ただし、この期間は、石造、土造、れんが造、コンクリート造、金属造その他これらに類する構造の工作物については、十年とする。
2項 工作物が前項の瑕疵によって滅失し、又は損傷したときは、注文者は、その滅失又は損傷の時から一年以内に、第634条の規定による権利を行使しなければならない。

・建物の請負契約において、耐震性強化のため、建物としての安全性を保つため必要な太さよりもさらに太い鉄骨を使用することが約定されていた場合において、約定に反する太さの鉄骨が使用されたときは、使用された鉄骨が構造計算上、建物としての安全性に問題がないものであったとしても、当該建物には瑕疵があると認められる!!!!
+(H15.10.10)
理由
1 本件は、上告人から建物の新築工事を請け負った被上告人が、上告人に対し、請負残代金の支払を求めたのに対し、上告人が、建築された建物の南棟の主柱に係る工事に瑕疵があること等を主張し、瑕疵の修補に代わる損害賠償債権等を自働債権とし、上記請負残代金債権を受働債権として対当額で相殺する旨の意思表示をしたなどと主張して、被上告人の上記請負残代金の請求を争う事案である。
2 上告人の上告受理申立て理由第1点及び第2点のうち南棟の主柱に係る工事の瑕疵に関する点について
(1) 原審の確定した事実関係は、次のとおりである。
上告人は、平成七年一一月、建築等を業とする被上告人に対し、神戸市灘区内において、学生、特に神戸大学の学生向けのマンションを建築する工事(以下「本件工事」という。)を請け負わせた(以下、この請負契約を「本件請負契約」といい、建築された建物を「本件建物」という。)。
上告人は、建築予定の本件建物が多数の者が居住する建物であり、特に、本件請負契約締結の時期が、同年一月一七日に発生した阪神・淡路大震災により、神戸大学の学生がその下宿で倒壊した建物の下敷きになるなどして多数死亡した直後であっただけに、本件建物の安全性の確保に神経質となっており、本件請負契約を締結するに際し、被上告人に対し、重量負荷を考慮して、特に南棟の主柱については、耐震性を高めるため、当初の設計内容を変更し、その断面の寸法三〇〇mm×三〇〇mmの、より太い鉄骨を使用することを求め、被上告人は、これを承諾した。
ところが、被上告人は、上記の約定に反し、上告人の了解を得ないで、構造計算上安全であることを理由に、同二五〇mm×二五〇mmの鉄骨を南棟の主柱に使用し、施工をした。
本件工事は、平成八年三月上旬、外構工事等を残して完成し、本件建物は、同月二六日、上告人に引き渡された。
(2) 原審は、上記事実関係の下において、被上告人には、南棟の主柱に約定のものと異なり、断面の寸法二五〇mm×二五〇mmの鉄骨を使用したという契約の違反があるが、使用された鉄骨であっても、構造計算上、居住用建物としての本件建物の安全性に問題はないから、南棟の主柱に係る本件工事に瑕疵があるということはできないとした。
(3) しかしながら、原審の上記判断は是認することができない。その理由は、次のとおりである。
前記事実関係によれば、本件請負契約においては、上告人及び被上告人間で、本件建物の耐震性を高め、耐震性の面でより安全性の高い建物にするため、南棟の主柱につき断面の寸法三〇〇mm×三〇〇mmの鉄骨を使用することが、特に約定され、これが契約の重要な内容になっていたものというべきである。そうすると、この約定に違反して、同二五〇mm×二五〇mmの鉄骨を使用して施工された南棟の主柱の工事には、瑕疵があるものというべきである。これと異なる原審の判断には、判決に影響を及ぼすことが明らかな法令の違反がある。

3 上告人の上告受理申立て理由第4点について
(1) 記録によれば、上告人は、被上告人に対し、平成一一年七月五日の第一審第三回弁論準備手続期日において、本件建物の瑕疵の修補に代わる損害賠償債権二四〇四万二九四〇円を有すると主張して(なお、上告人は、原審において、その主張額を増額している。)、この債権及び慰謝料債権を自働債権とし、被上告人請求の請負残代金債権を受働債権として、対当額で相殺する旨の意思表示をした。
(2) 原審は、上記相殺の結果として、上告人に対し、上告人の請負残代金債務一八九三万二九〇〇円(ただし、ローテーションキー二個との引換給付が命じられた一万七五一〇円を除いた金額である。)から瑕疵の修補に代わる損害の賠償額一一一二万七二四〇円及び慰謝料額一〇〇万円の合計一二一二万七二四〇円を控除した残額六八〇万五六六〇円及びこれに対する被上告人が上告人に送付した催告状による支払期限の翌日である平成八年七月二四日から支払済みまで商事法定利率年六分の割合による遅延損害金の支払を命じた。
(3) しかしながら、原審の遅延損害金の起算点に係る上記判断は是認することができない。その理由は、次のとおりである。
請負人の報酬債権に対し、注文者がこれと同時履行の関係にある目的物の瑕疵の修補に代わる損害賠償債権を自働債権とする相殺の意思表示をした場合、注文者は、請負人に対する相殺後の報酬残債務について、相殺の意思表示をした日の翌日から履行遅滞による責任を負うものと解すべきである(最高裁平成五年(オ)第二一八七号、同九年(オ)第七四九号同年七月一五日第三小法廷判決・民集五一巻六号二五八一頁)。
そうすると、本件において、上告人は上記相殺の意思表示をした日の翌日である平成一一年七月六日から請負残代金について履行遅滞による責任を負うものというべきである。これと異なる原審の判断には、判決に影響を及ぼすことが明らかな法令の違反がある。
4 以上によれば、論旨は、上記の各趣旨をいうものとして理由があり、原判決は破棄を免れない。そして、瑕疵の修補に代わる損害賠償債権額について更に審理を尽くさせるため、本件を原審に差し戻すこととする。
よって、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 北川弘治 裁判官 福田博 裁判官 亀山継夫 裁判官 梶谷玄 裁判官 滝井繁男)

++解説
《解  説》
一 本件は、被告(上告人)から建物の新築工事を請け負ってその建築をした建築業者である原告(被上告人)が、被告に対し、請負残代金の支払を求めた事案である。被告は、建築された建物の瑕疵修補に代わる損害賠償債権等を自働債権とし、請負残代金債権を受働債権として対当額で相殺したなどと主張して、原告からの右請負残代金の請求を争っている。

二 注文主である被告は、神戸市内所在の阪神・淡路大震災で倒壊した建物の跡地に、学生向けのワンルームマンションである本件建物を建築することにしたものであったが、右地震の際、大学生が倒壊した下宿の建物の下敷きになるなどして多数死亡した直後であったために、建物の安全性の確保に神経質となっており、本件の建物の一部の主柱については、耐震性を高めるため、当初の設計内容よりも太い鉄骨を使用することを原告に求め、原告もこれを承諾していた。ところが、原告は、この約定に反して、被告の了解を得ないまま、その主柱に、約定よりも細い鉄骨を使用した。

三 原審は、被告主張の瑕疵のうちの一部を認めたが、被告主張の主柱の瑕疵の点については、原告には主柱に約定よりも細い鉄骨を使用したという契約違反があるが、実際に使用された鉄骨であっても、構造計算上、居住用建物としての安全性に問題はないとして、その主柱に係る工事について瑕疵があるということはできないとした。

四 本判決は、本件の請負契約において、原告と被告間で、建物の耐震性を高めるために、一部の主柱につき、当初の設計よりも太い鉄骨を使用することが特に約定されていたもので、この約定よりも細い鉄骨を使用した主柱の工事につき瑕疵があるとし、その他、請負人の請負代金債権に対し、注文者がこれと同時履行の関係にある目的物の瑕疵修補に代わる損害賠償債権を自働債権とする相殺の意思表示をした場合の相殺後の請負残代金債権についての遅延損害金の始期についての判例(最三小判平9・7・15民集五一巻六号二五八一頁、本誌九五二号一八八頁)違反の点と合わせ、原審の判断には違法があるとして、原判決を破棄して原審に差し戻した。

五 請負人に瑕疵担保責任が生ずるのは、「仕事ノ目的物ニ瑕疵アルトキ」(民法六三四条一項)であるが、この目的物に瑕疵があるとは、完成された仕事が契約で定めた内容どおりでなく、使用価値又は交換価値を減少させる欠点があるか、又は当事者があらかじめ定めた性質を欠くなど不完全な点を有することであるとされており(我妻栄・債権各論中巻(二)六三一頁)、これが通説といえる。なお、請負契約の仕事の目的物の瑕疵をこのように考えると、請負人の債務不履行責任との差異は、瑕疵担保責任が無過失責任であることにあるといえよう。以上のような立場からすると、(当事者間であらかじめ了解されていた範囲内の変更といえるような、現場の状況に応じて若干の変更がされたなどといえる場合は別として、)建物の請負において設計図に反する工事が行われた場合など、注文者と請負人間であらかじめ定められた内容に反する工事が行われた場合には、瑕疵ある工事であるということになると解される。
ところで、建物建築の請負契約の内容については、一般に、設計図だけで工事内容のすべてが明らかにならない場合が多く、そのような場合には、建築基準法に定める最低基準に達しないような建築請負契約を締結したと認められるような特別の事情がない限り、同基準に適合しない建物は瑕疵ある建物に当たると解されている。このように、建築基準法に定める基準の適合の有無が瑕疵の有無の判定基準とされることがあるが、これは、請負契約当事者の合理的意思として、建築物の安全性等に関する点については、少なくとも同基準に適合する建物を建築することが契約の内容になっていたと解されるということであって、当事者が、より安全性の高い建物にするなどのために、特に工事内容について合意をしていた場合には、その合意に反した工事による建物は、たとえ建築基準法の基準を満たし、一般的な安全性を備えていたとしても、瑕疵があることになると考えられる

六 本件の主柱の工事内容は、請負契約の当事者間の合意に反するものであり、しかも、その差異は、当事者間であらかじめ了解されていた範囲内の変更といえるようなものではなく、本件のような当初の約定と異なる内容の主柱の工事については、瑕疵があるといわざるを得ないといえよう。
七 本判決は事例判断ではあるが、請負契約における「瑕疵」の内容について、最高裁も前記の通説的な見解に立つことを示したものであって、実務の参考になるものと思われる。

・瑕疵修補請求権が認められるためには単に請負契約の注文者たる資格があれば足り、現に目的物の上に所有権又は占有権その他の権利を有することを要しない!
=請負目的物を他人に譲渡した場合でも、注文者は、瑕疵修補請求権を行使することができる!

・請負契約に関する担保責任の期間は、167条の規定による消滅時効の期間内に限り、契約で伸長することができる!!
+(担保責任の存続期間の伸長)
第639条
第637条及び前条第1項の期間は、第167条の規定による消滅時効の期間内に限り、契約で伸長することができる

+(債権等の消滅時効)
第167条
1項 債権は、十年間行使しないときは、消滅する。
2項 債権又は所有権以外の財産権は、二十年間行使しないときは、消滅する。

・請負人は、担保責任を負わない旨の特約をしたときであっても、知りながら告げなかった事実については、その責任を免れることができない!!!!
+(担保責任を負わない旨の特約)
第640条
請負人は、第634条又は第635条の規定による担保の責任を負わない旨の特約をしたときであっても、知りながら告げなかった事実については、その責任を免れることができない。

・請負契約の請負人が目的物につき瑕疵担保責任を負うのは、当該瑕疵が隠れたものであった場合に限られるわけではない!
←634条以下の条文には、570条のように「隠れた瑕疵」という文言がない!

・+(請負人の担保責任)
第635条
仕事の目的物に瑕疵があり、そのために契約をした目的を達することができないときは、注文者は、契約の解除をすることができる。ただし、建物その他の土地の工作物については、この限りでない。

+(請負人の担保責任に関する規定の不適用)
第636条
前二条の規定は、仕事の目的物の瑕疵が注文者の供した材料の性質又は注文者の与えた指図によって生じたときは、適用しないただし、請負人がその材料又は指図が不適当であることを知りながら告げなかったときは、この限りでない

・建物の請負契約において、仕事の目的物である建物に瑕疵があり、そのために契約した目的を達することができないときでも、注文者は、そのことを理由として契約の解除をすることはできない!!!!!
+(請負人の担保責任)
第635条
仕事の目的物に瑕疵があり、そのために契約をした目的を達することができないときは、注文者は、契約の解除をすることができる。ただし、建物その他の土地の工作物については、この限りでない

・注文者が641条に基づいて請負契約を解除するためには、前提として損害賠償の提供をすることを要しない!!

+(注文者による契約の解除)
第641条
請負人が仕事を完成しない間は、注文者は、いつでも損害を賠償して契約の解除をすることができる。


民事訴訟法 基礎演習 自白


1.自白の撤回の理論的位置づけ

+(訴えの取下げ)
第261条
1項 訴えは、判決が確定するまで、その全部又は一部を取り下げることができる。
2項 訴えの取下げは、相手方が本案について準備書面を提出し、弁論準備手続において申述をし、又は口頭弁論をした後にあっては、相手方の同意を得なければ、その効力を生じない。ただし、本訴の取下げがあった場合における反訴の取下げについては、この限りでない。
3項 訴えの取下げは、書面でしなければならない。ただし、口頭弁論、弁論準備手続又は和解の期日(以下この章において「口頭弁論等の期日」という。)においては、口頭ですることを妨げない。
4項 第2項本文の場合において、訴えの取下げが書面でされたときはその書面を、訴えの取下げが口頭弁論等の期日において口頭でされたとき(相手方がその期日に出頭したときを除く。)はその期日の調書の謄本を相手方に送達しなければならない。
5項 訴えの取下げの書面の送達を受けた日から二週間以内に相手方が異議を述べないときは、訴えの取下げに同意したものとみなす。訴えの取下げが口頭弁論等の期日において口頭でされた場合において、相手方がその期日に出頭したときは訴えの取下げがあった日から、相手方がその期日に出頭しなかったときは前項の謄本の送達があった日から二週間以内に相手方が異議を述べないときも、同様とする。

+(証拠の申出)
第180条
1項 証拠の申出は、証明すべき事実を特定してしなければならない。
2項 証拠の申出は、期日前においてもすることができる。

←証拠の申出は証拠調べ実施後には撤回できない。

+(証明することを要しない事実)
第179条
裁判所において当事者が自白した事実及び顕著な事実は、証明することを要しない。

2.自白の根拠
自白=弁論準備手続または口頭弁論においてなされる相手方の主張と一致する自己に不利益な事実の陳述

裁判所拘束力の根拠←弁論主義
当事者拘束力の根拠←証明不要効の確保

3.自白の要件
・事実についての陳述
←自白は弁論主義の1内容であり、弁論主義とは、判決の基礎となる事実の主張を当事者の権能および責任とする建前だから。
法の解釈適用は裁判所の専権事項

・自白が成立する事実
→主要事実にだけ。
←間接事実と証拠の等質性。事実認定における自由心証主義。

+判例(S41.9.22)
理由
上告代理人渡辺大司の上告理由(一)について。
上告人の父Aの被上告人らに対する三〇万円の貸金債権を相続により取得したことを請求の原因とする上告人の本訴請求に対し、被上告人らが、Aは右債権を訴外Bに譲渡した旨抗弁し、右債権譲渡の経緯について、Aは、Bよりその所有にかかる本件建物を代金七〇万円で買い受けたが、右代金決済の方法としてAが被上告人らに対して有する本件債権をBに譲渡した旨主張し、上告人が、第一審において右売買の事実を認めながら、原審において右自白は真実に反しかつ錯誤に基づくものであるからこれを取り消すと主張し、被上告人らが、右自白の取消に異議を留めたことは記録上明らかである。
しかし、被上告人らの前記抗弁における主要事実は「債権の譲渡」であつて、前記自白にかかる「本件建物の売買」は、右主要事実認定の資料となりうべき、いわゆる間接事実にすぎない。かかる間接事実についての自白は、裁判所を拘束しないのはもちろん、自白した当事者を拘束するものでもないと解するのが相当である。しかるに、原審は、前記自白の取消は許されないものと判断し、自白によつて、AがBより本件建物を代金七〇万円で買い受けたという事実を確定し、右事実を資料として前記主要事実を認定したのであつて、原判決には、証拠資料たりえないものを事実認定の用に供した違法があり、右違法が原判決に影響を及ぼすことは明らかであるから、論旨はこの点において理由があり、原判決は破棄を免れない
よつて、その余の論旨に対する判断を省略し、民訴法四〇七条に従い、裁判官全員の一致で、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 松田二郎 裁判官 入江俊郎 裁判官 長部謹吾 裁判官 岩田誠)

・不利益要件
敗訴可能性説=その事実が判決の基礎として採用されれば、自己が敗訴する可能性のある事実を当事者が認めることを意味する見解

証明責任説=相手方が証明責任を負う事実を当事者が認める場合を意味する

4.自白の撤回
(1)自白の撤回が認められる場合
①自白の撤回に相手方が同意した場合
←自白の当事者拘束力は、証拠方法を収集・保管しなくても大丈夫であるという相手方の信頼保護を根拠とするから

②自白が刑事上罰すべき他人の行為によってなされた場合
←再審事由にもなってるし。
+(再審の事由)
第三百三十八条
1項 次に掲げる事由がある場合には、確定した終局判決に対し、再審の訴えをもって、不服を申し立てることができる。ただし、当事者が控訴若しくは上告によりその事由を主張したとき、又はこれを知りながら主張しなかったときは、この限りでない。
一  法律に従って判決裁判所を構成しなかったこと。
二  法律により判決に関与することができない裁判官が判決に関与したこと。
三  法定代理権、訴訟代理権又は代理人が訴訟行為をするのに必要な授権を欠いたこと。
四  判決に関与した裁判官が事件について職務に関する罪を犯したこと。
五  刑事上罰すべき他人の行為により、自白をするに至ったこと又は判決に影響を及ぼすべき攻撃若しくは防御の方法を提出することを妨げられたこと
六  判決の証拠となった文書その他の物件が偽造又は変造されたものであったこと。
七  証人、鑑定人、通訳人又は宣誓した当事者若しくは法定代理人の虚偽の陳述が判決の証拠となったこと。
八  判決の基礎となった民事若しくは刑事の判決その他の裁判又は行政処分が後の裁判又は行政処分により変更されたこと。
九  判決に影響を及ぼすべき重要な事項について判断の遺脱があったこと。
十  不服の申立てに係る判決が前に確定した判決と抵触すること。
2項 前項第四号から第七号までに掲げる事由がある場合においては、罰すべき行為について、有罪の判決若しくは過料の裁判が確定したとき、又は証拠がないという理由以外の理由により有罪の確定判決若しくは過料の確定裁判を得ることができないときに限り、再審の訴えを提起することができる。
3項 控訴審において事件につき本案判決をしたときは、第一審の判決に対し再審の訴えを提起することができない。

③自白が真実に反し、かつ錯誤に基づいてなされた場合
←条文の根拠なし(笑)
反真実の証明がなされたときは、証拠方法を収集・保管しなくていいという相手方の信頼は著しく害されないだろう・・・・とか。
反真実の証明がなされれば、自白が錯誤に基づくものであることは推認される!

+判例(S25.7.11)
理由
上告代理人高井吉兵衛上告理由は末尾に添附した別紙書面記載の通りである。
第一点について。
論旨は、訴訟上自白の徹回は、相手方において其の自白を援用する以上其自白は錯誤に出でたること及び其取消を主張することの二事実があつて初めて裁判所はその自白の取消の適否を判断すべきものであると主張する。しかし記録を調べて見るに、被上告人(被控訴人)は所論三万円の小切手について従前の主張を徹回し之と相容れない事実を主張したことが明らかであるから被上告人(被控訴人)は右三万円の小切手についての自白の取消を主張したものと解すべきは当然である。そして原審においては、被上告人(被控訴人)が右三万円についての主張を徹回したのは錯誤に出でにるものであることが明らかであると認定して居り其の認定は相当であると認められるから、原審において自白の取消につき所論のように判断をしたことは当然であつて何等違法はない。
第二点第三点について。
当事者の自白した事実が真実に合致しないことの証明がある以上その自白は錯誤に出たものと認めることができるから原審において被上告人の供述其他の資料により被上告人の自白を真実に合致しないものと認めた上之を錯誤に基くものと認定したことは違法とはいえない。論旨は独自の見解に基くものであるから採用し難い。
よつて民法第四〇一条、第八九条、第九五条により主文の通り判決する。
以上は裁判官全員一致の意見である。
(裁判長裁判官 長谷川太一郎 裁判官 井上登 裁判官 島保 裁判官 河村又介 裁判官 穂積重遠)

5.権利自白
権利自白=訴訟物である権利関係の前提となる権利関係や法律効果についての自白。
権利自白を認めるかどうかはケースバイケース
日常的な法概念かどうかとかも。


民事訴訟法 基礎演習 弁論主義


1.弁論主義の意義
弁論主義=判決の基礎となる事実及び証拠の収集および提出について、当事者の責任であり、権限とする原則。
弁論主義の根拠←私的自治説。

2.主張(弁論)と証拠(証拠資料)の峻別
証拠による主張の代用は許されない・・・。

+(訴え提起の方式)
民事訴訟法第133条
1項 訴えの提起は、訴状を裁判所に提出してしなければならない。
2項 訴状には、次に掲げる事項を記載しなければならない。
一  当事者及び法定代理人
二  請求の趣旨及び原因

+(準備書面)
民事訴訟法第161条
1項 口頭弁論は、書面で準備しなければならない。
2項 準備書面には、次に掲げる事項を記載する。
一 攻撃又は防御の方法
二 相手方の請求及び攻撃又は防御の方法に対する陳述
3項 相手方が在廷していない口頭弁論においては、準備書面(相手方に送達されたもの又は相手方からその準備書面を受領した旨を記載した書面が提出されたものに限る。)に記載した事実でなければ、主張することができない

+(口頭弁論の必要性)
民事訴訟法第87条
1項 当事者は、訴訟について、裁判所において口頭弁論をしなければならない。ただし、決定で完結すべき事件については、裁判所が、口頭弁論をすべきか否かを定める。
2項 前項ただし書の規定により口頭弁論をしない場合には、裁判所は、当事者を審尋することができる。
3項 前二項の規定は、特別の定めがある場合には、適用しない。

+(口頭弁論調書)
民事訴訟法第160条
1項 裁判所書記官は、口頭弁論について、期日ごとに調書を作成しなければならない。
2項 調書の記載について当事者その他の関係人が異議を述べたときは、調書にその旨を記載しなければならない。
3項 口頭弁論の方式に関する規定の遵守は、調書によってのみ証明することができる。ただし、調書が滅失したときは、この限りでない。

+(当事者本人の尋問)
第207条
1項 裁判所は、申立てにより又は職権で、当事者本人を尋問することができる。この場合においては、その当事者に宣誓をさせることができる。
2項 証人及び当事者本人の尋問を行うときは、まず証人の尋問をする。ただし、適当と認めるときは、当事者の意見を聴いて、まず当事者本人の尋問をすることができる。

3.設問1~弁論主義第1原則の適用

・釈明権の行使について
実体的真実の追及VS当事者間の公平・裁判所の中立性・私的自治

・弁論主義違反の効果
原判決を破棄する上告審では、事件を原審に差し戻すべきかどうか?
差し戻し判決自体が、弁論主義の規律を実質的に無意味なものにする結果を生むのではないか?
→破棄自判したり・・・。

+判例(S55.2.7)
理由
上告代理人酒井祝成の上告理由第一点について
記録によれば、原審における本件請求に関する当事者の主張は、次のとおりである。即ち、上告人らにおいて、(1)本件土地(第一審判決別紙目録第二に記載の土地をいう。)は、上告人ら(原告ら)、A及び被上告人(被告)の亡夫B(昭和三九年九月六日死亡)らの父であるC(昭和三四年五月二六日死亡)が昭和二八年七月三一日、Dから買い受けたのであるが、Bの所有名義に移転登記をしていたところ、Cの死亡により、上告人ら、A及びBは右土地を各共有持分五分の一の割合をもつて相続取得した、(2)しかし、登記名義をそのままにしていたため、Bの死亡に伴い、その妻である被上告人が単独で相続による所有権移転登記を経由した、(3)本件土地は、右のとおり上告人ら、A及びBが共同相続したのであるから、上告人らは、その共有持分権に基づき各持分五分の一の移転登記手続を求める、というのである。これに対し、被上告人は、本件土地はBが真実、Dから買い受けて所有権移転登記を経由したもので、Bの死亡によつて被上告人が相続取得したのであるから、上告人らの請求は理由がない、と主張するのである。

原審は、証拠に基づいて、本件土地はCがDから買い受けて所有権を取得したことを認定し、この点に関する上告人らの主張を認めて被上告人の反対主張を排斥したが、次いで、BはCから本件土地につき死因贈与を受け、Cの死亡によつて右土地の所有権を取得し、その後Bの死亡に伴い被上告人がこれを相続取得したものであると認定し、結局、右土地をCから共同相続したと主張する上告人らの請求は理由がないと判示した。

しかし、相続による特定財産の取得を主張する者は、(1)被相続人の右財産所有が争われているときは同人が生前その財産の所有権を取得した事実及び(2)自己が被相続人の死亡により同人の遺産を相続した事実の二つを主張立証すれば足り、(1)の事実が肯認される以上、その後被相続人の死亡時まで同人につき右財産の所有権喪失の原因となるような事実はなかつたこと、及び被相続人の特段の処分行為により右財産が相続財産の範囲から逸出した事実もなかつたことまで主張立証する責任はなく、これら後者の事実は、いずれも右相続人による財産の承継取得を争う者において抗弁としてこれを主張立証すべきものである。これを本件についてみると、上告人らにおいて、CがDから本件土地を買い受けてその所有権を取得し、Cの死亡により上告人らがCの相続人としてこれを共同相続したと主張したのに対し、被上告人は、前記のとおり、右上告人らの所有権取得を争う理由としては、単に右土地を買い受けたのはCではなくBであると主張するにとどまつているのであるから(このような主張は、Cの所有権取得の主張事実に対する積極否認にすぎない。)、原審が証拠調の結果Dから本件土地を買い受けてその所有権を取得したのはCであつてBではないと認定する以上、上告人らがCの相続人としてその遺産を共同相続したことに争いのない本件においては、上告人らの請求は当然認容されてしかるべき筋合である。しかるに、原審は、前記のとおり、被上告人が原審の口頭弁論において抗弁として主張しないBがCから本件土地の死因贈与を受けたとの事実を認定し、したがつて、上告人らは右土地の所有権を相続によつて取得することができないとしてその請求を排斥しているのであつて、右は明らかに弁論主義に違反するものといわなければならない。大審院昭和一一年(オ)第九二三号同年一〇月六日判決・民集一五巻一七七一頁は、原告が家督相続により取得したと主張して不動産の所有権確認を求める訴において、被告が右不動産は自分の買い受けたものであつて未だかつて被相続人の所有に属したことはないと争つた場合に、裁判所が、証拠に基づいて右不動産が相続開始前に被相続人から被告に対して譲渡された事実を認定し、原告敗訴の判決をしたのは違法ではないと判示しているが、右判例は、変更すべきものである。
そうして、前記違法は、判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、その余の上告理由について判断するまでもなく、原判決は破棄を免れず、更に審理を尽くさせるのが相当であるから、本件を原審に差し戻すこととする。
よつて、民訴法四〇七条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

4.設問2~間接事実と第1原則の適用の有無

+判例(H11.6.29)
理由
上告代理人金野俊雄の上告理由について
一 本件は、約束手形の所持人である上告人が裏書をした被上告人らに対して手形金の支払を求める訴訟であり、所論は、原判決には、再抗弁についての判断の遺脱があるから、理由不備の違法があるというのである。
二 記録によれば、当事者双方の主張の要点は、次のとおりである。
1 被上告人らは、原因関係の抗弁として、次のように主張した。
(一) 本件手形は、有限会社日ノ出建設が、上告人やその代表者西村武らから本件不動産及び本件出資持分を買い受ける本件売買に当たり、手付金の支払のために振り出して上告人に交付したもので、被上告人らは、その支払を保証する目的で本件裏書をしたものである。
(二) 本件売買には、日ノ出建設が代金支払のために環境事業団から融資を得られたときに初めてその効力を生ずるとの停止条件が付されており、これが成就していないから、本件裏書は原因関係を欠く。
(三) 停止条件ではなく、右融資が得られないときに本件売買の効力を失わせる旨の解除条件であるとしても、日ノ出建設は環境事業団から融資を拒絶され、その条件が成就した。
2 これに対し、上告人は、再抗弁として、日ノ出建設は、故意に環境事業団から融資を得られないようにしたから、(一) 故意に停止条件の成就を妨害したか、又は(二) 故意に解除条件を成就させたものであると主張した。

三 条件の成就によって利益を受ける当事者が故意に条件を成就させたときは、民法一三〇条の類推適用により、相手方は条件が成就していないものとみなすことができる(最高裁平成二年(オ)第二九五号同六年五月三一日第三小法廷判決・民集四八巻四号一〇二九頁)。したがって、上告人の右二2(二)の主張(解除条件の成就作出)は、被上告人らの同1(三)の抗弁(解除条件の成就)に対する再抗弁となるべきものである。

四 ところが、原判決は、停止条件の不成就と解除条件の成就をいずれも抗弁として摘示しながら、再抗弁としては、停止条件の成就妨害のみを摘示し、解除条件の成就作出を摘示していない。しかも、原審は、本件売買は解除条件が成就し無効となったから、本件裏書は原因関係を欠くに至ったとして、解除条件成就の抗弁を入れながら、解除条件の成就作出については何らの判断も加えないで、上告人の請求を棄却した。 
 右によれば、原判決には、判決に影響を及ぼすべき重要な事項について判断を遺脱した違法があるといわなければならない。

五 しかしながら、原判決の右違法は、民訴法三一二条二項六号により上告の理由の一事由とされている「判決に理由を付さないこと」(理由不備)に当たるものではない。すなわち、いわゆる上告理由としての理由不備とは、主文を導き出すための理由の全部又は一部が欠けていることをいうものであるところ、原判決自体はその理由において論理的に完結しており、主文を導き出すための理由の全部又は一部が欠けているとはいえないからである。
したがって、原判決に所論の指摘する判断の遺脱があることは、上告の理由としての理由不備に当たるものではないから、論旨を直ちに採用することはできない。しかし、右判断の遺脱によって、原判決には判決に影響を及ぼすことが明らかな法令の違反があるものというべきであるから(民訴法三二五条二項参照)、本件については、原判決を職権で破棄し、更に審理を尽くさせるために事件を原裁判所に差し戻すのが相当である。
よって、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官金谷利廣 裁判官千種秀夫 裁判官元原利文 裁判官奥田昌道)

++解説
《解  説》
一 本件は、約束手形金の請求事件である。本件約束手形五〇〇〇万円は、原告とその代表取締役の不動産及び原告の訴外甲有限会社への出資持分の譲渡契約の手付金の支払いのために、譲受人乙が振り出し、被告が裏書きをしたものである。この譲渡契約は甲有限会社の営業を引き継いだ乙が環境事業団から一三億円の融資を受けることを条件とし、右事業団融資がされなかったときは、譲渡契約を撤回することが、原告、乙、被告との間で合意された。その後、原告は事業団融資の申請に必要な書類を乙に交付した。しかし、乙は、融資申請に必要とされる申込保証金を調達すべく、金融機関に融資を申し入れたが、適切な担保を欠くとして、融資を受けることができず、結局、環境事業団に対する融資申請をしなかった
右の事実関係の下において、被告は、原因関係の抗弁として、事業団融資を停止条件とする旨の合意又は事業団融資がないことを解除条件とする旨の合意と右解除条件の成就を主張し、原告は、乙が右事実関係の下で補助金申請をしなかったことは、故意に、停止条件の成就を妨げ(民法一三〇条)、又は解除条件を成就させたものであると主張した。
一審判決は、手付合意の趣旨に照らせば、右譲渡契約が無効になったことは手付の返還理由とならないとして、被告の抗弁を排斥した。
控訴審では、原告は、従前主張を一審判決事実摘示の通りとし、当事者の主張は専ら停止条件の成否に向けられた。ところが、控訴審判決は、抗弁として、前記停止条件の合意と解除条件の合意と成就を摘示しながら、再抗弁では、故意による停止条件の成就妨害のみを掲げ、認定においては、本件合意が解除条件の合意であったとし、右条件の成就を認め、これに対する再抗弁の主張はないものとして、請求を棄却した。

二 原告から、原告の主張した解除条件の故意による成就の主張を摘示せず判断しなかった控訴審判決の判断は、判断遺脱に当たるから理由不備があるとして上告が申し立てられた。
本判決は、訴訟経過に照らして、控訴審においても解除条件の故意による成就の主張が維持されていたことは明らかであるとして、控訴審判決に影響を及ぼすべき重要な事項についての判断を遺脱した違法があるとしたが、上告理由としての理由不備とは「主文を導き出すための理由の全部又は一部が欠けていること」をいうとし、本件の控訴審判決は、それ自体においては、論理的に完結しており、主文を導き出すための理由の全部又は一部が欠けているものではないから、民訴法三一二条二項六号の事由には該当しないが、右の違法によって、控訴審判決には判決に影響を及ぼすことが明らかな法令の違反があるものというべきであるとして、民訴法三二五条二項により、職権をもって、控訴審判決を破棄し、事件を差し戻した

三 民訴法改正による上告制度の改正により、上告理由は、従来の法令違反を除外し、絶対的上告理由を中心に整理された。そうすると、民訴法三一二条二項六号に規定する理由不備・齟齬の内容に、法令の解釈の過誤の結果、当該法令の適用についての理由が不十分であったり、理由に一貫性がないというものを含むと解することは相当ではない。
そこで、上告理由たる理由不備の内容は何かが問題となる。法令の解釈適用の違法がこれに含まれないことは新法の改正趣旨から明らかであり、他の上告事由との対比からは、判決の結論への影響にかかわらず放置することが許されないような判決の違法ということができよう
本判決は、かかる観点から、控訴審判決の違法は、判決に影響を及ぼすべき重要な事項についての判断遺脱であるとしながら、上告事由たる理由不備とは、上告された判決の主文を導き出すための理由の全部又は一部が欠けていることをいうとし、本件では、控訴審判決の記載は、当事者の主張の摘示を欠いたため、その理由において論理的に完結しており(原告の主張がないから判断しなかったことになる)、主文を導き出すための理由の全部又は一部が欠けているとはいえないから、本件では、理由不備には当たらないとした。ただし、右違法(判断遺脱)は、判決に影響を及ぼすことが明らかな法令の違反に当たるとして、職権をもって、原判決を破棄し、差し戻した。

四 控訴審判決に原告の再抗弁が正しく摘示され、その判断がされなかった場合には、再審事由たる判断遺脱に当たるとともに、本判決の基準によっても、理由不備に該当することになる。また、法三一二条二項各号に掲げる他の上告事由は記録から当該違法が判明する場合を予定している。そうすると、「判決の主文を導き出すための理由の全部又は一部が欠けていること」が、判決自体からは明らかでなく、記録から認められる場合にも理由不備とすべきであるとの見解が考えられよう。また、再審事由たる「判決に影響を及ぼすべき重要な事項についての判断遺脱」にいう「判決に影響を及ぼすべき事項」とは、判決の主文を導き出すための論理過程で判断が必要となる主要事実(重要な間接事実)をいうもので、旧法下での法令違背・新法下での職権破棄事由たる法令違反にいう「判決に影響を及ぼすことが明らか」(結論への具体的影響の蓋然性)とは意味を異にし、判断遺脱は理由不備・理由齟齬の中で判決として放置することが許されない類型に当たるとして、再審事由とされたものであるから判決自体からは判明しない判断遺脱をも理由不備に含ませるべきであるとの見解も考えられよう。
しかし、当事者の主張の整理とは、当事者の主張を理解し、法的に必要な事実を選別し、これを整序するという過程を経てされるものであり、その過程では、事案に対する法の解釈・適用が不可避である。したがって、記録に照らして、当事者の主張の整理の違法を上告理由とすることは上告事由の性格と馴染まない。当事者の主張を看過することと、摘示した主張の判断を欠くこととは、前者の方が瑕疵が大きいともいえるが、上告事由の観点からすれば、後者こそ上告手続により是正すべきものということになろう。
もっとも、理由不備の意義を本判決のように解するときは、主要事実の摘示及び判断の双方が遺脱している場合に、これが理由不備に該当しないと正しく解釈し「判断遺脱」のみを理由として上告したときは、上告事由の記載を欠くことになり、原審で却下し(民訴法三一六条)、最高裁においては決定却下(民訴法三一七条)すべきものであるから、速やかに判決を確定させた上、正当な救済方法である再審によるべきであるということになろう。他方、本判決が、再審事由に当たることから、直ちに職権破棄事由たる法令違反に該当するとしたことは、結論への具体的影響の蓋然性の要件を緩和してでも、上告手続において再審事由の是正を図ったものともいえる。また、上告受理の理由として、かかる判断遺脱が主張されているときは、法令解釈の統一という観点からは重要な事項(民訴法三一八条)でないとしても、再審事由該当性が肯定できる限り、受理を相当とする余地もあろう。

五 本判決は、上告事由たる理由不備の意義を民訴法改正の趣旨に即して明らかにしたものであり、再審事由との関係を明らかにしたものではない。本判決が発したメッセージは、まず、新法における上告理由たる理由不備の意義につき厳格な立場を採用し、判決自体から明らかでない主要事実の判断遺脱が上告事由に該当しないということにある。もっとも、再審事由たる判断遺脱が肯認できる場合には、職権破棄の対象となることを示し、上告手続において可及的是正の方途を示した(原審は、判断遺脱のみの上告理由に対しても、その事由が肯認できるときは、原審却下をすべきではない)とみるか、再審事由との峻別を示唆し、上告手続の純化を図った(原審は、判断遺脱のみの上告理由に対しては、その事由が肯認できるかどうかを問わず、原審却下すべきである)とみるかについては、今後の学説及び判例の展開に委ねられたといえよう。

+(上告の理由)
第312条
1項 上告は、判決に憲法の解釈の誤りがあることその他憲法の違反があることを理由とするときに、することができる。
2項 上告は、次に掲げる事由があることを理由とするときも、することができる。ただし、第四号に掲げる事由については、第34条第2項(第59条において準用する場合を含む。)の規定による追認があったときは、この限りでない。
一  法律に従って判決裁判所を構成しなかったこと。
二  法律により判決に関与することができない裁判官が判決に関与したこと。
三  専属管轄に関する規定に違反したこと(第6条第1項各号に定める裁判所が第一審の終局判決をした場合において当該訴訟が同項の規定により他の裁判所の専属管轄に属するときを除く。)。
四  法定代理権、訴訟代理権又は代理人が訴訟行為をするのに必要な授権を欠いたこと。
五  口頭弁論の公開の規定に違反したこと。
六  判決に理由を付せず、又は理由に食違いがあること
3項 高等裁判所にする上告は、判決に影響を及ぼすことが明らかな法令の違反があることを理由とするときも、することができる

+(条件の成就の妨害)
民法第130条
条件が成就することによって不利益を受ける当事者が故意にその条件の成就を妨げたときは、相手方は、その条件が成就したものとみなすことができる。

+++解説
130条はどんな場合に適用されるか。
Aさんは、ある土地を売ろうと思ったのですが、自分で買い手を探すのがめんどくさいので、不動産業者であるBに、売買を依頼しました。そして、買い手を見つけてきて、自分の代わりに土地を売ってきてくれることを条件に一定の報酬を支払うことを約束しました。その後、不動産業者であるBは、買い手であるCを見つけてきました。その時、ここぞとばかりに、Aが勝手にCと売買契約の締結をしてしまいました。
このような場合が一番典型的に問題になる事例です。
普通に考えると、BはCと売買契約を締結することができませんでしたので、条件は成就していませんよね。Aが直接にCと契約をしてしまったわけですから。とすると、せっかくBは買い手であるCを探してきたのに、報酬を得ることができなくなります。
でも、こんなバカな話はないですよね。買い手を探してきて、売ろうとした時に、突然Aが出てきて勝手に契約してしまったんですから。ですから、このような場合は、Bは条件が成就したとみなすことができるとしたのです。したがって、Bは条件が成就したとして、Aに報酬を請求することができます。
さきほどの事例を条文に合わせて考えてみます。まず、「条件が成就することによって不利益を受ける当事者」というのは、Aです。なぜなら、条件が成就すると、Bに対して報酬を支払わなければなりませんから。そのAが、「買い手を見つけてきて土地を売る」という条件を成就する寸前に、横取りするような感じで故意に妨害したわけです。ですから、「相手方」であるBは条件を成就したものとみなすことができ、報酬を請求することができることになります。

・別の債務の弁済という事実の位置づけ

+判例(S30.7.15)
理由
上告代理人弁護士高橋義一郎、同鈴木紀男の上告理由第一点について。
弁済の抗弁については、弁済の事実を主張する者に立証の責任があり、その責任は、一定の給付がなされたこと及びその給付が当該債務の履行としてなされたことを立証して初めてつくされたものというべきであるから、裁判所は、一定の給付のなされた事実が認められても、それが当該債務の履行としてなされた事実の証明されない限り、弁済の点につき立証がないとして右抗弁を排斥することができるのであつて、右給付が法律上いかなる性質を有するかを確定することを要しないものと解するを相当とする。そこで本件の場合はどうかというと、原判決は、証拠により上告人等から被上告人に対して所論各金員の給付がなされたことはあるが、右はいづれも本件消費貸借債務の弁済として給付がなされたものでなかつたことを認めることができるものとしているのであるから、積極的に右給付の法律上の性質までも判示する必要がないものといわなければならない。されば、原判決が上告人の弁済の抗弁を排斥したことは正当であつて、論旨は理由がない。

同第二点について。
原判決は、抵当権の被担保債権はそれが無効のものでない限り抵当権設定義務者においてこれが登記を拒み得ないとした上、利息制限法(旧)の制限範囲を超過する約定利息も、その約定が公序良俗違反により無効でない限りこれをもつて直ちに無効のものといえず、また、同法はその制限外の利息を裁判上請求し得ないとするだけであつて、制限外の利息の支払契約に基く利息債権を被担保債権として登記することを不可とするものでないとし、月一割の利息の約定を公序良俗違反でないと認めてこの部分についての被上告人の抵当権登記請求を認容している。しかし旧利息制限法二条にいわゆる裁判上無効とは、単に同条所定の利率を超える約定利息の支払を裁判上請求する場合にのみこれを無効とすべきことを意味するものではなく、いやしくもかかる制限超過の利息に関する限りその債権を原因とする法律的請求はすべてこれを裁判上無効とすべき趣旨をも含むものと解さなければならない
蓋し、同条は、制限超過の利息については原則としてこれを無効として裁判上の救済を与えることを拒否し、もつて債務者を保護しようとしたものと解すべきであり、従つて、かかる利息については、債務者が任意にこれを支払う限りその支払を有効な弁済としてその取戻を請求することは認めないにせよ、債務者の意思に反してその支払の強制その他これを原因とする法律上の主張または強制をすることはすべて裁判上これを否定すべきものとしたものと認めるのを妥当とするからである。しからば、制限超過の利息も単に裁判上請求し得ないだけであつて、当然に無効ではなく、その部分についての登記を妨げないことを理由とし、これにつき抵当権の登記請求を認容した原判決の部分は旧利息制限法二条の法意を誤解したものであつて、論旨は理由あり、従つて原判決中上告人において被上告人に対し旧利息制限法の制限超過の利息債権を担保するため被上告人のため抵当権設定登記手続をなすことを命じた部分は破棄を免れない。そして原判決の確定した事実によれば右の部分の被上告人の請求については裁判をするに熟するから当裁判所において自判すべきものであり、右破棄部分以外の原判決は正当であるから、この点に関する上告は棄却すべきものである。
よつて民訴四〇八条、三九六条、三八四条、九五条、八九条を適用して主文のとおり判決する。
この判決は、裁判官全員一致の意見によるものである。
(裁判長裁判官 栗山茂 裁判官 小谷勝重 裁判官 藤田八郎 裁判官 谷村唯一郎 裁判官 池田克)

+判例(S46.6.29)
理由
上告代理人田中幹則の上告理由について。
原告の請求をその主張した請求事実原因に基づかず、主張しない事実関係に基づいて認容し、または、被告の抗弁をその主張にかかる事実以外の事実に基づいて採用し原告の請求を排斥することは、所論弁論主義に違反するもので、許されないところである被告が原告の主張する請求原因事実を否認し、または原告が被告の抗弁事実を否認している場合に、事実審裁判所が右請求原因または抗弁として主張された事実を証拠上肯認することができない事情として、右事実と両立せず、かつ、相手方に主張立証責任のない事実を認定し、もつて右請求原因たる主張または抗弁の立証なしとして排斥することは、その認定にかかる事実が当事者によつて主張されていない場合でも弁論主義に違反するものではない!!!!
けだし、右の場合に主張者たる当事者が不利益を受けるのはもつぱら自己の主張にかかる請求原因事実または抗弁事実実の立証ができなかつたためであつて、別個の事実が認定されたことの直接の結果ではないからである。
本件についてこれをみるに、上告人において、訴外刀野の被上告人に対する弁済を主張するについては、訴外刀野において債務の履行に適合する給付をしたことのほか、右給付が本件手形金債権によつて担保された原判示の原因債権に対応する債務の履行としてなされたものであることの二つの点を立証する責務を負うものであるところ、原判決は、その措辞に正鵠を欠く点はあるが、要するに、刀野が被上告人に支払つた原判示の金員は、刀野において別に被上告人に対して負担していた五〇万円の借入金債務の内入れ弁済として支払つたものであることを認定することにより、上告人の抗弁は、後者の点についての立証をくものとしてこれを排斥したものと認められる。してみれば、原判決にはなんら弁論主義違背のかどはないものというべきである。また、原判決は、刀野の支払にかかる金員は別口の債務に全額充当されることを確定したのであるから、原審が所論法定充当の規定の適用を考慮する余地はなかつたものであり、この点においても原判決に所論の違法はない。なお、口頭弁論を再開しなかつた原審の措置を違法として非難する所論は、裁判所の裁量に属する行為について不服を述べるものにすぎず、また、刀野が前記金員の支払に際し、これを本件手形金の支払に充当すべき旨指定をしたとして、原審の事実認定を非難する所論は、記録によるも右指定をなした事実が原審で主張された事実は認められないから、その前提を欠くことに帰する。したがつて、論旨は、いずれも採用することができない。
よつて民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員の一致で、主文のとおり判決する。(田中二郎 下村三郎 松本正雄 関根小郷)

5.代理に関する主張の要否

+判例(S33.7.8)
理由
上告代理人山川常一の上告理由第一点について。
本件において、被上告人は同人と上告人との間に昭和二四年三月一八日上告人の買受ける黒砂糖を被上告人が斡旋し、その斡旋料として一斤につき金一〇円宛を上告人が被上告人に支払うことを約束し、被上告人は右約旨に基き黒糖四三〇〇斤を上告人に斡旋して買受けさしたので、上告人に対し金四三〇〇〇円の斡旋料を請求すると主張し、原審は被上告人の右請求を認容し、上告人にその支払を命じたこと、記録上明らかである。そして、民訴一八六条(現246条)にいう「事項」とは訴訟物の意味に解すべきであるから、本件につき原審が当事者の申立てざる事項に基いて判決をした所論の違法はない。なお、斡旋料支払の特約が当事者本人によつてなされたか、代理人によつてなされたかは、その法律効果に変りはないのであるから、原判決が被上告人と上告人代理人増谷照夫との間に本件契約がなされた旨判示したからといつて弁論主義に反するところはなく、原判決には所論のような理由不備の違法もない
同第二点について。
所論代理の事実は、証人A(記録五三丁裏)同B(同二〇七丁)被上告本人(同二一三丁裏)の各供述によつて認められ、これらの供述は、被上告人の援用するところであるから、原判決には所論の違法はない。同第三点及び第四点について。
所論のような具体的事実の認定はこれを要するものではなく、原判決挙示の証拠によれば判示事実を認めることができるので、原判決には所論の違法はない。
よつて、民訴四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員の一致で、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 島保 裁判官 河村又介 裁判官 垂水克己)


民事訴訟法 基礎演習 二重基礎の禁止


+(重複する訴えの提起の禁止)
民事訴訟法第142条
裁判所に係属する事件については、当事者は、更に訴えを提起することができない。

1.二重基礎の禁止の根拠

2.柔軟な対応の意義
・手形債権者の保障されるべき簡易迅速な債務名義の獲得手段。

判例(S49.7.4)地判
判例(S627.16)高判 手形のやつ。しらべておく。

+(証拠調べの制限)
民事訴訟法第352条
1項 手形訴訟においては、証拠調べは、書証に限りすることができる。
2項 文書の提出の命令又は送付の嘱託は、することができない。対照の用に供すべき筆跡又は印影を備える物件の提出の命令又は送付の嘱託についても、同様とする。
3項 文書の成立の真否又は手形の提示に関する事実については、申立てにより、当事者本人を尋問することができる。
4項 証拠調べの嘱託は、することができない。第186条の規定による調査の嘱託についても、同様とする。

+(請求の併合)
民事訴訟法第136条
数個の請求は、同種の訴訟手続による場合に限り、一の訴えですることができる。

3.相殺の抗弁と二重起訴の禁止
抗弁先行型

適法説
判例(S59.11.29)

不適法説
+判例(H8.4.8)
調べておく。

訴え先行型
+判例(H3.12.17)
理  由
上告代理人松本昌道の上告理由について
係属中の別訴において訴訟物となつている債権を自働債権として他の訴訟において相殺の抗弁を主張することは許されないと解するのが相当である(最高裁昭和五八年(オ)第一四〇六号同六三年三月一五日第三小法廷判決・民集四二巻三号一七〇頁参照)。すなわち、民訴法二三一条が重複起訴を禁止する理由は、審理の重複による無駄を避けるためと複数の判決において互いに矛盾した既判力ある判断がされるのを防止するためであるが、相殺の抗弁が提出された自働債権の存在又は不存在の判断が相殺をもつて対抗した額について既判力を有するとされていること(同法一九九条二項)、相殺の抗弁の場合にも自働債権の存否について矛盾する判決が生じ法的安定性を害しないようにする必要があるけれども理論上も実際上もこれを防止することが困難であること、等の点を考えると、同法二三一条の趣旨は、同一債権について重複して訴えが係属した場合のみならず、既に係属中の別訴において訴訟物となつている債権を他の訴訟において自働債権として相殺の抗弁を提出する場合にも同様に妥当するものであり、このことは右抗弁が控訴審の段階で初めて主張され、両事件が併合審理された場合についても同様である。 ←批判も多いけどね。後に問題も・・・。
これを本件についてみるのに、原審の確定した事実関係は、次のとおりである。すなわち、(一) 被上告人は、上告人に対し、右両名間の継続的取引契約に基づくバトミントン用品の輸入原材料残代金等合計二〇七万四四七六円及びこれに対する昭和五五年一〇月七日から支払済みまで年五分の割合による遅延損害金の支払を求めて本訴を提起し、(二) これに対し、上告人は、同六〇年三月一一日の原審第一一回口頭弁論期日において、本件原審と同一部である東京高等裁判所第一民事部で併合審理中であつた、上告人を第一審原告、被上告人を第一審被告とする同高裁同五八年(ネ)第一一七五号、第一二一三号売買代金等請求控訴事件において、被上告人に対して請求する売買代金一二八四万八〇六〇円及び内金一二三〇万八〇六〇円に対する同五四年七月一四日から、内金五四万円に対する同年九月二六日から各支払済みまで年六分の割合による遅延損害金請求権をもつて、前記(一)の債権と対当額で相殺する旨の抗弁を提出した。右事実関係の下においては、上告人の右主張は、係属中の別訴において訴訟物となつている債権を自働債権として他の訴訟において相殺の抗弁を主張するものにほかならないから、右主張は許されないと解するのが相当である。これと同旨の原審の判断は、正当として是認することができ、原判決に所論の違法はない。論旨は、独自の見解に立つて原判決を論難するものにすぎず、採用することができない。
よつて、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 園部逸夫 裁判官 坂上寿夫 裁判官 貞家克己 裁判官 佐藤庄市郎 裁判官 可部恒雄)

4.設問の検討その1

+(訴えの取下げ)
民事訴訟法第261条
1項 訴えは、判決が確定するまで、その全部又は一部を取り下げることができる。
2項 訴えの取下げは、相手方が本案について準備書面を提出し、弁論準備手続において申述をし、又は口頭弁論をした後にあっては、相手方の同意を得なければ、その効力を生じない。ただし、本訴の取下げがあった場合における反訴の取下げについては、この限りでない。
3項 訴えの取下げは、書面でしなければならない。ただし、口頭弁論、弁論準備手続又は和解の期日(以下この章において「口頭弁論等の期日」という。)においては、口頭ですることを妨げない。
4項 第2項本文の場合において、訴えの取下げが書面でされたときはその書面を、訴えの取下げが口頭弁論等の期日において口頭でされたとき(相手方がその期日に出頭したときを除く。)はその期日の調書の謄本を相手方に送達しなければならない。
5項 訴えの取下げの書面の送達を受けた日から二週間以内に相手方が異議を述べないときは、訴えの取下げに同意したものとみなす。訴えの取下げが口頭弁論等の期日において口頭でされた場合において、相手方がその期日に出頭したときは訴えの取下げがあった日から、相手方がその期日に出頭しなかったときは前項の謄本の送達があった日から二週間以内に相手方が異議を述べないときも、同様とする。

+(口頭弁論の併合等)
民事訴訟法第152条
1項 裁判所は、口頭弁論の制限、分離若しくは併合を命じ、又はその命令を取り消すことができる。
2項 裁判所は、当事者を異にする事件について口頭弁論の併合を命じた場合において、その前に尋問をした証人について、尋問の機会がなかった当事者が尋問の申出をしたときは、その尋問をしなければならない。

+(口頭弁論の再開)
民事訴訟法第153条
裁判所は、終結した口頭弁論の再開を命ずることができる。

+判例(S56.9.24)
理由
上告代理人川本赳夫の上告理由について
一 記録によれば、本件訴訟の経緯は、次のとおりである。
1 すなわち、亡A(後記のとおり、原審の口頭弁論終結前の昭和五四年七月一五日に死亡した。)は、本件不動産につき上告人のためにされた本件各登記がいずれも登記原因を欠き、実体上の権利関係に適合しないものと主張し、上告人を相手どつてその抹消登記手続を求める本件訴を弁護士を訴訟代理人として提起した。これに対し、上告人は、(1) A又はAより一切の権限を与えられていた被上告人(Aの養子として当審における訴訟承継人の地位にある。)から代理権を授与されたBが、昭和四九年九月二七日、上告人との間で、本件不動産につき譲渡担保設定契約、抵当権設定契約、代物弁済の予約を締結した、(2) 仮に、Bが右代理権を有しなかつたとしても、A又はAの代理人である被上告人は、BにAの実印及び本件不動産の権利証を交付することにより、Bに右代理権を与えた旨を表示した、(3) 仮に、(1)(2)の事実が認められないとしても、Aの代理人である被上告人は、Bに対し、A所有の土地を東洋埋立資材株式会社に売り渡す契約の締結及びその所有権移転登記手続を委任していたところ、Bがその権限を超えて前記(1)の各契約を締結したものであるが、上告人にはBに権限があると信ずる正当な理由があつた、として本件各登記が実体関係に符合する有効なものである旨主張した。

2 Aは、本件訴訟が原審に係属中の昭和五四年七月一五日に死亡したが、訴訟代理人がいたため訴訟手続は中断せず、かつ、訴訟承継の手続もとられないまま、訴訟はAを当事者として進められ、原審は、同年一〇月三〇日の口頭弁論期日において弁論を終結し、判決言渡期日を同年一二月二五日と指定した。ところが、上告人は、原審に対し、同年一一月七日、Aが同年七月一五日に死亡したことを知つたから後日口頭弁論再開申立理由書を持参する旨を記載した口頭弁論再開申請書と題する書面を提出し、同月一四日、Aが死亡したことを証する戸籍謄本を添付した口頭弁論再開申立書及び被上告人はAの死亡により同人の権利義務一切を承継したから自己ないしBの行為につき責任を負うべきである旨を記載した準備書面を提出した。

3 しかるに、原審は、口頭弁論を再開せず、証拠に基づいて、(1) 被上告人は、Aとの養子縁組前に、Aに無断で、本件不動産のうち本件、(一二)、(一四)、(一六)の各土地を擅にAの名でBを代理人として東洋埋立資材株式会社に売り渡し、かつ、その登記手続履行のため、Bに対し、Aの実印、印鑑登録証明書、本件(一二)ないし(一七)の各土地の権利証を交付した、(2) ところが、Bは、A及び被上告人に無断で、Aの代理人と称してCから五〇〇万円を借り受け、当時Aの先代Dの所有名義となつていた本件(一)ないし(二)の各土地につきA名義の相続登記手続を経由してその権利証を入手するとともに、本件(一)ないし(四)及び(一二)の各土地につきCのために抵当権設定登記手続を了した、(3) そして、右借入れの事実をAに知られることをおそれたBは、Aの代理人と称して上告人から一〇〇〇万円を借り受け、そのうち五〇〇万円をCに支払つて前記抵当権設定登記の抹消登記手続を経たうえ、Aの実印及び本件不動産の権利証を冒用して上告人のために本件各登記を経由した、との事実を確定し、右事実関係のもとにおいては、Aは被上告人に対し本件不動産に担保権を設定することを含む一切の権限を委任したことはなく、また、Bに対しても直接代理権を付与したこともなかつたものであり、BがAの実印及び本件不動産の権利証を所持していた事実をもつて授権の表示とみることはできない旨判示し、上告人の前記抗弁をすべて排斥して、本訴請求を認容した。

二 ところで、いつたん終結した弁論を再開すると否とは当該裁判所の専権事項に属し、当事者は権利として裁判所に対して弁論の再開を請求することができないことは当裁判所の判例とするところである(最高裁昭和二三年(オ)第七号同年四月一七日第二小法廷判決・民集二巻四号一〇四頁、同昭和二三年(オ)第五八号同年一一月二五日第一小法廷判決・民集二巻一二号四二二頁、同昭和三七年(オ)第三二八号同三八年八月三〇日第二小法廷判決・裁判集民事六七号三六一頁、同昭和四五年(オ)第六六号同年五月二一日第一小法廷判決・裁判集民事九九号一八七頁)。しかしながら、裁判所の右裁量権も絶対無制限のものではなく、弁論を再開して当事者に更に攻撃防禦の方法を提出する機会を与えることが明らかに民事訴訟における手続的正義の要求するところであると認められるような特段の事由がある場合には、裁判所は弁論を再開すべきものであり、これをしないでそのまま判決をするのは違法であることを免れないというべきである。
これを本件についてみるのに、前記事実関係によれば、上告人はAが原審の口頭弁論終結前に死亡したことを知らず、かつ、知らなかつたことにつき責に帰すべき事由がないことが窺われるところ、本件弁論再開申請の理由は、帰するところ、被上告人がAを相続したことにより、被上告人がAの授権に基づかないでBをAの代理人として本件不動産のうちの一部を東洋埋立資材株式会社に売却する契約を締結せしめ、その履行のために同人の実印をBに交付した行為については、Aがみずからした場合と同様の法律関係を生じ、ひいてBは右の範囲内においてAを代理する権限を付与されていたのと等しい地位に立つことになるので、上告人が原審において主張した前記一(2)の表見代理における少なくとも一部についての授権の表示及び前記一(3)の表見代理における基本代理権が存在することになるというべきであるから、上告人は、原審に対し、右事実に基づいてBの前記無権代理行為に関する民法一〇九条ないし一一〇条の表見代理の成否について更に審理判断を求める必要がある、というにあるものと解されるのである。右の主張は、本件において判決の結果に影響を及ぼす可能性のある重要な攻撃防禦方法ということができ、上告人においてこれを提出する機会を与えられないまま上告人敗訴の判決がされ、それが確定して本件各登記が抹消された場合には、たとえ右主張どおりの事実が存したとしても、上告人は、該判決の既判力により、後訴において右事実を主張してその判断を争い、本件各登記の回復をはかることができないことにもなる関係にあるのであるから、このような事実関係のもとにおいては、自己の責に帰することのできない事由により右主張をすることができなかつた上告人に対して右主張提出の機会を与えないまま上告人敗訴の判決をすることは、明らかに民事訴訟における手続的正義の要求に反するものというべきであり、したがつて、原審としては、いつたん弁論を終結した場合であつても、弁論を再開して上告人に対し右事実を主張する機会を与え、これについて審理を遂げる義務があるものと解するのが相当である。しかるに、原審が右の措置をとらず、上告人の前記一(2)の抗弁は授権の表示を欠くとし、また、同一(3)の抗弁はその前提となる基本代理権を欠くとしていずれもこれを排斥し、上告人敗訴の判決を言い渡した点には、弁論再開についての訴訟手続に違反した違法があるものというべく、右違法は前記のように判決の結果に影響を及ぼすことが明らかであるから、論旨は理由があり、原判決は破棄を免れず、右の点につき更に審理を尽くさせるのが相当であるから、本件を原審に差し戻すこととする。
よつて、民訴法四〇七条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 中村治朗 裁判官 団藤重光 裁判官 藤﨑萬里 裁判官 本山亨 裁判官 谷口正孝)

+判例(H18.4.14)
理由
上告代理人中北龍太郎、同村本純子の上告受理申立て理由について
1 原審の適法に確定した事実関係及び本件訴訟の経過の概要は、次のとおりである。
(1) 被上告人は、平成2年2月28日、建築業を営むA(以下「A」という。)との間で、請負代金額を3億0900万円として賃貸用マンション新築工事請負契約を締結した。その後、被上告人は、設計変更による追加工事をAに発注した(以下、追加工事を含めた契約を「本件請負契約」といい、追加工事を含めた工事を「本件工事」という。)。
(2) Aは、平成3年3月31日までに本件工事を完成させ、完成した建物(以下「本件建物」という。)を被上告人に引き渡した。
(3) 被上告人は、平成5年12月3日、Aに対し、本件建物に瑕疵があり、瑕疵修補に代わる損害賠償又は不当利得の額は5304万0440円であると主張して、同額の金員及びこれに対する完成引渡日の翌日である平成3年4月1日から支払済みまで商事法定利率年6分の割合による遅延損害金の支払を求める本訴を提起した。
(4)Aは、第1審係属中の平成6年1月21日、被上告人に対し、本件請負契約に基づく請負残代金の額は2418万円であると主張して、同額の金員及びこれに対する平成3年4月1日から支払済みまで商事法定利率年6分の割合による遅延損害金の支払を求める反訴を提起し、反訴状は、平成6年1月25日、被上告人に送達された。
(5) 本件請負契約に基づく請負残代金の額は、1820万5645円である。
(6) 他方、本件建物には瑕疵が存在し、それにより被上告人が被った損害の額は、2474万9798円である。
(7) Aは、平成13年4月13日に死亡し、その相続人である上告人らがAの訴訟上の地位を承継した。上告人らの法定相続分は、それぞれ2分の1である。
(8) 上告人らは、平成14年3月8日の第1審口頭弁論期日において、被上告人に対し、上告人らがそれぞれ相続によって取得した反訴請求に係る請負残代金債権を自働債権とし、被上告人の上告人らそれぞれに対する本訴請求に係る瑕疵修補に代わる損害賠償債権を受働債権として、対当額で相殺する旨の意思表示をし(以下「本件相殺」という。)、これを本訴請求についての抗弁として主張した。

2 原審は、次のとおり判示して、被上告人の本訴請求につき、上告人らそれぞれに対して327万2076円及びこれに対する反訴状送達の日の翌日である平成6年1月26日から支払済みまで年6分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で認容し、その余を棄却し、上告人らの反訴請求をいずれも棄却した。
(1) 本件相殺により、被上告人の瑕疵修補に代わる損害賠償債権と上告人らの請負残代金債権とが対当額で消滅した結果、被上告人の上告人らに対する損害賠償債権の額は654万4153円となり、上告人らは、被上告人に対して、それぞれ法定相続分割合に応じて327万2076円(円未満切捨て)の損害賠償債務を負う一方、上告人らの被上告人に対する請負残代金債権は消滅した。
(2) 注文者の請負人に対する瑕疵修補に代わる損害賠償請求訴訟に対し、請負人が反訴を提起して請負代金を請求し、後に請負代金債権をもって相殺の意思表示をした場合には、反訴の提起をもって相殺の意思表示と同視すべきである。したがって、上告人らの瑕疵修補に代わる損害賠償債務(相殺後の残債務)は、本件反訴状送達の日の翌日である平成6年1月26日から遅滞に陥る。

3 しかしながら、原審の上記(2)の判断は、是認することができない。その理由は、次のとおりである。
(1) 本件相殺は、反訴提起後に、反訴請求債権を自働債権とし、本訴請求債権を受働債権として対当額で相殺するというものであるから、まず、本件相殺と本件反訴との関係について判断する。
係属中の別訴において訴訟物となっている債権を自働債権として他の訴訟において相殺の抗弁を主張することは、重複起訴を禁じた民訴法142条の趣旨に反し、許されない(最高裁昭和62年(オ)第1385号平成3年12月17日第三小法廷判決・民集45巻9号1435頁)。
しかし、本訴及び反訴が係属中に、反訴請求債権を自働債権とし、本訴請求債権を受働債権として相殺の抗弁を主張することは禁じられないと解するのが相当である。この場合においては、反訴原告において異なる意思表示をしない限り、反訴は、反訴請求債権につき本訴において相殺の自働債権として既判力ある判断が示された場合にはその部分については反訴請求としない趣旨の予備的反訴に変更されることになるものと解するのが相当であって、このように解すれば、重複起訴の問題は生じないことになるからである。そして、上記の訴えの変更は、本訴、反訴を通じた審判の対象に変更を生ずるものではなく、反訴被告の利益を損なうものでもないから、書面によることを要せず、反訴被告の同意も要しないというべきである。本件については、前記事実関係及び訴訟の経過に照らしても、上告人らが本件相殺を抗弁として主張したことについて、上記と異なる意思表示をしたことはうかがわれないので、本件反訴は、上記のような内容の予備的反訴に変更されたものと解するのが相当である。
(2) 注文者の瑕疵修補に代わる損害賠償債権と請負人の請負代金債権とは民法634条2項により同時履行の関係に立つから、契約当事者の一方は、相手方から債務の履行又はその提供を受けるまで自己の債務の全額について履行遅滞による責任を負うものではなく、請負人が請負代金債権を自働債権として瑕疵修補に代わる損害賠償債権と相殺する旨の意思表示をした場合、請負人は、注文者に対する相殺後の損害賠償残債務について、相殺の意思表示をした日の翌日から履行遅滞による責任を負うと解される(最高裁平成5年(オ)第1924号同9年2月14日第三小法廷判決・民集51巻2号337頁、最高裁平成5年(オ)第2187号、同9年(オ)第749号同年7月15日第三小法廷判決・民集51巻6号2581頁参照)。
本件においては、被上告人の瑕疵修補に代わる損害賠償の支払を求める本訴に対し、Aが請負残代金の支払を求める反訴を提起したのであるが、Aの本件反訴は、請負残代金全額の支払を求めるものであって、本件反訴の提起が相殺の意思表示を含むと解することはできない。したがって、本件反訴の提起後にされた本件相殺の効果が生ずるのは相殺の意思表示がされた時というべきであるから、本件反訴状送達の日の翌日から上告人らの瑕疵修補に代わる損害賠償債務が遅滞に陥ると解すべき理由はない

4 以上によれば、上告人らは、本件相殺の意思表示をした日の翌日である平成14年3月9日から瑕疵修補に代わる損害賠償残債務について履行遅滞による責任を負うものというべきであって、これと異なる原審の判断には、判決に影響を及ぼすことが明らかな法令の違反がある。論旨は理由がある。
そして、前記事実関係及び訴訟の経過によれば、本訴請求は、上告人らそれぞれに対し、本件相殺後の損害賠償債権残額654万4153円の2分の1に当たる327万2076円及びこれに対する平成14年3月9日から支払済みまで年6分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるからこれを認容し、その余は理由がないからこれを棄却すべきである。よって、原判決を主文第1項のとおり変更することとする。なお、反訴請求については、本訴請求において、反訴請求債権の全額について相殺の自働債権として既判力のある判断が示されているので、判断を示す必要がない。
よって、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 津野修 裁判官 滝井繁男 裁判官 今井功 裁判官 中川了滋 裁判官 古田佑紀)

++解説
《解  説》
1 本訴請求は,建物建築工事の注文者であるXが,請負人Aの相続人であるYらに対し,完成した建物に瑕疵があるなどと主張して瑕疵修補に代わる損害賠償請求をした事案であり,反訴請求は,Yらが,Xに対し,相続により請負契約に基づく報酬残債権(各2分の1)を取得したと主張してその支払を求めた事案である。Yらは,第1審の口頭弁論期日において,YらのXに対する報酬残債権(反訴請求債権)を自働債権とし,XのYらに対する損害賠償債権(本訴請求債権)を受働債権として対当額で相殺する旨の抗弁(以下「本件相殺」という。)を提出した。

2 1,2審とも,本件相殺が適法であることを前提に,①瑕疵修補に代わる損害賠償請求権(本訴請求債権)の額は合計2474万円余であり,②請負残報酬債権(反訴請求債権)の額は合計1820万円余であると認め,本件相殺の結果,本訴請求債権額は654万円余(各被告に対して327万円余)となり,反訴請求債権は全額消滅したと判断した。その上で,原審は,相殺後の本訴請求債権につき,Yらは,反訴状送達の日の翌日(平成6年1月26日)から遅滞の責めを負うとした。これに対し,Yらが上告し,相殺後の本訴請求債権につきYらが履行遅滞に陥るのは本件相殺の意思表示をした日の翌日(平成14年3月9日)であると主張して争った。

3 本件では相殺の適法性が直接争点とされたわけではないが,Yらの上告受理申立て理由について判断する前提として,係属中の反訴請求債権を自働債権とし,本訴請求債権を受働債権とする本件相殺が許されるか否かを判断する必要がある。本判決は,本件相殺は適法であるとした上,Yらの上告を容れて破棄自判とした。

4(1) 相殺の抗弁については,判決理由中で判断が示されたときは自働債権の存否について既判力が生じる(民訴法114条2項)。そのため,相殺の抗弁とその自働債権についての別訴が並行する場合,同一の債権が,相殺の自働債権として,かつ,別訴の訴訟物として,二重に審理判断される危険があり,重複起訴を禁止した民訴法142条に反するのではないかという問題がある。
この問題は,①別訴先行型(現に係属している甲訴訟の請求債権を自働債権として乙訴訟で相殺の抗弁を主張する場合)と,②抗弁先行型(既に相殺の抗弁に供した自働債権を訴訟物として別訴又は反訴を提起する場合)とに大別されるが,本件は別訴先行型の事案である。
(2) 別訴先行型の相殺について,学説は,不許説(不適法説),許容説(適法説),折衷説など見解が対立している。不許説は,同一債権の存否につき既判力が矛盾抵触する可能性があること,別個の裁判所で審理が重複し,訴訟経済に反すること,相殺の抗弁は機能的にみて訴訟係属と同様の実質を有するから二重起訴に当たることなどを理由にこれを許さないとする。これに対し,許容説は,相殺の抗弁は攻撃防御方法にすぎず二重起訴に当たらないこと,相殺の抗弁が取り上げられるかどうかは不確実であること,別訴の取下げに相手方の同意が得られなければ相殺による防御の途が封じられてしまうこと,裁判所の適切な訴訟指揮により実際には既判力の抵触を避け得ることなどを理由にこれを認めるべきであるとする。また,折衷説は,同一手続型(両事件が併合審理されている場合や本訴・反訴の関係にある場合)においては判断の矛盾・抵触ということはあり得ないから,この場合は相殺の抗弁提出を認めるべきであるとする
判例は,別訴先行型の相殺につき,係属中の別訴請求債権を自働債権として他の訴訟で相殺の抗弁を主張することは許されないとしており,このことは,相殺の抗弁が主張された当時,本訴と別訴が併合審理されていたとしても同様であるとする(最三小判平3.12.17民集45巻9号1435頁)。平成3年判決は,相殺の自働債権の存否の判断が既判力を有することから,自働債権の存否につき矛盾・抵触する判決が生ずることを防止する必要性があることを重視して,このような相殺は許されないと判示したものと解される(河野信夫・平3最判解説(民)516頁)。
(3) 本件は,平成3年判決と同じく別訴先行型に属するが,反訴請求債権を自働債権とし本訴請求債権を受働債権とする相殺の場合には,一般に予備的反訴が許容されていることから,以下に述べるとおり,平成3年判決が指摘するような既判力の矛盾抵触の問題は生じないと考えることができる。
訴えに条件を付することは原則として許されないが,例えば,本訴請求に理由がある場合には反訴請求について審判を求めるという予備的反訴は,審理の過程でその条件成就が明確になり,手続の安定を害するおそれがないという理由で許容されている(兼子一ほか・条解民事訴訟法890頁,菊井維大=村松俊夫・民事訴訟法II247頁)。このことからすれば,無条件の反訴を,反訴請求債権につき本訴において相殺の自働債権として既判力ある判断が示された場合にはその部分を反訴請求としないという内容の予備的反訴に変更することも,同様に許容されてよい
本訴被告(反訴原告)としては,本訴で反訴請求債権を自働債権とする相殺の抗弁について既判力ある判断が示されれば,それと重複する部分につき反訴で審判を求めることは無益であるし,また,無条件の反訴を維持したままでその請求債権の一部を同時に相殺に供することは当該債権につき審判対象の重複(二重起訴)を生じさせることになり,そのような相殺は不適法といわざるを得ないから,反訴請求債権を自働債権とする相殺の抗弁を提出する以上,特に異なる意思表示をしない限りは,反訴請求債権につき相殺の自働債権として既判力ある判断が示された場合にはそれに相当する部分の訴えは反訴における審判の対象としないことを当然の前提としていると考えられる。
相殺の抗弁の提出により反訴が上記のような内容の予備的反訴に変更されたとすれば,反訴請求のうち相殺の自働債権として判断が示された部分については,解除条件の成就により審理の対象とならないから,審判対象の重複(二重起訴)は生じないし,実務上も,予備的反訴の場合は弁論を分離することはできないので,審理の重複や判断の抵触が生じるおそれはないといってよい。
本判決は,このような考慮の下で,別訴先行型であっても,反訴請求債権を自働債権とし本訴請求債権を受働債権とする相殺については平成3年判決の射程は及ばず,このような相殺の抗弁の提出は原則として許されると判示したものである。
5 本判決は,別訴先行型のうち反訴請求債権を自働債権とし本訴請求債権を受働債権とする相殺の抗弁の許否について最高裁として初めての判断を示したものであり,実務上重要な意義を有する。

5.設問の検討その2

+判例(H10.6.30)
理由
上告代理人柏崎正一の上告理由第一点について
原審の確定した事実関係の下においては、上告人が、自ら申告、納付すべき相続税額につき、被上告人の出捐により法律上の原因なく利得をしたとの原審の判断は、結論において是認するに足りる。論旨は採用することができない。
同第二点の一について
預金債権その他の金銭債権は、相続開始とともに法律上当然に分割され、各相続人がその相続分に応じて権利を承継するものと解される(最高裁昭和二七年(オ)第一一九号同二九年四月八日第一小法廷判決・民集八巻四号八一九頁参照)。これに対し、金銭は、相続開始と同時に当然に分割されるものではなく、相続人は、遺産分割までの間は、相続開始時に存した金銭を相続財産として保管している他の相続人に対して、自己の相続分に相当する金銭の支払を求めることはできないものと解される(最高裁平成元年(オ)第四三三号、第六〇二号同四年四月一〇日第二小法廷判決・裁判集民事一六四号二八五頁参照)。
上告人は、被上告人が亡父Aの遺産である預金及び現金を保管しているとして、その法定相続分相当額の支払請求権を自働債権とする相殺を主張するものであるが、右のとおり、預金については、銀行に対し、自己の相続分に相当する金額の払戻しを請求すれば足り、また、現金については、いまだ相続人間で遺産分割が成立していないというのであるから、被上告人に対してその支払を求めることはできず、右相殺の主張はいずれも失当である。したがって、これと結論を同じくする原審の判断は、是認するに足り、審理不尽をいう論旨はその前提を欠く。

同第二点の二について
一 記録によれば、本件訴訟の経過は次のとおりであると認められる。
1 上告人は、平成二年六月五日、被上告人の申請した違法な仮処分により本件土地及び建物の持分各二分の一を通常の取引価格より低い価格で売却することを余儀なくされ、その差額二億五二六〇万円相当の損害を被ったと主張して、被上告人に対し、不法行為を理由として、内金四〇〇〇万円の支払を求める別件訴訟(最高裁平成六年(オ)第六九七号損害賠償請求事件)を提起した。
2 一方、被上告人は、同年八月二七日、上告人が支払うべき相続税、固定資産税、水道料金等を立て替えて支払ったとして、上告人に対し、一二九六万円余の不当利得返還を求める本件訴訟を提起した。
3 本件訴訟の第一審において、上告人は、相続税立替分についての不当利得返還義務の存在を争うとともに(上告理由第一点参照)、予備的に、前記違法仮処分による損害賠償請求権のうち四〇〇〇万円を超える部分を自働債権とする相殺を主張した。
4 また、上告人は、本件訴訟の第二審において、右3の相殺の主張に加えて、預金及び現金の支払請求権を自働債権とする相殺を主張し(上告理由第二点の一参照)、また、前記違法仮処分に対する異議申立手続の弁護士報酬として支払った二〇〇〇万円及びこれに対する遅延損害金の合計二四七八万円余の損害賠償請求権を自働債権とする相殺を主張した。

二 原審は、右事実経過の下において、係属中の別訴において訴訟物となっている債権を自働債権として他の訴訟において相殺の抗弁を主張することは許されないとした最高裁昭和六二年(オ)第一三八五号平成三年一二月一七日第三小法廷判決・民集四五巻九号一四三五頁の趣旨に照らし、(1)前記違法仮処分により売買代金が低落したことによる損害賠償請求権のうち四〇〇〇万円を超える部分を自働債権とする相殺の主張、及び、(2)弁護士報酬相当額の損害賠償請求権を自働債権とする相殺の主張は、いずれも許されないものと判断した。

三 しかしながら、原審の右判断は是認することができない。その理由は、次のとおりである。
1 民訴法一四二条(旧民訴法二三一条)が係属中の事件について重複して訴えを提起することを禁じているのは、審理の重複による無駄を避けるとともに、同一の請求について異なる判決がされ、既判力の矛盾抵触が生ずることを防止する点にある。そうすると、自働債権の成立又は不成立の判断が相殺をもって対抗した額について既判力を有する相殺の抗弁についても、その趣旨を及ぼすべきことは当然であって、既に係属中の別訴において訴訟物となっている債権を自働債権として他の訴訟において相殺の抗弁を主張することが許されないことは、原審の判示するとおりである(前記平成三年一二月一七日第三小法廷判決参照)。
2 しかしながら、他面、一個の債権の一部であっても、そのことを明示して訴えが提起された場合には、訴訟物となるのは右債権のうち当該一部のみに限られ、その確定判決の既判力も右一部のみについて生じ、残部の債権に及ばないことは、当裁判所の判例とするところである(最高裁昭和三五年(オ)第三五九号同三七年八月一〇日第二小法廷判決・民集一六巻八号一七二〇頁参照)。この理は相殺の抗弁についても同様に当てはまるところであって、一個の債権の一部をもってする相殺の主張も、それ自体は当然に許容されるところである。

3 もっとも、一個の債権が訴訟上分割して行使された場合には、実質的な争点が共通であるため、ある程度審理の重複が生ずることは避け難く、応訴を強いられる被告や裁判所に少なからぬ負担をかける上、債権の一部と残部とで異なる判決がされ、事実上の判断の抵触が生ずる可能性もないではない。そうすると、右2のように一個の債権の一部について訴えの提起ないし相殺の主張を許容した場合に、その残部について、訴えを提起し、あるいは、これをもって他の債権との相殺を主張することができるかについては、別途に検討を要するところであり、残部請求等が当然に許容されることになるものとはいえない
 しかし、こと相殺の抗弁に関しては、訴えの提起と異なり、相手方の提訴を契機として防御の手段として提出されるものであり、相手方の訴求する債権と簡易迅速かつ確実な決済を図るという機能を有するものであるから、一個の債権の残部をもって他の債権との相殺を主張することは、債権の発生事由、一部請求がされるに至った経緯、その後の審理経過等にかんがみ、債権の分割行使による相殺の主張が訴訟上の権利の濫用に当たるなど特段の事情の存する場合を除いて、正当な防御権の行使として許容されるものと解すべきである。
したがって、一個の債権の一部についてのみ判決を求める旨を明示して訴えが提起された場合において、当該債権の残部を自働債権として他の訴訟において相殺の抗弁を主張することは、債権の分割行使をすることが訴訟上の権利の濫用に当たるなど特段の事情の存しない限り、許されるものと解するのが相当である。

4 そこで、本件について右特段の事情が存するか否かを見ると、前記のとおり、上告人は、係属中の別件訴訟において一部請求をしている債権の残部を自働債権として、本件訴訟において相殺の抗弁を主張するものである。しかるところ、論旨の指摘する前記二(2)の相殺の主張の自働債権である弁護士報酬相当額の損害賠償請求権は、別件訴訟において訴求している債権とはいずれも違法仮処分に基づく損害賠償請求権という一個の債権の一部を構成するものではあるが、単に数量的な一部ではなく、実質的な発生事由を異にする別種の損害というべきものである。そして、他に、本件において、右弁護士報酬相当額の損害賠償請求権を自働債権とする相殺の主張が訴訟上の権利の濫用に当たるなど特段の事情も存しないから、右相殺の抗弁を主張することは許されるものと解するのが相当である。
そうすると、重複起訴の禁止の趣旨に反するものとして上告人の右相殺の抗弁を排斥した原審の判断には、法令の解釈適用を誤った違法があり、その違法は原判決の結論に影響を及ぼすことが明らかである。右相殺の抗弁について審理不尽の違法があるとする論旨は、前提として右の趣旨をいうものと解されるから理由があり、原判決中、上告人敗訴の部分は破棄を免れない。そして、本件については、右相殺の抗弁の成否について更に審理を尽くさせる必要があるから、これを原審に差し戻すこととする。
よって、裁判官園部逸夫の補足意見があるほか、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

+補足意見
裁判官園部逸夫の補足意見は、次のとおりである。
私は、法廷意見に同調するものであるが、論旨で取り上げられていない前記二(1)の売買代金低落分に関する相殺の主張の許否の問題と、この種事案の実務上の取扱いについて、若干意見を述べておくこととしたい。
一 第一は、前記違法仮処分により売買代金が低落したことによる損害賠償請求権のうち、四〇〇〇万円を超える部分を自働債権とする相殺の主張の許否に関する問題である。前記のとおり、上告人は、被上告人の違法仮処分により本件土地及び建物の持分各二分の一を通常の取引価格より低い価格で売却することを余儀なくされ、その差額二億五二六〇万円相当の損害を被ったと主張して、被上告人に対し、不法行為を理由として、内金四〇〇〇万円の支払を求める別件訴訟を提起するとともに、本件訴訟において、右損害賠償請求権のうち四〇〇〇万円を超える部分を自働債権とする相殺を主張している。法廷意見の述べる一般論からすれば、右相殺の主張も訴訟上の権利の濫用に当たるなど特段の事情の存しない限り許容されることになるが、本件においては、別の手続上の理由から、もはや差戻審において右相殺の抗弁の成否について審理判断をする余地はない。
すなわち、金銭債権の数量的一部請求訴訟で敗訴した原告が残部請求の訴えを提起することは、特段の事情がない限り、信義則に反して許されないと解するのが相当である(最高裁平成九年(オ)第八四九号同一〇年六月一二日第二小法廷判決参照)。
これを本件について見ると、別件訴訟については、本判決の言渡しの日と同日、当裁判所において上告棄却の判決が言い渡され、右損害賠償請求権の数量的一部請求(四〇〇〇万円)を棄却した判決が確定した。その結果、特段の事情の存しない本件において、上告人としては、もはや残債権について訴えを提起することができないこととなり、したがって、これを自働債権とする相殺の主張も当然に不適法となったものというべきである。

