憲法択一 人権 基本的人権の限界 特別の権力関係における人権 全逓 都教組 全司法 全農林


・公共企業体等労働関係法における争議権規制の合憲性が争われた判例は、憲法15条を根拠として、公務員に対して労働基本権をすべて否定するようなことは許されないとして、抽象的な「公共の福祉」論と、「全体の奉仕者」論を否定!!!!!

+28条
勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利は、これを保障する。

+27条
1項 すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負う。
2項 賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める。
3項 児童は、これを酷使してはならない。

+25条
1項 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2項 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

+判例(S41.10.26)全逓東京中郵事件
理由
被告人らの上告趣意および弁護人東城守一、同山本博の上告趣意について。
上告趣意は、憲法違反、判例違反等、論旨多岐にわたるが、要するに、公共企業体等労働関係法(以下公労法と略称する。)一七条一項は憲法二八条に違反する旨の主張と公労法一七条一項に違反する争議行為には労働組合法(以下労組法と略称する。)一条二項の規定の適用があると解すべきである旨の主張とを骨子とするものである。これらの点について、当裁判所は、つぎのとおり判断する。
一 憲法二八条は、いわゆる労働基本権、すなわち、勤労者の団結する権利および団体交渉その他の団体行動をする権利を保障している。この労働基本権の保障の狙いは、憲法二五条に定めるいわゆる生存権の保障を基本理念とし、勤労者に対して人間に値する生存を保障すべきものとする見地に立ち、一方で、憲法二七条の定めるところによつて、勤労の権利および勤労条件を保障するとともに、他方で、憲法二八条の定めるところによつて、経済上劣位に立つ勤労者に対して実質的な自由と平等とを確保するための手段として、その団結権、団体交渉権、争議権等を保障しようとするものである。
このように、憲法自体が労働基本権を保障している趣旨にそくして考えれば、実定法規によつて労働基本権の制限を定めている場合にも、労働基本権保障の根本精神にそくしてその制限の意味を考察すべきであり、ことに生存権の保障を基本理念とし、財産権の保障と並んで勤労者の労働権・団結権・団体交渉権・争議権の保障をしている法体制のもとでは、これら両者の間の調和と均衡が保たれるように、実定法規の適切妥当な法解釈をしなければならない
右に述べた労働基本権は、たんに私企業の労働者だけについて保障されるのではなく、公共企業体の職員はもとよりのこと、国家公務員やを方公務員も、憲法二八条にいう勤労者にほかならない以上、原則的には、その保障を受けるべきものと解される。「公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない」とする憲法一五条を根拠として、公務員に対して右の労働基本権をすべて否定するようなことは許されないただ、公務員またはこれに準ずる者については、後に述べるように、その担当する職務の内容に応じて、私企業における労働者と異なる制約を内包しているにとどまると解すべきである
労働基本権のうちで、団体行動の一つである争議をする権利についていえば、勤労者がする争議行為は、正当な限界をこえないかぎり、憲法の保障する権利の行使にほかならないから、正当な事由に基づくものとして、債務不履行による解雇、損害賠償等の問題を生ずる余地がなく、また、違法性を欠くものとして、不法行為責任を生ずることもない。労組法七条で、労働者が労働組合の正当な行為をしたことの故をもつて、使用者がこれを解雇し、その他これに対して不利益な取扱いをすることを禁止し、また、同八条で、同盟罷業そま他の争議行為であるつて正当なものによつて損害をうけたことの故をもつて、使用者が労働組合またはその組合員に対して、損害賠償を請求することができない旨を規定しているのは、右に述べた当然のことを明示的にしたものと解される。このような見地からすれば、同盟罷業その他の争議行為であつて労組法の目的を達成するためにした正当なものが刑事制裁の対象とならないことは、当然のことである。労組法一条二項で、刑法三五条の規定は、労働組合の団体交渉その他の行為であつて労組法一条一項に掲げる目的を達成するためにした正当なものについて適用があるとしているのは、この当然のことを注意的に規定したものと解すべきである。また、同条二項但書で、いかなる場合にも、暴力の行使は、労働組合の正当な行為と解釈されてはならないと規定しているが、これは争議行為の正当性の一つの限界を示し、この限界をこえる行為は、もはや刑事免責を受けないことを明らかにしたものというべきである。

二 右に述べたように、勤労者の団結権・団体交渉権・争議権等の労働基本権は、すべての勤労者に通じ、その生存権保障の理念に基づいて憲法二八条の保障するところであるが、これらの権利であつて、もとより、何らの制約も許されない絶対的なものではないのであつて、国民生活全体の利益の保障という見地からの制約を当然の内在的制約として内包しているものと解釈しなければならない。しかし、具休的にどのような制約が合憲とされるかについては、諸般の条件、ことに左の諸点を考慮に入れ、慎重に決定する必要がある。(1)労働基本権の制限は、労働基本権を尊重確保する必要と国民生活全体の利益を維持増進する必要とを比較衡量して、両者が適正な均衡を保つことを目途として決定すべきてあるが、労働基本権が勤労者の生存権に直結し、それを保障するための重要な手段である点を考慮すれば、その制限は、合理性の認められる必要最小限度のものにとどめなければならない。(2)労働基本権の制限は、勤労者の提供する職務または業務の性質が公共性の強いものであり、したがつてその職務または業務の停廃が国民生活全体の利益を害し、国民生活に重大な障害をもたらすおそれのあるものについて、これを避けるために必要やむを得ない場合について考慮されるべきである。(3)労働基本権の制限違反に伴う法律効果、すなわち、違反者に対して課せられる不利益については、必要な限度をこえないように、十分な配慮がなされなければならない。とくに、勤労者の争議行為等に対して刑事制裁を科することは、必要やむを得ない場合に限られるべきであり、同盟罷業、怠業のような単純な不作為を刑罰の対象とするについては、特別に慎重でなければならないけだし現行法上、契約上の債務の単なる不履行は、債務不履行の問題として、これに契約の解除、損害賠償責任等の民事的法律効果が伴うにとどまり、刑事上の問題としてこれに刑罰が科せられないのが原則である。このことは、人権尊重の近代的思想からも、刑事制裁は反社会性の強いもののみを対象とすべきであるとの刑事政策の理想からも、当然のことにほかならない。それは債務が雇傭契約ないし労働契約上のものである場合でも異なるところがなく、労務者がたんに労務を供給せず(罷業)もしくは不完全にしか供給しない(怠業)ことがあつても、それだけでは、一般的にいつて、刑事制裁をもつてこれに臨むべき筋合ではない。(4)職務または業務の性質上からして労働基本権を制限することがやむを得ない場合には、これに見合う代償措置が講ぜられなければならない。
以上に述べたところは、労働基本権の制限を目的とする法律を制定する際に留意されなければならないばかりでなく、すでに制定されている法律を解釈適用するに際しても、十分に考慮されなければならない。

三 そこで、労働基本権制限の具体的態様についてみるに、法律によつて定めるところがまちまちであり、かつ、幾度かの改廃を経て現在に至つている。すなわち、昭和二三年七月三一日政今第二〇一号が制定施行されるまでは、国家公務員や地方公務員も、一定の職員を除いて、一般の勤労者と同様に、団結雇・団体交渉権・争議権等について制限されることなく、争議行為も許されていた政令第二〇一号の制定施行によつて、公務員は、国家公務員たると地方公務員たるとを問わず、何人も同盟罷業、怠業はもちろん、国または地方公共団体の業務の運営・能率を阻害する一切の争議行為を禁止され、これに違反した者は、刑罰を科せられることになつた。しかし、昭和二三年一二月三日改正施行された国家公務員法では、一切の争議行為が禁止されたことは右の政令と同様であるが、たんに争議行為に参加したにすぎない者は処罰されることがなく、争議行為の遂行を共謀し、そそのかし、もしくはあおり、またはこれらの行為を企てた者だけが処罰されることになつた(昭和四〇年法律第六九号による改正前の国家公務員法九八条五項、一一〇条一項一七号、なお、地方公務員法三七条一項、六一条四号参照)。ところが、昭和二三年一二月二〇日に公布され、翌二四年六月一日から施行された公共企業体労働関係法では、国鉄・専売公社はいわゆる公共企業体と呼ばれ、その職員は、一切の争議行為を禁止されたけれども、その違反に対しては、刑事制裁に関する規定を欠き、同法に違反する行為をしたことそのことを理由として同法によつて刑事責任を問われることはなくなつた。昭和二七年七月三一日の同法の改正では、被告人ら郵政職員を含むいわゆる五現業の職員の争議行為等について、国家公務員法の規定の適用が排除され、新らしい公共企業体等労働関係法の関係規定が適用されることになつた。したがつて、郵政職員の争議行為は、公労法一七条一項によつて禁止されていることが明らかであるが、その違反に対しては、これを共謀、教唆、煽動、企図したものであるといなとを問わず、禁止の違反そのものを理由として同法によつて刑事責任を問われることはなくなつた
以上の関係法令の制定改廃の経過に徴すると、公労法適用の職員については、公共企業体の職員であると、いわゆる五現業の職員であるとを問わず、憲法の保障する労働基本権を尊重し、これに対する制限は必要やむを得ない最小限度にとどめるべきであるとの見地から、争議行為禁止違反に対する制裁をしだいに緩和し、刑事制裁は、正当性の限界をこえないかぎり、これを科さない趣旨であると解するのが相当である。

四 右のよらな経過をたどつてきた現行の公労法の規定について検討するに、その一七条一項は、いわゆる五現業および三公在の業務に従事する職員およびその組合は、公共企業体等に対して同盟罷業、怠業、その他業務の正常な運営を阻害する一切の行為をすることができないこと、また、右職員ならびに組合の組合員および役員は、このような禁止された行為を共謀し、そそのかし、もしくはあおつてはならないことを規定している。この規定は、職員等の行為がたんなる債務不履行またはそれをそそのかす等の行為であつても、それが業務の正常な運営を阻害するものであるかぎり、これを違法とするものであつて、その意味で憲法二八条の保障する争議権を制限するものであることは明らかである。
上告趣意は、公労法一七条一項の規定が憲法二八条および一八条に違反して無効であるという。しかし、右の規定が憲法の右の法条に違反するものでないことは、すでに当裁判所の判例とするところであり(前者については、昭和二六年(あ)第一六八八号同三〇年六月二二日大法廷判決、刑集九巻八号一一八九頁、後者については、昭和二四年(れ)第六八五号同二八年四月八日大法廷判決、刑集七巻四号七七五頁)、公労法一七条一項の規定が違憲でないとする結論そのものについては、今日でも変更の必要を認めない。その理由をすこし詳しく述べると、つぎのとおりである。
憲法二八条の保障する労働基本権は、さきに述べたように、何らの制約も許されない絶対的なものではなく、国民生活全体の利益の保障という見地からの制約を当然に内包しているものと解すべきである。いわゆる五現業および三公社の職員の行なう業務は、多かれ少なかれ、また、直接と間接との相違はあつても、等しく国民生活全体の利益と密接な関連を有するものであり、その業務の停廃が国民生活全体の利益を害し、国民生活に重大な障害をもたらすおそれがあることは疑いをいれない。他の業務はさておき、本件の郵便業務についていえば、その業務が独占的なものであり、かつ、国民生活全体との関連性がきわめて強いから、業務の停廃は国民生活に重大な障害をもたらすおそれがあるなど、社会公共に及ぼす影響がきわめて大きいことは多言を要しないそれ故に、その業務に従事する郵政職員に対してその争議行為を禁止する規定を設け、その禁止に違反した者に対して不利益を課することにしても、その不利益が前に述べた基準に照らして必要な限度をこえない合理的なものであるかぎり、これを違憲懸無効ということはてきない
この観点から公労法一七条一項の定める争議行為の禁止の違反に対する制裁をみるに、公労法一八条は、同一七条に違反する行為をした職員は解雇されると規定し、同三条は、公共企業体等の職員に関する労働関係について、労組法の多くの規定を適用することとしながら、労働組合または組合員の損害賠償責任に関する労組法八条の規定をとくに除外するとしている。争議行為禁止違反が違法であるというのは、これらの民事責任を免れないとの意味においてである。そうして、このような意味で争議行為を禁止することについてさえも、その代償として、右の職員については、公共企業体等との紛争に関して、公共企業体等労働委員会によるあつせん、調停および仲裁の制度を設け、ことに、公益委員をもつて構成される仲裁委員会のした仲裁裁定は、労働協約と同一の効力を有し、当事者双方を拘束するとしている。そうしてみれば、公労法一七条一項に違反した者に対して、右のような民事責任を伴う争議行為の禁止をすることは、憲法二八条、一八条に違反するものでないこと疑いをいれない

五 つぎに、公労法一七条一項に違反して争議行為をした者に対する刑事制裁について見るに、さきに法制の沿革について述べたとおり、争議行為禁止の違反に対する制裁はしだいに緩和される方向をとり、現行の公労法は特別の罰則を設けていない。このことは、公労法そのものとしては、争議行為禁止の違反について、刑事制裁はこれを科さない趣旨であると解するのが相当である。公労法三条で、刑事免責に関する労組法一条二項の適用を排除することなく、これを争議行為にも適用することとしているのは、この趣旨を裏づけるものということができる。そのことは、憲法二八条の保障する労働基本権尊重の根本精神にのつとり、争議行為の禁止違反に対する効果または制裁は必要最小限度にとどめるべきであるとの見地から、違法な争議行為に関しては、民事責任を負わせるだけで足り、刑事制裁をもつて臨むべきではないとの基本的態度を示したものと解することができる
この点で参考になるのは、国家公務員法および地方公務員法の適用を受ける非現業の公務員の争議行為に対する刑事制裁との比較である。この制裁としては、争議行為を共謀し、そそのかし、もしくはあおり、またはこれらの行為を企てた者だけを罰することとしている(昭和四〇年法律第六九号による改正前の国家公務員法九八条五項、一一〇条一項一七号、地方公務員法三七条一項、六一条四号)。その趣旨は、一方で、これらの公務員の争議行為は公共の福祉の要請によつて禁止されるけれども、他方で、これらの公務員も勤労者であり、憲法によつて労働基本権を保障されているから、この要請と保障を適当に調整するために、単純に争議行為を行なつた者に対しては、民事制裁を課するにとどめ、積極的に争議行為を指導した者にかぎつて、さらに刑事制裁を科することにしたものと認められる。右の公務員と公労法の適用を受ける公共企業体等の現業職員とを比較すれば、右の公務員の職務の方か公共性の強いことは疑いをいれない。その公務員の争議行為に対してさえも、刑事法上の制裁は積極的に争議行為を指導した者だけに科せられ、単純に争議行為を行なつた者には科せられない。そうしてみれば、公共企業体等の現業職員の争議行為には、それより軽い制裁を科するか、制裁を科さないのが当然である。ところで、公労法は刑事制裁に関して、なにも規定していないから、これを科さない趣旨であると解するのが相当である。
このように見てくると、公労法三条が労組法一条二項の適用があるものとしているのは、争議行為が労組法一条一項の目的を達成するためのものであり、かつ、たんなる罷業または怠業等の不作為が存在するにとどまり、暴力の行使その他の不当性を伴わない場合には、刑事制裁の対象とはならないと解するのが相当である。それと同時に、争議行為が刑事制裁の対象とならないのは、右の限度においてであつて、もし争議行為が労組法一条一項の目的のためでなくして政治的目的のために行なわれたような場合であるとか、暴力を伴う場合てあるとか、社会の通念に照らして不当に長期に及ぶときのように国民生活に重大な障害をもたらす場合には、憲法二八条に保障された争議行為としての正当性の限界をこえるもので、刑事制裁を免れないといわなければならない。これと異なり、公共企業体等の職員のする争議行為について労組法一条二項の適用を否定し、争議行為について正当性の限界のいかんを論ずる余地がないとした当裁判所の判例(昭和三七年(あ)第一八〇三号同三八年三月一五日第二小法廷判決、刑集一七巻二号二三頁)は、これを変更すべきものと認める。

六 ところで、郵便法の関係について見るに、その七九条一項は、郵便の業務に従事する者がことさらに郵便の取扱をせずまたはこれを遅延させたときは、一年以下の懲役または二万円以下の罰金に処すると規定している。このことは、債務不履行不可罰の原則に対する例外を規定したものとして注目に値することであるが、郵便業務の強い公共性にかんがみれば、右の程度の罰則をもつて臨むことには、合理的な理由があるもので、必要の限度をこえたものということはできない(郵便物運送委託法二一条参照)。この罰則は、もつぱら争議行為を対象としたものでないことは明白であるが、その反面で、郵政職員が争議行為として右のような行為をした場合にその適用を排除すべき理由も見出しがたいので、争議行為にも適用があるものと解するほかはない。ただ、争議行為が労組法一条一項の目的のためてあり、暴力の行使その他の不当性を伴わないときは、前に述べたように、正当な争議行為として刑事制裁を科せられないものであり、労組法一条二項が明らかにしているとおり、郵便法の罰則は適用されないこととなる。これを逆にいえば、争議行為が労組法一条一項の目的に副わず、または暴力の行使その他の不当性を伴う場合には、右の罰則が適用される。また、その違法な争議を教唆した者は、刑法の定めるところにより、共犯の責を免れない。

七 具体的に本件についてみるに、第一審判決は、公訴事実に基づいて、Aら三八名の行為を郵便法七九条一項前段違反の構成要件に該当すると認定した。原判決は、前述の第二小法廷の判決に従つて、公共企業体等の職員は、公労法一七条一項によつて争議行為を禁止され、争議権自体を否定されているのであるから、もし右のような事実関係があるとすれば、その争議行為について正当性の限界いかんを論ずる余地はなく、労組法一条二項の適用はないとしている。
しかし、本件被告人らは、本件の行為を争議行為としてしたものであることは、第一審判決の認定しているとおりであるから、Aらの行為については、さきに述べた憲法二八条および公労法一七条一項の合理的解釈に従い、労組法一条二項を適用して、はたして同条項にいう正当なものであるかいなかを具体的事実関係に照らして認定判断し、郵便法七九条一項の罪責の有無を判断しなければならないところである。したがつて、原判決の右判断は、法令の解釈適用を誤つたもので、その違法は判決に影響を及ぼすこと明らかであり、これを破棄しなければいちじるしく正義に反するものといわなければならない。
以上の判断に照らせば、公労法一七条一項および原判決が憲法一一条、一四条、一八条、二五条、二八条、三一条、九八条に違反する旨の各論旨は理由なきに帰する。よつて、その余の論旨に対する判断を省略し、原判決を破棄し、さらに審理を尽させるために、本件を東京高等裁判所に差し戻すものとし、刑訴法四一一条一号、四一三条本文により、主文のとおり判決する。
この判決は、裁判官松田二郎、同岩田誠の補足意見、裁判官奥野健一、同五鬼上堅磐、同草鹿浅之介、同石田和外の反対意見があるほか、裁判官全員一致の意見によるものである。

+補足意見
裁判官松田二郎の補足意見は次のとおりである。
当裁判所昭和三七年(あ)第一八〇三号同三八年三月一五日第二小法廷判決によれば、公労法一七条一項が争議行為を禁止し争議権自体を否定している以上、これに違反してなされた争議行為については正当性の限界いかんを論ずる余地はなく、したがつて労組法一条二項の適用はないというのである。これに対し本判決は、この判例を変更するものであるが、私は多数意見を補足して若干意見を述べたい。
(一)前記第二小法廷判決の見解は、ある行為かいずれかの法令により違法とされる以上、刑法上も当然違法であり、従つてそのような行為につき刑法上違法性の阻却されることはありえない、という考えを前提とするものである。なるほど、行為が違法であるか否かは、法秩序全体の観点からする判断であるから、ある行為が一つの法規によつて禁ぜられ違法とされた場合には、それは他の法域においても一応違法なものと考えられよう。しかし、同じ法域、たとえば、同じ民事法の範囲内においてすら、法規違反の行為とされるものの中にも、その効力が否定されて無効となるものとしからざるものとがあり、また行為を無効ならしめる場合の違法性と不法行為の要件としての行為の違法性とは、その反社会性の程度において必ずしも同一ではありえない。いわんや、法域を異にする場合、それぞれの法域において問題となる違法性の程度は当該法規の趣旨・目的に照らして決定されるところてあり、従つて刑法において違法とされるか否かは、他の法域における違法性とは無関係ではないが、しかし別個独立に考察されるべき問題なのである。この理は、刑法と労働法との間においても全く同様であり、労働法規が争議行為を禁止してこれを違法として解雇などの不利益な効果を与えているからといつて、そのことから直ちにその争議行為が刑罰法規における違法性、すなわちいわゆる可罰的違法性までをも帯びているということはできない。ことに、刑罰がこれを科せられる者に対し強烈な苦痛すら伴う最も不利益な法的効果をもたらす性質上、刑罰法規の要求する違法性は他の法域におけるそれよりも一般に高度の反社会性を帯びたものであるべきである。しかしてこの見地に立つて前記第二小法廷の判決を見るとき、それは、行為の違法性を一義的に解して法域によるその反社会性の段階または程度の差を認めず、公労法上違法とされた争議行為は、当然に刑法上においても違法だとした前提において、既に誤つているものというべきである。
(二)本件の問題たる公共企業体等の職員の争議行為についていえば、それは昭和二三年政令第二〇一号の施行以来現行の公労法に至るまで禁止されているが、多数意見の説示するように、これに対する刑事制裁はしだいに緩和される方向に向い、現在においては単に争議行為をし、あるいはこれを共謀し、そそのかし、もしくはあおつたことだけのゆえをもつては、これに対し刑罰を科することなく、解雇を認めるにとどまつているのである。しかして、多数意見がその一および二において憲法の定める労働基本権の尊重を説示し、これに対する制約に限度あることを強調することに思をいたし、更に公労法三条が争議行為を含む労働組合の団体交渉その他の行為のいわゆる刑事免責に関する労組法一条二項の適用をあえて排除していないこと(その明文上争議行為の場合を除外していないことは明白である。)に照らせば、公共企業体等の職員の行なう争議行為は、公労法上違法ではあるとしても、争議行為として正当な範囲内にとどまるものと認められるかぎり、右の違法性は刑罰法規一般の予定する違法性、すなわち可罰的違法性の程度には達していないものと解すべきである。従つて、その行為が刑罰法規の構成要件に該当する場合においても、それが争議行為の正当な範囲内にとどまるかぎり、刑罰を科するに足る高度の反社会性を欠くものとしてその違法性は阻却されるものというべきてある。このように解するときは、本件被告人らの行為が郵便法七九条一項に該当するとしても、労組法一条二項により改めてその正当性の有無を検討しなければならないことになるのである。

+補足意見
裁判官岩田誠の補足意見は次のとおりである。
私は、行為の違法性論の見地からする松田裁判官の意見にすべて同調するものであるが、なお、やや異なつた視点から、公共企業体等の職員の争議行為に労組法一条二項の適用を認むべき理由につき、一言意見を述べておきたい。
公労法は、その一七条一項によつて公共企業体等の職員の争議行為を禁止しながら、その禁止違反に対する罰則を置いていない。しかし、一方において郵便法七九条一項は「郵便の業務に従事する者がことさらに郵便の取扱をせず、又はこれを遅延させたときは、これを一年以下の懲役又は二万円以下の罰金に処する。」と規定している。この郵便法の規定は、争議行為として行われた行為だけを予定したものではないが、郵政職員が争議行為として同盟罷業または怠業をした場合も一応この構成要件に該当することになるから、もしその行為に労組法一条二項による違法性阻却の余地が全くないのならば、少なくとも郵政職賃に関するかぎりは、実質において争議行為そのものを処罰する規定があるのと異ならないことになる(なお、日本電信電話公社の職員については、公衆電気通信法一一〇条一項参照)。しかし、このような結論を認めることがはたして法の趣旨に合致した合理的な解釈だといえるであろうか。以下、私は、この結論が現行法秩序の精神に反するものであることを明らかにして、公労法違反の争議行為に労組法一条二項を適用する余地なしとする見解の誤りであることを指摘してみたいと思う。(イ)第一に、公労法は公共企業体等の職員の労働関係についての基本法ともいうべきものであつて、その争議行為の禁止も同法中に規定されているのであるから、もしその禁止に反する争議行為そのものを処罰しようとするのであれば、本来同法中にその罰則が設けられてしかるべきである。かりに公労法以外の法令に設けるとしても、少なくとも争議行為を予定した労働関係の規定として設けられるべきものである(例えば、自衛隊法六四条、一一九条一項三号、二項、一二〇条一項一号、二項、一二二条一項一号、二項)。また、そればかりでなく、もし郵便法の前記罰条によつて争議行為が処罰されるのならば、なぜ郵政職員を他の公共企業体等の職員なかんずく日本国有鉄道の職員と区別してその争議行為に刑事制裁を科するのか、その合理的な理由を十分説明することができないであろう(国鉄職員については、郵便法七九条一項に相当する規定は存在しない。また、鉄道営業法二五条の罰則も、国鉄職員が単なる同盟罷業または怠業をした場合に当然に適用があるものでないことは、その構成要件上明らかであり、争議行為としてなされた行為が同条に該当する場合には、むしろそれは労組法一条二項にいう正当な争議行為とはいえないであろう。)。(ロ)次に立法の沿革からみると、そもそも郵便法の前記罰条は、旧郵便法五三条の規定を継承して昭和二二年一二月一二日法律第一六五号によつて設けられ昭和二三年一月一日から施行されたものであるが、この当時は郵政職員を含む一般の国家公務員の争議行為は禁止されておらず、したがつて争議行為としてした行為が同条項に該当した場合、当時の労組法(昭和二四年法律第一七四号による改正前の昭和二〇年法律第五一号)一条二項(現行法一条二項と同旨)の適用があるのは当然のことと解されていた。その後昭和二三年七月三一日政令第二〇一号によつて公務員の争議行為が禁止され、かつその違反に対して刑罰が科せられることとなつたけれども、同令の適用のある間に郵政職員が争議行為として同盟罷業または怠業の挙に出た場合、はたして同令の罰則のほかに郵便法七九条一項の適用をも受けたであろうか。当裁判所昭和二四年(れ)第一九一八号同三〇年一〇月二六日大法廷判決(刑集九巻一一号二三一三頁)の趣旨からすると、これを消極に解せざるをえない。けだし、この判例は、争議行為禁止の違反そのものに対しては右政令の罰則だけを適用し処断すべきものであつて、重ねて他の罰条を適用すべきでないという趣旨のものと解されるからである。そして、その後における国家公務員法の改正による前記政令の適用除外、公労法の制定、郵政職員を含むいわゆる五現業の職員への同法の適用範囲の拡大という争議権の制限緩和の一連の立法経過に照らすときは、本来郵政職員の争議行為を処罰する趣旨のものでなかつた郵便法の前記規定が中途のいずれかの時期にその性格を変じて争議行為を処罰する規定となつたとみるべき根拠はいずこにも見いだすことができないのである。
これを要するに、郵政職員が公労法一七条一項に違反し争議行為として同盟罷業または怠業をした場合に当然郵便法七九条一項を適用してこれに刑事制裁を加えうるとすることは、明らかに現行法秩序の精神に反する解釈だといわなければならない。そして、この誤つた結論は、公共企業体等の職員の争議行為に労組法一条二項の適用の余地なしとの判断を前提としてはじめて理論的に成立するものである。この点から考えても、右の前提たる判断の不当であることは明白だというべきであろう。

