憲法択一 人権 基本的人権の限界 特別の権力関係における人権 全逓 都教組 全司法 全農林


・公共企業体等労働関係法における争議権規制の合憲性が争われた判例は、憲法15条を根拠として、公務員に対して労働基本権をすべて否定するようなことは許されないとして、抽象的な「公共の福祉」論と、「全体の奉仕者」論を否定!!!!!

+28条
勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利は、これを保障する。

+27条
1項 すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負う。
2項 賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める。
3項 児童は、これを酷使してはならない。

+25条
1項 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2項 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

+判例(S41.10.26)全逓東京中郵事件
理由
被告人らの上告趣意および弁護人東城守一、同山本博の上告趣意について。
上告趣意は、憲法違反、判例違反等、論旨多岐にわたるが、要するに、公共企業体等労働関係法(以下公労法と略称する。)一七条一項は憲法二八条に違反する旨の主張と公労法一七条一項に違反する争議行為には労働組合法(以下労組法と略称する。)一条二項の規定の適用があると解すべきである旨の主張とを骨子とするものである。これらの点について、当裁判所は、つぎのとおり判断する。
一 憲法二八条は、いわゆる労働基本権、すなわち、勤労者の団結する権利および団体交渉その他の団体行動をする権利を保障している。この労働基本権の保障の狙いは、憲法二五条に定めるいわゆる生存権の保障を基本理念とし、勤労者に対して人間に値する生存を保障すべきものとする見地に立ち、一方で、憲法二七条の定めるところによつて、勤労の権利および勤労条件を保障するとともに、他方で、憲法二八条の定めるところによつて、経済上劣位に立つ勤労者に対して実質的な自由と平等とを確保するための手段として、その団結権、団体交渉権、争議権等を保障しようとするものである。
このように、憲法自体が労働基本権を保障している趣旨にそくして考えれば、実定法規によつて労働基本権の制限を定めている場合にも、労働基本権保障の根本精神にそくしてその制限の意味を考察すべきであり、ことに生存権の保障を基本理念とし、財産権の保障と並んで勤労者の労働権・団結権・団体交渉権・争議権の保障をしている法体制のもとでは、これら両者の間の調和と均衡が保たれるように、実定法規の適切妥当な法解釈をしなければならない
右に述べた労働基本権は、たんに私企業の労働者だけについて保障されるのではなく、公共企業体の職員はもとよりのこと、国家公務員やを方公務員も、憲法二八条にいう勤労者にほかならない以上、原則的には、その保障を受けるべきものと解される。「公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない」とする憲法一五条を根拠として、公務員に対して右の労働基本権をすべて否定するようなことは許されないただ、公務員またはこれに準ずる者については、後に述べるように、その担当する職務の内容に応じて、私企業における労働者と異なる制約を内包しているにとどまると解すべきである
労働基本権のうちで、団体行動の一つである争議をする権利についていえば、勤労者がする争議行為は、正当な限界をこえないかぎり、憲法の保障する権利の行使にほかならないから、正当な事由に基づくものとして、債務不履行による解雇、損害賠償等の問題を生ずる余地がなく、また、違法性を欠くものとして、不法行為責任を生ずることもない。労組法七条で、労働者が労働組合の正当な行為をしたことの故をもつて、使用者がこれを解雇し、その他これに対して不利益な取扱いをすることを禁止し、また、同八条で、同盟罷業そま他の争議行為であるつて正当なものによつて損害をうけたことの故をもつて、使用者が労働組合またはその組合員に対して、損害賠償を請求することができない旨を規定しているのは、右に述べた当然のことを明示的にしたものと解される。このような見地からすれば、同盟罷業その他の争議行為であつて労組法の目的を達成するためにした正当なものが刑事制裁の対象とならないことは、当然のことである。労組法一条二項で、刑法三五条の規定は、労働組合の団体交渉その他の行為であつて労組法一条一項に掲げる目的を達成するためにした正当なものについて適用があるとしているのは、この当然のことを注意的に規定したものと解すべきである。また、同条二項但書で、いかなる場合にも、暴力の行使は、労働組合の正当な行為と解釈されてはならないと規定しているが、これは争議行為の正当性の一つの限界を示し、この限界をこえる行為は、もはや刑事免責を受けないことを明らかにしたものというべきである。

二 右に述べたように、勤労者の団結権・団体交渉権・争議権等の労働基本権は、すべての勤労者に通じ、その生存権保障の理念に基づいて憲法二八条の保障するところであるが、これらの権利であつて、もとより、何らの制約も許されない絶対的なものではないのであつて、国民生活全体の利益の保障という見地からの制約を当然の内在的制約として内包しているものと解釈しなければならない。しかし、具休的にどのような制約が合憲とされるかについては、諸般の条件、ことに左の諸点を考慮に入れ、慎重に決定する必要がある。(1)労働基本権の制限は、労働基本権を尊重確保する必要と国民生活全体の利益を維持増進する必要とを比較衡量して、両者が適正な均衡を保つことを目途として決定すべきてあるが、労働基本権が勤労者の生存権に直結し、それを保障するための重要な手段である点を考慮すれば、その制限は、合理性の認められる必要最小限度のものにとどめなければならない。(2)労働基本権の制限は、勤労者の提供する職務または業務の性質が公共性の強いものであり、したがつてその職務または業務の停廃が国民生活全体の利益を害し、国民生活に重大な障害をもたらすおそれのあるものについて、これを避けるために必要やむを得ない場合について考慮されるべきである。(3)労働基本権の制限違反に伴う法律効果、すなわち、違反者に対して課せられる不利益については、必要な限度をこえないように、十分な配慮がなされなければならない。とくに、勤労者の争議行為等に対して刑事制裁を科することは、必要やむを得ない場合に限られるべきであり、同盟罷業、怠業のような単純な不作為を刑罰の対象とするについては、特別に慎重でなければならないけだし現行法上、契約上の債務の単なる不履行は、債務不履行の問題として、これに契約の解除、損害賠償責任等の民事的法律効果が伴うにとどまり、刑事上の問題としてこれに刑罰が科せられないのが原則である。このことは、人権尊重の近代的思想からも、刑事制裁は反社会性の強いもののみを対象とすべきであるとの刑事政策の理想からも、当然のことにほかならない。それは債務が雇傭契約ないし労働契約上のものである場合でも異なるところがなく、労務者がたんに労務を供給せず(罷業)もしくは不完全にしか供給しない(怠業)ことがあつても、それだけでは、一般的にいつて、刑事制裁をもつてこれに臨むべき筋合ではない。(4)職務または業務の性質上からして労働基本権を制限することがやむを得ない場合には、これに見合う代償措置が講ぜられなければならない。
以上に述べたところは、労働基本権の制限を目的とする法律を制定する際に留意されなければならないばかりでなく、すでに制定されている法律を解釈適用するに際しても、十分に考慮されなければならない。

三 そこで、労働基本権制限の具体的態様についてみるに、法律によつて定めるところがまちまちであり、かつ、幾度かの改廃を経て現在に至つている。すなわち、昭和二三年七月三一日政今第二〇一号が制定施行されるまでは、国家公務員や地方公務員も、一定の職員を除いて、一般の勤労者と同様に、団結雇・団体交渉権・争議権等について制限されることなく、争議行為も許されていた政令第二〇一号の制定施行によつて、公務員は、国家公務員たると地方公務員たるとを問わず、何人も同盟罷業、怠業はもちろん、国または地方公共団体の業務の運営・能率を阻害する一切の争議行為を禁止され、これに違反した者は、刑罰を科せられることになつた。しかし、昭和二三年一二月三日改正施行された国家公務員法では、一切の争議行為が禁止されたことは右の政令と同様であるが、たんに争議行為に参加したにすぎない者は処罰されることがなく、争議行為の遂行を共謀し、そそのかし、もしくはあおり、またはこれらの行為を企てた者だけが処罰されることになつた(昭和四〇年法律第六九号による改正前の国家公務員法九八条五項、一一〇条一項一七号、なお、地方公務員法三七条一項、六一条四号参照)。ところが、昭和二三年一二月二〇日に公布され、翌二四年六月一日から施行された公共企業体労働関係法では、国鉄・専売公社はいわゆる公共企業体と呼ばれ、その職員は、一切の争議行為を禁止されたけれども、その違反に対しては、刑事制裁に関する規定を欠き、同法に違反する行為をしたことそのことを理由として同法によつて刑事責任を問われることはなくなつた。昭和二七年七月三一日の同法の改正では、被告人ら郵政職員を含むいわゆる五現業の職員の争議行為等について、国家公務員法の規定の適用が排除され、新らしい公共企業体等労働関係法の関係規定が適用されることになつた。したがつて、郵政職員の争議行為は、公労法一七条一項によつて禁止されていることが明らかであるが、その違反に対しては、これを共謀、教唆、煽動、企図したものであるといなとを問わず、禁止の違反そのものを理由として同法によつて刑事責任を問われることはなくなつた
以上の関係法令の制定改廃の経過に徴すると、公労法適用の職員については、公共企業体の職員であると、いわゆる五現業の職員であるとを問わず、憲法の保障する労働基本権を尊重し、これに対する制限は必要やむを得ない最小限度にとどめるべきであるとの見地から、争議行為禁止違反に対する制裁をしだいに緩和し、刑事制裁は、正当性の限界をこえないかぎり、これを科さない趣旨であると解するのが相当である。

四 右のよらな経過をたどつてきた現行の公労法の規定について検討するに、その一七条一項は、いわゆる五現業および三公在の業務に従事する職員およびその組合は、公共企業体等に対して同盟罷業、怠業、その他業務の正常な運営を阻害する一切の行為をすることができないこと、また、右職員ならびに組合の組合員および役員は、このような禁止された行為を共謀し、そそのかし、もしくはあおつてはならないことを規定している。この規定は、職員等の行為がたんなる債務不履行またはそれをそそのかす等の行為であつても、それが業務の正常な運営を阻害するものであるかぎり、これを違法とするものであつて、その意味で憲法二八条の保障する争議権を制限するものであることは明らかである。
上告趣意は、公労法一七条一項の規定が憲法二八条および一八条に違反して無効であるという。しかし、右の規定が憲法の右の法条に違反するものでないことは、すでに当裁判所の判例とするところであり(前者については、昭和二六年(あ)第一六八八号同三〇年六月二二日大法廷判決、刑集九巻八号一一八九頁、後者については、昭和二四年(れ)第六八五号同二八年四月八日大法廷判決、刑集七巻四号七七五頁)、公労法一七条一項の規定が違憲でないとする結論そのものについては、今日でも変更の必要を認めない。その理由をすこし詳しく述べると、つぎのとおりである。
憲法二八条の保障する労働基本権は、さきに述べたように、何らの制約も許されない絶対的なものではなく、国民生活全体の利益の保障という見地からの制約を当然に内包しているものと解すべきである。いわゆる五現業および三公社の職員の行なう業務は、多かれ少なかれ、また、直接と間接との相違はあつても、等しく国民生活全体の利益と密接な関連を有するものであり、その業務の停廃が国民生活全体の利益を害し、国民生活に重大な障害をもたらすおそれがあることは疑いをいれない。他の業務はさておき、本件の郵便業務についていえば、その業務が独占的なものであり、かつ、国民生活全体との関連性がきわめて強いから、業務の停廃は国民生活に重大な障害をもたらすおそれがあるなど、社会公共に及ぼす影響がきわめて大きいことは多言を要しないそれ故に、その業務に従事する郵政職員に対してその争議行為を禁止する規定を設け、その禁止に違反した者に対して不利益を課することにしても、その不利益が前に述べた基準に照らして必要な限度をこえない合理的なものであるかぎり、これを違憲懸無効ということはてきない
この観点から公労法一七条一項の定める争議行為の禁止の違反に対する制裁をみるに、公労法一八条は、同一七条に違反する行為をした職員は解雇されると規定し、同三条は、公共企業体等の職員に関する労働関係について、労組法の多くの規定を適用することとしながら、労働組合または組合員の損害賠償責任に関する労組法八条の規定をとくに除外するとしている。争議行為禁止違反が違法であるというのは、これらの民事責任を免れないとの意味においてである。そうして、このような意味で争議行為を禁止することについてさえも、その代償として、右の職員については、公共企業体等との紛争に関して、公共企業体等労働委員会によるあつせん、調停および仲裁の制度を設け、ことに、公益委員をもつて構成される仲裁委員会のした仲裁裁定は、労働協約と同一の効力を有し、当事者双方を拘束するとしている。そうしてみれば、公労法一七条一項に違反した者に対して、右のような民事責任を伴う争議行為の禁止をすることは、憲法二八条、一八条に違反するものでないこと疑いをいれない

五 つぎに、公労法一七条一項に違反して争議行為をした者に対する刑事制裁について見るに、さきに法制の沿革について述べたとおり、争議行為禁止の違反に対する制裁はしだいに緩和される方向をとり、現行の公労法は特別の罰則を設けていない。このことは、公労法そのものとしては、争議行為禁止の違反について、刑事制裁はこれを科さない趣旨であると解するのが相当である。公労法三条で、刑事免責に関する労組法一条二項の適用を排除することなく、これを争議行為にも適用することとしているのは、この趣旨を裏づけるものということができる。そのことは、憲法二八条の保障する労働基本権尊重の根本精神にのつとり、争議行為の禁止違反に対する効果または制裁は必要最小限度にとどめるべきであるとの見地から、違法な争議行為に関しては、民事責任を負わせるだけで足り、刑事制裁をもつて臨むべきではないとの基本的態度を示したものと解することができる
この点で参考になるのは、国家公務員法および地方公務員法の適用を受ける非現業の公務員の争議行為に対する刑事制裁との比較である。この制裁としては、争議行為を共謀し、そそのかし、もしくはあおり、またはこれらの行為を企てた者だけを罰することとしている(昭和四〇年法律第六九号による改正前の国家公務員法九八条五項、一一〇条一項一七号、地方公務員法三七条一項、六一条四号)。その趣旨は、一方で、これらの公務員の争議行為は公共の福祉の要請によつて禁止されるけれども、他方で、これらの公務員も勤労者であり、憲法によつて労働基本権を保障されているから、この要請と保障を適当に調整するために、単純に争議行為を行なつた者に対しては、民事制裁を課するにとどめ、積極的に争議行為を指導した者にかぎつて、さらに刑事制裁を科することにしたものと認められる。右の公務員と公労法の適用を受ける公共企業体等の現業職員とを比較すれば、右の公務員の職務の方か公共性の強いことは疑いをいれない。その公務員の争議行為に対してさえも、刑事法上の制裁は積極的に争議行為を指導した者だけに科せられ、単純に争議行為を行なつた者には科せられない。そうしてみれば、公共企業体等の現業職員の争議行為には、それより軽い制裁を科するか、制裁を科さないのが当然である。ところで、公労法は刑事制裁に関して、なにも規定していないから、これを科さない趣旨であると解するのが相当である。
このように見てくると、公労法三条が労組法一条二項の適用があるものとしているのは、争議行為が労組法一条一項の目的を達成するためのものであり、かつ、たんなる罷業または怠業等の不作為が存在するにとどまり、暴力の行使その他の不当性を伴わない場合には、刑事制裁の対象とはならないと解するのが相当である。それと同時に、争議行為が刑事制裁の対象とならないのは、右の限度においてであつて、もし争議行為が労組法一条一項の目的のためでなくして政治的目的のために行なわれたような場合であるとか、暴力を伴う場合てあるとか、社会の通念に照らして不当に長期に及ぶときのように国民生活に重大な障害をもたらす場合には、憲法二八条に保障された争議行為としての正当性の限界をこえるもので、刑事制裁を免れないといわなければならない。これと異なり、公共企業体等の職員のする争議行為について労組法一条二項の適用を否定し、争議行為について正当性の限界のいかんを論ずる余地がないとした当裁判所の判例(昭和三七年(あ)第一八〇三号同三八年三月一五日第二小法廷判決、刑集一七巻二号二三頁)は、これを変更すべきものと認める。

六 ところで、郵便法の関係について見るに、その七九条一項は、郵便の業務に従事する者がことさらに郵便の取扱をせずまたはこれを遅延させたときは、一年以下の懲役または二万円以下の罰金に処すると規定している。このことは、債務不履行不可罰の原則に対する例外を規定したものとして注目に値することであるが、郵便業務の強い公共性にかんがみれば、右の程度の罰則をもつて臨むことには、合理的な理由があるもので、必要の限度をこえたものということはできない(郵便物運送委託法二一条参照)。この罰則は、もつぱら争議行為を対象としたものでないことは明白であるが、その反面で、郵政職員が争議行為として右のような行為をした場合にその適用を排除すべき理由も見出しがたいので、争議行為にも適用があるものと解するほかはない。ただ、争議行為が労組法一条一項の目的のためてあり、暴力の行使その他の不当性を伴わないときは、前に述べたように、正当な争議行為として刑事制裁を科せられないものであり、労組法一条二項が明らかにしているとおり、郵便法の罰則は適用されないこととなる。これを逆にいえば、争議行為が労組法一条一項の目的に副わず、または暴力の行使その他の不当性を伴う場合には、右の罰則が適用される。また、その違法な争議を教唆した者は、刑法の定めるところにより、共犯の責を免れない。

七 具体的に本件についてみるに、第一審判決は、公訴事実に基づいて、Aら三八名の行為を郵便法七九条一項前段違反の構成要件に該当すると認定した。原判決は、前述の第二小法廷の判決に従つて、公共企業体等の職員は、公労法一七条一項によつて争議行為を禁止され、争議権自体を否定されているのであるから、もし右のような事実関係があるとすれば、その争議行為について正当性の限界いかんを論ずる余地はなく、労組法一条二項の適用はないとしている。
しかし、本件被告人らは、本件の行為を争議行為としてしたものであることは、第一審判決の認定しているとおりであるから、Aらの行為については、さきに述べた憲法二八条および公労法一七条一項の合理的解釈に従い、労組法一条二項を適用して、はたして同条項にいう正当なものであるかいなかを具体的事実関係に照らして認定判断し、郵便法七九条一項の罪責の有無を判断しなければならないところである。したがつて、原判決の右判断は、法令の解釈適用を誤つたもので、その違法は判決に影響を及ぼすこと明らかであり、これを破棄しなければいちじるしく正義に反するものといわなければならない。
以上の判断に照らせば、公労法一七条一項および原判決が憲法一一条、一四条、一八条、二五条、二八条、三一条、九八条に違反する旨の各論旨は理由なきに帰する。よつて、その余の論旨に対する判断を省略し、原判決を破棄し、さらに審理を尽させるために、本件を東京高等裁判所に差し戻すものとし、刑訴法四一一条一号、四一三条本文により、主文のとおり判決する。
この判決は、裁判官松田二郎、同岩田誠の補足意見、裁判官奥野健一、同五鬼上堅磐、同草鹿浅之介、同石田和外の反対意見があるほか、裁判官全員一致の意見によるものである。

+補足意見
裁判官松田二郎の補足意見は次のとおりである。
当裁判所昭和三七年(あ)第一八〇三号同三八年三月一五日第二小法廷判決によれば、公労法一七条一項が争議行為を禁止し争議権自体を否定している以上、これに違反してなされた争議行為については正当性の限界いかんを論ずる余地はなく、したがつて労組法一条二項の適用はないというのである。これに対し本判決は、この判例を変更するものであるが、私は多数意見を補足して若干意見を述べたい。
(一)前記第二小法廷判決の見解は、ある行為かいずれかの法令により違法とされる以上、刑法上も当然違法であり、従つてそのような行為につき刑法上違法性の阻却されることはありえない、という考えを前提とするものである。なるほど、行為が違法であるか否かは、法秩序全体の観点からする判断であるから、ある行為が一つの法規によつて禁ぜられ違法とされた場合には、それは他の法域においても一応違法なものと考えられよう。しかし、同じ法域、たとえば、同じ民事法の範囲内においてすら、法規違反の行為とされるものの中にも、その効力が否定されて無効となるものとしからざるものとがあり、また行為を無効ならしめる場合の違法性と不法行為の要件としての行為の違法性とは、その反社会性の程度において必ずしも同一ではありえない。いわんや、法域を異にする場合、それぞれの法域において問題となる違法性の程度は当該法規の趣旨・目的に照らして決定されるところてあり、従つて刑法において違法とされるか否かは、他の法域における違法性とは無関係ではないが、しかし別個独立に考察されるべき問題なのである。この理は、刑法と労働法との間においても全く同様であり、労働法規が争議行為を禁止してこれを違法として解雇などの不利益な効果を与えているからといつて、そのことから直ちにその争議行為が刑罰法規における違法性、すなわちいわゆる可罰的違法性までをも帯びているということはできない。ことに、刑罰がこれを科せられる者に対し強烈な苦痛すら伴う最も不利益な法的効果をもたらす性質上、刑罰法規の要求する違法性は他の法域におけるそれよりも一般に高度の反社会性を帯びたものであるべきである。しかしてこの見地に立つて前記第二小法廷の判決を見るとき、それは、行為の違法性を一義的に解して法域によるその反社会性の段階または程度の差を認めず、公労法上違法とされた争議行為は、当然に刑法上においても違法だとした前提において、既に誤つているものというべきである。
(二)本件の問題たる公共企業体等の職員の争議行為についていえば、それは昭和二三年政令第二〇一号の施行以来現行の公労法に至るまで禁止されているが、多数意見の説示するように、これに対する刑事制裁はしだいに緩和される方向に向い、現在においては単に争議行為をし、あるいはこれを共謀し、そそのかし、もしくはあおつたことだけのゆえをもつては、これに対し刑罰を科することなく、解雇を認めるにとどまつているのである。しかして、多数意見がその一および二において憲法の定める労働基本権の尊重を説示し、これに対する制約に限度あることを強調することに思をいたし、更に公労法三条が争議行為を含む労働組合の団体交渉その他の行為のいわゆる刑事免責に関する労組法一条二項の適用をあえて排除していないこと(その明文上争議行為の場合を除外していないことは明白である。)に照らせば、公共企業体等の職員の行なう争議行為は、公労法上違法ではあるとしても、争議行為として正当な範囲内にとどまるものと認められるかぎり、右の違法性は刑罰法規一般の予定する違法性、すなわち可罰的違法性の程度には達していないものと解すべきである。従つて、その行為が刑罰法規の構成要件に該当する場合においても、それが争議行為の正当な範囲内にとどまるかぎり、刑罰を科するに足る高度の反社会性を欠くものとしてその違法性は阻却されるものというべきてある。このように解するときは、本件被告人らの行為が郵便法七九条一項に該当するとしても、労組法一条二項により改めてその正当性の有無を検討しなければならないことになるのである。

+補足意見
裁判官岩田誠の補足意見は次のとおりである。
私は、行為の違法性論の見地からする松田裁判官の意見にすべて同調するものであるが、なお、やや異なつた視点から、公共企業体等の職員の争議行為に労組法一条二項の適用を認むべき理由につき、一言意見を述べておきたい。
公労法は、その一七条一項によつて公共企業体等の職員の争議行為を禁止しながら、その禁止違反に対する罰則を置いていない。しかし、一方において郵便法七九条一項は「郵便の業務に従事する者がことさらに郵便の取扱をせず、又はこれを遅延させたときは、これを一年以下の懲役又は二万円以下の罰金に処する。」と規定している。この郵便法の規定は、争議行為として行われた行為だけを予定したものではないが、郵政職員が争議行為として同盟罷業または怠業をした場合も一応この構成要件に該当することになるから、もしその行為に労組法一条二項による違法性阻却の余地が全くないのならば、少なくとも郵政職賃に関するかぎりは、実質において争議行為そのものを処罰する規定があるのと異ならないことになる(なお、日本電信電話公社の職員については、公衆電気通信法一一〇条一項参照)。しかし、このような結論を認めることがはたして法の趣旨に合致した合理的な解釈だといえるであろうか。以下、私は、この結論が現行法秩序の精神に反するものであることを明らかにして、公労法違反の争議行為に労組法一条二項を適用する余地なしとする見解の誤りであることを指摘してみたいと思う。(イ)第一に、公労法は公共企業体等の職員の労働関係についての基本法ともいうべきものであつて、その争議行為の禁止も同法中に規定されているのであるから、もしその禁止に反する争議行為そのものを処罰しようとするのであれば、本来同法中にその罰則が設けられてしかるべきである。かりに公労法以外の法令に設けるとしても、少なくとも争議行為を予定した労働関係の規定として設けられるべきものである(例えば、自衛隊法六四条、一一九条一項三号、二項、一二〇条一項一号、二項、一二二条一項一号、二項)。また、そればかりでなく、もし郵便法の前記罰条によつて争議行為が処罰されるのならば、なぜ郵政職員を他の公共企業体等の職員なかんずく日本国有鉄道の職員と区別してその争議行為に刑事制裁を科するのか、その合理的な理由を十分説明することができないであろう(国鉄職員については、郵便法七九条一項に相当する規定は存在しない。また、鉄道営業法二五条の罰則も、国鉄職員が単なる同盟罷業または怠業をした場合に当然に適用があるものでないことは、その構成要件上明らかであり、争議行為としてなされた行為が同条に該当する場合には、むしろそれは労組法一条二項にいう正当な争議行為とはいえないであろう。)。(ロ)次に立法の沿革からみると、そもそも郵便法の前記罰条は、旧郵便法五三条の規定を継承して昭和二二年一二月一二日法律第一六五号によつて設けられ昭和二三年一月一日から施行されたものであるが、この当時は郵政職員を含む一般の国家公務員の争議行為は禁止されておらず、したがつて争議行為としてした行為が同条項に該当した場合、当時の労組法(昭和二四年法律第一七四号による改正前の昭和二〇年法律第五一号)一条二項(現行法一条二項と同旨)の適用があるのは当然のことと解されていた。その後昭和二三年七月三一日政令第二〇一号によつて公務員の争議行為が禁止され、かつその違反に対して刑罰が科せられることとなつたけれども、同令の適用のある間に郵政職員が争議行為として同盟罷業または怠業の挙に出た場合、はたして同令の罰則のほかに郵便法七九条一項の適用をも受けたであろうか。当裁判所昭和二四年(れ)第一九一八号同三〇年一〇月二六日大法廷判決(刑集九巻一一号二三一三頁)の趣旨からすると、これを消極に解せざるをえない。けだし、この判例は、争議行為禁止の違反そのものに対しては右政令の罰則だけを適用し処断すべきものであつて、重ねて他の罰条を適用すべきでないという趣旨のものと解されるからである。そして、その後における国家公務員法の改正による前記政令の適用除外、公労法の制定、郵政職員を含むいわゆる五現業の職員への同法の適用範囲の拡大という争議権の制限緩和の一連の立法経過に照らすときは、本来郵政職員の争議行為を処罰する趣旨のものでなかつた郵便法の前記規定が中途のいずれかの時期にその性格を変じて争議行為を処罰する規定となつたとみるべき根拠はいずこにも見いだすことができないのである。
これを要するに、郵政職員が公労法一七条一項に違反し争議行為として同盟罷業または怠業をした場合に当然郵便法七九条一項を適用してこれに刑事制裁を加えうるとすることは、明らかに現行法秩序の精神に反する解釈だといわなければならない。そして、この誤つた結論は、公共企業体等の職員の争議行為に労組法一条二項の適用の余地なしとの判断を前提としてはじめて理論的に成立するものである。この点から考えても、右の前提たる判断の不当であることは明白だというべきであろう。

+反対意見
裁判官奥野健一、同草鹿浅之介、同石田和外の反対意見は次のとおりである。
公共企業体等労働関係法(以下公労法と略称する。)一七条一項は憲法二八条に違反する旨及び公労法一七条一項に違反する争議行為には労働組合法(以下労組法と略称する。)一条二項の適用がある旨主張する上告論旨について。
憲法二八条の保障する労働基本権といえども、絶対無制限なものではなく、公共の福祉のため、特に、必要があるときは、合理的制限をすることができるものであり、このことは既に当裁判所の判例とするところである(昭和二四年(れ)第六八五号同二八年四月八日大法廷判決、刑集七巻四号七七五頁)。
公労法一条は、「この法律は……公共企業体及び国の経営する企業の正常な運営を最大限に確保し、もつて公共の福祉を増進し、擁護することを目的とする。」旨規定し、その目的を達成するため、同法一七条において、かかる企業に従事する公共企業体等の職員及びその組合は、同盟罷業、怠業、その他業務の正常な運営を阻害する一切の行為をすることができない旨を規定して、これら職員につき、業務の正常な運営を阻害する一切の争議行為を禁止しているのである。これは公共企業体等の事業が国民経済に重要な関係を有する公共性の強いものであり、その企業の正常な運営はいささかも阻害されることが許されないものであり、従つてその職員の職務は、広く国民全体の利益と緊密な関係を有し、一般私企業における勤労者の職務とその性質を著しく異にすることにかんがみ、その職員を全体の奉仕者である国家公務員、またはこれに準ずる者として、公共の福祉の要請に基づいて、右の如くその争議行為を禁止したものであり、他面その代償保障として、公共企業体等とその職員との紛争につき、あつせん、調停及び仲裁を行うため、公平な公共企業体等労働委員会を設け、殊に同会のなした仲裁裁定は、労働協約と同一の効力を有し、当事者双方とも、最終的決定として、これに拘束される(同法三五条)ものとしているのである。
すなわち、公共企業体等の企業の公益性にかんがみ、公共の福祉のため、その業務に従事する職員につき一切の争議行為を禁止するが、他面その代償措置として、あつせん、調停及び仲裁の制度を設けて、その職員の利益を保障しているのであつて、かくの如き労働権の規制は公共の福祉のためにする合理的な制限として是認することができ、憲法二八条に違反するものではない。そして公労法一七条の違憲でないことは、夙に当裁判所の判例(昭和二六年(あ)第一六八八号同三〇年六月二二日大法廷判決、刑集九巻八号一一八九頁)とするところでもある。今これを変更する必要を認めない。
右の如く、公共企業体等の職員は、業務の正常な運営を阻害する一切の争議行為を、法律により、禁止されているのであつて、これに違反してなす争議はすべて違法なものであり、従つて正当な争議行為とはいい得ないことは極めて明白である。換言すれば、争議行為の内容が、単に職場放棄の如き消極的な不作為であつても、前記一七条の同盟罷業または怠業等に該当する限り、その争議行為は違法であり、従つて正当性を有しないものといわざるを得ないのである。
苛もある法律によつて一切の争議行為が禁止せられ、違法なものとされている以上、他の法域において、それが適法であるということは許されない。けだし行為の違法性はすべての法域を通じて一義的に決せらるべきものであり、公労法上違法とされた行為が刑事法上違法性を欠くというがごときは理論上あり得ないからである。そして、その禁止に違反する行為につき何ら制裁規定を設けていない場合であると、自衛隊法六四条二項、一一九条一項三号の如く、刑事上の制裁を科している場合であると、将又公労法一七条、一八条の如く民事上の解雇の制裁のみを定めている場合であるとを問わず、すべての法域において、等しく違法、不当であることには変りはない。従つて、公労法一七条違反の場合につき、同法が刑事上の制裁を科せず、民事上の解雇の制裁のみを規定しているからといつて、右一七条は、その禁止に違反して争議をしても、単に解雇の制裁を科し得るだけで、刑事法上は適法、正当なものとして、これを許容しているものとは到底解し得られないのである。すなわち、公共企業体等の職員に対して一切の争議行為を禁止している所以は、前述の如く、公共企業体等の業務の正常な運営を阻害することは、国民経済に重大な影響を与えることにかんがみ、公共の福祉の要請上、その争議を全面的に禁止しているのであつて、単に労使間における労務不提供という債務不履行を禁止しているのではなく、従つて、刑法その他一般の法律秩序の上において、かかる争議を違法と評価しているものというべきである。
かように、公共企業体等の職員は、その争議行為が禁止され、争議権自体法律上否定されている以上、これに違反してなす争議行為につき、労組法一条二項の刑事上の免責規定の適用の余地はないものと解する。けだし、労組法一条二項の刑事上の免責規定は、争議行為についてみると、本来適法に争議権を認められている労働組合の争議行為において、その行為が労組法一条一項の目的を達成するためにした正当なものである場合に限つて、たとえ、その行為が犯罪構成要件に該当していても、その違法性が阻却さるべきことを規定したものであつて、当初より争議権を有しない者の違法、不当な争議行為については、その適用の余地はないものというべく、また当初より正当性のない争議行為につき、その正当性の限界如何を論ずる余地もないからである。すなわち、労組法一条二項の「……団体交渉その他の行為」という「その他の行為」のうちには、公共企業体等の職員については、そもそも争議権がないのであるから、争議行為は除外されているものと解すべきであることは、公労法一七条と対比して明白であるからである(若し公共企業体等の職員の争議にも、労組法一条二項の適用があるとすれば、結局一般私企業に従事する労働者の争議と大差のない刑事法的保護を受けることになり、公労法が、同法一七条により争議を一切禁止した代償保障として公共企業体等の職員のためにあつせん、調停及び仲裁の制度を、特に設けた立法趣旨に反することになる。)。
もつとも、公労法三条は、労組法一条二項の適用を除外する旨の明文を設けていないけれども、公共企業体等の職員は、争議権は否定されているものの、なお団結権及び団体交渉権は有するのであつて、例えば団体交渉に当たり右労組法一条二項の適用を受ける余地は十分あるのであるから、同条項の全面的適用除外は許されないのである。そのうち争議行為の場合を除外する趣旨の規定を特に置かなかつたのは、元来争議権を有しない者の争議行為について同条項の適用の余地のないことは理論上自明の理であるため、あえてその点まで規定するほどの必要を認めなかつたからに外ならない。これに対し、公労法三条が労組法八条の適用除外を明定したのは、同条が争議行為のみに関する規定であり、公共企業体等の職員の争議行為については正当なものという観念があり得ないのであるから、その適用の余地が全くないためである。それ故、公労法三条が特に労組法八条の適用を除外しながら、同法一条二項の適用を除外しなかつたことを理由として、公共企業体等の職員の争議につき右一条二項の適用があるものと解することは失当だといわなければならない。
また論旨は、争議行為については憲法二八条自体から当然に刑事上の免責が生ずるのであつて、労組法一条二項はこれを受けて訓示的に刑事免責を法定したものであり、他方公労法は最高規範たる憲法の下位規範で、これに優先することはできないから、公労法一七条のあることを理由として労組法一条二項の適用を排斥することはできない、とも主張する。しかし、例えば、警察職員、消防職員の如き極度に公共性の強い業務に従事する者につき争議の正当性を認める余地のないことは疑を容れないところてあり、憲法二八条と雖も右の如き職員の争議権まで保障しているものとは考えられない。そして業務の公共性を如何に評価し、これに従事する者の争議をどの程度制限するかは立法政策の問題であつて、その立法が不合理でない限り、違憲ということはできない。すなわち、憲法二八条が当然にすべての争議について刑事免責を保障しているとはいえないのであるから、このことを前提として公労法一七条違反の争議行為に労組法一条二項の適用があるとする所論は採るを得ない。
なお公労法一七条制定の結果、公共企業体等の職員の争議行為につき、労組法一条二項の適用の余地がなくなつたことについては、公労法制定当時における国会の審議において、屡々政府委員より、その旨の説明(昭和二三年一二月八日第四回国会参議院労働委員会議録第三号、昭和二三年一一月二九日第三回国会衆議院労働委員会議録一二号)があり、そのうえ、可決されたのであるから、立法当局の意思も、同様であつたものと推測されるのである。かかる立法者の意思も十分尊重されるべきである。
従つて、公労法一七条が憲法二八条に違反し、右一七条違反の争議に対し労組法一条二項の適用がある旨を主張し、原判決は憲法二八条に違反するとの論旨は採るを得ない。
最後に多数意見について一言する。
多数意見は要するに、(一)公共企業体等の職員はもとより、国家公務員や地方公務員も憲法二八条にいう勤労者に外ならない以上、原則的には争議権が保障されており、その争議行為が正当な範囲をこえない限り、刑事制裁の対象とならないのであり、労組法一条二項はこの当然のことを注意的に規定したものである。(二)公労法一七条は公共企業体等の職員の争議行為を禁止しているが、その違反行為について刑罰規定を設けることなく、同法一八条がこれに対して解雇の制裁のみを規定し、かつ、同法三条は損害賠償責任に関する労組法八条を除外しているに過ぎないのであるから、争議行為禁止違反が違法であるというのは、民事責任を免れないとの意味においてである。(三)公労法は、労組法一条二項の規定の適用を排除していないのであるから、当然その適用があるものというべく、公共企業体等の職員の争議行為が正当な範囲をこえない限り、同条により刑事免責される、というのである。
しかし、
(一)憲法二八条は勤労者に給与その他の勤労条件の改善、向上を得せしめる手段として、いわゆる労働基本権を保障しているのであるが、争議行為により、国民大衆の利益を著しく害し、国民経済に重大な障害を与えるような場合には、彼我の法益の均衡を考慮し、公共の福祉の要請に基づき、これが争議権を制限、禁止することも、やむを得ないのてあつて、憲法一三条の趣旨に徴しても肯認できるところであり、これをもつて違憲ということはできない(他面、適当な代償措置を講ずべきてある。)。公労法一七条は、正にかくの如き公共の福祉の要請に基づき設けられた争議行為禁止の規定である(他面、代償措置として公共企業体等労働委員会を設けて、職員のために、あつせん、調停、仲裁を行わしめることとしている。)。従つて、公共企業体等の職員は一切の争議行為が禁止され、争議権は法律上否定されているものというべきであるから、争議権あることを前提とする議論はすべて前提を欠く。
(二)右の如く、公共企業体等の職員は、公労法一七条により一切の争議行為が禁止されているのであつて、その違反行為について同法が直接刑罰を科していないことや、また、その違反行為について解雇の制裁のみを規定していることは、右争議行為禁止の絶対的効力に何ら消長を来たすものではない。それ故、右争議行為禁止の法規違反は、単なる民事法的違法に過ぎないというのは正当ではない。
(三)右の如く、法律上争議権を否定された公共企業体等の職員は、当然「正当な争議行為」をすることができないのであるから、争議行為として「正当なもの」について、刑事免責を規定した労組法一条二項の規定は、公共企業体等の職員の争議行為に適用の余地のないことは明白である。
裁判官草鹿浅之介は、右の反対意見に次の意見を附加する。
労組法一条二項本文が「刑法第三十五条の規定は、労働組合の団体交渉その他の行為であつて前項に掲げる目的を達成するためにした正当なものについて適用があるものとする。」と規定しているのは、いわば当然の事理を注意的に規定したものであつて、憲法二八条に基礎を有するこれらの行為がもし正当な範囲内のものであれば、本来は労組法の右の規定をまつまでもなく刑法三五条によつて犯罪としての違法性が阻却されるのである。その意味て、争議行為の犯罪としての違法性(もとより、それはその行為がなんらかの刑罰法令に触れる場合であること、すなわちその行為を罰する刑罰法令が存在することを前提とする。本件でいえば、郵便法七九条一項がこれに当たる。)が阻却されるかどうかは、ひつきようその行為が刑法三五条の正当行為に該当するかどうかによつて決せられるといわなければならない。
ところて、刑法三五条の正当行為といえるかどうかは、刑法だけでなく、すべての法体系を総合した法秩序全体の見地から決せらるべきものであることは当然である。ここで問題となつている争議行為についていえば、それが正当行為であるためには、労働法関係においても正当行為すなわち違法でない行為でなければならない。しかるに、本件におけるがごとき公共企業体等の職員の争議行為は公労法一七条一項の禁止するところであり、多数意見もまたこの規定の合憲性を認めた上で本件争議行為が違法であることを明らかに認めている。いいかえれば、労働法関係においてそれが正当行為でないことは、多数意見の承認するところだといわざるをえない。しかし、労働法関係において違法行為であることを肯定しながら、刑事法関係においてそれが正当行為になる余地があるとするのは、いかなる理由によるものであるのか。公労法一七条一項の合憲性を否定するか、あるいはなんらかの合理的な理由によつて本件の争議行為が労働法上も適法な行為だとするのてあれば格別、同一の行為が労働法上は違法であるが刑事法上は正当行為ないし適法行為になるというごとくその評価を異にすることは、少なくとも刑法三五条の正当行為の解釈としては到底首肯しえないところである。それにもかかわらず本件行為が刑法三五条の適用上正当行為と見られる余地があるとする多数意見は全く理解し難い(もつとも、本件の所為がなんらかの理由で可罰価値を欠くというのならば、それは別論である。)。
ことに、本件では、次の点に注意すべきである。そもそも公労法一七条一項が公共企業体等の職員の争議行為を禁止している理由がその業務の高度の公共性にあることは明らかで、他方郵便法七九条一項の罰則もまた郵便事業の高度の公共性に由来するものであることは、同一条が公共の福祉の増進を同法の目的として掲げていることに徴しても疑いがない。すなわち、公労法一七条一項が争議行為を禁止した趣旨と郵便法七九条一項所定の行為を違法とした理由とは全く同一なのてあつて、この点から考えても、公労法が禁止し違法とした行為が郵便法七九条一項の適用上違法性を阻却するというがごときことはありえないといわざるをえないのである。
多数意見は、公労法が争議行為禁止違反に対し罰則を設けていないことをもつてその争議行為の違法性阻却を認める論拠の一つとしているように見える。しかし、公労法が争議行為そのものを処罰する規定を有していないということと、その行為か他の刑罰法令に触れた場合にこれを処罰するかどうかということとは全く別の問題であつて、公労法における罰則の欠如が他の刑罰法令における違法性阻却の論拠に直ちになりうるものとは考えられない。のみならず本件の場合についていえば、郵便法七九条一項が争議行為としてした行為をその構成要件上あえて除外していないことは明白であるし、前述したようにこの罰則が公共の利益を保護するためのものであり、かつ他方同じ目的のために郵政職員の争議行為が公労法によつて禁止されていることをあわせ考えれば、郵政職員が争議行為としてした行為についても郵便法の右の罰則の適用があると解すべきは当然である。いいかえるならば、少なくとも郵政職員の同盟罷業または怠業に関する限り、その争議行為に対する罰則は存在するといわなければならない。もつとも、その罰則は公労法以外の他の法規中に存するものではあるが、すでに説明したところから明らかなように、その処罰の趣旨は国家公務員法が争議行為について罰則(同一一〇条一項一七号)を設けた理由と同一であつて、この種の罰則が公労法中に規定されたのと実質においてなんら区別すべき合理的な理由はないのである。もしそれ当該罰則の実質に目を覆い、それが労働法規中に規定されているか他の法規中に規定されているかという形式の差のみによつて解釈を異にするというのであれば、その理由のないことはほとんど言を待たないてあろう。
以上の次第で、わたくしは多数意見には到底賛成することがてきない。

+反対意見
裁判官五鬼上堅磐の反対意見は次のとおりである。
公共企業体等労働関係法(以下公労法と略称する。)一七条一項は、職員およびその組合は同盟罷業、怠業、その他業務の正常な運営を阻害する一切の行為をすることができない旨を規定して、凡ての争議行為を禁止しているのであるから、これに違反してなされる争議行為は違法なものであつて、たとえ消極的に職場放棄をなすようないわゆる不作為の行為であつても、その正当性は認められない。そうして、正当性のない違法な争議行為に労働組合法(以下労組法と略称する。)一条二項の適用ありとすることはできないものといわねばならない。昭和三八年三月一五日当裁判所第二小法廷判決の、争議行為について正当性の限界いかんを論ずる余地がないという判断は、今日においても何等変更の必要がない。この点について多数意見は、公共企業体の職員およびその組合が前記公労法一七条一項に違反し争議行為をしたからといつて、その一事をもつて労組法一条二項をこれに適用する余地なしとすることはできないのであつて、労組法および公労法の目的に照らし、公労法一七条一項違反の争議行為についても労組法一条二項の適用の余地ありとする見解をとるのであるが、この意見に私は賛成することはできない。
すなわち、公労法一七条は、同法所定の国営ないしこれに準ずる公有企業に属する職員については、団体行動としての争議行為を一般に違法として禁止し、反社会的行為として評価しているのである。これら違法行為に対して刑事的制裁を科することもありうるのであり、したがつて、郵便法七九条の適用に関して労働争議による場合とそうでない場合を区別して解釈を異にすることはできない。
また、公労法自体に罰則規定が設けられていないことを理由にして、労組法一条二項の刑事免責の規定の適用があると解することはできない。このことは公労法の制定されるに至つた歴史的事実ならびにその立法の趣旨から見ても上記のように解しうることである。すなわち、昭和二三年政令第二〇一号が制定され、一切の公務員について争議行為が禁止され、かつこれに刑罰を科したのであるが、その後国家公務員法の一部が改正されて国家公務員の争議行為の禁止は同法によることとなり、さらに昭和二四年六月一日施行の公共企業体労働関係法によつて、一般公務員のなかから、国鉄職員と専売職員とを抽出して、これを公共企業体の職員とし、さらに昭和二七年八月一日施行の公労法の改正を経て、順次五現業、三公社の職員が公労法の適用を受けることとなつたのである。すなわち、政令第二〇一号の廃止とともに、国鉄等の職員がその他の国家公務員と区別されて、公労法の適用を受けることとなつたのではなく、一旦すべての現業、非現業の国家公務員は、現行のような国家公務員法の規制を受けた後、順次、公労法の規制を受けることとされたものである。このような立法の変遷を支えた立法政策が、国営五現業および三公社の職員の争議行為を、刑事罰から解放することにあつたものでないことは、政令第二〇一号の罰則に関する経過規定をみても明らかである。昭和二三年法律第二二二号によつて国家公務員法が改正された際、その附則八条一項において、政令第二〇一号は「国家公務員に関して、その効力を失う。」とされつつも、同条二項においては、この「政令がその効力を失う前になした同令第二条第一項の規定に違反する行為に関する罰則の適用については、なお従前の例による。」と規定し、同令の適用が排除された後も、排除前に違反した行為の可罰性はなお失わせないとしているのである。この国家公務員法の改正にひき続いて制定された公労法およびその関係法令には、右のような経過規定は存在しないが、これは前記国家公務員法第一次改正附則八条二項によつて政令第二〇一号が一旦限時法としての効力を認められた以上、あらためて同旨の規定をおく必要を認めなかつたからにすぎないのであつて、もし、公労法がその職員の争議行為を刑事罰から解放する趣旨で制定されたものとすれば、制定前の行為について経過規定を設けることは首尾一貫しないこととなる。したがつて、前記のような経過規定をあえて設けたことは、一切の刑事罰から解放するとの立法意思ではない。この経過から見ても、公労法一七条違反の行為について、労組法一条二項の適用があるという見解は、誤りであるといわなければならない。なお、昭和二三年一二月八日第四回国会参議院労働委員会議事録によれば、提案者たる政府の答弁として、公労法一七条違反行為には、労組法一条二項の適用がない云々とあり、立法に際してもその適用を排除することが考慮されていたものと解することができる。
したがつて、原判決の判断に何等法令の解釈、適用を誤つた違法はなく、況んや公労法一七条が憲法二八条に違反するものでないことは、多数意見に述べられたところにより明らかであり、結局本件上告は棄却さるべきものである。

・地方公務員法の規制をめぐる判例(都教組事件)は、合憲限定解釈という手法によって、争議行為をあおる等の行為に対する刑事罰について規定した地方公務員法第37条第1項、第61条第4号を合憲とした。
+判例(S44.4.2)都教組事件
理由
弁護人佐伯静治外二七名の上告趣意について。
論旨は、憲法違反、条約違反、判例違反、判断遺脱その他きわめて多岐にわたるが、要するに、地方公務員法(以下地公法という。)三七条の定める争議行為の禁止が憲法二八条に違反し、かつ、ILO八七号条約および国際慣習法規にも違反し、ひいては憲法九八条二項にも違反する旨の主張と、地公法六一条四号の定める争議行為のあおり行為等に対する刑事罰が憲法二八条、一八条、三一条に違反し、かつ、ILO八七号条約および国際慣習法規にも違反し、ひいては憲法九八条二項にも違反する旨の主張とを骨子とし、あわせて、地公法六一条四号の定める「あおり」の要件についての解釈適用の誤り、原判決の刑訴法四〇〇条但書違反および原判決の判断遺脱を主張するものである。当裁判所は、結論として、原判決を破棄し、被告人全員を無罪とすべきものとするが、その理由は、つぎのとおりである。

一、公務員の労働基本権について、当裁判所は、さきに、昭和四一年一〇月二六日の判決(いわゆる全逓中郵事件判決)において、つぎのとおり判示した。
憲法二八条は、いわゆる労働基本権、すなわち、勤労者の団結する権利および団体交渉その他の団体行動をする権利を保障しているこの労働基本権の保障の狙いは、憲法二五条に定めるいわゆる生存権の保障を基本理念とし、勤労者に対して人間に値する生存を保障すべきものとする見地に立ち、一方で、憲法二七条の定めるところによつて、勤労の権利および勤労条件を保障するとともに、他方で、憲法二八条の定めるところによつて、経済上劣位に立つ勤労者に対して実質的な自由と平等とを確保するための手段として、その団結権、団体交渉権、争議権等を保障しようとするものである。
このように、憲法自体が労働基本権を保障している趣旨にそくして考えれば、実定法規によつて労働基本権の制限を定めている場合にも、労働基本権保障の根本精神にそくしてその制限の意味を考察すべきであり、ことに生存権の保障を基本理念とし、財産権の保障と並んで勤労者の労働権・団結権・団体交渉権・争議権の保障をしている法体制のもとでは、これら両者の間の調和と均衡が保たれるように、実定法規の適切妥当な法解釈をしなければならない。
右に述べた労働基本権は、たんに私企業の労働者だけについて保障されるのではなく、公共企業体の職員はもとよりのこと、国家公務員や地方公務員も、憲法二八条にいう動労者にほかならない以上、原則的には、その保障を受けるべきものと解される。」
右判決に示された基本的立場は、本件の判断にあたつても、当然の前提として、維持すべきものと考える。右のような見地に立つて考えれば、「公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない」とする憲法一五条を根拠として、公務員に対して右の労働基本権をすべて否定するようなことが許されないことは当然であるが、公務員の労働基本権については、公務員の職務の性質・内容に応じて、私企業における労働者と異なる制約を受けることのあるべきことも、また、否定することができない。ところで、公務員の職務の性質・内容は、きわめて多種多様であり、公務員の職務に固有の、公共性のきわめて強いものから、私企業のそれとほとんど変わるところがない、公共性の比較的弱いものに至るまで、きわめて多岐にわたつている。したがつて、ごく一般的な比較論として、公務員の職務が、私企業や公共企業体の職員の職務に比較して、より公共性が強いということができるとしても、公務員の職務の性質・内容を具体的に検討しその間に存する差異を顧みることなく、いちがいに、その公共性を理由として、これを一律に規制しようとする態度には、問題がないわけではないただ、公務員の職務には、多かれ少なかれ、直接または間接に、公共性が認められるとすれば、その見地から、公務員の労働基本権についても、その職務の公共性に対応する何らかの制約を当然の内在的制約として内包しているものと解釈しなければならない。しかし、公務員の労働基本権に具体的にどのような制約が許されるかについては、公務員にも労働基本権を保障している叙上の憲法の根本趣旨に照らし、慎重に決定する必要があるのであつて、その際考慮すべき要素は、前示全逓中郵事件判決において説示したとおりである(最高刑集二〇巻八号九〇七頁から九〇八頁まで)。地公法三七条および六一条四号が違憲であるかどうかの問題は、右の基準に照らし、ことに、労働基本権の制限違反に伴う法律効果、すなわち、違反者に対して課せられる不利益については、必要な限度をこえないように十分な配慮がなされなければならず、とくに、勤労者の争議行為に対して刑事制裁を科することは、必要やむをえない場合に限られるべきであるとする点に十分な考慮を払いながら判断されなければならないのである。
(イ)ところで、地公法三七条、六一条四号の各規定が所論のように憲法に違反するものであるかどうかについてみると、地公法三七条一項には、「職員は、地方公共団体の機関が代表する使用者としての住民に対して同盟罷業、怠業その他の争議行為をし、又は地方公共団体の機関の活動能力を低下させる怠業的行為をしてはならない。又、何人も、このような違法な行為を企て、又は遂行を共謀し、そそのかし、若しくはあおつてはならない。」と規定し、同法六一条四号には、「何人たるを問わず、第三十七条第一項前段に規定する違法な行為の遂行を共謀し、そそのかし、若しくはあおり、又はこれらの行為を企てた者」は三年以下の懲役または一〇万円以下の罰金に処すべき旨を規定している。これらの規定が、文字どおりに、すべての地方公務員の一切の争議行為を禁止し、これらの争議行為の遂行を共謀し、そそのかし、あおる等の行為(以下、あおり行為等という。)をすべて処罰する趣旨と解すべきものとすれば、それは、前叙の公務員の労働基本権を保障した憲法の趣旨に反し、必要やむをえない限度をこえて争議行為を禁止し、かつ、必要最小限度にとどめなければならないとの要請を無視し、その限度をこえて刑罰の対象としているものとして、これらの規定は、いずれも、違憲の疑を免れないであろう。
しかし法律の規定は、可能なかぎり、憲法の精神にそくし、これと調和しうるよう、合理的に解釈されるべきものであつて、この見地からすれば、これらの規定の表現にのみ拘泥して、直ちに違憲と断定する見解は採ることができない。すなわち、地公法は地方公務員の争議行為を一般的に禁止し、かつ、あおり行為等を一律的に処罰すべきものと定めているのであるが、これらの規定についても、その元来の狙いを洞察し労働基本権を尊重し保障している憲法の趣旨ヒ調和しうるように解釈するときは、これらの規定の表現にかかわらず、禁止されるべき争議行為の種類や態様についても、さらにまた、処罰の対象とされるべきあおり行為等の態様や範囲についても、おのずから合理的な限界の存することが承認されるはずである。
かように、一見、一切の争議行為を禁止し、一切のあおり行為等を処罰の対象としているように見える地公法の前示各規定も、右のような合理的な解釈によつて、規制の限界が認められるのであるから、その規定の表現のみをみて、直ちにこれを違憲無効の規定であるとする所論主張は採用することができない
(ロ)また、論旨は、前示地公法の各規定がILO八七号条約、ILO一〇五号条約、教員の地位に関する勧告、国際慣習法に違反し、したがつてまた、憲法九八条二項に違反するものと主張するが、ILO八七号条約は、争議権の保障を目的とするものではなく、ILO一〇五号条約および教員の地位に関する勧告は、未だ国内法規としての効力を有するものではなく、また、公務員の争議行為禁止措置を否定する国際慣習法が現存するものとは認められないから、所論は、すべて採用することができない。