二 第二は、この種事案の実務上の取扱いである。前記のとおり、本件においては、上告人が平成二年六月五日に別件訴訟を提起した後、被上告人が同年八月二七日に本件訴訟を提起したところ、上告人が右相殺の主張をするに至ったものである。そして、別件訴訟と本件訴訟とは、その後も別々の裁判体で審理され、売買代金低落を理由とする損害賠償請求権については、別件訴訟の第一審判決がこれを認めなかったのに対し、本件訴訟の第一審判決はその一部を認めて被上告人の請求を棄却しており、裁判所の判断が異なる事態が生じている。
法廷意見も述べるように、一個の債権の一部について訴えが提起され、その残部をもって相殺の主張がされた場合には、原則としてこれらは重複起訴の関係に立たないが、民事訴訟の理想からすれば、裁判所としては、可及的に両事件を併合審理するか、少なくとも同一の裁判体で並行審理することが強く望まれる。このことによって、審理の重複と事実上の判断の抵触を避けることができるとともに、当事者、裁判所の負担の軽減にもつながることになるからである。もっとも、実務においては、様々な理由から裁判体相互間における関連事件の割替えが行われず、本件のように、これが別々の裁判体において審理裁判されることが少なくない。そのために、しばしば、審理の重複と事実上の判断の抵触が生じたり、訴訟経済に反する事態が生じている。しかし、必要とあれば適切な司法行政上の措置を講じて関連事件の円滑な割替えがされるよう配慮すべきであり、本件のような問題に対しては、そのことによって根本的な解決を図る必要があることを強調しておきたい。
(裁判長裁判官 園部逸夫 裁判官 千種秀夫 裁判官 尾崎行信 裁判官 元原利文 裁判官 金谷利廣)

++解説
《解  説》
一 本件は、XがYに対し、立替払した相続税等の不当利得返還請求をしたところ、Yが、不当利得返還義務の存在を争うとともに、別件訴訟において一部請求をしている違法仮処分を理由とする損害賠償債権の残部をもって相殺の抗弁を主張した事案である。争点はこれに限られないが、事項・要旨として取り上げられた「一部請求の残債権をもってする相殺の許否」という点に絞って解説をしたい。

二 Yの主張する債権は、Xの違法仮処分を理由とする不法行為上の損害賠償債権であり、その内訳は、(1) 本件土地建物の持分二分の一を通常の取引価格より低い価格で売却することを余儀なくされたことによる損害(=売買代金低落分)二億五六〇〇万円、(2) 違法仮処分の取消手続のために支払った弁護士報酬及びこれに対する遅延損害金(=弁護士報酬分)二四七八万円余である。
Yは、まず、(1)の売買代金低落分のうち四〇〇〇万円の支払を求める別件訴訟を提起し、その後、Xの提起した本件不当利得請求訴訟において、(1)の売買代金低落分の残債権と(2)の弁護士報酬分の債権を自働債権とする相殺を主張した。一審は、相殺を適法としたが(ただし、一審では、(2)を自働債権とする相殺は主張されていなかった。)、原審は、別訴において訴訟物となっている債権を自働債権として相殺の抗弁を主張することは許されないとした最三小判平3・12・17民集四五巻九号一四三五頁の趣旨に照らして、Yの相殺の抗弁はいずれも不適法であるとした。

三 相殺の抗弁と二重起訴の成否について
一部請求の問題をひとまず措くと、本件においては、別件訴訟で訴訟物となっている損害賠償債権と同一の債権を本件訴訟において相殺の自働債権として主張している。このように、「一方の訴訟で訴訟物となっている債権を他方の訴訟で相殺の自働債権として主張することができるか」は、言わば民事訴訟法学における古典的問題であり、許容説(適法説)、不許説(不適法説)、折衷説などに分かれ、見解が対立している。
判例は、いわゆる別訴先行型(抗弁後行型)の事案について、相殺の抗弁は不適法であり許されないとの立場を採っている。当初、最三小判昭63・3・15民集四二巻三号一七〇頁、本誌六八四号一七六頁は、この法理を事例判例の中で述べたが、前記平成三年最高裁判決は、「係属中の別訴において訴訟物となっている債権を自働債権として他の訴訟において相殺の抗弁を主張することは許されない」旨の一般法理を示し、この立場を採ることを明確にした。平成三年最高裁判決は、原審で本訴と別訴が併合審理されている事案であったが、二重起訴禁止の趣旨は審理重複による無駄の回避と既判力の矛盾・抵触の防止にあるとした上、既判力の矛盾・抵触の防止の方に重点を置いて、相殺の抗弁を不適法としたものであると解されている(河野信夫・平成三年度民事判例解説〔27〕五一六頁参照)。
これに対し、いわゆる抗弁先行型については、平成三年判決の触れるところではなく、現在でも学説が分かれているが、下級審判例は、別訴の提起を許容する傾向にある(もっとも、最近、抗弁先行型の事案における別訴の提起を両事件の弁論が併合されている場合においても不適法とした高裁判例として、東京高判平8・4・8本誌九三七号二六二頁が現れた。)。

四 一部請求について
1 Yが別件訴訟で訴求しているのは売買代金低落分の債権((1))の内金四〇〇〇万円であり、本件訴訟で相殺の抗弁に供しているのはその残額である。したがって、本件については、「相殺の抗弁と二重起訴の成否」からだけでなく、「一部請求」の側面から事案を検討する必要がある。金銭その他数量的に可分な給付を目的とする債権につき、その一部のみの給付を求めるいわゆる一部請求の許否については、かねてより学説が対立している。一部請求の名の下に訴訟を蒸し返すような訴えが訴権の濫用として却下されるのは当然であるが、一部請求それ自体が適法であることには異論がなく、従来、この問題は、専ら、一部請求に対する判決の確定後、残部について再度訴求し得るかという観点から議論されてきた。
判例は、いわゆる明示的一部請求を認める立場である。すなわち、一〇〇〇万円のうちの二〇〇万円というように、原告が一部請求であることを明示して訴えを提起したときは、訴訟物となるのは右債権の一部二〇〇万円だけであって、右一部請求についての確定判決の既判力は残部の請求に及ばない(最二小判昭37・8・10民集一六巻八号一七二〇頁)。ただし、金銭債権の数量的一部請求訴訟で敗訴した原告が残部請求の訴えを提起することは、特段の事情がない限り、信義則に反して許されないことに注意する必要がある(最二小判平10・6・12参照)。一部請求であることを明示しない場合には、もはや残部請求をすることは許されない(最二小判昭32・6・7民集一一巻六号九四八頁)。訴え提起による時効中断の効力も、一部請求と明示された範囲でのみ生ずる(最二小判昭34・2・20民集一三巻二号二〇九頁)。一部請求理論に関する学説は混迷の度合いを深めているが、その中にあって、右最高裁判例の立場は、「概ね妥当な適用結果を導くところから多くの賛成を得ている」といわれている(中野貞一郎「一部請求論について」民事手続の現在問題九六頁)。
2 ところで、本件において検討を要する問題は、従来議論されていた「一部請求確定後の残部請求の許否」ではなく、「一部請求の訴えの係属中に、残部請求の訴えが係属し、あるいは、残部債権による相殺の抗弁が主張された場合、二重起訴の法理等により後者が制限されるか」である。相殺の抗弁に関する問題は五項で検討することとして、まず、一部請求の訴えと残部請求の訴えとが同時並行的に係属している場合について見ると、裁判例はほとんどなく、学説の議論も煮詰まっていない。下級審の判例としては、二重起訴に当たるとしたもの(東京地判昭37・2・27判時二九〇号二五頁)と、二重起訴に当たらないことを前提とするもの(東京高判昭29・7・5下民五巻七号一〇四一頁)とが公刊されている。なお、一部請求の名の下にいたずらに同一の訴訟を蒸し返すような場合について、訴権の濫用に当たるとして訴えが却下された事例があるが(東京地判平7・7・14本誌八九一号二六〇頁)、これは別論である。
学説については、そもそも一部請求を認めない立場によれば、両訴の訴訟物は同一となるから、後訴は二重起訴の禁止に触れることになる。これに対し、一部請求を認める立場によれば、両訴は訴訟物を異にするから、二重起訴には当たらないが、請求の拡張の方法で残部の請求について判決を求めるのが望ましいと説明されている(注解民事訴訟法第二版(6)二七九頁など)。
このように、同一の債権を複数に分割し並行して訴訟を提起するような事例は、好訴者などによる濫用事例を除いては、実務的には希有と思われるが、一部請求に関する判例理論によれば、先に明示的一部請求の訴えを提起した原告が、後に残部の支払を求めて再度裁判所に訴えを提起した場合には、前訴と後訴とは訴訟物を異にすることになる。そうすると、従来の一部請求に関する判例理論の枠組みの中で後訴を制限するとしたら、本来、二重起訴の法理ではなく、権利濫用ないし信義則違反の法理によるべきではないかと思われる。

五 一部請求の残債権をもってする相殺の許否について
1 形式論理的に考える限り、一〇〇〇万円の債権を二〇〇万円と八〇〇万円に分けて同時並行的に訴訟を提起しても二重起訴の禁止に直接触れないのであれば、八〇〇万円を別訴でなく相殺の抗弁として主張した場合には、なおさら、二重起訴を理由としてこれを制限することはできない筋合いであろう。しかし、この問題については、次に述べるように相殺の抗弁が二重起訴の禁止に触れるとした判決もあり、より実質的な観点からの吟味を必要とする。
2 本件で問題となっている「一部請求の残債権をもってする相殺の許否」という問題を直接扱った最高裁判決はなく、下級審判決としては、本件の原判決のほかは、これに先立って言い渡された東京高判平4・5・27判時一四二四号五六頁(確定)があり、いずれも相殺の抗弁が二重起訴の禁止に触れるとしている。平成四年東京高裁判決の事案は、別訴において訴訟物となっている債権を自働債権とする相殺の抗弁が提出され、その後、別訴で自働債権相当分につき請求が減縮されたという事案につき、形式的には別個の訴訟物について審理判断をすることになるから理論上は既判力の抵触は生じないとしながら、本件の原判決と同様、旧民訴法二三一条の趣旨に照らして相殺の抗弁は不適法であるとした。
これらの判例が強調する点の一つは、一部請求と残部についての相殺の抗弁が実質的な判断対象ないし争点を共通にするために、審理の重複による無駄が生ずるという点である。この問題は、一部請求を許容することにより不可避的に生ずる問題であって、一部請求の許否を検討する際にある程度織り込み済みの論点といえる。ただし、一部請求確定後の残部請求の場合には、実際には、前訴の訴訟資料を利用することにより審理の重複による無駄を相当程度避けることができるが、本訴と別訴(相殺の抗弁)とが同時並行的に係属している場合には、訴訟資料を利用し合うことは必ずしも容易ではなく、審理の重複が生ずることは避けられない。
また、訴訟物が別であることから、矛盾する判断によって形式的な既判力の抵触問題は生じないとしても、請求の基礎となる社会的事実関係が全く同じであるにもかかわらず、裁判所によって判断が異なるという、一般社会の感覚に合わない事態が生じ得る。これも一部請求を認めることにより容認済みの結果とはいえるが、事実上同一の判断がされることの多い一部請求確定後の残部請求の場合に比べ、本訴と別訴(相殺の抗弁)とが同時並行的に係属している場合には、問題状況はより深刻である。現に、本件訴訟の第一審と別件訴訟の第一審とでは、Yの損害賠償債権の存否について全く異なった結果が示されている。

3 他方、前記の「相殺の抗弁と二重起訴の成否」の問題については、学説上は依然として相殺許容説も有力であるところ、この立場が強調する論拠の一つに、相殺の簡易決済機能・担保的機能がある。すなわち、本判決も述べるように、相殺は、相手方の訴求する債権との間で簡易迅速かつ確実に決済を図るという機能を有するものであるから、安易にその主張の機会が奪われてはならず、その機会が奪われると、特に原告が無資力の場合に被告に著しい不利益が生ずるとされている。
前記平成三年最高裁判決は、右のような相殺の機能も考慮に入れた上で、これを犠牲にしてでも守るべきより重大な利益(既判力の矛盾・抵触の防止)があるとして、相殺の抗弁を不適法としたものであると考えられる。しかし、直接にこのような既判力の抵触問題の生じない一部請求の残債権による相殺の場面については、原判決及び平成四年東京高裁判決の挙げるような論拠に基づき、民訴法一四二条(旧民訴法二三一条)の趣旨を及ぼして相殺の抗弁の主張を許さないことが妥当かどうかは、疑問である。

4 本判決は、右のような相殺の抗弁の持つ訴訟上の機能にかんがみ、一部請求の残債権を自働債権とする相殺の主張は、二重起訴の禁止に触れるものではなく、原則として、正当な防御権の行使として許容されると判断している。そして、論旨が問題とする弁護士報酬分の債権二四七八万円余((2))を自働債権とする相殺の抗弁は適法であり、その成否について更に審理を尽くさせる必要があるとして、原判決中、Y敗訴部分を破棄し、これを原審に差し戻したものである。

5 ただし、本判決は、例外として、「債権の分割行使をすることが訴訟上の権利の濫用に当たるなど特段の事情が存する場合」には、相殺の抗弁は不適法であるとしている。すなわち、一つの紛争については可能な限り一回的な解決が図られるべきであり、一つの紛争について分断した訴訟を無闇に許すとなると、訴訟経済に反する上、相手方も応訴の煩に耐えない。債権の分割行使は、その態様によっては、権利の濫用として許容されない場合が生ずる(一つの債権を同時並行的に分割して訴求する場合が、その典型例である。)。相手方の主張を契機として受動的に主張される相殺の抗弁については、このような事態は一般的には想定しにくいが、債権の発生事由、審理の経過等に照らして相殺の主張が権利の濫用に当たると評価される場合もあり得るであろう。実務上見られる相殺の抗弁には、その訴訟で取り上げて審理・裁判するのが適当でないものが多いことが指摘されているところである(中野貞一郎=酒井一「別訴において訴訟物となっている債権を自働債権とする相殺の抗弁の許否」民商一〇七巻二号二五四頁参照)。
しかし、本件の相殺の主張については、弁護士報酬相当分の債権((2))を自働債権とするものはもとより、売買代金低落分の債権((1))を自働債権とするものについても、これが権利の濫用に当たると認めるべき特段の事情は存しないといえる(後者については、論旨が取り上げておらず、かつ、差戻審においてその成否を判断する余地もないことから、法廷意見ではなく園部裁判官の補足意見で触れられている。)。殊に、弁護士報酬相当分の自働債権((2))は、違法仮処分を原因とする一個の不法行為債権の一部であるとはいえ、別件訴訟で訴求されている売買代金低落分の債権((1))とは実質的な発生原因を異にするものである。このように、一部請求に係る債権とは特定識別された残部債権を自働債権とする相殺が許容されるべきものであることは、当然であるといえよう。
六 本判決は、いまだ学説でも十分に検討されていない「一部請求の残債権をもってする相殺の許否」という問題について、最高裁として初めての判断を示したものであり、ほぼ同時期に一部請求に関して新判断を示した最二小判平10・6・12と共に、注目に値する。なお、園部裁判官の補足意見は、この種事案の実務上の取扱いを考える上で参考になるものと思われる。

++判例(S37.8.10)
理由
上告代理人信正義雄の上告理由について。
一個の債権の数量的な一部についてのみ判決を求める旨を明示して訴が提起された場合は、訴訟物となるのは右債権の一部の存否のみであつて、全部の存否ではなく、従つて右一部の請求についての確定判決の既判力は残部の請求に及ばないと解するのが相当である。
右と同趣旨の原判決の判断は正当であつて、所論は採用するをえない。よつて、民訴四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員の一致で主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 池田克 裁判官 河村大助 裁判官 奥野健一 裁判官 山田作之助)


行政法 基本行政法 行政の存在理由・行政法の特色~民事法刑事法との比較~


1.鉄道運賃・料金の規制

+判例(H1.4.13)近鉄特急事件
主文
本件上告を棄却する。
上告費用は上告人らの負担とする。
理由
上告代理人大原健司、同佐井孝和、同島川勝、同辻公雄、同山川元庸、同安木健の上告理由第一点について
地方鉄道法(大正八年法律第五二号)二一条は、地方鉄道における運賃、料金の定め、変更につき監督官庁の認可を受けさせることとしているが、同条に基づく認可処分そのものは、本来、当該地方鉄道利用者の契約上の地位に直接影響を及ぼすものではなく、このことは、その利用形態のいかんにより差異を生ずるものではない。また、同条の趣旨は、もっぱら公共の利益を確保することにあるのであって、当該地方鉄道の利用者の個別的な権利利益を保護することにあるのではなく、他に同条が当該地方鉄道の利用者の個別的な権利利益を保護することを目的として認可権の行使に制約を課していると解すべき根拠はない。そうすると、たとえ上告人らが近畿日本鉄道株式会社の路線の周辺に居住する者であって通勤定期券を購入するなどしたうえ、日常同社が運行している特別急行旅客列車を利用しているとしても、上告人らは、本件特別急行料金の改定(変更)の認可処分によって自己の権利利益を侵害され又は必然的に侵害されるおそれのある者に当たるということができず、右認可処分の取消しを求める原告適格を有しないというべきであるから、本件訴えは不適法である。
これと同旨の原審の判断は、正当として是認することができる。原判決に所論の違法はなく、論旨は独自の見解に基づき原判決を非難するものであって、採用することができない。
同第二点について
所論の点に関する原審の判断は、正当として是認することができ、原判決に所論の違法はない。論旨は、原判決を正解しないでこれを非難するものであって、採用することができない。
よって、行政事件訴訟法七条、民訴法四〇一条、九五条、八九条、九三条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官佐藤哲郎 裁判官角田禮次郎 裁判官大内恒夫 裁判官四ツ谷巖 裁判官大堀誠一)

上告代理人大原健司、同佐井孝和、同島川勝、同辻公雄、同山川元庸、同安木健の上告理由
第一 原告適格について
原判決は、上告人らの原告適格に関し行政事件訴訟法九条の解釈を誤り、結論に影響を及ぼす法令違反を犯している。以下その理由を述べる。
一 第三者の原告適格
1 はじめに
原審判決は、上告人らの訴えの利益を否定し、訴えを却下した。しかし特急料金の認可処分権限の存しない大阪陸運局長が料金変更を認可した近鉄特急は日々運行され、近鉄は上告人らをふくむ一般通勤客から莫大な特急料金を徴収している。原審判決で訴えの利益が否定されても、一審判決の認めた被上告人近畿運輸局長の処分権限の違法は放置されたままである。この違法状態の是正を誰が求めうるのであろうか。
認可処分の名宛人である近鉄はこの値上認可処分によって利益を受けるのであるから、処分の違法を争うことはありえない。認可処分によって料金の変更が行われ、値上げされた特急料金を支払わされる上告人ら乗客以外にない。
そもそも司法制度は、不利益を受けた者が、裁判所に提訴し不利益の回復が図られ、総体としての社会秩序が維持されることが予定されている。利益を受けた者が裁判所に費用と労力を費して、自己の利益を削減することを求めることはありえないし、法の予定しているところではない。不利益を受けた者がその痛みを原動力として、訴訟が起動するのである。行政事件訴訟においても、その構造は変るところではない。行政事件訴訟法九条の処分又は裁決の取消しを求めるにつき法律上の利益を有する者とは、まさに行政庁の処分によって不利益を受けた者を指すのであり、処分の形式的な名宛人に限定されるものではない。
2 第三者の原告適格
そもそも、社会の複雑化・多様化とともに、現代の行政は国民生活と深いかかわりをもつようになり、行政庁の処分が及ぼす影響の範囲が拡大する一方であることは、否定することができない事実である。それはたんに、処分の名宛人のみならず、第三者に対してもしばしば大きな影響を及ぼす。したがって行政庁の違法な公権力の行使により権利・利益を侵害された国民は、裁判所にその救済を求めることができるとするのが、法の支配の理念に適う。行政処分の効果に応じて行政庁の処分の取消を求めうる者の範囲は、必然的に拡大されざるをえない。
我国の多くの判例もその傾向を示しており、第三者の原告適格を次第に拡大しつつあるのが現状である。
最高裁昭和三七年一月一九日判決(判例時報二九〇号六頁)によれば、既存の公衆浴場営業者は第三者に対する公衆浴場営業許可処分の無効確認を求める訴の利益が認められた。公衆浴場は都道府県知事の営業許可を受けることを要する営業であるが、公衆浴場の配置について配置の適正を欠く場合に営業許可を与えられないことがある。右判例の事案は、既存の公衆浴場営業が第三者に与えられた営業許可につき、営業許可の配置基準に合致しないものであり、自分達の営業上の利益が侵害されるとして、新たな者が受けた営業許可処分を争った事案である。
この事案は、結局のところ新たに営業許可を受けた者が、公衆浴場の配置に関する許可基準に適合しない営業許可を受けた場合、営業許可を受けた者自体は、許可処分の違法を争うことがありえないから、その営業許可処分によって不利益を受ける第三者、すなわち既存の公衆浴場営業者に許可処分の違法を争わせるのが合理的であると判断されたのである。
次に、近鉄の地方鉄道事業と同様の地域独占企業に対する行政庁の供給条件の認可処分に対し、一般消費者に原告適格を認めた東京地裁判決(昭和四三年七月一一日判例時報五三一号二四頁)が注目されるべきである。
右の判決では本来ガス会社が負担しなければならない工事費を消費者に負担することを認めたガス会社に対する通産大臣の特別供給条件の違法を争うにつき、ガスの供給希望者に原告適格を認めた。本件特急料金の場合、上告人らは近鉄の地域独占の結果、日々通勤のために近鉄を利用せざるをえない立場にあり、ガス会社に対する供給希望者と類似の法律関係であるから、上告人らに原告適格が認められるべきである。
また原子炉設置許可処分の取消を求める地域住民の行政訴訟では、地域住民に原告適格が認められている(例えば伊方原子力発電所事件松山地方裁判所判決昭和五三年四月二五日判例時報八九一号三八頁)。原子力発電所の行政訴訟では、地域住民の主張するのは、将来の被害の可能性であり、被害の及びうる地域住民に原告適格が認められているのである。
以上のように見て来ると、第三者に原告適格が認められるか否かは、結局のところ、当該行政処分によって直接かつ重大な不利益を被る者又はその可能性のある者に処分の違法を争わせるのが適正かつ合理的であり、行政処分の形式上の名宛人であるか否かは、原告適格を判断するうえ最終的な決め手になるものではないのである。
二 ジュース表示事件判決及び長沼ナイキ基地事件判決について
原判決は、行政事件訴訟法九条の法律上の利益を有する者の解釈に関し、最高裁のいわゆるジュース表示事件(昭和五三年三月一四日判決)を引用して、反射的利益を論じ、いわゆる長沼ナイキ基地事件(昭和五七年九月九日判決)を引用して、公益との関係を論じ、本件の原告適格を否定する論拠として判示している。原判決の判示はいずれも誤りであり、かつ最高裁判決の判断の及ぶ範囲を誤ってしたものであるので、以下批判する。
1 ジュース表示事件判決について
原判決は「法律上保護された利益とは、行政法規が私人等権利主体の個人的利益を保護することを目的として、行政権の行使に制約を課していることにより保護されている利益であって、それは、行政法規則が他の目的、特に公益の実現を目的として行政権の行使に制約を課している結果たまたま一定の者が受けることとなる反射的利益とは区別されるべきである」と判示している。
そもそも反射的利益、ないし事実上の利益の考え方は原告適格の制限する理論として登場してきたものであるが、何が反射的利益か、あるいは法律上の利益か事実上の利益かは、必ずしも明らかではなく、判決の結論は区々に分かれており、原告適格有無の統一的な判断基準とはなりえない(甲第四〇号証千柄泰論文七二ないし七五頁参照)。結局、行政処分の結果原告がこうむる不利益の内容と程度を考慮して、ある場合は法律上の利益とし、ある場合は反射的利益ないし事実上の利益としているものと言っても決して過言ではない。
最高裁は、ジュース表示事件において、景表法(不当景品類及び不当表示防止法)の規定により一般消費者が受ける利益は、同法の規定の目的である公益の保護の結果として生ずる反射的利益ないし事実上の利益であり、法律上保護された利益ではないと判示した。
しかしながら、右最高裁判決は第三者の原告適格の枠を狭く解するものとして批判が強いばかりか、公益と消費者の個々的利益の関係のとらえ方についても疑問が呈されている。
すなわち、一般消費者の利益といっても、結局個々の消費者の利益の総和にすぎないのに、右判決はこれを無視しており、一般消費者の利益すなわち「公益」(判決はそう解しているようである)に個々の消費者の権利を否定する作用を果させているのである(甲第四二号証布村勇二論文八三頁参照)。結局、最高裁判決によれば、行政の処分による影響が厖大な数の国民に及べば及ぶほど、「個々の国民の利益が公益に包摂される」ことになって、違法な処分から国民を救済する途が閉ざされる結果となる。これはまことに奇妙な論理というほかない。(なお右論文のほか最高裁判決を批判するものとして甲第四三号証上原敏夫論文二一七、二一八頁等がある。甲三九号証の一田中舘論文も最高裁判決に反対である。)
2 長沼ナイキ基地事件判決について
原判決は、長沼ナイキ基地事件判決を引用して以下のとおり判示している。
「法律が対立する利益の調整として一方の利益のために他方の利益を制約する場合、それが、個々の利益主体間の利害の調整を図るというよりむしろ、一方の利益が現在及び将来における不特定多数の顕在的又は潜在的な利益の全体を包含するものであることに鑑み、これを個別的利益を超えた抽象的・一般的な公益としてとらえ、かかる公益保護の見地からこれと対立する他方の利益に制限を課したものとみられるときには、通常、当該公益に包含される不特定多数者の個別的に帰属する具体的利益は、直接的には右法律の保護する個別的利益としての地位を有せず、いわば右の一般的公益の保護を通じて付随的、反射的に保護される利益たる地位を有するにすぎないとされているものと解され、ただ特定の法律の規定が、これらの利益を専ら右のような一般的公益の中に吸収せしめるにとどめず、これと並んで、それらの利益の全部又は一部につきそれが帰属する個々人の個別的利益としてもこれを保護すべき趣旨を含むものと解されるときは、右法律に違反してされた行政庁の処分に対し、これらの利益を害されたとする個々人においてその処分の取消しを訴求する原告適格を有するものと解せられる。」
ところで、最高裁判決は、<1>法が不特定多数者の個別的利益を超えた抽象的・一般的な公益の保護を目的としている場合には、公益に包含される不特定多数者の個別利益の侵害は単なる反射的利益の侵害にとどまり、その侵害を受けた者は処分の取消しを求めることができないこと、<2>他方で、法が公益とならんで個々人の個別的利益を保護するべきものとすることも可能であって、特定の法律がこのような趣旨を含むものと解されるときは、処分によって利益を侵害されたとする個々人が処分の取消しを求めることができること、以上の二点を一般論として判示しているのである。要するに、最高裁判決は、法が公益のみの保護を目的としているか、個々人の個人的利益をも保護しているかによって、利益を侵害されたとする個々人の原告適格の存否が決せられるべきであるということを述べているのであり、原判決が判示しているように、法が公益の保護を目的としている場合には、個々人について原告適格が認められるのは例外的な場合に限るべきであるなどと解する余地はどこにもないのである。
さらに付言すると、被上告人らは原審において長沼ナイキ基地判決につき、最高裁は、<1>森林法が保安林の指定に「直接の利害関係を有する者」に対して一定の権利を与えていること、<2>旧森林法には保安林の編入解除に関し「直接の利害関係を有する者」に行政訴訟の提起を認める規定があり、これが裁判事項の制限的列挙主義を廃した行政事件訴訟特例法の制定にともない廃止されたこと、以上の二点を原告適格を認める根拠として挙げていることを述べ、原告適格が認められるためには、このような具体的な規定によって個々人の利益が保護されていることが最低限必要であるというのが最高裁の判断であると解されると主張していた。
最高裁判決において、原告適格を認める根拠として右二点を挙げていることは事実である。しかしながら、森林法のような具体的規定によって個々人の利益が保護されていることが、原告適格肯定の最低限度の要件であるとするのは論理の飛躍である。すなわち、長沼ナイキ基地訴訟においては、森林法に前記のような規定があったために、原告適格を肯定する際にその根拠としてこれらの規定の存在を挙げるのは当然のことである。このような規定が存在しない場合、そのことを根拠に原告適格を否定したのであれば、被上告人の主張するとおりであろうが、そうでない以上最高裁が原告適格について右のように限定的に解していると断定するのは、論理の飛躍というべきである。
被上告人の主張するとおり、原告適格が認められるためには前記のような具体的な規定が最低限必要だとすれば、法律の列記する事項についてのみ出訴を認めるという旧行政裁判法の列記主義に逆もどりし、現行行政事件法の採用した概括主義に相反する結果になりかねない。
3 最高裁判決の及ぶ範囲
イ 最高裁判決における公益
最高裁は、ジュース表示事件において、「国民一般が共通してもつにいたる抽象的、平均的、一般的な利益」を「公益」と表現しており、長沼ナイキ基地事件においては、「不特定多数者の……個別的利益を超えた抽象的・一般的(利益)」を「公益」と表現している。個々人の具体的利益が、右のような「公益」に「完全に包摂されるような性質のもの」(ジュース表示事件最高裁判決)あるいは、「公益」に「包含される(もの)」(長沼ナイキ基地事件最高裁判決)である場合は、そこの利益は「反射的ないし事実上の利益」であるというのが最高裁の考え方である。したがって、原告適格の有無を論じる場合は、当該原告の利益が右のような公益に包摂しつくされるものかどうかを考察しなければならないことになろう。
最高裁判決の考え方を前提とする場合、前記二事件で問題とされる原告の利益、あるいはこれと対置される公益の内容がどのようなものであるかを考察し、それらと本件とがどのような関係にあるかを比較しなければならない。その詳細は次のとおりである。
ロ 二事件における公益と具体的利益
ジュース表示事件で処分の結果個々の消費者がうける不利益は、ジュースという商品を選択する自由というような抽象的・一般的なものであり、しかもその選択の自由を奪われる可能性があるというものである。これを原告となりうる者の範囲についてみても、国民は誰でもジュースの消費者となりうるところから、同事件で原告らに当事者適格を認めるならば、国民は誰でも同種事案において原告となることができる結果となり、その範囲は無限定となってしまう。
このような場合、原告の利益は「国民一般が共通してもつにいたる抽象的・一般的な利益とみることが可能であり、個々人の利益は公益に「完全に包摂される性質のもの」ということも、あるいはできるであろう。
長沼ナイキ基地事件では、森林法によって保護される公益は、保安林の周辺住民その他の不特定多数者が受ける自然災害の防止、環境の保全・風致の保存などの一般的利益である(最高裁判決)。これに対し原告適格を認められた原告らは、保安林の伐採による理水機能の低下により洪水緩和、渇水予防の点で直接に影響を被る地域に居住する住民である。このような地域住民の利益は右のような公益に包含されてしまうものでないことは明らかであり、保安林解除処分の取消しを求める訴訟について、原告となりうる者もおのずと特定されることになる。従って、旧森林法以来の沿革等をまつまでもなく、原告適格が肯定されてしかるべき事案である。
ハ 二事件との差異
以上に対し本件の場合は次のような点で特異性がある。
第一に、地方鉄道二一条によって保護される利益は利用者の経済的利益であり、これは結局個々の利用者の利益に還元されることになる。逆にいえば、利用者一般の利益といっても個々の利用者の総和以外のなにものでもなく、これを離れた公益などというものは存在しないのである。
すなわち、個々の利用者の利益は「不特定多数にわたる一般利用者の利益すなわち公益」に包摂されてしまうものではないのである。
第二に、本件の原告らは近鉄沿線に居住し、通勤のために定期券を購入し日常的に近鉄を利用せざるをえない立場にあるものであり、また現に近鉄特急をほとんど毎日利用している者である。そのような原告らにとってみれば、本件認可処分によって値上げされた分だけ経済的負担が増大するのであり、これらは「公益に包摂される」結果雲散霧消してしまうような不利益ではない。このように本件原告らは近鉄特急の利用者という特定された存在であり、ジュース表示事件のように一般消費者というような抽象的存在ではない。同じような立場の者が多数存在することは事実であるが、これは認可処分によって影響をうける者の範囲が著しく広いことを物語っているにすぎず、多数存在する結果その利益が公益に昇華してしまうというものではない。
上告人らの近鉄特急利用にかかわる法律関係は、各上告人の立場からみれば各上告人がそれぞれ直接かつ具体的、個別的に近鉄との間でなす特急による旅客運送契約であって、大阪陸運局長の認可は、その旅客運送契約上の一要素である運送料金についての直接的な効力発生要件である。そしてこれが近鉄と多数の乗客との旅客運送契約の内容を構成する普通約款並びにこれに対する予めの認可という形態を採っているため恰も地方鉄道法二一条による認可がいわば公益に包含される単なる一般的、抽象的利用者と近鉄との利害の調整をなすもののように誤解されがちなのである。
この場合、各上告人は独占的な免許をもつ近鉄との旅客運送契約上の本来自由競争下に形成されるであろう公正な運送料金を、権限ある運輸大臣の認可により正しい監督下に確定し効力を発生させて、これにより運送を受ける法律上の利益を有するものである。
この利益はかかる法律関係と地方鉄道法第二一条又は独禁法の法意から必然的に導かれるものであって、直接的かつ具体的、個別的な法律関係と利益を有する各上告人と、一般公益、反射的利益を有するにすぎないものとは区別される。
従って、原審判決が本件訴訟での原告適格を判示するに当って両事件を引用するのは妥当でなく、本件訴訟で原告適格が認められることと、従前の最高裁判例との間には、判例抵触は起こらないのである。
二 本件訴訟における上告人らの原告適格
1 地方鉄道法二一条の解釈
イ 原判決の表示
原判決は、地方鉄道法二一条について、「同法二一条は地方鉄道の運賃・料金を監督官庁たる運輸大臣の認可にかからせているが、地方鉄道法の目的とするところは、本来自由であるべき交通事業を規制することにより公益の実現を図ろうとしているものと解すべきであり、その一般利用者の利益の保護も、右による公益保護の一環として、換言すれば一般利用者の利益は一般的公益に包摂されたものとして、その公益の保護を通じ保護されるものと解せられる。」と判示し、「もとより一般利用者といっても、個々の利用者を離れて存在するものではないが、地方鉄道法上このような個々の利用者の利益は、同法の規定が目的とする公益の保護を通じ、その結果として保護されるもの、すなわち公益に完全に包摂されるような性質のものにすぎないと解される。したがって運輸大臣による地方鉄道法の規定の適正な運用によって得られる一般利用者の利益は反射的な利益ないし事実上の利益である」と述べ、地方鉄道法二一条には、利用者たる乗客の利益は、法律上の利益として含まれていないと結論する。
第一審判決は、同法二一条の解釈において、公益的利益と利用者の利益が併存するとの判断を示していたが、原判決は同法二一条が利用者の利益が公益的利益に包摂されるとの結論を選ぶと、上告人らの主張を次のとおり切って捨てている。
第一に、独禁法及び消費者保護基本法の法意に照らし、上告人らは地方鉄道法二一条により、近鉄の利用者として当然公正・適正な料金で特急を利用する権利あるいは法的に保護された利益を有する旨の主張については、「独禁法及び消費者保護基本法によって消費者が受ける利益は、特別の規定による場合を除き、一般にこれらの法律の適正な運用によって実現されるべき公益の保護を通じ消費者一般が共通してもつに至る抽象的、平均的、一般的な利益であり、右各法律の規定の目的である公益の保護の結果として生じる反射的な利益ないし事実上の利益である」と判示した。
第二に、地方鉄道法によって保護される利益は経済的利益であり、個々の利用者の利益に還元されるものであり、第一審原告らは通勤のため日常的に近鉄を利用する者であって、本件認可処分によって値上げされた分だけ経済的負担が増大するから、これは公益に包摂されるものではないとの主張については、
「公益は個々の住民・利用者の利益と離れては存しないが、その具体的内容・性質等に鑑み、法はこれを公益として包摂して保護することが行われるのであるから、当該利益が経済的利益であることを根拠に包摂されつくされないと当然にいいうるものではない。かえってこのような利益の性質、程度、利用者が不特定多数に亘るものであることに鑑みると、公益として包摂される適正を有するものとさえいいうるのである。」と判示した。
ロ 第一審判決の判示
しかるに第一審判決は、地方鉄道法二一条の解釈について、以下のとおり判示している。
「地方鉄道業者は、主務大臣の免許を得て一定の地域における鉄道運輸を独占的に営む地位が保証されることになるので、右運賃等を鉄道業者限りで決定できるとすれば、右独占的地位を背景としてこれが恣意的に定められるおそれがある。しかし、その恣意を許すと、わが国の交通秩序、経済秩序が破壊され、利用者に経済的打撃を与えることは、必至である。そこで、同項は、運賃や料金の認可という行政処分を通して、監督官庁に介入させ、運賃、料金が、運輸政策や物価政策的見地から適正額にきめられるようにしたのである。したがって、この認可によって受ける利益は、我が国の経済秩序の維持、物価抑制といった公益的利益にとどまらず、鉄道利用者の利益も併存しているといえる。
このように、同項が運賃等の定めについて認可を必要とする趣旨が、右のように鉄道利用者の利益を保護することにもあるから、ここにいう鉄道利用者の利益とは、鉄道利用者の個別的具体的な利益を含むものとしなければならない。なぜならば、(1)運賃等の改訂の認可は、運賃等の改訂そのものではなく、また、当該鉄道を利用しない限り運賃等の支払義務が生じないけれども、鉄道運送事業の独占的地位のために当該鉄道を利用せざるを得ないことや、認可は自動的に運賃等の具体的改訂に結びつくことからみて、運賃等の認可処分は、個々の鉄道利用者の利益に直接影響を及ぼすものであるということができ、(2)不特定多数の一般利用者が持つ共通の利益は、結局、個々の利用者の具体的利益の抽象化されたものであるから、個々の利用者の具体的利益に基礎があるものであって、個々の利用者の具体的利益に還元されるからである。この点では、電気、ガス供給事業の料金等を定めるについて、認可制度を採用しているのと同断である(電気事業法三条、一九条一項、ガス事業法一条、三条、一七条一項参照)。」
ハ 原判決の誤りについて
両判決の結論の異なるキーポイントは、地方鉄道法二一条が保護の対象としている利益に関して、公益的利益と利用者の利益が併存していると解するか、包摂されていると解するかである。一審判決は運賃料金の改定の認可が鉄道事業者の独占的地位のため、個々の鉄道利用者は改定された運賃料金の支払を強制させられる結果となることに着目し、そこに利用者の経済的利益を見ている。一方原審判決は、利用者の具体的利益は公益に包摂されると、何んらの理由づけなしに「結論」を出して、その「結論」を繰り返しているに過ぎない。とくに前記ロ、第二で述べた「公益は、個々の住民、利用者の利益と離れては存しないが、その具体的内容、性質等に鑑み、法はこれを公益として包摂して保護することが行われているのであるから、当該利益が経済的利益であることを根拠に公益に包摂されつくされないとは当然にいいうるものではない」との判示は全くの詭弁であり、理解できない。また右の判示のいう「その具体的内容、性質等に鑑み」はその内容が全く述べられていないので、実質的な理由を示していない。
ニ 上告人らの解釈
上告人らは地方鉄道法二一条の解釈については、第一審判決の判示と同様である。
(ⅰ) すべての契約は公正かつ自由な競争のもとではじめて公正・適正な契約の締結が可能である。しかるに現代社会においては、消費者は企業に対し、市場支配力、資金力、組織力、専門的知識など、契約当事者としてあらゆる意味で弱者の地位にあり、独占もしくは寡占のもとでは公正かつ自由な競争は排除され、企業から一方的に不公正な契約条件による契約を強制されている。
こうしたことから今日、消費者を保護し価格その他取引条件の公正を図るべきであるとする法的確信が生れている。
アメリカ合衆国では、一九六二年三月ケネディ大統領の「消費者の利益保護に関する大統領特別教書」で、消費者は「安全を求める権利」、「知らされる権利」、「意見を聞いてもらう権利」ならびに「選ぶ権利」を有するとし、これらの権利を保護することによって取引条件の公正を保護することを宣言した。
我国でも、昭和三八年六月国民生活向上対策審議会は、「消費者保護に関する答申」において、消費者は安全性保障の権利・表示広告適正化の権利とならんで、商品・サービスの価格等取引条件が自由かつ公正な競争によってもたらされるものであることを要求する具体的権利を有すると指摘している。
そして学説においても、消費者は商品・サービスを適正・公正な価格取引条件で提供を受ける権利を有するとされている(正田彬「消費者の権利」岩波新書、竹内昭夫、現代法学全集「現在の経済構造と法」一六頁以下、等)
このような消費者の価格等取引条件の公正を要求する権利・利益は、「私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律」(以下独禁法という)により、法的強制手続をもって具体的に保護されている。
独禁法は公正かつ自由な競争を促進することにより、消費者の利益を保護することを目的として制定され(同法一条)、私的独占もしくは不当な取引制限をし、又は不公正な取引方法を用いた事業者は損害賠償の責に任ずる(同法二五条)としている。すなわち、企業の不公正な取引方法によって価格が不当に高額に決定・維持され、このため消費者が不当な価格で商品・サービスの提供を受けるに至ったとき、消費者は、公正かつ自由な競争によって形成されたであろう適正価格との差額につき損害を被ったものとして不公正な取引方法を用いた業者に対し、無過失損害賠償責任を問うことを認めている(通説、東京高裁昭52.9.19判決、判例時報八六三号二〇頁)。
このように、消費者は、法的権利としてあるいは少なくとも法的に保護された利益として、「公正・適正な取引条件で商品・サービスの提供を受ける権利・利益」を有している。
ところで、消費者である上告人らが近鉄と締結する近鉄特急の利用契約は後述のとおり附合契約であり、原告は右契約において本件認可による特急料金を強制されることになるから、本件認可は正に、消費者たる上告人らの「公正・適正な価格等の取引条件でサービスの提供を受ける権利」に係るものといわなければならない。
(ⅱ) 地方鉄道法は、鉄道事業の公共性に鑑み、事業の健全な経営が、自由競争の弊害により破綻をきたし、地域住民の日常生活上必要不可決な輸送手段の確保に支障を生ずることをおそれ、事業者に事業の独占を認める一方、事業独占のゆえに生じる場外について行政庁が、諸々の行政処分や指導をおこなうことにより、これを排除しようとしている。
地方鉄道法二一条事業者が運賃その他運輸に関する料金を定めるにつき行政庁の認可を要するとしている。この規定は、鉄道事業の独占性の弊害として、利用者は、事業者が一方的に定めた不当な運賃・料金の支払を強制されることになるので、利用者に対しその運賃・料金の公正・適正を保障しようとする趣旨にも出たものである。
独禁法により消費者は適正・公正な取引条件により商品サービスの提供を受ける権利・利益を法律上保護されていることは前述のとおりであるが、独禁法の適用が除外された鉄道事業のような各種公益事業においても、独禁法に代って各個の公益事業法により、自由競争の代替措置として行政庁の行政処分等を介在されることで消費者の右権利・利益が保護されている(消費者保護基本法第一一条参照)。
地方鉄道法二一条の規定の趣旨も、独禁法適用除外の代替措置として消費者の価格等取引条件の適正・公正を要求する権利を具体的に保護しようとするものに他ならない。
以上のとおり、消費者たる原告らは地方鉄道法により適正・公正な料金で特急を利用する権利、あるいは少なくとも法律上保護された利益を有するものである。
同法二一条にもとづき認可された運賃・料金は、具体的な運送契約上の契約条件となり、それが個々の利用者の具体的運送契約の締結によってはじめて具体化現実化するものであり、個々の利用者の運送契約をはなれては何んらの意義をもたないものである。したがって同法二一条が認可によって保護しようとした利益は、個々の具体的利用者が適正・公正な運賃・料金で運送サービスを受ける権利、利益そのものといわねばならない。原判決のいう一般公衆の利益(公益)は、個々の利用者の利益の総和以外の何ものでもないのである。このことは本件認可により不当に高額な料金の支払を強制されるのは個々の具体的鉄道利用者であって、抽象的な一般公衆でないという一事をみても明らかである。
なお、原判決は、運輸審議会に諮問された運賃変更認可について、公聴会で公述することのできる利害関係人や公聴会の開催を要求することのできる利害関係人には利用者は含まれないとし、これを理由に地方鉄道法第二一条と個々の鉄道利用者の利益を保護したものではないという。しかしながら、このような論理は本末転倒である。なぜならば、「利害関係人」については明確な定義はなく、これに何人を含めるかは、地方鉄道法第二一条が保護しようとしている利益を指標にして判断されるべきであるからである。
以上のとおり、原告らは適正・公正な運賃・料金により運送サービスを受ける権利・利益あるいは地方鉄道法上保護された権利・利益を有するところ本件認可は原告らの右権利・利益を侵害するものであるから原告らは本件認可取消訴訟について行政事件訴訟法九条にいう「法律上の利益」を有することは明らかである。
2 上告人らは認可処分の名宛人である。
上告人らは、本件認可処分の当事者としても、本件認可処分の取消しを求める法律上の利益がある。
近鉄は、その沿線において独占事業者であるため、沿線住民である上告人らは、近鉄を利用するほかなく、特急を利用する以上、近鉄の定めた条件にしたがわざるをえない。つまり、上告人ら利用者は、本件認可処分による効果を名宛人たる近鉄と一体に受けることになる。
もっとも、本件認可処分は、その手続上あるいは形式上、近鉄からの申請に対して近鉄を処分の名宛人としてなされたものである。しかし、本件認可処分は、一方で近鉄の料金設定行為を制限しながら、他方では、利用者たる上告人らに対し一定の金員の支払いを強制する効果を有する。
したがって、上告人ら利用者は、本件認可処分について、第三者として影響を受ける者というより、むしろ本件認可処分の名宛人或いは少なくとも名宛人に準ずる立場にある。
3 利益侵害の直接かつ重大性
仮にそうでないとしても上告人らは、通勤のため常時特急料金が改定されることによって、直接かつ重大な不利益を被っている。それであるのに上告人らは、本件申請に関する近鉄の認可申請の閲覧の機会も認可に対する意見陳述の機会も与えられなかった。しかし、上告人ら利用者には、本件認可処分の適法性を問うことができる途が確保されるべきである。したがって、上告人らの訴の利益は、肯認されるべきである。
もし、近鉄の利用者である上告人らには、本件認可処分に対し取消しを求める法律上の利益がないとすると、近鉄が、本件認可処分を争わない限り、裁判所の審理判断が得られないことになる。しかし、近鉄が、本件認可処分を争う理由も必要もない(本件認可処分は、本件申請どおり認められている)。そこで、このような場合には、近鉄の利用者こそ本件認可処分の適法性審査を求める最適任者であり、上告人ら利用者に原告適格を認めることが合理的である。
なお、本件は、認可処分の手続違法、殊に処分権限の有無が争点となっている事案であって、このような場合に、当事者適格の範囲を厳格に解釈して、実体的判断を回避する結果になることは、行政の民主化、行政手続の適正化を目的とする行政訴訟制度にそぐわないというべきである。
第二〈省略〉

2.自動車の運転免許制度

3.ストーカー行為の規制

4.生活保護:給付行政の例~憲法上ンお権利の実現、法律上の制度~

5.環境保護のための補助金:給付行政の例~行政目的の実現、法律に基づかない制度~

6.まとめ

7.補論~行政の定義と公法私法二元論~

公法私法二元論
必ずしも公法私法二元論を前提とするものではなく、それぞれの法的仕組みの趣旨を解釈したものと理解するのが可能。

判例(S28.2.18)
理由
上告理由第一、第二について。
自作農創設特別措置法(以下自作法と略称する)は、今次大戦の終結に伴い、我国農地制度の急速な民主化を図り、耕作者の地位の安定、農業生産力の発展を期して制定せられたものであつて、政府は、この目的達成のため、同法に基いて、公権力を以て同法所定の要件に従い、所謂不在地主や大地主等の所有農地を買収し、これを耕作者に売渡す権限を与えられているのである。即ち政府の同法に基く農地買収処分は、国家が権力的手段を以て農地の強制買上を行うものであつて、対等の関係にある私人相互の経済取引を本旨とする民法上の売買とは、その本質を異にするものである。従つて、かかる私経済上の取引の安全を保障するために設けられた民法一七七条の規定は、自作法による農地買収処分には、その適用を見ないものと解すべきである。されば、政府が同法に従つて、農地の買収を行うには、単に登記簿の記載に依拠して、登記簿上の農地の所有者を相手方として買収処分を行うべきものではなく、真実の農地の所有者から、これを買収すべきものであると解する。
そのことは、自作法一条に明らかにせられた前叙同法制定の趣旨からしても十分に理解せられるところであるのみならず、同法が農地買収についての基準を、いわゆる不在地主の農地であるかどうか即ち農地の所有者が実際に農地の所在市町村に居住しているかどうか、又は、地主が農地を自作しているか、小作人をして、小作せしめているか等所有者とその農地との間に存する現実の事実関係にかからしあている等、自作法に定あられた各種の規定自体から推しても、同法の買収は、真実の農地所有者について行うべきであつて、登記簿その他公簿の記載に農地所有権の所在を求むべきでないことが窺い知られるのである。
もとより、本事業はわが国劃期的の大事業で、短期間に全国一齊に、大量的に農地の買収を行うものであつて、かかる大量的な行政処分において、個々の農地について登記簿其他の公簿をはなれて真実の所有者を探求することは事実上困難であり、公簿の記載は一応真実に合するものと推量することは、極めて自然であるから、政府が右の買収を行うに当つては一応登記簿その他の公簿の記載に従つて、買収計画を定めることは、行政上の事務処理の立場から是認せられるところであるけれども、右買収計画に対して真実の所有者が自作法に規定せられた異議を述べるときは、この計画の実施者たる農地委員会は、その異議者が真実の所有者なりや否やの事実を審査して、その真実の所有権の所在に従つて、買収計画を是正すべきものであつて、同委員会は、民法一七七条の規定に依拠して、異議者がその所有権の取得についての登記を欠くの故を以て、その異議を排斥し去ることは許されないものと解すべきである。論旨は、これと反対の主張をするものであつて、採用することはできない。
よつて、民訴四〇一条、九五条、八九条を適用して、主文のとおり判決する。
この判決は裁判官霜山精一の少数意見、裁判官井上登同岩松三郎の少数意見、裁判官真野毅の意見を除き、裁判官全員一致の意見によるものである。

+少数意見
裁判官霜山精一の少数意見は次のとおりである。
自作農創設特別措置法に基く農地の買収に関し国(又は農地委員会)が民法一七七条にいう「第三者」に該当するかどうか、換言すれば農地買収について民法一七七条が適用又は準用されるかどうかの問題に対し、多数意見は消極説を採るものであるが、私は積極説を主張するものである。以下その理由を述べる。一、民法上登記原因が絶対無效の場合には、その無效は何人に対しても主張できるのであるから、幾ら登記を信用して登記名義人と不動産の取引をしてもその取引り安全は保護されないのであつて、真の権利者が保護されるのである。これに反し登記原因は無效であるがその無效をもつて善意の第三者に対抗できない場合(例えば民法九四条二項)、及び民法一七七条の場合即ち物権の変動について登記をしなかつた場合には登記名義人と取引をした第三者が保護されて真の権利者はその権利を取引の相手方である第三者に対抗できないのである。従つてこの場合には取引の安全の保護に重点が措かれ、いわゆる動的安全を保護するために真の権利者の権利が犠牲となるのである。そして以上の民法上の原則が農地買収について如何に適用せられるかというに、登記原因の絶対無效の場合の原則は適用されるものと解される。買収が公権力の発動だからといつて右原則の適用を排除することはできない。それゆえ登記原因の絶対無效の場合に登記名義人に対して買収手続が行われても、真の権利者が適法に異議を申立てた以上、買収農地が耕作者に売渡された後でも国は買収手続を取消さなければならないし、買受人なる耕作者は農地を権利者に返還しなければならない。それはこの場合には取引の安全を保護しないという原則からくる当然の結果でありこのことは農地の買収に多少の支障を来すことになつても已むを得ないのである。
次に民法一七七条同九四条二項のように取引の安全が保護される場合民法上の原則も農地買収の場合に適用があると解すべきである。民法一七七条の規定によつて不動産の買主が登記を経ないときはその買受けたことを第三者に対抗できないのである。それゆえ所有権は買主にあるといつても、その権利は完全な排他的の所有権といえないのであるから、登記名義人たる売主と第三者との間になされた取引の安全を保護する必要のためには未登記の権利は犠牲にならなければならない。そして取引の安全ということは必ずしも売主自身がする取引即ち二重譲渡をした様な場合に限るのではなく、苟しくもその不動産について変動のあつた場合の動的安全をいうのであるから、私的取引による変動たると、公権力による変動たるとを問わず、登記を怠つている買主に比して動的安全を保護することがより必要であると認められる場合には民法一七七条を適用しなければならない。大審院の判例でも売主の一般債権者が移転登記のしてない不動産について差押をしたときには差押債権者は第三者に当り買主は所有権の取得をもつてこれに対抗できないとしているのである。これを農地の買収について考えてみると、買主が登記を怠つているときには登記簿上は売主の所有名義となつており、国は登記簿によつて売主の農地としてこれを買収し、これを耕作者に売渡すのである。たとえ買主が買収手続中適法に異議を申立てても、行政処分の執行の停止のない限り、手続は進行して買収を完了し、耕作者に売渡されるであろう、また売渡を受けた耕作者に移転登記をし土地も引渡されて耕作者は現にこれを耕作しているであろう、本件においてはそこまで確定していないけれども恐らく同様であると思われる。もし多数説のように消極説を採るならば国はその買収処分を取消さなければならない、その結果は農地を買受けた小作人は農地を買主から追奪されることになる。農地の買収は耕作者に売渡す目的でするのである。それであるから農地の買収と耕作者えの売渡は一連の行為である。この一の変動に対する動的安全の保護が犠牲にされて登記を怠つている買主の方が保護されることになる。かくの如き結果が是認されてよいであろうか、もし耕作者が売主から直接買受けたならば一七七条によつて保護されるが国を通して買つた場合は保護を受けないということは動的安全の保護の上からみて了解し難いことである。また登記を怠つている買主の権利の保護と国及耕作者によつて為された一連の変動に対する動的安全の保護の必要とを比較衡量してみると、それは後者の比重が遙かに重いことは言うまでもないのであるから、この場合には民法一七七条を適用して、未登記の買主の権利は充分な保護を受けられないものと解して差支ないのではないか、元来不動産の取引が頻繁に行われている現代においては不動産取引の安全はできるだけ広くこれを保護することが要請きれるのである。それであるから登記に公信力を与えて登記を信頼して取引した者は充分に保護されるというように改正する必要があるのでないかと考えるのであるが、それはさて措き現行民法の下においても一七七条等の規定を活用して不動産の取引の安全をできるだけ広く保護することが必要とされるのである。この観点からみて農地買収の場合に一七七条九四条二項等の適用がないと解し動的安全の保護を無視することは決して当を得たものとはいえないのみならず、多数意見によると農地買収に関しては未登記の買主の権利を登記原因が絶対無效の場合の権利と同一視する結果となるのであつて、民法がその間に区別を設けている精神を没却するものといわざるを得ない。
二、多数意見は農地の買収には民法一七七条の規定は適用がないというのである。この見解をとれば、農地につき二重譲渡が行われ、先づ甲に譲渡した後未登記のうちに更らにこれを乙に譲渡し、乙に移転登記をした場合に、国が乙に対して農地の買収をしたと仮定する。甲は国に対してその権利を対抗してきたときに国は民法一七七条の規定が適用がないから、買収処分を取消きなければならないと解すべきであろうか、この問題については多数意見は必ずしも明瞭ではないが民法一七七条が適用がないという説をとる以上この場合に未登記の権利の対抗を認めることも已むを得ないと結論する意見もあるようである。しかし、かかる結論を肯定することは暴論というの外はない。国が甲と乙と何れを所有者として農地を買収すべきかは明らかである。民法一七七条の適用によつて乙を所有者として買収すべきは当然である。然らば甲が国に対してその権利を対抗してきたときに国は甲に対し一七七条の規定によつてその権利の主張を拒否することが許されなければならない。多数意見のうちにはこの場合には民法一七七条の適用があるという意見もある。然し農地買収は公権力の発動だから民法一七七条は適用がないというのが多数意見である。しかるに右の場合も公権力の発動であるにかかわらず一七七条の適用があるというのは如何なる理由によるか、公権力の発動ということは一七七条の適用を妨げる理由にならないから右の場合に一七七条の適用があることに結論されるのではないか、もし然りとすれば右の場合に限らず進んで本件のような場合にも一七七条の適用があると解するのが筋が通つた考え方であるといわなければならない。
裁判官井上登、同岩松三郎の少数意見は次のとおりである。
私どもは霜山裁判官と同じく積極説を採るものであるが、同裁判官の少数意見に、更に次のような理由を補足したいと思う。
国が行政権を発動して私人間の権利関係の変動を計らうとする場合においても、その対象である私権関係そのものに関しては、原則として本来その私権関係を規律する実体私法の適用あるベきは当然のことである。行政活動だからというて、私権本来の姿を変更してこれを対象としなければならない筈はないからである。だから国が行政権を発動して私人の所有する土地を買収する本件のような場合にあつても、法律上特に別段の定めのない限り、民法一七七条の適用あるべきことは勿論なのである。多数説は、その法律上の特段ら明規かないにも拘わらず、唯国が行政権を発動して土地を買収するのであるから、所謂「真の所有者」を探査すべき義務があり、民法一七七条の適用による保護を与うべきではないとするものの如くであるが、到底賛同することはできない。そもそも、真の所有者が誰であるかということそれ自体が、民法の規定により決定せらるべきことであり、国が行政権の発動により土地を買収する場合であるからというて実体法によらずして(特別措置法にも真の所有者を決定すベき特別な実体法規を定めてはいない。)決定さるべきものではない。いうまでもなく民法一七六条は物権の移転は当事者の意思表示のみに因りその效力を生ずと規定して居るがこれには一七七条及び一七八条の制限があるのである。不動産に関する物権の得喪及び変更は、その登記をしなければ之を第三者に対抗できないと規定しているのが一七七条である。例えば土地所有者甲が乙にその所有権を譲渡してもその登記を経ない限り、当事者間ではともかく、第三者の関係では乙はその所有権の取得、すなはち所有権の移転を対抗できないのである。換言すれば、乙は所有権の移転が対抗できない結果第三者からは依然甲が所有権を保有していることを主張され得る状態にあるのである。いまさら、こんなわかりきった蛇足を書く所以のものは、どうも多数説は一七七条の法文が明示していること、すなわち同条が物権の移転そのものの対抗要件を規定しているのを誤解し、移転した物権の対抗要件を規定していると解して設例の場合乙に所有権は移転しているのであり唯、その所有権を第三者に対抗できないに過ぎないのであるから、乙は真の所有者であるとでも考えているのではあるまいかと想像したからである。しかし、この場合実体上何人の関係でも所有権者であることを主張し得るものは未確定なのである。甲から乙への移転を否定するにつき正当の利害関係を有する第三者が右移転を否定する場合にはその第三者に対する関係においては右移転は存在しないことになり従つて乙は全然所有者でないのであつて「真の所有者」なる観念自体が誤りなのである。だから、多数説のように行政権を発動する国に対して一七七条の保護を拒否しても国以外の第三者の関係では乙がその登記を経ない限り、なお真に所有権を収得したとは主張し得ない立場にあるのであるから、国以外の第三者丙が甲から所有権の移転を受けてその登記を経れば実体法上真の所有者は丙となるのであり、乙は甲から所有権の移転を受けたことを終局的に主張し得ないこととなるのである。この点においては乙ばかりでなく行政権を発動した国と雖も同様でなければならぬ。もしそうでないとすれば、国に対して民法一七七条の保護を拒否するだけではなく、国のために民法一七六条のみを適用する特権を認める結果となるのである。すなわち、この場合もし、国が行政権の発動により買収に着手したからというて乙を所有権者としてあくまで取扱うということは、実体上権利を取得したことのないものに権利を認める結果となるのである。国に民法一七七条の保護を与えないつもりの多数説は、実は行政権を発動する国のために、実体法上保護を受くべき第三者丙及び丙からの承継人の権利を無視する特権を認めているのである。民法一七七条の適用に関し「登記の欠缺を主張する利益を有しない第三者」なる観念はある(例えば不法占拠者の如き)、しかし、それは唯、消極的にかかる第三者に対して民法一七七条の保護を与えないというだけのことであつて、積極的にかかる第三者のために、民法一七六条のみを適用せんとするものではない。民法一七七条の保護を与えないということと、民法一七七条の適用を排除し同一七六条のみを適用するということとは同一ではない。多数説はこの区別がわからないのである。以下少しく一七七条の適用なしとした場合の実際の結果について考えて見よう。
(一)前記設例において甲から譲受けた乙がまだ登記をしない間に、丙は甲乙間の譲渡の事実を知らず、甲から譲受け登記を済ませて安心して居ると、国が乙から買収して、丙は登記までした正当の権利を奪い取られることになるのである。なお丙の登記に信頼して丙から丁、丁から戌といつたように順次に所有権又はその他の物権を承継取得した者がありとすれば、それ等の者も尽く正当な権利を剥奪されなければならない。そして多数説によれば設例のような場合には乙が「真の所有者」であり丙は所有者でないのだから、国は常に乙から買収しなければならないのであり、従つて丙以下の権利は常に奪われることにならざるを得ないのである。かかる不合理極まる結果を生ずるのは、多数説が実体私法の定むる法律関係を無視して、国のみにつき法律に何等規定なき特別の権利関係を認めたためである。なお(二)国に対しては民法一七七条の保護がないとすれば、国は各個の買収毎に登記の如何に拘わらず、先ず所謂「真の所有者」なるものの有無を探究した後に買収計画を立てなければならないことになり、その為め非常に多くの時間を要し急速の処理を必要とする此の法律の精神に反すること甚しい結果を来すであらう。多数説では国は一応登記上の所有者から買収すればいいから、その為め買収が遅れることはないというけれども、これは矛盾である。多数説によれば前記設例の場合乙が「真の所有者」で、その所有権を国に対して主張し得る絶対的所有者であり、その結果丙(登記上の所有者)は何等権利を有しないものとなさざるを得ないから、かかる(丙)からの買収は絶対無效たらざるを得ない。従つて国から小作人に対する譲渡も無效となり小作人は所有権を取得することは出来ないであらう(法は原始取得の様な字句を用いて居る個処もあるけれども無権利者からの取得を認めたものとは思えない)国の大政策の実施に当る者がかかる絶対無效の行為をしていいわけがない。所謂「真の所有者」なる者が出て来て異議を主張すれば買収手続は総て駄目になつてしまうのであるから「一応登記面の所有者から買収する」などということは危険千万であり、買収に関与する者が職務に忠実である限り到底為し得る処でない。所謂「真の所有者」の有無を調査せずして登記面の所有者から買収すれば職務怠慢の責を免れ得ないであらう(法は厳重な調査義務を負わせて居るのである)。苟くも多数説を是認する限り「一応登記面の所有者から買収すればいい」などとは到底いえない筈である。更に又(三)多数説のようにすれば所謂「真の所有者」なりと称して(これを偽称する者も無論あるであらう)異議を述べる者ある毎に(一七七条の適用ありとすればかかる異議は出現する余地がない)一々詳細な証拠調をしてその真偽を判断しなければならず大変な遅延になる。のみならず認定を誤り偽称者の為めにそれこそ法律上の真の所有者の権利が奪われる虞もないではない。民法一七七条はこれを避ける趣旨もあるのである。翻つて法律の定めるとおり登記をしない者は民法一七七条により第三者たる国に対抗し得ないものとすれば前記のような不合理不都合は総て生じない。平穏に急速に買収手続を為し得るであらう。それにも拘らず多数説がこれを嫌う根底には設例の乙を「真の所有者」なりと考え、国の買収によつて「真の所有者」が権利を失うのは不都合だといつたような素朴なセンチメントが支配して居るものと思うが、設例乙の如き者が不利益を蒙ることは多数説を採つても、国の買収以外の場合には常に生ずることであり、民法一七七条が登記を怠つた者よりは第三者を保護することとして取引の安全を計つた為あの当然の結果である。自ら法の定めた権利擁護の手段を怠つたが為めに受くる不利益は已むを得ないのであつて、これは国の買収の場合たると、私人の売買の場合たるとによつて区別さるべき理由はない。
裁判官真野毅の意見は次のとおりである。
わたくしは、上告棄却で結論であり、その理由も一部においては多数意見に賛成であるが、多数意見の理論構成は粗雑の嫌いがあり用語も甚だ不明確である。わたくしの理論構成は大いに異る点もあるので問題の重要性にかんがみやや詳しく意見を述べてみたいと思うのである。
農地の所有者とその登記名義人とが合致している場合には、農地買収について別段本件のような問題は起らない。しかし、社会の実際においては民法上の所有者と登記名義人とが違う場合が生ずる。その主な場合としては、(一)所有権の移転原因が不存在もしくは無效であり又は取消されたにかかわらず、登記名義の変更があつたとき及びこれを前提としてさらにその後の一連の登記名義の変更があつたとき、(二)所有権の移転原因が有效に存在したにかかわらず、登記名義がもとのまま変更されずに残つているとき、(三)所有権の移転原因が有效に存在し所有権が移転したにかかわらず、移転前の所有者がさらにこれを他の第三者に譲渡し(例えば二重売買)登記名義が変更されたと及びその後の一連の登記名義の変更があったときの三種の類型を挙げることができる。
そこで、自作農創設特別措置法(以下自農法という)に基き政府が農地を買収するために市町村農地委員会が農地買収計画を立つるに当つて(三条、六条)、前述のごとく農地の所有者と登記名義人とが異つている場合に、その何れを標準とすべきかは相当議論の岐れで来た問題てある。そして、何れを所有者とするかによつてそれが不在地主であるか在村地主であるかが異り、また何れもが在村地主であつてもその保有面積が異るわけてあるから、これは買収計画を定ある上においては重要な問題であるといわなければならぬ。
もし、農地の買収が任意売買の方法によるものであれば、政府は民法一七七条の登記の公示による対抗力に信頼して行動すればよいわけである。しかし、自農法による農地の買収は、自作農を急速かつ広範に創設し、また土地の農業上の利用を増進し、もって農業生産力の発展と農村における民主的傾向の促進を図ることを目的としたもので、その方法は任意売買ではなく、政府が公権力により、相手方の同意なくして一方的、強制的に買上げる方法によるのである。すなわち、政府の農地買収処分は、行政庁が行政的権力の行使によつて農地の強制買上げを実行するものであって、国家と被買収者との間の法律関係は、疑いもなく純然たる公法関係で、ある。かように急速かつ広範に自作農を創設するというがごとき全国的な極あて大量的な行政処分を実施するに当つては、すべてに亙り一々実際の所有者を探求することは、非常に困難な事柄であるのみならず、時間的にいえば殆んど不可能に近いほどの難事業である。それ故、市町村農地委員会が、農地買収計画を定めるに際しては、土地登記簿または土地台帳に表示されているところに従つて、農地所有者を定めて手続を進めてゆくことは、まことにやむを得ない場合があり一応適法であるということができよう。
しかし、これは実際上手続を進めてゆく必要上是認きれるに過ぎないものであつて、理論上からいえば農地買収の立法目的は農地の所有者からの解放であり、従つて買収は実際の所有者からなさるべきことが本筋であるといわなければならぬ。なぜならば、農地に対して真に実体的の利害関係を有するのは、実際の所有者であつて、登記名義人または台帳名義人ではないからである。これは、自農法の諸規定が農地とその所有者との実体的関係を規準として定められていることからも十分窺知することができる。また行政庁が土地の買収をするには、所有者を職権で調査するのが本則であるべきである。だから、自農法の施行のために設けられた農地調査規則(昭和二二年一月一四日農林省令第二号)一条においては、「市町村農地委員会は、当該市町村の区域内にある農地に関し、各筆毎に、地方長官の定める期日現在で、地方長官の定める期日までに左に掲げる事項の調査をしなければならない」と規定し、その七号に「所有者(土地台帳に登録した所有者と実際の所有者と異るときは、土地台帳に登録した所有者及び実際の所有者、以下同じ)の氏名若しくは名称及び住所並びに土地台帳に登録した所有者と実際の所有者と異なるときはその理由」を掲げている。そして、市町村農地委員会は、右調査の結果を一定期日までに地方長官に報告すべきものときれている(同規則四条)。
さて問題となるのは、ここにいう、「実際の所有者」とは果して何であるかということである。この分析が実は甚だ大切となつて来る。前述(一)の場合においては「実際の所有者」は、所有権の移転原因の不存在もしくは無效であり又は取消されたにかかわらず登記名義の変更の行われた現在の登記名義人ではなく、民法上所有権を有する原所有者である。この場合には登記の欠缺の問題は起らない(不動産登記法五条)。前述(二)の場合においては「実際の所有者」は、登記名義人ではなく、所有権の譲受人である。なぜならば、この場合民法上所有権は有效に移転し、登記名義人は、譲受人に対して登記の欠缺を主張することを得ない立場にあるからである(不動産登記法五条)。前述(三)の場合においては「実際の所有者」は、登記名義人であつて、先に所有権を譲受けた者ではない。なぜならば、この場合先に所有権を譲受けても登記をしなかつた者は、後に譲受けて登記をした者に対しては民法上所有権の取得を対抗することを得ないのに反し、後者は前者に対してこれを対抗することを得る立場にあるからである(民法一七七条)。結局すべての場合を綜合して考えると、「実際の所有者」とは、登記対抗の諸規定をも考慮した上で、実体法上所有権の取得を対抗し得る者であるということに帰着する(民法一七七条、不動産登記法四条、五条)。そして、それは前述のように登記名義人であることもあり、またしからざることもあるのである。
そこで、市町村農地委員会が農地買収計画を定あるに当つては、(A)前述の「実際の所有者」を対象として計画を定あることは適法であり本筋であつて、登記名義人その他の者から当該農地買収計画についてこれを理由として異議を申立てることはできない(自農法七条)。
これに反して、(B)「実際の所有者」が農地調査規則による調査の結果明らかである場合に、登録名義人を対象として計画を定あることは、本来不適法であり筋違いであり、従つてこの場合には実際の所有者から自農法七条の異議を申立てることができるのは言うを俟たない。
しかし、(C)調査の結果実際の所有者が明らかでない場合には、前に述べたように自農法による農地の買収は急速かつ広範に自作農を創設するために全国的な極めて大量的な行政処分を実施するものであるから、土地台帳又は土地登記簿のごとき表見的な基本公簿の表見的な登録又は登記に従つて、対象となる農地所有者を定めて手続を進めてゆくことは、実際的な見地から行政上の事務遂行の方法としてはまことにやむを得ざるところであり、一応これを適法であると認めなければならない。これは、公示主義による登記対抗の民法の原則の適用から来るのではなくして、当該行政処分の特質から来るものであると見るべきである。かようにして、登記名義人を対象として農地買収計画が定められた場合には、実際の所有者は自農法七条により異議の申立をすることができる。本来農地買収計画は、農地に対し真に正当の利害関係を有する実際の所有者を対象として定めらるべきものあるから、実際の所有者が現われて実際の所有権を証明し、異議の理由を明らかにすることは当然許されなければならない。この際、行政庁が実際の所有者の不利益において登記名義人を対象として一方的に強制買収することは、不必要に国家権力により国民の権利を侵害するものであつて、法律正義の許さざるものと言わなければならぬ。すなわち、実際の所有者の異議申立があれば、行政処分の表見主義による登記名義人を対象とする一応の適法性は打破せられ、その後は実際の所有者を対象とする買収計画に是正さるべきものである。農地委員会は、異議の理由が認あらるべきものであれば之に従つて買収計画を是正すべきが当然であり、従つて実際の所有者に対して登記の欠缺を主張して異議を理由なしとすることはできない。またかく解したからといつて、自農法の目的の達成を阻害するほどのことはないと考える。この範囲に於ては対等者間の取引の安全に関する民法上の登記対抗の原理は適用がないのである。国家が登記名義人から任意に農地所有権を譲受けたというのではなく、これから強制買収をやろうという場合に、実際の所有者に対して登記欠缺を主張する立場において手続を進めることは、国家が国民の権利を侵害するものであり、不合理であり、許さるべきではない。
この見解に対しては、農地の仮装売買等による脱法行為を防ぐことが困難となるという非難が起ることは予想できる。しかし、譲渡が仮装であるか真実であるかは、審理の結果多くの場合において誤りなく認定されるであろうから、裁判所の最後の判定に信頼していい事柄である。それよりも、かかる仮装譲渡の脱法行為をおそれるのあまり、正義の顕現であるべき国家が、却つて真実の売買等による実際の所有者の権利の保護を奪い得るような解釈を打ち立てることの方が、角を矯めんとして牛を殺すというか、アッモノに懲りてナマスを吹くというか、物の本質、事の軽重の判断に誤りがあるそしりを免れないように思う。
しかしながら、実際の所有者が時間的に無制限に異議の申立ができるものとすれば、買収計画の安定性を欠くことになるから、自農法は異議申立期間を法定し、買収計画を公告した日から十日間の関係書類を縦覧に供する期間内に限るものとした。それ故、実際の所有者といえどもこの法定の期間内に異議を申立てなければ、後日買収手続及びその結果に対して不服を称えることはできなくなるわけである。
(多数意見は、「真の所有者」と登記名義人とを対比せしめているが、「真の所有者」が何であるかは漠然としていて捕えどころがない。また多数意見は、自農法による農地買収処分には民法一七七条の適用を見ないという。しかし、それは前述のごとく農地委員会は買収計画につき実際の所有者に対し登記の欠缺を主張することを得ないという意義及び範囲に遣いては正当であるが、買収計画につき対象となるべき且つ異議を申立つることを得る実際の所有者を確定するに当っては、前に述べたように民法一七七条等の登記対抗の諸規定を適用考慮しなければならぬことを無視する点においては誤りであると考える。それ故、霜山、井上、岩松裁判官等の主張するような非難も当然生れてくるわけである。)
本件において被上告人(原告)は訴外aから本件農地を買受けたが登記はされていなかつた。登記名義人の訴外aは不在地主であり、被上告人は在村地主であつた。そして、原審の是認した第一審の理由によれば、本件別府市朝日地区農地委員会は「右農地について買収計画を定めるに当り右のような事情から原告がその所有者であること、従つて原告はいわゆる不在地主ではないことを知つていたが……右農地の登記簿上の所有者である訴外aを所有者なりとして本件買収計画を定めた事実を認めることができる」と明らかに認定しているのである。それ故、登記名義人の訴外aを所有者として農地買収計画を定めたことは、前に(B)において述べたとおり最初から違法であつて実際の所有者被上告人から自農法七条の異議の申立てができることは当然である。(前に(C)において述べた実際の所有者が明らかでないから、登記名義人を対象とする計画が一応適法であるが、その後実際の所有者の出現によるその異議申立で適法性が打破される場合とは異る)。従つて被上告人の異議申立却下に対する訴願を理由なしとした裁決は違法であり、これを取消すべきものとした第一審及び原審判決は正当である。上告論旨は理由がなく、本件上告は棄却さるべきものである。
(裁判長裁判官 田中耕太郎 裁判官 霜山精一 裁判官 井上登 裁判官 栗山茂 裁判官 真野毅 裁判官 小谷勝重 裁判官 斎藤悠輔 裁判官 藤田八郎 裁判官 岩松三郎 裁判官 河村又介 裁判官 谷村唯一郎 裁判官 小林俊三 裁判官 本村善太郎 裁判官 入江俊郎)

+判例(S31.4.24)
理由
上告代理人杉本良吉の上告理由は、別紙記載のとおりであつて、これに対し、当裁判所は、次のとおり判断する。
国税滞納処分においては、国は、その有する租税債権につき、自ら執行機関として、強制執行の方法により、その満足を得ようとするものであつて、滞納者の財産を差し押えた国の地位は、あたかも、民事訴訟法上の強制執行における差押債権者の地位に類するものであり、租税債権がたまたま公法上のものであることは、この関係において、国が一般私法上の債権者より不利益の取扱を受ける理由となるものではない。それ故、滞納処分による差押の関係においても、民法一七七条の適用があるものと解するのが相当である。
そこで、本件において、国が登記の欠缺を主張するにつき正当の利益を有する第三者に当るかどうかが問題となるが、ここに、第三者が登記の欠缺を主張するにつき正当の利益を有しない場合とは、当該第三者に、不動産登記法四条、五条により登記の欠缺を主張することの許されない事由がある場合、その他これに類するような、登記の欠缺を主張することが信義に反すると認められる事由がある場合に限るものと解すべきである。
ところで、本件においては、上告人富山税務署長は、訴外北陸鋳造株式会社に対する国税滞納処分として、登記簿上同会社名義となつていた本件不動産につき差押を実施したところ、たまたま、右不動産は、これよりさき、財産税実施の際に、被上告人からその所有不動産として財産申告があり、これに基き所轄税務署において財産税を徴収ずみであつたというのであるが、原審の認定事実によれば、本件差押に当つて、上告人富山税務署長は、財産税徴収当時の経緯を現実に熟知しながら、これを奇貨として差押を実施したとは考えられない。もちろん、財産申告書の調査その他の方法により右の経緯を確かめることはできたはずであるが、財産税が一回限りの申告納税であつて、本件差押当時財産税徴収の時からすでに約三年六箇月の日時を経過していたことを思えば、上告人が差押の実施に当つて、本件不動産が登記簿上右訴外会社名義となつていることを確かめ、かつ同会社についてその実質上の所有関係を調査した以上、さらに、財産税施行当時に遡つて右不動産が何人の所有として申告されていたかを調査しなかつたというだけで、直ちに、本件において国が登記の欠缺を主張することが背信的であるということはできない。もつとも、差押後これに対する不服申立の手続等において、上告人富山税務署長は、被上告人より財産税徴収の経緯を知らされているはずであるから、その際に、さらに慎重な調査を遂げ、財産税徴収の誤りを認めて過納金還付の措置をとつた上で滞納処分を続行するか、それとも、財産税の徴収を正当とし差押の誤りを認あてこれを解放するか、いずれか一の措置を選ぶことが行政上妥当の措置であつたというべきであろう。けれども、本件訴訟の経過からもわかるように、本件不動産の所有権の帰属を判定することは極めて困難な仕事であつて後に訴訟において争われる可能性のあることを思えば、直ちに財産税還付の手続をとることなく滞納処分の続行を図つたとしても、これをもつて背信的態度として非難することもまた行き過ぎといわねばならない。
かようにして滞納処分が続行され、公売が実施された以上、公売制度の信用を維持すべき国家の立場が、本件の事案の判断において、しんしゃくさるべき重要な要素の一つとして附加されることも、またやむを得ないところである。これを競落人の立場からいえば、国家の実施する公売制度を信じて本件不動産を競落した競落人こそ、まつたく善意無過失であり、競落人の利益こそ、もつとも保護に値するともいうことができる。本件において、単に、競落人の立場と被上告人の立場とのみを比較してみても、滞納処分の開始される三年六箇月前に被上告人が本件不動産をその所有に属するものとして財産申告をし財産税を納付したという事実は、競落人の利益をまつたく無視してよいということの理由になるものではなく、また、この事実は、被上告人が一般に、不動産の所有権を所得した者が所有権移転登記の経由を怠ることにより取引上通常被ることあるべき損失を免れることの根拠となるものでもない。
そこで、本件において、一方において一般国民のために租税を徴収し公売制度の信用を維持すベき国の公益的立場および善意無過失の第三者としてもつとも保護に値する競落人の立場と他方において同情に値するとはいえ、移転登記の経由を怠つていたことのために、これにより取引上通常被ることあるべき損失を被ることはやむを得ないものとされる被上告人の立場とを比較考量すれば、本件において、国が登記の欠缺を主張するにつき正当の利益を有する第三者に当らないというためには、財産税の徴収に関し、原審の認定するような経緯があつたということだけでは足りず、このためには、所轄税務署長がとくに被上告人の意に反して積極的に本件不動産を被上告人の所有と認定し、あるいは、爾後もなお引き続いて右土地が被上告人の所有であることを前提として徴税を実施する等、被上告人において本件土地が所轄税務署長から被上告人の所有として取り扱わるべきことをさらに強く期待することがもつともと思われるような特段の事情がなければならないものと解するのが相当である。
しかるに、原審が右特段の事情の存在につき何等判示することなく、本件において国は登記の欠缺を主張するにつき正当の利益を有する第三者に当らないと判断したのは、法の解釈を誤り、その結果審理不尽の違法に陥つたものといわねばならない。
よつてその他の論旨については判断を省略し、民訴四〇七条に従い主文のとおり判決する。
この判決は裁判官小林俊三の少数意見を除く外その他の裁判官の一致した意見によるものである。