+反対意見
裁判官奥野健一、同草鹿浅之介、同石田和外の反対意見は次のとおりである。
公共企業体等労働関係法(以下公労法と略称する。)一七条一項は憲法二八条に違反する旨及び公労法一七条一項に違反する争議行為には労働組合法(以下労組法と略称する。)一条二項の適用がある旨主張する上告論旨について。
憲法二八条の保障する労働基本権といえども、絶対無制限なものではなく、公共の福祉のため、特に、必要があるときは、合理的制限をすることができるものであり、このことは既に当裁判所の判例とするところである(昭和二四年(れ)第六八五号同二八年四月八日大法廷判決、刑集七巻四号七七五頁)。
公労法一条は、「この法律は……公共企業体及び国の経営する企業の正常な運営を最大限に確保し、もつて公共の福祉を増進し、擁護することを目的とする。」旨規定し、その目的を達成するため、同法一七条において、かかる企業に従事する公共企業体等の職員及びその組合は、同盟罷業、怠業、その他業務の正常な運営を阻害する一切の行為をすることができない旨を規定して、これら職員につき、業務の正常な運営を阻害する一切の争議行為を禁止しているのである。これは公共企業体等の事業が国民経済に重要な関係を有する公共性の強いものであり、その企業の正常な運営はいささかも阻害されることが許されないものであり、従つてその職員の職務は、広く国民全体の利益と緊密な関係を有し、一般私企業における勤労者の職務とその性質を著しく異にすることにかんがみ、その職員を全体の奉仕者である国家公務員、またはこれに準ずる者として、公共の福祉の要請に基づいて、右の如くその争議行為を禁止したものであり、他面その代償保障として、公共企業体等とその職員との紛争につき、あつせん、調停及び仲裁を行うため、公平な公共企業体等労働委員会を設け、殊に同会のなした仲裁裁定は、労働協約と同一の効力を有し、当事者双方とも、最終的決定として、これに拘束される(同法三五条)ものとしているのである。
すなわち、公共企業体等の企業の公益性にかんがみ、公共の福祉のため、その業務に従事する職員につき一切の争議行為を禁止するが、他面その代償措置として、あつせん、調停及び仲裁の制度を設けて、その職員の利益を保障しているのであつて、かくの如き労働権の規制は公共の福祉のためにする合理的な制限として是認することができ、憲法二八条に違反するものではない。そして公労法一七条の違憲でないことは、夙に当裁判所の判例(昭和二六年(あ)第一六八八号同三〇年六月二二日大法廷判決、刑集九巻八号一一八九頁)とするところでもある。今これを変更する必要を認めない。
右の如く、公共企業体等の職員は、業務の正常な運営を阻害する一切の争議行為を、法律により、禁止されているのであつて、これに違反してなす争議はすべて違法なものであり、従つて正当な争議行為とはいい得ないことは極めて明白である。換言すれば、争議行為の内容が、単に職場放棄の如き消極的な不作為であつても、前記一七条の同盟罷業または怠業等に該当する限り、その争議行為は違法であり、従つて正当性を有しないものといわざるを得ないのである。
苛もある法律によつて一切の争議行為が禁止せられ、違法なものとされている以上、他の法域において、それが適法であるということは許されない。けだし行為の違法性はすべての法域を通じて一義的に決せらるべきものであり、公労法上違法とされた行為が刑事法上違法性を欠くというがごときは理論上あり得ないからである。そして、その禁止に違反する行為につき何ら制裁規定を設けていない場合であると、自衛隊法六四条二項、一一九条一項三号の如く、刑事上の制裁を科している場合であると、将又公労法一七条、一八条の如く民事上の解雇の制裁のみを定めている場合であるとを問わず、すべての法域において、等しく違法、不当であることには変りはない。従つて、公労法一七条違反の場合につき、同法が刑事上の制裁を科せず、民事上の解雇の制裁のみを規定しているからといつて、右一七条は、その禁止に違反して争議をしても、単に解雇の制裁を科し得るだけで、刑事法上は適法、正当なものとして、これを許容しているものとは到底解し得られないのである。すなわち、公共企業体等の職員に対して一切の争議行為を禁止している所以は、前述の如く、公共企業体等の業務の正常な運営を阻害することは、国民経済に重大な影響を与えることにかんがみ、公共の福祉の要請上、その争議を全面的に禁止しているのであつて、単に労使間における労務不提供という債務不履行を禁止しているのではなく、従つて、刑法その他一般の法律秩序の上において、かかる争議を違法と評価しているものというべきである。
かように、公共企業体等の職員は、その争議行為が禁止され、争議権自体法律上否定されている以上、これに違反してなす争議行為につき、労組法一条二項の刑事上の免責規定の適用の余地はないものと解する。けだし、労組法一条二項の刑事上の免責規定は、争議行為についてみると、本来適法に争議権を認められている労働組合の争議行為において、その行為が労組法一条一項の目的を達成するためにした正当なものである場合に限つて、たとえ、その行為が犯罪構成要件に該当していても、その違法性が阻却さるべきことを規定したものであつて、当初より争議権を有しない者の違法、不当な争議行為については、その適用の余地はないものというべく、また当初より正当性のない争議行為につき、その正当性の限界如何を論ずる余地もないからである。すなわち、労組法一条二項の「……団体交渉その他の行為」という「その他の行為」のうちには、公共企業体等の職員については、そもそも争議権がないのであるから、争議行為は除外されているものと解すべきであることは、公労法一七条と対比して明白であるからである(若し公共企業体等の職員の争議にも、労組法一条二項の適用があるとすれば、結局一般私企業に従事する労働者の争議と大差のない刑事法的保護を受けることになり、公労法が、同法一七条により争議を一切禁止した代償保障として公共企業体等の職員のためにあつせん、調停及び仲裁の制度を、特に設けた立法趣旨に反することになる。)。
もつとも、公労法三条は、労組法一条二項の適用を除外する旨の明文を設けていないけれども、公共企業体等の職員は、争議権は否定されているものの、なお団結権及び団体交渉権は有するのであつて、例えば団体交渉に当たり右労組法一条二項の適用を受ける余地は十分あるのであるから、同条項の全面的適用除外は許されないのである。そのうち争議行為の場合を除外する趣旨の規定を特に置かなかつたのは、元来争議権を有しない者の争議行為について同条項の適用の余地のないことは理論上自明の理であるため、あえてその点まで規定するほどの必要を認めなかつたからに外ならない。これに対し、公労法三条が労組法八条の適用除外を明定したのは、同条が争議行為のみに関する規定であり、公共企業体等の職員の争議行為については正当なものという観念があり得ないのであるから、その適用の余地が全くないためである。それ故、公労法三条が特に労組法八条の適用を除外しながら、同法一条二項の適用を除外しなかつたことを理由として、公共企業体等の職員の争議につき右一条二項の適用があるものと解することは失当だといわなければならない。
また論旨は、争議行為については憲法二八条自体から当然に刑事上の免責が生ずるのであつて、労組法一条二項はこれを受けて訓示的に刑事免責を法定したものであり、他方公労法は最高規範たる憲法の下位規範で、これに優先することはできないから、公労法一七条のあることを理由として労組法一条二項の適用を排斥することはできない、とも主張する。しかし、例えば、警察職員、消防職員の如き極度に公共性の強い業務に従事する者につき争議の正当性を認める余地のないことは疑を容れないところてあり、憲法二八条と雖も右の如き職員の争議権まで保障しているものとは考えられない。そして業務の公共性を如何に評価し、これに従事する者の争議をどの程度制限するかは立法政策の問題であつて、その立法が不合理でない限り、違憲ということはできない。すなわち、憲法二八条が当然にすべての争議について刑事免責を保障しているとはいえないのであるから、このことを前提として公労法一七条違反の争議行為に労組法一条二項の適用があるとする所論は採るを得ない。
なお公労法一七条制定の結果、公共企業体等の職員の争議行為につき、労組法一条二項の適用の余地がなくなつたことについては、公労法制定当時における国会の審議において、屡々政府委員より、その旨の説明(昭和二三年一二月八日第四回国会参議院労働委員会議録第三号、昭和二三年一一月二九日第三回国会衆議院労働委員会議録一二号)があり、そのうえ、可決されたのであるから、立法当局の意思も、同様であつたものと推測されるのである。かかる立法者の意思も十分尊重されるべきである。
従つて、公労法一七条が憲法二八条に違反し、右一七条違反の争議に対し労組法一条二項の適用がある旨を主張し、原判決は憲法二八条に違反するとの論旨は採るを得ない。
最後に多数意見について一言する。
多数意見は要するに、(一)公共企業体等の職員はもとより、国家公務員や地方公務員も憲法二八条にいう勤労者に外ならない以上、原則的には争議権が保障されており、その争議行為が正当な範囲をこえない限り、刑事制裁の対象とならないのであり、労組法一条二項はこの当然のことを注意的に規定したものである。(二)公労法一七条は公共企業体等の職員の争議行為を禁止しているが、その違反行為について刑罰規定を設けることなく、同法一八条がこれに対して解雇の制裁のみを規定し、かつ、同法三条は損害賠償責任に関する労組法八条を除外しているに過ぎないのであるから、争議行為禁止違反が違法であるというのは、民事責任を免れないとの意味においてである。(三)公労法は、労組法一条二項の規定の適用を排除していないのであるから、当然その適用があるものというべく、公共企業体等の職員の争議行為が正当な範囲をこえない限り、同条により刑事免責される、というのである。
しかし、
(一)憲法二八条は勤労者に給与その他の勤労条件の改善、向上を得せしめる手段として、いわゆる労働基本権を保障しているのであるが、争議行為により、国民大衆の利益を著しく害し、国民経済に重大な障害を与えるような場合には、彼我の法益の均衡を考慮し、公共の福祉の要請に基づき、これが争議権を制限、禁止することも、やむを得ないのてあつて、憲法一三条の趣旨に徴しても肯認できるところであり、これをもつて違憲ということはできない(他面、適当な代償措置を講ずべきてある。)。公労法一七条は、正にかくの如き公共の福祉の要請に基づき設けられた争議行為禁止の規定である(他面、代償措置として公共企業体等労働委員会を設けて、職員のために、あつせん、調停、仲裁を行わしめることとしている。)。従つて、公共企業体等の職員は一切の争議行為が禁止され、争議権は法律上否定されているものというべきであるから、争議権あることを前提とする議論はすべて前提を欠く。
(二)右の如く、公共企業体等の職員は、公労法一七条により一切の争議行為が禁止されているのであつて、その違反行為について同法が直接刑罰を科していないことや、また、その違反行為について解雇の制裁のみを規定していることは、右争議行為禁止の絶対的効力に何ら消長を来たすものではない。それ故、右争議行為禁止の法規違反は、単なる民事法的違法に過ぎないというのは正当ではない。
(三)右の如く、法律上争議権を否定された公共企業体等の職員は、当然「正当な争議行為」をすることができないのであるから、争議行為として「正当なもの」について、刑事免責を規定した労組法一条二項の規定は、公共企業体等の職員の争議行為に適用の余地のないことは明白である。
裁判官草鹿浅之介は、右の反対意見に次の意見を附加する。
労組法一条二項本文が「刑法第三十五条の規定は、労働組合の団体交渉その他の行為であつて前項に掲げる目的を達成するためにした正当なものについて適用があるものとする。」と規定しているのは、いわば当然の事理を注意的に規定したものであつて、憲法二八条に基礎を有するこれらの行為がもし正当な範囲内のものであれば、本来は労組法の右の規定をまつまでもなく刑法三五条によつて犯罪としての違法性が阻却されるのである。その意味て、争議行為の犯罪としての違法性(もとより、それはその行為がなんらかの刑罰法令に触れる場合であること、すなわちその行為を罰する刑罰法令が存在することを前提とする。本件でいえば、郵便法七九条一項がこれに当たる。)が阻却されるかどうかは、ひつきようその行為が刑法三五条の正当行為に該当するかどうかによつて決せられるといわなければならない。
ところて、刑法三五条の正当行為といえるかどうかは、刑法だけでなく、すべての法体系を総合した法秩序全体の見地から決せらるべきものであることは当然である。ここで問題となつている争議行為についていえば、それが正当行為であるためには、労働法関係においても正当行為すなわち違法でない行為でなければならない。しかるに、本件におけるがごとき公共企業体等の職員の争議行為は公労法一七条一項の禁止するところであり、多数意見もまたこの規定の合憲性を認めた上で本件争議行為が違法であることを明らかに認めている。いいかえれば、労働法関係においてそれが正当行為でないことは、多数意見の承認するところだといわざるをえない。しかし、労働法関係において違法行為であることを肯定しながら、刑事法関係においてそれが正当行為になる余地があるとするのは、いかなる理由によるものであるのか。公労法一七条一項の合憲性を否定するか、あるいはなんらかの合理的な理由によつて本件の争議行為が労働法上も適法な行為だとするのてあれば格別、同一の行為が労働法上は違法であるが刑事法上は正当行為ないし適法行為になるというごとくその評価を異にすることは、少なくとも刑法三五条の正当行為の解釈としては到底首肯しえないところである。それにもかかわらず本件行為が刑法三五条の適用上正当行為と見られる余地があるとする多数意見は全く理解し難い(もつとも、本件の所為がなんらかの理由で可罰価値を欠くというのならば、それは別論である。)。
ことに、本件では、次の点に注意すべきである。そもそも公労法一七条一項が公共企業体等の職員の争議行為を禁止している理由がその業務の高度の公共性にあることは明らかで、他方郵便法七九条一項の罰則もまた郵便事業の高度の公共性に由来するものであることは、同一条が公共の福祉の増進を同法の目的として掲げていることに徴しても疑いがない。すなわち、公労法一七条一項が争議行為を禁止した趣旨と郵便法七九条一項所定の行為を違法とした理由とは全く同一なのてあつて、この点から考えても、公労法が禁止し違法とした行為が郵便法七九条一項の適用上違法性を阻却するというがごときことはありえないといわざるをえないのである。
多数意見は、公労法が争議行為禁止違反に対し罰則を設けていないことをもつてその争議行為の違法性阻却を認める論拠の一つとしているように見える。しかし、公労法が争議行為そのものを処罰する規定を有していないということと、その行為か他の刑罰法令に触れた場合にこれを処罰するかどうかということとは全く別の問題であつて、公労法における罰則の欠如が他の刑罰法令における違法性阻却の論拠に直ちになりうるものとは考えられない。のみならず本件の場合についていえば、郵便法七九条一項が争議行為としてした行為をその構成要件上あえて除外していないことは明白であるし、前述したようにこの罰則が公共の利益を保護するためのものであり、かつ他方同じ目的のために郵政職員の争議行為が公労法によつて禁止されていることをあわせ考えれば、郵政職員が争議行為としてした行為についても郵便法の右の罰則の適用があると解すべきは当然である。いいかえるならば、少なくとも郵政職員の同盟罷業または怠業に関する限り、その争議行為に対する罰則は存在するといわなければならない。もつとも、その罰則は公労法以外の他の法規中に存するものではあるが、すでに説明したところから明らかなように、その処罰の趣旨は国家公務員法が争議行為について罰則(同一一〇条一項一七号)を設けた理由と同一であつて、この種の罰則が公労法中に規定されたのと実質においてなんら区別すべき合理的な理由はないのである。もしそれ当該罰則の実質に目を覆い、それが労働法規中に規定されているか他の法規中に規定されているかという形式の差のみによつて解釈を異にするというのであれば、その理由のないことはほとんど言を待たないてあろう。
以上の次第で、わたくしは多数意見には到底賛成することがてきない。

+反対意見
裁判官五鬼上堅磐の反対意見は次のとおりである。
公共企業体等労働関係法(以下公労法と略称する。)一七条一項は、職員およびその組合は同盟罷業、怠業、その他業務の正常な運営を阻害する一切の行為をすることができない旨を規定して、凡ての争議行為を禁止しているのであるから、これに違反してなされる争議行為は違法なものであつて、たとえ消極的に職場放棄をなすようないわゆる不作為の行為であつても、その正当性は認められない。そうして、正当性のない違法な争議行為に労働組合法(以下労組法と略称する。)一条二項の適用ありとすることはできないものといわねばならない。昭和三八年三月一五日当裁判所第二小法廷判決の、争議行為について正当性の限界いかんを論ずる余地がないという判断は、今日においても何等変更の必要がない。この点について多数意見は、公共企業体の職員およびその組合が前記公労法一七条一項に違反し争議行為をしたからといつて、その一事をもつて労組法一条二項をこれに適用する余地なしとすることはできないのであつて、労組法および公労法の目的に照らし、公労法一七条一項違反の争議行為についても労組法一条二項の適用の余地ありとする見解をとるのであるが、この意見に私は賛成することはできない。
すなわち、公労法一七条は、同法所定の国営ないしこれに準ずる公有企業に属する職員については、団体行動としての争議行為を一般に違法として禁止し、反社会的行為として評価しているのである。これら違法行為に対して刑事的制裁を科することもありうるのであり、したがつて、郵便法七九条の適用に関して労働争議による場合とそうでない場合を区別して解釈を異にすることはできない。
また、公労法自体に罰則規定が設けられていないことを理由にして、労組法一条二項の刑事免責の規定の適用があると解することはできない。このことは公労法の制定されるに至つた歴史的事実ならびにその立法の趣旨から見ても上記のように解しうることである。すなわち、昭和二三年政令第二〇一号が制定され、一切の公務員について争議行為が禁止され、かつこれに刑罰を科したのであるが、その後国家公務員法の一部が改正されて国家公務員の争議行為の禁止は同法によることとなり、さらに昭和二四年六月一日施行の公共企業体労働関係法によつて、一般公務員のなかから、国鉄職員と専売職員とを抽出して、これを公共企業体の職員とし、さらに昭和二七年八月一日施行の公労法の改正を経て、順次五現業、三公社の職員が公労法の適用を受けることとなつたのである。すなわち、政令第二〇一号の廃止とともに、国鉄等の職員がその他の国家公務員と区別されて、公労法の適用を受けることとなつたのではなく、一旦すべての現業、非現業の国家公務員は、現行のような国家公務員法の規制を受けた後、順次、公労法の規制を受けることとされたものである。このような立法の変遷を支えた立法政策が、国営五現業および三公社の職員の争議行為を、刑事罰から解放することにあつたものでないことは、政令第二〇一号の罰則に関する経過規定をみても明らかである。昭和二三年法律第二二二号によつて国家公務員法が改正された際、その附則八条一項において、政令第二〇一号は「国家公務員に関して、その効力を失う。」とされつつも、同条二項においては、この「政令がその効力を失う前になした同令第二条第一項の規定に違反する行為に関する罰則の適用については、なお従前の例による。」と規定し、同令の適用が排除された後も、排除前に違反した行為の可罰性はなお失わせないとしているのである。この国家公務員法の改正にひき続いて制定された公労法およびその関係法令には、右のような経過規定は存在しないが、これは前記国家公務員法第一次改正附則八条二項によつて政令第二〇一号が一旦限時法としての効力を認められた以上、あらためて同旨の規定をおく必要を認めなかつたからにすぎないのであつて、もし、公労法がその職員の争議行為を刑事罰から解放する趣旨で制定されたものとすれば、制定前の行為について経過規定を設けることは首尾一貫しないこととなる。したがつて、前記のような経過規定をあえて設けたことは、一切の刑事罰から解放するとの立法意思ではない。この経過から見ても、公労法一七条違反の行為について、労組法一条二項の適用があるという見解は、誤りであるといわなければならない。なお、昭和二三年一二月八日第四回国会参議院労働委員会議事録によれば、提案者たる政府の答弁として、公労法一七条違反行為には、労組法一条二項の適用がない云々とあり、立法に際してもその適用を排除することが考慮されていたものと解することができる。
したがつて、原判決の判断に何等法令の解釈、適用を誤つた違法はなく、況んや公労法一七条が憲法二八条に違反するものでないことは、多数意見に述べられたところにより明らかであり、結局本件上告は棄却さるべきものである。

・地方公務員法の規制をめぐる判例(都教組事件)は、合憲限定解釈という手法によって、争議行為をあおる等の行為に対する刑事罰について規定した地方公務員法第37条第1項、第61条第4号を合憲とした。
+判例(S44.4.2)都教組事件
理由
弁護人佐伯静治外二七名の上告趣意について。
論旨は、憲法違反、条約違反、判例違反、判断遺脱その他きわめて多岐にわたるが、要するに、地方公務員法(以下地公法という。)三七条の定める争議行為の禁止が憲法二八条に違反し、かつ、ILO八七号条約および国際慣習法規にも違反し、ひいては憲法九八条二項にも違反する旨の主張と、地公法六一条四号の定める争議行為のあおり行為等に対する刑事罰が憲法二八条、一八条、三一条に違反し、かつ、ILO八七号条約および国際慣習法規にも違反し、ひいては憲法九八条二項にも違反する旨の主張とを骨子とし、あわせて、地公法六一条四号の定める「あおり」の要件についての解釈適用の誤り、原判決の刑訴法四〇〇条但書違反および原判決の判断遺脱を主張するものである。当裁判所は、結論として、原判決を破棄し、被告人全員を無罪とすべきものとするが、その理由は、つぎのとおりである。

一、公務員の労働基本権について、当裁判所は、さきに、昭和四一年一〇月二六日の判決(いわゆる全逓中郵事件判決)において、つぎのとおり判示した。
憲法二八条は、いわゆる労働基本権、すなわち、勤労者の団結する権利および団体交渉その他の団体行動をする権利を保障しているこの労働基本権の保障の狙いは、憲法二五条に定めるいわゆる生存権の保障を基本理念とし、勤労者に対して人間に値する生存を保障すべきものとする見地に立ち、一方で、憲法二七条の定めるところによつて、勤労の権利および勤労条件を保障するとともに、他方で、憲法二八条の定めるところによつて、経済上劣位に立つ勤労者に対して実質的な自由と平等とを確保するための手段として、その団結権、団体交渉権、争議権等を保障しようとするものである。
このように、憲法自体が労働基本権を保障している趣旨にそくして考えれば、実定法規によつて労働基本権の制限を定めている場合にも、労働基本権保障の根本精神にそくしてその制限の意味を考察すべきであり、ことに生存権の保障を基本理念とし、財産権の保障と並んで勤労者の労働権・団結権・団体交渉権・争議権の保障をしている法体制のもとでは、これら両者の間の調和と均衡が保たれるように、実定法規の適切妥当な法解釈をしなければならない。
右に述べた労働基本権は、たんに私企業の労働者だけについて保障されるのではなく、公共企業体の職員はもとよりのこと、国家公務員や地方公務員も、憲法二八条にいう動労者にほかならない以上、原則的には、その保障を受けるべきものと解される。」
右判決に示された基本的立場は、本件の判断にあたつても、当然の前提として、維持すべきものと考える。右のような見地に立つて考えれば、「公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない」とする憲法一五条を根拠として、公務員に対して右の労働基本権をすべて否定するようなことが許されないことは当然であるが、公務員の労働基本権については、公務員の職務の性質・内容に応じて、私企業における労働者と異なる制約を受けることのあるべきことも、また、否定することができない。ところで、公務員の職務の性質・内容は、きわめて多種多様であり、公務員の職務に固有の、公共性のきわめて強いものから、私企業のそれとほとんど変わるところがない、公共性の比較的弱いものに至るまで、きわめて多岐にわたつている。したがつて、ごく一般的な比較論として、公務員の職務が、私企業や公共企業体の職員の職務に比較して、より公共性が強いということができるとしても、公務員の職務の性質・内容を具体的に検討しその間に存する差異を顧みることなく、いちがいに、その公共性を理由として、これを一律に規制しようとする態度には、問題がないわけではないただ、公務員の職務には、多かれ少なかれ、直接または間接に、公共性が認められるとすれば、その見地から、公務員の労働基本権についても、その職務の公共性に対応する何らかの制約を当然の内在的制約として内包しているものと解釈しなければならない。しかし、公務員の労働基本権に具体的にどのような制約が許されるかについては、公務員にも労働基本権を保障している叙上の憲法の根本趣旨に照らし、慎重に決定する必要があるのであつて、その際考慮すべき要素は、前示全逓中郵事件判決において説示したとおりである(最高刑集二〇巻八号九〇七頁から九〇八頁まで)。地公法三七条および六一条四号が違憲であるかどうかの問題は、右の基準に照らし、ことに、労働基本権の制限違反に伴う法律効果、すなわち、違反者に対して課せられる不利益については、必要な限度をこえないように十分な配慮がなされなければならず、とくに、勤労者の争議行為に対して刑事制裁を科することは、必要やむをえない場合に限られるべきであるとする点に十分な考慮を払いながら判断されなければならないのである。
(イ)ところで、地公法三七条、六一条四号の各規定が所論のように憲法に違反するものであるかどうかについてみると、地公法三七条一項には、「職員は、地方公共団体の機関が代表する使用者としての住民に対して同盟罷業、怠業その他の争議行為をし、又は地方公共団体の機関の活動能力を低下させる怠業的行為をしてはならない。又、何人も、このような違法な行為を企て、又は遂行を共謀し、そそのかし、若しくはあおつてはならない。」と規定し、同法六一条四号には、「何人たるを問わず、第三十七条第一項前段に規定する違法な行為の遂行を共謀し、そそのかし、若しくはあおり、又はこれらの行為を企てた者」は三年以下の懲役または一〇万円以下の罰金に処すべき旨を規定している。これらの規定が、文字どおりに、すべての地方公務員の一切の争議行為を禁止し、これらの争議行為の遂行を共謀し、そそのかし、あおる等の行為(以下、あおり行為等という。)をすべて処罰する趣旨と解すべきものとすれば、それは、前叙の公務員の労働基本権を保障した憲法の趣旨に反し、必要やむをえない限度をこえて争議行為を禁止し、かつ、必要最小限度にとどめなければならないとの要請を無視し、その限度をこえて刑罰の対象としているものとして、これらの規定は、いずれも、違憲の疑を免れないであろう。
しかし法律の規定は、可能なかぎり、憲法の精神にそくし、これと調和しうるよう、合理的に解釈されるべきものであつて、この見地からすれば、これらの規定の表現にのみ拘泥して、直ちに違憲と断定する見解は採ることができない。すなわち、地公法は地方公務員の争議行為を一般的に禁止し、かつ、あおり行為等を一律的に処罰すべきものと定めているのであるが、これらの規定についても、その元来の狙いを洞察し労働基本権を尊重し保障している憲法の趣旨ヒ調和しうるように解釈するときは、これらの規定の表現にかかわらず、禁止されるべき争議行為の種類や態様についても、さらにまた、処罰の対象とされるべきあおり行為等の態様や範囲についても、おのずから合理的な限界の存することが承認されるはずである。
かように、一見、一切の争議行為を禁止し、一切のあおり行為等を処罰の対象としているように見える地公法の前示各規定も、右のような合理的な解釈によつて、規制の限界が認められるのであるから、その規定の表現のみをみて、直ちにこれを違憲無効の規定であるとする所論主張は採用することができない
(ロ)また、論旨は、前示地公法の各規定がILO八七号条約、ILO一〇五号条約、教員の地位に関する勧告、国際慣習法に違反し、したがつてまた、憲法九八条二項に違反するものと主張するが、ILO八七号条約は、争議権の保障を目的とするものではなく、ILO一〇五号条約および教員の地位に関する勧告は、未だ国内法規としての効力を有するものではなく、また、公務員の争議行為禁止措置を否定する国際慣習法が現存するものとは認められないから、所論は、すべて採用することができない。

二、つぎに、地方公務員の争議行為についてみるに、地公法三七条一項は、すべての地方公務員の一切の争議行為を禁止しているから、これに違反してした争議行為は、右条項の法文にそくして解釈するかぎり、違法といわざるをえないであろう。しかし、右条項の元来の趣旨は、地方公務員の職務の公共性にかんがみ、地方公務員の争議行為が公共性の強い公務の停廃をきたし、ひいては国民生活全体の利益を害し、国民生活にも重大な支障をもたらすおそれがあるので、これを避けるためのやむをえない措置として、地方公務員の争議行為を禁止したものにほかならない。ところが、地方公務員の職務は、一般的にいえば、多かれ少なかれ、公共性を有するとはいえ、さきに説示したとおり、公共性の程度は強弱さまざまで、その争議行為が常に直ちに公務の停廃をきたし、ひいて国民生活全体の利益を害するとはいえないのみならず、ひとしく争議行為といつても、種々の態様のものがあり、きわめて短時間の同盟罷業または怠業のような単純な不作為のごときは、直ちに国民全体の利益を害し、国民生活に重大な支障をもたらすおそれがあるとは必ずしもいえない。地方公務員の具体的な行為が禁止の対象たる争議行為に該当するかどうかは、争議行為を禁止することによつて保護しようとする法益と、労働基本権を尊重し保障することによつて実現しようとする法益との比較較量により、両者の要請を適切に調整する見地から判断することが必要である。そして、その結果は、地方公務員の行為が地公法三七条一項に禁止する争議行為に該当し、しかも、その違法性の強い場合も勿論あるであろうが、争議行為の態様からいつて、違法性の比較的弱い場合もあり、また、実質的には、右条項にいう争議行為に該当しないと判断すべき場合もあるであろう。
また、地方公務員の行為が地公法三七条一項の禁止する争議行為に該当する違法な行為と解される場合であつても、それが直ちに刑事罰をもつてのぞむ違法性につながるものでないことは、同法六一条四号が地方公務員の争議行為そのものを処罰の対象とすることなく、もつぱら争議行為のあおり行為等、特定の行為のみを処罰の対象としていることからいつて、きわめて明瞭である。かえつて、同法三七条二項は、職員で同条一項に違反する行為をしたものは、地方公共団体に対して保有する任命上または雇用上の権利をもつて対抗することができないという不利益を課しているにすぎないことを注意すべきである。したがつて、地方公務員のする争議行為については、それが違法な行為である場合に、公務員としての義務違反を理由として、当該職員を懲戒処分の対象者とし、またはその職員に民事上の責任を負わせることは、もとよりありうべきところであるが、争議行為をしたことそのことを理由として刑事制裁を科することは、同法の認めないところといわなければならない。
ところで、地公法六一条四号は、争議行為をした地方公務員自体を処罰の対象とすることなく、違法な争議行為のあおり行為等をした者にかぎつて、これを処罰することにしているのであるが、このような処罰規定の定め方も、立法政策としての当否は別として、一般的許されないとは決していえない。ただ、それは、争議行為自体が違法性の強いものであることを前提とし、そのような違法な争議行為等のあおり行為等であつてはじめて、刑事罰をもつてのぞむ違法性を認めようとする趣旨と解すべきであつて、前叙のように、あおり行為等の対象となるべき違法な争議行為が存しない以上、地公法六一条四号が適用される余地はないと解すべきである。(もつとも、あおり行為等は、争議行為の前段階における行為であるから、違法な争議行為を想定して、あおり行為等をした場合には、仮りに予定の違法な争議行為が実行されなかつたからといつて、あおり行為等の刑責は免れえないものといわなければならない。)
つぎに、あおり行為等の意義および要件については、意見の分かれるところであるが、一般に「あおり」の意義については、違法行為を実行させる目的で、文書、図画、言動により、他人に対し、その実行を決意させ、またはすでに生じている決意を助長させるような勢のある刺激を与えることをいうと解してよいであろう(昭和三三年(あ)第一四一三号、同三七年二月二一日大法廷判決、刑集一六巻二号一〇七頁参照)。しかし、地公法でいう争議行為等のあおり行為等がすべて一律に処罰の対象とされうべきものであるかどうかについては、慎重な考慮を要する。問題は、結局、公務員についても、その労働基本権を尊重し保障しようとする憲法上の要請と、公務員については、その職務の公共性にかんがみ、争議行為を禁止すべきものとする要請との二つの相矛盾する要請を、現行法の解釈のうえで、どのように調整すべきかの点にあり、労働基本権尊重の憲法の精神からいつて、争議行為禁止違反に対する制裁、とくに刑事罰をもつてする制裁は、極力限定されるべきであつて、この趣旨は、法律の解釈適用にあたつても、十分尊重されなければならない。そして、地公法自体は、地方公務員の争議行為そのものは禁止しながら、右禁止に違反して争議行為をした者を処罰の対象とすることなく、争議行為のあおり行為等にかぎつて、これを処罰すべきものとしているのであるが、これらの規定の中にも、すでに前叙の調整的な考え方が現われているということができる。しかし、さらに進んで考えると、争議行為そのものに種々の態様があり、その違法性が認められる場合にも、その強弱に程度の差があるように、あおり行為等にもさまざまの態様があり、その違法性が認められる場合にも、その違法性の程度には強弱さまざまのものがありうる。それにもかかわらず、これらのニユアンスを一切否定して一律にあおり行為等を刑事罰をもつてのぞむ違法性があるものと断定することは許されないというべきである。ことに、争議行為そのものを処罰の対象とすることなく、あおり行為等にかぎつて処罰すべきものとしている地公法六一条四号の趣旨からいつても、争議行為に通常随伴して行なわれる行為のごときは、処罰の対象とされるべきものではない。それは、争議行為禁止に違反する意味において違法な行為であるということができるとしても、争議行為の一環としての行為にほかならず、これらのあおり行為等をすべて安易に処罰すべきものとすれば、争議行為者不処罰の建前をとる前示地公法の原則に矛盾することにならざるをえないからである。したがつて、職員団体の構成員たる職員のした行為が、たとえ、あおり行為的な要素をあわせもつとしても、それは、原則として、刑事罰をもつてのぞむ違法性を有するものとはいえないというべきである。

三、これを本件についてみるに、原審の確定したところによれば、文部省が企図した公立学校教職員に対する勤務評定の実施に反対する日教組の方針に則り、都教組も、その定例委員会において、休暇闘争を含む実力行使をもつてこれに対応する方針をきめたが、都教育長は、昭和三三年四月一九日に、同月二三日の都教育委員会に勤務評定規則案を上程する旨の告示をすると言明し、爾後の話合いを拒否するに至つたので、都教組は、同月二一日に、「組合員は勤務評定を実施させない措置を地公法四条に基いて人事委員会に要求せよ。右手続は昭和三三年四月二三日午前八時から開催する全員集会で取りまとめて提出せよ。(右手続に必要な休暇請求は同日までに行う)」との指令を発し、右指令に基づいて、同月二三日一日の一せい休暇闘争を行なつたというのであり、原判決は、右は同盟罷業にあたるものとし、被告人らがしたその指令配布、趣旨伝達等の行為について、被告人らは地公法六一条四号の争議行為の遂行をあおつたものとして、同条の刑責を免れないとしているのである。
しかし、本件をさきに詳細に説示した当裁判所の考え方に従つて判断すると、本件の一せい休暇闘争は、同盟罷業または怠業にあたり、その職務の停廃が次代の国民の教育上に障害をもたらすものとして、その違法性を否定することができないとしても、被告人らは、いずれも都教組の執行委員長その他幹部たる組合員の地位において右指令の配布または趣旨伝達等の行為をしたというのであつて、これらの行為は、本件争議行為の一環として行なわれたものであるから、前示の組合員のする争議行為に通常随伴する行為にあたるものと解すべきであり、被告人らに対し、懲戒処分をし、または民事上の責任を追及するのはともかくとして、さきに説示した労働基本権尊重の憲法の精神に照らし、さらに、争議行為自体を処罰の対象としていない地公法六一条四号の趣旨に徴し、これら被告人のした行為は、刑事罰をもつてのぞむ違法性を欠くものといわざるをえない。したがつて、被告人らは、あおり行為等についての刑責を免れないとした原判決の右判断は、法令の解釈適用を誤つたもので、その違法は判決に影響を及ぼすことが明らかであり、これを破棄しなければ著しく正義に反するものといわざるをえない。
よつて、その余の論旨に対する判断を省略し、刑訴法四一一条一号により原判決を破棄し、同法四一三条但書、四一四条、四〇四条、三三六条により被告人らに無罪の宣告をなすべきものとし、主文のとおり判決する。
この判決は、裁判官松田二郎の補足意見、裁判官入江俊郎、同岩田誠の各意見および裁判官奥野健一、同草鹿浅之介、同石田和外、同下村三郎、同松本正雄の反対意見があるほか、裁判官全員一致の意見によるものである。