二、つぎに、地方公務員の争議行為についてみるに、地公法三七条一項は、すべての地方公務員の一切の争議行為を禁止しているから、これに違反してした争議行為は、右条項の法文にそくして解釈するかぎり、違法といわざるをえないであろう。しかし、右条項の元来の趣旨は、地方公務員の職務の公共性にかんがみ、地方公務員の争議行為が公共性の強い公務の停廃をきたし、ひいては国民生活全体の利益を害し、国民生活にも重大な支障をもたらすおそれがあるので、これを避けるためのやむをえない措置として、地方公務員の争議行為を禁止したものにほかならない。ところが、地方公務員の職務は、一般的にいえば、多かれ少なかれ、公共性を有するとはいえ、さきに説示したとおり、公共性の程度は強弱さまざまで、その争議行為が常に直ちに公務の停廃をきたし、ひいて国民生活全体の利益を害するとはいえないのみならず、ひとしく争議行為といつても、種々の態様のものがあり、きわめて短時間の同盟罷業または怠業のような単純な不作為のごときは、直ちに国民全体の利益を害し、国民生活に重大な支障をもたらすおそれがあるとは必ずしもいえない。地方公務員の具体的な行為が禁止の対象たる争議行為に該当するかどうかは、争議行為を禁止することによつて保護しようとする法益と、労働基本権を尊重し保障することによつて実現しようとする法益との比較較量により、両者の要請を適切に調整する見地から判断することが必要である。そして、その結果は、地方公務員の行為が地公法三七条一項に禁止する争議行為に該当し、しかも、その違法性の強い場合も勿論あるであろうが、争議行為の態様からいつて、違法性の比較的弱い場合もあり、また、実質的には、右条項にいう争議行為に該当しないと判断すべき場合もあるであろう。
また、地方公務員の行為が地公法三七条一項の禁止する争議行為に該当する違法な行為と解される場合であつても、それが直ちに刑事罰をもつてのぞむ違法性につながるものでないことは、同法六一条四号が地方公務員の争議行為そのものを処罰の対象とすることなく、もつぱら争議行為のあおり行為等、特定の行為のみを処罰の対象としていることからいつて、きわめて明瞭である。かえつて、同法三七条二項は、職員で同条一項に違反する行為をしたものは、地方公共団体に対して保有する任命上または雇用上の権利をもつて対抗することができないという不利益を課しているにすぎないことを注意すべきである。したがつて、地方公務員のする争議行為については、それが違法な行為である場合に、公務員としての義務違反を理由として、当該職員を懲戒処分の対象者とし、またはその職員に民事上の責任を負わせることは、もとよりありうべきところであるが、争議行為をしたことそのことを理由として刑事制裁を科することは、同法の認めないところといわなければならない。
ところで、地公法六一条四号は、争議行為をした地方公務員自体を処罰の対象とすることなく、違法な争議行為のあおり行為等をした者にかぎつて、これを処罰することにしているのであるが、このような処罰規定の定め方も、立法政策としての当否は別として、一般的許されないとは決していえない。ただ、それは、争議行為自体が違法性の強いものであることを前提とし、そのような違法な争議行為等のあおり行為等であつてはじめて、刑事罰をもつてのぞむ違法性を認めようとする趣旨と解すべきであつて、前叙のように、あおり行為等の対象となるべき違法な争議行為が存しない以上、地公法六一条四号が適用される余地はないと解すべきである。(もつとも、あおり行為等は、争議行為の前段階における行為であるから、違法な争議行為を想定して、あおり行為等をした場合には、仮りに予定の違法な争議行為が実行されなかつたからといつて、あおり行為等の刑責は免れえないものといわなければならない。)
つぎに、あおり行為等の意義および要件については、意見の分かれるところであるが、一般に「あおり」の意義については、違法行為を実行させる目的で、文書、図画、言動により、他人に対し、その実行を決意させ、またはすでに生じている決意を助長させるような勢のある刺激を与えることをいうと解してよいであろう(昭和三三年(あ)第一四一三号、同三七年二月二一日大法廷判決、刑集一六巻二号一〇七頁参照)。しかし、地公法でいう争議行為等のあおり行為等がすべて一律に処罰の対象とされうべきものであるかどうかについては、慎重な考慮を要する。問題は、結局、公務員についても、その労働基本権を尊重し保障しようとする憲法上の要請と、公務員については、その職務の公共性にかんがみ、争議行為を禁止すべきものとする要請との二つの相矛盾する要請を、現行法の解釈のうえで、どのように調整すべきかの点にあり、労働基本権尊重の憲法の精神からいつて、争議行為禁止違反に対する制裁、とくに刑事罰をもつてする制裁は、極力限定されるべきであつて、この趣旨は、法律の解釈適用にあたつても、十分尊重されなければならない。そして、地公法自体は、地方公務員の争議行為そのものは禁止しながら、右禁止に違反して争議行為をした者を処罰の対象とすることなく、争議行為のあおり行為等にかぎつて、これを処罰すべきものとしているのであるが、これらの規定の中にも、すでに前叙の調整的な考え方が現われているということができる。しかし、さらに進んで考えると、争議行為そのものに種々の態様があり、その違法性が認められる場合にも、その強弱に程度の差があるように、あおり行為等にもさまざまの態様があり、その違法性が認められる場合にも、その違法性の程度には強弱さまざまのものがありうる。それにもかかわらず、これらのニユアンスを一切否定して一律にあおり行為等を刑事罰をもつてのぞむ違法性があるものと断定することは許されないというべきである。ことに、争議行為そのものを処罰の対象とすることなく、あおり行為等にかぎつて処罰すべきものとしている地公法六一条四号の趣旨からいつても、争議行為に通常随伴して行なわれる行為のごときは、処罰の対象とされるべきものではない。それは、争議行為禁止に違反する意味において違法な行為であるということができるとしても、争議行為の一環としての行為にほかならず、これらのあおり行為等をすべて安易に処罰すべきものとすれば、争議行為者不処罰の建前をとる前示地公法の原則に矛盾することにならざるをえないからである。したがつて、職員団体の構成員たる職員のした行為が、たとえ、あおり行為的な要素をあわせもつとしても、それは、原則として、刑事罰をもつてのぞむ違法性を有するものとはいえないというべきである。

三、これを本件についてみるに、原審の確定したところによれば、文部省が企図した公立学校教職員に対する勤務評定の実施に反対する日教組の方針に則り、都教組も、その定例委員会において、休暇闘争を含む実力行使をもつてこれに対応する方針をきめたが、都教育長は、昭和三三年四月一九日に、同月二三日の都教育委員会に勤務評定規則案を上程する旨の告示をすると言明し、爾後の話合いを拒否するに至つたので、都教組は、同月二一日に、「組合員は勤務評定を実施させない措置を地公法四条に基いて人事委員会に要求せよ。右手続は昭和三三年四月二三日午前八時から開催する全員集会で取りまとめて提出せよ。(右手続に必要な休暇請求は同日までに行う)」との指令を発し、右指令に基づいて、同月二三日一日の一せい休暇闘争を行なつたというのであり、原判決は、右は同盟罷業にあたるものとし、被告人らがしたその指令配布、趣旨伝達等の行為について、被告人らは地公法六一条四号の争議行為の遂行をあおつたものとして、同条の刑責を免れないとしているのである。
しかし、本件をさきに詳細に説示した当裁判所の考え方に従つて判断すると、本件の一せい休暇闘争は、同盟罷業または怠業にあたり、その職務の停廃が次代の国民の教育上に障害をもたらすものとして、その違法性を否定することができないとしても、被告人らは、いずれも都教組の執行委員長その他幹部たる組合員の地位において右指令の配布または趣旨伝達等の行為をしたというのであつて、これらの行為は、本件争議行為の一環として行なわれたものであるから、前示の組合員のする争議行為に通常随伴する行為にあたるものと解すべきであり、被告人らに対し、懲戒処分をし、または民事上の責任を追及するのはともかくとして、さきに説示した労働基本権尊重の憲法の精神に照らし、さらに、争議行為自体を処罰の対象としていない地公法六一条四号の趣旨に徴し、これら被告人のした行為は、刑事罰をもつてのぞむ違法性を欠くものといわざるをえない。したがつて、被告人らは、あおり行為等についての刑責を免れないとした原判決の右判断は、法令の解釈適用を誤つたもので、その違法は判決に影響を及ぼすことが明らかであり、これを破棄しなければ著しく正義に反するものといわざるをえない。
よつて、その余の論旨に対する判断を省略し、刑訴法四一一条一号により原判決を破棄し、同法四一三条但書、四一四条、四〇四条、三三六条により被告人らに無罪の宣告をなすべきものとし、主文のとおり判決する。
この判決は、裁判官松田二郎の補足意見、裁判官入江俊郎、同岩田誠の各意見および裁判官奥野健一、同草鹿浅之介、同石田和外、同下村三郎、同松本正雄の反対意見があるほか、裁判官全員一致の意見によるものである。

+補足意見
裁判官松田二郎の補足意見は、次のとおりである。
私は、多数意見に従うものであるが、奥野裁判官らの反対意見について若干自己の考をのべたい。
(一)反対意見は、地方公務員法三七条一項後段は「何人も」、六一条四号は「何人たるとを問わず」あおり行為をした者を処罰する旨規定していることを根拠として、多数意見の「あおり」についての見解を目して、条文の限定解釈なりとし、法の明文に反する一種の立法であり、法解釈の域を逸脱したものと評するのである。
たしかに、「あおり」行為について、条文上何等の限定の設けられていないことは、反対意見のいうとおりである。しかし、いうまでもなく、刑罰法規の解釈は、単に条文を外部より観察するものでなく、その内容に立入つてその意味を明らかにするものである以上、それは単なる文理的解釈に止まるべきではないのである。ことに、日常用語が同時に法律用語たる場合にあつては、日常用語としての意味や語感に禍されることなく、その刑罰規定の趣旨・目的に従つてその規範的意味内容を明らかにすべきであつて、「あおり」が日常用語として巾広い概念であつても、刑罰法規の解釈はこれに拘束されるべきではない。そして、勤労者の争議行為に対して刑事制裁を科することは、必要止むを得ない場合のみに限られるべしとの全逓中郵事件判決(当裁判所昭和三九年(あ)第二九六号同四一年一〇月二六日大法廷判決、刑集二〇巻八号九〇一頁)において当裁判所の示した基本的立場に即するとき、多数意見の「あおり」行為についてなした解釈の正当性を理解し得るのである。私は、右の中郵事件の判決において、「労働法規が争議行為を禁止しこれを違法として解雇などの不利益な効果を与えているからといつて、そのことから直ちにその争議行為が刑罰法規における違法性、すなわち、いわゆる可罰的違法性まで帯びているとはいえない」との意見をのべた(右判例集九一六頁)。多数意見の「あおり」行為の解釈は、これと同一の趣旨に基づくものと思う。そして、この見解よりすれば、前記法条の文言上限定のないことを根拠として「あおり」行為の意味を定めんとする反対意見には、到底賛し得ないのである。
更に、反対意見は、「あおり」についての多数意見を目して法解釈の域を「逸脱」したものとして非難する。思うに、従来、刑罰法規の解釈は厳格であることを要すとされ、その根拠として屡々罪刑法定主義が採用されるのである。しかしながら、本件における多数意見は、形式上より見ても、いわば条文を狭く解釈したものであつて、何等条文の拡張又は類推解釈をしたものでもない。換言すれば、多数意見の「あおり」についての解釈は、条文の枠内に止まるものであつて、反対意見のいう如く、これを「逸脱」したものでないことは明らかである。
(二)多数意見が被告人らの本件行為は刑事罰をもつてのぞむ違法性を欠くというのに対し、反対意見は、その行為を違法とし、これに刑罰を科することを主張するものである。すなわち、反対意見は、被告人らに刑罰を科することによつて、社会的秩序の維持に資そうとするものといえよう。
ここにおいて問題となるのは、反対意見のいう「違法性」の意味である。そして、反対意見の違法性についての考方は、既に前記中郵事件に示されている(本件における反対意見を採る五人の裁判官のうち奥野、草鹿、石田の三裁判官は、先に中郵事件においても、五鬼上裁判官と合して四名で反対意見を採られたのであり、また下村裁判官は中郵事件の反対意見と同意見であるから(昭和三六年(あ)第八二三号同四一年一一月三〇日大法廷判決、刑集二〇巻九号一〇七六頁)、中郵事件における反対意見の違法性についての考は、本件における反対意見の違法性の考と同じであるといえる)。そして、中郵事件において、反対意見はいう「行為の違法性はすべての法域を通じて一義的に決せられるべきである」と(右中郵事件判決登載の判例集九二二頁)。この考、すなわち、違法性についての「一義的」考によれば、刑法上違法と評価される行為は、民法その他の領域においても、統一的に違法と評価されるのであるが、しかし、刑法上違法と評価されない行為は、他の法域においても違法とされることなく、すなわち、法律上何等の責任を生じないということになるのである。従つて、かかる考に立つ者より見れば、本件行為を処罰するのでなければ、被告人らに対して民事上その他の責任を追及することも不可能となるべく、この点の考慮よりしても、被告人らの本件行為を罰すべきことが社会的秩序維持のため、きわめて必要となるのであろう。そして、かかる考に立つ者より見れば、或は、被告人らの本件行為を罰しない見解は、社会的秩序の混乱に対して無関心のものとさえ映じるかも知れない。
私は、先の中郵事件において、「行為の違法性を一義的に解すべきでなく、刑法において違法とされるか否かは、他の法域における違法性と無関係ではないが、しかし、別個独立に考察されるべき問題である」との趣旨の意見を述べた(右中郵事件判決登載の判例集九一六頁)。この見地に立つとき、被告人らの本件行為が罰されないにしても、そのことは被告人らの行為が私法上、労働法上において、又は地方公務員法上において、違法であるか否かと必然的関連はなく、これらは刑事上の責任とは別個に考察されるべきものなのである。そして、若し、被告人らの行為が刑罰法令違反以外のかかる点において違法であるならば、その責任が追及されるべきは当然であり、或は民事上の責任を負い、或は公務員として懲戒され、免職されることすらあるべきであろう。多数意見が被告人らの本件行為を罰しないというのは、決して被告人らが民事上の責任がないとか、公務員として責任がないとかいうことを意味するものではない。ただ、刑事的責任がないというに止まるのである。そして、前記中郵事件の判決は、「違法性は一義的に決すべし」との考に対して、最高裁判所が、それを採り得ないとした点にきわめて重要な意味をもつものといえよう。中郵事件の判決のこの意義は誤解されてはならないのである(因みに、ひとしく過失といつても、刑事責任としての過失と民事責任としての過失とは、別個の考察を要するものである)。
思うに、刑罰は、科せられる者に対して強烈な苦痛すら伴うもつとも不利益な法的効果を伴うものであるから、刑事的制裁は社会秩序維持の上においてきわめて大きな機能を果すものである。現に、わが国においては、刑事的制裁が刑事責任追及の域を越えて他の法域において解決すべき問題、たとえば、民事的又は労働法上の責任追及の関係に対しても、大きな影響を及ぼしつつあることは、われわれの知るところであり、それはいわば刑事的制裁の副次的作用ともいうべきものであるが、社会状態のおだやかならざる時代においては、民事上の責任、労働法上の責任などの追及に代えて、刑事的制裁によつて社会秩序の維持を図らんとし、従つて刑事的制裁に期待する傾向が高まりがちである。もとより、この点に関して、われわれは、わが国における民事訴訟制度の機能が十分でないこと―現にその一例として、わが国の大都市における民事部の数の刑事部の数に対する比率が、ドイツなどのそれに比較して極めて低いことを指摘し得る―に対して、真剣に考慮を払うべきであろう。しかしながら、刑事的制裁の威力を頼みにして、これに刑事的責任以外の責任、たとえば民事的責任追及のための代用品的作用をもあまりに行なわしめるべきではないのである。かかることは、民事責任と刑事責任の分化のなかつた時代、裁判といえば刑事裁判を考えがちだつた時代に逆行する事態を生じる危険を伴うのである。われわれは、すべからく、中郵事件の判決の精神に即して、刑事裁判をして、本来の領域に止まらしむべきであろう。
要するに、反対意見が違法性を一義的に解することは、ややもすると、違法即刑罰とする考に導き易いことを私は虞れるのである。この意味においても、私は、反対意見をもつて不当と思わざるを得ない。

+意見
裁判官入江俊郎の意見は、次のとおりである。
私は、多数意見と結論を同じくし、また、その理由の大部分についてはこれに同調するが、ただ一点だけ多数意見と根本的に考え方を異にする。そしてこの点は、本件においては、判決の結果に影響のない論点のごとくではあるが、他日他の類似の事案が問題となつた場合には判決の結果を左右することのありうべき問題であるから、この際右の点につき私の意見を表示する。また、本件で問題となつたあおり行為等の刑罰規定の適用につき、そのあおり行為等がその対象とされた争議行為に通常随伴するものと認められるものであるか否かについて、若干の補足意見を表示する。そしてこれらの点に関する私の意見は、昭和四一年(あ)第一一二九号国家公務員法違反等被告事件の判決に付した私の意見と趣旨を同じくするので、それを本件に援用する。

+意見
裁判官岩田誠の意見は、次のとおりである。
一、法律の規定をその文字どおりに解釈すると違憲の疑のある場合には、これに可能なかぎり合理的限定解釈を加え憲法の趣旨に調和するよう解釈すべきものであり、地方公務員法(以下地公法という。)六一条四号の規定を解釈するに当つても、右のような限定解釈を加うべきものであることは多数意見の判示するとおりである。
二、よつて按ずるに、地公法六一条四号は、争議行為自体を行なつた者は処罰しないけれども、争議行為の遂行を共謀し、そそのかし、あおり、またはこれらの行為を企てた者を処罰する旨定めている。しかし、職員組合の行なう争議行為は、通常組合の役員または組合員から発案され、所定の議決機関の決議を経、これに従つて実行されるものと解されるので、右争議行為の「遂行を共謀し、そそのかし、あおり、企てる」行為(以下「あおり行為等」という。)のような行為が、その組合において本来の目的たる勤務条件の維持改善、経済的地位の向上およびこれと関連する事項を目的とし、自主的に行なう争議行為の発案、計画、遂行の過程として行なわれる場合にこれを刑罰をもつて処罰することは、結局刑罰をもつて、すべての公務員に対し、一切の争議行為を禁止することになり、憲法二八条に違反する疑が生ずる。したがつて、地公法によつて認められた地方公務員の職員組合がその本来の目的達成のため自主的に行なう争議行為の発案、計画、遂行の過程として行なわれる「あおり行為等」は(組合の役員または組合員は勿論、それ以外の者であつても、その組合の上部組織若しくは連合体の役員のような者によつて行なわれても)、暴力等を伴わないかぎり、地公法六一条四号にいう「第三十七条第一項前段に規定する違法な行為の遂行を共謀し、そそのかし、若しくはあおり、又はこれらの行為を企てた」場合に当らないものとして処罰の対象にならないと解すべきである。
これを要するに、組合本来の目的を越えて行なわれたと認められる地方公務員の争議行為に対する「あおり行為等」、および組合が自主的に行なう争議行為の発案、計画、遂行の過程として行なわれるものでない一切の「あおり行為等」は、本条項に該当し、処罰の対象となるものと解する。何となれば右各行為はいずれも憲法二八条が勤労者に保障する労働基本権の行使とはいえないからである。
以上の考えに立つて本件を見るに、被告人らの本件行為は、被告人らの属する職員団体である都教組がその本来の目的達成のために自主的に発案、計画した争議行為遂行の過程としての指令の配布、その趣旨の伝達等をしたものであつて、地公法六一条四号にいうあおり行為にあたらないものとして罪とならないものである。
三、多数意見は、地公法六一条四号を限定的に解釈するにあたり、「あおり行為等」の対象となる争議行為は、地公法三七条一項の規定上違法であつても、その違法性には強弱があり、「あおり行為等」を処罰し得るのは、争議行為自体が違法性の強いものであることを前提とし、そのような違法性の強い争議行為等の「あおり行為等」に限るとしている。
しかし私は、「あおり行為等」の対象となる争議行為(地公法三七条一項は、地方公務員の争議行為を禁止しているから地方公務員の争議行為は地公法上は原則として違法である。〔刑事罰をもつてのぞむべき違法の意ではない。〕)について、その違法性の強弱により地公法六一条四号の適用の有無を決すべきではないと思う。「あおり行為等」の対象となつた争議行為が、地方公務員の勤務条件の維持改善、経済的地位の向上およびこれと関連する事項を目的とするものではなく、例えば政治的意図の達成を目的とするものであるときは、かかる争議行為は憲法二八条の保障するところではないから、かゝる争議行為を対象とする「あおり行為等」は、それが争議行為に通常随伴するものであると否とを問わず、憲法二八条の保障する労働基本権の行使とはいえない。また「あおり行為等」についても争議行為に通常随伴する行為は、違法性が弱いから処罰されないというのは賛同できない。むしろかゝる行為は、対象たる争議行為が組合の本来の目的達成のための争議行為である限り、憲法二八条の保障する勤労者の労働基本権なかんづく団体行動権の行使と認められるから、かゝる行為は、地公法六一条四号のいう「あおり行為等」にあたらないので処罰できないというべきものと思料する。

+反対意見
裁判官奥野健一、同草鹿浅之介、同石田和外、同下村三郎、同松本正雄の反対意見は、次のとおりである。
国家公務員は、国民の信託により、全体の奉仕者として国政に干与するものであつて、その使用者である国民大衆に対して同盟罷業、怠業その他の争議行為をなすことは、国民の信託に叛き、国政の活動を停廃せしめ、国民生活に重大な障害をもたらし、公共の福祉に反するものであるから、国家公務員法(昭和四〇年法律第六九号による改正前のもの、以下同じ)九八条五項は、違法な行為として、これを禁止しているのである。また、地方公務員法三七条一項は、同様の趣旨において地方公務員の争議行為を違法な行為として禁止しているのである。これら公務員の争議行為の禁止は、公共の福祉の要請に基づくものであつて、憲法二八条に違反するものということはできない。
法は、右の如く公務員の争議行為を違法な行為として禁止しながらも、それに違反して争議行為自体に参加した個々の公務員に対しては、刑罰を科することなく、公務員として保有する任命上又は雇用上の権利を奪う制裁を科し得るに止めている。しかし、法は、公務員の争議行為が国民又は地方住民に対し、重大な損害を与えるものであることに鑑み、かかる違法な争議行為の原動力となり、これを誘発、指導、助成する、いわゆる煽動者等に対しては刑事制裁を科し、もつて違法な争議行為の禁遏の実を挙げようとしているのである。すなわち、違法な争議行為に原動力を与える者は、単なる争議に参加した者に比して、反社会性の強いものとして、特別の可罰性を認めるべきであるとの観点から、争議に対し指導的役割をなす煽動者等のみを処罰することにより、違法な争議行為の防止と刑政の目的を達し得るものと考えたのである。かくの如く、集団行動による違法行為について、その原動力となつた煽動行為等の違法性を特に重視することは十分合理性のあることであり、内乱罪、騒擾罪などの処罰方式の例にも見られるところであり、決して不合理な立法ではなく、固より、立法政策の範囲内に属するものであつて、違憲とはいい難い。
そして、法が違法な争議行為に対する誘発、指導、助成の原動力となるものとして処罰せんとする「あおり」についていえば、「あおり」の概念は、「違法行為を実行させる目的をもつて、他人に対し、その行為を実行する決意を生ぜしめるような、またはすでに生じている決意を助長させるような勢のある刺激を与えること(昭和三三年(あ)第一四一三号同三七年二月二一日大法廷判決、刑集六巻二号一〇七頁参照)」をいうものと解するのが相当であり、その構成要件の内容が漠然としているものではない。そして法は、「あおり」行為について何らの限定を設けていないのであるから、いやしくも前記「あおり」の行為に該当するものである限り、これを可罰性のある違法な行為とする趣旨であつて、これらの行為をその違法性の強弱によつて区別し、特に違法性の強いものに対してのみ刑事制裁を科するものであると解する余地は、法文上考えられないところである。
「あおり」の対象となつた争議行為自体の態様により、その違法性の強いもの、ないし刑事罰をもつてのぞむべき違法性のあるものである場合に限つて、「あおり」を処罰する趣旨であると解することも到底是認できない。けだし、法は、争議行為自体を処罰しないとしながら、敢てこれをあおつた者を処罰すると規定しているのであるから、違法性の強いもの、ないし刑事罰をもつてのぞむべき違法性のある争議行為をあおつた場合に限り、あおり行為を処罰する趣旨と解することは、ことさらに明文に反する解釈であるからである。
それ故、「あおりの」罪が成立するためには、その「あおり」の対象となつた争議行為自体の正当性の有無を論ずる余地はなく、したがつて、その争議行為が例えば政治的目的のために行なわれたものであるか否かという如きことは、同罪の成否になんら影響を及ぼすものではないというべきである。しかも、もともと法律上争議権を否定された公務員が、「正当な争議行為」をすることができないのは当然であるから、国家公務員法附則一六条、地方公勝員法五八条の規定をまつまでもなく、争議行為として「正当なもの」について、刑事免責を規定した労働組合法一条二項の規定が公務員の争議行為に適用の余地のないことは明白であつて、この点からいつても、「あおり」の対象となつた争議行為自体の正当性ないし刑事罰をもつてのぞむべき違法性の有無を論ずることは理由がないといわなければならない。
また、争議には、企画、共謀、指令、伝達等は、通常、一般的に随伴し、争議と不可分の関係にあるものであつて、組合構成員は当然これに干与するのであるから、これを処罰することは、争議行為を処罰することになるから、組合構成員の「あおり」行為は除外すべきであるとの解釈論も是認することはできない。けだし、国家公務員法九八条五項後段、一一〇条一項一七号、地方公務員法三七条一項後段、六一条四号は、「何人も」および「何人たるを問わず」あおり行為をした者を処罰する旨を明定しており、あおつた者が組合構成員であると、組合構成員以外の第三者であると、また組合構成員がそれ以外の第三者と共謀した場合であるとを問わず、また争議に当然随伴し、これと不可分の関係において為した者であると否とを問わず、等しく処罰する趣旨であることが明白であるからである。
これを要するに、「あおり」の概念を、強度の違法性を帯びるものに限定したり、「あおり」行為者のうち、組合構成員と組合外部の者とを区別し、外部の者の行為若しくはこれと共謀した者の行為のみを処罰の対象となると解したり、または「あおり」の対象となつた争議行為が違法性の強いもの、ないし刑事罰をもつてのぞむべき違法性のあるものである場合に限り、その「あおり」行為が可罰性を帯びるのであるというが如き限定解釈は、法の明文に反する一種の立法であり、法解釈の域を逸脱したものといわざるを得ない。
従つて、以上に述べたところと解釈の結論を同じくする原判断は相当であり、弁護人のその余の所論は単なる訴訟法違反の主張にすぎないから、結局本件上告は棄却すべきものである。

・都教組事件及び全司法仙台事件判決は、全逓東京中郵事件判決を引用したうえで、争議行為をあおる等の行為のうち処罰対象となるのは、争議行為・あおり行為ともに違法性の強いものに限られるという合憲限定解釈を行った。

+判例(S44.4.2)全司法仙台事件 同日なのね・・・。
理由
弁護人大川修造ほか六名の上告趣意第一点について。
所論は、国家公務員法(昭和四〇年法律第六九号による改正前のもの。以下国公法という。)九八条五項、一一条一項一七号は、憲法二八条、一一条、九七条、一八条に違反するものであり、これを適用した原判決も違憲であるという。
よつて案ずるに、国公法九八条五項は、「職員は、政府が代表する使用者としての公衆に対して同盟罷業、怠業その他の争議行為をなし、又は政府の活動能率を低下させる怠業的行為をしてはならない。又、何人も、このような違法な行為を企て、又はその遂行を共謀し、そそのかし、若しくはあおつてはならない。」と規定し、同法一一〇条一項一七号は、「何人たるを問わず第九十八条第五項前段に規定する違法な行為の遂行を共謀し、そそのかし、若しくはあおり、又はこれらの行為を企てた者」は、三年以下の懲役または一〇万円以下の罰金に処すべき旨を規定している。これらの規定が、文字どおりに、すべての国家公務員の一切の争議行為を禁止し、これらの争議行為の遂行を共謀し、そそのかし、あおる等の行為(以下、あおり行為等という。)をすべて処罰する趣旨と解すべきものとすれば、公務員の労働基本権保障の趣旨に反し、必要やむをえない限度をこえて争議行為を禁止し、かつ、必要最少限度にとどめなければならないとの要請を無視して刑罰の対象としているものとして、これらの規定は、いずれも、違憲の疑いを免れない。しかし、法律の規定は、可能なかぎり、憲法の精神に即し、これと調和しうるよう合理的に解釈されるべきものであつて、この見地からすれば、これらの規定の表現にのみ拘泥して、直ちにこれを違憲と断定する見解は採ることができない。
右のように限定的に解釈するかぎり、前示国公法九八条五項はもとより、同法一一〇条一項一七号も、憲法二八条に違反するものということができず、また、憲法の前文、一一条、九七条、一八条に違反するものともいえないことは、当裁判所大法廷の判例(とくに昭和三九年(あ)第二九六号、同四一年一〇月二六日大法廷判決、刑集二〇巻八号九〇一頁、昭和四一年(あ)第四〇一号、同四四年四月二日大法廷判決参照)の趣旨に照らし、明らかであるから、これらの規定自体を違憲とする所論は、その理由がなく、したがつて、原判決が右国公法一一〇条一項一七号を適用したことを非難する論旨も、採用することができない。

同第二点について。
所論は、明白かつ現実の危険がないのに、あおり行為等を処罰することとしている国公法一一〇条一項一七号の規定は憲法二一条に違反するという。
しかし、右罰則が憲法二一条に違反するものでないことは、当裁判所の判例(昭和二六年(あ)第三八七五号、同三〇年一一月三〇日大法廷判決、刑集九巻一二号二五四五頁)とするところであるのみならず、前に説示したとおり、右罰則はこれを限定的に解釈して適用するかぎりにおいて、右規定が憲法二一条に違反するものでないことは、さらに明らかである。所論は、独自の見解のもとに違憲を主張するものであつて、採用しがたい。

同第三点について。
国公法一一〇条一項一七号は、公務員の争議行為そのものを処罰の対象としているものでないのみならず、右規定にいうあおり行為等を後に説示するような意味に解するかぎり、右規定が憲法一八条に違反するものといえないことは、所論第一点について説示したとおりであつて、所論は採用のかぎりでない。

同第四点について。
所論は、国公法一一〇条一項一七号は、その規定する構成要件の内容が漠然としており、かつ、労働運動の実体を無視し、争議行為の前段階的行為であるあおり行為等のみを処罰の対象としたことは極度に不合理であるから、憲法三一条に違反し、これを適用した原判決も違憲であるという。
しかし、国公法一一〇条一項一七号にいう「共謀」とは、二人以上の者が、同法九八条五項に定める違法行為を行なうため、共同意思のもとに、一体となつて互いに他人の行為を利用し、各自の意思を実行に移すことを内容とする謀議をすること(昭和二九年(あ)第一〇五六号、同三三年五月二八日大法廷判決、刑集一二巻八号一七一八頁参照)、「そそのかし」とは、同法九八条五項に定める違法行為を実行させる目的をもつて、他人に対し、その行為を実行する決意を新たに生じさせるに足りる慫慂行為をすること(昭和二七年(あ)第五七七九号、同二九年四月二七日第三小法廷判決、刑集八巻四号五五五頁参照)、「あおり」とは、右の目的をもつて、他人に対し、その行為を実行する決意を生じさせるような、またはすでに生じている決意を助長させるような勢のある刺激を与えること(昭和三三年(あ)第一四一三号、同三七年二月二一日大法廷判決、刑集一六巻二号一〇七頁参照)を、それぞれ、指すものと解するのが相当である。してみれば、国公法一一〇条一項一七号に規定する犯罪構成要件が、所論のように、内容が漠然としているものとはいいがたく、所論違憲の主張は、理由がない。
また、違法な争議行為につき、その前段階的行為であるあおり行為等のみを独立犯として処罰することは、政策的に妥当といえるかどうかは別論として、必ずしも不合理とはいいがたく、この点に関する非難も、採用することができない。

同第五点について。
所論は、原判決の国公法一一〇条一項一七号の「あおり」の解釈適用の誤りをいう。よつて案ずるに、原判決が国公法一一条一項一七号につき原判示のとおりの限定的解釈をしたうえ、本件事案にこれを適用していることは所論のとおりであるが、当裁判所は、次のような理由により、右規定を本件事案に適用した原判決の結論は、これを支持すべきものと考える。
すなわち、あおり行為等を処罰するには、争議行為そのものが、職員団体の本来の目的を逸脱してなされるとか、暴力その他これに類する不当な圧力を伴うとか、社会通念に反して不当に長期に及ぶなど国民生活に重大な支障を及ぼすとか等違法性の強いものであることのほか、あおり行為等が争議行為に通常随伴するものと認められるものでないことを要するものと解すべきである。というのは、職員の行なう争議行為そのものが処罰の対象とされていないのに、あおり行為等が安易に処罰の対象とされるときは、結局、争議行為参加者の多くが処罰の対象とされることになつて、国公法の建前とする争議行為者不処罰の原則と矛盾することになるからである。
そこで、まず、原判決の認定した本件事実関係をみるに、被告人ら(Aを除く。)は、仙台高等裁判所、同地方裁判所、同簡易裁判所の職員に対し、仙台高等裁判所玄関前において、昭和三五年六月四日午前八時三〇分から九時三〇分まで一時間、勤務時間内に喰い込んで開催される、新安保条約に反対するための職場大会に参加するよう、第一審判決の判示第一(後段のいわゆる間接あおりの部分を除く。)または第二に掲げる行為をしたというのである。右の認定によれば、本件職場大会が前示裁判所職員の団体であるB労組仙台支部の職場大会の実体をもつものであつて、裁判所職員による右職場離脱は、短時間とはいえ、裁判所職員による争議行為に当たるというのである。
ところで、裁判所職員の争議行為の制限について考えてみるに、すべて司法権は裁判所に属するものとされ、裁判所は、この国家に固有の権能に基づき、国民の権利と自由を擁護するとともに、国家社会の秩序を維持することをその使命とするものであることにかんがみると、このような裁判所の行なう裁判事務に従事する職員の職務は、一般的に、公共性の強いものであり、その職務の停廃は、その使命の達成を妨げ、ひいては、国民生活に重大な障害をもたらすおそれがあるものといわなければならない。
そこで、本件職場大会についてみるに、当時、新安保条約に対する反対運動が憲法擁護のための国民運動として広く行なわれ、労働組合その他諸種の団体によつてもその運動が活溌に行なわれており、本件職場大会も右運動の一環として行なわれたものであること所論のとおりであるとしても、裁判所の職員団体の本来の目的にかんがみれば、使用者たる国に対する経済的地位の維持・改善に直接関係があるとはいえない、このような政治的目的のために争議を行なうがごときは、争議行為の正当な範囲を逸脱するものとして許されるべきではなく、かつ、それが短時間のものであり、また、かりに暴力等を伴わないものとしても、裁判事務に従事する裁判所職員の職務の停廃をきたし、国民生活に重大な障害をもたらすおそれのあるものであつて、かような争議行為は、違法性の強いものといわなければならない。
そして、原判決の確定するところによれば、本件当時、(イ)被告人Cは、D労働組合中央執行委員の職にあつて、国公共闘会議からオルグとして仙台市に派遣されていたもの、被告人Eは、農林省宮城作物報告事務所石巻出張所に勤務し、F労働組合宮城県本部副執行委員長の職にあつたもの、被告人Gは、仙台北税務署に勤務し、D労働緯合東北地方連合会執行委員、H副議長の職にあつたもの、被告人Iは、仙台地方裁判所に裁判所書記官補として勤務し、B労組仙台支部執行委員長の職にあつたものであり、(ロ)第一審判決の判示第一に掲げる行為(後段のいわゆる間接あおりの部分を除く。)は、被告人I、Cその他の者が共謀して行なつたもの、判示第二に掲ける行為は、被告人C、I、E、Gその他の者が共謀して行なつたものであるというのである。
そこで、被告人らの右行為が、裁判所職員の行なう争議行為に通常随伴するものと認められるかどうかについて考えてみるに、被告人らのうち、裁判所職員でなく、かつまた、裁判所職員の団体に関係もない第三者である被告人C、E、Gの行なつた行為は、裁判所職員の行なう争議行為に通常随伴するものと認めることができないことは明らかである。また、被告人Iは裁判所職員であり、その団体であるB労組仙台支部執行委員長の職にあつたものであるから、そのあおり行為等がその態様において異常なものでないかぎり、争議行為に通常随伴するものと認めることができるが、本件の場合、被告人Iは、第三者である前示被告人らと共謀して前示ロの行為を行なつたものであるというのであるから、右事実関係のもとにおいては、被告人Iの行為も争議行為に通常随伴する行為と認めることはできないものといわなければならない。
してみれば、原審が被告人らの前示行為につき国公法一一〇条一項一七号を適用したことは、その理由において当裁判所の見解と異なるところがあるが、結局、正当であるに帰し、以上と異なる見解のもとに原判決に法令違反の違法があるとする所論は、採用することができない。

同第六点について。
所論は、原判決は、国公法一一条一項一七号にいう「あおり」の解釈につき、所論引用の当裁判所の判例(昭和三九年(あ)第二九六号、同四一年一〇月二六日大法廷判決、刑集二〇巻八号九〇一頁)と相反する判断をしているという。
しかし、右判例は、原判決の宣告後になされたものであるから、これをもつて刑訴法四〇五条二号の判例と解することはできず、所論は、適法な上告理由に当たらない。

同第七点について。
所論は、違憲(三一条)をいうが、国公法一一〇条一項一七号は、同号の規定する「あおり」等の行為を独立の可罰的行為(犯罪類型)として処罰の対象としているのであるから、いわゆる共謀共同正犯の理論の適用については、他の独立犯罪の場合と異なるところはないと解すべきであり、このように解しても憲法三一条に違反するものではなく、したがつて、これと同趣旨に出た原判断は正当であり、所論違憲の主張は理由がない。

同第八点について。
所論は、原判決は、日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約(昭和三五年六月二三日条約第六号、以下新安保条約という。)の解釈および憲法九条、九八条一項、八一条の解釈を誤つた違法があるという。
しかし、新安保条約のごとき、主権国としてのわが国の存立の基礎に重大な関係をもつ高度の政治性を有するものが違憲であるか否かの法的判断をするについては、司法裁判所は慎重であることを要し、それが憲法の規定に違反することが明らかであると認められないかぎりは、みだりにこれを違憲無効のものと断定すべへきではないこと、ならびに新安保条約は、憲法九条、九八条二項および前文の趣旨に反して違憲であることが明白であるとは認められないことは、当裁判所大法廷の判例(昭和三四年(あ)第七一〇号、同年一二月一六日大法廷判決、刑集一三巻一三号三二二五頁)の趣旨に照らし、明らかであるから、これと同趣旨に出た原判断は正当であつて、所論違憲の主張は理由なきに帰する。

同第九点について。
所論は、単なる法令違反、事実誤認の主張であつて、適法な上告理由に当たらない。
同第一〇点について。
所論は、事実誤認の主張であつて、適法な上告理由に当たらない。
同第一一点について。
所論は、仙台高等裁判所構内が刑法一三〇条にいう建造物の囲繞地に当たるとした原判断が所論引用の判例(昭和二四年(れ)三四〇号、同二五年九月二七日大法廷判決、刑集四巻九号一七八三頁)に違反するという。
しかし、右引用の判例は、守衛、警備員等を置いていることを、外来者がみだりに出入することを禁止している態様の例示として掲げたにとどまり、これをもつて同条にいう建造物の囲縫地であるための要件としたものでないことは明らかであるから、所論判例違反の主張は、その前提を欠き、適法な上告理由に当たらない。

同第一二点および同第一三点について。
所論のうち、違憲(三一条、三二条、三七条二項、七六条一項、三項、八一条、一四条)をいう点は、第一審で無罪を言い渡された被告人に対し、原審が事実の取調をした結果、第一審の無罪判決を破棄し自判しても違憲でないこと、ならびに事実審理を第二審かぎりとし、上告理由が刑訴法四〇五条により制限されている関係上、第一審の無罪判決を破棄自判により有罪とした第二審判決に対し、上訴によつて事実誤認等を争う途が閉ざされているとしても違憲でないことは、当裁判所大法廷の判例(昭和二六年(あ)第二四三六号、同三一年七月一八日判決、刑集一〇巻七号一一四七頁、昭和二七年(あ)第五八七七号、同三一年九月二六日判決、刑集一〇巻九号一三九一頁、昭和二二年(れ)第四三号、同二三年三月一〇日判決、刑集二巻三号一七五頁)の趣旨とするところであるから、所論違憲の主張はいずれも理由がなく、その余は、単なる訴訟法違反の主張であつて、適法な上告理由に当たらない。

同第一四点について。
所論は、単なる訴訟法違反、事実誤認の主張であつて、適法な上告理由に当たらない。被告人Cおよび同Iの各上告趣意について。
所論のうち、新安保条約の違憲(前文、九条)をいう点は、弁護人大川修造ほか六名の上告趣意第八点について、国公法九八条五項、一一〇条」項一七号の違憲(二八条)をいう点は、右上告趣意第一点について、それぞれ説示したとおりであつて、右主張はいずれも理由がなく、その余は、単なる法令違反、事実誤認の主張であつて、適法な上告理由に当たらない。
被告人E、同Gの上告趣意について。
所論のうち、新安保条約の違憲(九条)をいう点は、弁護人大川修造ほか六名の上告趣意第八点について説示したとおりであつて、右主張は理由がなく、その余は、単なる法令違反の主張であつて、適法な上告理由に当らない。

検察官の上告趣意について。
所論は、国公法一一〇条一項一七号の解釈に関する原判決の判断は、所論昭和四〇年一一月一六日東京高等裁判所判決(下級裁判所刑事裁判例集七巻一一号一九五五頁)と相反するという。
原判決は、同号は、同号に掲げる行為をすべて可罰性のあるものと評価しているのではなく、その行為の性質、手段、態様等からして争議行為の実行に影響を及ぼすべき高度の蓋然性をもつ程度に強度の違法性を帯びるもので、これらに刑罰を科することが公益上当然であるとされるものにかぎつて、処罰の対象としていると解すべきである旨判示しているところ、右東京高等裁判所の判決は、同号は、行為者ないし行為の態様等により強度の違法性を帯びた「あおり」行為等のみを処罰する趣旨のものと解すべきではないとの見解をとつており、原判決に先だつて言い渡されたものであるから、原判決は、右高等裁判所の判例と相反する判断をしたこととなり、刑訴法四〇五条三号後段に規定すろ最高裁判所の判例がない場合に、控訴裁判所たる高等裁判所の判例と相反する判断をしたことになるものといわなければならない。
そして、国公法一一〇条一項一七号の解釈に関する当裁判所の見解は、前示のとおりであつて、右高等裁判所の判例および原判決のこの点に関する見解は、そのいずれをも維持することはできないけれども、前示のとおり、原判決が被告人らの第一審判決の判示第一の行為(後段のいわゆる間接あおりの部分を除く。)および第二の行為につき同号を適用処断したことは、結局、正当であるのみならず、被告人らの第一審判決判示第一後段の行為(いわゆる間接あおり)は、原審の確定した事実関係のもとにおいては、いまだその対象たる裁判所職員に対し、本件争議行為の実行を決意させ、またはすでに生じている決意を助長させるような勢のある刺激を与える程度のものとは認めがたく、同号のあおり行為には該当しないものと認めるのが相当であり、したがつて、右事実は犯罪の証明がなく無罪とすべきものであるとした原判決は、その結論において正当であるから、原判決には判例違反があるが、この判例違反の事由は、刑訴法四一〇条一項但書にいう判決に影響を及ぼさないことが明らかな場合に当たり、原判決を破棄する事由とはならない。
よつて、刑訴法四一四条、三九六条に則り、本件各上告を棄却することとし、主文のとおり判決する。
この判決は、裁判官入江俊郎、同岩田誠の各意見、裁判官奥野健一、同草鹿浅之介、同石田和外、同下村三郎、岡松本正雄の意見、裁判官色川幸太郎の反対意見があるほか、裁判官全員一致の意見によるものである。

+意見
裁判官入江俊郎の意見は、次のとおりである。
一、私は、多数意見と結論を同じくし、また、その理由の大部分についてはこれに同調するが、ただ一点だけ多数意見と根本的に考え方を異にする。そしてこの点は、本件においては、判決の結果に影響のない論点のごとくではあるが、他日、他の類似の事案が問題となつた場合には判決の結果を左右することのありうべき問題であるから、この際右の点につきまず私の意見を表示する。
(一)憲法二八条の労働基本権といえども絶対無制限なものではなく、公共の福祉の要請に応じ、これに合理的制限を加えることは違憲ではないが、労働基本権に対するそのような制限は、憲法二八条の法意に照らし、労働基本権を尊重確保する必要と、国民生活全体の利益を維持増進する必要とを比較考量して、両者の間に適正な均衡を保つことを目途として決定すべきであることは、既に当裁判所の判例(昭和三九年(あ)第二九五号、同四一年一〇月二六日大法廷判決、刑集二〇巻八号九〇一頁、いわゆる中郵判決)の判示するとおりである。そして、国家公務員や地方公務員も憲法二八条にいう勤労者にほかならず、これらの公務員も原則として同条の保障を受くべきものであつて、公務員は全体の奉仕者で、一部の奉仕者ではない(憲法一五条)からといつて、その一事をもつて、公務員に対して右労働基本権をすべて否定することは許されないというべきであるが、ただ公務員については、その担当する職務の内容は私企業におけるそれと異なり、一般に公共性が顕著であるから、その職務の具体的な内容に応じて、私企業における労働者の場合と異なる制約を受けることがあつてもやむを得ないといわなければならない。かように考えて来ると、本件で問題となつている国家公務員法(昭和四〇年法律第六九号による改正前のもの。以下国公法と略称する。)九八条五項が公務員の争議行為を禁止しているからといつて、いやしくも争議行為と認められる以上、すべての国家公務員につき一律に一切の争議行為を違法として禁止しているものではなく、具体的事案に即して公共の福祉の要請を充分勘案した上、同法条によつて禁止されている争議行為に該当するか否かを判断すべきであり、もしかような考慮を何ら払うことなく、国家公務員の一切の争議行為を違法として禁止するならば、それは憲法二八条違反というほかないことも、前記当裁判所の判例の趣旨とするところである。国公法の前記法条は単に「争議行為」というに止まり、同法八二条は懲戒に関する規定が置かれているから、単に法文を文字どおりに解すれば、国家公務員の一切の争議行為は禁止され、この法条に違反して争議行為を行つた場合にはすべて懲戒処分を受けることとなるがごとくであるが、これらの法条については当然憲法二八条の法意に即した適切な解釈が加えらるべく、その限度において争議行為が禁止され、かくして禁止された争議行為であつてはじめてこれに懲戒を加えることができるものといわなければならない。ここまでは多数意見と私は意見を異にするわけではない。
(二)しかし、本件は国家公務員の争議行為自体に刑罰を科するか否かではなく、その争議行為に対するあおり行為等に刑罰を科するか否かが問題となつているものであり、国公法一一〇条一項一七号は、同号の規定するあおり行為等を独立の犯罪行為として、これに刑罰を科することを定めた規定である。ところで、憲法二八条の法意に鑑み、国公法上禁止されているとは認められず、従つてまた国公法上懲戒処分の対象ともならないような争議行為であれば、それは憲法上適法な争議行為であり、憲法上の保障を与えられているのであるから、これを対象としてあおり行為等が行なわれたからといつて、前記国公法の刑罰法条の適用の余地のないことは明らかであるが、いやしくも国公法上違法と認められる争議行為を対象としてあおり行為等が行なわれた以上、これに対し前記刑罰法規の適用のあることは当然といわなければならない。しかるに、多数意見は、あおり行為等の対象とせられる国公法上違法な争議行為の中で、さらに争議行為の違法の程度、反社会性の程度に強弱の区別をたてて、多数意見が例示するような、その程度の強いものに対するあおり行為等がはじめて国公法の前記刑罰法条の適用を受けうるものであり、程度の弱いものに対するあおり行為等はその適用外であるとしているが、このような解釈は、憲法二八条、三一条の法意こ照らしても、また国公法の解釈の上からも、これを是認すべき根拠を欠き、私は到底これに賛同することはできないのである。もちろん、理論的には、国公法上違法と解されるような争議行為の中、その違法性ないし反社会性の程度の軽いものに対するあおり行為等に対して、不当に重い刑罰を科し、これがため公務員の争議行為自体が結局において不当に制約されるようなことになるとするならば、それは憲法二八条、三一条の法意に照らし、違憲の問題を生ずることがないとはいえないけれども、本件に関する限り、国公法の前記罰条はそのような場合に当たるとは考えられない。右罰条には、長期三年の懲役刑のほか罰金刑の定めもあるから、右刑罰法規の適用に当たつては、情状等を考慮することにより量刑の面で適切な斟酌をすることが可能であり、違憲の問題は生じないと考える。また、これを立法政策の面から考察しても、右罰条は立法府の有する立法に対する裁量権の範囲を逸脱しているものとは認められない。
(三)原審の確定した事実関係の下においては、本件あおり行為等の対象となつた争議行為は、昭和三五年六月四日仙台高等裁判所前で、午前八時三〇分から同九時三〇分までの勤務時間内に、仙台高等裁判所、同地方裁判所および同簡易裁判所の職員の職場大会を実施しようとするものであつて、そのようにまさに勤務時間にくいこんでこの種争議行為を行なうことは裁判所事務の明らかな停廃にほかならず、裁判所事務は、正義の実現と人権の保障とを目途とする司法権の行使につき不可缺のものであつて、裁判所職員の職務は極めて公共性の強いものというべく、またたとえ短時間であるとしても、本件におけるように勤務時間内にくいこんで裁判所の事務の運営を停廃するがごときは、まさに国公法九八条五項前段により違法として禁止される争議行為であることは多言を要せず、そして、その違法性は勿論極めて程度の強いものというべきであるが、これに国公法一一〇条一項一七号を適用するに当たつては、その程度の強弱を問題とすることは全く不必要であり、かく解することは何ら憲法二八条、三一条に違反するものではないと考えるのである。
(四)なお、当裁判所は、前記いわゆる中郵判決において、公共企業体等労働関係法(以下公労法と略称する。)一七条の解釈ならびに郵便法七九条一項の解釈につき、郵便法により郵政職員の争議行為に刑罰を科する場合の判断を示している。それによれば、右郵便法の法条はもつぱら争議行為を対象としたものでないことは明白であるが、反面、郵政職員が争議行為として同条所定の行為をした場合にその適用を排除すべき理由はなく、争議行為をした場合にも適用あるものと解するほかはないが、公労法は、同法一七条一項に違反してなされた違法な争議行為に対しては同法一八条により懲戒処分をする途を認めているに止まり、刑罰を科する規定は全く置いていないのに、前記郵便法の法条により例外として郵政職員の違法な争議行為に刑罰を科することとなる点を考えると、公労法の職員の争議行為自体の中に刑罰を科せられない場合と科せられる場合とがあることになる点に鑑み、刑事制裁を科せられる郵政職員の右争議行為は前記中郵判決判示のような特に違法性、反社会性の強度のものに限ると解するを相当とするとし、かく解することが、憲法二八条、公労法一七条一項の合理的解釈に沿う所以であるとしたのである。しかるに本件は、争議行為自体に刑罰を科する問題ではなく、違法とされる争議行為を対象としてなされたあおり行為等に刑罰を科することが問題となつているのであつて、前記中郵判決は、この点に関する限り、本件とは事案を異にし本件に適切でなく、あおり行為等の刑罰規定に関する多数意見の中、私の反対する前記の部分に関しては、中郵判決は何らの判示をも包含しているものではないと私は解する旨を附言したい。二、次に、多数意見があおり行為等を処罰しうるためには、あおり行為等がその対象とされた争議行為に通常随伴するものと認められるものでないことを要件としている点は、私もこれに賛同するが、この点につき若干補足意見を表示する。
私見によれば、多数意見の右のごとき解釈のよつて来たる所以は、そもそもあおり行為等は争議行為の発案、計画、遂行の過程として、他人に対し、争議行為を実行する決意を生じさせるような、またはすでに生じている決意を助長させるような勢のある刺激を与えることであつて、通常は対象とされる争議行為に従属的ないし附随的な性質のものであるから、動労者自らが争議行為をした場合は刑罰を科せられないとされているのに、そのような従属的ないし附随的行為につき刑責を認めるとすれば、それはその動労者が自ら行なう争議行為に実質的に包含されていると解される行為の一部を取り上げて処罰すると同様な結果となり極めて不合理であり、争議行為自体に刑責を負わせない立前と矛盾し、かくては労働基本権を認めた憲法二八条の法意にも反することとなるという配慮に出たものに外ならないと考える。それ故、ここに通常随伴するものと認められるものでないというのは、あおり行為等が例えば、組合における争議行為の共同意思に基づかないで争議行為の遂行を煽動するとか、争議行為の際に通常行なわれるような手段、方法、程度をこえた激越なものであるとか、故意に誤つた情報を提供し、欺岡、威力、暴力等の手段、方法を用いるとか等、社会通念上争議行為に伴つて行なわれるものとしては著しく不当と認められるような行為による場合をいうものと解するのが相当である。従つて、このような制限は、あおり行為等の行為者が、その者の行なう争議行為自体につき刑事罰を科せられないとされる動労者ないしそれと同等の立場にある者であつて、本来憲法二八条の保障の下に在るものにつき問題とされるのであり、しからざる純然たる第三者のように、全く憲法二八条の保障の下にない者については、このような制限は問題とならない。すなわち純然たる第三者のしたあおり行為等については、通常随伴するものか否かを考える余地も必要もなく、憲法二八条の要請とも無関係であつて、そのような第三者のあおり行為等がすべて国公法の前記罰条の適用を受けることは、法律の規定によりもとよりも当然というべきである。また、そのような第三者と共謀した者がたとえ動労者であつても、独立の犯罪者たる第三者の共犯者である以上、そのあおり行為等の行為は、争議行為て通常随伴すると解する余地も必要もなく、憲法二八条の要請とも無関係の事柄であつて、これまた国公法の前記罰条の適用を受けることは、法律の規定により当然というべきものと私は考える。その意味において、本件被告人らに刑責を負わせた原判決の結論は正当である。(なお、あおり行為等の対象とされた争議行為が、公務員の勤務条件の維持改善、経済的立場の向上等労働争議本来の目的達成に関係はあるが、その手段、方法、態様等からみて、公共の福祉の要請上許容し得ず違法とされるようなものであれば格別、労働争議本来の目的と全く無関係に、例えば専ら政治的目的達成のための政治運動が、争議行為の形態を採つてなされたような場合には、そのような争議行為は、憲法二八条の保障とは無関係なものというべきであろう。しかし、私はそのような争議行為も実定法たる国公法上の争議行為という中には包含されていると思う。そしてたとえそのような場合であつても、そのあおり行為等をした者が動労者自身であれば、現行国公法が、その者のする右のような争議行為自体に刑罰を科さない立前であるとすれば、それとの均衡上、右あおり行為等のみに刑罰をもつて臨むことは、それが右争議行為に通常随伴するものと認められるものである限り、憲法三一条の要請から、または現行国公法の妥当な解釈の上から、許されないと解するのが相当ではないかと考える。そして本件は、原審の確定したところによれば、新安保条約に反対するための労働争議に対するあおり行為等に関する事案であるが、本件は、被告人らが本件あおり行為等を第三者と共謀して行なつたというのであるから、右の点は、判決の結果には影響のないことに帰するので、ここではただ問題の所在を指摘するに止め、これ以上の詳述は省略する。)