+少数意見
裁判官小林俊三の少数意見は次のとおりである。
私は、本件は原判決が相当であるから上告を棄却すべきものと考える。
多数意見の前提とする見解、すなわち民法一七七条が国税滞納処分による差押の関係においても適用があると解すること、従つて本件において国が登記の欠缺を主張するにつき正当の利益を有する第三者に当るかどうかが問題であると解することは、原判決も同趣旨と認められるところ、その結論に差を生じたのは、結局本件における「正当の利益を有する第三者」の解釈において、多数意見(末段参照)は、上告人が「財産税の徴収に関し、原審の認定するような経緯があつたということだけでは足りず」、さらに原審の触れていない「特段の事情」を審理判断しなければならないとしたところにある。何故さらにこのような事情を認定しなければ足りないかの理由を十分に納得することができない。国税そのものの公的意義の重いことはいうまでもないが、国といえども、ひと度租税債権者として納税人と私法の支配する関係に入つた以上、その特殊の性質から出て来る事項を除いては、法律の解釈適用についてすべて他の当事者と同等の地位に立つべきものである。このことは新憲法の下においては特に強調されなければならない。本件を考えるにはこのことを特に念頭におくことが必要であると思う。
多数意見の要点は二つに帰する。一は、本件の場合は信義に反するとはいえないということ、他の一は、公売制度の信用を維持すべき国家の立場から競落人を保護しなければならないということである。そこでこの順序に従つて私見を述べる。
(一) 民法一七七条について「正当の利益を有する第三者」という考え方を確立した大審院判例も、その意義を直接説明したことはなく、各事案に現われた事実によつて例示してゆく方法をとつて来たことは周知のとおりである。そして多くの実例から抽象し得る一つの要素に「信義に反する関係」のあることは多数意見とともにおそらく争のないところであろう。ところで本件事案において問題となる要点は、上告人国(当時魚津税務署長)は、昭和二一年二月一五日被上告人が本件土地の登記名義が訴外会杜であることを示して、しかも自己の所有として申告したのに対し、これを承認し財産税を徴収しながら、その後に至つて国(当時富山税務署長)は、昭和二六年八月二一日前記事実と全く相反する訴外会社の土地として滞納処分による差押をしたという経過についてである。はじめに、多数意見がこれについて信義に反する関係を生じないと強調する背景に賛同できない二つの立場があることを述べておきたい。その一つは、国(税務署長)は、国税の関係において国民に重大な利害ある事項であつても、それが国税徴収に利益がないかぎり、国民のために進んで積極的に調査し適切な措置をとる責務はないという見解に立つと思われる点と、他の一つは、「信義に反する関係」というようなことは、個々の公務員または機関について別々に判断すべきであり、国について一体として考えるべきでないという見解に立つと思われる点である。前者は、本件差押があつたとき、被上告人から滞納処分取消申請書を提出し取消を懇請したのにかかわらず、国(税務署長)は、結局これを無視し、はじめの財産税を徴収した関係について何の責任をも示さず滞納処分を続行した点において明らかにうかがわれ、また後者は、被上告人の財産税徴収が魚津税務署長であり、訴外会社に対する滞納処分が富山税務署長であることによつて、「本件差押に当つて、上告人富山税務署長は、財産税徴収当時の経緯を現実に熟知しながら、これを奇貨として差押を実施したとは考えられない」とし、取消申請があつても署長が異なるからこれを無視することを当然とするような趣旨に受けとれることによつて認められる。
そもそも納税は国民のもつとも重要な義務の一つであるが、それは国民各個人が正しき税額を正しく徴収されるという原則の上においてのみ認められるのであり、国税に関する国家機関の責務もただこの原則に過誤なきを期する以外の何ものでもないと考える。そして、本件において正しい税額を正しく徴収するということは、相異なる前後の税務署長の行為を一貫することであり、後の差押に過誤あることを認めたなら、前の措置と一致せしめることにほかならない。また各行為の国家機関が前後異なつても(従つて公務員として別異な人間であろうとも)、国としてはすべて一体としての責任を負うべく、本件土地についていえば、魚津税務署長の先行行為が、後に富山税務署長の全く相反する後行行為によつて理由なく無意義とされることは許されないのである。試みに前示の本件事案の要点によつて、国税を私債権に、国を個人に置き換えて考えれば、その関係において背信という評価を受けるべきこというをまたないであろう。そうとすれば、多数意見は、民法の適用を受くべき本件の関係においても、国なるが故に特例有利な地位に立つとする見解によつて、その結論に到達したものと見るのほかない。このことは冒頭に「滞納者の財産を差し押えた国の地位はあたかも民事訴訟法上の強制執行における差押債権者の地位に類する」とし、また「滞納処分による差押の関係においても、民法一七七条の適用があるものと解するのが相当である」とした見解と矛盾するといわざるを得ない。
(二)前示のように、本件の差押があつたとき被上告人は、冨山税務署長に、滞納処分取消申請書を提出したのであるが、多数意見も「上告人冨山税務署長は、被上告人より財産税徴収の経緯を知らされているはずであるから、その際にさらに慎重な調査を遂げ」、判示のいずれかの方法をとることが「行政上妥当であつたというべきであろう」ことを認めている。そもそも本件において、土地所有権が訴外会社の登記名義であることを知りながら、被上告人の申告に基き被上告人を所有権者とする実質関係を認め、財産税を徴収したのは、国としての税務署長である。しかるに多数意見は、「本件訴訟の経過からもわかるように、本件不動産の所有権の帰属を判定することは極めて困難な仕事」であるから、同じ国としての税務署長(このときは冨山税務署長であるが)が、滞納処分を続行しても背信的態度として非難できないというのである。一体国が、はじめ被上告人を所有権者とする前提に立つておきながら、後に登記が被上告人申告当時のまま訴外会社名義であるというだけで、反転して直ちに訴外会社の所有地と認め会社の滞納国税にかかつて行くというのは、「所有権の帰属を判定することは極めて困難な仕事」であるということと相容れないではないか。もちろん税務署長が、前の所有権の承認が誤であるという明白な事由と証拠を発見したのなら問題は別である。しかし所有権の帰属の判定が困難といいながら、前の承認とは逆に訴外会社の所有地として滞納処分を続行するのは、国税に関するかぎり本件土地が訴外会社の所有に属すと判定したのと同じことになるのではないか。何故税務署長はこのように国として前の態度を自由に放棄し、後の滞納国税を徴収する方向に判断を変えて行くことができるかの理由を解することができない。
おそらく多数意見の根拠は、国は、被上告人の所有権を積極的に承認したことはなく申告を受理したに止まるから、後に登記面の訴外会社の所有権を認めても背信的態度とはいえないというのであろう。しかし本件において国としては前と後と税務署が異なり署長が異なることを理由とすることの許されないこと前示(一)に述べたとおりである。被上告人の申告に基き被上告人の所有地として財産税を徴収したのは国であり、後に訴外会社の所有地として滞納処分をし、被上告人の取消申請をも無視しこれを断行したのも国である。前の行為は、国が第三者として、わが民法一七六条のとる意思主義の原則に則り被上告人の所有権の実質関係を承認したのであり、後の行為は、その国が同じ第三者として、対抗要件を定めた民法一七七条によつて被上告人に対し登記の欠缺を主張するのであつて、国が同じ資格をもつて同じ土地に対し前後相反する行為をすることが背信的でないとどうしていい切れるであろうか。もし国(税務署長)なるが故に前後二様の使い分が認められると解するならば、その根拠の説明がなければならない。そうでなければ国民は安んじて税務署長の指示承認を信ずることが困難となるであろう。
また多数意見が「一方において一般国民の利益のために租税を徴収し、公売制度の信用を維持すべさ国の公益的立場」云々ということは、文言自体に異議はない。しかし公売制度の面は後に触れるとして((三)参照)「一般国民」というものが国民各個人を離れて現実に存在するものではなく、そして「一般国民の利益」という中には、国税を納付する国民の側から見て、正しい税額を正しく徴収されることの利益を含むことを無視することは許されないこと前に述べたとおりである。しかるに本件のような滞納処分をすることが、国として正しいことであるというならば、たとえ多数意見のいう「比較考量」をしても、租税債権者としての国は、「一般私法上の債権者より」特別利益な地位を認められると解するのほかない。
また被上告人に対する関係において、国税滞納処分における国の地位が、一般私法上の債権者の地位に準ずべきことは多数意見のとおりであり、従つて「国が一般私法上の債権者より不利益の取扱を受ける理由となるものではない」ことはいうまでもない。しかしこの趣旨は「国は特に利益な取扱を受ける理由はある」という逆を含むものではあるまい。そしてまた原判決の結論は決して国に一般私法上の債権者より不利益な地位を与えたものとは考えられない。(なお本件の関係を私債権者の場合に置き換えて例をとつてみると、債務者が第三者から買い取つた家屋について、登記面はなお第三者名義のままで、その家屋から生ずる賃料を債務の支払に当てることを債権者に申出でた場合を考えることができる〔賃貸借その他の承継対抗等の諸関係はすべて適法有効に備われるものと仮定する〕。この場合債権者が、登記面第三者名義であることを知りながら、債務者の不動産物権における実質関係を承認し、ある期間家屋から生ずる賃料を債務に充当することをつづけた後、債権者は別にその第三者に対する債権があるので、今度は登記面により第三者の所有家屋として強制競売を申立てたとすれば、この関係をいかに判断ずべきであろうか。私の解するところによれば、この債権者は正当の利益を有する第三者に当らないこというまでもないのである。そしてこの設例は、国を私人に置き換えただけで、相互の基本関係は理において一致し異なるところはないと考える。多数意見は、この例の場合でも、債権者は右のような経過事実だけではいわゆる第三者の地位を否認されないという結論になるのであろうか。そうとすれば、多数意見の説示する「信義に反すると認められる事由」の解釈は異例であると考えざるを得ない。)
なお参考として本件の判断に資すべき大審院判例がある。(昭和八年オ第二六一〇号同九年三月六日五民判決。民集一三巻三号二三〇頁)。すなわちその事案は、甲に対する村税滞納処分で甲の不動産が公売に附され、これを競落した乙が未だ移転登記をしない間に、丙が甲に対する債権でこの不動産を差押えた。しかし丙はその前に右不動産の公売処分に立会い、公売売得金から甲に対する自分の抵当債権に対する配当を受けていたというのである。大審院はこれに対し「村税滞納ニ因ル公売処分ニ於テ不動産ノ売得金ヨリ配当ヲ受ヶタル債権者ハ該公売処分ニ因ル不動産ノ取得者ニ対シ民法一七七条所定ノ登記欠缺ヲ主張スル正当ノ利益ヲ有スル第三者ト謂フヲ得ザルモノトス」と判示した。この判例に対する批判において特に反対説を聞かない。もとよりこの事案における債権者丙の背信的態度は著しく積極的であつて、その程度からいえば本件には適切でないといえるかもしれない。しかし本件の国の地位を個人たる債権者に置き換えて、双方の事案の経路を要約してみると理において甚しく異なるとは考えられない。
(三) 何人がもつとも保護するに値するかという面から考えてみる。いうまでもなく民法一七七条は、本来不動産物権の変動につき、登記という公示方法を信頼した第三者をその限度において保護し、よつて不動産取引の動的安全を保障しようとする制度である。しかしその前提に、わが民法が意思主義をとり、当事者間においては物権変動について公示方法を必要としないという原則をとつていることを念頭におかなければならない。いいかえれば静的安全が一応まず保障されることによつてはじめて動的安全の保障が意義を生ずるのである。判例が文理に泥まず「正当の利益を有する第三者」の原則を積み重ねて来た趣旨もここにあるのである。従つていわゆる正当の利益を判断するには、この観点から、何人がもつとも保護するに値するかを考察して定めるべきであり、このことがもつとも決定的な要素であることを忘れてはならないのである。ところで本件を見ると、国(魚津税務署長)は、くりかえし述べるように、土地の登記面と異なる被上告人の所有権すなわち物権変動の実質関係を承認し、財産税を徴収したのであるから、わが登記制度の有する公示の効力を信頼し(すなわち訴外会社を所有権者として)それによつて租税事務を進めたという関係は全くない。かえつて国は、被上告人の申告により、本件土地の登記に公示された訴外会社の所有権を信じないで、被上告人の実質上の所有権を信じたのである。かかる関係においても国は登記という公示方法を信じた第三者として被上告人より以上に保護するに値する理由があるであろうか。さらに正確を期するため被上告人側の経緯を調べてみよう。原審の確定する事実と記録に存する資料によると、(イ)被上告人が本件土地を買受け所有権を取得したのは、訴外会社が昭和二一年一月三一日、二月五日の二回にわたり北日本新聞に売却の広告をしたのでこれに応じたのであること(甲第五号証ノ一及び二)、(ロ)被上告人は同年二月八日訴外会社代表者Aから本件土地を他の物件と共に金七万八千円也で買受けその所有権を取得したこと(甲第二号証)、(ハ)被上告人は昭和二二年二月一五日魚津税務署長に対し右土地を自己の所有である旨の財産申告をしたこと(すなわち甲第四号証「財産税課税価格等申告書」の第四枚目(記録七七丁)第三欄の本件土地の細目記載末項「摘要」に「登記面ハ北陸製作代表者A分」と記載されている)、(ニ)税務署長は右申告に基き被上告人から財産税を徴収したこと、等が認められる。従つて被上告人としては、税務署長が申告どおり本件土地が被上告人の所有であることを承認し財産税を徴収した以上、これを信頼し安心していたであろうことは十分に推認することができる。従つてすべての角度から見て現在の取引通念においては責むべきものを認められない。ただ一つ被上告人に不利な面は、移転登記を遅滞したことであるが(その理由は原判決ては必しも明らかでない)、前記の経過を見れば、被上告人は、税務署長が、前とは逆に訴外会社の土地として滞納処分をするなどとは予想もしなかつたであろうと思われる。かかる状況において遅滞ということが直ちに保護を受けるに値しないと断ずることはできない。
また多数意見は、「公売が実施された以上」と前提して、公売制度の信用を維持すべき国家の立場が本件の事案において重視されなければならないという趣旨を強調する。しかし不動産物権の変動における動的安全の保障は、まず静的安全を肯定し、その上の比較考量によつて生ずる原理である。そうでなければわが登記制度が単に公示の原則に立つた趣旨を無意義とするであろう。国は前に本件土地を被上告人の所有地として財産税を徴収したのであるから、本来後に訴外会社の土地として滞納処分などすべきではなかつたのであり、またそれは許されないはずである。しかるに国は、被上告人から差押取消の申出があつたのに何の調査も措置もとらず公売処分を断行しながら、「公売が実施された以上」公売制度の信用を保つたあ競落人を保護しなければならない、というのは、あまりに独善専恣であり、またこの過誤の責任を他人に転嫁するものといわなければなるまい。
本件においては被上告人は国を信じて行動して来たのであるから、まずこれを保護すべきである。そして本件の競落人は、国の過誤により蒙つた損害について、公売代金の返還その他正当な補償を受けることができるから、希望した土地が得られなかつたことが、さほど酷であるとは思われない。これに反し被上告人は、すでに代金を支払つて取得した土地所有権を失うが、その補償を何人に対し請求できるか、仮りに訴外会社に請求するとしても、同会社は国税を滞納しているほど窮状にあるのだからその実効はきわめて疑わしいといわなければならない。
(四) 「対抗」ということとその手続の面から考えてみる。民法一七七条に定める「対抗」の意義については議論の存するところであり、判例もこの点に触れているものが多く存在するが、その趣旨において各々多少の相異があることは、学者の指摘するとおりである。しかしこれらの判例を通じて理解し得る一つの趣旨は、第三者が民法一七七条の保護を受けようとするには、登記の欠缺を主張(すなわち物権変動の否認)しなければならない、ということである(明治四五年六月二八日、大正七年一一月一四日等の各判例参照)。判例のこの趣旨が、「対抗」の意義についていかなる理論的立場をとると解すべきかは別として、少くとも第三者が登記の欠缺を主張することを要求していることは明らかである。そしてこれが裁判上における主張の趣旨であることもまた異存はない。しかしこの趣旨が、裁判外においてはいかなる制約もないという意味を含むものとは考えられない。裁判外においては、第三者は、単にこの主張をしなかつたというだけで、直ちに同条の保護を放棄したと認められないことはいう裟でもない。しかし裁判外において第三者が、積極的にこの主張をしないこと、すなわち民法の保護を受ける意思のないことを表示した場合、またはこれと同視すべき行為があつた場合でも、裁判上においては、いつでも無条件にいわば前言をひるがえし、改めて有効に登記の欠缺を主張することができるとはとうてい解することはできない。反対の見解がありとすれば、判例が一貫して正当に判示する「正当な利益」という原則と相容れないものと考える。本件の場合国なるが故に前後相反する行為が是認され、それが信義に反しないというならば、特にその理由が示されなければならない。
多数意見は、「上告入が差押の実施に当つて、本件不動産が登記簿上右会社名義となつていることを確かめ、かつ同会社についてその実質上の所有関係を調査した以上」というが、国ははじめ本件土地につき被上告人の申告に基き被上告人の実質土の所有権を承認し財産税を徴収しておきながら、後に訴外会社の滞納国税の関係となるや、急に態度を変じ、今度は訴外会社について登記面の所有権を主張するのみならず、さらにその「実質上の所有権を調査」云々というのは、納得しかねる論理である。そして「さらに、財産税施行当時に遡つて右不動産が何人の所有として申告されていたかを調査しなかつたというだけで、直ちに、本件において国が登記の欠缺を主張することが背信的であるということはできない」というが、前示のように被上告人は滞納処分取消申請書を提出したのであるから、税務署長としては調査する責務があると考えられる。しかるにこれを無視し、国税のために利益である方に責務を転ずるという態度は、むしろ国なるが故に採るべきでなく、国民の信をつなぐゆえんでないと考えたい。
(五) なお最後に、多数意見の「特段の事情」について触れておきたい。特段の事情として例示されていることは「所轄税務署長がとくに被上告人の意に反して積極的に本件不動産を被上告人の所有と認定し」、あるいは「爾後もなお引き続いて右土地が被上告人の所有であることを前提として徴税を実施する等」というのである。この設例は、前後一連の関係にあると認められるが、これを本件に当てはめてみると、前段の場合は、税務署長が訴外会社の登記ある本件土地につき独自の調査の結果、被上告人からはなんの申告もなく、また被上告人の否定にもかかわらず、被上告人の所有と認定したようなことを指し、また後段の場合は、右のような認定の下に、その土地に基く税を引全つづいて徴収したというようなことを指すものと認められる。しかしこのようなことが容易に現実に起り得るとは考えられない。財産税は、不動産についても、納税人の申告によつて課税するものであるから(財産税法三七条ないし一一九条、同施行規則第四章、同細則一二条一三条、一七条等)、自ら申告する以上、台帳の登録または登記簿上の記載と一致することを通例とするが、仮りに一致しない場合でも、税務署長は、申告の理由を否認すべき特段の事由のない限り、申告者を納税義務者として徴税すれば足りるのである。(本件の事案のはじめの経過はこれに当る。)前記設例の場合を強いて仮想すれば、不動産の所有権を取得した者が、自己が国税を滞納しているため、その公売処分を避ける意図をもつて移転登記を遅滞しているようなことが考えられる。かかる場合税務署長が、所有権変動の実質関係を確認したときは、その所有者に対し適法な手続によつて徴税を追行することを妨げないであろう。しかし本件の場合は逆であつて被上告人が自ら申告し、課税を求めたのであるから、全く当らない。これに反し国税を滞納している甲がその所有の不動産を乙に譲渡し、乙が移転登記未済のまま自己の所有不動産として申告しても、税務署長はこのときこそ登記の欠缺を主張し、甲の不動産として滞納処分をすることがむしろその責務であり(本件の場合は、かえつて申告者たる被上告人の所有権を承認して徴税した)、また乙がいち早く自己の名義に移転登記をしても、税務署長は詐害行為取消権を行使することをなんら妨げられるものではない(国税徴収法一五条)。かく考えてくると、本件の場合、多数意見のいう「特段の事情」を審理することが、何故特に国について必要とされるか、その理由を解することができない。税務署長は、徴税手続に関し、前後相反する行為をしても許されると解すべきいかなる根拠もないと考える。以上のとおりの理由により本件上告を棄却すべきものである。
(裁判長裁判官 島保 裁判官 河村又介 裁判官 小林俊三 裁判官 本村善太郎 裁判官 垂水克己)

+判例(S50.2.25)
理由
上告代理人井上恵文、同大嶋芳樹、同曽田淳夫、同植西剛史、同加藤芳文の上告理由第一及び第二について。
所論の点に関する原審の事実認定は、原判決挙示の証拠関係に照らして是認することができ、その過程に所論の違法は認められない。そして、原審の確定した事実関係のもとにおいては、本件事故に基づく自動車損害賠償保障法三条による損害賠償請求権の短期消滅時効は昭和四〇年七月一五日から進行すると解すべきであり、また、被上告人が右消滅時効を援用することをもつて権利の濫用又は信義則に反するものとはいえない。これと同旨の原審の判断は、正当として是認することができる。原判決に所論の違法はなく、論旨は採用することができない。
同第三について。
所論の点に関する原審の認定判断は、原判決挙示の証拠関係に照らし、正当として是認することができ、その過程に所論の違法は認められない。論旨は、ひつきよう、原審の専権に属する証拠の取捨判断、事実の認定を非難するものにすぎず、採用することができない。
同第四について。
所論は、要するに、被上告人は、公務員に対し公務遂行のための場所、設備等を供給すべき場合には、公務員が公務に服する過程において、生命、健康に危険が生じないように注意し、物的及び人的環境を整備する義務を負つているというべきであり、本件事故は被上告人が右義務を懈怠したことによつて生じたものであるから、被上告人は右義務違背に基づく損害賠償義務を負つているものと解すべきであるとし、これを否定した原判決には法令の解釈適用を誤つた違法がある、というものである。
思うに、国と国家公務員(以下「公務員」という。)との間における主要な義務として、法は、公務員が職務に専念すべき義務(国家公務員法一〇一条一項前段、自衛隊法六〇条一項等)並びに法令及び上司の命令に従うべき義務(国家公務員法九八条一項、自衛隊法五六条、五七条等)を負い、国がこれに対応して公務員に対し給与支払義務(国家公務員法六二条、防衛庁職員給与法四条以下等)を負うことを定めているが、国の義務は右の給付義務にとどまらず、国は、公務員に対し、国が公務遂行のために設置すべき場所、施設もしくは器具等の設置管理又は公務員が国もしくは上司の指示のもとに遂行する公務の管理にあたつて、公務員の生命及び健康等を危険から保護するよう配慮すべき義務(以下「安全配慮義務」という。)を負つているものと解すべきである。もとより、右の安全配慮義務の具体的内容は、公務員の職種、地位及び安全配慮義務が問題となる当該具体的状況等によつて異なるべきものであり、自衛隊員の場合にあつては、更に当該勤務が通常の作業時、訓練時、防衛出動時(自衛隊法七六条)、治安出動時(同法七八条以下)又は災害派遣時(同法八三条)のいずれにおけるものであるか等によつても異なりうべきものであるが、国が、不法行為規範のもとにおいて私人に対しその生命、健康等を保護すべき義務を負つているほかは、いかなる場合においても公務員に対し安全配慮義務を負うものではないと解することはできない。けだし、右のような安全配慮義務は、ある法律関係に基づいて特別な社会的接触の関係に入つた当事者間において、当該法律関係の付随義務として当事者の一方又は双方が相手方に対して信義則上負う義務として一般的に認められるべきものであつて、国と公務員との間においても別異に解すべき論拠はなく、公務員が前記の義務を安んじて誠実に履行するためには、国が、公務員に対し安全配慮義務を負い、これを尽くすことが必要不可欠であり、また、国家公務員法九三条ないし九五条及びこれに基づく国家公務員災害補償法並びに防衛庁職員給与法二七条等の災害補償制度も国が公務員に対し安全配慮義務を負うことを当然の前提とし、この義務が尽くされたとしてもなお発生すべき公務災害に対処するために設けられたものと解されるからである。
そして、会計法三〇条が金銭の給付を目的とする国の権利及び国に対する権利につき五年の消滅時効期間を定めたのは、国の権利義務を早期に決済する必要があるなど主として行政上の便宜を考慮したことに基づくものであるから、同条の五年の消滅時効期間の定めは、右のような行政上の便宜を考慮する必要がある金銭債権であつて他に時効期間につき特別の規定のないものについて適用されるものと解すべきである。そして、国が、公務員に対する安全配慮義務を懈怠し違法に公務員の生命、健康等を侵害して損害を受けた公務員に対し損害賠償の義務を負う事態は、その発生が偶発的であつて多発するものとはいえないから、右義務につき前記のような行政上の便宜を考慮する必要はなく、また、国が義務者であつても、被害者に損害を賠償すべき関係は、公平の理念に基づき被害者に生じた損害の公正な填補を目的とする点において、私人相互間における損害賠償の関係とその目的性質を異にするものではないから、国に対する右損害賠償請求権の消滅時効期間は、会計法三〇条所定の五年と解すべきではなく、民法一六七条一項により一〇年と解すべきである
ところが、原判決は、自衛隊員であつた訴外亡Aが特別権力関係に基づいて被上告人のために服務していたものであるとの理由のみをもつて、上告人らの被上告人に対する安全配慮義務違背に基づく損害賠償の請求を排斥しているが、右は法令の解釈適用を誤つたものというべきであり、その違法は原判決の結論に影響を及ぼすことが明らかであるから、原判決はこの点において破棄を免れない。そして、本件については前叙のような観点から、更に審理を尽くさせる必要があるから、本件を原審に差し戻すべきものとする。
よつて、民訴法四〇七条一項に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 関根小郷 裁判官 天野武一 裁判官 坂本吉勝 裁判官 江里口清雄 裁判官 髙辻正己)


憲法 取材の自由 レペタ 泉佐野 広島県教 


1.レペタ事件から考える。

・取材の事由は表現の事由そのものではなく、単に「尊重」に値するもの
・筆記行為の自由は21条1項の規定によって直接保障されている表現の自由そのものとは異なるものであるから、その制限又は禁止には、表現の自由に制約を加える場合に一般に必要とされる厳格な基準が要求されるものではない!

+(H1.3.8)レペタ
理由
上告代理人秋山幹男、同鈴木五十三、同喜田村洋一、同三宅弘、同山岸和彦の上告理由について
一 原審の確定した事実関係は、次のとおりである。
上告人は、米国ワシントン州弁護士の資格を有する者で、国際交流基金の特別研究員として我が国における証券市場及びこれに関する法的規制の研究に従事し、右研究の一環として、昭和五七年一〇月以来、東京地方裁判所における被告人加藤暠に対する所得税法違反被告事件の各公判期日における公判を傍聴した。右事件を担当する裁判長(以下「本件裁判長」という。)は、各公判期日において傍聴人がメモを取ることをあらかじめ一般的に禁止していたので、上告人は、各公判期日に先立ちその許可を求めたが、本件裁判長はこれを許さなかつた。本件裁判長は、司法記者クラブ所属の報道機関の記者に対しては、各公判期日においてメモを取ることを許可していた。 

 二 憲法八二条一項の規定は、裁判の対審及び判決が公開の法廷で行われるべきことを定めているが、その趣旨は、裁判を一般に公開して裁判が公正に行われることを制度として保障し、ひいては裁判に対する国民の信頼を確保しようとすることにある
裁判の公開が制度として保障されていることに伴い、各人は、裁判を傍聴することができることとなるが、右規定は、各人が裁判所に対して傍聴することを権利として要求できることまでを認めたものでないことはもとより、傍聴人に対して法廷においてメモを取ることを権利として保障しているものでないことも、いうまでもないところである。

三1 憲法二一条一項の規定は、表現の自由を保障している。そうして、各人が自由にさまざまな意見、知識、情報に接し、これを摂取する機会をもつことは、その者が個人として自己の思想及び人格を形成、発展させ、社会生活の中にこれを反映させていく上において欠くことのできないものであり、民主主義社会における思想及び情報の自由な伝達、交流の確保という基本的原理を真に実効あるものたらしめるためにも必要であつて、このような情報等に接し、これを摂取する自由は、右規定の趣旨、目的から、いわばその派生原理として当然に導かれるところである(最高裁昭和五二年(オ)第九二七号同五八年六月二二日大法廷判決・民集三七巻五号七九三頁参照)。市民的及び政治的権利に関する国際規約(以下「人権規約」という。)一九条二項の規定も、同様の趣旨にほかならない。
2 筆記行為は、一般的には人の生活活動の一つであり、生活のさまざまな場面において行われ、極めて広い範囲に及んでいるから、そのすべてが憲法の保障する自由に関係するものということはできないが、さまざまな意見、知識、情報に接し、これを摂取することを補助するものとしてなされる限り、筆記行為の自由は、憲法二一条一項の規定の精神に照らして尊重されるべきであるといわなければならない。
裁判の公開が制度として保障されていることに伴い、傍聴人は法廷における裁判を見聞することができるのであるから、傍聴人が法廷においてメモを取ることは、その見聞する裁判を認識、記憶するためになされるものである限り、尊重に値し、故なく妨げられてはならないものというべきである。 

 四 もつとも、情報等の摂取を補助するためにする筆記行為の自由といえども、他者の人権と衝突する場合にはそれとの調整を図る上において、又はこれに優越する公共の利益が存在する場合にはそれを確保する必要から、一定の合理的制限を受けることがあることはやむを得ないところである。しかも、右の筆記行為の自由は、憲法二一条一項の規定によつて直接保障されている表現の自由そのものとは異なるものであるから、その制限又は禁止には、表現の自由に制約を加える場合に一般に必要とされる厳格な基準が要求されるものではないというべきである。
これを傍聴人のメモを取る行為についていえば、法廷は、事件を審理、裁判する場、すなわち、事実を審究し、法律を適用して、適正かつ迅速な裁判を実現すべく、裁判官及び訴訟関係人が全神経を集中すべき場であつて、そこにおいて最も尊重されなければならないのは、適正かつ迅速な裁判を実現することである傍聴人は、裁判官及び訴訟関係人と異なり、その活動を見聞する者であつて、裁判に関与して何らかの積極的な活動をすることを予定されている者ではない。したがつて、公正かつ円滑な訴訟の運営は、傍聴人がメモを取ることに比べれば、はるかに優越する法益であることは多言を要しないところである。してみれば、そのメモを取る行為がいささかでも法廷における公正かつ円滑な訴訟の運営を妨げる場合には、それが制限又は禁止されるべきことは当然であるというべきである。適正な裁判の実現のためには、傍聴それ自体をも制限することができるとされているところでもある(刑訴規則二〇二条、一二三条二項参照)。
メモを取る行為が意を通じた傍聴人によつて一斉に行われるなど、それがデモンストレーシヨンの様相を呈する場合などは論外としても、当該事件の内容、証人、被告人の年齢や性格、傍聴人と事件との関係等の諸事情によつては、メモを取る行為そのものが、審理、裁判の場にふさわしくない雰囲気を醸し出したり、証人、被告人に不当な心理的圧迫などの影響を及ぼしたりすることがあり、ひいては公正かつ円滑な訴訟の運営が妨げられるおそれが生ずる場合のあり得ることは否定できない。 
しかしながら、それにもかかわらず、傍聴人のメモを取る行為が公正かつ円滑な訴訟の運営を妨げるに至ることは、通常はあり得ないのであつて、特段の事情のない限り、これを傍聴人の自由に任せるべきであり、それが憲法二一条一項の規定の精神に合致するものということができる。

五1 法廷を主宰する裁判長(開廷をした一人の裁判官を含む。以下同じ。)には、裁判所の職務の執行を妨げ、又は不当な行状をする者に対して、法廷の秩序を維持するため相当な処分をする権限が付与されている(裁判所法七一条、刑訴法二八八条二項)。右の法廷警察権は、法廷における訴訟の運営に対する傍聴人等の妨害を抑制、排除し、適正かつ迅速な裁判の実現という憲法上の要請を満たすために裁判長に付与された権限である。しかも、裁判所の職務の執行を妨げたり、法廷の秩序を乱したりする行為は、裁判の各場面においてさまざまな形で現れ得るものであり、法廷警察権は、右の各場面において、その都度、これに即応して適切に行使されなければならないことにかんがみれば、その行使は、当該法廷の状況等を最も的確に把握し得る立場にあり、かつ、訴訟の進行に全責任をもつ裁判長の広範な裁量に委ねられて然るべきものというべきであるから、その行使の要否、執るべき措置についての裁判長の判断は、最大限に尊重されなければならないのである。
2 裁判所法七一条、刑訴法二八八条二項の各規定により、法廷において裁判所の職務の執行を妨げ、又は不当な行状をする者に対し、裁判長が法廷の秩序を維持するため相当な処分をすることが認められている以上、裁判長は、傍聴人のメモを取る行為といえども、公正かつ円滑な訴訟の運営の妨げとなるおそれがある場合は、この権限に基づいて、当然これを禁止又は規制する措置を執ることができるものと解するのが相当であるから、実定法上、法廷において傍聴人に対してメモを取る行為を禁止する根拠となる規定が存在しないということはできない。
また、人権規約一九条三項の規定は、情報等の受領等の自由を含む表現の自由についての権利の行使に制限を課するには法律の定めを要することをいうものであるから、前示の各法律の規定に基づく法廷警察権 傍聴人のメモを取る行為の制限は、何ら人権規約の右規定に違反するものではない。
3 裁判長は傍聴人がメモを取ることをその自由に任せるべきであり、それが憲法二一条一項の規定の精神に合致するものであることは、前示のとおりである。裁判長としては、特に具体的に公正かつ円滑な訴訟の運営の妨げとなるおそれがある場合においてのみ、法廷警察権によりこれを制限又は禁止するという取扱いをすることが望ましいといわなければならないが、事件の内容、傍聴人の状況その他当該法廷の具体的状況によつては、傍聴人がメモを取ることをあらかじめ一般的に禁止し、状況に応じて個別的にこれを許可するという取扱いも、傍聴人がメモを取ることを故なく妨げることとならない限り、裁判長の裁量の範囲内の措置として許容されるものというべきである。

六 本件裁判長が、各公判期日において、上告人に対してはメモを取ることを禁止しながら、司法記者クラブ所属の報道機関の記者に対してはこれを許可していたことは、前示のとおりである。
憲法一四条一項の規定は、各人に対し絶対的な平等を保障したものではなく、合理的理由なくして差別することを禁止する趣旨であつて、それぞれの事実上の差異に相応して法的取扱いを区別することは、その区別が合理性を有する限り、何ら右規定に違反するものではないと解すべきである(最高裁昭和五五年(行ツ)第一五号同六〇年三月二七日大法廷判決・民集三九巻二号二四七頁等参照)とともに、報道機関の報道は、民主主義社会において、国民が国政に関与するにつき、重要な判断の資料を提供するものであつて、事実の報道の自由は、表現の自由を定めた憲法二一条一項の規定の保障の下にあることはいうまでもなく、このような報道機関の報道が正しい内容をもつためには、報道のための取材の自由も、憲法二一条の規定の精神に照らし、十分尊重に値するものである(最高裁昭和四四年(し)第六八号同年一一月二六日大法廷決定・刑集二三巻一一号一四九〇頁)。
そうであつてみれば、以上の趣旨が法廷警察権の行使に当たつて配慮されることがあつても、裁判の報道の重要性に照らせば当然であり、報道の公共性、ひいては報道のための取材の自由に対する配慮に基づき、司法記者クラブ所属の報道機関の記者に対してのみ法廷においてメモを取ることを許可することも、合理性を欠く措置ということはできないというべきである。
本件裁判長において執つた右の措置は、このような配慮に基づくものと思料されるから、合理性を欠くとまでいうことはできず、憲法一四条一項の規定に違反するものではない。

七1 原審の確定した前示事実関係の下においては、本件裁判長が法廷警察権に基づき傍聴人に対してあらかじめ一般的にメモを取ることを禁止した上、上告人に対しこれを許可しなかつた措置(以下「本件措置」という。)は、これを妥当なものとして積極的に肯認し得る事由を見出すことができない。上告人がメモを取ることが、法廷内の秩序や静穏を乱したり、審理、裁判の場にふさわしくない雰囲気を醸し出したり、あるいは証人、被告人に不当な影響を与えたりするなど公正かつ円滑な訴訟の運営の妨げとなるおそれがあつたとはいえないのであるから、本件措置は、合理的根拠を欠いた法廷警察権の行使であるというべきである。過去においていわゆる公安関係の事件が裁判所に多数係属し、荒れる法廷が日常であつた当時には、これらの裁判の円滑な進行を図るため、各法廷において一般的にメモを取ることを禁止する措置を執らざるを得なかつたことがあり、全国における相当数の裁判所において、今日でもそのような措置を必要とするとの見解の下に、本件措置と同様の措置が執られてきていることは、当裁判所に顕著な事実である。しかし、本件措置が執られた当時においては、既に大多数の国民の裁判所に対する理解は深まり、法廷において傍聴人が裁判所による訴訟の運営を妨害するという事態は、ほとんど影をひそめるに至つていたこともまた、当裁判所に顕著な事実である
裁判所としては、今日においては、傍聴人のメモに関し配慮を欠くに至つていることを率直に認め、今後は、傍聴人のメモを取る行為に対し配慮をすることが要請されることを認めなければならない。
もつとも、このことは、法廷の秩序や静穏を害したり、公正かつ円滑な訴訟の運営に支障を来したりすることのないことを前提とするものであることは当然であつて、裁判長は、傍聴人のいかなる行為であつても、いやしくもそれが右のような事態を招くものであると認めるときには、厳正かつ果断に法廷警察権を行使すべき職務と責任を有していることも、忘れられてはならないであろう。
2 法廷警察権は、裁判所法七一条、刑訴法二八八条二項の各規定に従つて行使されなければならないことはいうまでもないが、前示のような法廷警察権の趣旨、目的、更に遡つて法の支配の精神に照らせば、その行使に当たつての裁判長の判断は、最大限に尊重されなければならない。したがつて、それに基づく裁判長の措置は、それが法廷警察権の目的、範囲を著しく逸脱し、又はその方法が甚だしく不当であるなどの特段の事情のない限り、国家賠償法一条一項の規定にいう違法な公権力の行使ということはできないものと解するのが相当である。このことは、前示のような法廷における傍聴人の立場にかんがみるとき、傍聴人のメモを取る行為に対する法廷警察権の行使についても妥当するものといわなければならない。
本件措置が執られた当時には、法廷警察権に基づき傍聴人がメモを取ることを一般的に禁止して開廷するのが相当であるとの見解も広く採用され、相当数の裁判所において同様の措置が執られていたことは前示のとおりであり、本件措置には前示のような特段の事情があるとまではいえないから、本件措置が配慮を欠いていたことが認められるにもかかわらず、これが国家賠償法一条一項の規定にいう違法な公権力の行使に当たるとまでは、断ずることはできない
八 以上説示したところと同旨に帰する原審の判断は、結局これを是認することができる。原判決に所論の違憲、違法はなく、論旨は、いずれも採用することができない。
よつて、民訴法三九六条、三八四条、九五条、八九条に従い、裁判官四ツ谷巖の意見があるほか、裁判官全員の一致で、主文のとおり判決する。

+意見
裁判官四ツ谷巖の意見は、次のとおりである。
私は、本件上告を棄却すべきであるとする多数意見の結論には同調するが、その結論にいたる説示には同調することができないので、私の見解を明らかにしておきたい。
一1 憲法八二条一項の規定の趣旨は、裁判を一般に公開して裁判が公正に行われることを制度として保障し、ひいては裁判に対する国民の信頼を確保しようとすることにあつて、各人に裁判所に対して傍聴することを権利として要求できることまでを認めたものでないことはもとより、傍聴人に対して法廷においてメモを取ることを権利として保障しているものでもないことは、多数意見の説示するとおりであり、右規定の要請を満たすためには、各法廷を物的に傍聴可能な状態とし、不特定の者に対して傍聴のための入廷を許容し、その者がいわゆる五官の作用によつて、裁判を見聞することを妨げないことをもつて足りるものといわなければならない。
2 憲法二一条一項の規定は、表現の自由を保障している。そうして、多数意見は、各人が自由にさまざまな意見、知識、情報に接し、これを摂取する自由は、右規定の趣旨、目的からいわばその派生原理として当然に導かれるところであり、筆記行為も、情報等の摂取を補助するものとしてなされる限り、右規定の精神に照らして尊重されるべきであるとし、更に傍聴人が法廷においてメモを取ることも、見聞する裁判を認識、記憶するためになされるものである限り、尊重に値すると説示する。情報等を摂取する自由及び筆記行為の自由についての説示は、一般論としては、正にそのとおりであろう。しかしながら、傍聴人のメモに関する説示には、賛同することができない。
法廷は、いわゆる公共の場所ではなく、事件を審理、裁判するための場であることは、いうまでもない。したがつて、そこにおいては、冷静に真実を探究し、厳正に法令を適用して、適正かつ迅速な裁判を実現することが最優先されるべきである。法廷を主宰する裁判長に、法廷警察権が付与されているのも、訴訟の運営に対する妨害を抑制、排除して、常に法廷を審理、裁判にふさわしい場として維持し、適正かつ迅速な裁判の実現という憲法上の要請を満たすためにほかならない。そうして、このような法廷警察権の趣旨、目的及び裁判権を行使するに当たつての裁判官の憲法上の地位、権限に照らせば、法廷警察権の行使は、専ら裁判の進行に全責任を負う裁判長の裁量に委ねられているものというべきであり、傍聴人の行為も、裁判長の裁量によつて規制されて、然るべきものである。メモを取る行為も、その例外ではない。そうすると、裁判長は、その裁量により、傍聴人がメモを取ることを禁止することができ、その結果、傍聴人は法廷において情報等を摂取する自由を十全に享受することができないこととなるが、法廷は前示のとおり審理、裁判のための場であること、並びに、傍聴人は、その自由な意思によつて、裁判長の主宰の下に裁判が行われる法廷に入り、裁判官及び訴訟関係人の活動を見聞するにすぎない立場にあることにかんがみれば、これをもつて憲法二一条の規定に違背するといえないことはもちろん、その精神に違背するということもできない。
多数意見が引用する最高裁昭和五二年(オ)第九二七号同五八年六月二二日大法廷判決・民集三七巻五号七九三頁は、その意に反して拘置所に拘束されている未決拘禁者の新聞閲読の自由について判示するものであつて、傍聴人がこのように公権力によりその意に反して拘束されている者とその立場を異にする者であることは、前示のとおりであるし、また、未決拘禁者は、新聞を閲読できないことにより、それによる情報等の摂取が全く不可能となるのに対し、傍聴人は、法廷においてメモを禁止されても、そこにおける五官の作用によつての情報等の摂取それ自体は、何ら妨げられていないのである。
なお、人権規約一九条二項の規定の趣旨は、憲法の右規定のそれと異なるところはないから、傍聴人のメモを禁止しても、それが人権規約の右規定ないしその精神に違背するということはできないし、また法廷警察権に基づいて傍聴人のメモを禁止することが、人権規約一九条三項の規定に違反するものでないことは、多数意見の説示するとおりである。
3 以上のとおり、傍聴人の法廷におけるメモを許容することが要請されているとすべき憲法その他法令上の根拠は、これを見出すことができない。
してみれば、傍聴人が法廷においてメモを取る自由は、法的に保護された利益とまでいうことはできず、上告人の本訴請求は、その余の点について判断するまでもなく、失当であり、これを棄却すべきものとした原判決は結局正当であつて、本件上告は棄却されるべきである。
二 この機会に、傍聴人の法廷におけるメモをその自由に任せることの当否について、付言する。
傍聴人のメモをその自由に任せるべきことが、憲法その他法令上要請されていないとしても、もしそれが一般的に公正かつ円滑な訴訟の運営を妨げるおそれがないとするならば、特段の事情のない限り、これをその自由に任せることとするのも、一つの在り方であろう。
しかしながら、法廷は真実を探究する場であることは前示のとおりであるから、最も配慮されなければならないことは、法廷を真実が現れ易い場としておくことであるところ、法廷において傍聴人がメモを取つていた場合、たとえそれが静穏になされていて、法廷の秩序を乱すことがないとしても、証人や被告人に微妙な心理的影響を与え、真実を述べることを躊躇させるおそれなしとしないのである。そうして、そのような影響の有無は、多くの場合、事前に予測することは困難ないし不可能に近く、しかも、そのために法廷に真実が現れなかつた場合には、当該事件の裁判にも取り返しのつかない影響を及ぼすこととなつてしまうことは多言を要しない。また、影響は、必ずしも証人や被告人に対してばかりではない。傍聴人がメモを取つている法廷においては、厳粛であるべきその雰囲気が乱されるなどし、ために、心を集中すべき真実の探求に支障を生ずるおそれがないわけではないことにも、思いを致すべきであろう。
次に、法廷の情況を記述した文書が、傍聴人が法廷において取つたメモに基づいて作成したものとして、頒布された場合には、それが不正確なものであつたとしても、世人に対しあたかもその内容が真実であるかのような印象を与え、疑惑を招きかねないし、このような事態を事前に防止することは不可能というべきであり、しかも一旦世人に与えられた印象は、容易に払拭することができないのである。右のような弊害を招かないためには、法廷の情況に関する報道は、原則として司法記者クラブ所属の報道機関によつてなされることとするのが相当であり、右クラブ所属の報道機関の記者に対してのみ、メモを取ることを許容することも、憲法一四条一項の規定に違反するものでないことは、多数意見の説示するとおりである。
更に、前示のように、法廷におけるメモを傍聴人の自由に任せ、メモを取ることにより証人、被告人に心理的影響を与えるおそれがあるか、又は法廷を審理、裁判にふさわしい場として保持できないおそれがある場合においてのみ、裁判長が法廷警察権に基づきこれを禁止する措置を講ずることとした場合には、私の経験によれば、例外的に禁止の措置を執つた法廷において、その措置をめぐつて紛糾し、円滑な訴訟の運営が妨げられるに至る危惧が十分にあり、これを防止するためには、各法廷においてあらかじめ一般的に傍聴人がメモを取ることを禁止し、申出をまつて裁判長の裁量により個別的にその許否を決することとするのが相当であるということになるのである。
したがつて、これまでも、少なからざる裁判長が、傍聴人のメモにつきいわゆる許可制を採用し、傍聴人がメモを取ることを一般的に禁止した上、それを希望する傍聴人から申出があるときは、その傍聴の目的、証人、被告人の年齢、性格、当該事件の内容、当該公判期日に予定されている手続等を考慮して、メモを取ることによる弊害のおそれの有無を判断し、そのおそれがないと認められる場合に限り、これを許容するという措置を執つてきているが、私は、現時点における法廷の実状からすれば、このような措置を執つていくことが一つの妥当な方策ではないかと考える。この許否を決するに当たつては、当該傍聴人のメモを取ろうとする目的など、その個別的事情についても十分に配慮すべきであることはいうまでもない。
三 裁判、特に刑事裁判は、厳粛な雰囲気に包まれた法廷において行われてこそ、その使命を十分に果たすことができ、ひいては裁判に対する世人の信頼をも確保することができるのである。裁判長は、傍聴人等の行為が法廷の秩序や静穏を害したり、公正かつ円滑な訴訟の運営に支障をきたすものであると認めるときは、厳正かつ果断に法廷警察権を行使すべき職務と責任を有していることは、多数意見も説示するとおりである。私は、今日に至るまで、いわゆる荒れる法廷を担当した各裁判長をはじめとし、多くの裁判長が、この法廷警察権の適切な行使によつて、法廷の秩序とその厳粛な雰囲気を維持し、公正かつ円滑な訴訟の運営に対する支障を排除してきているものと考えるし、今後もまたそれを期待するものである。

2.泉佐野市民会館事件判決、広島県教から考える

+判例(H7.3.7)泉佐野
理由
上告代理人大野康平、同北本修二、同大石一二、同佐々木哲蔵、同仲田隆明、同浦功、同大野町子、同後藤貞人、同石川寛俊、同三上陸、同竹岡富美男、同横井貞夫、同中道武美、同梶谷哲夫、同黒田建一、同信岡登紫子、同永嶋靖久、同泉裕二郎、同森博行、同池田直樹、同福森亮二、同小田幸児の上告理由について
一 原審の適法に確定した事実関係等の概要は、次のとおりである。
1 上告人らは、昭和五九年六月三日に市立泉佐野市民会館(以下「本件会館」という。)ホールで「関西新空港反対全国総決起集会」(以下「本件集会」という。)を開催することを企画し、同年四月二日、上告人Aが、泉佐野市長に対し、市立泉佐野市民会館条例(昭和三八年泉佐野市条例第二七号。以下「本件条例」という。)六条に基づき、使用団体名を「全関西実行委員会」として、右ホールの使用許可の申請をした(以下「本件申請」という。)。
2 本件会館は、被上告人が泉佐野市民の文化、教養の向上を図り、併せて集会等の用に供する目的で設置したものであり、南海電鉄泉佐野駅前ターミナルの一角にあって、付近は、道路を隔てて約二五〇店舗の商店街があり、市内最大の繁華街を形成している。本件会館ホールの定員は、八一六名(補助席を含めて一〇二八名)である。

3 本件申請の許否の専決権者である泉佐野市総務部長は、左記の理由により、本件集会のための本件会館の使用が、本件会館の使用を許可してはならない事由を定める本件条例七条のうち一号の「公の秩序をみだすおそれがある場合」及び三号の「その他会館の管理上支障があると認められる場合」に該当すると判断し、昭和五九年四月二三日、泉佐野市長の名で、本件申請を不許可とする処分(以下「本件不許可処分」という。)をした。
(一) 本件集会は、全開西実行委員会の名義で行うものとされているが、その実体はいわゆる中核派(全学連反戦青年委員会)が主催するものであり、中核派は、本件申請の直後である四月四日に後記の連続爆破事件を起こすなどした過激な活動組織であり、泉佐野商業連合会等の各種団体からいわゆる極左暴力集団に対しては本件会館を使用させないようにされたい旨の嘆願書や要望書も提出されていた。このような組織に本件会館を使用させることは、本件集会及びその前後のデモ行進などを通じて不測の事態を生ずることが憂慮され、かつ、その結果、本件会館周辺の住民の平穏な生活が脅かされるおそれがあって、公共の福祉に反する
(二) 本件申請は、集会参加予定人員を三〇〇名としているが、本件集会は全国規模の集会であって右予定人員の信用性は疑わしく、本件会館ホールの定員との関係で問題がある。
(三) 本件申請をした上告人Aは、後記のとおり昭和五六年に関西新空港の説明会で混乱を引き起こしており、また、中核派は、従来から他の団体と対立抗争中で、昭和五八年には他の団体の主催する集会に乱入する事件を起こしているという状況からみて、本件集会にも対立団体が介入するなどして、本件会館のみならずその付近一帯が大混乱に陥るおそれがある。

4 本件集会に関連して、上告人らないし中核派については、次のような事実があった。
(一)(1) 本件集会の名義人である「全関西実行委員会」を構成する六団体は、関西新空港の建設に反対し、昭和五七年、五八年にも全国的規模の反対集会を大阪市内の扇町公園で平穏に開催するなどしてきた。
(2) 右六団体の一つで上告人Aが運営委員である「泉佐野・新空港に反対する会」は、本件会館小会譲室で過去に何度も講演等を開催してきた。
(3) 上告人Bが代表者である「全関西実行委員会」は、反対集会を昭和五二年ころから大阪市内の中之島中央公会堂等で平穏に開催してきた。
(二)(1) ところが、昭和五九年に至り、関西新空港につきいよいよ新会社が発足し、同年中にも工事に着手するような情勢になってくると、「全関西実行委員会」と密接な関係があり、本件集会について重要な地位を占める中核派は、関西新空港の建設を実力で阻止する闘争方針を打ち出し、デモ行進、集会等の合法的活動をするにとどまらず、例えば、「1」 昭和五九年三月一日、東京の新東京国際空港公団本部ビルに対し、付近の高速道路から火炎放射器様のもので火を噴き付け、「2」 同年四月四日、大阪市内の大阪科学技術センター(関西新空港対策室が所在)及び大阪府庁(企業局空港対策部が所在)に対し、時限発火装置による連続爆破や放火をして九人の負傷者を出すといった違法な実力行使について、自ら犯行声明を出すに至った。中核派は、特に右「2」の事件について、その機関紙『前進』において、「この戦闘は一五年余のたたかいをひきつぐ関西新空港粉砕闘争の本格的第一弾である。同時に三・一公団本社火炎攻撃、三・二五三里塚闘争の大高揚をひきつぎ、五・二〇―今秋二期決戦を切り開く巨弾である。」とした上、「四・四戦闘につづき五・二〇へ、そして、六・三関西新空港粉砕全国総決起へ進撃しよう。」と記載し、さらに、「肉迫攻撃を敵中枢に敢行したわが革命軍は、必要ならば百回でも二百回でもゲリラ攻撃を敢行し、新空港建設計画をズタズタにするであろう。」との決意を表明して、本件集会がこれらの事件の延長線上にある旨を強調している。
(2) 中核派は、本件不許可処分の日の前日である昭和五九年四月二二日、関西新空港反対闘争の一環として、泉佐野市臨海緑地から泉佐野駅前へのデモ行進を行ったが、「四・四ゲリラ闘争万才! 関西新空港実力阻止闘争 中核派」などと記載し、更に本件集会について「六・三大阪現地全国闘争へ! 」と記載した横断幕を掲げるなどして、本件集会が右一連の闘争の大きな山場であることを明示し、参加者のほぼ全員がヘルメットにマスクという姿であり、その前後を警察官が警備するという状況であったため、これに不安を感じてシャッターを閉じる商店もあった。
(3) 上告人Aは、中核派と活動を共にする活動家であり、昭和五六年八月に岸和田市市民会館で関西新空港の説明会が開催された際、壇上を占拠するなどして混乱を引き起こし、威力業務妨害罪により罰金刑に処せられたことがあった。また、右(2)のデモ行進の許可申請者兼責任者であり、自身もデモに参加してビラの配布活動等も行った。
(三) 中核派は、従来からいわゆる革マル派と内ゲバ殺人事件を起こすなど左翼運動の主導権をめぐって他のグループと対立抗争を続けてきたが、本件不許可処分のされた当時、次のように、他のグループとの対立抗争の緊張を高めていた。
(1) 昭和五八年七月一日、大阪市内の中之島中央公会堂でいわゆる第四インターの主催する三里塚闘争関西集会が開催された際、中核派が会場に乱入し、多数の負傷者や逮捕者を出した。
(2) 中核派は、同月一八日付けの機関紙『前進』において、「すべての第四インター分子は断罪と報復の対象である。絶対に等価以上の報復をたたきつけてやらなくてはならない。」と記述し、さらに、昭和五九年四月二日付けの同紙において、一〇年前に法政大学で中核派の同志が虐殺された事件の犯人が革マル派の者であることを報じて「革命的武装闘争」の中で「反革命カクマルをせん滅・一掃せよ!」と記述し、同月二三日付けの同紙において、「四・四戦闘の勝利は同時に、四―六月の三里塚二期、関西新空港闘争の大爆発の巨大な条件となっている。」とした上、「間断なき戦闘と戦略的エスカレーションの原則にのっとり革命的武装闘争をさらに発展させよ。この全過程を同時に脱落派、第四インター、日向派など、メンシェビキ、解党主義的腐敗分子、反革命との戦いで断固として主導権を堅持して戦い抜かなければならない。」と記述している。
5 上告人らは、本件会館の使用が許可されなかったため、会場を泉佐野市野出町の海浜に変更して本件集会を開催したところ、中核派の機関紙によれば二六〇〇名が結集したと報じられ、少なくとも約一〇〇〇名の参加があった。

二 原審は、右一の事実関係に基づき、次のように説示して、本件不許可処分が適法であるとした。(1) 中核派は、単に本件集会の一参加団体ないし支援団体というにとどまらず、本件集会の主体を成すか、そうでないとしても、本件集会の動向を左右し得る有力な団体として重要な地位を占めるものであった。(2) 本件集会が開催された場合、中核派と対立する団体がこれに介入するなどして、本件会館の内外に混乱が生ずることも多分に考えられる状況であった。(3) このような状況の下において、泉佐野市総務部長が、本件集会が開催されたならば、少なからぬ混乱が生じ、その結果、一般市民の生命、身体、財産に対する安全を侵害するおそれがある、すなわち公共の安全に対する明白かつ現在の危険があると判断し、本件条例七条一号の「公の秩序をみだすおそれがある場合」に当たるとしたことに責めるべき点はない。(4) また、本件集会の参加人員は、本件会館の定員をはるかに超える可能性が高かったから、本件条例七条三号の「その他会館の管理上支障があると認められる場合」にも当たる。

三 所論は、本件条例七条一号及び三号は、憲法二一条一項に違反し、無効であり、また、本件不許可処分は、同項の保障する集会の自由を侵害し、同条二項前段の禁止する検閲に当たり、地方自治法二四四条に違反すると主張するので、以下この点について判断する。
1 被上告人の設置した本件会館は、地方自治法二四四条にいう公の施設に当たるから、被上告人は、正当な理由がない限り、住民がこれを利用することを拒んではならず(同条二項)、また、住民の利用について不当な差別的取扱いをしてはならない(同条三項)。本件条例は、同法二四四条の二第一項に基づき、公の施設である本件会館の設置及び管理について定めるものであり、本件条例七条の各号は、その利用を拒否するために必要とされる右の正当な理由を具体化したものであると解される。
そして、地方自治法二四四条にいう普通地方公共団体の公の施設として、本件会館のように集会の用に供する施設が設けられている場合、住民は、その施設の設置目的に反しない限りその利用を原則的に認められることになるので、管理者が正当な理由なくその利用を拒否するときは、憲法の保障する集会の自由の不当な制限につながるおそれが生ずることになる。したがって、本件条例七条一号及び三号を解釈適用するに当たっては、本件会館の使用を拒否することによって憲法の保障する集会の自由を実質的に否定することにならないかどうかを検討すべきである。

2 このような観点からすると、集会の用に供される公共施設の管理者は、当該公共施設の種類に応じ、また、その規模、構造、設備等を勘案し、公共施設としての使命を十分達成せしめるよう適正にその管理権を行使すべきであって、これらの点からみて利用を不相当とする事由が認められないにもかかわらずその利用を拒否し得るのは、利用の希望が競合する場合のほかは、施設をその集会のために利用させることによって、他の基本的人権が侵害され、公共の福祉が損なわれる危険がある場合に限られるものというべきであり、このような場合には、その危険を回避し、防止するために、その施設における集会の開催が必要かつ合理的な範囲で制限を受けることがあるといわなければならない。そして、右の制限が必要かつ合理的なものとして肯認されるかどうかは、基本的には、基本的人権としての集会の自由の重要性と、当該集会が開かれることによって侵害されることのある他の基本的人権の内容や侵害の発生の危険性の程度等を較量して決せられるべきものである。本件条例七条による本件会館の使用の規制は、このような較量によって必要かつ合理的なものとして肯認される限りは、集会の自由を不当に侵害するものではなく、また、検閲に当たるものではなく、したがって、憲法二一条に違反するものではない
以上のように解すべきことは、当裁判所大法廷判決(最高裁昭和二七年(オ)一一五〇号同二八年一二月二三日判決・民集七巻一三号一五六一頁、最高裁昭和五七年(行ツ)第一五六号同五九年一二月一二日判決・民集三八巻一二号一三〇八頁、最高裁昭和五六年(オ)第六〇九号同六一年六月一一日判決・民集四〇巻四号八七二頁、最高裁昭和六一年(行ツ)第一一号平成四年七月一日判決・民業四六巻五号四三七頁)の趣旨に徴して明らかである。
そして、このような較量をするに当たっては、集会の自由の制約は、基本的人権のうち精神的自由を制約するものであるから、経済的自由の制約における以上に厳格な基準の下にされなければならない(最高裁昭和四三年(行ツ)第一二〇号同五〇年四月三〇日大法廷判決・民集二九巻四号五七二頁参照)。

3 本件条例七条一号は、「公の秩序をみだすおそれがある場合」を本件会館の使用を許可してはならない事由として規定しているが、同号は、広義の表現を採っているとはいえ、右のような趣旨からして、本件会館における集会の自由を保障することの重要性よりも、本件会館で集会が開かれることによって、人の生命、身体又は財産が侵害され、公共の安全が損なわれる危険を回避し、防止することの必要性が優越する場合をいうものと限定して解すべきであり、その危険性の程度としては、前記各大法廷判決の趣旨によれば、単に危険な事態を生ずる蓋然性があるというだけでは足りず、明らかな差し迫った危険の発生が具体的に予見されることが必要であると解するのが相当である(最高裁昭和二六年(あ)第三一八八号同二九年一一月二四日大法廷判決・刑集八巻一一号一八六六頁参照)。そう解する限り、このような規制は、他の基本的人権に対する侵害を回避し、防止するために必要かつ合理的なものとして、憲法二一条に違反するものではなく、また、地方自治法二四四条に違反するものでもないというべきである。
そして、右事由の存在を肯認することができるのは、そのような事態の発生が許可権者の主観により予測されるだけではなく、客観的な事実に照らして具体的に明らかに予測される場合でなければならないことはいうまでもない。
なお、右の理由で本件条例七条一号に該当する事由があるとされる場合には、当然に同条三号の「その他会館の管理上支障があると認められる場合」にも該当するものと解するのが相当である。

四 以上を前提として、本件不許可処分の適否を検討する。
1 前記一の4の事実によれば、本件不許可処分のあった昭和五九年四月二三日の時点においては、本件集会の実質上の主催者と目される中核派は、関西新空港建設工事の着手を控えて、これを激しい実力行使によって阻止する闘争方針を採っており、現に同年三月、四月には、東京、大阪において、空港関係機関に対して爆破事件を起こして負傷者を出すなどし、六月三日に予定される本件集会をこれらの事件に引き続く関西新空港建設反対運動の山場としていたものであって、さらに、対立する他のグループとの対立緊張も一層増大していた。このような状況の下においては、それ以前において前記一の4(一)のように上告人らによる関西新空港建設反対のための集会が平穏に行われたこともあったことを考慮しても、右時点において本件集会が本件会館で開かれたならば、対立する他のグループがこれを阻止し、妨害するために本件会館に押しかけ、本件集会の主催者側も自らこれに積極的に対抗することにより、本件会館内又はその付近の路上等においてグループ間で暴力の行使を伴う衝突が起こるなどの事態が生じ、その結果、グループの構成員だけでなく、本件会館の職員、通行人、付近住民等の生命、身体又は財産が侵害されるという事態を生ずることが、客観的事実によって具体的に明らかに予見されたということができる。

2 もとより、普通地方公共団体が公の施設の使用の許否を決するに当たり、集会の目的や集会を主催する団体の性格そのものを理由として、使用を許可せず、あるいは不当に差別的に取り扱うことは許されないしかしながら、本件において被上告人が上告人らに本件会館の使用を許可しなかったのが、上告人らの唱道する関西新空港建設反対という集会目的のためであると認める余地のないことは、前記一の4(一)(2)のとおり、被上告人が、過去に何度も、上告人Aが運営委員である「泉佐野・新空港に反対する会」に対し、講演等のために本件会館小会議室を使用することを許可してきたことからも明らかである。また、本件集会が開かれることによって前示のような暴力の行使を伴う衝突が起こるなどの事態が生ずる明らかな差し迫った危険が予見される以上、本件会館の管理責任を負う被上告人がそのような事態を回避し、防止するための措置を探ることはやむを得ないところであって、本件不許可処分が本件会館の利用について上告人らを不当に差別的に取り扱ったものであるということはできない。それは、上告人らの言論の内容や団体の性格そのものによる差別ではなく、本件集会の実質上の主催者と目される中核派が当時激しい実力行使を繰り返し、対立する他のグループと抗争していたことから、その山場であるとされる本件集会には右の危険が伴うと認められることによる必要かつ合理的な制限であるということができる

3 また、主催者が集会を平穏に行おうとしているのに、その集会の目的や主催者の思想、信条に反対する他のグループ等がこれを実力で阻止し、妨害しようとして紛争を起こすおそれがあることを理由に公の施設の利用を拒むことは、憲法二一条の趣旨に反するところである。しかしながら、本件集会の実質上の主催者と目される中核派は、関西新空港建設反対運動の主導権をめぐって他のグループと過激な対立抗争を続けており、他のグループの集会を攻撃して妨害し、更には人身に危害を加える事件も引き起こしていたのであって、これに対し他のグループから報復、襲撃を受ける危険があったことは前示のとおりであり、これを被上告人が警察に依頼するなどしてあるかじめ防止することは不可能に近かったといわなければならず、平穏な集会を行おうとしている者に対して一方的に実力による妨害がされる場合と同一に論ずることはできないのである。

4 このように、本件不許可処分は、本件集会の目的やその実質上の主催者と目される中核派という団体の性格そのものを理由とするものではなく、また、被上告人の主観的な判断による蓋然的な危険発生のおそれを理由とするものでもなく、中核派が、本件不許可処分のあった当時、関西新空港の建設に反対して違法な実力行使を繰り返し、対立する他のグループと暴力による抗争を続けてきたという客観的事実からみて、本件集会が本件会館で開かれたならば、本件会館内又はその付近の路上等においてグループ間で暴力の行使を伴う衝突が起こるなどの事態が生じ、その結果、グループの構成員だけでなく、本件会館の職員、通行人、付近住民等の生命、身体又は財産が侵害されるという事態を生ずることが、具体的に明らかに予見されることを理由とするものと認められる。
したがって、本件不許可処分が憲法二一条、地方自治法二四四条に違反するということはできない。
五 以上のとおりであるから、原審の判断は正当として是認することができ、その余の点を含め論旨はいずれも採用することができない。
よって、民訴法四〇一条、九五条、八九条、九三条に従い、裁判官園部逸夫の補足意見があるほか、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

+補足意見
裁判官園部逸夫の補足意見は、次のとおりである。
一 一般に、公の施設は、本来住民の福祉を増進する目的をもってその利用に供するための施設(地方自治法二四四条一項)であるから、住民による利用は原則として自由に行われるべきものであり、「正当な理由」がない限り利用を拒むことはできない(同条二項)。右の規定は、いずれも、住民の利用に関するものであるが、公の施設は、多くの場合、当該地方公共団体の住民に限らず広く一般の利用にも開放されているという実情があり、右の規定の趣旨は、一般の利用者にも適用されるものと解される。他方、公の施設は、地方公共団体の住民の公共用財産であるから、右財産の管理権者である地方公共団体の行政庁は、公の施設の使用について、住民・滞在者の利益(公益)を維持する必要があるか、あるいは、施設の保全上支障があると判断される場合には、公物管理の見地から、施設使用の条件につき十分な調整を図るとともに、最終的には、使用の不承認、承認の取消し、使用の停止を含む施設管理権の適正な行使に努めるべきである。
右の見地に立って本件をみると、会館の管理権者である市長(本件の場合、専決機関としての総務部長)が、本件不許可処分に当たって、「その他会館の管理上支障があると認められる場合」という要件を定めた本件条例七条三号を適用したことについては、法廷意見の挙示する原審の確定した事実関係の下では、総務部長の判断が不適切であったとはいえず、また、本件会館の使用に関する調整を行うことが期待できる状況でなかったことも認められる以上、右判断に裁量権の行使を誤った違法はないというべきである。
二 ところで、公の施設の利用を拒否できる「正当な理由」は、さきに述べた公の施設の一般的な性格から見て、専ら施設管理の観点から定めるべきものであることはいうまでもない。しかし、本件会館のような集会の用に供することを主な目的とする施設の管理規程については、その他の施設と異なり、単なる施設管理権の枠内では処理することができない問題が生ずる。
本件条例は、会館が自ら実施する各種事業のほか、所定の集会に会館を供すること(同五条各号)、会館の使用については、市長の許可を要すること(同六条)、使用を不許可としなければならない要件(同七条各号)を定めている。右の要件の一つとして、七条一号(以下「本件規定」という。)に「公の秩序をみだすおそれがある場合」という要件があるが、これは、いわゆる行政法上の不確定な法概念であるから、平等原則、比例原則等解釈上適用すべき条理があるとはいえ、総務部長に対し、右要件の解釈適用についてかなり広範な行政裁量を認めるものといわなければならない。しかも、右の要件を適用して会館の便用の不許可処分をすることが、会館における集会を事実上禁止することになる場合は、たとい施設管理権の行使に由来するものであっても、実質的には、公の秩序維持を理由とする集会の禁止(いわゆる警察上の命令)と同じ効果をもたらす可能性がある。この種の会館の使用が、集会の自由ひいては表現の自由の保障に密接にかかわる可能性のある状況の下において、右要件により、広範な要件裁量の余地が認められ、かつ、本件条例のように右要件に当たると判断した場合は不許可処分をすることが義務付けられている場合は、条例の運用が、右の諸自由に対する公権力による恣意的な規制に至るおそれがないとはいえない。したがって、右要件の設定あるいは右要件の解釈については、憲法の定める集会の自由ひいては表現の自由の保障にかんがみ、特に周到な配慮が必要とされるのである。
本件条例は、公物管理条例であって、会館に関する公物管理権の行使について定めるのを本来の目的とするものであるから、公の施設の管理に関連するものであっても、地方公共の秩序の維持及び住民・滞在者の安全の保持のための規制に及ぶ場合は(地方自治法二条三項一号)、公物警察権行使のための組織・権限及び手続に関する法令(条例を含む。)に基づく適正な規制によるべきである。右の観点からすれば、本件条例七条一号は、「正当な理由」による公の施設利用拒否を規定する地方自治法二四四条二項の委任の範囲を超える疑いがないとはいえない(注)。
(注)現に、自治省は、公の施設及び管理に関するモデル条例の中に置くことのできる規定として、「公益の維持管理上の必要及び施設保全に支障があると認められるときは、使用を承認しないことができる。」という例を示しており、本件規定のような明らかに警察許可に類する規制は認めていない。
三 私の見解は、以上のようなものであるところ、法廷意見の三は、本件規定について、極めて限定的な解釈を施している。私は右のような限定解釈により、本件規定を適用する局面が今後厳重に制限されることになるものと理解した上で、法廷意見の判断に与するものである。

++解説
《解  説》
一 本件は、集会を開催する目的で市民会館の使用許可の申請をしたXらが、市長から「公の秩序をみだすおそれがある場合」という条例所定の不許可事由があるとして不許可処分を受け、右条例の違憲、違法、不許可処分の違憲、違法を主張して、Y市に対し、国家賠償法による損害賠償を請求した事件である。本件の中心的争点は、憲法二一条一項が集会の自由を保障していることに照らして、公の施設における集会の開催を制限することが許されるか、許されるとすればどのような要件の下に許されるのかという点である。本判決は、これまでの大法廷判決の憲法判断の趣旨に徴しながら、右の不許可事由について集会の自由を保障する見地から限定して解すべきであるとした上、右事由に当たるとしてされた不許可処分を適法としたものである。アメリカの判例におけるパブリック・フォーラムの法理(紙谷雅子「パブリック・フォーラム」公法研究五〇号一〇三頁、同「表現の自由(三・完)」國家學会雑誌一〇二巻五・六号二四三頁等を参照)をも想起させる注目すべき憲法判例であるということができよう。

二 本件の事実関係は、本判決が詳細に摘示しているとおりであるが、概要次のとおりである。①Xらは、昭和五九年六月三日にY市の市立泉佐野市民会館で「関西新空港反対全国総決起集会」を開催することを企画し、市長に対し、市立泉佐野市民会館条例に基づき、使用団体名を「全関西実行委員会」として、使用許可の申請をした。②本件会館は、Y市が集会等の用に供する目的で設置したものであり、市内最大の繁華街の一角にある。本件条例七条は、本件会館の使用を許可してはならない事由として三つの場合を掲げており、そのうち一号は「公の秩序をみだすおそれがある場合」、三号は「その他会館の管理上支障があると認められる場合」である。③市長(総務部長の専決処分)は、本件集会の実体はいわゆる中核派が主催するものであり、本件申請の直後に連続爆破事件を起こすなどした過激な活動組織である中核派に本件会館を使用させると、不測の事態を生ずることが憂慮され、その結果、周辺住民の平穏な生活が脅かされるおそれがあること、中核派が他の団体と対立抗争中で、本件集会にも対立団体が介入するなどして、付近一帯が大混乱に陥るおそれがあることなどの理由により、同年四月二三日、本件申請を不許可とする処分をした。④Xらが関西新空港反対の集会を平穏に開催したこともあるが、昭和五九年になってからは、中核派は、関西新空港の建設を実力で阻止する闘争方針を打ち出し、連続爆破や放火といった違法な実力行使について自ら犯行声明を出し、機関紙において、本件集会がこれらの事件の延長線上にある旨を強調した。また、中核派は、本件不許可処分の前日に、右闘争の一環として泉佐野市内でデモ行進を行ったが、横断幕等に本件集会が右一連の闘争の大きな山場であることを明示し、参加者のほぼ全員がヘルメットにマスクという姿で、その前後を警察官が警備するという状況であったため、これに不安を感じてシャッターを閉じる商店もあった。⑤中核派は、従来からいわゆる革マル派等の他のグループと対立抗争を続けてきたが、本件不許可処分のされた当時、いわゆる第四インターの主催する集会の会場に乱入して多数の負傷者や逮捕者を出し、機関紙において、革マル派、第四インター等に対する報復を呼びかけていた。
右の事実関係に基づき、第一審及び原審は、いずれも本件不許可処分が適法であるとして、請求を棄却し、これに対する控訴を棄却した。

三 本件会館は、地方自治法二四四条にいう公の施設に当たるから、その設置者であるY市は、正当な理由がない限り、住民がこれを利用することを拒んではならず(同条二項)、また、住民の利用について不当な差別的取扱いをしてはならない(同条三項)。本件条例(同法二四四条の二に基づく公の施設の設置及び管理に関する条例である)七条の各号は、利用を拒否するために必要とされる右の正当な理由を具体化したものであると解される。
ある施設における集会の開催をその施設の所有者等が容認する義務を負うわけではないが(佐藤幸治・憲法〔新版〕四七七頁)、右の公の施設については、住民は、その設置目的に反しない限りその利用を原則的に認められることになるので、集会の用に供するための公の施設を設置した地方公共団体が正当な理由なくその利用を拒否するときは、憲法二一条一項の保障する集会の自由の不当な制限につながるおそれを生ずることになる(伊藤正己・憲法〔新版〕二九二頁は、集会の自由には「公共施設の利用を要求できる権利」が含まれるとするが、阪本昌成「精神活動の自由」佐藤幸治編著・憲法Ⅱ二四三頁は、これに反対する。)。そして、管理条例の定める不許可事由を文字どおりに解したのでは、集会の自由を実質的に否定することになるときは、これを限定的に解する必要が生ずることもあろう。本判決は、所論に対する判断の冒頭において、このような問題意識の下に本件条例七条の解釈をすべきことを明らかにしている。

四 集会の用に供される公共施設の管理者は、当該公共施設の種類に応じ、また、その規模、構造、設備等を勘案し、公共施設としての使命を十分達成せしめるよう適正にその管理権を行使すべきである(本判決の引用する皇居外苑メーデー使用不許可事件の最大判昭28・12・23民集七巻一三号一五六一頁が公共福祉用財産について説示するところである)。これらの点からみて利用が不相当である場合、例えば定員超過、目的外使用等について利用を拒否し得ることは当然であろうし、利用の希望が競合する場合にこれを調整する必要があることももちろんであるが、それ以外に利用を拒否し得るのは、憲法が集会の自由を保障する趣旨にかんがみれば、施設をその集会のために利用させることによって、他の基本的人権が侵害され、公共の福祉が損なわれる危険がある場合(例えば人の生命が侵害される危険がある場合)に限られるものというべきであろう。
このように表現の自由と他の基本的人権とが衝突する場合に、どのような基準によって表現の自由の制限の可否を判断すべきかという問題については、様々な見解が唱えられているが、昭和五〇年代以降の最高裁大法廷判決においては、いわゆる利益較量論が中心的な判断基準になっている。本判決の引用する最大判昭59・12・12民集三八巻一二号一三〇八頁、本誌五四五号六五頁(税関検査事件)は、直接には利益較量的な表現を用いてはいないものの、利益較量の考え方に基づくものであることがうかがわれ、さらに、表現の自由に対する規制はより制限的でない他の選び得る手段が利用できないときに限って許されるとするいわゆる「LRAの原則」をも意識しているものと思われる。次に本判決の引用する最大判昭61・6・11民集四〇巻四号八七二頁、本誌六〇五号四二頁(北方ジャーナル事件)は、表現の自由と人格権としての名誉権が衝突する場合について、利益較量論を判断基準としたものであることが明らかであり、同じく最大判平4・7・1民集四六巻五号四三七頁(成田空港団結小屋使用禁止命令事件)は、集会の自由と航空の安全の確保の関係について利益較量論を判断基準として採用すべきことを明示している。また、本判決は引用していないが、最大判昭58・6・22民集三七巻五号七九三頁(よど号乗っ取り新聞記事抹消事件)も、利益較量論を判断基準の基本としている。
利益較量論によれば、集会の自由の制限が必要かつ合理的なものとして肯認されるかどうかは、基本的には、基本的人権としての集会の自由の重要性と、当該集会が開かれることによって侵害されることのある他の基本的人権の内容や侵害の発生の危険性の程度等を較量して決せられるべきことになろう。本判決は、右の引用する三件の大法廷判決の趣旨に徴して、まずこの判断基準を明らかにし、このような較量によって必要かつ合理的なものとして肯認される限りは、集会の自由を不当に侵害するものではなく、検閲に当たるものでもないとした。

五 もっとも、利益較量論に対しては、判断基準として核となるべきものを欠くという批判が加えられている(芦部信喜編・憲法Ⅱ(有斐閣大学双書)四九六頁〔佐藤幸治執筆〕等)。確かに、例えば集会の自由と人の生命を比較較量するといっても、その集会が開かれることによってほとんど確実に人命が失われるという場合とその可能性がないではないという場合とでは同日の談ではないはずである。したがって、当然、前記のように、比較されるべき他の基本的人権に対する侵害発生の危険性の程度(蓋然性)が問題になるのであるが、その蓋然性がどの程度であれば表現の自由の制限が肯認されるかについては、利益較量論のみによって一義的に結論が導かれるものではなく、次の段階の判断基準が必要となろう。その際に留意すべきことは、本判決が最大判昭50・4・30民集二九巻四号五七二頁(薬事法違憲判決)を引用して述べるように、基本的人権の中でも集会の自由のような精神的自由の制約は、経済的自由の制約における以上に厳格な基準の下にされなければならないということであり、基本的人権としての集会の自由の重要性を考えれば、これを制限することが必要かつ合理的なものとして肯認されるのは、右の危険性が高度である場合に限られるものというべきであろう。
このような判断基準として古くから用いられているものに「明白かつ現在の危険の原則」がある。本判決の引用する最大判昭29・11・24刑集八巻一一号一八六六頁(新潟県公安条例事件)は、行列行進又は公衆の集団示威運動について「公共の安全に対し明らかな差迫った危険を及ぼすことが予見されるときは」、公安条例に「これを許可せず又は禁止することができる旨の規定を設けることも、これをもって直ちに憲法の保障する国民の自由を不当に制限することにはならないと解すべきである。」と説示して、「明白かつ現在の危険の原則」を示唆し、その後多くの下級審判決がこの原則を採用した。本件の原判決も、「基本的人権たる集会、表現の自由を制限できるのは、右公共の安全に対する明白かつ現在の危険が存在する場合に限ると解するのが相当である」とした上、本件集会について市長がその危険があると判断したことに責めるべき点はないとしていた。
本判決は、憲法が集会の自由を保障する趣旨にかんがみ、前記各大法廷判決の趣旨によれば、利益較量論の次の段階の判断基準としては、「明白かつ現在の危険の原則」を採用することが相当であるとしたものであり、次のように説示する。「本件条例七条一号は、……本件会館における集会の自由を保障することの重要性よりも、本件会館で集会が開かれることによって、人の生命、身体又は財産が侵害され、公共の安全が損なわれる危険を回避し、防止することの必要性が優越する場合をいうものと限定して解すべきであり、その危険性の程度としては、……単に危険な事態を生ずる蓋然性があるというだけでは足りず、明らかな差し迫った危険の発生が具体的に予見されることが必要であると解するのが相当である……。そう解する限り、このような規制は、……憲法二一条に違反するものではなく、また、地方自治法二四四条に違反するものでもない」。このうち「明らかな差し迫った危険」という表現は、前記最大判昭29・11・24の説示に依拠するものであろう。
以上のように、本判決は、本件条例七条による集会の自由の制限の合憲性について、利益較量論、次いで「明らかな差し迫った危険」の基準という二段階の判断基準を採用し、かつ、本件条例七条一号が広義の表現を採っていても、これが合憲となるように限定して解釈することが十分に可能であるところから、上告理由の主張する「過度の広汎性の理論」や「文面上無効の法理」を採らず、合憲限定解釈の手法を採用したものである。

六 本判決は、本件条例七条一号についての以上の解釈に基づき、前記の事実関係によれば、本件集会の実質上の主催者と目される中核派が、関西新空港の建設に反対して違法な実力行使を繰り返し、対立する他のグループと暴力による抗争を続けてきており、本件集会が本件会館で開かれたならば、会館内又はその付近の路上等においてグループ間で暴力の行使を伴う衝突が起こるなどの事態が生じ、その結果、会館の職員、通行人、付近住民等の生命、身体又は財産が侵害される事態を生ずることが客観的事実によって具体的に明らかに予見されたということができるとして、そのことを理由とする本件不許可処分は、憲法二一条、地方自治法二四四条に違反しないとした。本判決が詳細に摘示する本件の事実関係によれば、本件条例七条一号について前記のように厳格な合憲限定解釈をしてもなお、本件不許可処分が合憲、適法であるとする結論は、十分に首肯し得るところであろう。
公の施設の使用の許否を決するに当たり、集会の目的や集会を主催する団体の性格そのものを理由として、使用を許可せず、あるいは不当に差別的に取り扱うことが許されないことはもちろんであるが、本件不許可処分がそのような理由によるものでないことは本件の事実関係から明らかであり、本判決は、その点についても懇切に説示をしている。
また、本判決は、アメリカの判例にいう「敵意ある聴衆」の理論(トマス・I・エマスン=木下毅「合衆国憲法判例の最近の動向〔第6回〕」ジュリ六〇七号一三五頁参照)に類似する問題にも触れ、「主催者が集会を平穏に行おうとしているのに、その集会の目的や主催者の思想、信条に反対する他のグループ等がこれを実力で阻止し、妨害しようとして紛争を起こすおそれがあることを理由に公の施設の利用を拒むことは、憲法二一条の趣旨に反するところである」が、本件はこのような場合に当たらないとしている。後記七で従前の裁判例を紹介するが、そこに現れるこの種の事案を解決するのに、参考となる判示であろう。
なお、本判決には、園部裁判官の補足意見が付されている。本件条例七条三号の「その他会館の管理上支障があると認められる場合」という不許可事由が満たされるので、本件不許可処分に違法はないとした上、同条一号は、「かなり広範な行政裁量を認めるもの」で、「地方自治法二四四条二項の委任の範囲を超える疑いがないとはいえない」が、法廷意見「のような限定解釈により、本件規定を適用する局面が今後厳重に制限されることになるものと理解した上で、法廷意見の判断に与するものである」というものである。

七 集会等の目的による公の施設の使用の許否に関する従前の裁判例として、以下のものがある。[1]長野地判昭48・5・4行裁集二四巻四=五号三四〇頁(暴力団と関係のある歌謡ショーの開催を目的とする市民会館の使用の許可取消処分の取消請求を棄却)、[2]名古屋地判昭50・2・24行裁集二六巻二号二六三頁、本誌三二〇号二三頁(ごみを素材とする作品展示のための県立美術館の利用の許可取消処分の取消請求を棄却)、[3]大阪地判昭50・5・28本誌三二九号二二三頁(日本共産党大阪府委員会が部落解放同盟に対抗する決起集会を開催するための大阪市公会堂の使用の許可取消処分を理由とする国家賠償請求を認容)、[4]広島地判昭50・11・25判時八一七号六〇頁(部落解放同盟の支部結成大会のための公民館の使用の不許可処分を理由とする国家賠償請求を認容)、[5]最一小判昭54・7・5裁判集民一二七号一三三頁、本誌四〇〇号一四八頁([3]の上告審、請求認容の結論を維持)、[6]福岡地小倉支判昭55・2・4判時九七五号七九頁(日本共産党北九州市委員会が部落解放同盟に対抗する集会を開催するための市立体育館の使用の不許可処分を理由とする国家賠償請求を認容)、[7]神戸地尼崎支判昭55・4・25判時九七九号一〇七頁(部落解放同盟に批判的な市民団体による映画・講演会、総会等のための市民会館の使用の不許可処分を理由とする国家賠償請求を認容)、[8]福岡地小倉支判昭56・3・26本誌四四九号二三七頁(同和行政に批判的な日本共産党の市議会議員による市政報告会のための公民館の使用の拒否処分を理由とする国家賠償請求を認容)、[9]鹿児島地判昭58・10・21判地自一号四七頁(県高教組主催のミュージカル「あヽ野麦峠」の公演のための公民館の使用の不許可処分を理由とする国家賠償請求を認容)、[10]大阪地決昭63・9・14本誌六八四号一八七頁(「『日の丸』焼き捨てを支援し、沖縄と本土のたたかいを結ぶ関西知花裁判を支援する会」の集会を開催するための区民センターの使用の許可取消処分の効力停止の申立てを認容)、[11]大阪高決昭63・9・16本誌六九〇号一七五頁、判時一三〇五号七〇頁([10]の抗告審、即時抗告を棄却)、[12]東京地決昭63・10・21判地自五二号三一頁(映画「橋のない川」の上映を阻止するための打合せ会議を目的とする区立文化センターの使用の取消処分の効力停止の申立てを却下)、[13]東京地決昭63・10・21判地自五二号二七頁(映画「橋のない川」の上映会のための区立文化センターの使用の取消処分の効力停止の申立てを却下)、[14]東京高決昭63・10・22本誌六九三号九五頁([13]の抗告審、即時抗告を棄却)、[15]福岡地小倉支判平1・11・30判時一三三三号一三九頁(基地の日米共同訓練に反対する集会を開催するための公民館の使用の許可取消処分を理由とする国家賠償請求を認容)、[16]岡山地決平2・2・19本誌七三〇号七四頁(県教職員組合が全国教育研究集会を開催するための県営武道館の使用の許可取消処分の効力停止の申立てを認容)、[17]京都地決平2・2・20本誌七三七号九七頁、判時一三六九号九四頁、(教職員組合が全国教育研究集会を開催するための府立勤労会館の使用の許可取消処分の効力停止の申立てを認容)、[18]大阪高決平2・2・26判地自七五号三四頁([17]の抗告審、即時抗告を棄却)、[19]水戸地判平2・6・29本誌七五二号一一二頁、判時一三六四号八〇頁、(火力発電所建設問題追及等のための学習会のための市立コミュニティセンターの使用の許可取消処分を理由とする国家賠償請求を認容)、[20]大阪地決平2・7・17本誌七五五号一四三頁(日教組の定期大会を開催するための市民会館の使用の許可取消処分の効力停止の申立てを認容)、[21]東京高決平3・1・21判地自八七号四四頁(日教組の教育研究全国集会を開催するための東京体育館の使用の許可取消処分の効力停止の申立てを認容する決定に対する即時抗告を棄却)、[22]熊本地判平3・4・8本誌七六五号一九一頁(人権尊重を求める市民シンポジウムを開催するための県立劇場の使用の不許可処分の取消請求を認容)、[23]東京地決平3・7・15判時一四〇三号二三頁(日教組の定期大会を開催するための市公会堂の使用の許可取消処分の効力停止の申立てを認容)、[24]東京高決平3・7・20本誌七七〇号一六五頁([23]の抗告審、即時抗告を棄却)、[25]浦和地判平3・10・11本誌七八三号一一三頁、判時一四二六号一一五頁(殺害された労働組合総務部長の合同葬を行うための市立福祉会館の使用の許可取消処分を理由とする国家賠償請求を認容)、[26]静岡地判平4・3・12判地自一〇二号四二頁(天皇制を考える討論会を開催するための県婦人会館の使用の不承認処分を理由とする国家賠償請求を認容)、[27]大阪高判平4・9・16本誌八〇五号一〇二頁、判時一四六七号八六頁(昭和天皇の大葬の礼当日の市立音楽堂の使用申請の不受理を理由とする国家賠償請求を認容)、[28]東京高判平4・12・2本誌八一一号一一〇頁、判時一四四九号九五頁([26]の控訴審、控訴を棄却)、[29]東京高判平5・3・30本誌八二七号六五頁、判時一四五五号九七頁([25]の控訴審、原判決を取り消し、請求を棄却)、[30]熊本地判平5・4・23判時一四七七号一一二頁([22]の関連事件。オウム真理教に対する人権侵害をやめさせることを目的して結成された「人権尊重を求める市民の会」のシンポジウム等を開催するための県立劇場の使用の不許可処分を理由とする国家賠償請求を認容、その後された許可の取消処分を理由とする国家賠償請求を棄却)、[31]東京地判平6・3・30本誌八五九号一六三頁(同性愛者の団体の青年の家の利用申込みの不承認処分を理由とする国家賠償請求を認容)。
これらの裁判例を検討するに当たっては、本判決との事案の相違に留意する必要があることはもちろんである。

++判例(H18.2.7)
理由
上告代理人岡秀明の上告受理申立て理由について
1 本件は、広島県の公立小中学校等に勤務する教職員によって組織された職員団体である被上告人が、その主催する第49次広島県教育研究集会(以下「本件集会」という。)の会場として、呉市立二河中学校(以下「本件中学校」という。)の体育館等の学校施設の使用を申し出たところ、いったんは口頭でこれを了承する返事を本件中学校の校長(以下、単に「校長」という。)から得たのに、その後、呉市教育委員会(以下「市教委」という。)から不当にその使用を拒否されたとして、上告人に対し、国家賠償法に基づく損害賠償を求めた事案である。

