憲法択一 人権 基本的人権の限界 公共の福祉


・憲法10条は、日本国民の要件を法律で定めるものとしている。もっとも、憲法のほかの規定や趣旨に反することはできない。一定の重い罪を犯して10年を超える懲役刑の宣告を受けた者は日本国籍を失うというような法律は、無国籍者を作り出すことを認めることとなり、人は必ず唯一の国籍を持つべきであるという「確立された国際法規」(98条2項)に反する!!!!ヘーーー
+10条
日本国民たる要件は、法律でこれを定める。

+98条
1項 この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。
2項 日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。

・憲法が国民に保障する自由・権利を保持する義務、これを濫用しない義務及びこれを公共の福祉のために利用する義務に関する憲法上の規定は、具体的な法的義務を定めたものではなく、一般に国民に対する倫理的方針を定めたものにすぎない!!!!!!
+12条
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ

一元的外在的制約説=憲法13条の「公共の福祉」は、人権の外にあって、すべての人権を制約する一般的な原理であり、22条・29条が特に「公共の福祉」を掲げたのは、特別の意味を有しないという見解。

・一元的外在的制約説は「公共の福祉」の意味を公益や公共の安寧秩序というような最高概念として捉えている!!

・一元的外在的制約説では、法律による人権制限が容易に肯定される恐れがあり、「公共の福祉」が実質的に明治憲法下における法律の留保のような機能を果たす恐れがある!

・一元的外在的制約説は、公共の福祉の観念をすべての権利を規制する原理としているが、権利の性質に応じて権利の制約の程度が異なるとは解していない!!!!

内在・外在二元的制約説=公共の福祉によって制約される人権は経済的自由権と社会的自由権に限られ、その他の権利・自由には内在的制約が存在するにとどまり、憲法13条は公共の福祉に反しない限り個人に権利・自由を尊重しなければならないという、いわば国家の心構えを表明した者であるという見解!!

・内在・外在二元的制約説によれば、13条は、倫理的な規定ということになり、プライバシー権などの新しい人権を憲法上の人権を憲法上の人権として基礎付ける根拠を失わせる!

・内在・外在二元的制約説に対しては、自由権と社会権の区別は相対化しているのに、それを画然とわけて、その一方は内在的、他方は外在的と割り切ることは適当ではないという批判が加えられている!

一元的内在制約説=公共の福祉を人権相互に生ずる矛盾・衝突の調整を図るための実質的公平の原理とする。

・一元的内在制約説によると、公共の福祉により人権制約を正当化するには、対立する人権を明示することが必要になるので、人権とは言いにくいような対立利益を無理に人権に結びつけやすいという弊害があり、かえって人権の重大性を希薄化させるという恐れがある!!

・一元的内在制約説に対して、人権の具体的限界についての判断基準として、必要最小限度あるいは必要な限度という抽象的な原則しか示されていないことから、人権を制約する立法の合憲性を具体的にどのように判定していくのかが不明確であるという批判が加えられている!

・一元的内在制約説に立ったとしても、思想・良心の自由(19条)は内心の領域にとどまる限り絶対的に保障され、拷問も絶対的に禁止される(36条)等、公共の福祉による人権制約にも例外がないわけではない。
+19条
思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。

+36条
公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる。

一元的内在制約説によれば、22条、29条の「公共の福祉」の意味を、福祉国家における経済的・社会的政策という意味に限定せず、人権の共存を実現する原理という広義に解することとなる!!!

+++一元的内在制約説とかの解説
一元的外在制約説とは憲法の「公共の福祉」における解釈のうちの一つです。ようするに外部から圧力をかけて人権を制限する。みたいな感じの考え方です。
12条・13条の「公共の福祉」が人権制約の一般的原理であって22条、23条は特別の意味をもたない。と解釈されています。
でも、法律による人権制限が容易に肯定される恐れが少なくないし、これは明治憲法下の法律の留保(法律によって人権を制限できる)のついた人権保障と同じではないか。という批判が存在します。今や廃れた説です。