+補足意見
裁判官松田二郎の補足意見は、次のとおりである。
私は、多数意見に従うものであるが、奥野裁判官らの反対意見について若干自己の考をのべたい。
(一)反対意見は、地方公務員法三七条一項後段は「何人も」、六一条四号は「何人たるとを問わず」あおり行為をした者を処罰する旨規定していることを根拠として、多数意見の「あおり」についての見解を目して、条文の限定解釈なりとし、法の明文に反する一種の立法であり、法解釈の域を逸脱したものと評するのである。
たしかに、「あおり」行為について、条文上何等の限定の設けられていないことは、反対意見のいうとおりである。しかし、いうまでもなく、刑罰法規の解釈は、単に条文を外部より観察するものでなく、その内容に立入つてその意味を明らかにするものである以上、それは単なる文理的解釈に止まるべきではないのである。ことに、日常用語が同時に法律用語たる場合にあつては、日常用語としての意味や語感に禍されることなく、その刑罰規定の趣旨・目的に従つてその規範的意味内容を明らかにすべきであつて、「あおり」が日常用語として巾広い概念であつても、刑罰法規の解釈はこれに拘束されるべきではない。そして、勤労者の争議行為に対して刑事制裁を科することは、必要止むを得ない場合のみに限られるべしとの全逓中郵事件判決(当裁判所昭和三九年(あ)第二九六号同四一年一〇月二六日大法廷判決、刑集二〇巻八号九〇一頁)において当裁判所の示した基本的立場に即するとき、多数意見の「あおり」行為についてなした解釈の正当性を理解し得るのである。私は、右の中郵事件の判決において、「労働法規が争議行為を禁止しこれを違法として解雇などの不利益な効果を与えているからといつて、そのことから直ちにその争議行為が刑罰法規における違法性、すなわち、いわゆる可罰的違法性まで帯びているとはいえない」との意見をのべた(右判例集九一六頁)。多数意見の「あおり」行為の解釈は、これと同一の趣旨に基づくものと思う。そして、この見解よりすれば、前記法条の文言上限定のないことを根拠として「あおり」行為の意味を定めんとする反対意見には、到底賛し得ないのである。
更に、反対意見は、「あおり」についての多数意見を目して法解釈の域を「逸脱」したものとして非難する。思うに、従来、刑罰法規の解釈は厳格であることを要すとされ、その根拠として屡々罪刑法定主義が採用されるのである。しかしながら、本件における多数意見は、形式上より見ても、いわば条文を狭く解釈したものであつて、何等条文の拡張又は類推解釈をしたものでもない。換言すれば、多数意見の「あおり」についての解釈は、条文の枠内に止まるものであつて、反対意見のいう如く、これを「逸脱」したものでないことは明らかである。
(二)多数意見が被告人らの本件行為は刑事罰をもつてのぞむ違法性を欠くというのに対し、反対意見は、その行為を違法とし、これに刑罰を科することを主張するものである。すなわち、反対意見は、被告人らに刑罰を科することによつて、社会的秩序の維持に資そうとするものといえよう。
ここにおいて問題となるのは、反対意見のいう「違法性」の意味である。そして、反対意見の違法性についての考方は、既に前記中郵事件に示されている(本件における反対意見を採る五人の裁判官のうち奥野、草鹿、石田の三裁判官は、先に中郵事件においても、五鬼上裁判官と合して四名で反対意見を採られたのであり、また下村裁判官は中郵事件の反対意見と同意見であるから(昭和三六年(あ)第八二三号同四一年一一月三〇日大法廷判決、刑集二〇巻九号一〇七六頁)、中郵事件における反対意見の違法性についての考は、本件における反対意見の違法性の考と同じであるといえる)。そして、中郵事件において、反対意見はいう「行為の違法性はすべての法域を通じて一義的に決せられるべきである」と(右中郵事件判決登載の判例集九二二頁)。この考、すなわち、違法性についての「一義的」考によれば、刑法上違法と評価される行為は、民法その他の領域においても、統一的に違法と評価されるのであるが、しかし、刑法上違法と評価されない行為は、他の法域においても違法とされることなく、すなわち、法律上何等の責任を生じないということになるのである。従つて、かかる考に立つ者より見れば、本件行為を処罰するのでなければ、被告人らに対して民事上その他の責任を追及することも不可能となるべく、この点の考慮よりしても、被告人らの本件行為を罰すべきことが社会的秩序維持のため、きわめて必要となるのであろう。そして、かかる考に立つ者より見れば、或は、被告人らの本件行為を罰しない見解は、社会的秩序の混乱に対して無関心のものとさえ映じるかも知れない。
私は、先の中郵事件において、「行為の違法性を一義的に解すべきでなく、刑法において違法とされるか否かは、他の法域における違法性と無関係ではないが、しかし、別個独立に考察されるべき問題である」との趣旨の意見を述べた(右中郵事件判決登載の判例集九一六頁)。この見地に立つとき、被告人らの本件行為が罰されないにしても、そのことは被告人らの行為が私法上、労働法上において、又は地方公務員法上において、違法であるか否かと必然的関連はなく、これらは刑事上の責任とは別個に考察されるべきものなのである。そして、若し、被告人らの行為が刑罰法令違反以外のかかる点において違法であるならば、その責任が追及されるべきは当然であり、或は民事上の責任を負い、或は公務員として懲戒され、免職されることすらあるべきであろう。多数意見が被告人らの本件行為を罰しないというのは、決して被告人らが民事上の責任がないとか、公務員として責任がないとかいうことを意味するものではない。ただ、刑事的責任がないというに止まるのである。そして、前記中郵事件の判決は、「違法性は一義的に決すべし」との考に対して、最高裁判所が、それを採り得ないとした点にきわめて重要な意味をもつものといえよう。中郵事件の判決のこの意義は誤解されてはならないのである(因みに、ひとしく過失といつても、刑事責任としての過失と民事責任としての過失とは、別個の考察を要するものである)。
思うに、刑罰は、科せられる者に対して強烈な苦痛すら伴うもつとも不利益な法的効果を伴うものであるから、刑事的制裁は社会秩序維持の上においてきわめて大きな機能を果すものである。現に、わが国においては、刑事的制裁が刑事責任追及の域を越えて他の法域において解決すべき問題、たとえば、民事的又は労働法上の責任追及の関係に対しても、大きな影響を及ぼしつつあることは、われわれの知るところであり、それはいわば刑事的制裁の副次的作用ともいうべきものであるが、社会状態のおだやかならざる時代においては、民事上の責任、労働法上の責任などの追及に代えて、刑事的制裁によつて社会秩序の維持を図らんとし、従つて刑事的制裁に期待する傾向が高まりがちである。もとより、この点に関して、われわれは、わが国における民事訴訟制度の機能が十分でないこと―現にその一例として、わが国の大都市における民事部の数の刑事部の数に対する比率が、ドイツなどのそれに比較して極めて低いことを指摘し得る―に対して、真剣に考慮を払うべきであろう。しかしながら、刑事的制裁の威力を頼みにして、これに刑事的責任以外の責任、たとえば民事的責任追及のための代用品的作用をもあまりに行なわしめるべきではないのである。かかることは、民事責任と刑事責任の分化のなかつた時代、裁判といえば刑事裁判を考えがちだつた時代に逆行する事態を生じる危険を伴うのである。われわれは、すべからく、中郵事件の判決の精神に即して、刑事裁判をして、本来の領域に止まらしむべきであろう。
要するに、反対意見が違法性を一義的に解することは、ややもすると、違法即刑罰とする考に導き易いことを私は虞れるのである。この意味においても、私は、反対意見をもつて不当と思わざるを得ない。

+意見
裁判官入江俊郎の意見は、次のとおりである。
私は、多数意見と結論を同じくし、また、その理由の大部分についてはこれに同調するが、ただ一点だけ多数意見と根本的に考え方を異にする。そしてこの点は、本件においては、判決の結果に影響のない論点のごとくではあるが、他日他の類似の事案が問題となつた場合には判決の結果を左右することのありうべき問題であるから、この際右の点につき私の意見を表示する。また、本件で問題となつたあおり行為等の刑罰規定の適用につき、そのあおり行為等がその対象とされた争議行為に通常随伴するものと認められるものであるか否かについて、若干の補足意見を表示する。そしてこれらの点に関する私の意見は、昭和四一年(あ)第一一二九号国家公務員法違反等被告事件の判決に付した私の意見と趣旨を同じくするので、それを本件に援用する。

+意見
裁判官岩田誠の意見は、次のとおりである。
一、法律の規定をその文字どおりに解釈すると違憲の疑のある場合には、これに可能なかぎり合理的限定解釈を加え憲法の趣旨に調和するよう解釈すべきものであり、地方公務員法(以下地公法という。)六一条四号の規定を解釈するに当つても、右のような限定解釈を加うべきものであることは多数意見の判示するとおりである。
二、よつて按ずるに、地公法六一条四号は、争議行為自体を行なつた者は処罰しないけれども、争議行為の遂行を共謀し、そそのかし、あおり、またはこれらの行為を企てた者を処罰する旨定めている。しかし、職員組合の行なう争議行為は、通常組合の役員または組合員から発案され、所定の議決機関の決議を経、これに従つて実行されるものと解されるので、右争議行為の「遂行を共謀し、そそのかし、あおり、企てる」行為(以下「あおり行為等」という。)のような行為が、その組合において本来の目的たる勤務条件の維持改善、経済的地位の向上およびこれと関連する事項を目的とし、自主的に行なう争議行為の発案、計画、遂行の過程として行なわれる場合にこれを刑罰をもつて処罰することは、結局刑罰をもつて、すべての公務員に対し、一切の争議行為を禁止することになり、憲法二八条に違反する疑が生ずる。したがつて、地公法によつて認められた地方公務員の職員組合がその本来の目的達成のため自主的に行なう争議行為の発案、計画、遂行の過程として行なわれる「あおり行為等」は(組合の役員または組合員は勿論、それ以外の者であつても、その組合の上部組織若しくは連合体の役員のような者によつて行なわれても)、暴力等を伴わないかぎり、地公法六一条四号にいう「第三十七条第一項前段に規定する違法な行為の遂行を共謀し、そそのかし、若しくはあおり、又はこれらの行為を企てた」場合に当らないものとして処罰の対象にならないと解すべきである。
これを要するに、組合本来の目的を越えて行なわれたと認められる地方公務員の争議行為に対する「あおり行為等」、および組合が自主的に行なう争議行為の発案、計画、遂行の過程として行なわれるものでない一切の「あおり行為等」は、本条項に該当し、処罰の対象となるものと解する。何となれば右各行為はいずれも憲法二八条が勤労者に保障する労働基本権の行使とはいえないからである。
以上の考えに立つて本件を見るに、被告人らの本件行為は、被告人らの属する職員団体である都教組がその本来の目的達成のために自主的に発案、計画した争議行為遂行の過程としての指令の配布、その趣旨の伝達等をしたものであつて、地公法六一条四号にいうあおり行為にあたらないものとして罪とならないものである。
三、多数意見は、地公法六一条四号を限定的に解釈するにあたり、「あおり行為等」の対象となる争議行為は、地公法三七条一項の規定上違法であつても、その違法性には強弱があり、「あおり行為等」を処罰し得るのは、争議行為自体が違法性の強いものであることを前提とし、そのような違法性の強い争議行為等の「あおり行為等」に限るとしている。
しかし私は、「あおり行為等」の対象となる争議行為(地公法三七条一項は、地方公務員の争議行為を禁止しているから地方公務員の争議行為は地公法上は原則として違法である。〔刑事罰をもつてのぞむべき違法の意ではない。〕)について、その違法性の強弱により地公法六一条四号の適用の有無を決すべきではないと思う。「あおり行為等」の対象となつた争議行為が、地方公務員の勤務条件の維持改善、経済的地位の向上およびこれと関連する事項を目的とするものではなく、例えば政治的意図の達成を目的とするものであるときは、かかる争議行為は憲法二八条の保障するところではないから、かゝる争議行為を対象とする「あおり行為等」は、それが争議行為に通常随伴するものであると否とを問わず、憲法二八条の保障する労働基本権の行使とはいえない。また「あおり行為等」についても争議行為に通常随伴する行為は、違法性が弱いから処罰されないというのは賛同できない。むしろかゝる行為は、対象たる争議行為が組合の本来の目的達成のための争議行為である限り、憲法二八条の保障する勤労者の労働基本権なかんづく団体行動権の行使と認められるから、かゝる行為は、地公法六一条四号のいう「あおり行為等」にあたらないので処罰できないというべきものと思料する。

+反対意見
裁判官奥野健一、同草鹿浅之介、同石田和外、同下村三郎、同松本正雄の反対意見は、次のとおりである。
国家公務員は、国民の信託により、全体の奉仕者として国政に干与するものであつて、その使用者である国民大衆に対して同盟罷業、怠業その他の争議行為をなすことは、国民の信託に叛き、国政の活動を停廃せしめ、国民生活に重大な障害をもたらし、公共の福祉に反するものであるから、国家公務員法(昭和四〇年法律第六九号による改正前のもの、以下同じ)九八条五項は、違法な行為として、これを禁止しているのである。また、地方公務員法三七条一項は、同様の趣旨において地方公務員の争議行為を違法な行為として禁止しているのである。これら公務員の争議行為の禁止は、公共の福祉の要請に基づくものであつて、憲法二八条に違反するものということはできない。
法は、右の如く公務員の争議行為を違法な行為として禁止しながらも、それに違反して争議行為自体に参加した個々の公務員に対しては、刑罰を科することなく、公務員として保有する任命上又は雇用上の権利を奪う制裁を科し得るに止めている。しかし、法は、公務員の争議行為が国民又は地方住民に対し、重大な損害を与えるものであることに鑑み、かかる違法な争議行為の原動力となり、これを誘発、指導、助成する、いわゆる煽動者等に対しては刑事制裁を科し、もつて違法な争議行為の禁遏の実を挙げようとしているのである。すなわち、違法な争議行為に原動力を与える者は、単なる争議に参加した者に比して、反社会性の強いものとして、特別の可罰性を認めるべきであるとの観点から、争議に対し指導的役割をなす煽動者等のみを処罰することにより、違法な争議行為の防止と刑政の目的を達し得るものと考えたのである。かくの如く、集団行動による違法行為について、その原動力となつた煽動行為等の違法性を特に重視することは十分合理性のあることであり、内乱罪、騒擾罪などの処罰方式の例にも見られるところであり、決して不合理な立法ではなく、固より、立法政策の範囲内に属するものであつて、違憲とはいい難い。
そして、法が違法な争議行為に対する誘発、指導、助成の原動力となるものとして処罰せんとする「あおり」についていえば、「あおり」の概念は、「違法行為を実行させる目的をもつて、他人に対し、その行為を実行する決意を生ぜしめるような、またはすでに生じている決意を助長させるような勢のある刺激を与えること(昭和三三年(あ)第一四一三号同三七年二月二一日大法廷判決、刑集六巻二号一〇七頁参照)」をいうものと解するのが相当であり、その構成要件の内容が漠然としているものではない。そして法は、「あおり」行為について何らの限定を設けていないのであるから、いやしくも前記「あおり」の行為に該当するものである限り、これを可罰性のある違法な行為とする趣旨であつて、これらの行為をその違法性の強弱によつて区別し、特に違法性の強いものに対してのみ刑事制裁を科するものであると解する余地は、法文上考えられないところである。
「あおり」の対象となつた争議行為自体の態様により、その違法性の強いもの、ないし刑事罰をもつてのぞむべき違法性のあるものである場合に限つて、「あおり」を処罰する趣旨であると解することも到底是認できない。けだし、法は、争議行為自体を処罰しないとしながら、敢てこれをあおつた者を処罰すると規定しているのであるから、違法性の強いもの、ないし刑事罰をもつてのぞむべき違法性のある争議行為をあおつた場合に限り、あおり行為を処罰する趣旨と解することは、ことさらに明文に反する解釈であるからである。
それ故、「あおりの」罪が成立するためには、その「あおり」の対象となつた争議行為自体の正当性の有無を論ずる余地はなく、したがつて、その争議行為が例えば政治的目的のために行なわれたものであるか否かという如きことは、同罪の成否になんら影響を及ぼすものではないというべきである。しかも、もともと法律上争議権を否定された公務員が、「正当な争議行為」をすることができないのは当然であるから、国家公務員法附則一六条、地方公勝員法五八条の規定をまつまでもなく、争議行為として「正当なもの」について、刑事免責を規定した労働組合法一条二項の規定が公務員の争議行為に適用の余地のないことは明白であつて、この点からいつても、「あおり」の対象となつた争議行為自体の正当性ないし刑事罰をもつてのぞむべき違法性の有無を論ずることは理由がないといわなければならない。
また、争議には、企画、共謀、指令、伝達等は、通常、一般的に随伴し、争議と不可分の関係にあるものであつて、組合構成員は当然これに干与するのであるから、これを処罰することは、争議行為を処罰することになるから、組合構成員の「あおり」行為は除外すべきであるとの解釈論も是認することはできない。けだし、国家公務員法九八条五項後段、一一〇条一項一七号、地方公務員法三七条一項後段、六一条四号は、「何人も」および「何人たるを問わず」あおり行為をした者を処罰する旨を明定しており、あおつた者が組合構成員であると、組合構成員以外の第三者であると、また組合構成員がそれ以外の第三者と共謀した場合であるとを問わず、また争議に当然随伴し、これと不可分の関係において為した者であると否とを問わず、等しく処罰する趣旨であることが明白であるからである。
これを要するに、「あおり」の概念を、強度の違法性を帯びるものに限定したり、「あおり」行為者のうち、組合構成員と組合外部の者とを区別し、外部の者の行為若しくはこれと共謀した者の行為のみを処罰の対象となると解したり、または「あおり」の対象となつた争議行為が違法性の強いもの、ないし刑事罰をもつてのぞむべき違法性のあるものである場合に限り、その「あおり」行為が可罰性を帯びるのであるというが如き限定解釈は、法の明文に反する一種の立法であり、法解釈の域を逸脱したものといわざるを得ない。
従つて、以上に述べたところと解釈の結論を同じくする原判断は相当であり、弁護人のその余の所論は単なる訴訟法違反の主張にすぎないから、結局本件上告は棄却すべきものである。

・都教組事件及び全司法仙台事件判決は、全逓東京中郵事件判決を引用したうえで、争議行為をあおる等の行為のうち処罰対象となるのは、争議行為・あおり行為ともに違法性の強いものに限られるという合憲限定解釈を行った。

+判例(S44.4.2)全司法仙台事件 同日なのね・・・。
理由
弁護人大川修造ほか六名の上告趣意第一点について。
所論は、国家公務員法(昭和四〇年法律第六九号による改正前のもの。以下国公法という。)九八条五項、一一条一項一七号は、憲法二八条、一一条、九七条、一八条に違反するものであり、これを適用した原判決も違憲であるという。
よつて案ずるに、国公法九八条五項は、「職員は、政府が代表する使用者としての公衆に対して同盟罷業、怠業その他の争議行為をなし、又は政府の活動能率を低下させる怠業的行為をしてはならない。又、何人も、このような違法な行為を企て、又はその遂行を共謀し、そそのかし、若しくはあおつてはならない。」と規定し、同法一一〇条一項一七号は、「何人たるを問わず第九十八条第五項前段に規定する違法な行為の遂行を共謀し、そそのかし、若しくはあおり、又はこれらの行為を企てた者」は、三年以下の懲役または一〇万円以下の罰金に処すべき旨を規定している。これらの規定が、文字どおりに、すべての国家公務員の一切の争議行為を禁止し、これらの争議行為の遂行を共謀し、そそのかし、あおる等の行為(以下、あおり行為等という。)をすべて処罰する趣旨と解すべきものとすれば、公務員の労働基本権保障の趣旨に反し、必要やむをえない限度をこえて争議行為を禁止し、かつ、必要最少限度にとどめなければならないとの要請を無視して刑罰の対象としているものとして、これらの規定は、いずれも、違憲の疑いを免れない。しかし、法律の規定は、可能なかぎり、憲法の精神に即し、これと調和しうるよう合理的に解釈されるべきものであつて、この見地からすれば、これらの規定の表現にのみ拘泥して、直ちにこれを違憲と断定する見解は採ることができない。
右のように限定的に解釈するかぎり、前示国公法九八条五項はもとより、同法一一〇条一項一七号も、憲法二八条に違反するものということができず、また、憲法の前文、一一条、九七条、一八条に違反するものともいえないことは、当裁判所大法廷の判例(とくに昭和三九年(あ)第二九六号、同四一年一〇月二六日大法廷判決、刑集二〇巻八号九〇一頁、昭和四一年(あ)第四〇一号、同四四年四月二日大法廷判決参照)の趣旨に照らし、明らかであるから、これらの規定自体を違憲とする所論は、その理由がなく、したがつて、原判決が右国公法一一〇条一項一七号を適用したことを非難する論旨も、採用することができない。

同第二点について。
所論は、明白かつ現実の危険がないのに、あおり行為等を処罰することとしている国公法一一〇条一項一七号の規定は憲法二一条に違反するという。
しかし、右罰則が憲法二一条に違反するものでないことは、当裁判所の判例(昭和二六年(あ)第三八七五号、同三〇年一一月三〇日大法廷判決、刑集九巻一二号二五四五頁)とするところであるのみならず、前に説示したとおり、右罰則はこれを限定的に解釈して適用するかぎりにおいて、右規定が憲法二一条に違反するものでないことは、さらに明らかである。所論は、独自の見解のもとに違憲を主張するものであつて、採用しがたい。

同第三点について。
国公法一一〇条一項一七号は、公務員の争議行為そのものを処罰の対象としているものでないのみならず、右規定にいうあおり行為等を後に説示するような意味に解するかぎり、右規定が憲法一八条に違反するものといえないことは、所論第一点について説示したとおりであつて、所論は採用のかぎりでない。

同第四点について。
所論は、国公法一一〇条一項一七号は、その規定する構成要件の内容が漠然としており、かつ、労働運動の実体を無視し、争議行為の前段階的行為であるあおり行為等のみを処罰の対象としたことは極度に不合理であるから、憲法三一条に違反し、これを適用した原判決も違憲であるという。
しかし、国公法一一〇条一項一七号にいう「共謀」とは、二人以上の者が、同法九八条五項に定める違法行為を行なうため、共同意思のもとに、一体となつて互いに他人の行為を利用し、各自の意思を実行に移すことを内容とする謀議をすること(昭和二九年(あ)第一〇五六号、同三三年五月二八日大法廷判決、刑集一二巻八号一七一八頁参照)、「そそのかし」とは、同法九八条五項に定める違法行為を実行させる目的をもつて、他人に対し、その行為を実行する決意を新たに生じさせるに足りる慫慂行為をすること(昭和二七年(あ)第五七七九号、同二九年四月二七日第三小法廷判決、刑集八巻四号五五五頁参照)、「あおり」とは、右の目的をもつて、他人に対し、その行為を実行する決意を生じさせるような、またはすでに生じている決意を助長させるような勢のある刺激を与えること(昭和三三年(あ)第一四一三号、同三七年二月二一日大法廷判決、刑集一六巻二号一〇七頁参照)を、それぞれ、指すものと解するのが相当である。してみれば、国公法一一〇条一項一七号に規定する犯罪構成要件が、所論のように、内容が漠然としているものとはいいがたく、所論違憲の主張は、理由がない。
また、違法な争議行為につき、その前段階的行為であるあおり行為等のみを独立犯として処罰することは、政策的に妥当といえるかどうかは別論として、必ずしも不合理とはいいがたく、この点に関する非難も、採用することができない。

同第五点について。
所論は、原判決の国公法一一〇条一項一七号の「あおり」の解釈適用の誤りをいう。よつて案ずるに、原判決が国公法一一条一項一七号につき原判示のとおりの限定的解釈をしたうえ、本件事案にこれを適用していることは所論のとおりであるが、当裁判所は、次のような理由により、右規定を本件事案に適用した原判決の結論は、これを支持すべきものと考える。
すなわち、あおり行為等を処罰するには、争議行為そのものが、職員団体の本来の目的を逸脱してなされるとか、暴力その他これに類する不当な圧力を伴うとか、社会通念に反して不当に長期に及ぶなど国民生活に重大な支障を及ぼすとか等違法性の強いものであることのほか、あおり行為等が争議行為に通常随伴するものと認められるものでないことを要するものと解すべきである。というのは、職員の行なう争議行為そのものが処罰の対象とされていないのに、あおり行為等が安易に処罰の対象とされるときは、結局、争議行為参加者の多くが処罰の対象とされることになつて、国公法の建前とする争議行為者不処罰の原則と矛盾することになるからである。
そこで、まず、原判決の認定した本件事実関係をみるに、被告人ら(Aを除く。)は、仙台高等裁判所、同地方裁判所、同簡易裁判所の職員に対し、仙台高等裁判所玄関前において、昭和三五年六月四日午前八時三〇分から九時三〇分まで一時間、勤務時間内に喰い込んで開催される、新安保条約に反対するための職場大会に参加するよう、第一審判決の判示第一(後段のいわゆる間接あおりの部分を除く。)または第二に掲げる行為をしたというのである。右の認定によれば、本件職場大会が前示裁判所職員の団体であるB労組仙台支部の職場大会の実体をもつものであつて、裁判所職員による右職場離脱は、短時間とはいえ、裁判所職員による争議行為に当たるというのである。
ところで、裁判所職員の争議行為の制限について考えてみるに、すべて司法権は裁判所に属するものとされ、裁判所は、この国家に固有の権能に基づき、国民の権利と自由を擁護するとともに、国家社会の秩序を維持することをその使命とするものであることにかんがみると、このような裁判所の行なう裁判事務に従事する職員の職務は、一般的に、公共性の強いものであり、その職務の停廃は、その使命の達成を妨げ、ひいては、国民生活に重大な障害をもたらすおそれがあるものといわなければならない。
そこで、本件職場大会についてみるに、当時、新安保条約に対する反対運動が憲法擁護のための国民運動として広く行なわれ、労働組合その他諸種の団体によつてもその運動が活溌に行なわれており、本件職場大会も右運動の一環として行なわれたものであること所論のとおりであるとしても、裁判所の職員団体の本来の目的にかんがみれば、使用者たる国に対する経済的地位の維持・改善に直接関係があるとはいえない、このような政治的目的のために争議を行なうがごときは、争議行為の正当な範囲を逸脱するものとして許されるべきではなく、かつ、それが短時間のものであり、また、かりに暴力等を伴わないものとしても、裁判事務に従事する裁判所職員の職務の停廃をきたし、国民生活に重大な障害をもたらすおそれのあるものであつて、かような争議行為は、違法性の強いものといわなければならない。
そして、原判決の確定するところによれば、本件当時、(イ)被告人Cは、D労働組合中央執行委員の職にあつて、国公共闘会議からオルグとして仙台市に派遣されていたもの、被告人Eは、農林省宮城作物報告事務所石巻出張所に勤務し、F労働組合宮城県本部副執行委員長の職にあつたもの、被告人Gは、仙台北税務署に勤務し、D労働緯合東北地方連合会執行委員、H副議長の職にあつたもの、被告人Iは、仙台地方裁判所に裁判所書記官補として勤務し、B労組仙台支部執行委員長の職にあつたものであり、(ロ)第一審判決の判示第一に掲げる行為(後段のいわゆる間接あおりの部分を除く。)は、被告人I、Cその他の者が共謀して行なつたもの、判示第二に掲ける行為は、被告人C、I、E、Gその他の者が共謀して行なつたものであるというのである。
そこで、被告人らの右行為が、裁判所職員の行なう争議行為に通常随伴するものと認められるかどうかについて考えてみるに、被告人らのうち、裁判所職員でなく、かつまた、裁判所職員の団体に関係もない第三者である被告人C、E、Gの行なつた行為は、裁判所職員の行なう争議行為に通常随伴するものと認めることができないことは明らかである。また、被告人Iは裁判所職員であり、その団体であるB労組仙台支部執行委員長の職にあつたものであるから、そのあおり行為等がその態様において異常なものでないかぎり、争議行為に通常随伴するものと認めることができるが、本件の場合、被告人Iは、第三者である前示被告人らと共謀して前示ロの行為を行なつたものであるというのであるから、右事実関係のもとにおいては、被告人Iの行為も争議行為に通常随伴する行為と認めることはできないものといわなければならない。
してみれば、原審が被告人らの前示行為につき国公法一一〇条一項一七号を適用したことは、その理由において当裁判所の見解と異なるところがあるが、結局、正当であるに帰し、以上と異なる見解のもとに原判決に法令違反の違法があるとする所論は、採用することができない。

同第六点について。
所論は、原判決は、国公法一一条一項一七号にいう「あおり」の解釈につき、所論引用の当裁判所の判例(昭和三九年(あ)第二九六号、同四一年一〇月二六日大法廷判決、刑集二〇巻八号九〇一頁)と相反する判断をしているという。
しかし、右判例は、原判決の宣告後になされたものであるから、これをもつて刑訴法四〇五条二号の判例と解することはできず、所論は、適法な上告理由に当たらない。

同第七点について。
所論は、違憲(三一条)をいうが、国公法一一〇条一項一七号は、同号の規定する「あおり」等の行為を独立の可罰的行為(犯罪類型)として処罰の対象としているのであるから、いわゆる共謀共同正犯の理論の適用については、他の独立犯罪の場合と異なるところはないと解すべきであり、このように解しても憲法三一条に違反するものではなく、したがつて、これと同趣旨に出た原判断は正当であり、所論違憲の主張は理由がない。

同第八点について。
所論は、原判決は、日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約(昭和三五年六月二三日条約第六号、以下新安保条約という。)の解釈および憲法九条、九八条一項、八一条の解釈を誤つた違法があるという。
しかし、新安保条約のごとき、主権国としてのわが国の存立の基礎に重大な関係をもつ高度の政治性を有するものが違憲であるか否かの法的判断をするについては、司法裁判所は慎重であることを要し、それが憲法の規定に違反することが明らかであると認められないかぎりは、みだりにこれを違憲無効のものと断定すべへきではないこと、ならびに新安保条約は、憲法九条、九八条二項および前文の趣旨に反して違憲であることが明白であるとは認められないことは、当裁判所大法廷の判例(昭和三四年(あ)第七一〇号、同年一二月一六日大法廷判決、刑集一三巻一三号三二二五頁)の趣旨に照らし、明らかであるから、これと同趣旨に出た原判断は正当であつて、所論違憲の主張は理由なきに帰する。

同第九点について。
所論は、単なる法令違反、事実誤認の主張であつて、適法な上告理由に当たらない。
同第一〇点について。
所論は、事実誤認の主張であつて、適法な上告理由に当たらない。
同第一一点について。
所論は、仙台高等裁判所構内が刑法一三〇条にいう建造物の囲繞地に当たるとした原判断が所論引用の判例(昭和二四年(れ)三四〇号、同二五年九月二七日大法廷判決、刑集四巻九号一七八三頁)に違反するという。
しかし、右引用の判例は、守衛、警備員等を置いていることを、外来者がみだりに出入することを禁止している態様の例示として掲げたにとどまり、これをもつて同条にいう建造物の囲縫地であるための要件としたものでないことは明らかであるから、所論判例違反の主張は、その前提を欠き、適法な上告理由に当たらない。

同第一二点および同第一三点について。
所論のうち、違憲(三一条、三二条、三七条二項、七六条一項、三項、八一条、一四条)をいう点は、第一審で無罪を言い渡された被告人に対し、原審が事実の取調をした結果、第一審の無罪判決を破棄し自判しても違憲でないこと、ならびに事実審理を第二審かぎりとし、上告理由が刑訴法四〇五条により制限されている関係上、第一審の無罪判決を破棄自判により有罪とした第二審判決に対し、上訴によつて事実誤認等を争う途が閉ざされているとしても違憲でないことは、当裁判所大法廷の判例(昭和二六年(あ)第二四三六号、同三一年七月一八日判決、刑集一〇巻七号一一四七頁、昭和二七年(あ)第五八七七号、同三一年九月二六日判決、刑集一〇巻九号一三九一頁、昭和二二年(れ)第四三号、同二三年三月一〇日判決、刑集二巻三号一七五頁)の趣旨とするところであるから、所論違憲の主張はいずれも理由がなく、その余は、単なる訴訟法違反の主張であつて、適法な上告理由に当たらない。

同第一四点について。
所論は、単なる訴訟法違反、事実誤認の主張であつて、適法な上告理由に当たらない。被告人Cおよび同Iの各上告趣意について。
所論のうち、新安保条約の違憲(前文、九条)をいう点は、弁護人大川修造ほか六名の上告趣意第八点について、国公法九八条五項、一一〇条」項一七号の違憲(二八条)をいう点は、右上告趣意第一点について、それぞれ説示したとおりであつて、右主張はいずれも理由がなく、その余は、単なる法令違反、事実誤認の主張であつて、適法な上告理由に当たらない。
被告人E、同Gの上告趣意について。
所論のうち、新安保条約の違憲(九条)をいう点は、弁護人大川修造ほか六名の上告趣意第八点について説示したとおりであつて、右主張は理由がなく、その余は、単なる法令違反の主張であつて、適法な上告理由に当らない。

検察官の上告趣意について。
所論は、国公法一一〇条一項一七号の解釈に関する原判決の判断は、所論昭和四〇年一一月一六日東京高等裁判所判決(下級裁判所刑事裁判例集七巻一一号一九五五頁)と相反するという。
原判決は、同号は、同号に掲げる行為をすべて可罰性のあるものと評価しているのではなく、その行為の性質、手段、態様等からして争議行為の実行に影響を及ぼすべき高度の蓋然性をもつ程度に強度の違法性を帯びるもので、これらに刑罰を科することが公益上当然であるとされるものにかぎつて、処罰の対象としていると解すべきである旨判示しているところ、右東京高等裁判所の判決は、同号は、行為者ないし行為の態様等により強度の違法性を帯びた「あおり」行為等のみを処罰する趣旨のものと解すべきではないとの見解をとつており、原判決に先だつて言い渡されたものであるから、原判決は、右高等裁判所の判例と相反する判断をしたこととなり、刑訴法四〇五条三号後段に規定すろ最高裁判所の判例がない場合に、控訴裁判所たる高等裁判所の判例と相反する判断をしたことになるものといわなければならない。
そして、国公法一一〇条一項一七号の解釈に関する当裁判所の見解は、前示のとおりであつて、右高等裁判所の判例および原判決のこの点に関する見解は、そのいずれをも維持することはできないけれども、前示のとおり、原判決が被告人らの第一審判決の判示第一の行為(後段のいわゆる間接あおりの部分を除く。)および第二の行為につき同号を適用処断したことは、結局、正当であるのみならず、被告人らの第一審判決判示第一後段の行為(いわゆる間接あおり)は、原審の確定した事実関係のもとにおいては、いまだその対象たる裁判所職員に対し、本件争議行為の実行を決意させ、またはすでに生じている決意を助長させるような勢のある刺激を与える程度のものとは認めがたく、同号のあおり行為には該当しないものと認めるのが相当であり、したがつて、右事実は犯罪の証明がなく無罪とすべきものであるとした原判決は、その結論において正当であるから、原判決には判例違反があるが、この判例違反の事由は、刑訴法四一〇条一項但書にいう判決に影響を及ぼさないことが明らかな場合に当たり、原判決を破棄する事由とはならない。
よつて、刑訴法四一四条、三九六条に則り、本件各上告を棄却することとし、主文のとおり判決する。
この判決は、裁判官入江俊郎、同岩田誠の各意見、裁判官奥野健一、同草鹿浅之介、同石田和外、同下村三郎、岡松本正雄の意見、裁判官色川幸太郎の反対意見があるほか、裁判官全員一致の意見によるものである。