2 原審の適法に確定した事実関係等の概要は、以下のとおりである。
(1) 呉市立学校施設使用規則(昭和40年呉市教育委員会規則第4号。以下「本件使用規則」という。)2条は、学校施設を使用しようとする者は、使用日の5日前までに学校施設使用許可申請書を当該校長に提出し、市教委の許可を受けなければならないとしている。本件使用規則は、4条で、学校施設は、市教委が必要やむを得ないと認めるときその他所定の場合に限り、その用途又は目的を妨げない限度において使用を許可することができるとしているが、5条において、施設管理上支障があるとき(1号)、営利を目的とするとき(2号)、その他市教委が、学校教育に支障があると認めるとき(3号)のいずれかに該当するときは、施設の使用を許可しない旨定めている。
(2) 被上告人は、本件集会を、本件中学校において、平成11年11月13日(土)と翌14日(日)の2日間開催することとし、同年9月10日、校長に学校施設の使用許可を口頭で申し込んだところ、校長は、同月16日、職員会議においても使用について特に異議がなかったので、使用は差し支えないとの回答をした。
市教委の教育長は、同月17日、被上告人からの使用申込みの事実を知り、校長を呼び出して、市教委事務局学校教育部長と3人で本件中学校の学校施設の使用の許否について協議をし、従前、同様の教育研究集会の会場として学校施設の使用を認めたところ、右翼団体の街宣車が押し掛けてきて周辺地域が騒然となり、周辺住民から苦情が寄せられたことがあったため、本件集会に本件中学校の学校施設を使用させることは差し控えてもらいたい旨切り出した。しばらくのやりとりの後、校長も使用を認めないとの考えに達し、同日、校長から被上告人に対して使用を認めることができなくなった旨の連絡をした。
被上告人側と市教委側とのやりとりを経た後、被上告人から同月10日付けの使用許可申請書が同年10月27日に提出されたのを受けて、同月31日、市教委において、この使用許可申請に対し、本件使用規則5条1号、3号の規定に該当するため不許可にするとの結論に達し、同年11月1日、市教委から被上告人に対し、同年10月31日付けの学校施設使用不許可決定通知書が交付された(以下、この使用不許可処分を「本件不許可処分」という。)。同通知書には、不許可理由として、本件中学校及びその周辺の学校や地域に混乱を招き、児童生徒に教育上悪影響を与え、学校教育に支障を来すことが予想されるとの記載があった。
(3) 本件集会は、結局、呉市福祉会館ほかの呉市及び東広島市の七つの公共施設を会場として開催された。
(4) 被上告人は、昭和26年から毎年継続して教育研究集会を開催してきており、毎回1000人程度の参加者があった。第16次を除いて、第1次から第48次まで、学校施設を会場として使用してきており、広島県においては本件集会を除いて学校施設の使用が許可されなかったことはなかった。呉市内の学校施設が会場となったことも、過去10回前後あった。
(5) 被上告人の教育研究集会では、全体での基調提案ないし報告及び記念公演のほか、約30程度の数の分科会に分かれての研究討議が行われる。各分科会では、学校教科その他の項目につき、新たな学習題材の報告、授業展開に当たっての具体的な方法論の紹介、各項目における問題点の指摘がされ、これらの報告発表に基づいて討議がされる。このように、教育研究集会は、教育現場において日々生起する教育実践上の問題点について、各教師ないし学校単位の研究や取組みの成果が発表、討議の上、集約され、その結果が教育現場に還元される場ともなっている一方、広島県教育委員会(以下「県教委」という。)等による研修に反対する立場から、職員団体である被上告人の基本方針に基づいて運営され、分科会のテーマ自体にも、教職員の人事や勤務条件、研修制度を取り上げるものがあり、教科をテーマとするものについても、学習指導要領に反対したり、これを批判する内容のものが含まれるなど、被上告人の労働運動という側面も強く有するものであった。
(6) 平成4年に呉市で行われた第42次教育研究集会を始め、過去、被上告人の開催した教育研究集会の会場である学校に、集会当日、右翼団体の街宣車が来て、スピーカーから大音量の音を流すなどの街宣活動を行って集会開催を妨害し、周辺住民から学校関係者等に苦情が寄せられたことがあった。
しかし、本件不許可処分の時点で、本件集会について右翼団体等による具体的な妨害の動きがあったという主張立証はない。
(7) 被上告人の教育研究集会の要綱などの刊行物には、学習指導要領の問題点を指摘しこれを批判する内容の記載や、文部省から県教委等に対する是正指導にもあった卒業式及び入学式における国旗掲揚及び国歌斉唱の指導に反対する内容の記載が多数見受けられ、過去の教育研究集会では、そのような内容の討議がされ、本件集会においても、同様の内容の討議がされることが予想された。もっとも、上記記載の文言は、いずれも抽象的な表現にとどまっていた。
(8) 県教委と被上告人とは、以前から、国旗掲揚、国歌斉唱問題や研修制度の問題等で緊張関係にあり、平成10年7月に新たな教育長が県教委に着任したころから、対立が激化していた。

3 原審は、上記事実関係を前提として、本件不許可処分は裁量権を逸脱した違法な処分であると判断した。所論は、原審の上記判断に、地方自治法244条2項、238条の4第4項、学校教育法85条、教育公務員特例法(平成15年法律第117号による改正前のもの。以下同じ。)19条、20条の解釈の誤り、裁量権濫用の判断の誤り等があると主張するので、以下この点について判断する。 
(1) 地方公共団体の設置する公立学校は、地方自治法244条にいう「公の施設」として設けられるものであるが、これを構成する物的要素としての学校施設は同法238条4項にいう行政財産である。したがって、公立学校施設をその設置目的である学校教育の目的に使用する場合には、同法244条の規律に服することになるが、これを設置目的外に使用するためには、同法238条の4第4項に基づく許可が必要である。教育財産は教育委員会が管理するとされているため(地方教育行政の組織及び運営に関する法律23条2号)、上記の許可は本来教育委員会が行うこととなる。
学校施設の確保に関する政令(昭和24年政令第34号。以下「学校施設令」という。)3条は、法律又は法律に基づく命令の規定に基づいて使用する場合及び管理者又は学校の長の同意を得て使用する場合を例外として、学校施設は、学校が学校教育の目的に使用する場合を除き、使用してはならないとし(1項)、上記の同意を与えるには、他の法令の規定に従わなければならないとしている(2項)。同意を与えるための「他の法令の規定」として、上記の地方自治法238条の4第4項は、その用途又は目的を妨げない限度においてその使用を許可することができると定めており、その趣旨を学校施設の場合に敷えんした学校教育法85条は、学校教育上支障のない限り、学校の施設を社会教育その他公共のために、利用させることができると規定している。本件使用規則も、これらの法令の規定を受けて、市教委において使用許可の方法、基準等を定めたものである。
(2) 地方自治法238条の4第4項、学校教育法85条の上記文言に加えて、学校施設は、一般公衆の共同使用に供することを主たる目的とする道路や公民館等の施設とは異なり、本来学校教育の目的に使用すべきものとして設置され、それ以外の目的に使用することを基本的に制限されている(学校施設令1条、3条)ことからすれば、学校施設の目的外使用を許可するか否かは、原則として、管理者の裁量にゆだねられているものと解するのが相当である。すなわち、学校教育上支障があれば使用を許可することができないことは明らかであるが、そのような支障がないからといって当然に許可しなくてはならないものではなく、行政財産である学校施設の目的及び用途と目的外使用の目的、態様等との関係に配慮した合理的な裁量判断により使用許可をしないこともできるものである。学校教育上の支障とは、物理的支障に限らず、教育的配慮の観点から、児童、生徒に対し精神的悪影響を与え、学校の教育方針にもとることとなる場合も含まれ、現在の具体的な支障だけでなく、将来における教育上の支障が生ずるおそれが明白に認められる場合も含まれる。また、管理者の裁量判断は、許可申請に係る使用の日時、場所、目的及び態様、使用者の範囲、使用の必要性の程度、許可をするに当たっての支障又は許可をした場合の弊害若しくは影響の内容及び程度、代替施設確保の困難性など許可をしないことによる申請者側の不都合又は影響の内容及び程度等の諸般の事情を総合考慮してされるものであり、その裁量権の行使が逸脱濫用に当たるか否かの司法審査においては、その判断が裁量権の行使としてされたことを前提とした上で、その判断要素の選択や判断過程に合理性を欠くところがないかを検討し、その判断が、重要な事実の基礎を欠くか、又は社会通念に照らし著しく妥当性を欠くものと認められる場合に限って、裁量権の逸脱又は濫用として違法となるとすべきものと解するのが相当である。

(3) 教職員の職員団体は、教職員を構成員とするとはいえ、その勤務条件の維持改善を図ることを目的とするものであって、学校における教育活動を直接目的とするものではないから、職員団体にとって使用の必要性が大きいからといって、管理者において職員団体の活動のためにする学校施設の使用を受忍し、許容しなければならない義務を負うものではないし、使用を許さないことが学校施設につき管理者が有する裁量権の逸脱又は濫用であると認められるような場合を除いては、その使用不許可が違法となるものでもない。また、従前、同一目的での使用許可申請を物理的支障のない限り許可してきたという運用があったとしても、そのことから直ちに、従前と異なる取扱いをすることが裁量権の濫用となるものではない。もっとも、従前の許可の運用は、使用目的の相当性やこれと異なる取扱いの動機の不当性を推認させることがあったり、比例原則ないし平等原則の観点から、裁量権濫用に当たるか否かの判断において考慮すべき要素となったりすることは否定できない

(4) 以上の見地に立って本件を検討するに、原審の適法に確定した前記事実関係等の下において、以下の点を指摘することができる。
ア 教育研究集会は、被上告人の労働運動としての側面も強く有するものの、その教育研究活動の一環として、教育現場において日々生起する教育実践上の問題点について、各教師ないし学校単位の研究や取組みの成果が発表、討議の上、集約される一方で、その結果が、教育現場に還元される場ともなっているというのであって、教員らによる自主的研修としての側面をも有しているところ、その側面に関する限りは、自主的で自律的な研修を奨励する教育公務員特例法19条、20条の趣旨にかなうものというべきである。被上告人が本件集会前の第48次教育研究集会まで1回を除いてすべて学校施設を会場として使用してきており、広島県においては本件集会を除いて学校施設の使用が許可されなかったことがなかったのも、教育研究集会の上記のような側面に着目した結果とみることができる。このことを理由として、本件集会を使用目的とする申請を拒否するには正当な理由の存在を上告人において立証しなければならないとする原審の説示部分は法令の解釈を誤ったものであり是認することができないものの、使用目的が相当なものであることが認められるなど、被上告人の教育研究集会のための学校施設使用許可に関する上記経緯が前記(3)で述べたような趣旨で大きな考慮要素となることは否定できない。
イ 過去、教育研究集会の会場とされた学校に右翼団体の街宣車が来て街宣活動を行ったことがあったというのであるから、抽象的には街宣活動のおそれはあったといわざるを得ず、学校施設の使用を許可した場合、その学校施設周辺で騒じょう状態が生じたり、学校教育施設としてふさわしくない混乱が生じたりする具体的なおそれが認められるときには、それを考慮して不許可とすることも学校施設管理者の裁量判断としてあり得るところである。しかしながら、本件不許可処分の時点で、本件集会について具体的な妨害の動きがあったことは認められず(なお、記録によれば、本件集会については、実際には右翼団体等による妨害行動は行われなかったことがうかがわれる。)、本件集会の予定された日は、休校日である土曜日と日曜日であり、生徒の登校は予定されていなかったことからすると、仮に妨害行動がされても、生徒に対する影響は間接的なものにとどまる可能性が高かったということができる。
ウ 被上告人の教育研究集会の要綱などの刊行物に学習指導要領や文部省の是正指導に対して批判的な内容の記載が存在することは認められるが、いずれも抽象的な表現にとどまり、本件集会において具体的にどのような討議がされるかは不明であるし、また、それらが本件集会において自主的研修の側面を排除し、又はこれを大きくしのぐほどに中心的な討議対象となるものとまでは認められないのであって、本件集会をもって人事院規則14-7所定の政治的行為に当たるものということはできず、また、これまでの教育研究集会の経緯からしても、上記の点から、本件集会を学校施設で開催することにより教育上の悪影響が生ずるとする評価を合理的なものということはできない。
エ 教育研究集会の中でも学校教科項目の研究討議を行う分科会の場として、実験台、作業台等の教育設備や実験器具、体育用具等、多くの教科に関する教育用具及び備品が備わっている学校施設を利用することの必要性が高いことは明らかであり、学校施設を利用する場合と他の公共施設を利用する場合とで、本件集会の分科会活動にとっての利便性に大きな差違があることは否定できない。
オ 本件不許可処分は、校長が、職員会議を開いた上、支障がないとして、いったんは口頭で使用を許可する意思を表示した後に、上記のとおり、右翼団体による妨害行動のおそれが具体的なものではなかったにもかかわらず、市教委が、過去の右翼団体の妨害行動を例に挙げて使用させない方向に指導し、自らも不許可処分をするに至ったというものであり、しかも、その処分は、県教委等の教育委員会と被上告人との緊張関係と対立の激化を背景として行われたものであった。
(5) 上記の諸点その他の前記事実関係等を考慮すると、本件中学校及びその周辺の学校や地域に混乱を招き、児童生徒に教育上悪影響を与え、学校教育に支障を来すことが予想されるとの理由で行われた本件不許可処分は、重視すべきでない考慮要素を重視するなど、考慮した事項に対する評価が明らかに合理性を欠いており、他方、当然考慮すべき事項を十分考慮しておらず、その結果、社会通念に照らし著しく妥当性を欠いたものということができる。そうすると、原審の採る立証責任論等は是認することができないものの、本件不許可処分が裁量権を逸脱したものであるとした原審の判断は、結論において是認することができる。論旨はいずれも採用することができない。
4 よって、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

++解説
《解  説》
1 本件は,広島県の公立小中学校等に勤務する教職員によって組織された職員団体であるXが,Xが主催し昭和26年から毎年開催してきている広島県教育研究集会の第49次集会の会場として,呉市立中学校の学校施設の使用を申し出たところ,いったんは口頭でこれを了承する返事を校長から得たのに,その後,呉市教育委員会から不当にその使用を拒否されたとして,Y(呉市)に対し,国家賠償法に基づく損害賠償を求めた事案である。呉市教育委員会は,右翼団体による妨害活動のおそれ等を挙げ,当該中学校及びその周辺の学校や地域に混乱を招き,児童生徒に教育上悪影響を与え,学校教育に支障を来すことが予想されるとの理由で不許可処分をしていた。教育研究集会の態様,これまでの学校施設使用の経緯,今回の申請に係る事実経過等の事実関係は,直接判決文を参照されたい。
1審は,50万円及び遅延損害金の限度でXの請求を一部認容し,原審もこれを維持した。原審は,学校施設の使用の許否の判断は広い裁量にゆだねられているとしつつ,教育委員会としては原告が教育研究集会を行える場を確保できるよう配慮する義務があったとし,本件集会を使用目的とする申請を拒否するには正当な理由の存在を被告において立証しなければならないなどと説示し,本件不許可処分は裁量権を逸脱した違法な処分であると判断した。最高裁第三小法廷は,Yからの上告受理申立てを受理して,本判決によりその判断を示した。

2 地方公共団体の設置する公立学校は,地方自治法244条にいう「公の施設」として設けられるものであるが,公立学校を構成する物的要素としての学校施設は,同法238条4項にいう行政財産(普通地方公共団体において公用又は公共用に供し,又は供することと決定した財産)である。したがって,公立学校施設をその設置目的である学校教育の目的に使用する場合には同法244条の規律に服することになるが,これを設置目的外に使用するためには,同法238条の4第4項に基づく許可が必要である。教育財産は教育委員会が管理するとされているため(地方教育行政の組織及び運営に関する法律23条2号),上記の許可は本来教育委員会が行うこととなる。
学校施設の確保に関する政令(昭和24年政令第34号)3条は,法律又は法律に基づく命令の規定に基づいて使用する場合及び管理者又は学校の長の同意を得て使用する場合を例外として,学校施設は,学校が学校教育の目的に使用する場合を除き,使用してはならないとし(1項),上記の同意を与えるには,他の法令の規定に従わなければならないとしている(2項)。同意を与えるための「他の法令の規定」として,上記の地方自治法238条の4第4項は,その用途又は目的を妨げない限度においてその使用を許可することができると定めており,その趣旨を学校施設の場合に敷えんした学校教育法85条は,学校教育上支障のない限り,学校の施設を社会教育その他公共のために,利用させることができると規定している。これらの定めの解釈上,その許可をするか否かは管理者の裁量処分と解され,不許可処分がされた場合,申請者においてその不許可処分に裁量権の逸脱濫用があることを主張,立証して,初めてその処分は違法と判断されることになる。

3 地方自治法244条2項は,正当な理由がない限り,住民が公の施設を利用することを拒んではならないと定めているところ,本件原判決は,目的外使用については同項の適用がないことを前提として説示をしているが,前記のような見解を媒介とすることにより,結果的には,本件許可申請について同条2項の適用ないし類推適用があるのと同様の基準で判断している。また,原判決は,右翼団体の街宣活動等の妨害行動のおそれにつき,それに伴って生ずる紛争の責任は専ら当該右翼団体にあるから,これを教育上の支障として学校施設利用を拒否することは許されないと判示していた。
最三小判平7.3.7民集49巻3号687頁,判タ876号84頁(泉佐野市民会館事件)や最二小判平8.3.15民集50巻3号549頁,判タ906号192頁(上尾市福祉会館事件)は,市民会館における集会開催のための使用許可や市福祉会館における組合幹部の合同葬のための使用という本来の施設設置目的に応じた使用許可に関して,条例上の不許可事由につき地方自治法244条の適用を前提として厳格に解し,主催者が集会を平穏に行おうとしているのに,その集会の目的や主催者の思想,信条に反対する者らが,これを実力で阻止し,妨害しようとして紛争を起こすおそれがあることを理由に公の施設の利用を拒むことができるのは,公の施設の利用関係の性質に照らせば,警察の警備等によってもなお混乱を防止することができないなど特別の事情がある場合に限られるべきであるなどと判示していた。原判決の上記判示は,これに影響されたものとみることができる。
しかし,前記のとおり,公立学校施設を設置目的外に使用するためには,同条の適用はなく,同法238条の4第4項に基づく許可が必要であり,その許可をするか否かは管理者の裁量にゆだねられていることからすると,原判決の上記判示部分には問題があったように思われる。

4 本判決は,判決要旨1のとおり,学校施設の目的外使用の許否の判断が管理者の裁量にゆだねられていることを明らかにし,要旨2のとおり,学校教育法85条が使用を許さない場合として掲げている「学校教育上支障」の意義につき,学校教育上の支障がある場合とは,物理的支障がある場合に限られるものではなく,教育的配慮の観点から,児童,生徒に対し精神的悪影響を与え,学校の教育方針にもとることとなる場合も含まれ,現在の具体的な支障がある場合だけでなく,将来における教育上の支障が生ずるおそれが明白に認められる場合も含まれるとした。また,学校施設の使用の許否の判断に関する司法審査の方法については,一般に裁量処分に対する司法審査について判例の採る立場(懲戒処分についての最三小判昭52.12.20民集31巻7号1101頁,判タ357号142頁,在留期間更新不許可処分についての最大判昭53.10.4民集32巻7号1223頁,判タ368号196頁等)と同様に,その判断が裁量権の行使としてされたことを前提とした上で,その判断要素の選択や判断過程に合理性を欠くところがないかを検討し,その判断が,重要な事実の基礎を欠くか,又は社会通念に照らし著しく妥当性を欠くものと認められる場合に限って,裁量権の逸脱又は濫用として違法となるとすべきものであるとする一般論を示した。
その上で,要旨4に掲げたような事情を逐一指摘し,これらの事情をすべて考慮すれば,本件不許可処分は,重視すべきでない考慮要素を重視するなど,考慮した事項に対する評価が明らかに合理性を欠いており,他方,当然考慮すべき事項を十分考慮しておらず,その結果,社会通念に照らし著しく妥当性を欠いたものといえるとして,原審の採る立証責任論等は是認することができないものの,本件不許可処分を裁量権の逸脱であるとした原審の判断も結論において是認することができるとしたものである。
本判決は,最高裁として初めて,学校施設の目的外使用の許否の判断の性質,司法審査の在り方等を明らかにして,原審の採った一般論を是正したものであり,今後の同種事件の処理に当たり参考となる。また,具体的事案についての判断も,教育研究集会の性格等も含め,あくまでも原審確定事実を前提とした判断ではあるが,実務上参考となるものと考えられる。
なお,学校施設の使用許可に関する下級審裁判例としては,広島地判昭50.11.25判時817号60頁,鹿児島地判昭58.10.21訟月30巻4号685頁,その控訴審福岡高宮崎支判昭60.3.29判タ574号78頁,福岡高判平16.1.20判タ1159号149頁等があり,参考文献として,今村武俊=別府哲『学校教育法解説(初等中等教育編)』393~406頁,鈴木勲『逐条学校教育法』666~678頁,鈴木勲『新訂・学校経営のための法律常識』279~288頁等がある。

3「選挙制度」の判決から考える

+判例(H11.11.10)小選挙区
理由
上告代理人森徹の上告理由及び上告人Aの上告理由について
一 原審の適法に確定した事実関係等によれば、第八次選挙制度審議会は、平成二年四月、衆議院議員の選挙制度につき、従来のいわゆる中選挙区制にはいくつかの問題があったので、これを根本的に改めて、政策本位、政党本位の新たな選挙制度を採用する必要があるとして、いわゆる小選挙区比例代表並立制を導入することなどを内容とする答申をし、その後の追加答申等も踏まえて内閣が作成、提出した公職選挙法の改正案が国会において審議された結果、同六年一月に至り、公職選挙法の一部を改正する法律(平成六年法律第二号)が成立し、その後、右法律が同年法律第一〇号及び第一〇四号によって改正され、これらにより衆議院議員の選挙制度が従来の中選挙区単記投票制から小選挙区比例代表並立制に改められたものである。右改正後の公職選挙法(以下「改正公選法」という。)は、衆議院議員の定数を五〇〇人とし、そのうち、三〇〇人を小選挙区選出議員、二〇〇人を比例代表選出議員とした(四条一項)上、各別にその選挙制度の仕組みを定め、総選挙については、投票は小選挙区選出議員及び比例代表選出議員ごとに一人一票とし、同時に選挙を行うものとしている(三一条、三六条)。このうち小選挙区選出議員の選挙(以下「小選挙区選挙」という。)については、全国に三〇〇の選挙区を設け、各選挙区において一人の議員を選出し(一三条一項、別表第一)、投票用紙には候補者一人の氏名を記載させ(四六条一項)、有効投票の最多数を得た者をもって当選人とするものとしている(九五条一項)。また、比例代表選出議員の選挙(以下「比例代表選挙」という。)については、全国に一一の選挙区を設け、各選挙区において所定数の議員を選出し(一三条二項、別表第二)、投票用紙には一の衆議院名簿届出政党等の名称又は略称を記載させ(四六条二項)、得票数に応じて各政党等の当選人の数を算出し、あらかじめ届け出た順位に従って右の数に相当する当該政党等の名簿登載者(小選挙区選挙において当選人となった者を除く。)を当選人とするものとしている(九五条の二第一項ないし第五項)。これに伴い、各選挙への立候補の要件、手続、選挙運動の主体、手段等についても、改正が行われた。
本件は、改正公選法の衆議院議員選挙の仕組みに関する規定が憲法に違反し無効であるから、これに依拠してされた平成八年一〇月二〇日施行の衆議院議員総選挙(以下「本件選挙」という。)のうち東京都第八区における小選挙区選挙は無効であると主張して提起された選挙無効訴訟である。

二 代表民主制の下における選挙制度は、選挙された代表者を通じて、国民の利害や意見が公正かつ効果的に国政の運営に反映されることを目標とし、他方、政治における安定の要請をも考慮しながら、それぞれの国において、その国の実情に即して具体的に決定されるべきものであり、そこに論理的に要請される一定不変の形態が存在するわけではない。我が憲法もまた、右の理由から、国会の両議院の議員の選挙について、およそ議員は全国民を代表するものでなければならないという制約の下で、議員の定数、選挙区、投票の方法その他選挙に関する事項は法律で定めるべきものとし(四三条、四七条)、両議院の議員の各選挙制度の仕組みの具体的決定を原則として国会の広い裁量にゆだねているのである。このように、国会は、その裁量により、衆議院議員及び参議院議員それぞれについて公正かつ効果的な代表を選出するという目標を実現するために適切な選挙制度の仕組みを決定することができるのであるから、国会が新たな選挙制度の仕組みを採用した場合には、その具体的に定めたところが、右の制約や法の下の平等などの憲法上の要請に反するため国会の右のような広い裁量権を考慮してもなおその限界を超えており、これを是認することができない場合に、初めてこれが憲法に違反することになるものと解すべきである(最高裁昭和四九年(行ツ)第七五号同五一年四月一四日大法廷判決・民集三〇巻三号二二三頁、最高裁昭和五四年(行ツ)第六五号同五八年四月二七日大法廷判決・民集三七巻三号三四五頁、最高裁昭和五六年(行ツ)第五七号同五八年一一月七日大法廷判決・民集三七巻九号一二四三頁、最高裁昭和五九年(行ツ)第三三九号同六〇年七月一七日大法廷判決・民集三九巻五号一一〇〇頁、最高裁平成三年(行ツ)第一一一号同五年一月二〇日大法廷判決・民集四七巻一号六七頁、最高裁平成六年(行ツ)第五九号同八年九月一一日大法廷判決・民集五〇巻八号二二八三頁及び最高裁平成九年(行ツ)第一〇四号同一〇年九月二日大法廷判決・民集五二巻六号一三七三頁参照)。

三 右の見地に立って、上告理由について判断する。
1 改正公選法の一三条一項及び別表第一の衆議院小選挙区選出議員の選挙区の定め(以下「本件区割規定」という。)は、前記平成六年法律第二号と同時に成立した衆議院議員選挙区画定審議会設置法(以下「区画審設置法」という。)により設置された衆議院議員選挙区画定審議会の勧告に係る区割り案どおりに制定されたものである。そして、区画審設置法附則二条三項で準用される同法三条は、同審議会が区割り案を作成する基準につき、一項において「各選挙区の人口の均衡を図り、各選挙区の人口・・・のうち、その最も多いものを最も少ないもので除して得た数が二以上とならないようにすることを基本とし、行政区画、地勢、交通等の事情を総合的に考慮して合理的に行わなければならない。」とした上、二項において「各都道府県の区域内の衆議院小選挙区選出議員の選挙区の数は、一に、・・・衆議院小選挙区選出議員の定数に相当する数から都道府県の数を控除した数を人口に比例して各都道府県に配当した数を加えた数とする。」と規定しており、同審議会は右の基準に従って区割り案を作成したのである。したがって、改正公選法の小選挙区選出議員の選挙区の区割りは、右の二つの基準に従って策定されたということができる。前者の基準は、行政区画、地勢、交通等の事情を考慮しつつも、人口比例原則を重視して区割りを行い選挙区間の人口較差を二倍未満とすることを基本とするよう定めるものであるが、後者の基準は、区割りに先立ち、まず各都道府県に議員の定数一を配分した上で、残る定数を人口に比例して各都道府県に配分することを定めるものである。このように、後者の基準は、都道府県間においては人口比例原則に例外を設けて一定程度の定数配分上の不均衡が必然的に生ずることを予定しているから、前者の基準は、結局、その枠の中で全国的にできるだけ人口較差が二倍未満に収まるように区割りを行うべきことを定めるものと解される。
論旨は、右のような区画審設置法三条二項の定める基準は、小選挙区選出議員を地域の代表ととらえるもので、国会議員を全国民の代表者と位置付けている憲法四三条一項に違反し、また、右の基準に従って区割りを行った結果、人口較差が二倍を超える選挙区が二八も生じたことは、憲法一四条一項、一五条一項、四三条一項等の規定を通じて憲法上当然に保障されている投票価値の平等の要請に違反するから、本件区割規定は違憲無効であるなどというのである。

2 憲法は、選挙権の内容の平等、換言すれば、議員の選出における各選挙人の投票の有する影響力の平等、すなわち投票価値の平等を要求していると解される。しかしながら、投票価値の平等は、選挙制度の仕組みを決定する唯一、絶対の基準となるものではなく、国会が正当に考慮することのできる他の政策的目的ないし理由との関連において調和的に実現されるべきものと解さなければならない。それゆえ、国会が具体的に定めたところがその裁量権の行使として合理性を是認し得るものである限り、それによって右の投票価値の平等が損なわれることになっても、やむを得ないと解すべきである。
そして、憲法は、国会が衆議院議員の選挙につき全国を多数の選挙区に分けて実施する制度を採用する場合には、選挙制度の仕組みのうち選挙区割りや議員定数の配分を決定するについて、議員一人当たりの選挙人数又は人口ができる限り平等に保たれることを最も重要かつ基本的な基準とすることを求めているというべきであるが、それ以外にも国会において考慮することができる要素は少なくない。とりわけ都道府県は、これまで我が国の政治及び行政の実際において相当の役割を果たしてきたことや、国民生活及び国民感情においてかなりの比重を占めていることなどにかんがみれば、選挙区割りをするに際して無視することのできない基礎的な要素の一つというべきである。また、都道府県を更に細分するに当たっては、従来の選挙の実績、選挙区としてのまとまり具合、市町村その他の行政区画、面積の大小、人口密度、住民構成、交通事情、地理的状況等諸般の事情が考慮されるものと考えられる。さらに、人口の都市集中化の現象等の社会情勢の変化を選挙区割りや議員定数の配分にどのように反映させるかという点も、国会が政策的観点から考慮することができる要素の一つである。このように、選挙区割りや議員定数の配分の具体的決定に当たっては、種々の政策的及び技術的考慮要素があり、これらをどのように考慮して具体的決定に反映させるかについて一定の客観的基準が存在するものでもないから、選挙区割りや議員定数の配分を定める規定の合憲性は、結局は、国会が具体的に定めたところがその裁量権の合理的行使として是認されるかどうかによって決するほかはない。そして、具体的に決定された選挙区割りや議員定数の配分の下における選挙人の有する投票価値に不平等が存在し、それが国会において通常考慮し得る諸般の要素をしんしゃくしてもなお、一般に合理性を有するものとは考えられない程度に達しているときは、右のような不平等は、もはや国会の合理的裁量の限界を超えていると推定され、これを正当化すべき特別の理由が示されない限り、憲法違反と判断されざるを得ないというべきである。
以上は、前掲昭和五一年四月一四日、同五八年一一月七日、同六〇年七月一七日、平成五年一月二〇日の各大法廷判決の趣旨とするところでもあって、これを変更する要をみない。
【要旨】3 区画審設置法三条二項が前記のような基準を定めたのは、人口の多寡にかかわらず各都道府県にあらかじめ定数一を配分することによって、相対的に人口の少ない県に定数を多めに配分し、人口の少ない県に居住する国民の意見をも十分に国政に反映させることができるようにすることを目的とするものであると解される。しかしながら、同条は、他方で、選挙区間の人口較差が二倍未満になるように区割りをすることを基本とすべきことを基準として定めているのであり、投票価値の平等にも十分な配慮をしていると認められる。前記のとおり、選挙区割りを決定するに当たっては、議員一人当たりの選挙人数又は人口ができる限り平等に保たれることが、最も重要かつ基本的な基準であるが、国会はそれ以外の諸般の要素をも考慮することができるのであって、都道府県は選挙区割りをするに際して無視することができない基礎的な要素の一つであり、人口密度や地理的状況等のほか、人口の都市集中化及びこれに伴う人口流出地域の過疎化の現象等にどのような配慮をし、選挙区割りや議員定数の配分にこれらをどのように反映させるかという点も、国会において考慮することができる要素というべきである。そうすると、これらの要素を総合的に考慮して同条一項、二項のとおり区割りの基準を定めたことが投票価値の平等との関係において国会の裁量の範囲を逸脱するということはできない
また、憲法四三条一項が両議院の議員が全国民を代表する者でなければならないとしているのは、本来的には、両議院の議員は、その選出方法がどのようなものであるかにかかわらず、特定の階級、党派、地域住民など一部の国民を代表するものではなく全国民を代表するものであって、選挙人の指図に拘束されることなく独立して全国民のために行動すべき使命を有するものであることを意味していると解される。そして、右規定は、全国を多数の小選挙区に分けて選挙を行う場合に、選挙区割りにつき厳格な人口比例主義を唯一、絶対の基準とすべきことまでをも要求しているとは解されないし、衆議院小選挙区選出議員の選挙制度の仕組みについて区画審設置法三条二項が都道府県にあらかじめ定数一を配分することとした結果、人口の少ない県に完全な人口比例による場合より多めに定数が配分されることとなったからといって、これによって選出された議員が全国民の代表者であるという性格と矛盾抵触することになるということはできない
そして、本件区割規定は、区画審設置法三条の基準に従って定められたものであるところ、その結果、選挙区間における人口の最大較差は、改正の直近の平成二年一〇月に実施された国勢調査による人口に基づけば一対二・一三七であり、本件選挙の直近の同七年一〇月に実施された国勢調査による人口に基づけば一対二・三〇九であったというのである。このように抜本的改正の当初から同条一項が基本とすべきものとしている二倍未満の人口較差を超えることとなる区割りが行われたことの当否については議論があり得るところであるが、右区割りが直ちに同項の基準に違反するとはいえないし、同条の定める基準自体に憲法に違反するところがないことは前記のとおりであることにかんがみれば、以上の較差が示す選挙区間における投票価値の不平等は、一般に合理性を有するとは考えられない程度に達しているとまではいうことができず、本件区割規定が憲法一四条一項、一五条一項、四三条一項等に違反するとは認められない
4 以上と同旨の原審の判断は、正当として是認することができ、原判決が憲法一四条一項、一五条一項、四三条一項、四四条、四七条等に違反するとはいえない。論旨は採用することができない。
よって、裁判官河合伸一、同遠藤光男、同福田博、同元原利文、同梶谷玄の反対意見があるほか、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

+反対意見
判示三についての裁判官河合伸一、同遠藤光男、同元原利文、同梶谷玄の反対意見は、次のとおりである。
私たちは、多数意見とは異なり、本件区割規定は憲法に違反するものであって、本件選挙は違法であると考える。その理由は、以下のとおりである。
一 投票価値の平等の憲法上の意義
代議制民主主義制度を採る我が憲法の下においては、国会議員を選出するに当たっての国民の権利の内容、すなわち各選挙人の投票の価値が平等であるべきことは、憲法自体に由来するものというべきである。けだし、国民は代議員たる国会議員を介して国政に参加することになるところ、国政に参加する権利が平等であるべきものである以上、国政参加の手段としての代議員選出の権利もまた、常に平等であることが要請されるからである。
そして、この要請は、国民の基本的人権の一つとしての法の下の平等の原則及び「両議院は、全国民を代表する選挙された議員でこれを組織する。」と定める国会の構成原理からの当然の帰結でもあり、国会が具体的な選挙制度の仕組みを決定するに当たり考慮すべき最も重要かつ基本的な基準である。
二 投票価値の平等の限界
1 投票価値の平等を徹底するとすれば、本来、各選挙人の投票の価値が名実ともに同一であることが求められることになるが、具体的な選挙制度として選挙区選挙を採用する場合には、その選挙区割りを定めるに当たって、行政区画、面積の大小、交通事情、地理的状況等の非人口的ないし技術的要素を考慮せざるを得ないため、右要請に厳密に従うことが困難であることは否定し難い。しかし、たとえこれらの要素を考慮したことによるものではあっても、選挙区間における議員一人当たりの選挙人数又は人口の較差が二倍に達し、あるいはそれを超えることとなったときは、投票価値の平等は侵害されたというべきである。けだし、そうなっては、実質的に一人一票の原則を破って、一人が二票、あるいはそれ以上の投票権を有するのと同じこととなるからである。
2 もっとも、投票価値の平等は、選挙制度の仕組みを定めるに当たっての唯一、絶対的な基準ではなく、国会としては、他の政策的要素をも考慮してその仕組みを定め得る余地がないわけではない。この場合、右の要素が憲法上正当に考慮するに値するものであり、かつ、国会が具体的に定めたところのものがその裁量権の行使として合理性を是認し得るものである限り、その較差の程度いかんによっては、たとえ投票価値の平等が損なわれたとしても、直ちに違憲とはいえない場合があり得るものというべきである。したがって、このような事態が生じた場合には、国会はいかなる目的ないし理由を斟酌してそのような制度を定めたのか、その目的ないし理由はいかなる意味で憲法上正当に考慮することができるのかを検討した上、最終的には、投票価値の平等が侵害された程度及び右の検討結果を総合して、国会の裁量権の行使としての合理性の存否をみることによって、その侵害が憲法上許容されるものか否かを判断することとなる。
三 本件区割規定の違憲性
1 本件区割規定に基づく選挙区間における人口の最大較差は、改正直近の平成二年一〇 月実施の国勢調査によれば一対二・一三七、本件選挙直近の平成七年一〇月実施の国勢調査によれば一対二・三〇九に達し、また、その較差が二倍を超えた選挙区が、前者によれば二八、後者によれば六〇にも及んだというのであるから、本件区割規定は、明らかに投票価値の平等を侵害したものというべきである。
2 そこで、国会はいかなる目的ないし理由を斟酌してこのような制度を定めたのか、右目的等が憲法上正当に考慮することができるものか否か、本件区割規定を採用したことが国会の裁量権の行使としての合理性を是認し得るか否かについて検討する。
(一)選挙区間の人口較差が二倍以上となったことの最大要因が区画審設置法三条二項に定めるいわゆる一人別枠方式を採用したことによるものであることは明らかである。けだし、平成二年一〇月実施の国勢調査を前提とすると、この方式を採用したこと自体により、都道府県の段階において最大一対一・八二二の較差(東京都の人口一一八五万五五六三人を定数二五で除した四七万四二二三人と、島根県の人口七八万一〇二一人を定数三で除した二六万〇三四〇人の較差)が生じているが、各都道府県において、更にこれを市区町村単位で再配分しなければならないことを考えると、既にその時点において、最大較差を二倍未満に収めることが困難であったことが明らかだからである。
(二)もし仮に、一人別枠方式を採用することなく、小選挙区選出議員の定数三〇〇人全員につき最初から最大剰余方式(全国の人口を議員総定数で除して得た基準値でブロックの人口を除して数値を求め、その数値の整数部分と同じ数の議員数を各ブロックに配分し、それで配分し切れない残余の議員数については、右数値の小数点以下の大きい順に配分する方式)を採用したとするならば、平成二年一〇月実施の国勢調査を前提とすると、都道府県段階の最大較差は一対一・六六二(香川県の人口一〇二万三四一二人を定数二で除した五一万一七〇六人と、鳥取県の人口六一万五七二二人を定数二で除した三〇万七八六一人の較差)にとどまっていたことが明らかであるから、市区町村単位での再配分を考慮したとしても、なおかつ、その最大較差を二倍未満に収めることは決して困難ではなかったはずである。
(三)区画審設置法は、その一方において、選挙区間の人口較差が二倍未満になるように区割りをすることを基本とすべきことを定めておきながら(同法三条一項)、他方、一人別枠方式を採用している(同条二項)。しかしながら、前記のとおり、後者を採用したこと自体によって、前者の要請の実現が妨げられることとなったのであるから、この両規定は、もともと両立し難い規定であったといわざるを得ない。のみならず、第八次選挙制度審議会の審議経過をみてみると、同審議会における投票価値の平等に対する関心は極めて高く、同審議会としては、当初、「この改革により今日強く求められている投票価値の較差是正の要請にもこたえることが必要である。」旨を答申し、小選挙区選出議員全員について無条件の最大剰余方式を採用する方向を選択しようとしたところ、これによって定数削減を余儀なくされる都道府県の選出議員から強い不満が続出したため、一種の政治的妥協策として、一人別枠方式を採用した上、残余の定数についてのみ最大剰余方式を採ることを内容とした政府案が提出されるに至り、同審議会としてもやむなくこれを承認したという経過がみられる。このように、一人別枠方式は、選挙区割りの決定に当たり当然考慮せざるを得ない行政区画や地理的状況等の非人口的、技術的要素とは全く異質の恣意的な要素を考慮して採用されたものであって、到底その正当性を是認し得るものではない。
(四)多数意見は、一人別枠方式を採用したのは、「人口の少ない県に居住する国民の意見をも十分に国政に反映させることができるようにすることを目的とするもの」と解した上、いわゆる過疎地化現象を考慮して右のような選挙区割りを定めたことが投票価値の平等との関係において、なお国会の裁量権の範囲内であるとする。
しかし、このような考え方は、次のような理由により、採り得ない。
(1) 通信、交通、報道の手段が著しく進歩、発展した今日、このような配慮をする合理的理由は極めて乏しいものというべきである。
(2) 一人別枠方式は、人口の少ない県に居住する国民の投票権の価値を、そうでない都道府県に居住する国民のそれよりも加重しようとするものであり、有権者の住所がどこにあるかによってその投票価値に差別を設けようとするものにほかならない。このように、居住地域を異にすることのみをもって、国民の国政参加権に差別を設けることは許されるべきではない。
(3) いわゆる過疎地対策は、国政において考慮されるべき重要な課題ではあるが、それに対する各議員の取組は、投票価値の平等の下で選挙された全国民の代表としての立場でされるべきものであって、過疎地対策を理由として、投票価値の平等を侵害することは許されない。
(4) 一人別枠方式と類似する制度として、参議院議員選挙法(昭和二二年法律第一一号)が地方選出議員の配分につき採用した各都道府県選挙区に対する定数二の一律配分方式を挙げることができるが、憲法自体が、参議院議員の任期を六年と定め、かつ、三年ごとの半数改選を定めたことにかんがみると、改選期に改選を実施しない選挙区が生じることを避けるため採用したものと解される右制度については、それなりの合理性が認められないわけでもない。しかし、衆議院議員の選挙については、憲法上このような制約は全く存しないのであるから、右のような方式を採ることについての合理的理由を見いだす余地はない。
(五)以上要するに、私たちは、過疎地対策として一人別枠方式を採用することにより投票価値の平等に影響を及ぼすことは、憲法上到底容認されるものではないと考えるものであるが、その点をしばらくおくとしても、過疎地対策としてのこの方式の実効性についても、甚だ疑問が多いことを、念のため指摘しておきたい。
(1) 平成二年一〇月実施の国勢調査を前提としてみた場合、小選挙区選出議員の定数三〇〇人全員につき最初から最大剰余方式を採用した場合の議員定数と比較してみて、一人別枠方式を採用したことによる恩恵を受けた都道府県は一五に達する。その内訳をみると、本来二人の割当てを受けるべきところ三人の割当てを受けた県が七(山梨、福井、島根、徳島、香川、高知、佐賀の各県)、三人の割当てを受けるべきところ四人の割当てを受けた県が四(岩手、山形、奈良、大分の各県)、四人の割当てを受けるべきところ五人の割当てを受けた県が三(三重、熊本、鹿児島の各県)、五人の割当てを受けるべきところ六人の割当てを受けた県が一(宮城県)、それぞれ生じているが、これらの過剰割当てが過疎地対策として現実にどれほどの意味を持ち得るのか、甚だ疑問といわざるを得ない。
(2) 右によっても明らかなとおり、一人別枠方式を採用したことにより恩恵を受けた都道府県のすべてが過疎地に当たるわけではなく、また、過疎地のすべてがその恩恵を受けているわけでもない。すなわち、人口二二四万人余の宮城県、同一八四万人余の熊本県がこの恩恵を受けているのに対し、人口一二〇万人以下の富山、石川、和歌山、鳥取、宮崎の五県はこの恩恵を受けていないのである。
(3) 過疎地対策としての実効性をいうのであれば、最大剰余方式を採用したことによって、一人の定数配分すら受けられない都道府県が生じてしまう場合が想定されることになるが、平成二年一〇月実施の国勢調査を前提とする限り、人口の最も少ない鳥取県においてすら、最大剰余方式により定数二の配分が受けられるのであり、現に鳥取県は一人別枠方式による恩恵を受けていないのであるから、本件区割規定の前提となった一人別枠方式は、過疎地対策とは何らかかわり合いのないものというべきである。
四 結論
小選挙区制を採用することのメリットは幾つか挙げられているが、その一つとして、議員定数不均衡問題の解消が挙げられていることは周知のとおりである。つまり、小選挙区制の下においては、選挙区の区割りの画定のみに留意すればよく、中選挙区制を採用した場合のように当該選挙区に割り当てるべき議員定数を考慮する必要が一切ないところにその特色を有し、いわば小回りがきく制度であるところから、定数不均衡問題の解消に資し得るとされているのである。したがって、二倍未満の較差厳守の要請は、中選挙区制の場合に比し、より一層厳しく求められてしかるべきである。
そうすると、本件区割規定に基づく選挙区間の最大較差は二倍をわずかに超えるものであったとはいえ、二倍を超える選挙区が、改正直近の国勢調査によれば二八、本件選挙直近の国勢調査によれば六〇にも達していたこと、このような結果を招来した原因が専ら一人別枠方式を採用したことにあること、一人別枠方式を採用すること自体に憲法上考慮することのできる正当性を認めることができず、かつ、国会の裁量権の行使としての合理性も認められないことなどにかんがみると、本件区割規定は憲法に違反するものというべきである。なお、その違憲状態は法制定の当初から存在していたのであるから、いわゆる「是正のための合理的期間」の有無を考慮する余地がないことはいうまでもない。
もっとも、本件訴訟の対象となった選挙区の選挙を無効としたとしても、それ以外の選挙区の選挙が当然に無効となるものではないこと、当該選挙を無効とする判決の結果、一時的にせよ憲法の予定しない事態が現出することになることなどにかんがみると、本件については、いわゆる事情判決の法理により、主文においてその違法を宣言するにとどめ、これを無効としないこととするのが相当である。
判示三についての裁判官福田博の反対意見は、次のとおりである。
一 私は、裁判官河合伸一、同遠藤光男、同元原利文、同梶谷玄の反対意見に共感するところが多いが、憲法に定める投票価値の平等は、極めて厳格に貫徹されるべき原則であり、選挙区割りを決定するに当たり全く技術的な理由で例外的に認められることのある平等からのかい離も、最大較差二倍を大幅に下回る水準で限定されるべきであるとの考えを持っているので、その理由等につき、あえて別途反対意見を述べることとした。なお、国会議員選挙における投票価値の平等の問題は、衆議院議員選挙のそれと参議院議員選挙のそれとが相互に密接に関連しているところ、参議院議員選挙については、多数意見の引用する平成一〇年九月二日大法廷判決(以下「平成一〇年判決」という。)における裁判官尾崎行信、同河合伸一、同遠藤光男、同福田博、同元原利文の反対意見及び裁判官尾崎行信、同福田博の追加反対意見において詳しく見解を述べているので、適宜これを引用することとする。
二 国会は、全国民を代表する選挙された議員で組織された国の機関であり、国権の最高機関である(憲法四一条、四三条)。国権の最高機関たる理由は、国会の決定は、国民全体の中の意見や利害が議員の国会活動を通じて具体的に主張されこれを反映した結果である公算が極めて高く、いわば国民全体の自己決定権の行使の結果とみなし得るからである。すなわち、全国民が平等な選挙権をもって参加した自由かつ公正な選挙により自らの代表として選出した議員で構成されていることこそが、憲法の定める国会の高い権威の源泉なのである。憲法は、選挙区、投票の方法その他両議院の議員の選挙に関する事項は法律でこれを定めるとしている(四七条)が、そのような法律を策定する際に認められる国会の裁量権は、当然のことながら、憲法の定めるいくつかの原則に従うことが前提である。法の下の平等により保障される有権者の投票価値の平等の原則(以下「平等原則」という。)に従うことはそのような前提の一つであって、事務処理上生ずることが不可避な較差など明白に合理的であることが立証されたごく一部の例外が極めて限定的に許されるにすぎない。平等原則は、秘密投票の保障(一五条四項)など、自由、平等、公正な選挙を確保するために憲法が定める他のいくつかの原則と同様に重要なものであって、選挙区、投票の方法など国会議員の選挙に関する事項を法律で定める際には、当然かつ厳格に遵守されるべきものである。それが理想論ではなく十分に実現可能なものであることは、代表民主制を有する諸外国の近年における動向を見ても明らかである(後記九参照)。
三 平等原則は、全国の選挙人数を議員総定数で除して得た数値を基準値として、この基準値ごとに一人の議員を割り当てることにより最もよく実現される。このことは、小選挙区、中選挙区、比例区すべてに当てはまる。もし、過疎の地域にもその地域からの議員選出の機会を与えたいというのであれば、それは、その実現方法が他の地域について平等原則を満たす場合にのみ許される。例えば、過疎の地域に代表を選出する機会を与えるために、過密の地域に対し割り当てられる議員定数を人口比に見合って増加するのも一つの方法である。議員の総定数を固定したままで「過疎への配慮」を行うことは、すなわち「過密の軽視」に等しく、それはとりもなおさず、有権者の住所がどこにあるかで有権者の投票価値を差別することになる。そのような差別は、身分、収入、性別その他を理由として一部の有権者に優越的地位を与えた過去のシステムと基本的発想を同じくするものであって、憲法の規定に明らかに反し、近代民主制の基本である平等な投票権者による多数決の原理をゆがめることとなる。
四 戦後我が国の国会議員選挙制度が制定された際、参議院議員選出のための選挙区選挙において、都道府県を選挙区とする制度が導入され、当初から最大二・六二倍の較差の存在が容認されたことが、今日においても衆・参両院議員選挙における平等原則軽視の風潮をもたらす端緒となったことは否めない。当初大きな疑念も差し挟まれないまま容認されたこの較差は、宮城県と鳥取県との間で生じたものであって、「過疎への配慮」とはおよそ無縁のものであった。しかし、そのような較差の存在を容認したことは、その後の大規模な人口移動によって生じた都市部への人口集中に基づく全く違う種類の較差の問題を、過疎への配慮などの名目の下に、長年にわたり放置することにつながったといえる。そして、この傾向は、参議院議員選挙にとどまらず、衆議院議員選挙のそれにも拡散したのである。そして、この問題に対しては、司法も、選挙制度策定において国会の有する広範な裁量権の範囲にとどまるものか否かを判断すれば足りるとの考えの下に寛容な態度をとり続けた。その結果、最高裁判所による累次の判決は、衆議院議員選挙については最大三倍、参議院議員選挙のうち選挙区選出議員については最大六倍までの投票価値の較差は国会の裁量権の範囲内として許容されるとの考えに基づいて行われていると一般に理解されるに至っている。
五 衆・参両院議員選挙について近年行われた公職選挙法の改正は、いずれも平等原則を十分に遵守するために必要な是正を行っていない。今回問題となっている改正公選法について見れば、個人の投票価値は他人のそれと同一であるにもかかわらず、選挙区選挙について最大較差が二倍以上にならないことを改正の基本方針としている点で、そもそも質的に不十分なものであること(最大較差二倍とは、要するに一人の投票に二人分の投票価値を認めるということである。)、そして、それを所与のものとして、いわゆる「一人別枠制」(それは、正に投票価値についての明白かつ恣意的な操作である。)を導入し、平成二年一〇月実施の国勢調査によっても三〇〇の選挙区中二八の選挙区において一対二を超える例外を当初から設けていることの二点において、憲法が定める代表民主制の基本的前提である平等原則を遵守していない。そして、次に述べるようにそれを正当化する理由は存在しないのである。
第一に、憲法は、選ばれる者(議員)が選ぶ者(有権者)の投票価値を意図的に操作し差別することを認めていない。繰り返しになるが、選挙制度策定に当たっては「過疎への配慮」は「過密の軽視」を伴ってはならないのである。有権者数に見合った選挙区の統合又は議員総定数の増加などの工夫を行うことにより、投票価値の平等を実現することは、選挙に関する法律を制定する際の前提条件である(後者の方法は統治機構のスリム化の要請には反するであろうが、そのような要請は憲法の定める平等原則の重要性に比すれば質的に大きく劣後する。)。
第二に、都道府県制をあたかも連邦制を採る国の州の地位に対比することによって、都道府県に依拠する選挙区割りの持つ重要性を平等原則に優先させて認めようとする考えがあるが、これも採り得ない。我が国が連邦国家でないことは明らかであり、基本的に行政区画である都道府県間において平等原則を劣後させ定数較差の存在を認めるようなことは憲法に何の規定も見いだせない。連邦制を採り成文の憲法を持つ国にあっては、各州に人口ないし有権者数と見合わない代表権を認める場合には、憲法にそれを認める明文の規定がある。そのような明文の規定は我が国憲法には存在せず、行政区画である都道府県制度に依拠して選挙制度を策定することが国会の裁量権の範囲内にあるという論理から平等原則に反する選挙制度も許されるとするのはしょせん無理である。
第三に、地方議会において、その地方自治の持つ特性ゆえに、平等原則がやや緩やかに適用される例が皆無ではないことをもって、国会についても同様の配慮を認めよという議論も、国会が一部地域ではなく全国民を代表する議員で構成される国権の最高機関であるという憲法の規定に合致しないことは明らかである。
六 我が国は、長年にわたって高度成長を続け、その中に内在する矛盾を基本的に解決しなくても各種の問題に対応していくことができた。しかし、そのような余裕のあった時代は去り、また、全く新しい重要課題への対応も迫られている。厳しい環境の中にあって、国の内外における新たな重大問題に的確に対応していくためには、民意を正確に反映した立法府の存在、すなわち憲法に定める平等原則を忠実に遵守する選挙制度で選出された議員により構成される国会の存在が以前にも増して格段に重要となってきている。もちろん代表民主制の下において、有権者及び選出された議員の選択する政策が常に最善のものであるとは限らず、見通しの甘さや誤りも往々にして存在する。しかし、代表民主制の強みは、有権者の考えが変われば、それが議員選出を通じて政策の変更に反映されやすいことにある。有権者は、投票の際、前回の選挙において自らが投票し選出された議員の選択した政策がもはや最善のものではないと考えるに至ったときには、その投票態度を容易に変更する。議員もそのことを十分に承知し、有権者の多数が選択する政策を推進しようと心掛ける。換言すれば、代表民主制の基本とするところは、選挙を通じて議員を交代させ又はその政見に影響を及ぼすことにより、より的確に多数の有権者の支持する政策が選択されることを可能ならしめるものである。代表民主制を採用しても、有権者の持つ投票価値が平等でないのであれば、そのような選挙を通じ選出された議員で構成される国会は選挙時点における民意を正しく反映しないゆがんだ構成になる。その場合には、国会において多数決で行われる決定も多数の民意を反映していないこととなる可能性を生じ、我が国の直面する内外の問題への対応に誤りを生ずる可能性もなしとしない。憲法の意図する代表民主制はそのようなものではない。平等でない投票価値に基づく選挙は、憲法の規定に反するほか、有権者の政治不信及び政治離れにもつながる危険を有する。
七 平等原則を忠実に遵守した選挙区割りを行う中心的責任は、もとより国会自身にある。しかし、それを構成する現職の国会議員は、現存の選挙制度で当選してきているのであるから、選挙制度の改正に対し基本的に慎重な対応を行う傾向が強い。それゆえに、選挙制度が投票価値の不平等を内包している場合であっても、その是正に対する熱意は不足しがちである。三権分立を採る統治システムの中にあっては、そのような事態を是正する役割は行政及び司法にもあるが、司法が違憲立法審査権を与えられているとき、司法の果たす役割は極めて重大なものとなる。この点は、行政が、元来国会の影響を受けやすい立場にあることのみならず、我が国のように現職の国会議員を頂点とする議院内閣制の下にあっては、行政府の長が別途の選挙によって選出される大統領制などに比し、選挙区割りなど国会議員の利害に直接影響する問題について具体的に発言することがおのずから限定されている事情の下では、一層認識されるべきものである。
八 司法は、長年にわたり、選挙制度に関する国会の広い裁量権の存在を基本とした理由付けの下に、衆・参両院の存在意義の相違等を理由として、衆議院議員選挙については最大較差三倍未満、参議院議員選挙のうち選挙区選出議員については最大較差六倍未満の較差(平等原則からのかい離)の発生を容認してきた。今回の多数意見も、平成一〇年判決に引き続き、改正公選法により行われた本件選挙についても、従来の判例が踏襲した判断の枠組み及びその考え方を変更する必要を見ないとしている。
しかし、今や衆・参両院議員の選挙制度は極めて似通ったものとなっており、衆議院議員選挙は小選挙区及び比例区の並立制により、また、参議院議員選挙は選挙区(小選挙区、中選挙区)及び比例代表の並立制により行われている(参議院では選挙区選挙を半数改選制により行うので、定員二人の選挙区は定員一人の小選挙区として行われ、それ以上の定員の選挙区は中選挙区となる。)。このような状況下にあっては、そもそも何ゆえに憲法が代表民主制の前提としている投票価値の平等といった重要原則からのかい離を認めるのかを理解し難いことのほか、国会が平等原則からのかい離の程度を衆・参両院について異ならしめ、それによって衆・参両院の差を際立たせようとしていることをどうして容認し続ける必要があるのか、私には全く理解できない。衆・参両院の差を設けることが望ましいという命題は、投票価値の不平等を通じて達成されてはならないのである。
また、司法は、従来参議院議員選挙のうち選挙区選出議員については、地域性の要素が存在すると認定する(平成一〇年判決における多数意見は、選挙区選出議員について、都道府県を選挙区とすることは、都道府県が歴史的にも政治的、経済的、社会的にも独自の意義と実体を有し政治的に一つのまとまりを有する単位としてとらえ得ることに照らし、これを構成する住民の意見を集約的に反映させるという意義ないし機能を加味しようとしたものと解することができるから、合理性を欠くものとはいえないと述べている。)一方、今回は衆議院議員選挙のうち選挙区選挙において、「一人別枠制」(その違憲性は、裁判官河合伸一、同遠藤光男、同元原利文、同梶谷玄の反対意見により極めて明らかであるので、再説を要しない。)という形で導入された地域性の要素を是認するに至っている。しかし、そもそも憲法には平等原則の遵守や投票の秘密の程度などを地域性の要素によって操作することを認める規定などはないのである。選挙区の画定方法において、地域性によって平等原則の遵守の程度を異ならしめることまでを容認することは、すなわち平等原則の軽視に対し目を閉ざすことにほかならない。
九 我が国憲法の解釈は、我が国司法の積み重ねてきた判例に沿って行われればよいのであって、外国における経験などといったものは考慮する要がないといった議論があるが、そのような考え方はもちろん採ることができない。「代表民主制」とか「法の支配」とかいった概念は、民主主義制度を持つ多くの国における歴史と経験の積重ねに基づいて発展してきたものである。我が国の憲法もそのような経験に裏打ちされている。成熟した民主主義国家の会合といわれるG7を構成する諸外国を見ても、我が国のように平等原則からのかい離について寛容な国はない。そのうち米国、英国、フランス、ドイツにおいて投票価値の平等が尊重されていることについては、平成一〇年判決における裁判官尾崎行信、同福田博の追加反対意見に詳述したので、これを引用する。
イタリアにおいては、一九九三年に上下両院につき従来の全面的な比例代表制から小選挙区比例代表並立制への転換が行われ(いずれも小選挙区七五パーセント、比例区二五パーセントの割合になっているが、下院については重複立候補が認められている。)、今回の我が国公職選挙法の改正に当たっても参考とされたといわれる。しかし、定数の較差について見ると、我が国と異なり、伝統的に人口比に応じた選挙区割りが厳格に行われているので、定数較差が政治的又は司法上の問題となったことはない(一〇年ごとに実施される国勢調査を基礎として、各選挙区の人口に比例して定数配分を行い、委任立法により確定する。)(注)。(注)イタリアの下院議員定数は六三○人で、選挙区は全二七区からなり、原則として各州(全国で二○州)を一選挙区としつつ、人口の多い州について二又は三の選挙区を設け、議員定数は、各選挙区の人口に厳格に比例して配分される。
各選挙区においては、原則として議員定数の七五パーセントが小選挙区、二五パーセントが比例代表区に割り当てられる。それぞれの選挙区の中に画定される小選挙区の区割りには詳細かつ厳格な基準が設けられており、各小選挙区の人口と当該選挙区内の全小選挙区の基準人口とのかい離は最大でも一五パーセント(最大較差に換算すれば一・三五倍)とされている。
具体的には、全国の議員一人当たりの基準人口からのかい離は、議員一人当たりの人口が最小のモリーゼ選挙区と最大のフリウリ・ヴェネツィア・ジューリア選挙区について見てもそれぞれ一○パーセント未満にすぎず(最大較差は約一・一一倍となっている。)、特例が適用されるヴァッレ・ダオスタ選挙区(人口が少ないため小選挙区総定数四七五人のうちの議員一人を選出するための小選挙区選挙のみが行われ、比例区選挙権は与えられない。)についても最大較差換算で約一・四倍に収まっている。以上の結果、全国を小選挙区のレベルで比較しても、最大較差は約一・五倍の範囲にとどまっている(イタリア憲法五六条四項、五七条四項、一九五七年三月三○日付け大統領令第三六一号(下院選挙法単一法典)、一九九三年八月四日付け法律第二七七号(下院選挙に関する新規則)外参照)。
カナダにおいては、連邦下院選挙についての各州内の選挙区は一〇年ごとに行われる国勢調査に基づき求められる基準人口に等しくなるよう再区分を行い、原則としてその偏差は、最大でも二五パーセント以内(最大較差に換算すれば一・六七倍まで)にとどまるよう選挙区の区割りを行うこととなっている(注)。
(注)カナダ連邦下院議員選挙の選挙区は、一九六四年の選挙区割委員会法及び一九七○年の選挙区割法に基づいて設置された各州(準州を含む。)の選挙区割委員会により画定されることになっており、一〇年ごとに行われる国勢調査に基づき各州内の選挙区間の人口が等しくなるよう選挙区の再区分が行われる。具体的には連邦下院議員定数(一九九七年の総選挙時は三○一議席)を基礎とし、各州の人口を各々の議員定数で割って得た基準住民数の上下二五パーセントを超えない範囲で選挙区の区割りが行われる(ただし、各州の選挙区割委員会が特別な事情があると認めた場合(投票の便など)にはごく一部の例外が認められるときがある。)。各州に割り当てられる連邦下院議員数は、一八六七年憲法五一条一項に従い、同じく一〇年ごとの国勢調査により、原則として各州の人口に応じ調整されるが、連邦制であるため、いくつかの例外が存在する。
なお、恣意的な境界線が決定されることを防止するため、各州の選挙区割委員会は、政治的に中立な構成となるよう工夫されている。現実には、三人の構成員のうち、一人は州最高裁判所判事が任命され、他の二人は連邦下院議長により任命されている。委員会による区割案は各州で検討された後、連邦選挙管理委員長に提出され、最終的には連邦下院の承認を受けることとなっている。
以上の各国について見れば、いずれも投票価値の平等の原則に関する我が国の考え方よりもはるかに厳格な考え方を採っていることが明らかである。
我が国憲法に規定する平等原則が国会議員選挙においていかに軽んじられてきているか、また、実際にどこまで一対一の目標の近くまで是正を行うことが可能かを見極めるに当たっては、このような他国の例は大いに参考になる。
一〇 我が国における累次の定数訴訟の根本的争点は、現代における人間の平等という概念をいかに理解するかに懸かっている。長きにわたる人間の歴史において、平等や自由は、神から王へ、王から諸侯貴族へ、更に少数有産階級へ、ついには一般市民へと、次第にその享受対象を拡大し、我が国で国民一般にまでこれが及んだのは、二十世紀中葉に至ってからである。しかも、対象の範囲のみならず平等の実質や程度も、文化経済の進展につれて今日においても、なおかつ変化し徹底し続けていることを忘れてはならない。平等原則が国家の政治制度に表現されたのが代表民主制であり、それが選挙制度において具体化されたのがいわゆる「一人一票」の原則であって、市民に「政治参加への平等な機会」を与えることこそ、長い歴史の実験を経て、現存する最も好ましい政治制度であると評価されている。その実施に当たっては、世界各国においてある程度の投票価値の較差が許容されることがあったが、社会一般における平等への希求の深化に応じ、差別を許容する程度は急速に狭められ、今日では、二倍の較差(これは要するに一人の投票に二人分の投票の価値を認めるものである。)は到底適法とは認められず、可能な限り一対一に近接しなければならないとするのが、文明社会における常識となっている。今や我が国の独自性とか累次の判例を口実に、人類の普遍的価値である平等を、世界的に広く要請され、受容されている水準から、遠く離れた位置に放置し続けることの許されない時代に達している。かねてから特殊な社会的背景を理由に「分離すれども平等」との主張を採り続けた立場を正した裁判の例(米国)を想起すれば、二十一世紀も間近な今日、「三倍又は六倍近くの投票価値の較差があってもなお平等」という宿年の論理を矯正するべき時期に至っていることは疑いをいれない。
一一 憲法の定める三権分立は、三権のそれぞれの自律性を尊重しつつも、相互に的確にチェックし合うことを予定している。
国会がその構成員(議員)を選出する制度を策定する際、憲法の定める投票価値の平等の原則を軽視し、遵守しないのであれば、これを違憲と断ずるのは司法の責務である。長年にわたって寛容な態度をとってきたからといって、その違憲性から目を背けてはならない。憲法に定める平等原則に照らせば、今回の公職選挙法改正における小選挙区決定に当たっての定数較差是正の方針の程度はそもそも質的に不十分であるのみならず、恣意的な投票価値の操作である「一人別枠制」の導入と相まって、右改正の内容が憲法に違反することは極めて明らかである。
一二 したがって、本件選挙には、憲法に違反する定数配分規定に基づいて施行された瑕疵が存したことになるが、改正公選法による一回目の総選挙であったこともあり、多数意見の引用する昭和五一年四月一四日大法廷判決及び同六〇年七月一七日大法廷判決の判示するいわゆる事情判決の法理により、主文において本件訴訟の対象となった選挙区の選挙の違法を宣言するにとどめ、これを無効としないことが相当と考える。

++解説
《解  説》
一 リクルート事件に端を発した政治改革論議の一つの到達点として、平成六年に至り、衆議院議員選挙の仕組みが現行制度に改正された。この改正は、従前の中選挙区制に様々な欠陥があったとの認識に基づき、政策本位、政党本位の選挙制度の実現を図るため小選挙区比例代表並立制を導入するというものであった。この改正後に初めて行われた平成八年一〇月二〇日の衆議院議員総選挙について、東京高裁管内の各地の選挙区の選挙人らが、右改正後の公職選挙法の定める小選挙区選挙又は比例代表選挙の仕組みが憲法に違反すると主張して、それぞれの選挙区における選挙の無効を請求する訴訟を提起した。最高裁大法廷は、それら三一件の事件について、同一一年一一月一〇日、同時に判決を言い渡したが、ここで紹介するのは、そのうちの代表的な三件である。①事件と③事件が小選挙区選挙に、②事件が比例代表選挙に係るものである。
これまで国政選挙の無効を請求する事件は、「定数訴訟」と呼ばれてきたように、専ら衆議院又は参議院の選挙区選挙における議員定数の定めが憲法の投票価値の平等の要請に反すると主張して提起されたものである。
ところが、今回の訴訟においては、小選挙区間の人口等の較差を問題とする争点のほかに、小選挙区制ないし比例代表制という仕組みそれ自体の合憲性や、小選挙区選挙と比例代表選挙への重複立候補を認める制度の合憲性、小選挙区選挙において候補者の届出をした政党に候補者とは別に選挙運動を認めたことの合憲性など、これまでにない新たな憲法上の問題が争点となった。大法廷は、これらのすべてについて合憲の判断をしたものであるが、投票価値の平等の問題と、選挙運動の平等の問題については、それぞれ五人の裁判官による反対意見がある。
二 ①事件においては、投票価値の平等の問題が争点となった。これまでの判例は、一つの選挙区に複数の議員定数が割り当てられていたいわゆる中選挙区制の下における各選挙区への議員定数の配分を定める規定の合憲性が問題となってきたが、小選挙区制においては、各選挙区とも議員定数は一であるから、選挙区をどのように区割りするかを定める規定が、議員一人当たりの人口等の較差、すなわち投票価値の較差を決定することになる。小選挙区制の導入は、従来課題とされてきた較差の是正が容易になることを一つの理由として行われたものであり、第八次選挙制度審議会の答申においては、較差を二倍未満とすることを基本原則とする考え方が示され、これに基づいて較差が二倍未満となる都道府県別の議員定数配分案も作成された。ところが、その後、従来より定数が削減されることになる地方の議員等から異論が出て、結局、区割りの基準を定める衆議院議員選挙区画定審議会設置法(以下「区画審設置法」という。)三条の規定は、一項に較差二倍未満を基本として区割り案を策定すべきことが定められるとともに、二項に各都道府県にまず定数一を配分した上で残る定数のみを人口比例で配分すること(ぃわゆる一人別枠方式)が定められることになり、これに基づいて策定された公職選挙法の区割規定は、当初から較差が二倍を超えるものとなってしまったといういきさつがある。そこで、①事件原告らは、抜本的な不均衡是正を行うとしながら、また、その方策として容易に較差二倍未満を実現することのできる小選挙区制を採用することとしながら、一人別枠方式を導入したことは、衆議院議員を地域代表ととらえるものであり、国会議員を全国民の代表者と位置付けている憲法四三条一項に違反し、その結果、改正当初から較差二倍を超える区割りがされたことは、憲法一四条一項等に違反するなどと主張した。
次に、②事件は、比例代表選挙の違憲無効を請求する事件であり、比例代表制それ自体の合憲性と、比例代表選挙と小選挙区選挙への重複立候補制の合憲性が問題となった。②事件原告らが比例代表制を違憲という主たる論拠は、投票が候補者に対してされるのでなく政党に対してされるという仕組みが、選挙人が候補者を直接選ぶことができないという意味において直接選挙の要請に反するというものである。この点は、合憲判決がされている参議院議員選挙についても既にあった問題であるが、参議院議員選挙の選挙無効請求訴訟においてはこのような主張はされてこなかったため、従来の大法廷判決も、明示的にはその合憲性の判断をしていない。また、重複立候補制を違憲という主たる論拠は、小選挙区選挙で落選させられた者が比例代表選挙では当選することができるという仕組みは小選挙区選挙で示された選挙人の意思に反する結果を認めるものであり、重複立候補することができる者が所定の要件を備えた大政党に所属する者に限られていることは合理性のない差別であるなどというものである。重複立候補制については、これまでこれを禁止してきた公職選挙法の原則に例外を設けるものである上、小選挙区選挙において落選した者、特に法定得票数に達しない者や票数が少ないため供託金を没収された者でも、名簿順位が高ければ比例代表選挙においては当選人となり得ることや、重複立候補者の順位を同じにしておいて小選挙区選挙におけるいわゆる惜敗率によって順位を決定するという仕組みについて、様々な角度から議論がされている。原告らは、このような仕組みが民意に反し、直接選挙の要請等に違反すると主張したものである。
そして、③事件は、小選挙区選挙の違憲無効を請求する事件であり、①事件と共通の争点のほか、小選挙区制それ自体の合憲性と、小選挙区選挙において候補者届出政党に選挙運動を認めたことの合憲性が争われた。原告が小選挙区制を違憲と主張する主たる論拠は、小選挙区制においては、相対多数を占めた者一人のみが当選するため、大政党が議席を独占することになり、死票率が大きいから、議会が正しく国民を代表した者で構成されることにならないなどというものである。また、候補者届出政党に選挙運動を認めたことが違憲であるという主たる論拠は、その結果、候補者届出政党に所属する候補者は、候補者自身の選挙運動に加え、政党の選挙運動の効果も受けることができ、これを受けられない候補者との間に著しい不平等を生ずるなどというものである。
二 ①事件において、大法廷の多数意見は、一人別枠方式は、人口の少ない県に居住する国民の意見も十分に国政に反映させることを目的とするもので、過疎化現象等に配慮して区割りをすることは国会の裁量の範囲内であるし、他方で較差を二倍未満に収めることを基本とするとしているのであるから、区画審設置法三条の規定が投票価値の平等の要請に反するとはいえず、その結果人口の少ない県に人口比例による場合より多めに定数が配分されることになっても、議員の国民代表的性格と矛盾しないなどと判断した上で、右の基準に従って定められた公職選挙法の区割規定は、選挙区間の人口較差が一対二・一三七あるいは一対二・三〇九にとどまっており、憲法一四条一項、四三条一項等に違反するものではないと判示した。これに対し、右区割規定を違憲とする五人の裁判官の反対意見がある。
②事件において、大法廷は、いわゆる拘束名簿式比例代表選挙は、政党の届け出た名簿に候補者名と当選人となるべき順位が記載されており、選挙人による投票の結果により当選人が決定されるのであるから、憲法の直接選挙の要請に反しないとした。また、重複立候補制については、大法廷は、二つの選挙に重複して立候補することを認めるか否かは、立法府が裁量により決定し得る事項であり、これを認める以上一方で落選した者が他方では当選人となることがあるのは当然であるなどとして、憲法に違反しないと判断した。
③事件において、大法廷は、小選挙区制の合憲性につき、死票は中選挙区制でもある問題であり、小選挙区制が特定の政党等にのみ有利であるということはできないなどとして、これを合憲とした。また、選挙運動に関しては、今回の改正が政策本位、政党本位の選挙を目指すものであり、そのため候補者届出政党にも選挙運動を認めることには合理性があり、その結果、候補者届出政党に属するか否かで一定の選挙運動上の差異を生ずるが、その差異は不可避的に生ずる程度のものであるから、違憲とはいえないとした。もっとも、政見放送は、小選挙区選挙については、候補者届出政党のみがすることができ、候補者はすることができないものとされたため、政見放送という選挙運動の手段に限ってみれば、程度の違いを超える差異があるというほかはなく、その合理性には疑問の余地があるといわざるを得ないが、それだけで選挙運動に関する規定が憲法に違反するとまではいえないと判断している。この選挙運動の規定の合憲性に関しては、五人の裁判官の共同反対意見があり、右の差異は不可避的な程度にとどまるものではなく合理性を有するとはいえないし、だれでも候補者届出政党の要件を備えることができるわけではないから、右規定は憲法に違反するというべきであるとしている。
三 本件各判決において示された憲法判断は、いずれも最高裁としての初めての判断であり、現行の小選挙区比例代表並立制の選挙制度が、立法論上のいくつかの議論の余地を抱えつつも、憲法論上は違憲とはいえないとされたものである。
まず、判示一についてみると、投票価値の平等の要請は憲法一四条一項に基づくもので、憲法自体は具体的選挙制度を予定したものではなく、国会が法律によって具体的に規定して初めて選挙制度が中選挙区制になったり小選挙区制になったりするものであることからするならば、憲法上許容される人口較差の限界についての考え方が具体的制度の改正に伴って変容するということは、困難であるように思われる。多数意見は、抜本的改正の当初から人口較差が二倍を超えたことの当否には議論があり得るとしつつ、最大較差が二・三〇九倍にとどまったことなどを根拠に合憲の判断をしており、従来の中選挙区制の下における判例が衆議院議員の選挙制度について暗黙の前提としてきたとみられる較差三倍以内は違憲と断じ得ないという考え方を、小選挙区制の下においても維持しているのではないかと推測される。これに対し、河合、遠藤、元原、梶谷各裁判官の共同反対意見は、較差を二倍未満にすることは、小選挙区制の下においては、中選挙区制の下における以上に厳しく要請されるとして、区割規定を違憲としており、また、福田裁判官の反対意見は、投票価値の平等の要請は厳格に遵守されるべきものであって、較差は可能な限り一対一に近付けなければならないとして、区割規定を違憲としている。
次に、判示二については、本判決は、重複立候補制を採用し、小選挙区選挙の落選者が比例代表選挙で当選し得るものとしたことについては、小選挙区選挙において示された民意に照らし議論があり得るとしつつ、国会の裁量の範囲内であると判断している。比例代表選挙において小選挙区選挙の結果をいわば覆し得ること、とりわけ小選挙区選挙において供託金を没収された者でも比例代表選挙において当選し得ることなどについては、既に様々な批判もされているところであるが、憲法の要請に反するとまでいえるかどうかについては、消極に解さざるを得ないであろう。
判示三については、比例代表制そのものは参議院議員選挙において先に導入され、同選挙に関する大法廷判決も、これが合憲であることを前提としていたとみられるが、本判決は、これを明示的に合憲としたものである。直接選挙の要請を満たすか否かは、選挙の結果が選挙人の意思により決定されるといえるか否かにより判断されるべきものである。比例代表選挙も、拘束名簿式であるならば、候補者名簿を作成し、その順位を決定するのが政党であっても、最終的に当落を決定しているのは政党ではなく選挙人の投票の結果であるから、憲法の直接選挙の要請に反しないというべきである。ただ、重複立候補をした複数の者が名簿上同順位とされた場合の当選人の決定は、比例代表選挙の結果のみでは決まらず、小選挙区選挙の結果を待たなければならないが、これも選挙人の意思を離れて当落が決まるものではないから、立法論上の当否は別として、憲法の要請には反しないというべきである。
判示四については、小選挙区制が死票を多く生ずる制度であることは、その欠点の一つといって差し支えなかろう。しかし、死票が多いことをもって違憲というなら、従来の中選挙区制もそのゆえに違憲と断じざるを得ないことになるし、小選挙区制には、本判決も述べるような中選挙区制や比例代表制にない特質もあり、プラス面、マイナス面を併せ考慮した上でいかなる制度を採用するか、またそれらをどのように組み合わせるかは、立法機関の裁量判断にゆだねられているものというほかはない。本判決が小選挙区制をもって「一つの合理的方法」といっているのは、憲法上許容される様々な選択肢の一つとしているもので、小選挙区制が他の制度より合理性が高いとしているものでないことは、いうまでもない。
判示五は、意見が分かれたが、反対意見も、政党に選挙運動を認めること自体は憲法に違反せず、政党所属の者とそうでない者との間に生ずる較差の程度と内容によっては、平等原則に反するというのであるから、候補者届出政党にも選挙運動を認めた結果生じた差異が政党に選挙運動を認めた結果生ずるやむを得ない程度のものか、それを超えて著しい差異を生じているかという評価の違いが結論を左右したといえよう。なお、政見放送を候補者届出政党にのみ認めたことについては、合憲判断をした多数意見においても、単なる程度の違いを超える大きな差異であり、そのような差異を設ける理由とされたところは十分合理的理由といい得るか疑問の余地があるとしており、これが選挙運動手段の一つにすぎないことから、全体としては違憲とまではいえないとしていることは、注目すべきであろう。政見放送を候補者届出政党にのみ認める規定だけを取り出せば、憲法論上も疑義なしとしないというのであり、この規定の見直しは、今後の法改正上の課題というべきであろう。

+判例(H11.11.10)同日。こっちの方だった(笑)
理由
上告人兼上告代理人森徹の上告理由、上告人Aの上告理由及び上告人Bの上告理由について
一 原審の適法に確定した事実関係等によれば、第八次選挙制度審議会は、平成二年四月、衆議院議員の選挙制度につき、従来のいわゆる中選挙区制にはいくつかの問題があったので、これを根本的に改めて、政策本位、政党本位の新たな選挙制度を採用する必要があるとして、いわゆる小選挙区比例代表並立制を導入することなどを内容とする答申をし、その後の追加答申等も踏まえて内閣が作成、提出した公職選挙法の改正案が国会において審議された結果、同六年一月に至り、公職選挙法の一部を改正する法律(平成六年法律第二号)が成立し、その後、右法律が同年法律第一〇号及び第一〇四号によって改正され、これらにより衆議院議員の選挙制度が従来の中選挙区単記投票制から小選挙区比例代表並立制に改められたものである。右改正後の公職選挙法(以下「改正公選法」という。)は、衆議院議員の定数を五〇〇人とし、そのうち、三〇〇人を小選挙区選出議員、二〇〇人を比例代表選出議員とした(四条一項)上、各別にその選挙制度の仕組みを定め、総選挙については、投票は小選挙区選出議員及び比例代表選出議員ごとに一人一票とし、同時に選挙を行うものとしている(三一条、三六条)。このうち小選挙区選出議員の選挙(以下「小選挙区選挙」という。)については、全国に三〇〇の選挙区を設け、各選挙区において一人の議員を選出し(一三条一項、別表第一)、投票用紙には候補者一人の氏名を記載させ(四六条一項)、有効投票の最多数を得た者をもって当選人とするものとしている(九五条一項)。また、比例代表選出議員の選挙(以下「比例代表選挙」という。)については、全国に一一の選挙区を設け、各選挙区において所定数の議員を選出し(一三条二項、別表第二)、投票用紙には一の衆議院名簿届出政党等の名称又は略称を記載させ(四六条二項)、得票数に応じて各政党等の当選人の数を算出し、あらかじめ届け出た順位に従って右の数に相当する当該政党等の名簿登載者(小選挙区選挙において当選人となった者を除く。)を当選人とするものとしている(九五条の二第一項ないし第五項)。これに伴い、各選挙への立候補の要件、手続、選挙運動の主体、手段等についても、改正が行われた。
本件は、改正公選法の衆議院議員選挙の仕組みに関する規定が憲法に違反し無効であるから、これに依拠してされた平成八年一〇月二〇日施行の衆議院議員総選挙のうち東京都選挙区における比例代表選挙は無効であると主張して提起された選挙無効訴訟である。
二 代表民主制の下における選挙制度は、選挙された代表者を通じて、国民の利害や意見が公正かつ効果的に国政の運営に反映されることを目標とし、他方、政治における安定の要請をも考慮しながら、それぞれの国において、その国の実情に即して具体的に決定されるべきものであり、そこに論理的に要請される一定不変の形態が存在するわけではない。我が憲法もまた、右の理由から、国会の両議院の議員の選挙について、およそ議員は全国民を代表するものでなければならないという制約の下で、議員の定数、選挙区、投票の方法その他選挙に関する事項は法律で定めるべきものとし(四三条、四七条)、両議院の議員の各選挙制度の仕組みの具体的決定を原則として国会の広い裁量にゆだねているのである。このように、国会は、その裁量により、衆議院議員及び参議院議員それぞれについて公正かつ効果的な代表を選出するという目標を実現するために適切な選挙制度の仕組みを決定することができるのであるから、国会が新たな選挙制度の仕組みを採用した場合には、その具体的に定めたところが、右の制約や法の下の平等などの憲法上の要請に反するため国会の右のような広い裁量権を考慮してもなおその限界を超えており、これを是認することができない場合に、初めてこれが憲法に違反することになるものと解すべきである(最高裁昭和四九年(行ツ)第七五号同五一年四月一四日大法廷判決・民集三〇巻三号二二三頁、最高裁昭和五四年(行ツ)第六五号同五八年四月二七日大法廷判決・民集三七巻三号三四五頁、最高裁昭和五六年(行ツ)第五七号同五八年一一月七日大法廷判決・民集三七巻九号一二四三頁、最高裁昭和五九年(行ツ)第三三九号同六〇年七月一七日大法廷判決・民集三九巻五号一一〇〇頁、最高裁平成三年(行ツ)第一一一号同五年一月二〇日大法廷判決・民集四七巻一号六七頁、最高裁平成六年(行ツ)第五九号同八年九月一一日大法廷判決・民集五〇巻八号二二八三頁及び最高裁平成九年(行ツ)第一〇四号同一〇年九月二日大法廷判決・民集五二巻六号一三七三頁参照)。

三 右の見地に立って、上告理由について判断する。
1 改正公選法八六条の二は、比例代表選挙における立候補につき、同条一項各号所定の要件のいずれかを備えた政党その他の政治団体のみが団体の名称と共に順位を付した候補者の名簿を届け出ることができるものとし、右の名簿の届出をした政党その他の政治団体(衆議院名簿届出政党等)のうち小選挙区選挙において候補者の届出をした政党その他の政治団体(候補者届出政党)はその届出に係る候補者を同時に比例代表選挙の名簿登載者とすることができ、両選挙に重複して立候補する者については右名簿における当選人となるべき順位を同一のものとすることができるという重複立候補制を採用している。重複立候補者は、小選挙区選挙において当選人とされた場合には、比例代表選挙における当選人となることはできないが、小選挙区選挙において当選人とされなかった場合には、名簿の順位に従って比例代表選挙の当選人となることができ、後者の場合に、名簿において同一の順位とされた者の間における当選人となるべき順位は、小選挙区選挙における得票数の当該選挙区における有効投票の最多数を得た者に係る得票数に対する割合の最も大きい者から順次に定めるものとされている(同法九五条の二第三ないし第五項)。同法八六条の二第一項各号所定の要件のうち一号、二号の要件は、同法八六条一項一号、二号所定の候補者届出政党の要件と同一であるから、これらの要件を充足する政党等に所属する者は小選挙区選挙及び比例代表選挙に重複して立候補することができるが、右政党等に所属しない者は、同法八六条の二第一項三号所定の要件を充足する政党その他の政治団体に所属するものにあっては比例代表選挙又は小選挙区選挙のいずれかに、その他のものにあっては小選挙区選挙に立候補することができるにとどまり、両方に重複して立候補することはできないものとされている。また、右の名簿に登載することができる候補者の数は、各選挙区の定数を超えることができないが、重複立候補者はこの計算上除外されるので、候補者届出政党の要件を充足した政党等は、右定数を超える数の候補者を名簿に登載することができることとなる(同条五項)。そして、衆議院名簿届出政党等のすることができる自動車、拡声機、ポスターを用いた選挙運動や新聞広告、政見放送等の規模は、名簿登載者の数に応じて定められている(同法一四一条三項、一四四条一項二号、一四九条二項、一五〇条五項等)。さらに、候補者届出政党は、小選挙区選挙の選挙運動をすることができるほか、衆議院名簿届出政党等でもある場合には、その小選挙区選挙に係る選挙運動が同法の許す態様において比例代表選挙に係る選挙運動にわたることを妨げないものとされている(同法一七八条の三第一項)。
右のような改正公選法の規定をみると、立候補の機会において、候補者届出政党に所属する候補者は重複立候補をすることが認められているのに対し、それ以外の候補者は重複立候補の機会がないものとされているほか、衆議院名簿届出政党等の行うことができる選挙運動の規模において、重複立候補者の数が名簿登載者の数の制限の計算上除外される結果、候補者届出政党の要件を備えたものは、これを備えないものより規模の大きな選挙運動を行うことができるものとされているということができる。
論旨は、右のような重複立候補制に係る改正公選法の規定は、重複立候補者が小選挙区選挙で落選しても比例代表選挙で当選することができる点において、憲法前文、四三条一項、一四条一項、一五条三項、四四条に違反し、また、重複立候補をすることができる者ないし候補者届出政党の要件を充足する政党等と重複立候補をすることができない者ないし右要件を充足しない政党等とを差別的に取り扱うものであり、選挙人の選挙権の十全な行使を侵害するものであって、憲法一五条一項、三項、四四条、一四条一項、四七条、四三条一項に違反し、さらに、選挙の時点で候補者名簿の順位が確定しないものであるから直接選挙といえず、憲法四三条一項、一五条一項、三項に違反するなどというのである。
2 【要旨第一】重複立候補制を採用し、小選挙区選挙において落選した者であっても比例代表選挙の名簿順位によっては同選挙において当選人となることができるものとしたことについては、小選挙区選挙において示された民意に照らせば、議論があり得るところと思われる。しかしながら、前記のとおり、選挙制度の仕組みを具体的に決定することは国会の広い裁量にゆだねられているところ、同時に行われる二つの選挙に同一の候補者が重複して立候補することを認めるか否かは、右の仕組みの一つとして、国会が裁量により決定することができる事項であるといわざるを得ない改正公選法八七条は重複立候補を原則として禁止しているが、これは憲法から必然的に導き出される原理ではなく、立法政策としてそのような選択がされているものであり、改正公選法八六条の二第四項が政党本位の選挙を目指すという観点からこれに例外を設けたこともまた、憲法の要請に反するとはいえない重複して立候補することを認める制度においては、一の選挙において当選人とされなかった者が他の選挙において当選人とされることがあることは、当然の帰結である。したがって、重複立候補制を採用したこと自体が憲法前文、四三条一項、一四条一項、一五条三項、四四条に違反するとはいえない
もっとも、衆議院議員選挙において重複立候補をすることができる者は、改正公選法八六条一項一号、二号所定の要件を充足する政党その他の政治団体に所属する者に限られており、これに所属しない者は重複立候補をすることができないものとされているところ、被選挙権又は立候補の自由が選挙権の自由な行使と表裏の関係にある重要な基本的人権であることにかんがみれば、合理的な理由なく立候補の自由を制限することは、憲法の要請に反するといわなければならない。しかしながら、右のような候補者届出政党の要件は、国民の政治的意思を集約するための組織を有し、継続的に相当な活動を行い、国民の支持を受けていると認められる政党等が、小選挙区選挙において政策を掲げて争うにふさわしいものであるとの認識の下に、第八次選挙制度審議会の答申にあるとおり、選挙制度を政策本位、政党本位のものとするために設けられたものと解されるのであり、政党の果たしている国政上の重要な役割にかんがみれば、選挙制度を政策本位、政党本位のものとすることは、国会の裁量の範囲に属することが明らかであるといわなければならない。したがって、同じく政策本位、政党本位の選挙制度というべき比例代表選挙と小選挙区選挙とに重複して立候補することができる者が候補者届出政党の要件と衆議院名簿届出政党等の要件の両方を充足する政党等に所属する者に限定されていることには、相応の合理性が認められるのであって、不当に立候補の自由や選挙権の行使を制限するとはいえず、これが国会の裁量権の限界を超えるものとは解されない
そして、行うことができる選挙運動の規模が候補者の数に応じて拡大されるという制度は、衆議院名簿届出政党等の間に取扱い上の差異を設けるものではあるが、選挙運動をいかなる者にいかなる態様で認めるかは、選挙制度の仕組みの一部を成すものとして、国会がその裁量により決定することができるものというべきである。一般に名簿登載者の数が多くなるほど選挙運動の必要性が増大するという面があることは否定することができないところであり、重複立候補者の数を名簿登載者の数の制限の計算上除外することにも合理性が認められるから、前記のような選挙運動上の差異を生ずることは、合理的理由に基づくものであって、これをもって国会の裁量の範囲を超えるとはいえない。これが選挙権の十全な行使を侵害するものでないことも、また明らかである。したがって、右のような差異を設けたことが憲法一五条一項、三項、四四条、一四条一項、四七条、四三条一項に違反するとはいえない。
また、【要旨第二】政党等にあらかじめ候補者の氏名及び当選人となるべき順位を定めた名簿を届け出させた上、選挙人が政党等を選択して投票し、各政党等の得票数の多寡に応じて当該名簿の順位に従って当選人を決定する方式は、投票の結果すなわち選挙人の総意により当選人が決定される点において、選挙人が候補者個人を直接選択して投票する方式と異なるところはない。複数の重複立候補者の比例代表選挙における当選人となるべき順位が名簿において同一のものとされた場合には、その者の間では当選人となるべき順位が小選挙区選挙の結果を待たないと確定しないことになるが、結局のところ当選人となるべき順位は投票の結果によって決定されるのであるから、このことをもって比例代表選挙が直接選挙に当たらないということはできず、憲法四三条一項、一五条一項、三項に違反するとはいえない

3 論旨はまた、改正公選法の一三条二項及び別表第二の定める南関東選挙区の比例代表選挙の定数と同選挙区内の同条一項及び同法別表第一の定める小選挙区選挙の定数との合計数が五五となるのに対し、同東海選挙区のそれは五七となり、この合計数でみるならば、人口の多い南関東選挙区に人口の少ない東海選挙区より少ない定数が配分されるという逆転現象が生じており、これが憲法一四条一項、一五条一項、三項、四四条の各規定による投票価値の平等の要請に違反するとも主張する。
しかしながら、所論のように選挙区割りを異にする二つの選挙の議員定数を一方の選挙の選挙区ごとに合計して当該選挙区の人口と議員定数との比率の平等を問題とすることには、合理性がないことが明らかであり、比例代表選挙の無効を求める訴訟においては、小選挙区選挙の仕組みの憲法適合性を問題とすることはできないというほかはない。そして、比例代表選挙についてみれば、投票価値の平等を損なうところがあるとは認められず、その選挙区割りに憲法に違反するところがあるとはいえない。したがって、改正公選法の一三条二項及び別表第二の規定が憲法一四条一項、一五条一項、三項、四四条に違反するとは認められない。
4 以上と同旨の原審の判断は、正当として是認することができ、原判決が憲法前文、一三条、一四条一項、一五条一項、三項、四三条一項、四四条、四七条等に違反するとはいえず、所論の理由の食違いの違法もない。論旨は採用することができない。
よって、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 山口繁 裁判官 小野幹雄 裁判官 千種秀夫 裁判官 河合伸一 裁判官 遠藤光男 裁判官 井嶋一友 裁判官 福田博 裁判官 藤井正雄 裁判官 元原利文 裁判官 金谷利廣 裁判官 北川弘治 裁判官 亀山継夫 裁判官 奥田昌道 裁判官 梶谷玄)


憲法択一 人権 基本的人権の限界 特別の権力関係における人権 全逓 都教組 全司法 全農林


・公共企業体等労働関係法における争議権規制の合憲性が争われた判例は、憲法15条を根拠として、公務員に対して労働基本権をすべて否定するようなことは許されないとして、抽象的な「公共の福祉」論と、「全体の奉仕者」論を否定!!!!!