+意見
裁判官岩田誠の意見は、次のとおりである。
一、法律の規定をその文字どおりに解釈すると違憲の疑のある場合には、これに可能なかぎり合理的限定解釈を加え憲法の趣旨に調和するよう解釈すべきものであり、国家公務員法(昭和四〇年法律第六九号による改正前のもの。以下国公法という。)一一〇条一項一七号の規定を解釈するに当つても右のような限定解釈を加うべきものであることは多数意見の判示するとおりである。
二、よつて按ずるに、国公法一一〇条一項一七号は、争議行為自体を行なつた者は処罰しないけれども、争議行為の遂行を共謀し、そそのかし、あおり、またはこれらの行為を企てた者を処罰する旨定めている。しかし、職員組合の行なう争議行為は、通常組合の役員または組合員から発案され、所定の議決機関の決議を経、これに従つて実行されるものと解されるので、右争議行為の「遂行を共謀し、そそのかし、あおり、企てる」行為(以下「あおり行為等」という。)のような行為が、その組合において、本来の目的たる勤務条件の維持改善、経済的地位の向上およびこれと関連する事項を目的とし、自主的に行なう争議行為の発案、計画、遂行の過程として行なわれる場合にこれを刑罰をもつて処罰することは、結局刑罰をもつて、すべての公務員に対し、一切の争議行為を禁止することになり、憲法二八条に違反する疑が生ずる。したがつて、国公法によつて認められた国家公務員の職員組合がその本来の目的達成のため自主的に行なう争議行為の発案、計画、遂行の過程として行なわれる「あおり行為等」は(組合の役員または組合員は勿論、それ以外の者であつても、その組合の上部組織若しくは連合体の役員のような者によつて行なわれても)、暴力等を伴わないかぎり、国公法一一〇条一項一七号にいう「第九十八条第五項前段に規定する違法な行為の遂行を共謀し、そそのかし、若しくはあおり、又はこれらの行為を企てた」場合に当らないものとして処罰の対象にならないと解すべきである。
これを要するに、組合本来の目的を超えて行なわれたと認められる国家公務員の争議行為に対する「あおり行為等」、および組合が自主的に行なう争議行為の発案、計画、遂行の過程として行なわれるものでない一切の「あおり行為等」は、本条項に該当し、処罰の対象となるものと解する。何となれば右各行為はいずれも憲法二八条が勤労者に保障する労働基本権の行使とはいえないからである。
三、多数意見は、「あおり行為等」を処罰するには、争議行為そのものが、職員団体の本来の目的を逸脱してなされるとか、暴力その他これに類する不当な圧力を伴うとか、社会通念に反して不当に長期に及ぶなど国民生活に重大な支障を及ぼすとか等違法性の強いものであることのほか、「あおり行為等」が争議行為に通常随伴するものと認められるものでないことを要するものと解すべきであるとする。
右多数意見の趣旨とするところが、国公法一一〇条一項一七号を憲法に合致するように限定的に解釈するための基準を、「あおり行為等」の対象となる国家公務員の行なう争議行為の違法性の強弱にも求め、違法性の強い争議行為の「あおり行為等」にかぎり、国公法一一〇条一項一七号により処罰できるとするにあるならば、にわかに賛同できない。私は、「あおり行為等」の対象となる争議行為(国公法九八条五項は、国家公務員の争議行為を禁止しているから、国家公務員の争議行為は、国公法上は原則として違法である。〔刑事罰をもつてのぞむべき違法の意ではない。〕)について、その違法性の強弱により国公法一一〇条一項一七号の適用の有無を決すべきではないと思う。「あおり行為等」の対象となつた争議行為が、国家公務員の勤務条件の維持改善、経済的地位の向上およびこれと関連する事項を目的とするものではなく、例えば政治的意図の達成を目的とするものであるときは、かかる争議行為は憲法二八条の保障するところではないから、かかる争議行為を対象とする「あおり行為等」は、それが争議行為に通常随伴するものであると否とを問わず、憲法二八条の保障する労働基本権の行使とはいえない。また「あおり行為等」についても争議行為に通常随伴する行為は、違法性が弱いから処罰されないというのは賛同できない。むしろかゝる行為は、対象たる争議行為が組合の本来の目的達成のための争議行為である限り、憲法二八条の保障する動労者の労働基本権なかんづく団体行動権の行使と認められるから、かゝる行為は、国公法一一〇条一項一七号のいう「あおり行為等」にあたらないので処罰できないというべきものと思料する。
四、これを本件について見るに、第一審判決が確定し、原判決が是認支持した限度の事実関係によれば、当時新安保条約は、憲法に違反し、日米両国間の軍事同盟的性格を有し、却つて日本の平和と安全を脅かすものとして、新安保条約改訂反対運動が、J党をはじめ一部政党、労働組合その他諸種の団体によつて広く行なわれていたのであるが、被告人ら(同Aを除く。以下同じ。)は、右反対運動の一環として、仙台高等裁判所、同地方裁判所、同簡易裁判所の職員に対し、昭和三五年六月四日午前八時三〇分から九時三〇分までの一時間勤務時間内に食い込み同高等裁判所前で新安保条約反対のため行なわれる職場大会に参加するよう第一審判決の判示第一(後段のいわゆる間接あおりの部分を除く。)または第二に掲げる行為をしたというのであり、かつ、右職場大会は、前示各裁判所職員の団体であるB労働組合仙台支部の職場大会であるというのである。してみれば、右職場大会は裁判所の職員団体による争議行為であること明らかであり、その目的とするところは、新安保条約改訂に反対しようとする政治目的のためのもので、職員団体の目的である裁判所職員の勤務条件の維持改善、経済的地位の向上およびこれと関連する事項を目的とするものとは到底いえないものであり、かゝる争議行為は憲法二八条の保障するところではない。したがつて、かゝる争議行為たる右職場大会への参加を慫慂する行為は、国公法一一〇条一項一七号にいわゆるあおり行為にあたること明らかであつて、被告人らの右所為が争議行為に通常随伴するものであるか否かを問うまでもなく、被告人らに罪責のあること論をまたない。
右に記した以外の点については、いずれも多数意見に同調する。

+意見
裁判官奥野健一、同草鹿浅之介、同石田和外、同下村三郎、同松本正雄の意見は、次のとおりである。一、国家公務員は、国民の信託により、全体の奉仕者として国政に干与するものであつて、その使用者である国民大衆に対して同盟罷業、怠業その他の争議行為をなすことは、国民の信託に叛き、国政の活動を停廃せしめ、国民生活に重大な障害をもたらし、公共の福祉に反するものであるから、国家公務員法(昭和四〇年法律第六九号による改正前のもの、以下同じ)九八条五項は、違法な行為として、これを禁止しているのである。また、地方公務員法三七条一項は、同様の趣旨において地方公務員の争議行為を違法な行為として禁止しているのである。これら公務員の争議行為の禁止は、公共の福祉の要請に基づくものであつて、憲法二八条に違反するものということはできない。
法は、右の如く公務員の争議行為を違法な行為として禁止しながらも、それに違反して争議行為自体に参加した個々の公務員に対しては、刑罰を科することなく、公務員として保有する任命上文は雇用上の権利を奪う制裁を科し得るに止めている。しかし、法は、公務員の争議行為は国民又は地方住民に対し、重大な損害を与えるものであることに鑑み、かかる違法な争議行為の原動力となり、これを誘発、指導、助成する、いわゆる煽動者等に対しては刑事制裁を科し、もつて違法な争議行為の禁遏の実を挙げようとしているのである。すなわち、違法な争議行為に原動力を与える者は、単なる争議に参加した者に比して、反社会性の強いものとして、特別の可罰性を認めるべきであるとの観点から、争議に対し指導的役割をなす煽動者等のみを処罰することにより、違法な争議行為の防止と刑政の目的を達し得るものと考えたのである。かくの如く、集団行動による違法行為について、その原動力となつた煽動行為等の違法性を特に重視することは十分合理性のあることであり、内乱罪、騒擾罪などの処罰方式の例にも見られるところであり、決して不合理な立法ではなく、固より、立法政策の範囲内に属するものであつて、違憲とはいい難い。
そして、法が違法な争議行為に対する誘発、指導、助成の原動力となるものとして処罰せんとする「あおり」についていえば、「あおり」の概念は、「違法行為を実行させる目的をもつて、他人に対し、その行為を実行する決意を生ぜしめるような、またはすでに生じている決意を助長させるような勢のある刺激を与えること(昭和三三年(あ)第一四一三号同三七年二月二一日大法廷判決、刑集一六巻二号一〇七頁参照)」をいうものと解するのが相当であり、その構成要件の内容が漠然としているものではない。そして法は、「あおり」行為について何らの限定を設けていないのであるから、いやしくも前記「あおり」の行為に該当するものである限り、これを可罰性のある違法な行為とする趣旨であつて、これらの行為をその違法性の強弱によつて区別し、特に違法性の強いものに対してのみ刑事制裁を科するものであると解する余地は、法文上考えられないところである。
「あおり」の対象となつた争議行為自体の態様により、その違法性の強いもの、ないし刑事罰をもつてのぞむべき違法性のあるものである場合に限つて、「あおり」を処罰する趣旨であると解することも到底是認できない。けだし、法は、争議行為自体を処罰しないとしながら、敢てこれをあおつた者を処罰すると規定しているのであるから、違法性の強いもの、ないし刑事罰をもつてのぞむべき違法性のある争議行為をあおつた場合に限り、あおり行為を処罰する趣旨と解することは、ことさらに明文に反する解釈であるからである。
それ故、「あおり」の罪が成立するためには、その「あおり」の対象となつた争議行為自体の正当性の有無を論ずる余地はなく、したがつて、その争議行為が例えば政治的目的のために行なわれたものであるか否かという如きことは、同罪の成否になんら影響を及ぼすものではないというべきである。しかも、もともと法律上争議権を否定された公務員が、「正当な争議行為」をすることができないのは当然であるから、国家公務員法附則一六条、地方公務員法五八条の規定をまつまでもなく、争議行為として「正当なもの」について、刑事免責を規定した労働組合法一条二項の規定が公務員の争議行為に適用の余地のないことは明白であつて、この点からいつても、「あおり」の対象となつた争議行為自体の正当性ないし刑事罰をもつてのぞむべき違法性の有無を論ずることは理由がないといわなければならない。
また、争議には、企画、共謀、指令、伝達等は、通常、一般的に随伴し、争議と不可分の関係にあるものであつて、組合構成員は当然これに干与するのであるから、これを処罰することは、争議行為を処罰することになるから、組合構成員の「あおり」行為は除外すべきであるとの解釈論も是認することはできない。けだし、国家公務員法九八条五項後段、一一〇条一項一七号、、地方公務員法三七条一項後段、六一条四号は、「何人も」および「何人たるを問わず」あおり行為をした者を処罰する旨を明定しており、あおつた者が組合構成員であると、組合構成員以外の第三者であると、また組合構成員がそれ以外の第三者と共謀した場合であるとを問わず、また争議に当然随伴し、これと不可分の関係において為した者であると否とを問わず、等しく処罰する趣旨であることが明白であるからである。
これを要するに、「あおり」の概念を、強度の違法性を帯びるものに限定したり、「あおり」行為者のうち、組合構成員と組合外部の者とを区別し、外部の者の行為若しくはこれと共謀した者の行為のみが処罰の対象となると解したり、または「あおり」の対象となつた争議行為が違法性の強いもの、ないし刑事罰をもつてのぞむべき違法性のあるものである場合に限り、その「あおり」行為が可罰性を帯びるのであるというが如き限定解釈は、法の明文に反する一種の立法であり、法解釈の域を逸脱したものといわざるを得ない。
二、以上の見解に立つて本件を見るに、被告人ら(Aを除く。)の本件行為(第一審判決判示第一後段のいわゆる「間接あおり」の部分を除く。)が国公法一一〇条一項一七号の「あおり」行為に当たることは明らかであつて、被告人らの右行為につき同号を適用処断した原判決は、結論において正当である。

+反対意見
裁判官色川幸太郎の反対意見は、次のとおりである。
一、本件においては、「争議行為」の遂行をあおつたことが問題とされているのであるが、原審判決は、「争議行為」とは、「公務員の団体行動として、当局側の管理意思に反し、国の業務の正常な運営を阻害するが如き行為」であるとなし、本件職場大会を以て、安保改定阻止運動の一還たる抗議集会であると認定しながら、「いわゆる政治ストと呼ばれる争議」もまた国家公務員法(昭和四〇年法律第六九号による改正前のもの。以下国公法という。)九八条五項の禁止の対象になると断定した。その理由として述べるところは、同項は「国民全体の奉仕者である国家公務員が責務を懈怠し、国民との間の信託関係に背くような危険を防止するにある」からというのである。そうだとすれば、何故に団体行動でなければ禁止の対象にならないのかが理解しにくいのであるが、それはとにかく、業務の放棄それ自体が目的といえば目的で、何らか別段の要求貫徹の手段としてなされるものでない、享楽等のための集団職場離脱(これこそ国民の信託に背く職務懈怠の最たるものであろう。)の如きも、原判決の定義によれば「争議行為」に含まれることにならざるを得ない。いやしくも刑罰法規の解釈である以上、およそ上述の如き明確性を欠いた、漠然たる定義づけは許されないと考えるのであるが、いずれにしても、かかる解釈をとることができない所以は以下述べるところで明らかになるであろう。多数意見は、その定義づけを容認し、国公法九八条五項の「争議行為」には政治目的のためのものをも含むと即断して、被告人らの所為に対する同法一一〇条一項一七号の適用を是認しているのであつて、私のとうてい賛成し能わざるところである。
二、国公法は、「争議行為」の意義について何ら規定していないのであるが、私は、それを労働関係調整法(以下労調法という。)七条に求むべきものであると考える。「争議行為」という用語は、「同盟罷業」や「怠業」などと異なり、戦後の立法においてはじめて使われたものであつて、従前より慣用されてきた日常語ではなく、純然たる法律上の技術的なことばである。したがつて、その意義如何は、何よりもまず法令に解釈の根拠を求めるべきものであろう。ところで、現行法で「争議行為」なる用語を用いているのは、上述の国公法及び労調法のほか船員法(三〇条)、公共企業体等労働関係法(一七条)、労働組合法(八条)、地方公務員法(三七条)、電気事業及び石炭鉱業における争議行為の方法の規制に関する法律(二条、三条)及び自衛隊法(六四条)であるが、労調法を除けば、しかもその半ば以上は刑事制裁を伴う争議行為の禁止法であるにもかかわらず、「争議行為」とは何であるかについての定義規定を全く欠いている(ただし船員法のみは「労働関係に関する争議行為」と規定して「争議行為」の一応の枠を明らかにしている。これは昭和一二年法律第七九号の旧船員法において、同法六〇条が「左ノ各号ノ一に該当スル場合ニ於テ船員カ労働争議ニ関シテ労務ヲ中止シ又ハ作業ノ進行ヲ阻害シタルトキハ年以下ノ懲役又ハ五百円以下ノ罰金ニ処ス」としていたところをうけたものであろう。船員法を除くその余の前記の法律が「争議行為」について上述のような限定をしていないことは、これらの立法の趣旨に鑑み、かつ対象を共通にすることを考慮するならば、反対解釈を許すものではなく、逆に類推を強く要請するものと解するのが相当である。)ことは、看過されてはならない事実である。労調法が公布されたのは昭和二一年九月二七日でありその余の前記の法律の制定公布はことごとくこれにおくれている(右の列挙は公布の順序によつた。船員法の公布は昭和二二年九月一日である。)のであるし、労調法をもつていわゆる労働三法の一とよぶかどうかは問題であるとしても、労働組合法と同様、集団的労働関係を規整せんとする基本的な法律であることには間違いないのであるから、これら爾後の立法における「争議行為」なる用語の意義は、大筋においては労調法の定義規定を踏襲したものと解さざるを得ないのである。
もつとも、説をなす者は、労調法七条をもつて、労働委員会が労働争議の調整に乗り出す前提条件として規定したに過ぎないものとなし、この定義は、調整と無関係な他の法律には適切でなく、公務員沫等の各種の法律における「争議行為」をしかく限定的に解すべきではないという。論者のいう如く、元来、労使の紛争は、自主的な解決を建て前とするのであつて、労働委員会が、過早に介入することは妥当を欠くが故に、いかなる場合にこれらの機関が調整活動を開始すべきかを規制する、いわば一種の歯止めがなければならない。そこで、調整をなすためには労使の紛争が争議状態にまでなつたことを必要とするというのが七条であつて、その点が同条の立法目的の一つであることは争のないところであろう。しかし、これは楯の反面なのである。立法当初における労調法の構成を見ると、労働関係調整法というその名称にもかかわらず、単に労働争議の調整に関する法律であるにとどまらないことは一目瞭然たるものがある。労調法は、まさに労働争議の調整手続(二章乃至四章)及びそれに附帯する争議行為届出義務の設定(九条)、争議行為の保障(旧四一条)並びに争議行為の制限禁止(三六条、三七条、旧三八条、旧三九条)の三本立てとして発足したのであつた。注目すべきは、次の旧三八条である。
「第三十八条 警察官吏、消防職員、監獄において勤務する者その他国又は公共団体の現業以外の行政又は司法の業務に従事する官吏その他の者は、争議行為をなすことはできない。」そして、右規定に違反した場合の制裁として、当該団体及びその役員に総額一万円の罰金が課せられることになつていた(旧三九条)。かくの如くにして、それまで争議行為を自由になし得た官公吏も、現業職員を除き、その行動を大幅に制約されることになつた次第である。
右法条は、後に述べるような経緯で昭和二四年法律第一七五号により削除せられ同法三八条はしばらく空欄となつていたが、その後、昭和二七年法律第二八八号を以て緊急調整制度が設けられたときに現に見る如く追加されたので、今は全く旧態をとどめていない。しかし、現行法の構成を見ても、同法はひとり労働争議の調整手続を規定するだけでなく、第五章ではいまなお争議行為の制限禁止を規定しているのである。かくして、同法七条の「争議行為」の定義は、六条にいう「労働争議」(これこそ調整の前提条件を定めるものである。)の基底たる観念を明らかにするとともに、制限禁止の対象たる行為の限界を劃するという意味を、当初より今日まで持ちつづけているわけである。
三、ところで、労調法七条の定義は、国公法九八条にいう「争議行為」といかなる関係にあるのであろうか。これを知るためには、立法の沿革と変遷をたずねなければならない。労調法は、前述のとおり、公務員の争議行為を禁圧する戦後最初の立法である。しかし、旧三九条の規定した違反に対する処罰はほとんど名目にすぎなかつたばかりでなく、尨大な数にのぼる国鉄、郵政その他の現業公務員(その組織する組合こそ全日本の労働組合運動において中核的な存在であつた。)は、すべて旧三八条による規制の時外にあつた。なお、国家公務員法(昭和二二年法律第一二〇号)は、もとより争議行為について全然ふれるところがなかつたのである。当時の客観的諸情勢を見ると、破壊的な悪性インフレはとめどもなく昂進し、それに刺戟せられた労働運動はいよいよ激しさを加え、昭和二三年七月ごろには五二〇〇円給与ベースをめぐる全官公労組と政府との激突となり、同年八月初旬を期しての官公吏を中心とした未曾有の規模のストアフイキはもはや避けられないという緊迫した情勢になつた。この空前の争議行為を未前に防遏するために発せられたのが、芦田内閣総理大臣に対する同年七月二二日付マッカーテー連合国最高司令官書簡である。この書簡中、本件に関係する個所(これが書簡の主要な部分をなしている。)は、要するに、公務員の性格を論じてそれと私企業従事者との間の顕著な差異を指摘し、それであるが故に、公務員は、私企業において認められているような団体交渉の手段を採ることができないとし、さらに進んで、公務員は、公共の信託に対し無条件な忠誠義務があるのであるから、要求を通すための、政府の運営を妨害する意図を示すような争議行為は、公務員にはとうてい許し難いと論断したのち、国家公務員法はかかる考え方に適合した方向へ全面的に改正する必要があり、日本政府はその作業に即刻着手するべきである旨を示唆したものであつた。これに聴従した政府は、さしあたり、国公法の全面改正にいたるつなぎとして、同月三一日、政令第二〇一号を以て「昭和二三年七月ニ二日附内閣総理大臣宛連合国最高司令官書簡に基く臨時措置に関する政令」(以下政令二〇一号という。)を公布、即日施行した。その内容は三カ条から成るが、一条は、国又は地方公共団体の職員の地位にあるすべての公務員は、争議行為を裏付けとする団体交渉の権利を有しないこと、従前の協約は失効すること、また、労働委員会は、公務員と国等の間における労働争議についてはこれを処理する権限を失い、爾後臨時人事委員会のみが公務員の利益を保護する機関になることなどを定め、二条は、争議権を一切否定し、三条は、前条に違反した場合の罰則を規定したものである。以上の如くであつて、この政令による争議権の否定は、団体交渉権(いうまでもなくこれは使用者を相手方とするものである。)の否定と離れ難くからみあつていることが注目される。要するに、マッカーサー書簡」おける禁圧の要請も、この政令二〇一号による禁止も、団体交渉と密着した、すなわち、被用者対使用者との関係における争議行為を否定したものであり、団体交渉と無関係な業務阻害行為一般を目ざしたものでないと解することができる。換言すれば、公務員について憲法二八条の保障を大幅に取り除いたものなのである。このことは、基本権制限の代償として臨時人事委員会をあげていることからも推察するに難くはあるまい。何となれば、右機関は、後の人事院であつて、現在の人事院と同様、給与その他の勤務条件の改善、その他人事行政の公正確保及び職員の利益の保護に当ることをその目的とし、政治上の要求の調整や社会生活における不平不満の解消などは、およそその任でなかつたからである。
ところで、同年一一月には、総司令部の強い示唆の下に作成された国公法の改正案が国会に上程せられ、同年一二月その成立を見た。争議行為禁止に関する部分については、関係委員会においても突込んだ審議がなされることなく、無修正で国会を通過し、昭和四〇年法律第六九号による改正前の国公法九八条及び一一〇条一項一七号の制定となり、同時に労調法旧三八条は国家公務員に対してはその適用が除外された。つづいて同条は、労調法の第一次改正(昭和二四年六月一〇日)の際に削除せられ、ここに旧三八条は、国公法九八条、一一〇条一項一七号として生れ変つたのである。
以上の沿革に徴すると、国公法九八条にいう「争議行為」の意義は、まさに労調法七条に定めるところと何の差異もないと解すべきものと考えるのである。
四、労調法七条は、「この法律において争議行為とは、同盟罷業、怠業、作業所閉鎖その他労働関係の当事者が、その主張を貫徹することを目的として行う行為及びこれに対抗する行為であつて、業務の正常な運営を阻害する行為をいう」と規定する。これによれば、「争議行為」とよばれるのは、(イ)労働関係の当事者の、(ロ)ぞの主張を貫徹することを目的とする行為であつて、(ハ)その態様が業務の正常な運営を阻害する程度のものでなければならない。いま本件に即して考えると、およそ次のとおりである。
第一に、「争議行為」は、労働関係の当事者としての立場における行為である。当事者とは、労調法の立法趣旨からいつて、集団的労働関係の場におけるものをさし、個々の労使関係を意味するものではない。個人としての労働者がなす業務阻害行為は、争議行為として扱う限りではないのである。また、労働者は、使用者に対する関係で被用者であるとともに一個の市民もしくは国民であつて、その団体は、一面においては市民もしくは国民の集合体であるから、使用者との対抗・角逐とはかかわりのない、市民もしくは国民としての立場における行動(社会活動または政治活動)に出ることはもとより妨げないし、また事実しばしば行われているわけである。しかし、これは労働関係の当事者としての行動ではない。公務員及びその団体についても事は全く同様であつて、一面においては労働関係の当事者であるが、他面においては市民もしくは国民であり、そしてその集合体なのである。これとまさに対応した関係において、政府も一面においては労働関係上の使用者であり、他面においては主権を行使する国家の機関として現われる。使用者としての政府は、私企業における使用者と本質的に異なるところはないのであるから、公務員の団体による対抗を承認し、これと対等の立場で交渉することが要請されるのである。政府の有するこの二面性については、つとに指摘されているところであつて、疑問の余地はないであろう。公務員は、被用者としては、使用者たる政府と相見えるのであつて、被治者対治者の関係においてではない。公務員が団体として政府に立ち向う行動は、これを大別すると、(イ)労働関係を前提とした要求貫徹のための行動、(ロ)国民の立場で政策の変更を迫り或は施策に反対する行動、(ハ)掲ぐべき要求のない、職務懈怠そのものとしての集団的な職場離脱その他の行動、以上三つが考えられるわけであるが、国公法九八条五項にいう法律用語としての「争議行為」は、そのうちの(イ)に限られるのである。(国公法九八条五項は、争議行為の禁止とともに「政府の活動能率を低下させる怠業的行為」の禁止を規定している。条文の表現だけからすると、争議行為とは別異の怠業的行為なる類型を設けたかの如くであるが、立法の理由を按じ、また事実上の根拠となつたマッカーサー書簡と照合するならば、この規定は、当時官公労組の採つた戦術である定時退庁、一斉賜暇等、一見合法的ないわゆる遵法闘争を封殺せんとして念のために設けられたに過ぎないのであつて、そうである以上、これまた上記(イ)に属する争議行為の一種にほかならない。)
五、第二に、争議行為とは、主張の貫徹を目的とした行為(労調法七条にいう「対抗する行為」も、大づかみにいえば、ここにいう主張の貫徹に含まれるであろう。)である。主張貫徹の可能性の有無を問わないから、反対のための単なる示威であつても、主張の貫徹のためになされた行為で正常な業務の運営を阻害するものである限り、争議行為たるを妨げない。次に、その主張するところが労働関係上のものであることを要するか、それとも何らの限定もないのかについては問題のあるところであり、同法六条との対比から後者だとする見解もあるが、七条が、前述のように、争議調整の前提条件たる「労働争議」とは何であるかを明らかにするための定義規定をもかねていること、そしてまた、「争議行為」が労働関係の当事者たる立場においての行為でなければならないことなどを考慮するならば、これを労働関係上の要求に限ると解すべきであろう。そうだとすれば、国民の立場において政府の施策に反対し又はその政策の変更を強いるためのいわゆる政治ストは、国公法九八条五項にいう法律用語としての「争議行為」には含まれないものといわなければならない。本件の職場大会は、約七〇名にものぼる多数の裁判所職員の参加の下に、午前八時三〇分より九時三〇分までの間、勤務時間に食いこんで開催されたものだというのであるから、裁判所の正常な業務の運営を阻害したことは否定できないのであるが、その標榜したところは、新安保条約に対する抗議意思の表明であり、主権の行使者としての政府に向けた行動であつて、使用者としての政府を名宛人とするものではなかつたのである。そしてまた、その主張するところが労働関係上の、例えば勤務条件等に関するものでなかつたことは一点の疑もないのであるから、前述したところにより、これが「争議行為」に当たるものでないことは多言を要しない。かかる行動に対しては、他の法条による規制はあり得るとしても、国公法一一〇条一項一七号を以て問擬すべき限りではないのである。
六、元来、公務員は、憲法二八条にいう動労者であり、原則的には同条の保障を受けるきものであるが(昭和三九年(あ)第二九六号同四一年一〇月二六日大法廷判決、刑集二〇巻八号九〇一頁、以下全逓中郵事件判決という。)、憲法二八条の法意とするところは、「企業者対動労者すなわち使用者対被使用者というような関係に立つ者の間において、経済上の弱者である動労者のために団結権乃至団体行動権を保障したもの」(昭和二二年(れ)第三一九号同二四年五月一八日大法廷判決、刑集三巻六号七七二頁)であつて、この「狙いは、憲法二五条に定めるいわゆる生存権の保障を基本理念とし、動労者に対して人間に値する生存を保障すべきものとする見地に立ち、……経済上劣位に立つ動労者に対して実質的な自由と平等とを確保する手段として、その団結権、団体交渉権、争議権を保障しようとするものである」(全逓中郵事件判決九〇五頁)。而して、憲法によるこの労働基本権の保障は、労働組合法によつて具体化されているのであるが、同法の目的とするところは、労働者が使用者との交渉において対等の立場に立つことができるように団結を擁護し(同法一条一項前段)、団体交渉及び団体行動を保護助成する(同項後段)ことにあり、労働者乃至その団体に対し、使用者との関係を捨象した、対国家、対社会の面において、一般国民乃至その団体と別異の特権的な処遇を与えようとするものではない。労働組合法の擁護する団結権は、同法一条一項に示すところのものであり、その保護する団体行動は、同項に規定する範囲に限局されるのである。労働組合に政治活動の自由のあることはいうまでもないし(昭和三八年(あ)九七四号同四三年一二月四日大法廷判決、裁判所時報五一一号二頁参照)、労働組合の政治活動が刑事法上当然に違法と評価さるべき何らの理由もないけれども、労働組合法は、労働組合の一般政治活動については、労使の経済上の取引とは没交渉である限り、保護も与えず、禁止もなさず、いわば黙して語らないのである(二条四号は、いかなる団体を同法上労働組合として取扱うかという見地にたつて、その資格要件を定めたに過ぎない。)。
ところで、労調法旧三八条は、旧労働組合法(同法は、公務員の労働基本権を原則的には保護していたのである。)の規定にもかかわらず、現業を除く官公吏の争議権に重大な制約を加えたものであるから、同法条は、旧労働組合法の特別法たる性質を有するわけである。けだし、これらの公務員は、使用者との関係において団結権、団体交渉権及び争議権の保護を受けていたところ、そのうちの争議権についてこれを禁圧せられるにいたつたのであるから、その対象たる争議権とは、憲法二八条にいうところのものにほかならず、すなわち使用者との関係において争議行為をなすところの権利であることはむしろ自明というべきであるからである。要するにいかなる意味においても、それ以外の面における団体行動を規制するものではないとしなければならない。而して、さきに述べた沿革からいつて、国公法九八条は、労調法旧三八条を換骨奪胎したものというべきであるから、国公法九八条は、まさに労働組合法の特別法たる関係となり、同条がおよそ政治活動の制約を目ざしたものでないことに、たやすく想到し得る筈なのである。
七、これを当該法条の表現に徴すると、同条には、「職員は、政府が代表する使用者としての公衆に対して……争議行為をなし又は……怠業的行為をしてはならない」云々とある。公衆が言葉の本来の意味において使用者であるかどうかはともかく、およそ「争議行為」が使用者に向けてなされるものであるとしていることは、これを通じて看取するに十分である。もとより「公衆」は組織されているわけではないから、「公衆」と公務員との間に法律関係が成立するに由がなく、労働関係は任命権者を通じて政府との間に生ずるわけであつて、使用者としての「公衆」というのは、主権が国民に存し、一切の公権力は国民に由来するという象徴的意味でしかあるまい。それはそれとして、同条にいう「争議行為」が使用者としての政府を名宛人にしていること、その点で労調法七条と符節を合するもののあることに留意さるべきである。いうまでもなく、使用者とは、労働契約の当事者として、労働者を雇用する地位にあるものの謂であり、主権の行使者としての政府とは全然別の概念である。労働関係とは無関係の、例えば政治的な要求を掲げての統一行動は、それが正常な業務を阻害するものであつても、後者の意味においての政府に挑戦するものにほかならず、国公法九八条の関知するところでないことはいよいよ以て明らかであると信ずる。
八、本件職場大会は、新安保条約に反対する純然たる政治活動である。「ストライキ」という言葉は日常的な慣用語であるから、これを政治ストとよぶことは自由であるが、それは学生の安保反対のための一斉休学をストライキとよぶことと多く異なるところはないのであつて、国公法九八条にいう「同盗罷業」は、これと厳密に区別されなければならない。けだし、同条の「同盟罷業」は、同条にいう「争議行為」の下位概念であり、上述した「争議行為」の定義はすべて「同盟罷業」に当てはめられなければならないからである。
ところで、前示全逓中郵事件判決は、公共企業体等労働関係法一七条一項に違反した争議行為であつても、それが労組法一条一項の目的を達成するためのものであり、かつ単なる罷業または怠業等の不作為が存在するにとどまり、暴力の行使その他の不当性を伴わない場合には、刑事制裁の対象とはならないが、「もし争議行為が労組法一条一項の目的のためではなくして政治的目的のために行われた場合」等においては、「争議行為としての限界性をこえるもので、刑事制裁を免れない」と説示している。人あるいはこれを目して、当裁判所は一般的に公務員等によるいわゆる政治ストの可罰性を認めたものとするかも知れない。しかし、全逓中郵事件は、公共企業体等労働関係法(これは、いうまでもなく、争議行為に対する刑罰規定をもたない。)の適用下にある郵政職員について、郵便法の罰則規定である同法七九条一項の適用があるか否かを論じたものに過ぎず、さらに進んで、一般に、公共企業体等の職員によるいわゆる政治ストが刑罰の対象となるかどうかは右の事件では全く問題外であつたのである。のみならず、いわゆる政治ストが国公法九八条にいう「争議行為」でないことは、既に論じたとおりであるから、国家公務員による政治的目的のための本件行為が可罰的であるかどうかは、国公法一一〇条一項一七号違反として起訴された本件においては、全く問題にならないのである。(この点については、憲法一五条二項に定める公務員の中立性と憲法二一条による市民としての表現の自由との関連において、国公法一〇二条、一一〇条一項一九号及び人事院規則一四―七の合憲性もしくはその適用の範囲が判断されなければならないのであるが、それは別途検討さるべきものであつて、今これを論ずる限りではない。)
以上要するに、国公法九八条の「争議行為」に属しない本件職場大会のあおり行為に対し、同法一一〇条一項一七号の適用を是認した原審判決には、法律の解釈を誤つた違法があり、破棄をまぬかれない。

・都教組事件は、地方公務員についていわゆる「二重の絞り論」を採用し、同日の判決(全司法仙台事件)は、国家公務員についても同様の判断を下した。
しかし、全農林警職法事件は、全司法仙台事件判決を変更し、あおり行為等処罰規定を全面的に合憲とした!!!

+判例(S48.4.25)全農林警職法事件
理由
弁護人佐藤義弥ほか三名連名の上告趣意第一点、第三点、第五点について。
所論は、原判決が国家公務員法(昭和四〇年法律第六九号による改正前のもの。以下、国公法という。)九八条五項および一一〇条一項一七号の各規定を憲法二八条に違反しないものと判断し、また、国公法一一〇条一項一七号を憲法二一条、一八条に違反しないものとして、これを適用したのは、憲法の右各条項に違反する旨を主張する。

一 よつて考えるに、憲法二八条は、「勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利」、すなわちいわゆる労働基本権を保障している。この労働基本権の保障は、憲法二五条のいわゆる生存権の保障を基本理念とし、憲法二七条の勤労の権利および勤労条件に関する基準の法定の保障と相まつて勤労者の経済的地位の向上を目的とするものである。このような労働基本権の根本精神に即して考えると、公務員は、私企業の労働者とは異なり、使用者との合意によつて賃金その他の労働条件が決定される立場にないとはいえ、動労者として、自己の労務を提供することにより生活の資を得ているものである点において一般の勤労者と異なるところはないから、憲法二八条の労働基本権の保障は公務員に対しても及ぶものと解すべきである。ただ、この労働基本権は、右のように、勤労者の経済的地位の向上のための手段として認められたものであつて、それ自体が目的とされる絶対的なものではないから、おのずから勤労者を含めた国民全体の共同利益の見地からする制約を免れないものであり、このことは、憲法一三条の規定の趣旨に徴しても疑いのないところである(この場合、憲法一三条にいう「公共の福祉」とは、勤労者たる地位にあるすべての者を包摂した国民全体の共同の利益を指すものということができよう。)。以下、この理を、さしあたり、本件において問題となつている非現業の国家公務員(非現業の国家公務員を以下単に公務員という。)について詳述すれば、次のとおりである。

(一) 公務員は、私企業の労働者と異なり、国民の信託に基づいて国政を担当する政府により任命されるものであるが、憲法一五条の示すとおり、実質的には、その使用者は国民全体であり、公務員の労務提供義務は国民全体に対して負うものである。もとよりこのことだけの理由から公務員に対して団結権をはじめその他一切の労働基本権を否定することは許されないのであるが、公務員の地位の特殊性と職務の公共性にかんがみるときは、これを根拠として公務員の労働基本権に対し必要やむをえない限度の制限を加えることは、十分合理的な理由があるというべきである。
けだし、公務員は、公共の利益のために勤務するものであり、公務の円滑な運営のためには、その担当する職務内容の別なく、それぞれの職場においてその職責を果すことが必要不可缺であつて、公務員が争議行為に及ぶことは、その地位の特殊性および職務の公共性と相容れないばかりでなく、多かれ少なかれ公務の停廃をもたらし、その停廃は勤労者を含めた国民全体の共同利益に重大な影響を及ぼすか、またはその虞れがあるからである。
次に公務員の勤務条件の決定については、私企業における勤労者と異なるものがあることを看過することはできない。すなわち利潤追求が原則として自由とされる私企業においては、労働者側の利潤の分配要求の自由も当然に是認せられ、団体を結成して使用者と対等の立場において団体交渉をなし、賃金その他の労働条件を集団的に決定して協約を結び、もし交渉が妥結しないときは同盟罷業等を行なつて解決を図るという憲法二八条の保障する労働基本権の行使が何らの制約なく許されるのを原則としている。これに反し、公務員の場合は、その給与の財源は国の財政とも関連して主として税収によつて賄われ、私企業における労働者の利潤の分配要求のごときものとは全く異なり、その勤務条件はすべて政治的、財政的、社会的その他諸般の合理的な配慮により適当に決定されなければならず、しかもその決定は民主国家のルールに従い、立法府において論議のうえなされるべきもので、同盟罷業等争議行為の圧力による強制を容認する余地は全く存しないのである。これを法制に即して見るに、公務員については、憲法自体がその七三条四号において「法律の定める基準に従ひ、官吏に関する事務を掌理写ること」は内閣の事務であると定め、その給与は法律により定められる給与準則に基づいてなされることを要し、これに基づかずにはいかなる金銭または有価物も支給することはできないとされており(国公法六三条一項参照)、このように公務員の給与をはじめ、その他の勤務条件は、私企業の場合のごとく労使間の自由な交渉に基づく合意によつて定められるものではなく、原則として、国民の代表者により構成される国会の制定した法律、予算によつて定められることとなつているのである。その場合、使用者としての政府にいかなる範囲の決定権を委任するかは、まさに国会みずからが立法をもつて定めるべき労働政策の問題である。したがつて、これら公務員の勤務条件の決定に関し、政府が国会から適法な委任を受けていない事項について、公務員が政府に対し争議行為を行なうことは、的はずれであつて正常なものとはいいがたくもしこのような制度上の制約にもかかわらず公務員による争議行為が行なわれるならば、使用者としての政府によつては解決できない立法問題に逢着せざるをえないこととなり、ひいては民主的に行なわれるべき公務員の勤務条件決定の手続過程を歪曲することともなつて、憲法の基本原則である議会制民主主義(憲法四一条、八三条等参照)に背馳し、国会の議決権を侵す虞れすらなしとしないのである。
さらに、私企業の場合と対比すると、私企業においては、極めて公益性の強い特殊のものを除き、一般に使用者にはいわゆる作業所閉鎖(ロツクアウト)をもつて争議行為に対抗する手段があるばかりでなく、労働者の過大な要求を容れることは、企業の経営を悪化させ、企業そのものの存立を危殆ならしめ、ひいては労働者自身の失業を招くという重大な結果をもたらすことともなるのであるから、労働者の要求はおのずからその面よりの制約を免れず、ここにも私企業の労働者の争議行為と公務員のそれとを一律同様に考えることのできない理由の一が存するのである。また、一般の私企業においては、その提供する製品または役務に対する需給につき、市場からの圧力を受けざるをえない関係上、争議行為に対しても、いわゆる市場の抑制力が働くことを必然とするのに反し、公務員の場合には、そのような市場の機能が作用する余地がないため、公務員の争議行為は場合によつては一方的に強力な圧力となり、この面からも公務員の勤務条件決定の手続をゆがめることとなるのである。
なお付言するに、労働関係における公務員の地位の特殊性は、国際的にも一般に是認されているところであつて、現に、わが国もすでに批准している国際労働機構(ILO)の「団結権及び団体交渉権についての原則の適用に関する条約」(いわゆるILO九八号条約)六条は、「この条約は、公務員の地位を取り扱うものではなく、また、その権利又は分限に影響を及ぼすものと解してはならない。」と規定して、公務員の地位の特殊性を認めており、またストライキの禁止に関する幾多の案件を審議した、同機構の結社の自由委員会は、国家公務員について「大多数の国において法定の勤務条件を享有する公務員は、その雇用を規制する立法の通常の条件として、ストライキ権を禁止されており、この問題についてさらに審査する理由がない。」とし(たとえば、六〇号事件)、わが国を含む多数の国の労働団体から提訴された案件について、この原則を確認しているのである。
以上のように、公務員の争議行為は、公務員の地位の特殊性と勤労者を含めた国民全体の共同利益の保障という見地から、一般私企業におけるとは異なる制約に服すべきものとなしうることは当然であり、また、このことは、国際的視野に立つても肯定されているところなのである。

(二) しかしながら、前述のように、公務員についても憲法によつてその労働基本権が保障される以上、この保障と国民全体の共同利益の擁護との間に均衡が保たれることを必要とすることは、憲法の趣意であると解されるのであるから、その労働基本権を制限するにあたつては、これに代わる相応の措置が講じられなければならない。そこで、わが法制上の公務員の勤務関係における具体的措置が果して憲法の要請に添うものかどうかについて検討を加えてみるに、(イ)公務員たる職員は、後記のように法定の勤務条件を享受し、かつ、法律等による身分保障を受けながらも、特殊の公務員を除き、一般に、その勤務条件の維持改善を図ることを目的として職員団体を結成すること、結成された職員団体に加入し、または加入しないことの自由を保有し(国公法九八条二項、前記改正後の国家公務員法(以下、単に改正国公法という。)一〇八条の二第三項)、さらに、当局は、登録された職員団体から職員の給与、勤務時間その他の勤務条件に関し、およびこれに付帯して一定の事項に関し、交渉の申入れを受けた場合には、これに応ずべき地位に立つ(国公法九八条二項、改正国公法一〇八条の五第一項)ものとされているのであるから、私企業におけるような団体協約を締結する権利は認められないとはいえ、原則的にはいわゆる交渉権が認められており、しかも職員は、右のように、職員団体の構成員であること、これを結成しようとしたこと、もしくはこれに加入しようとしたことはもとより、その職員団体における正当な行為をしたことのために当局から不利益な取扱いを受けることがなく(国公法九八条三項、改正国公法一〇八条の七)、また、職員は、職員団体に属していないという理由で、交渉事項に関して不満を表明し、あるいは意見を申し出る自由を否定されないこととされている(国公法九八条二項、改正国公法一〇八条の五第九項)。ただ、職員は、前記のように、その地位の特殊性と職務の公共性とにかんがみ、国公法九八条五項(改正国公法九八条二項)により、政府が代表する使用者としての公衆に対して同盟罷業、怠業その他の争議行為または政府の活動能率を低下させる怠業的行為をすることを禁止され、また、何人たるを問わず、かかる違法な行為を企て、その遂行を共謀し、そそのかし、もしくはあおつてはならないとされている。そしてこの禁止規定に違反した職員は、国に対し国公法その他に基づいて保有する任命または雇用上の権利を主張できないなど行政上の不利益を受けるのを免れない(国公法九八条六項、改正国公法九八条三項)。しかし、その中でも、単にかかる争議行為に参加したにすぎない職員については罰則はなく、争議行為の遂行を共謀し、そそのかし、もしくはあおり、またはこれらの行為を企てた者についてだけ罰則が設けられているのにとどまるのである(国公法、改正国公法各一一〇条一項一七号)。
以上の関係法規から見ると、労働基本権につき前記のような当然の制約を受ける公務員に対しても、法は、国民全体の共同利益を維持増進することとの均衡を考慮しつつ、その労働基本権を尊重し、これに対する制約、とくに罰則を設けることを、最少限度にとどめようとしている態度をとつているものと解することができる。そして、この趣旨は、いわゆる全逓中郵事件判決の多数意見においても指摘されたところである(昭和三九年(あ)第二九六号同四一年一〇月二六日大法廷判決・刑集二〇巻八号九一二頁参照)。

(ロ) このように、その争議行為等が、勤労者をも含めた国民全体の共同利益の保障という見地から制約を受ける公務員に対しても、その生存権保障の趣旨から、法は、これらの制約に見合う代償措置として身分、任免、服務、給与その他に関する勤務条件についての周到詳密な規定を設けさらに中央人事行政機関として準司法機関的性格をもつ人事院を設けている。ことに公務員は、法律によつて定められる給与準則に基づいて給与を受け、その給与準則には俸給表のほか法定の事項が規定される等、いわゆる法定された勤務条件を享有しているのであつて、人事院は、公務員の給与、勤務時間その他の勤務条件について、いわゆる情勢適応の原則により、国会および内閣に対し勧告または報告を義務づけられている。そして、公務員たる職員は、個別的にまたは職員団体を通じて俸給、給料その他の勤務条件に関し、人事院に対しいわゆる行政措置要求をし、あるいはまた、もし不利益な処分を受けたときは、人事院に対し審査請求をする途も開かれているのである。このように、公務員は、労働基本権に対する制限の代償として、制度上整備された生存権擁護のための関連措置による保障を受けているのである

(三) 以上に説明したとおり、公務員の従事する職務には公共性がある一方、法律によりその主要な勤務条件が定められ、身分が保障されているほか、適切な代償措置が講じられているのであるから、国公法九八条五項がかかる公務員の争議行為およびそのあおり行為等を禁止するのは、勤労者をも含めた国民全体の共同利益の見地からするやむをえない制約というべきであつて、憲法二八条に違反するものではないといわなければならない。

二 次に、国公法一一〇条一項一七号は、公務員の争議行為による業務の停廃が広く国民全体の共同利益に重大な障害をもたらす虞れのあることを考慮し、公務員たると否とを問わず、何人であつてもかかる違法な争議行為の原動力または支柱としての役割を演じた場合については、そのことを理由として罰則を規定しているのである。すなわち、前述のように、公務員の争議行為の禁止は、憲法に違反することはないのであるから、何人であつても、この禁止を侵す違法な争議行為をあおる等の行為をする者は、違法な争議行為に対する原動力を与える者として、単なる争議参加者にくらべて社会的責任が重いのであり、また争議行為の開始ないしはその遂行の原因を作るものであるから、かかるあおり等の行為者の責任を問い、かつ、違法な争議行為の防邊を図るため、その者に対しとくに処罰の必要性を認めて罰則を設けることは、十分に合理性があるものということができる。したがつて、国公法一一〇条一項一七号は、憲法一八条、憲法二八条に違反するものとはとうてい考えることができない。

三 さらに、憲法二一条との関係を見るに、原判決が罪となるべき事実として確定したところによれば、被告人らは、いずれも農林省職員をもつて組織するa労働組合の役員であつたところ、昭和三三年一〇月八日内閣が警察官職務執行法(以下、警職法という)の一部を改正する法律案を衆議院に提出するや、これに反対する第四次統一行動の一環として、原判示第一の所為のほか、同第二のとおり、同年一一月五日午前九時ころから同一一時四〇分ころまでの間、農林省の職員に対し、同省正面玄関前の「警職法改悪反対」職場大会に参加するよう説得、慫慂したというのであるから、被告人らの所為ならびにそのあおつた争議行為すなわち農林省職員の職場離脱による右職場大会は、警職法改正反対という政治的目的のためになされたものというべきである。
ところで、憲法二一条の保障する表現の自由といえども、もともと国民の無制約な恐恣のままに許されるものではなく、公共の福祉に反する場合には合理的な制限を加えうるものと解すべきところ(昭和二三年(れ)第一三〇八号同二四年五月一八日大法廷判決・刑集三巻六号八三九頁、昭和二四年(れ)第四九八号同二七年一月九日大法廷判決・刑集六巻一号四頁、昭和二六年(あ)第三八七五号同三〇年一一月三〇日大法廷判決・刑集九巻一二号二五四五頁、昭和三七年(あ)第八九九号同三九年一一月一八日大法廷判決・刑集一八巻九号五六一頁、昭和三九年(あ)第三〇五号同四四年一〇月一五日大法廷判決、刑集二三巻一〇号一二三九頁、昭和四二年(あ)第一六二六号同四五年六月一七日大法廷判決、刑集二四巻六号二八〇頁参照)、とくに動労者なるがゆえに、本来経済的地位向上のための手段として認められた争議行為をその政治的主張貫徹のための手段として使用しうる特権をもつものとはいえないから、かかる争議行為が表現の自由として特別に保障されるということは、本来ありえないものというべきである。そして、前記のように、公務員は、もともと合憲である法律によつて争議行為をすること自体が禁止されているのであるから、勤労者たる公務員は、かかる政治的目的のために争議行為をすることは、二重の意味で許されないものといわなければならない。してみると、このような禁止された公務員の違法な争議行為をあおる等の行為をあえてすることは、それ自体がたとえ思想の表現たるの一面をもつとしても、公共の利益のために勤務する公務員の重大な義務の解怠を懲通するにほかならないのであつて、結局、国民全体の共同利益に重大な障害をもたらす虞れがあるものであり、憲法の保障する言論の自由の限界を逸脱するものというべきである。したがつて、あおり等の行為を処罰すべきものとしている国公法一一〇条一項一七号は、憲法二一条に違反するものということができない。
以上要するに、これらの国公法の各規定自体が違憲であるとする所論は、その理由がなく、したがつて、原判決が国公法の右各規定を本件に適用したことを非難する論旨も、採用することができない。

同第二点について。
所論は、憲法二八条、三一条違反をいうが、原判決に対する具体的論難をなすものではなく、適法な上告理由にあたらない。

同第四点について。
所論は、要するに、国公法一一〇条一項一七号は、その規定する構成要件、とくにあおり行為等の概念が不明確であり、かつ、争議行為の実行が不処罰であるのに、その前段階的行為であるあおり行為等のみを処罰の対象としているのは不合理であるから、憲法三一条に違反し、これを適用した原判決も違法であるというのである
しかしながら、違法な争議行為に対する原動力または支柱となるものとして罰則の対象とされる国公法一一〇条一項一七号所定の各行為のうち、本件において問題となつている「あおり」および「企て」について考えるに、ここに「あおり」とは、国公法九八条五項前段に定める違法行為を実行させる目的をもつて、他人に対し、その行為を実行する決意を生じさせるような、またはすでに生じている決意を助長させるような勢いのある刺激を与えること(昭和三三年(あ)第一四一三号同三七年二月二一日大法廷判決・刑集一六巻二号一〇七頁参照)をいい、また、「企て」とは、右のごとき違法行為の共謀、そそのかし、またはあおり行為の遂行を計画準備することであつて、違法行為発生の危険性が具体的に生じたと認めうる状態に達したものをいうと解するのが相当である(いずれの場合にせよ、単なる機械的労務を提供したにすぎない者、またはこれに類する者は含まれない。)。してみると、国公法一一〇条一項一七号に規定する犯罪構成要件は、所論のように、内容が漠然としているものとはいいがたく、また違法な行為につき、その前段階的行為であるあおり行為等のみを独立犯として処罰することは、前述のとおりこれらの行為が違法行為に原因を与える行為として単なる争議への参加にくらべ社会的責任が重いと見られる以上、決して不合理とはいいがたいから、所論違憲の主張は理由がない
原判決の確定した罪となるべき事実によれば、被告人らは、前記警職法改正に反対する第四次統一行動の一環としてa労働組合会計長ほか同組合中央執行委員多数と共謀のうえ、(一)昭和三三年一〇月三〇日の深夜から同年一一月二日にかけ、同趣合総務部長をして、同組合各県(大阪府および北海道を含む。)本部宛てに、「組合員は警職法改悪反対のため所属長の承認がなくても、一一月五日は正午出勤の行動に入れ、(ただし、一部特殊職場は勤務時間内一時間以上の職場大会を実施せよ。)」なる趣旨のa名義の電報指令第六号並びに各県本部(大阪府および北海道のほか東京を含む。)、支部、分会各委員長宛てに、同趣旨のa労働組合中央闘争委員長b名義の文書指令第六号を発信または速達便をもつて発送させ、(二)同月五日午前九時ころから同一一時四〇分ころまでの間、農林省において、庁舎各入口に人垣を築いてピケツトを張り、ことに正面玄関の扉を旗竿等をもつて縛りつけ、また裏玄関の内部に机、椅子等を積み重ねるなどした状況のもとに、同省職員約二五〇〇名を入庁させないようにしむけたうえ、同職員らに対し、同省正面玄関前の「警職法改悪反対」職場大会に直ちに参加するように反覆して申し向けて説得し、勤務時間内二時間を目標として開催される右職場大会(実際の開催時間は午前一〇時ころから同一一時四〇分ころまで、正規の出勤時間は同九時二〇分。参加人員は二〇〇〇名余。)に参加方を窓悪したというのであるから、右(一)の各指令の発出行為は、全国の傘下組合員である国家公務員たる農林省職員に対し、争議行為の遂行方をあおることを客観的に計画準備したものにほかならず、また、右(二)の状況下における反覆説得は、国公法九八条五項前段に定める違法行為を実行させる目的をもつて多数の右職員に対し、その行為を実行する決意を生じさせるような、またはすでに生じている決意を助長させるような勢いのある刺激を与えたものというべく、原判決が右(一)につき争議行為の遂行をあおることを企てたとし、(二)につき争議行為の遂行をあおつた行為にあたるとしたのは、正当である。

同第六点について。
所論は、原判決は国公法九八条五項、一一〇条一項一七号の解釈、適用を誤り、所論引用の各高等裁判所の判例と相反する判断をしたものであるというのである。
よつて考えるに、原判決が「同法一一〇条一項一七号の『あおる』行為等の指導的行為は争議行為の原動力、支柱となるものであつて、その反社会性、反規範性等において争議の実行行為そのものより違法性が強いと解し得るのであるから、憲法違反となる結果を回避するため、とくに『あおる』行為等の概念を縮小解釈しなければならない必然性はなく、またその証拠も不十分である」としたうえ、同条項一七号所定の「指導的行為の違法性は、その目的、規模、手段方法(態様)、その他一切の付随的事情に照らし、刑罰法規一般の予定する違法性、すなわち可罰的違法性の程度に達しているものでなければならず、また、これらの指導的行為は、刑罰を科するに足る程度の反社会性、反規範性を具有するものに限る」旨判示し、何らいわゆる限定解釈をすることなく、被告人らの本件行為に対し国公法の右規定を適用していることは、所論のとおりである。これに対し、所論引用の大阪高等裁判所昭和四三年三月二九日判決、福岡高等裁判所昭和四二年一二月一八日各判決、同裁判所昭和四三年四月一八日判決は、右国公法一一〇条一項一七号または地方公務員法六一条四号については、あおり行為あるいはその対象となる争議行為またはその双方につき、限定的に解釈すべきものであるとの見解をとつており、そして、これらの判決は原判決に先だつて言い渡されたものであるから、原判決は、右各高等裁判所の判例と相反する判断をしたこととなり、その言渡当時においては、刑訴法四〇五条三号後段に規定する、最高裁判所の判例がない場合に、控訴裁判所たる高等裁判所の判例に相反する判断をしたことになるといわなければならない。
しかしながら、国公法九八条五項、一一〇条一項一七号の解釈に関して、公務員の争議行為等禁止の措置が違憲ではなく、また、争議行為をあおる等の行為に高度の反社会性があるとして罰則を設けることの合理性を肯認できることは前述のとおりであるから、公務員の行なう争議行為のうち、同法によつて違法とされるものとそうでないものとの区別を認め、さらに違法とされる争議行為にも違法性の強いものと弱いものとの区別を立て、あおり行為等の罪として刑事制裁を科されるのはそのうち違法性の強い争議行為に対するものに限るとし、あるいはまた、あおり行為等につき、争議行為の企画、共謀、説得、態通、指令等を争議行為にいわゆる通常随伴するものとして、国公法上不処罰とされる争議行為自体と同一視し、かかるあおり等の行為自体の違法性の強弱または社会的許容性の有無を論ずることは、いずれも、とうてい是認することができない
けだし、いま、もし、国公法一一〇条一項一七号が、違法性の強い争議行為を違法性の強いまたは社会的許容性のない行為によりあおる等した場合に限つてこれに刑事制裁を科すべき趣旨であると解するときは、いうところの違法性の強弱の区別が元来はなはだ暖昧であるから刑事制裁を科しうる場合と科しえない場合との限界がすこぶる明確性を欠くこととなり、また同条項が争議行為に「通常随伴」し、これと同一視できる一体不可分のあおり等の行為を処罰の対象としていない趣旨と解することは、一般に争議行為が争議指導者の指令により開始され、打ち切られる現実を無視するばかりでなく、何ら労働基本権の保障を受けない第三者がした、このようなあおり等の行為までが処罰の対象から除外される結果となり、さらに、もしかかる第三者のしたあおり等の行為は、争議行為に「通常随伴」するものでないとしてその態様のいかんを問わずこれを処罰の対象とするものと解するときは、同一形態のあおり等をしながら公務員のしたものと第三者のしたものとの間に処罰上の差別を認めることとなつて、ただに法文の「何人たるを問わず」と規定するところに反するばかりでなく、衡平を失するものといわざるをえないからである。いずれにしても、このように不明確な限定解釈は、かえつて犯罪構成要件の保障的機能を失わせることとなり、その明確性を要請する憲法三一条に違反する疑いすら存するものといわなければならない。
なお、公務員の団体行動とされるもののなかでも、その態様からして、実質が単なる規律違反としての評価を受けるにすぎないものについては、その煽動等の行為が国公法一一〇条一項一七号所定の罰則の構成要件に該当しないことはもちろんであり、また、右罰則の構成要件に該当する行為であつても、具体的事情のいかんによつては法秩序全体の精神に照らし許容されるものと認められるときは、刑法上違法性が阻却されることもありうることはいうまでもない。もし公務員中職種と職務内容の公共性の程度が弱く、その争議行為が国民全体の共同利益にさほどの障害を与えないものについて、争議行為を禁止し、あるいはそのあおり等の行為を処罰することの当を得ないものがあるとすれば、それらの行為に対する措置は、公務員たる地位を保有させることの可否とともに立法機関において慎重に考慮すべき立法問題であると考えられるのである。
いわゆる全司法仙台事件についての当裁判所の判決(昭和四一年(あ)第一一二九号同四四年四月二日大法廷判決・別集二三巻五号六八五頁)は、本判決において判示したところに抵触する限度で、変更を免れないものである。
そうであるとすれば、原判決が被告人らの前示行為につき国公法九八条五項、一一〇条一項一七号を適用したことは結局正当であつて、これと異なる見解のもとに原判決に法令違反があるとする所論は採用することができず、また、この点に関する原審の判断と抵触する前記各高等裁判所の判例は、これを変更すべきものであつて、所論は、原判決破棄の理由とならない。