+意見
裁判官入江俊郎の意見は、次のとおりである。
一、私は、多数意見と結論を同じくし、また、その理由の大部分についてはこれに同調するが、ただ一点だけ多数意見と根本的に考え方を異にする。そしてこの点は、本件においては、判決の結果に影響のない論点のごとくではあるが、他日、他の類似の事案が問題となつた場合には判決の結果を左右することのありうべき問題であるから、この際右の点につきまず私の意見を表示する。
(一)憲法二八条の労働基本権といえども絶対無制限なものではなく、公共の福祉の要請に応じ、これに合理的制限を加えることは違憲ではないが、労働基本権に対するそのような制限は、憲法二八条の法意に照らし、労働基本権を尊重確保する必要と、国民生活全体の利益を維持増進する必要とを比較考量して、両者の間に適正な均衡を保つことを目途として決定すべきであることは、既に当裁判所の判例(昭和三九年(あ)第二九五号、同四一年一〇月二六日大法廷判決、刑集二〇巻八号九〇一頁、いわゆる中郵判決)の判示するとおりである。そして、国家公務員や地方公務員も憲法二八条にいう勤労者にほかならず、これらの公務員も原則として同条の保障を受くべきものであつて、公務員は全体の奉仕者で、一部の奉仕者ではない(憲法一五条)からといつて、その一事をもつて、公務員に対して右労働基本権をすべて否定することは許されないというべきであるが、ただ公務員については、その担当する職務の内容は私企業におけるそれと異なり、一般に公共性が顕著であるから、その職務の具体的な内容に応じて、私企業における労働者の場合と異なる制約を受けることがあつてもやむを得ないといわなければならない。かように考えて来ると、本件で問題となつている国家公務員法(昭和四〇年法律第六九号による改正前のもの。以下国公法と略称する。)九八条五項が公務員の争議行為を禁止しているからといつて、いやしくも争議行為と認められる以上、すべての国家公務員につき一律に一切の争議行為を違法として禁止しているものではなく、具体的事案に即して公共の福祉の要請を充分勘案した上、同法条によつて禁止されている争議行為に該当するか否かを判断すべきであり、もしかような考慮を何ら払うことなく、国家公務員の一切の争議行為を違法として禁止するならば、それは憲法二八条違反というほかないことも、前記当裁判所の判例の趣旨とするところである。国公法の前記法条は単に「争議行為」というに止まり、同法八二条は懲戒に関する規定が置かれているから、単に法文を文字どおりに解すれば、国家公務員の一切の争議行為は禁止され、この法条に違反して争議行為を行つた場合にはすべて懲戒処分を受けることとなるがごとくであるが、これらの法条については当然憲法二八条の法意に即した適切な解釈が加えらるべく、その限度において争議行為が禁止され、かくして禁止された争議行為であつてはじめてこれに懲戒を加えることができるものといわなければならない。ここまでは多数意見と私は意見を異にするわけではない。
(二)しかし、本件は国家公務員の争議行為自体に刑罰を科するか否かではなく、その争議行為に対するあおり行為等に刑罰を科するか否かが問題となつているものであり、国公法一一〇条一項一七号は、同号の規定するあおり行為等を独立の犯罪行為として、これに刑罰を科することを定めた規定である。ところで、憲法二八条の法意に鑑み、国公法上禁止されているとは認められず、従つてまた国公法上懲戒処分の対象ともならないような争議行為であれば、それは憲法上適法な争議行為であり、憲法上の保障を与えられているのであるから、これを対象としてあおり行為等が行なわれたからといつて、前記国公法の刑罰法条の適用の余地のないことは明らかであるが、いやしくも国公法上違法と認められる争議行為を対象としてあおり行為等が行なわれた以上、これに対し前記刑罰法規の適用のあることは当然といわなければならない。しかるに、多数意見は、あおり行為等の対象とせられる国公法上違法な争議行為の中で、さらに争議行為の違法の程度、反社会性の程度に強弱の区別をたてて、多数意見が例示するような、その程度の強いものに対するあおり行為等がはじめて国公法の前記刑罰法条の適用を受けうるものであり、程度の弱いものに対するあおり行為等はその適用外であるとしているが、このような解釈は、憲法二八条、三一条の法意こ照らしても、また国公法の解釈の上からも、これを是認すべき根拠を欠き、私は到底これに賛同することはできないのである。もちろん、理論的には、国公法上違法と解されるような争議行為の中、その違法性ないし反社会性の程度の軽いものに対するあおり行為等に対して、不当に重い刑罰を科し、これがため公務員の争議行為自体が結局において不当に制約されるようなことになるとするならば、それは憲法二八条、三一条の法意に照らし、違憲の問題を生ずることがないとはいえないけれども、本件に関する限り、国公法の前記罰条はそのような場合に当たるとは考えられない。右罰条には、長期三年の懲役刑のほか罰金刑の定めもあるから、右刑罰法規の適用に当たつては、情状等を考慮することにより量刑の面で適切な斟酌をすることが可能であり、違憲の問題は生じないと考える。また、これを立法政策の面から考察しても、右罰条は立法府の有する立法に対する裁量権の範囲を逸脱しているものとは認められない。
(三)原審の確定した事実関係の下においては、本件あおり行為等の対象となつた争議行為は、昭和三五年六月四日仙台高等裁判所前で、午前八時三〇分から同九時三〇分までの勤務時間内に、仙台高等裁判所、同地方裁判所および同簡易裁判所の職員の職場大会を実施しようとするものであつて、そのようにまさに勤務時間にくいこんでこの種争議行為を行なうことは裁判所事務の明らかな停廃にほかならず、裁判所事務は、正義の実現と人権の保障とを目途とする司法権の行使につき不可缺のものであつて、裁判所職員の職務は極めて公共性の強いものというべく、またたとえ短時間であるとしても、本件におけるように勤務時間内にくいこんで裁判所の事務の運営を停廃するがごときは、まさに国公法九八条五項前段により違法として禁止される争議行為であることは多言を要せず、そして、その違法性は勿論極めて程度の強いものというべきであるが、これに国公法一一〇条一項一七号を適用するに当たつては、その程度の強弱を問題とすることは全く不必要であり、かく解することは何ら憲法二八条、三一条に違反するものではないと考えるのである。
(四)なお、当裁判所は、前記いわゆる中郵判決において、公共企業体等労働関係法(以下公労法と略称する。)一七条の解釈ならびに郵便法七九条一項の解釈につき、郵便法により郵政職員の争議行為に刑罰を科する場合の判断を示している。それによれば、右郵便法の法条はもつぱら争議行為を対象としたものでないことは明白であるが、反面、郵政職員が争議行為として同条所定の行為をした場合にその適用を排除すべき理由はなく、争議行為をした場合にも適用あるものと解するほかはないが、公労法は、同法一七条一項に違反してなされた違法な争議行為に対しては同法一八条により懲戒処分をする途を認めているに止まり、刑罰を科する規定は全く置いていないのに、前記郵便法の法条により例外として郵政職員の違法な争議行為に刑罰を科することとなる点を考えると、公労法の職員の争議行為自体の中に刑罰を科せられない場合と科せられる場合とがあることになる点に鑑み、刑事制裁を科せられる郵政職員の右争議行為は前記中郵判決判示のような特に違法性、反社会性の強度のものに限ると解するを相当とするとし、かく解することが、憲法二八条、公労法一七条一項の合理的解釈に沿う所以であるとしたのである。しかるに本件は、争議行為自体に刑罰を科する問題ではなく、違法とされる争議行為を対象としてなされたあおり行為等に刑罰を科することが問題となつているのであつて、前記中郵判決は、この点に関する限り、本件とは事案を異にし本件に適切でなく、あおり行為等の刑罰規定に関する多数意見の中、私の反対する前記の部分に関しては、中郵判決は何らの判示をも包含しているものではないと私は解する旨を附言したい。二、次に、多数意見があおり行為等を処罰しうるためには、あおり行為等がその対象とされた争議行為に通常随伴するものと認められるものでないことを要件としている点は、私もこれに賛同するが、この点につき若干補足意見を表示する。
私見によれば、多数意見の右のごとき解釈のよつて来たる所以は、そもそもあおり行為等は争議行為の発案、計画、遂行の過程として、他人に対し、争議行為を実行する決意を生じさせるような、またはすでに生じている決意を助長させるような勢のある刺激を与えることであつて、通常は対象とされる争議行為に従属的ないし附随的な性質のものであるから、動労者自らが争議行為をした場合は刑罰を科せられないとされているのに、そのような従属的ないし附随的行為につき刑責を認めるとすれば、それはその動労者が自ら行なう争議行為に実質的に包含されていると解される行為の一部を取り上げて処罰すると同様な結果となり極めて不合理であり、争議行為自体に刑責を負わせない立前と矛盾し、かくては労働基本権を認めた憲法二八条の法意にも反することとなるという配慮に出たものに外ならないと考える。それ故、ここに通常随伴するものと認められるものでないというのは、あおり行為等が例えば、組合における争議行為の共同意思に基づかないで争議行為の遂行を煽動するとか、争議行為の際に通常行なわれるような手段、方法、程度をこえた激越なものであるとか、故意に誤つた情報を提供し、欺岡、威力、暴力等の手段、方法を用いるとか等、社会通念上争議行為に伴つて行なわれるものとしては著しく不当と認められるような行為による場合をいうものと解するのが相当である。従つて、このような制限は、あおり行為等の行為者が、その者の行なう争議行為自体につき刑事罰を科せられないとされる動労者ないしそれと同等の立場にある者であつて、本来憲法二八条の保障の下に在るものにつき問題とされるのであり、しからざる純然たる第三者のように、全く憲法二八条の保障の下にない者については、このような制限は問題とならない。すなわち純然たる第三者のしたあおり行為等については、通常随伴するものか否かを考える余地も必要もなく、憲法二八条の要請とも無関係であつて、そのような第三者のあおり行為等がすべて国公法の前記罰条の適用を受けることは、法律の規定によりもとよりも当然というべきである。また、そのような第三者と共謀した者がたとえ動労者であつても、独立の犯罪者たる第三者の共犯者である以上、そのあおり行為等の行為は、争議行為て通常随伴すると解する余地も必要もなく、憲法二八条の要請とも無関係の事柄であつて、これまた国公法の前記罰条の適用を受けることは、法律の規定により当然というべきものと私は考える。その意味において、本件被告人らに刑責を負わせた原判決の結論は正当である。(なお、あおり行為等の対象とされた争議行為が、公務員の勤務条件の維持改善、経済的立場の向上等労働争議本来の目的達成に関係はあるが、その手段、方法、態様等からみて、公共の福祉の要請上許容し得ず違法とされるようなものであれば格別、労働争議本来の目的と全く無関係に、例えば専ら政治的目的達成のための政治運動が、争議行為の形態を採つてなされたような場合には、そのような争議行為は、憲法二八条の保障とは無関係なものというべきであろう。しかし、私はそのような争議行為も実定法たる国公法上の争議行為という中には包含されていると思う。そしてたとえそのような場合であつても、そのあおり行為等をした者が動労者自身であれば、現行国公法が、その者のする右のような争議行為自体に刑罰を科さない立前であるとすれば、それとの均衡上、右あおり行為等のみに刑罰をもつて臨むことは、それが右争議行為に通常随伴するものと認められるものである限り、憲法三一条の要請から、または現行国公法の妥当な解釈の上から、許されないと解するのが相当ではないかと考える。そして本件は、原審の確定したところによれば、新安保条約に反対するための労働争議に対するあおり行為等に関する事案であるが、本件は、被告人らが本件あおり行為等を第三者と共謀して行なつたというのであるから、右の点は、判決の結果には影響のないことに帰するので、ここではただ問題の所在を指摘するに止め、これ以上の詳述は省略する。)

+意見
裁判官岩田誠の意見は、次のとおりである。
一、法律の規定をその文字どおりに解釈すると違憲の疑のある場合には、これに可能なかぎり合理的限定解釈を加え憲法の趣旨に調和するよう解釈すべきものであり、国家公務員法(昭和四〇年法律第六九号による改正前のもの。以下国公法という。)一一〇条一項一七号の規定を解釈するに当つても右のような限定解釈を加うべきものであることは多数意見の判示するとおりである。
二、よつて按ずるに、国公法一一〇条一項一七号は、争議行為自体を行なつた者は処罰しないけれども、争議行為の遂行を共謀し、そそのかし、あおり、またはこれらの行為を企てた者を処罰する旨定めている。しかし、職員組合の行なう争議行為は、通常組合の役員または組合員から発案され、所定の議決機関の決議を経、これに従つて実行されるものと解されるので、右争議行為の「遂行を共謀し、そそのかし、あおり、企てる」行為(以下「あおり行為等」という。)のような行為が、その組合において、本来の目的たる勤務条件の維持改善、経済的地位の向上およびこれと関連する事項を目的とし、自主的に行なう争議行為の発案、計画、遂行の過程として行なわれる場合にこれを刑罰をもつて処罰することは、結局刑罰をもつて、すべての公務員に対し、一切の争議行為を禁止することになり、憲法二八条に違反する疑が生ずる。したがつて、国公法によつて認められた国家公務員の職員組合がその本来の目的達成のため自主的に行なう争議行為の発案、計画、遂行の過程として行なわれる「あおり行為等」は(組合の役員または組合員は勿論、それ以外の者であつても、その組合の上部組織若しくは連合体の役員のような者によつて行なわれても)、暴力等を伴わないかぎり、国公法一一〇条一項一七号にいう「第九十八条第五項前段に規定する違法な行為の遂行を共謀し、そそのかし、若しくはあおり、又はこれらの行為を企てた」場合に当らないものとして処罰の対象にならないと解すべきである。
これを要するに、組合本来の目的を超えて行なわれたと認められる国家公務員の争議行為に対する「あおり行為等」、および組合が自主的に行なう争議行為の発案、計画、遂行の過程として行なわれるものでない一切の「あおり行為等」は、本条項に該当し、処罰の対象となるものと解する。何となれば右各行為はいずれも憲法二八条が勤労者に保障する労働基本権の行使とはいえないからである。
三、多数意見は、「あおり行為等」を処罰するには、争議行為そのものが、職員団体の本来の目的を逸脱してなされるとか、暴力その他これに類する不当な圧力を伴うとか、社会通念に反して不当に長期に及ぶなど国民生活に重大な支障を及ぼすとか等違法性の強いものであることのほか、「あおり行為等」が争議行為に通常随伴するものと認められるものでないことを要するものと解すべきであるとする。
右多数意見の趣旨とするところが、国公法一一〇条一項一七号を憲法に合致するように限定的に解釈するための基準を、「あおり行為等」の対象となる国家公務員の行なう争議行為の違法性の強弱にも求め、違法性の強い争議行為の「あおり行為等」にかぎり、国公法一一〇条一項一七号により処罰できるとするにあるならば、にわかに賛同できない。私は、「あおり行為等」の対象となる争議行為(国公法九八条五項は、国家公務員の争議行為を禁止しているから、国家公務員の争議行為は、国公法上は原則として違法である。〔刑事罰をもつてのぞむべき違法の意ではない。〕)について、その違法性の強弱により国公法一一〇条一項一七号の適用の有無を決すべきではないと思う。「あおり行為等」の対象となつた争議行為が、国家公務員の勤務条件の維持改善、経済的地位の向上およびこれと関連する事項を目的とするものではなく、例えば政治的意図の達成を目的とするものであるときは、かかる争議行為は憲法二八条の保障するところではないから、かかる争議行為を対象とする「あおり行為等」は、それが争議行為に通常随伴するものであると否とを問わず、憲法二八条の保障する労働基本権の行使とはいえない。また「あおり行為等」についても争議行為に通常随伴する行為は、違法性が弱いから処罰されないというのは賛同できない。むしろかゝる行為は、対象たる争議行為が組合の本来の目的達成のための争議行為である限り、憲法二八条の保障する動労者の労働基本権なかんづく団体行動権の行使と認められるから、かゝる行為は、国公法一一〇条一項一七号のいう「あおり行為等」にあたらないので処罰できないというべきものと思料する。
四、これを本件について見るに、第一審判決が確定し、原判決が是認支持した限度の事実関係によれば、当時新安保条約は、憲法に違反し、日米両国間の軍事同盟的性格を有し、却つて日本の平和と安全を脅かすものとして、新安保条約改訂反対運動が、J党をはじめ一部政党、労働組合その他諸種の団体によつて広く行なわれていたのであるが、被告人ら(同Aを除く。以下同じ。)は、右反対運動の一環として、仙台高等裁判所、同地方裁判所、同簡易裁判所の職員に対し、昭和三五年六月四日午前八時三〇分から九時三〇分までの一時間勤務時間内に食い込み同高等裁判所前で新安保条約反対のため行なわれる職場大会に参加するよう第一審判決の判示第一(後段のいわゆる間接あおりの部分を除く。)または第二に掲げる行為をしたというのであり、かつ、右職場大会は、前示各裁判所職員の団体であるB労働組合仙台支部の職場大会であるというのである。してみれば、右職場大会は裁判所の職員団体による争議行為であること明らかであり、その目的とするところは、新安保条約改訂に反対しようとする政治目的のためのもので、職員団体の目的である裁判所職員の勤務条件の維持改善、経済的地位の向上およびこれと関連する事項を目的とするものとは到底いえないものであり、かゝる争議行為は憲法二八条の保障するところではない。したがつて、かゝる争議行為たる右職場大会への参加を慫慂する行為は、国公法一一〇条一項一七号にいわゆるあおり行為にあたること明らかであつて、被告人らの右所為が争議行為に通常随伴するものであるか否かを問うまでもなく、被告人らに罪責のあること論をまたない。
右に記した以外の点については、いずれも多数意見に同調する。

+意見
裁判官奥野健一、同草鹿浅之介、同石田和外、同下村三郎、同松本正雄の意見は、次のとおりである。一、国家公務員は、国民の信託により、全体の奉仕者として国政に干与するものであつて、その使用者である国民大衆に対して同盟罷業、怠業その他の争議行為をなすことは、国民の信託に叛き、国政の活動を停廃せしめ、国民生活に重大な障害をもたらし、公共の福祉に反するものであるから、国家公務員法(昭和四〇年法律第六九号による改正前のもの、以下同じ)九八条五項は、違法な行為として、これを禁止しているのである。また、地方公務員法三七条一項は、同様の趣旨において地方公務員の争議行為を違法な行為として禁止しているのである。これら公務員の争議行為の禁止は、公共の福祉の要請に基づくものであつて、憲法二八条に違反するものということはできない。
法は、右の如く公務員の争議行為を違法な行為として禁止しながらも、それに違反して争議行為自体に参加した個々の公務員に対しては、刑罰を科することなく、公務員として保有する任命上文は雇用上の権利を奪う制裁を科し得るに止めている。しかし、法は、公務員の争議行為は国民又は地方住民に対し、重大な損害を与えるものであることに鑑み、かかる違法な争議行為の原動力となり、これを誘発、指導、助成する、いわゆる煽動者等に対しては刑事制裁を科し、もつて違法な争議行為の禁遏の実を挙げようとしているのである。すなわち、違法な争議行為に原動力を与える者は、単なる争議に参加した者に比して、反社会性の強いものとして、特別の可罰性を認めるべきであるとの観点から、争議に対し指導的役割をなす煽動者等のみを処罰することにより、違法な争議行為の防止と刑政の目的を達し得るものと考えたのである。かくの如く、集団行動による違法行為について、その原動力となつた煽動行為等の違法性を特に重視することは十分合理性のあることであり、内乱罪、騒擾罪などの処罰方式の例にも見られるところであり、決して不合理な立法ではなく、固より、立法政策の範囲内に属するものであつて、違憲とはいい難い。
そして、法が違法な争議行為に対する誘発、指導、助成の原動力となるものとして処罰せんとする「あおり」についていえば、「あおり」の概念は、「違法行為を実行させる目的をもつて、他人に対し、その行為を実行する決意を生ぜしめるような、またはすでに生じている決意を助長させるような勢のある刺激を与えること(昭和三三年(あ)第一四一三号同三七年二月二一日大法廷判決、刑集一六巻二号一〇七頁参照)」をいうものと解するのが相当であり、その構成要件の内容が漠然としているものではない。そして法は、「あおり」行為について何らの限定を設けていないのであるから、いやしくも前記「あおり」の行為に該当するものである限り、これを可罰性のある違法な行為とする趣旨であつて、これらの行為をその違法性の強弱によつて区別し、特に違法性の強いものに対してのみ刑事制裁を科するものであると解する余地は、法文上考えられないところである。
「あおり」の対象となつた争議行為自体の態様により、その違法性の強いもの、ないし刑事罰をもつてのぞむべき違法性のあるものである場合に限つて、「あおり」を処罰する趣旨であると解することも到底是認できない。けだし、法は、争議行為自体を処罰しないとしながら、敢てこれをあおつた者を処罰すると規定しているのであるから、違法性の強いもの、ないし刑事罰をもつてのぞむべき違法性のある争議行為をあおつた場合に限り、あおり行為を処罰する趣旨と解することは、ことさらに明文に反する解釈であるからである。
それ故、「あおり」の罪が成立するためには、その「あおり」の対象となつた争議行為自体の正当性の有無を論ずる余地はなく、したがつて、その争議行為が例えば政治的目的のために行なわれたものであるか否かという如きことは、同罪の成否になんら影響を及ぼすものではないというべきである。しかも、もともと法律上争議権を否定された公務員が、「正当な争議行為」をすることができないのは当然であるから、国家公務員法附則一六条、地方公務員法五八条の規定をまつまでもなく、争議行為として「正当なもの」について、刑事免責を規定した労働組合法一条二項の規定が公務員の争議行為に適用の余地のないことは明白であつて、この点からいつても、「あおり」の対象となつた争議行為自体の正当性ないし刑事罰をもつてのぞむべき違法性の有無を論ずることは理由がないといわなければならない。
また、争議には、企画、共謀、指令、伝達等は、通常、一般的に随伴し、争議と不可分の関係にあるものであつて、組合構成員は当然これに干与するのであるから、これを処罰することは、争議行為を処罰することになるから、組合構成員の「あおり」行為は除外すべきであるとの解釈論も是認することはできない。けだし、国家公務員法九八条五項後段、一一〇条一項一七号、、地方公務員法三七条一項後段、六一条四号は、「何人も」および「何人たるを問わず」あおり行為をした者を処罰する旨を明定しており、あおつた者が組合構成員であると、組合構成員以外の第三者であると、また組合構成員がそれ以外の第三者と共謀した場合であるとを問わず、また争議に当然随伴し、これと不可分の関係において為した者であると否とを問わず、等しく処罰する趣旨であることが明白であるからである。
これを要するに、「あおり」の概念を、強度の違法性を帯びるものに限定したり、「あおり」行為者のうち、組合構成員と組合外部の者とを区別し、外部の者の行為若しくはこれと共謀した者の行為のみが処罰の対象となると解したり、または「あおり」の対象となつた争議行為が違法性の強いもの、ないし刑事罰をもつてのぞむべき違法性のあるものである場合に限り、その「あおり」行為が可罰性を帯びるのであるというが如き限定解釈は、法の明文に反する一種の立法であり、法解釈の域を逸脱したものといわざるを得ない。
二、以上の見解に立つて本件を見るに、被告人ら(Aを除く。)の本件行為(第一審判決判示第一後段のいわゆる「間接あおり」の部分を除く。)が国公法一一〇条一項一七号の「あおり」行為に当たることは明らかであつて、被告人らの右行為につき同号を適用処断した原判決は、結論において正当である。