+28条
勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利は、これを保障する。

+27条
1項 すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負う。
2項 賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める。
3項 児童は、これを酷使してはならない。

+25条
1項 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2項 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

+判例(S41.10.26)全逓東京中郵事件
理由
被告人らの上告趣意および弁護人東城守一、同山本博の上告趣意について。
上告趣意は、憲法違反、判例違反等、論旨多岐にわたるが、要するに、公共企業体等労働関係法(以下公労法と略称する。)一七条一項は憲法二八条に違反する旨の主張と公労法一七条一項に違反する争議行為には労働組合法(以下労組法と略称する。)一条二項の規定の適用があると解すべきである旨の主張とを骨子とするものである。これらの点について、当裁判所は、つぎのとおり判断する。
一 憲法二八条は、いわゆる労働基本権、すなわち、勤労者の団結する権利および団体交渉その他の団体行動をする権利を保障している。この労働基本権の保障の狙いは、憲法二五条に定めるいわゆる生存権の保障を基本理念とし、勤労者に対して人間に値する生存を保障すべきものとする見地に立ち、一方で、憲法二七条の定めるところによつて、勤労の権利および勤労条件を保障するとともに、他方で、憲法二八条の定めるところによつて、経済上劣位に立つ勤労者に対して実質的な自由と平等とを確保するための手段として、その団結権、団体交渉権、争議権等を保障しようとするものである。
このように、憲法自体が労働基本権を保障している趣旨にそくして考えれば、実定法規によつて労働基本権の制限を定めている場合にも、労働基本権保障の根本精神にそくしてその制限の意味を考察すべきであり、ことに生存権の保障を基本理念とし、財産権の保障と並んで勤労者の労働権・団結権・団体交渉権・争議権の保障をしている法体制のもとでは、これら両者の間の調和と均衡が保たれるように、実定法規の適切妥当な法解釈をしなければならない
右に述べた労働基本権は、たんに私企業の労働者だけについて保障されるのではなく、公共企業体の職員はもとよりのこと、国家公務員やを方公務員も、憲法二八条にいう勤労者にほかならない以上、原則的には、その保障を受けるべきものと解される。「公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない」とする憲法一五条を根拠として、公務員に対して右の労働基本権をすべて否定するようなことは許されないただ、公務員またはこれに準ずる者については、後に述べるように、その担当する職務の内容に応じて、私企業における労働者と異なる制約を内包しているにとどまると解すべきである
労働基本権のうちで、団体行動の一つである争議をする権利についていえば、勤労者がする争議行為は、正当な限界をこえないかぎり、憲法の保障する権利の行使にほかならないから、正当な事由に基づくものとして、債務不履行による解雇、損害賠償等の問題を生ずる余地がなく、また、違法性を欠くものとして、不法行為責任を生ずることもない。労組法七条で、労働者が労働組合の正当な行為をしたことの故をもつて、使用者がこれを解雇し、その他これに対して不利益な取扱いをすることを禁止し、また、同八条で、同盟罷業そま他の争議行為であるつて正当なものによつて損害をうけたことの故をもつて、使用者が労働組合またはその組合員に対して、損害賠償を請求することができない旨を規定しているのは、右に述べた当然のことを明示的にしたものと解される。このような見地からすれば、同盟罷業その他の争議行為であつて労組法の目的を達成するためにした正当なものが刑事制裁の対象とならないことは、当然のことである。労組法一条二項で、刑法三五条の規定は、労働組合の団体交渉その他の行為であつて労組法一条一項に掲げる目的を達成するためにした正当なものについて適用があるとしているのは、この当然のことを注意的に規定したものと解すべきである。また、同条二項但書で、いかなる場合にも、暴力の行使は、労働組合の正当な行為と解釈されてはならないと規定しているが、これは争議行為の正当性の一つの限界を示し、この限界をこえる行為は、もはや刑事免責を受けないことを明らかにしたものというべきである。

二 右に述べたように、勤労者の団結権・団体交渉権・争議権等の労働基本権は、すべての勤労者に通じ、その生存権保障の理念に基づいて憲法二八条の保障するところであるが、これらの権利であつて、もとより、何らの制約も許されない絶対的なものではないのであつて、国民生活全体の利益の保障という見地からの制約を当然の内在的制約として内包しているものと解釈しなければならない。しかし、具休的にどのような制約が合憲とされるかについては、諸般の条件、ことに左の諸点を考慮に入れ、慎重に決定する必要がある。(1)労働基本権の制限は、労働基本権を尊重確保する必要と国民生活全体の利益を維持増進する必要とを比較衡量して、両者が適正な均衡を保つことを目途として決定すべきてあるが、労働基本権が勤労者の生存権に直結し、それを保障するための重要な手段である点を考慮すれば、その制限は、合理性の認められる必要最小限度のものにとどめなければならない。(2)労働基本権の制限は、勤労者の提供する職務または業務の性質が公共性の強いものであり、したがつてその職務または業務の停廃が国民生活全体の利益を害し、国民生活に重大な障害をもたらすおそれのあるものについて、これを避けるために必要やむを得ない場合について考慮されるべきである。(3)労働基本権の制限違反に伴う法律効果、すなわち、違反者に対して課せられる不利益については、必要な限度をこえないように、十分な配慮がなされなければならない。とくに、勤労者の争議行為等に対して刑事制裁を科することは、必要やむを得ない場合に限られるべきであり、同盟罷業、怠業のような単純な不作為を刑罰の対象とするについては、特別に慎重でなければならないけだし現行法上、契約上の債務の単なる不履行は、債務不履行の問題として、これに契約の解除、損害賠償責任等の民事的法律効果が伴うにとどまり、刑事上の問題としてこれに刑罰が科せられないのが原則である。このことは、人権尊重の近代的思想からも、刑事制裁は反社会性の強いもののみを対象とすべきであるとの刑事政策の理想からも、当然のことにほかならない。それは債務が雇傭契約ないし労働契約上のものである場合でも異なるところがなく、労務者がたんに労務を供給せず(罷業)もしくは不完全にしか供給しない(怠業)ことがあつても、それだけでは、一般的にいつて、刑事制裁をもつてこれに臨むべき筋合ではない。(4)職務または業務の性質上からして労働基本権を制限することがやむを得ない場合には、これに見合う代償措置が講ぜられなければならない。
以上に述べたところは、労働基本権の制限を目的とする法律を制定する際に留意されなければならないばかりでなく、すでに制定されている法律を解釈適用するに際しても、十分に考慮されなければならない。

三 そこで、労働基本権制限の具体的態様についてみるに、法律によつて定めるところがまちまちであり、かつ、幾度かの改廃を経て現在に至つている。すなわち、昭和二三年七月三一日政今第二〇一号が制定施行されるまでは、国家公務員や地方公務員も、一定の職員を除いて、一般の勤労者と同様に、団結雇・団体交渉権・争議権等について制限されることなく、争議行為も許されていた政令第二〇一号の制定施行によつて、公務員は、国家公務員たると地方公務員たるとを問わず、何人も同盟罷業、怠業はもちろん、国または地方公共団体の業務の運営・能率を阻害する一切の争議行為を禁止され、これに違反した者は、刑罰を科せられることになつた。しかし、昭和二三年一二月三日改正施行された国家公務員法では、一切の争議行為が禁止されたことは右の政令と同様であるが、たんに争議行為に参加したにすぎない者は処罰されることがなく、争議行為の遂行を共謀し、そそのかし、もしくはあおり、またはこれらの行為を企てた者だけが処罰されることになつた(昭和四〇年法律第六九号による改正前の国家公務員法九八条五項、一一〇条一項一七号、なお、地方公務員法三七条一項、六一条四号参照)。ところが、昭和二三年一二月二〇日に公布され、翌二四年六月一日から施行された公共企業体労働関係法では、国鉄・専売公社はいわゆる公共企業体と呼ばれ、その職員は、一切の争議行為を禁止されたけれども、その違反に対しては、刑事制裁に関する規定を欠き、同法に違反する行為をしたことそのことを理由として同法によつて刑事責任を問われることはなくなつた。昭和二七年七月三一日の同法の改正では、被告人ら郵政職員を含むいわゆる五現業の職員の争議行為等について、国家公務員法の規定の適用が排除され、新らしい公共企業体等労働関係法の関係規定が適用されることになつた。したがつて、郵政職員の争議行為は、公労法一七条一項によつて禁止されていることが明らかであるが、その違反に対しては、これを共謀、教唆、煽動、企図したものであるといなとを問わず、禁止の違反そのものを理由として同法によつて刑事責任を問われることはなくなつた
以上の関係法令の制定改廃の経過に徴すると、公労法適用の職員については、公共企業体の職員であると、いわゆる五現業の職員であるとを問わず、憲法の保障する労働基本権を尊重し、これに対する制限は必要やむを得ない最小限度にとどめるべきであるとの見地から、争議行為禁止違反に対する制裁をしだいに緩和し、刑事制裁は、正当性の限界をこえないかぎり、これを科さない趣旨であると解するのが相当である。

四 右のよらな経過をたどつてきた現行の公労法の規定について検討するに、その一七条一項は、いわゆる五現業および三公在の業務に従事する職員およびその組合は、公共企業体等に対して同盟罷業、怠業、その他業務の正常な運営を阻害する一切の行為をすることができないこと、また、右職員ならびに組合の組合員および役員は、このような禁止された行為を共謀し、そそのかし、もしくはあおつてはならないことを規定している。この規定は、職員等の行為がたんなる債務不履行またはそれをそそのかす等の行為であつても、それが業務の正常な運営を阻害するものであるかぎり、これを違法とするものであつて、その意味で憲法二八条の保障する争議権を制限するものであることは明らかである。
上告趣意は、公労法一七条一項の規定が憲法二八条および一八条に違反して無効であるという。しかし、右の規定が憲法の右の法条に違反するものでないことは、すでに当裁判所の判例とするところであり(前者については、昭和二六年(あ)第一六八八号同三〇年六月二二日大法廷判決、刑集九巻八号一一八九頁、後者については、昭和二四年(れ)第六八五号同二八年四月八日大法廷判決、刑集七巻四号七七五頁)、公労法一七条一項の規定が違憲でないとする結論そのものについては、今日でも変更の必要を認めない。その理由をすこし詳しく述べると、つぎのとおりである。
憲法二八条の保障する労働基本権は、さきに述べたように、何らの制約も許されない絶対的なものではなく、国民生活全体の利益の保障という見地からの制約を当然に内包しているものと解すべきである。いわゆる五現業および三公社の職員の行なう業務は、多かれ少なかれ、また、直接と間接との相違はあつても、等しく国民生活全体の利益と密接な関連を有するものであり、その業務の停廃が国民生活全体の利益を害し、国民生活に重大な障害をもたらすおそれがあることは疑いをいれない。他の業務はさておき、本件の郵便業務についていえば、その業務が独占的なものであり、かつ、国民生活全体との関連性がきわめて強いから、業務の停廃は国民生活に重大な障害をもたらすおそれがあるなど、社会公共に及ぼす影響がきわめて大きいことは多言を要しないそれ故に、その業務に従事する郵政職員に対してその争議行為を禁止する規定を設け、その禁止に違反した者に対して不利益を課することにしても、その不利益が前に述べた基準に照らして必要な限度をこえない合理的なものであるかぎり、これを違憲懸無効ということはてきない
この観点から公労法一七条一項の定める争議行為の禁止の違反に対する制裁をみるに、公労法一八条は、同一七条に違反する行為をした職員は解雇されると規定し、同三条は、公共企業体等の職員に関する労働関係について、労組法の多くの規定を適用することとしながら、労働組合または組合員の損害賠償責任に関する労組法八条の規定をとくに除外するとしている。争議行為禁止違反が違法であるというのは、これらの民事責任を免れないとの意味においてである。そうして、このような意味で争議行為を禁止することについてさえも、その代償として、右の職員については、公共企業体等との紛争に関して、公共企業体等労働委員会によるあつせん、調停および仲裁の制度を設け、ことに、公益委員をもつて構成される仲裁委員会のした仲裁裁定は、労働協約と同一の効力を有し、当事者双方を拘束するとしている。そうしてみれば、公労法一七条一項に違反した者に対して、右のような民事責任を伴う争議行為の禁止をすることは、憲法二八条、一八条に違反するものでないこと疑いをいれない

五 つぎに、公労法一七条一項に違反して争議行為をした者に対する刑事制裁について見るに、さきに法制の沿革について述べたとおり、争議行為禁止の違反に対する制裁はしだいに緩和される方向をとり、現行の公労法は特別の罰則を設けていない。このことは、公労法そのものとしては、争議行為禁止の違反について、刑事制裁はこれを科さない趣旨であると解するのが相当である。公労法三条で、刑事免責に関する労組法一条二項の適用を排除することなく、これを争議行為にも適用することとしているのは、この趣旨を裏づけるものということができる。そのことは、憲法二八条の保障する労働基本権尊重の根本精神にのつとり、争議行為の禁止違反に対する効果または制裁は必要最小限度にとどめるべきであるとの見地から、違法な争議行為に関しては、民事責任を負わせるだけで足り、刑事制裁をもつて臨むべきではないとの基本的態度を示したものと解することができる
この点で参考になるのは、国家公務員法および地方公務員法の適用を受ける非現業の公務員の争議行為に対する刑事制裁との比較である。この制裁としては、争議行為を共謀し、そそのかし、もしくはあおり、またはこれらの行為を企てた者だけを罰することとしている(昭和四〇年法律第六九号による改正前の国家公務員法九八条五項、一一〇条一項一七号、地方公務員法三七条一項、六一条四号)。その趣旨は、一方で、これらの公務員の争議行為は公共の福祉の要請によつて禁止されるけれども、他方で、これらの公務員も勤労者であり、憲法によつて労働基本権を保障されているから、この要請と保障を適当に調整するために、単純に争議行為を行なつた者に対しては、民事制裁を課するにとどめ、積極的に争議行為を指導した者にかぎつて、さらに刑事制裁を科することにしたものと認められる。右の公務員と公労法の適用を受ける公共企業体等の現業職員とを比較すれば、右の公務員の職務の方か公共性の強いことは疑いをいれない。その公務員の争議行為に対してさえも、刑事法上の制裁は積極的に争議行為を指導した者だけに科せられ、単純に争議行為を行なつた者には科せられない。そうしてみれば、公共企業体等の現業職員の争議行為には、それより軽い制裁を科するか、制裁を科さないのが当然である。ところで、公労法は刑事制裁に関して、なにも規定していないから、これを科さない趣旨であると解するのが相当である。
このように見てくると、公労法三条が労組法一条二項の適用があるものとしているのは、争議行為が労組法一条一項の目的を達成するためのものであり、かつ、たんなる罷業または怠業等の不作為が存在するにとどまり、暴力の行使その他の不当性を伴わない場合には、刑事制裁の対象とはならないと解するのが相当である。それと同時に、争議行為が刑事制裁の対象とならないのは、右の限度においてであつて、もし争議行為が労組法一条一項の目的のためでなくして政治的目的のために行なわれたような場合であるとか、暴力を伴う場合てあるとか、社会の通念に照らして不当に長期に及ぶときのように国民生活に重大な障害をもたらす場合には、憲法二八条に保障された争議行為としての正当性の限界をこえるもので、刑事制裁を免れないといわなければならない。これと異なり、公共企業体等の職員のする争議行為について労組法一条二項の適用を否定し、争議行為について正当性の限界のいかんを論ずる余地がないとした当裁判所の判例(昭和三七年(あ)第一八〇三号同三八年三月一五日第二小法廷判決、刑集一七巻二号二三頁)は、これを変更すべきものと認める。

六 ところで、郵便法の関係について見るに、その七九条一項は、郵便の業務に従事する者がことさらに郵便の取扱をせずまたはこれを遅延させたときは、一年以下の懲役または二万円以下の罰金に処すると規定している。このことは、債務不履行不可罰の原則に対する例外を規定したものとして注目に値することであるが、郵便業務の強い公共性にかんがみれば、右の程度の罰則をもつて臨むことには、合理的な理由があるもので、必要の限度をこえたものということはできない(郵便物運送委託法二一条参照)。この罰則は、もつぱら争議行為を対象としたものでないことは明白であるが、その反面で、郵政職員が争議行為として右のような行為をした場合にその適用を排除すべき理由も見出しがたいので、争議行為にも適用があるものと解するほかはない。ただ、争議行為が労組法一条一項の目的のためてあり、暴力の行使その他の不当性を伴わないときは、前に述べたように、正当な争議行為として刑事制裁を科せられないものであり、労組法一条二項が明らかにしているとおり、郵便法の罰則は適用されないこととなる。これを逆にいえば、争議行為が労組法一条一項の目的に副わず、または暴力の行使その他の不当性を伴う場合には、右の罰則が適用される。また、その違法な争議を教唆した者は、刑法の定めるところにより、共犯の責を免れない。

七 具体的に本件についてみるに、第一審判決は、公訴事実に基づいて、Aら三八名の行為を郵便法七九条一項前段違反の構成要件に該当すると認定した。原判決は、前述の第二小法廷の判決に従つて、公共企業体等の職員は、公労法一七条一項によつて争議行為を禁止され、争議権自体を否定されているのであるから、もし右のような事実関係があるとすれば、その争議行為について正当性の限界いかんを論ずる余地はなく、労組法一条二項の適用はないとしている。
しかし、本件被告人らは、本件の行為を争議行為としてしたものであることは、第一審判決の認定しているとおりであるから、Aらの行為については、さきに述べた憲法二八条および公労法一七条一項の合理的解釈に従い、労組法一条二項を適用して、はたして同条項にいう正当なものであるかいなかを具体的事実関係に照らして認定判断し、郵便法七九条一項の罪責の有無を判断しなければならないところである。したがつて、原判決の右判断は、法令の解釈適用を誤つたもので、その違法は判決に影響を及ぼすこと明らかであり、これを破棄しなければいちじるしく正義に反するものといわなければならない。
以上の判断に照らせば、公労法一七条一項および原判決が憲法一一条、一四条、一八条、二五条、二八条、三一条、九八条に違反する旨の各論旨は理由なきに帰する。よつて、その余の論旨に対する判断を省略し、原判決を破棄し、さらに審理を尽させるために、本件を東京高等裁判所に差し戻すものとし、刑訴法四一一条一号、四一三条本文により、主文のとおり判決する。
この判決は、裁判官松田二郎、同岩田誠の補足意見、裁判官奥野健一、同五鬼上堅磐、同草鹿浅之介、同石田和外の反対意見があるほか、裁判官全員一致の意見によるものである。

+補足意見
裁判官松田二郎の補足意見は次のとおりである。
当裁判所昭和三七年(あ)第一八〇三号同三八年三月一五日第二小法廷判決によれば、公労法一七条一項が争議行為を禁止し争議権自体を否定している以上、これに違反してなされた争議行為については正当性の限界いかんを論ずる余地はなく、したがつて労組法一条二項の適用はないというのである。これに対し本判決は、この判例を変更するものであるが、私は多数意見を補足して若干意見を述べたい。
(一)前記第二小法廷判決の見解は、ある行為かいずれかの法令により違法とされる以上、刑法上も当然違法であり、従つてそのような行為につき刑法上違法性の阻却されることはありえない、という考えを前提とするものである。なるほど、行為が違法であるか否かは、法秩序全体の観点からする判断であるから、ある行為が一つの法規によつて禁ぜられ違法とされた場合には、それは他の法域においても一応違法なものと考えられよう。しかし、同じ法域、たとえば、同じ民事法の範囲内においてすら、法規違反の行為とされるものの中にも、その効力が否定されて無効となるものとしからざるものとがあり、また行為を無効ならしめる場合の違法性と不法行為の要件としての行為の違法性とは、その反社会性の程度において必ずしも同一ではありえない。いわんや、法域を異にする場合、それぞれの法域において問題となる違法性の程度は当該法規の趣旨・目的に照らして決定されるところてあり、従つて刑法において違法とされるか否かは、他の法域における違法性とは無関係ではないが、しかし別個独立に考察されるべき問題なのである。この理は、刑法と労働法との間においても全く同様であり、労働法規が争議行為を禁止してこれを違法として解雇などの不利益な効果を与えているからといつて、そのことから直ちにその争議行為が刑罰法規における違法性、すなわちいわゆる可罰的違法性までをも帯びているということはできない。ことに、刑罰がこれを科せられる者に対し強烈な苦痛すら伴う最も不利益な法的効果をもたらす性質上、刑罰法規の要求する違法性は他の法域におけるそれよりも一般に高度の反社会性を帯びたものであるべきである。しかしてこの見地に立つて前記第二小法廷の判決を見るとき、それは、行為の違法性を一義的に解して法域によるその反社会性の段階または程度の差を認めず、公労法上違法とされた争議行為は、当然に刑法上においても違法だとした前提において、既に誤つているものというべきである。
(二)本件の問題たる公共企業体等の職員の争議行為についていえば、それは昭和二三年政令第二〇一号の施行以来現行の公労法に至るまで禁止されているが、多数意見の説示するように、これに対する刑事制裁はしだいに緩和される方向に向い、現在においては単に争議行為をし、あるいはこれを共謀し、そそのかし、もしくはあおつたことだけのゆえをもつては、これに対し刑罰を科することなく、解雇を認めるにとどまつているのである。しかして、多数意見がその一および二において憲法の定める労働基本権の尊重を説示し、これに対する制約に限度あることを強調することに思をいたし、更に公労法三条が争議行為を含む労働組合の団体交渉その他の行為のいわゆる刑事免責に関する労組法一条二項の適用をあえて排除していないこと(その明文上争議行為の場合を除外していないことは明白である。)に照らせば、公共企業体等の職員の行なう争議行為は、公労法上違法ではあるとしても、争議行為として正当な範囲内にとどまるものと認められるかぎり、右の違法性は刑罰法規一般の予定する違法性、すなわち可罰的違法性の程度には達していないものと解すべきである。従つて、その行為が刑罰法規の構成要件に該当する場合においても、それが争議行為の正当な範囲内にとどまるかぎり、刑罰を科するに足る高度の反社会性を欠くものとしてその違法性は阻却されるものというべきてある。このように解するときは、本件被告人らの行為が郵便法七九条一項に該当するとしても、労組法一条二項により改めてその正当性の有無を検討しなければならないことになるのである。

+補足意見
裁判官岩田誠の補足意見は次のとおりである。
私は、行為の違法性論の見地からする松田裁判官の意見にすべて同調するものであるが、なお、やや異なつた視点から、公共企業体等の職員の争議行為に労組法一条二項の適用を認むべき理由につき、一言意見を述べておきたい。
公労法は、その一七条一項によつて公共企業体等の職員の争議行為を禁止しながら、その禁止違反に対する罰則を置いていない。しかし、一方において郵便法七九条一項は「郵便の業務に従事する者がことさらに郵便の取扱をせず、又はこれを遅延させたときは、これを一年以下の懲役又は二万円以下の罰金に処する。」と規定している。この郵便法の規定は、争議行為として行われた行為だけを予定したものではないが、郵政職員が争議行為として同盟罷業または怠業をした場合も一応この構成要件に該当することになるから、もしその行為に労組法一条二項による違法性阻却の余地が全くないのならば、少なくとも郵政職賃に関するかぎりは、実質において争議行為そのものを処罰する規定があるのと異ならないことになる(なお、日本電信電話公社の職員については、公衆電気通信法一一〇条一項参照)。しかし、このような結論を認めることがはたして法の趣旨に合致した合理的な解釈だといえるであろうか。以下、私は、この結論が現行法秩序の精神に反するものであることを明らかにして、公労法違反の争議行為に労組法一条二項を適用する余地なしとする見解の誤りであることを指摘してみたいと思う。(イ)第一に、公労法は公共企業体等の職員の労働関係についての基本法ともいうべきものであつて、その争議行為の禁止も同法中に規定されているのであるから、もしその禁止に反する争議行為そのものを処罰しようとするのであれば、本来同法中にその罰則が設けられてしかるべきである。かりに公労法以外の法令に設けるとしても、少なくとも争議行為を予定した労働関係の規定として設けられるべきものである(例えば、自衛隊法六四条、一一九条一項三号、二項、一二〇条一項一号、二項、一二二条一項一号、二項)。また、そればかりでなく、もし郵便法の前記罰条によつて争議行為が処罰されるのならば、なぜ郵政職員を他の公共企業体等の職員なかんずく日本国有鉄道の職員と区別してその争議行為に刑事制裁を科するのか、その合理的な理由を十分説明することができないであろう(国鉄職員については、郵便法七九条一項に相当する規定は存在しない。また、鉄道営業法二五条の罰則も、国鉄職員が単なる同盟罷業または怠業をした場合に当然に適用があるものでないことは、その構成要件上明らかであり、争議行為としてなされた行為が同条に該当する場合には、むしろそれは労組法一条二項にいう正当な争議行為とはいえないであろう。)。(ロ)次に立法の沿革からみると、そもそも郵便法の前記罰条は、旧郵便法五三条の規定を継承して昭和二二年一二月一二日法律第一六五号によつて設けられ昭和二三年一月一日から施行されたものであるが、この当時は郵政職員を含む一般の国家公務員の争議行為は禁止されておらず、したがつて争議行為としてした行為が同条項に該当した場合、当時の労組法(昭和二四年法律第一七四号による改正前の昭和二〇年法律第五一号)一条二項(現行法一条二項と同旨)の適用があるのは当然のことと解されていた。その後昭和二三年七月三一日政令第二〇一号によつて公務員の争議行為が禁止され、かつその違反に対して刑罰が科せられることとなつたけれども、同令の適用のある間に郵政職員が争議行為として同盟罷業または怠業の挙に出た場合、はたして同令の罰則のほかに郵便法七九条一項の適用をも受けたであろうか。当裁判所昭和二四年(れ)第一九一八号同三〇年一〇月二六日大法廷判決(刑集九巻一一号二三一三頁)の趣旨からすると、これを消極に解せざるをえない。けだし、この判例は、争議行為禁止の違反そのものに対しては右政令の罰則だけを適用し処断すべきものであつて、重ねて他の罰条を適用すべきでないという趣旨のものと解されるからである。そして、その後における国家公務員法の改正による前記政令の適用除外、公労法の制定、郵政職員を含むいわゆる五現業の職員への同法の適用範囲の拡大という争議権の制限緩和の一連の立法経過に照らすときは、本来郵政職員の争議行為を処罰する趣旨のものでなかつた郵便法の前記規定が中途のいずれかの時期にその性格を変じて争議行為を処罰する規定となつたとみるべき根拠はいずこにも見いだすことができないのである。
これを要するに、郵政職員が公労法一七条一項に違反し争議行為として同盟罷業または怠業をした場合に当然郵便法七九条一項を適用してこれに刑事制裁を加えうるとすることは、明らかに現行法秩序の精神に反する解釈だといわなければならない。そして、この誤つた結論は、公共企業体等の職員の争議行為に労組法一条二項の適用の余地なしとの判断を前提としてはじめて理論的に成立するものである。この点から考えても、右の前提たる判断の不当であることは明白だというべきであろう。

+反対意見
裁判官奥野健一、同草鹿浅之介、同石田和外の反対意見は次のとおりである。
公共企業体等労働関係法(以下公労法と略称する。)一七条一項は憲法二八条に違反する旨及び公労法一七条一項に違反する争議行為には労働組合法(以下労組法と略称する。)一条二項の適用がある旨主張する上告論旨について。
憲法二八条の保障する労働基本権といえども、絶対無制限なものではなく、公共の福祉のため、特に、必要があるときは、合理的制限をすることができるものであり、このことは既に当裁判所の判例とするところである(昭和二四年(れ)第六八五号同二八年四月八日大法廷判決、刑集七巻四号七七五頁)。
公労法一条は、「この法律は……公共企業体及び国の経営する企業の正常な運営を最大限に確保し、もつて公共の福祉を増進し、擁護することを目的とする。」旨規定し、その目的を達成するため、同法一七条において、かかる企業に従事する公共企業体等の職員及びその組合は、同盟罷業、怠業、その他業務の正常な運営を阻害する一切の行為をすることができない旨を規定して、これら職員につき、業務の正常な運営を阻害する一切の争議行為を禁止しているのである。これは公共企業体等の事業が国民経済に重要な関係を有する公共性の強いものであり、その企業の正常な運営はいささかも阻害されることが許されないものであり、従つてその職員の職務は、広く国民全体の利益と緊密な関係を有し、一般私企業における勤労者の職務とその性質を著しく異にすることにかんがみ、その職員を全体の奉仕者である国家公務員、またはこれに準ずる者として、公共の福祉の要請に基づいて、右の如くその争議行為を禁止したものであり、他面その代償保障として、公共企業体等とその職員との紛争につき、あつせん、調停及び仲裁を行うため、公平な公共企業体等労働委員会を設け、殊に同会のなした仲裁裁定は、労働協約と同一の効力を有し、当事者双方とも、最終的決定として、これに拘束される(同法三五条)ものとしているのである。
すなわち、公共企業体等の企業の公益性にかんがみ、公共の福祉のため、その業務に従事する職員につき一切の争議行為を禁止するが、他面その代償措置として、あつせん、調停及び仲裁の制度を設けて、その職員の利益を保障しているのであつて、かくの如き労働権の規制は公共の福祉のためにする合理的な制限として是認することができ、憲法二八条に違反するものではない。そして公労法一七条の違憲でないことは、夙に当裁判所の判例(昭和二六年(あ)第一六八八号同三〇年六月二二日大法廷判決、刑集九巻八号一一八九頁)とするところでもある。今これを変更する必要を認めない。
右の如く、公共企業体等の職員は、業務の正常な運営を阻害する一切の争議行為を、法律により、禁止されているのであつて、これに違反してなす争議はすべて違法なものであり、従つて正当な争議行為とはいい得ないことは極めて明白である。換言すれば、争議行為の内容が、単に職場放棄の如き消極的な不作為であつても、前記一七条の同盟罷業または怠業等に該当する限り、その争議行為は違法であり、従つて正当性を有しないものといわざるを得ないのである。
苛もある法律によつて一切の争議行為が禁止せられ、違法なものとされている以上、他の法域において、それが適法であるということは許されない。けだし行為の違法性はすべての法域を通じて一義的に決せらるべきものであり、公労法上違法とされた行為が刑事法上違法性を欠くというがごときは理論上あり得ないからである。そして、その禁止に違反する行為につき何ら制裁規定を設けていない場合であると、自衛隊法六四条二項、一一九条一項三号の如く、刑事上の制裁を科している場合であると、将又公労法一七条、一八条の如く民事上の解雇の制裁のみを定めている場合であるとを問わず、すべての法域において、等しく違法、不当であることには変りはない。従つて、公労法一七条違反の場合につき、同法が刑事上の制裁を科せず、民事上の解雇の制裁のみを規定しているからといつて、右一七条は、その禁止に違反して争議をしても、単に解雇の制裁を科し得るだけで、刑事法上は適法、正当なものとして、これを許容しているものとは到底解し得られないのである。すなわち、公共企業体等の職員に対して一切の争議行為を禁止している所以は、前述の如く、公共企業体等の業務の正常な運営を阻害することは、国民経済に重大な影響を与えることにかんがみ、公共の福祉の要請上、その争議を全面的に禁止しているのであつて、単に労使間における労務不提供という債務不履行を禁止しているのではなく、従つて、刑法その他一般の法律秩序の上において、かかる争議を違法と評価しているものというべきである。
かように、公共企業体等の職員は、その争議行為が禁止され、争議権自体法律上否定されている以上、これに違反してなす争議行為につき、労組法一条二項の刑事上の免責規定の適用の余地はないものと解する。けだし、労組法一条二項の刑事上の免責規定は、争議行為についてみると、本来適法に争議権を認められている労働組合の争議行為において、その行為が労組法一条一項の目的を達成するためにした正当なものである場合に限つて、たとえ、その行為が犯罪構成要件に該当していても、その違法性が阻却さるべきことを規定したものであつて、当初より争議権を有しない者の違法、不当な争議行為については、その適用の余地はないものというべく、また当初より正当性のない争議行為につき、その正当性の限界如何を論ずる余地もないからである。すなわち、労組法一条二項の「……団体交渉その他の行為」という「その他の行為」のうちには、公共企業体等の職員については、そもそも争議権がないのであるから、争議行為は除外されているものと解すべきであることは、公労法一七条と対比して明白であるからである(若し公共企業体等の職員の争議にも、労組法一条二項の適用があるとすれば、結局一般私企業に従事する労働者の争議と大差のない刑事法的保護を受けることになり、公労法が、同法一七条により争議を一切禁止した代償保障として公共企業体等の職員のためにあつせん、調停及び仲裁の制度を、特に設けた立法趣旨に反することになる。)。
もつとも、公労法三条は、労組法一条二項の適用を除外する旨の明文を設けていないけれども、公共企業体等の職員は、争議権は否定されているものの、なお団結権及び団体交渉権は有するのであつて、例えば団体交渉に当たり右労組法一条二項の適用を受ける余地は十分あるのであるから、同条項の全面的適用除外は許されないのである。そのうち争議行為の場合を除外する趣旨の規定を特に置かなかつたのは、元来争議権を有しない者の争議行為について同条項の適用の余地のないことは理論上自明の理であるため、あえてその点まで規定するほどの必要を認めなかつたからに外ならない。これに対し、公労法三条が労組法八条の適用除外を明定したのは、同条が争議行為のみに関する規定であり、公共企業体等の職員の争議行為については正当なものという観念があり得ないのであるから、その適用の余地が全くないためである。それ故、公労法三条が特に労組法八条の適用を除外しながら、同法一条二項の適用を除外しなかつたことを理由として、公共企業体等の職員の争議につき右一条二項の適用があるものと解することは失当だといわなければならない。
また論旨は、争議行為については憲法二八条自体から当然に刑事上の免責が生ずるのであつて、労組法一条二項はこれを受けて訓示的に刑事免責を法定したものであり、他方公労法は最高規範たる憲法の下位規範で、これに優先することはできないから、公労法一七条のあることを理由として労組法一条二項の適用を排斥することはできない、とも主張する。しかし、例えば、警察職員、消防職員の如き極度に公共性の強い業務に従事する者につき争議の正当性を認める余地のないことは疑を容れないところてあり、憲法二八条と雖も右の如き職員の争議権まで保障しているものとは考えられない。そして業務の公共性を如何に評価し、これに従事する者の争議をどの程度制限するかは立法政策の問題であつて、その立法が不合理でない限り、違憲ということはできない。すなわち、憲法二八条が当然にすべての争議について刑事免責を保障しているとはいえないのであるから、このことを前提として公労法一七条違反の争議行為に労組法一条二項の適用があるとする所論は採るを得ない。
なお公労法一七条制定の結果、公共企業体等の職員の争議行為につき、労組法一条二項の適用の余地がなくなつたことについては、公労法制定当時における国会の審議において、屡々政府委員より、その旨の説明(昭和二三年一二月八日第四回国会参議院労働委員会議録第三号、昭和二三年一一月二九日第三回国会衆議院労働委員会議録一二号)があり、そのうえ、可決されたのであるから、立法当局の意思も、同様であつたものと推測されるのである。かかる立法者の意思も十分尊重されるべきである。
従つて、公労法一七条が憲法二八条に違反し、右一七条違反の争議に対し労組法一条二項の適用がある旨を主張し、原判決は憲法二八条に違反するとの論旨は採るを得ない。
最後に多数意見について一言する。
多数意見は要するに、(一)公共企業体等の職員はもとより、国家公務員や地方公務員も憲法二八条にいう勤労者に外ならない以上、原則的には争議権が保障されており、その争議行為が正当な範囲をこえない限り、刑事制裁の対象とならないのであり、労組法一条二項はこの当然のことを注意的に規定したものである。(二)公労法一七条は公共企業体等の職員の争議行為を禁止しているが、その違反行為について刑罰規定を設けることなく、同法一八条がこれに対して解雇の制裁のみを規定し、かつ、同法三条は損害賠償責任に関する労組法八条を除外しているに過ぎないのであるから、争議行為禁止違反が違法であるというのは、民事責任を免れないとの意味においてである。(三)公労法は、労組法一条二項の規定の適用を排除していないのであるから、当然その適用があるものというべく、公共企業体等の職員の争議行為が正当な範囲をこえない限り、同条により刑事免責される、というのである。
しかし、
(一)憲法二八条は勤労者に給与その他の勤労条件の改善、向上を得せしめる手段として、いわゆる労働基本権を保障しているのであるが、争議行為により、国民大衆の利益を著しく害し、国民経済に重大な障害を与えるような場合には、彼我の法益の均衡を考慮し、公共の福祉の要請に基づき、これが争議権を制限、禁止することも、やむを得ないのてあつて、憲法一三条の趣旨に徴しても肯認できるところであり、これをもつて違憲ということはできない(他面、適当な代償措置を講ずべきてある。)。公労法一七条は、正にかくの如き公共の福祉の要請に基づき設けられた争議行為禁止の規定である(他面、代償措置として公共企業体等労働委員会を設けて、職員のために、あつせん、調停、仲裁を行わしめることとしている。)。従つて、公共企業体等の職員は一切の争議行為が禁止され、争議権は法律上否定されているものというべきであるから、争議権あることを前提とする議論はすべて前提を欠く。
(二)右の如く、公共企業体等の職員は、公労法一七条により一切の争議行為が禁止されているのであつて、その違反行為について同法が直接刑罰を科していないことや、また、その違反行為について解雇の制裁のみを規定していることは、右争議行為禁止の絶対的効力に何ら消長を来たすものではない。それ故、右争議行為禁止の法規違反は、単なる民事法的違法に過ぎないというのは正当ではない。
(三)右の如く、法律上争議権を否定された公共企業体等の職員は、当然「正当な争議行為」をすることができないのであるから、争議行為として「正当なもの」について、刑事免責を規定した労組法一条二項の規定は、公共企業体等の職員の争議行為に適用の余地のないことは明白である。
裁判官草鹿浅之介は、右の反対意見に次の意見を附加する。
労組法一条二項本文が「刑法第三十五条の規定は、労働組合の団体交渉その他の行為であつて前項に掲げる目的を達成するためにした正当なものについて適用があるものとする。」と規定しているのは、いわば当然の事理を注意的に規定したものであつて、憲法二八条に基礎を有するこれらの行為がもし正当な範囲内のものであれば、本来は労組法の右の規定をまつまでもなく刑法三五条によつて犯罪としての違法性が阻却されるのである。その意味て、争議行為の犯罪としての違法性(もとより、それはその行為がなんらかの刑罰法令に触れる場合であること、すなわちその行為を罰する刑罰法令が存在することを前提とする。本件でいえば、郵便法七九条一項がこれに当たる。)が阻却されるかどうかは、ひつきようその行為が刑法三五条の正当行為に該当するかどうかによつて決せられるといわなければならない。
ところて、刑法三五条の正当行為といえるかどうかは、刑法だけでなく、すべての法体系を総合した法秩序全体の見地から決せらるべきものであることは当然である。ここで問題となつている争議行為についていえば、それが正当行為であるためには、労働法関係においても正当行為すなわち違法でない行為でなければならない。しかるに、本件におけるがごとき公共企業体等の職員の争議行為は公労法一七条一項の禁止するところであり、多数意見もまたこの規定の合憲性を認めた上で本件争議行為が違法であることを明らかに認めている。いいかえれば、労働法関係においてそれが正当行為でないことは、多数意見の承認するところだといわざるをえない。しかし、労働法関係において違法行為であることを肯定しながら、刑事法関係においてそれが正当行為になる余地があるとするのは、いかなる理由によるものであるのか。公労法一七条一項の合憲性を否定するか、あるいはなんらかの合理的な理由によつて本件の争議行為が労働法上も適法な行為だとするのてあれば格別、同一の行為が労働法上は違法であるが刑事法上は正当行為ないし適法行為になるというごとくその評価を異にすることは、少なくとも刑法三五条の正当行為の解釈としては到底首肯しえないところである。それにもかかわらず本件行為が刑法三五条の適用上正当行為と見られる余地があるとする多数意見は全く理解し難い(もつとも、本件の所為がなんらかの理由で可罰価値を欠くというのならば、それは別論である。)。
ことに、本件では、次の点に注意すべきである。そもそも公労法一七条一項が公共企業体等の職員の争議行為を禁止している理由がその業務の高度の公共性にあることは明らかで、他方郵便法七九条一項の罰則もまた郵便事業の高度の公共性に由来するものであることは、同一条が公共の福祉の増進を同法の目的として掲げていることに徴しても疑いがない。すなわち、公労法一七条一項が争議行為を禁止した趣旨と郵便法七九条一項所定の行為を違法とした理由とは全く同一なのてあつて、この点から考えても、公労法が禁止し違法とした行為が郵便法七九条一項の適用上違法性を阻却するというがごときことはありえないといわざるをえないのである。
多数意見は、公労法が争議行為禁止違反に対し罰則を設けていないことをもつてその争議行為の違法性阻却を認める論拠の一つとしているように見える。しかし、公労法が争議行為そのものを処罰する規定を有していないということと、その行為か他の刑罰法令に触れた場合にこれを処罰するかどうかということとは全く別の問題であつて、公労法における罰則の欠如が他の刑罰法令における違法性阻却の論拠に直ちになりうるものとは考えられない。のみならず本件の場合についていえば、郵便法七九条一項が争議行為としてした行為をその構成要件上あえて除外していないことは明白であるし、前述したようにこの罰則が公共の利益を保護するためのものであり、かつ他方同じ目的のために郵政職員の争議行為が公労法によつて禁止されていることをあわせ考えれば、郵政職員が争議行為としてした行為についても郵便法の右の罰則の適用があると解すべきは当然である。いいかえるならば、少なくとも郵政職員の同盟罷業または怠業に関する限り、その争議行為に対する罰則は存在するといわなければならない。もつとも、その罰則は公労法以外の他の法規中に存するものではあるが、すでに説明したところから明らかなように、その処罰の趣旨は国家公務員法が争議行為について罰則(同一一〇条一項一七号)を設けた理由と同一であつて、この種の罰則が公労法中に規定されたのと実質においてなんら区別すべき合理的な理由はないのである。もしそれ当該罰則の実質に目を覆い、それが労働法規中に規定されているか他の法規中に規定されているかという形式の差のみによつて解釈を異にするというのであれば、その理由のないことはほとんど言を待たないてあろう。
以上の次第で、わたくしは多数意見には到底賛成することがてきない。

+反対意見
裁判官五鬼上堅磐の反対意見は次のとおりである。
公共企業体等労働関係法(以下公労法と略称する。)一七条一項は、職員およびその組合は同盟罷業、怠業、その他業務の正常な運営を阻害する一切の行為をすることができない旨を規定して、凡ての争議行為を禁止しているのであるから、これに違反してなされる争議行為は違法なものであつて、たとえ消極的に職場放棄をなすようないわゆる不作為の行為であつても、その正当性は認められない。そうして、正当性のない違法な争議行為に労働組合法(以下労組法と略称する。)一条二項の適用ありとすることはできないものといわねばならない。昭和三八年三月一五日当裁判所第二小法廷判決の、争議行為について正当性の限界いかんを論ずる余地がないという判断は、今日においても何等変更の必要がない。この点について多数意見は、公共企業体の職員およびその組合が前記公労法一七条一項に違反し争議行為をしたからといつて、その一事をもつて労組法一条二項をこれに適用する余地なしとすることはできないのであつて、労組法および公労法の目的に照らし、公労法一七条一項違反の争議行為についても労組法一条二項の適用の余地ありとする見解をとるのであるが、この意見に私は賛成することはできない。
すなわち、公労法一七条は、同法所定の国営ないしこれに準ずる公有企業に属する職員については、団体行動としての争議行為を一般に違法として禁止し、反社会的行為として評価しているのである。これら違法行為に対して刑事的制裁を科することもありうるのであり、したがつて、郵便法七九条の適用に関して労働争議による場合とそうでない場合を区別して解釈を異にすることはできない。
また、公労法自体に罰則規定が設けられていないことを理由にして、労組法一条二項の刑事免責の規定の適用があると解することはできない。このことは公労法の制定されるに至つた歴史的事実ならびにその立法の趣旨から見ても上記のように解しうることである。すなわち、昭和二三年政令第二〇一号が制定され、一切の公務員について争議行為が禁止され、かつこれに刑罰を科したのであるが、その後国家公務員法の一部が改正されて国家公務員の争議行為の禁止は同法によることとなり、さらに昭和二四年六月一日施行の公共企業体労働関係法によつて、一般公務員のなかから、国鉄職員と専売職員とを抽出して、これを公共企業体の職員とし、さらに昭和二七年八月一日施行の公労法の改正を経て、順次五現業、三公社の職員が公労法の適用を受けることとなつたのである。すなわち、政令第二〇一号の廃止とともに、国鉄等の職員がその他の国家公務員と区別されて、公労法の適用を受けることとなつたのではなく、一旦すべての現業、非現業の国家公務員は、現行のような国家公務員法の規制を受けた後、順次、公労法の規制を受けることとされたものである。このような立法の変遷を支えた立法政策が、国営五現業および三公社の職員の争議行為を、刑事罰から解放することにあつたものでないことは、政令第二〇一号の罰則に関する経過規定をみても明らかである。昭和二三年法律第二二二号によつて国家公務員法が改正された際、その附則八条一項において、政令第二〇一号は「国家公務員に関して、その効力を失う。」とされつつも、同条二項においては、この「政令がその効力を失う前になした同令第二条第一項の規定に違反する行為に関する罰則の適用については、なお従前の例による。」と規定し、同令の適用が排除された後も、排除前に違反した行為の可罰性はなお失わせないとしているのである。この国家公務員法の改正にひき続いて制定された公労法およびその関係法令には、右のような経過規定は存在しないが、これは前記国家公務員法第一次改正附則八条二項によつて政令第二〇一号が一旦限時法としての効力を認められた以上、あらためて同旨の規定をおく必要を認めなかつたからにすぎないのであつて、もし、公労法がその職員の争議行為を刑事罰から解放する趣旨で制定されたものとすれば、制定前の行為について経過規定を設けることは首尾一貫しないこととなる。したがつて、前記のような経過規定をあえて設けたことは、一切の刑事罰から解放するとの立法意思ではない。この経過から見ても、公労法一七条違反の行為について、労組法一条二項の適用があるという見解は、誤りであるといわなければならない。なお、昭和二三年一二月八日第四回国会参議院労働委員会議事録によれば、提案者たる政府の答弁として、公労法一七条違反行為には、労組法一条二項の適用がない云々とあり、立法に際してもその適用を排除することが考慮されていたものと解することができる。
したがつて、原判決の判断に何等法令の解釈、適用を誤つた違法はなく、況んや公労法一七条が憲法二八条に違反するものでないことは、多数意見に述べられたところにより明らかであり、結局本件上告は棄却さるべきものである。

・地方公務員法の規制をめぐる判例(都教組事件)は、合憲限定解釈という手法によって、争議行為をあおる等の行為に対する刑事罰について規定した地方公務員法第37条第1項、第61条第4号を合憲とした。
+判例(S44.4.2)都教組事件
理由
弁護人佐伯静治外二七名の上告趣意について。
論旨は、憲法違反、条約違反、判例違反、判断遺脱その他きわめて多岐にわたるが、要するに、地方公務員法(以下地公法という。)三七条の定める争議行為の禁止が憲法二八条に違反し、かつ、ILO八七号条約および国際慣習法規にも違反し、ひいては憲法九八条二項にも違反する旨の主張と、地公法六一条四号の定める争議行為のあおり行為等に対する刑事罰が憲法二八条、一八条、三一条に違反し、かつ、ILO八七号条約および国際慣習法規にも違反し、ひいては憲法九八条二項にも違反する旨の主張とを骨子とし、あわせて、地公法六一条四号の定める「あおり」の要件についての解釈適用の誤り、原判決の刑訴法四〇〇条但書違反および原判決の判断遺脱を主張するものである。当裁判所は、結論として、原判決を破棄し、被告人全員を無罪とすべきものとするが、その理由は、つぎのとおりである。

一、公務員の労働基本権について、当裁判所は、さきに、昭和四一年一〇月二六日の判決(いわゆる全逓中郵事件判決)において、つぎのとおり判示した。
憲法二八条は、いわゆる労働基本権、すなわち、勤労者の団結する権利および団体交渉その他の団体行動をする権利を保障しているこの労働基本権の保障の狙いは、憲法二五条に定めるいわゆる生存権の保障を基本理念とし、勤労者に対して人間に値する生存を保障すべきものとする見地に立ち、一方で、憲法二七条の定めるところによつて、勤労の権利および勤労条件を保障するとともに、他方で、憲法二八条の定めるところによつて、経済上劣位に立つ勤労者に対して実質的な自由と平等とを確保するための手段として、その団結権、団体交渉権、争議権等を保障しようとするものである。
このように、憲法自体が労働基本権を保障している趣旨にそくして考えれば、実定法規によつて労働基本権の制限を定めている場合にも、労働基本権保障の根本精神にそくしてその制限の意味を考察すべきであり、ことに生存権の保障を基本理念とし、財産権の保障と並んで勤労者の労働権・団結権・団体交渉権・争議権の保障をしている法体制のもとでは、これら両者の間の調和と均衡が保たれるように、実定法規の適切妥当な法解釈をしなければならない。
右に述べた労働基本権は、たんに私企業の労働者だけについて保障されるのではなく、公共企業体の職員はもとよりのこと、国家公務員や地方公務員も、憲法二八条にいう動労者にほかならない以上、原則的には、その保障を受けるべきものと解される。」
右判決に示された基本的立場は、本件の判断にあたつても、当然の前提として、維持すべきものと考える。右のような見地に立つて考えれば、「公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない」とする憲法一五条を根拠として、公務員に対して右の労働基本権をすべて否定するようなことが許されないことは当然であるが、公務員の労働基本権については、公務員の職務の性質・内容に応じて、私企業における労働者と異なる制約を受けることのあるべきことも、また、否定することができない。ところで、公務員の職務の性質・内容は、きわめて多種多様であり、公務員の職務に固有の、公共性のきわめて強いものから、私企業のそれとほとんど変わるところがない、公共性の比較的弱いものに至るまで、きわめて多岐にわたつている。したがつて、ごく一般的な比較論として、公務員の職務が、私企業や公共企業体の職員の職務に比較して、より公共性が強いということができるとしても、公務員の職務の性質・内容を具体的に検討しその間に存する差異を顧みることなく、いちがいに、その公共性を理由として、これを一律に規制しようとする態度には、問題がないわけではないただ、公務員の職務には、多かれ少なかれ、直接または間接に、公共性が認められるとすれば、その見地から、公務員の労働基本権についても、その職務の公共性に対応する何らかの制約を当然の内在的制約として内包しているものと解釈しなければならない。しかし、公務員の労働基本権に具体的にどのような制約が許されるかについては、公務員にも労働基本権を保障している叙上の憲法の根本趣旨に照らし、慎重に決定する必要があるのであつて、その際考慮すべき要素は、前示全逓中郵事件判決において説示したとおりである(最高刑集二〇巻八号九〇七頁から九〇八頁まで)。地公法三七条および六一条四号が違憲であるかどうかの問題は、右の基準に照らし、ことに、労働基本権の制限違反に伴う法律効果、すなわち、違反者に対して課せられる不利益については、必要な限度をこえないように十分な配慮がなされなければならず、とくに、勤労者の争議行為に対して刑事制裁を科することは、必要やむをえない場合に限られるべきであるとする点に十分な考慮を払いながら判断されなければならないのである。
(イ)ところで、地公法三七条、六一条四号の各規定が所論のように憲法に違反するものであるかどうかについてみると、地公法三七条一項には、「職員は、地方公共団体の機関が代表する使用者としての住民に対して同盟罷業、怠業その他の争議行為をし、又は地方公共団体の機関の活動能力を低下させる怠業的行為をしてはならない。又、何人も、このような違法な行為を企て、又は遂行を共謀し、そそのかし、若しくはあおつてはならない。」と規定し、同法六一条四号には、「何人たるを問わず、第三十七条第一項前段に規定する違法な行為の遂行を共謀し、そそのかし、若しくはあおり、又はこれらの行為を企てた者」は三年以下の懲役または一〇万円以下の罰金に処すべき旨を規定している。これらの規定が、文字どおりに、すべての地方公務員の一切の争議行為を禁止し、これらの争議行為の遂行を共謀し、そそのかし、あおる等の行為(以下、あおり行為等という。)をすべて処罰する趣旨と解すべきものとすれば、それは、前叙の公務員の労働基本権を保障した憲法の趣旨に反し、必要やむをえない限度をこえて争議行為を禁止し、かつ、必要最小限度にとどめなければならないとの要請を無視し、その限度をこえて刑罰の対象としているものとして、これらの規定は、いずれも、違憲の疑を免れないであろう。
しかし法律の規定は、可能なかぎり、憲法の精神にそくし、これと調和しうるよう、合理的に解釈されるべきものであつて、この見地からすれば、これらの規定の表現にのみ拘泥して、直ちに違憲と断定する見解は採ることができない。すなわち、地公法は地方公務員の争議行為を一般的に禁止し、かつ、あおり行為等を一律的に処罰すべきものと定めているのであるが、これらの規定についても、その元来の狙いを洞察し労働基本権を尊重し保障している憲法の趣旨ヒ調和しうるように解釈するときは、これらの規定の表現にかかわらず、禁止されるべき争議行為の種類や態様についても、さらにまた、処罰の対象とされるべきあおり行為等の態様や範囲についても、おのずから合理的な限界の存することが承認されるはずである。
かように、一見、一切の争議行為を禁止し、一切のあおり行為等を処罰の対象としているように見える地公法の前示各規定も、右のような合理的な解釈によつて、規制の限界が認められるのであるから、その規定の表現のみをみて、直ちにこれを違憲無効の規定であるとする所論主張は採用することができない
(ロ)また、論旨は、前示地公法の各規定がILO八七号条約、ILO一〇五号条約、教員の地位に関する勧告、国際慣習法に違反し、したがつてまた、憲法九八条二項に違反するものと主張するが、ILO八七号条約は、争議権の保障を目的とするものではなく、ILO一〇五号条約および教員の地位に関する勧告は、未だ国内法規としての効力を有するものではなく、また、公務員の争議行為禁止措置を否定する国際慣習法が現存するものとは認められないから、所論は、すべて採用することができない。

二、つぎに、地方公務員の争議行為についてみるに、地公法三七条一項は、すべての地方公務員の一切の争議行為を禁止しているから、これに違反してした争議行為は、右条項の法文にそくして解釈するかぎり、違法といわざるをえないであろう。しかし、右条項の元来の趣旨は、地方公務員の職務の公共性にかんがみ、地方公務員の争議行為が公共性の強い公務の停廃をきたし、ひいては国民生活全体の利益を害し、国民生活にも重大な支障をもたらすおそれがあるので、これを避けるためのやむをえない措置として、地方公務員の争議行為を禁止したものにほかならない。ところが、地方公務員の職務は、一般的にいえば、多かれ少なかれ、公共性を有するとはいえ、さきに説示したとおり、公共性の程度は強弱さまざまで、その争議行為が常に直ちに公務の停廃をきたし、ひいて国民生活全体の利益を害するとはいえないのみならず、ひとしく争議行為といつても、種々の態様のものがあり、きわめて短時間の同盟罷業または怠業のような単純な不作為のごときは、直ちに国民全体の利益を害し、国民生活に重大な支障をもたらすおそれがあるとは必ずしもいえない。地方公務員の具体的な行為が禁止の対象たる争議行為に該当するかどうかは、争議行為を禁止することによつて保護しようとする法益と、労働基本権を尊重し保障することによつて実現しようとする法益との比較較量により、両者の要請を適切に調整する見地から判断することが必要である。そして、その結果は、地方公務員の行為が地公法三七条一項に禁止する争議行為に該当し、しかも、その違法性の強い場合も勿論あるであろうが、争議行為の態様からいつて、違法性の比較的弱い場合もあり、また、実質的には、右条項にいう争議行為に該当しないと判断すべき場合もあるであろう。
また、地方公務員の行為が地公法三七条一項の禁止する争議行為に該当する違法な行為と解される場合であつても、それが直ちに刑事罰をもつてのぞむ違法性につながるものでないことは、同法六一条四号が地方公務員の争議行為そのものを処罰の対象とすることなく、もつぱら争議行為のあおり行為等、特定の行為のみを処罰の対象としていることからいつて、きわめて明瞭である。かえつて、同法三七条二項は、職員で同条一項に違反する行為をしたものは、地方公共団体に対して保有する任命上または雇用上の権利をもつて対抗することができないという不利益を課しているにすぎないことを注意すべきである。したがつて、地方公務員のする争議行為については、それが違法な行為である場合に、公務員としての義務違反を理由として、当該職員を懲戒処分の対象者とし、またはその職員に民事上の責任を負わせることは、もとよりありうべきところであるが、争議行為をしたことそのことを理由として刑事制裁を科することは、同法の認めないところといわなければならない。
ところで、地公法六一条四号は、争議行為をした地方公務員自体を処罰の対象とすることなく、違法な争議行為のあおり行為等をした者にかぎつて、これを処罰することにしているのであるが、このような処罰規定の定め方も、立法政策としての当否は別として、一般的許されないとは決していえない。ただ、それは、争議行為自体が違法性の強いものであることを前提とし、そのような違法な争議行為等のあおり行為等であつてはじめて、刑事罰をもつてのぞむ違法性を認めようとする趣旨と解すべきであつて、前叙のように、あおり行為等の対象となるべき違法な争議行為が存しない以上、地公法六一条四号が適用される余地はないと解すべきである。(もつとも、あおり行為等は、争議行為の前段階における行為であるから、違法な争議行為を想定して、あおり行為等をした場合には、仮りに予定の違法な争議行為が実行されなかつたからといつて、あおり行為等の刑責は免れえないものといわなければならない。)
つぎに、あおり行為等の意義および要件については、意見の分かれるところであるが、一般に「あおり」の意義については、違法行為を実行させる目的で、文書、図画、言動により、他人に対し、その実行を決意させ、またはすでに生じている決意を助長させるような勢のある刺激を与えることをいうと解してよいであろう(昭和三三年(あ)第一四一三号、同三七年二月二一日大法廷判決、刑集一六巻二号一〇七頁参照)。しかし、地公法でいう争議行為等のあおり行為等がすべて一律に処罰の対象とされうべきものであるかどうかについては、慎重な考慮を要する。問題は、結局、公務員についても、その労働基本権を尊重し保障しようとする憲法上の要請と、公務員については、その職務の公共性にかんがみ、争議行為を禁止すべきものとする要請との二つの相矛盾する要請を、現行法の解釈のうえで、どのように調整すべきかの点にあり、労働基本権尊重の憲法の精神からいつて、争議行為禁止違反に対する制裁、とくに刑事罰をもつてする制裁は、極力限定されるべきであつて、この趣旨は、法律の解釈適用にあたつても、十分尊重されなければならない。そして、地公法自体は、地方公務員の争議行為そのものは禁止しながら、右禁止に違反して争議行為をした者を処罰の対象とすることなく、争議行為のあおり行為等にかぎつて、これを処罰すべきものとしているのであるが、これらの規定の中にも、すでに前叙の調整的な考え方が現われているということができる。しかし、さらに進んで考えると、争議行為そのものに種々の態様があり、その違法性が認められる場合にも、その強弱に程度の差があるように、あおり行為等にもさまざまの態様があり、その違法性が認められる場合にも、その違法性の程度には強弱さまざまのものがありうる。それにもかかわらず、これらのニユアンスを一切否定して一律にあおり行為等を刑事罰をもつてのぞむ違法性があるものと断定することは許されないというべきである。ことに、争議行為そのものを処罰の対象とすることなく、あおり行為等にかぎつて処罰すべきものとしている地公法六一条四号の趣旨からいつても、争議行為に通常随伴して行なわれる行為のごときは、処罰の対象とされるべきものではない。それは、争議行為禁止に違反する意味において違法な行為であるということができるとしても、争議行為の一環としての行為にほかならず、これらのあおり行為等をすべて安易に処罰すべきものとすれば、争議行為者不処罰の建前をとる前示地公法の原則に矛盾することにならざるをえないからである。したがつて、職員団体の構成員たる職員のした行為が、たとえ、あおり行為的な要素をあわせもつとしても、それは、原則として、刑事罰をもつてのぞむ違法性を有するものとはいえないというべきである。

三、これを本件についてみるに、原審の確定したところによれば、文部省が企図した公立学校教職員に対する勤務評定の実施に反対する日教組の方針に則り、都教組も、その定例委員会において、休暇闘争を含む実力行使をもつてこれに対応する方針をきめたが、都教育長は、昭和三三年四月一九日に、同月二三日の都教育委員会に勤務評定規則案を上程する旨の告示をすると言明し、爾後の話合いを拒否するに至つたので、都教組は、同月二一日に、「組合員は勤務評定を実施させない措置を地公法四条に基いて人事委員会に要求せよ。右手続は昭和三三年四月二三日午前八時から開催する全員集会で取りまとめて提出せよ。(右手続に必要な休暇請求は同日までに行う)」との指令を発し、右指令に基づいて、同月二三日一日の一せい休暇闘争を行なつたというのであり、原判決は、右は同盟罷業にあたるものとし、被告人らがしたその指令配布、趣旨伝達等の行為について、被告人らは地公法六一条四号の争議行為の遂行をあおつたものとして、同条の刑責を免れないとしているのである。
しかし、本件をさきに詳細に説示した当裁判所の考え方に従つて判断すると、本件の一せい休暇闘争は、同盟罷業または怠業にあたり、その職務の停廃が次代の国民の教育上に障害をもたらすものとして、その違法性を否定することができないとしても、被告人らは、いずれも都教組の執行委員長その他幹部たる組合員の地位において右指令の配布または趣旨伝達等の行為をしたというのであつて、これらの行為は、本件争議行為の一環として行なわれたものであるから、前示の組合員のする争議行為に通常随伴する行為にあたるものと解すべきであり、被告人らに対し、懲戒処分をし、または民事上の責任を追及するのはともかくとして、さきに説示した労働基本権尊重の憲法の精神に照らし、さらに、争議行為自体を処罰の対象としていない地公法六一条四号の趣旨に徴し、これら被告人のした行為は、刑事罰をもつてのぞむ違法性を欠くものといわざるをえない。したがつて、被告人らは、あおり行為等についての刑責を免れないとした原判決の右判断は、法令の解釈適用を誤つたもので、その違法は判決に影響を及ぼすことが明らかであり、これを破棄しなければ著しく正義に反するものといわざるをえない。
よつて、その余の論旨に対する判断を省略し、刑訴法四一一条一号により原判決を破棄し、同法四一三条但書、四一四条、四〇四条、三三六条により被告人らに無罪の宣告をなすべきものとし、主文のとおり判決する。
この判決は、裁判官松田二郎の補足意見、裁判官入江俊郎、同岩田誠の各意見および裁判官奥野健一、同草鹿浅之介、同石田和外、同下村三郎、同松本正雄の反対意見があるほか、裁判官全員一致の意見によるものである。

+補足意見
裁判官松田二郎の補足意見は、次のとおりである。
私は、多数意見に従うものであるが、奥野裁判官らの反対意見について若干自己の考をのべたい。
(一)反対意見は、地方公務員法三七条一項後段は「何人も」、六一条四号は「何人たるとを問わず」あおり行為をした者を処罰する旨規定していることを根拠として、多数意見の「あおり」についての見解を目して、条文の限定解釈なりとし、法の明文に反する一種の立法であり、法解釈の域を逸脱したものと評するのである。
たしかに、「あおり」行為について、条文上何等の限定の設けられていないことは、反対意見のいうとおりである。しかし、いうまでもなく、刑罰法規の解釈は、単に条文を外部より観察するものでなく、その内容に立入つてその意味を明らかにするものである以上、それは単なる文理的解釈に止まるべきではないのである。ことに、日常用語が同時に法律用語たる場合にあつては、日常用語としての意味や語感に禍されることなく、その刑罰規定の趣旨・目的に従つてその規範的意味内容を明らかにすべきであつて、「あおり」が日常用語として巾広い概念であつても、刑罰法規の解釈はこれに拘束されるべきではない。そして、勤労者の争議行為に対して刑事制裁を科することは、必要止むを得ない場合のみに限られるべしとの全逓中郵事件判決(当裁判所昭和三九年(あ)第二九六号同四一年一〇月二六日大法廷判決、刑集二〇巻八号九〇一頁)において当裁判所の示した基本的立場に即するとき、多数意見の「あおり」行為についてなした解釈の正当性を理解し得るのである。私は、右の中郵事件の判決において、「労働法規が争議行為を禁止しこれを違法として解雇などの不利益な効果を与えているからといつて、そのことから直ちにその争議行為が刑罰法規における違法性、すなわち、いわゆる可罰的違法性まで帯びているとはいえない」との意見をのべた(右判例集九一六頁)。多数意見の「あおり」行為の解釈は、これと同一の趣旨に基づくものと思う。そして、この見解よりすれば、前記法条の文言上限定のないことを根拠として「あおり」行為の意味を定めんとする反対意見には、到底賛し得ないのである。
更に、反対意見は、「あおり」についての多数意見を目して法解釈の域を「逸脱」したものとして非難する。思うに、従来、刑罰法規の解釈は厳格であることを要すとされ、その根拠として屡々罪刑法定主義が採用されるのである。しかしながら、本件における多数意見は、形式上より見ても、いわば条文を狭く解釈したものであつて、何等条文の拡張又は類推解釈をしたものでもない。換言すれば、多数意見の「あおり」についての解釈は、条文の枠内に止まるものであつて、反対意見のいう如く、これを「逸脱」したものでないことは明らかである。
(二)多数意見が被告人らの本件行為は刑事罰をもつてのぞむ違法性を欠くというのに対し、反対意見は、その行為を違法とし、これに刑罰を科することを主張するものである。すなわち、反対意見は、被告人らに刑罰を科することによつて、社会的秩序の維持に資そうとするものといえよう。
ここにおいて問題となるのは、反対意見のいう「違法性」の意味である。そして、反対意見の違法性についての考方は、既に前記中郵事件に示されている(本件における反対意見を採る五人の裁判官のうち奥野、草鹿、石田の三裁判官は、先に中郵事件においても、五鬼上裁判官と合して四名で反対意見を採られたのであり、また下村裁判官は中郵事件の反対意見と同意見であるから(昭和三六年(あ)第八二三号同四一年一一月三〇日大法廷判決、刑集二〇巻九号一〇七六頁)、中郵事件における反対意見の違法性についての考は、本件における反対意見の違法性の考と同じであるといえる)。そして、中郵事件において、反対意見はいう「行為の違法性はすべての法域を通じて一義的に決せられるべきである」と(右中郵事件判決登載の判例集九二二頁)。この考、すなわち、違法性についての「一義的」考によれば、刑法上違法と評価される行為は、民法その他の領域においても、統一的に違法と評価されるのであるが、しかし、刑法上違法と評価されない行為は、他の法域においても違法とされることなく、すなわち、法律上何等の責任を生じないということになるのである。従つて、かかる考に立つ者より見れば、本件行為を処罰するのでなければ、被告人らに対して民事上その他の責任を追及することも不可能となるべく、この点の考慮よりしても、被告人らの本件行為を罰すべきことが社会的秩序維持のため、きわめて必要となるのであろう。そして、かかる考に立つ者より見れば、或は、被告人らの本件行為を罰しない見解は、社会的秩序の混乱に対して無関心のものとさえ映じるかも知れない。
私は、先の中郵事件において、「行為の違法性を一義的に解すべきでなく、刑法において違法とされるか否かは、他の法域における違法性と無関係ではないが、しかし、別個独立に考察されるべき問題である」との趣旨の意見を述べた(右中郵事件判決登載の判例集九一六頁)。この見地に立つとき、被告人らの本件行為が罰されないにしても、そのことは被告人らの行為が私法上、労働法上において、又は地方公務員法上において、違法であるか否かと必然的関連はなく、これらは刑事上の責任とは別個に考察されるべきものなのである。そして、若し、被告人らの行為が刑罰法令違反以外のかかる点において違法であるならば、その責任が追及されるべきは当然であり、或は民事上の責任を負い、或は公務員として懲戒され、免職されることすらあるべきであろう。多数意見が被告人らの本件行為を罰しないというのは、決して被告人らが民事上の責任がないとか、公務員として責任がないとかいうことを意味するものではない。ただ、刑事的責任がないというに止まるのである。そして、前記中郵事件の判決は、「違法性は一義的に決すべし」との考に対して、最高裁判所が、それを採り得ないとした点にきわめて重要な意味をもつものといえよう。中郵事件の判決のこの意義は誤解されてはならないのである(因みに、ひとしく過失といつても、刑事責任としての過失と民事責任としての過失とは、別個の考察を要するものである)。
思うに、刑罰は、科せられる者に対して強烈な苦痛すら伴うもつとも不利益な法的効果を伴うものであるから、刑事的制裁は社会秩序維持の上においてきわめて大きな機能を果すものである。現に、わが国においては、刑事的制裁が刑事責任追及の域を越えて他の法域において解決すべき問題、たとえば、民事的又は労働法上の責任追及の関係に対しても、大きな影響を及ぼしつつあることは、われわれの知るところであり、それはいわば刑事的制裁の副次的作用ともいうべきものであるが、社会状態のおだやかならざる時代においては、民事上の責任、労働法上の責任などの追及に代えて、刑事的制裁によつて社会秩序の維持を図らんとし、従つて刑事的制裁に期待する傾向が高まりがちである。もとより、この点に関して、われわれは、わが国における民事訴訟制度の機能が十分でないこと―現にその一例として、わが国の大都市における民事部の数の刑事部の数に対する比率が、ドイツなどのそれに比較して極めて低いことを指摘し得る―に対して、真剣に考慮を払うべきであろう。しかしながら、刑事的制裁の威力を頼みにして、これに刑事的責任以外の責任、たとえば民事的責任追及のための代用品的作用をもあまりに行なわしめるべきではないのである。かかることは、民事責任と刑事責任の分化のなかつた時代、裁判といえば刑事裁判を考えがちだつた時代に逆行する事態を生じる危険を伴うのである。われわれは、すべからく、中郵事件の判決の精神に即して、刑事裁判をして、本来の領域に止まらしむべきであろう。
要するに、反対意見が違法性を一義的に解することは、ややもすると、違法即刑罰とする考に導き易いことを私は虞れるのである。この意味においても、私は、反対意見をもつて不当と思わざるを得ない。

+意見
裁判官入江俊郎の意見は、次のとおりである。
私は、多数意見と結論を同じくし、また、その理由の大部分についてはこれに同調するが、ただ一点だけ多数意見と根本的に考え方を異にする。そしてこの点は、本件においては、判決の結果に影響のない論点のごとくではあるが、他日他の類似の事案が問題となつた場合には判決の結果を左右することのありうべき問題であるから、この際右の点につき私の意見を表示する。また、本件で問題となつたあおり行為等の刑罰規定の適用につき、そのあおり行為等がその対象とされた争議行為に通常随伴するものと認められるものであるか否かについて、若干の補足意見を表示する。そしてこれらの点に関する私の意見は、昭和四一年(あ)第一一二九号国家公務員法違反等被告事件の判決に付した私の意見と趣旨を同じくするので、それを本件に援用する。

+意見
裁判官岩田誠の意見は、次のとおりである。
一、法律の規定をその文字どおりに解釈すると違憲の疑のある場合には、これに可能なかぎり合理的限定解釈を加え憲法の趣旨に調和するよう解釈すべきものであり、地方公務員法(以下地公法という。)六一条四号の規定を解釈するに当つても、右のような限定解釈を加うべきものであることは多数意見の判示するとおりである。
二、よつて按ずるに、地公法六一条四号は、争議行為自体を行なつた者は処罰しないけれども、争議行為の遂行を共謀し、そそのかし、あおり、またはこれらの行為を企てた者を処罰する旨定めている。しかし、職員組合の行なう争議行為は、通常組合の役員または組合員から発案され、所定の議決機関の決議を経、これに従つて実行されるものと解されるので、右争議行為の「遂行を共謀し、そそのかし、あおり、企てる」行為(以下「あおり行為等」という。)のような行為が、その組合において本来の目的たる勤務条件の維持改善、経済的地位の向上およびこれと関連する事項を目的とし、自主的に行なう争議行為の発案、計画、遂行の過程として行なわれる場合にこれを刑罰をもつて処罰することは、結局刑罰をもつて、すべての公務員に対し、一切の争議行為を禁止することになり、憲法二八条に違反する疑が生ずる。したがつて、地公法によつて認められた地方公務員の職員組合がその本来の目的達成のため自主的に行なう争議行為の発案、計画、遂行の過程として行なわれる「あおり行為等」は(組合の役員または組合員は勿論、それ以外の者であつても、その組合の上部組織若しくは連合体の役員のような者によつて行なわれても)、暴力等を伴わないかぎり、地公法六一条四号にいう「第三十七条第一項前段に規定する違法な行為の遂行を共謀し、そそのかし、若しくはあおり、又はこれらの行為を企てた」場合に当らないものとして処罰の対象にならないと解すべきである。
これを要するに、組合本来の目的を越えて行なわれたと認められる地方公務員の争議行為に対する「あおり行為等」、および組合が自主的に行なう争議行為の発案、計画、遂行の過程として行なわれるものでない一切の「あおり行為等」は、本条項に該当し、処罰の対象となるものと解する。何となれば右各行為はいずれも憲法二八条が勤労者に保障する労働基本権の行使とはいえないからである。
以上の考えに立つて本件を見るに、被告人らの本件行為は、被告人らの属する職員団体である都教組がその本来の目的達成のために自主的に発案、計画した争議行為遂行の過程としての指令の配布、その趣旨の伝達等をしたものであつて、地公法六一条四号にいうあおり行為にあたらないものとして罪とならないものである。
三、多数意見は、地公法六一条四号を限定的に解釈するにあたり、「あおり行為等」の対象となる争議行為は、地公法三七条一項の規定上違法であつても、その違法性には強弱があり、「あおり行為等」を処罰し得るのは、争議行為自体が違法性の強いものであることを前提とし、そのような違法性の強い争議行為等の「あおり行為等」に限るとしている。
しかし私は、「あおり行為等」の対象となる争議行為(地公法三七条一項は、地方公務員の争議行為を禁止しているから地方公務員の争議行為は地公法上は原則として違法である。〔刑事罰をもつてのぞむべき違法の意ではない。〕)について、その違法性の強弱により地公法六一条四号の適用の有無を決すべきではないと思う。「あおり行為等」の対象となつた争議行為が、地方公務員の勤務条件の維持改善、経済的地位の向上およびこれと関連する事項を目的とするものではなく、例えば政治的意図の達成を目的とするものであるときは、かかる争議行為は憲法二八条の保障するところではないから、かゝる争議行為を対象とする「あおり行為等」は、それが争議行為に通常随伴するものであると否とを問わず、憲法二八条の保障する労働基本権の行使とはいえない。また「あおり行為等」についても争議行為に通常随伴する行為は、違法性が弱いから処罰されないというのは賛同できない。むしろかゝる行為は、対象たる争議行為が組合の本来の目的達成のための争議行為である限り、憲法二八条の保障する勤労者の労働基本権なかんづく団体行動権の行使と認められるから、かゝる行為は、地公法六一条四号のいう「あおり行為等」にあたらないので処罰できないというべきものと思料する。