同第七点、第八点、第九点について。
所論は、いずれも事実誤認、単なる法令違反の主張であつて、適法な上告理由にあたらない。
同第一〇点について。
所論は、要するに、公務員の政治的目的に出た争議行為も憲法二八条によつて保障されることを前提とし、原判決が、いわゆる「政治スト」は、憲法二八条に保障された争議行為としての正当性の限界を逸脱するものとして刑事制裁を免れないと判断したのは、憲法二一条、二八条、三一条の解釈を誤つたものである旨主張する。
しかしながら、公務員については、経済目的に出たものであると、はたまた、政治目的に出たものであるとを問わず、国公法上許容された争議行為なるものが存在するとすることは、とうていこれを是認することができないのであつて、かく解釈しても憲法に違反するものではないから、所論違憲の主張は、その前提を欠き、適法な上告理由にあたらない(なお、私企業の労働者たると、公務員を含むその他の勤労者たるとを問わず、使用者に対する経済的地位の向上の要請とは直接関係があるとはいえない警職法の改正に対する反対のような政治的目的のために争議行為を行なうがごときは、もともと憲法二八条の保障とは無関係なものというべきである。現に国際労働機構(ILO)の「結社の自由委員会」は、警職法に関する申立について、「委員会は、改正法案は、それが成立するときは、労働組合権を侵害することとなることを立証するに十分な証拠を申立人は提出していないと考えるので、日本政府の明確な説明を考慮して、これらの申立については、これ以上審議する必要がないと決定するよう理事会に勧告する。」としている(一七九事件第五四次報告一八七項)。国際労働機構の「日本における公共部門に雇用される者に関する結社の自由調査調停委員会報告」(いわゆるドライヤー報告)も、「労働組合権に関する申立の審査において国際労働機関によつてとられている一般原則によれば、政治的起源をもつ事態が適当な手続による国際労働機関の調査が要請されうる社会的側面(問題)を有している場合であつても、国際労働機関が国際的安全保障に直接関係ある政治問題を討議することは、その伝統に反し、かつ、国際労働機関自体の領域における有用性をもそこなうため不適当である。」(二一三〇項)という一般的見解を表明しているのである。)。

弁護人小林直人の上告趣意第一一点中、第一ないし第三について。
所論は、原判決が国公法一一〇条一項一七号について、何んら限定解釈をすることなく、社会的に相当行為たる被告人らの本件行為にこれを適用したのは、憲法三一条、二八条、一八条、二一条に違反するというのである。
しかし、国公法の右規定について、これを限定的に解釈しなくても、右憲法の各規定に違反するものでないことは、すでに弁護人佐藤義弥ほか三名の上告趣意第一点、第三点、第五点について説示したところおよび同第六点において説明した趣旨に照らし明らかであるから、所論は理由がない。
同第四について。
所論は、本件争議行為が、いわゆる政治的抗議ストであるから社会的相当性を有し、構成要件該当性を欠くとの単なる法令違反の主張であつて、適法な上告理由にあたらない。
同第五について。
所論は、本件抗議ストは、憲法二一条の保障する「表現の自由」権の行使として、社会的相当性を具有しているものであるから、国公法一一〇条一項一七号の罰則規定は、被告人らの本件行為に適用される限度において、憲法三一条、二一条に違反し、無効であるというのである。
しかしながら、国公法の右規定が憲法三一条、二一条に違反しないことは、所論の第一ないし第三について示したところにより明らかであるから、その趣旨に徴し、所論は理由がない。
被告人ら各本人の上告趣意について。
所論は、いずれも事案誤認、単なる法令違反の主張であつて、適法な上告理由にあたらない。
よつて、刑訴法四一四条、三九六条に則り、本件各上告を棄却することとし、主文のとおり判決する。
この判決は、裁判官石田和外、同村上朝一、同藤林益三、同岡原昌男、同下田武三、同岸盛一、同天野武一の各補足意見、裁判官岩田誠、同田中二郎、同大隅健一郎、同関根小郷、同小川信雄、同坂本吉勝の各意見、裁判官色川幸太郎の反対意見があるほか、裁判官全員一致の意見によるものである。

+補足意見
裁判官石田和外、同村上朝一、同藤林益三、同岡原昌男、同下田武三、同岸盛一、同天野武一の補足意見(裁判官岸盛一、同天野武一については、本補足意見のほか、後記のような追加補足意見がある。)は、次のとおりである。
われわれは、多数意見に同調するものであるが、裁判官田中二郎、同大隅健一郎、同関根小郷、同小川信雄、同坂本吉勝の意見(以下、五裁判官の意見という。)は、多数意見の真意を理解せず、いたずらに誇大な表現を用いて、これを論難するものであつて、読む者をしてわれわれの意見について甚だしい誤解を抱かせるものがあると思われるので、あえて若干の意見を補足したい。
一 五裁判官の意見は、多数意見が、公務員を国民全体の奉仕者であるとする憲法一五条二項をあたかも唯一の根拠として公務員(非現業の国家公務員をいう。以下同じ。)の争議行為禁止の合憲性を肯定するものであるかのごとく、また公務員の勤務条件の決定過程の特殊性だけを理由としてその争議行為の禁止を根拠づけようとするものであるかのごとく、さらには代償措置の制度さえ設けておけばその争議行為を禁止しても憲法に違反するものではないとの安易な見解に立つているものであるかのごとく誤解し、多数意見を論難している。しかし、多数意見は、公務員も原則として憲法二八条の労働基本権の保障を受ける勤労者に含まれるものであることを肯定しながらも、私企業の労働者とは異なる公務員の職務の公共性とその地位の特殊性を考慮にいれ、その労働基本権と公務員をも含めた国民全体の共同利益との均衡調和を図るべきであるという基本的観点に立ち、その説示するような諸般の理由を総合して国家公務員法(以下、国公法という。)の規定する公務員の労働関係についての規制をもつて、いまだ違憲と見ることはできないとしているものなのである。さらに、五裁判官の意見は、多数意見をもつて、憲法一五条二項を公務員の労働基本権に対する「否定原理」としているものであるとまで極論したうえ、「使用者である国民全体、ないしは国民全体を代表しまたはそのために行動する政府諸機関に対する絶対的服従義務を公務員に課したものという解釈をする」とか、「このような解釈は、国民全体と公務員との関係をあたかも封建制のもとにおける君主と家臣とのそれのような全人格的な服従と保護の関係と同視するに近い考え方である」とか、さらには憲法二八条の労働基本権を「一種の忠誠義務違反としてそれ自体を不当視する観念」であつて、「すべての国民に基本的人権を認めようとする憲法の基本原理と相容れない」ものであるとか、極端に激しい表現を用いて非難しているのであるが、多数意見のどこにそのような時代錯誤的な考えが潜んでいるというのであろうか。いうまでもなく、多数意見は、五裁判官の意見が指摘するような国家の事務が軍事、治安、財政などにかぎられていた時代における前近代的観点から「抽象的、観念的基準によつて一律に割り切つて」いるものでもなく、また抽象的形式的な公共福祉論、公僕論を拠りどころとしているものでもないことは、多数意見を冷静かつ率直に読むならば容易に理解できることであろう。
二 五裁判官の意見は、公務員の職務内容の公共性がその争議行為制限の実質的理由とされていることはなにびとにも争いのないところであること、また公務員の勤務条件の決定過程において争議行為を無制限に許した場合に民主的政治過程をゆがめる面があることも否定できないことを承認しながら、そのいずれの理由からも一切の争議行為を禁止することの正当性を認めることはできないとして、公務員の「団体交渉以外の団体行動によつて、立法による勤労条件の基準決定などに対して影響力を行使すること」を是認すべきであるといい、また代償措置はあくまで代償措置にすぎないものであるから、「政府または国国会に右(人事院の)勧告に応ずる措置をとらせるためには、法的強制以外の政治的また社会的活動を必要とし、このような活動ば、究極的には世論の支持、協力を要するものであり、世論喚起のための唯一の効果的手段としての公務員による団体行動の必要を全く否定することはできず、」といつて、およそ争議行為を禁止されている公務員の利益を保障するために設けられた国家的制度としての代償措置の存在をことさらに軽視し、公務員による立法機関または世論に対する直接的な政治的効果を目的とする団体行動の必要性を強調しているのである。ところで、五裁判官の意見がここで指摘している「団体行動」とは、何を意味するかは必ずしも明らかではないが、その前後の論調からすると、単なる表現活動としての団体行動を指しているものとは認められず、明らかに憲法二八条にいわゆる団体行動を考えているものとしか思われない。しかもその団体行動は、「刑罰の対象から除外されてしかるべきものである」と断定していることからすると、罰則規定のある公務員の争議行為な念頭においているものと解さざるをえない。はたしてそうであるとすれば、五裁判官の意見は、立法府または社会一般に対する示威的行動としての公務員の争議行為の必要性を強調するものといわざるをえないのである。もとより、五裁判官の意見は、純然たる政治的目的の実現のための争議行為の必要性を説くものではない。しかしながら、およそ動労者の団体が行なう争議行為の目的が使用者において事実的にも法律的にも解決しえない事項に関するものであるときは、その争議行為は、憲法二八条による保障を受ける余地のないものであるから、五裁判官の意見がいうところの公務員の団体行動としての争議行為なるものは、その実質において、いわゆる「政治スト」と汎称されるものとなんら異なるところはないのである。ことに、五裁判官の意見が法的強制以外の「政治的活動」の必要性を説くことは、まさに団体行動としての表現活動のほかに、「政治スト」を憲法上正当な争議行為として公務員に認めよということにほかならないのであつて、そのことは五裁判官の意見が本件について政治目的に出た争議行為であるとの理由から憲法二八条の保障の範囲に含まれないとしていることと明らかに矛盾するものであるといわねばならない。なお、付言するに、五裁判官の意見が右のように争議行為としての法的強制以外の「政治的活動」を強調していることについては、いわゆるドライヤー報告書が「日本の労働者の中央組織によつて行なわれてきた政治活動の性格は、真に労使関係を混乱させている一つの主要な要素である。」(二一二七項)と戒めていることをこの際指摘せざるをえないのである。
三 五裁判官の意見は、本件の処理にあたり、多数意見が何ゆえことさらいわゆる全司法仙台事件大法廷判決の多数意見(昭和四一年(あ)第一一二九号同四四年四月二日大法廷判決・刑集二三巻五号六八五頁、以下、単に全司法仙台事件判決という。)の解釈と異なる憲法判断を展開しなければならないのか、その必要性と納得のゆく理由を発見することができないと論難している。しかし弁護人らの上告趣意には、多岐にわたる違憲の主張が含まれており、また、まさに本判決の多数意見と五裁判官の意見との分岐点をなす中心問題について互に相反する高等裁判所の判決が指摘されて判例違反の主張がなされたのであるから、当裁判所としては、これらに対し判断をするにあたり、当然右全司法仙台事件判決の当否について検討せざるをえないばかりでなく、五裁判官の意見も、本件上告を棄却するについては、結論的には同意見であるから、上告趣意の総てについて逐一判断を示すべきものである。五裁判官の意見のような、この際全司法仙台事件判決に触れるべきではないとする考えは、本件の処理上、基本的問題の判断を避けて一時を糊塗すべきであるというにひとしく、とうていわれわれの承服しがたいところである。いま、多数意見がこれに論及せざるをえなかつたその他の理由の二、三をもあわせて指摘し、さらに同判決の判例としての評価について言及することとする。
(一) まず、第一に、右全司法仙台事件判決は、憲法解釈にあたり看過できない誤りを犯したということである。すなわち、同判決とその基本的立場を共通にする、いわゆる都教組事件大法廷判決の多数意見(昭和四一年(あ)第四〇一号同四四年四月二日大法廷判決・刑集二三巻五号三〇五頁、以下、単に都教組事件判決という。)は、公務員の職務は一般的に公共性が強いものであることを認めながら、なお一部の職種や職務には私企業のそれに類似したものが存在するから公務員の争議行為を一律に禁止することは許されないと説くが、その論ずるところは、公務員の争議行為が行なわれる場合、一般に単なる機械的労務に従事する職務の者ばかりでなく、その職務内容が公共性の強い職員の大多数の者の参加によつて行なわれる集団的組織的団体行動であるという現実を無視した議論であり、しかも、職種、職務内容の別なく公務員に対して一律に保障された、生存権擁護の趣旨をもつ代償措置の現存することについての考慮を払うことなく、また、その判断の結果がはたして実際的に妥当するものであるかについて洞察することもなく、ただただ抽象的に理論を推しすすめるものである。すなわち、同判決は、抽象的、観念的思惟に基づいて、公務員による争議行為を制限禁止した関係公務員法の当該規定は違憲の疑いがあると安易に断定しているのであつて、全司法仙台事件判決もその論法において軌を一にしているのである。そのような憲法判断の手法は、労働基本権に絶対的な優位を認めようとするに傾きやすく、現実の社会的、経済的基盤の上に立つて国家と国民および国民相互の相反する憲法上の諸利益を調整すべきものであるという憲法解釈の要諦を忘れたものといわなければならない。なお、五裁判官の意見は「一律全面的」な争議行為の禁止は不当であるとして多数意見を論難するのであるが、職種と職務内容の公共性の程度が弱く、その争議行為が国民全体の共同利益にさほどの障害を与えないものについては、労働政策の問題として立法上慎重に考慮されるべきものであることについては、多数意見が指摘しているところである。ちなみに、西ドイツにおいては、公勤務従事者のうち、官吏についてはストライキを禁止されているが、その代り終身任用制度および一種の昇進制度が勤務条件法定主義のもとに行なわれているのに対し、雇員、単純労務職員については、特定の職務内容を限定してストライキを認めており、また、カナダ連邦、アメリカのペンシルバニや州やハワイ州では重要でない職務に従事する公務員についてストライキを認めているが、職務の重要性の判定は第三者機関が行なうたてまえとなつているのであつて、全司法仙台事件判決が示す「国民生活に重大な支障」を及ぼすことの有無というような漠然とした基準によつて公務員の争議行為の正当性を画する立法例は他国には見あたらないのである。なお、カナダ連邦の場合は、仲裁手続とストライキとの選択のもとに、かりにストライキを選択したときでも厳格な調停手続を経ることが条件となつているのであり、この手続を経ないストライキは禁止されているのである。そして、アメリカでストライキの認められている前示二州でも、ほぼこれに似た制度をとつているのであるが、その国情による相違があるとはいえ、重要でない職務の公務員のストライキを認めるについて、無制限にこれを認めることなく、厳格な制約のもとに置かれていることに特に留意すべきである。
第二に、全司法仙台事件判決の示した限定解釈には重大な疑義があるということである。すなわち、同判決と基本的に共通の見解に立つている前記都教組事件判決がいうところは、公務員の職務の公共性には強弱があるから、その労働基本権についても、その職務の公共性に対応する制約を当然内包しているという理論的立場を強調しながら、限定解釈をするにあたつては、一転して職務の公共性をなんら問題とすることなく、「ひとしく争議行為といつても、種々の態様のものがある」として、争議行為の態様の問題へと転移し、争議行為における違法性の強弱という暖味な基準を設定したのである(五裁判官の意見は、多数意見が公務員の争議行為につきその「主体」のいかんを問わず全面的禁止を是認することを非難しているのであるから、当然「主体」による区別をいかに考えるべきかについての明確な基準を示して然るべきものなのである。しかるに、その明示がなされていないことは、現在の公務員制度のもとにおける職員組合の組織と争議行為の現況にかんがみ、そのような区別をたてることは抽象論としてはともかく、実際上はほとんど不可能であることを物語るものであろうか。)。ことに、同判決は、争議行為に関する罰則については、争議行為そのものの違法性が強いことと、あおり等の行為の違法性が強いことを要するばかりでなく、争議行為に「通常随伴して行なわれる行為「は処罰の対象とはならないと解すべきものであるとしている。ところで、いわゆる全逓中郵事件判決の多数意見(昭和三九年(あ)第二九六号同四一年一〇月二六日大法廷判決・刑集二〇巻八号九〇一頁、以下、単に全逓中郵事件判決という。)では、争議行為の正当性を画する基準として、「政治的目的のために行なわれたような場合」、「暴力を伴う場合」、「社会の通念に照らして不当に長期に及ぶときのように国民生活に重大な障害をもたらす場合」をあげ、これらの場合でなければ、その争議行為は、憲法上保障された正当な争議行為にあたると説示されているが、全司法仙台事件判決では、争議行為の違法性が強い場合の基準として、そのまま右と同様のものが転用されているのである。すなわち、あおり行為等を処罰するための要件として、「争議行為そのものが、職員団体の本来の目的を逸脱してなされるとか、暴力その他これに類する不当な圧力を伴うとか、社会通念に反して不当に長期に及ぶなど国民生活に重大な支障を及ぼすとか」ということをあげている。争議行為が正当であるか否かは、違法性の有無に関する問題であり、違法性が強いか弱いかは違法性のあること、すなわち正当性のないことを前提としたものである。そして、ここにいう正当性の有無は、単に「刑法の次元」における判断ではなく、まさに憲法二八条の保障を受けるかどうかの憲法の次元における問題なのであるから、その保障を受けうるものであるかぎり、民事上、刑事上一切の制裁の対象となることはないのである。しかるに、全司法仙台事件判決は、全逓中郵事件判決が憲法上の保障を受けるかどうかの観点から違憲判断を回避するために示した正当性を画する基準と同一のものを、違法性の強弱判定の基準としているのであつて、そこに法的思惟の混迷があると思われるのであるが、それはともかくとして、このような基準の設定は、刑罰法規の構成要件としてもすこぶる不明確であり、そのゆえに、むしろ違憲の疑いを生むのであり、さらに右のような基準の確立が判例の集積になじまないものであることについては、岸裁判官、天野裁判官の追加補足意見の指摘するところである。この点について、五裁判官の意見は、公務員の争議行為をあおる等の行為が全司法仙台事件判決の判示する基準に照らして処罰の対象となるかどうかは事案ごとに具体的事実関係により判断されなければならないとして、これらの行為が国公法上罰則の対象となりうることを肯定しながら、公務員法違反の場合と公共企業体職員または私企業労働者の争議行為の場合とを対比し、一つは構成要件充足の問題であり、他は違法性阻却の問題であるといい、さらに転じて「刑法の次元における違法性阻却の理論によつて処理することは相当でなく、」と至極当然のことにわざわざ言及し、あたかも多数意見がその誤りを犯しているかのごとき論難を加えているが、そのいわんとする真意が那辺にあるか理解に苦しむところである。
第三に、全司法仙台事件判決に見られる憲法解釈の疑点もさることながら、それが惹起している労働・行政または裁判実務上の混乱も、また無視できないということである。すなわち、例えば、都教組事件判決は、「違法な争議行為を想定して、あおり行為等をした場合には、かりに予定の違法な争議行為が実行されなかつたからといつて、あおり行為等の刑責は免れない。」旨判示する。しかし国公法一一〇条一項一七号の罰則は、あおり行為等に対して結果責任を問うものではないのであるから、行為者が、かりに違法性の弱い争議行為を想定して、あおり行為等をしたが、予期に反し、争議行為が「社会通念に反して不当に長期に及び国民生活に重大な支障」を与えた場合には、全司法仙台事件判決の見解に従うかぎり、なんらこれに対し刑事責任を問うことができないこととなるであろう。また、争議行為の実態に即して考えて見ても、争議行為は、通常、争議指導者の指令のままに動くものであるから、あおり等の行為自体の違法性が強い場合などはおよそありえないであろう。このことは、同判決の右のような解釈のもとでは、国公法の右規定が現実的には、ほとんど有効に機能しないことを示すものであつて、結局公務員の争議行為が野放しのままに放置される結果ともなりかねないのである。さらにまた、同判決が判示する前記の基準も、それ自体が客観性を欠き、これを捕捉するに極めて困難であり、五裁判官の意見のいうように、右の判決が一般国民の間に定着しているものとはとうてい考えられない。右の基準が暖昧で判断者の主観による恣意がはいりこむ虞れがあるという批判は、本件の弁論において弁護人からも強く指摘されたばかりでなく、すでに、いわゆる全逓中郵事件判決を支持する論者、これに反対の立場にある論者の双方から強い批判を受けているところである。全司法仙台事件判決も公務員の争議行為に対するあおり等の行為が罰則の適用を受ける場合のあることを肯定する以上は、その明確な基準を示すべきであつたのである。
さらに第四に、全司法仙台事件判決ならびにこれと同一の基盤をもつ都教組事件判決が全逓中郵事件判決と相まつて公務員の争議行為に関する罰則の適用について一般に誤つた評価を植えつけるにいたつたということである。すなわち、都教組事件判決は、全逓中郵事件判決が勤労者の労働基本権に対する、いわゆる内在的制約を考慮する際「一般的にいつて、刑事制裁をもつてこれに臨むべき筋合ではない。」(同判決の、いわゆる四条件中、(3)最高裁刑集二〇巻八号九〇七頁参照。)と判示したことをそのまま踏襲しているのであるが、さらに都教組事件判決の趣旨を受けついだ全司法仙台事件判決は、国公法一一〇条一項一七号についてこれを限定的に解釈しないかぎり憲法一八条、二八条に違反する疑いがあるといつて、一般に対し「公務員労働者の」「争議行為を刑事罰から解放」したものであるかのごとき誤つた理解を植えつけることとなつたのである。これは、ひつきよう、同判決の不明確な限定解釈と誤つた法解釈の態度とにその原因をもつものといわねばならないのである。(現に五裁判官の意見も公務員の争議行為に対するあおり等の行為 が罰則の適用を受ける場合のあることを肯定していながら、しかも、なおかつ、あたかも多数意見のみが、公務員の争議行為に関し仮借のない刑事制裁を是認しているもののような論難をしているのである。)なお、付言するに、ILO第一〇五号条約(わが国は批准していない。)に関する第五二回ILO総会に提出された条約勧告適用専門家委員会の報告書は、「一定の事情の下においては違法な同盟罷業に参加したことに対して刑罰を科することができるということ、」「この刑罰には通常の刑務欣労働が含まれることがあるということ」その他について合意が成立した旨の、同条約を審議した総会委員会の報告書を引用して「同盟罷業に関する各種の国内立法を評価するに当たり、本委員会は、総会の意図に関する前述したところを十分に考慮することが適当であると考える。」と述べているのである(九四項。なお九五項参照。)。
(二) つぎに、全司法仙台事件判決には、真の意味の多数意見なるものがはたして存在するといえるであろうか。同判決において多数と見られる八名の裁判官の意見が一致しているのは、ただ国公法の規定を「限定的に解釈するかぎり」違憲でないと判示する点にかぎられているのである。そして、そのいわゆる限定解釈の内容について見るに、右八名の裁判官のうち、六名の裁判官は、違法性強弱論およびあおり行為等の通常随伴性論の立場をとつているが、他の二名の裁判官は、違法性強弱論には否定的な意見を示しており、しかも、その二名の裁判官の間でも、「通常随伴性」についての考え方が一致していないのである。このように、限定解釈をすべきであるという点では同意見であつても、それだけでは全く内容のないものであり、そのいうところの限定解釈についての内容が区々にわかれていて、過半数の意見の裁判官による一致した意見は存在しないのである。前記のように、行政上および裁判上の混乱を招いたのも、ひつきょう、同判決ならびにその基盤を共通にする全逓中郵事件判決および都教組事件判決のもつ内容の流動性、暖昧性に基因するところが大きく、判例としての指導性にも欠けるところがあつたといわねばならないのである。そして、現在においては、本判決の多数意見は、前記判示のとおり、憲法および国公法の解釈につき一致した見解を示しているものであるのに対し、多数意見に同調する裁判官以外の裁判官の意見は、単に形式上少数であるばかりでなく、内容的にも国公法の解釈について意見が分立しており、ことに五裁判官の意見が本件につき上告棄却の意見であるならば、全司法仙台事件判決にいう、いわゆる通常随伴性論を今日維持することは背理というほかなく、また通常随伴性論をとるとすれば、結論は、むしろ反対となるべき筋合いであろう。この一点をみても、右五裁判官ら自身、意識すると、しないとにかかわらず、前記の判例の見解を変更しているものにほかならない。したがつて、全司法仙台事件判決は、今日、もはやいかなる意味においても「判例」として機能しえないものであり、これが変更されるべきことは、自然の成行きといわなければならないのである。五裁判官の意見は、「僅少差の多数によつてさきの憲法解釈を変更することは、最高裁判所の憲法判断の安定に疑念を抱かせ、ひいてはその権威と指導性を低からしめる虞れがある云々」と述べているが、多数意見に対するいわれのない批判にすぎず、強く反論せざるをえない次第である。裁判官岸盛一、同天野武一の追加補足意見は、つぎのとおりである。
(一) まず、多数意見は、憲法二八条の勤労者のうちには、公務員(非現業の国家公務員をいう。以下同じ。)も含まれるとの見解にたちながらも、公務員の地位の特殊性とその職務の公共性とを考慮にいれるとき、公務員の動労関係を規律する現行法制のもこでは、公務員の勤務条件が法定されており、その身分が保障されているほか、適切な代償措置が講じられている以上は、国家公務員法(昭和四〇年法律第六九号による改正前のもの。以下国公法という。)九八条五項の規定は、いまだ、憲法二八条に違反するものと断ずることはできないとするものである。
ところで、一般的に動労者の争議行為を禁止するについて、その代償措置が設けられることが極めて重要な意義をもつものであることは、いわゆるドライヤー報告やI・L・O結社の自由委員会でもたびたび強調されているところであり、その事例を枚挙するにいとまなしといつても過言ではないのであるが、公務員に関してもその争議行為を禁止するについては、適切な代償措置が必要であることが指摘されているのである(結社の自由委員会第七六次報告第二九四号事件二八四項、第七八次報告第三六四号事件七九項等)。ところが、わが国で、公務員の争議行為の禁止について論議されるとき、代償措置の存在がとかく軽視されがちであると思われるのであるが、この代償措置こそは、争議行為を禁止されている公務員の利益を国家的に保障しようとする現実的な制度であり、公務員の争議行為の禁止が違憲とされないための強力な支柱なのであるから、それが十分にその保障機能を発揮しうるものでなければならず、また、そのような運用がはかられなければならないのである。したがつて、当局側においては、この制度が存在するからといつて、安易に公務員の争議行為の禁止という制約に安住すべきでないことは、いうまでもなく、もし仮りにその代償措置が迅速公平にその本来の機能をはたさず実際上画餅にひとしいとみられる事態が生じた場合には、公務員がこの制度の正常な運用を要求して相当と認められる範囲を逸脱しない手段態様で争議行為にでたとしても、それは、憲法上保障された争議行為であるというべきであるから、そのような争議行為をしたことだけの理由からは、いかなる制裁、不利益をうける筋合いのものではなく、また、そのような争議行為をあおる等の行為をしたからといつて、その行為者に国公法一一〇条一項一七号を適用してこれを処罰することは、憲法二八条に違反するものといわなければならない。
もつとも、この代償措置についても、すべての国家的制度と同様、その機能が十分に発揮されるか否かは、その運用に関与するすべての当事者の真摯な努力にかかつているのであるから、当局側が誠実に法律上および事実上可能なかぎりのことをつくしたと認められるときは、要求されたところのものをそのままうけ容れなかつたとしても、この制度が本来の機能をはたしていないと速断すべきでないことはいうまでもない。
以上のことは、多数意見においてとくに言及されていないが、その立場からは当然の理論的帰結であると考える。
(二) つぎに、多数意見は、国公法一一〇条一項一七号について、福岡高等裁判所判決(昭和四一年(う)第七二八号同四三年四月一八日判決)が示した限定解釈は犯罪構成要件の明確性を害するもので憲法三一条違反の疑いがあるというが、われわれは、右の限定解釈は明らかに憲法三一条に違反するばかりでなく、本来許さるべき限定解釈の限度を超えるものであるとすら考えるものである。すなわち、同判決は、国公法の右規定を限定的に解釈して、争議行為が政治目的のために行なわれるとか、暴力を伴うとか、または、国民生活に重大な障害をもたらす具体的危険が明白であるなど違法性の強い争議行為を違法性の強い行為によつてあおるなどした場合に限り刑罰の対象となるというのであつて、いわゆる全司法仙台事件についての当裁判所大法廷判決の多数意見がさきに示した見解とほぼ同趣旨の見解を示しているのである。
ところで、憲法判断にさいして用いられる、いわゆる限定解釈は、憲法上の権利に対する法の規制が広汎にすぎて違憲の疑いがある場合に、もし、それが立法目的に反することなくして可能ならば、法の規定に限定を加えて解釈することによつて、当該法規の合憲性を認めるための手法として用いられるものである。そして、その解釈により法文の一部に変更が加えられることとなつても、法の合理的解釈の範囲にとどまる限りは許されるのであるが、法文をすつかり書き改めてしまうような結果となることは、立法権を侵害するものであつて許さるべきではないのである。さらにまた、その解釈の結果、犯罪構成要件が暖味なものとなるときは、いかなる行為が犯罪とされ、それにいかなる刑罰が科せられるものであるかを予め国民に告知することによつて、国民の行為の準則を明らかにするとともに、国家権力の専断的な刑罰権の行使から国民の人権を擁護することを趣意とする、かのマグナカルタに由来する罪刑法定主義にもとるものであり、ただに憲法三一条に違反するばかりでなく、国家権力を法の支配下におくとともに国民の遵法心に期待して法の支配する社会を実現しようとする民主国家の理念にも反することとなるのである。このことは、大陸法的な犯罪構成要件の理論をもたない英米においても、つとに普通法上の厳格解釈の原理によつて、裁判所は、個々の事件について、法文の不明確を理由に法令の適用を拒否する手段を用いて、実質上法令の無効を宣言するのとひとしい実をあげてきたといわれているのであるが、とくに米国では、一世紀も前から法文の不明確を理由としてこれを無効とする理論が芽ばえ、一九〇〇年代にはいつてからは、国民の行為の準則に関する法令は、予め国民に公正に告知されることが必要で、そのためには法文は明確に規定されなければならないとして、憲法修正五条、六条、一四条等の適正条項違反を理由に不明確な法文の無効を宣言する、いわゆる明確性の理論が判例法として確立され今日に及んでいるのである。
この法文の明確性は、憲法上の権利の行使に対する規制や刑罰法規のような国民の基本的権利・自由に関する法規については、とくに強く要請されなければならないことは当然である。
ところで、前記福岡高等裁判所判決は、あおり行為の対象となる争議行為の違法性の強弱を判定する基準の一つとして、「国民生活に対する重大障害」ということをあげている。同様に全司法仙台事件判決の多数意見は、「社会の通念に反して不当に長期に及ぶなど国民生活に重大な支障」といつている。しかし、国民生活に重大な障害とか支障とかいう基準はすこぶる漠然とした抽象的なものであつて、はたしてどの程度の障害、支障が重大とされるのか、これを判定する者の主観的な、時としては恣意的な判断に委ねられるものであつて、そのような弾力性に富む伸縮自在な基準は、刑罰法規の構成要件の輪郭内容を極めて暖味ならしめるものといわざるをえない。また、全司法仙台事件判決の多数意見のように「社会の通念に反し不当に長期に及ぶなど」という例示が示されているとしても、どの程度の時間的継続が不当とされるのか、これまた甚だ不明確な要件といわざるをえないばかりでなく、そのうえ「社会の通念に照らし」という一般条項を構成要件のなかにとりこんでいることは、却てその不明確性を増すばかりである。したがつて、かような基準を示された国民は、自己の行為が限界線を越えるものでないとして許されるかどうかを予測することができず、法律専門家である弁護士、検察官、裁判官ですら客観的な判定基準を発見することに当惑し(いわゆる中郵事件の差戻し後の東京高裁昭和四一年(う)第二六〇五号同四二年九月六日判決・刑集二〇巻五二六頁参照)、罰則適用の限界を画することができないばかりでなく、民事上、行政上の制裁との限界もまた不明確であつて、法の安定性・確実性が著しくそこなわれることとなる。現に全国の事実審裁判所の判決においても、「国民生活に重大な障害」に関する判断が区々にわかれて統一性を欠いているのが今日の実情なのである。さらにまた、右のような限定解釈は、罰則の適用される場合を制限したかのようにみえるのであるが、それに示されているような抽象的基準では、前記判決が志向したところとはおよそ逆の方向にも作用することがないとも限らない。けだし、法文の不明確は法の恣意的解釈への道をひらく危険があるからである。
もつとも、右の基準の明確な確立は、今後の判例の集積にまてばよいとの反論もあろう。最近の、カナダの連邦公務員関係法、アメリカのペンシルバニヤ州の公務員労使関係法およびハワイ州公法は、重要職務に従事する公務員についてのみ争議行為を禁止しているのであるが、それらの立法に対する、職務の重要性・非重要性を区別することは困難であるとの批判に対して、裁判所の判例の集積による解決が最も妥当であるとの反論もみられる。しかし、右の諸立法においては、別に第三者機関による重要職務の指定判定の制度があつて、それによつて重要公務の範囲が一応は形式的に明確にされる建前なのであるから、その指定判定に争いがあるとき裁判所の判断をまつということのようである。すなわち、それは、重要職務に従事する公務員の範囲を主体の面から限定するものであつて、行為の態様による限定ではないのである。「国民生活に重大な障害」の有無というような行為の態様の基準の明確な確立は、むしろ、判例の集積による方法にはなじまないというべきであろう。
およそ国民の行為の準則は、裁判時においてではなく、行為の時点においてすでに明確にされていなければならない。また、終局判決をまたなければ明確にならないような基準は、基準なきにひとしく、国民を長く不安定な状態におくこととなる。国民は各自それぞれの判断にしたがつて行動するほかなく、かくては法秩序の混乱はとうてい免れないであろう。
憲法問題を含む法令の解釈にさいしては、いたずらに既成の法概念・法技術にとらわれて、とざされた視野のなかでの形式的な憲法理解におちいつてはならないことはいうまでもないことであり、また、絶えず進展する社会の流動性と複雑化とに対処しうるためには、犯罪構成要件がつねに客観的・記述的な概念にとどまることはできず、価値的要素を含んだ規範的なものへと深化されることも必要である。さらに、正義衡平、信義誠実、公序良俗、社会通念等々の、もともとは私法の領域で発達した一般条項の概念が、法解釈の補充的原理として具体的事件に妥当する法の発見に寄与するところがあることも否定できない。しかしながら、あまりにも抽象的・概括的な構成要件の設定は、法の行為規範、裁判規範としての機能を失なわしめるものであり、いわんや、安易簡便な一般条項を犯罪構成要件のなかにとりこむことは極力これを避けなければならない。第二次大戦前のドイツ法学界において、一般条項がいともたやすく遊戯のように労働法を征服したとか、一般条項は個々の犯罪構成要件をのりこえてしまう傾向をもつとかと、強く指摘した警告的な主張がなされたことが思いあわされるのである。
法の規定が、その文面からは一義的にしか解釈することができず、しかも憲法上許される必要最小限度を超えた規制がなされていると判断せざるをえないならば、たとえ立法目的が合憲であるとしても、その法は違憲とされなければならない。しかるに、国公法一一〇条一項一七号についての前記のような限定解釈は、それを避けようとして詳密な理論を展開したのであるが、惜しむらくは、その理論の実際的適用について前述のような重大な疑義を包蔵するうえに、その限定解釈の結果もたらされた同条の構成要件の不明確性は、憲法三一条に違反するものであり、また、立法目的に反して法の規定をほとんど空洞化するにいたらしめたことは、法文をすつかり書き改めたも同然で、限定解釈の限度を逸脱するものといわざるをえないのである。

+意見
裁判官岩田誠の意見は、次のとおりである。
国家公務員法(昭和四〇年法律第六九号による改正前のもの。以下、国公法という。)一一〇条一項一七号の規定の合憲性に関する私の意見は、当裁判所昭和四一年(あ)第一一二九号同四四年四月二日大法廷判決(刑集二三巻五号六八五頁)における私の意見のとおりである。
したがつて、公務員の行なう争議行為の違法性の強弱、あおり行為等の違法性の強弱により国公法一一〇条一項一七号の適用の有無を決すべきでないことは、前記大法廷判決における私の意見のとおりであるけれども、同法条の規定は、これになんら限定解釈を加えなくても、憲法二八条に違反しないとする意見には賛同することができない。
これを本件について見るに、原判決が罪となるべき事実として確定したところによれば、被告人らは、それぞれ原判示のような農林省の職員をもつて組織するa労働組合(以下、a労組という。)の役員であるところ、昭和三三年一〇月八日内閣が警察官職務執行法の一部を改正する法律案(以下、警職法改正案という。)を衆議院に提出するやこれに反対する第四次統一行動の一環として、原判示第一、第二の所為に及んだというのであつて、被告人らの右所為は、a労組の団体行動としてなされたものとしても、右は警職法改正に対する反対闘争という政治目的に出たものであつて、a労組組合員の給与その他の勤務条件の改善、向上を図るためのものではないから、憲法二八条の保障する労働基本権の行使ということはできないものである。したがつて、被告人らの所為は、争議行為にいわゆる通常随伴するものであるか否かにかかわらず、それぞれ国公法一一〇条一項一七号にいう争議行為をあおることを企て、または、争議行為をあおつたものとして同条項違反の罪責を免れないものといわなければならない。
所論は、また、被告人らの所為を国公法一一〇条一項一七号により処罰した原判決および国公法の右規定は、憲法二一条に違反すると主張する。しかし、警職法改正法案に反対する意見を表明すること自体は、何人にも許され憲法二一条の保障するところであるが、その意見を表明するには、争議行為に訴えなくても、他にいくらでも適法な表明手段が存するのであつて、憲法二八条の保障の範囲を逸脱した本件のような争議行為によることを要するものではない。したがつて、前示のように憲法二八条の保障の範囲を逸脱した争議行為のあおり行為等を処罰する旨を定めた国公法一一〇条一項一七号の規定は、憲法二一条に違反するものではなく、被告人らの前記所為を処罰した原判決もまた憲法二一条に違反するものではない。
そうすると、被告人らの前示所為は国公法一一〇条一項一七号にあたるとして有罪の言渡をした原判決は結局正当であつて、被告人らの本件上告はいずれもこれを棄却すべきものである。
裁判官田中二郎 同大隅健一郎、同関根小郷、同小川信雄、同坂本吉勝の意見は、次のとおりである。本件上告を棄却すべきものとする点においては多数意見と同じであるが、その理由は次のとおりであるほか、岩田裁判官の意見と同じであり、多数意見の説く理由には賛成することができない。
第一 多数意見は、国家公務員法(昭和四〇年法律第六九号による改正前のもの。以下、国公法という。)九八条五項および一一〇条一項一七号の各規定が憲法二八条に違反する旨の上告論旨を排斥するにあたり、右国公法の規定は、解釈上これに特別の限定を加えなくても憲法の右規定に反するものではないとし、この点につきさきに憲法違反の疑いを避けるために限定解釈を施すべきものとしたいわゆる全司法仙台事件の当裁判所判決(昭和四一年(あ)第一一二九号同四四年四月二日大法廷判決 刑集二三巻五号六八五頁)と相反する見解を示している。この多数意見の説くところは、基本的には右判決における少数意見を若干 ふえんし、かつ、詳述したにとどまるものと考えられるが、これを要約すると、
(1) 公務員は全体の奉仕者であり、その職務内容は公共性をもつているから、公務員の争議行為は、その地位の特殊性と職務の公共性に反し、かつ、その結果多かれ少なかれ公務の停廃をもたらし、国民全体の利益に重大な影響を及ぼすか、またはその虞れがある。
(2) 公務員の勤労条件の決定は、私企業の場合と異なり、労使間の自由な取引に基づく合意によつてではなく、国会の制定する法律と予算によつて定められるという特殊性をもつているが、公務員が争議行為の圧力によつてこれに影響を及ぼすことは、右の決定についての正常かつ民主的な過程をゆがめる虞れがある。
(3) 公務員の争議行為の禁止については、これに対応する有効な代償措置制度が設けられている。というに尽きる。しかし、右の理由は、いずれも公務員の争議行為を一律全面的に禁止し、これをあおる等のすべての行為に対して刑事制裁と科することの合憲性を肯定するに十分な理由とすることはできない。すなわち、
一、憲法一五条二項の、公務員が国民全体の奉仕着である旨の規定は、主として、公務員が特定の政党、階級など国民の一部の利益に奉仕すべきものではないとする点に意義を有するものであつて、使用者である国民全体、ないしは国民全体を代表しまたはそのために行動する政府諸機関に対する絶対的服従義務を公務員に課したものという解釈をすることはできない。このような解釈は、国民全体と公務員との関係をあたかも封建制のもとにおける君主と家臣とのそれのような全人格的な服従と保護り関係と同視するに近い考え方であつて、公務員と国との関係を対等な権利主体間の法律的関係として把握しようという憲法の基本原理と相容れないものである。のみならず、公務員の地位の特殊性を強調する右の考え方は、勤労条件の決定に関する公務員の労働基本権、とくにその争議権に対する制約原理としてよりも、むしろ、その否定原理と一してはたらく性質のものであつて、公務員についても基本的には憲法二八条の労働基本権が認められるとする多数意見自体の説ぐところと矛盾する契機をすらもつものである。すなわち、このような考え方のもとでは、たとえば、公務員の争議行為のごときは、一種の忠誠義務違反として、それ自体を不当視する観念を生じがちであり、この観念を公務員一般におし及ぼすことは、原則として、すべての国民に基本的人権を認めようとする憲法の基本原理と相容れず、とくに憲法二八条の趣旨とは正面から衝突する可能性を有するものである。それゆえ、公務員の争議権を制限する根拠を国民全体の奉仕者たる地位の特殊性に求めるべきではないというべきである。
次に、公務員の職務内容が原則として公共の利益に奉仕するものであり、公務員の職務解怠が公務の円滑な運営に支障をもたらし公共の利益を害する可能性を有することは、多数意見のいうとおりであり、これが公務員の争議行為を制限する実質的理由とされていることは、なにびとも争わないところである。しかし、このことから直ちに、およそ公務員の争議行為一切を一律に禁止し、これをあおる等のすべての行為に刑事制裁を科することが正当化されるとの結論を導くことには、明らかに論理の飛躍がある。すなわち、公務の円滑な運営の阻害による公益侵害をもつて争議権制限の実質的理由とするかぎり、このような侵害の内容と程度は争議行為制限の態様、程度と相関関係にたつべきものであつて、たとえば、形式的には一時的な公務の停廃はあつても、実質的には公務の運営を阻害する虞れがあるといいえない争議行為までも一律に禁止し、これをあおる等の行為に対して刑事制裁を科することが正当とされるいわれはないといわなければならない。国の事務が国の存続自体を支える固有の統治活動、すなわち、軍事、治安、財政などにかぎられていた時代においては、これに従事する者も限定されていた反面、それらの者による公務の懈怠が直ちに国家社会の安全に響く虞れがあり、したがつて、そのような理由からこれらの者の争議行為を全面的に禁止することにも合理性があることを否定できなかつたとしても、近代における福祉国家の発展に伴い、国や地方公共団体の行なう事務が著しく拡大し、その大部分が一般福祉行政や公共的性質を有する経済活動となり、これに従事する者も飛躍的に増加して、全公務員の相当部分を占め、しかも、これらの公務員が全勤労者の中でも相当大きな割合を形成するに至つた今日においては、公務の内容、性質もきわめて多岐多様であるとともに、その運営の阻害が公共の利益に及ぼす影響もまた千差万別であつて、そのうちには、公益的性質を有する私企業の業務の停廃による影響とその内容、性質においてほとんど区別がなく、むしろ、後者の方がその程度いかんによつては、国民生活に対してより重大な支障をもたらす虞れのある場合すら存するのである。したがつて、これらをすべて公益侵害なる抽象的、観念的基準によつて一律に割り切り、公務員の争議行為を、その主体、内容、態様または程度などのいかんにかかわらず全面的に禁止し、これをあおる等のすべての行為に刑事制裁を科するようなことは、とうてい、合理性をもつ立法として憲法上これを正当化することはできないといわなければならない。
二、公務員に対する給与は、国または地方公共団体の財源使用の一内容であるから、公務員の勤労条件のいかんは、国などの財政、ことに予算の編成と密接な関連を有し、したがつて、その決定につき、国会または地方公共団体の議会の監視または承認を経由する必要があることは、多数意見の説くとおりである。しかし、このことから、右の勤労条件の基準がすべて立法によつて決定されることを要し、その間に労使間の団体交渉に基づく協定による決定なるものをいれる余地がないとする結論は、当然には導かれないし、憲法上それが予定されていると解すべき根拠もない。憲法七三条四号は、内閣が法律の定める基準に従い官吏に関する事務を掌理すべき旨を規定しているが、それは、国家公務員に関する事務が内閣の所管に属することと、内閣がこの事務を処理する場合の基準の設定が立法事項であつて政令事項ではないことを明らかにしたにとどまり、公務員の給与など動労条件に関する基準が逐一法律によつて決定されるべきことを憲法上の要件として定めたものではなく、法律で大綱的基準を定め、その実施面における具体化につき一定の制限のもとに内閣に広い裁量権を与え、かつ、公務員の代表者との団体交渉によつてこれを決定する制度を設けることも憲法上は不可能ではない。したがつて、公務員の勤労条件が、その性質上団体交渉による決定になじまず、団体交渉の裏づけとしての団体行動を正当とする余地がないとすることはできないのである。もつとも、公務員の勤労条件の抽象的基準をすべて法律によつて定めることは、憲法上可能であり、わが国においては現にこのような立法政策がとられ、国家公務員法や公務員給与関係諸法律などによつて、公務員の勤労条件の基準に関し詳細な規定が設けられ、しかも、公務員団体に対し団体交渉権が認められているとはいえ、団体協約締結権は否定され、団体交渉により勤労条件が決定される余地や範囲はきわめて狭く、したがつて、公務員の争議権は、団体交渉権の裏づけとしての意味に乏しく、この点において私企業労働者の場合に比し大きな相違が存することは、これを認めなければならない。しかしながら、公務員の争議権が、その実質的効果の点において大きな制約を受けざるをえないからといつて、団体行動による影響力の行使を全く認める余地がないとか、これを全面的に禁止し、これをあおる等のすべての行為に対して刑罰を科しても差しつかえないとの結論が当然に導かれるわけではない。公務員がその勤労条件に関する正当な利益を主張し、かつ、これを守るために団結して意思表示をし、団体交渉以外の団体行動によつて、立法による勤労条件の基準決定などに対して影響力を行使することは、その方法が相当であり、かつ、一定の限界内にとどまるかぎり、刑罰の対象から除外されてしかるべきものである。勤労者にとつて団体行動は、このような影響力行使の唯一ともいうべき手段であり、公務員の場合といえどもことは同様である。多数意見は、このような目的のもとにされる公務員の争議行為が、立法や予算の決定などについての民主的政治過程を不当にゆがめる危険があることを指摘するが、この議論は、公務員の争議行為を無制限に許した場合の弊害については妥当するとしても、およそ一切の争議行為を禁止し、これをあおる等の行為に対して刑罰を科することを正当とする理由となるものではない。換言すれぱ、公務員が自己の要求を貫徹するために、国民生活に重大な影響を及ぼす慮れのあるような争議行為ず遂行し、かつ、これを継続するような場合には、多数意見の危倶する弊害が生ずるかも知れないが、その程度に至らないものについては、そのような弊害が生ずる虞れはなく、要は、その方法および程度の問題にすぎないのである。更に、多数意見は、政府にいわゆる作業所閉鎖(ロツクアウト)による対抗手段がないことを挙げるが、このような対抗手段は、特殊の強力な争議行為に対するそれとしてのみ意味を有するにすぎず、ロツクアウトが利用できないことは、勤労者側におけるすべての争議行為を不当とする理由となるものではない。そればかりでなく、立法や予算とは直接関係のない問題、とくに団体交渉の認められる事柄について団体行動による影響力を行使する必要がある場合も想定されないわけではないのである。このようにみてくると、多数意見の前記(2)の理由も、公務員の争議行為を全面的に禁止し、これをあおる等のすべての行為に対して刑罰を科することを正当づける理由となるものではないというほかはない。
三、現行法上、公務員の勤労条件については、人事院が内閣から独立した機関として設けられ、勧告その他の活動により比較的公正な立場から公務員の正当な利益を守る、いわゆる代償措置に関する制度が設けられていることは、多数意見の指摘するとおりである。しかし、このような代償措置制度の存在は、国民生活全体の利益の保障という見地から、最少限度公務員の労働基本権を制限する場合において、文字どおりその代償として必要とされるものにすぎず、代償措置制度を設けさえずれば労働基本権を制限することができるというわけのものではない。しかも、実際上、人事院の存在およびその活動が、労働基本権の行使と同じ程度に、公務員の勤労条件に関する正当な利益を保護する機能を常に果すものとはいいがたく、とくに、人事院勧告は、政府または国会に対してなんら応諾義務を課するものではないから、政府または国会に右勧告に応ずる措置をとらせるためには、法的強制以外の政治的または社会的活動を必要とし、このような活動は、究極的には世論の支持、協力を要するものであり、世論喚起のための唯一の効果的手段としての公務員による団体行動の必要を全く否定することはできず、また、人事院の勧告の成立過程においても、勧告の内容に対する公務員の要求を表示するために同様の方法をとる場合のありうることも否定できないのである。要するに、代償措置はあくまでも代償措置にすぎず、しかも現代の代償措置制度の運用については、状況に応じた公務員の団体行動による監視、批判、要求、圧力などを必要とする場合もありうべく、単なる代償措置制度の存在を理由として公務員の争議行為を全面的に禁止し、これをあおる等の行為に対して刑罰を科することを正当化することは、とうてい、不可能であるといわざるをえない。
四、なお、多数意見は、その理由中において、前記大法廷の判決が公務員の争議行為禁止およびこれをあおる等の行為の処罰規定について施した限定解釈に対し、それが法律の明文を無視し、立法の趣旨にも反するものであり、また、限定の基準が不明確であつて刑罰法規における犯罪の構成要件の明確化による保障機能を失わせ、憲法三一条に違反する疑いがあると論難している。
ところで、右の大法廷判決における国公法の規定の限定解釈に関する見解のうち、争議行為およびこれをあおる等の行為中、処罰の対象となるものとそうでないものとの区別の基準について、いわゆる違法性の強弱という表現を用いた部分が、犯罪の構成要件としてその内容、範囲につき明確を欠くという批判を受けたことは否定することができない。しかし、右の見解は、憲法二八条が労働基本権を保障していることにかんがみ、勤労者である公務員の争議行為とこれをあおる等の行為のうち、刑罰の対象とならないものを認めるべきであるとの基本的観点にたち、そり基準として、争議行為については、職員団体の本来の目的を達成するために、暴力なども伴わず、不当に長期にわたる等国民生活に重大な支障を及ぼす虞れのないものにかぎつているのであつて、いわゆる違法性の強弱という表現は、以上の趣旨で用いられたものと解されるのである。また、これをあおる等の行為についても組合員の共同意思に基づく争議行為に関し矛その発案、計画、遂行の過程に遍いて、単にその一環として行なわれるにすぎないいわゆる通常随伴行為にかぎり、いずれも処罰の対象から除外すべきものとするにあり、したがつて、争議行為をあおる等の行為が異常な態様で行なわれた場合および組合員以外の第三者または組合員と第三者との共謀によつて行なわれた場合は、通常随伴行為にあたらないものとしているのである。
それゆえ、公務員の争議行為をあおる等の行為が右の基準に照らして処罰の対象となるかどうかは、事案ごとに具体的な事実関係に照らして判断されなければならないこととなるが、このことは、公共企業体職員または私企業労働者の争議行為が、たまたまそれ自体争議行為の禁止を内容としていない他の刑罰法規の構成要件事実に該当する場合、たとえば、いわゆる全逓中郵事件(最高裁昭和三九年(あ)第二九六号同四一年一〇月二六日大法廷判決・刑集二〇巻八号九〇一頁)のような場合に、憲法二八条ないしは労働組合法一条二項の規定との関係から、労働組合の本来の目的を達成するためにした正当な行為であるかどうかにつき、事案ごとに具体的な事実関係に照らして判断されなければならないのと同様である。ただ、後者の関係では違法性阻却の問題であり、前者の関係では構成要件充足の問題であるという相違が生ずるにすぎない。
およそ、ある法律における行為の制限、禁止規定がその文言上制限、禁止の内容において広範に過ぎ、それ自体憲法上保障された個人の基本的人権を不当に侵害する要素を含んでいる場合には、右基本的人権の保障は憲法の次元において処理すべきものであつて、刑法の次元における違法性阻却の理論によつて処理することは相当でなく、また、右基本的人権を侵害するような広範に過ぎる制限、禁止の法律といつても、常にその規定を全面的に憲法違反として無効としなければならないわけではなく、公務員の争議行為の禁止のように、右の基本的人権の侵害にあたる場合がむしろ例外で、原則としては、その大部分が合憲的な制限、禁止の範囲に属するようなものである場合には、当該規定自体を全面的に無効とすることなく、できるかぎり解釈によつて規定内容を合憲の範囲にとどめる方法(合憲的制限解釈)、またはこれが困難な場合には、具体的な場合における当該法規の適用を憲法に違反するものとして拒否する方法(適用違憲)によつてことを処理するのが妥当な処置というべきであり、この場合、立法による修正がされないかぎり、当該規定の適用が排除される範囲は判例の累積にまつこととなるわけであり、ことに後者の方法を採つた場合には、これに期待せざるをえない場合も少なくないと考えられるのである。
以上の点に思いをいたすときは、前記のいわゆる全司法仙台事件の判決が国公法一一〇条一項一七号の規定について前記のような趣旨で構成要件の限定解釈をしたからといつて、憲法三一条に違反する疑いがあるとしてこれを排斥するのは相当でなく、いわんや、この点を理由として、右国公法の規定が解釈上これになんらの限定を加えなくても憲法二八条に違反せず全面的に合憲であるとするようなことは、とうてい、許されるべきではない。
第二 以上、公務員の争議権に関する多数意見の見解の不当であるゆえんを述べたが、ひるがえつて考えるに、本件の処理にあたり、多数意見が、何ゆえ、ことさらにいわゆる全司法仙台事件大法廷判決の解釈と異なる憲法判断を展開しなければならないのか、その必要と納得のゆく理由を発見することができない。
本件は、a労働組合による警職法改正反対闘争という政治目的に出た争議行為をあおることを企て、また、これをあおつた行為が国公法の前記規定違反の罪にあたるとして起訴された事件であり、このような争議行為が憲法二八条による争議権の保障の範囲に含まれないことは、岩田裁判官の意見のとおりである。それゆえ、この点につき判断を加えれば、本件の処理としては十分であり、あえて勤労条件の改善、向上を図るための争議行為禁止の可能性の問題にまで立ち入つて判断を加え、しかも、従前の最高裁判所の判例ないしは見解に変更を加える必要はなく、また、変更を加えるべきではないのである。
憲法の解釈は、憲法によつて司法裁判所に与えられた重大な権限であり、その行使にはきわめて慎重であるべく、事案の処理上必要やむをえない場合に、しかも、必要の範囲にかぎつてその判断を示すという建前を堅持しなければならないことは、改めていうまでもないところである。ことに、最高裁判所が最終審としてさきに示した憲法解釈と異なる見解をとり、右の先例を変更して新しい解釈を示すにあたつては、その必要性および相当性について特段の吟味、検討と配慮が施されなければならない。けだし、憲法解釈の変更は、実質的には憲法自体の改正にも匹敵するものであるばかりでなく、最高裁判所の示す憲法解釈は、その性質上、その理由づけ自体がもつ説得力を通じて他の国家機関や国民一般の支持と承認を獲得することにより、はじめて権威ある判断としての拘束力と実効性をもちうるものであり、このような権威を保持し、憲法秩序の安定をはかるためには、憲法判例の変更は軽々にこれを行なうべきものではなく、その時機および方法について慎重を期し、その内容において真に説得力ある理由と根拠とを示す用意を必要とするからである。もとより、法の解釈は、解釈者によつて見解がわかれうる性質のものであり、憲法解釈においてはとくにしかりであつて、このような場合、終極的決定は多数者の見解によることとならざるをえない。しかし、いつたん公権的解釈として示されたものの変更については、最高裁判所のあり方としては、その前に変更の要否ないしは適否について特段の吟味、検討を施すべきものであり、ことに、僅少差の多数によつてこのような変更を行なうことは、運用上極力避けるべきである。最高裁判所において、かつて、大法廷の判例を変更するについては特別多数決による旨の規則改正案を一般規則制定諮問委員会に諮問したところ、裁判官の英知と良識による運用に委ねるのが適当である、との多数委員の意見により、改正の実現をみるに至らなかつたことがあることは、当裁判所に顕著な事実であるが、この経緯は、右に述べたことを裏づける一資料というべきものである。
ところで、いわゆる全司法仙台事件の当裁判所大法廷判決中の、憲法二八条が労働基本権を保障していることにかんがみ公務員の争議行為とこれをあおる等の行為のうち正当なものは刑事制裁の対象とならないものである、という基本的見解は、いわゆる生逓中郵事件の当裁判所判決およびいわゆる東京都教組事件の当裁判所判決(昭和四一年(あ)第四〇一号同四四年四月二日大法廷判決・刑集二三巻五号三〇五頁)の線にそい、十分な審議を尽くし熟慮を重ねたうえでされたものであることは、右判決を通読すれば明らかなところであり、その見解は、その後その大綱において下級裁判所も従うところとなり、一般国民の間にも漸次定着しつつあるものと認められるのである。ところが、本件において、多数意見は、さきに指摘したように、事案の処理自体の関係では右見解の当否に触れるべきでなく、かつ、その必要もないにもかかわらず、あえてこれを変更しているのである。しかも、多数意見の理由については、さきの大法廷判決における少数意見の理論に格別つけ加えるもののないことは前記のとおりであり、また、右判決の見解を変更する真にやむをえないゆえんに至つては、なんら合理的な説明が示されておらず、また、客観的にもこれを発見するに苦しまざるをえないのである。以上の経過に加えて、本件のように、僅少差の多数によつてさきの憲法解釈を変更することは、最高裁判所の憲法判断の安定に疑念を抱かせ、ひいてはその権威と指導性を低からしめる慮れがあるという批判を受けるに至ることも考慮しなければならないのである。
以上、ことは、憲法の解釈、判断の変更について最高裁判所のとるべき態度ないしあり方の根本問題に触れるものであるから、とくに指摘せざるをえない。