一元的内在制約説とは、従来、「公共の福祉」は外から人権を制限できるものとされてきましたが、この説によりそうではない。全ての人権に論理必然に存在している。という革命的な説です。
「公共の福祉」は人権相互の矛盾衝突を調整するための実質的公平の原理であり、全ての人権に論理必然に内在しているという、外ではなく内から人権を制約できる。とした説です。
そして、「公共の福祉」は、自由権を各人公平に保障するための制約を根拠付ける場合には必要最小限度の規制を認め(自由国家的公共の福祉)、社会権を実質的に保障するために自由権(ここでは経済的自由権のみ)の制約を根拠付ける場合には、必要な限度の制約を認めるもの(社会国家的公共の福祉)として働く。としています。
なお、批判として、条文の「公共の福祉」の意義が希薄になってしまう。
といったものや、経済的自由に対して政策的な観点から付け加えられた制約と人権という観念そのものに内在する限界とを一緒にするのは妥当ではない。
もしくは、人権の具体的限度についての判断基準として「必要最小限」、「必要な限度」という抽象的な原則しか示されず、合憲性を具体的にどのように判定していくのか。といった批判があります。
最後の批判に関しては、具体的な違憲審査基準を考えればよい。という反論もあります。

・パターなリズムに基づく規制とは国が親代わりになってその本人を保護することで、自己加害の阻止を目的とする規制のことをいう。

+++パターナリズム解説
パターナリズム(英: paternalism)とは、強い立場にある者が、弱い立場にある者の利益になるようにと、本人の意志に反して行動に介入・干渉することをいう。日本語では家父長主義、父権主義などと訳される。語源はラテン語の pater(パテル、父)で、pattern(パターン)ではない。対義語はマターナリズム(maternalism)。
社会生活のさまざまな局面において、こうした事例は観察されるが、とくに国家と個人の関係に即していうならば、パターナリズムとは、個人の利益を保護するためであるとして、国家が個人の生活に干渉し、あるいは、その自由・権利に制限を加えることを正当化する原理である。

「パターナリズム」という用語自体の起源については、16世紀には「父権的権威(Paternal authority)」という言葉がすでに存在し、それが19世紀後半に「パターナリズム(Paternalism)」という言葉になったという。また、J.S.ミル『自由論』(1859年)の「侵害原理 harm principle」における議論には、今日のパターナリズム論に底通する論点が提示されている。
近年、この用語が英米の法哲学者・政治哲学者のあいだで注目を集めるようになったきっかけは、1950年代、成人間の同意の下での同性愛や売春行為を刑事上の犯罪行為とみなすか否かをめぐって行われた「ハート=デヴリン論争」であった。
また、医療現場においても、1970年代初頭に、エリオット・フリードソンが医者と患者の権力関係を「パターナリズム」(医療父権主義、家父長的温情主義)として告発したことによって、パターナリズムが社会的問題として喚起されるようにもなった。現在では「患者の利益か、患者の自己決定の自由か」をめぐる問題として議論され、医療現場ではインフォームド・コンセントを重視する環境が整いつつある。

強いパターナリズムと弱いパターナリズム
この類別は、介入・干渉される者に判断能力、あるいは自己決定する能力があるかないかという点で区分される。強い(硬い hard )パターナリズムは、個人に十分な判断能力、自己決定能力があっても介入・干渉がおこなわれる場合をいう。他方、弱い(柔らかい soft )パターナリズムは、個人に十分な判断能力、自己決定能力がなくて介入・干渉がおこなわれる場合をいう。
成熟した判断能力をもつ個人への干渉や介入に反対する、反パターナリズムの論者も、子供や十分な判断能力のない大人への保護は必要であるとしている。そのように弱いパターナリズムを容認する場合でも、「個人の十分な判断能力、自己決定能力」の範囲をどのように見極めるのかといった点で、慎重な検討が必要となる。

直接的パターナリズムと間接的パターナリズム
この類別は、パターナリスティックな介入・干渉を受ける者と、それによって保護される者とが同一であるか否かで区分される。
直接的パターナリズムは、オートバイ運転者のヘルメット装着義務のように、パターナリスティックにその義務を強制される者と、それによって保護される者が同一の場合である。他方、間接的パターナリズムは、両者が同一ではない場合をいう。例えば、クーリングオフ制度のように、保護されるのは一般の消費者だが、パターナリスティックに規制を受けているのは販売業者である場合である。