+反対意見
裁判官奥野健一、同草鹿浅之介、同石田和外、同下村三郎、同松本正雄の反対意見は、次のとおりである。
国家公務員は、国民の信託により、全体の奉仕者として国政に干与するものであつて、その使用者である国民大衆に対して同盟罷業、怠業その他の争議行為をなすことは、国民の信託に叛き、国政の活動を停廃せしめ、国民生活に重大な障害をもたらし、公共の福祉に反するものであるから、国家公務員法(昭和四〇年法律第六九号による改正前のもの、以下同じ)九八条五項は、違法な行為として、これを禁止しているのである。また、地方公務員法三七条一項は、同様の趣旨において地方公務員の争議行為を違法な行為として禁止しているのである。これら公務員の争議行為の禁止は、公共の福祉の要請に基づくものであつて、憲法二八条に違反するものということはできない。
法は、右の如く公務員の争議行為を違法な行為として禁止しながらも、それに違反して争議行為自体に参加した個々の公務員に対しては、刑罰を科することなく、公務員として保有する任命上又は雇用上の権利を奪う制裁を科し得るに止めている。しかし、法は、公務員の争議行為が国民又は地方住民に対し、重大な損害を与えるものであることに鑑み、かかる違法な争議行為の原動力となり、これを誘発、指導、助成する、いわゆる煽動者等に対しては刑事制裁を科し、もつて違法な争議行為の禁遏の実を挙げようとしているのである。すなわち、違法な争議行為に原動力を与える者は、単なる争議に参加した者に比して、反社会性の強いものとして、特別の可罰性を認めるべきであるとの観点から、争議に対し指導的役割をなす煽動者等のみを処罰することにより、違法な争議行為の防止と刑政の目的を達し得るものと考えたのである。かくの如く、集団行動による違法行為について、その原動力となつた煽動行為等の違法性を特に重視することは十分合理性のあることであり、内乱罪、騒擾罪などの処罰方式の例にも見られるところであり、決して不合理な立法ではなく、固より、立法政策の範囲内に属するものであつて、違憲とはいい難い。
そして、法が違法な争議行為に対する誘発、指導、助成の原動力となるものとして処罰せんとする「あおり」についていえば、「あおり」の概念は、「違法行為を実行させる目的をもつて、他人に対し、その行為を実行する決意を生ぜしめるような、またはすでに生じている決意を助長させるような勢のある刺激を与えること(昭和三三年(あ)第一四一三号同三七年二月二一日大法廷判決、刑集六巻二号一〇七頁参照)」をいうものと解するのが相当であり、その構成要件の内容が漠然としているものではない。そして法は、「あおり」行為について何らの限定を設けていないのであるから、いやしくも前記「あおり」の行為に該当するものである限り、これを可罰性のある違法な行為とする趣旨であつて、これらの行為をその違法性の強弱によつて区別し、特に違法性の強いものに対してのみ刑事制裁を科するものであると解する余地は、法文上考えられないところである。
「あおり」の対象となつた争議行為自体の態様により、その違法性の強いもの、ないし刑事罰をもつてのぞむべき違法性のあるものである場合に限つて、「あおり」を処罰する趣旨であると解することも到底是認できない。けだし、法は、争議行為自体を処罰しないとしながら、敢てこれをあおつた者を処罰すると規定しているのであるから、違法性の強いもの、ないし刑事罰をもつてのぞむべき違法性のある争議行為をあおつた場合に限り、あおり行為を処罰する趣旨と解することは、ことさらに明文に反する解釈であるからである。
それ故、「あおりの」罪が成立するためには、その「あおり」の対象となつた争議行為自体の正当性の有無を論ずる余地はなく、したがつて、その争議行為が例えば政治的目的のために行なわれたものであるか否かという如きことは、同罪の成否になんら影響を及ぼすものではないというべきである。しかも、もともと法律上争議権を否定された公務員が、「正当な争議行為」をすることができないのは当然であるから、国家公務員法附則一六条、地方公勝員法五八条の規定をまつまでもなく、争議行為として「正当なもの」について、刑事免責を規定した労働組合法一条二項の規定が公務員の争議行為に適用の余地のないことは明白であつて、この点からいつても、「あおり」の対象となつた争議行為自体の正当性ないし刑事罰をもつてのぞむべき違法性の有無を論ずることは理由がないといわなければならない。
また、争議には、企画、共謀、指令、伝達等は、通常、一般的に随伴し、争議と不可分の関係にあるものであつて、組合構成員は当然これに干与するのであるから、これを処罰することは、争議行為を処罰することになるから、組合構成員の「あおり」行為は除外すべきであるとの解釈論も是認することはできない。けだし、国家公務員法九八条五項後段、一一〇条一項一七号、地方公務員法三七条一項後段、六一条四号は、「何人も」および「何人たるを問わず」あおり行為をした者を処罰する旨を明定しており、あおつた者が組合構成員であると、組合構成員以外の第三者であると、また組合構成員がそれ以外の第三者と共謀した場合であるとを問わず、また争議に当然随伴し、これと不可分の関係において為した者であると否とを問わず、等しく処罰する趣旨であることが明白であるからである。
これを要するに、「あおり」の概念を、強度の違法性を帯びるものに限定したり、「あおり」行為者のうち、組合構成員と組合外部の者とを区別し、外部の者の行為若しくはこれと共謀した者の行為のみを処罰の対象となると解したり、または「あおり」の対象となつた争議行為が違法性の強いもの、ないし刑事罰をもつてのぞむべき違法性のあるものである場合に限り、その「あおり」行為が可罰性を帯びるのであるというが如き限定解釈は、法の明文に反する一種の立法であり、法解釈の域を逸脱したものといわざるを得ない。
従つて、以上に述べたところと解釈の結論を同じくする原判断は相当であり、弁護人のその余の所論は単なる訴訟法違反の主張にすぎないから、結局本件上告は棄却すべきものである。

・都教組事件及び全司法仙台事件判決は、全逓東京中郵事件判決を引用したうえで、争議行為をあおる等の行為のうち処罰対象となるのは、争議行為・あおり行為ともに違法性の強いものに限られるという合憲限定解釈を行った。

+判例(S44.4.2)全司法仙台事件 同日なのね・・・。
理由
弁護人大川修造ほか六名の上告趣意第一点について。
所論は、国家公務員法(昭和四〇年法律第六九号による改正前のもの。以下国公法という。)九八条五項、一一条一項一七号は、憲法二八条、一一条、九七条、一八条に違反するものであり、これを適用した原判決も違憲であるという。
よつて案ずるに、国公法九八条五項は、「職員は、政府が代表する使用者としての公衆に対して同盟罷業、怠業その他の争議行為をなし、又は政府の活動能率を低下させる怠業的行為をしてはならない。又、何人も、このような違法な行為を企て、又はその遂行を共謀し、そそのかし、若しくはあおつてはならない。」と規定し、同法一一〇条一項一七号は、「何人たるを問わず第九十八条第五項前段に規定する違法な行為の遂行を共謀し、そそのかし、若しくはあおり、又はこれらの行為を企てた者」は、三年以下の懲役または一〇万円以下の罰金に処すべき旨を規定している。これらの規定が、文字どおりに、すべての国家公務員の一切の争議行為を禁止し、これらの争議行為の遂行を共謀し、そそのかし、あおる等の行為(以下、あおり行為等という。)をすべて処罰する趣旨と解すべきものとすれば、公務員の労働基本権保障の趣旨に反し、必要やむをえない限度をこえて争議行為を禁止し、かつ、必要最少限度にとどめなければならないとの要請を無視して刑罰の対象としているものとして、これらの規定は、いずれも、違憲の疑いを免れない。しかし、法律の規定は、可能なかぎり、憲法の精神に即し、これと調和しうるよう合理的に解釈されるべきものであつて、この見地からすれば、これらの規定の表現にのみ拘泥して、直ちにこれを違憲と断定する見解は採ることができない。
右のように限定的に解釈するかぎり、前示国公法九八条五項はもとより、同法一一〇条一項一七号も、憲法二八条に違反するものということができず、また、憲法の前文、一一条、九七条、一八条に違反するものともいえないことは、当裁判所大法廷の判例(とくに昭和三九年(あ)第二九六号、同四一年一〇月二六日大法廷判決、刑集二〇巻八号九〇一頁、昭和四一年(あ)第四〇一号、同四四年四月二日大法廷判決参照)の趣旨に照らし、明らかであるから、これらの規定自体を違憲とする所論は、その理由がなく、したがつて、原判決が右国公法一一〇条一項一七号を適用したことを非難する論旨も、採用することができない。

同第二点について。
所論は、明白かつ現実の危険がないのに、あおり行為等を処罰することとしている国公法一一〇条一項一七号の規定は憲法二一条に違反するという。
しかし、右罰則が憲法二一条に違反するものでないことは、当裁判所の判例(昭和二六年(あ)第三八七五号、同三〇年一一月三〇日大法廷判決、刑集九巻一二号二五四五頁)とするところであるのみならず、前に説示したとおり、右罰則はこれを限定的に解釈して適用するかぎりにおいて、右規定が憲法二一条に違反するものでないことは、さらに明らかである。所論は、独自の見解のもとに違憲を主張するものであつて、採用しがたい。

同第三点について。
国公法一一〇条一項一七号は、公務員の争議行為そのものを処罰の対象としているものでないのみならず、右規定にいうあおり行為等を後に説示するような意味に解するかぎり、右規定が憲法一八条に違反するものといえないことは、所論第一点について説示したとおりであつて、所論は採用のかぎりでない。

同第四点について。
所論は、国公法一一〇条一項一七号は、その規定する構成要件の内容が漠然としており、かつ、労働運動の実体を無視し、争議行為の前段階的行為であるあおり行為等のみを処罰の対象としたことは極度に不合理であるから、憲法三一条に違反し、これを適用した原判決も違憲であるという。
しかし、国公法一一〇条一項一七号にいう「共謀」とは、二人以上の者が、同法九八条五項に定める違法行為を行なうため、共同意思のもとに、一体となつて互いに他人の行為を利用し、各自の意思を実行に移すことを内容とする謀議をすること(昭和二九年(あ)第一〇五六号、同三三年五月二八日大法廷判決、刑集一二巻八号一七一八頁参照)、「そそのかし」とは、同法九八条五項に定める違法行為を実行させる目的をもつて、他人に対し、その行為を実行する決意を新たに生じさせるに足りる慫慂行為をすること(昭和二七年(あ)第五七七九号、同二九年四月二七日第三小法廷判決、刑集八巻四号五五五頁参照)、「あおり」とは、右の目的をもつて、他人に対し、その行為を実行する決意を生じさせるような、またはすでに生じている決意を助長させるような勢のある刺激を与えること(昭和三三年(あ)第一四一三号、同三七年二月二一日大法廷判決、刑集一六巻二号一〇七頁参照)を、それぞれ、指すものと解するのが相当である。してみれば、国公法一一〇条一項一七号に規定する犯罪構成要件が、所論のように、内容が漠然としているものとはいいがたく、所論違憲の主張は、理由がない。
また、違法な争議行為につき、その前段階的行為であるあおり行為等のみを独立犯として処罰することは、政策的に妥当といえるかどうかは別論として、必ずしも不合理とはいいがたく、この点に関する非難も、採用することができない。

同第五点について。
所論は、原判決の国公法一一〇条一項一七号の「あおり」の解釈適用の誤りをいう。よつて案ずるに、原判決が国公法一一条一項一七号につき原判示のとおりの限定的解釈をしたうえ、本件事案にこれを適用していることは所論のとおりであるが、当裁判所は、次のような理由により、右規定を本件事案に適用した原判決の結論は、これを支持すべきものと考える。
すなわち、あおり行為等を処罰するには、争議行為そのものが、職員団体の本来の目的を逸脱してなされるとか、暴力その他これに類する不当な圧力を伴うとか、社会通念に反して不当に長期に及ぶなど国民生活に重大な支障を及ぼすとか等違法性の強いものであることのほか、あおり行為等が争議行為に通常随伴するものと認められるものでないことを要するものと解すべきである。というのは、職員の行なう争議行為そのものが処罰の対象とされていないのに、あおり行為等が安易に処罰の対象とされるときは、結局、争議行為参加者の多くが処罰の対象とされることになつて、国公法の建前とする争議行為者不処罰の原則と矛盾することになるからである。
そこで、まず、原判決の認定した本件事実関係をみるに、被告人ら(Aを除く。)は、仙台高等裁判所、同地方裁判所、同簡易裁判所の職員に対し、仙台高等裁判所玄関前において、昭和三五年六月四日午前八時三〇分から九時三〇分まで一時間、勤務時間内に喰い込んで開催される、新安保条約に反対するための職場大会に参加するよう、第一審判決の判示第一(後段のいわゆる間接あおりの部分を除く。)または第二に掲げる行為をしたというのである。右の認定によれば、本件職場大会が前示裁判所職員の団体であるB労組仙台支部の職場大会の実体をもつものであつて、裁判所職員による右職場離脱は、短時間とはいえ、裁判所職員による争議行為に当たるというのである。
ところで、裁判所職員の争議行為の制限について考えてみるに、すべて司法権は裁判所に属するものとされ、裁判所は、この国家に固有の権能に基づき、国民の権利と自由を擁護するとともに、国家社会の秩序を維持することをその使命とするものであることにかんがみると、このような裁判所の行なう裁判事務に従事する職員の職務は、一般的に、公共性の強いものであり、その職務の停廃は、その使命の達成を妨げ、ひいては、国民生活に重大な障害をもたらすおそれがあるものといわなければならない。
そこで、本件職場大会についてみるに、当時、新安保条約に対する反対運動が憲法擁護のための国民運動として広く行なわれ、労働組合その他諸種の団体によつてもその運動が活溌に行なわれており、本件職場大会も右運動の一環として行なわれたものであること所論のとおりであるとしても、裁判所の職員団体の本来の目的にかんがみれば、使用者たる国に対する経済的地位の維持・改善に直接関係があるとはいえない、このような政治的目的のために争議を行なうがごときは、争議行為の正当な範囲を逸脱するものとして許されるべきではなく、かつ、それが短時間のものであり、また、かりに暴力等を伴わないものとしても、裁判事務に従事する裁判所職員の職務の停廃をきたし、国民生活に重大な障害をもたらすおそれのあるものであつて、かような争議行為は、違法性の強いものといわなければならない。
そして、原判決の確定するところによれば、本件当時、(イ)被告人Cは、D労働組合中央執行委員の職にあつて、国公共闘会議からオルグとして仙台市に派遣されていたもの、被告人Eは、農林省宮城作物報告事務所石巻出張所に勤務し、F労働組合宮城県本部副執行委員長の職にあつたもの、被告人Gは、仙台北税務署に勤務し、D労働緯合東北地方連合会執行委員、H副議長の職にあつたもの、被告人Iは、仙台地方裁判所に裁判所書記官補として勤務し、B労組仙台支部執行委員長の職にあつたものであり、(ロ)第一審判決の判示第一に掲げる行為(後段のいわゆる間接あおりの部分を除く。)は、被告人I、Cその他の者が共謀して行なつたもの、判示第二に掲ける行為は、被告人C、I、E、Gその他の者が共謀して行なつたものであるというのである。
そこで、被告人らの右行為が、裁判所職員の行なう争議行為に通常随伴するものと認められるかどうかについて考えてみるに、被告人らのうち、裁判所職員でなく、かつまた、裁判所職員の団体に関係もない第三者である被告人C、E、Gの行なつた行為は、裁判所職員の行なう争議行為に通常随伴するものと認めることができないことは明らかである。また、被告人Iは裁判所職員であり、その団体であるB労組仙台支部執行委員長の職にあつたものであるから、そのあおり行為等がその態様において異常なものでないかぎり、争議行為に通常随伴するものと認めることができるが、本件の場合、被告人Iは、第三者である前示被告人らと共謀して前示ロの行為を行なつたものであるというのであるから、右事実関係のもとにおいては、被告人Iの行為も争議行為に通常随伴する行為と認めることはできないものといわなければならない。
してみれば、原審が被告人らの前示行為につき国公法一一〇条一項一七号を適用したことは、その理由において当裁判所の見解と異なるところがあるが、結局、正当であるに帰し、以上と異なる見解のもとに原判決に法令違反の違法があるとする所論は、採用することができない。

同第六点について。
所論は、原判決は、国公法一一条一項一七号にいう「あおり」の解釈につき、所論引用の当裁判所の判例(昭和三九年(あ)第二九六号、同四一年一〇月二六日大法廷判決、刑集二〇巻八号九〇一頁)と相反する判断をしているという。
しかし、右判例は、原判決の宣告後になされたものであるから、これをもつて刑訴法四〇五条二号の判例と解することはできず、所論は、適法な上告理由に当たらない。

同第七点について。
所論は、違憲(三一条)をいうが、国公法一一〇条一項一七号は、同号の規定する「あおり」等の行為を独立の可罰的行為(犯罪類型)として処罰の対象としているのであるから、いわゆる共謀共同正犯の理論の適用については、他の独立犯罪の場合と異なるところはないと解すべきであり、このように解しても憲法三一条に違反するものではなく、したがつて、これと同趣旨に出た原判断は正当であり、所論違憲の主張は理由がない。

同第八点について。
所論は、原判決は、日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約(昭和三五年六月二三日条約第六号、以下新安保条約という。)の解釈および憲法九条、九八条一項、八一条の解釈を誤つた違法があるという。
しかし、新安保条約のごとき、主権国としてのわが国の存立の基礎に重大な関係をもつ高度の政治性を有するものが違憲であるか否かの法的判断をするについては、司法裁判所は慎重であることを要し、それが憲法の規定に違反することが明らかであると認められないかぎりは、みだりにこれを違憲無効のものと断定すべへきではないこと、ならびに新安保条約は、憲法九条、九八条二項および前文の趣旨に反して違憲であることが明白であるとは認められないことは、当裁判所大法廷の判例(昭和三四年(あ)第七一〇号、同年一二月一六日大法廷判決、刑集一三巻一三号三二二五頁)の趣旨に照らし、明らかであるから、これと同趣旨に出た原判断は正当であつて、所論違憲の主張は理由なきに帰する。

同第九点について。
所論は、単なる法令違反、事実誤認の主張であつて、適法な上告理由に当たらない。
同第一〇点について。
所論は、事実誤認の主張であつて、適法な上告理由に当たらない。
同第一一点について。
所論は、仙台高等裁判所構内が刑法一三〇条にいう建造物の囲繞地に当たるとした原判断が所論引用の判例(昭和二四年(れ)三四〇号、同二五年九月二七日大法廷判決、刑集四巻九号一七八三頁)に違反するという。
しかし、右引用の判例は、守衛、警備員等を置いていることを、外来者がみだりに出入することを禁止している態様の例示として掲げたにとどまり、これをもつて同条にいう建造物の囲縫地であるための要件としたものでないことは明らかであるから、所論判例違反の主張は、その前提を欠き、適法な上告理由に当たらない。

同第一二点および同第一三点について。
所論のうち、違憲(三一条、三二条、三七条二項、七六条一項、三項、八一条、一四条)をいう点は、第一審で無罪を言い渡された被告人に対し、原審が事実の取調をした結果、第一審の無罪判決を破棄し自判しても違憲でないこと、ならびに事実審理を第二審かぎりとし、上告理由が刑訴法四〇五条により制限されている関係上、第一審の無罪判決を破棄自判により有罪とした第二審判決に対し、上訴によつて事実誤認等を争う途が閉ざされているとしても違憲でないことは、当裁判所大法廷の判例(昭和二六年(あ)第二四三六号、同三一年七月一八日判決、刑集一〇巻七号一一四七頁、昭和二七年(あ)第五八七七号、同三一年九月二六日判決、刑集一〇巻九号一三九一頁、昭和二二年(れ)第四三号、同二三年三月一〇日判決、刑集二巻三号一七五頁)の趣旨とするところであるから、所論違憲の主張はいずれも理由がなく、その余は、単なる訴訟法違反の主張であつて、適法な上告理由に当たらない。

同第一四点について。
所論は、単なる訴訟法違反、事実誤認の主張であつて、適法な上告理由に当たらない。被告人Cおよび同Iの各上告趣意について。
所論のうち、新安保条約の違憲(前文、九条)をいう点は、弁護人大川修造ほか六名の上告趣意第八点について、国公法九八条五項、一一〇条」項一七号の違憲(二八条)をいう点は、右上告趣意第一点について、それぞれ説示したとおりであつて、右主張はいずれも理由がなく、その余は、単なる法令違反、事実誤認の主張であつて、適法な上告理由に当たらない。
被告人E、同Gの上告趣意について。
所論のうち、新安保条約の違憲(九条)をいう点は、弁護人大川修造ほか六名の上告趣意第八点について説示したとおりであつて、右主張は理由がなく、その余は、単なる法令違反の主張であつて、適法な上告理由に当らない。

検察官の上告趣意について。
所論は、国公法一一〇条一項一七号の解釈に関する原判決の判断は、所論昭和四〇年一一月一六日東京高等裁判所判決(下級裁判所刑事裁判例集七巻一一号一九五五頁)と相反するという。
原判決は、同号は、同号に掲げる行為をすべて可罰性のあるものと評価しているのではなく、その行為の性質、手段、態様等からして争議行為の実行に影響を及ぼすべき高度の蓋然性をもつ程度に強度の違法性を帯びるもので、これらに刑罰を科することが公益上当然であるとされるものにかぎつて、処罰の対象としていると解すべきである旨判示しているところ、右東京高等裁判所の判決は、同号は、行為者ないし行為の態様等により強度の違法性を帯びた「あおり」行為等のみを処罰する趣旨のものと解すべきではないとの見解をとつており、原判決に先だつて言い渡されたものであるから、原判決は、右高等裁判所の判例と相反する判断をしたこととなり、刑訴法四〇五条三号後段に規定すろ最高裁判所の判例がない場合に、控訴裁判所たる高等裁判所の判例と相反する判断をしたことになるものといわなければならない。
そして、国公法一一〇条一項一七号の解釈に関する当裁判所の見解は、前示のとおりであつて、右高等裁判所の判例および原判決のこの点に関する見解は、そのいずれをも維持することはできないけれども、前示のとおり、原判決が被告人らの第一審判決の判示第一の行為(後段のいわゆる間接あおりの部分を除く。)および第二の行為につき同号を適用処断したことは、結局、正当であるのみならず、被告人らの第一審判決判示第一後段の行為(いわゆる間接あおり)は、原審の確定した事実関係のもとにおいては、いまだその対象たる裁判所職員に対し、本件争議行為の実行を決意させ、またはすでに生じている決意を助長させるような勢のある刺激を与える程度のものとは認めがたく、同号のあおり行為には該当しないものと認めるのが相当であり、したがつて、右事実は犯罪の証明がなく無罪とすべきものであるとした原判決は、その結論において正当であるから、原判決には判例違反があるが、この判例違反の事由は、刑訴法四一〇条一項但書にいう判決に影響を及ぼさないことが明らかな場合に当たり、原判決を破棄する事由とはならない。
よつて、刑訴法四一四条、三九六条に則り、本件各上告を棄却することとし、主文のとおり判決する。
この判決は、裁判官入江俊郎、同岩田誠の各意見、裁判官奥野健一、同草鹿浅之介、同石田和外、同下村三郎、岡松本正雄の意見、裁判官色川幸太郎の反対意見があるほか、裁判官全員一致の意見によるものである。

+意見
裁判官入江俊郎の意見は、次のとおりである。
一、私は、多数意見と結論を同じくし、また、その理由の大部分についてはこれに同調するが、ただ一点だけ多数意見と根本的に考え方を異にする。そしてこの点は、本件においては、判決の結果に影響のない論点のごとくではあるが、他日、他の類似の事案が問題となつた場合には判決の結果を左右することのありうべき問題であるから、この際右の点につきまず私の意見を表示する。
(一)憲法二八条の労働基本権といえども絶対無制限なものではなく、公共の福祉の要請に応じ、これに合理的制限を加えることは違憲ではないが、労働基本権に対するそのような制限は、憲法二八条の法意に照らし、労働基本権を尊重確保する必要と、国民生活全体の利益を維持増進する必要とを比較考量して、両者の間に適正な均衡を保つことを目途として決定すべきであることは、既に当裁判所の判例(昭和三九年(あ)第二九五号、同四一年一〇月二六日大法廷判決、刑集二〇巻八号九〇一頁、いわゆる中郵判決)の判示するとおりである。そして、国家公務員や地方公務員も憲法二八条にいう勤労者にほかならず、これらの公務員も原則として同条の保障を受くべきものであつて、公務員は全体の奉仕者で、一部の奉仕者ではない(憲法一五条)からといつて、その一事をもつて、公務員に対して右労働基本権をすべて否定することは許されないというべきであるが、ただ公務員については、その担当する職務の内容は私企業におけるそれと異なり、一般に公共性が顕著であるから、その職務の具体的な内容に応じて、私企業における労働者の場合と異なる制約を受けることがあつてもやむを得ないといわなければならない。かように考えて来ると、本件で問題となつている国家公務員法(昭和四〇年法律第六九号による改正前のもの。以下国公法と略称する。)九八条五項が公務員の争議行為を禁止しているからといつて、いやしくも争議行為と認められる以上、すべての国家公務員につき一律に一切の争議行為を違法として禁止しているものではなく、具体的事案に即して公共の福祉の要請を充分勘案した上、同法条によつて禁止されている争議行為に該当するか否かを判断すべきであり、もしかような考慮を何ら払うことなく、国家公務員の一切の争議行為を違法として禁止するならば、それは憲法二八条違反というほかないことも、前記当裁判所の判例の趣旨とするところである。国公法の前記法条は単に「争議行為」というに止まり、同法八二条は懲戒に関する規定が置かれているから、単に法文を文字どおりに解すれば、国家公務員の一切の争議行為は禁止され、この法条に違反して争議行為を行つた場合にはすべて懲戒処分を受けることとなるがごとくであるが、これらの法条については当然憲法二八条の法意に即した適切な解釈が加えらるべく、その限度において争議行為が禁止され、かくして禁止された争議行為であつてはじめてこれに懲戒を加えることができるものといわなければならない。ここまでは多数意見と私は意見を異にするわけではない。
(二)しかし、本件は国家公務員の争議行為自体に刑罰を科するか否かではなく、その争議行為に対するあおり行為等に刑罰を科するか否かが問題となつているものであり、国公法一一〇条一項一七号は、同号の規定するあおり行為等を独立の犯罪行為として、これに刑罰を科することを定めた規定である。ところで、憲法二八条の法意に鑑み、国公法上禁止されているとは認められず、従つてまた国公法上懲戒処分の対象ともならないような争議行為であれば、それは憲法上適法な争議行為であり、憲法上の保障を与えられているのであるから、これを対象としてあおり行為等が行なわれたからといつて、前記国公法の刑罰法条の適用の余地のないことは明らかであるが、いやしくも国公法上違法と認められる争議行為を対象としてあおり行為等が行なわれた以上、これに対し前記刑罰法規の適用のあることは当然といわなければならない。しかるに、多数意見は、あおり行為等の対象とせられる国公法上違法な争議行為の中で、さらに争議行為の違法の程度、反社会性の程度に強弱の区別をたてて、多数意見が例示するような、その程度の強いものに対するあおり行為等がはじめて国公法の前記刑罰法条の適用を受けうるものであり、程度の弱いものに対するあおり行為等はその適用外であるとしているが、このような解釈は、憲法二八条、三一条の法意こ照らしても、また国公法の解釈の上からも、これを是認すべき根拠を欠き、私は到底これに賛同することはできないのである。もちろん、理論的には、国公法上違法と解されるような争議行為の中、その違法性ないし反社会性の程度の軽いものに対するあおり行為等に対して、不当に重い刑罰を科し、これがため公務員の争議行為自体が結局において不当に制約されるようなことになるとするならば、それは憲法二八条、三一条の法意に照らし、違憲の問題を生ずることがないとはいえないけれども、本件に関する限り、国公法の前記罰条はそのような場合に当たるとは考えられない。右罰条には、長期三年の懲役刑のほか罰金刑の定めもあるから、右刑罰法規の適用に当たつては、情状等を考慮することにより量刑の面で適切な斟酌をすることが可能であり、違憲の問題は生じないと考える。また、これを立法政策の面から考察しても、右罰条は立法府の有する立法に対する裁量権の範囲を逸脱しているものとは認められない。
(三)原審の確定した事実関係の下においては、本件あおり行為等の対象となつた争議行為は、昭和三五年六月四日仙台高等裁判所前で、午前八時三〇分から同九時三〇分までの勤務時間内に、仙台高等裁判所、同地方裁判所および同簡易裁判所の職員の職場大会を実施しようとするものであつて、そのようにまさに勤務時間にくいこんでこの種争議行為を行なうことは裁判所事務の明らかな停廃にほかならず、裁判所事務は、正義の実現と人権の保障とを目途とする司法権の行使につき不可缺のものであつて、裁判所職員の職務は極めて公共性の強いものというべく、またたとえ短時間であるとしても、本件におけるように勤務時間内にくいこんで裁判所の事務の運営を停廃するがごときは、まさに国公法九八条五項前段により違法として禁止される争議行為であることは多言を要せず、そして、その違法性は勿論極めて程度の強いものというべきであるが、これに国公法一一〇条一項一七号を適用するに当たつては、その程度の強弱を問題とすることは全く不必要であり、かく解することは何ら憲法二八条、三一条に違反するものではないと考えるのである。
(四)なお、当裁判所は、前記いわゆる中郵判決において、公共企業体等労働関係法(以下公労法と略称する。)一七条の解釈ならびに郵便法七九条一項の解釈につき、郵便法により郵政職員の争議行為に刑罰を科する場合の判断を示している。それによれば、右郵便法の法条はもつぱら争議行為を対象としたものでないことは明白であるが、反面、郵政職員が争議行為として同条所定の行為をした場合にその適用を排除すべき理由はなく、争議行為をした場合にも適用あるものと解するほかはないが、公労法は、同法一七条一項に違反してなされた違法な争議行為に対しては同法一八条により懲戒処分をする途を認めているに止まり、刑罰を科する規定は全く置いていないのに、前記郵便法の法条により例外として郵政職員の違法な争議行為に刑罰を科することとなる点を考えると、公労法の職員の争議行為自体の中に刑罰を科せられない場合と科せられる場合とがあることになる点に鑑み、刑事制裁を科せられる郵政職員の右争議行為は前記中郵判決判示のような特に違法性、反社会性の強度のものに限ると解するを相当とするとし、かく解することが、憲法二八条、公労法一七条一項の合理的解釈に沿う所以であるとしたのである。しかるに本件は、争議行為自体に刑罰を科する問題ではなく、違法とされる争議行為を対象としてなされたあおり行為等に刑罰を科することが問題となつているのであつて、前記中郵判決は、この点に関する限り、本件とは事案を異にし本件に適切でなく、あおり行為等の刑罰規定に関する多数意見の中、私の反対する前記の部分に関しては、中郵判決は何らの判示をも包含しているものではないと私は解する旨を附言したい。二、次に、多数意見があおり行為等を処罰しうるためには、あおり行為等がその対象とされた争議行為に通常随伴するものと認められるものでないことを要件としている点は、私もこれに賛同するが、この点につき若干補足意見を表示する。
私見によれば、多数意見の右のごとき解釈のよつて来たる所以は、そもそもあおり行為等は争議行為の発案、計画、遂行の過程として、他人に対し、争議行為を実行する決意を生じさせるような、またはすでに生じている決意を助長させるような勢のある刺激を与えることであつて、通常は対象とされる争議行為に従属的ないし附随的な性質のものであるから、動労者自らが争議行為をした場合は刑罰を科せられないとされているのに、そのような従属的ないし附随的行為につき刑責を認めるとすれば、それはその動労者が自ら行なう争議行為に実質的に包含されていると解される行為の一部を取り上げて処罰すると同様な結果となり極めて不合理であり、争議行為自体に刑責を負わせない立前と矛盾し、かくては労働基本権を認めた憲法二八条の法意にも反することとなるという配慮に出たものに外ならないと考える。それ故、ここに通常随伴するものと認められるものでないというのは、あおり行為等が例えば、組合における争議行為の共同意思に基づかないで争議行為の遂行を煽動するとか、争議行為の際に通常行なわれるような手段、方法、程度をこえた激越なものであるとか、故意に誤つた情報を提供し、欺岡、威力、暴力等の手段、方法を用いるとか等、社会通念上争議行為に伴つて行なわれるものとしては著しく不当と認められるような行為による場合をいうものと解するのが相当である。従つて、このような制限は、あおり行為等の行為者が、その者の行なう争議行為自体につき刑事罰を科せられないとされる動労者ないしそれと同等の立場にある者であつて、本来憲法二八条の保障の下に在るものにつき問題とされるのであり、しからざる純然たる第三者のように、全く憲法二八条の保障の下にない者については、このような制限は問題とならない。すなわち純然たる第三者のしたあおり行為等については、通常随伴するものか否かを考える余地も必要もなく、憲法二八条の要請とも無関係であつて、そのような第三者のあおり行為等がすべて国公法の前記罰条の適用を受けることは、法律の規定によりもとよりも当然というべきである。また、そのような第三者と共謀した者がたとえ動労者であつても、独立の犯罪者たる第三者の共犯者である以上、そのあおり行為等の行為は、争議行為て通常随伴すると解する余地も必要もなく、憲法二八条の要請とも無関係の事柄であつて、これまた国公法の前記罰条の適用を受けることは、法律の規定により当然というべきものと私は考える。その意味において、本件被告人らに刑責を負わせた原判決の結論は正当である。(なお、あおり行為等の対象とされた争議行為が、公務員の勤務条件の維持改善、経済的立場の向上等労働争議本来の目的達成に関係はあるが、その手段、方法、態様等からみて、公共の福祉の要請上許容し得ず違法とされるようなものであれば格別、労働争議本来の目的と全く無関係に、例えば専ら政治的目的達成のための政治運動が、争議行為の形態を採つてなされたような場合には、そのような争議行為は、憲法二八条の保障とは無関係なものというべきであろう。しかし、私はそのような争議行為も実定法たる国公法上の争議行為という中には包含されていると思う。そしてたとえそのような場合であつても、そのあおり行為等をした者が動労者自身であれば、現行国公法が、その者のする右のような争議行為自体に刑罰を科さない立前であるとすれば、それとの均衡上、右あおり行為等のみに刑罰をもつて臨むことは、それが右争議行為に通常随伴するものと認められるものである限り、憲法三一条の要請から、または現行国公法の妥当な解釈の上から、許されないと解するのが相当ではないかと考える。そして本件は、原審の確定したところによれば、新安保条約に反対するための労働争議に対するあおり行為等に関する事案であるが、本件は、被告人らが本件あおり行為等を第三者と共謀して行なつたというのであるから、右の点は、判決の結果には影響のないことに帰するので、ここではただ問題の所在を指摘するに止め、これ以上の詳述は省略する。)

+意見
裁判官岩田誠の意見は、次のとおりである。
一、法律の規定をその文字どおりに解釈すると違憲の疑のある場合には、これに可能なかぎり合理的限定解釈を加え憲法の趣旨に調和するよう解釈すべきものであり、国家公務員法(昭和四〇年法律第六九号による改正前のもの。以下国公法という。)一一〇条一項一七号の規定を解釈するに当つても右のような限定解釈を加うべきものであることは多数意見の判示するとおりである。
二、よつて按ずるに、国公法一一〇条一項一七号は、争議行為自体を行なつた者は処罰しないけれども、争議行為の遂行を共謀し、そそのかし、あおり、またはこれらの行為を企てた者を処罰する旨定めている。しかし、職員組合の行なう争議行為は、通常組合の役員または組合員から発案され、所定の議決機関の決議を経、これに従つて実行されるものと解されるので、右争議行為の「遂行を共謀し、そそのかし、あおり、企てる」行為(以下「あおり行為等」という。)のような行為が、その組合において、本来の目的たる勤務条件の維持改善、経済的地位の向上およびこれと関連する事項を目的とし、自主的に行なう争議行為の発案、計画、遂行の過程として行なわれる場合にこれを刑罰をもつて処罰することは、結局刑罰をもつて、すべての公務員に対し、一切の争議行為を禁止することになり、憲法二八条に違反する疑が生ずる。したがつて、国公法によつて認められた国家公務員の職員組合がその本来の目的達成のため自主的に行なう争議行為の発案、計画、遂行の過程として行なわれる「あおり行為等」は(組合の役員または組合員は勿論、それ以外の者であつても、その組合の上部組織若しくは連合体の役員のような者によつて行なわれても)、暴力等を伴わないかぎり、国公法一一〇条一項一七号にいう「第九十八条第五項前段に規定する違法な行為の遂行を共謀し、そそのかし、若しくはあおり、又はこれらの行為を企てた」場合に当らないものとして処罰の対象にならないと解すべきである。
これを要するに、組合本来の目的を超えて行なわれたと認められる国家公務員の争議行為に対する「あおり行為等」、および組合が自主的に行なう争議行為の発案、計画、遂行の過程として行なわれるものでない一切の「あおり行為等」は、本条項に該当し、処罰の対象となるものと解する。何となれば右各行為はいずれも憲法二八条が勤労者に保障する労働基本権の行使とはいえないからである。
三、多数意見は、「あおり行為等」を処罰するには、争議行為そのものが、職員団体の本来の目的を逸脱してなされるとか、暴力その他これに類する不当な圧力を伴うとか、社会通念に反して不当に長期に及ぶなど国民生活に重大な支障を及ぼすとか等違法性の強いものであることのほか、「あおり行為等」が争議行為に通常随伴するものと認められるものでないことを要するものと解すべきであるとする。
右多数意見の趣旨とするところが、国公法一一〇条一項一七号を憲法に合致するように限定的に解釈するための基準を、「あおり行為等」の対象となる国家公務員の行なう争議行為の違法性の強弱にも求め、違法性の強い争議行為の「あおり行為等」にかぎり、国公法一一〇条一項一七号により処罰できるとするにあるならば、にわかに賛同できない。私は、「あおり行為等」の対象となる争議行為(国公法九八条五項は、国家公務員の争議行為を禁止しているから、国家公務員の争議行為は、国公法上は原則として違法である。〔刑事罰をもつてのぞむべき違法の意ではない。〕)について、その違法性の強弱により国公法一一〇条一項一七号の適用の有無を決すべきではないと思う。「あおり行為等」の対象となつた争議行為が、国家公務員の勤務条件の維持改善、経済的地位の向上およびこれと関連する事項を目的とするものではなく、例えば政治的意図の達成を目的とするものであるときは、かかる争議行為は憲法二八条の保障するところではないから、かかる争議行為を対象とする「あおり行為等」は、それが争議行為に通常随伴するものであると否とを問わず、憲法二八条の保障する労働基本権の行使とはいえない。また「あおり行為等」についても争議行為に通常随伴する行為は、違法性が弱いから処罰されないというのは賛同できない。むしろかゝる行為は、対象たる争議行為が組合の本来の目的達成のための争議行為である限り、憲法二八条の保障する動労者の労働基本権なかんづく団体行動権の行使と認められるから、かゝる行為は、国公法一一〇条一項一七号のいう「あおり行為等」にあたらないので処罰できないというべきものと思料する。
四、これを本件について見るに、第一審判決が確定し、原判決が是認支持した限度の事実関係によれば、当時新安保条約は、憲法に違反し、日米両国間の軍事同盟的性格を有し、却つて日本の平和と安全を脅かすものとして、新安保条約改訂反対運動が、J党をはじめ一部政党、労働組合その他諸種の団体によつて広く行なわれていたのであるが、被告人ら(同Aを除く。以下同じ。)は、右反対運動の一環として、仙台高等裁判所、同地方裁判所、同簡易裁判所の職員に対し、昭和三五年六月四日午前八時三〇分から九時三〇分までの一時間勤務時間内に食い込み同高等裁判所前で新安保条約反対のため行なわれる職場大会に参加するよう第一審判決の判示第一(後段のいわゆる間接あおりの部分を除く。)または第二に掲げる行為をしたというのであり、かつ、右職場大会は、前示各裁判所職員の団体であるB労働組合仙台支部の職場大会であるというのである。してみれば、右職場大会は裁判所の職員団体による争議行為であること明らかであり、その目的とするところは、新安保条約改訂に反対しようとする政治目的のためのもので、職員団体の目的である裁判所職員の勤務条件の維持改善、経済的地位の向上およびこれと関連する事項を目的とするものとは到底いえないものであり、かゝる争議行為は憲法二八条の保障するところではない。したがつて、かゝる争議行為たる右職場大会への参加を慫慂する行為は、国公法一一〇条一項一七号にいわゆるあおり行為にあたること明らかであつて、被告人らの右所為が争議行為に通常随伴するものであるか否かを問うまでもなく、被告人らに罪責のあること論をまたない。
右に記した以外の点については、いずれも多数意見に同調する。

+意見
裁判官奥野健一、同草鹿浅之介、同石田和外、同下村三郎、同松本正雄の意見は、次のとおりである。一、国家公務員は、国民の信託により、全体の奉仕者として国政に干与するものであつて、その使用者である国民大衆に対して同盟罷業、怠業その他の争議行為をなすことは、国民の信託に叛き、国政の活動を停廃せしめ、国民生活に重大な障害をもたらし、公共の福祉に反するものであるから、国家公務員法(昭和四〇年法律第六九号による改正前のもの、以下同じ)九八条五項は、違法な行為として、これを禁止しているのである。また、地方公務員法三七条一項は、同様の趣旨において地方公務員の争議行為を違法な行為として禁止しているのである。これら公務員の争議行為の禁止は、公共の福祉の要請に基づくものであつて、憲法二八条に違反するものということはできない。
法は、右の如く公務員の争議行為を違法な行為として禁止しながらも、それに違反して争議行為自体に参加した個々の公務員に対しては、刑罰を科することなく、公務員として保有する任命上文は雇用上の権利を奪う制裁を科し得るに止めている。しかし、法は、公務員の争議行為は国民又は地方住民に対し、重大な損害を与えるものであることに鑑み、かかる違法な争議行為の原動力となり、これを誘発、指導、助成する、いわゆる煽動者等に対しては刑事制裁を科し、もつて違法な争議行為の禁遏の実を挙げようとしているのである。すなわち、違法な争議行為に原動力を与える者は、単なる争議に参加した者に比して、反社会性の強いものとして、特別の可罰性を認めるべきであるとの観点から、争議に対し指導的役割をなす煽動者等のみを処罰することにより、違法な争議行為の防止と刑政の目的を達し得るものと考えたのである。かくの如く、集団行動による違法行為について、その原動力となつた煽動行為等の違法性を特に重視することは十分合理性のあることであり、内乱罪、騒擾罪などの処罰方式の例にも見られるところであり、決して不合理な立法ではなく、固より、立法政策の範囲内に属するものであつて、違憲とはいい難い。
そして、法が違法な争議行為に対する誘発、指導、助成の原動力となるものとして処罰せんとする「あおり」についていえば、「あおり」の概念は、「違法行為を実行させる目的をもつて、他人に対し、その行為を実行する決意を生ぜしめるような、またはすでに生じている決意を助長させるような勢のある刺激を与えること(昭和三三年(あ)第一四一三号同三七年二月二一日大法廷判決、刑集一六巻二号一〇七頁参照)」をいうものと解するのが相当であり、その構成要件の内容が漠然としているものではない。そして法は、「あおり」行為について何らの限定を設けていないのであるから、いやしくも前記「あおり」の行為に該当するものである限り、これを可罰性のある違法な行為とする趣旨であつて、これらの行為をその違法性の強弱によつて区別し、特に違法性の強いものに対してのみ刑事制裁を科するものであると解する余地は、法文上考えられないところである。
「あおり」の対象となつた争議行為自体の態様により、その違法性の強いもの、ないし刑事罰をもつてのぞむべき違法性のあるものである場合に限つて、「あおり」を処罰する趣旨であると解することも到底是認できない。けだし、法は、争議行為自体を処罰しないとしながら、敢てこれをあおつた者を処罰すると規定しているのであるから、違法性の強いもの、ないし刑事罰をもつてのぞむべき違法性のある争議行為をあおつた場合に限り、あおり行為を処罰する趣旨と解することは、ことさらに明文に反する解釈であるからである。
それ故、「あおり」の罪が成立するためには、その「あおり」の対象となつた争議行為自体の正当性の有無を論ずる余地はなく、したがつて、その争議行為が例えば政治的目的のために行なわれたものであるか否かという如きことは、同罪の成否になんら影響を及ぼすものではないというべきである。しかも、もともと法律上争議権を否定された公務員が、「正当な争議行為」をすることができないのは当然であるから、国家公務員法附則一六条、地方公務員法五八条の規定をまつまでもなく、争議行為として「正当なもの」について、刑事免責を規定した労働組合法一条二項の規定が公務員の争議行為に適用の余地のないことは明白であつて、この点からいつても、「あおり」の対象となつた争議行為自体の正当性ないし刑事罰をもつてのぞむべき違法性の有無を論ずることは理由がないといわなければならない。
また、争議には、企画、共謀、指令、伝達等は、通常、一般的に随伴し、争議と不可分の関係にあるものであつて、組合構成員は当然これに干与するのであるから、これを処罰することは、争議行為を処罰することになるから、組合構成員の「あおり」行為は除外すべきであるとの解釈論も是認することはできない。けだし、国家公務員法九八条五項後段、一一〇条一項一七号、、地方公務員法三七条一項後段、六一条四号は、「何人も」および「何人たるを問わず」あおり行為をした者を処罰する旨を明定しており、あおつた者が組合構成員であると、組合構成員以外の第三者であると、また組合構成員がそれ以外の第三者と共謀した場合であるとを問わず、また争議に当然随伴し、これと不可分の関係において為した者であると否とを問わず、等しく処罰する趣旨であることが明白であるからである。
これを要するに、「あおり」の概念を、強度の違法性を帯びるものに限定したり、「あおり」行為者のうち、組合構成員と組合外部の者とを区別し、外部の者の行為若しくはこれと共謀した者の行為のみが処罰の対象となると解したり、または「あおり」の対象となつた争議行為が違法性の強いもの、ないし刑事罰をもつてのぞむべき違法性のあるものである場合に限り、その「あおり」行為が可罰性を帯びるのであるというが如き限定解釈は、法の明文に反する一種の立法であり、法解釈の域を逸脱したものといわざるを得ない。
二、以上の見解に立つて本件を見るに、被告人ら(Aを除く。)の本件行為(第一審判決判示第一後段のいわゆる「間接あおり」の部分を除く。)が国公法一一〇条一項一七号の「あおり」行為に当たることは明らかであつて、被告人らの右行為につき同号を適用処断した原判決は、結論において正当である。

+反対意見
裁判官色川幸太郎の反対意見は、次のとおりである。
一、本件においては、「争議行為」の遂行をあおつたことが問題とされているのであるが、原審判決は、「争議行為」とは、「公務員の団体行動として、当局側の管理意思に反し、国の業務の正常な運営を阻害するが如き行為」であるとなし、本件職場大会を以て、安保改定阻止運動の一還たる抗議集会であると認定しながら、「いわゆる政治ストと呼ばれる争議」もまた国家公務員法(昭和四〇年法律第六九号による改正前のもの。以下国公法という。)九八条五項の禁止の対象になると断定した。その理由として述べるところは、同項は「国民全体の奉仕者である国家公務員が責務を懈怠し、国民との間の信託関係に背くような危険を防止するにある」からというのである。そうだとすれば、何故に団体行動でなければ禁止の対象にならないのかが理解しにくいのであるが、それはとにかく、業務の放棄それ自体が目的といえば目的で、何らか別段の要求貫徹の手段としてなされるものでない、享楽等のための集団職場離脱(これこそ国民の信託に背く職務懈怠の最たるものであろう。)の如きも、原判決の定義によれば「争議行為」に含まれることにならざるを得ない。いやしくも刑罰法規の解釈である以上、およそ上述の如き明確性を欠いた、漠然たる定義づけは許されないと考えるのであるが、いずれにしても、かかる解釈をとることができない所以は以下述べるところで明らかになるであろう。多数意見は、その定義づけを容認し、国公法九八条五項の「争議行為」には政治目的のためのものをも含むと即断して、被告人らの所為に対する同法一一〇条一項一七号の適用を是認しているのであつて、私のとうてい賛成し能わざるところである。
二、国公法は、「争議行為」の意義について何ら規定していないのであるが、私は、それを労働関係調整法(以下労調法という。)七条に求むべきものであると考える。「争議行為」という用語は、「同盟罷業」や「怠業」などと異なり、戦後の立法においてはじめて使われたものであつて、従前より慣用されてきた日常語ではなく、純然たる法律上の技術的なことばである。したがつて、その意義如何は、何よりもまず法令に解釈の根拠を求めるべきものであろう。ところで、現行法で「争議行為」なる用語を用いているのは、上述の国公法及び労調法のほか船員法(三〇条)、公共企業体等労働関係法(一七条)、労働組合法(八条)、地方公務員法(三七条)、電気事業及び石炭鉱業における争議行為の方法の規制に関する法律(二条、三条)及び自衛隊法(六四条)であるが、労調法を除けば、しかもその半ば以上は刑事制裁を伴う争議行為の禁止法であるにもかかわらず、「争議行為」とは何であるかについての定義規定を全く欠いている(ただし船員法のみは「労働関係に関する争議行為」と規定して「争議行為」の一応の枠を明らかにしている。これは昭和一二年法律第七九号の旧船員法において、同法六〇条が「左ノ各号ノ一に該当スル場合ニ於テ船員カ労働争議ニ関シテ労務ヲ中止シ又ハ作業ノ進行ヲ阻害シタルトキハ年以下ノ懲役又ハ五百円以下ノ罰金ニ処ス」としていたところをうけたものであろう。船員法を除くその余の前記の法律が「争議行為」について上述のような限定をしていないことは、これらの立法の趣旨に鑑み、かつ対象を共通にすることを考慮するならば、反対解釈を許すものではなく、逆に類推を強く要請するものと解するのが相当である。)ことは、看過されてはならない事実である。労調法が公布されたのは昭和二一年九月二七日でありその余の前記の法律の制定公布はことごとくこれにおくれている(右の列挙は公布の順序によつた。船員法の公布は昭和二二年九月一日である。)のであるし、労調法をもつていわゆる労働三法の一とよぶかどうかは問題であるとしても、労働組合法と同様、集団的労働関係を規整せんとする基本的な法律であることには間違いないのであるから、これら爾後の立法における「争議行為」なる用語の意義は、大筋においては労調法の定義規定を踏襲したものと解さざるを得ないのである。
もつとも、説をなす者は、労調法七条をもつて、労働委員会が労働争議の調整に乗り出す前提条件として規定したに過ぎないものとなし、この定義は、調整と無関係な他の法律には適切でなく、公務員沫等の各種の法律における「争議行為」をしかく限定的に解すべきではないという。論者のいう如く、元来、労使の紛争は、自主的な解決を建て前とするのであつて、労働委員会が、過早に介入することは妥当を欠くが故に、いかなる場合にこれらの機関が調整活動を開始すべきかを規制する、いわば一種の歯止めがなければならない。そこで、調整をなすためには労使の紛争が争議状態にまでなつたことを必要とするというのが七条であつて、その点が同条の立法目的の一つであることは争のないところであろう。しかし、これは楯の反面なのである。立法当初における労調法の構成を見ると、労働関係調整法というその名称にもかかわらず、単に労働争議の調整に関する法律であるにとどまらないことは一目瞭然たるものがある。労調法は、まさに労働争議の調整手続(二章乃至四章)及びそれに附帯する争議行為届出義務の設定(九条)、争議行為の保障(旧四一条)並びに争議行為の制限禁止(三六条、三七条、旧三八条、旧三九条)の三本立てとして発足したのであつた。注目すべきは、次の旧三八条である。
「第三十八条 警察官吏、消防職員、監獄において勤務する者その他国又は公共団体の現業以外の行政又は司法の業務に従事する官吏その他の者は、争議行為をなすことはできない。」そして、右規定に違反した場合の制裁として、当該団体及びその役員に総額一万円の罰金が課せられることになつていた(旧三九条)。かくの如くにして、それまで争議行為を自由になし得た官公吏も、現業職員を除き、その行動を大幅に制約されることになつた次第である。
右法条は、後に述べるような経緯で昭和二四年法律第一七五号により削除せられ同法三八条はしばらく空欄となつていたが、その後、昭和二七年法律第二八八号を以て緊急調整制度が設けられたときに現に見る如く追加されたので、今は全く旧態をとどめていない。しかし、現行法の構成を見ても、同法はひとり労働争議の調整手続を規定するだけでなく、第五章ではいまなお争議行為の制限禁止を規定しているのである。かくして、同法七条の「争議行為」の定義は、六条にいう「労働争議」(これこそ調整の前提条件を定めるものである。)の基底たる観念を明らかにするとともに、制限禁止の対象たる行為の限界を劃するという意味を、当初より今日まで持ちつづけているわけである。
三、ところで、労調法七条の定義は、国公法九八条にいう「争議行為」といかなる関係にあるのであろうか。これを知るためには、立法の沿革と変遷をたずねなければならない。労調法は、前述のとおり、公務員の争議行為を禁圧する戦後最初の立法である。しかし、旧三九条の規定した違反に対する処罰はほとんど名目にすぎなかつたばかりでなく、尨大な数にのぼる国鉄、郵政その他の現業公務員(その組織する組合こそ全日本の労働組合運動において中核的な存在であつた。)は、すべて旧三八条による規制の時外にあつた。なお、国家公務員法(昭和二二年法律第一二〇号)は、もとより争議行為について全然ふれるところがなかつたのである。当時の客観的諸情勢を見ると、破壊的な悪性インフレはとめどもなく昂進し、それに刺戟せられた労働運動はいよいよ激しさを加え、昭和二三年七月ごろには五二〇〇円給与ベースをめぐる全官公労組と政府との激突となり、同年八月初旬を期しての官公吏を中心とした未曾有の規模のストアフイキはもはや避けられないという緊迫した情勢になつた。この空前の争議行為を未前に防遏するために発せられたのが、芦田内閣総理大臣に対する同年七月二二日付マッカーテー連合国最高司令官書簡である。この書簡中、本件に関係する個所(これが書簡の主要な部分をなしている。)は、要するに、公務員の性格を論じてそれと私企業従事者との間の顕著な差異を指摘し、それであるが故に、公務員は、私企業において認められているような団体交渉の手段を採ることができないとし、さらに進んで、公務員は、公共の信託に対し無条件な忠誠義務があるのであるから、要求を通すための、政府の運営を妨害する意図を示すような争議行為は、公務員にはとうてい許し難いと論断したのち、国家公務員法はかかる考え方に適合した方向へ全面的に改正する必要があり、日本政府はその作業に即刻着手するべきである旨を示唆したものであつた。これに聴従した政府は、さしあたり、国公法の全面改正にいたるつなぎとして、同月三一日、政令第二〇一号を以て「昭和二三年七月ニ二日附内閣総理大臣宛連合国最高司令官書簡に基く臨時措置に関する政令」(以下政令二〇一号という。)を公布、即日施行した。その内容は三カ条から成るが、一条は、国又は地方公共団体の職員の地位にあるすべての公務員は、争議行為を裏付けとする団体交渉の権利を有しないこと、従前の協約は失効すること、また、労働委員会は、公務員と国等の間における労働争議についてはこれを処理する権限を失い、爾後臨時人事委員会のみが公務員の利益を保護する機関になることなどを定め、二条は、争議権を一切否定し、三条は、前条に違反した場合の罰則を規定したものである。以上の如くであつて、この政令による争議権の否定は、団体交渉権(いうまでもなくこれは使用者を相手方とするものである。)の否定と離れ難くからみあつていることが注目される。要するに、マッカーサー書簡」おける禁圧の要請も、この政令二〇一号による禁止も、団体交渉と密着した、すなわち、被用者対使用者との関係における争議行為を否定したものであり、団体交渉と無関係な業務阻害行為一般を目ざしたものでないと解することができる。換言すれば、公務員について憲法二八条の保障を大幅に取り除いたものなのである。このことは、基本権制限の代償として臨時人事委員会をあげていることからも推察するに難くはあるまい。何となれば、右機関は、後の人事院であつて、現在の人事院と同様、給与その他の勤務条件の改善、その他人事行政の公正確保及び職員の利益の保護に当ることをその目的とし、政治上の要求の調整や社会生活における不平不満の解消などは、およそその任でなかつたからである。
ところで、同年一一月には、総司令部の強い示唆の下に作成された国公法の改正案が国会に上程せられ、同年一二月その成立を見た。争議行為禁止に関する部分については、関係委員会においても突込んだ審議がなされることなく、無修正で国会を通過し、昭和四〇年法律第六九号による改正前の国公法九八条及び一一〇条一項一七号の制定となり、同時に労調法旧三八条は国家公務員に対してはその適用が除外された。つづいて同条は、労調法の第一次改正(昭和二四年六月一〇日)の際に削除せられ、ここに旧三八条は、国公法九八条、一一〇条一項一七号として生れ変つたのである。
以上の沿革に徴すると、国公法九八条にいう「争議行為」の意義は、まさに労調法七条に定めるところと何の差異もないと解すべきものと考えるのである。
四、労調法七条は、「この法律において争議行為とは、同盟罷業、怠業、作業所閉鎖その他労働関係の当事者が、その主張を貫徹することを目的として行う行為及びこれに対抗する行為であつて、業務の正常な運営を阻害する行為をいう」と規定する。これによれば、「争議行為」とよばれるのは、(イ)労働関係の当事者の、(ロ)ぞの主張を貫徹することを目的とする行為であつて、(ハ)その態様が業務の正常な運営を阻害する程度のものでなければならない。いま本件に即して考えると、およそ次のとおりである。
第一に、「争議行為」は、労働関係の当事者としての立場における行為である。当事者とは、労調法の立法趣旨からいつて、集団的労働関係の場におけるものをさし、個々の労使関係を意味するものではない。個人としての労働者がなす業務阻害行為は、争議行為として扱う限りではないのである。また、労働者は、使用者に対する関係で被用者であるとともに一個の市民もしくは国民であつて、その団体は、一面においては市民もしくは国民の集合体であるから、使用者との対抗・角逐とはかかわりのない、市民もしくは国民としての立場における行動(社会活動または政治活動)に出ることはもとより妨げないし、また事実しばしば行われているわけである。しかし、これは労働関係の当事者としての行動ではない。公務員及びその団体についても事は全く同様であつて、一面においては労働関係の当事者であるが、他面においては市民もしくは国民であり、そしてその集合体なのである。これとまさに対応した関係において、政府も一面においては労働関係上の使用者であり、他面においては主権を行使する国家の機関として現われる。使用者としての政府は、私企業における使用者と本質的に異なるところはないのであるから、公務員の団体による対抗を承認し、これと対等の立場で交渉することが要請されるのである。政府の有するこの二面性については、つとに指摘されているところであつて、疑問の余地はないであろう。公務員は、被用者としては、使用者たる政府と相見えるのであつて、被治者対治者の関係においてではない。公務員が団体として政府に立ち向う行動は、これを大別すると、(イ)労働関係を前提とした要求貫徹のための行動、(ロ)国民の立場で政策の変更を迫り或は施策に反対する行動、(ハ)掲ぐべき要求のない、職務懈怠そのものとしての集団的な職場離脱その他の行動、以上三つが考えられるわけであるが、国公法九八条五項にいう法律用語としての「争議行為」は、そのうちの(イ)に限られるのである。(国公法九八条五項は、争議行為の禁止とともに「政府の活動能率を低下させる怠業的行為」の禁止を規定している。条文の表現だけからすると、争議行為とは別異の怠業的行為なる類型を設けたかの如くであるが、立法の理由を按じ、また事実上の根拠となつたマッカーサー書簡と照合するならば、この規定は、当時官公労組の採つた戦術である定時退庁、一斉賜暇等、一見合法的ないわゆる遵法闘争を封殺せんとして念のために設けられたに過ぎないのであつて、そうである以上、これまた上記(イ)に属する争議行為の一種にほかならない。)
五、第二に、争議行為とは、主張の貫徹を目的とした行為(労調法七条にいう「対抗する行為」も、大づかみにいえば、ここにいう主張の貫徹に含まれるであろう。)である。主張貫徹の可能性の有無を問わないから、反対のための単なる示威であつても、主張の貫徹のためになされた行為で正常な業務の運営を阻害するものである限り、争議行為たるを妨げない。次に、その主張するところが労働関係上のものであることを要するか、それとも何らの限定もないのかについては問題のあるところであり、同法六条との対比から後者だとする見解もあるが、七条が、前述のように、争議調整の前提条件たる「労働争議」とは何であるかを明らかにするための定義規定をもかねていること、そしてまた、「争議行為」が労働関係の当事者たる立場においての行為でなければならないことなどを考慮するならば、これを労働関係上の要求に限ると解すべきであろう。そうだとすれば、国民の立場において政府の施策に反対し又はその政策の変更を強いるためのいわゆる政治ストは、国公法九八条五項にいう法律用語としての「争議行為」には含まれないものといわなければならない。本件の職場大会は、約七〇名にものぼる多数の裁判所職員の参加の下に、午前八時三〇分より九時三〇分までの間、勤務時間に食いこんで開催されたものだというのであるから、裁判所の正常な業務の運営を阻害したことは否定できないのであるが、その標榜したところは、新安保条約に対する抗議意思の表明であり、主権の行使者としての政府に向けた行動であつて、使用者としての政府を名宛人とするものではなかつたのである。そしてまた、その主張するところが労働関係上の、例えば勤務条件等に関するものでなかつたことは一点の疑もないのであるから、前述したところにより、これが「争議行為」に当たるものでないことは多言を要しない。かかる行動に対しては、他の法条による規制はあり得るとしても、国公法一一〇条一項一七号を以て問擬すべき限りではないのである。
六、元来、公務員は、憲法二八条にいう動労者であり、原則的には同条の保障を受けるきものであるが(昭和三九年(あ)第二九六号同四一年一〇月二六日大法廷判決、刑集二〇巻八号九〇一頁、以下全逓中郵事件判決という。)、憲法二八条の法意とするところは、「企業者対動労者すなわち使用者対被使用者というような関係に立つ者の間において、経済上の弱者である動労者のために団結権乃至団体行動権を保障したもの」(昭和二二年(れ)第三一九号同二四年五月一八日大法廷判決、刑集三巻六号七七二頁)であつて、この「狙いは、憲法二五条に定めるいわゆる生存権の保障を基本理念とし、動労者に対して人間に値する生存を保障すべきものとする見地に立ち、……経済上劣位に立つ動労者に対して実質的な自由と平等とを確保する手段として、その団結権、団体交渉権、争議権を保障しようとするものである」(全逓中郵事件判決九〇五頁)。而して、憲法によるこの労働基本権の保障は、労働組合法によつて具体化されているのであるが、同法の目的とするところは、労働者が使用者との交渉において対等の立場に立つことができるように団結を擁護し(同法一条一項前段)、団体交渉及び団体行動を保護助成する(同項後段)ことにあり、労働者乃至その団体に対し、使用者との関係を捨象した、対国家、対社会の面において、一般国民乃至その団体と別異の特権的な処遇を与えようとするものではない。労働組合法の擁護する団結権は、同法一条一項に示すところのものであり、その保護する団体行動は、同項に規定する範囲に限局されるのである。労働組合に政治活動の自由のあることはいうまでもないし(昭和三八年(あ)九七四号同四三年一二月四日大法廷判決、裁判所時報五一一号二頁参照)、労働組合の政治活動が刑事法上当然に違法と評価さるべき何らの理由もないけれども、労働組合法は、労働組合の一般政治活動については、労使の経済上の取引とは没交渉である限り、保護も与えず、禁止もなさず、いわば黙して語らないのである(二条四号は、いかなる団体を同法上労働組合として取扱うかという見地にたつて、その資格要件を定めたに過ぎない。)。
ところで、労調法旧三八条は、旧労働組合法(同法は、公務員の労働基本権を原則的には保護していたのである。)の規定にもかかわらず、現業を除く官公吏の争議権に重大な制約を加えたものであるから、同法条は、旧労働組合法の特別法たる性質を有するわけである。けだし、これらの公務員は、使用者との関係において団結権、団体交渉権及び争議権の保護を受けていたところ、そのうちの争議権についてこれを禁圧せられるにいたつたのであるから、その対象たる争議権とは、憲法二八条にいうところのものにほかならず、すなわち使用者との関係において争議行為をなすところの権利であることはむしろ自明というべきであるからである。要するにいかなる意味においても、それ以外の面における団体行動を規制するものではないとしなければならない。而して、さきに述べた沿革からいつて、国公法九八条は、労調法旧三八条を換骨奪胎したものというべきであるから、国公法九八条は、まさに労働組合法の特別法たる関係となり、同条がおよそ政治活動の制約を目ざしたものでないことに、たやすく想到し得る筈なのである。
七、これを当該法条の表現に徴すると、同条には、「職員は、政府が代表する使用者としての公衆に対して……争議行為をなし又は……怠業的行為をしてはならない」云々とある。公衆が言葉の本来の意味において使用者であるかどうかはともかく、およそ「争議行為」が使用者に向けてなされるものであるとしていることは、これを通じて看取するに十分である。もとより「公衆」は組織されているわけではないから、「公衆」と公務員との間に法律関係が成立するに由がなく、労働関係は任命権者を通じて政府との間に生ずるわけであつて、使用者としての「公衆」というのは、主権が国民に存し、一切の公権力は国民に由来するという象徴的意味でしかあるまい。それはそれとして、同条にいう「争議行為」が使用者としての政府を名宛人にしていること、その点で労調法七条と符節を合するもののあることに留意さるべきである。いうまでもなく、使用者とは、労働契約の当事者として、労働者を雇用する地位にあるものの謂であり、主権の行使者としての政府とは全然別の概念である。労働関係とは無関係の、例えば政治的な要求を掲げての統一行動は、それが正常な業務を阻害するものであつても、後者の意味においての政府に挑戦するものにほかならず、国公法九八条の関知するところでないことはいよいよ以て明らかであると信ずる。
八、本件職場大会は、新安保条約に反対する純然たる政治活動である。「ストライキ」という言葉は日常的な慣用語であるから、これを政治ストとよぶことは自由であるが、それは学生の安保反対のための一斉休学をストライキとよぶことと多く異なるところはないのであつて、国公法九八条にいう「同盗罷業」は、これと厳密に区別されなければならない。けだし、同条の「同盟罷業」は、同条にいう「争議行為」の下位概念であり、上述した「争議行為」の定義はすべて「同盟罷業」に当てはめられなければならないからである。
ところで、前示全逓中郵事件判決は、公共企業体等労働関係法一七条一項に違反した争議行為であつても、それが労組法一条一項の目的を達成するためのものであり、かつ単なる罷業または怠業等の不作為が存在するにとどまり、暴力の行使その他の不当性を伴わない場合には、刑事制裁の対象とはならないが、「もし争議行為が労組法一条一項の目的のためではなくして政治的目的のために行われた場合」等においては、「争議行為としての限界性をこえるもので、刑事制裁を免れない」と説示している。人あるいはこれを目して、当裁判所は一般的に公務員等によるいわゆる政治ストの可罰性を認めたものとするかも知れない。しかし、全逓中郵事件は、公共企業体等労働関係法(これは、いうまでもなく、争議行為に対する刑罰規定をもたない。)の適用下にある郵政職員について、郵便法の罰則規定である同法七九条一項の適用があるか否かを論じたものに過ぎず、さらに進んで、一般に、公共企業体等の職員によるいわゆる政治ストが刑罰の対象となるかどうかは右の事件では全く問題外であつたのである。のみならず、いわゆる政治ストが国公法九八条にいう「争議行為」でないことは、既に論じたとおりであるから、国家公務員による政治的目的のための本件行為が可罰的であるかどうかは、国公法一一〇条一項一七号違反として起訴された本件においては、全く問題にならないのである。(この点については、憲法一五条二項に定める公務員の中立性と憲法二一条による市民としての表現の自由との関連において、国公法一〇二条、一一〇条一項一九号及び人事院規則一四―七の合憲性もしくはその適用の範囲が判断されなければならないのであるが、それは別途検討さるべきものであつて、今これを論ずる限りではない。)
以上要するに、国公法九八条の「争議行為」に属しない本件職場大会のあおり行為に対し、同法一一〇条一項一七号の適用を是認した原審判決には、法律の解釈を誤つた違法があり、破棄をまぬかれない。

・都教組事件は、地方公務員についていわゆる「二重の絞り論」を採用し、同日の判決(全司法仙台事件)は、国家公務員についても同様の判断を下した。
しかし、全農林警職法事件は、全司法仙台事件判決を変更し、あおり行為等処罰規定を全面的に合憲とした!!!

+判例(S48.4.25)全農林警職法事件
理由
弁護人佐藤義弥ほか三名連名の上告趣意第一点、第三点、第五点について。
所論は、原判決が国家公務員法(昭和四〇年法律第六九号による改正前のもの。以下、国公法という。)九八条五項および一一〇条一項一七号の各規定を憲法二八条に違反しないものと判断し、また、国公法一一〇条一項一七号を憲法二一条、一八条に違反しないものとして、これを適用したのは、憲法の右各条項に違反する旨を主張する。

一 よつて考えるに、憲法二八条は、「勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利」、すなわちいわゆる労働基本権を保障している。この労働基本権の保障は、憲法二五条のいわゆる生存権の保障を基本理念とし、憲法二七条の勤労の権利および勤労条件に関する基準の法定の保障と相まつて勤労者の経済的地位の向上を目的とするものである。このような労働基本権の根本精神に即して考えると、公務員は、私企業の労働者とは異なり、使用者との合意によつて賃金その他の労働条件が決定される立場にないとはいえ、動労者として、自己の労務を提供することにより生活の資を得ているものである点において一般の勤労者と異なるところはないから、憲法二八条の労働基本権の保障は公務員に対しても及ぶものと解すべきである。ただ、この労働基本権は、右のように、勤労者の経済的地位の向上のための手段として認められたものであつて、それ自体が目的とされる絶対的なものではないから、おのずから勤労者を含めた国民全体の共同利益の見地からする制約を免れないものであり、このことは、憲法一三条の規定の趣旨に徴しても疑いのないところである(この場合、憲法一三条にいう「公共の福祉」とは、勤労者たる地位にあるすべての者を包摂した国民全体の共同の利益を指すものということができよう。)。以下、この理を、さしあたり、本件において問題となつている非現業の国家公務員(非現業の国家公務員を以下単に公務員という。)について詳述すれば、次のとおりである。

(一) 公務員は、私企業の労働者と異なり、国民の信託に基づいて国政を担当する政府により任命されるものであるが、憲法一五条の示すとおり、実質的には、その使用者は国民全体であり、公務員の労務提供義務は国民全体に対して負うものである。もとよりこのことだけの理由から公務員に対して団結権をはじめその他一切の労働基本権を否定することは許されないのであるが、公務員の地位の特殊性と職務の公共性にかんがみるときは、これを根拠として公務員の労働基本権に対し必要やむをえない限度の制限を加えることは、十分合理的な理由があるというべきである。
けだし、公務員は、公共の利益のために勤務するものであり、公務の円滑な運営のためには、その担当する職務内容の別なく、それぞれの職場においてその職責を果すことが必要不可缺であつて、公務員が争議行為に及ぶことは、その地位の特殊性および職務の公共性と相容れないばかりでなく、多かれ少なかれ公務の停廃をもたらし、その停廃は勤労者を含めた国民全体の共同利益に重大な影響を及ぼすか、またはその虞れがあるからである。
次に公務員の勤務条件の決定については、私企業における勤労者と異なるものがあることを看過することはできない。すなわち利潤追求が原則として自由とされる私企業においては、労働者側の利潤の分配要求の自由も当然に是認せられ、団体を結成して使用者と対等の立場において団体交渉をなし、賃金その他の労働条件を集団的に決定して協約を結び、もし交渉が妥結しないときは同盟罷業等を行なつて解決を図るという憲法二八条の保障する労働基本権の行使が何らの制約なく許されるのを原則としている。これに反し、公務員の場合は、その給与の財源は国の財政とも関連して主として税収によつて賄われ、私企業における労働者の利潤の分配要求のごときものとは全く異なり、その勤務条件はすべて政治的、財政的、社会的その他諸般の合理的な配慮により適当に決定されなければならず、しかもその決定は民主国家のルールに従い、立法府において論議のうえなされるべきもので、同盟罷業等争議行為の圧力による強制を容認する余地は全く存しないのである。これを法制に即して見るに、公務員については、憲法自体がその七三条四号において「法律の定める基準に従ひ、官吏に関する事務を掌理写ること」は内閣の事務であると定め、その給与は法律により定められる給与準則に基づいてなされることを要し、これに基づかずにはいかなる金銭または有価物も支給することはできないとされており(国公法六三条一項参照)、このように公務員の給与をはじめ、その他の勤務条件は、私企業の場合のごとく労使間の自由な交渉に基づく合意によつて定められるものではなく、原則として、国民の代表者により構成される国会の制定した法律、予算によつて定められることとなつているのである。その場合、使用者としての政府にいかなる範囲の決定権を委任するかは、まさに国会みずからが立法をもつて定めるべき労働政策の問題である。したがつて、これら公務員の勤務条件の決定に関し、政府が国会から適法な委任を受けていない事項について、公務員が政府に対し争議行為を行なうことは、的はずれであつて正常なものとはいいがたくもしこのような制度上の制約にもかかわらず公務員による争議行為が行なわれるならば、使用者としての政府によつては解決できない立法問題に逢着せざるをえないこととなり、ひいては民主的に行なわれるべき公務員の勤務条件決定の手続過程を歪曲することともなつて、憲法の基本原則である議会制民主主義(憲法四一条、八三条等参照)に背馳し、国会の議決権を侵す虞れすらなしとしないのである。
さらに、私企業の場合と対比すると、私企業においては、極めて公益性の強い特殊のものを除き、一般に使用者にはいわゆる作業所閉鎖(ロツクアウト)をもつて争議行為に対抗する手段があるばかりでなく、労働者の過大な要求を容れることは、企業の経営を悪化させ、企業そのものの存立を危殆ならしめ、ひいては労働者自身の失業を招くという重大な結果をもたらすことともなるのであるから、労働者の要求はおのずからその面よりの制約を免れず、ここにも私企業の労働者の争議行為と公務員のそれとを一律同様に考えることのできない理由の一が存するのである。また、一般の私企業においては、その提供する製品または役務に対する需給につき、市場からの圧力を受けざるをえない関係上、争議行為に対しても、いわゆる市場の抑制力が働くことを必然とするのに反し、公務員の場合には、そのような市場の機能が作用する余地がないため、公務員の争議行為は場合によつては一方的に強力な圧力となり、この面からも公務員の勤務条件決定の手続をゆがめることとなるのである。
なお付言するに、労働関係における公務員の地位の特殊性は、国際的にも一般に是認されているところであつて、現に、わが国もすでに批准している国際労働機構(ILO)の「団結権及び団体交渉権についての原則の適用に関する条約」(いわゆるILO九八号条約)六条は、「この条約は、公務員の地位を取り扱うものではなく、また、その権利又は分限に影響を及ぼすものと解してはならない。」と規定して、公務員の地位の特殊性を認めており、またストライキの禁止に関する幾多の案件を審議した、同機構の結社の自由委員会は、国家公務員について「大多数の国において法定の勤務条件を享有する公務員は、その雇用を規制する立法の通常の条件として、ストライキ権を禁止されており、この問題についてさらに審査する理由がない。」とし(たとえば、六〇号事件)、わが国を含む多数の国の労働団体から提訴された案件について、この原則を確認しているのである。
以上のように、公務員の争議行為は、公務員の地位の特殊性と勤労者を含めた国民全体の共同利益の保障という見地から、一般私企業におけるとは異なる制約に服すべきものとなしうることは当然であり、また、このことは、国際的視野に立つても肯定されているところなのである。

(二) しかしながら、前述のように、公務員についても憲法によつてその労働基本権が保障される以上、この保障と国民全体の共同利益の擁護との間に均衡が保たれることを必要とすることは、憲法の趣意であると解されるのであるから、その労働基本権を制限するにあたつては、これに代わる相応の措置が講じられなければならない。そこで、わが法制上の公務員の勤務関係における具体的措置が果して憲法の要請に添うものかどうかについて検討を加えてみるに、(イ)公務員たる職員は、後記のように法定の勤務条件を享受し、かつ、法律等による身分保障を受けながらも、特殊の公務員を除き、一般に、その勤務条件の維持改善を図ることを目的として職員団体を結成すること、結成された職員団体に加入し、または加入しないことの自由を保有し(国公法九八条二項、前記改正後の国家公務員法(以下、単に改正国公法という。)一〇八条の二第三項)、さらに、当局は、登録された職員団体から職員の給与、勤務時間その他の勤務条件に関し、およびこれに付帯して一定の事項に関し、交渉の申入れを受けた場合には、これに応ずべき地位に立つ(国公法九八条二項、改正国公法一〇八条の五第一項)ものとされているのであるから、私企業におけるような団体協約を締結する権利は認められないとはいえ、原則的にはいわゆる交渉権が認められており、しかも職員は、右のように、職員団体の構成員であること、これを結成しようとしたこと、もしくはこれに加入しようとしたことはもとより、その職員団体における正当な行為をしたことのために当局から不利益な取扱いを受けることがなく(国公法九八条三項、改正国公法一〇八条の七)、また、職員は、職員団体に属していないという理由で、交渉事項に関して不満を表明し、あるいは意見を申し出る自由を否定されないこととされている(国公法九八条二項、改正国公法一〇八条の五第九項)。ただ、職員は、前記のように、その地位の特殊性と職務の公共性とにかんがみ、国公法九八条五項(改正国公法九八条二項)により、政府が代表する使用者としての公衆に対して同盟罷業、怠業その他の争議行為または政府の活動能率を低下させる怠業的行為をすることを禁止され、また、何人たるを問わず、かかる違法な行為を企て、その遂行を共謀し、そそのかし、もしくはあおつてはならないとされている。そしてこの禁止規定に違反した職員は、国に対し国公法その他に基づいて保有する任命または雇用上の権利を主張できないなど行政上の不利益を受けるのを免れない(国公法九八条六項、改正国公法九八条三項)。しかし、その中でも、単にかかる争議行為に参加したにすぎない職員については罰則はなく、争議行為の遂行を共謀し、そそのかし、もしくはあおり、またはこれらの行為を企てた者についてだけ罰則が設けられているのにとどまるのである(国公法、改正国公法各一一〇条一項一七号)。
以上の関係法規から見ると、労働基本権につき前記のような当然の制約を受ける公務員に対しても、法は、国民全体の共同利益を維持増進することとの均衡を考慮しつつ、その労働基本権を尊重し、これに対する制約、とくに罰則を設けることを、最少限度にとどめようとしている態度をとつているものと解することができる。そして、この趣旨は、いわゆる全逓中郵事件判決の多数意見においても指摘されたところである(昭和三九年(あ)第二九六号同四一年一〇月二六日大法廷判決・刑集二〇巻八号九一二頁参照)。

(ロ) このように、その争議行為等が、勤労者をも含めた国民全体の共同利益の保障という見地から制約を受ける公務員に対しても、その生存権保障の趣旨から、法は、これらの制約に見合う代償措置として身分、任免、服務、給与その他に関する勤務条件についての周到詳密な規定を設けさらに中央人事行政機関として準司法機関的性格をもつ人事院を設けている。ことに公務員は、法律によつて定められる給与準則に基づいて給与を受け、その給与準則には俸給表のほか法定の事項が規定される等、いわゆる法定された勤務条件を享有しているのであつて、人事院は、公務員の給与、勤務時間その他の勤務条件について、いわゆる情勢適応の原則により、国会および内閣に対し勧告または報告を義務づけられている。そして、公務員たる職員は、個別的にまたは職員団体を通じて俸給、給料その他の勤務条件に関し、人事院に対しいわゆる行政措置要求をし、あるいはまた、もし不利益な処分を受けたときは、人事院に対し審査請求をする途も開かれているのである。このように、公務員は、労働基本権に対する制限の代償として、制度上整備された生存権擁護のための関連措置による保障を受けているのである

(三) 以上に説明したとおり、公務員の従事する職務には公共性がある一方、法律によりその主要な勤務条件が定められ、身分が保障されているほか、適切な代償措置が講じられているのであるから、国公法九八条五項がかかる公務員の争議行為およびそのあおり行為等を禁止するのは、勤労者をも含めた国民全体の共同利益の見地からするやむをえない制約というべきであつて、憲法二八条に違反するものではないといわなければならない。

二 次に、国公法一一〇条一項一七号は、公務員の争議行為による業務の停廃が広く国民全体の共同利益に重大な障害をもたらす虞れのあることを考慮し、公務員たると否とを問わず、何人であつてもかかる違法な争議行為の原動力または支柱としての役割を演じた場合については、そのことを理由として罰則を規定しているのである。すなわち、前述のように、公務員の争議行為の禁止は、憲法に違反することはないのであるから、何人であつても、この禁止を侵す違法な争議行為をあおる等の行為をする者は、違法な争議行為に対する原動力を与える者として、単なる争議参加者にくらべて社会的責任が重いのであり、また争議行為の開始ないしはその遂行の原因を作るものであるから、かかるあおり等の行為者の責任を問い、かつ、違法な争議行為の防邊を図るため、その者に対しとくに処罰の必要性を認めて罰則を設けることは、十分に合理性があるものということができる。したがつて、国公法一一〇条一項一七号は、憲法一八条、憲法二八条に違反するものとはとうてい考えることができない。

三 さらに、憲法二一条との関係を見るに、原判決が罪となるべき事実として確定したところによれば、被告人らは、いずれも農林省職員をもつて組織するa労働組合の役員であつたところ、昭和三三年一〇月八日内閣が警察官職務執行法(以下、警職法という)の一部を改正する法律案を衆議院に提出するや、これに反対する第四次統一行動の一環として、原判示第一の所為のほか、同第二のとおり、同年一一月五日午前九時ころから同一一時四〇分ころまでの間、農林省の職員に対し、同省正面玄関前の「警職法改悪反対」職場大会に参加するよう説得、慫慂したというのであるから、被告人らの所為ならびにそのあおつた争議行為すなわち農林省職員の職場離脱による右職場大会は、警職法改正反対という政治的目的のためになされたものというべきである。
ところで、憲法二一条の保障する表現の自由といえども、もともと国民の無制約な恐恣のままに許されるものではなく、公共の福祉に反する場合には合理的な制限を加えうるものと解すべきところ(昭和二三年(れ)第一三〇八号同二四年五月一八日大法廷判決・刑集三巻六号八三九頁、昭和二四年(れ)第四九八号同二七年一月九日大法廷判決・刑集六巻一号四頁、昭和二六年(あ)第三八七五号同三〇年一一月三〇日大法廷判決・刑集九巻一二号二五四五頁、昭和三七年(あ)第八九九号同三九年一一月一八日大法廷判決・刑集一八巻九号五六一頁、昭和三九年(あ)第三〇五号同四四年一〇月一五日大法廷判決、刑集二三巻一〇号一二三九頁、昭和四二年(あ)第一六二六号同四五年六月一七日大法廷判決、刑集二四巻六号二八〇頁参照)、とくに動労者なるがゆえに、本来経済的地位向上のための手段として認められた争議行為をその政治的主張貫徹のための手段として使用しうる特権をもつものとはいえないから、かかる争議行為が表現の自由として特別に保障されるということは、本来ありえないものというべきである。そして、前記のように、公務員は、もともと合憲である法律によつて争議行為をすること自体が禁止されているのであるから、勤労者たる公務員は、かかる政治的目的のために争議行為をすることは、二重の意味で許されないものといわなければならない。してみると、このような禁止された公務員の違法な争議行為をあおる等の行為をあえてすることは、それ自体がたとえ思想の表現たるの一面をもつとしても、公共の利益のために勤務する公務員の重大な義務の解怠を懲通するにほかならないのであつて、結局、国民全体の共同利益に重大な障害をもたらす虞れがあるものであり、憲法の保障する言論の自由の限界を逸脱するものというべきである。したがつて、あおり等の行為を処罰すべきものとしている国公法一一〇条一項一七号は、憲法二一条に違反するものということができない。
以上要するに、これらの国公法の各規定自体が違憲であるとする所論は、その理由がなく、したがつて、原判決が国公法の右各規定を本件に適用したことを非難する論旨も、採用することができない。