+反対意見
裁判官色川幸太郎の反対意見は、次のとおりである。
第一 争議行為の禁止と刑罰
一、多数意見は、要するに、非現業国家公務員(以下公務員という。)については一切の争議行為が禁止されるのであり、これをあおる等の行為をする者は、何人であつても、刑事制裁を科せられるものであるとし、その旨を規定した国家公務員法(昭和四〇年法律第六九号による改正前のもの、以下国公法という。)一一〇条一項一七号は、これに何らの限定解釈を施さなくとも合憲であるというのであるが、私はこれに決定的に反対である。その理由としては、当裁判所大法廷の都教組事件判決(昭和四一年(あ)第四〇一号同四四年四月二日大法廷判決・刑集二三巻五号三〇五頁)及び仙台全司法事件判決(昭和四一年(あ)第一一二九号同四四年四月二日大法廷判決・刑集二三巻五号六八五頁)(但しこれに付した私の少数意見と抵触する部分を除く。)にあらわれた基本的な見解を引用し、これをもつて私の意見とする。なお、多数意見に含まれる若干の論点について、私のいだいた疑問を開陳し、反対理由の補足としたい。
二、多数意見は、公務員の争議行為が何故に禁止されなければならないか、という理由については、縷縷、言葉をつくして説示しているのであるが(私もその所説については必ずしも全面的に反対するわけではない。)、要は、公務員には争議権を認めるべきではないということだけを力説しているにすぎない。しかるに多数意見は、一転ただちに、科罰の是認へと飛躍し、見るべき論拠をほとんど示すことなく、およそ、争議行為の禁止に違反した場合、これに懲役刑を含む刑罰をもつて臨むことを、争議権制限に伴う当然の帰結とするもののごとくであつて、私としては到底納得できないのである。
思うに、争議行為を制限しまたは禁止する立法例は現に数多く存在する。ひとり公務員の場合だけではない。しかし禁止違反に対し、ただちに、懲役を含む刑罰を加えるべきことが規定されているのは、他に例を見ないところである。公労法一七条は、公共企業体の職員や郵政その他国営企業の現業公務員及びそれらの組合の争議行為を禁止し、このような禁止された行為を共謀し、そそのかし若しくはあおる等の行為は、してはならないと定めており、その点で国公法九八条と趣旨を同じくしているのであるが、その違反者は、解雇処分を受けることがあるにすぎず、禁止の裏付けとなる罰則は全く存在しないのであるから刑罰に処せられることがない(電電公社その他各企業体にはそれぞれの事業法があり、そのなかには不当に業務を停廃したことに対する処罰規定もおかれているが、これは個別的な秩序違反行為を対象としたものであつて、争議行為に適用されるものではないと解する。)。公共企業体の職員や国営企業の現業公務員に対して争議行為を禁止するのは国民の福祉を擁護するためであるから、国公法が公務員に対し争議行為を禁止する趣旨との間に、格段の径庭があるわけではない。それであるから、公務員の争議権が制約されなければならない理由を単に積み重ねただけでは、科罰の合理性を論証したことにはなりえないであろう。
三、もつとも多数意見がその点に全くふれていないわけでもない。いま、多数意見のいうところがら理由つけと見るべきものを求めると(1)公務員の争議行為は広く国民全体の共同利益に重大な障碍をもたらす慮れがあること、そして(2)あおり等の行為をした者はかかる違法な争議行為の原動力または支柱であること、の二点であろうか。しかし、いずれを取りあげても、科罰の合理性につき人をして首肯せしめるには、ほど遠いもののあることを感ぜざるをえない。
刑罰を必要とする第一の、というよりはむしろ唯一の、理由は、争議行為が国民全体の共同利益に重大な障碍をもたらす虞れがあるから、というところに帰着する。しかし、一口に公務員といつても、国策の策定や遂行に任ずる者もあれば、上司の指揮下で補助的な作業にあたつたり、あるいは単純な労務に従事するにすぎない者もあり、その業務内容や職種は千差万別である。のみならず、争議行為のために多かれ少なかれ公務の停廃を見るとしても、争議行為の規模や態様には幾多の段階やニユアンスの差異があるのであつて、国民全体の生活に重大な障碍をもたらすか、またはその慮れがあるような争議行為は、過去の実績に徴しても、極めて異例であるといつて差支えない。国民生活上何らエツセンシアル(これについては後にふれる。)でない公務が、ごく小範囲の職場において、しかも長からざる期間、争議行為によつて停廃を見たとしても(公務員労働関係における大半の紛争状態はまさにこれである。)、国民は多少の不便不利益を蒙るだけである。もともと、労働組合の争議行為は使用者に打撃を加えて己れの主張を貫徹しようとするものであるが、企業は社会から孤立した存在ではないから、そこにおける業務の阻害は第三者にも影響を与えないわけにはいかない。その企業が運輸とか医療とかの公益事業であると、業務の停廃による直接の被害者はむしろ一般公衆である。かくのごとく、第三者も争議行為によつて迷惑を蒙ることを免れないが、それが故に争議行為を全く禁止し、または争議行為によつて第三者の受けた損害を当該労働組合などにすべて負担せしめては憲法二八条の趣旨は全うされないことになるであろう。その意味で第三者はある程度の受忍を余儀なくされるのであり、公務員の場合でも本質的には変るところがないというべきである。
多数意見の立論の基礎は、国民全体の共同生活に対する重大な障碍を与えるという点にあるのであるから、前述のごとき、国民に対し多少の不便をかけるにすぎない軽微な争議行為については、これに刑罰をもつて臨まないとするのが、論理上当然の筋合ではないかと思うのであるが、何故に多数意見は、事の軽重や、国民生活に対する影響の深浅などをすべて捨象度外視して、公務員による一切の争議行為に対し、刑罰を科することを無条件に是認しようとするのであろうか。限定解釈をしてはじめて憲法上科罰が許されると考えている私の到底同調できないところである。
四、つぎに多数意見は、「公務員の争議行為の禁止は、憲法に違反することはないのであるから、」「この禁止を侵す違法な争議行為をあおる等の行為をする者」は、原動力を与える者としての重い責任が問われて然るべきであり、「違法な争議行為の防遏」のためにその者に刑事制裁を科することには「十分の合理性がある」とする。しかしながら争議行為の禁止が違憲でないからといつて、禁止違反に対し刑罰をもつて臨むことまでも、憲法上、当然無条件に認められるということにはならない。憲法は争議権の保障を大原則として宣言しており、公務員もその大部分はかつてその保障下にあつたのである。その後にいたり、国民の福祉との権衡上、やむをえざる例外として制約されるにいたつたものであると解せられるから(多数意見もこの点は同じ見解をとるものであろう。)、禁止違反に対して科せらるべき不利益の限度なり形態なりは、憲法二八条の原点にもう一度立ち帰り、慎重の上にも慎重に策定されなければならないのである。争議行為禁止が違憲でないが故に禁止違反にはいかなる刑罰を科しても差支えない、という説をとるとすれば、これは論理的にも無理というものではあるまいか。多数意見の立論は、公務員の争議行為を禁止することこそ憲法の要請であり、至上命令だというような途方もない前提(多数意見は憲法一五条を論じて公務員の地位の特殊性を説くが、さすがにかかる議論にまでは発展していない。)でもとらないかぎり、破綻せざるをえまい。
五、さらに、多数意見は、あおり等の行為を罰することに十分の合理性があるという。しかし、いうところの合理性とは「争議行為の防遏を図るため」の合理性、すなわち、最少の労力をもつて最大の効果をえようとする経済原則としての合理性に近似したもののように見受けられる。いいかえれば、憲法二八条の原則に対する真にやむをえない例外である科罰が、いかなる合理的な根拠に基づいて容認されるか、という意味での合理性ではなく、それとは全く縁もゆかりもない刑事政策ないしは治安対策上の合理性をいうもののごとくである。
わが国にはかつて、争議行為の誘惑、煽動を取り締る治安警察法一七条という規定があり、これを活用した警察が、明治、大正にわたり、あらゆる争議行為の防遏に美事に功を奏したことがある。当時と異なり争議権の保障のある今日、よもや立法者がその故智先蹤にならつたわけではあるまいが、禁止に背いた違法な争議行為に対処するにあたり、参加者全員を検挙し断罪するのは煩に堪えないばかりでなく、単なる参加者よりも社会的責任の重いいわば巨悪を罰すれば、付和随行の者どもは手を加えるにいたらずして争議行為を断念するであろうという計算があつたのかも知れない。もしそうだとすれば、争議対策としてはなるほど合理的ではあろう。しかしこの考え方は、憲法の次元を離れた、憲法的視野の外にある、便宜的、政策的なもので、もとより採ることは許されない。
六、多数意見は、あおり等の行為に出た者は、争議行為の原動力をなす者であるから、「単なる争議行為参加者にくらべて社会的責任が重く」、したがつてその責任を問われても当然だという。これを裏返していえば、単なる争議行為参加者にも、刑事責任追及の根拠となる社会的責任がないわけではない、ただ原動力を与えた者に比べると軽いだけである、とする主張が底流をなしている。多数意見も、別の個所で、違法な「争議行為に参加したにすぎない職員は刑罰を科せられることなく」と述べてはいるが、それは現行法のあり方を説明したにとどまり、憲法上そうでなければいけないのだという趣旨はどこからも窺うことができない。いまもし現行法が改正されて、単なる争議行為参加者をもことごとく処罰するということになつたと仮定した場合、多数意見の立場からは、これをどう受けとめるであろうか。恐らくは、かくのごとき改正も国会みずからが自由にきめうるところであるとし、その規定を適用することに何の躊躇をも示さないことになるのではあるまいか。
七、上述のように、単なる争議行為参加者は処罰されることがないのであるが、これは区区たる立法政策に出たものと解すべきではない。もしそれをしも処罰するとなれば、ただちに違憲の問題を生ずるであろう。いわゆる争議行為参加者不処罰の原則は憲法二八条との関連において確立されているのである。あおり等の行為の意義も、右の基本的な立場に立脚しではじめて正しく理解することができると考える。
これに対し多数意見はもとより見解を異にするわけであるが、それにしても、単なる争議行為参加者を処罰するものでないことは、多数意見の容認するところである。しかし、あおり等に関する多数意見の解釈はあまりにも広く(多数意見のように、憲法二八条に立脚せず、それとの関係を無視ないし閑却するかぎり、恣意的な解釈で満足するのであれば格別、厳密な態度での合理的な限定解釈を施すことはできる筈がないのである。)もしそれによるとすれば、後に述べるように、単なる争議行為参加者も処罰の脅威を感ぜざるをえなくなるのであつて、多数意見の立論の根拠たる原動力論、すなわち違法な争議行為の原動力をなす者だけを処罰するのだという理論も実は看板だけにしかすぎないことになりおわるのである(多数意見は、わざわざカツコ書きにおいて、単なる機械的労務を提供したにすぎない者、またはこれに類する者はあおりその他の行為者には含まれないとことわつているのであるが、これは争議行為が組合員自身によつて形成され遂行されるものであるという現実を無視した空論なのである。およそ争議行為は、組合員すべてが自己の判断に基づきそれぞれが主体的な立場に立つて参加し行動するのが通例であつて、例えば、末端組合員が普通担当することになるであろうビラの配布、貼付、指令の伝達などにしても、選挙運動の際の日雇労務者などに見られる単なる機械的な労務の提供とはその質を異にする。)。
国公法一一〇条一項一七号によつて罪となる行為には、以上の他に、「そそのかし」と「共謀」とがあるが、これらの行為類型のどれひとつ取りあげても、もし多数意見にならつて文字通りに解釈するとすれば、自由意思に基づいて争議行為に参加し、共闘するところのあつた組合員は、たとえ平組合員であろうとも刑事責任を追及されかねないことになる。なぜならば、平組合員と雖も、いわゆる総けつ起大会に出席し、執行部のスト提案に熱烈な声援を送つて組合員の闘志を鼓舞したとすれば「あおり」にちがいないし、スト宣言文書やアジビラを積極的に職場その他に貼つたり、撒いたりしたときは「そそのかし」に該当しないとはいいきれない。そればかりではない。組合の争議行為意思の形成に進んで参加し、また、争議手段についての討議に加わる(これは組合による闘争の場合必ず通過する過程である。)ことが、果して「共謀」でないといいうるかどうかさえ疑問になりはしないか。
もしかかる設例が必ずしも想定できないわけでないとすれば(争議の実情に鑑みると決してありえないことではない。)、指導的立場において原動力たる役割を演じた組合の中枢部だけでなく、ある程度積極的ではあれ、結局は単なる争議参加者にしかすぎなかつた者を、徹底的に検挙することすら易易たる業となるのである。もし仮にそういう事態が生じたとすれば、これは原動力理論を主張する論者にとつてさえ、恐らく不本意ではあるにちがいない。多数意見も「法は公務員の労働基本権を尊重しこれに対する制約、とくに刑罰の対象とすることを最小限度にとどめようとしている」と説いているのであるから。
もちろん、普通の紛争に見られる程度の事情においては、かかる不合理な結果を来たすような処理はなされないであろうが、法律による何の歯止めもなく、あげてそのことを捜査機関の良識ある裁量に俟つのみとあつては、多数意見の強調する原動力理論も宙に浮く結果となるであろう。
八、多数意見は、ILO九八号条約をひいて、それが公務員に適用されないことをあげ、また、ILO結社の自由委員会の報告中に、「大多数の国において」公務員がストライキを禁止されている旨の記述があるとして、当該個所を引用し、公務員の争議行為に対する制約は、国際的にも是認されるものだと主張する。
なるほど九八号条約の第六条には、多数意見の引用にかかるような定めのあることは事実であるが、一九七一年に発足したILOの公務員合同委員会(これは日本を含む一六の政府及びそれぞれの国の労働者側からなる二者構成の公的な専門委員会である。)の第一回会議(同年三月二二日ないし四月二日開催)におけるジエンクスILO事務局長の開会演説は、「現在多くの国において、公務員の労伽関係に変化が生じており、勤務条件は労使の話合いを通じて決定される傾向がある」ことを指摘しており、また、右委員会における討議の結果採決された決議第一号は
「一九四九年の団結権及び団体交渉権についての原則の適用に関する条約(第九八号)が、「公務員の地位を取り扱うものではない」と規定しているにもかかわらず、すでに若干の国においては、公務員は同条約の規定の全部又は一部の恩恵を受けているということを認識し
公務員は、九八号条約の定めるところに従い、労働組合活動の自由を侵害するいかなる行為に対しても適切に保護されるべきであることを考慮し」
と述べているのである(なお同条約第六条の英文テキストには、アドミニストレーシヨンに従事するパブリツクサーばンツとある。これは日本訳にいう「公務員」よりもはるかに狭いものがありはしないか。現にILOの条約勧告専門委員会は、一九六七年に、公務員の概念は各国の法律制度り相違に応じてある程度異なるにしても、公権力の機関として行動しない公務員を含まないとの趣旨の報告を提出している。本件では直接この点を問題にするわけではないが、多数意見のいうところが拡張して解釈される虞れもあるので指摘しておく次第である。)。
さらに、公務員のストライキを禁止している国が、果して世界の大多数を占めているかどうか、またそうだとしても、そのことの示す意味については問題があると考える。なるほど、数だけからいえば、いまだ少なからざる国が公務員のスト禁止法を存しているが、しかし、その大部分は開発途上国か、そうでなくとも農業国なのである。先進工業国としては、僅かにわが国のほか、アメリカ、オランダ、スイスをあげうるにすぎない。しかも、以前から公務員に対するしめ付けのきわめて厳しいアメリカにおいてさえ、近時いくつかの州において禁止を解く立法がつぎつぎに制定されつつあるのである。
もつとも問題の核心は、実は、その点にあるわけではない。本件においてわれわれが特に関心をもたざるをえないのは、禁止違反に対する刑罰規定の有無なのである。この種の規定が、殊に先進国において、果してどれだけあるのか、多数意見は何らふれるところがない。いうところは、単に禁止立法が多くの国に存在しているとしているだけである。本件をいやしくも国際的視野に立つて検討するのであれば、刑罰を裏付けとする公務員のスト禁止立法の状況にこそ目をくばるべきであろう。
九、わが国はいまだ批准していないけれども、人も知るとおりILO一〇五号条約は、同盟罷業に参加したことに対する制裁としての強制労働を、何らの留保をも加えることなく、一般的に禁止している。もつとも、ILO五二回総会(一九六八年)に提出された専門委員会の報告は、「右条約案を審議した総会委員会において、一定の事情の下ならば違法な同盟罷業に参加したことに対して刑務所労働を含む刑罰を科することができるという合意ができたという事実を考慮することが適当」だと述べているのであるが、この見解には概ね異論がないらしい。それ故、仮に右条約を批准しても(わが国の政府が批准を躊躇しているのはその点を懸念するためでもあろうか。)、国公法一一〇条一項一七号なども右条約には抵触しないとする見解もあるようである。しかし、前示専門委員会が刑罰を容認するのは、「エツセンシヤル」すなわち「必要不可欠な役務」についてのみなのである。そして、「必要不可欠」とは、同委員会によれば、「その中断が住民の全部又は一部の存在又は福祉を危うくするような」場合をさしていることを忘れてはならない。
のみならず、結社の自由委員会は、一二号事件において、アルゼンチンでの、スト禁止違反に対する刑事制裁規定につき
「委員会は、公安にかんする(アルゼンチンの)法規に含まれている、ストライキにたいし、これらの規定を適用する必要性をこれまで見出せなかつた旨の(アルゼンチンの)政府陳述に留意するとともに、これらの規定を、職業上の利益を増進擁護するため、労働組合の指導者が自己の通常の任務を遂行した場合に、これに対しては適用することはできないような態度で、上記諸規定を改正することが望ましい旨、(アルゼンチン)政府の注意を喚起するよう、理事会に勧告する。」と述べている。さらに、五五号事件において(これはギリシヤに刑法上のストライキ処罰規定があることを問題にした申立事件である。)、労働者側の申立を却下はしているのであるが、その理由は、右の刑法の規定が今まで実際には適用されたことがなかつたことに「留意」したからであつて、スト禁止違反に対し刑罰を科することをたやすくは是認しないという態度を示しているのである。
要するにILOの一般的傾向としては、公務員のスト禁止違反に対し刑罰特に懲役を科することには甚だ消極的なのである。
翻つて、各先進国の現行法制を見ると、アメリカにおいてこそ、連邦公務員のスト禁止違反に対し一〇〇〇ドル以下の罰金又は一年と一日以下の拘禁もしくはこれを併科するという罰則があるけれども、イギリス、ドイツ及びフランスでは、警察官などについては格別、普通の公務員については、ストライキを禁止する規定がそもそもないのであるから、もとより刑罰の脅威が存在するわけではない。
以上を通観するならば、世界的な潮流は、多数意見の説くところとおよそ方向を異にするものということができるであろう。多数意見は、自らが「国際的視野」に立つているというのであるが、そうであるとしても、わずかに楯の一面を見たにすぎないのではあるまいか。
第二 本件の団体行動は「争議行為」ではない
一、原判決の認定するところによると、被告人らは、昭和三三年一〇月、内閣が警察官職務執行法の一部を改正する法律案を衆議院に提出したとき、これに反対するために(一)時間内職場大会を開催すべき旨の指令を全国の支部、分会に発出したほか(二)農林省庁舎前において勤務時間内二時間の職場集会を計画、同省職員に参加方を懲慂し、かくして争議行為をあおつたというのである。そうである以上、この行動は、国会に労働組合の意思を反映せしめ、立法過程において前記改正の動きを阻止しようとしたのであるから、政治的目的に出たものというべく、そして、集会実施中は、時間は長くないにしても、管理者の意思を排除し、一斉に勤務を放棄するというのであるから、世にいう政治ストにあたるわけである。
しかし、政治ストというのは俗称にすぎず、純然たる政治的目的のための労働組合の統一行動は、たとえそのために業務の阻害を来たしても、労働法上の争議行為たるストライキとは異質なものなのである。例えば、診療報酬の改訂を要求するための医師会のスト(一斉休診)や、入浴料金据置反対のための浴場業者のストなどは、いかなる意味でも争議行為ではないのであるが、いわゆる政治ストも本質的にはこれらと同様であり、法律改正阻止のための、すなわち国会の審議に影響を及ぼし、かつ政府(この場合は統治機関たる政府であつて、使用者たる政府ではない。)に反省を促すための「スト」は、労働法上の争議行為ではないのである。したがつて、労働組合の行動ではあるが、争議権の行使ではなく、憲法二八条の関知せざるところというべきである。
もとより、憲法二八条の保障を受けないからといつて、それだけの理由で、右の「スト」がただちに違法になるものではない。このことは、あえて憲法二一条を引合に出すまでもなく、明らかであろう。大体、労働組合には政治行動をなすについて労働組合なるが故の特別の保障がないだけであつて、一般に組合に対し政治行動が禁止されていると解すべき何らの理由もないからである。
もつとも、国家公務員については、私企業の労働者の場合と異なり、政治的行為制限の規定(国公法一〇二条)があるが、それをうけて政治的行為の細かい内容を定めた人事院規則には憲法上疑義なしとしないのであつて、右の規定だけに依拠して一切の政治行動が禁圧されているとするのは相当ではない。それにまた、公務員労働組合の法律改正反対運動が議会制民主主義に反するときめつけることにも問題がある(多数意見は、公務員の勤務条件は国会の制定した法律、予算によつて定められるのであるから、勤務条件について公務員が争議行為を行なうことは議会制民主主義に反するという。医師の団体や農業団体が、立法の促進や法律改正の反対などを目的として、国会や政府に強力な圧力をかけていることは日常われわれが見聞するところである。歓迎すべき風潮ではないとしても、当事者としては生活権擁護上やむにやまれずしてとる行動であるかも知れず、また一方、これを禁止する法規があるわけではないから、いうまでもなく合法的行為なのである。労働組合としても別異ではない。労働組合は、本来、使用者との間において、労働条件の維持改善を図ることを主たる目的として結成され、発達してきたのであるが、今日の高度経済成長の時代においては、使用者との角逐に全力をそそぐ必要が次第に少なくなり、さらに広い視野に立つての物心両面における生活の向上に努力する傾向が顕著となつた。労働組合のこの機能の変化は、労働者の生活と意識の変化の反映であり、アメリカ型のビズネスユニオンにおいてさえ、単なる賃上げ組合の域にとどまることはできないのである。したがつて、労働組合が、企業の内部にのみ局せきすることなく、進んで、行政や立法に自らの意思を反映せしめようとするのはまさに時代の要請であり、まことに当然のことなのである。労働組合が国会の審議に影響力を及ぼそうとすること自体は、越軌な行動に出るものでないかぎり、国会の機能に直接、何の障碍をも与えるものではないから、非難に値するわけではあるまい。むしろ考えようによれば、国の最高機関として民衆と隔絶した高きにある国会に、民意のあるところを知らしめることは、議会制をして真の民主主義に近づかしめる方法でもあろう。)。労働組合の政治的行動を一概に否定し排撃することは、労働組合が現に営んでいる社会的役割ないし活動を無視するものというべきである。
もとよりそれだからといつて、公務員労働組合の政治的行動がすべて適法だというつもりはない。この点は別個に考察されなければならない。公務員労働組合によつてなされた本件におけるような態様の政治的行動がいかなる法律的評価を受けるものであるかは、憲法一五条及び二一条と国家公務員法との比較考量によつてきめられるべきことである。しかし、国家公務員に対する政治活動の規制とは全く関係のない訴因、罰条をもつて起訴されている本件においては、これ以上、立ち入つた考察をする必要はないと考える。
二、いわゆる政治ストが労働法上の争議行為ではないというためには、労働法上、争議行為とは何かということを解明することが必要であるし、国公法九八条五項で禁止されている争議行為(五項前段は全体として争議行為を禁止しているものと解する。「政府の活動能率を低下させる怠業的行為」も、広義における争議行為の一部である。これを争議行為と別異なものであるとする説もあるけれども、条文上かくのごときまぎらわしい表現になつているのは、占領下における立法過程に通有の、占領軍が作成し日本政府に押しつけた粗雑なドラフトに屈従した結果と見るべく、要するに立法上のミスであつて、後述する判決中で私が詳述した沿革に徴するときは、上述したところ以外の合理的解釈は考えられないのである。)が、労働法上争議行為とよばれるものと同じであることを論証しなければならないのであるが、この問題については、私がかつて詳しく論じたところ(仙台全司法事件大法廷判決中の私の意見刑集二三巻五号七一五頁以下)であるので、これを引用する。
結局、原判決には、法律の解釈を誤つた違法があり破棄を免れないというのが私の結論である。
第三 判例変更の問題について
最後に、一言付加したいことがある。多数意見は、仙台全司法事件についての当裁判所の判例は変更すべきものであるとしたのであるが、法律上の見解の当否はしばらく措き、何よりもまず、憲法判例の変更についての基本的な姿勢において、私は、多数意見に、甚だあきたらざるものあるを感ずるのである。この点に関しては、本判決に、裁判官田中二郎、同大隅健一郎、同関根小郷、同小川信雄、同坂本吉勝の剴切な意見が付せられており、その所説には私もことごとく賛成であるので、その意見に同調し、私自身の見解の表明に代えることにする。検察官冨田正典、同山室章、同蒲原大輔 公判出席

+判例(H12.3.17)
理由
上告代理人佐藤義弥、同竹澤哲夫、同尾山宏、同岡村親宜の上告理由第一点について
国家公務員法(以下「国公法」という。)九八条二項の規定が憲法二八条に違反するものでないことは、当裁判所の判例(最高裁昭和四三年(あ)第二七八〇号同四八年四月二五日大法廷判決・刑集二七巻四号五四七頁)とするところであり、これと同旨の原審の判断は、正当として是認することができる。論旨は採用することができない。

同第二点及び第三点について
所論引用の結社の自由及び団結権の保護に関する条約(昭和四〇年条約第七号。いわゆるILO八七号条約)三条並びに経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約(昭和五四年条約第六号)八条一項(C)は、いずれも公務員の争議権を保障したものとは解されず、国公法九八条二項及び三項並びに本件各懲戒処分が右各条約に違反するものとはいえないとした原審の判断は、正当として是認することができる。原判決に所論の違法はない。論旨は、右と異なる見解に立って原判決を論難するものにすぎず、採用することができない。

同第四点について
国公法第三章第六節第二款の懲戒に関する規定及びこれに基づく本件各懲戒処分が憲法三一条の規定に違反するものでないことは、最高裁昭和六一年(行ツ)第一一号平成四年七月一日大法廷判決・民集四六巻五号四三七頁の趣旨に徴して明らかというべきである。論旨は採用することができない。

同第五点及び第六点について
所論の点に関する原審の事実認定は、原判決挙示の証拠関係に照らして首肯するに足り、右事実関係の下においては、本件ストライキの当時、国家公務員の労働基本権の制約に対する代償措置がその本来の機能を果たしていなかったということができないことは、原判示のとおりであるから、右代償措置が本来の機能を果たしていなかったことを前提とする所論違憲の主張は、その前提を欠く。論旨は採用することができない。

同第七点について
所論の点に関する原審の事実認定は、原判決挙示の証拠関係に照らして首肯するに足り、右事実関係の下においては、上告人らに対する本件各懲戒処分が著しく妥当性を欠くものとはいえず、懲戒権者の裁量権の範囲を逸脱したものとはいえないとした原審の判断は、正当として是認することができる。原判決に所論の違法はない。論旨は、原審の専権に属する証拠の取捨判断、事実の認定を非難するか、又は右と異なる見解に立って原判決を論難するものにすぎず、採用することができない。
よって、裁判官河合伸一、同福田博の補足意見があるほか、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

+補足意見
裁判官河合伸一、同福田博の補足意見は次のとおりである。
私たちは、法廷意見に賛成するものであるが、なお、上告理由第七点について次のとおり付言しておきたい。
原審が認定した事実関係の下では、昭和五六年度における人事院勧告の一部不実施に引き続く同五七年度における人事院勧告の完全凍結をもって、本件ストライキの当時、国家公務員の労働基本権の制約に対する代償措置がその本来の機能を失っていたとまではいうことができないと考えるが、右のような事情は、争議行為等の禁止違反に対する懲戒処分において懲戒権濫用の成否を判断するに当たっての重要な事情となり得るものというべきである。
すなわち、公務員に懲戒事由がある場合であっても、懲戒権者が裁量権の行使としてした懲戒処分が、右裁量権を行使するに当たって当然に考慮すべき事情を考慮せず、あるいは、同事情を考慮したものとしては社会通念上著しく妥当を欠いて、裁量権の範囲を超えるものと認められるときは、その処分は裁量権を濫用したものとして違法となるものと解すべきである。そして、懲戒事由に該当すると認められる行為が人事院勧告の完全実施を求めるいわゆる人勧ストに関するものである場合には、人事院勧告の完全凍結という前記の事情は、懲戒権濫用の成否を判断するに当たって当然に考慮されるべき重要な事情となるものと考えるのである。
ILO結社の自由委員会報告書による指摘を待つまでもなく、適切な代償措置の存在は公務員の労働基本権の制約が違憲とされないための重要な条件なのであり、国家公務員についての人事院勧告制度は、そのような代償措置の中でも最も重要なものというべきである。したがって、人事院勧告がされたにもかかわらず、政府当局によって全面的にその実施が凍結されるということは、極めて異例な事態といわざるを得ない。そのような状況下において、国家公務員が人事院勧告の実施を求めて争議行為を行った場合には、懲戒権者は、国公法に違反するとして懲戒権を行使するに当たり、争議行為が右異例な事態に対応するものとしてされたものであることを十分に考慮して、慎重に対処すべきものである。本件ストライキは、昭和五七年度の人事院勧告の完全凍結を契機とし、労働基本権制約の代償措置としての人事院勧告の完全実施を求めて行われたものであり、右のような観点からすれば、上告人らに対する本件各懲戒処分は重きに失すると論じる余地がないではない。
しかしながら前記のように代償措置がその機能を完全に失っていたとはいえないこと、本件ストライキは、当局の事前の警告を無視して、極めて大規模に実施されたものであること、上告人らは、全農林労働組合の中央執行委員会の構成員として、本件ストライキの実施に積極的に関与して指導的な役割を果たしたもので、その行為は、国公法九八条二項の禁止する争議行為を共謀し、そそのかし、又はあおったものとして、刑事処罰の対象ともなり得るものであったことなどを考慮すると、上告人らに対する本件各懲戒処分が社会通念上著しく妥当を欠いて裁量権の範囲を逸脱し、これを濫用したものとまで断ずることはできないといわざるを得ない。したがって、本件各懲戒処分は違法とはいえず、これと結論を同じくする原審の判断は是認することができる。

++解説
《解  説》
一 昭和五七年度の国家公務員の給与引上げ等を内容とする人事院勧告につき、政府は財政状態のひっ迫等を理由に同年九月に右勧告の不実施(凍結)を決定した。本件は、右凍結を不服とする全農林労働組合が人事院勧告の完全実施等の要求を掲げて大規模な時限ストを行ったところ、全農林の中央執行委員としてその立案当初から参画し、その実施に積極的に関与して指導的役割を果たした同省職員Xらに対して、争議行為を共謀し、そそのかし、あおったものとして、停職六月ないし三月の各懲戒処分がされたため、Xらが、①公務員の争議行為を全面一律に禁止した国家公務員法(国公法)九八条二項の憲法二八条、ILO条約等違反、②人事院勧告凍結下における同項の適用違憲、③懲戒権の濫用等を主張して、各懲戒処分の取消しを求めた事案である。
一審(本誌七一四号五六頁)及び二審(本誌八七七号一九五頁)ともに、Xらの主張を排斥して、請求を棄却すべきものとし、Xらが上告した。本件は、その上告審判決である。

二 本件の主要な争点は、Xらの主張に対応して、①国公法九八条二項の法令違憲、条約違反等、②人事院勧告凍結下における同項の適用違憲、③懲戒権の濫用の有無である。
1 公務員の労働基本権の制限に関する判例理論については、最大判昭48・4・25刑集二七巻四号五四七頁(全農林警職法事件、本誌二九二号一〇四頁、判時六九九号二二頁)以降、争議行為の全面禁止が合憲とされており、本判決も、右大法廷判決に徴して国公法九八条二項が憲法二八条に違反するものではないと判示している。また、ILO八七号条約三条及び国際人権規約A規約八条一項Cが公務員の争議権を保障したものと解されないことについては、最三小判平5・3・2集民一六八号上二一頁、本誌八一七号一六三頁等が判示しているところであり、本判決も、これと同旨の原審の判断を正当として是認している。

2 全農林警職法事件大法廷判決の合憲論の根拠は、①勤務条件法定主義又は財政民主主義、②市場抑制力の欠如、③職務の公共性、④代償措置の具備といった点に要約することができるが、同判決における岸、天野両裁判官の追加補足意見は、右代償措置こそ公務員の争議行為の禁止が違法とされないための強力な支柱であるから、その代償措置が迅速公平にその本来の機能を果たさず実際上画餅に等しいとみられる事態が生じた場合に、公務員が制度の正常な運用を要求して相当と認められる範囲を逸脱しない手段態様で争議行為に出たとしても、それは憲法上保障された争議行為というべきである旨を説示している(いわゆる画餅論。その後の人事院勧告の完全実施を求める公務員のストライキ(いわゆる人勧スト)に対する懲戒処分等に関する訴訟においては、労働組合側が右画餅論を援用して、代償措置の機能喪失による争議行為禁止規定の適用違憲等の主張が展開されるようになった。人事院が実施時期を明示して給与勧告を行うようになった昭和三五年から同四四年までは勧告された時期どおりの実施がされない状態が続き、その間の人勧スト訴訟においては、画餅論を援用した適用違憲の主張もされたが、最高裁判決においては、いずれも、代償措置がその本来の機能を喪失していたものということができないとした原審の判断を是認し、適用違憲の論旨は前提を欠くものとして排斥されている(最一小判昭63・1・21裁判集民一五三号一一七頁〔佐賀教組事件〕本誌六七五号一一九頁、最一小判平4・9・24裁判集民一六五号四二五頁〔北海道教組事件〕判自一一一号一八頁等)。本件は、昭和五七年度の人事院勧告凍結下での事案であり、従前の実施時期の遅延とは異なるが、本判決は、やはり、代償措置がその本来の機能を果たしていなかったということができないとして、適用違憲の論旨は前提を欠く旨の判断をした右人事院勧告の凍結は、財政非常事態に伴う異例の措置としてなされたものであるところ、本判決は、少なくとも、そのような状況下における人事院勧告の単年度の凍結をもって、直ちに、代償措置がその本来の機能を果たしていないとはいえないことを明らかにしたものといえよう(なお、本判決も、従前の判例と同様に、代償措置の機能喪失が認められる場合に適用違憲の問題が生ずるか否かという点については明確な判断をしたものとはいえない。)。
なお、昭和五七年度の人事院勧告凍結後の公務員の人勧ストに関する事案については、農林水産省職員によるストライキに関する本件事案のほか、教職員によるストライキに関する熊本地判平4・11・26本誌八一四号一七三頁、その控訴審である福岡高判平10・11・20本誌一〇二六号一九一頁、大分地判平5・1・19本誌八一四号九一頁、新潟地判平8・3・19本誌九一九号一三七頁、その控訴審である東京高判平11・12・20高刑速二九五号二頁、札幌地判平11・2・26本誌九九七号一一三頁が、北海道開発局職員によるストライキに関する札幌地判平9・11・27判時一六三二号一三二頁があるが、右大分地判以外は、代償措置の機能喪失を否定しているところである。

3 公務員に懲戒事由がある場合の懲戒権の濫用の判断については、全税関神戸事件における最三小判昭52・12・20民集三一巻七号一一〇一頁、本誌三五七号一四二頁がその判断枠組みを示しているところであるが、人事院勧告の凍結という事情が懲戒権濫用の判断にどのような影響を及ぼすかは議論のあり得るところである(なお、前掲平成11年札幌地判は、代償措置の機能喪失を否定する一方で、懲戒権の濫用を肯定している。)。本判決は、いずれにしても、原判示の事実関係(本件ストライキの規模・態様、Xらの役割・処分歴等)からすれば、本件各懲戒処分が著しく妥当性を欠き裁量権の範囲を逸脱したものとはいえないとした原審の判断が是認できるとしているところである。なお、本判決の補足意見は、人事院勧告の凍結という事情は、懲戒権濫用の成否を判断するに当たって当然に考慮されるべき重要な事情であることを明確にしつつ、本件各懲戒処分に裁量権の濫用があると断ずることまではできないとしている
三 本判決は、昭和五七年度の人事院勧告凍結下における公務員のストライキにつき、最高裁が判断を示した初めての事案であり、実務の参考になろう。

・公務員の争議行為の一律禁止を全面的に合憲とする判断に対しては、人事院勧告は、政府又は国会に対して何ら応諾義務を課するものではないから、政府又は国会に同勧告に応ずる措置を採らせるためには、法的強制以外の政治的又は社会的活動を必要とし、このような活動は、究極的には世論の支持、協力を要するものであるといった批判がある。


憲法択一 人権 基本的人権の限界 特別権力関係における人権 寺西判事補 政令201


・特別権力関係論とは、特別の公法上の原因によって成立する公権力と国民との特別の法律関係を「特別権力関係」という概念でとらえるものである。この理論には、公権力は包括的な支配権を有し、個々の場合に法律の根拠なくして特別権力関係に属する私人を包括的に支配できること(法治主義の廃除)、特別権力関係内部における公権力の行為は原則として司法審査に服さないこと(司法審査の廃除)が含まれる!!!

・伝統的な公法学では、特別権力関係は肯定されてきた。しかし、現在このような関係は認められておらず、公務員の人権制約は、国民全体の共同利益を図るための必要かつやむを得ない制約であると考えられている。

+++解説
まず、日本国憲法では「法の支配」を採用しています。「基本的人権の尊重」という基本原理があり、法律の根拠なく人権を制限することなど認められるものではありません。また、裁判所が人権制限による救済に関与できないというのも、「法の支配」の原理に沿ったものではありません。もうひとつ、「三権分立」の観点からも矛盾があると言えるでしょう。議会の制定した法律のコントロールが利かないなんて、三権分立の原理から逸脱しています。
41条では、国会は唯一の立法機関であると謳っています。にもかかわらず、特別権力関係内部において規律なるものを勝手に定めて人権制限してしまっては、法律以外の規範で人権を支配することになり、41条違反の余地を大きく残すことになるわけですね。
以上の理由より、特別権力関係理論は日本国憲法下においては妥当し得るものではないと言えます。

個別・具体的な検討は必要
ただ、公務員や在監者は、その立場から考えて、一般の国民と比べて一定の人権制約はやむを得ないのではないかという問題意識もあります。同等の人権保障では何らかの支障をきたす場合が起こり得るのではないかと。
そこで、今日において特別権力関係理論は否定するが、公務員や在監者というような特別の法律関係に入った者について、それぞれの法律関係において、いかなる人権が、いかなる根拠からどの程度制約されるのかを、個別・具体的に考えていこうという考え方が採用されています。

+第41条
国会は、国権の最高機関であつて、国の唯一の立法機関である。

・特別権力関係が成立する場合、法律の規定に基づくものと本人の同意に基づくものとがある。そして、公務員の在勤関係は、本人の同意に基づくものとされる!

・特別権力関係には、本質的な問題がある。それは、特別権力関係に属する者が一般国民としての地位に何らかの修正を受ける点で共通の特色を持つにとどまるにもかかわらず、権力服従性という形式的要素によって包括し、人権制約を一般的・観念的に許容する点である!

・裁判官による積極的な政治活動の禁止の目的は、裁判官の独立及び中立・公正の確保に対する国民の信頼の維持、そして、司法と立法・行政とのあるべき関係を規律することであるので、その要請は、一般職の国家公務員に対する政治的行為の禁止の要請よりも強いものというべきである!!!!
+判例(H10.12.1)寺西判事補戒告事件
理由
第一 懲戒についての認定判断
一 懲戒の原因となる事実等
1 本件に至る経緯
(一)抗告人は、平成五年四月九日付けで判事補に任命され、同一〇年四月一日以降、仙台地方裁判所判事補兼仙台家庭裁判所判事補、仙台簡易裁判所判事の職にある者である。
(二)法制審議会が平成九年九月一〇日に組織的犯罪対策法要綱骨子を法務大臣に答申したことに関連して、抗告人は、朝日新聞に、裁判官であることを明らかにして、「法制審議会が組織的犯罪対策法要綱骨子を法務大臣に答申した。団体概念のあいまいさ、資金洗浄規制など問題が多いのだが、ここでは、盗聴捜査についてのみ触れる。裁判官の発付する令状に基づいて通信傍受が行われるのだから、盗聴の乱用の心配はないという人もいる。しかし、裁判官の令状審査の実態に多少なりとも触れる機会のある身としては、裁判官による令状審査が人権擁護のとりでになるとは、とても思えない。令状に関しては、ほとんど、検察官、警察官の言いなりに発付されているというのが現実だ。それを、検察官、警察官の令状請求自体が適切に行われている結果だと言う人もいる。しかし、現行法上は盗聴捜査を認める令状は存在せず、盗聴捜査は違法であるというのが、刑事訴訟法学者の圧倒的多数説であるにもかかわらず、電話盗聴を認める検証許可状が発付され、それが複数の地裁、高裁の判決で合憲・合法だと言い放たれている現実をみると、とてもそうだとは思えないのである。通信の秘密、プライバシー権、表現の自由という重要な人権にかかわる盗聴令状の審査を、このような裁判官にゆだねて本当に大丈夫だと思いますか?」という内容の投書をし、これが「信頼できない盗聴令状審査」という標題の下に、同年一〇月二日付けの同新聞朝刊に掲載された。
(三)内閣は、右答申に基づいて組織的な犯罪の処罰及び犯罪収益の規制等に関する法律案、犯罪捜査のための通信傍受に関する法律案及び刑事訴訟法の一部を改正する法律案(以下、これらを一括して「本件法案」という。)を作成し、平成一〇年三月一三日、これらを衆議院に提出し、参議院に送付した。本件法案への対応については、政党間で意見が分かれており、その取扱いが政治的問題となっていた
(四)本件法案提出前から前記答申に係る組織的犯罪対策法の制定に反対するための諸活動を行っていた「組織的犯罪対策法に反対する全国弁護士ネットワーク」(以下「弁護士ネットワーク」という。)、「破防法、組織的犯罪対策法に反対する市民連絡会」(以下「市民連絡会」という。)及び「組織的犯罪対策法に反対する共同行動」(以下「共同行動」という。)の三団体は、平成一〇年二月二八日、連絡会議を開き、右三団体の準備により同年四月一八日に右反対運動の一環として集会を開くこと、その主催者は個人加盟の集会実行委員会とすること、次回の連絡会議までに三団体が呼び掛け人を募ること、集会の内容として、アピール、弁護士ネットワークの劇「盗聴法の施行された日パート4」の上演、「盗聴法と令状主義」に関するシンポジウム等を行うこと、右シンポジウムのパネリストを抗告人等に依頼することなどを決定した。
(五)弁護士ネットワークのa弁護士は、平成一〇年三月一〇日ころ、抗告人に対し、電話で組織的犯罪対策法の制定に反対する集会を開くので右シンポジウムで話をしてほしいとの依頼をし、抗告人は、これを承諾した。その後、同弁護士は、抗告人に対し、集会のビラをファックス送信した。
(六)そのころ、集会実行委員会は、右集会の名称を「つぶせ!盗聴法・組織的犯罪対策法許すな!警察管理社会4/18大集会」とした上で、集会のプログラムとしては、盗聴事件を考える住民の会会員などのアピール、弁護士ネットワークの劇「盗聴法が施行された日パート4」、b(一橋大学・刑事法)、c(裁判官)、d(弁護士)によるシンポジウム「盗聴法と令状主義」のほか、各政党からの「国会からの報告」が予定される旨を記載したビラを作成し、一般に配布した。これとは別に、共同行動は、「盗聴法・組対法を葬りされ!」との見出しの下に、「国会上程強行弾劾!」、「つぶせ盗聴法!許すな警察管理社会!大集会国会に向けた共同行動のデモ(終了後)」、「盗聴法・組対法廃案へ!『共同行動』緊急闘争」などと記載し、右集会に講師として裁判官である抗告人が参加することなどを知らせるビラを作成して、これを東京都内の地下鉄国会議事堂前駅付近等で配布した。また、「逮捕令状問題を考える会」と称する団体は、インターネット通信において、右集会への賛同を呼び掛け、その中で、裁判官である抗告人がシンポジウムに参加すること、右集会には、同法の成立を阻止しようと様々な分野で運動を担った人たちが参加しており、「盗聴法は令状主義を危機におとしいれると新聞に投書した裁判官」らが同法を阻止しようというその一点で集まると説明した
(七)仙台地方裁判所長は、平成一〇年四月九日、抗告人に対し、共同行動のビラを示して、事実を確認したところ、抗告人は、右集会が本件法案を葬り去るという、法案に反対するための集会であることを承知の上で、その趣旨に共鳴してパネルディスカッションに参加するつもりであることを認め、そのことは裁判所法五二条一号の禁止する「積極的に政治運動をすること」には当たらないと考えるが、同所長が同号に当たると考え、懲戒もあり得るというのなら、再考してみるなどと述べた。
(八)右集会は、平成一〇年四月一八日、東京都千代田区所在の社会文化会館において、約五〇〇人が参加して開かれた(以下、この集会を「本件集会」という。)が、抗告人の申出により、シンポジウムにおいて抗告人がパネリストとして発言することは中止された

2 懲戒の原因となる事実
抗告人は、本件集会において、パネルディスカッションの始まる直前、数分間にわたり、会場の一般参加者席から、仙台地方裁判所判事補であることを明らかにした上で、「当初、この集会において、盗聴法と令状主義というテーマのシンポジウムにパネリストとして参加する予定であったが、事前に所長から集会に参加すれば懲戒処分もあり得るとの警告を受けたことから、パネリストとしての参加は取りやめた。自分としては、仮に法案に反対の立場で発言しても、裁判所法に定める積極的な政治運動に当たるとは考えないが、パネリストとしての発言は辞退する。」との趣旨の発言をし(以下、本件集会におけるこの抗告人の言動を「本件言動」という。)、本件集会の参加者に対し、本件法案が裁判官の立場からみて令状主義に照らして問題のあるものであり、その廃案を求めることは正当であるという抗告人の意見を伝えることによって、本件集会の目的である本件法案を廃案に追い込む運動を支援し、これを推進する役割を果たし、もって積極的に政治運動をして、裁判官の職務上の義務に違反した

二 証拠
以上の事実は、次の各証拠により、これを認める。
1 抗告人の履歴書
2 平成一〇年四月二八日付け仙台地方裁判所事務局長作成の報告書
3 同九年一〇月二日付け朝日新聞記事
4 同一〇年三月三〇日付け最高裁判所事務総局総務局第一課課長補佐作成の報告書
5 同年四月二〇日付け同事務総局刑事局第一課長作成の報告書
6 同月二六日付け仙台地方裁判所事務局長作成の報告書
7 同月九日付け同事務局長作成の聴取結果要旨書
8 同年五月一九日付け弁護士海渡雄一作成の報告書
9 同年七月九日付け抗告人作成の報告書

三 本件言動の評価
1 本件集会は、直接的には集会実行委員会なる組織が主催したことになっているが、同委員会の母体となる組織は、弁護士ネットワーク、市民連絡会及び共同行動という本件法案に反対するための諸活動をしている三団体であり、それらの団体がその運動の手段として連帯し、そのメンバー以外の個人の参加も募った上で組織横断的な実行委員会を設けて本件集会を開くことを計画し、準備したものである。「盗聴法と令状主義」に関するシンポジウムを開き、そのパネリストを抗告人に依頼することを決定したのも、右三団体合同の会議においてである。
2 本件集会は、その企画の経緯及び「つぶせ!盗聴法・組織的犯罪対策法許すな!警察管理社会4/18大集会」という名称自体から明らかなとおり、法案の是非について様々な立場から意見を述べ合うというような単なる討論集会ではなく、明確に本件法案を悪法と決め付けた上で、これを廃案に追い込むことを目的とする運動の一環として開催されたものである。したがって、抗告人がパネリストとして参加を依頼されたのも、もちろん単なる一市民としてではなく、また、単に令状実務に明るい専門家の意見を参考に聴くということでもなく、裁判官による令状審査によって盗聴の適正さを保つことは期待し得ないとの理由から抗告人が法案に反対する立場を採っていることが投書によって既に明らかとなっており、パネリストとして同様の発言をしてもらえれば、それが現職の裁判官の意見であるだけに、集会の参加者に本件法案の不当性を強く印象付けることができ、集会の目的である本件法案の廃案を実現するための運動を前進させる効果を有すると考えられたからであると認められる
3 抗告人は、本件集会が前記のような単なる討論集会ではなく本件法案を廃案に追い込むことを目的とする運動の一環として開かれるものであることを認識して本件集会に参加し、本件言動に及んだものである。
4 本件集会の参加者の多くは、事前にビラ、インターネット通信等によって集会の名称や趣旨を知らされていたと認められるから、その中で行われるシンポジウムも様々な立場から意見を述べ合うものではなく本件法案ないしはそのうちの犯罪捜査のための通信傍受に関する法律案の不当性を訴えるためのものであると予想しており、したがって、現職裁判官である抗告人も本件法案に反対する立場からシンポジウムにおいて「盗聴法と令状主義」について発言する予定であることを認識の上、集まってきていたと認められる。
5 以上のような状況の下においてされた抗告人の本件言動は、発言の直接の内容としても、仙台地方裁判所長の警告は裁判所法の解釈を誤ったものであって、そのような本来従わなくてもよい不当な警告によりやむなくパネリストとなることを断念した旨を積極的に表明したものであり、この発言を聞いた者に対し、自分の本意はあくまで予定どおり壇上においてパネリストとして発言することにあるということを訴える内容を含んでいると認められる。そして、右のような本件集会の参加者の予備知識からするならば、それらの者は、予告されていたとおり令状実務の実情を職務上知る立場にある現職の裁判官が本件法案の廃案実現を目的とする集会に実際に参加していることを認識した上、「仮に」と断ってはいるものの、抗告人の本意は壇上からパネリストとして本件法案に反対の立場で発言することにあると理解したものと認めることができる。このように、本件言動は、本件集会の参加者に対し、本件法案が裁判官の立場からみて令状主義に照らして問題のあるものであり、その廃案を求めることは正当であるという抗告人の意見を伝える効果を有するものであったということができる。
6 したがって、本件言動が本件集会の目的である本件法案を廃案に追い込むための運動を支援しこれを推進する役割を果たしたものであることは、客観的にみて明らかである。抗告人は、単にパネリストにならなかった理由を述べただけであると主張しているが、前記の抗告人の認識からすると、抗告人も、本件言動が右のような役割を果たすものであることを当然認識していたものというべきである。