専門家と素人
専門知識において圧倒的な格差がある専門家と素人のあいだでは、パターナリスティックな介入・干渉が起こりやすい。たとえば、医師(専門家)から見れば、世話を焼かれる立場の患者(素人)は医療に関して無知蒙昧であり、自分で正しい判断を下すことが出来ない。その結果、医療行為に際しては、患者が医師より優位な立場には立てない。そうした状況で患者の自己決定権をどのように確保していくかについては「インフォームド・コンセント」の項を参照(あわせて「尊厳死」の項も参照)。

国家と国民
国家がいわば「親」として「子」である国民を保護する、という国家観にもパターナリスティックな干渉を正当化する傾向がみられる。実際に施行されている事例としては、賭博禁止(刑法186条)などが挙げられる。こうした立法措置以外にも、官公庁による行政指導や、市町村における窓口業務などにも同様の傾向がみられる。

パターナリズム批判
国家と個人の関係については、国家が国民の生命や財産を保護する義務を負っているのは当然であるにせよ、少なくとも心身の成熟した成人に対する過剰な介入が、いわば「余計なお節介」であるとして批判が加えられている。
また、表現の自由を重視する立場から、パターナリズムに基づく、有害図書や有害情報などに対する規制に対する批判も存在する。
国民の自由である自己決定権を広く認めるのか、ある程度国家の介入を許容するのかという、根本的かつ巨視的な観点からの検討が必要である。

・公衆浴場の適正配置を開設の許可要件とする規制は、国民の生命及び健康に対する危険を防止するための消極目的に基づく規制である!!=パターナリズムに基づく規制ではない!

+判例(H1.3.7)
理由
上告代理人林弘、同中野建、同松岡隆雄の上告理由について
公衆浴場法(以下「法」という。)二条二項の規定が憲法二二条一項に違反するものでないことは、当裁判所の判例とするところである(昭和二八年(あ)第四七八二号同三〇年一月二六日大法廷判決・刑集九巻一号八九頁。なお、同三〇年(あ)第二四二九号同三二年六月二五日第三小法廷判決・刑集一一巻六号一七三二頁、同三四年(あ)第一四二二号同三五年二月一一日第一小法廷判決・刑集一四巻二号一一九頁、同三三年(オ)第七一〇号同三七年一月一九日第二小法廷判決・民集一六巻一号五七頁、同四〇年(あ)第二一六一号、第二一六二号同四一年六月一六日第一小法廷判決・刑集二〇巻五号四七一頁、同四三年(行ツ)第七九号同四七年五月一九日第二小法廷判決・民集二六巻四号六九八頁参照)。
おもうに、法二条二項による適正配置規制の目的は、国民保健及び環境、生の確保にあるとともに、公衆浴場が自家風呂を持たない国民にとって日常生活上必要不可欠な厚生施設であり、入浴料金が物価統制令により低額に統制されていること、利用者の範囲が地域的に限定されているため企業としての弾力性に乏しいこと、自家風呂の普及に伴い公衆浴場業の経営が困難になっていることなどにかんがみ、既存公衆浴場業者の経営の安定を図ることにより、自家風呂を持たない国民にとって必要不可欠な厚生施設である公衆浴場自体を確保しようとすることも、その目的としているものと解されるのであり、前記適正配置規制は右目的を達成するための必要かつ合理的な範囲内の手段と考えられるので、前記大法廷判例に従い法二条二項及び大阪府公衆浴場法施行条例二条の規定は憲法二二条一項に違反しないと解すべきである。論旨は、採用することができない。
よって、行政事件訴訟法七条、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