+反対意見
裁判官色川幸太郎の反対意見は、次のとおりである。
一、本件においては、「争議行為」の遂行をあおつたことが問題とされているのであるが、原審判決は、「争議行為」とは、「公務員の団体行動として、当局側の管理意思に反し、国の業務の正常な運営を阻害するが如き行為」であるとなし、本件職場大会を以て、安保改定阻止運動の一還たる抗議集会であると認定しながら、「いわゆる政治ストと呼ばれる争議」もまた国家公務員法(昭和四〇年法律第六九号による改正前のもの。以下国公法という。)九八条五項の禁止の対象になると断定した。その理由として述べるところは、同項は「国民全体の奉仕者である国家公務員が責務を懈怠し、国民との間の信託関係に背くような危険を防止するにある」からというのである。そうだとすれば、何故に団体行動でなければ禁止の対象にならないのかが理解しにくいのであるが、それはとにかく、業務の放棄それ自体が目的といえば目的で、何らか別段の要求貫徹の手段としてなされるものでない、享楽等のための集団職場離脱(これこそ国民の信託に背く職務懈怠の最たるものであろう。)の如きも、原判決の定義によれば「争議行為」に含まれることにならざるを得ない。いやしくも刑罰法規の解釈である以上、およそ上述の如き明確性を欠いた、漠然たる定義づけは許されないと考えるのであるが、いずれにしても、かかる解釈をとることができない所以は以下述べるところで明らかになるであろう。多数意見は、その定義づけを容認し、国公法九八条五項の「争議行為」には政治目的のためのものをも含むと即断して、被告人らの所為に対する同法一一〇条一項一七号の適用を是認しているのであつて、私のとうてい賛成し能わざるところである。
二、国公法は、「争議行為」の意義について何ら規定していないのであるが、私は、それを労働関係調整法(以下労調法という。)七条に求むべきものであると考える。「争議行為」という用語は、「同盟罷業」や「怠業」などと異なり、戦後の立法においてはじめて使われたものであつて、従前より慣用されてきた日常語ではなく、純然たる法律上の技術的なことばである。したがつて、その意義如何は、何よりもまず法令に解釈の根拠を求めるべきものであろう。ところで、現行法で「争議行為」なる用語を用いているのは、上述の国公法及び労調法のほか船員法(三〇条)、公共企業体等労働関係法(一七条)、労働組合法(八条)、地方公務員法(三七条)、電気事業及び石炭鉱業における争議行為の方法の規制に関する法律(二条、三条)及び自衛隊法(六四条)であるが、労調法を除けば、しかもその半ば以上は刑事制裁を伴う争議行為の禁止法であるにもかかわらず、「争議行為」とは何であるかについての定義規定を全く欠いている(ただし船員法のみは「労働関係に関する争議行為」と規定して「争議行為」の一応の枠を明らかにしている。これは昭和一二年法律第七九号の旧船員法において、同法六〇条が「左ノ各号ノ一に該当スル場合ニ於テ船員カ労働争議ニ関シテ労務ヲ中止シ又ハ作業ノ進行ヲ阻害シタルトキハ年以下ノ懲役又ハ五百円以下ノ罰金ニ処ス」としていたところをうけたものであろう。船員法を除くその余の前記の法律が「争議行為」について上述のような限定をしていないことは、これらの立法の趣旨に鑑み、かつ対象を共通にすることを考慮するならば、反対解釈を許すものではなく、逆に類推を強く要請するものと解するのが相当である。)ことは、看過されてはならない事実である。労調法が公布されたのは昭和二一年九月二七日でありその余の前記の法律の制定公布はことごとくこれにおくれている(右の列挙は公布の順序によつた。船員法の公布は昭和二二年九月一日である。)のであるし、労調法をもつていわゆる労働三法の一とよぶかどうかは問題であるとしても、労働組合法と同様、集団的労働関係を規整せんとする基本的な法律であることには間違いないのであるから、これら爾後の立法における「争議行為」なる用語の意義は、大筋においては労調法の定義規定を踏襲したものと解さざるを得ないのである。
もつとも、説をなす者は、労調法七条をもつて、労働委員会が労働争議の調整に乗り出す前提条件として規定したに過ぎないものとなし、この定義は、調整と無関係な他の法律には適切でなく、公務員沫等の各種の法律における「争議行為」をしかく限定的に解すべきではないという。論者のいう如く、元来、労使の紛争は、自主的な解決を建て前とするのであつて、労働委員会が、過早に介入することは妥当を欠くが故に、いかなる場合にこれらの機関が調整活動を開始すべきかを規制する、いわば一種の歯止めがなければならない。そこで、調整をなすためには労使の紛争が争議状態にまでなつたことを必要とするというのが七条であつて、その点が同条の立法目的の一つであることは争のないところであろう。しかし、これは楯の反面なのである。立法当初における労調法の構成を見ると、労働関係調整法というその名称にもかかわらず、単に労働争議の調整に関する法律であるにとどまらないことは一目瞭然たるものがある。労調法は、まさに労働争議の調整手続(二章乃至四章)及びそれに附帯する争議行為届出義務の設定(九条)、争議行為の保障(旧四一条)並びに争議行為の制限禁止(三六条、三七条、旧三八条、旧三九条)の三本立てとして発足したのであつた。注目すべきは、次の旧三八条である。
「第三十八条 警察官吏、消防職員、監獄において勤務する者その他国又は公共団体の現業以外の行政又は司法の業務に従事する官吏その他の者は、争議行為をなすことはできない。」そして、右規定に違反した場合の制裁として、当該団体及びその役員に総額一万円の罰金が課せられることになつていた(旧三九条)。かくの如くにして、それまで争議行為を自由になし得た官公吏も、現業職員を除き、その行動を大幅に制約されることになつた次第である。
右法条は、後に述べるような経緯で昭和二四年法律第一七五号により削除せられ同法三八条はしばらく空欄となつていたが、その後、昭和二七年法律第二八八号を以て緊急調整制度が設けられたときに現に見る如く追加されたので、今は全く旧態をとどめていない。しかし、現行法の構成を見ても、同法はひとり労働争議の調整手続を規定するだけでなく、第五章ではいまなお争議行為の制限禁止を規定しているのである。かくして、同法七条の「争議行為」の定義は、六条にいう「労働争議」(これこそ調整の前提条件を定めるものである。)の基底たる観念を明らかにするとともに、制限禁止の対象たる行為の限界を劃するという意味を、当初より今日まで持ちつづけているわけである。
三、ところで、労調法七条の定義は、国公法九八条にいう「争議行為」といかなる関係にあるのであろうか。これを知るためには、立法の沿革と変遷をたずねなければならない。労調法は、前述のとおり、公務員の争議行為を禁圧する戦後最初の立法である。しかし、旧三九条の規定した違反に対する処罰はほとんど名目にすぎなかつたばかりでなく、尨大な数にのぼる国鉄、郵政その他の現業公務員(その組織する組合こそ全日本の労働組合運動において中核的な存在であつた。)は、すべて旧三八条による規制の時外にあつた。なお、国家公務員法(昭和二二年法律第一二〇号)は、もとより争議行為について全然ふれるところがなかつたのである。当時の客観的諸情勢を見ると、破壊的な悪性インフレはとめどもなく昂進し、それに刺戟せられた労働運動はいよいよ激しさを加え、昭和二三年七月ごろには五二〇〇円給与ベースをめぐる全官公労組と政府との激突となり、同年八月初旬を期しての官公吏を中心とした未曾有の規模のストアフイキはもはや避けられないという緊迫した情勢になつた。この空前の争議行為を未前に防遏するために発せられたのが、芦田内閣総理大臣に対する同年七月二二日付マッカーテー連合国最高司令官書簡である。この書簡中、本件に関係する個所(これが書簡の主要な部分をなしている。)は、要するに、公務員の性格を論じてそれと私企業従事者との間の顕著な差異を指摘し、それであるが故に、公務員は、私企業において認められているような団体交渉の手段を採ることができないとし、さらに進んで、公務員は、公共の信託に対し無条件な忠誠義務があるのであるから、要求を通すための、政府の運営を妨害する意図を示すような争議行為は、公務員にはとうてい許し難いと論断したのち、国家公務員法はかかる考え方に適合した方向へ全面的に改正する必要があり、日本政府はその作業に即刻着手するべきである旨を示唆したものであつた。これに聴従した政府は、さしあたり、国公法の全面改正にいたるつなぎとして、同月三一日、政令第二〇一号を以て「昭和二三年七月ニ二日附内閣総理大臣宛連合国最高司令官書簡に基く臨時措置に関する政令」(以下政令二〇一号という。)を公布、即日施行した。その内容は三カ条から成るが、一条は、国又は地方公共団体の職員の地位にあるすべての公務員は、争議行為を裏付けとする団体交渉の権利を有しないこと、従前の協約は失効すること、また、労働委員会は、公務員と国等の間における労働争議についてはこれを処理する権限を失い、爾後臨時人事委員会のみが公務員の利益を保護する機関になることなどを定め、二条は、争議権を一切否定し、三条は、前条に違反した場合の罰則を規定したものである。以上の如くであつて、この政令による争議権の否定は、団体交渉権(いうまでもなくこれは使用者を相手方とするものである。)の否定と離れ難くからみあつていることが注目される。要するに、マッカーサー書簡」おける禁圧の要請も、この政令二〇一号による禁止も、団体交渉と密着した、すなわち、被用者対使用者との関係における争議行為を否定したものであり、団体交渉と無関係な業務阻害行為一般を目ざしたものでないと解することができる。換言すれば、公務員について憲法二八条の保障を大幅に取り除いたものなのである。このことは、基本権制限の代償として臨時人事委員会をあげていることからも推察するに難くはあるまい。何となれば、右機関は、後の人事院であつて、現在の人事院と同様、給与その他の勤務条件の改善、その他人事行政の公正確保及び職員の利益の保護に当ることをその目的とし、政治上の要求の調整や社会生活における不平不満の解消などは、およそその任でなかつたからである。
ところで、同年一一月には、総司令部の強い示唆の下に作成された国公法の改正案が国会に上程せられ、同年一二月その成立を見た。争議行為禁止に関する部分については、関係委員会においても突込んだ審議がなされることなく、無修正で国会を通過し、昭和四〇年法律第六九号による改正前の国公法九八条及び一一〇条一項一七号の制定となり、同時に労調法旧三八条は国家公務員に対してはその適用が除外された。つづいて同条は、労調法の第一次改正(昭和二四年六月一〇日)の際に削除せられ、ここに旧三八条は、国公法九八条、一一〇条一項一七号として生れ変つたのである。
以上の沿革に徴すると、国公法九八条にいう「争議行為」の意義は、まさに労調法七条に定めるところと何の差異もないと解すべきものと考えるのである。
四、労調法七条は、「この法律において争議行為とは、同盟罷業、怠業、作業所閉鎖その他労働関係の当事者が、その主張を貫徹することを目的として行う行為及びこれに対抗する行為であつて、業務の正常な運営を阻害する行為をいう」と規定する。これによれば、「争議行為」とよばれるのは、(イ)労働関係の当事者の、(ロ)ぞの主張を貫徹することを目的とする行為であつて、(ハ)その態様が業務の正常な運営を阻害する程度のものでなければならない。いま本件に即して考えると、およそ次のとおりである。
第一に、「争議行為」は、労働関係の当事者としての立場における行為である。当事者とは、労調法の立法趣旨からいつて、集団的労働関係の場におけるものをさし、個々の労使関係を意味するものではない。個人としての労働者がなす業務阻害行為は、争議行為として扱う限りではないのである。また、労働者は、使用者に対する関係で被用者であるとともに一個の市民もしくは国民であつて、その団体は、一面においては市民もしくは国民の集合体であるから、使用者との対抗・角逐とはかかわりのない、市民もしくは国民としての立場における行動(社会活動または政治活動)に出ることはもとより妨げないし、また事実しばしば行われているわけである。しかし、これは労働関係の当事者としての行動ではない。公務員及びその団体についても事は全く同様であつて、一面においては労働関係の当事者であるが、他面においては市民もしくは国民であり、そしてその集合体なのである。これとまさに対応した関係において、政府も一面においては労働関係上の使用者であり、他面においては主権を行使する国家の機関として現われる。使用者としての政府は、私企業における使用者と本質的に異なるところはないのであるから、公務員の団体による対抗を承認し、これと対等の立場で交渉することが要請されるのである。政府の有するこの二面性については、つとに指摘されているところであつて、疑問の余地はないであろう。公務員は、被用者としては、使用者たる政府と相見えるのであつて、被治者対治者の関係においてではない。公務員が団体として政府に立ち向う行動は、これを大別すると、(イ)労働関係を前提とした要求貫徹のための行動、(ロ)国民の立場で政策の変更を迫り或は施策に反対する行動、(ハ)掲ぐべき要求のない、職務懈怠そのものとしての集団的な職場離脱その他の行動、以上三つが考えられるわけであるが、国公法九八条五項にいう法律用語としての「争議行為」は、そのうちの(イ)に限られるのである。(国公法九八条五項は、争議行為の禁止とともに「政府の活動能率を低下させる怠業的行為」の禁止を規定している。条文の表現だけからすると、争議行為とは別異の怠業的行為なる類型を設けたかの如くであるが、立法の理由を按じ、また事実上の根拠となつたマッカーサー書簡と照合するならば、この規定は、当時官公労組の採つた戦術である定時退庁、一斉賜暇等、一見合法的ないわゆる遵法闘争を封殺せんとして念のために設けられたに過ぎないのであつて、そうである以上、これまた上記(イ)に属する争議行為の一種にほかならない。)
五、第二に、争議行為とは、主張の貫徹を目的とした行為(労調法七条にいう「対抗する行為」も、大づかみにいえば、ここにいう主張の貫徹に含まれるであろう。)である。主張貫徹の可能性の有無を問わないから、反対のための単なる示威であつても、主張の貫徹のためになされた行為で正常な業務の運営を阻害するものである限り、争議行為たるを妨げない。次に、その主張するところが労働関係上のものであることを要するか、それとも何らの限定もないのかについては問題のあるところであり、同法六条との対比から後者だとする見解もあるが、七条が、前述のように、争議調整の前提条件たる「労働争議」とは何であるかを明らかにするための定義規定をもかねていること、そしてまた、「争議行為」が労働関係の当事者たる立場においての行為でなければならないことなどを考慮するならば、これを労働関係上の要求に限ると解すべきであろう。そうだとすれば、国民の立場において政府の施策に反対し又はその政策の変更を強いるためのいわゆる政治ストは、国公法九八条五項にいう法律用語としての「争議行為」には含まれないものといわなければならない。本件の職場大会は、約七〇名にものぼる多数の裁判所職員の参加の下に、午前八時三〇分より九時三〇分までの間、勤務時間に食いこんで開催されたものだというのであるから、裁判所の正常な業務の運営を阻害したことは否定できないのであるが、その標榜したところは、新安保条約に対する抗議意思の表明であり、主権の行使者としての政府に向けた行動であつて、使用者としての政府を名宛人とするものではなかつたのである。そしてまた、その主張するところが労働関係上の、例えば勤務条件等に関するものでなかつたことは一点の疑もないのであるから、前述したところにより、これが「争議行為」に当たるものでないことは多言を要しない。かかる行動に対しては、他の法条による規制はあり得るとしても、国公法一一〇条一項一七号を以て問擬すべき限りではないのである。
六、元来、公務員は、憲法二八条にいう動労者であり、原則的には同条の保障を受けるきものであるが(昭和三九年(あ)第二九六号同四一年一〇月二六日大法廷判決、刑集二〇巻八号九〇一頁、以下全逓中郵事件判決という。)、憲法二八条の法意とするところは、「企業者対動労者すなわち使用者対被使用者というような関係に立つ者の間において、経済上の弱者である動労者のために団結権乃至団体行動権を保障したもの」(昭和二二年(れ)第三一九号同二四年五月一八日大法廷判決、刑集三巻六号七七二頁)であつて、この「狙いは、憲法二五条に定めるいわゆる生存権の保障を基本理念とし、動労者に対して人間に値する生存を保障すべきものとする見地に立ち、……経済上劣位に立つ動労者に対して実質的な自由と平等とを確保する手段として、その団結権、団体交渉権、争議権を保障しようとするものである」(全逓中郵事件判決九〇五頁)。而して、憲法によるこの労働基本権の保障は、労働組合法によつて具体化されているのであるが、同法の目的とするところは、労働者が使用者との交渉において対等の立場に立つことができるように団結を擁護し(同法一条一項前段)、団体交渉及び団体行動を保護助成する(同項後段)ことにあり、労働者乃至その団体に対し、使用者との関係を捨象した、対国家、対社会の面において、一般国民乃至その団体と別異の特権的な処遇を与えようとするものではない。労働組合法の擁護する団結権は、同法一条一項に示すところのものであり、その保護する団体行動は、同項に規定する範囲に限局されるのである。労働組合に政治活動の自由のあることはいうまでもないし(昭和三八年(あ)九七四号同四三年一二月四日大法廷判決、裁判所時報五一一号二頁参照)、労働組合の政治活動が刑事法上当然に違法と評価さるべき何らの理由もないけれども、労働組合法は、労働組合の一般政治活動については、労使の経済上の取引とは没交渉である限り、保護も与えず、禁止もなさず、いわば黙して語らないのである(二条四号は、いかなる団体を同法上労働組合として取扱うかという見地にたつて、その資格要件を定めたに過ぎない。)。
ところで、労調法旧三八条は、旧労働組合法(同法は、公務員の労働基本権を原則的には保護していたのである。)の規定にもかかわらず、現業を除く官公吏の争議権に重大な制約を加えたものであるから、同法条は、旧労働組合法の特別法たる性質を有するわけである。けだし、これらの公務員は、使用者との関係において団結権、団体交渉権及び争議権の保護を受けていたところ、そのうちの争議権についてこれを禁圧せられるにいたつたのであるから、その対象たる争議権とは、憲法二八条にいうところのものにほかならず、すなわち使用者との関係において争議行為をなすところの権利であることはむしろ自明というべきであるからである。要するにいかなる意味においても、それ以外の面における団体行動を規制するものではないとしなければならない。而して、さきに述べた沿革からいつて、国公法九八条は、労調法旧三八条を換骨奪胎したものというべきであるから、国公法九八条は、まさに労働組合法の特別法たる関係となり、同条がおよそ政治活動の制約を目ざしたものでないことに、たやすく想到し得る筈なのである。
七、これを当該法条の表現に徴すると、同条には、「職員は、政府が代表する使用者としての公衆に対して……争議行為をなし又は……怠業的行為をしてはならない」云々とある。公衆が言葉の本来の意味において使用者であるかどうかはともかく、およそ「争議行為」が使用者に向けてなされるものであるとしていることは、これを通じて看取するに十分である。もとより「公衆」は組織されているわけではないから、「公衆」と公務員との間に法律関係が成立するに由がなく、労働関係は任命権者を通じて政府との間に生ずるわけであつて、使用者としての「公衆」というのは、主権が国民に存し、一切の公権力は国民に由来するという象徴的意味でしかあるまい。それはそれとして、同条にいう「争議行為」が使用者としての政府を名宛人にしていること、その点で労調法七条と符節を合するもののあることに留意さるべきである。いうまでもなく、使用者とは、労働契約の当事者として、労働者を雇用する地位にあるものの謂であり、主権の行使者としての政府とは全然別の概念である。労働関係とは無関係の、例えば政治的な要求を掲げての統一行動は、それが正常な業務を阻害するものであつても、後者の意味においての政府に挑戦するものにほかならず、国公法九八条の関知するところでないことはいよいよ以て明らかであると信ずる。
八、本件職場大会は、新安保条約に反対する純然たる政治活動である。「ストライキ」という言葉は日常的な慣用語であるから、これを政治ストとよぶことは自由であるが、それは学生の安保反対のための一斉休学をストライキとよぶことと多く異なるところはないのであつて、国公法九八条にいう「同盗罷業」は、これと厳密に区別されなければならない。けだし、同条の「同盟罷業」は、同条にいう「争議行為」の下位概念であり、上述した「争議行為」の定義はすべて「同盟罷業」に当てはめられなければならないからである。
ところで、前示全逓中郵事件判決は、公共企業体等労働関係法一七条一項に違反した争議行為であつても、それが労組法一条一項の目的を達成するためのものであり、かつ単なる罷業または怠業等の不作為が存在するにとどまり、暴力の行使その他の不当性を伴わない場合には、刑事制裁の対象とはならないが、「もし争議行為が労組法一条一項の目的のためではなくして政治的目的のために行われた場合」等においては、「争議行為としての限界性をこえるもので、刑事制裁を免れない」と説示している。人あるいはこれを目して、当裁判所は一般的に公務員等によるいわゆる政治ストの可罰性を認めたものとするかも知れない。しかし、全逓中郵事件は、公共企業体等労働関係法(これは、いうまでもなく、争議行為に対する刑罰規定をもたない。)の適用下にある郵政職員について、郵便法の罰則規定である同法七九条一項の適用があるか否かを論じたものに過ぎず、さらに進んで、一般に、公共企業体等の職員によるいわゆる政治ストが刑罰の対象となるかどうかは右の事件では全く問題外であつたのである。のみならず、いわゆる政治ストが国公法九八条にいう「争議行為」でないことは、既に論じたとおりであるから、国家公務員による政治的目的のための本件行為が可罰的であるかどうかは、国公法一一〇条一項一七号違反として起訴された本件においては、全く問題にならないのである。(この点については、憲法一五条二項に定める公務員の中立性と憲法二一条による市民としての表現の自由との関連において、国公法一〇二条、一一〇条一項一九号及び人事院規則一四―七の合憲性もしくはその適用の範囲が判断されなければならないのであるが、それは別途検討さるべきものであつて、今これを論ずる限りではない。)
以上要するに、国公法九八条の「争議行為」に属しない本件職場大会のあおり行為に対し、同法一一〇条一項一七号の適用を是認した原審判決には、法律の解釈を誤つた違法があり、破棄をまぬかれない。

・都教組事件は、地方公務員についていわゆる「二重の絞り論」を採用し、同日の判決(全司法仙台事件)は、国家公務員についても同様の判断を下した。
しかし、全農林警職法事件は、全司法仙台事件判決を変更し、あおり行為等処罰規定を全面的に合憲とした!!!

+判例(S48.4.25)全農林警職法事件
理由
弁護人佐藤義弥ほか三名連名の上告趣意第一点、第三点、第五点について。
所論は、原判決が国家公務員法(昭和四〇年法律第六九号による改正前のもの。以下、国公法という。)九八条五項および一一〇条一項一七号の各規定を憲法二八条に違反しないものと判断し、また、国公法一一〇条一項一七号を憲法二一条、一八条に違反しないものとして、これを適用したのは、憲法の右各条項に違反する旨を主張する。

一 よつて考えるに、憲法二八条は、「勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利」、すなわちいわゆる労働基本権を保障している。この労働基本権の保障は、憲法二五条のいわゆる生存権の保障を基本理念とし、憲法二七条の勤労の権利および勤労条件に関する基準の法定の保障と相まつて勤労者の経済的地位の向上を目的とするものである。このような労働基本権の根本精神に即して考えると、公務員は、私企業の労働者とは異なり、使用者との合意によつて賃金その他の労働条件が決定される立場にないとはいえ、動労者として、自己の労務を提供することにより生活の資を得ているものである点において一般の勤労者と異なるところはないから、憲法二八条の労働基本権の保障は公務員に対しても及ぶものと解すべきである。ただ、この労働基本権は、右のように、勤労者の経済的地位の向上のための手段として認められたものであつて、それ自体が目的とされる絶対的なものではないから、おのずから勤労者を含めた国民全体の共同利益の見地からする制約を免れないものであり、このことは、憲法一三条の規定の趣旨に徴しても疑いのないところである(この場合、憲法一三条にいう「公共の福祉」とは、勤労者たる地位にあるすべての者を包摂した国民全体の共同の利益を指すものということができよう。)。以下、この理を、さしあたり、本件において問題となつている非現業の国家公務員(非現業の国家公務員を以下単に公務員という。)について詳述すれば、次のとおりである。

(一) 公務員は、私企業の労働者と異なり、国民の信託に基づいて国政を担当する政府により任命されるものであるが、憲法一五条の示すとおり、実質的には、その使用者は国民全体であり、公務員の労務提供義務は国民全体に対して負うものである。もとよりこのことだけの理由から公務員に対して団結権をはじめその他一切の労働基本権を否定することは許されないのであるが、公務員の地位の特殊性と職務の公共性にかんがみるときは、これを根拠として公務員の労働基本権に対し必要やむをえない限度の制限を加えることは、十分合理的な理由があるというべきである。
けだし、公務員は、公共の利益のために勤務するものであり、公務の円滑な運営のためには、その担当する職務内容の別なく、それぞれの職場においてその職責を果すことが必要不可缺であつて、公務員が争議行為に及ぶことは、その地位の特殊性および職務の公共性と相容れないばかりでなく、多かれ少なかれ公務の停廃をもたらし、その停廃は勤労者を含めた国民全体の共同利益に重大な影響を及ぼすか、またはその虞れがあるからである。
次に公務員の勤務条件の決定については、私企業における勤労者と異なるものがあることを看過することはできない。すなわち利潤追求が原則として自由とされる私企業においては、労働者側の利潤の分配要求の自由も当然に是認せられ、団体を結成して使用者と対等の立場において団体交渉をなし、賃金その他の労働条件を集団的に決定して協約を結び、もし交渉が妥結しないときは同盟罷業等を行なつて解決を図るという憲法二八条の保障する労働基本権の行使が何らの制約なく許されるのを原則としている。これに反し、公務員の場合は、その給与の財源は国の財政とも関連して主として税収によつて賄われ、私企業における労働者の利潤の分配要求のごときものとは全く異なり、その勤務条件はすべて政治的、財政的、社会的その他諸般の合理的な配慮により適当に決定されなければならず、しかもその決定は民主国家のルールに従い、立法府において論議のうえなされるべきもので、同盟罷業等争議行為の圧力による強制を容認する余地は全く存しないのである。これを法制に即して見るに、公務員については、憲法自体がその七三条四号において「法律の定める基準に従ひ、官吏に関する事務を掌理写ること」は内閣の事務であると定め、その給与は法律により定められる給与準則に基づいてなされることを要し、これに基づかずにはいかなる金銭または有価物も支給することはできないとされており(国公法六三条一項参照)、このように公務員の給与をはじめ、その他の勤務条件は、私企業の場合のごとく労使間の自由な交渉に基づく合意によつて定められるものではなく、原則として、国民の代表者により構成される国会の制定した法律、予算によつて定められることとなつているのである。その場合、使用者としての政府にいかなる範囲の決定権を委任するかは、まさに国会みずからが立法をもつて定めるべき労働政策の問題である。したがつて、これら公務員の勤務条件の決定に関し、政府が国会から適法な委任を受けていない事項について、公務員が政府に対し争議行為を行なうことは、的はずれであつて正常なものとはいいがたくもしこのような制度上の制約にもかかわらず公務員による争議行為が行なわれるならば、使用者としての政府によつては解決できない立法問題に逢着せざるをえないこととなり、ひいては民主的に行なわれるべき公務員の勤務条件決定の手続過程を歪曲することともなつて、憲法の基本原則である議会制民主主義(憲法四一条、八三条等参照)に背馳し、国会の議決権を侵す虞れすらなしとしないのである。
さらに、私企業の場合と対比すると、私企業においては、極めて公益性の強い特殊のものを除き、一般に使用者にはいわゆる作業所閉鎖(ロツクアウト)をもつて争議行為に対抗する手段があるばかりでなく、労働者の過大な要求を容れることは、企業の経営を悪化させ、企業そのものの存立を危殆ならしめ、ひいては労働者自身の失業を招くという重大な結果をもたらすことともなるのであるから、労働者の要求はおのずからその面よりの制約を免れず、ここにも私企業の労働者の争議行為と公務員のそれとを一律同様に考えることのできない理由の一が存するのである。また、一般の私企業においては、その提供する製品または役務に対する需給につき、市場からの圧力を受けざるをえない関係上、争議行為に対しても、いわゆる市場の抑制力が働くことを必然とするのに反し、公務員の場合には、そのような市場の機能が作用する余地がないため、公務員の争議行為は場合によつては一方的に強力な圧力となり、この面からも公務員の勤務条件決定の手続をゆがめることとなるのである。
なお付言するに、労働関係における公務員の地位の特殊性は、国際的にも一般に是認されているところであつて、現に、わが国もすでに批准している国際労働機構(ILO)の「団結権及び団体交渉権についての原則の適用に関する条約」(いわゆるILO九八号条約)六条は、「この条約は、公務員の地位を取り扱うものではなく、また、その権利又は分限に影響を及ぼすものと解してはならない。」と規定して、公務員の地位の特殊性を認めており、またストライキの禁止に関する幾多の案件を審議した、同機構の結社の自由委員会は、国家公務員について「大多数の国において法定の勤務条件を享有する公務員は、その雇用を規制する立法の通常の条件として、ストライキ権を禁止されており、この問題についてさらに審査する理由がない。」とし(たとえば、六〇号事件)、わが国を含む多数の国の労働団体から提訴された案件について、この原則を確認しているのである。
以上のように、公務員の争議行為は、公務員の地位の特殊性と勤労者を含めた国民全体の共同利益の保障という見地から、一般私企業におけるとは異なる制約に服すべきものとなしうることは当然であり、また、このことは、国際的視野に立つても肯定されているところなのである。

(二) しかしながら、前述のように、公務員についても憲法によつてその労働基本権が保障される以上、この保障と国民全体の共同利益の擁護との間に均衡が保たれることを必要とすることは、憲法の趣意であると解されるのであるから、その労働基本権を制限するにあたつては、これに代わる相応の措置が講じられなければならない。そこで、わが法制上の公務員の勤務関係における具体的措置が果して憲法の要請に添うものかどうかについて検討を加えてみるに、(イ)公務員たる職員は、後記のように法定の勤務条件を享受し、かつ、法律等による身分保障を受けながらも、特殊の公務員を除き、一般に、その勤務条件の維持改善を図ることを目的として職員団体を結成すること、結成された職員団体に加入し、または加入しないことの自由を保有し(国公法九八条二項、前記改正後の国家公務員法(以下、単に改正国公法という。)一〇八条の二第三項)、さらに、当局は、登録された職員団体から職員の給与、勤務時間その他の勤務条件に関し、およびこれに付帯して一定の事項に関し、交渉の申入れを受けた場合には、これに応ずべき地位に立つ(国公法九八条二項、改正国公法一〇八条の五第一項)ものとされているのであるから、私企業におけるような団体協約を締結する権利は認められないとはいえ、原則的にはいわゆる交渉権が認められており、しかも職員は、右のように、職員団体の構成員であること、これを結成しようとしたこと、もしくはこれに加入しようとしたことはもとより、その職員団体における正当な行為をしたことのために当局から不利益な取扱いを受けることがなく(国公法九八条三項、改正国公法一〇八条の七)、また、職員は、職員団体に属していないという理由で、交渉事項に関して不満を表明し、あるいは意見を申し出る自由を否定されないこととされている(国公法九八条二項、改正国公法一〇八条の五第九項)。ただ、職員は、前記のように、その地位の特殊性と職務の公共性とにかんがみ、国公法九八条五項(改正国公法九八条二項)により、政府が代表する使用者としての公衆に対して同盟罷業、怠業その他の争議行為または政府の活動能率を低下させる怠業的行為をすることを禁止され、また、何人たるを問わず、かかる違法な行為を企て、その遂行を共謀し、そそのかし、もしくはあおつてはならないとされている。そしてこの禁止規定に違反した職員は、国に対し国公法その他に基づいて保有する任命または雇用上の権利を主張できないなど行政上の不利益を受けるのを免れない(国公法九八条六項、改正国公法九八条三項)。しかし、その中でも、単にかかる争議行為に参加したにすぎない職員については罰則はなく、争議行為の遂行を共謀し、そそのかし、もしくはあおり、またはこれらの行為を企てた者についてだけ罰則が設けられているのにとどまるのである(国公法、改正国公法各一一〇条一項一七号)。
以上の関係法規から見ると、労働基本権につき前記のような当然の制約を受ける公務員に対しても、法は、国民全体の共同利益を維持増進することとの均衡を考慮しつつ、その労働基本権を尊重し、これに対する制約、とくに罰則を設けることを、最少限度にとどめようとしている態度をとつているものと解することができる。そして、この趣旨は、いわゆる全逓中郵事件判決の多数意見においても指摘されたところである(昭和三九年(あ)第二九六号同四一年一〇月二六日大法廷判決・刑集二〇巻八号九一二頁参照)。

(ロ) このように、その争議行為等が、勤労者をも含めた国民全体の共同利益の保障という見地から制約を受ける公務員に対しても、その生存権保障の趣旨から、法は、これらの制約に見合う代償措置として身分、任免、服務、給与その他に関する勤務条件についての周到詳密な規定を設けさらに中央人事行政機関として準司法機関的性格をもつ人事院を設けている。ことに公務員は、法律によつて定められる給与準則に基づいて給与を受け、その給与準則には俸給表のほか法定の事項が規定される等、いわゆる法定された勤務条件を享有しているのであつて、人事院は、公務員の給与、勤務時間その他の勤務条件について、いわゆる情勢適応の原則により、国会および内閣に対し勧告または報告を義務づけられている。そして、公務員たる職員は、個別的にまたは職員団体を通じて俸給、給料その他の勤務条件に関し、人事院に対しいわゆる行政措置要求をし、あるいはまた、もし不利益な処分を受けたときは、人事院に対し審査請求をする途も開かれているのである。このように、公務員は、労働基本権に対する制限の代償として、制度上整備された生存権擁護のための関連措置による保障を受けているのである

(三) 以上に説明したとおり、公務員の従事する職務には公共性がある一方、法律によりその主要な勤務条件が定められ、身分が保障されているほか、適切な代償措置が講じられているのであるから、国公法九八条五項がかかる公務員の争議行為およびそのあおり行為等を禁止するのは、勤労者をも含めた国民全体の共同利益の見地からするやむをえない制約というべきであつて、憲法二八条に違反するものではないといわなければならない。

二 次に、国公法一一〇条一項一七号は、公務員の争議行為による業務の停廃が広く国民全体の共同利益に重大な障害をもたらす虞れのあることを考慮し、公務員たると否とを問わず、何人であつてもかかる違法な争議行為の原動力または支柱としての役割を演じた場合については、そのことを理由として罰則を規定しているのである。すなわち、前述のように、公務員の争議行為の禁止は、憲法に違反することはないのであるから、何人であつても、この禁止を侵す違法な争議行為をあおる等の行為をする者は、違法な争議行為に対する原動力を与える者として、単なる争議参加者にくらべて社会的責任が重いのであり、また争議行為の開始ないしはその遂行の原因を作るものであるから、かかるあおり等の行為者の責任を問い、かつ、違法な争議行為の防邊を図るため、その者に対しとくに処罰の必要性を認めて罰則を設けることは、十分に合理性があるものということができる。したがつて、国公法一一〇条一項一七号は、憲法一八条、憲法二八条に違反するものとはとうてい考えることができない。

三 さらに、憲法二一条との関係を見るに、原判決が罪となるべき事実として確定したところによれば、被告人らは、いずれも農林省職員をもつて組織するa労働組合の役員であつたところ、昭和三三年一〇月八日内閣が警察官職務執行法(以下、警職法という)の一部を改正する法律案を衆議院に提出するや、これに反対する第四次統一行動の一環として、原判示第一の所為のほか、同第二のとおり、同年一一月五日午前九時ころから同一一時四〇分ころまでの間、農林省の職員に対し、同省正面玄関前の「警職法改悪反対」職場大会に参加するよう説得、慫慂したというのであるから、被告人らの所為ならびにそのあおつた争議行為すなわち農林省職員の職場離脱による右職場大会は、警職法改正反対という政治的目的のためになされたものというべきである。
ところで、憲法二一条の保障する表現の自由といえども、もともと国民の無制約な恐恣のままに許されるものではなく、公共の福祉に反する場合には合理的な制限を加えうるものと解すべきところ(昭和二三年(れ)第一三〇八号同二四年五月一八日大法廷判決・刑集三巻六号八三九頁、昭和二四年(れ)第四九八号同二七年一月九日大法廷判決・刑集六巻一号四頁、昭和二六年(あ)第三八七五号同三〇年一一月三〇日大法廷判決・刑集九巻一二号二五四五頁、昭和三七年(あ)第八九九号同三九年一一月一八日大法廷判決・刑集一八巻九号五六一頁、昭和三九年(あ)第三〇五号同四四年一〇月一五日大法廷判決、刑集二三巻一〇号一二三九頁、昭和四二年(あ)第一六二六号同四五年六月一七日大法廷判決、刑集二四巻六号二八〇頁参照)、とくに動労者なるがゆえに、本来経済的地位向上のための手段として認められた争議行為をその政治的主張貫徹のための手段として使用しうる特権をもつものとはいえないから、かかる争議行為が表現の自由として特別に保障されるということは、本来ありえないものというべきである。そして、前記のように、公務員は、もともと合憲である法律によつて争議行為をすること自体が禁止されているのであるから、勤労者たる公務員は、かかる政治的目的のために争議行為をすることは、二重の意味で許されないものといわなければならない。してみると、このような禁止された公務員の違法な争議行為をあおる等の行為をあえてすることは、それ自体がたとえ思想の表現たるの一面をもつとしても、公共の利益のために勤務する公務員の重大な義務の解怠を懲通するにほかならないのであつて、結局、国民全体の共同利益に重大な障害をもたらす虞れがあるものであり、憲法の保障する言論の自由の限界を逸脱するものというべきである。したがつて、あおり等の行為を処罰すべきものとしている国公法一一〇条一項一七号は、憲法二一条に違反するものということができない。
以上要するに、これらの国公法の各規定自体が違憲であるとする所論は、その理由がなく、したがつて、原判決が国公法の右各規定を本件に適用したことを非難する論旨も、採用することができない。

同第二点について。
所論は、憲法二八条、三一条違反をいうが、原判決に対する具体的論難をなすものではなく、適法な上告理由にあたらない。

同第四点について。
所論は、要するに、国公法一一〇条一項一七号は、その規定する構成要件、とくにあおり行為等の概念が不明確であり、かつ、争議行為の実行が不処罰であるのに、その前段階的行為であるあおり行為等のみを処罰の対象としているのは不合理であるから、憲法三一条に違反し、これを適用した原判決も違法であるというのである
しかしながら、違法な争議行為に対する原動力または支柱となるものとして罰則の対象とされる国公法一一〇条一項一七号所定の各行為のうち、本件において問題となつている「あおり」および「企て」について考えるに、ここに「あおり」とは、国公法九八条五項前段に定める違法行為を実行させる目的をもつて、他人に対し、その行為を実行する決意を生じさせるような、またはすでに生じている決意を助長させるような勢いのある刺激を与えること(昭和三三年(あ)第一四一三号同三七年二月二一日大法廷判決・刑集一六巻二号一〇七頁参照)をいい、また、「企て」とは、右のごとき違法行為の共謀、そそのかし、またはあおり行為の遂行を計画準備することであつて、違法行為発生の危険性が具体的に生じたと認めうる状態に達したものをいうと解するのが相当である(いずれの場合にせよ、単なる機械的労務を提供したにすぎない者、またはこれに類する者は含まれない。)。してみると、国公法一一〇条一項一七号に規定する犯罪構成要件は、所論のように、内容が漠然としているものとはいいがたく、また違法な行為につき、その前段階的行為であるあおり行為等のみを独立犯として処罰することは、前述のとおりこれらの行為が違法行為に原因を与える行為として単なる争議への参加にくらべ社会的責任が重いと見られる以上、決して不合理とはいいがたいから、所論違憲の主張は理由がない
原判決の確定した罪となるべき事実によれば、被告人らは、前記警職法改正に反対する第四次統一行動の一環としてa労働組合会計長ほか同組合中央執行委員多数と共謀のうえ、(一)昭和三三年一〇月三〇日の深夜から同年一一月二日にかけ、同趣合総務部長をして、同組合各県(大阪府および北海道を含む。)本部宛てに、「組合員は警職法改悪反対のため所属長の承認がなくても、一一月五日は正午出勤の行動に入れ、(ただし、一部特殊職場は勤務時間内一時間以上の職場大会を実施せよ。)」なる趣旨のa名義の電報指令第六号並びに各県本部(大阪府および北海道のほか東京を含む。)、支部、分会各委員長宛てに、同趣旨のa労働組合中央闘争委員長b名義の文書指令第六号を発信または速達便をもつて発送させ、(二)同月五日午前九時ころから同一一時四〇分ころまでの間、農林省において、庁舎各入口に人垣を築いてピケツトを張り、ことに正面玄関の扉を旗竿等をもつて縛りつけ、また裏玄関の内部に机、椅子等を積み重ねるなどした状況のもとに、同省職員約二五〇〇名を入庁させないようにしむけたうえ、同職員らに対し、同省正面玄関前の「警職法改悪反対」職場大会に直ちに参加するように反覆して申し向けて説得し、勤務時間内二時間を目標として開催される右職場大会(実際の開催時間は午前一〇時ころから同一一時四〇分ころまで、正規の出勤時間は同九時二〇分。参加人員は二〇〇〇名余。)に参加方を窓悪したというのであるから、右(一)の各指令の発出行為は、全国の傘下組合員である国家公務員たる農林省職員に対し、争議行為の遂行方をあおることを客観的に計画準備したものにほかならず、また、右(二)の状況下における反覆説得は、国公法九八条五項前段に定める違法行為を実行させる目的をもつて多数の右職員に対し、その行為を実行する決意を生じさせるような、またはすでに生じている決意を助長させるような勢いのある刺激を与えたものというべく、原判決が右(一)につき争議行為の遂行をあおることを企てたとし、(二)につき争議行為の遂行をあおつた行為にあたるとしたのは、正当である。