四 「積極的に政治運動をすること」の意義及びその禁止の合憲性
1 憲法は、近代民主主義国家の採る三権分立主義を採用している。その中で、司法は、法律上の紛争について、紛争当事者から独立した第三者である裁判所が、中立・公正な立場から法を適用し、具体的な法が何であるかを宣言して紛争を解決することによって、国民の自由と権利を守り、法秩序を維持することをその任務としている。このような司法権の担い手である裁判官は、中立・公正な立場に立つ者でなければならず、その良心に従い独立してその職権を行い、憲法と法律にのみ拘束されるものとされ(憲法七六条三項)、また、その独立を保障するため、裁判官には手厚い身分保障がされている(憲法七八条ないし八○条)のである。裁判官は、独立して中立・公正な立場に立ってその職務を行わなければならないのであるが、外見上も中立・公正を害さないように自律、自制すべきことが要請される。司法に対する国民の信頼は、具体的な裁判の内容の公正、裁判運営の適正はもとより当然のこととして、外見的にも中立・公正な裁判官の態度によって支えられるからである。したがって、裁判官は、いかなる勢力からも影響を受けることがあってはならず、とりわけ政治的な勢力との間には一線を画さなければならないそのような要請は、司法の使命、本質から当然に導かれるところであり、現行憲法下における我が国の裁判官は、違憲立法審査権を有し、法令や処分の憲法適合性を審査することができ、また、行政事件や国家賠償請求事件などを取り扱い、立法府や行政府の行為の適否を判断する権限を有しているのであるから、特にその要請が強いというべきである職務を離れた私人としての行為であっても、裁判官が政治的な勢力にくみする行動に及ぶときは、当該裁判官に中立・公正な裁判を期待することはできないと国民から見られるのは、避けられないところである身分を保障され政治的責任を負わない裁判官が政治の方向に影響を与えるような行動に及ぶことは、右のような意味において裁判の存立する基礎を崩し、裁判官の中立・公正に対する国民の信頼を揺るがすばかりでなく、立法権や行政権に対する不当な干渉、侵害にもつながることになるということができる
これらのことからすると、裁判所法五二条一号が裁判官に対し「積極的に政治運動をすること」を禁止しているのは、裁判官の独立及び中立・公正を確保し、裁判に対する国民の信頼を維持するとともに、三権分立主義の下における司法と立法、行政とのあるべき関係を規律することにその目的があるものと解される
なお、国家公務員法一〇二条及びこれを受けた人事院規則一四―七は、行政府に属する一般職の国家公務員の政治的行為を一定の範囲で禁止している。これは、行政の分野における公務が、憲法の定める統治組織の構造に照らし、議会制民主主義に基づく政治過程を経て決定された政策の忠実な遂行を期し、専ら国民全体に対する奉仕を旨とし、政治的偏向を排して運営されなければならず、そのためには、個々の公務員が政治的に、一党一派に偏することなく、厳に中立の立場を堅持して、その職務の遂行に当たることが必要となることを考慮したことによるものと解される(最高裁昭和四四年(あ)第一五〇一号同四九年一一月六日大法廷判決・刑集二八巻九号三九三頁参照)。これに対し、裁判所法五二条一号が裁判官の積極的な政治運動を禁止しているのは、右に述べたとおり、裁判官の独立及び中立・公正を確保し、裁判に対する国民の信頼を維持するとともに、三権分立主義の下における司法と立法、行政とのあるべき関係を規律することにその目的があると解されるのであり、右目的の重要性及び裁判官は単独で又は合議体の一員として司法権を行使する主体であることにかんがみれば、裁判官に対する政治運動禁止の要請は、一般職の国家公務員に対する政治的行為禁止の要請より強いものというべきである。また、国家公務員法一〇二条及び人事院規則一四―七は、一般職の国家公務員が禁止される政治的行為について、同条が自ら規定しているもののほかは、同規則六項が具体的に列挙したものに限定され、政治的色彩が強いと思われる行為であっても、具体的列挙事項のいずれにも該当しないものは、同条の禁止する「政治的行為」には当たらないものとし、しかも、同規則六項は、五号から七号までに定めるものを除き、同規則五項の定義する「政治的目的」をもってする行為のみを「政治的行為」と規定している。これは、右禁止規定の違反行為が懲戒事由となるほか刑罰の対象ともなり得るものである(同法一一〇条一項一九号)ことから、懲戒権者等のし意的な解釈運用を排するために、あえて限定列挙方式が採られているものと解される。これに対し、裁判官の禁止される「積極的に政治運動をすること」については、このような限定列挙をする規定はなく、その意味はあくまで右文言自体の解釈に懸かっている。裁判官の場合には、強い身分保障の下、懲戒は裁判によってのみ行われることとされているから、懲戒権者のし意的な解釈により表現の自由が事実上制約されるという事態は予想し難いし、違反行為に対し刑罰を科する規定も設けられていないことから、右のような限定列挙方式が採られていないものと解される。これらのことを考えると、裁判所法五二条一号の「積極的に政治運動をすること」の意味は、国家公務員法の「政治的行為」の意味に近いと解されるが、これと必ずしも同一ではないというのが相当である
以上のような見地に立って考えると、「積極的に政治運動をすること」とは、組織的、計画的又は継続的な政治上の活動を能動的に行う行為であって、裁判官の独立及び中立・公正を害するおそれがあるものが、これに該当すると解され、具体的行為の該当性を判断するに当たっては、その行為の内容、その行為の行われるに至った経緯、行われた場所等の客観的な事情のほか、その行為をした裁判官の意図等の主観的な事情をも総合的に考慮して決するのが相当である。

2 憲法二一条一項の表現の自由は基本的人権のうちでもとりわけ重要なものであり、その保障は裁判官にも及び、裁判官も一市民として右自由を有することは当然である。しかし、右自由も、もとより絶対的なものではなく、憲法上の他の要請により制約を受けることがあるのであって、前記のような憲法上の特別な地位である裁判官の職にある者の言動については、おのずから一定の制約を免れないというべきである。裁判官に対し「積極的に政治運動をすること」を禁止することは、必然的に裁判官の表現の自由を一定範囲で制約することにはなるが、右制約が合理的で必要やむを得ない限度にとどまるものである限り、憲法の許容するところであるといわなければならず、右の禁止の目的が正当であって、その目的と禁止との間に合理的関連性があり、禁止により得られる利益と失われる利益との均衡を失するものでないなら、憲法二一条一項に違反しないというべきである。そして、右の禁止の目的は、前記のとおり、裁判官の独立及び中立・公正を確保し、裁判に対する国民の信頼を維持するとともに、三権分立主義の下における司法と立法、行政とのあるべき関係を規律することにあり、この立法目的は、もとより正当である。
また、裁判官が積極的に政治運動をすることは前記のように裁判官の独立及び中立・公正を害し、裁判に対する国民の信頼を損なうおそれが大きいから、積極的に政治運動をすることを禁止することと右の禁止目的との間に合理的な関連性があることは明らかである。さらに、裁判官が積極的に政治運動をすることを、これに内包される意見表明そのものの制約をねらいとしてではなく、その行動のもたらす弊害の防止をねらいとして禁止するときは、同時にそれにより意見表明の自由が制約されることにはなるが、それは単に行動の禁止に伴う限度での間接的、付随的な制約にすぎず、かつ、積極的に政治運動をすること以外の行為により意見を表明する自由までをも制約するものではない。他面、禁止により得られる利益は、裁判官の独立及び中立・公正を確保し、裁判に対する国民の信頼を維持するなどというものであるから、得られる利益は失われる利益に比して更に重要なものというべきであり、その禁止は利益の均衡を失するものではない。そして、「積極的に政治運動をすること」という文言が文面上不明確であるともいえないことは、前記1に示したところから明らかである。したがって、裁判官が「積極的政治運動をすること」を禁止することは、もとより憲法二一条一項に違反するものではない。
そうすると、抗告人の本件言動が裁判所法五二条一号所定の「積極的に政治運動をすること」に該当すると解される限り、これを禁止することは、憲法二一条一項に違反しないというべきである。
抗告人は、諸外国において裁判官の政治的行為の自由は広く認められているなどと主張するが、本件においては、本件言動が我が国の裁判官の行為として裁判所法五二条一号に違反したとみられるか否か、その禁止が我が国の憲法二一条一項に違反するか否かが問題であり、歴史的経緯や社会的諸条件等を異にする諸外国における法規制やその運用の実態は、一つの参考資料とはなり得ても、これをそのまま我が国に当てはめることはできない。のみならず、どこの国においても裁判官の政治的な行動には程度の差こそあれ裁判の本質に基づく一定の限界を認めているのであって、裁判所法五二条一号が特異な規定であるとはいえない。なお、同号は、以上のような理由により憲法二一条一項に違反しないものである以上、市民的及び政治的権利に関する国際規約一九条に違反するといえないことも明らかである。

五 本件言動の裁判所法五二条一号該当性特定の法律を制定するか否かの判断は、国の唯一の立法機関である国会の専権に属するものであるところ、裁判官が、一国民として法律の制定に反対の意見を持ち、その意見を裁判官の独立及び中立・公正を疑わしめない場において表明することまでも禁止されるものではないが、前記事実関係によれば、本件集会は、単なる討論集会ではなく、初めから本件法案を悪法と決め付け、これを廃案に追い込むことを目的とするという党派的な運動の一環として開催されたものであるから、そのような場で集会の趣旨に賛同するような言動をすることは、国会に対し立法行為を断念するよう圧力を掛ける行為であって、単なる個人の意見の表明の域を超えることは明らかである。このように、本件言動は、本件法案を廃案に追い込むことを目的として共同して行動している諸団体の組織的、計画的、継続的な反対運動を拡大、発展させ、右目的を達成させることを積極的に支援しこれを推進するものであり、裁判官の職にある者として厳に避けなければならない行為というべきであって、裁判所法五二条一号が禁止している「積極的に政治運動をすること」に該当するものといわざるを得ない
なお、例えば、裁判官が審議会の委員等として立法作業に関与し、賛成・反対の意見を述べる行為は、立法府や行政府の要請に基づき司法に携わる専門家の一人としてこれに協力する行為であって、もとより裁判所法五二条一号により禁止されるものではない。裁判官が職名を明らかにして論文、講義等において特定の立法の動きに反対である旨を述べることも、その発表の場所、方法等に照らし、それが特定の政治運動を支援するものではなく、一人の法律実務家ないし学識経験者としての個人的意見の表明にすぎないと認められる限りにおいては、同号により禁止されるものではないということができる。また、裁判所は、司法制度の運営に当たる立場にあり、規則制定権を有していることなどにかんがみると、司法制度に関する法令の制定改廃についても、一定の意見を述べることができるものと解される。しかし、本件において抗告人が行ったように、特定の法案を廃案に追い込むことを目的とする団体の党派的運動を積極的に支援するような行動をすることは、これらとは質の異なる行為であるといわざるを得ない。

六 懲戒事由該当性及び懲戒の選択
裁判所法四九条にいう「職務上の義務」は、裁判官が職務を遂行するに当たって遵守すべき義務に限られるものではなく、純然たる私的行為においても裁判官の職にあることに伴って負っている義務をも含むものと解され、積極的に政治運動をしてはならないという義務は、職務遂行中と否とを問わず裁判官の職にある限り遵守すべき義務であるから、右の「職務上の義務」に当たる。したがって、抗告人には同条所定の懲戒事由である職務上の義務違反があったということができる。
そして、本件言動の内容、その後の抗告人の態度その他記録上認められる一切の事情にかんがみれば、抗告人を戒告することが相当である。

第二 手続上の問題に関する抗告人の主張に対する判断
抗告人の抗告理由は、別紙の抗告代理人ら提出の抗告理由書、各抗告理由補充書及び抗告人提出の抗告理由書の各抗告理由に記載のとおりであるところ、当裁判所の懲戒についての認定判断は以上のとおりであるが、本件の手続上の問題に関する抗告人の主張のうち主要なものについて、当裁判所の判断を述べることとする。
一 当審において審問期日を開くことの要否
裁判官の分限事件手続規則(以下「規則」という。)三条ないし五条の規定は、分限事件においては、当該裁判官立会いの下において審問期日を開くことを要請しているものとみられるから、第一審においては必ず一度は審問期日を開かなければならないものと解すべきである。しかしながら、抗告審においても審問期日を開かなければならない旨の規定はなく、抗告審は続審であるから、第一審において審問期日を開いている場合に、抗告審において重ねて審問期日を必ず開かなければならないものと解することはできない。したがって、抗告審は、書証以外の新たな証拠を取り調べる必要がある場合を除き、審問期日を開かなければならないものではない。そして、本件において確定すべき事実関係は、原審において取り調べた証拠によって明らかとなっており、当審において新たな証拠を取り調べることを要しないから、審問期日を開く必要はないものということができる。
なお、裁判官分限法(以下「法」という。)八条二項が抗告裁判所の裁判について法七条二項の規定を準用しているので、抗告審は、第一審で既に当該裁判官の陳述を聴いている場合でも、当該裁判官の陳述を改めて聴かなければならないが、陳述を聴く方法については、分限事件に関して準用される非訟事件手続法八条一項が右陳述は書面又は口頭で行うことと規定しているから、抗告審としては、当該裁判官に書面を提出させる方式を採ることも口頭で陳述させる方式を採ることも、いずれも可能であると解される。したがって、法八条二項の規定から、抗告審が必ず審問期日を開かなければならないということが導かれるものではない。
二 抗告人の陳述がないまま懲戒の裁判をすることの適否法七条二項、八条二項が裁判所は懲戒の裁判をする前に当該裁判官の陳述を聴かなければならないとしているのは、陳述の機会を与えなければならないという趣旨であって、その機会を与えたにもかかわらず当該裁判官が陳述をしなかった場合に、陳述のないまま懲戒の裁判をすることを禁ずるものでないことは、明らかである。
記録によれば、原審が二回にわたる審問期日において繰り返し抗告人本人に対し陳述を促したにもかかわらず、抗告人は、本件の審理手続等についての抗告人の主張が裁判所によって受け入れられない限り陳述しないとの態度に終始し、原審がそれらの主張に対する最終的な判断を示してもなお右態度を覆さないまま期日が終了したことが明らかであり、さらに、原審が第三回審問期日は指定しないことを明らかにした上で審問期日における陳述に代わる書面の提出の機会を与えたにもかかわらず、代理人からあくまで第三回審問期日の指定を求める旨の書面が提出されたにとどまり、抗告人の陳述書は提出されなかったことが認められる。右の経過に照らせば、抗告人は、原審が再三にわたり陳述の機会を与えたにもかかわらず陳述をしなかったことが明らかであって、原審が抗告人の陳述がないままに懲戒の裁判をしたことに違法はない。抗告人は、陳述する意思があることを終始明らかにしていたから、抗告人が陳述の機会を放棄したものということは許されないと主張するが、手続を主宰する裁判所の判断が示された以上、法定の不服申立てにより右判断が変更されない限り、その判断に従うべきであって、自己の主張する手続によらなければ審理に応じないとの態度を執り続けることは許されないものというべきである。右主張は到底採用することができない。
抗告人は、当審においても、当裁判所が三週間の期間を定めて書面による陳述の機会を与えたにもかかわらず、独自の見解に固執して、これには応じかねる旨の書面を提出しただけで、本件について陳述する書面を提出しなかったものである。したがって、抗告人は、当審においても陳述の機会が与えられたにもかかわらず陳述をしなかったことが明らかであるから、抗告人の陳述がないことは本件懲戒の裁判をすることの妨げとなるものではない。
三 原審が審問を公開しなかったことの適否
1 規則七条は分限事件の性質に反しない限り非訟事件手続法第一編の規定を準用すると規定しており、審問の非公開を定める同法一三条の規定も、性質に反しない限り分限事件に準用される。
憲法八二条一項は、裁判の対審及び判決は公開の法廷で行わなければならない旨を規定しているが、右規定にいう「裁判」とは、現行法が裁判所の権限に属するものとしている事件について裁判所が裁判という形式をもってする判断作用ないし法律行為のすべてを指すのではなく、そのうちの固有の意味における司法権の作用に属するもの、すなわち、裁判所が当事者の意思いかんにかかわらず終局的に事実を確定し当事者の主張する実体的権利義務の存否を確定することを目的とする純然たる訴訟事件についての裁判のみを指すものと解すべきである(最高裁昭和四一年(ク)第四〇二号同四五年六月二四日大法廷決定・民集二四巻六号六一〇頁等)。
裁判官に対する懲戒は、裁判所が裁判という形式をもってすることとされているが、一般の公務員に対する懲戒と同様、その実質においては裁判官に対する行政処分の性質を有するものである。したがって、裁判官に懲戒を課する作用は、固有の意味における司法権の作用ではなく、懲戒の裁判は、純然たる訴訟事件についての裁判には当たらないことが明らかである。また、その手続の構造をみても、法及び規則の規定中には、監督権を行う裁判所の申立てにより手続を開始し、申立裁判所を代表する裁判官に審問への立会権を認め、申立裁判所にも裁判に対する即時抗告権を認めるなど、当事者対立構造を思わせる定めもみられるけれども、申立てを受けた裁判所は、申立裁判所に懲戒事由の主張立証をさせ、その主張の当否を判断するのではなく、右申立てを端緒として、職権で事実を探知し、必要な証拠調べを行って(規則七条、非訟事件手続法一一条)、当該裁判官に対する処分を自ら行うのである(申立てを受けた裁判所は、懲戒事由に該当する事実を認定したとしても、懲戒を課するか否か、課するとしていかなる内容の懲戒とするかについて、懲戒権者としての裁量権を行使して第一次的判断をするのであり、その点に関する申立裁判所の主張の当否を判断するのではない。)から、分限事件は、訴訟とは全く構造を異にするというほかはない。したがって、分限事件については憲法八二条一項の適用はないものというべきである(最高裁昭和三七年(ク)第六四号同四一年一二月二七日大法廷決定・民集二〇巻一〇号二二七九頁参照)。
なお、憲法八二条二項ただし書の規定は、同条一項の適用がある裁判の対審に関する規定であるから、同項の適用がない分限事件に適用される余地がないことは、いうまでもない。
2 抗告人は、一般の公務員に対する懲戒については、これに不服がある場合には抗告訴訟を提起して裁判所の公開審理を受けることができるのに、裁判官の懲戒については公開審理を受けられないのは不合理であるから、分限事件には憲法八二条一項の適用があると解すべきであると主張する。
しかしながら、裁判官の分限事件を非公開の手続で行うこと自体が憲法八二条一項に違反しないことは既に述べたとおりである。そして、法及び規則においては、手続を公開しないものの、分限事件の重要性にかんがみて、当該裁判官の所属する裁判所の上級裁判所がこれを管轄することとし、高等裁判所においては五人の裁判官により構成される特別の合議体で、最高裁判所においては大法廷で、これを取り扱うこととされている。その手続も、申立書の謄本を当該裁判官に送達しなければならず、第一審においては必ず審問期日を開くこととして、その期日は当該裁判官に通知をし、当該裁判官はその期日に立ち会うことができ、また、懲戒の裁判をする前には当該裁判官の陳述を聴かなければならず、懲戒の裁判をするには、その原因たる事実及び証拠によりこれを認めた理由を示さなければならないとされている。このように、分限事件については、一般の非訟事件はもとより抗告訴訟との比較においても適正さに十分に配慮した特別の立法的手当がされているのであり、これに更に公開審理が保障された訴訟の形式による不服申立ての機会が与えられていなくても、手続保障に欠けるということはできない。
3 そして、以上に述べたところからすれば、分限事件の審問を公開しないことは、憲法三一条、三二条や市民的及び政治的権利に関する国際規約一四条一項に違反するということもできないし、非訟事件手続法一三条の規定を分限事件に準用することがその性質に反するものともいえない。
なお、規則七条の準用する非訟事件手続法一三条ただし書は、裁判所が相当と認める者に傍聴を許すことができる旨を規定しているところ、抗告人は、原審は少なくとも右規定に基づいて報道関係者に傍聴を許すべきであったと主張する。しかし、右規定によって傍聴を認めるか否かは当該裁判所の裁量にゆだねられており、傍聴を認めないことが違法になるのは、裁量の範囲を逸脱し、裁量権の濫用に当たる場合に限られるというべきであり、本件において裁量権の濫用等に当たることを根拠付ける事情は存在しないのであるから、原審が報道関係者の傍聴を許さなかったことに違法はない。
四 原審が第二回審問期日の立会代理人数を三五人に制限したことの適否刑訴法三五条、刑訴規則二六条、二七条は、被告人及び被疑者の弁護人の数の制限につき規定しており、被告人についてみても、裁判所は、特別の事情があるときは、弁護人の選任自体を各被告人について三人までに制限することができるものとしている。右規定をみれば、刑事裁判手続においてすら無制限に弁護人の援助を受け得ることが被告人の当然の権利であるといえないことは、明らかである。民事訴訟及び非訟の手続における代理人については、類似の規定は見当たらないが、これらの手続においても、手続を主宰する裁判所は、その手続を円滑に進行させるために与えられた指揮権に基づいて、期日を開く場所の収容能力、当該期日に予定されている手続の内容、裁判所の法廷警察権ないし指揮権行使の難易等を考慮して、必要かつ相当な場合には、期日に立会う代理人の数を合理的と認められる限度にまで制限することが許されるものと解すべきである。そのように解したからといって、右の制限が合理的なものである限り、当事者の防御権が不当に侵害されるとはいえない。
本件においては、原審が、代理人らに第二回審問期日の前に期日を開く場所の収容能力に限界があるため必要かつ相当な措置として立ち会う代理人の数を制限する意向を示し、当日も約一時間にわたり折衝を経た上で期日を開いたこと、また、三五人の範囲内であれば、抗告人側で適切な者を選別して立ち会わせることが保障されていたことが、記録上明らかであり、三五人という数をもって防御権行使に不足するとは到底考えられないところである。抗告人は、審問期日を開く場所として、中会議室ではなく大会議室を使用すべきであったと主張しているが、原審が審問期日を開く場所を中会議室と定めたのは分限事件の性質にふさわしいと考えたからであることが記録上明らかであり、その判断が不当であるとは認められない。以上のことからすると、原審が立会代理人数を三五人に制限したことに違法はないものというべきである。
なお、抗告人は、原審が審問の立会代理人を弁護士資格のある者に限定をしたことを前提として、その違法をも主張するが、原審の第二回審問調書によれば、原審が右の資格の限定をしたとは認められない。したがって、右主張は前提を欠き失当である。
五 本件懲戒申立てについて裁判官会議の議を経ることの要否裁判官の懲戒申立ては当該裁判官に対して司法行政の監督権を行う裁判所の権限とされている(法六条)から、司法行政事務として裁判官会議の議により行われるべきものである(裁判所法二九条二項等)が、裁判官会議は下級裁判所事務処理規則二〇条一項により所長に権限を委任することができる。そして、仙台地方裁判所事務処理規則四条一項は、司法行政事務のうち同項各号に列挙した事項以外の事項を所長に委任するものと定めているところ、裁判官の分限事件の申立ては、右列挙事項に含まれていない。したがって、右申立ての権限は所長に委任されていると解される。右の委任は、仙台地方裁判所の裁判官会議の議により決せられたものであり、憲法七六条、七八条、裁判所法四〇条等に違反しない。
抗告人は、右事務処理規則六条二項が、所長が常置委員会に諮問して意見を聴いた上で行うべき事項を列挙しており、その中に、「裁判官以外の職員の懲戒に関する事項」を挙げているのに、「裁判官の懲戒に関する事項」は挙げていないことから、裁判官以外の職員の懲戒については所長が単独で処理することができず必ず常置委員会の意見を聴かなければならないのに、裁判官の懲戒については所長が単独で処理することができるというのでは不合理であるから、右規定は裁判官の懲戒に関する事項は所長に委任されていないことを前提としていると主張する。しかしながら、「裁判官以外の職員の懲戒に関する事項」の内容は、所長が任命権を有する職員については所長が懲戒処分そのものを行うことを意味するのに対し、裁判官の懲戒に関しては、所長が行うのは高等裁判所に対して懲戒の申立てをすることにとどまり、懲戒をするか否かは申立てを受けた高等裁判所の裁判体が決定すること、また、裁判官以外の職員の懲戒は場合によっては懲戒免職という重大な結果をもたらすものであるのに対し、裁判官の懲戒は戒告又は一万円以下の過料にすぎない(法二条)ことを考慮すれば、「裁判官以外の職員の懲戒に関する事項」より「裁判官の懲戒に関する事項」の方が重要な事項であるとは、必ずしも断定し得ない。そうすると、規定の文言を無視してまで、裁判官の懲戒に関する事項は所長に委任されていないと解さなければならない理由はないというべきである。
したがって、本件分限事件の申立てについて仙台地方裁判所の裁判官会議の議を経なかったことに違法があったとはいえない。
六 不告不理の原則違反の有無前記のとおり、裁判官分限事件は当該裁判官の監督裁判所の申立てによって手続が開始されるが、申立てを受けた裁判所は、申立ての当否を判断するのではなく、自らが処分の主体となって証拠により認定した事実に基づいて当該裁判官に懲戒を課するかどうかを決するのである。申立ては手続開始の端緒にすぎず、申立てを受けた裁判所は、申立裁判所が申立ての前提とした事実や申立裁判所が提出した証拠に拘束されるのではなく、必要に応じて職権で事実を探知して(規則七条、非訟事件手続法一一条)、懲戒事由の存否や情状につき認定判断すべきものである。したがって、申立書に記載された事実関係と申立てを受けた裁判所が証拠によって認定した事実関係との間に同一性を欠くとはいえない程度の相違があっても、懲戒の裁判が違法となるものではないというべきであり、右の同一性がある範囲内であれば、当該裁判官の弁明・反証の機会を奪うものとはいえない。本件において抗告人の指摘する相違点は、すべて右の同一性の範囲内にあることは明らかであり、しかも、抗告人において反論済みの問題点であって、抗告人の防御権行使に何らの支障もなかったことが明らかである。抗告人の投書の事実も、申立書に証拠として投書記事が添付されており、不意打ちとはいえない。
したがって、原審が申立裁判所に釈明を求めずに申立書記載の事実と細部において異なる事実を認定してこれを基に懲戒を決定したことに違法はなく、このことが憲法三一条等に違反するとはいえない。

第三 結論
以上によれば、抗告人を戒告した原決定は正当であり、本件抗告は理由がない。よって、裁判官園部逸夫、同尾崎行信、同河合伸一、同遠藤光男、同元原利文の各反対意見があるほか、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり決定する。

+反対意見
裁判官園部逸夫の反対意見は、次のとおりである。
私は、裁判官が在任中積極的に政治運動をしたことが認められる場合でも、そのことのみを理由として、当該裁判官を懲戒処分に付することはできないと考えるものである。多数意見は、これと異なる前提に立って懲戒についての認定判断をしているが、私は、多数意見が前提とする裁判所法の解釈については見解を異にするため、これに賛成することができない。その理由は、次のとおりである。
裁判所法五二条一号は、裁判官は在任中積極的に政治運動をすることができないと定め、右行為を絶対的に禁止している。すなわち、裁判官に在任することと積極的な政治運動に従事することとは、そもそも両立し得ないのである。また、右条項により禁止されている裁判官の積極的な政治運動に該当する行為(懲戒事実)と同法四九条所定の懲戒事由及び裁判官分限法二条所定の懲戒処分の種類(戒告又は一万円以下の過料)との間には、明確な対応関係がないので、積極的に政治運動をしたことのみを理由として在任中の裁判官を懲戒処分に付するということは、法の建前ではないと考える。したがって、在任中に積極的に政治運動をしたことが直ちに職務上の義務違反に該当すると判断するのは妥当でない。この点、国家公務員法一〇二条一項及び人事院規則一四―七「政治的行為」が政治的行為の制限を規定し、右制限違反については、同法八二条一号が「この法律又はこの法律に基づく命令に違反した場合」と規定してこれを懲戒事由とした上で戒告から免職に至る各種の懲戒を課するものとするとともに、同法一一○条一項一九号がこれに刑事罰を科するものとしているのとは異なる。
右の理由により、私は、裁判官が在任中に積極的に政治運動をしたことが認定される場合でも、裁判所法四九条所定の第一の懲戒事由である職務上の義務に違反することに該当するとして当該裁判官を戒告又は一万円以下の過料のいずれかの懲戒処分に付することはできないと考える。
ただし、積極的であるかどうかにかかわらず、およそ政治運動をするために職務を怠ったという事実が認められるときは、同法四九条所定の第二の懲戒事由に、また、政治運動をすることによって裁判官の品位を辱める行状があったという事実が認められるときは、同条所定の第三の懲戒事由に該当するとして、懲戒処分に付することができる。
なお、裁判官に対する懲戒処分の手続とは直接関係のないことであるが、裁判官が在任中に積極的に政治運動をした事実が認められ、右運動をするため当該裁判官が職務を甚だしく怠った場合、又は右運動が職務の内外を問わず裁判官としての威信を著しく失うべき非行に当たる場合には、最高裁判所は、所定の手続を経て、当該裁判官について、裁判官弾劾法二条一号後段又は同条二号所定の罷免事由に該当するとして、同法一五条三項に基づき裁判官訴追委員会に罷免の訴追をすべきことを求め、弾劾による罷免の事由に該当するか否かの認定判断を裁判官弾劾裁判所の裁判にゆだねることができる。
以上の前提に立って、本件についてみると、原決定は、抗告人が在任中に積極的に政治運動をしたことを認定判断し、そのことが裁判官の職務上の義務に違反するとして、抗告人を懲戒処分に付しているのであって、抗告人の行為が裁判所法四九条所定の他の懲戒事由に該当するかどうかについては、認定判断をしていない。したがって、原決定には、同法の規定の解釈適用を誤った違法があるといわざるを得ない。そして、本件全証拠によっても、抗告人の行為が同条所定の他の懲戒事由に該当するとは認められない。よって、原決定を取り消し、抗告人を懲戒処分に付さないこととすべきである。

+反対意見
裁判官尾崎行信の反対意見は、次のとおりである。
私は、本件の実体面については、元原裁判官の反対意見に同調するほか、抗告人の行為は「積極的に政治運動をすること」に当たらないとする点において遠藤裁判官とも考えを同じくし、たとえ多数意見のいうとおり抗告人の本件言動をもって右懲戒事由に当たると解し得るとしても、懲戒処分をすることは差し控えるのが相当であるとする点において河合裁判官と考えを同じくするものであるが、当審における審理手続についても、多数意見と立場を異にする。その理由は、次のとおりである。
一 裁判官の分限事件手続規則(以下「規則」という。)七条は、裁判官の分限事件に関し、「その性質に反しない限り、非訟事件手続法第一編の規定を準用する。」と規定している。しかし、本件の当審における審理手続がいかにあるべきかについては、関連する法条の文言にとらわれることなく、事件の類型、性質、内容などに照らしそれらに適した手続はいかなるものか、それが近代法の下における適正な司法運営として広く受容され得るものかを検討の上で、決定することが必要である。
二 かつては、実体的権利義務の存否を確定する純然たる訴訟事件でないものは、いわゆる非訟事件として非訟事件手続法(以下「非訟法」という。)の定める手続により処理され、公開・対審の手続の保障(憲法三二条、八二条)は及ばないと考えられていたが、非訟事件に分類されている事件の中にも、その性質や内容に応じて、今日では、手続的保障を加味し公開・対審の原則の適用を考慮すべき場合があることを認め、そのような場合には、適正手続に従った裁判によって基本的人権を保障することが必要であるとするのが憲法の趣旨に合致すると解されている。従来の訴訟事件・非訟事件の二分類説によって画一的・形式的に審理方法を区別するときは、分類基準のあいまいさから、事件の実質にそぐわない場合が生ずるからである。
三 また、本件のように特別な公法関係に入った者に対する基本的人権保障規定の適用に当たっては、一般人に対する場合と異なった制約の生ずることを認めざるを得ないが、その制約は、特別な公法関係の設定目的及び存在理由からみて合理的であって必要不可欠なものが最小限度で許されるにとどまると解すべきである。これを懲戒について考えると、職務規範、懲戒事由等の実体面では具体的な職務、地位、責任に応じ必要で合理的と認められる制約があり得るが、懲戒手続やその不服申立方法等の手続面では被処分者の名誉等への配慮を要するほかはその関係に内在する合理的な制約を想定することはほとんど不可能である。つまり、懲戒処分事件の場合にも、憲法が一般国民に保障する公正な手続に従った裁判によって最終判断を受ける権利(憲法三二条)を奪う合理的理由は見いだせず、その手続に関する限りは近代司法の諸原則たる直接主義、口頭主義のほか、被処分者が希望する場合には公開主義にものっとって行われるべきものと考えられる。一般の公務員の懲戒については、行政処分として懲戒決定があると、行政不服審査を経た上で司法審査による救済の道が開かれていることをみても、このようにいうべきである。
四 以上の観点からみるだけでも、本件は非訟法に従って処理するだけでは足りないとの結論を導くことができるが、さらに、裁判官の懲戒については、非訟法の定めによらず公開手続、口頭主義、直接主義などの近代司法の原則の下に、基本的人権を保障すべく、格別の配慮を必要とする理由が認められる。
第一に、本件では、懲戒権者が裁判所である点に留意することを要する。すなわち、裁判所は、懲戒権の行使すなわち行政処分の実質を有する行為を裁判という形式で行うのであり、行政機関としての役割と司法機関としての役割を一つの行為によって果たしている。その結果、利害が相反することも想定され、特に被処分者からみれば司法的判断者としての公正・中立に危ぐを抱きやすいことは当然であるし、また外部の一般国民も同様の不信感を覚えることもあろう。
このことにかんがみれば、裁判所は、司法審査権能を適正に行使したことを内外に示すため、本来の司法裁判の原則に照らし、最も公正な手続を採り、司法過程を最大限透明にし、当事者及び世人の危ぐを払拭すべきである。裁判官の職にある者がした裁判であるということだけでは、公正・中立を保障するものではなく、また、その無びゅう性を担保するものでもない。公正・中立は、公開・対審の手続を経ることによって保障の実が上げられるというべきである。公開法廷において、直接主義、口頭主義の原則の下に審理を尽くすことこそが、単に被処分者の基本的人権を保障するだけでなく、裁判所の公正・中立を社会に公示し、その信頼性を確保することとなるのである。
第二に、規則七条が「その性質に反しない限り」非訟法を準用すると定めていることを忘れてはならない。裁判官の懲戒事件は、刑事事件に比すべき重みを有するものであり、その審理手続は、刑事事件手続において要請される裁判の公開、対審構造、証拠主義などの原則に沿ったものが適切である。この面を無視し、民事・家事など通常の非訟事件と同一レベルで本懲戒事件を考え、単に非訟法を文面どおり準用すればよいとすることは、同条が特に「その性質に反しない限り」と定めた趣旨に違背するものというべきである。
また、特別な公法関係にある者の懲戒手続につき司法的救済を拒否する合理的な理由は存在しない。一般の公務員はこれを享受しているのであるから、裁判官も同様の救済を得られるよう非訟法を解釈運用すべきである。
しかも、本件においては、裁判所が懲戒権者の側面と司法的判断者の側面を同時に帯有するため、外観においても内容においても公正・中立を実現するためには特段の努力が要求される場合であるから、本事件の特質、特に右の二面性を考慮すれば、「その性質に反しない限り」の文言に照らし、前記の近代司法の諸原則を適用すべきである。
第三に、裁判所の行う懲戒の裁判が行政処分の実質を有することにかんがみると、当裁判所が本抗告事件を非訟法に従って現に執った手続の下で処理することは、上級行政機関の行う再審査手続と大差がなく、行政機関が終審として裁判を行うことを禁ずる憲法七六条二項の趣旨に反することになると考える。裁判官の場合も他の公務員と同様不利益処分に対して司法救済のみちを開いておくべきである。
しかも、当裁判所において、抗告人が非訟法の定めの下で執り得る司法裁判に要請される適正手続に最大限近い手続による審理を受けることができなかったことは、懲戒事由の有無、懲戒権の存否など訴訟事件として判断さるべき事案につき適正手続下の公正な裁判を受ける権利(憲法三二条)を行使し得なかったこととなるというべきである。
五 要するに、当審において本件を処理するに当たっては、裁判所は公開裁判、口頭主義、直接主義など近代司法の諸原則の下にこれを審理するべきであり、こうした審理、判断であってこそ社会一般も当事者本人も納得させることができ、裁判所への信頼も高められるのであり、そうでない限り、当審の手続は違法たるを免れない。

+反対意見
裁判官河合伸一の反対意見は、次のとおりである。
私は、当審における審理を公開法廷で、直接、口頭により行うべきであるとする点において尾崎裁判官と考えを同じくし、抗告人の本件言動が裁判所法四九条及び五二条一号後段所定の懲戒事由たる「積極的に政治運動をすること」に該当しないとする点において遠藤裁判官及び元原裁判官と考えを同じくするものであるが、さらに、たとえ多数意見のいうとおり抗告人の本件言動をもって右懲戒事由に当たると解し得るとしても、懲戒処分をすることは差し控えるのが相当であると考えるので、その理由を述べておきたい。
一 憲法の保障する思想・信条の自由及びこれに伴う表現の自由は、政治について自己の見解や意見を持ち、それを表明する自由を含むものであり、裁判官も、国民の一人として、基本的にこれらの自由を有することは多言するまでもない。他方、裁判官が、司法に対する国民の信頼を維持するため、その職務を行うについて中立・公正でなければならないことはもとより、外見上も中立・公正を保つことが要請されることは、多数意見の説示するとおりである(裁判官がその職務を行うについて中立・公正でなければならないとの要請は、外見上の中立・公正の要請よりもはるかに強く、いわば絶対的なものである。しかし、本件は直接には裁判官の職務遂行に関するものではないから、以下では、その場合の中立・公正の要請については論じない。)。
二 問題は、裁判官の政治について見解等を表明する自由と、外見上中立・公正を保つことを要請されるという制約とを、いかにして調整し、調和させるかというところにある。
私は、これをするのはまず裁判官自身であり、かつ、制度としても、できる限り、各裁判官の自律と自制に期待すべきものと考える。
本来、裁判官は、高い職業的倫理観ないし良識を有する者であることが想定されている。そのことからすれば、右の調整ないし調和を、まず、裁判官自身の良識に基づく自律と自制にゆだねるのが、当然の順序である。裁判官は、もし何らかの政治的言動をするのであれば、その内容や表現方法はもとより、いわゆる時・所・機会を十分に吟味し、前記中立・公正の要請との調和を図らなければならない。もとより、その判断は常に容易であるとは限らず、殊に経験の浅い裁判官が迷い、ときに誤ることがあるかもしれない。しかし、裁判官は、一般に、比較的親密でしかも自由な職場で、先輩や同僚の意見に接し、助言を得ることができる環境にあるから、それらを得ながら、熟慮を重ねることによって、やがては右判断を適切に行い得る域に達することが期待できるのである。
裁判所法及び裁判官分限法が制定、施行され、裁判官が積極的に政治運動をすることが懲戒事由に該当するものとされてから既に半世紀を超えているのに、これまで右事由により懲戒された例はない。このことは、これまで裁判官が全体として右のような期待に十分こたえてきたことを示すとともに、今後ともその期待を基礎として制度を運用することの正しさを裏付けるものといえよう。
三 私が右のようにいうのは、それが、裁判官及び司法のあるべき姿に添うと信じるからである。
憲法七六条三項は「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。」と規定している。これは、個々の裁判官が裁判をするについての自主独立性を宣明するものである。裁判官は、不断に考究し、謙虚な自省を重ねつつ、自己の裁判官としての良心に従って、職務を行うのである。その裁判官の職務は、事実を確定し、憲法以下の法令を適用して裁判をすることであるが、現代の複雑かつ変化を続ける社会においてこれを適切に行うためには、単に法律や先例の文面を追うのみでは足りないのであって、裁判官は、裁判所の外の事象にも常に積極的な関心を絶やさず、広い視野をもってこれを理解し、高い識見を備える努力を続けなくてはならない。
このような、自主、独立して、積極的な気概を持つ裁判官を一つの理想像とするならば、司法行政上の監督権の行使、殊に懲戒権の発動はできる限り差し控え、だれの目にも当然と見えるほどの場合に限るとすることが、そのような裁判官を育て、あるいは守ることに資するものと信じるのである。
四 抗告人の本件言動それ自体は、要するに、「本件集会においてパネリストとして参加する予定であったが、所長から警告を受けたので取りやめる」との趣旨の発言をしたというものである。、多数意見は、右発言を、それに至る経緯等を背景に置いて評価し、裁判所法五二条一号後段の「積極的に政治運動をすること」という懲戒事由に該当するとしている。しかし、たとえそのような評価が可能であるとしても、それは、いわばぎりぎりの解釈によってである。その意味で、本件はいわゆる限界事例であり、だれが見ても右事由に該当することが明らかで、懲戒権の発動は当然であると見えるということはできない。
このような限界例にまで懲戒権を発動することが、特に若年の裁判官が前述のような自主、独立、積極的な気概を持つ裁判官に育つのを阻害することを、私は危倶する。殊に、右懲戒事由の要件は、「積極的に」といい、「政治運動」といっても、いずれも多義的な、相当に幅のある定めである。そのような幅のある要件について限界まで懲戒権が発動される例を見ることにより、裁判官の中に必要以上に言動を自制する者が現れはしないかと案ずるのである。
本件について、国民の一部から右と同様の危倶が表明されている。それらの多くは、司法が前述のような裁判官によって担われることを望み、懲戒権あるいは司法行政上の監督権が今後広く行使されることによって、その望みが達せられなくなるのではないかとの不安ないし不信を感じているものであろう。もとより、そのような不安ないし不信は杞憂であると考えるが、殊に本件が積極的政治運動を理由とする裁判官懲戒の初めての例であるだけに、そのような不安・不信を感じることも理解できないではない。そして、司法に対する国民の信頼の確保の観点からすれば、そのような不安、不信感を与えること自体、できる限り避けるべきものである。五 抗告人の本件言動を含む一連の言動は、裁判官として不適切であり、支持できるものではない。しかし、だからといって本件懲戒処分の当否の検討が不要となるわけではない。
分限裁判によって裁判官を懲戒する目的は、まず、当該裁判官をして反省させ、その将来の言動を是正しようとするところにあるが、これに加えて、他の裁判官一般に対して、基準を示して自戒を求め、ひいては、司法の中立・公正を国民の前に明らかにして、その信頼を確保しようとするところにもある。本件のような限界事案をもって前記事由による懲戒の初めての先例とすることは、裁判官に示すべき基準として適切でないばかりか、前述のとおり、裁判官一般及び国民に対し、かえって悪しき影響を及ぼすことが懸念されるのである。
六 以上のとおり、私は、たとえ抗告人の本件言動が裁判所法五二条一号後段に該当するといえるとしても、それを理由として懲戒処分をすることは相当でないから、いずれにしても原決定を取り消し、抗告人を懲戒しない旨の決定をすべきものと考える次第である。

+反対意見
裁判官遠藤光男の反対意見は、次のとおりである。
私は、抗告人の本件言動が裁判所法五二条一号所定の「積極的に政治運動をすること」に該当するものではなく、同法四九条所定の懲戒事由である職務上の義務違反行為に当たらないと考えるので、多数意見の結論には反対である。
一 「積極的に政治運動をすること」の意義及びその判断基準
1 憲法二一条一項が保障した表現の自由は、近代民主主義国家の一員である我が国の国民にとって、侵すことのできない永久の権利として付与された貴重な基本的人権の一つである。したがって、この権利は、何人に対しても最大限に保障されなければならないのであって、裁判官であるからといって、その保障の対象から除外される理由はない。もっとも、右自由も、必ずしも絶対的なものではなく、憲法上の他の要請により一定の限度において制約を受けることがあり得ることは、多数意見が指摘するとおりである。裁判所法五二条一号が裁判官に対し、「積極的に政治運動をすること」を禁止したことは、その禁止対象行為が「積極的な政治運動」のみに限定されていること、裁判官が置かれている特別な地位及びその職務内容の特殊性等からみて、やむを得ないものというべきである。
2 「積極的に政治運動をすること」の意義については、それ自体、かなり幅広い概念であって、これを一義的に定義付けることは困難である。
しかしながら、右の概念は、憲法二一条一項が保障した表現の自由に対する重大な制約としての意味を持つものである以上、でき得る限り厳格に解釈されなければならないことはいうまでもない。そして、その解釈の手掛かりとしては、裁判官の政治的行為につき定めていた旧裁判所構成法の制約条項と現行法である裁判所法の制約条項との比較、一般公務員の政治的行為につき定める国家公務員法の制約条項と裁判所法の制約条項との比較、各立法の背景的事実、それぞれの立法の趣旨、目的の違い等からみて、おおよその判断基準を設定することが可能であると考える。
3 旧裁判所構成法七二条一、二号は、判事は在職中「公然政事ニ関係スル事」及び「政党ノ党員又ハ政社ノ社員トナリ又ハ府県市町村ノ議員トナル事」を禁止していた。これに対し、裁判所法五二条一号は、禁止事項として「国会若しくは地方議会の議員となること」及び「積極的に政治運動をすること」を掲げている。このように、右各規定の間には、明らかに文意上の違いがみられる。すなわち、旧裁判所構成法が「政事ニ関係スル事」として、その禁止行為の範囲を幅広く、かつ、漠然と規定していたのに対し、裁判所法は、「積極的に政治運動をすること」とし、その行為を限定している。また、旧裁判所構成法が「政党ノ党員又ハ政社ノ社員」となることまでをも禁止していたのに対し、裁判所法においては、その旨の規定が意識的に排除されているのである。この違いは、単なる表現上の違いにとどまるものではなく、憲法の精神に由来した実質的相違点として理解されなければならない。けだし、旧憲法においても、臣民に対する表現の自由が一応保障されていたとはいえ(旧憲法二九条)、その内容は、「侵すことのできない永久の権利として付与された基本的人権」に基づくものとはほど遠いものであったのに対し、新憲法が保障した表現の自由は、これとは全く異質のものであったため、裁判所法五二条は、憲法二一条一項との抵触を回避するため、前記のように、極めて限定した条件の下に、その制約を認めることとしたものと解されるからである。
したがって、裁判所法は、新憲法の精神にかんがみ、裁判官が政党の党員又は政治結社の社員となることを容認しているばかりでなく、裁判官が社会通念的にみて相当と認められる範囲内の通常の政治運動をすることを認めているものと理解することができるのである。
4 そこで、「積極的な政治運動」と「通常の政治運動」とをどのように画すべきかが問題となるが、多数意見が指摘するとおり、この両者は、裁判官が置かれている憲法上の地位の特殊性(三権分立の原則に基づく独立性)とその職務の特殊性(中立性・公正性)を念頭において分別されるべきものと思われる。すなわち、裁判官は、名実ともに中立・公正に、かつ、すべての権力から独立してその職務を行わなければならないことはいうまでもないが、具体的な職務の遂行を離れてもまた、常に外見上、中立・公正らしさを保持していることが求められているのである。したがって、客観的にみて、そのような中立・公正らしさを保持していることが著しく疑われるような程度に達するような政治運動を行うことは厳に慎まなければならない。裁判所法が「積極的に政治運動をすること」を禁止したゆえんも、正にこの点にあると考えられる。しかし、裁判官といえども、裁判官である前に一市民である。一市民である以上、政治に無縁であり、無関心であり得るはずがない。政治的意識を持つことは当然であり、もともと何らかの政治的立場を保有していたとしても、何ら不思議ではない。現に、前述したとおり、裁判官が政党の党員となり、政治結社の社員となることが容認されている以上、これに準じる程度の政治運動を行うことが禁じられるいわれはない。また、その程度の行為をしたことだけで、裁判官に対し求められる外見上の中立性・公正性が直ちに損なわれることとなったとみるべきではない。けだし、憲法は、「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」と規定しているが(憲法七六条三項)、裁判所法は、裁判官がどのような政治的立場にあろうとも、その立場を超越して、前記規定に基づき忠実にその職権を行うことを期待したものとみてよく、現実にも、多くの裁判官は、その期待に十分こたえているとみられるからである。さらに、我が国における裁判官の政治運動の許容範囲をみるに当たり、社会的諸条件等を異にする諸外国の運用実態を安易に当てはめるべきでないことはいうまでもないが、それにしても、この問題に関する我が国の裁判所の伝統的な考え方は諸外国における考え方とはかなり異なっているように思われてならない。河合裁判官が指摘するとおり、裁判官は、裁判所外の事象にも常に積極的な関心を絶やさず、広い視野をもってこれを理解し、高い識見を備えるよう努めなければならないのであって、そのためにも、でき得る限り自由かっ達な雰囲気の中でその職務に従事することが望まれるのである。このような考え方は、近時国民各層の間に深く浸透しつつあるように思われる。そのような国民の意識からみても、裁判官が多少の政治運動に従事することがあったからといって、直ちにその独立性が失われ、外見上の中立性・公正性が損なわれるに至ったとみることは杞憂にすぎないというべきである。したがって、裁判所法は、裁判官が行った政治運動の態様が社会通念に照らしかなり突出したものであるがゆえに、将来、前記憲法上の要請を逸脱してその職権が行使されるおそれがあり、ひいては、そのことによって、裁判官に求められるその地位の独立性や前記外見上の中立性・公正性までもが著しく損なわれるに至ったと認められる場合に限り、これを禁止行為の対象としたものと解するのが相当である。
5 また、国家公務員法一〇二条及びこれを受けた人事院規則一四―七は、行政府に属する一般職の国家公務員の政治的行為を一定の範囲で禁止しているが、その規定の仕方は、裁判所法五二条一号で定めるところとは、やや異なったものとなっている。
その詳細については、多数意見が指摘しているとおりである。すなわち、国家公務員法及び人事院規則の前記各規定は、法自体が定める政治的行為のほか、右規則が定める政治的行為を禁止することとした上、同規則は、その政治的行為を具体的に列挙する形でこれを定めている。しかし、その範囲は、現実的にはかなり広範なものに及んでおり、しかも、積極的にこれらの行為を行うことを要件付けていない。これに対し、裁判所法は、「積極的に政治運動をすること」のみに限定してこれを禁止しているのであるが、その点に両者の違いが端的に現れている。多数意見は、裁判官に対する政治運動禁止の要請は、一般職の国家公務員に対する要請にも増してより強いものがあるとする。確かに、そのような一面があることは否定することができないが、他面また、行政府に属する一般職の国家公務員は、一たび決定された政策を団体的組織の中で一体となって忠実に執行しなければならない立場に置かれているのに対し、裁判官は、憲法と法律のみに制約されることを前提として独立してその職権を行うことが求められていることに加え、違憲立法審査権が付与されていることなど、その職務の執行面において大きな違いがみられる。このため、一般職の国家公務員に対しては、ある程度幅広くその行為を法的に制約することとしたものの、裁判官の政治的行動に対する制約については、法的強制力を伴った制約をできるだけ最小限度のものにとどめた上、裁判官一人一人の自制的判断と自律的行動にその多くを期待したとみることもできると思われるのである。したがって、裁判所法五二条一号所定の政治運動につき、その行為の修飾語として「積極的に」という言葉が付与されていることの意味は、極めて重く受け止められなければならないと考える。
そうだとするならば、右両規定の違いもまた、その判断基準を前記4のとおり、厳しく限定して解釈すべきものとすることについての重要な一指針となり得るものというべきである。
二 抗告人の言動と懲戒事由の該当性
1 抗告人の言動は、おおむね多数意見において認定されたとおりである。すなわち、抗告人は、いったんは本件集会に出席し、パネリストとして発言しようとしたものの、仙台地方裁判所長から注意されたため、パネリストとしての発言を断念し、会場の一般参加者席からその身分を明らかにした上、これを辞退した理由を説明したというのである。
2 もし仮に、抗告人が現実にパネリストとして登壇し、発言したとした場合、その具体的発言内容いかんによっては、「積極的に政治運動をした」と評価される場合があったかもしれないし、また、他の理由により(例えば、「品位を辱める行状」があったものとして)懲戒事由の存在が認められる場合もあり得るかもしれない。しかし、抗告人の言動が前記の域を超えるものでなかった以上、これによって、抗告人が「積極的に政治運動をした」とみることは困難というべきである。けだし、抗告人の言動は、その主観的意図、目的はともかくとして、(一)主として、いったん応諾したパネリストとしての発言を辞退する理由を説明するためされたものにすぎないこと、(二)特定の法案に反対である旨を表明するとともに、懲戒事由の成否に関する自己の見解を明らかにするにとどまっていること、(三)裁判官としての身分を明らかにした上での発言であることからみて、出席者に対して、事実上、多くの影響を与えたことは推測できないわけではないとしても、反対運動をせん動し、又は反対運動の進め方などにつき具体的かつ積極的な発言をしたものではなかったこと、などにかんがみると、右言動により、抗告人の裁判官としての独立性及び前記外見上の中立性・公正性が著しく損なわれるに至ったと断定することはできないと考えられるからである。
3 抗告人の言動には、遺憾と思われる部分が少なくない。例えば、朝日新聞に対する投書一つをとってみても、あたかも令状実務に携わる裁判官の多くが、検察官や警察官の言いなりになって安易に令状を発付しているかのような誤解を読者に与えかねない性質のものである。現実には、大部分の裁判官が心血を注いで誠実に令状実務に従事していることは疑いの余地がないが、抗告人の投書は、これらの裁判官に対し、耐え難い侮辱を与えたものであるばかりでなく、その実情を知らない多くの国民に対し、いわれなき司法不信の念を植え付けたものであって、その責任は誠に大きい。しかし、右の事情は、本件言動に至るまでの前提的事実にすぎないのであって、申立裁判所の申立て事実である本件言動自体の内容をなすものではない。したがって、この点をとらえて、抗告人を懲戒処分とすることは、許されるべきではない。
私は以上の理由により、抗告人には懲戒事由が存在しないものと考える。よって、原決定を取り消した上、抗告人を懲戒に付さない旨決定すべきである。なお、私は、当審において審問期日を開いた上その手続を公開して行うべきであるとする点において、尾崎裁判官と考えを同じくする。

+反対意見
裁判官元原利文の反対意見は、次のとおりである。
私は、多数意見と異なり、裁判官尾崎行信の反対意見に同調するほか、抗告人の本件言動は、裁判所法五二条一号に定める「積極的に政治運動をすること」には該当せず、同法四九条所定の職務上の義務に違反したことにはならないと考える。その理由は、次のとおりである。
一 裁判所法五二条は、憲法一五条二項、七六条三項、九九条、裁判所法七五条二項後段、七六条等の規定とともに、裁判官としての地位にある者の職務上の義務を定めたものである。したがって、裁判官がこれに反する行為をしたときは、裁判所法四九条に定める「職務上の義務に違反」したものとして、同条を受けて定められた裁判官分限法所定の手続により懲戒されることがあり、さらに、義務違反の程度が著しいときは、裁判官弾劾法所定の手続により罷免されることがあり得るのである。
すなわち、裁判所法五二条各号の定めは、その名あて人である各裁判官に対し、これに違反するときは懲戒あるいは罷免手続に付されることがあり得ることを予告することにより、同条各号の行為をすることを禁ずる職務上の行為準則を示したものであり、このことは、他方、右準則に違反した裁判官に対して懲戒権を行使する者につき、懲戒権行使の限界を画する意味を有するのである。
二 ところで、懲戒の対象となる行為を定める規定は、できる限り具体的かつ個別的であることが望ましい。具体的、個別的であることにより、名あて人はいかなる行為が禁じられているかを容易に知ることができ、懲戒権者も、名あて人が行為準則に反する行為をしたか否かを的確に判断できるからである。
もしその定めが包括的ないし多義的であるときは、その解釈をめぐって意見の相違を来すおそれのあることは明らかである。
懲戒権者は、規定をできる限り広義に解しようとするに対し、名あて人はこれを限定的に解しようとすることは避けられないからである。かくては、行為準則の内容をめぐる懲戒権者と名あて人間の共通の認識が失われ、行為準則を定めたことによる一般予防的な効果が期待できないこととなる一方、懲戒権者が懲戒権を行使するに当たり、行為準則の解釈がし意的であり、懲戒権の行使は不意打ちであるとの非難を被る余地を残すこととなるのである。
三 これを裁判所法五二条各号についてみると、国会又は地方公共団体の議会の議員となること、最高裁判所の許可のある場合を除いて報酬のある他の職務に従事すること、商業を営み、その他金銭上の利益を目的とする業務を行うことについては、その意味内容がそれぞれ一義的であって、その解釈適用については、まず疑問を生ずる余地がないと思われる。ところが、「積極的に政治運動をすること」の意義については、その解釈が区々になる可能性をはらむものと認めざるを得ない。「積極的に」といい、「政治運動」といっても、これを読む者の立場、認識のいかんによって、広狭いかようにも理解し得る表現だからである。
かかる規定を解釈するに当たっては、これが懲戒の対象となるべき行為を定めたものであることに思いを致し、懲戒権者と名あて人の双方が、共通の認識を分かち得るように、その字句から文理上導き出せるところに従い、客観的に中庸を得た視点でこれを行わなければならないと考える。
特に本件の場合、裁判所は懲戒権を行使する行政庁の立場にあるが、それを裁判という形式で行うものであるから、規定の解釈、適用に当たっては、右視点の保持に特に意を用いることが肝要であり、むしろ謙抑的な解釈態度をもって臨むことが望ましいとすら考えられるのである。
四 右の見地に立って、「積極的に政治運動をすること」の意義を考えると、字義に即していえば、「自から進んで、一定の目的又は要求を実現するために、政治権力の獲得、政治的状況の変革、政治的支配者への抵抗、あるいは政策の変更を求めて展開する活動」ということになろう。したがって、その意味するところは、単なる意見表明の域を超え、一定の政治目的を標ぼうする運動の中に自らの意思で身を投じ、目的実現のために活発に活動することを指すこととなるであろう。
また、行為の積極性は、行為者自身の意思とこれを表現する具体的行為の態様に即してこれを見るべきであって、行為の対象となった第三者自体が主体的に決定し、行動した内容について見るべきものでないことはもちろんである。
裁判所法制定当時の経緯及び公刊された同法の解説をみると、単に政党に加入して政党員になったり、一般国民の立場において政府や政党の政策を批判し、あるいは裁判官が講師をしている大学の講義中に特定政党の批判をすることなどは「積極的に政治運動をすること」には当たらないと解されてきたのである。すなわち、裁判所法は、裁判官が「政治運動」をすることの是非については、裁判官個人の職業的倫理感や良識にゆだね、これが「積極的」と評価し得る程度にまで及んだときに、初めて懲戒の対象となる行為としたものと理解できる。したがって、「積極的に政治運動をすること」の解釈は、この相違を念頭において行わなければならないものである。
五 そこで、本件集会における抗告人の言動が、右の意味における「積極的な政治運動」に該当するか否かを検討するに、抗告人の言動が、多数意見第一の一の2で認定されたとおり(ただし、「本件集会の参加者に対し」以降の記載を除く。)であるとしても、その発言の内容は、
(一) 当初は、盗聴法と令状主義というテーマのシンポジウムにパネリストとして参加する予定であったこと
(二) 所長から集会に参加すれば懲戒処分もあり得るとの警告を受けたため、パネリストとしての参加を取りやめたこと
(三) 仮に自分が法案に反対の立場で発言しても、裁判所法に定める積極的な政治運動に当たるとは考えていないこと
(四) しかし、パネリストとしての発言は辞退することであったというのである。
右のうち、(一)、(二)及び(四)は、パネリストとしての参加を求められていながら、参加と発言を辞退するに至った経過を説明したにすぎず、この発言のみに限っていえば、これを目して積極的な政治運動を行ったとまでは到底いい得ないであろう。
したがって、問題は、仮定的な表現となっている(三)の発言が、積極的な政治運動に該当するか否かであろうと思われる。確かに抗告人のこの発言は、出席者に対して、自己がパネリストとして発言するときには、盗聴法の内容に反対する立場から意見を述べる予定であったことを言外に伝える趣旨を含むものであり、抗告人が望んだのもかかる効果であったと理解することも可能である。しかしながら、この発言は、抗告人が、本件集会の出席者に対し、盗聴法の制定に対する反対運動に参加し、これを廃案に追い込むべきことを、明確かつ積極的に訴えかけていると認めるには程遠いものである。そうだとすると、抗告人の本件言動は、先に示した基準に照らし、いまだ積極的な政治運動をしたことには該当しないと解さざるを得ない。これをもって、反対運動を支援し、これを推進する役割を果たしたというのは、過大な評価である。
六 以上の次第であるから、原決定には、裁判所法五二条一号の解釈適用を誤った違法があるというべきである。よって原決定を取り消し、抗告人を懲戒に付さない旨を決定するべきである。