+判例(S30.1.26)
理由
弁護人諌山博の上告趣意第一点及び同第二点前段について。
論旨は、公衆浴場法二条二項後段は、公衆浴場の設置場所が配置の適正を欠くと認められる場合には、都道府県知事は公衆浴場の経営を許可しないことができる旨定めており、また昭和二五年福岡県条例五四号三条は、公衆浴場の設置場所の配置の基準等を定めているが、公衆浴場の経営に対するかような制限は、公共の福祉に反する場合でないのに職業選択の自由を違法に制限することになるから、右公衆浴場法及び福岡県条例の規定は、共に憲法二二条に違反するものであると主張するのである。
しかし、公衆浴場は、多数の国民の日常生活に必要欠くべからざる、多分に公共性を伴う厚生施設である。そして、若しその設立を業者の自由に委せて、何等その偏在及び濫立を防止する等その配置の適正を保つために必要な措置が講ぜられないときは、その偏在により、多数の国民が日常容易に公衆浴場を利用しようとする場合に不便を来たすおそれなきを保し難く、また、その濫立により、浴場経営に無用の競争を生じその経営を経済的に不合理ならしめ、ひいて浴場の衛生設備の低下等好ましからざる影響を来たすおそれなきを保し難い。このようなことは、上記公衆浴場の性質に鑑み、国民保健及び環境衛生の上から、出来る限り防止することが望ましいことであり、従つて、公衆浴場の設置場所が配置の適正を欠き、その偏在乃至濫立を来たすに至るがごときことは、公共の福祉に反するものであつて、この理由により公衆浴場の経営の許可を与えないことができる旨の規定を設けることは、憲法二二条に違反するものとは認められない。なお、論旨は、公衆浴場の配置が適正を欠くことを理由としてその経営の許可を与えないことができる旨の規定を設けることは、公共の福祉に反する場合でないに拘らず、職業選択の自由を制限することになつて違憲であるとの主張を前提として、昭和二五年福岡県条例五四号第三条が、憲法二二条違反であるというが、右前提の採用すべからざることは、既に説示したとおりである。そして所論条例の規定は、公衆浴場法二条三項に基き、同条二項の設置の場所の配置の基準を定めたものであるから、これが所論のような理由で違憲となるものとは認められない。それ故所論は採用できない。

同第二点後段について。
論旨は、公衆浴場法が公衆浴場の経営について許可を原則とし、不許可を例外とする建前をとつているに拘わらず、昭和二五年福岡県条例五四号は不許可を原則とし、許可を例外とする建前をとつており、右条例は公衆浴場法にくらべて、より多く職業選択の自由を制限しているので、憲法の精神に反するのみならず、地方公共団体は「法律の範囲内で」条例を制定できるという憲法九四条に違反していると主張する。しかし、右条例は、公衆浴場法二条三項に基き、同条二項で定めている公衆浴場の経営の許可を与えない場合についての基準を具体的に定めたものであつて、右条例三条、四条がそれであり、同五条は右三条、四条の基準によらないで許可を与えることができる旨の緩和規定を設けたものである。即ち右条例は、法律が例外として不許可とする場合の細則を具体的に定めたもので、法律が許可を原則としている建前を、不許可を原則とする建前に変更したものではなく、従つて右条例には、所論のような法律の範囲を逸脱した違法は認められない。それ故所論は採用できない。
被告人本人の上告趣意について。
論旨の中違憲をいう点は、上記弁護人諌山博の上告趣意第一点及び同第二点前段について判示したところと同様の理由によつて、採用できない。その他の論旨は、単なる法令違反の主張乃至事情の説明を出でないものであつて、刑訴四〇五条の上告理由に当らない。
よつて同四〇八条により、裁判官全員一致の意見で主文のとおり判決する。

+22条
1項 何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。
2項 何人も、外国に移住し、又は国籍を離脱する自由を侵されない。

+94条
地方公共団体は、その財産を管理し、事務を処理し、及び行政を執行する権能を有し、法律の範囲内で条例を制定することができる。

・医療保険制度を通じた国庫補助金の支払等社会医療費の増加を抑制する目的でテレビにおけるたばこの広告を全面的に禁止する規制は、社会・経済政策の一環としてなされる積極目的に基づく規制である(=パターナリズムに基づく規制ではない)!!!!


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