同第六点について。
所論は、原判決は国公法九八条五項、一一〇条一項一七号の解釈、適用を誤り、所論引用の各高等裁判所の判例と相反する判断をしたものであるというのである。
よつて考えるに、原判決が「同法一一〇条一項一七号の『あおる』行為等の指導的行為は争議行為の原動力、支柱となるものであつて、その反社会性、反規範性等において争議の実行行為そのものより違法性が強いと解し得るのであるから、憲法違反となる結果を回避するため、とくに『あおる』行為等の概念を縮小解釈しなければならない必然性はなく、またその証拠も不十分である」としたうえ、同条項一七号所定の「指導的行為の違法性は、その目的、規模、手段方法(態様)、その他一切の付随的事情に照らし、刑罰法規一般の予定する違法性、すなわち可罰的違法性の程度に達しているものでなければならず、また、これらの指導的行為は、刑罰を科するに足る程度の反社会性、反規範性を具有するものに限る」旨判示し、何らいわゆる限定解釈をすることなく、被告人らの本件行為に対し国公法の右規定を適用していることは、所論のとおりである。これに対し、所論引用の大阪高等裁判所昭和四三年三月二九日判決、福岡高等裁判所昭和四二年一二月一八日各判決、同裁判所昭和四三年四月一八日判決は、右国公法一一〇条一項一七号または地方公務員法六一条四号については、あおり行為あるいはその対象となる争議行為またはその双方につき、限定的に解釈すべきものであるとの見解をとつており、そして、これらの判決は原判決に先だつて言い渡されたものであるから、原判決は、右各高等裁判所の判例と相反する判断をしたこととなり、その言渡当時においては、刑訴法四〇五条三号後段に規定する、最高裁判所の判例がない場合に、控訴裁判所たる高等裁判所の判例に相反する判断をしたことになるといわなければならない。
しかしながら、国公法九八条五項、一一〇条一項一七号の解釈に関して、公務員の争議行為等禁止の措置が違憲ではなく、また、争議行為をあおる等の行為に高度の反社会性があるとして罰則を設けることの合理性を肯認できることは前述のとおりであるから、公務員の行なう争議行為のうち、同法によつて違法とされるものとそうでないものとの区別を認め、さらに違法とされる争議行為にも違法性の強いものと弱いものとの区別を立て、あおり行為等の罪として刑事制裁を科されるのはそのうち違法性の強い争議行為に対するものに限るとし、あるいはまた、あおり行為等につき、争議行為の企画、共謀、説得、態通、指令等を争議行為にいわゆる通常随伴するものとして、国公法上不処罰とされる争議行為自体と同一視し、かかるあおり等の行為自体の違法性の強弱または社会的許容性の有無を論ずることは、いずれも、とうてい是認することができない
けだし、いま、もし、国公法一一〇条一項一七号が、違法性の強い争議行為を違法性の強いまたは社会的許容性のない行為によりあおる等した場合に限つてこれに刑事制裁を科すべき趣旨であると解するときは、いうところの違法性の強弱の区別が元来はなはだ暖昧であるから刑事制裁を科しうる場合と科しえない場合との限界がすこぶる明確性を欠くこととなり、また同条項が争議行為に「通常随伴」し、これと同一視できる一体不可分のあおり等の行為を処罰の対象としていない趣旨と解することは、一般に争議行為が争議指導者の指令により開始され、打ち切られる現実を無視するばかりでなく、何ら労働基本権の保障を受けない第三者がした、このようなあおり等の行為までが処罰の対象から除外される結果となり、さらに、もしかかる第三者のしたあおり等の行為は、争議行為に「通常随伴」するものでないとしてその態様のいかんを問わずこれを処罰の対象とするものと解するときは、同一形態のあおり等をしながら公務員のしたものと第三者のしたものとの間に処罰上の差別を認めることとなつて、ただに法文の「何人たるを問わず」と規定するところに反するばかりでなく、衡平を失するものといわざるをえないからである。いずれにしても、このように不明確な限定解釈は、かえつて犯罪構成要件の保障的機能を失わせることとなり、その明確性を要請する憲法三一条に違反する疑いすら存するものといわなければならない。
なお、公務員の団体行動とされるもののなかでも、その態様からして、実質が単なる規律違反としての評価を受けるにすぎないものについては、その煽動等の行為が国公法一一〇条一項一七号所定の罰則の構成要件に該当しないことはもちろんであり、また、右罰則の構成要件に該当する行為であつても、具体的事情のいかんによつては法秩序全体の精神に照らし許容されるものと認められるときは、刑法上違法性が阻却されることもありうることはいうまでもない。もし公務員中職種と職務内容の公共性の程度が弱く、その争議行為が国民全体の共同利益にさほどの障害を与えないものについて、争議行為を禁止し、あるいはそのあおり等の行為を処罰することの当を得ないものがあるとすれば、それらの行為に対する措置は、公務員たる地位を保有させることの可否とともに立法機関において慎重に考慮すべき立法問題であると考えられるのである。
いわゆる全司法仙台事件についての当裁判所の判決(昭和四一年(あ)第一一二九号同四四年四月二日大法廷判決・別集二三巻五号六八五頁)は、本判決において判示したところに抵触する限度で、変更を免れないものである。
そうであるとすれば、原判決が被告人らの前示行為につき国公法九八条五項、一一〇条一項一七号を適用したことは結局正当であつて、これと異なる見解のもとに原判決に法令違反があるとする所論は採用することができず、また、この点に関する原審の判断と抵触する前記各高等裁判所の判例は、これを変更すべきものであつて、所論は、原判決破棄の理由とならない。

同第七点、第八点、第九点について。
所論は、いずれも事実誤認、単なる法令違反の主張であつて、適法な上告理由にあたらない。
同第一〇点について。
所論は、要するに、公務員の政治的目的に出た争議行為も憲法二八条によつて保障されることを前提とし、原判決が、いわゆる「政治スト」は、憲法二八条に保障された争議行為としての正当性の限界を逸脱するものとして刑事制裁を免れないと判断したのは、憲法二一条、二八条、三一条の解釈を誤つたものである旨主張する。
しかしながら、公務員については、経済目的に出たものであると、はたまた、政治目的に出たものであるとを問わず、国公法上許容された争議行為なるものが存在するとすることは、とうていこれを是認することができないのであつて、かく解釈しても憲法に違反するものではないから、所論違憲の主張は、その前提を欠き、適法な上告理由にあたらない(なお、私企業の労働者たると、公務員を含むその他の勤労者たるとを問わず、使用者に対する経済的地位の向上の要請とは直接関係があるとはいえない警職法の改正に対する反対のような政治的目的のために争議行為を行なうがごときは、もともと憲法二八条の保障とは無関係なものというべきである。現に国際労働機構(ILO)の「結社の自由委員会」は、警職法に関する申立について、「委員会は、改正法案は、それが成立するときは、労働組合権を侵害することとなることを立証するに十分な証拠を申立人は提出していないと考えるので、日本政府の明確な説明を考慮して、これらの申立については、これ以上審議する必要がないと決定するよう理事会に勧告する。」としている(一七九事件第五四次報告一八七項)。国際労働機構の「日本における公共部門に雇用される者に関する結社の自由調査調停委員会報告」(いわゆるドライヤー報告)も、「労働組合権に関する申立の審査において国際労働機関によつてとられている一般原則によれば、政治的起源をもつ事態が適当な手続による国際労働機関の調査が要請されうる社会的側面(問題)を有している場合であつても、国際労働機関が国際的安全保障に直接関係ある政治問題を討議することは、その伝統に反し、かつ、国際労働機関自体の領域における有用性をもそこなうため不適当である。」(二一三〇項)という一般的見解を表明しているのである。)。

弁護人小林直人の上告趣意第一一点中、第一ないし第三について。
所論は、原判決が国公法一一〇条一項一七号について、何んら限定解釈をすることなく、社会的に相当行為たる被告人らの本件行為にこれを適用したのは、憲法三一条、二八条、一八条、二一条に違反するというのである。
しかし、国公法の右規定について、これを限定的に解釈しなくても、右憲法の各規定に違反するものでないことは、すでに弁護人佐藤義弥ほか三名の上告趣意第一点、第三点、第五点について説示したところおよび同第六点において説明した趣旨に照らし明らかであるから、所論は理由がない。
同第四について。
所論は、本件争議行為が、いわゆる政治的抗議ストであるから社会的相当性を有し、構成要件該当性を欠くとの単なる法令違反の主張であつて、適法な上告理由にあたらない。
同第五について。
所論は、本件抗議ストは、憲法二一条の保障する「表現の自由」権の行使として、社会的相当性を具有しているものであるから、国公法一一〇条一項一七号の罰則規定は、被告人らの本件行為に適用される限度において、憲法三一条、二一条に違反し、無効であるというのである。
しかしながら、国公法の右規定が憲法三一条、二一条に違反しないことは、所論の第一ないし第三について示したところにより明らかであるから、その趣旨に徴し、所論は理由がない。
被告人ら各本人の上告趣意について。
所論は、いずれも事案誤認、単なる法令違反の主張であつて、適法な上告理由にあたらない。
よつて、刑訴法四一四条、三九六条に則り、本件各上告を棄却することとし、主文のとおり判決する。
この判決は、裁判官石田和外、同村上朝一、同藤林益三、同岡原昌男、同下田武三、同岸盛一、同天野武一の各補足意見、裁判官岩田誠、同田中二郎、同大隅健一郎、同関根小郷、同小川信雄、同坂本吉勝の各意見、裁判官色川幸太郎の反対意見があるほか、裁判官全員一致の意見によるものである。

+補足意見
裁判官石田和外、同村上朝一、同藤林益三、同岡原昌男、同下田武三、同岸盛一、同天野武一の補足意見(裁判官岸盛一、同天野武一については、本補足意見のほか、後記のような追加補足意見がある。)は、次のとおりである。
われわれは、多数意見に同調するものであるが、裁判官田中二郎、同大隅健一郎、同関根小郷、同小川信雄、同坂本吉勝の意見(以下、五裁判官の意見という。)は、多数意見の真意を理解せず、いたずらに誇大な表現を用いて、これを論難するものであつて、読む者をしてわれわれの意見について甚だしい誤解を抱かせるものがあると思われるので、あえて若干の意見を補足したい。
一 五裁判官の意見は、多数意見が、公務員を国民全体の奉仕者であるとする憲法一五条二項をあたかも唯一の根拠として公務員(非現業の国家公務員をいう。以下同じ。)の争議行為禁止の合憲性を肯定するものであるかのごとく、また公務員の勤務条件の決定過程の特殊性だけを理由としてその争議行為の禁止を根拠づけようとするものであるかのごとく、さらには代償措置の制度さえ設けておけばその争議行為を禁止しても憲法に違反するものではないとの安易な見解に立つているものであるかのごとく誤解し、多数意見を論難している。しかし、多数意見は、公務員も原則として憲法二八条の労働基本権の保障を受ける勤労者に含まれるものであることを肯定しながらも、私企業の労働者とは異なる公務員の職務の公共性とその地位の特殊性を考慮にいれ、その労働基本権と公務員をも含めた国民全体の共同利益との均衡調和を図るべきであるという基本的観点に立ち、その説示するような諸般の理由を総合して国家公務員法(以下、国公法という。)の規定する公務員の労働関係についての規制をもつて、いまだ違憲と見ることはできないとしているものなのである。さらに、五裁判官の意見は、多数意見をもつて、憲法一五条二項を公務員の労働基本権に対する「否定原理」としているものであるとまで極論したうえ、「使用者である国民全体、ないしは国民全体を代表しまたはそのために行動する政府諸機関に対する絶対的服従義務を公務員に課したものという解釈をする」とか、「このような解釈は、国民全体と公務員との関係をあたかも封建制のもとにおける君主と家臣とのそれのような全人格的な服従と保護の関係と同視するに近い考え方である」とか、さらには憲法二八条の労働基本権を「一種の忠誠義務違反としてそれ自体を不当視する観念」であつて、「すべての国民に基本的人権を認めようとする憲法の基本原理と相容れない」ものであるとか、極端に激しい表現を用いて非難しているのであるが、多数意見のどこにそのような時代錯誤的な考えが潜んでいるというのであろうか。いうまでもなく、多数意見は、五裁判官の意見が指摘するような国家の事務が軍事、治安、財政などにかぎられていた時代における前近代的観点から「抽象的、観念的基準によつて一律に割り切つて」いるものでもなく、また抽象的形式的な公共福祉論、公僕論を拠りどころとしているものでもないことは、多数意見を冷静かつ率直に読むならば容易に理解できることであろう。
二 五裁判官の意見は、公務員の職務内容の公共性がその争議行為制限の実質的理由とされていることはなにびとにも争いのないところであること、また公務員の勤務条件の決定過程において争議行為を無制限に許した場合に民主的政治過程をゆがめる面があることも否定できないことを承認しながら、そのいずれの理由からも一切の争議行為を禁止することの正当性を認めることはできないとして、公務員の「団体交渉以外の団体行動によつて、立法による勤労条件の基準決定などに対して影響力を行使すること」を是認すべきであるといい、また代償措置はあくまで代償措置にすぎないものであるから、「政府または国国会に右(人事院の)勧告に応ずる措置をとらせるためには、法的強制以外の政治的また社会的活動を必要とし、このような活動ば、究極的には世論の支持、協力を要するものであり、世論喚起のための唯一の効果的手段としての公務員による団体行動の必要を全く否定することはできず、」といつて、およそ争議行為を禁止されている公務員の利益を保障するために設けられた国家的制度としての代償措置の存在をことさらに軽視し、公務員による立法機関または世論に対する直接的な政治的効果を目的とする団体行動の必要性を強調しているのである。ところで、五裁判官の意見がここで指摘している「団体行動」とは、何を意味するかは必ずしも明らかではないが、その前後の論調からすると、単なる表現活動としての団体行動を指しているものとは認められず、明らかに憲法二八条にいわゆる団体行動を考えているものとしか思われない。しかもその団体行動は、「刑罰の対象から除外されてしかるべきものである」と断定していることからすると、罰則規定のある公務員の争議行為な念頭においているものと解さざるをえない。はたしてそうであるとすれば、五裁判官の意見は、立法府または社会一般に対する示威的行動としての公務員の争議行為の必要性を強調するものといわざるをえないのである。もとより、五裁判官の意見は、純然たる政治的目的の実現のための争議行為の必要性を説くものではない。しかしながら、およそ動労者の団体が行なう争議行為の目的が使用者において事実的にも法律的にも解決しえない事項に関するものであるときは、その争議行為は、憲法二八条による保障を受ける余地のないものであるから、五裁判官の意見がいうところの公務員の団体行動としての争議行為なるものは、その実質において、いわゆる「政治スト」と汎称されるものとなんら異なるところはないのである。ことに、五裁判官の意見が法的強制以外の「政治的活動」の必要性を説くことは、まさに団体行動としての表現活動のほかに、「政治スト」を憲法上正当な争議行為として公務員に認めよということにほかならないのであつて、そのことは五裁判官の意見が本件について政治目的に出た争議行為であるとの理由から憲法二八条の保障の範囲に含まれないとしていることと明らかに矛盾するものであるといわねばならない。なお、付言するに、五裁判官の意見が右のように争議行為としての法的強制以外の「政治的活動」を強調していることについては、いわゆるドライヤー報告書が「日本の労働者の中央組織によつて行なわれてきた政治活動の性格は、真に労使関係を混乱させている一つの主要な要素である。」(二一二七項)と戒めていることをこの際指摘せざるをえないのである。
三 五裁判官の意見は、本件の処理にあたり、多数意見が何ゆえことさらいわゆる全司法仙台事件大法廷判決の多数意見(昭和四一年(あ)第一一二九号同四四年四月二日大法廷判決・刑集二三巻五号六八五頁、以下、単に全司法仙台事件判決という。)の解釈と異なる憲法判断を展開しなければならないのか、その必要性と納得のゆく理由を発見することができないと論難している。しかし弁護人らの上告趣意には、多岐にわたる違憲の主張が含まれており、また、まさに本判決の多数意見と五裁判官の意見との分岐点をなす中心問題について互に相反する高等裁判所の判決が指摘されて判例違反の主張がなされたのであるから、当裁判所としては、これらに対し判断をするにあたり、当然右全司法仙台事件判決の当否について検討せざるをえないばかりでなく、五裁判官の意見も、本件上告を棄却するについては、結論的には同意見であるから、上告趣意の総てについて逐一判断を示すべきものである。五裁判官の意見のような、この際全司法仙台事件判決に触れるべきではないとする考えは、本件の処理上、基本的問題の判断を避けて一時を糊塗すべきであるというにひとしく、とうていわれわれの承服しがたいところである。いま、多数意見がこれに論及せざるをえなかつたその他の理由の二、三をもあわせて指摘し、さらに同判決の判例としての評価について言及することとする。
(一) まず、第一に、右全司法仙台事件判決は、憲法解釈にあたり看過できない誤りを犯したということである。すなわち、同判決とその基本的立場を共通にする、いわゆる都教組事件大法廷判決の多数意見(昭和四一年(あ)第四〇一号同四四年四月二日大法廷判決・刑集二三巻五号三〇五頁、以下、単に都教組事件判決という。)は、公務員の職務は一般的に公共性が強いものであることを認めながら、なお一部の職種や職務には私企業のそれに類似したものが存在するから公務員の争議行為を一律に禁止することは許されないと説くが、その論ずるところは、公務員の争議行為が行なわれる場合、一般に単なる機械的労務に従事する職務の者ばかりでなく、その職務内容が公共性の強い職員の大多数の者の参加によつて行なわれる集団的組織的団体行動であるという現実を無視した議論であり、しかも、職種、職務内容の別なく公務員に対して一律に保障された、生存権擁護の趣旨をもつ代償措置の現存することについての考慮を払うことなく、また、その判断の結果がはたして実際的に妥当するものであるかについて洞察することもなく、ただただ抽象的に理論を推しすすめるものである。すなわち、同判決は、抽象的、観念的思惟に基づいて、公務員による争議行為を制限禁止した関係公務員法の当該規定は違憲の疑いがあると安易に断定しているのであつて、全司法仙台事件判決もその論法において軌を一にしているのである。そのような憲法判断の手法は、労働基本権に絶対的な優位を認めようとするに傾きやすく、現実の社会的、経済的基盤の上に立つて国家と国民および国民相互の相反する憲法上の諸利益を調整すべきものであるという憲法解釈の要諦を忘れたものといわなければならない。なお、五裁判官の意見は「一律全面的」な争議行為の禁止は不当であるとして多数意見を論難するのであるが、職種と職務内容の公共性の程度が弱く、その争議行為が国民全体の共同利益にさほどの障害を与えないものについては、労働政策の問題として立法上慎重に考慮されるべきものであることについては、多数意見が指摘しているところである。ちなみに、西ドイツにおいては、公勤務従事者のうち、官吏についてはストライキを禁止されているが、その代り終身任用制度および一種の昇進制度が勤務条件法定主義のもとに行なわれているのに対し、雇員、単純労務職員については、特定の職務内容を限定してストライキを認めており、また、カナダ連邦、アメリカのペンシルバニや州やハワイ州では重要でない職務に従事する公務員についてストライキを認めているが、職務の重要性の判定は第三者機関が行なうたてまえとなつているのであつて、全司法仙台事件判決が示す「国民生活に重大な支障」を及ぼすことの有無というような漠然とした基準によつて公務員の争議行為の正当性を画する立法例は他国には見あたらないのである。なお、カナダ連邦の場合は、仲裁手続とストライキとの選択のもとに、かりにストライキを選択したときでも厳格な調停手続を経ることが条件となつているのであり、この手続を経ないストライキは禁止されているのである。そして、アメリカでストライキの認められている前示二州でも、ほぼこれに似た制度をとつているのであるが、その国情による相違があるとはいえ、重要でない職務の公務員のストライキを認めるについて、無制限にこれを認めることなく、厳格な制約のもとに置かれていることに特に留意すべきである。
第二に、全司法仙台事件判決の示した限定解釈には重大な疑義があるということである。すなわち、同判決と基本的に共通の見解に立つている前記都教組事件判決がいうところは、公務員の職務の公共性には強弱があるから、その労働基本権についても、その職務の公共性に対応する制約を当然内包しているという理論的立場を強調しながら、限定解釈をするにあたつては、一転して職務の公共性をなんら問題とすることなく、「ひとしく争議行為といつても、種々の態様のものがある」として、争議行為の態様の問題へと転移し、争議行為における違法性の強弱という暖味な基準を設定したのである(五裁判官の意見は、多数意見が公務員の争議行為につきその「主体」のいかんを問わず全面的禁止を是認することを非難しているのであるから、当然「主体」による区別をいかに考えるべきかについての明確な基準を示して然るべきものなのである。しかるに、その明示がなされていないことは、現在の公務員制度のもとにおける職員組合の組織と争議行為の現況にかんがみ、そのような区別をたてることは抽象論としてはともかく、実際上はほとんど不可能であることを物語るものであろうか。)。ことに、同判決は、争議行為に関する罰則については、争議行為そのものの違法性が強いことと、あおり等の行為の違法性が強いことを要するばかりでなく、争議行為に「通常随伴して行なわれる行為「は処罰の対象とはならないと解すべきものであるとしている。ところで、いわゆる全逓中郵事件判決の多数意見(昭和三九年(あ)第二九六号同四一年一〇月二六日大法廷判決・刑集二〇巻八号九〇一頁、以下、単に全逓中郵事件判決という。)では、争議行為の正当性を画する基準として、「政治的目的のために行なわれたような場合」、「暴力を伴う場合」、「社会の通念に照らして不当に長期に及ぶときのように国民生活に重大な障害をもたらす場合」をあげ、これらの場合でなければ、その争議行為は、憲法上保障された正当な争議行為にあたると説示されているが、全司法仙台事件判決では、争議行為の違法性が強い場合の基準として、そのまま右と同様のものが転用されているのである。すなわち、あおり行為等を処罰するための要件として、「争議行為そのものが、職員団体の本来の目的を逸脱してなされるとか、暴力その他これに類する不当な圧力を伴うとか、社会通念に反して不当に長期に及ぶなど国民生活に重大な支障を及ぼすとか」ということをあげている。争議行為が正当であるか否かは、違法性の有無に関する問題であり、違法性が強いか弱いかは違法性のあること、すなわち正当性のないことを前提としたものである。そして、ここにいう正当性の有無は、単に「刑法の次元」における判断ではなく、まさに憲法二八条の保障を受けるかどうかの憲法の次元における問題なのであるから、その保障を受けうるものであるかぎり、民事上、刑事上一切の制裁の対象となることはないのである。しかるに、全司法仙台事件判決は、全逓中郵事件判決が憲法上の保障を受けるかどうかの観点から違憲判断を回避するために示した正当性を画する基準と同一のものを、違法性の強弱判定の基準としているのであつて、そこに法的思惟の混迷があると思われるのであるが、それはともかくとして、このような基準の設定は、刑罰法規の構成要件としてもすこぶる不明確であり、そのゆえに、むしろ違憲の疑いを生むのであり、さらに右のような基準の確立が判例の集積になじまないものであることについては、岸裁判官、天野裁判官の追加補足意見の指摘するところである。この点について、五裁判官の意見は、公務員の争議行為をあおる等の行為が全司法仙台事件判決の判示する基準に照らして処罰の対象となるかどうかは事案ごとに具体的事実関係により判断されなければならないとして、これらの行為が国公法上罰則の対象となりうることを肯定しながら、公務員法違反の場合と公共企業体職員または私企業労働者の争議行為の場合とを対比し、一つは構成要件充足の問題であり、他は違法性阻却の問題であるといい、さらに転じて「刑法の次元における違法性阻却の理論によつて処理することは相当でなく、」と至極当然のことにわざわざ言及し、あたかも多数意見がその誤りを犯しているかのごとき論難を加えているが、そのいわんとする真意が那辺にあるか理解に苦しむところである。
第三に、全司法仙台事件判決に見られる憲法解釈の疑点もさることながら、それが惹起している労働・行政または裁判実務上の混乱も、また無視できないということである。すなわち、例えば、都教組事件判決は、「違法な争議行為を想定して、あおり行為等をした場合には、かりに予定の違法な争議行為が実行されなかつたからといつて、あおり行為等の刑責は免れない。」旨判示する。しかし国公法一一〇条一項一七号の罰則は、あおり行為等に対して結果責任を問うものではないのであるから、行為者が、かりに違法性の弱い争議行為を想定して、あおり行為等をしたが、予期に反し、争議行為が「社会通念に反して不当に長期に及び国民生活に重大な支障」を与えた場合には、全司法仙台事件判決の見解に従うかぎり、なんらこれに対し刑事責任を問うことができないこととなるであろう。また、争議行為の実態に即して考えて見ても、争議行為は、通常、争議指導者の指令のままに動くものであるから、あおり等の行為自体の違法性が強い場合などはおよそありえないであろう。このことは、同判決の右のような解釈のもとでは、国公法の右規定が現実的には、ほとんど有効に機能しないことを示すものであつて、結局公務員の争議行為が野放しのままに放置される結果ともなりかねないのである。さらにまた、同判決が判示する前記の基準も、それ自体が客観性を欠き、これを捕捉するに極めて困難であり、五裁判官の意見のいうように、右の判決が一般国民の間に定着しているものとはとうてい考えられない。右の基準が暖昧で判断者の主観による恣意がはいりこむ虞れがあるという批判は、本件の弁論において弁護人からも強く指摘されたばかりでなく、すでに、いわゆる全逓中郵事件判決を支持する論者、これに反対の立場にある論者の双方から強い批判を受けているところである。全司法仙台事件判決も公務員の争議行為に対するあおり等の行為が罰則の適用を受ける場合のあることを肯定する以上は、その明確な基準を示すべきであつたのである。
さらに第四に、全司法仙台事件判決ならびにこれと同一の基盤をもつ都教組事件判決が全逓中郵事件判決と相まつて公務員の争議行為に関する罰則の適用について一般に誤つた評価を植えつけるにいたつたということである。すなわち、都教組事件判決は、全逓中郵事件判決が勤労者の労働基本権に対する、いわゆる内在的制約を考慮する際「一般的にいつて、刑事制裁をもつてこれに臨むべき筋合ではない。」(同判決の、いわゆる四条件中、(3)最高裁刑集二〇巻八号九〇七頁参照。)と判示したことをそのまま踏襲しているのであるが、さらに都教組事件判決の趣旨を受けついだ全司法仙台事件判決は、国公法一一〇条一項一七号についてこれを限定的に解釈しないかぎり憲法一八条、二八条に違反する疑いがあるといつて、一般に対し「公務員労働者の」「争議行為を刑事罰から解放」したものであるかのごとき誤つた理解を植えつけることとなつたのである。これは、ひつきよう、同判決の不明確な限定解釈と誤つた法解釈の態度とにその原因をもつものといわねばならないのである。(現に五裁判官の意見も公務員の争議行為に対するあおり等の行為 が罰則の適用を受ける場合のあることを肯定していながら、しかも、なおかつ、あたかも多数意見のみが、公務員の争議行為に関し仮借のない刑事制裁を是認しているもののような論難をしているのである。)なお、付言するに、ILO第一〇五号条約(わが国は批准していない。)に関する第五二回ILO総会に提出された条約勧告適用専門家委員会の報告書は、「一定の事情の下においては違法な同盟罷業に参加したことに対して刑罰を科することができるということ、」「この刑罰には通常の刑務欣労働が含まれることがあるということ」その他について合意が成立した旨の、同条約を審議した総会委員会の報告書を引用して「同盟罷業に関する各種の国内立法を評価するに当たり、本委員会は、総会の意図に関する前述したところを十分に考慮することが適当であると考える。」と述べているのである(九四項。なお九五項参照。)。
(二) つぎに、全司法仙台事件判決には、真の意味の多数意見なるものがはたして存在するといえるであろうか。同判決において多数と見られる八名の裁判官の意見が一致しているのは、ただ国公法の規定を「限定的に解釈するかぎり」違憲でないと判示する点にかぎられているのである。そして、そのいわゆる限定解釈の内容について見るに、右八名の裁判官のうち、六名の裁判官は、違法性強弱論およびあおり行為等の通常随伴性論の立場をとつているが、他の二名の裁判官は、違法性強弱論には否定的な意見を示しており、しかも、その二名の裁判官の間でも、「通常随伴性」についての考え方が一致していないのである。このように、限定解釈をすべきであるという点では同意見であつても、それだけでは全く内容のないものであり、そのいうところの限定解釈についての内容が区々にわかれていて、過半数の意見の裁判官による一致した意見は存在しないのである。前記のように、行政上および裁判上の混乱を招いたのも、ひつきょう、同判決ならびにその基盤を共通にする全逓中郵事件判決および都教組事件判決のもつ内容の流動性、暖昧性に基因するところが大きく、判例としての指導性にも欠けるところがあつたといわねばならないのである。そして、現在においては、本判決の多数意見は、前記判示のとおり、憲法および国公法の解釈につき一致した見解を示しているものであるのに対し、多数意見に同調する裁判官以外の裁判官の意見は、単に形式上少数であるばかりでなく、内容的にも国公法の解釈について意見が分立しており、ことに五裁判官の意見が本件につき上告棄却の意見であるならば、全司法仙台事件判決にいう、いわゆる通常随伴性論を今日維持することは背理というほかなく、また通常随伴性論をとるとすれば、結論は、むしろ反対となるべき筋合いであろう。この一点をみても、右五裁判官ら自身、意識すると、しないとにかかわらず、前記の判例の見解を変更しているものにほかならない。したがつて、全司法仙台事件判決は、今日、もはやいかなる意味においても「判例」として機能しえないものであり、これが変更されるべきことは、自然の成行きといわなければならないのである。五裁判官の意見は、「僅少差の多数によつてさきの憲法解釈を変更することは、最高裁判所の憲法判断の安定に疑念を抱かせ、ひいてはその権威と指導性を低からしめる虞れがある云々」と述べているが、多数意見に対するいわれのない批判にすぎず、強く反論せざるをえない次第である。裁判官岸盛一、同天野武一の追加補足意見は、つぎのとおりである。
(一) まず、多数意見は、憲法二八条の勤労者のうちには、公務員(非現業の国家公務員をいう。以下同じ。)も含まれるとの見解にたちながらも、公務員の地位の特殊性とその職務の公共性とを考慮にいれるとき、公務員の動労関係を規律する現行法制のもこでは、公務員の勤務条件が法定されており、その身分が保障されているほか、適切な代償措置が講じられている以上は、国家公務員法(昭和四〇年法律第六九号による改正前のもの。以下国公法という。)九八条五項の規定は、いまだ、憲法二八条に違反するものと断ずることはできないとするものである。
ところで、一般的に動労者の争議行為を禁止するについて、その代償措置が設けられることが極めて重要な意義をもつものであることは、いわゆるドライヤー報告やI・L・O結社の自由委員会でもたびたび強調されているところであり、その事例を枚挙するにいとまなしといつても過言ではないのであるが、公務員に関してもその争議行為を禁止するについては、適切な代償措置が必要であることが指摘されているのである(結社の自由委員会第七六次報告第二九四号事件二八四項、第七八次報告第三六四号事件七九項等)。ところが、わが国で、公務員の争議行為の禁止について論議されるとき、代償措置の存在がとかく軽視されがちであると思われるのであるが、この代償措置こそは、争議行為を禁止されている公務員の利益を国家的に保障しようとする現実的な制度であり、公務員の争議行為の禁止が違憲とされないための強力な支柱なのであるから、それが十分にその保障機能を発揮しうるものでなければならず、また、そのような運用がはかられなければならないのである。したがつて、当局側においては、この制度が存在するからといつて、安易に公務員の争議行為の禁止という制約に安住すべきでないことは、いうまでもなく、もし仮りにその代償措置が迅速公平にその本来の機能をはたさず実際上画餅にひとしいとみられる事態が生じた場合には、公務員がこの制度の正常な運用を要求して相当と認められる範囲を逸脱しない手段態様で争議行為にでたとしても、それは、憲法上保障された争議行為であるというべきであるから、そのような争議行為をしたことだけの理由からは、いかなる制裁、不利益をうける筋合いのものではなく、また、そのような争議行為をあおる等の行為をしたからといつて、その行為者に国公法一一〇条一項一七号を適用してこれを処罰することは、憲法二八条に違反するものといわなければならない。
もつとも、この代償措置についても、すべての国家的制度と同様、その機能が十分に発揮されるか否かは、その運用に関与するすべての当事者の真摯な努力にかかつているのであるから、当局側が誠実に法律上および事実上可能なかぎりのことをつくしたと認められるときは、要求されたところのものをそのままうけ容れなかつたとしても、この制度が本来の機能をはたしていないと速断すべきでないことはいうまでもない。
以上のことは、多数意見においてとくに言及されていないが、その立場からは当然の理論的帰結であると考える。
(二) つぎに、多数意見は、国公法一一〇条一項一七号について、福岡高等裁判所判決(昭和四一年(う)第七二八号同四三年四月一八日判決)が示した限定解釈は犯罪構成要件の明確性を害するもので憲法三一条違反の疑いがあるというが、われわれは、右の限定解釈は明らかに憲法三一条に違反するばかりでなく、本来許さるべき限定解釈の限度を超えるものであるとすら考えるものである。すなわち、同判決は、国公法の右規定を限定的に解釈して、争議行為が政治目的のために行なわれるとか、暴力を伴うとか、または、国民生活に重大な障害をもたらす具体的危険が明白であるなど違法性の強い争議行為を違法性の強い行為によつてあおるなどした場合に限り刑罰の対象となるというのであつて、いわゆる全司法仙台事件についての当裁判所大法廷判決の多数意見がさきに示した見解とほぼ同趣旨の見解を示しているのである。
ところで、憲法判断にさいして用いられる、いわゆる限定解釈は、憲法上の権利に対する法の規制が広汎にすぎて違憲の疑いがある場合に、もし、それが立法目的に反することなくして可能ならば、法の規定に限定を加えて解釈することによつて、当該法規の合憲性を認めるための手法として用いられるものである。そして、その解釈により法文の一部に変更が加えられることとなつても、法の合理的解釈の範囲にとどまる限りは許されるのであるが、法文をすつかり書き改めてしまうような結果となることは、立法権を侵害するものであつて許さるべきではないのである。さらにまた、その解釈の結果、犯罪構成要件が暖味なものとなるときは、いかなる行為が犯罪とされ、それにいかなる刑罰が科せられるものであるかを予め国民に告知することによつて、国民の行為の準則を明らかにするとともに、国家権力の専断的な刑罰権の行使から国民の人権を擁護することを趣意とする、かのマグナカルタに由来する罪刑法定主義にもとるものであり、ただに憲法三一条に違反するばかりでなく、国家権力を法の支配下におくとともに国民の遵法心に期待して法の支配する社会を実現しようとする民主国家の理念にも反することとなるのである。このことは、大陸法的な犯罪構成要件の理論をもたない英米においても、つとに普通法上の厳格解釈の原理によつて、裁判所は、個々の事件について、法文の不明確を理由に法令の適用を拒否する手段を用いて、実質上法令の無効を宣言するのとひとしい実をあげてきたといわれているのであるが、とくに米国では、一世紀も前から法文の不明確を理由としてこれを無効とする理論が芽ばえ、一九〇〇年代にはいつてからは、国民の行為の準則に関する法令は、予め国民に公正に告知されることが必要で、そのためには法文は明確に規定されなければならないとして、憲法修正五条、六条、一四条等の適正条項違反を理由に不明確な法文の無効を宣言する、いわゆる明確性の理論が判例法として確立され今日に及んでいるのである。
この法文の明確性は、憲法上の権利の行使に対する規制や刑罰法規のような国民の基本的権利・自由に関する法規については、とくに強く要請されなければならないことは当然である。
ところで、前記福岡高等裁判所判決は、あおり行為の対象となる争議行為の違法性の強弱を判定する基準の一つとして、「国民生活に対する重大障害」ということをあげている。同様に全司法仙台事件判決の多数意見は、「社会の通念に反して不当に長期に及ぶなど国民生活に重大な支障」といつている。しかし、国民生活に重大な障害とか支障とかいう基準はすこぶる漠然とした抽象的なものであつて、はたしてどの程度の障害、支障が重大とされるのか、これを判定する者の主観的な、時としては恣意的な判断に委ねられるものであつて、そのような弾力性に富む伸縮自在な基準は、刑罰法規の構成要件の輪郭内容を極めて暖味ならしめるものといわざるをえない。また、全司法仙台事件判決の多数意見のように「社会の通念に反し不当に長期に及ぶなど」という例示が示されているとしても、どの程度の時間的継続が不当とされるのか、これまた甚だ不明確な要件といわざるをえないばかりでなく、そのうえ「社会の通念に照らし」という一般条項を構成要件のなかにとりこんでいることは、却てその不明確性を増すばかりである。したがつて、かような基準を示された国民は、自己の行為が限界線を越えるものでないとして許されるかどうかを予測することができず、法律専門家である弁護士、検察官、裁判官ですら客観的な判定基準を発見することに当惑し(いわゆる中郵事件の差戻し後の東京高裁昭和四一年(う)第二六〇五号同四二年九月六日判決・刑集二〇巻五二六頁参照)、罰則適用の限界を画することができないばかりでなく、民事上、行政上の制裁との限界もまた不明確であつて、法の安定性・確実性が著しくそこなわれることとなる。現に全国の事実審裁判所の判決においても、「国民生活に重大な障害」に関する判断が区々にわかれて統一性を欠いているのが今日の実情なのである。さらにまた、右のような限定解釈は、罰則の適用される場合を制限したかのようにみえるのであるが、それに示されているような抽象的基準では、前記判決が志向したところとはおよそ逆の方向にも作用することがないとも限らない。けだし、法文の不明確は法の恣意的解釈への道をひらく危険があるからである。
もつとも、右の基準の明確な確立は、今後の判例の集積にまてばよいとの反論もあろう。最近の、カナダの連邦公務員関係法、アメリカのペンシルバニヤ州の公務員労使関係法およびハワイ州公法は、重要職務に従事する公務員についてのみ争議行為を禁止しているのであるが、それらの立法に対する、職務の重要性・非重要性を区別することは困難であるとの批判に対して、裁判所の判例の集積による解決が最も妥当であるとの反論もみられる。しかし、右の諸立法においては、別に第三者機関による重要職務の指定判定の制度があつて、それによつて重要公務の範囲が一応は形式的に明確にされる建前なのであるから、その指定判定に争いがあるとき裁判所の判断をまつということのようである。すなわち、それは、重要職務に従事する公務員の範囲を主体の面から限定するものであつて、行為の態様による限定ではないのである。「国民生活に重大な障害」の有無というような行為の態様の基準の明確な確立は、むしろ、判例の集積による方法にはなじまないというべきであろう。
およそ国民の行為の準則は、裁判時においてではなく、行為の時点においてすでに明確にされていなければならない。また、終局判決をまたなければ明確にならないような基準は、基準なきにひとしく、国民を長く不安定な状態におくこととなる。国民は各自それぞれの判断にしたがつて行動するほかなく、かくては法秩序の混乱はとうてい免れないであろう。
憲法問題を含む法令の解釈にさいしては、いたずらに既成の法概念・法技術にとらわれて、とざされた視野のなかでの形式的な憲法理解におちいつてはならないことはいうまでもないことであり、また、絶えず進展する社会の流動性と複雑化とに対処しうるためには、犯罪構成要件がつねに客観的・記述的な概念にとどまることはできず、価値的要素を含んだ規範的なものへと深化されることも必要である。さらに、正義衡平、信義誠実、公序良俗、社会通念等々の、もともとは私法の領域で発達した一般条項の概念が、法解釈の補充的原理として具体的事件に妥当する法の発見に寄与するところがあることも否定できない。しかしながら、あまりにも抽象的・概括的な構成要件の設定は、法の行為規範、裁判規範としての機能を失なわしめるものであり、いわんや、安易簡便な一般条項を犯罪構成要件のなかにとりこむことは極力これを避けなければならない。第二次大戦前のドイツ法学界において、一般条項がいともたやすく遊戯のように労働法を征服したとか、一般条項は個々の犯罪構成要件をのりこえてしまう傾向をもつとかと、強く指摘した警告的な主張がなされたことが思いあわされるのである。
法の規定が、その文面からは一義的にしか解釈することができず、しかも憲法上許される必要最小限度を超えた規制がなされていると判断せざるをえないならば、たとえ立法目的が合憲であるとしても、その法は違憲とされなければならない。しかるに、国公法一一〇条一項一七号についての前記のような限定解釈は、それを避けようとして詳密な理論を展開したのであるが、惜しむらくは、その理論の実際的適用について前述のような重大な疑義を包蔵するうえに、その限定解釈の結果もたらされた同条の構成要件の不明確性は、憲法三一条に違反するものであり、また、立法目的に反して法の規定をほとんど空洞化するにいたらしめたことは、法文をすつかり書き改めたも同然で、限定解釈の限度を逸脱するものといわざるをえないのである。