同第二点について。
所論は、憲法二八条、三一条違反をいうが、原判決に対する具体的論難をなすものではなく、適法な上告理由にあたらない。

同第四点について。
所論は、要するに、国公法一一〇条一項一七号は、その規定する構成要件、とくにあおり行為等の概念が不明確であり、かつ、争議行為の実行が不処罰であるのに、その前段階的行為であるあおり行為等のみを処罰の対象としているのは不合理であるから、憲法三一条に違反し、これを適用した原判決も違法であるというのである
しかしながら、違法な争議行為に対する原動力または支柱となるものとして罰則の対象とされる国公法一一〇条一項一七号所定の各行為のうち、本件において問題となつている「あおり」および「企て」について考えるに、ここに「あおり」とは、国公法九八条五項前段に定める違法行為を実行させる目的をもつて、他人に対し、その行為を実行する決意を生じさせるような、またはすでに生じている決意を助長させるような勢いのある刺激を与えること(昭和三三年(あ)第一四一三号同三七年二月二一日大法廷判決・刑集一六巻二号一〇七頁参照)をいい、また、「企て」とは、右のごとき違法行為の共謀、そそのかし、またはあおり行為の遂行を計画準備することであつて、違法行為発生の危険性が具体的に生じたと認めうる状態に達したものをいうと解するのが相当である(いずれの場合にせよ、単なる機械的労務を提供したにすぎない者、またはこれに類する者は含まれない。)。してみると、国公法一一〇条一項一七号に規定する犯罪構成要件は、所論のように、内容が漠然としているものとはいいがたく、また違法な行為につき、その前段階的行為であるあおり行為等のみを独立犯として処罰することは、前述のとおりこれらの行為が違法行為に原因を与える行為として単なる争議への参加にくらべ社会的責任が重いと見られる以上、決して不合理とはいいがたいから、所論違憲の主張は理由がない
原判決の確定した罪となるべき事実によれば、被告人らは、前記警職法改正に反対する第四次統一行動の一環としてa労働組合会計長ほか同組合中央執行委員多数と共謀のうえ、(一)昭和三三年一〇月三〇日の深夜から同年一一月二日にかけ、同趣合総務部長をして、同組合各県(大阪府および北海道を含む。)本部宛てに、「組合員は警職法改悪反対のため所属長の承認がなくても、一一月五日は正午出勤の行動に入れ、(ただし、一部特殊職場は勤務時間内一時間以上の職場大会を実施せよ。)」なる趣旨のa名義の電報指令第六号並びに各県本部(大阪府および北海道のほか東京を含む。)、支部、分会各委員長宛てに、同趣旨のa労働組合中央闘争委員長b名義の文書指令第六号を発信または速達便をもつて発送させ、(二)同月五日午前九時ころから同一一時四〇分ころまでの間、農林省において、庁舎各入口に人垣を築いてピケツトを張り、ことに正面玄関の扉を旗竿等をもつて縛りつけ、また裏玄関の内部に机、椅子等を積み重ねるなどした状況のもとに、同省職員約二五〇〇名を入庁させないようにしむけたうえ、同職員らに対し、同省正面玄関前の「警職法改悪反対」職場大会に直ちに参加するように反覆して申し向けて説得し、勤務時間内二時間を目標として開催される右職場大会(実際の開催時間は午前一〇時ころから同一一時四〇分ころまで、正規の出勤時間は同九時二〇分。参加人員は二〇〇〇名余。)に参加方を窓悪したというのであるから、右(一)の各指令の発出行為は、全国の傘下組合員である国家公務員たる農林省職員に対し、争議行為の遂行方をあおることを客観的に計画準備したものにほかならず、また、右(二)の状況下における反覆説得は、国公法九八条五項前段に定める違法行為を実行させる目的をもつて多数の右職員に対し、その行為を実行する決意を生じさせるような、またはすでに生じている決意を助長させるような勢いのある刺激を与えたものというべく、原判決が右(一)につき争議行為の遂行をあおることを企てたとし、(二)につき争議行為の遂行をあおつた行為にあたるとしたのは、正当である。

同第六点について。
所論は、原判決は国公法九八条五項、一一〇条一項一七号の解釈、適用を誤り、所論引用の各高等裁判所の判例と相反する判断をしたものであるというのである。
よつて考えるに、原判決が「同法一一〇条一項一七号の『あおる』行為等の指導的行為は争議行為の原動力、支柱となるものであつて、その反社会性、反規範性等において争議の実行行為そのものより違法性が強いと解し得るのであるから、憲法違反となる結果を回避するため、とくに『あおる』行為等の概念を縮小解釈しなければならない必然性はなく、またその証拠も不十分である」としたうえ、同条項一七号所定の「指導的行為の違法性は、その目的、規模、手段方法(態様)、その他一切の付随的事情に照らし、刑罰法規一般の予定する違法性、すなわち可罰的違法性の程度に達しているものでなければならず、また、これらの指導的行為は、刑罰を科するに足る程度の反社会性、反規範性を具有するものに限る」旨判示し、何らいわゆる限定解釈をすることなく、被告人らの本件行為に対し国公法の右規定を適用していることは、所論のとおりである。これに対し、所論引用の大阪高等裁判所昭和四三年三月二九日判決、福岡高等裁判所昭和四二年一二月一八日各判決、同裁判所昭和四三年四月一八日判決は、右国公法一一〇条一項一七号または地方公務員法六一条四号については、あおり行為あるいはその対象となる争議行為またはその双方につき、限定的に解釈すべきものであるとの見解をとつており、そして、これらの判決は原判決に先だつて言い渡されたものであるから、原判決は、右各高等裁判所の判例と相反する判断をしたこととなり、その言渡当時においては、刑訴法四〇五条三号後段に規定する、最高裁判所の判例がない場合に、控訴裁判所たる高等裁判所の判例に相反する判断をしたことになるといわなければならない。
しかしながら、国公法九八条五項、一一〇条一項一七号の解釈に関して、公務員の争議行為等禁止の措置が違憲ではなく、また、争議行為をあおる等の行為に高度の反社会性があるとして罰則を設けることの合理性を肯認できることは前述のとおりであるから、公務員の行なう争議行為のうち、同法によつて違法とされるものとそうでないものとの区別を認め、さらに違法とされる争議行為にも違法性の強いものと弱いものとの区別を立て、あおり行為等の罪として刑事制裁を科されるのはそのうち違法性の強い争議行為に対するものに限るとし、あるいはまた、あおり行為等につき、争議行為の企画、共謀、説得、態通、指令等を争議行為にいわゆる通常随伴するものとして、国公法上不処罰とされる争議行為自体と同一視し、かかるあおり等の行為自体の違法性の強弱または社会的許容性の有無を論ずることは、いずれも、とうてい是認することができない
けだし、いま、もし、国公法一一〇条一項一七号が、違法性の強い争議行為を違法性の強いまたは社会的許容性のない行為によりあおる等した場合に限つてこれに刑事制裁を科すべき趣旨であると解するときは、いうところの違法性の強弱の区別が元来はなはだ暖昧であるから刑事制裁を科しうる場合と科しえない場合との限界がすこぶる明確性を欠くこととなり、また同条項が争議行為に「通常随伴」し、これと同一視できる一体不可分のあおり等の行為を処罰の対象としていない趣旨と解することは、一般に争議行為が争議指導者の指令により開始され、打ち切られる現実を無視するばかりでなく、何ら労働基本権の保障を受けない第三者がした、このようなあおり等の行為までが処罰の対象から除外される結果となり、さらに、もしかかる第三者のしたあおり等の行為は、争議行為に「通常随伴」するものでないとしてその態様のいかんを問わずこれを処罰の対象とするものと解するときは、同一形態のあおり等をしながら公務員のしたものと第三者のしたものとの間に処罰上の差別を認めることとなつて、ただに法文の「何人たるを問わず」と規定するところに反するばかりでなく、衡平を失するものといわざるをえないからである。いずれにしても、このように不明確な限定解釈は、かえつて犯罪構成要件の保障的機能を失わせることとなり、その明確性を要請する憲法三一条に違反する疑いすら存するものといわなければならない。
なお、公務員の団体行動とされるもののなかでも、その態様からして、実質が単なる規律違反としての評価を受けるにすぎないものについては、その煽動等の行為が国公法一一〇条一項一七号所定の罰則の構成要件に該当しないことはもちろんであり、また、右罰則の構成要件に該当する行為であつても、具体的事情のいかんによつては法秩序全体の精神に照らし許容されるものと認められるときは、刑法上違法性が阻却されることもありうることはいうまでもない。もし公務員中職種と職務内容の公共性の程度が弱く、その争議行為が国民全体の共同利益にさほどの障害を与えないものについて、争議行為を禁止し、あるいはそのあおり等の行為を処罰することの当を得ないものがあるとすれば、それらの行為に対する措置は、公務員たる地位を保有させることの可否とともに立法機関において慎重に考慮すべき立法問題であると考えられるのである。
いわゆる全司法仙台事件についての当裁判所の判決(昭和四一年(あ)第一一二九号同四四年四月二日大法廷判決・別集二三巻五号六八五頁)は、本判決において判示したところに抵触する限度で、変更を免れないものである。
そうであるとすれば、原判決が被告人らの前示行為につき国公法九八条五項、一一〇条一項一七号を適用したことは結局正当であつて、これと異なる見解のもとに原判決に法令違反があるとする所論は採用することができず、また、この点に関する原審の判断と抵触する前記各高等裁判所の判例は、これを変更すべきものであつて、所論は、原判決破棄の理由とならない。

同第七点、第八点、第九点について。
所論は、いずれも事実誤認、単なる法令違反の主張であつて、適法な上告理由にあたらない。
同第一〇点について。
所論は、要するに、公務員の政治的目的に出た争議行為も憲法二八条によつて保障されることを前提とし、原判決が、いわゆる「政治スト」は、憲法二八条に保障された争議行為としての正当性の限界を逸脱するものとして刑事制裁を免れないと判断したのは、憲法二一条、二八条、三一条の解釈を誤つたものである旨主張する。
しかしながら、公務員については、経済目的に出たものであると、はたまた、政治目的に出たものであるとを問わず、国公法上許容された争議行為なるものが存在するとすることは、とうていこれを是認することができないのであつて、かく解釈しても憲法に違反するものではないから、所論違憲の主張は、その前提を欠き、適法な上告理由にあたらない(なお、私企業の労働者たると、公務員を含むその他の勤労者たるとを問わず、使用者に対する経済的地位の向上の要請とは直接関係があるとはいえない警職法の改正に対する反対のような政治的目的のために争議行為を行なうがごときは、もともと憲法二八条の保障とは無関係なものというべきである。現に国際労働機構(ILO)の「結社の自由委員会」は、警職法に関する申立について、「委員会は、改正法案は、それが成立するときは、労働組合権を侵害することとなることを立証するに十分な証拠を申立人は提出していないと考えるので、日本政府の明確な説明を考慮して、これらの申立については、これ以上審議する必要がないと決定するよう理事会に勧告する。」としている(一七九事件第五四次報告一八七項)。国際労働機構の「日本における公共部門に雇用される者に関する結社の自由調査調停委員会報告」(いわゆるドライヤー報告)も、「労働組合権に関する申立の審査において国際労働機関によつてとられている一般原則によれば、政治的起源をもつ事態が適当な手続による国際労働機関の調査が要請されうる社会的側面(問題)を有している場合であつても、国際労働機関が国際的安全保障に直接関係ある政治問題を討議することは、その伝統に反し、かつ、国際労働機関自体の領域における有用性をもそこなうため不適当である。」(二一三〇項)という一般的見解を表明しているのである。)。

弁護人小林直人の上告趣意第一一点中、第一ないし第三について。
所論は、原判決が国公法一一〇条一項一七号について、何んら限定解釈をすることなく、社会的に相当行為たる被告人らの本件行為にこれを適用したのは、憲法三一条、二八条、一八条、二一条に違反するというのである。
しかし、国公法の右規定について、これを限定的に解釈しなくても、右憲法の各規定に違反するものでないことは、すでに弁護人佐藤義弥ほか三名の上告趣意第一点、第三点、第五点について説示したところおよび同第六点において説明した趣旨に照らし明らかであるから、所論は理由がない。
同第四について。
所論は、本件争議行為が、いわゆる政治的抗議ストであるから社会的相当性を有し、構成要件該当性を欠くとの単なる法令違反の主張であつて、適法な上告理由にあたらない。
同第五について。
所論は、本件抗議ストは、憲法二一条の保障する「表現の自由」権の行使として、社会的相当性を具有しているものであるから、国公法一一〇条一項一七号の罰則規定は、被告人らの本件行為に適用される限度において、憲法三一条、二一条に違反し、無効であるというのである。
しかしながら、国公法の右規定が憲法三一条、二一条に違反しないことは、所論の第一ないし第三について示したところにより明らかであるから、その趣旨に徴し、所論は理由がない。
被告人ら各本人の上告趣意について。
所論は、いずれも事案誤認、単なる法令違反の主張であつて、適法な上告理由にあたらない。
よつて、刑訴法四一四条、三九六条に則り、本件各上告を棄却することとし、主文のとおり判決する。
この判決は、裁判官石田和外、同村上朝一、同藤林益三、同岡原昌男、同下田武三、同岸盛一、同天野武一の各補足意見、裁判官岩田誠、同田中二郎、同大隅健一郎、同関根小郷、同小川信雄、同坂本吉勝の各意見、裁判官色川幸太郎の反対意見があるほか、裁判官全員一致の意見によるものである。

+補足意見
裁判官石田和外、同村上朝一、同藤林益三、同岡原昌男、同下田武三、同岸盛一、同天野武一の補足意見(裁判官岸盛一、同天野武一については、本補足意見のほか、後記のような追加補足意見がある。)は、次のとおりである。
われわれは、多数意見に同調するものであるが、裁判官田中二郎、同大隅健一郎、同関根小郷、同小川信雄、同坂本吉勝の意見(以下、五裁判官の意見という。)は、多数意見の真意を理解せず、いたずらに誇大な表現を用いて、これを論難するものであつて、読む者をしてわれわれの意見について甚だしい誤解を抱かせるものがあると思われるので、あえて若干の意見を補足したい。
一 五裁判官の意見は、多数意見が、公務員を国民全体の奉仕者であるとする憲法一五条二項をあたかも唯一の根拠として公務員(非現業の国家公務員をいう。以下同じ。)の争議行為禁止の合憲性を肯定するものであるかのごとく、また公務員の勤務条件の決定過程の特殊性だけを理由としてその争議行為の禁止を根拠づけようとするものであるかのごとく、さらには代償措置の制度さえ設けておけばその争議行為を禁止しても憲法に違反するものではないとの安易な見解に立つているものであるかのごとく誤解し、多数意見を論難している。しかし、多数意見は、公務員も原則として憲法二八条の労働基本権の保障を受ける勤労者に含まれるものであることを肯定しながらも、私企業の労働者とは異なる公務員の職務の公共性とその地位の特殊性を考慮にいれ、その労働基本権と公務員をも含めた国民全体の共同利益との均衡調和を図るべきであるという基本的観点に立ち、その説示するような諸般の理由を総合して国家公務員法(以下、国公法という。)の規定する公務員の労働関係についての規制をもつて、いまだ違憲と見ることはできないとしているものなのである。さらに、五裁判官の意見は、多数意見をもつて、憲法一五条二項を公務員の労働基本権に対する「否定原理」としているものであるとまで極論したうえ、「使用者である国民全体、ないしは国民全体を代表しまたはそのために行動する政府諸機関に対する絶対的服従義務を公務員に課したものという解釈をする」とか、「このような解釈は、国民全体と公務員との関係をあたかも封建制のもとにおける君主と家臣とのそれのような全人格的な服従と保護の関係と同視するに近い考え方である」とか、さらには憲法二八条の労働基本権を「一種の忠誠義務違反としてそれ自体を不当視する観念」であつて、「すべての国民に基本的人権を認めようとする憲法の基本原理と相容れない」ものであるとか、極端に激しい表現を用いて非難しているのであるが、多数意見のどこにそのような時代錯誤的な考えが潜んでいるというのであろうか。いうまでもなく、多数意見は、五裁判官の意見が指摘するような国家の事務が軍事、治安、財政などにかぎられていた時代における前近代的観点から「抽象的、観念的基準によつて一律に割り切つて」いるものでもなく、また抽象的形式的な公共福祉論、公僕論を拠りどころとしているものでもないことは、多数意見を冷静かつ率直に読むならば容易に理解できることであろう。
二 五裁判官の意見は、公務員の職務内容の公共性がその争議行為制限の実質的理由とされていることはなにびとにも争いのないところであること、また公務員の勤務条件の決定過程において争議行為を無制限に許した場合に民主的政治過程をゆがめる面があることも否定できないことを承認しながら、そのいずれの理由からも一切の争議行為を禁止することの正当性を認めることはできないとして、公務員の「団体交渉以外の団体行動によつて、立法による勤労条件の基準決定などに対して影響力を行使すること」を是認すべきであるといい、また代償措置はあくまで代償措置にすぎないものであるから、「政府または国国会に右(人事院の)勧告に応ずる措置をとらせるためには、法的強制以外の政治的また社会的活動を必要とし、このような活動ば、究極的には世論の支持、協力を要するものであり、世論喚起のための唯一の効果的手段としての公務員による団体行動の必要を全く否定することはできず、」といつて、およそ争議行為を禁止されている公務員の利益を保障するために設けられた国家的制度としての代償措置の存在をことさらに軽視し、公務員による立法機関または世論に対する直接的な政治的効果を目的とする団体行動の必要性を強調しているのである。ところで、五裁判官の意見がここで指摘している「団体行動」とは、何を意味するかは必ずしも明らかではないが、その前後の論調からすると、単なる表現活動としての団体行動を指しているものとは認められず、明らかに憲法二八条にいわゆる団体行動を考えているものとしか思われない。しかもその団体行動は、「刑罰の対象から除外されてしかるべきものである」と断定していることからすると、罰則規定のある公務員の争議行為な念頭においているものと解さざるをえない。はたしてそうであるとすれば、五裁判官の意見は、立法府または社会一般に対する示威的行動としての公務員の争議行為の必要性を強調するものといわざるをえないのである。もとより、五裁判官の意見は、純然たる政治的目的の実現のための争議行為の必要性を説くものではない。しかしながら、およそ動労者の団体が行なう争議行為の目的が使用者において事実的にも法律的にも解決しえない事項に関するものであるときは、その争議行為は、憲法二八条による保障を受ける余地のないものであるから、五裁判官の意見がいうところの公務員の団体行動としての争議行為なるものは、その実質において、いわゆる「政治スト」と汎称されるものとなんら異なるところはないのである。ことに、五裁判官の意見が法的強制以外の「政治的活動」の必要性を説くことは、まさに団体行動としての表現活動のほかに、「政治スト」を憲法上正当な争議行為として公務員に認めよということにほかならないのであつて、そのことは五裁判官の意見が本件について政治目的に出た争議行為であるとの理由から憲法二八条の保障の範囲に含まれないとしていることと明らかに矛盾するものであるといわねばならない。なお、付言するに、五裁判官の意見が右のように争議行為としての法的強制以外の「政治的活動」を強調していることについては、いわゆるドライヤー報告書が「日本の労働者の中央組織によつて行なわれてきた政治活動の性格は、真に労使関係を混乱させている一つの主要な要素である。」(二一二七項)と戒めていることをこの際指摘せざるをえないのである。
三 五裁判官の意見は、本件の処理にあたり、多数意見が何ゆえことさらいわゆる全司法仙台事件大法廷判決の多数意見(昭和四一年(あ)第一一二九号同四四年四月二日大法廷判決・刑集二三巻五号六八五頁、以下、単に全司法仙台事件判決という。)の解釈と異なる憲法判断を展開しなければならないのか、その必要性と納得のゆく理由を発見することができないと論難している。しかし弁護人らの上告趣意には、多岐にわたる違憲の主張が含まれており、また、まさに本判決の多数意見と五裁判官の意見との分岐点をなす中心問題について互に相反する高等裁判所の判決が指摘されて判例違反の主張がなされたのであるから、当裁判所としては、これらに対し判断をするにあたり、当然右全司法仙台事件判決の当否について検討せざるをえないばかりでなく、五裁判官の意見も、本件上告を棄却するについては、結論的には同意見であるから、上告趣意の総てについて逐一判断を示すべきものである。五裁判官の意見のような、この際全司法仙台事件判決に触れるべきではないとする考えは、本件の処理上、基本的問題の判断を避けて一時を糊塗すべきであるというにひとしく、とうていわれわれの承服しがたいところである。いま、多数意見がこれに論及せざるをえなかつたその他の理由の二、三をもあわせて指摘し、さらに同判決の判例としての評価について言及することとする。
(一) まず、第一に、右全司法仙台事件判決は、憲法解釈にあたり看過できない誤りを犯したということである。すなわち、同判決とその基本的立場を共通にする、いわゆる都教組事件大法廷判決の多数意見(昭和四一年(あ)第四〇一号同四四年四月二日大法廷判決・刑集二三巻五号三〇五頁、以下、単に都教組事件判決という。)は、公務員の職務は一般的に公共性が強いものであることを認めながら、なお一部の職種や職務には私企業のそれに類似したものが存在するから公務員の争議行為を一律に禁止することは許されないと説くが、その論ずるところは、公務員の争議行為が行なわれる場合、一般に単なる機械的労務に従事する職務の者ばかりでなく、その職務内容が公共性の強い職員の大多数の者の参加によつて行なわれる集団的組織的団体行動であるという現実を無視した議論であり、しかも、職種、職務内容の別なく公務員に対して一律に保障された、生存権擁護の趣旨をもつ代償措置の現存することについての考慮を払うことなく、また、その判断の結果がはたして実際的に妥当するものであるかについて洞察することもなく、ただただ抽象的に理論を推しすすめるものである。すなわち、同判決は、抽象的、観念的思惟に基づいて、公務員による争議行為を制限禁止した関係公務員法の当該規定は違憲の疑いがあると安易に断定しているのであつて、全司法仙台事件判決もその論法において軌を一にしているのである。そのような憲法判断の手法は、労働基本権に絶対的な優位を認めようとするに傾きやすく、現実の社会的、経済的基盤の上に立つて国家と国民および国民相互の相反する憲法上の諸利益を調整すべきものであるという憲法解釈の要諦を忘れたものといわなければならない。なお、五裁判官の意見は「一律全面的」な争議行為の禁止は不当であるとして多数意見を論難するのであるが、職種と職務内容の公共性の程度が弱く、その争議行為が国民全体の共同利益にさほどの障害を与えないものについては、労働政策の問題として立法上慎重に考慮されるべきものであることについては、多数意見が指摘しているところである。ちなみに、西ドイツにおいては、公勤務従事者のうち、官吏についてはストライキを禁止されているが、その代り終身任用制度および一種の昇進制度が勤務条件法定主義のもとに行なわれているのに対し、雇員、単純労務職員については、特定の職務内容を限定してストライキを認めており、また、カナダ連邦、アメリカのペンシルバニや州やハワイ州では重要でない職務に従事する公務員についてストライキを認めているが、職務の重要性の判定は第三者機関が行なうたてまえとなつているのであつて、全司法仙台事件判決が示す「国民生活に重大な支障」を及ぼすことの有無というような漠然とした基準によつて公務員の争議行為の正当性を画する立法例は他国には見あたらないのである。なお、カナダ連邦の場合は、仲裁手続とストライキとの選択のもとに、かりにストライキを選択したときでも厳格な調停手続を経ることが条件となつているのであり、この手続を経ないストライキは禁止されているのである。そして、アメリカでストライキの認められている前示二州でも、ほぼこれに似た制度をとつているのであるが、その国情による相違があるとはいえ、重要でない職務の公務員のストライキを認めるについて、無制限にこれを認めることなく、厳格な制約のもとに置かれていることに特に留意すべきである。
第二に、全司法仙台事件判決の示した限定解釈には重大な疑義があるということである。すなわち、同判決と基本的に共通の見解に立つている前記都教組事件判決がいうところは、公務員の職務の公共性には強弱があるから、その労働基本権についても、その職務の公共性に対応する制約を当然内包しているという理論的立場を強調しながら、限定解釈をするにあたつては、一転して職務の公共性をなんら問題とすることなく、「ひとしく争議行為といつても、種々の態様のものがある」として、争議行為の態様の問題へと転移し、争議行為における違法性の強弱という暖味な基準を設定したのである(五裁判官の意見は、多数意見が公務員の争議行為につきその「主体」のいかんを問わず全面的禁止を是認することを非難しているのであるから、当然「主体」による区別をいかに考えるべきかについての明確な基準を示して然るべきものなのである。しかるに、その明示がなされていないことは、現在の公務員制度のもとにおける職員組合の組織と争議行為の現況にかんがみ、そのような区別をたてることは抽象論としてはともかく、実際上はほとんど不可能であることを物語るものであろうか。)。ことに、同判決は、争議行為に関する罰則については、争議行為そのものの違法性が強いことと、あおり等の行為の違法性が強いことを要するばかりでなく、争議行為に「通常随伴して行なわれる行為「は処罰の対象とはならないと解すべきものであるとしている。ところで、いわゆる全逓中郵事件判決の多数意見(昭和三九年(あ)第二九六号同四一年一〇月二六日大法廷判決・刑集二〇巻八号九〇一頁、以下、単に全逓中郵事件判決という。)では、争議行為の正当性を画する基準として、「政治的目的のために行なわれたような場合」、「暴力を伴う場合」、「社会の通念に照らして不当に長期に及ぶときのように国民生活に重大な障害をもたらす場合」をあげ、これらの場合でなければ、その争議行為は、憲法上保障された正当な争議行為にあたると説示されているが、全司法仙台事件判決では、争議行為の違法性が強い場合の基準として、そのまま右と同様のものが転用されているのである。すなわち、あおり行為等を処罰するための要件として、「争議行為そのものが、職員団体の本来の目的を逸脱してなされるとか、暴力その他これに類する不当な圧力を伴うとか、社会通念に反して不当に長期に及ぶなど国民生活に重大な支障を及ぼすとか」ということをあげている。争議行為が正当であるか否かは、違法性の有無に関する問題であり、違法性が強いか弱いかは違法性のあること、すなわち正当性のないことを前提としたものである。そして、ここにいう正当性の有無は、単に「刑法の次元」における判断ではなく、まさに憲法二八条の保障を受けるかどうかの憲法の次元における問題なのであるから、その保障を受けうるものであるかぎり、民事上、刑事上一切の制裁の対象となることはないのである。しかるに、全司法仙台事件判決は、全逓中郵事件判決が憲法上の保障を受けるかどうかの観点から違憲判断を回避するために示した正当性を画する基準と同一のものを、違法性の強弱判定の基準としているのであつて、そこに法的思惟の混迷があると思われるのであるが、それはともかくとして、このような基準の設定は、刑罰法規の構成要件としてもすこぶる不明確であり、そのゆえに、むしろ違憲の疑いを生むのであり、さらに右のような基準の確立が判例の集積になじまないものであることについては、岸裁判官、天野裁判官の追加補足意見の指摘するところである。この点について、五裁判官の意見は、公務員の争議行為をあおる等の行為が全司法仙台事件判決の判示する基準に照らして処罰の対象となるかどうかは事案ごとに具体的事実関係により判断されなければならないとして、これらの行為が国公法上罰則の対象となりうることを肯定しながら、公務員法違反の場合と公共企業体職員または私企業労働者の争議行為の場合とを対比し、一つは構成要件充足の問題であり、他は違法性阻却の問題であるといい、さらに転じて「刑法の次元における違法性阻却の理論によつて処理することは相当でなく、」と至極当然のことにわざわざ言及し、あたかも多数意見がその誤りを犯しているかのごとき論難を加えているが、そのいわんとする真意が那辺にあるか理解に苦しむところである。
第三に、全司法仙台事件判決に見られる憲法解釈の疑点もさることながら、それが惹起している労働・行政または裁判実務上の混乱も、また無視できないということである。すなわち、例えば、都教組事件判決は、「違法な争議行為を想定して、あおり行為等をした場合には、かりに予定の違法な争議行為が実行されなかつたからといつて、あおり行為等の刑責は免れない。」旨判示する。しかし国公法一一〇条一項一七号の罰則は、あおり行為等に対して結果責任を問うものではないのであるから、行為者が、かりに違法性の弱い争議行為を想定して、あおり行為等をしたが、予期に反し、争議行為が「社会通念に反して不当に長期に及び国民生活に重大な支障」を与えた場合には、全司法仙台事件判決の見解に従うかぎり、なんらこれに対し刑事責任を問うことができないこととなるであろう。また、争議行為の実態に即して考えて見ても、争議行為は、通常、争議指導者の指令のままに動くものであるから、あおり等の行為自体の違法性が強い場合などはおよそありえないであろう。このことは、同判決の右のような解釈のもとでは、国公法の右規定が現実的には、ほとんど有効に機能しないことを示すものであつて、結局公務員の争議行為が野放しのままに放置される結果ともなりかねないのである。さらにまた、同判決が判示する前記の基準も、それ自体が客観性を欠き、これを捕捉するに極めて困難であり、五裁判官の意見のいうように、右の判決が一般国民の間に定着しているものとはとうてい考えられない。右の基準が暖昧で判断者の主観による恣意がはいりこむ虞れがあるという批判は、本件の弁論において弁護人からも強く指摘されたばかりでなく、すでに、いわゆる全逓中郵事件判決を支持する論者、これに反対の立場にある論者の双方から強い批判を受けているところである。全司法仙台事件判決も公務員の争議行為に対するあおり等の行為が罰則の適用を受ける場合のあることを肯定する以上は、その明確な基準を示すべきであつたのである。
さらに第四に、全司法仙台事件判決ならびにこれと同一の基盤をもつ都教組事件判決が全逓中郵事件判決と相まつて公務員の争議行為に関する罰則の適用について一般に誤つた評価を植えつけるにいたつたということである。すなわち、都教組事件判決は、全逓中郵事件判決が勤労者の労働基本権に対する、いわゆる内在的制約を考慮する際「一般的にいつて、刑事制裁をもつてこれに臨むべき筋合ではない。」(同判決の、いわゆる四条件中、(3)最高裁刑集二〇巻八号九〇七頁参照。)と判示したことをそのまま踏襲しているのであるが、さらに都教組事件判決の趣旨を受けついだ全司法仙台事件判決は、国公法一一〇条一項一七号についてこれを限定的に解釈しないかぎり憲法一八条、二八条に違反する疑いがあるといつて、一般に対し「公務員労働者の」「争議行為を刑事罰から解放」したものであるかのごとき誤つた理解を植えつけることとなつたのである。これは、ひつきよう、同判決の不明確な限定解釈と誤つた法解釈の態度とにその原因をもつものといわねばならないのである。(現に五裁判官の意見も公務員の争議行為に対するあおり等の行為 が罰則の適用を受ける場合のあることを肯定していながら、しかも、なおかつ、あたかも多数意見のみが、公務員の争議行為に関し仮借のない刑事制裁を是認しているもののような論難をしているのである。)なお、付言するに、ILO第一〇五号条約(わが国は批准していない。)に関する第五二回ILO総会に提出された条約勧告適用専門家委員会の報告書は、「一定の事情の下においては違法な同盟罷業に参加したことに対して刑罰を科することができるということ、」「この刑罰には通常の刑務欣労働が含まれることがあるということ」その他について合意が成立した旨の、同条約を審議した総会委員会の報告書を引用して「同盟罷業に関する各種の国内立法を評価するに当たり、本委員会は、総会の意図に関する前述したところを十分に考慮することが適当であると考える。」と述べているのである(九四項。なお九五項参照。)。
(二) つぎに、全司法仙台事件判決には、真の意味の多数意見なるものがはたして存在するといえるであろうか。同判決において多数と見られる八名の裁判官の意見が一致しているのは、ただ国公法の規定を「限定的に解釈するかぎり」違憲でないと判示する点にかぎられているのである。そして、そのいわゆる限定解釈の内容について見るに、右八名の裁判官のうち、六名の裁判官は、違法性強弱論およびあおり行為等の通常随伴性論の立場をとつているが、他の二名の裁判官は、違法性強弱論には否定的な意見を示しており、しかも、その二名の裁判官の間でも、「通常随伴性」についての考え方が一致していないのである。このように、限定解釈をすべきであるという点では同意見であつても、それだけでは全く内容のないものであり、そのいうところの限定解釈についての内容が区々にわかれていて、過半数の意見の裁判官による一致した意見は存在しないのである。前記のように、行政上および裁判上の混乱を招いたのも、ひつきょう、同判決ならびにその基盤を共通にする全逓中郵事件判決および都教組事件判決のもつ内容の流動性、暖昧性に基因するところが大きく、判例としての指導性にも欠けるところがあつたといわねばならないのである。そして、現在においては、本判決の多数意見は、前記判示のとおり、憲法および国公法の解釈につき一致した見解を示しているものであるのに対し、多数意見に同調する裁判官以外の裁判官の意見は、単に形式上少数であるばかりでなく、内容的にも国公法の解釈について意見が分立しており、ことに五裁判官の意見が本件につき上告棄却の意見であるならば、全司法仙台事件判決にいう、いわゆる通常随伴性論を今日維持することは背理というほかなく、また通常随伴性論をとるとすれば、結論は、むしろ反対となるべき筋合いであろう。この一点をみても、右五裁判官ら自身、意識すると、しないとにかかわらず、前記の判例の見解を変更しているものにほかならない。したがつて、全司法仙台事件判決は、今日、もはやいかなる意味においても「判例」として機能しえないものであり、これが変更されるべきことは、自然の成行きといわなければならないのである。五裁判官の意見は、「僅少差の多数によつてさきの憲法解釈を変更することは、最高裁判所の憲法判断の安定に疑念を抱かせ、ひいてはその権威と指導性を低からしめる虞れがある云々」と述べているが、多数意見に対するいわれのない批判にすぎず、強く反論せざるをえない次第である。裁判官岸盛一、同天野武一の追加補足意見は、つぎのとおりである。
(一) まず、多数意見は、憲法二八条の勤労者のうちには、公務員(非現業の国家公務員をいう。以下同じ。)も含まれるとの見解にたちながらも、公務員の地位の特殊性とその職務の公共性とを考慮にいれるとき、公務員の動労関係を規律する現行法制のもこでは、公務員の勤務条件が法定されており、その身分が保障されているほか、適切な代償措置が講じられている以上は、国家公務員法(昭和四〇年法律第六九号による改正前のもの。以下国公法という。)九八条五項の規定は、いまだ、憲法二八条に違反するものと断ずることはできないとするものである。
ところで、一般的に動労者の争議行為を禁止するについて、その代償措置が設けられることが極めて重要な意義をもつものであることは、いわゆるドライヤー報告やI・L・O結社の自由委員会でもたびたび強調されているところであり、その事例を枚挙するにいとまなしといつても過言ではないのであるが、公務員に関してもその争議行為を禁止するについては、適切な代償措置が必要であることが指摘されているのである(結社の自由委員会第七六次報告第二九四号事件二八四項、第七八次報告第三六四号事件七九項等)。ところが、わが国で、公務員の争議行為の禁止について論議されるとき、代償措置の存在がとかく軽視されがちであると思われるのであるが、この代償措置こそは、争議行為を禁止されている公務員の利益を国家的に保障しようとする現実的な制度であり、公務員の争議行為の禁止が違憲とされないための強力な支柱なのであるから、それが十分にその保障機能を発揮しうるものでなければならず、また、そのような運用がはかられなければならないのである。したがつて、当局側においては、この制度が存在するからといつて、安易に公務員の争議行為の禁止という制約に安住すべきでないことは、いうまでもなく、もし仮りにその代償措置が迅速公平にその本来の機能をはたさず実際上画餅にひとしいとみられる事態が生じた場合には、公務員がこの制度の正常な運用を要求して相当と認められる範囲を逸脱しない手段態様で争議行為にでたとしても、それは、憲法上保障された争議行為であるというべきであるから、そのような争議行為をしたことだけの理由からは、いかなる制裁、不利益をうける筋合いのものではなく、また、そのような争議行為をあおる等の行為をしたからといつて、その行為者に国公法一一〇条一項一七号を適用してこれを処罰することは、憲法二八条に違反するものといわなければならない。
もつとも、この代償措置についても、すべての国家的制度と同様、その機能が十分に発揮されるか否かは、その運用に関与するすべての当事者の真摯な努力にかかつているのであるから、当局側が誠実に法律上および事実上可能なかぎりのことをつくしたと認められるときは、要求されたところのものをそのままうけ容れなかつたとしても、この制度が本来の機能をはたしていないと速断すべきでないことはいうまでもない。
以上のことは、多数意見においてとくに言及されていないが、その立場からは当然の理論的帰結であると考える。
(二) つぎに、多数意見は、国公法一一〇条一項一七号について、福岡高等裁判所判決(昭和四一年(う)第七二八号同四三年四月一八日判決)が示した限定解釈は犯罪構成要件の明確性を害するもので憲法三一条違反の疑いがあるというが、われわれは、右の限定解釈は明らかに憲法三一条に違反するばかりでなく、本来許さるべき限定解釈の限度を超えるものであるとすら考えるものである。すなわち、同判決は、国公法の右規定を限定的に解釈して、争議行為が政治目的のために行なわれるとか、暴力を伴うとか、または、国民生活に重大な障害をもたらす具体的危険が明白であるなど違法性の強い争議行為を違法性の強い行為によつてあおるなどした場合に限り刑罰の対象となるというのであつて、いわゆる全司法仙台事件についての当裁判所大法廷判決の多数意見がさきに示した見解とほぼ同趣旨の見解を示しているのである。
ところで、憲法判断にさいして用いられる、いわゆる限定解釈は、憲法上の権利に対する法の規制が広汎にすぎて違憲の疑いがある場合に、もし、それが立法目的に反することなくして可能ならば、法の規定に限定を加えて解釈することによつて、当該法規の合憲性を認めるための手法として用いられるものである。そして、その解釈により法文の一部に変更が加えられることとなつても、法の合理的解釈の範囲にとどまる限りは許されるのであるが、法文をすつかり書き改めてしまうような結果となることは、立法権を侵害するものであつて許さるべきではないのである。さらにまた、その解釈の結果、犯罪構成要件が暖味なものとなるときは、いかなる行為が犯罪とされ、それにいかなる刑罰が科せられるものであるかを予め国民に告知することによつて、国民の行為の準則を明らかにするとともに、国家権力の専断的な刑罰権の行使から国民の人権を擁護することを趣意とする、かのマグナカルタに由来する罪刑法定主義にもとるものであり、ただに憲法三一条に違反するばかりでなく、国家権力を法の支配下におくとともに国民の遵法心に期待して法の支配する社会を実現しようとする民主国家の理念にも反することとなるのである。このことは、大陸法的な犯罪構成要件の理論をもたない英米においても、つとに普通法上の厳格解釈の原理によつて、裁判所は、個々の事件について、法文の不明確を理由に法令の適用を拒否する手段を用いて、実質上法令の無効を宣言するのとひとしい実をあげてきたといわれているのであるが、とくに米国では、一世紀も前から法文の不明確を理由としてこれを無効とする理論が芽ばえ、一九〇〇年代にはいつてからは、国民の行為の準則に関する法令は、予め国民に公正に告知されることが必要で、そのためには法文は明確に規定されなければならないとして、憲法修正五条、六条、一四条等の適正条項違反を理由に不明確な法文の無効を宣言する、いわゆる明確性の理論が判例法として確立され今日に及んでいるのである。
この法文の明確性は、憲法上の権利の行使に対する規制や刑罰法規のような国民の基本的権利・自由に関する法規については、とくに強く要請されなければならないことは当然である。
ところで、前記福岡高等裁判所判決は、あおり行為の対象となる争議行為の違法性の強弱を判定する基準の一つとして、「国民生活に対する重大障害」ということをあげている。同様に全司法仙台事件判決の多数意見は、「社会の通念に反して不当に長期に及ぶなど国民生活に重大な支障」といつている。しかし、国民生活に重大な障害とか支障とかいう基準はすこぶる漠然とした抽象的なものであつて、はたしてどの程度の障害、支障が重大とされるのか、これを判定する者の主観的な、時としては恣意的な判断に委ねられるものであつて、そのような弾力性に富む伸縮自在な基準は、刑罰法規の構成要件の輪郭内容を極めて暖味ならしめるものといわざるをえない。また、全司法仙台事件判決の多数意見のように「社会の通念に反し不当に長期に及ぶなど」という例示が示されているとしても、どの程度の時間的継続が不当とされるのか、これまた甚だ不明確な要件といわざるをえないばかりでなく、そのうえ「社会の通念に照らし」という一般条項を構成要件のなかにとりこんでいることは、却てその不明確性を増すばかりである。したがつて、かような基準を示された国民は、自己の行為が限界線を越えるものでないとして許されるかどうかを予測することができず、法律専門家である弁護士、検察官、裁判官ですら客観的な判定基準を発見することに当惑し(いわゆる中郵事件の差戻し後の東京高裁昭和四一年(う)第二六〇五号同四二年九月六日判決・刑集二〇巻五二六頁参照)、罰則適用の限界を画することができないばかりでなく、民事上、行政上の制裁との限界もまた不明確であつて、法の安定性・確実性が著しくそこなわれることとなる。現に全国の事実審裁判所の判決においても、「国民生活に重大な障害」に関する判断が区々にわかれて統一性を欠いているのが今日の実情なのである。さらにまた、右のような限定解釈は、罰則の適用される場合を制限したかのようにみえるのであるが、それに示されているような抽象的基準では、前記判決が志向したところとはおよそ逆の方向にも作用することがないとも限らない。けだし、法文の不明確は法の恣意的解釈への道をひらく危険があるからである。
もつとも、右の基準の明確な確立は、今後の判例の集積にまてばよいとの反論もあろう。最近の、カナダの連邦公務員関係法、アメリカのペンシルバニヤ州の公務員労使関係法およびハワイ州公法は、重要職務に従事する公務員についてのみ争議行為を禁止しているのであるが、それらの立法に対する、職務の重要性・非重要性を区別することは困難であるとの批判に対して、裁判所の判例の集積による解決が最も妥当であるとの反論もみられる。しかし、右の諸立法においては、別に第三者機関による重要職務の指定判定の制度があつて、それによつて重要公務の範囲が一応は形式的に明確にされる建前なのであるから、その指定判定に争いがあるとき裁判所の判断をまつということのようである。すなわち、それは、重要職務に従事する公務員の範囲を主体の面から限定するものであつて、行為の態様による限定ではないのである。「国民生活に重大な障害」の有無というような行為の態様の基準の明確な確立は、むしろ、判例の集積による方法にはなじまないというべきであろう。
およそ国民の行為の準則は、裁判時においてではなく、行為の時点においてすでに明確にされていなければならない。また、終局判決をまたなければ明確にならないような基準は、基準なきにひとしく、国民を長く不安定な状態におくこととなる。国民は各自それぞれの判断にしたがつて行動するほかなく、かくては法秩序の混乱はとうてい免れないであろう。
憲法問題を含む法令の解釈にさいしては、いたずらに既成の法概念・法技術にとらわれて、とざされた視野のなかでの形式的な憲法理解におちいつてはならないことはいうまでもないことであり、また、絶えず進展する社会の流動性と複雑化とに対処しうるためには、犯罪構成要件がつねに客観的・記述的な概念にとどまることはできず、価値的要素を含んだ規範的なものへと深化されることも必要である。さらに、正義衡平、信義誠実、公序良俗、社会通念等々の、もともとは私法の領域で発達した一般条項の概念が、法解釈の補充的原理として具体的事件に妥当する法の発見に寄与するところがあることも否定できない。しかしながら、あまりにも抽象的・概括的な構成要件の設定は、法の行為規範、裁判規範としての機能を失なわしめるものであり、いわんや、安易簡便な一般条項を犯罪構成要件のなかにとりこむことは極力これを避けなければならない。第二次大戦前のドイツ法学界において、一般条項がいともたやすく遊戯のように労働法を征服したとか、一般条項は個々の犯罪構成要件をのりこえてしまう傾向をもつとかと、強く指摘した警告的な主張がなされたことが思いあわされるのである。
法の規定が、その文面からは一義的にしか解釈することができず、しかも憲法上許される必要最小限度を超えた規制がなされていると判断せざるをえないならば、たとえ立法目的が合憲であるとしても、その法は違憲とされなければならない。しかるに、国公法一一〇条一項一七号についての前記のような限定解釈は、それを避けようとして詳密な理論を展開したのであるが、惜しむらくは、その理論の実際的適用について前述のような重大な疑義を包蔵するうえに、その限定解釈の結果もたらされた同条の構成要件の不明確性は、憲法三一条に違反するものであり、また、立法目的に反して法の規定をほとんど空洞化するにいたらしめたことは、法文をすつかり書き改めたも同然で、限定解釈の限度を逸脱するものといわざるをえないのである。

+意見
裁判官岩田誠の意見は、次のとおりである。
国家公務員法(昭和四〇年法律第六九号による改正前のもの。以下、国公法という。)一一〇条一項一七号の規定の合憲性に関する私の意見は、当裁判所昭和四一年(あ)第一一二九号同四四年四月二日大法廷判決(刑集二三巻五号六八五頁)における私の意見のとおりである。
したがつて、公務員の行なう争議行為の違法性の強弱、あおり行為等の違法性の強弱により国公法一一〇条一項一七号の適用の有無を決すべきでないことは、前記大法廷判決における私の意見のとおりであるけれども、同法条の規定は、これになんら限定解釈を加えなくても、憲法二八条に違反しないとする意見には賛同することができない。
これを本件について見るに、原判決が罪となるべき事実として確定したところによれば、被告人らは、それぞれ原判示のような農林省の職員をもつて組織するa労働組合(以下、a労組という。)の役員であるところ、昭和三三年一〇月八日内閣が警察官職務執行法の一部を改正する法律案(以下、警職法改正案という。)を衆議院に提出するやこれに反対する第四次統一行動の一環として、原判示第一、第二の所為に及んだというのであつて、被告人らの右所為は、a労組の団体行動としてなされたものとしても、右は警職法改正に対する反対闘争という政治目的に出たものであつて、a労組組合員の給与その他の勤務条件の改善、向上を図るためのものではないから、憲法二八条の保障する労働基本権の行使ということはできないものである。したがつて、被告人らの所為は、争議行為にいわゆる通常随伴するものであるか否かにかかわらず、それぞれ国公法一一〇条一項一七号にいう争議行為をあおることを企て、または、争議行為をあおつたものとして同条項違反の罪責を免れないものといわなければならない。
所論は、また、被告人らの所為を国公法一一〇条一項一七号により処罰した原判決および国公法の右規定は、憲法二一条に違反すると主張する。しかし、警職法改正法案に反対する意見を表明すること自体は、何人にも許され憲法二一条の保障するところであるが、その意見を表明するには、争議行為に訴えなくても、他にいくらでも適法な表明手段が存するのであつて、憲法二八条の保障の範囲を逸脱した本件のような争議行為によることを要するものではない。したがつて、前示のように憲法二八条の保障の範囲を逸脱した争議行為のあおり行為等を処罰する旨を定めた国公法一一〇条一項一七号の規定は、憲法二一条に違反するものではなく、被告人らの前記所為を処罰した原判決もまた憲法二一条に違反するものではない。
そうすると、被告人らの前示所為は国公法一一〇条一項一七号にあたるとして有罪の言渡をした原判決は結局正当であつて、被告人らの本件上告はいずれもこれを棄却すべきものである。
裁判官田中二郎 同大隅健一郎、同関根小郷、同小川信雄、同坂本吉勝の意見は、次のとおりである。本件上告を棄却すべきものとする点においては多数意見と同じであるが、その理由は次のとおりであるほか、岩田裁判官の意見と同じであり、多数意見の説く理由には賛成することができない。
第一 多数意見は、国家公務員法(昭和四〇年法律第六九号による改正前のもの。以下、国公法という。)九八条五項および一一〇条一項一七号の各規定が憲法二八条に違反する旨の上告論旨を排斥するにあたり、右国公法の規定は、解釈上これに特別の限定を加えなくても憲法の右規定に反するものではないとし、この点につきさきに憲法違反の疑いを避けるために限定解釈を施すべきものとしたいわゆる全司法仙台事件の当裁判所判決(昭和四一年(あ)第一一二九号同四四年四月二日大法廷判決 刑集二三巻五号六八五頁)と相反する見解を示している。この多数意見の説くところは、基本的には右判決における少数意見を若干 ふえんし、かつ、詳述したにとどまるものと考えられるが、これを要約すると、
(1) 公務員は全体の奉仕者であり、その職務内容は公共性をもつているから、公務員の争議行為は、その地位の特殊性と職務の公共性に反し、かつ、その結果多かれ少なかれ公務の停廃をもたらし、国民全体の利益に重大な影響を及ぼすか、またはその虞れがある。
(2) 公務員の勤労条件の決定は、私企業の場合と異なり、労使間の自由な取引に基づく合意によつてではなく、国会の制定する法律と予算によつて定められるという特殊性をもつているが、公務員が争議行為の圧力によつてこれに影響を及ぼすことは、右の決定についての正常かつ民主的な過程をゆがめる虞れがある。
(3) 公務員の争議行為の禁止については、これに対応する有効な代償措置制度が設けられている。というに尽きる。しかし、右の理由は、いずれも公務員の争議行為を一律全面的に禁止し、これをあおる等のすべての行為に対して刑事制裁と科することの合憲性を肯定するに十分な理由とすることはできない。すなわち、
一、憲法一五条二項の、公務員が国民全体の奉仕着である旨の規定は、主として、公務員が特定の政党、階級など国民の一部の利益に奉仕すべきものではないとする点に意義を有するものであつて、使用者である国民全体、ないしは国民全体を代表しまたはそのために行動する政府諸機関に対する絶対的服従義務を公務員に課したものという解釈をすることはできない。このような解釈は、国民全体と公務員との関係をあたかも封建制のもとにおける君主と家臣とのそれのような全人格的な服従と保護り関係と同視するに近い考え方であつて、公務員と国との関係を対等な権利主体間の法律的関係として把握しようという憲法の基本原理と相容れないものである。のみならず、公務員の地位の特殊性を強調する右の考え方は、勤労条件の決定に関する公務員の労働基本権、とくにその争議権に対する制約原理としてよりも、むしろ、その否定原理と一してはたらく性質のものであつて、公務員についても基本的には憲法二八条の労働基本権が認められるとする多数意見自体の説ぐところと矛盾する契機をすらもつものである。すなわち、このような考え方のもとでは、たとえば、公務員の争議行為のごときは、一種の忠誠義務違反として、それ自体を不当視する観念を生じがちであり、この観念を公務員一般におし及ぼすことは、原則として、すべての国民に基本的人権を認めようとする憲法の基本原理と相容れず、とくに憲法二八条の趣旨とは正面から衝突する可能性を有するものである。それゆえ、公務員の争議権を制限する根拠を国民全体の奉仕者たる地位の特殊性に求めるべきではないというべきである。
次に、公務員の職務内容が原則として公共の利益に奉仕するものであり、公務員の職務解怠が公務の円滑な運営に支障をもたらし公共の利益を害する可能性を有することは、多数意見のいうとおりであり、これが公務員の争議行為を制限する実質的理由とされていることは、なにびとも争わないところである。しかし、このことから直ちに、およそ公務員の争議行為一切を一律に禁止し、これをあおる等のすべての行為に刑事制裁を科することが正当化されるとの結論を導くことには、明らかに論理の飛躍がある。すなわち、公務の円滑な運営の阻害による公益侵害をもつて争議権制限の実質的理由とするかぎり、このような侵害の内容と程度は争議行為制限の態様、程度と相関関係にたつべきものであつて、たとえば、形式的には一時的な公務の停廃はあつても、実質的には公務の運営を阻害する虞れがあるといいえない争議行為までも一律に禁止し、これをあおる等の行為に対して刑事制裁を科することが正当とされるいわれはないといわなければならない。国の事務が国の存続自体を支える固有の統治活動、すなわち、軍事、治安、財政などにかぎられていた時代においては、これに従事する者も限定されていた反面、それらの者による公務の懈怠が直ちに国家社会の安全に響く虞れがあり、したがつて、そのような理由からこれらの者の争議行為を全面的に禁止することにも合理性があることを否定できなかつたとしても、近代における福祉国家の発展に伴い、国や地方公共団体の行なう事務が著しく拡大し、その大部分が一般福祉行政や公共的性質を有する経済活動となり、これに従事する者も飛躍的に増加して、全公務員の相当部分を占め、しかも、これらの公務員が全勤労者の中でも相当大きな割合を形成するに至つた今日においては、公務の内容、性質もきわめて多岐多様であるとともに、その運営の阻害が公共の利益に及ぼす影響もまた千差万別であつて、そのうちには、公益的性質を有する私企業の業務の停廃による影響とその内容、性質においてほとんど区別がなく、むしろ、後者の方がその程度いかんによつては、国民生活に対してより重大な支障をもたらす虞れのある場合すら存するのである。したがつて、これらをすべて公益侵害なる抽象的、観念的基準によつて一律に割り切り、公務員の争議行為を、その主体、内容、態様または程度などのいかんにかかわらず全面的に禁止し、これをあおる等のすべての行為に刑事制裁を科するようなことは、とうてい、合理性をもつ立法として憲法上これを正当化することはできないといわなければならない。
二、公務員に対する給与は、国または地方公共団体の財源使用の一内容であるから、公務員の勤労条件のいかんは、国などの財政、ことに予算の編成と密接な関連を有し、したがつて、その決定につき、国会または地方公共団体の議会の監視または承認を経由する必要があることは、多数意見の説くとおりである。しかし、このことから、右の勤労条件の基準がすべて立法によつて決定されることを要し、その間に労使間の団体交渉に基づく協定による決定なるものをいれる余地がないとする結論は、当然には導かれないし、憲法上それが予定されていると解すべき根拠もない。憲法七三条四号は、内閣が法律の定める基準に従い官吏に関する事務を掌理すべき旨を規定しているが、それは、国家公務員に関する事務が内閣の所管に属することと、内閣がこの事務を処理する場合の基準の設定が立法事項であつて政令事項ではないことを明らかにしたにとどまり、公務員の給与など動労条件に関する基準が逐一法律によつて決定されるべきことを憲法上の要件として定めたものではなく、法律で大綱的基準を定め、その実施面における具体化につき一定の制限のもとに内閣に広い裁量権を与え、かつ、公務員の代表者との団体交渉によつてこれを決定する制度を設けることも憲法上は不可能ではない。したがつて、公務員の勤労条件が、その性質上団体交渉による決定になじまず、団体交渉の裏づけとしての団体行動を正当とする余地がないとすることはできないのである。もつとも、公務員の勤労条件の抽象的基準をすべて法律によつて定めることは、憲法上可能であり、わが国においては現にこのような立法政策がとられ、国家公務員法や公務員給与関係諸法律などによつて、公務員の勤労条件の基準に関し詳細な規定が設けられ、しかも、公務員団体に対し団体交渉権が認められているとはいえ、団体協約締結権は否定され、団体交渉により勤労条件が決定される余地や範囲はきわめて狭く、したがつて、公務員の争議権は、団体交渉権の裏づけとしての意味に乏しく、この点において私企業労働者の場合に比し大きな相違が存することは、これを認めなければならない。しかしながら、公務員の争議権が、その実質的効果の点において大きな制約を受けざるをえないからといつて、団体行動による影響力の行使を全く認める余地がないとか、これを全面的に禁止し、これをあおる等のすべての行為に対して刑罰を科しても差しつかえないとの結論が当然に導かれるわけではない。公務員がその勤労条件に関する正当な利益を主張し、かつ、これを守るために団結して意思表示をし、団体交渉以外の団体行動によつて、立法による勤労条件の基準決定などに対して影響力を行使することは、その方法が相当であり、かつ、一定の限界内にとどまるかぎり、刑罰の対象から除外されてしかるべきものである。勤労者にとつて団体行動は、このような影響力行使の唯一ともいうべき手段であり、公務員の場合といえどもことは同様である。多数意見は、このような目的のもとにされる公務員の争議行為が、立法や予算の決定などについての民主的政治過程を不当にゆがめる危険があることを指摘するが、この議論は、公務員の争議行為を無制限に許した場合の弊害については妥当するとしても、およそ一切の争議行為を禁止し、これをあおる等の行為に対して刑罰を科することを正当とする理由となるものではない。換言すれぱ、公務員が自己の要求を貫徹するために、国民生活に重大な影響を及ぼす慮れのあるような争議行為ず遂行し、かつ、これを継続するような場合には、多数意見の危倶する弊害が生ずるかも知れないが、その程度に至らないものについては、そのような弊害が生ずる虞れはなく、要は、その方法および程度の問題にすぎないのである。更に、多数意見は、政府にいわゆる作業所閉鎖(ロツクアウト)による対抗手段がないことを挙げるが、このような対抗手段は、特殊の強力な争議行為に対するそれとしてのみ意味を有するにすぎず、ロツクアウトが利用できないことは、勤労者側におけるすべての争議行為を不当とする理由となるものではない。そればかりでなく、立法や予算とは直接関係のない問題、とくに団体交渉の認められる事柄について団体行動による影響力を行使する必要がある場合も想定されないわけではないのである。このようにみてくると、多数意見の前記(2)の理由も、公務員の争議行為を全面的に禁止し、これをあおる等のすべての行為に対して刑罰を科することを正当づける理由となるものではないというほかはない。
三、現行法上、公務員の勤労条件については、人事院が内閣から独立した機関として設けられ、勧告その他の活動により比較的公正な立場から公務員の正当な利益を守る、いわゆる代償措置に関する制度が設けられていることは、多数意見の指摘するとおりである。しかし、このような代償措置制度の存在は、国民生活全体の利益の保障という見地から、最少限度公務員の労働基本権を制限する場合において、文字どおりその代償として必要とされるものにすぎず、代償措置制度を設けさえずれば労働基本権を制限することができるというわけのものではない。しかも、実際上、人事院の存在およびその活動が、労働基本権の行使と同じ程度に、公務員の勤労条件に関する正当な利益を保護する機能を常に果すものとはいいがたく、とくに、人事院勧告は、政府または国会に対してなんら応諾義務を課するものではないから、政府または国会に右勧告に応ずる措置をとらせるためには、法的強制以外の政治的または社会的活動を必要とし、このような活動は、究極的には世論の支持、協力を要するものであり、世論喚起のための唯一の効果的手段としての公務員による団体行動の必要を全く否定することはできず、また、人事院の勧告の成立過程においても、勧告の内容に対する公務員の要求を表示するために同様の方法をとる場合のありうることも否定できないのである。要するに、代償措置はあくまでも代償措置にすぎず、しかも現代の代償措置制度の運用については、状況に応じた公務員の団体行動による監視、批判、要求、圧力などを必要とする場合もありうべく、単なる代償措置制度の存在を理由として公務員の争議行為を全面的に禁止し、これをあおる等の行為に対して刑罰を科することを正当化することは、とうてい、不可能であるといわざるをえない。
四、なお、多数意見は、その理由中において、前記大法廷の判決が公務員の争議行為禁止およびこれをあおる等の行為の処罰規定について施した限定解釈に対し、それが法律の明文を無視し、立法の趣旨にも反するものであり、また、限定の基準が不明確であつて刑罰法規における犯罪の構成要件の明確化による保障機能を失わせ、憲法三一条に違反する疑いがあると論難している。
ところで、右の大法廷判決における国公法の規定の限定解釈に関する見解のうち、争議行為およびこれをあおる等の行為中、処罰の対象となるものとそうでないものとの区別の基準について、いわゆる違法性の強弱という表現を用いた部分が、犯罪の構成要件としてその内容、範囲につき明確を欠くという批判を受けたことは否定することができない。しかし、右の見解は、憲法二八条が労働基本権を保障していることにかんがみ、勤労者である公務員の争議行為とこれをあおる等の行為のうち、刑罰の対象とならないものを認めるべきであるとの基本的観点にたち、そり基準として、争議行為については、職員団体の本来の目的を達成するために、暴力なども伴わず、不当に長期にわたる等国民生活に重大な支障を及ぼす虞れのないものにかぎつているのであつて、いわゆる違法性の強弱という表現は、以上の趣旨で用いられたものと解されるのである。また、これをあおる等の行為についても組合員の共同意思に基づく争議行為に関し矛その発案、計画、遂行の過程に遍いて、単にその一環として行なわれるにすぎないいわゆる通常随伴行為にかぎり、いずれも処罰の対象から除外すべきものとするにあり、したがつて、争議行為をあおる等の行為が異常な態様で行なわれた場合および組合員以外の第三者または組合員と第三者との共謀によつて行なわれた場合は、通常随伴行為にあたらないものとしているのである。
それゆえ、公務員の争議行為をあおる等の行為が右の基準に照らして処罰の対象となるかどうかは、事案ごとに具体的な事実関係に照らして判断されなければならないこととなるが、このことは、公共企業体職員または私企業労働者の争議行為が、たまたまそれ自体争議行為の禁止を内容としていない他の刑罰法規の構成要件事実に該当する場合、たとえば、いわゆる全逓中郵事件(最高裁昭和三九年(あ)第二九六号同四一年一〇月二六日大法廷判決・刑集二〇巻八号九〇一頁)のような場合に、憲法二八条ないしは労働組合法一条二項の規定との関係から、労働組合の本来の目的を達成するためにした正当な行為であるかどうかにつき、事案ごとに具体的な事実関係に照らして判断されなければならないのと同様である。ただ、後者の関係では違法性阻却の問題であり、前者の関係では構成要件充足の問題であるという相違が生ずるにすぎない。
およそ、ある法律における行為の制限、禁止規定がその文言上制限、禁止の内容において広範に過ぎ、それ自体憲法上保障された個人の基本的人権を不当に侵害する要素を含んでいる場合には、右基本的人権の保障は憲法の次元において処理すべきものであつて、刑法の次元における違法性阻却の理論によつて処理することは相当でなく、また、右基本的人権を侵害するような広範に過ぎる制限、禁止の法律といつても、常にその規定を全面的に憲法違反として無効としなければならないわけではなく、公務員の争議行為の禁止のように、右の基本的人権の侵害にあたる場合がむしろ例外で、原則としては、その大部分が合憲的な制限、禁止の範囲に属するようなものである場合には、当該規定自体を全面的に無効とすることなく、できるかぎり解釈によつて規定内容を合憲の範囲にとどめる方法(合憲的制限解釈)、またはこれが困難な場合には、具体的な場合における当該法規の適用を憲法に違反するものとして拒否する方法(適用違憲)によつてことを処理するのが妥当な処置というべきであり、この場合、立法による修正がされないかぎり、当該規定の適用が排除される範囲は判例の累積にまつこととなるわけであり、ことに後者の方法を採つた場合には、これに期待せざるをえない場合も少なくないと考えられるのである。
以上の点に思いをいたすときは、前記のいわゆる全司法仙台事件の判決が国公法一一〇条一項一七号の規定について前記のような趣旨で構成要件の限定解釈をしたからといつて、憲法三一条に違反する疑いがあるとしてこれを排斥するのは相当でなく、いわんや、この点を理由として、右国公法の規定が解釈上これになんらの限定を加えなくても憲法二八条に違反せず全面的に合憲であるとするようなことは、とうてい、許されるべきではない。
第二 以上、公務員の争議権に関する多数意見の見解の不当であるゆえんを述べたが、ひるがえつて考えるに、本件の処理にあたり、多数意見が、何ゆえ、ことさらにいわゆる全司法仙台事件大法廷判決の解釈と異なる憲法判断を展開しなければならないのか、その必要と納得のゆく理由を発見することができない。
本件は、a労働組合による警職法改正反対闘争という政治目的に出た争議行為をあおることを企て、また、これをあおつた行為が国公法の前記規定違反の罪にあたるとして起訴された事件であり、このような争議行為が憲法二八条による争議権の保障の範囲に含まれないことは、岩田裁判官の意見のとおりである。それゆえ、この点につき判断を加えれば、本件の処理としては十分であり、あえて勤労条件の改善、向上を図るための争議行為禁止の可能性の問題にまで立ち入つて判断を加え、しかも、従前の最高裁判所の判例ないしは見解に変更を加える必要はなく、また、変更を加えるべきではないのである。
憲法の解釈は、憲法によつて司法裁判所に与えられた重大な権限であり、その行使にはきわめて慎重であるべく、事案の処理上必要やむをえない場合に、しかも、必要の範囲にかぎつてその判断を示すという建前を堅持しなければならないことは、改めていうまでもないところである。ことに、最高裁判所が最終審としてさきに示した憲法解釈と異なる見解をとり、右の先例を変更して新しい解釈を示すにあたつては、その必要性および相当性について特段の吟味、検討と配慮が施されなければならない。けだし、憲法解釈の変更は、実質的には憲法自体の改正にも匹敵するものであるばかりでなく、最高裁判所の示す憲法解釈は、その性質上、その理由づけ自体がもつ説得力を通じて他の国家機関や国民一般の支持と承認を獲得することにより、はじめて権威ある判断としての拘束力と実効性をもちうるものであり、このような権威を保持し、憲法秩序の安定をはかるためには、憲法判例の変更は軽々にこれを行なうべきものではなく、その時機および方法について慎重を期し、その内容において真に説得力ある理由と根拠とを示す用意を必要とするからである。もとより、法の解釈は、解釈者によつて見解がわかれうる性質のものであり、憲法解釈においてはとくにしかりであつて、このような場合、終極的決定は多数者の見解によることとならざるをえない。しかし、いつたん公権的解釈として示されたものの変更については、最高裁判所のあり方としては、その前に変更の要否ないしは適否について特段の吟味、検討を施すべきものであり、ことに、僅少差の多数によつてこのような変更を行なうことは、運用上極力避けるべきである。最高裁判所において、かつて、大法廷の判例を変更するについては特別多数決による旨の規則改正案を一般規則制定諮問委員会に諮問したところ、裁判官の英知と良識による運用に委ねるのが適当である、との多数委員の意見により、改正の実現をみるに至らなかつたことがあることは、当裁判所に顕著な事実であるが、この経緯は、右に述べたことを裏づける一資料というべきものである。
ところで、いわゆる全司法仙台事件の当裁判所大法廷判決中の、憲法二八条が労働基本権を保障していることにかんがみ公務員の争議行為とこれをあおる等の行為のうち正当なものは刑事制裁の対象とならないものである、という基本的見解は、いわゆる生逓中郵事件の当裁判所判決およびいわゆる東京都教組事件の当裁判所判決(昭和四一年(あ)第四〇一号同四四年四月二日大法廷判決・刑集二三巻五号三〇五頁)の線にそい、十分な審議を尽くし熟慮を重ねたうえでされたものであることは、右判決を通読すれば明らかなところであり、その見解は、その後その大綱において下級裁判所も従うところとなり、一般国民の間にも漸次定着しつつあるものと認められるのである。ところが、本件において、多数意見は、さきに指摘したように、事案の処理自体の関係では右見解の当否に触れるべきでなく、かつ、その必要もないにもかかわらず、あえてこれを変更しているのである。しかも、多数意見の理由については、さきの大法廷判決における少数意見の理論に格別つけ加えるもののないことは前記のとおりであり、また、右判決の見解を変更する真にやむをえないゆえんに至つては、なんら合理的な説明が示されておらず、また、客観的にもこれを発見するに苦しまざるをえないのである。以上の経過に加えて、本件のように、僅少差の多数によつてさきの憲法解釈を変更することは、最高裁判所の憲法判断の安定に疑念を抱かせ、ひいてはその権威と指導性を低からしめる慮れがあるという批判を受けるに至ることも考慮しなければならないのである。
以上、ことは、憲法の解釈、判断の変更について最高裁判所のとるべき態度ないしあり方の根本問題に触れるものであるから、とくに指摘せざるをえない。

+反対意見
裁判官色川幸太郎の反対意見は、次のとおりである。
第一 争議行為の禁止と刑罰
一、多数意見は、要するに、非現業国家公務員(以下公務員という。)については一切の争議行為が禁止されるのであり、これをあおる等の行為をする者は、何人であつても、刑事制裁を科せられるものであるとし、その旨を規定した国家公務員法(昭和四〇年法律第六九号による改正前のもの、以下国公法という。)一一〇条一項一七号は、これに何らの限定解釈を施さなくとも合憲であるというのであるが、私はこれに決定的に反対である。その理由としては、当裁判所大法廷の都教組事件判決(昭和四一年(あ)第四〇一号同四四年四月二日大法廷判決・刑集二三巻五号三〇五頁)及び仙台全司法事件判決(昭和四一年(あ)第一一二九号同四四年四月二日大法廷判決・刑集二三巻五号六八五頁)(但しこれに付した私の少数意見と抵触する部分を除く。)にあらわれた基本的な見解を引用し、これをもつて私の意見とする。なお、多数意見に含まれる若干の論点について、私のいだいた疑問を開陳し、反対理由の補足としたい。
二、多数意見は、公務員の争議行為が何故に禁止されなければならないか、という理由については、縷縷、言葉をつくして説示しているのであるが(私もその所説については必ずしも全面的に反対するわけではない。)、要は、公務員には争議権を認めるべきではないということだけを力説しているにすぎない。しかるに多数意見は、一転ただちに、科罰の是認へと飛躍し、見るべき論拠をほとんど示すことなく、およそ、争議行為の禁止に違反した場合、これに懲役刑を含む刑罰をもつて臨むことを、争議権制限に伴う当然の帰結とするもののごとくであつて、私としては到底納得できないのである。
思うに、争議行為を制限しまたは禁止する立法例は現に数多く存在する。ひとり公務員の場合だけではない。しかし禁止違反に対し、ただちに、懲役を含む刑罰を加えるべきことが規定されているのは、他に例を見ないところである。公労法一七条は、公共企業体の職員や郵政その他国営企業の現業公務員及びそれらの組合の争議行為を禁止し、このような禁止された行為を共謀し、そそのかし若しくはあおる等の行為は、してはならないと定めており、その点で国公法九八条と趣旨を同じくしているのであるが、その違反者は、解雇処分を受けることがあるにすぎず、禁止の裏付けとなる罰則は全く存在しないのであるから刑罰に処せられることがない(電電公社その他各企業体にはそれぞれの事業法があり、そのなかには不当に業務を停廃したことに対する処罰規定もおかれているが、これは個別的な秩序違反行為を対象としたものであつて、争議行為に適用されるものではないと解する。)。公共企業体の職員や国営企業の現業公務員に対して争議行為を禁止するのは国民の福祉を擁護するためであるから、国公法が公務員に対し争議行為を禁止する趣旨との間に、格段の径庭があるわけではない。それであるから、公務員の争議権が制約されなければならない理由を単に積み重ねただけでは、科罰の合理性を論証したことにはなりえないであろう。
三、もつとも多数意見がその点に全くふれていないわけでもない。いま、多数意見のいうところがら理由つけと見るべきものを求めると(1)公務員の争議行為は広く国民全体の共同利益に重大な障碍をもたらす慮れがあること、そして(2)あおり等の行為をした者はかかる違法な争議行為の原動力または支柱であること、の二点であろうか。しかし、いずれを取りあげても、科罰の合理性につき人をして首肯せしめるには、ほど遠いもののあることを感ぜざるをえない。
刑罰を必要とする第一の、というよりはむしろ唯一の、理由は、争議行為が国民全体の共同利益に重大な障碍をもたらす虞れがあるから、というところに帰着する。しかし、一口に公務員といつても、国策の策定や遂行に任ずる者もあれば、上司の指揮下で補助的な作業にあたつたり、あるいは単純な労務に従事するにすぎない者もあり、その業務内容や職種は千差万別である。のみならず、争議行為のために多かれ少なかれ公務の停廃を見るとしても、争議行為の規模や態様には幾多の段階やニユアンスの差異があるのであつて、国民全体の生活に重大な障碍をもたらすか、またはその慮れがあるような争議行為は、過去の実績に徴しても、極めて異例であるといつて差支えない。国民生活上何らエツセンシアル(これについては後にふれる。)でない公務が、ごく小範囲の職場において、しかも長からざる期間、争議行為によつて停廃を見たとしても(公務員労働関係における大半の紛争状態はまさにこれである。)、国民は多少の不便不利益を蒙るだけである。もともと、労働組合の争議行為は使用者に打撃を加えて己れの主張を貫徹しようとするものであるが、企業は社会から孤立した存在ではないから、そこにおける業務の阻害は第三者にも影響を与えないわけにはいかない。その企業が運輸とか医療とかの公益事業であると、業務の停廃による直接の被害者はむしろ一般公衆である。かくのごとく、第三者も争議行為によつて迷惑を蒙ることを免れないが、それが故に争議行為を全く禁止し、または争議行為によつて第三者の受けた損害を当該労働組合などにすべて負担せしめては憲法二八条の趣旨は全うされないことになるであろう。その意味で第三者はある程度の受忍を余儀なくされるのであり、公務員の場合でも本質的には変るところがないというべきである。
多数意見の立論の基礎は、国民全体の共同生活に対する重大な障碍を与えるという点にあるのであるから、前述のごとき、国民に対し多少の不便をかけるにすぎない軽微な争議行為については、これに刑罰をもつて臨まないとするのが、論理上当然の筋合ではないかと思うのであるが、何故に多数意見は、事の軽重や、国民生活に対する影響の深浅などをすべて捨象度外視して、公務員による一切の争議行為に対し、刑罰を科することを無条件に是認しようとするのであろうか。限定解釈をしてはじめて憲法上科罰が許されると考えている私の到底同調できないところである。
四、つぎに多数意見は、「公務員の争議行為の禁止は、憲法に違反することはないのであるから、」「この禁止を侵す違法な争議行為をあおる等の行為をする者」は、原動力を与える者としての重い責任が問われて然るべきであり、「違法な争議行為の防遏」のためにその者に刑事制裁を科することには「十分の合理性がある」とする。しかしながら争議行為の禁止が違憲でないからといつて、禁止違反に対し刑罰をもつて臨むことまでも、憲法上、当然無条件に認められるということにはならない。憲法は争議権の保障を大原則として宣言しており、公務員もその大部分はかつてその保障下にあつたのである。その後にいたり、国民の福祉との権衡上、やむをえざる例外として制約されるにいたつたものであると解せられるから(多数意見もこの点は同じ見解をとるものであろう。)、禁止違反に対して科せらるべき不利益の限度なり形態なりは、憲法二八条の原点にもう一度立ち帰り、慎重の上にも慎重に策定されなければならないのである。争議行為禁止が違憲でないが故に禁止違反にはいかなる刑罰を科しても差支えない、という説をとるとすれば、これは論理的にも無理というものではあるまいか。多数意見の立論は、公務員の争議行為を禁止することこそ憲法の要請であり、至上命令だというような途方もない前提(多数意見は憲法一五条を論じて公務員の地位の特殊性を説くが、さすがにかかる議論にまでは発展していない。)でもとらないかぎり、破綻せざるをえまい。
五、さらに、多数意見は、あおり等の行為を罰することに十分の合理性があるという。しかし、いうところの合理性とは「争議行為の防遏を図るため」の合理性、すなわち、最少の労力をもつて最大の効果をえようとする経済原則としての合理性に近似したもののように見受けられる。いいかえれば、憲法二八条の原則に対する真にやむをえない例外である科罰が、いかなる合理的な根拠に基づいて容認されるか、という意味での合理性ではなく、それとは全く縁もゆかりもない刑事政策ないしは治安対策上の合理性をいうもののごとくである。
わが国にはかつて、争議行為の誘惑、煽動を取り締る治安警察法一七条という規定があり、これを活用した警察が、明治、大正にわたり、あらゆる争議行為の防遏に美事に功を奏したことがある。当時と異なり争議権の保障のある今日、よもや立法者がその故智先蹤にならつたわけではあるまいが、禁止に背いた違法な争議行為に対処するにあたり、参加者全員を検挙し断罪するのは煩に堪えないばかりでなく、単なる参加者よりも社会的責任の重いいわば巨悪を罰すれば、付和随行の者どもは手を加えるにいたらずして争議行為を断念するであろうという計算があつたのかも知れない。もしそうだとすれば、争議対策としてはなるほど合理的ではあろう。しかしこの考え方は、憲法の次元を離れた、憲法的視野の外にある、便宜的、政策的なもので、もとより採ることは許されない。
六、多数意見は、あおり等の行為に出た者は、争議行為の原動力をなす者であるから、「単なる争議行為参加者にくらべて社会的責任が重く」、したがつてその責任を問われても当然だという。これを裏返していえば、単なる争議行為参加者にも、刑事責任追及の根拠となる社会的責任がないわけではない、ただ原動力を与えた者に比べると軽いだけである、とする主張が底流をなしている。多数意見も、別の個所で、違法な「争議行為に参加したにすぎない職員は刑罰を科せられることなく」と述べてはいるが、それは現行法のあり方を説明したにとどまり、憲法上そうでなければいけないのだという趣旨はどこからも窺うことができない。いまもし現行法が改正されて、単なる争議行為参加者をもことごとく処罰するということになつたと仮定した場合、多数意見の立場からは、これをどう受けとめるであろうか。恐らくは、かくのごとき改正も国会みずからが自由にきめうるところであるとし、その規定を適用することに何の躊躇をも示さないことになるのではあるまいか。
七、上述のように、単なる争議行為参加者は処罰されることがないのであるが、これは区区たる立法政策に出たものと解すべきではない。もしそれをしも処罰するとなれば、ただちに違憲の問題を生ずるであろう。いわゆる争議行為参加者不処罰の原則は憲法二八条との関連において確立されているのである。あおり等の行為の意義も、右の基本的な立場に立脚しではじめて正しく理解することができると考える。
これに対し多数意見はもとより見解を異にするわけであるが、それにしても、単なる争議行為参加者を処罰するものでないことは、多数意見の容認するところである。しかし、あおり等に関する多数意見の解釈はあまりにも広く(多数意見のように、憲法二八条に立脚せず、それとの関係を無視ないし閑却するかぎり、恣意的な解釈で満足するのであれば格別、厳密な態度での合理的な限定解釈を施すことはできる筈がないのである。)もしそれによるとすれば、後に述べるように、単なる争議行為参加者も処罰の脅威を感ぜざるをえなくなるのであつて、多数意見の立論の根拠たる原動力論、すなわち違法な争議行為の原動力をなす者だけを処罰するのだという理論も実は看板だけにしかすぎないことになりおわるのである(多数意見は、わざわざカツコ書きにおいて、単なる機械的労務を提供したにすぎない者、またはこれに類する者はあおりその他の行為者には含まれないとことわつているのであるが、これは争議行為が組合員自身によつて形成され遂行されるものであるという現実を無視した空論なのである。およそ争議行為は、組合員すべてが自己の判断に基づきそれぞれが主体的な立場に立つて参加し行動するのが通例であつて、例えば、末端組合員が普通担当することになるであろうビラの配布、貼付、指令の伝達などにしても、選挙運動の際の日雇労務者などに見られる単なる機械的な労務の提供とはその質を異にする。)。
国公法一一〇条一項一七号によつて罪となる行為には、以上の他に、「そそのかし」と「共謀」とがあるが、これらの行為類型のどれひとつ取りあげても、もし多数意見にならつて文字通りに解釈するとすれば、自由意思に基づいて争議行為に参加し、共闘するところのあつた組合員は、たとえ平組合員であろうとも刑事責任を追及されかねないことになる。なぜならば、平組合員と雖も、いわゆる総けつ起大会に出席し、執行部のスト提案に熱烈な声援を送つて組合員の闘志を鼓舞したとすれば「あおり」にちがいないし、スト宣言文書やアジビラを積極的に職場その他に貼つたり、撒いたりしたときは「そそのかし」に該当しないとはいいきれない。そればかりではない。組合の争議行為意思の形成に進んで参加し、また、争議手段についての討議に加わる(これは組合による闘争の場合必ず通過する過程である。)ことが、果して「共謀」でないといいうるかどうかさえ疑問になりはしないか。
もしかかる設例が必ずしも想定できないわけでないとすれば(争議の実情に鑑みると決してありえないことではない。)、指導的立場において原動力たる役割を演じた組合の中枢部だけでなく、ある程度積極的ではあれ、結局は単なる争議参加者にしかすぎなかつた者を、徹底的に検挙することすら易易たる業となるのである。もし仮にそういう事態が生じたとすれば、これは原動力理論を主張する論者にとつてさえ、恐らく不本意ではあるにちがいない。多数意見も「法は公務員の労働基本権を尊重しこれに対する制約、とくに刑罰の対象とすることを最小限度にとどめようとしている」と説いているのであるから。
もちろん、普通の紛争に見られる程度の事情においては、かかる不合理な結果を来たすような処理はなされないであろうが、法律による何の歯止めもなく、あげてそのことを捜査機関の良識ある裁量に俟つのみとあつては、多数意見の強調する原動力理論も宙に浮く結果となるであろう。
八、多数意見は、ILO九八号条約をひいて、それが公務員に適用されないことをあげ、また、ILO結社の自由委員会の報告中に、「大多数の国において」公務員がストライキを禁止されている旨の記述があるとして、当該個所を引用し、公務員の争議行為に対する制約は、国際的にも是認されるものだと主張する。
なるほど九八号条約の第六条には、多数意見の引用にかかるような定めのあることは事実であるが、一九七一年に発足したILOの公務員合同委員会(これは日本を含む一六の政府及びそれぞれの国の労働者側からなる二者構成の公的な専門委員会である。)の第一回会議(同年三月二二日ないし四月二日開催)におけるジエンクスILO事務局長の開会演説は、「現在多くの国において、公務員の労伽関係に変化が生じており、勤務条件は労使の話合いを通じて決定される傾向がある」ことを指摘しており、また、右委員会における討議の結果採決された決議第一号は
「一九四九年の団結権及び団体交渉権についての原則の適用に関する条約(第九八号)が、「公務員の地位を取り扱うものではない」と規定しているにもかかわらず、すでに若干の国においては、公務員は同条約の規定の全部又は一部の恩恵を受けているということを認識し
公務員は、九八号条約の定めるところに従い、労働組合活動の自由を侵害するいかなる行為に対しても適切に保護されるべきであることを考慮し」
と述べているのである(なお同条約第六条の英文テキストには、アドミニストレーシヨンに従事するパブリツクサーばンツとある。これは日本訳にいう「公務員」よりもはるかに狭いものがありはしないか。現にILOの条約勧告専門委員会は、一九六七年に、公務員の概念は各国の法律制度り相違に応じてある程度異なるにしても、公権力の機関として行動しない公務員を含まないとの趣旨の報告を提出している。本件では直接この点を問題にするわけではないが、多数意見のいうところが拡張して解釈される虞れもあるので指摘しておく次第である。)。
さらに、公務員のストライキを禁止している国が、果して世界の大多数を占めているかどうか、またそうだとしても、そのことの示す意味については問題があると考える。なるほど、数だけからいえば、いまだ少なからざる国が公務員のスト禁止法を存しているが、しかし、その大部分は開発途上国か、そうでなくとも農業国なのである。先進工業国としては、僅かにわが国のほか、アメリカ、オランダ、スイスをあげうるにすぎない。しかも、以前から公務員に対するしめ付けのきわめて厳しいアメリカにおいてさえ、近時いくつかの州において禁止を解く立法がつぎつぎに制定されつつあるのである。
もつとも問題の核心は、実は、その点にあるわけではない。本件においてわれわれが特に関心をもたざるをえないのは、禁止違反に対する刑罰規定の有無なのである。この種の規定が、殊に先進国において、果してどれだけあるのか、多数意見は何らふれるところがない。いうところは、単に禁止立法が多くの国に存在しているとしているだけである。本件をいやしくも国際的視野に立つて検討するのであれば、刑罰を裏付けとする公務員のスト禁止立法の状況にこそ目をくばるべきであろう。
九、わが国はいまだ批准していないけれども、人も知るとおりILO一〇五号条約は、同盟罷業に参加したことに対する制裁としての強制労働を、何らの留保をも加えることなく、一般的に禁止している。もつとも、ILO五二回総会(一九六八年)に提出された専門委員会の報告は、「右条約案を審議した総会委員会において、一定の事情の下ならば違法な同盟罷業に参加したことに対して刑務所労働を含む刑罰を科することができるという合意ができたという事実を考慮することが適当」だと述べているのであるが、この見解には概ね異論がないらしい。それ故、仮に右条約を批准しても(わが国の政府が批准を躊躇しているのはその点を懸念するためでもあろうか。)、国公法一一〇条一項一七号なども右条約には抵触しないとする見解もあるようである。しかし、前示専門委員会が刑罰を容認するのは、「エツセンシヤル」すなわち「必要不可欠な役務」についてのみなのである。そして、「必要不可欠」とは、同委員会によれば、「その中断が住民の全部又は一部の存在又は福祉を危うくするような」場合をさしていることを忘れてはならない。
のみならず、結社の自由委員会は、一二号事件において、アルゼンチンでの、スト禁止違反に対する刑事制裁規定につき
「委員会は、公安にかんする(アルゼンチンの)法規に含まれている、ストライキにたいし、これらの規定を適用する必要性をこれまで見出せなかつた旨の(アルゼンチンの)政府陳述に留意するとともに、これらの規定を、職業上の利益を増進擁護するため、労働組合の指導者が自己の通常の任務を遂行した場合に、これに対しては適用することはできないような態度で、上記諸規定を改正することが望ましい旨、(アルゼンチン)政府の注意を喚起するよう、理事会に勧告する。」と述べている。さらに、五五号事件において(これはギリシヤに刑法上のストライキ処罰規定があることを問題にした申立事件である。)、労働者側の申立を却下はしているのであるが、その理由は、右の刑法の規定が今まで実際には適用されたことがなかつたことに「留意」したからであつて、スト禁止違反に対し刑罰を科することをたやすくは是認しないという態度を示しているのである。
要するにILOの一般的傾向としては、公務員のスト禁止違反に対し刑罰特に懲役を科することには甚だ消極的なのである。
翻つて、各先進国の現行法制を見ると、アメリカにおいてこそ、連邦公務員のスト禁止違反に対し一〇〇〇ドル以下の罰金又は一年と一日以下の拘禁もしくはこれを併科するという罰則があるけれども、イギリス、ドイツ及びフランスでは、警察官などについては格別、普通の公務員については、ストライキを禁止する規定がそもそもないのであるから、もとより刑罰の脅威が存在するわけではない。
以上を通観するならば、世界的な潮流は、多数意見の説くところとおよそ方向を異にするものということができるであろう。多数意見は、自らが「国際的視野」に立つているというのであるが、そうであるとしても、わずかに楯の一面を見たにすぎないのではあるまいか。
第二 本件の団体行動は「争議行為」ではない
一、原判決の認定するところによると、被告人らは、昭和三三年一〇月、内閣が警察官職務執行法の一部を改正する法律案を衆議院に提出したとき、これに反対するために(一)時間内職場大会を開催すべき旨の指令を全国の支部、分会に発出したほか(二)農林省庁舎前において勤務時間内二時間の職場集会を計画、同省職員に参加方を懲慂し、かくして争議行為をあおつたというのである。そうである以上、この行動は、国会に労働組合の意思を反映せしめ、立法過程において前記改正の動きを阻止しようとしたのであるから、政治的目的に出たものというべく、そして、集会実施中は、時間は長くないにしても、管理者の意思を排除し、一斉に勤務を放棄するというのであるから、世にいう政治ストにあたるわけである。
しかし、政治ストというのは俗称にすぎず、純然たる政治的目的のための労働組合の統一行動は、たとえそのために業務の阻害を来たしても、労働法上の争議行為たるストライキとは異質なものなのである。例えば、診療報酬の改訂を要求するための医師会のスト(一斉休診)や、入浴料金据置反対のための浴場業者のストなどは、いかなる意味でも争議行為ではないのであるが、いわゆる政治ストも本質的にはこれらと同様であり、法律改正阻止のための、すなわち国会の審議に影響を及ぼし、かつ政府(この場合は統治機関たる政府であつて、使用者たる政府ではない。)に反省を促すための「スト」は、労働法上の争議行為ではないのである。したがつて、労働組合の行動ではあるが、争議権の行使ではなく、憲法二八条の関知せざるところというべきである。
もとより、憲法二八条の保障を受けないからといつて、それだけの理由で、右の「スト」がただちに違法になるものではない。このことは、あえて憲法二一条を引合に出すまでもなく、明らかであろう。大体、労働組合には政治行動をなすについて労働組合なるが故の特別の保障がないだけであつて、一般に組合に対し政治行動が禁止されていると解すべき何らの理由もないからである。
もつとも、国家公務員については、私企業の労働者の場合と異なり、政治的行為制限の規定(国公法一〇二条)があるが、それをうけて政治的行為の細かい内容を定めた人事院規則には憲法上疑義なしとしないのであつて、右の規定だけに依拠して一切の政治行動が禁圧されているとするのは相当ではない。それにまた、公務員労働組合の法律改正反対運動が議会制民主主義に反するときめつけることにも問題がある(多数意見は、公務員の勤務条件は国会の制定した法律、予算によつて定められるのであるから、勤務条件について公務員が争議行為を行なうことは議会制民主主義に反するという。医師の団体や農業団体が、立法の促進や法律改正の反対などを目的として、国会や政府に強力な圧力をかけていることは日常われわれが見聞するところである。歓迎すべき風潮ではないとしても、当事者としては生活権擁護上やむにやまれずしてとる行動であるかも知れず、また一方、これを禁止する法規があるわけではないから、いうまでもなく合法的行為なのである。労働組合としても別異ではない。労働組合は、本来、使用者との間において、労働条件の維持改善を図ることを主たる目的として結成され、発達してきたのであるが、今日の高度経済成長の時代においては、使用者との角逐に全力をそそぐ必要が次第に少なくなり、さらに広い視野に立つての物心両面における生活の向上に努力する傾向が顕著となつた。労働組合のこの機能の変化は、労働者の生活と意識の変化の反映であり、アメリカ型のビズネスユニオンにおいてさえ、単なる賃上げ組合の域にとどまることはできないのである。したがつて、労働組合が、企業の内部にのみ局せきすることなく、進んで、行政や立法に自らの意思を反映せしめようとするのはまさに時代の要請であり、まことに当然のことなのである。労働組合が国会の審議に影響力を及ぼそうとすること自体は、越軌な行動に出るものでないかぎり、国会の機能に直接、何の障碍をも与えるものではないから、非難に値するわけではあるまい。むしろ考えようによれば、国の最高機関として民衆と隔絶した高きにある国会に、民意のあるところを知らしめることは、議会制をして真の民主主義に近づかしめる方法でもあろう。)。労働組合の政治的行動を一概に否定し排撃することは、労働組合が現に営んでいる社会的役割ないし活動を無視するものというべきである。
もとよりそれだからといつて、公務員労働組合の政治的行動がすべて適法だというつもりはない。この点は別個に考察されなければならない。公務員労働組合によつてなされた本件におけるような態様の政治的行動がいかなる法律的評価を受けるものであるかは、憲法一五条及び二一条と国家公務員法との比較考量によつてきめられるべきことである。しかし、国家公務員に対する政治活動の規制とは全く関係のない訴因、罰条をもつて起訴されている本件においては、これ以上、立ち入つた考察をする必要はないと考える。
二、いわゆる政治ストが労働法上の争議行為ではないというためには、労働法上、争議行為とは何かということを解明することが必要であるし、国公法九八条五項で禁止されている争議行為(五項前段は全体として争議行為を禁止しているものと解する。「政府の活動能率を低下させる怠業的行為」も、広義における争議行為の一部である。これを争議行為と別異なものであるとする説もあるけれども、条文上かくのごときまぎらわしい表現になつているのは、占領下における立法過程に通有の、占領軍が作成し日本政府に押しつけた粗雑なドラフトに屈従した結果と見るべく、要するに立法上のミスであつて、後述する判決中で私が詳述した沿革に徴するときは、上述したところ以外の合理的解釈は考えられないのである。)が、労働法上争議行為とよばれるものと同じであることを論証しなければならないのであるが、この問題については、私がかつて詳しく論じたところ(仙台全司法事件大法廷判決中の私の意見刑集二三巻五号七一五頁以下)であるので、これを引用する。
結局、原判決には、法律の解釈を誤つた違法があり破棄を免れないというのが私の結論である。
第三 判例変更の問題について
最後に、一言付加したいことがある。多数意見は、仙台全司法事件についての当裁判所の判例は変更すべきものであるとしたのであるが、法律上の見解の当否はしばらく措き、何よりもまず、憲法判例の変更についての基本的な姿勢において、私は、多数意見に、甚だあきたらざるものあるを感ずるのである。この点に関しては、本判決に、裁判官田中二郎、同大隅健一郎、同関根小郷、同小川信雄、同坂本吉勝の剴切な意見が付せられており、その所説には私もことごとく賛成であるので、その意見に同調し、私自身の見解の表明に代えることにする。検察官冨田正典、同山室章、同蒲原大輔 公判出席