++解説
《解  説》
一 本件は、仙台地方裁判所判事補がいわゆる組織的犯罪対策法案を廃案に追い込むための運動の一環として開催された集会に参加して行った言動が、裁判所法五二条一号が禁止する「積極的に政治運動をすること」に該当し、同法四九条所定の懲戒事由である職務上の義務違反に当たるとして、仙台地方裁判所によって仙台高等裁判所に申し立てられた裁判官分限事件につき、同裁判所が戒告の裁判をしたのに対し、同判事補が最高裁判所に即時抗告を申し立てた事件である。裁判官分限事件の即時抗告審は、最高裁判所が事実認定をも行ったり、小法廷を経由せずに大法廷で審理することが義務付けられているなど、極めて異例の手続を有する。また、裁判官が右禁止規定に違反したことを理由に懲戒の申立てをされたことも、懲戒の裁判に対して即時抗告がされたことも初めてである。本件の抗告理由は憲法論を含む実体上、手続上の多くの点にわたるものであって、先例も文献も乏しい中で、本決定はそれらの点について大法廷が詳細な理由を付して初めての判断を示したものである。それらのうち主要なものが、判示事項として採り上げたものであり、一~四が実体上の問題、五、六が手続上の問題である。

二 本決定は、まず、証拠に基づいて、本件の懲戒の原因となる事実とこれに至る経緯について詳細に事実認定をし、右認定事実に基づいて、抗告人の本件言動の評価を行っている。その上で、本決定は、実体上の問題について、右懲戒の原因となる事実とされた本決定の理由第一、一2記載の抗告人の言動が、裁判所法五二条一号の禁止する「積極的に政治運動をすること」に該当するか否か、その前提として、右規定の解釈、裁判官に対し積極的政治運動を禁止することが裁判官の市民的自由(表現の自由)を侵害しないか、などの問題点について、要旨一~三のとおり判断した。
要旨一の判断は、裁判所法が「積極的に政治運動をすること」を禁止しているのは、憲法の要請に基づき、裁判官の独立及び中立・公正を確保し、裁判に対する国民の信頼を維持するとともに、三権分立主義の下における司法と立法、行政とのあるべき関係を規律することにその目的があるとの認識に基づいてされたものである。その判断の過程においては、従来右規定の解釈の重要な準拠となるといわれていた国家公務員法一〇二条、人事院規則一四―七の規定する「政治的行為」と「積極的に政治運動をすること」の異同についても判断が示されている。
また、要旨二の判断においては、裁判官にも表現の自由の保障が及ぶことは当然であるが、憲法上の特別な地位である裁判官の職にある者の言動にはおのずから一定の制約を免れないとした上で、国家公務員の政治的行為の制限の合憲性について判断した最大判昭49・11・6刑集二八巻九号三九三頁、本誌三一三頁一七一頁、判時七五七号三〇頁と同様の合憲性審査基準が用いられ、裁判官に対し「積極的に政治運動をすること」を禁止することは、合理的で必要やむを得ない限度にとどまる表現の自由の制限であり、憲法二一条一項に違反しないとされている。
要旨三の具体的当てはめの判断は、本決定が冒頭で判示している事実認定とその評価を踏まえてされている。すなわち、本件集会が組織的犯罪対策法案を廃案に追い込むことを目的とするという党派的な運動の一環として開かれたものであったこと、抗告人も他の集会参加者もそのような集会の目的を認識してこれに参加していたことなどに照らし、本件言動は、言葉の上ではそのように明言してはいないものの、集会参加者に対し、右法案が裁判官の立場からみて令状主義に照らして問題のあるものであり、その廃案を求めることは正当であるという同人の意見を伝える効果を有するものであったというほかはなく、抗告人は、これにより、右集会の開催を決定し右法案を廃案に追い込むことを目的として共同して行動している諸団体の組織的、計画的、継続的な反対運動を拡大、発展させ、右目的を達成させることを積極的に支援しこれを推進する行為をしたと認められた。そして、本決定は、右のような党派的運動を拡大、発展、支援、推進する言動をしたことが、裁判所法五二条一号にいう「積極的に政治運動をすること」すなわち「組織的、計画的又は継続的な政治上の活動を能動的に行う行為であって裁判官の独立及び中立・公正を害するおそれがあるもの」に当たると判断したものである。
その上で、本決定は、裁判官の懲戒事由を定める同法四九条と右禁止規定との関係についても判断を示し、同条にいう「職務上の義務」は、裁判官が職務を遂行するに当たって遵守すべき義務に限られるものではなく、純然たる私的行為においても裁判官の職にあることに伴って負っている義務をも含むという解釈を示した上、要旨四のとおり、右禁止に触れる行為は「職務上の義務」に違反するものとして懲戒の対象となると判断した。同条の右解釈は、例えば評議の秘密(同法七五条)を純然たる私的行為に際して漏らす行為が「職務上の義務」違反に当たることが明らかであることからも、是認されよう。そして、本決定は、以上のような認定判断の結果、本件の一切の事情にかんがみて、抗告人を戒告することを相当とし、抗告を棄却したものである。

三 次に、手続上の問題としては、抗告人は様々な主張をしたが、原審が審問手続を非公開で行ったことから、裁判官分限事件に憲法八二条一項の適用があり審問手続を公開の法廷において行わなければならないかが、最大の問題であり、本決定は、要旨五のとおり、同項の適用を否定し、このように解しても、一般の公務員に対する懲戒との対比上も、手続保障に欠けるということはできないとしている。裁判官分限事件の裁判が同項にいう「裁判」に当たらないということについては、憲法の概説書、注釈書等においても一般的に説かれているところであり(例えば、宮沢俊義=芦部信喜・全訂日本国憲法六九五頁、佐藤功・憲法(下)〔新版〕一〇七二頁、樋口陽一外編・注釈日本国憲法下巻一二九六頁〔浦部法穂〕)、あまり異論をみないが、判例としては初の判断である。そして、右の憲法解釈の結果、審問の非公開を定める非訟事件手続法一三条の規定は、裁判官分限事件の性質に反しないから、裁判官の分限事件手続規則七条によって分限事件に準用されることになるものとされている。
また、手続上の問題として、原審が会議室のスペースの関係から審問期日に立ち会うことができる代理人の数を三五人に制限した措置が問題とされたが、本決定は、要旨六のとおり判断して、民事訴訟や非訟の手続については、明文の規定はないが、裁判所の指揮権行使の一態様として立会代理人数の制限をすることも許されるとした。この判断は、分限事件以外にも当てはまるものと解される。
そのほかの手続上の問題に関する判断については、本決定自体を読まれたい。

四 本決定には、「積極的に政治運動をすること」が直ちに「職務上の義務」に違反することにはならないから抗告人を懲戒することはできないとする園部裁判官の反対意見、「積極的に政治運動をすること」をより厳格に解して、これへの本件言動の該当性を否定する遠藤裁判官、元原裁判官の各反対意見、仮に該当するとしても本件において抗告人を懲戒するのは相当でないとする河合裁判官の反対意見、公開の法廷において期日を開いて本件の審理をすべきであるとする尾崎裁判官の反対意見がある。

・労働基本権は、団結権、団体交渉権、団体行動権(争議権)の3つからなり、労働三権と言われている。このうち団結権は、労働者を団結させて使用者の地位と対等に立たせるための権利でありもっとも基本的な権利であるが、現行法上、警察職員・消防職員・自衛隊員等は団結権が制限されている!

・一切の公務員の団体交渉権及び争議権を否認する昭和23年政令201号の合憲性が争われた判例は、憲法13条の「公共の福祉」と憲法15条の「全体の奉仕者」を根拠に(×特別権力関係にに服すること)、公務員の労働基本権の一律禁止を合憲としている!!!!

+判例(S28.4.8)政令201号事件
理由
弁護人森長英三郎の上告趣意第一点について。
被告人又は弁護人においてある法令が憲法違反であるとの主張をした場合に、裁判所が有罪判決の理由中にその法令の適用を挙示したときは、即ちその法令は憲法に適合するとの判断を示したものに外ならないと見るべきであること、当裁判所の判例(昭和二二年(れ)第三四一号、同二三年一二月二二日大法廷判決、刑集二巻一四号一八四五頁)の示すとおりである。それ故に本件の被告人側において所論政令第二〇一号が違憲無致であると主張したのに対し、原判決が特にその判断を明示しないで同政令を適用したからとて、これを以て所論のような違法あるものということはできない。論旨は理由がない。

同第二点について。
昭和二〇年勅令第五四二号は、わが国の無条件降伏に伴う連合国の占領管理に基いて制定されたものである。世人周知のごとく、わが国はポツダム宣言を受諾し、降伏文書に調印して、連合国に対して無条件降伏をした。その結果連合国最高司令官は、降伏条項を実施するため適当と認める措置をとる権限を有し、この限りにおいてわが国の統治の権限は連合国最高司令官の制限の下に置かれることとなつた(降伏文書八項)。また、日本国民は、連合国最高司令官により又はその指示に基き日本国政府の諸機関により課せられるすべての要求に応ずべきことが命令されており(同三項)、すべての官庁職員は、連合国最高司令官が降伏実施のため適当であると認めて、自ら発し又はその委任に基き発せしめる一切の布告、命令及び指令を遵守し且つこれを実施することが命令されておる(同五項)。そして、わが国は、ポツダム宣言の条項を誠実に履行することを約すると共に、右宣言を実施するため連合国最高司令官又はその他特定の連合国代表者が要求することあるべき一切の指令を発し且つ一切の措置をとることを約したのである(同六項)。さらに、日本の官庁職員及び日本国民は、連合国最高司令官又は他の連合国官憲の発する一切の指示を誠実且つ迅速に遵守すべきことが命ぜられており、若しこれらの指示を遵守するに遅滞があり、又はこれを遵守しないときは、連合国軍官憲及び日本国政府は、厳重且つ迅速な制裁を加えるものとされている(指令第一号附属一般命令第一号一二項)。それ故連合国の管理下にあつた当時にあつては、日本国の統治の権限は、一般には憲法によつて行われているが、連合国最高司令官が降伏条項を実施するため適当と認める措置をとる関係においては、その権力によつて制限を受ける法律状態におかれているものと言わねばならぬ。すなわち、連合国最高司令官は、降伏条項を実施するためには、日本国憲法にかかわりなく法律上全く自由に自ら適当と認める措置をとり、日本官庁の職員に対し指令を発してこれを遵守実施せしめることを得るのである。かかる基本関係に基き前記勅令第五四二号、すなわち「政府ハポツダム宣言ノ受諾ニ伴ヒ聯合国最高司令官ノ為ス要求ニ係ル事項ヲ実施スル為、特ニ必要アル場合ニ於テハ命令ヲ以テ所要ノ定ヲ為シ及必要ナル罰則ヲ設クルコトヲ得」といふ緊急勅令が、降伏文書調印後間もなき昭和二〇年九月二〇日に制定された。この勅令は前記基本関係に基き、連合国最高司令官の為す要求に係る事項を実施する必要上制定されたものであるから、日本国憲法にかかわりなく憲法外において法的効力を有するものと認めなければならない。されば論旨は採るを得ない。

同第三点について。
(一) 昭和二〇年勅令第五四二号に基いて命令を制定するためには、連合国最高司令官の要求がなければならぬこと所論のとおりであるが、連合国最高司令官の意思表示が要求であるか又は単なる勧告又は示唆に止まるものであるかは、その意思表示が文書を以てなきれたか口頭によつてなされたか、或は指令、覚書、書簡等如何なる名義を以てなされたかというような形式によつて判定さるべきではなく、意思表示の全体の趣旨を解釈して実質的に判断されなければならない。そこで昭和二三年七月二二日附連合国最高司令官の内閣総理大臣宛書簡を見ると、マツクアーサー元帥は、国家公務員法の改正についてその方針を指示した上、「本改革の成功が占領政策の第一義的目標の一つ」であると言い、次いで「余が国家公務員法を全面的に改正してここに論議された考え方の体制に適合せしめることが時を移さず着手さるべきであると考えたのは、以上の目的達成のためである」と述べ、更らに「本件に関し貴下を援助する可く本司令部は従前通り助言と相談に応ずるであろう」と附言している。これらの文言並にこの書簡が発せられた前後における諸般の事情を合わせ考えてみると、この書簡は、昭和二三年政令第二〇一号に盛られたような改正の方向を指示し要求したものであるのみならず、その具体的内容も右の要求を実現するために必要なものとして連合国司令部が指示したものであると認められる。
(二) 昭和二〇年勅令第五四二号に基く命令を発し得るのは、国会の議決を求めるいとまなき場合に限るという法規は存しないのであるから、所論のように昭和二三年政令第二〇一号の制定の際に、国会を召集するいとまがあつたとしても(実際そのいとまがあつたか否かは爰に論ずるまでもなく)、そのことは右の政令を違法又は無致のものとする理由とはならない。
(三) 論旨はマツクアーサー元帥の書簡にいわゆる公務員とは高級官僚の意味であると主張するけれども、その援用する同書簡中の文言は、このような主張の論拠として薄弱であるのみならず、却て書簡全体の趣旨を綜合すれば、そのいわゆる公務員の中には下級官僚や現業の職員を含むものと解される。例えば同書簡は、従来の国家公務員法の欠陥として、「少数者が団結して政府の権限と権威に加える圧力に対し積極的な保護を与えるもので無」かつた点や、「政府における職員関係と私企業における労働者関係の区別が著しく明確を欠いて」いた点を挙げ、「政府関係に於ては労働運動は極めて制限された範囲に於て適用せらるべきであり、正当に設定せられて主権を行使する行政、司法、立法の各機関にとつて代り或はこれ等に挑戦することはゆるされない」と言い、「国民の団結と公共利益の優越とを宣言している憲法の根本理念」を防護するためには「政府の権能の如何なる一部分も私的の団体若しくは一部の階級にこれをわかち授け、若しくは奪われることはできない」と述べ、また「その勤労を公務に捧げる者と私的企業に従う者との間には顕著なる区別が存在する」「雇傭若しくは任命により日本政府機関若しくはその従属団体に地位を有する者は、何人といえども争議行為若しくは政府運営の能率を阻害する遅延戦術その他の紛争戦術に訴えてはならない。」「団体交渉は国家公務員制度に適用せられるに当つては明確なそして変更し得ない制限を受ける。」と説いている。これ等の語句を、その発せられた当時国鉄、全逓等の労働組合が政府に対して強力な労働攻勢を展開しようとしていた緊迫した情勢と合わせ考えるならば、現業官庁従業員の争議行為を規制することこそ正にこの書簡の主たる目的の一であつたとさえ解される。尤も鉄道並に塩、煙草等の専売など政府事業の職員は普通職から除外せられて良いと述べてはいるが、しかしこれ等の職員についても、「その雇傭せられている責任を忠実に遂行することを怠り、為に、業務運営に支障を起すことなきよう公共の利益を擁護する方法が定められなければならない」と要求している。してみれば、マツクアーサー書簡は高級官僚に関するものであるのに、本件政令第二〇一号は下級官公吏や現業労働者の争議行為を規制しているから、その内容がくいちがつているという論旨は到底採用することができない。
(四) 一般労働委員会による調停、仲裁、斡旋等の紛争処理手段は、団体交渉権及び争議権を有する労働組合の存在を前提とする。それ故にマツクアーサー書簡が既に公務員の団体交渉権及び争議権を否認している以上、労働委員会による調停、仲裁、斡旋なども当然認められなくなつたものと考えなければならない。同書簡にも、公務員がその雇傭条件の改善を求めるためにその希望や不満等を政府に申出る権利は認めているが、それ以外に所論のような紛争処理手段を認めたものと解すべき趣旨は見出されない。してみれば本件政令第二〇一号が、現に係属中の国又は地方公共団体を関係当事者とするすべての斡旋、調停又は仲裁に関する手続を中止することにしたとしても、これを以てマツクアーサー書簡の要求範囲を逸脱した不法あるものということはできない。
(五) マツクアーサー書簡が、政府には常に政府職員の福祉並に利益のために十分な保護の手段を講じなければならぬ義務あるものとしていることは所論のとおりであるが、官公吏の労働条件の改善は、必ずしも所論のように団体交渉権禁止の先決問題とせられているわけではないから、臨時応急的性格を有する本件政令第二〇一号においては、とうあえず団体交渉権禁止の点だけを規定し、労働条件改善については別途の措置を講ずるものとしたとしても、所論のように本件政令がマツクアーサー書簡を曲解した違法のものであるとは言えない。
以上のような次第で本件政令第二〇一号が昭和二〇年勅令第五四二号の要件を充たさないから無效であるとの論旨は、いずれも理由がない。

同第四点について。
国民の権利はすべて公共の福祉に反しない限りにおいて立法その他の国政の上で最大の尊重をすることを必要とするのであるから、憲法二八条が保障する勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利も公共の福祉のために制限を受けるのは已を得ないところである。殊に国家公務員は、国民全体の奉仕者として(憲法一五条)公共の利益のために勤務し、且つ職務の遂行に当つては全力を挙げてこれに専念しなければならない(国家公務員法九六条一項)性質のものであるから、団結権団体交渉権等についても、一般の勤労者とは違つて特別の取扱を受けることがあるのは当然である。従来の労働組合法又は労働関係調整法において非現業官吏が争議行為を禁止され、又警察官等が労働組合結成権を認められなかつたのはこの故である。同じ理由により、本件政令第二〇一号が公務員の争議を禁止したからとて、これを以て憲法二八条に違反するものということはできない
また憲法二五条一項は、すべての国民が健康で文化的な最低限度の生活を営み得るよう国政を運営すべきことを国家の責務としして宣言したものである(当裁判所昭和二三年(れ)二〇五号同年九月二九日大法廷判決、刑集二巻一〇号一二三五頁)。公務員がその争議行為を禁止されたからとてその当然の結果として健康で文化的な最低限度の生活を営むことができなくなるというわけのものではないから、本件政令が憲法二五条に違反するという主張も採用し難い
要するに論旨いずれも理由がない。

同第五点について。
公務員は本件政令第二〇一号により、その二条一項に該当するいわゆる職場離脱を禁止せられたけれども、人格を無視してその意思にかかわらず束縛する状態におかれるのではなく所定の手続を経れば何時でも自由意思によつてその雇傭関係を脱することもできるのである。それ故、所論のように同政令が憲法一八条にいわゆる奴隷的拘束を公務員に加え、その意に反して苦役を科するものであるということはできない。論旨は理由がない。

同第六点について。
論旨は被告人等が何等かの要求を提出しその要求を実現するために行動したものであるという証拠はないのであるから、原判決がその所為を争議手段と認めたのは違法であるというのである。しかし原判決挙示の証拠、就中被告人Aに対する本件第一審第一回公判調書中の同人の供述記載によれば、被告人等の所属する国鉄労働組合青森支部弘前機関区分会が国家公務員法改正反対、五千二百円べース即時実施、芦田内閣打倒等の項目を挙げて闘争方針を定めたこと、並に機関区の者達が庫内手や機関車乗務員の劣悪な待遇の改善に関する政府の冷淡な態度に対し被告人等の当然の権利を奪還するために、また憲法、ポツダム宣言等に違反し、団体交渉権争議権を奪う本件政令は無効なものであるとの主張を貫徹するために祖国独立推進青年行動隊を結成して闘争したものであることがわかる。被告人等は政府に対するこのような主張を貫徹する手段として職場を離脱したものであるから、原判決がこれを本件政令第二〇一号二条一項にいわゆる争議手段にあたるものと認めたのは正当であつて、論旨は理由がない。

弁護人小沢茂の上告趣意第一点について。
昭和二〇年勅令第五四二号が違憲であるとの論旨(1、2、3)及び昭和二三年政令第二〇一号が右勅令に定めた要件を充たさないから無效であるとの論旨(4)いずれの点も理由なきことは、それぞれ森長弁護人の上告趣意第二点及び第三点について述べたとおりである。
次に論旨(5)は、政令第二〇一号は憲法七三条に違反するから無效であると主張するが、既に森長弁護人の上告趣意第二点について述べたように、勅令第五四二号が憲法にかかわりなく憲法外において法的效力を有する以上、この勅令に基いて制定された勅令第二〇一号も亦右憲法の規定にかかわりなく有効である。
更らに勤労者の団結権、団体交渉権、団体行動権に関する事項は法律を以て規定すべきであるのに、政令を以てこれを規定したのは違憲であるとの論旨(6)も亦、右と同様の理由によりて政令第二〇一号を無数とする理由とならない。論旨(6)はなお右政令第二〇一号が政令でありながらその一条二項において、本来法律を以て規定すべき勤労条件に関する基準的事項を規定したことを以て憲法二七条に違反するものであると主張しているが、原判決は右政令一条二項を本件に適用していないから、これは本件と関係なき主張である。
最後に政令第二〇一号が憲法二八条に定めた基本的人権を侵すものであるとの論旨(6)の理由なきことは、森長弁護人の上告趣意第四点について述べたとおりである。

同第二点について。
前記のように政令第二〇一号は憲法にかかわりなく有效である。従つてまた当然に憲法に基いて制定された労働組合法、労働関係調整法等にかかわりなく有数である。換言すればこれ等の法律の規定は政令第二〇一号に矛盾する限り廃止又は変更されたこととなるのであるから、原判決が本件に前者を適用せずして後者を適用したのは当然である。論旨は理由がない。

同第三点について。
昭和二三年政令第二〇一号にいわゆる公務員の中に国鉄従業員を含まないという論旨の理由なきことは、森長弁護人の上告趣意第三点((三))について述べたとおりである。

同第四点について。
原判決の確定したところによれば、被告人B、同Cは、昭和二三年八月二四日免雇に至るまで各仙台鉄道局弘前機関区勤務の機関助士であり、同Dは、同年同月三〇日免雇に至るまで同機関区勤務の技工であり、また、同Aは、同年同月二七日免雇に至るまで同機関区勤務の庫内手であつた者で、いずれも、判示のごとく国鉄業務運営の能率を阻害する争議手段をとつた者である。しかるに、昭和二三年七月三一日公布の政令第二〇一号一条によれば、任命によると雇傭によるとを問わず、国又は地方公共団体の職員の地位にある者は、同令にいわゆる公務員であつて、同令二条、三条によれば、かかる公務員は、何人といえども、同盟罷業又は怠業的行為をなし、その他国又は地方公共団体の業務の運営能率を阻害する争議手段をとつてはならないものであつて、これに違反する行為をしたときは、国又は地方公共団体に対し、その保有する任命又は雇傭上の権利をもつて対抗することがてきないばかりでなく、一年以下の懲役又は五千円以下の罰金に処されるものである。されば、被告人等は、いずれも、同政令にいわゆる公務員として同政令二条一項に違反し、同三条に該当するものといわなければならない。
そして、同政令附則二項によれば、同令は、昭和二三年七月二二日附内閣総理大巨宛連合国最高司令官書簡に言う国家公務員法の改正等国会による立法が成立実施されるまで、その効力を有するに過ぎない性格の法令であり、しかも、右書簡に言う国家公務員法の第一次改正法律(昭和二三年一二月三日法律第二二二号国家公務員法の一部を改正する法律)附則八条は、「昭和二三年七月二二日附内閣総理大臣宛連合国最高司令官書簡に基く臨時措置に関する政令(昭和二三年政令第二〇一号)は、国家公務員に関して、その致力を失う。前項の政令がその致力を失う前になした同令第二条第一項の規定に違反する行為に関する罰則の適用については、なお従前の例による。」と明定して、当時既に同政令に違反して成立した同令の刑罰を廃止しない旨を表明しているのである。従つて、被告人等の判示在職中の前記政令第二〇一号二条一項の違反行為に対する罰則の適用については、依然として同令三条によるべきものといわなければならない。それ故、所論は、いずれも採用することはできない。

同第五点について。
原判決は被告人等が判示日時に、無届でその職場を欠勤し以て国鉄業務運営の能率を阻害する争議手段をとつた旨を判示している。判決書には罪となるべき事実を具体的に記載すれば足るのであるから、原判決は本件政令第二〇一号違反の犯罪事実を判示するものとして欠けるところなく、それ以上に本件無届欠勤が何故に犯罪となるかの理由等を判示する必要はない。論旨は理由がない。

同第六点について。
昭和二三年政令第二〇一号が憲法違反であるとの主張に対して原判決が判断を示していないという非難の理由なきことは、森長弁護人の上告趣意第一点について述べたとおりである。
同第七点について。
被告人等は所論のように本件政令が違憲のものであるとの見解を抱いていたという理由によつて罰せられたのではなく、その主張を貫徹するために職場離脱により国鉄運営の能率を阻害する争議手段をとつたがために処罰せられたのである。病人の無届欠勤の場合との相違は、如何なる見解を抱いていたかの点にあるのではなくして、争議手段として欠勤したか否かの点にある。それ故に原判決が憲法一九条及び二一条に違反するという論旨は理由がない。

弁護人福田力之助の上告趣意第一点及び第二点について。
昭和二〇年勅令第五四二号が新憲法下で無致であるとの論旨(第一点)及び昭和二三年政令第二〇一号が違法であるとの主張(第二点)がいずれも理由なきことは、それぞれ森長弁護人の上告趣意第二点及び第三点((一)及び(二))について述べたとおりである。
同第三点について。
原判決は、被告人B及びCは仙台鉄道局弘前機関区勤務の機関助士、同Dは同機関区勤務技工、同Aは同機関区勤務庫内手であるという事実を、それぞれ原審公判廷における各自供に基いて認定し、これ等の身分はいずれも昭和二三年政令第二〇一号にいわゆる公務員にあたるものとして、同政令を適用したのである。同政令においては、任命によると雇傭によるとを問わず、国又は地方公共団体の職員の地位にある者を公務員という(一条)のであるから、被告人等のような職員が公務員であることは明らかである。それ故原判決に所論のような違法あるものということはできない。論旨は理由がない。
同第四点について。
本件政令第二〇一号違反の罪が成立するためには、必ずしも業務の運営能率を阻害するという具体的結果が現実に発生することを必要とするのではなく、争議手段としてなされた行為が、その性質上通常国又は地方公共団体の業務の運営能率を阻害する危険性あるものであれば足りるのである。そうして本件の職場抛棄がいずれもこのような危険性あるものであることは明らかなところである。従つてこの点に関して原判決の理由不備を主張する論旨は採用することができない。
なお被告人等の無断欠勤を争議手段ということはできないと主張する論旨の理由なきことは、森長弁護人の上魯趣意第六点について述べたところによりおのずから明らかであろう。
同第五点について。
被告人等の所為が本件政令第二〇一号のいわゆる争議手段に該当するものであることは、森長弁護人の上告趣意第六点について説明したとおりである。そうだとすれば、原判決がこれに同政令を適用して処罰したのは当然であつて、そのことを非難する論旨はいずれも理由がない。
弁護人青柳盛雄の上告趣意について。
昭和二〇年勅令第五四二号及び昭和二三年政令第二〇一号が違憲無効であるとの論旨の理由なきことは、それぞれ森長弁護人の上告趣意第二点及び第四点について説明したとおりである。

弁護人岡林辰雄の上告趣意第一点について。
有罪判決には、罪となるべき事実、証拠によりこれを認めた理由並びに法令の適用を示すだけで事足り、刑の量定や執行猶予言渡の理由を示す必要はない。それ故原判決が、被告人B他二名に対して何故に執行猶予の言渡をしたかの理由を判示しなかつたからとて、これを以て所論のような違法あるものということはできない。
なお原判決が被告人Aに対して執行猶予の言渡をしなかつたのは、同人がE党員であるが故であるとは認められないから、このことを前提とする論旨はいずれも全く理由がない。
同第二点について。
被告人Aは、原審において被告人B、同D及び同Cと併合審理を受けたが共犯ではない。また原判決が被告人Aに負担させた訴訟費用は、同被告人の特別弁護人中嶋輝年が同被告人のために申請した(記録四二一丁)証人Fに対して支給されたものであつて、この証人費用がA被告人のために特に要した訴訟費用であることは、原審公判調書に照らしてみて明らかである。してみれば原判決が訴訟費用をA被告人の単独の負担としたことは当然であつて所論のような違法はない。また判決書に訴訟費用を負担せしめた理由を記載する必要のないことはいうを俟たない。なお原判決はA被告人がE党員であるが故にこれに訴訟費用を負担せしめたものであるとは認められないから、所論はすべて理由がない。
同第三点について。
原判決はG外五名に対する政令第二〇一号違反被告事件記録中被告人Bに対する検察事務官の訊問調書中同人の供述記載及び同記録中の検事の宮川武彦に対する聴取書中同人の供述記載並びにH外二名に対する政令第二〇一号違反事件記録中検察事務官のHに対する第一回聴取書中同人の供述記載を証拠として挙示している。論旨は、右の被告事件なるものが如何なる裁判所の被告事件であるかすら明らかでないから、違法であると主張するのであるが、記録を調べてみると、右被告事件は本件記録中第一審裁判所並びに原審裁判所の被告事件であること明瞭であるばかりでなく、右の各聴取書及び訊問調書はいずれも原審公判に顕出され適式の証拠調の手続が行われたものであるから、原判決がこれ等を証拠として採用したことには所論のような違法はない。
また所論Iの聴取書は、所論のように単なる推測を供述したものではなく、事実に関する同人の過去の見聞の供述であること明白であるから、原判決がこれを証拠として採用したことには何等の違法もなく、論旨は理由がない。
同第四点について。
原審公判廷においてA被告人が、庫内手、機関車乗務員の給与が甚だ悪いに拘らず、政府はその改善について何等の措置をもとらないので、自分等の当然の権利を奪還するために闘つているのである、という趣旨の供述をしたことは所論のとおりである。しかし、政府が給与の改善について有效な措置をとつたか否かということは罪となるべき事実の記載として必要なきことであるから、原判決がそのことについての判断を示さなかつたからといつて、所論のような違法あるものということはできない。論旨はそのことを以て憲法三七条に違反するものであると主張しているが、憲法三七条にいわゆる公平な裁判所の裁判とは、構成その他において偏頗のおそれなき裁判所の裁判という意味であること、当裁判所の判例(昭和二二年(れ)第一七一号、同二三年五月五日大法廷判決)の示すとおりであるから、この場合にあたらない。論旨はすべて理由がない。
同第五点について。
マツクアーサー書簡が国家公務員制度を法律によつて改正することを要求しているという前提に立つて昭和二三年政令第二〇一号の無数を主張する論旨については、同書簡はその指令を実施するための応急的措置として命令によつて公務員法を改正することを許さない趣旨とは認められないから、これを採用することができない。その他の論旨いずれも理由なきことは、森長弁護人の上告趣意第二点第三点及び第四点並びに小沢弁護人の上告趣意第一点について述べたところによつて明らかである。
同第六点について。
刑事裁判は公訴の提起のあつた被告人を裁判するものであるから、仮りに所論のように内閣総理大臣、運輸大臣等の高級職員が被告人等を免雇し懲戒したことが本件政令第二〇一号に違反する争議手段であつたとしても、起訴されない以上裁判所ばこれを処罰することはできない。裁判所が起訴されないものを罰しなかつたことは、起訴された本件被告人等の処罰の合法性を少しでも左右する理由とはならない。論旨は、政府高級職員に対する起訴がないならば、当然に本件被告人の審理を拒否し、公訴棄却又は無罪の判決をすべく、さもなければ憲法三七条に違反することとなると主張するが、憲法三七条に公平な裁判所の裁判というのは、上に第四点について説明したとおりであるから、右のような場合はこれにあたらない。なお本件政令のいわゆる公務員の中には国鉄現業員たる被告人等を含まないという論旨の理由なきことは、森長弁護人の上告趣意第三点((三))について説明したところによつておのずから明らかであろう。要するに論旨はいずれも理由がない。
同第七点について。
論旨の理由なきこと、既に小沢弁護人の上告趣意第四点について述べたとおりである。
よつて旧刑訴四四六条に従い主文のとおり判決する。
この判決は裁判官栗山茂の意見、裁判官真野毅の反対意見を除く他の裁判官全員一致の意見によるものである。

++意見
裁判官栗山茂の意見は次のとおりである。
(一) 弁護人森長英三郎の上告趣意第二点について。
ポツダム宣言受諾の効果として契約関係の基礎において「わが国の統治の権限が連合国最高司令官の制限の下におかれることになつた」と解するのが多数意見である。この見解はポツダム宣言の受諾に伴い成立した休戦条約の実施と同時に開始された占領の性質を正解しないのによるものであるから左の理由により同調できない。この意見は弁護人小沢茂の上告趣意第一点、同福田力之助の上告趣意第一点及び第二点、同青柳盛雄の上告趣意、同岡林辰雄の上告趣意第五点において多数意見が森長弁護人の上告趣意第二点の説明を援用している場合にもそれぞれ援用するものである。
(1) ポツダム宣言の条項中には敵対行為の停止に関する軍事条項(軍隊の無条件降伏の如き)と平和の予備条項(領土の割譲軍隊の帰還等の如き)とが含まれていて、いずれも相手国の合意を前提とするものである。―而して当事国の合意によつて敵対行為が停止されるものは国際法上休戦条約と呼ばれるものである。―他方同宣言の条項中には連合国は相手国の合意を前提としないものがある。戦争犯罪人の処罰の如き新秩序建設(内政干渉)のためにする占領の如きはそれである。しかし相手国の合意を前提とはしないがその実施には我方の協力が望ましいから(例えば占領行政の如き)その協力が要求されたのである。
(2) ポツダム宣言の条頃中相手国の合意を前提とするものについてはポツグム宣言の受諾は休戦条約の成立を意味するものであるが、(而して休戦条約はいわゆる降伏文書の調印に終るポツダム宣言の受諾に関する一連の往復文書によつて成立したと解すべきである)右休戦の成立にかかわらず連合国は同宣言第七項で「新秩序ガ建設セラレ且日本国ノ戦争遂行能力ガ破砕セラレタコトノ確認アルマデ」日本国領土内の諸地点を占領する旨を宣明している。而してこれについて降伏後における米国の初期の対日方針は「右占領ハ日本国ト戦争状態ニ在ル聯合国ノ利益ノ為行動スル主要聯合国ノ為ノ軍事行動タルノ性質ヲ有スベシ」と説明している。(尤も休戦と日本の場合のような軍事行動の拡大となる占領とはたとえ戦争状態が存続していても両立しないものであるから国際法上はこの点は問題とする余地がある。)即ち軍事行動である占領は敵の同意を前提とするものでないから連合国の意図は右占領を休戦から除外し、たとえ休戦条約が成立してもその成立に当つて占領を留保しているものと解すべきである。それ故一九四五年八月一一目附で米英い中の四国政府の名において米国政府が日本国政府の同月一〇日附申入に対する回答において「降伏ノ時ヨリ天皇及日本国政府ノ国家統治ノ権限ハ降伏条項ノ実施ノ為其ノ必要ト認ムル措置ヲ執ル連合国最高司令官ノ制限ノ下ニ置カルルモノトス」と答えたのはとりもなおさず、休戦実施の時(それは同時に占領開始の時である。)から被占領地域は事実上占領軍司令官の権力内に置かれるから(へ―グ陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則四条)右権力の行使と両立しない限度において被占領国の統治の権限が事実上制限されることを指摘したのである。而して降伏文書第八項はこれを受けて同趣旨を重ねて宣明しているものである。
(3) 我方はボツダム宣言の条項で当事国の合意を前提とするものについては我方が誠実に履行するのは固より、同宣言の条項中その合意を前提としないものについても我方の協力を約束したのである。降伏文書第六項がそれである。即ち連合国は降伏文書において我方をして「ポツダム宣言ノ条項ヲ誠実ニ履行スルコト並ニ右宣言ヲ実施スル為連合国最高司令官又ハ其ノ他特定ノ連合国代表者ガ要求スルコトアルベキ一切ノ命令ヲ発シ且斯ル一切ノ措置ヲ執ルコト」を約束せしめたのである。しかし我方が連合国軍の占領行政に協力することを応諾してもそのために占領の性質には変りはない。この約束は占領軍からすれば占領行政が支障なく運行されることであり他方被占領国からすれば国際法上占領軍の命令に服従すべき彼占領国民の義務と併せて日本国政府の協力義務があるということである。さればこの約束があるからといつて連合国最高司令官の被占領国民に対し行使する権力とその義務とに変りがないことは明である。連合国最高司令官が軍事占領者として有する権力と義務とは国際法上の法規及び慣例に基くものであつて、この約束に基くものではない。多数意見は「わが国はボツダム宣言を受諾し、降伏文書に調印して、連合国に対して無条件降伏をした。」とし「その結果連合国最高司令官は降伏条項を実施するため適当と認める措置をとる権限を有し云々」というけれども、わが国はポツダム宣言を受諾した結果契約関係として成立した休戦条約その他降伏文書の規定にかかわりなく休戦と同時に連合国が留保している占領が開始されたため連合国最高司令官が占領行政を行使することとなつて「この限りにおいてわが国の統治の権限は連合国最高司令官の制限の下に置かれることになつた」のである。それ故ポツダム宣言の受諾を無条件降伏と呼ぶと否とにかかわらずわが国の統治の権限が連合国最高司令官の制限の下に置かれることになつたのは同宣言受諾の効果ではなく同宣言中我方の同意を前提としない占領の効果に外ならないのである。
(4) 右にいう占領の結果として占領軍の新秩序建設のためにする内政干渉は二つの形式をとつたのである。一つはわが国の統治の権力の行使に協力する形式であつて、いわゆる内面指導である。等しく占領軍の息のかかつたものであるが、この形式はわが憲法のわく内におけるものであるから、わが国家意思の発動というべきである。他の一つの形式はわが国の統治の権力にかかわりなく連合国最高司令官の要求として我方に発動されたものである。(降伏文書第六項)而して後者について我方から軍の必要に協力する形式を規定したのが即ち緊急勅令五四二号である。かように考えてくると、占領中わが国の法秩序には二元的渕源があつた事実はこれを認めざるを得ない。それ故右勅令五四二号によつて、所要の定めをした「連合国最高司令官ノ為ス要求ニ係ル事項」は結局連合国の軍の必要に基く事項であるからその権力から来る法秩序である。もともと緊急勅令五四二号はその制定当初はわが国の統治の権限の行使として発足したものであろうが(当初は連合国の占領がどういう行き方をするかわからなかつたのである。)占領の進行に伴い連合国最高司令官のなす要求にかかる事項について所要の定めをなす唯一の形式となつたものであるからこれ又連合国の軍権力に因る法源と不可分の関係にあるものとして日本国憲法にかかわりなく効力あるものと認めるのが相当と考える。

(二) 弁護人森長英三郎の上告趣意第四点について。(1) 憲法二八条が保障している権利は私有財産制度を前提としていることは沿革上明である。羅馬法以来の私有財産権の至上性が十八世紀的個人主義即ち個人の意思の至上性と結付いて経済活動をする場合に、企業家のもつ力は公権力の至上性にも比すべきものがあるかような企業家又はその利益の代表者即ち使用者と被傭者が取引するものとすれば双方が対等な交渉力を持つのでなければ契約の自由はありえないこの労使(労資)の対等取引を前提として正義を分配しそれを保障したものが憲法二八条である然るに国又は地方公共団体とその公務員との関係は毫も対等取引を前提とする関係でもなければ又もとより私有財産制度を前提とする労使の関係にかかわりないものである!!!それ故公務員は憲法二七条にいう勤労の権利を有する者であることは勿論であるけれども本質的に憲法二八条の勤労者ではないのであつて、同条が保障している権利はもともと享有していないのである。憲法二七条の勤労の権利の内容が何であるかはしばらくおくとしても事業主でも失業者でも等しく同条の勤労の権利を有する者であるけれども、同条の勤労の権利を有する者はすべて使用者と被傭者との関係、ことにその対等な交渉関係を前提要件とする憲法二八条の勤労者であるということはできない。されば旧労働組合法四条一項の警察官吏等の組合結成禁止の規定はこれ等の公務員が労資の利害を前提とする憲法二八条の団結権の保障には均霑しないものであることを明にしただけのことである。多数意見のように警察官吏等はもとから憲法二八条の組合結成権を享有しているけれども彼等は「全体の奉仕者」であるから公共の福祉で、法律により之を取上げられたものと解すべきではない。
多数意見は又国又は公共団体の非現業官吏が争議行為を禁止されたのも(法律一七五号による改正前の労働関係調整法三八条)前記警察官吏等と同じ理由即ち公共の福祉で法律によつてもともと憲法二八条で享有している争議権が剥奪されたと解するのである。しかし実は現業官吏たると非現業官吏たるとを問わず、公務員である以上は結局前に述べたと同じ理由で憲法二八条の勤労者でもなく、その保障している争議権を享有しているものではない。もとより同条の権利を享有していなくとも法律が之を附与するかどうかは立法政策の問題にすぎない。されば前記労働関係調整法三八条が非現業官吏の争議行為を禁止し之と同時に現業官吏の争議行為を容認したとしても、それは憲法二八条の保障にかかわりないものである。故に同条の禁止は公共の福祉を理由に憲法二八条の保障が否定されたものと解すべからざるはいうまでもない。(2) 憲法二八条の権利が私有財産制度を前提とするということはとりもなおさず資本主義経済を前提とするということである。それ故資本主義経済を否定する制度においてはその保障の理由はない。けれども資本主義経済の範囲内でもその修正例えば特定の私的企業における私有財産権を社会化し公有化することが是認される。この場合に利潤を追う資本(私有財産たる株主の投資)の力は排除されたけれども公有材産としての企業の形態は私的企業の形態と異るところがない。それに現代の発達した産業組織では生産手段の所有(株主)とその管理(経営)とは分離されていて、後者は公有全美におけると等しく有給職員にすぎないものであつて私的企業と言つても公有企業とその経営の面において異るところがないから勤労者の立場からすれば賃金、就業時間、休息その他の勤労条件等の法律上の保護を受くべきはもとより(憲法二七条二項)組合の結成についても差別さるべき理由がないといえるのである。それ故私有財産制度を前提とする労資の関係に準じてできるだけ公有企業における労使の関係をも調整せしめるのが公正且妥当であるといえるのである。しかしそれは一に立法による労働政策の問題にすぎない。それ故多数意見のように旧労働組合法又は労働関係調整法(法律一七五号による改正前の)から逆に憲法二八条の権利を帰納すべからざるは言うまでもない。例えば旧労働組合法三条は憲法二八条の勤労者よりも広い労働者を指すと同時に同法五条、一一条(改正後の七条)一二条(改正後の八条)の如きは罷業権を内在する憲法二八条の権利の確保のためであるから、公務員又は公有企業の職員には当然に適用ないのであつて、それを多数意見はこれ等の者も初めからこの権利を享有する労働者であるとし、それが公共の福祉のため取上げられたと解するものの如くである。(3) 多数意見は右にいう如く国家公務員はもともと憲法二八条の保障する権利を享有しているけれども、それを本件政令二〇一号が公共の福祉のため禁止したからとてこれを以て憲法二八条に違反するものということはできないとしている。しかし日本国憲法によればすべての基本的人権はそれを享有している個人の利益のためばかりでなく公共の利益のためにも保障されたものであるから公共の福祉のために利用さるべき責務を伴つているとされている。このことは個人の幸福と公共の幸福とは共通のものであつて相排斥する別異のものでないことを意味する。後者が前者より重いときは後者に吸収されて前者が法律で否定されるのもやむを得ないという考方は絶対主義的のものであつて日本国憲法のものではない。基本的人権が同時に責務であるということはその責務の範囲をこえれば濫用があるばかりでなく、その責務の範囲内でもその責務に適合するように権利の行使が調整(規制乃肇制限である)されることが当然期待されているのである。と同時に憲法は個人の幸福追求の権利たる財産権は公共の用のため取上げられ(二九条三項)又個人の生命、身体若しくは財産は刑罰として奪われることを(三一条)明定しているけれども、その保障している自由及び権利は法律で公共の福祉の名の下に奪われてよいという矛盾(アンチノミ)をどこにも内蔵してはいないのである。これが多数意見に同調しない大きな点である。

+反対意見
裁判官真野毅の反対意見は次のとおりである。
わたくしは、本件は刑の廃止があつたものとして、原判決を破棄し免訴を言渡すべきものと考える。その理由を要約して述べる。
本件において被告人等は、「国鉄業務運営の能率を阻害する争議手段をとつた」行為に対し、昭和二三年七月政令第二〇一号二条一項、三条、国家公務員法第一次改正法律附則八条を適用して処罰されたものである。同政令二条一項には「公務員は、何人といえども、同盟罷業又は怠業的行為をなし、その他国……の業務の運営能率を阻害する争議手段をとつてはならない」と定め、同三条には「第二条第一項の規定に違反した者は、これを一年以下の懲役又は五千円以下の罰金に処する」「と定めている。
その後昭和二三年一二月三日公布施行された「国家公務員法の一部を改正する法律」の附則八条において、前記政令は、「国家公務員に関して、その効力を失う」旨を定めると共に、前記政令が「その効力を失う前になした同令第二条第一項の規定に違反する行為に関する罰則の適用については、なお従前の例による」旨を定めている。それ故、前記政令の罰則規定は、将来国家公務員に対して効力を及ぼさないことになつたと共に、その失効前になされた国家公務員の違反行為に関する限りにおいて、なお従前の例によつて、前記政令の罰則規定が効力を持続するわけである。だから、昭和二四年一月二九日言渡された原判決当時の法律適用としては、該政令の罰則規定を適用して被告人等を処罰したことはもとより正当であつて誤りはない。前述のように法令改廃の場合に経過規定として「改廃前に行われた犯行に関する罰則の適用については、なお従前の例による」という附則が定められる事例は少くない。そして、その意義は、法令改廃の後においてもその改廃以前に行はれた犯行に対しては、その限度において相対的・部分的に法令の改廃はなく、なお改廃前の法令が効力を持続し適用されることを意味するものである。いまこれを本件の場合について言えば、前記国家公務員法の一部改正法が行われた以後においても、その改正前に行われた犯行に対しては、右改正法の罰則(九八条五項六項、一一〇条一七号参照)が適用されるものではなく、前記政令の罰則(二条一項、三条参照)が効力を持続し適用される関係にあるのである。
しかしそれだからといつて、法令改廃前の違反行為に対しては永久に従前の政令罰則が適用されることに確定したものと速断することは大いなる誤りである。なぜならば、その後にあける立法すなわち再度の法令の改廃によつては、前述のように相対的・部分的に効力を持続している従前の罰則の刑の廃止変更が生じ得るからである。
そこで、本件に関してこの点を考察すると、その後昭和二三年一二月二〇日公布(同二四年六月一日施行)の日本国有鉄道法及び公共命業体労働関係法が制定された。その前者三四条二項には、日本国有鉄道の「職員には国家公務員法は適用されない」と定められ、また同三五条には、「日本国有鉄道の職員の労働関係に関しては、公共企業体労働関係法の定めるところによる」と定められた。そして、後者二条においては日本国有鉄道を公共企業体とし、同三条においては公共企業体の職員に関する労働関係等についてはこの法律の定めるところによるものとし、同一七条によれば争議行為等は禁止はされているが、処罰の対象とはされていない(一八条)。かようにして、日本国有鉄道の職員の争議行為等に対しては国家公務員法の罰則規定(九八条五項六項、一一〇条一七号)及びその他一切の罰則規定は適用されないし、また公共企業体労働関係法には争議行為等に対して罰則規定は全然設けられていないのである。そこで、この両法の制定を境としてその前後の法律状態を較べてみると、本件におけるがごとく昭和二三年一二月三日の国家公務員法一部改正法以前の「国鉄職員の争議行為等」の犯行については、なお従前の例により、前記政令二条一項及び三条の罰則が相対的・部分的に効力を持続し適用されていたものが、前記両法の制定により「国鉄職員の争議行為等」については全然罰則がなくなつたのであるから、この意義において刑の廃止があつたものと認めるを相当とする。(この前記両法の制定に際しては、経過規定として前記政令第二条一項の規定に違反する行為に関する罰則の適用については、なお従前の例による旨の規定はおかれてはいない。これはあるいは立法の不備ないし疎漏であつたかも知れないと思われるが、いやしくもかかる経過規定を欠く以上法令の改廃により法律状態の変更を生ずるに至つたときは、従前の犯行に対して従前の罰則を適用して処罰することはできないものと信ずる。)それ故、原判決を破棄し被告人等に対し免訴を言渡すを相当とする。裁判長裁判官塚崎直義、裁判官B太一郎、同沢田竹治郎、同穂積重遠は合議に干与しない。


憲法択一 人権 基本的人権の限界 公共の福祉


・憲法10条は、日本国民の要件を法律で定めるものとしている。もっとも、憲法のほかの規定や趣旨に反することはできない。一定の重い罪を犯して10年を超える懲役刑の宣告を受けた者は日本国籍を失うというような法律は、無国籍者を作り出すことを認めることとなり、人は必ず唯一の国籍を持つべきであるという「確立された国際法規」(98条2項)に反する!!!!ヘーーー
+10条
日本国民たる要件は、法律でこれを定める。

+98条
1項 この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。
2項 日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。

・憲法が国民に保障する自由・権利を保持する義務、これを濫用しない義務及びこれを公共の福祉のために利用する義務に関する憲法上の規定は、具体的な法的義務を定めたものではなく、一般に国民に対する倫理的方針を定めたものにすぎない!!!!!!
+12条
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ

一元的外在的制約説=憲法13条の「公共の福祉」は、人権の外にあって、すべての人権を制約する一般的な原理であり、22条・29条が特に「公共の福祉」を掲げたのは、特別の意味を有しないという見解。

・一元的外在的制約説は「公共の福祉」の意味を公益や公共の安寧秩序というような最高概念として捉えている!!

・一元的外在的制約説では、法律による人権制限が容易に肯定される恐れがあり、「公共の福祉」が実質的に明治憲法下における法律の留保のような機能を果たす恐れがある!

・一元的外在的制約説は、公共の福祉の観念をすべての権利を規制する原理としているが、権利の性質に応じて権利の制約の程度が異なるとは解していない!!!!

内在・外在二元的制約説=公共の福祉によって制約される人権は経済的自由権と社会的自由権に限られ、その他の権利・自由には内在的制約が存在するにとどまり、憲法13条は公共の福祉に反しない限り個人に権利・自由を尊重しなければならないという、いわば国家の心構えを表明した者であるという見解!!

・内在・外在二元的制約説によれば、13条は、倫理的な規定ということになり、プライバシー権などの新しい人権を憲法上の人権を憲法上の人権として基礎付ける根拠を失わせる!

・内在・外在二元的制約説に対しては、自由権と社会権の区別は相対化しているのに、それを画然とわけて、その一方は内在的、他方は外在的と割り切ることは適当ではないという批判が加えられている!

一元的内在制約説=公共の福祉を人権相互に生ずる矛盾・衝突の調整を図るための実質的公平の原理とする。

・一元的内在制約説によると、公共の福祉により人権制約を正当化するには、対立する人権を明示することが必要になるので、人権とは言いにくいような対立利益を無理に人権に結びつけやすいという弊害があり、かえって人権の重大性を希薄化させるという恐れがある!!

・一元的内在制約説に対して、人権の具体的限界についての判断基準として、必要最小限度あるいは必要な限度という抽象的な原則しか示されていないことから、人権を制約する立法の合憲性を具体的にどのように判定していくのかが不明確であるという批判が加えられている!

・一元的内在制約説に立ったとしても、思想・良心の自由(19条)は内心の領域にとどまる限り絶対的に保障され、拷問も絶対的に禁止される(36条)等、公共の福祉による人権制約にも例外がないわけではない。
+19条
思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。

+36条
公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる。

一元的内在制約説によれば、22条、29条の「公共の福祉」の意味を、福祉国家における経済的・社会的政策という意味に限定せず、人権の共存を実現する原理という広義に解することとなる!!!