+意見
裁判官岩田誠の意見は、次のとおりである。
国家公務員法(昭和四〇年法律第六九号による改正前のもの。以下、国公法という。)一一〇条一項一七号の規定の合憲性に関する私の意見は、当裁判所昭和四一年(あ)第一一二九号同四四年四月二日大法廷判決(刑集二三巻五号六八五頁)における私の意見のとおりである。
したがつて、公務員の行なう争議行為の違法性の強弱、あおり行為等の違法性の強弱により国公法一一〇条一項一七号の適用の有無を決すべきでないことは、前記大法廷判決における私の意見のとおりであるけれども、同法条の規定は、これになんら限定解釈を加えなくても、憲法二八条に違反しないとする意見には賛同することができない。
これを本件について見るに、原判決が罪となるべき事実として確定したところによれば、被告人らは、それぞれ原判示のような農林省の職員をもつて組織するa労働組合(以下、a労組という。)の役員であるところ、昭和三三年一〇月八日内閣が警察官職務執行法の一部を改正する法律案(以下、警職法改正案という。)を衆議院に提出するやこれに反対する第四次統一行動の一環として、原判示第一、第二の所為に及んだというのであつて、被告人らの右所為は、a労組の団体行動としてなされたものとしても、右は警職法改正に対する反対闘争という政治目的に出たものであつて、a労組組合員の給与その他の勤務条件の改善、向上を図るためのものではないから、憲法二八条の保障する労働基本権の行使ということはできないものである。したがつて、被告人らの所為は、争議行為にいわゆる通常随伴するものであるか否かにかかわらず、それぞれ国公法一一〇条一項一七号にいう争議行為をあおることを企て、または、争議行為をあおつたものとして同条項違反の罪責を免れないものといわなければならない。
所論は、また、被告人らの所為を国公法一一〇条一項一七号により処罰した原判決および国公法の右規定は、憲法二一条に違反すると主張する。しかし、警職法改正法案に反対する意見を表明すること自体は、何人にも許され憲法二一条の保障するところであるが、その意見を表明するには、争議行為に訴えなくても、他にいくらでも適法な表明手段が存するのであつて、憲法二八条の保障の範囲を逸脱した本件のような争議行為によることを要するものではない。したがつて、前示のように憲法二八条の保障の範囲を逸脱した争議行為のあおり行為等を処罰する旨を定めた国公法一一〇条一項一七号の規定は、憲法二一条に違反するものではなく、被告人らの前記所為を処罰した原判決もまた憲法二一条に違反するものではない。
そうすると、被告人らの前示所為は国公法一一〇条一項一七号にあたるとして有罪の言渡をした原判決は結局正当であつて、被告人らの本件上告はいずれもこれを棄却すべきものである。
裁判官田中二郎 同大隅健一郎、同関根小郷、同小川信雄、同坂本吉勝の意見は、次のとおりである。本件上告を棄却すべきものとする点においては多数意見と同じであるが、その理由は次のとおりであるほか、岩田裁判官の意見と同じであり、多数意見の説く理由には賛成することができない。
第一 多数意見は、国家公務員法(昭和四〇年法律第六九号による改正前のもの。以下、国公法という。)九八条五項および一一〇条一項一七号の各規定が憲法二八条に違反する旨の上告論旨を排斥するにあたり、右国公法の規定は、解釈上これに特別の限定を加えなくても憲法の右規定に反するものではないとし、この点につきさきに憲法違反の疑いを避けるために限定解釈を施すべきものとしたいわゆる全司法仙台事件の当裁判所判決(昭和四一年(あ)第一一二九号同四四年四月二日大法廷判決 刑集二三巻五号六八五頁)と相反する見解を示している。この多数意見の説くところは、基本的には右判決における少数意見を若干 ふえんし、かつ、詳述したにとどまるものと考えられるが、これを要約すると、
(1) 公務員は全体の奉仕者であり、その職務内容は公共性をもつているから、公務員の争議行為は、その地位の特殊性と職務の公共性に反し、かつ、その結果多かれ少なかれ公務の停廃をもたらし、国民全体の利益に重大な影響を及ぼすか、またはその虞れがある。
(2) 公務員の勤労条件の決定は、私企業の場合と異なり、労使間の自由な取引に基づく合意によつてではなく、国会の制定する法律と予算によつて定められるという特殊性をもつているが、公務員が争議行為の圧力によつてこれに影響を及ぼすことは、右の決定についての正常かつ民主的な過程をゆがめる虞れがある。
(3) 公務員の争議行為の禁止については、これに対応する有効な代償措置制度が設けられている。というに尽きる。しかし、右の理由は、いずれも公務員の争議行為を一律全面的に禁止し、これをあおる等のすべての行為に対して刑事制裁と科することの合憲性を肯定するに十分な理由とすることはできない。すなわち、
一、憲法一五条二項の、公務員が国民全体の奉仕着である旨の規定は、主として、公務員が特定の政党、階級など国民の一部の利益に奉仕すべきものではないとする点に意義を有するものであつて、使用者である国民全体、ないしは国民全体を代表しまたはそのために行動する政府諸機関に対する絶対的服従義務を公務員に課したものという解釈をすることはできない。このような解釈は、国民全体と公務員との関係をあたかも封建制のもとにおける君主と家臣とのそれのような全人格的な服従と保護り関係と同視するに近い考え方であつて、公務員と国との関係を対等な権利主体間の法律的関係として把握しようという憲法の基本原理と相容れないものである。のみならず、公務員の地位の特殊性を強調する右の考え方は、勤労条件の決定に関する公務員の労働基本権、とくにその争議権に対する制約原理としてよりも、むしろ、その否定原理と一してはたらく性質のものであつて、公務員についても基本的には憲法二八条の労働基本権が認められるとする多数意見自体の説ぐところと矛盾する契機をすらもつものである。すなわち、このような考え方のもとでは、たとえば、公務員の争議行為のごときは、一種の忠誠義務違反として、それ自体を不当視する観念を生じがちであり、この観念を公務員一般におし及ぼすことは、原則として、すべての国民に基本的人権を認めようとする憲法の基本原理と相容れず、とくに憲法二八条の趣旨とは正面から衝突する可能性を有するものである。それゆえ、公務員の争議権を制限する根拠を国民全体の奉仕者たる地位の特殊性に求めるべきではないというべきである。
次に、公務員の職務内容が原則として公共の利益に奉仕するものであり、公務員の職務解怠が公務の円滑な運営に支障をもたらし公共の利益を害する可能性を有することは、多数意見のいうとおりであり、これが公務員の争議行為を制限する実質的理由とされていることは、なにびとも争わないところである。しかし、このことから直ちに、およそ公務員の争議行為一切を一律に禁止し、これをあおる等のすべての行為に刑事制裁を科することが正当化されるとの結論を導くことには、明らかに論理の飛躍がある。すなわち、公務の円滑な運営の阻害による公益侵害をもつて争議権制限の実質的理由とするかぎり、このような侵害の内容と程度は争議行為制限の態様、程度と相関関係にたつべきものであつて、たとえば、形式的には一時的な公務の停廃はあつても、実質的には公務の運営を阻害する虞れがあるといいえない争議行為までも一律に禁止し、これをあおる等の行為に対して刑事制裁を科することが正当とされるいわれはないといわなければならない。国の事務が国の存続自体を支える固有の統治活動、すなわち、軍事、治安、財政などにかぎられていた時代においては、これに従事する者も限定されていた反面、それらの者による公務の懈怠が直ちに国家社会の安全に響く虞れがあり、したがつて、そのような理由からこれらの者の争議行為を全面的に禁止することにも合理性があることを否定できなかつたとしても、近代における福祉国家の発展に伴い、国や地方公共団体の行なう事務が著しく拡大し、その大部分が一般福祉行政や公共的性質を有する経済活動となり、これに従事する者も飛躍的に増加して、全公務員の相当部分を占め、しかも、これらの公務員が全勤労者の中でも相当大きな割合を形成するに至つた今日においては、公務の内容、性質もきわめて多岐多様であるとともに、その運営の阻害が公共の利益に及ぼす影響もまた千差万別であつて、そのうちには、公益的性質を有する私企業の業務の停廃による影響とその内容、性質においてほとんど区別がなく、むしろ、後者の方がその程度いかんによつては、国民生活に対してより重大な支障をもたらす虞れのある場合すら存するのである。したがつて、これらをすべて公益侵害なる抽象的、観念的基準によつて一律に割り切り、公務員の争議行為を、その主体、内容、態様または程度などのいかんにかかわらず全面的に禁止し、これをあおる等のすべての行為に刑事制裁を科するようなことは、とうてい、合理性をもつ立法として憲法上これを正当化することはできないといわなければならない。
二、公務員に対する給与は、国または地方公共団体の財源使用の一内容であるから、公務員の勤労条件のいかんは、国などの財政、ことに予算の編成と密接な関連を有し、したがつて、その決定につき、国会または地方公共団体の議会の監視または承認を経由する必要があることは、多数意見の説くとおりである。しかし、このことから、右の勤労条件の基準がすべて立法によつて決定されることを要し、その間に労使間の団体交渉に基づく協定による決定なるものをいれる余地がないとする結論は、当然には導かれないし、憲法上それが予定されていると解すべき根拠もない。憲法七三条四号は、内閣が法律の定める基準に従い官吏に関する事務を掌理すべき旨を規定しているが、それは、国家公務員に関する事務が内閣の所管に属することと、内閣がこの事務を処理する場合の基準の設定が立法事項であつて政令事項ではないことを明らかにしたにとどまり、公務員の給与など動労条件に関する基準が逐一法律によつて決定されるべきことを憲法上の要件として定めたものではなく、法律で大綱的基準を定め、その実施面における具体化につき一定の制限のもとに内閣に広い裁量権を与え、かつ、公務員の代表者との団体交渉によつてこれを決定する制度を設けることも憲法上は不可能ではない。したがつて、公務員の勤労条件が、その性質上団体交渉による決定になじまず、団体交渉の裏づけとしての団体行動を正当とする余地がないとすることはできないのである。もつとも、公務員の勤労条件の抽象的基準をすべて法律によつて定めることは、憲法上可能であり、わが国においては現にこのような立法政策がとられ、国家公務員法や公務員給与関係諸法律などによつて、公務員の勤労条件の基準に関し詳細な規定が設けられ、しかも、公務員団体に対し団体交渉権が認められているとはいえ、団体協約締結権は否定され、団体交渉により勤労条件が決定される余地や範囲はきわめて狭く、したがつて、公務員の争議権は、団体交渉権の裏づけとしての意味に乏しく、この点において私企業労働者の場合に比し大きな相違が存することは、これを認めなければならない。しかしながら、公務員の争議権が、その実質的効果の点において大きな制約を受けざるをえないからといつて、団体行動による影響力の行使を全く認める余地がないとか、これを全面的に禁止し、これをあおる等のすべての行為に対して刑罰を科しても差しつかえないとの結論が当然に導かれるわけではない。公務員がその勤労条件に関する正当な利益を主張し、かつ、これを守るために団結して意思表示をし、団体交渉以外の団体行動によつて、立法による勤労条件の基準決定などに対して影響力を行使することは、その方法が相当であり、かつ、一定の限界内にとどまるかぎり、刑罰の対象から除外されてしかるべきものである。勤労者にとつて団体行動は、このような影響力行使の唯一ともいうべき手段であり、公務員の場合といえどもことは同様である。多数意見は、このような目的のもとにされる公務員の争議行為が、立法や予算の決定などについての民主的政治過程を不当にゆがめる危険があることを指摘するが、この議論は、公務員の争議行為を無制限に許した場合の弊害については妥当するとしても、およそ一切の争議行為を禁止し、これをあおる等の行為に対して刑罰を科することを正当とする理由となるものではない。換言すれぱ、公務員が自己の要求を貫徹するために、国民生活に重大な影響を及ぼす慮れのあるような争議行為ず遂行し、かつ、これを継続するような場合には、多数意見の危倶する弊害が生ずるかも知れないが、その程度に至らないものについては、そのような弊害が生ずる虞れはなく、要は、その方法および程度の問題にすぎないのである。更に、多数意見は、政府にいわゆる作業所閉鎖(ロツクアウト)による対抗手段がないことを挙げるが、このような対抗手段は、特殊の強力な争議行為に対するそれとしてのみ意味を有するにすぎず、ロツクアウトが利用できないことは、勤労者側におけるすべての争議行為を不当とする理由となるものではない。そればかりでなく、立法や予算とは直接関係のない問題、とくに団体交渉の認められる事柄について団体行動による影響力を行使する必要がある場合も想定されないわけではないのである。このようにみてくると、多数意見の前記(2)の理由も、公務員の争議行為を全面的に禁止し、これをあおる等のすべての行為に対して刑罰を科することを正当づける理由となるものではないというほかはない。
三、現行法上、公務員の勤労条件については、人事院が内閣から独立した機関として設けられ、勧告その他の活動により比較的公正な立場から公務員の正当な利益を守る、いわゆる代償措置に関する制度が設けられていることは、多数意見の指摘するとおりである。しかし、このような代償措置制度の存在は、国民生活全体の利益の保障という見地から、最少限度公務員の労働基本権を制限する場合において、文字どおりその代償として必要とされるものにすぎず、代償措置制度を設けさえずれば労働基本権を制限することができるというわけのものではない。しかも、実際上、人事院の存在およびその活動が、労働基本権の行使と同じ程度に、公務員の勤労条件に関する正当な利益を保護する機能を常に果すものとはいいがたく、とくに、人事院勧告は、政府または国会に対してなんら応諾義務を課するものではないから、政府または国会に右勧告に応ずる措置をとらせるためには、法的強制以外の政治的または社会的活動を必要とし、このような活動は、究極的には世論の支持、協力を要するものであり、世論喚起のための唯一の効果的手段としての公務員による団体行動の必要を全く否定することはできず、また、人事院の勧告の成立過程においても、勧告の内容に対する公務員の要求を表示するために同様の方法をとる場合のありうることも否定できないのである。要するに、代償措置はあくまでも代償措置にすぎず、しかも現代の代償措置制度の運用については、状況に応じた公務員の団体行動による監視、批判、要求、圧力などを必要とする場合もありうべく、単なる代償措置制度の存在を理由として公務員の争議行為を全面的に禁止し、これをあおる等の行為に対して刑罰を科することを正当化することは、とうてい、不可能であるといわざるをえない。
四、なお、多数意見は、その理由中において、前記大法廷の判決が公務員の争議行為禁止およびこれをあおる等の行為の処罰規定について施した限定解釈に対し、それが法律の明文を無視し、立法の趣旨にも反するものであり、また、限定の基準が不明確であつて刑罰法規における犯罪の構成要件の明確化による保障機能を失わせ、憲法三一条に違反する疑いがあると論難している。
ところで、右の大法廷判決における国公法の規定の限定解釈に関する見解のうち、争議行為およびこれをあおる等の行為中、処罰の対象となるものとそうでないものとの区別の基準について、いわゆる違法性の強弱という表現を用いた部分が、犯罪の構成要件としてその内容、範囲につき明確を欠くという批判を受けたことは否定することができない。しかし、右の見解は、憲法二八条が労働基本権を保障していることにかんがみ、勤労者である公務員の争議行為とこれをあおる等の行為のうち、刑罰の対象とならないものを認めるべきであるとの基本的観点にたち、そり基準として、争議行為については、職員団体の本来の目的を達成するために、暴力なども伴わず、不当に長期にわたる等国民生活に重大な支障を及ぼす虞れのないものにかぎつているのであつて、いわゆる違法性の強弱という表現は、以上の趣旨で用いられたものと解されるのである。また、これをあおる等の行為についても組合員の共同意思に基づく争議行為に関し矛その発案、計画、遂行の過程に遍いて、単にその一環として行なわれるにすぎないいわゆる通常随伴行為にかぎり、いずれも処罰の対象から除外すべきものとするにあり、したがつて、争議行為をあおる等の行為が異常な態様で行なわれた場合および組合員以外の第三者または組合員と第三者との共謀によつて行なわれた場合は、通常随伴行為にあたらないものとしているのである。
それゆえ、公務員の争議行為をあおる等の行為が右の基準に照らして処罰の対象となるかどうかは、事案ごとに具体的な事実関係に照らして判断されなければならないこととなるが、このことは、公共企業体職員または私企業労働者の争議行為が、たまたまそれ自体争議行為の禁止を内容としていない他の刑罰法規の構成要件事実に該当する場合、たとえば、いわゆる全逓中郵事件(最高裁昭和三九年(あ)第二九六号同四一年一〇月二六日大法廷判決・刑集二〇巻八号九〇一頁)のような場合に、憲法二八条ないしは労働組合法一条二項の規定との関係から、労働組合の本来の目的を達成するためにした正当な行為であるかどうかにつき、事案ごとに具体的な事実関係に照らして判断されなければならないのと同様である。ただ、後者の関係では違法性阻却の問題であり、前者の関係では構成要件充足の問題であるという相違が生ずるにすぎない。
およそ、ある法律における行為の制限、禁止規定がその文言上制限、禁止の内容において広範に過ぎ、それ自体憲法上保障された個人の基本的人権を不当に侵害する要素を含んでいる場合には、右基本的人権の保障は憲法の次元において処理すべきものであつて、刑法の次元における違法性阻却の理論によつて処理することは相当でなく、また、右基本的人権を侵害するような広範に過ぎる制限、禁止の法律といつても、常にその規定を全面的に憲法違反として無効としなければならないわけではなく、公務員の争議行為の禁止のように、右の基本的人権の侵害にあたる場合がむしろ例外で、原則としては、その大部分が合憲的な制限、禁止の範囲に属するようなものである場合には、当該規定自体を全面的に無効とすることなく、できるかぎり解釈によつて規定内容を合憲の範囲にとどめる方法(合憲的制限解釈)、またはこれが困難な場合には、具体的な場合における当該法規の適用を憲法に違反するものとして拒否する方法(適用違憲)によつてことを処理するのが妥当な処置というべきであり、この場合、立法による修正がされないかぎり、当該規定の適用が排除される範囲は判例の累積にまつこととなるわけであり、ことに後者の方法を採つた場合には、これに期待せざるをえない場合も少なくないと考えられるのである。
以上の点に思いをいたすときは、前記のいわゆる全司法仙台事件の判決が国公法一一〇条一項一七号の規定について前記のような趣旨で構成要件の限定解釈をしたからといつて、憲法三一条に違反する疑いがあるとしてこれを排斥するのは相当でなく、いわんや、この点を理由として、右国公法の規定が解釈上これになんらの限定を加えなくても憲法二八条に違反せず全面的に合憲であるとするようなことは、とうてい、許されるべきではない。
第二 以上、公務員の争議権に関する多数意見の見解の不当であるゆえんを述べたが、ひるがえつて考えるに、本件の処理にあたり、多数意見が、何ゆえ、ことさらにいわゆる全司法仙台事件大法廷判決の解釈と異なる憲法判断を展開しなければならないのか、その必要と納得のゆく理由を発見することができない。
本件は、a労働組合による警職法改正反対闘争という政治目的に出た争議行為をあおることを企て、また、これをあおつた行為が国公法の前記規定違反の罪にあたるとして起訴された事件であり、このような争議行為が憲法二八条による争議権の保障の範囲に含まれないことは、岩田裁判官の意見のとおりである。それゆえ、この点につき判断を加えれば、本件の処理としては十分であり、あえて勤労条件の改善、向上を図るための争議行為禁止の可能性の問題にまで立ち入つて判断を加え、しかも、従前の最高裁判所の判例ないしは見解に変更を加える必要はなく、また、変更を加えるべきではないのである。
憲法の解釈は、憲法によつて司法裁判所に与えられた重大な権限であり、その行使にはきわめて慎重であるべく、事案の処理上必要やむをえない場合に、しかも、必要の範囲にかぎつてその判断を示すという建前を堅持しなければならないことは、改めていうまでもないところである。ことに、最高裁判所が最終審としてさきに示した憲法解釈と異なる見解をとり、右の先例を変更して新しい解釈を示すにあたつては、その必要性および相当性について特段の吟味、検討と配慮が施されなければならない。けだし、憲法解釈の変更は、実質的には憲法自体の改正にも匹敵するものであるばかりでなく、最高裁判所の示す憲法解釈は、その性質上、その理由づけ自体がもつ説得力を通じて他の国家機関や国民一般の支持と承認を獲得することにより、はじめて権威ある判断としての拘束力と実効性をもちうるものであり、このような権威を保持し、憲法秩序の安定をはかるためには、憲法判例の変更は軽々にこれを行なうべきものではなく、その時機および方法について慎重を期し、その内容において真に説得力ある理由と根拠とを示す用意を必要とするからである。もとより、法の解釈は、解釈者によつて見解がわかれうる性質のものであり、憲法解釈においてはとくにしかりであつて、このような場合、終極的決定は多数者の見解によることとならざるをえない。しかし、いつたん公権的解釈として示されたものの変更については、最高裁判所のあり方としては、その前に変更の要否ないしは適否について特段の吟味、検討を施すべきものであり、ことに、僅少差の多数によつてこのような変更を行なうことは、運用上極力避けるべきである。最高裁判所において、かつて、大法廷の判例を変更するについては特別多数決による旨の規則改正案を一般規則制定諮問委員会に諮問したところ、裁判官の英知と良識による運用に委ねるのが適当である、との多数委員の意見により、改正の実現をみるに至らなかつたことがあることは、当裁判所に顕著な事実であるが、この経緯は、右に述べたことを裏づける一資料というべきものである。
ところで、いわゆる全司法仙台事件の当裁判所大法廷判決中の、憲法二八条が労働基本権を保障していることにかんがみ公務員の争議行為とこれをあおる等の行為のうち正当なものは刑事制裁の対象とならないものである、という基本的見解は、いわゆる生逓中郵事件の当裁判所判決およびいわゆる東京都教組事件の当裁判所判決(昭和四一年(あ)第四〇一号同四四年四月二日大法廷判決・刑集二三巻五号三〇五頁)の線にそい、十分な審議を尽くし熟慮を重ねたうえでされたものであることは、右判決を通読すれば明らかなところであり、その見解は、その後その大綱において下級裁判所も従うところとなり、一般国民の間にも漸次定着しつつあるものと認められるのである。ところが、本件において、多数意見は、さきに指摘したように、事案の処理自体の関係では右見解の当否に触れるべきでなく、かつ、その必要もないにもかかわらず、あえてこれを変更しているのである。しかも、多数意見の理由については、さきの大法廷判決における少数意見の理論に格別つけ加えるもののないことは前記のとおりであり、また、右判決の見解を変更する真にやむをえないゆえんに至つては、なんら合理的な説明が示されておらず、また、客観的にもこれを発見するに苦しまざるをえないのである。以上の経過に加えて、本件のように、僅少差の多数によつてさきの憲法解釈を変更することは、最高裁判所の憲法判断の安定に疑念を抱かせ、ひいてはその権威と指導性を低からしめる慮れがあるという批判を受けるに至ることも考慮しなければならないのである。
以上、ことは、憲法の解釈、判断の変更について最高裁判所のとるべき態度ないしあり方の根本問題に触れるものであるから、とくに指摘せざるをえない。