+判例(H12.3.17)
理由
上告代理人佐藤義弥、同竹澤哲夫、同尾山宏、同岡村親宜の上告理由第一点について
国家公務員法(以下「国公法」という。)九八条二項の規定が憲法二八条に違反するものでないことは、当裁判所の判例(最高裁昭和四三年(あ)第二七八〇号同四八年四月二五日大法廷判決・刑集二七巻四号五四七頁)とするところであり、これと同旨の原審の判断は、正当として是認することができる。論旨は採用することができない。

同第二点及び第三点について
所論引用の結社の自由及び団結権の保護に関する条約(昭和四〇年条約第七号。いわゆるILO八七号条約)三条並びに経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約(昭和五四年条約第六号)八条一項(C)は、いずれも公務員の争議権を保障したものとは解されず、国公法九八条二項及び三項並びに本件各懲戒処分が右各条約に違反するものとはいえないとした原審の判断は、正当として是認することができる。原判決に所論の違法はない。論旨は、右と異なる見解に立って原判決を論難するものにすぎず、採用することができない。

同第四点について
国公法第三章第六節第二款の懲戒に関する規定及びこれに基づく本件各懲戒処分が憲法三一条の規定に違反するものでないことは、最高裁昭和六一年(行ツ)第一一号平成四年七月一日大法廷判決・民集四六巻五号四三七頁の趣旨に徴して明らかというべきである。論旨は採用することができない。

同第五点及び第六点について
所論の点に関する原審の事実認定は、原判決挙示の証拠関係に照らして首肯するに足り、右事実関係の下においては、本件ストライキの当時、国家公務員の労働基本権の制約に対する代償措置がその本来の機能を果たしていなかったということができないことは、原判示のとおりであるから、右代償措置が本来の機能を果たしていなかったことを前提とする所論違憲の主張は、その前提を欠く。論旨は採用することができない。

同第七点について
所論の点に関する原審の事実認定は、原判決挙示の証拠関係に照らして首肯するに足り、右事実関係の下においては、上告人らに対する本件各懲戒処分が著しく妥当性を欠くものとはいえず、懲戒権者の裁量権の範囲を逸脱したものとはいえないとした原審の判断は、正当として是認することができる。原判決に所論の違法はない。論旨は、原審の専権に属する証拠の取捨判断、事実の認定を非難するか、又は右と異なる見解に立って原判決を論難するものにすぎず、採用することができない。
よって、裁判官河合伸一、同福田博の補足意見があるほか、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

+補足意見
裁判官河合伸一、同福田博の補足意見は次のとおりである。
私たちは、法廷意見に賛成するものであるが、なお、上告理由第七点について次のとおり付言しておきたい。
原審が認定した事実関係の下では、昭和五六年度における人事院勧告の一部不実施に引き続く同五七年度における人事院勧告の完全凍結をもって、本件ストライキの当時、国家公務員の労働基本権の制約に対する代償措置がその本来の機能を失っていたとまではいうことができないと考えるが、右のような事情は、争議行為等の禁止違反に対する懲戒処分において懲戒権濫用の成否を判断するに当たっての重要な事情となり得るものというべきである。
すなわち、公務員に懲戒事由がある場合であっても、懲戒権者が裁量権の行使としてした懲戒処分が、右裁量権を行使するに当たって当然に考慮すべき事情を考慮せず、あるいは、同事情を考慮したものとしては社会通念上著しく妥当を欠いて、裁量権の範囲を超えるものと認められるときは、その処分は裁量権を濫用したものとして違法となるものと解すべきである。そして、懲戒事由に該当すると認められる行為が人事院勧告の完全実施を求めるいわゆる人勧ストに関するものである場合には、人事院勧告の完全凍結という前記の事情は、懲戒権濫用の成否を判断するに当たって当然に考慮されるべき重要な事情となるものと考えるのである。
ILO結社の自由委員会報告書による指摘を待つまでもなく、適切な代償措置の存在は公務員の労働基本権の制約が違憲とされないための重要な条件なのであり、国家公務員についての人事院勧告制度は、そのような代償措置の中でも最も重要なものというべきである。したがって、人事院勧告がされたにもかかわらず、政府当局によって全面的にその実施が凍結されるということは、極めて異例な事態といわざるを得ない。そのような状況下において、国家公務員が人事院勧告の実施を求めて争議行為を行った場合には、懲戒権者は、国公法に違反するとして懲戒権を行使するに当たり、争議行為が右異例な事態に対応するものとしてされたものであることを十分に考慮して、慎重に対処すべきものである。本件ストライキは、昭和五七年度の人事院勧告の完全凍結を契機とし、労働基本権制約の代償措置としての人事院勧告の完全実施を求めて行われたものであり、右のような観点からすれば、上告人らに対する本件各懲戒処分は重きに失すると論じる余地がないではない。
しかしながら前記のように代償措置がその機能を完全に失っていたとはいえないこと、本件ストライキは、当局の事前の警告を無視して、極めて大規模に実施されたものであること、上告人らは、全農林労働組合の中央執行委員会の構成員として、本件ストライキの実施に積極的に関与して指導的な役割を果たしたもので、その行為は、国公法九八条二項の禁止する争議行為を共謀し、そそのかし、又はあおったものとして、刑事処罰の対象ともなり得るものであったことなどを考慮すると、上告人らに対する本件各懲戒処分が社会通念上著しく妥当を欠いて裁量権の範囲を逸脱し、これを濫用したものとまで断ずることはできないといわざるを得ない。したがって、本件各懲戒処分は違法とはいえず、これと結論を同じくする原審の判断は是認することができる。

++解説
《解  説》
一 昭和五七年度の国家公務員の給与引上げ等を内容とする人事院勧告につき、政府は財政状態のひっ迫等を理由に同年九月に右勧告の不実施(凍結)を決定した。本件は、右凍結を不服とする全農林労働組合が人事院勧告の完全実施等の要求を掲げて大規模な時限ストを行ったところ、全農林の中央執行委員としてその立案当初から参画し、その実施に積極的に関与して指導的役割を果たした同省職員Xらに対して、争議行為を共謀し、そそのかし、あおったものとして、停職六月ないし三月の各懲戒処分がされたため、Xらが、①公務員の争議行為を全面一律に禁止した国家公務員法(国公法)九八条二項の憲法二八条、ILO条約等違反、②人事院勧告凍結下における同項の適用違憲、③懲戒権の濫用等を主張して、各懲戒処分の取消しを求めた事案である。
一審(本誌七一四号五六頁)及び二審(本誌八七七号一九五頁)ともに、Xらの主張を排斥して、請求を棄却すべきものとし、Xらが上告した。本件は、その上告審判決である。

二 本件の主要な争点は、Xらの主張に対応して、①国公法九八条二項の法令違憲、条約違反等、②人事院勧告凍結下における同項の適用違憲、③懲戒権の濫用の有無である。
1 公務員の労働基本権の制限に関する判例理論については、最大判昭48・4・25刑集二七巻四号五四七頁(全農林警職法事件、本誌二九二号一〇四頁、判時六九九号二二頁)以降、争議行為の全面禁止が合憲とされており、本判決も、右大法廷判決に徴して国公法九八条二項が憲法二八条に違反するものではないと判示している。また、ILO八七号条約三条及び国際人権規約A規約八条一項Cが公務員の争議権を保障したものと解されないことについては、最三小判平5・3・2集民一六八号上二一頁、本誌八一七号一六三頁等が判示しているところであり、本判決も、これと同旨の原審の判断を正当として是認している。

2 全農林警職法事件大法廷判決の合憲論の根拠は、①勤務条件法定主義又は財政民主主義、②市場抑制力の欠如、③職務の公共性、④代償措置の具備といった点に要約することができるが、同判決における岸、天野両裁判官の追加補足意見は、右代償措置こそ公務員の争議行為の禁止が違法とされないための強力な支柱であるから、その代償措置が迅速公平にその本来の機能を果たさず実際上画餅に等しいとみられる事態が生じた場合に、公務員が制度の正常な運用を要求して相当と認められる範囲を逸脱しない手段態様で争議行為に出たとしても、それは憲法上保障された争議行為というべきである旨を説示している(いわゆる画餅論。その後の人事院勧告の完全実施を求める公務員のストライキ(いわゆる人勧スト)に対する懲戒処分等に関する訴訟においては、労働組合側が右画餅論を援用して、代償措置の機能喪失による争議行為禁止規定の適用違憲等の主張が展開されるようになった。人事院が実施時期を明示して給与勧告を行うようになった昭和三五年から同四四年までは勧告された時期どおりの実施がされない状態が続き、その間の人勧スト訴訟においては、画餅論を援用した適用違憲の主張もされたが、最高裁判決においては、いずれも、代償措置がその本来の機能を喪失していたものということができないとした原審の判断を是認し、適用違憲の論旨は前提を欠くものとして排斥されている(最一小判昭63・1・21裁判集民一五三号一一七頁〔佐賀教組事件〕本誌六七五号一一九頁、最一小判平4・9・24裁判集民一六五号四二五頁〔北海道教組事件〕判自一一一号一八頁等)。本件は、昭和五七年度の人事院勧告凍結下での事案であり、従前の実施時期の遅延とは異なるが、本判決は、やはり、代償措置がその本来の機能を果たしていなかったということができないとして、適用違憲の論旨は前提を欠く旨の判断をした右人事院勧告の凍結は、財政非常事態に伴う異例の措置としてなされたものであるところ、本判決は、少なくとも、そのような状況下における人事院勧告の単年度の凍結をもって、直ちに、代償措置がその本来の機能を果たしていないとはいえないことを明らかにしたものといえよう(なお、本判決も、従前の判例と同様に、代償措置の機能喪失が認められる場合に適用違憲の問題が生ずるか否かという点については明確な判断をしたものとはいえない。)。
なお、昭和五七年度の人事院勧告凍結後の公務員の人勧ストに関する事案については、農林水産省職員によるストライキに関する本件事案のほか、教職員によるストライキに関する熊本地判平4・11・26本誌八一四号一七三頁、その控訴審である福岡高判平10・11・20本誌一〇二六号一九一頁、大分地判平5・1・19本誌八一四号九一頁、新潟地判平8・3・19本誌九一九号一三七頁、その控訴審である東京高判平11・12・20高刑速二九五号二頁、札幌地判平11・2・26本誌九九七号一一三頁が、北海道開発局職員によるストライキに関する札幌地判平9・11・27判時一六三二号一三二頁があるが、右大分地判以外は、代償措置の機能喪失を否定しているところである。

3 公務員に懲戒事由がある場合の懲戒権の濫用の判断については、全税関神戸事件における最三小判昭52・12・20民集三一巻七号一一〇一頁、本誌三五七号一四二頁がその判断枠組みを示しているところであるが、人事院勧告の凍結という事情が懲戒権濫用の判断にどのような影響を及ぼすかは議論のあり得るところである(なお、前掲平成11年札幌地判は、代償措置の機能喪失を否定する一方で、懲戒権の濫用を肯定している。)。本判決は、いずれにしても、原判示の事実関係(本件ストライキの規模・態様、Xらの役割・処分歴等)からすれば、本件各懲戒処分が著しく妥当性を欠き裁量権の範囲を逸脱したものとはいえないとした原審の判断が是認できるとしているところである。なお、本判決の補足意見は、人事院勧告の凍結という事情は、懲戒権濫用の成否を判断するに当たって当然に考慮されるべき重要な事情であることを明確にしつつ、本件各懲戒処分に裁量権の濫用があると断ずることまではできないとしている
三 本判決は、昭和五七年度の人事院勧告凍結下における公務員のストライキにつき、最高裁が判断を示した初めての事案であり、実務の参考になろう。

・公務員の争議行為の一律禁止を全面的に合憲とする判断に対しては、人事院勧告は、政府又は国会に対して何ら応諾義務を課するものではないから、政府又は国会に同勧告に応ずる措置を採らせるためには、法的強制以外の政治的又は社会的活動を必要とし、このような活動は、究極的には世論の支持、協力を要するものであるといった批判がある。


労働法 労働法総論 労働者 気になる判例

+判例(H23.4.12)INAXメンテナンス
 上告代理人諏訪康雄ほかの上告受理申立て理由,上告補助参加代理人村田浩治ほかの上告受理申立て理由について
1 本件は,住宅設備機器の修理補修等を業とする会社である被上告人が,被上告人と業務委託契約を締結してその修理補修等の業務に従事する者(被上告人の内部においてカスタマーエンジニアと称されていた。以下「CE」という。)が加入した労働組合である上告補助参加人らからCEの労働条件の変更等を議題とする団体交渉の申入れを受け,CEは被上告人の労働者に当たらないとして上記申入れを拒絶したところ,上告補助参加人らの申立てを受けた大阪府労働委員会から被上告人が上記申入れに係る団体交渉に応じないことは不当労働行為に該当するとして上記団体交渉に応ずべきこと等を命じられ,中央労働委員会に対し再審査申立てをしたものの,これを棄却するとの命令(以下「本件命令」という。)を受けたため,その取消しを求める事案である。
2 原審の適法に確定した事実関係等の概要は,次のとおりである。
(1)ア 被上告人は,親会社である株式会社C(以下「C」という。)が製造したトイレ,浴室,洗面台,台所等に係る住宅設備機器の修理補修等を主たる事業とする株式会社である。被上告人の従業員約200名のうち修理補修業務に従事する可能性がある者は,サービス長(平成19年当時の人員数は11名で,通常は全国に57か所あるサービスセンターの管理を行う。)及びFGと呼ばれる技術担当者(平成19年当時の人員数は16名で,難易度の高い修理やCEの研修等を担当する。)に限定されており,修理補修業務の大部分は約590名いるCEによって行われていた。
イ 上告補助参加人A一般労働組合B本部は,主に運輸業に従事する労働者によって組織された労働組合であり,上告補助参加人A一般労働組合D支部は,その下部組織である。A一般労働組合建設D支部E分会(以下,上告補助参加人らと併せて「本件各組合」と総称する。)は,CEによって組織された上告補助参加人らの下部組織である。
(2)被上告人は,CEになろうとする者との間で,「業務委託に関する覚書」と題する文書に記載した内容で業務委託契約を締結していた。上記契約等の概要は,以下のとおりである。
ア 被上告人とCEとは,それぞれ独立した事業者であることを認識した上で契約を遂行し(1条),委託業務の内容は,C製品全般のアフターサービス(修理,点検),リフレッシュサービス及び販売・取付けその他関連業務である(3条)。被上告人は,Cのブランドイメージを損ねないよう,各CEがCE認定制度に定める基準に基づく資格要件を満たしていることを確認するとともに,能力,実績,経験等を基準に級を毎年定めるCEライセンス制度を導入する(2条)。
イ 被上告人は,CEが居住する地域等を考慮の上,管轄する営業所及びサービスセンターを決定し,CEは,善良なる管理者の注意をもって業務を直ちに遂行するが,業務を遂行することができないときはその旨及び理由を直ちに被上告人に通知する(4条)。CEは,業務遂行後,遅滞なく被上告人及び関係先に経過及び完了の報告を行い(5条),毎月5日までに翌月の業務計画(発注連絡を取ることができる日時)を被上告人に通知し(ただし,業務計画については,被上告人において諸事情を勘案して一部変更することがある。11条),被上告人から無償貸与される制服を着用する(8条)。
ウ 業務委託契約は,双方に異議がないときは,1年ごとに更新される(18条)。
 なお,業務委託契約には業務遂行の方法等について特段の定めは置かれていないが,同契約とは別に,被上告人は,Cのブランドイメージを損ねないよう,全国で一定水準以上の技術による確実な事務の遂行に資するため,CEに対し,業務マニュアル,安全マニュアル,修理マニュアル,新人研修マニュアル等,修理補修等の作業手順や被上告人への報告方法,CEとしての心構えや役割,接客態度等を記載した各種のマニュアルを配布し,これに基づく業務の遂行を求めていた。
(3)業務委託手数料は,顧客又はCにCEがそれぞれ請求する金額に,ランキング制度において当該CEの属する級ごとに定められた一定率を乗ずる方法で支払うものとされていた。被上告人は,毎年1回,CEの能力,実績及び経験を基にCEを評価し,5段階ある級の昇格,更新及び降格の判定を行っていた。
 顧客等に対する請求金額は,商品や修理内容に従って被上告人があらかじめ全国一律で決定していた。CEは,修理補修等の難易度や別のCEを補助者として使用したこと等を理由にある程度割増しして請求することも認められていたが,これは被上告人の従業員であるサービス長等が修理補修等を行った場合においても同様であった。
 また,被上告人は,CEに対し,休日や委託時間帯以外の時間に業務を委託する場合には別途定める業務委託手数料を支払うとともに,移動距離に応じて出張料を支払っていた。
(4)ア 被上告人は,全国を7区分して各地域ごとに営業所を置き,その下に複数のサービスセンターを配置した。そして,CEの居住場所や過去の業務発生状況等に従って各サービスセンターの管轄区域を細分化し,CEの担当地域を決定していた(一つの地域に複数のCEを順位を付けて担当させることもあった。)。また,被上告人は,各CEと調整した上でその業務日及び休日を指定し,日曜日及び祝日の業務についても,各CEが交替で業務を担当するよう要請していた。
イ 被上告人は,顧客からの修理補修等の発注を全国に4か所ある修理受付センターで受け付けた後,顧客の所在場所を担当地域とするCEにこれを割り振って委託業務として依頼していた。その依頼は,原則として業務日の午前8時30分から午後7時までの間に,緊急を要する場合等には修理受付センターからCEに直接電話する方法で,それ以外の通常の場合にはCEに対してあらかじめ所持することが指示されている情報端末に修理依頼データ(訪問日時,顧客の氏名・電話番号・住所,対象となる商品の商品番号及びその取付け年月日,修理依頼内容等)を送信する方法で行われていた。
 依頼を受けたCEが応諾した場合には当該CEが修理補修等を遂行するが,当該CEが断った場合等には、被上告人は,順位が下位のCE又は別の担当地域のCEに依頼し,又はサービスセンターにいる被上告人の従業員にこれを遂行させていた。修理依頼データを送信する方法が採られる場合,CEが承諾拒否通知をする割合は1%弱であった。CEが承諾を拒否した理由がたとい業務の遂行とは無関係の事情によるものであったとしても,被上告人がそのことをもって業務委託契約の債務不履行であると判断することはなかった。
ウ CEは,修理補修等の依頼を受けた後,直ちに顧客と連絡を取って修理補修等の日時を調整し,調整された時間に顧客先等を訪問して修理補修等の作業を行っていた。その際,CEは,Cの子会社による作業であることを示すため,被上告人の制服を着用し,その名刺を携行しており,場合によっては顧客先でC製品のリフォーム等の営業活動も行っていた。 
 CEは,修理依頼データを受信し,かつ,承諾拒否通知をしなかったものの業務に対応することができない場合には,被上告人にその旨を報告した上で他のCEにこれを委ねることも認められており,発注件数の約6%はこの方法によりCEの変更手続がとられていた。
エ CEは,修理補修等の業務が終了したときは,顧客に対し,被上告人所定の検査確認用紙に署名押印を求め,顧客の名前,住所,業務日,業務内容,所定の料金その他を記載したサービス報告書を被上告人に送付していた。また,CEは,顧客から代金を回収し,これを週1回程度被上告人に振込送金していた。その他,CEは,業務日ごとに行動の予定,経過,結果等を被上告人に報告することになっていた。
オ 平成16年7月当時,CEの作業時間は1件平均約70分,1日平均計3.7時間であり,被上告人からの平均依頼件数は月113件,平均休日取得日数は月5.8日であった。
(5)本件各組合は,平成16年9月6日,被上告人に対し,連名で,CEが上告補助参加人らに加入したことなどが記載された労働組合加入通知書とともに,不当労働行為を行わないこと,組合員の労働条件の変更等は本件各組合と事前協議し,合意の上で実施すること,組合員の契約内容の変更や解除は一方的に行わず,本件各組合と協議し,合意の上実施すること,組合員の手当,割増賃金及び出張費等を支払うこと,組合員の年収の保障(最低年収550万円)をすること,その貸与する機材の損傷等に関しては被上告人において負担すること,CE全員を労働者災害補償保険に加入させること等を要求する書面(これらの要求項目を以下「本件議題」という。)を提出し,同時に,本件議題について団体交渉の申入れをした。
 被上告人は,本件各組合に対し,同月15日,CEは独立した個人事業主であることを確認の上で業務委託契約を締結しており,労働組合法上の労働者に当たらないので,被上告人には団体交渉に応ずる義務はなく,CEの要望は各地区ごとの会議で聴取する旨記載した回答書を交付した。
 その後も,本件各組合は,被上告人に対し,本件議題に係る団体交渉の申入れを3回にわたって行ったが,被上告人は,その都度,同様の理由により,本件各組合との団体交渉に応ずる義務はない旨回答した。
(6)上告補助参加人らは,平成17年1月27日,大阪府労働委員会に対し,被上告人が上記(5)の各申入れに係る団体交渉に応じなかったことは不当労働行為に当たるとして,救済申立てをしたところ,同委員会は,被上告人の対応は不当労働行為に該当するとして,被上告人に対し団体交渉に応ずべきこと等を命ずる旨の救済命令を発した。被上告人は中央労働委員会に対し再審査申立てをしたが,同委員会は,これを棄却する旨の本件命令を発した。
3 原審は,上記事実関係等の下において要旨次のとおり判断し,CEは被上告人との関係において労働組合法上の労働者に当たらず,したがって,上告補助参加人らによる上記各申入れに対する被上告人の対応について不当労働行為が成立する余地はないとして,本件命令を取り消すべきものとした。
 CEは,被上告人と業務委託契約を締結しているものであるが,個別の業務は被上告人からの発注を承諾することによって行っており,上記契約とは無関係の理由によってこれを拒絶することが認められているなど,業務の依頼に対して諾否の自由を有しており,業務を実際にいついかなる方法で行うかについては全面的にその裁量に委ねられているなど,業務の遂行に当たり時間的場所的拘束を受けず,業務の遂行について被上告人から具体的な指揮監督を受けることもなく,その報酬も,CEの裁量による請求額の増額を認めた上でその行った業務の内容に応じた出来高として支払われており,独自に営業活動を行って収益を上げることも認められていた。したがって,CEの基本的性格は,被上告人の業務受託者であり,いわゆる外注先とみるのが実体に合致して相当というべきであって,被上告人との関係において労働組合法上の労働者に当たるということはできない。
4 しかしながら,原審の上記判断は是認することができない。その理由は,次のとおりである。
 前記事実関係等によれば,被上告人の従業員のうち,被上告人の主たる事業であるCの住宅設備機器に係る修理補修業務を現実に行う可能性がある者はごく一部であって,被上告人は,主として約590名いるCEをライセンス制度やランキング制度の下で管理し,全国の担当地域に配置を割り振って日常的な修理補修等の業務に対応させていたものである上,各CEと調整しつつその業務日及び休日を指定し,日曜日及び祝日についても各CEが交替で業務を担当するよう要請していたというのであるから,CEは,被上告人の上記事業の遂行に不可欠な労働力として,その恒常的な確保のために被上告人の組織に組み入れられていたものとみるのが相当である。また,CEと被上告人との間の業務委託契約の内容は,被上告人の定めた「業務委託に関する覚書」によって規律されており,個別の修理補修等の依頼内容をCEの側で変更する余地がなかったことも明らかであるから,被上告人がCEとの間の契約内容を一方的に決定していたものというべきである。さらに,CEの報酬は,CEが被上告人による個別の業務委託に応じて修理補修等を行った場合に,被上告人が商品や修理内容に従ってあらかじめ決定した顧客等に対する請求金額に,当該CEにつき被上告人が決定した級ごとに定められた一定率を乗じ,これに時間外手当等に相当する金額を加算する方法で支払われていたのであるから,労務の提供の対価としての性質を有するものということができる。加えて,被上告人から修理補修等の依頼を受けた場合,CEは業務を直ちに遂行するものとされ,原則的な依頼方法である修理依頼データの送信を受けた場合にCEが承諾拒否通知を行う割合は1%弱であったというのであって,業務委託契約の存続期間は1年間で被上告人に異議があれば更新されないものとされていたこと,各CEの報酬額は当該CEにつき被上告人が毎年決定する級によって差が生じており,その担当地域も被上告人が決定していたこと等にも照らすと,たといCEが承諾拒否を理由に債務不履行責任を追及されることがなかったとしても,各当事者の認識や契約の実際の運用においては,CEは,基本的に被上告人による個別の修理補修等の依頼に応ずべき関係にあったものとみるのが相当である。しかも,CEは,被上告人が指定した担当地域内において,被上告人からの依頼に係る顧客先で修理補修等の業務を行うものであり,原則として業務日の午前8時半から午後7時までは被上告人から発注連絡を受けることになっていた上,顧客先に赴いて上記の業務を行う際,Cの子会社による作業であることを示すため,被上告人の制服を着用し,その名刺を携行しており,業務終了時には業務内容等に関する所定の様式のサービス報告書を被上告人に送付するものとされていたほか,Cのブランドイメージを損ねないよう,全国的な技術水準の確保のため,修理補修等の作業手順や被上告人への報告方法に加え,CEとしての心構えや役割,接客態度等までが記載された各種のマニュアルの配布を受け,これに基づく業務の遂行を求められていたというのであるから,CEは,被上告人の指定する業務遂行方法に従い,その指揮監督の下に労務の提供を行っており,かつ,その業務について場所的にも時間的にも一定の拘束を受けていたものということができる。
 なお,原審は,CEは独自に営業活動を行って収益を上げることも認められていたともいうが,前記事実関係等によれば,平均的なCEにとって独自の営業活動を行う時間的余裕は乏しかったものと推認される上,記録によっても,CEが自ら営業主体となって修理補修を行っていた例はほとんど存在していなかったことがうかがわれるのであって,そのような例外的な事象を重視することは相当とはいえない。
 以上の諸事情を総合考慮すれば,CEは,被上告人との関係において労働組合法上の労働者に当たると解するのが相当である。
5 以上と異なる原審の判断には,判決に影響を及ぼすことが明らかな法令の違反がある。論旨は理由があり,原判決は破棄を免れない。そして,前記事実関係等によれば,本件議題はいずれもCEの労働条件その他の待遇又は上告補助参加人らと被上告人との間の団体的労使関係の運営に関する事項であって,かつ,被上告人が決定することができるものと解されるから,被上告人が正当な理由なく上告補助参加人らとの団体交渉を拒否することは許されず,CEが労働組合法上の労働者に当たらないとの理由でこれを拒否した被上告人の行為は,労働組合法7条2号の不当労働行為を構成するものというべきである。したがって,本件命令の取消しを求める被上告人の請求を棄却した第1審判決は正当であるから,被上告人の控訴を棄却することとする。
 よって,裁判官全員一致の意見で,主文のとおり判決する。なお,裁判官田原睦夫の補足意見がある。
 裁判官田原睦夫の補足意見は,次のとおりである。
 本件では,被上告人は,CEは独立した事業者であり,被上告人とCEとの契約関係は,被上告人が行う業務の一部の業務委託であって一般の外注契約関係と異ならないと主張し,原審は,その主張を認めてCEは労働組合法上の労働者には該たらないと認定していることに鑑み,以下のとおり補足意見を述べる。
 原判決の認定によれば,被上告人は,Cブランドの住宅設備機器のアフターメンテナンスを主力事業とする会社であり,Cのブランドイメージを低下させないよう全国一律に一定水準の技術をもって確実に修理補修等を行うことを目的として,認定制度やランキング制度を伴うCE制度を導入した。
 上記制度の趣旨からすれば,本来,CE制度の対象者は,CE制度の求める技術者(以下「有資格者」という。)を擁して,その制度の求める業務を提供する能力を備えているならば,法人であるか個人事業者であるかを問わず,また,その者がCEとしての業務以外に主たる業務を有していても差し支えないことになる。また,その者が有資格者を複数擁しているときは,業務委託契約書に定める管轄営業所及びサービスセンターを複数選定することもなし得ることになる。このように,CE制度の対象者がCE制度の求める業務以外に主たる業務を行っていたり,CE制度の対象者が複数の有資格者を雇傭し複数の管轄営業所やサービスセンターを担当しているような場合には,少なくとも当該事業者と被上告人との契約関係は純然たる業務委託契約であって,一般の外注契約関係と異ならないものといえよう。
 ところが,本件では,記録上,被上告人のCE募集広告の一部に,「個人,法人共に可」との記載は見られるものの,被上告人と本件業務委託契約を締結しているCE中に法人が含まれるとの主張はない。また,本件で証拠として提出されている業務委託契約書(第1審判決・別紙4)の様式及びその内容は,専ら有資格者が自ら個人として直接の受託者となる場合を予定するものであり,過去においてもこれと異なる態様で本件業務委託契約が締結されたことをうかがわせる証拠は存しない。そして,法廷意見において指摘するとおり,本件業務委託契約の内容及びその委託業務履行の実態からして,CEがCEとしての業務以外に主たる業務を有していることもうかがわれない。
 さらに,それに加えて,被上告人がインターネットに掲示していたCEの募集広告では,「勤務地」,「勤務時間」,「給与」,「待遇・福利厚生」,「休日・休暇」等の項目の記載があり,それらの各項目からして,その募集広告は,被上告人が行う事業に係る外注業者を募集する内容とは到底いえず,また,本件業務委託契約の内容を補充する「CEライセンス制度」の説明文中には,「福利厚生及び功労的特典」として「健康診断」,「慶弔会」,「リフレッシュ休暇手当」(契約10年目以後5年ごとに金券を支給するもの),「休業保障」(忌引き)等,独立した事業者との契約内容にそぐわない事項が定められている。また,被上告人がCEに携行させていた名刺には,氏名の肩書きに「○○サービスセンター」と記載し,氏名の下部には被上告人の会社名のみが記載されており,平成14年ころまでCEに携行させていた身分証明書には,「上記の者は,当社従業員であることを証明します」と記載して,被上告人の会社名を記載して押印したものが発行されていた(その後「上記の者は当社が製品のメンテナンス業務を委託する者であることを証明します」との証明書に変更されていると認められる)のである。
 以上の事実関係からすれば,CEが労働組合法上の労働者に該当することは明らかであって,それを否定する余地はないというべきである。

+判例(H23.4.12)オペラの方
 平成21年(行ヒ)第226号上告代理人廣見和夫ほかの上告受理申立て理由,同上告参加代理人古川景一,同川口美貴の各上告受理申立て理由及び同第227号上告代理人古川景一,同川口美貴,同水口洋介ほかの各上告受理申立て理由について
1 本件は,年間を通して多数のオペラ公演を主催している財団法人である平成21年(行ヒ)第226号被上告人・同第227号被上告参加人X1(以下「被上告財団」という。)が,音楽家等の個人加盟による職能別労働組合である平成21年(行ヒ)第226号上告参加人・同第227号上告人X2(以下「上告組合」という。)に加入している合唱団員1名につき,毎年実施する合唱団員選抜の手続において,過去4年間は,原則として年間シーズンの全ての公演に出演することが可能である契約メンバーの合唱団員として合格とし,その者との間で期間1年の出演基本契約を締結していたが,次期シーズンについては上記の者を不合格としたこと及びこのことに関する上告組合からの団体交渉の申入れに応じなかったことについて,東京都労働委員会において,被上告財団が上記申入れに応じなかったことは不当労働行為に該当するが上記の者を不合格としたことはこれに該当しないとして,被上告財団に対し団体交渉に応ずべきこと等を命じ,上告組合のその余の申立てを棄却する旨の命令を発し,中央労働委員会において,被上告財団及び上告組合の各再審査申立てをいずれも棄却する旨の命令を発したため,被上告財団及び上告組合が,中央労働委員会の上記命令に関し,それぞれ各自の再審査申立てを棄却した部分の取消しを求める事案である。
2 原審の確定した事実関係等の概要は,次のとおりである。
(1)ア 上告組合は,職業音楽家と音楽関連業務に携わる労働者の個人加盟による職能別労働組合である。
イ 被上告財団は,新国立劇場の施設において現代舞台芸術の公演等を行うとともに同施設の管理運営を行っている財団法人であり,年間を通して多数のオペラ公演を主催している。
(2)ア 被上告財団は,毎年,主催するオペラ公演に出演する新国立劇場合唱団のメンバーを試聴会を開いて選抜し,合格者との間で,8月から翌年7月までの年間シーズンの全ての公演(ただし,被上告財団が当該シーズンの開始前にあらかじめ出演を指定しないものがある。例えば,男声合唱だけの演目には女性団員は出演しないし,他の合唱団が出演する演目もある。)に出演することが可能である契約メンバーと,被上告財団がその都度指定する公演に出演することが可能である登録メンバー(契約メンバーだけでは合唱団のメンバーが足りない場合等に合唱団に加わることになる。)に分けて,出演契約を締結していた。
イ 契約メンバーは毎年40名程度であり,メンバーは毎年入れ替わりがあった。被上告財団が主催するオペラ公演は,年間10~12の公演があり,1公演につき2~8回の上演が行われていた。
(3)ア 試聴会は,次期シーズンの契約を希望する合唱団のメンバー及び公募による参加者を対象に,新国立劇場のオペラ芸術監督や合唱指揮者らがオペラ・アリア等の歌唱技能を審査するものであり,被上告財団は,試聴会の審査結果等により,契約メンバー合格者及び登録メンバー合格者を選抜した。契約メンバー合格者の方が合格に要する技能等の水準が高かった。
イ 被上告財団は,契約メンバー合格者に対して,期間を1年とする出演基本契約の締結を申し出て,面談の上,契約メンバーになることとなった者との間で,同契約を締結し,その上で,各公演ごとに個別公演出演契約を締結していた。これに対し,登録メンバー合格者(契約メンバー合格者のうち,本人の希望又は面談の結果,登録メンバーになることとなった者を含む。)は,被上告財団との間で,その出演する公演ごとに出演契約を締結した。
(4)ア 被上告財団と契約メンバーとの間で締結されていた出演基本契約の主な内容は,次のとおりである。なお,同契約の内容は,被上告財団が一方的に決定しており,各メンバーにより出演対象となる公演が異なるほかは,全ての契約メンバーに共通である。
(ア)被上告財団は,契約メンバーに対し,被上告財団の主催するオペラ公演に出演することを依頼し,契約メンバーはこれを承諾する。
(イ)契約メンバーが出演する公演(以下「個別公演」という。)は,出演基本契約に係る契約書(以下「出演基本契約書」という。)の別紙「出演公演一覧」に記載のとおりとする(なお,同別紙には,年間シーズンの公演名,公演時期,上演回数及び当該契約メンバーの出演の有無等が記載されており,この記載は,各契約メンバーごとに異なっていた。)。
(ウ)契約メンバーは,合唱メンバーとして個別公演に出演し,必要な稽古等に参加し,その他個別公演に伴う業務で被上告財団と合意するものを行う。
(エ)契約メンバーが個別公演に出演するに当たり,被上告財団と契約メンバーは,契約メンバーの個別公演への出演を確定し,当該個別公演の出演業務の内容及び出演条件等を定めるため,原則として当該個別公演の稽古が開始される月の前々月の末日までに,個別公演出演契約を締結する。個別公演出演契約に係る契約書に記載されない事項については,出演基本契約に従うものとする。
(オ)被上告財団は,契約メンバーに対し,出演業務の遂行に対する報酬を,個別公演出演契約締結の上,個別公演ごとに支払う。報酬は,出演基本契約書の別紙「報酬等一覧」に掲げる単価等に基づいて算定する(なお,同別紙には,報酬は公演出演料(1回当たりの金額が定められている。)及び超過稽古手当(超過時間により区分された金額が定められている。)等から成ること,稽古を欠席,遅刻又は早退した場合には報酬を減額すること等が記載されていた。)。
イ 出演基本契約書の条項には,被上告財団が契約メンバーに対して個別公演出演契約の締結を申し出た場合に契約メンバーにその締結を義務付ける旨を明示する規定や,契約メンバーが被上告財団以外の者が主催する公演に出演したり,個人公演を開いたり,個人レッスンをしたりすること等の音楽活動を禁止,制限する規定はなかった。
(5)ア 前記(4)ア(エ)に基づき締結される個別公演出演契約には,出演を確定する個別公演の公演日程等が定められたほか,当該個別公演の出演業務の内容及び出演条件等は,同契約に係る契約書に定める特記事項を除き,全て出演基本契約のとおりとすること等が定められた。
イ 被上告財団は,個別公演の稽古等の確定した日程を,その稽古等が行われる月の前々月の末日までに決定し,契約メンバーに提示していた。歌唱技能の提供の方法や提供すべき歌唱の内容については,合唱指揮者等の指揮があった。また,前記(4)ア(オ)のとおり,出演基本契約上,稽古を欠席,遅刻又は早退した場合には報酬を減額することが定められており,実際にも,契約メンバーは,稽古への参加状況について被上告財団の監督を受けていた。
(6)ア 実際の運用では,契約メンバーが,当該シーズンの一部の個別公演への出演を辞退し,個別公演出演契約を締結しないことがあった。もっとも,辞退の件数は,1シーズンにつき延べ数件程度とかなり少なく,また,辞退の理由の大半は,出産,育児によるものや他の公演への出演によるものであった。
イ 被上告財団は,個別公演への出演を辞退した契約メンバーに対しても,当該契約メンバー本人に特段の希望がある場合や当該契約メンバーが試聴会で不合格となった場合を除き,翌シーズンの出演基本契約の締結を申し出ており,再契約において特に不利な取扱いをしたことはなかった。契約メンバーが個別公演への出演を辞退したことを理由として被上告財団から制裁を課されたこともなかった。
ウ 契約メンバー合格者は,出演基本契約締結のための面談の際,被上告財団から,全ての個別公演に出演するために可能な限りの調整をすることを要望された。もっとも,契約メンバーとして同契約を締結するに当たって,全ての個別公演に確定的に出演することができる旨の申告や届出が要求されることはなく,1,2の個別公演には出演することができないという者でも,被上告財団の意向により契約メンバーとなる者がいた。他方,契約メンバー合格者であっても,本人の希望により登録メンバーとなる者や,出演することができる公演が限られることから被上告財団の意向により登録メンバーとなる者がいた。
(7)ア Aは,上告組合に加入している者であり,新国立劇場合唱団の契約メンバーとして,平成11年8月から同15年7月までの4シーズンにわたり,毎年,被上告財団との間で出演基本契約を締結した上,各公演ごとに個別公演出演契約を締結し,公演に出演していた。Aは,その間,被上告財団から,年間約300万円の報酬(超過稽古手当を含む。)を受けていた。
イ Aは,平成13年1月から同年3月まで文化庁在外派遣研修員としてウィーンに派遣され,その間,予定されていた公演への出演を辞退したが,翌シーズンも契約メンバーとして出演基本契約を締結した。
ウ Aが公演への出演や稽古への参加のため新国立劇場に行った日数は,平成14年8月から同15年7月までのシーズンにおいて,約230日であった。Aは,その間,個人でリサイタルを開いたり,生徒に個人レッスンをするなどの音楽活動も行っていた。
(8)ア Aは,被上告財団から,平成15年2月20日,同年8月から始まるシーズンについて,試聴会の審査の結果,契約メンバーとしては不合格であると告知された(以下,被上告財団がAを不合格としたことを「本件不合格措置」という。)。
イ 上告組合は,平成15年3月4日,被上告財団に対し,文書により,「Aの次期シーズンの契約について」を議題とする団体交渉の申入れ(以下「本件団交申入れ」という。)を行った。これに対し,被上告財団は,同月7日,「A氏と当財団との関係が雇用関係にないので,これを前提とする団体交渉申入れは受諾出来ない」などと文書で回答した。
(9)上告組合は,平成15年5月6日,東京都労働委員会に対し,本件不合格措置及び本件団交申入れに対する被上告財団の対応が不当労働行為に当たるとして,救済申立てをしたところ,同委員会は,本件団交申入れに対する被上告財団の対応は不当労働行為に該当するが本件不合格措置はこれに該当しないとして,被上告財団に対し団体交渉に応ずべきこと等を命じ,その余の申立てを棄却する旨の命令を発した。同命令に関し,被上告財団は救済を命じた部分につき,上告組合は申立棄却部分につき,中央労働委員会に対しそれぞれ再審査を申し立てたが,同委員会は,これらの再審査申立てをいずれも棄却する旨の命令を発した。
3 原審は,上記事実関係等の下において要旨次のとおり判断し,契約メンバーであるAは労働組合法上の労働者に当たらず,したがって,本件団交申入れに対する被上告財団の対応及び本件不合格措置について不当労働行為が成立する余地はないとして,被上告財団の請求を認容し,上告組合の請求を棄却すべきものとした。
 契約メンバーは,被上告財団と出演基本契約を締結しただけでは個別公演に出演する法的な義務はなく,個別公演出演契約を締結する法的な義務はないというべきであるから,契約メンバーには,労務ないし業務を提供することについて諾否の自由がないとはいえない。また,契約メンバーは,個別公演出演契約を締結しない限り,業務遂行の日時,場所,方法等について被上告財団の指揮監督を受けることはない。さらに,契約メンバーは,出演基本契約を締結しただけでは報酬の支払を受けることはなく,他方で,出演することが予定されている公演はあらかじめ決まっており,予定された公演以外に随時出演を求められることはないから,被上告財団との間の指揮命令,支配監督関係は相当に希薄というべきである。したがって,契約メンバーが被上告財団との間で出演基本契約を締結したことによって,労務ないし業務の処分について被上告財団から指揮命令,支配監督を受ける関係になっているとは認められず,契約メンバーであるAは労働組合法上の労働者に当たるということはできない。
4 しかしながら,原審の上記判断は是認することができない。その理由は,次のとおりである。
 前記事実関係等によれば,出演基本契約は,年間を通して多数のオペラ公演を主催する被上告財団が,試聴会の審査の結果一定水準以上の歌唱技能を有すると認めた者を,原則として年間シーズンの全ての公演に出演することが可能である契約メンバーとして確保することにより,上記各公演を円滑かつ確実に遂行することを目的として締結されていたものであるといえるから,契約メンバーは,上記各公演の実施に不可欠な歌唱労働力として被上告財団の組織に組み入れられていたものというべきである。また,契約メンバーは,出演基本契約を締結する際,被上告財団から,全ての個別公演に出演するために可能な限りの調整をすることを要望されており,出演基本契約書には,被上告財団は契約メンバーに対し被上告財団の主催するオペラ公演に出演することを依頼し,契約メンバーはこれを承諾すること,契約メンバーは個別公演に出演し,必要な稽古等に参加し,その他個別公演に伴う業務で被上告財団と合意するものを行うことが記載され,出演基本契約書の別紙「出演公演一覧」には,年間シーズンの公演名,公演時期,上演回数及び当該契約メンバーの出演の有無等が記載されていたことなどに照らせば,出演基本契約書の条項に個別公演出演契約の締結を義務付ける旨を明示する規定がなく,契約メンバーが個別公演への出演を辞退したことを理由に被上告財団から再契約において不利な取扱いを受けたり制裁を課されたりしたことがなかったとしても,そのことから直ちに,契約メンバーが何らの理由もなく全く自由に公演を辞退することができたものということはできず,むしろ,契約メンバーが個別公演への出演を辞退した例は,出産,育児や他の公演への出演等を理由とする僅少なものにとどまっていたことにも鑑みると,各当事者の認識や契約の実際の運用においては,契約メンバーは,基本的に被上告財団からの個別公演出演の申込みに応ずべき関係にあったものとみるのが相当である。しかも,契約メンバーと被上告財団との間で締結されていた出演基本契約の内容は,被上告財団により一方的に決定され,契約メンバーがいかなる態様で歌唱の労務を提供するかについても,専ら被上告財団が,年間シーズンの公演の件数,演目,各公演の日程及び上演回数,これに要する稽古の日程,その演目の合唱団の構成等を一方的に決定していたのであり,これらの事項につき,契約メンバーの側に交渉の余地があったということはできない。そして,契約メンバーは,このようにして被上告財団により決定された公演日程等に従い、各個別公演及びその稽古につき,被上告財団の指定する日時,場所において,その指定する演目に応じて歌唱の労務を提供していたのであり,歌唱技能の提供の方法や提供すべき歌唱の内容については被上告財団の選定する合唱指揮者等の指揮を受け,稽古への参加状況については被上告財団の監督を受けていたというのであるから,契約メンバーは,被上告財団の指揮監督の下において歌唱の労務を提供していたものというべきである。なお,公演や稽古の日時,場所等は,上記のとおり専ら被上告財団が一方的に決定しており,契約メンバーであるAが公演への出演や稽古への参加のため新国立劇場に行った日数は,平成14年8月から同15年7月までのシーズンにおいて約230日であったというのであるから,契約メンバーは時間的にも場所的にも一定の拘束を受けていたものということができる。さらに,契約メンバーは,被上告財団の指示に従って公演及び稽古に参加し歌唱の労務を提供した場合に,出演基本契約書の別紙「報酬等一覧」に掲げる単価及び計算方法に基づいて算定された報酬の支払を受けていたのであり,予定された時間を超えて稽古に参加した場合には超過時間により区分された超過稽古手当も支払われており,Aに支払われていた報酬(上記手当を含む。)の金額の合計は年間約300万円であったというのであるから,その報酬は,歌唱の労務の提供それ自体の対価であるとみるのが相当である。
 以上の諸事情を総合考慮すれば,契約メンバーであるAは,被上告財団との関係において労働組合法上の労働者に当たると解するのが相当である。 
5 以上と異なる原審の判断には,判決に影響を及ぼすことが明らかな法令の違反がある。論旨は理由があり,原判決は破棄を免れない。そこで,Aが被上告財団との関係において労働組合法上の労働者に当たることを前提とした上で,被上告財団が本件不合格措置を採ったこと及び本件団交申入れに応じなかったことが不当労働行為に当たるか否かについて更に審理を尽くさせるため,本件を原審に差し戻すこととする。
 よって,裁判官全員一致の意見により,主文のとおり判決する。

刑法気になる判例 Winny事件

・理 由
 検察官の上告趣意のうち,判例違反をいう点は,事案を異にする判例を引用するものであって,本件に適切でなく,その余は,事実誤認,単なる法令違反の主張であって,刑訴法405条の上告理由に当たらない。
 所論に鑑み,被告人によるファイル共有ソフトの公開,提供行為につき著作権法違反罪の幇助犯が成立するかどうかを職権で判断すると,原判決には,幇助犯の成立要件に関する法令の解釈を誤った違法があるものの,被告人の行為につき著作権法違反罪の幇助犯の成立を否定したことは,結論において正当として是認できる。
 その理由は,以下のとおりである。
 1 本件は,被告人が,ファイル共有ソフトであるWinnyを開発し,その改良を繰り返しながら順次ウェブサイト上で公開し,インターネットを通じて不特定多数の者に提供していたところ,正犯者2名が,これを利用して著作物であるゲームソフト等の情報をインターネット利用者に対し自動公衆送信し得る状態にして,著作権者の有する著作物の公衆送信権(著作権法23条1項)を侵害する著作権法違反の犯行を行ったことから,正犯者らの各犯行に先立つ被告人によるWinnyの最新版の公開,提供行為が正犯者らの著作権法違反罪の幇助犯に当たるとして起訴された事案である。原判決の認定及び記録によれば,以下の事実を認めることができる。
 (1) Winnyは,個々のコンピュータが,中央サーバを介さず,対等な立場にあって全体としてネットワークを構成するP2P技術を応用した送受信用プログラムの機能を有するファイル共有ソフトである。Winnyは,情報発信主体の匿名性を確保する機能(匿名性機能)とともに,クラスタ化機能,多重ダウンロード機能,自動ダウンロード機能といったファイルの検索や送受信を効率的に行うため
の機能を備えており,それ自体は多様な情報の交換を通信の秘密を保持しつつ効率的に行うことを可能とし,様々な分野に応用可能なソフトであるが,本件正犯者がしたように著作権を侵害する態様で利用することも可能なソフトである。
 (2) 被告人は,匿名性と効率性を兼ね備えた新しいファイル共有ソフトが実際に稼動するかの技術的な検証を目的として,平成14年4月1日にWinnyの開発に着手し,同年5月6日,自己の開設したウェブサイトでWinnyの最初の試用版を公開した。被告人は,その後も改良を加えたWinnyを順次公開し,同年12月30日にWinnyの正式版であるWinny1.00を公開し,翌平成15年4月5日にWinny1.14を公開してファイル共有ソフトとしてのWinny(Winny1)の開発に一区切りを付けた。その後,被告人は,同月9日,今度はP2P技術を利用した大規模BBS(電子掲示板)の実現を目的として,そのためのソフトであるWinny2の開発に着手し,同年5月5日,Winny2
の最初の試用版を公開し,同年9月には,本件正犯者2名が利用したWinny2.0β6.47やWinny2.0β6.6(以下,両者を併せて「本件Winny」という。)を順次公開した。なお,Winny2は,上記のとおり大規模BBSの実現を目指して開発されたものであるが,Winny1とほぼ同様のファイル共有ソフトとしての機能も有していた(以下,Winny1とWinny2を総称して「Winny」という。)。被告人は,Winnyを公開するに当たり,ウェブサイト上に「これらのソフトにより違法なファイルをやり取りしないようお願いします。」などの注意書きを付記していた
 (3) 本件正犯者であるBは,平成15年9月3日頃,被告人が公開していたWinny2.0β6.47をダウンロードして入手し,法定の除外事由がなく,かつ,著作権者の許諾を受けないで,同月11日から翌12日までの間,B方において,プログラムの著作物である25本のゲームソフトの各情報が記録されているハードディスクと接続したコンピュータを用いて,インターネットに接続された状態の下,上記各情報が特定のフォルダに存在しアップロードが可能な状態にある上記Winnyを起動させ,同コンピュータにアクセスしてきた不特定多数のインターネット利用者に上記各情報を自動公衆送信し得るようにし,著作権者が有する著作物の公衆送信権を侵害する著作権法違反の犯行を行った。また,本件正犯者であるCは,同月13日頃,被告人が公開していたWinny2.0β6.6をダウンロードして入手し,法定の除外事由がなく,かつ,著作権者の許諾を受けないで,同月24日から翌25日までの間,C方において,映画の著作物2本の各情報が記録されているハードディスクと接続したコンピュータを用いて,インターネットに接続された状態の下,上記各情報が特定のフォルダに存在しアップロードが可能な状態にある上記Winnyを起動させ,同コンピュータにアクセスしてきた不特定多数のインターネット利用者に上記各情報を自動公衆送信し得るようにし,著作権者が有する著作物の公衆送信権を侵害する著作権法違反の犯行を行った。

 2 第1審判決は,Winnyの技術それ自体は価値中立的であり,価値中立的な技術を提供すること一般が犯罪行為となりかねないような,無限定な幇助犯の成立範囲の拡大は妥当でないとしつつ,結局,そのような技術を外部へ提供する行為自体が幇助行為として違法性を有するかどうかは,その技術の社会における現実の利用状況やそれに対する認識,さらに提供する際の主観的態様いかんによると解するべきであるとした。その上で,本件では,インターネット上においてWinny等のファイル共有ソフトを利用してやりとりがなされるファイルのうちかなりの部分が著作権の対象となるもので,Winnyを含むファイル共有ソフトが著作権を侵害する態様で広く利用されており,Winnyが社会においても著作権侵害をしても安全なソフトとして取りざたされ,効率もよく便利な機能が備わっていたこともあって広く利用されていたという現実の利用状況の下,被告人は,そのようなファイル共有ソフト,とりわけWinnyの現実の利用状況等を認識し,新しいビジネスモデルが生まれることも期待して,Winnyがそのような態様で利用されることを認容しながら,本件Winnyを自己の開設したホームページ上に公開して,不特定多数の者が入手できるようにし,これによって各正犯者が各実行行為に及んだことが認められるから,被告人の行為は,幇助犯を構成すると評価することができるとして,著作権法違反罪の幇助犯の成立を認め,被告人を罰金150万円
に処した。

 3 この第1審判決に対し,検察官が量刑不当を理由に,被告人が訴訟手続の法令違反,事実誤認,法令適用の誤りを理由に控訴した。原判決は,幇助犯の成否に関する法令適用の誤りの主張に関し,インターネット上におけるソフトの提供行為で成立する幇助犯というものは,これまでにない新しい類型の幇助犯であり,刑事罰を科するには罪刑法定主義の見地からも慎重な検討を要するとした上,「価値中立のソフトをインターネット上で提供することが,正犯の実行行為を容易ならしめたといえるためには,ソフトの提供者が不特定多数の者のうちには違法行為をする者が出る可能性・蓋然性があると認識し,認容しているだけでは足りず,それ以上に,ソフトを違法行為の用途のみに又はこれを主要な用途として使用させるようにインターネット上で勧めてソフトを提供する場合に幇助犯が成立すると解すべきである。」とし,被告人は,本件Winnyをインターネット上で公開,提供した際,著作権侵害をする者が出る可能性・蓋然性があることを認識し,認容していたことは認められるが,それ以上に,著作権侵害の用途のみに又はこれを主要な用途として使用させるようにインターネット上で勧めて本件Winnyを提供していたとは認められないから,被告人に幇助犯の成立を認めることはできないと判示し,第1審判決を破棄し,被告人に無罪を言い渡した。

 4 所論は,刑法62条1項が規定する幇助犯の成立要件は,「幇助行為」,「幇助意思」及び「因果性」であるから,幇助犯の成立要件として「違法使用を勧める行為」まで必要とした原判決は,刑法62条の解釈を誤るものであるなどと主張する。そこで,原判決の認定及び記録を踏まえ,検討することとする。
 (1) 刑法62条1項の従犯とは,他人の犯罪に加功する意思をもって,有形,無形の方法によりこれを幇助し,他人の犯罪を容易ならしむるものである(最高裁昭和24年(れ)第1506号同年10月1日第二小法廷判決・刑集3巻10号1629頁参照)。すなわち,幇助犯は,他人の犯罪を容易ならしめる行為を,それと認識,認容しつつ行い,実際に正犯行為が行われることによって成立する。原判決は,インターネット上における不特定多数者に対する価値中立ソフトの提供という本件行為の特殊性に着目し,「ソフトを違法行為の用途のみに又はこれを主要な用途として使用させるようにインターネット上で勧めてソフトを提供する場合」に限って幇助犯が成立すると解するが,当該ソフトの性質(違法行為に使用される可能性の高さ)や客観的利用状況のいかんを問わず,提供者において外部的に違法使用を勧めて提供するという場合のみに限定することに十分な根拠があるとは認め難く,刑法62条の解釈を誤ったものであるといわざるを得ない。
 (2) もっとも,Winnyは,1,2審判決が価値中立ソフトと称するように,適法な用途にも,著作権侵害という違法な用途にも利用できるソフトであり,これを著作権侵害に利用するか,その他の用途に利用するかは,あくまで個々の利用者の判断に委ねられている。また,被告人がしたように,開発途上のソフトをインターネット上で不特定多数の者に対して無償で公開,提供し,利用者の意見を聴取しながら当該ソフトの開発を進めるという方法は,ソフトの開発方法として特異なものではなく,合理的なものと受け止められている。新たに開発されるソフトには社会的に幅広い評価があり得る一方で,その開発には迅速性が要求されることも考慮すれば,かかるソフトの開発行為に対する過度の萎縮効果を生じさせないためにも,単に他人の著作権侵害に利用される一般的可能性があり,それを提供者において認識,認容しつつ当該ソフトの公開,提供をし,それを用いて著作権侵害が行われたというだけで,直ちに著作権侵害の幇助行為に当たると解すべきではない。かかるソフトの提供行為について,幇助犯が成立するためには,一般的可能性を超える具体的な侵害利用状況が必要であり,また,そのことを提供者においても認識,認容していることを要するというべきである。すなわち,ソフトの提供者において,当該ソフトを利用して現に行われようとしている具体的な著作権侵害を認識,認容しながら,その公開,提供を行い,実際に当該著作権侵害が行われた場合や,当該ソフトの性質,その客観的利用状況,提供方法などに照らし,同ソフトを入手する者のうち例外的とはいえない範囲の者が同ソフトを著作権侵害に利用する蓋然性が高いと認められる場合で,提供者もそのことを認識,認容しながら同ソフトの公開,提供を行い,実際にそれを用いて著作権侵害(正犯行為)が行われたときに限り,当該ソフトの公開,提供行為がそれらの著作権侵害の幇助行為に当たると解するのが相当である。

 (3) これを本件についてみるに,まず,被告人が,現に行われようとしている具体的な著作権侵害を認識,認容しながら,本件Winnyの公開,提供を行ったものでないことは明らかである。
 次に,入手する者のうち例外的とはいえない範囲の者が本件Winnyを著作権侵害に利用する蓋然性が高いと認められ,被告人もこれを認識,認容しながら本件Winnyの公開,提供を行ったといえるかどうかについて検討すると,Winnyは,それ自体,多様な情報の交換を通信の秘密を保持しつつ効率的に行うことを可能とするソフトであるとともに,本件正犯者のように著作権を侵害する態様で利用する場合にも,摘発されにくく,非常に使いやすいソフトである。そして,本件当時の客観的利用状況をみると,原判決が指摘するとおり,ファイル共有ソフトによる著作権侵害の状況については,時期や統計の取り方によって相当の幅があり,本件当時のWinnyの客観的利用状況を正確に示す証拠はないが,原判決が引用する関係証拠によっても,Winnyのネットワーク上を流通するファイルの4割程度が著作物で,かつ,著作権者の許諾が得られていないと推測されるものであったというのである。そして,被告人の本件Winnyの提供方法をみると,違法なファイルのやり取りをしないようにとの注意書きを付記するなどの措置を採りつつ,ダウンロードをすることができる者について何ら限定をかけることなく,無償で,継続的に,本件Winnyをウェブサイト上で公開するという方法によっている。これらの事情からすると,被告人による本件Winnyの公開,提供行為は,客観的に見て,例外的とはいえない範囲の者がそれを著作権侵害に利用する蓋然性が高い状況の下での公開,提供行為であったことは否定できない
 他方,この点に関する被告人の主観面をみると,被告人は,本件Winnyを公開,提供するに際し,本件Winnyを著作権侵害のために利用するであろう者がいることや,そのような者の人数が増えてきたことについては認識していたと認められるものの,いまだ,被告人において,Winnyを著作権侵害のために利用する者が例外的とはいえない範囲の者にまで広がっており,本件Winnyを公開,提供した場合に,例外的とはいえない範囲の者がそれを著作権侵害に利用する蓋然性が高いことを認識,認容していたとまで認めるに足りる証拠はない
 確かに,①被告人がWinnyの開発宣言をしたスレッド(以下「開発スレッド」という。)には, Winnyを著作権侵害のために利用する蓋然性が高いといえる者が多数の書き込みをしており,被告人も,そのような者に伝わることを認識しながらWinnyの開発宣言をし,開発状況等に関する書き込みをしていたこと,②本件当時,Winnyに関しては,逮捕されるような刑事事件となるかどうかの観点からは摘発されにくく安全である旨の情報がインターネットや雑誌等において多数流されており,被告人自身も,これらの雑誌を購読していたこと,③被告人自身がWinnyのネットワーク上を流通している著作物と推定されるファイルを大量にダウンロードしていたことの各事実が認められる。これらの点からすれば,被告人は,本件当時,本件Winnyを公開,提供した場合に,その提供を受けた者の中には本件Winnyを著作権侵害のために利用する者がいることを認識していたことは明らかであり,そのような者の人数が増えてきたことも認識していたと認められる。
 しかし,①の点については,被告人が開発スレッドにした開発宣言等の書き込みには,自己顕示的な側面も見て取れる上,同スレッドには,Winnyを著作権侵害のために利用する蓋然性が高いといえる者の書き込みばかりがされていたわけではなく,Winnyの違法利用に否定的な意見の書き込みもされており,被告人自身も,同スレッドに「もちろん,現状で人の著作物を勝手に流通させるのは違法ですので,βテスタの皆さんは,そこを踏み外さない範囲でβテスト参加をお願いします。これは Freenet 系 P2P が実用になるのかどうかの実験だということをお忘れなきように。」などとWinnyを著作権侵害のために利用しないように求める書き込みをしていたと認められる。これによれば,被告人が著作権侵害のために利用する蓋然性の高い者に向けてWinnyを公開,提供していたとはいえない。被告人が,本件当時,自らのウェブサイト上などに,ファイル共有ソフトの利用拡大により既存のビジネスモデルとは異なる新しいビジネスモデルが生まれることを期待しているかのような書き込みをしていた事実も認められるが,この新しいビジネスモデルも,著作権者側の利益が適正に保護されることを前提としたものであるから,このような書き込みをしていたことをもって,被告人が著作物の違法コピーをインターネット上にまん延させて,現行の著作権制度を崩壊させる目的でWinnyを開発,提供していたと認められないのはもとより,著作権侵害のための利用が主流となることを認識,認容していたとも認めることはできない。また,②の点については,インターネットや雑誌等で流されていた情報も,当時の客観的利用状況を正確に伝えるものとはいえず,本件当時,被告人が,これらの情報を通じてWinnyを著作権侵害のために利用する者が増えている事実を認識していたことは認められるとしても,Winnyは著作権侵害のみに特化して利用しやすいというわけではないのであるから,著作権侵害のために利用する者の割合が,前記関係証拠にあるような4割程度といった例外的とはいえない範囲の者に広がっていることを認識,認容していたとまでは認められない。③の被告人自身がWinnyのネットワーク上から著作物と推定されるファイルを大量にダウンロードしていた点についても,当時のWinnyの全体的な利用状況を被告人が把握できていたとする根拠としては薄弱である。むしろ,被告人が,P2P技術の検証を目的としてWinnyの開発に着手し,本件Winnyを含むWinny2については,ファイル共有ソフトというよりも,P2P型大規模BBSの実現を目的として開発に取り組んでいたことからすれば,被告人の関心の中心は,P2P技術を用いた新しいファイル共有ソフトや大規模BBSが実際に稼動するかどうかという技術的な面にあったと認められる。現に,Winny2においては,BBSのスレッド開設者のIPアドレスが容易に判明する仕様となっており,匿名性機能ばかりを重視した開発がされていたわけではない。そして,前記のとおり,被告人は,本件Winnyを含むWinnyを公開,提供するに当たり,ウェブサイト上に違法なファイルのやり取りをしないよう求める注意書を付記したり,開発スレッド上にもその旨の書き込みをしたりして,常時,利用者に対し,Winnyを著作権侵害のために利用することがないよう警告を発していたのである。
 これらの点を考慮すると,いまだ,被告人において,本件Winnyを公開,提供した場合に,例外的とはいえない範囲の者がそれを著作権侵害に利用する蓋然性が高いことを認識,認容していたとまで認めることは困難である。
 (4) 以上によれば,被告人は,著作権法違反罪の幇助犯の故意を欠くといわざるを得ず,被告人につき著作権法違反罪の幇助犯の成立を否定した原判決は,結論において正当である。
 5 よって,刑訴法414条,386条1項3号により,裁判官大谷剛彦の反対意見があるほか,裁判官全員一致の意見で,主文のとおり決定する。

+反対意見
 裁判官大谷剛彦の反対意見は,次のとおりである。
 私は,本件において,多数意見と結論を異にし,被告人には著作権である公衆送
信権侵害の罪の幇助犯が成立すると考えるので,反対意見を述べる。
 1 本件の事実関係は,多数意見の1に詳しく摘示されているとおりであるが,
本件において被告人の著作権侵害の幇助行為とされているファイル共有ソフトWi
nnyの提供行為の特徴は,そのソフトそれ自体は多様な情報の交換を通信の秘密
を保持しつつ効率的に行うことを可能にするという技術的有用性を持つ一方,その
効率性及び特に匿名性の機能のゆえに,利用の仕方によっては著作権という法益の
侵害可能性も併せ持っており(両者は表裏の関係をなしている。),そして,その
ソフトは不特定多数の者に提供され,提供の範囲,対象には全く限定はない,とい
うところにあろう。
 このようなソフトの提供行為は,ソフトを侵害的に利用して違法にファイルをア
ップロードするという正犯の著作権(公衆送信権)侵害行為を容易にし,また助長
した幇助行為として可罰性が問われることになるが,提供行為の幇助犯としての可
罰性は,提供行為が一般的,抽象的に著作権侵害の可能性を持っていれば足りるも
のではなく,正犯者が侵害的に利用するという具体的でより高度の蓋然性が認めら
れる状況で提供行為が行われる場合に,幇助行為としての可罰性が肯定されると考
えられる。この点では,多数意見とほぼ認識,理解を共通にしている。
 2 すなわち,Winnyの提供行為それ自体は,適法目的に沿って利用される
– 12 –
以上何ら法益侵害の危険性を有しないが,その有用性がいわば濫用され侵害的に利
用される場合に,提供行為が法益侵害の現実的な危険性,違法性を持つことになる
(その意味で価値中立的行為ともいえよう。)。提供行為の法益侵害の危険性は,
ソフトの利用者がどのような目的で,どのような対象にこれを利用するかという具
体的な利用目的,態様にかかっており,侵害的利用の単なる可能性という程度では
足りず,利用者の適法利用ではない侵害的利用についての具体的でより高度の蓋然
性がある場合に,提供行為自体が現実的な法益侵害の危険性を持ち,その違法性,
可罰性が肯定されるといえよう。
 そして,利用者の侵害的利用の蓋然性は,個々の利用者の利用における侵害的利
用の可能性と,このソフトが不特定多数者に提供されていることとの関連で,侵害
的に利用する者の生ずる可能性との両面からの検討を要する。前者については,提
供されるソフトや提供行為の性質,内容が,公衆送信権という著作権の侵害に容易
に利用され得るものか,侵害を誘発するようなものか,侵害的利用を抑制する手立
ての有無などが主な考慮要素となろう。また,後者については,この侵害的利用の
可能性のあるソフトがより多くの侵害的利用の目的を持つ者に供されれば,それだ
け(量的にも確率的にも)現実的な法益侵害の危険性は高まることになり,この点
ではソフト提供の態様,対象者の範囲等が考慮要素となろう。さらに,実際に侵害
的な利用が少なからず生じているという客観的状況下で,このような侵害的利用の
可能性のあるソフトの提供が続けられることにより法益侵害の危険性は高まるので
あり,高度の蓋然性の判断に当たり,この客観的な利用の状況も重要な考慮要素に
なろう。
 3 以上のように,前記1のような特徴を持つ本件の被告人の提供行為の可罰性
– 13 –
を判断するに当たり,侵害的利用についての具体的でより高度の蓋然性が客観的に
認められる状況下で提供されることを要件としたが,この点は幇助行為の可罰性の
違法要素であり,構成要件要素とも考えられるのであり,そうすると犯罪成立の主
観的要素(幇助の故意)として,この高度の蓋然性について認識・認容も求められ
ることになる(なお,具体的な正犯の特定性については,いわゆる概括的な故意と
しての認識・認容で足りよう。)。
 なお,原判決は,更に進んで,本件のような価値中立的行為の幇助犯の成立には
侵害的利用を「勧める」ことを要するとしているが,独立従犯ではない幇助犯の成
立をこのような積極的な行為がある場合に限定する見解が採り得ないことは,多数
意見4(1)のとおりである。
 また,同様に,幇助犯としての主観的要素としては,この高度の蓋然性について
の認識と認容が認められることをもって足り,それ以上に正犯行為を助長する積極
的な意図や目的までを要するものではないといえよう。
 4 そこで,本件についてみるに,①いわゆるファイル共有ソフトは被告人の開
発したWinnyに限られていたわけではなく,Win‐MXその他のソフトも提
供されており,ネット上での公衆送信権という著作権の侵害にWinnyが不可欠
というものでは決してないが,被告人の追究により効率性が上がり(例えば,多重
ダウンロード機能,自動ダウンロード機能,それ自体は当時違法ではなかった自己
使用目的の許諾なき著作物ファイルのダウンロードが,即,違法性を持つ公衆への
送信としてのアップロードに繋がるような仕組み等),また匿名性機能も備わり
(ファイルが中継を経ると発信源の位置情報(キー情報)の追及が困難になる仕組
み等),侵害的利用の抑制として警告の掲示はあるものの,侵害的利用が至って容
– 14 –
易である上,侵害的利用への誘引性も高く,それゆえ利用者の侵害的利用が促進さ
れ,②提供行為の態様も,不特定多数の者に広汎かつ無限定で提供され,利用につ
いて申込みや承諾を要することなく,誰もがいつでもアクセスでき,利用に何ら制
約はなく,③客観的利用状況については,多数意見4(3)のとおり,当時(平成1
5年)の利用状況を正確に示す証拠はないが,原判決が引用する関係証拠によれ
ば,Winnyのネットワーク上を流通するファイルの4割程度が著作物で,か
つ,著作権者の許諾が得られていないと推測されるものであったという状況にあっ
た。
 これらの事情からすれば,少なくとも平成15年9月に行われていた本件Win
nyの公開・提供行為については,その提供ソフトの侵害的利用の容易性,助長性
というソフトの性質,内容,また提供の対象,範囲が無限定という提供態様,さら
に上記の客観的利用状況等に照らし,まずは客観的に侵害的利用の「高度の蓋然
性」を認めるに十分と考えられる。
 なお,付言すれば,侵害的利用が推測される4割程度という割合は,一つにはW
inny上に流通していた一時期のサンプル120万件のファイル情報(キー)に
ついて,著作権侵害性を調べたところ,そのうち著作権のある音楽やDVDなど市
販著作物そのままのコピーが40%程度であったという調査結果に基づいている。
サンプルにして40数万という数の市販の著作物そのままのコピーが流通していた
ことになり,およそ例外的とはいえない侵害的な利用を示しているといえよう。ま
た,原審が取り調べた社団法人甲協会の行った約2万件のファイル情報(キー)の
調査結果として,そのうち約5割が映像,音楽,ゲームソフトなどの著作物であ
り,その約9割が許諾なき利用と推定されるという報告にも基づいている(原判決
– 15 –
20頁)。Winny利用者の正確な数は把握できないが,インターネット利用者
(当時3000万人強と推定)の約3%がファイル共有ソフトの利用者であり(第
1審判決15頁),その約3分の1がWinnyを最もよく利用するという調査も
ある。利用の割合を利用者の量(人数)に置き換えてみると,弁護人の主張する調
査の難点を考慮しても,およそ例外的利用とはいえない多数の者による侵害的利用
が推認されるのである。これらの調査には,本件の2年半後の平成18年当時の調
査も含まれており,その間のファイル共有ソフト利用者の増加も考慮すると,これ
らデータから本件当時の状況を推し測るに当たっては,相応の下方への修正を施し
て考えるべきは当然であるが,以上の見方の基本に誤りはないと思われる。
 5 前記3のとおり,幇助犯が成立するには,主観的要素として,この客観的な
高度の蓋然性についての認識と認容という幇助者の故意が求められる。多数意見
は,結論として,被告人において,例外的とはいえない範囲の者がそれを著作権侵
害に利用する蓋然性が高いことを認識,認容していたとまで認めることは困難であ
る,として被告人の幇助の故意を認定していない。私は,本件において,被告人に
侵害的利用の高度の蓋然性についての認識と認容も認められると判断するものであ
り,多数意見に反対する理由もここに尽きるといえよう。
 (1) まず,侵害的利用の蓋然性について,このソフト自体の有用性の反面とし
ての侵害的利用の容易性,誘引性があることや,また提供行為の態様として対象が
広汎,無限定であることについては,開発者として当然認識は有していると認めら
れる。また,客観的な利用状況については,多数意見が理由4(3)で挙げる①開発
宣言をしたスレッドへの侵害的利用をうかがわせる書き込み,②本件当時のWin
nyの侵害的利用に関する雑誌記事などの情報への接触,③被告人自身の著作物フ
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ァイルのダウンロード状況などに照らせば,被告人において,もちろん当時として
正確な利用状況の調査がなされていたわけではないので4割が侵害的利用などとい
う数値的な利用実態の認識があったとはいえないにしても,Winnyがかなり広
い範囲(およそ例外的とはいえない範囲)で侵害的に利用され,流通しつつあるこ
とについての認識があったと認めるべきであろう。
 多数意見の指摘する被告人の侵害的利用状況の認識・認容に関わる諸事情は,そ
の蓋然性の認識の判断に当たり消極に働く事情として慎重に検討すべき点ではあろ
う。しかし,これらの事情を考慮し,また,被告人の研究開発者としての志向,す
なわち有用性というプラス面の技術開発への傾倒,没頭と,一方で副作用ともいう
べき侵害的利用というマイナス面への関心,配慮の薄さという面を考慮しても,侵
害的利用についての高度の蓋然性の認識を否定するには至らないと思われる。そし
て,通常は,このような侵害的利用の高度の蓋然性に関する客観的な状況について
の認識を持ちながら,なお提供行為を継続すれば,侵害的利用の高度の蓋然性につ
いての認容もまた認めるべきと思われる。
 (2) 前述したとおり,本件のような技術提供行為が技術的有用性と法益侵害性
を併せ持ち,また不特定多数の者への提供が行われる場合の幇助の故意の成立に,
一般の故意の内容以上に,法益侵害性への積極的な意図や目的を有する場合に限定
することは,やはり十分な根拠を得るものではなく,躊躇せざるを得ないところで
ある。
 私も,多数意見と同様,検察官の主張するような,被告人がWinnyを利用し
た著作物の違法コピーのまん延を望んでいたとか,侵害的利用を主目的に開発・提
供をしていた,などの積極的侵害意図を認めるものではない。被告人のソフト開発
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とその提供が,多様な情報の交換を通信の秘密を保持しつつ効率的に行うことを可
能にするということを主目的としていたと認めるにやぶさかではない。
 多数意見は,被告人の幇助の故意を消極的,否定的に評価する事情として,開発
スレッドへの書き込みに自らソフトの開発・提供の意図を書き込んでいたとか,著
作権者側の利益が適正に保護されることを前提とした新たなビジネスモデルの出現
を期待していたとか,侵害的利用についてこれをしないよう警告のメッセージを発
していたという点を挙げるが,これらは被告人に法益侵害の積極的意図が無かった
という事情としてはもっともであるにしても,これらの事情が必ずしも法益侵害の
危険性の認識・認容と抵触し,これを否定することにはならないと考えられる。提
供行為の法益侵害の危険性を認識しているからこそ,このような利用が自らの開発
の目的や意図ではなく,本意ではないとして警告のメッセージとして発したものと
考えられる。被告人は,このようなメッセージを発しながらも,侵害的利用の抑制
への手立てを講ずることなく提供行為を継続していたのであって,侵害的利用の高
度の蓋然性を認識,認容していたと認めざるを得ない。
 6 以上のとおり,私は,被告人に幇助犯としての構成要件該当性及びその故意
を認め得ると考えるが,弁護人の主張に実質的な違法性阻却の主張が含まれている
とも考えられるので,若干この点についての意見も付言しておく。
 既に述べたとおり,被告人のWinnyの開発・提供の主目的は,P2P方式に
よるファイル共有ソフトの効率性,匿名性をこれまで以上に高め,それ自体多様な
情報の交換を通信の秘密を保持しつつ効率的に行うことを可能にするという技術的
有用性の追求にあったことが認められ,また不特定多数の者にこれを提供して意見
を徴しながら開発を進めるという方法も,特段相当性を欠くとは認められないとこ
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ろである。
 このような点を踏まえると,本件において,行為の目的,手段の相当性,法益侵
害の比較,あるいは政策的な配慮などを総合考慮し,社会通念上許容し得る場合,
あるいは法秩序全体の見地から許容し得る場合に違法性を阻却するとする実質的違
法性の問題についても検討の余地はあろう。
 確かに,本件で著作権侵害の違法行為を行ったのは正犯者であり,被告人のWi
nnyの提供行為はその一手段を提供したにすぎず,また,手段としてのファイル
共有ソフトは何もWinnyに限られていたというわけではなく,P2P方式のも
のとしてもより汎用されていたWin‐MXなども存在していた。このように被告
人のWinnyの提供行為は,著作権侵害・法益侵害への因果性は薄く,民事の不
法行為責任は問い得ないとする見解もあり,その意味で微罪性を持つといえないわ
けではない。
 しかしながら,個々の侵害行為におけるソフトの果たす役割が大きくないにして
も,前述のように,本件Winnyは,侵害的利用の容易性といったその性質,不
特定多数の者への無限定の提供というその態様などから,大量の著作権侵害を発生
させる素地を有しており,現にそのような侵害的な利用が前述のように多発もして
いたのであって,法益侵害という観点からは社会的に見て看過し得ない危険性を持
つという評価も成り立ち得よう。侵害される法益は,侵害に対しては懲役刑(本件
当時長期3年以下の懲役)をもって保護される法益である。
 一方,被告人の開発・提供行為は,ネット社会においてその有用性について一定
の評価がなされているが,このような分野での技術の開発はまさに日進月歩であ
り,開発中のソフトについて,その技術開発分野での十分な検証を踏まえて客観的
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な評価を得ることも甚だ困難を伴う。
 このような本件Winnyの持つ法益侵害性と有用性とは,「法益比較」といっ
た相対比較にはなじまないともいえよう。本件Winnyの有用性については,幇
助犯の成立について,侵害的利用の高度の蓋然性を求めるところでも配慮がなされ
ているところであり,改めてこの点を考慮しての実質的違法性阻却を論ずるのは適
当ではないように思われる。
 (なお,先に政策的な配慮という点を挙げたが,前述したとおり,被告人の開
発,提供していたWinnyはインターネット上の情報の流通にとって技術的有用
性を持ち,被告人がその有用性の追求を開発,提供の主目的としていたことも認め
られ,このような情報流通の分野での技術的有用性の促進,発展にとって,その効
用の副作用ともいうべき他の法益侵害の危険性に対し直ちに刑罰をもって臨むこと
は,更なる技術の開発を過度に抑制し,技術の発展を阻害することになりかねず,
ひいては他の分野におけるテクノロジーの開発への萎縮効果も生みかねないのであ
って,このような観点,配慮からは,正犯の法益侵害行為の手段にすぎない技術の
提供行為に対し,幇助犯として刑罰を科すことは,慎重でありまた謙抑的であるべ
きと考えられる。多数意見の不可罰の結論の背景には,このような配慮もあると思
われる。本件において,権利者等からの被告人への警告,社会一般のファイル共有
ソフト提供者に対する表立った警鐘もない段階で,法執行機関が捜査に着手し,告
訴を得て強制捜査に臨み,著作権侵害をまん延させる目的での提供という前提での
起訴に当たったことは,いささかこの点への配慮に欠け,性急に過ぎたとの感を否
めない。その他,被告人には営利の目的もなく,また法執行機関からの指摘を受け
て,Winnyの公開のためのウェブサイトを直ちに閉じる措置を採るなど,有利
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な事情も認められる。
 一方で,一定の分野での技術の開発,提供が,その効用を追求する余り,効用の
副作用として他の法益の侵害が問題となれば,社会に広く無限定に技術を提供する
以上,この面への相応の配慮をしつつ開発を進めることも,社会的な責任を持つ開
発者の姿勢として望まれるところであろう。私は,前記の1ないし5から,被告人
に幇助犯としての犯罪の成立が認められ,上記のような被告人にとっての事情は,
幇助犯として刑の減軽もある量刑面で十分考慮されるべきものと考える。)
 7 以上により,私は,原判決の破棄は免れないものと考える。