+反対意見
裁判官色川幸太郎の反対意見は、次のとおりである。
第一 争議行為の禁止と刑罰
一、多数意見は、要するに、非現業国家公務員(以下公務員という。)については一切の争議行為が禁止されるのであり、これをあおる等の行為をする者は、何人であつても、刑事制裁を科せられるものであるとし、その旨を規定した国家公務員法(昭和四〇年法律第六九号による改正前のもの、以下国公法という。)一一〇条一項一七号は、これに何らの限定解釈を施さなくとも合憲であるというのであるが、私はこれに決定的に反対である。その理由としては、当裁判所大法廷の都教組事件判決(昭和四一年(あ)第四〇一号同四四年四月二日大法廷判決・刑集二三巻五号三〇五頁)及び仙台全司法事件判決(昭和四一年(あ)第一一二九号同四四年四月二日大法廷判決・刑集二三巻五号六八五頁)(但しこれに付した私の少数意見と抵触する部分を除く。)にあらわれた基本的な見解を引用し、これをもつて私の意見とする。なお、多数意見に含まれる若干の論点について、私のいだいた疑問を開陳し、反対理由の補足としたい。
二、多数意見は、公務員の争議行為が何故に禁止されなければならないか、という理由については、縷縷、言葉をつくして説示しているのであるが(私もその所説については必ずしも全面的に反対するわけではない。)、要は、公務員には争議権を認めるべきではないということだけを力説しているにすぎない。しかるに多数意見は、一転ただちに、科罰の是認へと飛躍し、見るべき論拠をほとんど示すことなく、およそ、争議行為の禁止に違反した場合、これに懲役刑を含む刑罰をもつて臨むことを、争議権制限に伴う当然の帰結とするもののごとくであつて、私としては到底納得できないのである。
思うに、争議行為を制限しまたは禁止する立法例は現に数多く存在する。ひとり公務員の場合だけではない。しかし禁止違反に対し、ただちに、懲役を含む刑罰を加えるべきことが規定されているのは、他に例を見ないところである。公労法一七条は、公共企業体の職員や郵政その他国営企業の現業公務員及びそれらの組合の争議行為を禁止し、このような禁止された行為を共謀し、そそのかし若しくはあおる等の行為は、してはならないと定めており、その点で国公法九八条と趣旨を同じくしているのであるが、その違反者は、解雇処分を受けることがあるにすぎず、禁止の裏付けとなる罰則は全く存在しないのであるから刑罰に処せられることがない(電電公社その他各企業体にはそれぞれの事業法があり、そのなかには不当に業務を停廃したことに対する処罰規定もおかれているが、これは個別的な秩序違反行為を対象としたものであつて、争議行為に適用されるものではないと解する。)。公共企業体の職員や国営企業の現業公務員に対して争議行為を禁止するのは国民の福祉を擁護するためであるから、国公法が公務員に対し争議行為を禁止する趣旨との間に、格段の径庭があるわけではない。それであるから、公務員の争議権が制約されなければならない理由を単に積み重ねただけでは、科罰の合理性を論証したことにはなりえないであろう。
三、もつとも多数意見がその点に全くふれていないわけでもない。いま、多数意見のいうところがら理由つけと見るべきものを求めると(1)公務員の争議行為は広く国民全体の共同利益に重大な障碍をもたらす慮れがあること、そして(2)あおり等の行為をした者はかかる違法な争議行為の原動力または支柱であること、の二点であろうか。しかし、いずれを取りあげても、科罰の合理性につき人をして首肯せしめるには、ほど遠いもののあることを感ぜざるをえない。
刑罰を必要とする第一の、というよりはむしろ唯一の、理由は、争議行為が国民全体の共同利益に重大な障碍をもたらす虞れがあるから、というところに帰着する。しかし、一口に公務員といつても、国策の策定や遂行に任ずる者もあれば、上司の指揮下で補助的な作業にあたつたり、あるいは単純な労務に従事するにすぎない者もあり、その業務内容や職種は千差万別である。のみならず、争議行為のために多かれ少なかれ公務の停廃を見るとしても、争議行為の規模や態様には幾多の段階やニユアンスの差異があるのであつて、国民全体の生活に重大な障碍をもたらすか、またはその慮れがあるような争議行為は、過去の実績に徴しても、極めて異例であるといつて差支えない。国民生活上何らエツセンシアル(これについては後にふれる。)でない公務が、ごく小範囲の職場において、しかも長からざる期間、争議行為によつて停廃を見たとしても(公務員労働関係における大半の紛争状態はまさにこれである。)、国民は多少の不便不利益を蒙るだけである。もともと、労働組合の争議行為は使用者に打撃を加えて己れの主張を貫徹しようとするものであるが、企業は社会から孤立した存在ではないから、そこにおける業務の阻害は第三者にも影響を与えないわけにはいかない。その企業が運輸とか医療とかの公益事業であると、業務の停廃による直接の被害者はむしろ一般公衆である。かくのごとく、第三者も争議行為によつて迷惑を蒙ることを免れないが、それが故に争議行為を全く禁止し、または争議行為によつて第三者の受けた損害を当該労働組合などにすべて負担せしめては憲法二八条の趣旨は全うされないことになるであろう。その意味で第三者はある程度の受忍を余儀なくされるのであり、公務員の場合でも本質的には変るところがないというべきである。
多数意見の立論の基礎は、国民全体の共同生活に対する重大な障碍を与えるという点にあるのであるから、前述のごとき、国民に対し多少の不便をかけるにすぎない軽微な争議行為については、これに刑罰をもつて臨まないとするのが、論理上当然の筋合ではないかと思うのであるが、何故に多数意見は、事の軽重や、国民生活に対する影響の深浅などをすべて捨象度外視して、公務員による一切の争議行為に対し、刑罰を科することを無条件に是認しようとするのであろうか。限定解釈をしてはじめて憲法上科罰が許されると考えている私の到底同調できないところである。
四、つぎに多数意見は、「公務員の争議行為の禁止は、憲法に違反することはないのであるから、」「この禁止を侵す違法な争議行為をあおる等の行為をする者」は、原動力を与える者としての重い責任が問われて然るべきであり、「違法な争議行為の防遏」のためにその者に刑事制裁を科することには「十分の合理性がある」とする。しかしながら争議行為の禁止が違憲でないからといつて、禁止違反に対し刑罰をもつて臨むことまでも、憲法上、当然無条件に認められるということにはならない。憲法は争議権の保障を大原則として宣言しており、公務員もその大部分はかつてその保障下にあつたのである。その後にいたり、国民の福祉との権衡上、やむをえざる例外として制約されるにいたつたものであると解せられるから(多数意見もこの点は同じ見解をとるものであろう。)、禁止違反に対して科せらるべき不利益の限度なり形態なりは、憲法二八条の原点にもう一度立ち帰り、慎重の上にも慎重に策定されなければならないのである。争議行為禁止が違憲でないが故に禁止違反にはいかなる刑罰を科しても差支えない、という説をとるとすれば、これは論理的にも無理というものではあるまいか。多数意見の立論は、公務員の争議行為を禁止することこそ憲法の要請であり、至上命令だというような途方もない前提(多数意見は憲法一五条を論じて公務員の地位の特殊性を説くが、さすがにかかる議論にまでは発展していない。)でもとらないかぎり、破綻せざるをえまい。
五、さらに、多数意見は、あおり等の行為を罰することに十分の合理性があるという。しかし、いうところの合理性とは「争議行為の防遏を図るため」の合理性、すなわち、最少の労力をもつて最大の効果をえようとする経済原則としての合理性に近似したもののように見受けられる。いいかえれば、憲法二八条の原則に対する真にやむをえない例外である科罰が、いかなる合理的な根拠に基づいて容認されるか、という意味での合理性ではなく、それとは全く縁もゆかりもない刑事政策ないしは治安対策上の合理性をいうもののごとくである。
わが国にはかつて、争議行為の誘惑、煽動を取り締る治安警察法一七条という規定があり、これを活用した警察が、明治、大正にわたり、あらゆる争議行為の防遏に美事に功を奏したことがある。当時と異なり争議権の保障のある今日、よもや立法者がその故智先蹤にならつたわけではあるまいが、禁止に背いた違法な争議行為に対処するにあたり、参加者全員を検挙し断罪するのは煩に堪えないばかりでなく、単なる参加者よりも社会的責任の重いいわば巨悪を罰すれば、付和随行の者どもは手を加えるにいたらずして争議行為を断念するであろうという計算があつたのかも知れない。もしそうだとすれば、争議対策としてはなるほど合理的ではあろう。しかしこの考え方は、憲法の次元を離れた、憲法的視野の外にある、便宜的、政策的なもので、もとより採ることは許されない。
六、多数意見は、あおり等の行為に出た者は、争議行為の原動力をなす者であるから、「単なる争議行為参加者にくらべて社会的責任が重く」、したがつてその責任を問われても当然だという。これを裏返していえば、単なる争議行為参加者にも、刑事責任追及の根拠となる社会的責任がないわけではない、ただ原動力を与えた者に比べると軽いだけである、とする主張が底流をなしている。多数意見も、別の個所で、違法な「争議行為に参加したにすぎない職員は刑罰を科せられることなく」と述べてはいるが、それは現行法のあり方を説明したにとどまり、憲法上そうでなければいけないのだという趣旨はどこからも窺うことができない。いまもし現行法が改正されて、単なる争議行為参加者をもことごとく処罰するということになつたと仮定した場合、多数意見の立場からは、これをどう受けとめるであろうか。恐らくは、かくのごとき改正も国会みずからが自由にきめうるところであるとし、その規定を適用することに何の躊躇をも示さないことになるのではあるまいか。
七、上述のように、単なる争議行為参加者は処罰されることがないのであるが、これは区区たる立法政策に出たものと解すべきではない。もしそれをしも処罰するとなれば、ただちに違憲の問題を生ずるであろう。いわゆる争議行為参加者不処罰の原則は憲法二八条との関連において確立されているのである。あおり等の行為の意義も、右の基本的な立場に立脚しではじめて正しく理解することができると考える。
これに対し多数意見はもとより見解を異にするわけであるが、それにしても、単なる争議行為参加者を処罰するものでないことは、多数意見の容認するところである。しかし、あおり等に関する多数意見の解釈はあまりにも広く(多数意見のように、憲法二八条に立脚せず、それとの関係を無視ないし閑却するかぎり、恣意的な解釈で満足するのであれば格別、厳密な態度での合理的な限定解釈を施すことはできる筈がないのである。)もしそれによるとすれば、後に述べるように、単なる争議行為参加者も処罰の脅威を感ぜざるをえなくなるのであつて、多数意見の立論の根拠たる原動力論、すなわち違法な争議行為の原動力をなす者だけを処罰するのだという理論も実は看板だけにしかすぎないことになりおわるのである(多数意見は、わざわざカツコ書きにおいて、単なる機械的労務を提供したにすぎない者、またはこれに類する者はあおりその他の行為者には含まれないとことわつているのであるが、これは争議行為が組合員自身によつて形成され遂行されるものであるという現実を無視した空論なのである。およそ争議行為は、組合員すべてが自己の判断に基づきそれぞれが主体的な立場に立つて参加し行動するのが通例であつて、例えば、末端組合員が普通担当することになるであろうビラの配布、貼付、指令の伝達などにしても、選挙運動の際の日雇労務者などに見られる単なる機械的な労務の提供とはその質を異にする。)。
国公法一一〇条一項一七号によつて罪となる行為には、以上の他に、「そそのかし」と「共謀」とがあるが、これらの行為類型のどれひとつ取りあげても、もし多数意見にならつて文字通りに解釈するとすれば、自由意思に基づいて争議行為に参加し、共闘するところのあつた組合員は、たとえ平組合員であろうとも刑事責任を追及されかねないことになる。なぜならば、平組合員と雖も、いわゆる総けつ起大会に出席し、執行部のスト提案に熱烈な声援を送つて組合員の闘志を鼓舞したとすれば「あおり」にちがいないし、スト宣言文書やアジビラを積極的に職場その他に貼つたり、撒いたりしたときは「そそのかし」に該当しないとはいいきれない。そればかりではない。組合の争議行為意思の形成に進んで参加し、また、争議手段についての討議に加わる(これは組合による闘争の場合必ず通過する過程である。)ことが、果して「共謀」でないといいうるかどうかさえ疑問になりはしないか。
もしかかる設例が必ずしも想定できないわけでないとすれば(争議の実情に鑑みると決してありえないことではない。)、指導的立場において原動力たる役割を演じた組合の中枢部だけでなく、ある程度積極的ではあれ、結局は単なる争議参加者にしかすぎなかつた者を、徹底的に検挙することすら易易たる業となるのである。もし仮にそういう事態が生じたとすれば、これは原動力理論を主張する論者にとつてさえ、恐らく不本意ではあるにちがいない。多数意見も「法は公務員の労働基本権を尊重しこれに対する制約、とくに刑罰の対象とすることを最小限度にとどめようとしている」と説いているのであるから。
もちろん、普通の紛争に見られる程度の事情においては、かかる不合理な結果を来たすような処理はなされないであろうが、法律による何の歯止めもなく、あげてそのことを捜査機関の良識ある裁量に俟つのみとあつては、多数意見の強調する原動力理論も宙に浮く結果となるであろう。
八、多数意見は、ILO九八号条約をひいて、それが公務員に適用されないことをあげ、また、ILO結社の自由委員会の報告中に、「大多数の国において」公務員がストライキを禁止されている旨の記述があるとして、当該個所を引用し、公務員の争議行為に対する制約は、国際的にも是認されるものだと主張する。
なるほど九八号条約の第六条には、多数意見の引用にかかるような定めのあることは事実であるが、一九七一年に発足したILOの公務員合同委員会(これは日本を含む一六の政府及びそれぞれの国の労働者側からなる二者構成の公的な専門委員会である。)の第一回会議(同年三月二二日ないし四月二日開催)におけるジエンクスILO事務局長の開会演説は、「現在多くの国において、公務員の労伽関係に変化が生じており、勤務条件は労使の話合いを通じて決定される傾向がある」ことを指摘しており、また、右委員会における討議の結果採決された決議第一号は
「一九四九年の団結権及び団体交渉権についての原則の適用に関する条約(第九八号)が、「公務員の地位を取り扱うものではない」と規定しているにもかかわらず、すでに若干の国においては、公務員は同条約の規定の全部又は一部の恩恵を受けているということを認識し
公務員は、九八号条約の定めるところに従い、労働組合活動の自由を侵害するいかなる行為に対しても適切に保護されるべきであることを考慮し」
と述べているのである(なお同条約第六条の英文テキストには、アドミニストレーシヨンに従事するパブリツクサーばンツとある。これは日本訳にいう「公務員」よりもはるかに狭いものがありはしないか。現にILOの条約勧告専門委員会は、一九六七年に、公務員の概念は各国の法律制度り相違に応じてある程度異なるにしても、公権力の機関として行動しない公務員を含まないとの趣旨の報告を提出している。本件では直接この点を問題にするわけではないが、多数意見のいうところが拡張して解釈される虞れもあるので指摘しておく次第である。)。
さらに、公務員のストライキを禁止している国が、果して世界の大多数を占めているかどうか、またそうだとしても、そのことの示す意味については問題があると考える。なるほど、数だけからいえば、いまだ少なからざる国が公務員のスト禁止法を存しているが、しかし、その大部分は開発途上国か、そうでなくとも農業国なのである。先進工業国としては、僅かにわが国のほか、アメリカ、オランダ、スイスをあげうるにすぎない。しかも、以前から公務員に対するしめ付けのきわめて厳しいアメリカにおいてさえ、近時いくつかの州において禁止を解く立法がつぎつぎに制定されつつあるのである。
もつとも問題の核心は、実は、その点にあるわけではない。本件においてわれわれが特に関心をもたざるをえないのは、禁止違反に対する刑罰規定の有無なのである。この種の規定が、殊に先進国において、果してどれだけあるのか、多数意見は何らふれるところがない。いうところは、単に禁止立法が多くの国に存在しているとしているだけである。本件をいやしくも国際的視野に立つて検討するのであれば、刑罰を裏付けとする公務員のスト禁止立法の状況にこそ目をくばるべきであろう。
九、わが国はいまだ批准していないけれども、人も知るとおりILO一〇五号条約は、同盟罷業に参加したことに対する制裁としての強制労働を、何らの留保をも加えることなく、一般的に禁止している。もつとも、ILO五二回総会(一九六八年)に提出された専門委員会の報告は、「右条約案を審議した総会委員会において、一定の事情の下ならば違法な同盟罷業に参加したことに対して刑務所労働を含む刑罰を科することができるという合意ができたという事実を考慮することが適当」だと述べているのであるが、この見解には概ね異論がないらしい。それ故、仮に右条約を批准しても(わが国の政府が批准を躊躇しているのはその点を懸念するためでもあろうか。)、国公法一一〇条一項一七号なども右条約には抵触しないとする見解もあるようである。しかし、前示専門委員会が刑罰を容認するのは、「エツセンシヤル」すなわち「必要不可欠な役務」についてのみなのである。そして、「必要不可欠」とは、同委員会によれば、「その中断が住民の全部又は一部の存在又は福祉を危うくするような」場合をさしていることを忘れてはならない。
のみならず、結社の自由委員会は、一二号事件において、アルゼンチンでの、スト禁止違反に対する刑事制裁規定につき
「委員会は、公安にかんする(アルゼンチンの)法規に含まれている、ストライキにたいし、これらの規定を適用する必要性をこれまで見出せなかつた旨の(アルゼンチンの)政府陳述に留意するとともに、これらの規定を、職業上の利益を増進擁護するため、労働組合の指導者が自己の通常の任務を遂行した場合に、これに対しては適用することはできないような態度で、上記諸規定を改正することが望ましい旨、(アルゼンチン)政府の注意を喚起するよう、理事会に勧告する。」と述べている。さらに、五五号事件において(これはギリシヤに刑法上のストライキ処罰規定があることを問題にした申立事件である。)、労働者側の申立を却下はしているのであるが、その理由は、右の刑法の規定が今まで実際には適用されたことがなかつたことに「留意」したからであつて、スト禁止違反に対し刑罰を科することをたやすくは是認しないという態度を示しているのである。
要するにILOの一般的傾向としては、公務員のスト禁止違反に対し刑罰特に懲役を科することには甚だ消極的なのである。
翻つて、各先進国の現行法制を見ると、アメリカにおいてこそ、連邦公務員のスト禁止違反に対し一〇〇〇ドル以下の罰金又は一年と一日以下の拘禁もしくはこれを併科するという罰則があるけれども、イギリス、ドイツ及びフランスでは、警察官などについては格別、普通の公務員については、ストライキを禁止する規定がそもそもないのであるから、もとより刑罰の脅威が存在するわけではない。
以上を通観するならば、世界的な潮流は、多数意見の説くところとおよそ方向を異にするものということができるであろう。多数意見は、自らが「国際的視野」に立つているというのであるが、そうであるとしても、わずかに楯の一面を見たにすぎないのではあるまいか。
第二 本件の団体行動は「争議行為」ではない
一、原判決の認定するところによると、被告人らは、昭和三三年一〇月、内閣が警察官職務執行法の一部を改正する法律案を衆議院に提出したとき、これに反対するために(一)時間内職場大会を開催すべき旨の指令を全国の支部、分会に発出したほか(二)農林省庁舎前において勤務時間内二時間の職場集会を計画、同省職員に参加方を懲慂し、かくして争議行為をあおつたというのである。そうである以上、この行動は、国会に労働組合の意思を反映せしめ、立法過程において前記改正の動きを阻止しようとしたのであるから、政治的目的に出たものというべく、そして、集会実施中は、時間は長くないにしても、管理者の意思を排除し、一斉に勤務を放棄するというのであるから、世にいう政治ストにあたるわけである。
しかし、政治ストというのは俗称にすぎず、純然たる政治的目的のための労働組合の統一行動は、たとえそのために業務の阻害を来たしても、労働法上の争議行為たるストライキとは異質なものなのである。例えば、診療報酬の改訂を要求するための医師会のスト(一斉休診)や、入浴料金据置反対のための浴場業者のストなどは、いかなる意味でも争議行為ではないのであるが、いわゆる政治ストも本質的にはこれらと同様であり、法律改正阻止のための、すなわち国会の審議に影響を及ぼし、かつ政府(この場合は統治機関たる政府であつて、使用者たる政府ではない。)に反省を促すための「スト」は、労働法上の争議行為ではないのである。したがつて、労働組合の行動ではあるが、争議権の行使ではなく、憲法二八条の関知せざるところというべきである。
もとより、憲法二八条の保障を受けないからといつて、それだけの理由で、右の「スト」がただちに違法になるものではない。このことは、あえて憲法二一条を引合に出すまでもなく、明らかであろう。大体、労働組合には政治行動をなすについて労働組合なるが故の特別の保障がないだけであつて、一般に組合に対し政治行動が禁止されていると解すべき何らの理由もないからである。
もつとも、国家公務員については、私企業の労働者の場合と異なり、政治的行為制限の規定(国公法一〇二条)があるが、それをうけて政治的行為の細かい内容を定めた人事院規則には憲法上疑義なしとしないのであつて、右の規定だけに依拠して一切の政治行動が禁圧されているとするのは相当ではない。それにまた、公務員労働組合の法律改正反対運動が議会制民主主義に反するときめつけることにも問題がある(多数意見は、公務員の勤務条件は国会の制定した法律、予算によつて定められるのであるから、勤務条件について公務員が争議行為を行なうことは議会制民主主義に反するという。医師の団体や農業団体が、立法の促進や法律改正の反対などを目的として、国会や政府に強力な圧力をかけていることは日常われわれが見聞するところである。歓迎すべき風潮ではないとしても、当事者としては生活権擁護上やむにやまれずしてとる行動であるかも知れず、また一方、これを禁止する法規があるわけではないから、いうまでもなく合法的行為なのである。労働組合としても別異ではない。労働組合は、本来、使用者との間において、労働条件の維持改善を図ることを主たる目的として結成され、発達してきたのであるが、今日の高度経済成長の時代においては、使用者との角逐に全力をそそぐ必要が次第に少なくなり、さらに広い視野に立つての物心両面における生活の向上に努力する傾向が顕著となつた。労働組合のこの機能の変化は、労働者の生活と意識の変化の反映であり、アメリカ型のビズネスユニオンにおいてさえ、単なる賃上げ組合の域にとどまることはできないのである。したがつて、労働組合が、企業の内部にのみ局せきすることなく、進んで、行政や立法に自らの意思を反映せしめようとするのはまさに時代の要請であり、まことに当然のことなのである。労働組合が国会の審議に影響力を及ぼそうとすること自体は、越軌な行動に出るものでないかぎり、国会の機能に直接、何の障碍をも与えるものではないから、非難に値するわけではあるまい。むしろ考えようによれば、国の最高機関として民衆と隔絶した高きにある国会に、民意のあるところを知らしめることは、議会制をして真の民主主義に近づかしめる方法でもあろう。)。労働組合の政治的行動を一概に否定し排撃することは、労働組合が現に営んでいる社会的役割ないし活動を無視するものというべきである。
もとよりそれだからといつて、公務員労働組合の政治的行動がすべて適法だというつもりはない。この点は別個に考察されなければならない。公務員労働組合によつてなされた本件におけるような態様の政治的行動がいかなる法律的評価を受けるものであるかは、憲法一五条及び二一条と国家公務員法との比較考量によつてきめられるべきことである。しかし、国家公務員に対する政治活動の規制とは全く関係のない訴因、罰条をもつて起訴されている本件においては、これ以上、立ち入つた考察をする必要はないと考える。
二、いわゆる政治ストが労働法上の争議行為ではないというためには、労働法上、争議行為とは何かということを解明することが必要であるし、国公法九八条五項で禁止されている争議行為(五項前段は全体として争議行為を禁止しているものと解する。「政府の活動能率を低下させる怠業的行為」も、広義における争議行為の一部である。これを争議行為と別異なものであるとする説もあるけれども、条文上かくのごときまぎらわしい表現になつているのは、占領下における立法過程に通有の、占領軍が作成し日本政府に押しつけた粗雑なドラフトに屈従した結果と見るべく、要するに立法上のミスであつて、後述する判決中で私が詳述した沿革に徴するときは、上述したところ以外の合理的解釈は考えられないのである。)が、労働法上争議行為とよばれるものと同じであることを論証しなければならないのであるが、この問題については、私がかつて詳しく論じたところ(仙台全司法事件大法廷判決中の私の意見刑集二三巻五号七一五頁以下)であるので、これを引用する。
結局、原判決には、法律の解釈を誤つた違法があり破棄を免れないというのが私の結論である。
第三 判例変更の問題について
最後に、一言付加したいことがある。多数意見は、仙台全司法事件についての当裁判所の判例は変更すべきものであるとしたのであるが、法律上の見解の当否はしばらく措き、何よりもまず、憲法判例の変更についての基本的な姿勢において、私は、多数意見に、甚だあきたらざるものあるを感ずるのである。この点に関しては、本判決に、裁判官田中二郎、同大隅健一郎、同関根小郷、同小川信雄、同坂本吉勝の剴切な意見が付せられており、その所説には私もことごとく賛成であるので、その意見に同調し、私自身の見解の表明に代えることにする。検察官冨田正典、同山室章、同蒲原大輔 公判出席

+判例(H12.3.17)
理由
上告代理人佐藤義弥、同竹澤哲夫、同尾山宏、同岡村親宜の上告理由第一点について
国家公務員法(以下「国公法」という。)九八条二項の規定が憲法二八条に違反するものでないことは、当裁判所の判例(最高裁昭和四三年(あ)第二七八〇号同四八年四月二五日大法廷判決・刑集二七巻四号五四七頁)とするところであり、これと同旨の原審の判断は、正当として是認することができる。論旨は採用することができない。

同第二点及び第三点について
所論引用の結社の自由及び団結権の保護に関する条約(昭和四〇年条約第七号。いわゆるILO八七号条約)三条並びに経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約(昭和五四年条約第六号)八条一項(C)は、いずれも公務員の争議権を保障したものとは解されず、国公法九八条二項及び三項並びに本件各懲戒処分が右各条約に違反するものとはいえないとした原審の判断は、正当として是認することができる。原判決に所論の違法はない。論旨は、右と異なる見解に立って原判決を論難するものにすぎず、採用することができない。

同第四点について
国公法第三章第六節第二款の懲戒に関する規定及びこれに基づく本件各懲戒処分が憲法三一条の規定に違反するものでないことは、最高裁昭和六一年(行ツ)第一一号平成四年七月一日大法廷判決・民集四六巻五号四三七頁の趣旨に徴して明らかというべきである。論旨は採用することができない。

同第五点及び第六点について
所論の点に関する原審の事実認定は、原判決挙示の証拠関係に照らして首肯するに足り、右事実関係の下においては、本件ストライキの当時、国家公務員の労働基本権の制約に対する代償措置がその本来の機能を果たしていなかったということができないことは、原判示のとおりであるから、右代償措置が本来の機能を果たしていなかったことを前提とする所論違憲の主張は、その前提を欠く。論旨は採用することができない。

同第七点について
所論の点に関する原審の事実認定は、原判決挙示の証拠関係に照らして首肯するに足り、右事実関係の下においては、上告人らに対する本件各懲戒処分が著しく妥当性を欠くものとはいえず、懲戒権者の裁量権の範囲を逸脱したものとはいえないとした原審の判断は、正当として是認することができる。原判決に所論の違法はない。論旨は、原審の専権に属する証拠の取捨判断、事実の認定を非難するか、又は右と異なる見解に立って原判決を論難するものにすぎず、採用することができない。
よって、裁判官河合伸一、同福田博の補足意見があるほか、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

+補足意見
裁判官河合伸一、同福田博の補足意見は次のとおりである。
私たちは、法廷意見に賛成するものであるが、なお、上告理由第七点について次のとおり付言しておきたい。
原審が認定した事実関係の下では、昭和五六年度における人事院勧告の一部不実施に引き続く同五七年度における人事院勧告の完全凍結をもって、本件ストライキの当時、国家公務員の労働基本権の制約に対する代償措置がその本来の機能を失っていたとまではいうことができないと考えるが、右のような事情は、争議行為等の禁止違反に対する懲戒処分において懲戒権濫用の成否を判断するに当たっての重要な事情となり得るものというべきである。
すなわち、公務員に懲戒事由がある場合であっても、懲戒権者が裁量権の行使としてした懲戒処分が、右裁量権を行使するに当たって当然に考慮すべき事情を考慮せず、あるいは、同事情を考慮したものとしては社会通念上著しく妥当を欠いて、裁量権の範囲を超えるものと認められるときは、その処分は裁量権を濫用したものとして違法となるものと解すべきである。そして、懲戒事由に該当すると認められる行為が人事院勧告の完全実施を求めるいわゆる人勧ストに関するものである場合には、人事院勧告の完全凍結という前記の事情は、懲戒権濫用の成否を判断するに当たって当然に考慮されるべき重要な事情となるものと考えるのである。
ILO結社の自由委員会報告書による指摘を待つまでもなく、適切な代償措置の存在は公務員の労働基本権の制約が違憲とされないための重要な条件なのであり、国家公務員についての人事院勧告制度は、そのような代償措置の中でも最も重要なものというべきである。したがって、人事院勧告がされたにもかかわらず、政府当局によって全面的にその実施が凍結されるということは、極めて異例な事態といわざるを得ない。そのような状況下において、国家公務員が人事院勧告の実施を求めて争議行為を行った場合には、懲戒権者は、国公法に違反するとして懲戒権を行使するに当たり、争議行為が右異例な事態に対応するものとしてされたものであることを十分に考慮して、慎重に対処すべきものである。本件ストライキは、昭和五七年度の人事院勧告の完全凍結を契機とし、労働基本権制約の代償措置としての人事院勧告の完全実施を求めて行われたものであり、右のような観点からすれば、上告人らに対する本件各懲戒処分は重きに失すると論じる余地がないではない。
しかしながら前記のように代償措置がその機能を完全に失っていたとはいえないこと、本件ストライキは、当局の事前の警告を無視して、極めて大規模に実施されたものであること、上告人らは、全農林労働組合の中央執行委員会の構成員として、本件ストライキの実施に積極的に関与して指導的な役割を果たしたもので、その行為は、国公法九八条二項の禁止する争議行為を共謀し、そそのかし、又はあおったものとして、刑事処罰の対象ともなり得るものであったことなどを考慮すると、上告人らに対する本件各懲戒処分が社会通念上著しく妥当を欠いて裁量権の範囲を逸脱し、これを濫用したものとまで断ずることはできないといわざるを得ない。したがって、本件各懲戒処分は違法とはいえず、これと結論を同じくする原審の判断は是認することができる。

++解説
《解  説》
一 昭和五七年度の国家公務員の給与引上げ等を内容とする人事院勧告につき、政府は財政状態のひっ迫等を理由に同年九月に右勧告の不実施(凍結)を決定した。本件は、右凍結を不服とする全農林労働組合が人事院勧告の完全実施等の要求を掲げて大規模な時限ストを行ったところ、全農林の中央執行委員としてその立案当初から参画し、その実施に積極的に関与して指導的役割を果たした同省職員Xらに対して、争議行為を共謀し、そそのかし、あおったものとして、停職六月ないし三月の各懲戒処分がされたため、Xらが、①公務員の争議行為を全面一律に禁止した国家公務員法(国公法)九八条二項の憲法二八条、ILO条約等違反、②人事院勧告凍結下における同項の適用違憲、③懲戒権の濫用等を主張して、各懲戒処分の取消しを求めた事案である。
一審(本誌七一四号五六頁)及び二審(本誌八七七号一九五頁)ともに、Xらの主張を排斥して、請求を棄却すべきものとし、Xらが上告した。本件は、その上告審判決である。

二 本件の主要な争点は、Xらの主張に対応して、①国公法九八条二項の法令違憲、条約違反等、②人事院勧告凍結下における同項の適用違憲、③懲戒権の濫用の有無である。
1 公務員の労働基本権の制限に関する判例理論については、最大判昭48・4・25刑集二七巻四号五四七頁(全農林警職法事件、本誌二九二号一〇四頁、判時六九九号二二頁)以降、争議行為の全面禁止が合憲とされており、本判決も、右大法廷判決に徴して国公法九八条二項が憲法二八条に違反するものではないと判示している。また、ILO八七号条約三条及び国際人権規約A規約八条一項Cが公務員の争議権を保障したものと解されないことについては、最三小判平5・3・2集民一六八号上二一頁、本誌八一七号一六三頁等が判示しているところであり、本判決も、これと同旨の原審の判断を正当として是認している。

2 全農林警職法事件大法廷判決の合憲論の根拠は、①勤務条件法定主義又は財政民主主義、②市場抑制力の欠如、③職務の公共性、④代償措置の具備といった点に要約することができるが、同判決における岸、天野両裁判官の追加補足意見は、右代償措置こそ公務員の争議行為の禁止が違法とされないための強力な支柱であるから、その代償措置が迅速公平にその本来の機能を果たさず実際上画餅に等しいとみられる事態が生じた場合に、公務員が制度の正常な運用を要求して相当と認められる範囲を逸脱しない手段態様で争議行為に出たとしても、それは憲法上保障された争議行為というべきである旨を説示している(いわゆる画餅論。その後の人事院勧告の完全実施を求める公務員のストライキ(いわゆる人勧スト)に対する懲戒処分等に関する訴訟においては、労働組合側が右画餅論を援用して、代償措置の機能喪失による争議行為禁止規定の適用違憲等の主張が展開されるようになった。人事院が実施時期を明示して給与勧告を行うようになった昭和三五年から同四四年までは勧告された時期どおりの実施がされない状態が続き、その間の人勧スト訴訟においては、画餅論を援用した適用違憲の主張もされたが、最高裁判決においては、いずれも、代償措置がその本来の機能を喪失していたものということができないとした原審の判断を是認し、適用違憲の論旨は前提を欠くものとして排斥されている(最一小判昭63・1・21裁判集民一五三号一一七頁〔佐賀教組事件〕本誌六七五号一一九頁、最一小判平4・9・24裁判集民一六五号四二五頁〔北海道教組事件〕判自一一一号一八頁等)。本件は、昭和五七年度の人事院勧告凍結下での事案であり、従前の実施時期の遅延とは異なるが、本判決は、やはり、代償措置がその本来の機能を果たしていなかったということができないとして、適用違憲の論旨は前提を欠く旨の判断をした右人事院勧告の凍結は、財政非常事態に伴う異例の措置としてなされたものであるところ、本判決は、少なくとも、そのような状況下における人事院勧告の単年度の凍結をもって、直ちに、代償措置がその本来の機能を果たしていないとはいえないことを明らかにしたものといえよう(なお、本判決も、従前の判例と同様に、代償措置の機能喪失が認められる場合に適用違憲の問題が生ずるか否かという点については明確な判断をしたものとはいえない。)。
なお、昭和五七年度の人事院勧告凍結後の公務員の人勧ストに関する事案については、農林水産省職員によるストライキに関する本件事案のほか、教職員によるストライキに関する熊本地判平4・11・26本誌八一四号一七三頁、その控訴審である福岡高判平10・11・20本誌一〇二六号一九一頁、大分地判平5・1・19本誌八一四号九一頁、新潟地判平8・3・19本誌九一九号一三七頁、その控訴審である東京高判平11・12・20高刑速二九五号二頁、札幌地判平11・2・26本誌九九七号一一三頁が、北海道開発局職員によるストライキに関する札幌地判平9・11・27判時一六三二号一三二頁があるが、右大分地判以外は、代償措置の機能喪失を否定しているところである。

3 公務員に懲戒事由がある場合の懲戒権の濫用の判断については、全税関神戸事件における最三小判昭52・12・20民集三一巻七号一一〇一頁、本誌三五七号一四二頁がその判断枠組みを示しているところであるが、人事院勧告の凍結という事情が懲戒権濫用の判断にどのような影響を及ぼすかは議論のあり得るところである(なお、前掲平成11年札幌地判は、代償措置の機能喪失を否定する一方で、懲戒権の濫用を肯定している。)。本判決は、いずれにしても、原判示の事実関係(本件ストライキの規模・態様、Xらの役割・処分歴等)からすれば、本件各懲戒処分が著しく妥当性を欠き裁量権の範囲を逸脱したものとはいえないとした原審の判断が是認できるとしているところである。なお、本判決の補足意見は、人事院勧告の凍結という事情は、懲戒権濫用の成否を判断するに当たって当然に考慮されるべき重要な事情であることを明確にしつつ、本件各懲戒処分に裁量権の濫用があると断ずることまではできないとしている
三 本判決は、昭和五七年度の人事院勧告凍結下における公務員のストライキにつき、最高裁が判断を示した初めての事案であり、実務の参考になろう。

・公務員の争議行為の一律禁止を全面的に合憲とする判断に対しては、人事院勧告は、政府又は国会に対して何ら応諾義務を課するものではないから、政府又は国会に同勧告に応ずる措置を採らせるためには、法的強制以外の政治的又は社会的活動を必要とし、このような活動は、究極的には世論の支持、協力を要するものであるといった批判がある。