+++一元的内在制約説とかの解説
一元的外在制約説とは憲法の「公共の福祉」における解釈のうちの一つです。ようするに外部から圧力をかけて人権を制限する。みたいな感じの考え方です。
12条・13条の「公共の福祉」が人権制約の一般的原理であって22条、23条は特別の意味をもたない。と解釈されています。
でも、法律による人権制限が容易に肯定される恐れが少なくないし、これは明治憲法下の法律の留保(法律によって人権を制限できる)のついた人権保障と同じではないか。という批判が存在します。今や廃れた説です。

一元的内在制約説とは、従来、「公共の福祉」は外から人権を制限できるものとされてきましたが、この説によりそうではない。全ての人権に論理必然に存在している。という革命的な説です。
「公共の福祉」は人権相互の矛盾衝突を調整するための実質的公平の原理であり、全ての人権に論理必然に内在しているという、外ではなく内から人権を制約できる。とした説です。
そして、「公共の福祉」は、自由権を各人公平に保障するための制約を根拠付ける場合には必要最小限度の規制を認め(自由国家的公共の福祉)、社会権を実質的に保障するために自由権(ここでは経済的自由権のみ)の制約を根拠付ける場合には、必要な限度の制約を認めるもの(社会国家的公共の福祉)として働く。としています。
なお、批判として、条文の「公共の福祉」の意義が希薄になってしまう。
といったものや、経済的自由に対して政策的な観点から付け加えられた制約と人権という観念そのものに内在する限界とを一緒にするのは妥当ではない。
もしくは、人権の具体的限度についての判断基準として「必要最小限」、「必要な限度」という抽象的な原則しか示されず、合憲性を具体的にどのように判定していくのか。といった批判があります。
最後の批判に関しては、具体的な違憲審査基準を考えればよい。という反論もあります。

・パターなリズムに基づく規制とは国が親代わりになってその本人を保護することで、自己加害の阻止を目的とする規制のことをいう。

+++パターナリズム解説
パターナリズム(英: paternalism)とは、強い立場にある者が、弱い立場にある者の利益になるようにと、本人の意志に反して行動に介入・干渉することをいう。日本語では家父長主義、父権主義などと訳される。語源はラテン語の pater(パテル、父)で、pattern(パターン)ではない。対義語はマターナリズム(maternalism)。
社会生活のさまざまな局面において、こうした事例は観察されるが、とくに国家と個人の関係に即していうならば、パターナリズムとは、個人の利益を保護するためであるとして、国家が個人の生活に干渉し、あるいは、その自由・権利に制限を加えることを正当化する原理である。

「パターナリズム」という用語自体の起源については、16世紀には「父権的権威(Paternal authority)」という言葉がすでに存在し、それが19世紀後半に「パターナリズム(Paternalism)」という言葉になったという。また、J.S.ミル『自由論』(1859年)の「侵害原理 harm principle」における議論には、今日のパターナリズム論に底通する論点が提示されている。
近年、この用語が英米の法哲学者・政治哲学者のあいだで注目を集めるようになったきっかけは、1950年代、成人間の同意の下での同性愛や売春行為を刑事上の犯罪行為とみなすか否かをめぐって行われた「ハート=デヴリン論争」であった。
また、医療現場においても、1970年代初頭に、エリオット・フリードソンが医者と患者の権力関係を「パターナリズム」(医療父権主義、家父長的温情主義)として告発したことによって、パターナリズムが社会的問題として喚起されるようにもなった。現在では「患者の利益か、患者の自己決定の自由か」をめぐる問題として議論され、医療現場ではインフォームド・コンセントを重視する環境が整いつつある。

強いパターナリズムと弱いパターナリズム
この類別は、介入・干渉される者に判断能力、あるいは自己決定する能力があるかないかという点で区分される。強い(硬い hard )パターナリズムは、個人に十分な判断能力、自己決定能力があっても介入・干渉がおこなわれる場合をいう。他方、弱い(柔らかい soft )パターナリズムは、個人に十分な判断能力、自己決定能力がなくて介入・干渉がおこなわれる場合をいう。
成熟した判断能力をもつ個人への干渉や介入に反対する、反パターナリズムの論者も、子供や十分な判断能力のない大人への保護は必要であるとしている。そのように弱いパターナリズムを容認する場合でも、「個人の十分な判断能力、自己決定能力」の範囲をどのように見極めるのかといった点で、慎重な検討が必要となる。

直接的パターナリズムと間接的パターナリズム
この類別は、パターナリスティックな介入・干渉を受ける者と、それによって保護される者とが同一であるか否かで区分される。
直接的パターナリズムは、オートバイ運転者のヘルメット装着義務のように、パターナリスティックにその義務を強制される者と、それによって保護される者が同一の場合である。他方、間接的パターナリズムは、両者が同一ではない場合をいう。例えば、クーリングオフ制度のように、保護されるのは一般の消費者だが、パターナリスティックに規制を受けているのは販売業者である場合である。

専門家と素人
専門知識において圧倒的な格差がある専門家と素人のあいだでは、パターナリスティックな介入・干渉が起こりやすい。たとえば、医師(専門家)から見れば、世話を焼かれる立場の患者(素人)は医療に関して無知蒙昧であり、自分で正しい判断を下すことが出来ない。その結果、医療行為に際しては、患者が医師より優位な立場には立てない。そうした状況で患者の自己決定権をどのように確保していくかについては「インフォームド・コンセント」の項を参照(あわせて「尊厳死」の項も参照)。

国家と国民
国家がいわば「親」として「子」である国民を保護する、という国家観にもパターナリスティックな干渉を正当化する傾向がみられる。実際に施行されている事例としては、賭博禁止(刑法186条)などが挙げられる。こうした立法措置以外にも、官公庁による行政指導や、市町村における窓口業務などにも同様の傾向がみられる。

パターナリズム批判
国家と個人の関係については、国家が国民の生命や財産を保護する義務を負っているのは当然であるにせよ、少なくとも心身の成熟した成人に対する過剰な介入が、いわば「余計なお節介」であるとして批判が加えられている。
また、表現の自由を重視する立場から、パターナリズムに基づく、有害図書や有害情報などに対する規制に対する批判も存在する。
国民の自由である自己決定権を広く認めるのか、ある程度国家の介入を許容するのかという、根本的かつ巨視的な観点からの検討が必要である。

・公衆浴場の適正配置を開設の許可要件とする規制は、国民の生命及び健康に対する危険を防止するための消極目的に基づく規制である!!=パターナリズムに基づく規制ではない!

+判例(H1.3.7)
理由
上告代理人林弘、同中野建、同松岡隆雄の上告理由について
公衆浴場法(以下「法」という。)二条二項の規定が憲法二二条一項に違反するものでないことは、当裁判所の判例とするところである(昭和二八年(あ)第四七八二号同三〇年一月二六日大法廷判決・刑集九巻一号八九頁。なお、同三〇年(あ)第二四二九号同三二年六月二五日第三小法廷判決・刑集一一巻六号一七三二頁、同三四年(あ)第一四二二号同三五年二月一一日第一小法廷判決・刑集一四巻二号一一九頁、同三三年(オ)第七一〇号同三七年一月一九日第二小法廷判決・民集一六巻一号五七頁、同四〇年(あ)第二一六一号、第二一六二号同四一年六月一六日第一小法廷判決・刑集二〇巻五号四七一頁、同四三年(行ツ)第七九号同四七年五月一九日第二小法廷判決・民集二六巻四号六九八頁参照)。
おもうに、法二条二項による適正配置規制の目的は、国民保健及び環境、生の確保にあるとともに、公衆浴場が自家風呂を持たない国民にとって日常生活上必要不可欠な厚生施設であり、入浴料金が物価統制令により低額に統制されていること、利用者の範囲が地域的に限定されているため企業としての弾力性に乏しいこと、自家風呂の普及に伴い公衆浴場業の経営が困難になっていることなどにかんがみ、既存公衆浴場業者の経営の安定を図ることにより、自家風呂を持たない国民にとって必要不可欠な厚生施設である公衆浴場自体を確保しようとすることも、その目的としているものと解されるのであり、前記適正配置規制は右目的を達成するための必要かつ合理的な範囲内の手段と考えられるので、前記大法廷判例に従い法二条二項及び大阪府公衆浴場法施行条例二条の規定は憲法二二条一項に違反しないと解すべきである。論旨は、採用することができない。
よって、行政事件訴訟法七条、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

+判例(S30.1.26)
理由
弁護人諌山博の上告趣意第一点及び同第二点前段について。
論旨は、公衆浴場法二条二項後段は、公衆浴場の設置場所が配置の適正を欠くと認められる場合には、都道府県知事は公衆浴場の経営を許可しないことができる旨定めており、また昭和二五年福岡県条例五四号三条は、公衆浴場の設置場所の配置の基準等を定めているが、公衆浴場の経営に対するかような制限は、公共の福祉に反する場合でないのに職業選択の自由を違法に制限することになるから、右公衆浴場法及び福岡県条例の規定は、共に憲法二二条に違反するものであると主張するのである。
しかし、公衆浴場は、多数の国民の日常生活に必要欠くべからざる、多分に公共性を伴う厚生施設である。そして、若しその設立を業者の自由に委せて、何等その偏在及び濫立を防止する等その配置の適正を保つために必要な措置が講ぜられないときは、その偏在により、多数の国民が日常容易に公衆浴場を利用しようとする場合に不便を来たすおそれなきを保し難く、また、その濫立により、浴場経営に無用の競争を生じその経営を経済的に不合理ならしめ、ひいて浴場の衛生設備の低下等好ましからざる影響を来たすおそれなきを保し難い。このようなことは、上記公衆浴場の性質に鑑み、国民保健及び環境衛生の上から、出来る限り防止することが望ましいことであり、従つて、公衆浴場の設置場所が配置の適正を欠き、その偏在乃至濫立を来たすに至るがごときことは、公共の福祉に反するものであつて、この理由により公衆浴場の経営の許可を与えないことができる旨の規定を設けることは、憲法二二条に違反するものとは認められない。なお、論旨は、公衆浴場の配置が適正を欠くことを理由としてその経営の許可を与えないことができる旨の規定を設けることは、公共の福祉に反する場合でないに拘らず、職業選択の自由を制限することになつて違憲であるとの主張を前提として、昭和二五年福岡県条例五四号第三条が、憲法二二条違反であるというが、右前提の採用すべからざることは、既に説示したとおりである。そして所論条例の規定は、公衆浴場法二条三項に基き、同条二項の設置の場所の配置の基準を定めたものであるから、これが所論のような理由で違憲となるものとは認められない。それ故所論は採用できない。

同第二点後段について。
論旨は、公衆浴場法が公衆浴場の経営について許可を原則とし、不許可を例外とする建前をとつているに拘わらず、昭和二五年福岡県条例五四号は不許可を原則とし、許可を例外とする建前をとつており、右条例は公衆浴場法にくらべて、より多く職業選択の自由を制限しているので、憲法の精神に反するのみならず、地方公共団体は「法律の範囲内で」条例を制定できるという憲法九四条に違反していると主張する。しかし、右条例は、公衆浴場法二条三項に基き、同条二項で定めている公衆浴場の経営の許可を与えない場合についての基準を具体的に定めたものであつて、右条例三条、四条がそれであり、同五条は右三条、四条の基準によらないで許可を与えることができる旨の緩和規定を設けたものである。即ち右条例は、法律が例外として不許可とする場合の細則を具体的に定めたもので、法律が許可を原則としている建前を、不許可を原則とする建前に変更したものではなく、従つて右条例には、所論のような法律の範囲を逸脱した違法は認められない。それ故所論は採用できない。
被告人本人の上告趣意について。
論旨の中違憲をいう点は、上記弁護人諌山博の上告趣意第一点及び同第二点前段について判示したところと同様の理由によつて、採用できない。その他の論旨は、単なる法令違反の主張乃至事情の説明を出でないものであつて、刑訴四〇五条の上告理由に当らない。
よつて同四〇八条により、裁判官全員一致の意見で主文のとおり判決する。

+22条
1項 何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。
2項 何人も、外国に移住し、又は国籍を離脱する自由を侵されない。

+94条
地方公共団体は、その財産を管理し、事務を処理し、及び行政を執行する権能を有し、法律の範囲内で条例を制定することができる。

・医療保険制度を通じた国庫補助金の支払等社会医療費の増加を抑制する目的でテレビにおけるたばこの広告を全面的に禁止する規制は、社会・経済政策の一環としてなされる積極目的に基づく規制である(=パターナリズムに基づく規制ではない)!!!!


憲法択一 人権 基本的人権の原理 人権の享有主体性 キャサリーン 指紋 岐阜 など


・判例によれば、国際慣習法上、外国人に対する入国の許否は、国家の自由裁量によると考えられており、外国人に入国の事由は憲法上保障されないので、特別の条約が存在しない限り、国家は外国人の入国を許可する義務を負わない!

+22条
1項 何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。
2項 何人も、外国に移住し、又は国籍を離脱する自由を侵されない。

+判例(S32.6.19)
弁護人三浦徹の上告趣意第一点について。
所論は、憲法二二条は当然に外国人が日本国に入国する自由をも保障しているものと解すべきであるから、外国人登録令三条、一二条は、憲法二二条に違反する旨主張する。
よつて案ずるに、憲法二二条一項には、何人も公共の福祉に反しない限り居住・移転の自由を有する旨規定し、同条二項には、何人も外国に移住する自由を侵されない旨の規定を設けていることに徴すれば、憲法二二条の右の規定の保障するところは、居住・移転及び外国移住の自由のみに関するものであつて、それ以外に及ばず、しかもその居住・移転とは、外国移住と区別して規定されているところから見れば、日本国内におけるものを指す趣旨であることも明らかである。そしてこれらの憲法上の自由を享ける者は法文上日本国民に局限されていないのであるから、外国人であつても日本国に在つてその主権に服している者に限り及ぶものであることも、また論をまたない。されば、憲法二二条は外国人の日本国に入国することについてはなにら規定していないものというべきであつて、このことは、国際慣習法上、外国人の入国の許否は当該国家の自由裁量により決定し得るものであつて、特別の条約が存しない限り、国家は外国人の入国を許可する義務を負わないものであることと、その考えを同じくするものと解し得られる。従つて、所論の外国人登録令の規定の違憲を主張する論旨は、理由がないものといわなければならない。

同第二点について。
論旨は量刑不当の主張であつて、刑訴四〇五条の上告理由に当らない。
記録を調べても、本件につき刑訴四一一条を適用すべきものとは認められない。
よつて刑訴四〇八条により主文のとおり判決する。
この裁判は、裁判官斎藤悠輔の補足意見並びに裁判官真野毅、同小林俊三、同入江俊郎、同垂水克己の意見がある外、裁判官全員一致の意見によるものである。

+補足意見
裁判官斎藤悠輔の上告趣意第一点についての補足意見は、次のとおりである。
所論は、原審で主張がなく、従つて、原判決はそれにつき何等の判断をも示していない。従つて、所論は、原判決に刑訴四〇五条一号後段にいわゆる憲法の解釈に誤があることを理由とするものということはできない。また、原判決は、事後審として単なる法令違反、量刑不当を理由とする控訴を棄却しただけで、所論外国人登録令の規定を適用したわけではないから、原判決に刑訴四〇五条一号前段にいわゆる憲法の違反があることを理由とする場合に当るものともいえない。されば、所論は、上告適法の理由として採用することはできない。

+意見
裁判官真野毅の上告趣意第一点に対する意見は次のとおりである。憲法二二条一項は、「何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転……の自由を有する」と定めている。この規定の保障を受ける者は、日本国民に限定されているわけではなく、「何人も」本条の保障を受けるのである。すなわち外国人もまた本条の保障をうける。ここまでの考え方は多数意見と同様である。
そこで多数意見は、本条の保障は日本国内における居住・移転のみに限るとしているが、わたくしはその居住・移転という中には入国も当然含まれている趣旨であると解するを相当だと考える。旅行その他で海外に滞在していた日本国民が帰つて来て入国する場合及び海外にあつて日本の国籍を取得した日本国民が初めて入国する場合において、入国の自由は、本条によつて憲法上当然保障されているとするが相当であり、またそうしなければならぬ。けだし、国内だけの居住・移転の自由については憲法上の保障があるが、入国の自由については憲法上の保障がないとすることは、著しく物の均衡を害し条理に反することとなるからである。
右のように日本国民の入国について本条の保障があると解する以上、外国人の入国についても同様に本条の保障があるとしなければならぬことは、当初に述べたとおりである。かように憲法は、近代的な国際交通自由の原則の立場を採つたことを示している(世界人権宣言一三条参照)。しかし、同時に憲法は、公共の福祉を保つ見地から前記自由に適当の制限を立法上加えうることを定めている。そして所論の外国人登録令の規定は、公共の福祉を保つために設けられたものであつて、合憲性を有するものと解すべきである。それ故、違憲の論旨は採ることをえない。

+意見
裁判官小林俊三、同入江俊郎の意見は次のとおりである。
われわれは、上告趣意第一点に対する判断について多数意見と結論を同じくするものであるが、その理由の基くところを異にするので、ここに意見を述べる。
いずれの国の憲法も、その国の根本法規としての基盤となる基本的な理想又は原理というものを何らかの言葉で示しているのを常とする。かかる理想又は原理は、その国の憲法の条規を解釈するに当りまず立つべき前提であつて、これを離れることは許されないものと考えなければならない。わが国の憲法は、その成立過程についてとかくの論議はあるにしても、すでに根本法として存立する以上、その中に盛られた基本的な理想や原理は最大の尊重を払わなければならない。そこで通常わが憲法の基本的原理といわれる国民主権、恒久平和、基本的人権尊重の三つの理想に通じて根底に横わるものは、人類普遍の原理ということであり、またかくして国境を越え世界を通じて恒久平和を達成せんとする念願でもある。これらのことは憲法の前文によつて明らかであり、特に自ら「いづれの国家も自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」ことを宣言していることからも確認することができる。この趣旨から考えてみると、わが憲法は、外国人の権利義務についても、正常の国際関係に立つかぎり、わが国民としての地位と相容れないものを除くのほか、できるかぎりこれをひとしくしようとする原則に立つていると見なければならない。従つて憲法の条規中「何人も」とある場合は、常にこの趣旨を念頭に置いて解することを要するのである。
ところで多数意見は、本件について憲法二二条の保障するところを解して、居住、移転及び外国移住の自由のみに関するものであつて、それ以外には及ばず、そして居住、移転とは日本国内におけるものを指すといい、また同条は、外国人の日本国に入国することについてはなにら規定していないのであつて、このことは、国際慣習法上外国人の入国の許否は、その国家の自由裁量の事項であつて、国家は外国人の入国を許可する義務を負わないという考え方と趣旨を同じくすると判示している。しかしながら、まず居住、移転の保障を日本国内にのみ限るという解釈は、右同条がこれら二つを外国移住と区別して規定していることを主たる理由としているが、わが国民で海外に旅行し又は居住していた者が帰国することは、すなわち入国であつて、この自由が右同条の保障に含まれないと解することは、国民が一たん海外に出るときは帰国については憲法の保障を欠くこととなり著しき背理たるを免れない。このことは海外にあつて日本の国籍を取得した者が、わが国に入国する場合においても同様である。このような結論は多数意見もおそらく是認しないところであろう。しかし多数意見の判文が前記のように解されるのは、後段において外国人の入国の保障を否認する立場をとつたために、文理のみによつて「入国」そのものをことさらに無視した結果生じた表現であろう。本来入国ということは、条理の上からいつても、外国移住についてはもちろん、外国との関連において考えるかぎり、居住、移転についても、通常その観念の半面に存するものであつて、これを除外すべき特段の理由は認められない。特に世界各国民の交通が著しく頻繁容易となり、地球が狭少となつたといわれる現状において、「入国」という辞句のないことをもつて除外の理由とするのは、ことさらに条理を無視するのそしりを免れないであろう。このように前記法条が、当然「入国」を含むと解すべきものである以上、本件の問題はただ「何人も」の解釈によつて定まるものといわなければならない。そこで冒頭にくりかえし強調したわが憲法の基本的原理は、ここにおいても当然前提として考慮せらるべきものであつて、その結論はおのずから明らかであろう。すなわち本条の「何人も」のうちには外国人を含むと解してもわが国民の地位と相容れないものではないこというまでもなく、従つて外国人も入国についてわが国民と同じ保障を受ける地位に立つという原則をまず是認しなければならないのである。多数意見のように旧来の「国際慣習法上」という前提によりたやすく外国人の入国を憲法の保障外に置くことは、新しき理想を盛つたわが憲法の基本的原理を全く無視するものといわなければなるまい。しかしこれまでは原理であつて、かかる基本的考え方に立つた上、なお国家対立の現状にかんがみ、その後に生ずる第二次の問題はおのずから別である。すなわち各国民が各自国家を形成し、窮極の理想は別として第一段においては、それぞれまず自国民の福祉を保持することを先とする現実において、それぞれの憲法が公共の福祉を保持するため外国人の入国について特定の制限をすることは認めらるべきであつて、わが憲法ももとよりこの趣旨を除外するものではない。本件外国人登録令の規定は、右の趣旨に基き定められたものと認められるのであつて、単に外国人の入国を制限しているということだけで、その違憲をいうのは当らず、違憲の論旨の採用できないこと多数意見と結論を同じくする。ただわれわれの意見としては、多数意見が、無条件に外国人の入国は、本来わが国の自由に制限し得る事項であるという原則に立つ点において見解を異にするのであつて、現行憲法の解釈としては、いわゆる「国際慣習法上」なる前提に無批判に立脚することを、一たん脱却すべきものであると要請したいのである。

+意見
裁判官垂水克己の上告趣意第一点についての意見は次のとおりである。
憲法二二条は、出入国、居住、移転及び職業選択の自由については、日本国民に対しては公共の福祉に反しない限り広くこれを認め、また、外国人に対しても事柄の性質上当然日本国民と異る厳格な制約をつけうべきことを前提としつつ、しかも、公共の福祉に反しない限り僅かでもその自由を認める主義をとつたものと解せられる。この理由から、同条は在外日本国民には広い入国の自由を、また、国内日本国民並びに左留外国人には広い外国旅行、移住等出国の自由(及びわが国内に住所を有する外国人の外国旅行からの帰還の自由)を認めるものであつて、無制限にこれを拒否することはなく、また一般外国人の入国も全般的に永く禁止し鎖国するようなことはせず、ただ公共の福祉上暫定的にのみ禁止することができるとするもの、すなわち、外国人にも入国の自由を、どちらかといえば、認めるに傾いた主義をとつたもの、と考えられる。所論外国人登録令は、一定の台湾人、朝鮮人を同令の適用については当分の間これを外国人とみなす(一一条)とともに、外国人は、当分の間、本邦に入ることができないと定め(三条一項)その違反を処罰する(一二条)が、これらの規定は、わが史上空前の国内秩序の混乱、秩序維持力の弱体化、わが国と諸外国との国際関係の不安定、その他従前わが内地と深い関係のあつた外国地域に関係ある外国人等のわが国との取引往復の一般的要望その他占領下、終戦後の特殊事情に基き、相当程度国の平和秩序が回復するまでの間のために公共の福祉の必要から設けられた規定であると観られる。この理由から、所論の外国人登録令の規定は憲法二二条に違反せず、論旨は理由がないとせらるべきである。

・判例によれば、22条2項は、何人も、外国に移住する自由を侵されないと規定しており、ここにいう外国に移住する自由は、その権利の性質上外国人には保障しないという理由はない!!!

+判例(S32.12.25)

主文
第一審判決中被告人Aに関する有罪部分及び原判決中同被告人に関する部分を破棄する。
被告人Aを懲役六月に処する。
同被告人に対し第一審における未決勾留日数三〇日及び原審における未決勾留日数二八日を右本刑に算入する。
被告人Bの本件上告を棄却する。
当審における訴訟費用は被告人Bの負担とする。
理由

被告人両名の弁護人長崎祐三の上告趣意(一)について。
論旨は原判決が被告人両名の本邦より朝鮮に出国しようとした所為を出入国管理令二五条二項、七一条によつて処罰したのは、憲法が与えた外国移住権を制限するものであるから、同法二二条二項に違反すると主張する。
しかし、憲法二二条二項は「何人も、外国に移住し、又は国籍を離脱する自由を侵されない」と規定しており、ここにいう外国移住の自由は、その権利の性質上外国人に限つて保障しないという理由はない次に、出入国管理令二五条一項は、本邦外の地域におもむく意図をもつて出国しようとする外国人は、その者が出国する出入国港において、入国審査官から旅券に出国の証印を受けなければならないと定め、同二項において、前項の外国人は、旅券に証印を受けなければ出国してはならないと規定している。右は、出国それ自体を法律上制限するものではなく、単に、出国の手続に関する措置を定めたものであり、事実上かゝる手続的措置のために外国移住の自由が制限される結果を招来するような場合があるにしても、同令一条に規定する本邦に入国し、又は本邦から出国するすべての人の出入国の公正な管理を行うという目的を達成する公共の福祉のため設けられたものであつて、合憲性を有するものと解すべきである。よつて、所論は理由がない。

同(二)について。
憲法三七条一項にいわゆる「公平な裁判所の裁判」とは、偏頗や不公平のおそれのない組織と構成をもつ裁判所による裁判を意味するものであつて、所論のような場合をいうものでないことは、当裁判所の判例とするところであるから(昭和二二年(れ)四八号同二三年五月二六日大法廷判決、集二巻五号五一一頁)、論旨は採用できない。
被告人Bの弁護人松井佐の上告趣意は、事実誤認、訴訟法違反の主張を出でないものであつて、刑訴四〇五条の上告理由に当らない。
よつて被告人Bに関する本件上告は刑訴四一四条、三九六条によりこれを棄却し、当審における訴訟費用は同一八一条一項を適用して同被告人に負担させるものとする。

被告人Aに対する福岡高等検察庁検事長宮本増蔵の上告趣意について。
未決勾留は公訴の目的を達するため、やむを得ず、被告人又は被疑者を拘禁する強制処分であつて、刑の執行ではないが、自由を奪う点から自由刑に近いから、人権保護の衡平の観念から刑法二一条は、未決勾留の日数の全部又は一部を本刑に算入することを認めているのである。しかし、刑の執行と勾留状の執行が競合している場合には、勾留の有無にかゝわらず被告人又は被疑者は刑の執行によつて拘禁を受けているのであつて、勾留は観念上存在するが、事実上は刑の執行による拘禁のみが存在するに過ぎない。すなわち、勾留によつて自由を拘束するのではないから人権保護の立場からいつても、かかる未決勾留の期間を本刑に通算する必要はなく、却つて、これを通算すれば一個の拘禁を以つて、二個の自由刑の執行を同時に行つたと同様となつて不合理な結果となり、被告人に不当な利益を与えることとなる刑法二一条はかゝる場合の未決勾留を本刑に通算することを認める趣旨とは解せられない
記録によると被告人Aは昭和二八年一月一三日関税法違反及び出入国管理令違反の現行犯として逮捕され、同月一八日長崎地方裁判所武生水支部裁判官が右と同一罪名の被疑事件について発した勾留状により壱岐地区警察署に勾留せられ、同年二月四日公判請求を受け、原審の昭和二八年一〇月二九日付保釈許可決定により同日釈放されるまで引続き勾留されていたこと並びに、同被告人は昭和二七年二月一九日長崎地方裁判所厳原支部において外国人登録令違反及び関税法違反の罪により懲役一〇月(昭和二七年政令一一八号減刑令により懲役七月一五日に減軽)に処せられ、右裁判は同年九月六日控訴が棄却されたことにより確定したため、同被告人は昭和二八年二月二日検察官の執行指揮により同日から右刑の執行を受け同年九月一六日右刑の執行を受け終つたものであることを認めることができる。しかるに、原判決及び第一審判決が同被告人に対し同被告人が刑の執行を受けている期間の未決勾留日数を本刑に算入する旨の言渡をなしたのは、前示の法理に照し違法であり、論旨援用の判例にも反するから、刑訴四一〇条一項により同被告人に対する原判決及び第一審判決中、同被告人に有罪を言渡した部分を破棄し、刑訴四一三条但書により被告事件について更に判決をなすべく、第一審判決の確定した事実(判示第三の事実)に法令を適用すると、被告人Aの判示所為は出入国管理令二五条二項、七一条に該当するところ、所定刑中懲役刑を選択し、その刑期範囲内で同被告人を懲役六月に処し、第一審判決において本刑に算入した未決勾留日数三〇日中昭和二八年一月一八日から同年二月一日までの一五日を除くその余は被告人の前示刑の執行を受けている期間であるから、これを本刑に算入することは違法であるけれども、本件第一審判決に対しては、検察官の控訴なく、被告人のみの控訴であつてこれを不利益に変更することは許されないので、刑法二一条に則り、第一審における前記三〇日及び被告人が前記別件の刑の執行を受け終つた昭和二八年九月一六日の翌日から原判決言渡の前日たる同年一〇月一四日までの原審における未決勾留日数二八日を右本刑に算入すべきものとする。よつて主文のとおり判決する。
この判決は、裁判官小谷勝重、同垂水克己、同河村大助、同下飯坂潤夫の左記意見があるほか裁判官の一致した意見である。

+意見
裁判官小谷勝重の弁護人長崎祐三の上告趣意(一)に対する意見は次のとおりである。
一 憲法二二条二項は、直接外国人の国外移住の自由を保障した規定とは解せられない。言いかえれば、本項の自由の保障はわが国民のみを対象とした規定と考える。
しかし、わが国内に居住する外国人がその本国への帰国のための出国は勿論、その他の外国へ移住することの自由が保障せらるべきであることは、右憲法同条同項の精神に照して明らかであるから、結局憲法同条同項の規定は外国人を対象とした規定ではないが、憲法の精神は外国人に対しても国民に対すると同様の保障を与えておるものと解すべきであると考える。
二 次に出入国管理令二五条二項は「……外国人は、旅券に出国の証印を受けなければ出国してはならない。」と規定するところであつて、外国人の出国それ自体を制限することを目的とした規定ではなく、単に出国の手続に関する規定であり、そして外国人の出入国に関する管理上必要の程度において当然な合理性を持つものである。けだし憲法が如何に国外移住の自由を保障すればとて、外国人のわが国よりの出国が自由放任の状態であつてはならないことは自明のことであり、右令二五条二項は(令七一条の制裁規定と共に)単なるこれが出国に関する手続措置の規定であることは前示規定自体に徴して明確である。すなわち令同条同項は多数意見のいうが如き「公共の福祉」のためにその憲法上の保障を制限する趣旨の規定とは解すべきではないと考える。
要するに、憲法の規定する「公共の福祉」による人権の制限は、事物当然の合理性を持つ規定を指すものではないと考えると同時に、憲法の規定する「公共の福祉」はこれを容易に拡張し若しくは利用して、憲法が保障する人権を制限するの具に供してはならないものと考える。
裁判官垂水克己の検事長上告趣意に関する意見は次のとおりである。
記録によると、被告人Aは本件での勾留状(及び勾留更新決定)により判示の年一月一三日から一〇月二九日(保釈釈放日)まで引き続き勾留されていたが、判示別件の確定判決により懲役一〇月(判示減刑令により懲役七月一五日に減軽)に処せられたため、右勾留期間の中間である二月二日から九月一六日までの間、土手町拘置支所でこの懲役刑の執行を受け終つたことになつている。これによると同被告人は二月二日から九月一六日までの間は同じ監獄内で刑事被告人としての処遇と懲役囚としての処遇とを重複して受けたこととされている。かような場合には、本人は、勾留被告人として、立会人なくして弁護人と接見する等(刑訴三九条)重要な防禦権を害されてはならず、また被告事件についての罪証を隠滅するような言動を許さるべきでないとともに、懲役囚として作業し教誨を受ける等の義務もなおざりにされてはならない筈である(これをなおざりにするときは懲役刑に処した判決の本旨に従う執行があつたといえない場合があり得るであろう)。本件被告人が右期間中これらの点について如何なる処遇を受けていたかは記録上判らない。(恐らく、大正一三年二月行刑局長通牒甲一八五号旧刑訴法実施についての注意事項六、七、八によつたであろう。被告人は勾留状により右土手町拘置支所の未決拘禁区において他の刑事被告人と分界拘禁され作業その他につき受刑者として処遇されたのであろう。)
しかし、いずれにしても、次のことがいえる。
(一)被告人が未決囚兼懲役囚として重複処遇を受けた期間中、未決拘禁区にあつて他の未決囚と分界拘禁され、衣食臥具の官給と教誨を受け、そして、弁護人との接見、信書発受について未決囚としての規制のみを受ける以外は懲役囚としての作業に服したのであるならば、これを適当な重複処遇というを妨げまい。けれども、この場合でも本人は一個の拘禁によつて懲役の義務と未決勾留の義務との双方を弁済するのであり、換言すれば、本件での勾留日数の一部は、実質上、別件での懲役刑に算入されたと同様の結果になる訳だから、この勾留日数を更に本件の本刑に算入することは失当に過ぎ許さるべきでない。(ちなみに、若し被告人が本件全事実につき無罪判決を受けたと仮定してもかような勾留日数に応ずる刑事補償金を交付すべきではなかろう。)
(二)また、若し右重複拘禁期間中、作業は殆んどせず、主として未決囚としての処遇を受けていたとすれば、それは懲役刑の不完全履行であつて、これを懲役刑を完了したものとしたことは不適当であつたというべきである。かような場合にも右期間を本件の本刑に算入することは全体的に考察すれば衡平でなく違法というべきであろう。
(三)反対に、右重複拘禁中主として懲役囚としての処遇を受けたとすれば、未決勾留は名義上だけのものに近いから、この場合にも右の期間を本件の本刑に算入することは、実質上、他事件の確定判決による懲役刑受刑日数を本件の本刑に算入すると同様の結果となり、本人に不当利益を与えるものといわねばならない。要するに、以上いずれの場合にせよ、本人は本件での勾留義務と他事件の確定判決による懲役服役義務とを一個の拘禁で果たしたようなものとして扱われたのであるから、本件勾留日数を更に本件本刑に算入することは刑法二一条の解釈上許さるべきでない。本判決が「これを通算すれば一個の拘禁をもつて二個の自由刑の執行を同時に行つたと同様となつて不合理な結果となり被告人に不当利益を与えることとなる」としたことは是認されるべきである。

+意見
裁判官河村大助、同下飯坂潤夫の弁護人長崎祐三の上告趣意(一)に対する意見は次のとおりである。
私共は憲法二二条二項は外国人には適用がないものと解する。憲法第三章の所謂権利宣言は、その表題の示すとおり国民の権利自由を保障するのが原則であつて、外国人に対しても凡ての権利自由を日本国民と同様に保障しようとするものではない。国民はすべて法の下に平等であることが保障されているが、その権利自由の性質いかんによつては法律で外国人を合理的な範囲で差別することも許されなければならないと考えられる。
ところで憲法二二条二項は外国移住及び国籍離脱の自由を保障しているのであるが、同条にいう「何人も」とは日本国民を意味し外国人を含まないものと解すべきである。かつては国民の兵役義務や国防関係等から国籍離脱の自由は相当の制限を受け、外国移住についても特別の保障はなかつたのであるが、近世に至つてかゝる自由を制限する必要もなくなつたのと国際的交通の発達に伴い、国民の海外移住とそれに伴う外国への帰化が盛んに行われるようになつて来た状勢に鑑み、また日本人を在来の鎖国的傾向から解放せんとする意図の下に、憲法は海外移住と国籍離脱の自由を保障することになつたものと解すべきである、即ち、同条は国籍自由の原則を認め国民は自国を自由に離れることを妨げられないことを保障されたものであるから、同条の外国移住は国籍離脱の自由と共に日本国民に対する自由の保障であることは、同条の成立に至るまでの沿革に徴しても明らである、従つて同条二項は外国人に適用がないものと解するを正当とする。なお同条一項の居住移転の自由には外国人の入国を含まないことは既に判例の存するところである(昭和三二年六月一九日大法廷判決)。然るに外国人の出国については同条二項に包含されると解するが如き、両者を別異に取扱うべき実質上の理由も存在しないものというべきである。
或は外国人の出入国について、その自由が憲法上保障されていないことになると国家はこれを自由に禁止制限することができ、憲法の理想とする平和主義国際主義に反するのではないかとの論を生ずるかも知れない。しかし、後に公布された平和条約前文にも「世界人権宣言の目的を実現するため努力」する旨が宣言され、その人権宣言では一三条及び一五条において国籍自由の原則や出国の自由が認められているのであるから、国家は出入国管理に関する法令を制定するに当つても、右条約及び人権宣言を尊重して合理的にして公正な管理規制が行わるべきであることは憲法九八条二項に照し明らかである。従つて憲法上の保障がないからと謂つて、外国人に対し国政上不当な取扱いをすることは考えられないのである。
要するに憲法二二条二項の「何人も」の中には外国人を含まないものと解すべきであり、被告人両名は外国人で同条項の外国移住の自由を保障された者でないから、論旨違憲の主張はその前提を欠き、理由がない。
裁判官田中耕太郎は差支につき評議に関与しない。
検察官 安平政吉出席

・判例によれば、国際人権B規約(自由権規約)第12条第4項の「自国に戻る」には、「定住国に戻る」ことの保障を含まないから、日本に定住する外国人の場合、憲法上外国へ一時旅行する自由は保障されない!!!
+判例(H4.11.16)森川キャサリーン事件
理由
上告代理人野本俊輔、同村上愛三の上告理由第一点について
我が国に在留する外国人は、憲法上、外国へ一時旅行する自由を保障されているものでないことは、当裁判所大法廷判決(最高裁昭和二九年(あ)第三五九四号同三二年六月一九日判決・刑集一一巻六号一六六三頁、昭和五〇年(行ツ)第一二〇号同五三年一〇月四日判決・民集三二巻七号一二二三頁)の趣旨に徴して明らかである。以上と同旨の原審の判断は、正当として是認することができ、原判決に所論の違憲はない。論旨は採用することができない。
同第二点及び第三点について
原審の適法に確定した事実関係の下において、所論の点に関する原審の判断は、正当として是認することができ、原判決に所論の違法はない。論旨は採用することができない。
よって、行政事件訴訟法七条、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

++解説など補足しておく。

・13条により、個人の私生活上の自由として、何人もみだりに指紋の押なつを強制されない事由を有し、この自由の保障は我が国に在留する外国人にも等しく及ぶ!!
+判例(H7.12.15)指紋押捺拒否事件
理由
一 弁護人松下宜且、同原田紀敏、同熊野勝之の各上告趣意及び被告人本人の上告趣意のうち、憲法一三条違反をいう点について
所論は、我が国に在留する外国人について指紋押なつ制度を定めた外国人登録法(昭和五七年法律第七五号による改正前のもの。以下特に記載がない限り同じ)一四条一項、一八条一項八号は、みだりに指紋を採られない権利を保障する憲法一三条に違反すると主張する。
本件は、アメリカ合衆国国籍を有し現にハワイに在住する被告人が、昭和五六年一一月九日、当時来日し居住していた神戸市灘区において新規の外国人登録の申請をした際、外国人登録原票、登録証明書及び指紋原紙二葉に指紋の押なつをしなかったため、外国人登録法の右条項に該当するとして起訴された事案である。
指紋は、指先の紋様であり、それ自体では個人の表生活や人格、思想、信条、良心等個人の内心に関する情報となるものではないが、性質上万人不同性、終生不変性をもつので、採取された指紋の利用方法次第では個人の私生活あるいはプライバシーが侵害される危険性がある。このような意味で、指紋の押なつ制度は、国民の私生活上の自由と密接な関連をもつものと考えられる。 !!!
憲法一三条は、国民の私生活上の自由が国家権力の行使に対して保護されるべきことを規定していると解されるので、個人の私生活上の自由の一つとして、何人もみだりに指紋の押なつを強制されない自由を有するものというべきであり、国家機関が正当な理由もなく指紋の押なつを強制することは、同条の趣旨に反して許されず、また、右の自由の保障は我が国に在留する外国人にも等しく及ぶと解される(最高裁昭和四〇年(あ)第一一八七号同四四年一二月二四日大法廷判決・刑集二三巻一二号一六二五頁、最高裁昭和五〇年(行ッ)第一二〇号同五三年一〇月四日大法廷判決・民集三二巻七号一二二三頁参照)。
しかしながら、右の自由も、国家権力の行使に対して無制限に保護されるものではなく、公共の福祉のため必要がある場合には相当の制限を受けることは、憲法一三条に定められているところである。
そこで、外国人登録法が定める在留外国人についての指紋押なつ制度についてみると、同制度は、昭和二七年に外国人登録法(同年法律第一二五号)が立法された際に、同法一条の「本邦に在留する外国人の登録を実施することによって外国人の居住関係及び身分関係を明確ならしめ、もって在留外国人の公正な管理に資する」という目的を達成するため、戸籍制度のない外国人の人物特定につき最も確実な制度として制定されたもので、その立法目的には十分な合理性があり、かつ、必要性も肯定できるものである。また、その具体的な制度内容については、立法後累次の改正があり、立法当初二年ごとの切替え時に必要とされていた押なつ義務が、その後三年ごと、五年ごとと緩和され、昭和六二年法律第一〇二号によって原則として最初の一回のみとされ、また、昭和三三年律第三号によって在留期間一年未満の者の押なつ義務が免除されたほか、平成四年法律第六六号によって永住者(出入国管理及び難民認定法別表第二上欄の永住者の在留資格をもつ者)及び特別永住者(日本国との平和条約に基づき日本の国籍を離脱した者等の出入国管理に関する特例法に定める特号永住者)にっき押なつ制度が廃止されるなど社会の状況変化に応じた改正が行われているが、本件当時の制度内容は、押なつ義務が三年に一度で、押なつ対象指紋も一指のみであり、加えて、その強制も罰則による間接強制にとどまるものであって、精神的、肉体的に過度の苦痛を伴うものとまではいえず、方法としても、一般的に許容される限度を超えない相当なものであったと認められる。
右のような指紋押なつ制度を定めた外国人登録法一四条一項、一八条一項八号が憲法一三条に違反するものでないことは当裁判所の判例(前記最高裁昭和四四年一二月二四日大法廷判決、最高裁昭和二九年(あ)第二七七七号同三一年一二月二六日大法廷判決・刑集一〇巻一二号一七六九頁)の趣旨に徴し明らかであり、所論は理由がない。

二 弁護人松下宜且及び被告人本人の各上告趣意のうち、憲法一四条違反をいう点について
所論は、指紋押なつ制度を定めた外国人登録法の前記各条項は外国人を日本人と同一の取扱いをしない点で憲法一四条に違反すると主張する。しかしながら、在留外国人を対象とする指紋押なつ制度は、前記一のような目的、必要性、相当性が認められ、戸籍制度のない外国人については、日本人とは社会的事実関係上の差異があって、その取扱いの差異には合理的根拠があるので、外国人登録法の同条項が憲法一四条に違反するものでないことは、当裁判所の判例(最高裁昭和二六年(あ)第三九一一号同三〇年一二月一四日大法廷判決・刑集九巻一三号二七五六頁、最高裁昭和三七年(あ)第九二七号同三九年一一月一八日大法廷判決・刑集一八巻九号五七九頁)の趣旨に徴し明らかであり、所論は理由がない。

三 弁護人原田紀敏、同熊野勝之の各上告趣意及び被告人本人の上告趣意のうち、憲法一九条違反をいう点について所論は、指紋押なつ制度を定めた外国人登録法の前記各条項は外国人の思想、良心の自由を害するもので憲法一九条に違反すると主張するが、指紋は指先の紋様でありそれ自体では思想、良心等個人の内心に関する情報となるものではないし、同制度の目的は在留外国人の公正な管理に資するため正確な人物特定をはかることにあるのであって、同制度が所論のいうような外国人の思想、良心の自由を害するものとは認められないから、所論は前提を欠く。

四 弁護人松下宜且、同原田紀敏、同熊野勝之の各上告趣意及び被告人本人の上告趣意のうち、その余の点は、違憲をいう点を含め、実質は単なる法令違反の主張であって、いずれも適法な上告理由に当たらない。
五 弁護人菅充行の上告趣意は、違憲をいう点を含め、実質は単なる法令違反の主張であって、適法な上告理由に当たらない。
よって、刑訴法四〇八条により、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

++解説
《解  説》
本件は、在留外国人の指紋押なつ拒否事件の刑事上告審判決である。
一 本判決の要点
本判決は、指紋押なつ制度の合憲性に関して初めて最高裁の判断を示したものである。その要点は、次のようなものである。
①指紋押なつ制度について
「指紋は、指先の紋様であり、それ自体では個人の私生活や人格、思想、信条、良心等個人の内心に関する情報となるものではないが、性質上万人不同性、終生不変性をもつので、採取された指紋の利用方法次第では個人の私生活あるいはプライバシーが侵害される危険性がある。このような意味で、指紋の押なつ制度は、国民の私生活上の自由と密接な関連をもつものと考えられる。
②みだりに指紋の押なつを強制されない自由と憲法一三条の関係について
憲法一三条は、国民の私生活上の自由が国家権力の行使に対して保護されるべきことを規定していると解されるので、個人の私生活上の自由の一つとして、何人もみだりに指紋の押なつを強制されない自由を有するものというべきであり、国家機関が正当な理由もなく指紋の押なつを強制することは、同条の趣旨に反して許されず、また、右の自由の保障は我が国に在留する外国人にも等しく及ぶと解される。」
③外国人登録法の指紋押なつ制度の合憲性について
「右の自由も、国家権力の行使に対して無制限に保護されるものではなく、公共の福祉のため必要がある場合には相当の制限を受けることは、憲法一三条に定められているところである。
同制度は、昭和二七年に外国人登録法が立法された際に、同法一条の「本邦に在留する外国人の登録を実施することによって外国人の居住関係及び身分関係を明確ならしめ、もって在留外国人の公正な管理に資する」という目的を達成するため、戸籍制度のない外国人の人物特定につき最も確実な制度として制定されたもので、その立法目的には十分な合理性があり、かつ、必要性も肯定できるものである。また、その具体的な制度内容については、立法後累次の改正があり、社会の状況変化に応じた改正が行われているが、本件当時の制度内容は、押なつ義務が三年に一度で、押なつ対象指紋も一指のみであり、加えて、その強制も罰則による間接強制にとどまるものであって、精神的、肉体的に過度の苦痛を伴うものとまではいえず、方法としても、一般的に許容される限度を超えない相当なものであったと認められる。」
本判決は、以上のような判示をして、被告人について適用された外国人登録法(昭和五七年法律第七五号による改正前のもの)一四条一項、一八条一項八号について、憲法一三条に違反するものでないと判断した。なお、この判断は、最大判昭44・12・24刑集二三巻一二号一六二五頁、最大判昭31・12・26刑集一〇巻一二号七六九頁の趣旨に徴したものである。

二 事案の概要
被告人は、日系の米国人宣教師であるが(上告審判決時にはハワイに在住)、本件は、被告人が、昭和五六年一一月九日、牧師活動をするため当時来日し居住していた神戸市灘区において新規の外国人登録の申請をした際、外国人登録原票、登録証明書及び指紋原紙二葉に指紋の押なつをしなかったため、外国人登録法(昭和五七年法律第七五号による改正前のもの)一四条一項、一八条一項八号に該当するとして起訴された事案である。
在留外国人について指紋押なつ制度を定めた外国人登録法は、本件公訴提起後、数度の改正がなされ、昭和六二年の改正ではそれまで登録の切替えごとに課されていた押なつ義務が原則として最初の一回のみとされ、また、平成四年の改正では永住者及び特別永住者(いわゆる在日韓国・朝鮮人が含まれる)につき押なつ制度が廃止されており、さらに、昭和天皇崩御に伴う大赦で大半の同法違反事件が免訴となったこともあり、指紋押なつ拒否による刑事被告事件は、本件のような事例のみとなっていた。

三 争点
被告人、弁護人は、一審以来、指紋押なつ制度の合憲性を争い、右制度を定めた外国人登録法の条項につき、憲法一三条、一四条、一九条、三一条違反等を主張したが、特に、指紋押なつ制度がみだりに指紋を採られない権利を保障する憲法一三条に違反するという主張を主要な争点としてきた。
その論拠の要点は、次のようなものである。
①「みだりに指紋を採られない権利」は、憲法一三条の保障するプライバシーの権利に含まれ、個人の高度の精神的自由に属するから、これに対する制約原理は、いわゆる「厳格な基準」によらなければならない。
②指紋押なつ制度の立法目的は、在日外国人、特に在日韓国・朝鮮人に対する行動を監視しようとする治安目的、あるいは同化支配の目的にある。
③指紋押なつ制度は、外国人登録制度の正確性担保という目的には役に立っておらず、その必要性・合理性は認められない。
④指紋押なつ制度は、在日韓国・朝鮮人に対する同化政策の下で、アイデンティティ形成障害、精神的障害などの人権侵害をもたらしており、この影響は受忍限度を超えている。
一審(神戸地判昭61・4・24)及び原審(大阪高判平2・6・19)は、いずれも指紋押なつ制度の合憲性を肯定した。原審の判断については、本誌七四二号五五頁参照。

四 判例・学説
1 指紋押なつ制度の合憲性を直接判断した最高裁判例はこれまでなかったが、高裁、地裁の裁判例は、次のように相当数あり、いずれの事例でも結論として合憲性が肯定されている。
(刑事関係)
①横浜地判昭59・6・14本誌五三〇号二八二頁、刑月一六巻五:六号四四六頁
②東京地判昭59・8・29本誌五三四号九八頁、刑月一六巻七:八号六四五頁
③福岡地小倉支判昭60・8・23本誌五六五号一九九頁
④岡山地判昭61・2・25本誌五九六号八七頁
⑤神戸地判昭61・4・24本件一審、本誌六二九号二一二頁
⑥東京高判昭61・8・25判時一二〇八号六六頁
⑦福岡高判昭61・12・26本誌六二五号二五九頁
⑧大阪地判昭62・2・23本誌六四一号二二六頁
⑨東京地判昭63・1・29本誌六九一号二五〇頁
⑩名古屋高判昭63・3・16本誌六七四号二三八頁
⑪大阪高判昭63・11・29ジュリ九五一号カード
⑫大阪高判平2・6・19本原審、本誌七四二号五五頁
(民事関係)
⑬東京地判平1・4・28本誌六九四号一八七頁
⑭福岡地判平1・9・29本誌七一八号八一頁
⑮東京地判平2・3・13本誌七二三号九三頁
⑯横浜地川崎支判平2・11・29本誌七四四号二二〇頁
⑰東京高判平4・4・6本誌八〇七号二一二頁
⑱神戸地判平4・12・14本誌八一五号一五〇頁
⑲福岡高判平6・5・13本誌八五五号一五〇頁
⑳大阪高判平6・10・28判時一五一三号七一頁
2 ところで、関連する最高裁の判例として「みだりに容ぼう等を撮影されない自由と憲法一三条」についての判断を示した最大判昭44・12・24(いわゆる京都府学連事件)があり、前記の下級審の裁判例は、大半が右大法廷判例を引用し又はその趣旨に沿って、「みだりに指紋の押なつを強制されない自由」を、右大法廷判例の認めた「みだりに容ぼう等を撮影されない自由」と同様に、憲法一三条によって保護される個人の私生活上の自由の一つと解して、合憲性の判断をしている。その判断基準については、基本的に合理性の基準(制度目的の正当性、制度の必要性、規制の相当性等の審査)によっている(なお、裁量権の範囲か逸脱かの基準によっている一例がある)。
3 学説上、本テーマを取り上げた論文等では、「みだりに指紋の押なつを強制されない自由」の性格について、この自由をプライバシーの権利とみるか、あるいは自己に関する情報をコントロールする権利等とみるかについては議論があるが、右の自由が憲法一三条によって保障されるとする点に、異論は見当たらない。
ただ、その合憲性の判断基準については、前記各裁判例が合理性の基準によったものとみられるのに対して、より厳格な審査基準によるべきとする説が多い(芦部「憲法学Ⅱ人権総論」三八七頁、萩野・ジュリ八二六号二三頁、内野・法時五七巻五号二一頁、浦部・ジュリ九〇八号四五頁、江橋・法教五〇号九四頁、古川・ジュリ八三八号八頁、笹川・ジュリ八六六号一四一頁、横田・法研五六巻二号一頁等)。これは、「みだりに指紋の押なつを強制されない自由」がプライバシーの権利に近い性質のものと理解することによるものと思われる。なお、合理性の基準をとる説もある(橋本・「座談会、外国人登録制度と指紋押捺問題」ジュリ八二六号一八頁)。
ところで、結論として外国人登録法の指紋押なつ制度を違憲と断じる説は、少ない(前記浦部、横田説が違憲とする)。

五 本判決の意義
本判決には二つの意義があると考えられる。
一つは、「何人も個人の私生活上の自由の一つとしてみだりに指紋の押なつを強制されない自由を有し、国家機関が正当な理由もなく指紋の押なつを強制することは、憲法一三条の趣旨に反し許されない。」旨を判示して、「みだりに指紋の押なつを強制されない自由」が憲法一三条によって保護されることを明確にしたことである。
次に、このような考え方に立って、外国人登録法の指紋押なつ制度規定について、その立法目的には十分な合理性があり、かつ必要性も肯定でき、本件当時の制度内容も精神的、肉体的に過度の苦痛を伴うものとまではいえず、方法としても一般的に許容される限度を超えない相当なものであったとして、憲法一三条に違反しないと判断したことである。
本判決は、判断方法を含め、本問題につきこれまで高裁、地裁の裁判例の大勢を占めていた判断を、基本的に是認するものといえよう。
外国人登録法は、累次の改正がなされた結果、現在では、指紋押なつ義務は永住者及び特別永住者については除外されており、この義務が課されるのは在留期間が一年を超える外国人につき原則として最初の一回のみとなっており、刑事罰則が適用されるのはごくまれになっている。
しかし、在留外国人の指紋押なつ制度を定めた外国人登録法一四条一項、一八条一項八号は、現在でも存置されており、その意味で本判決は、今後もなお、重要な意義をもつものと考えられる。

・憲法13条は、個人の私生活上の自由のひとつとして、指紋押捺を強制されない自由を保障しているが、公共の福祉のために必要がある場合には相当の制限を受ける。=権利の性質上外国人に対して制約があるわけではない!!!公共の福祉としての制約!!

・未成年者も日本国民である以上、当然に人権の享有主体である。ただ、憲法上、未成年者の人権を明文で制限している規定はある!
+15条
1項 公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。
2項 すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。
3項 公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する。
4項 すべて選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任を問はれない。

・憲法第3章の人権規定は、未成年者にも当然適用される。(←第3章の表題にある「国民」に未成年が含まれることから)もっとも、人権の性質によっては、社会の構成員として成熟した人間を主として対象としており、それに至らないその保証の範囲や程度が異なることになる!
+15条
1項 公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。
2項 すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。
3項 公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する。
4項 すべて選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任を問はれない。

+27条
1項 すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負う。
2項 賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める。
3項 児童は、これを酷使してはならない

・本人の利益のために本人の権利を制限するというパターナリスティックな制約は、判断能力が不十分な未成年に対しては認められる。成年者に対しても認められる場合がある。
+精神保健及び精神障害者福祉に関する法律
(処遇)
第36条
1項 精神科病院の管理者は、入院中の者につき、その医療又は保護に欠くことのできない限度において、その行動について必要な制限を行うことができる
2項 精神科病院の管理者は、前項の規定にかかわらず、信書の発受の制限、都道府県その他の行政機関の職員との面会の制限その他の行動の制限であつて、厚生労働大臣があらかじめ社会保障審議会の意見を聴いて定める行動の制限については、これを行うことができない。
3項 第1項の規定による行動の制限のうち、厚生労働大臣があらかじめ社会保障審議会の意見を聴いて定める患者の隔離その他の行動の制限は、指定医が必要と認める場合でなければ行うことができない。

・地方公共団体の制定する青少年保護育成条例によって有害図書の流通を制約することは、未成年者に対する関係において、憲法第21条第1項に違反しない!
+21条
1項 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
2項 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

+判例(H1.9.19)岐阜県青少年育成条例事件
理由
一 弁護人青山學、同井口浩治の上告趣意のうち、憲法二一条一項違反をいう点は、岐阜県青少年保護育成条例(以下「本条例」という。)六条二項、六条の六第一項本文、二一条五号の規定による有害図書の自動販売機への収納禁止の規制が憲法二一条一項に違反しないことは、当裁判所の各大法廷判例(昭和二八年間第一七一三号同三二年三月一三日判決・刑集一一巻三号九九七頁、昭和三九年(あ)第三〇五号同四四年一〇月一五日判決・刑集二三巻一〇号一二三九頁、昭和五七年(あ)第六二一号同六〇年一〇月二三日判決・刑集三九巻六号四一三頁)の趣旨に徴し明らかであるから、所論は理由がない。同上告趣意のうち、憲法二一条二項前段違反をいう点は、本条例による有害図書の指定が同項前段の検閲に当たらないことは、当裁判所の各大法廷判例(昭和五七年(行ツ)第一五六号同五九年一二月一二日判決・民集三八巻一二号一三〇八頁、昭和五六年(オ)第六〇九号同六一年六月一一日判決・民集四〇巻四号八七二頁)の趣旨に徴し明らかであるから、所論は理由がない。同上告趣意のうち、憲法一四条違反をいう点が理由のないことは、前記昭和六〇年一〇月二三日大法廷判決の趣旨に徴し明らかである。同上告趣意のうち、規定の不明確性を理由に憲法二一条一項、三一条違反をいう点は、本条例の有害図書の定義が所論のように不明確であるということはできないから前提を欠き、その余の点は、すべて単なる法令違反、事実誤認の主張であつて、適法な上告理由に当たらない。

二 所論にかんがみ、若干説明する。
1 本条例において、知事は、図書の内容が、著しく性的感情を刺激し、又は著しく残忍性を助長するため、青少年の健全な育成を阻害するおそれがあると認めるときは、当該図書を有害図書として指定するものとされ(六条一項)、右の指定をしようとするときには、緊急を要する場合を除き、岐阜県青少年保護育成審議会の意見を聴かなければならないとされている(九条)。ただ、有害図書のうち、特に卑わいな姿態若しくは性行為を被写体とした写真又はこれらの写真を掲載する紙面が編集紙面の過半を占めると認められる刊行物については、知事は、右六条一項の指定に代えて、当該写真の内容を、あらかじめ、規則で定めるところにより、指定することができるとされている(六条二項)。これを受けて、岐阜県青少年保護育成条例施行規則二条においては、右の写真の内容について、「一 全裸、半裸又はこれに近い状態での卑わいな姿態、二性交又はこれに類する性行為」と定められ、さらに昭和五四年七月一日岐阜県告示第五三九号により、その具体的内容についてより詳細な指定がされている。このように、本条例六条二項の指定の場合には、個々の図書について同審議会の意見を聴く必要はなく、当該写真が前記告示による指定内容に該当することにより、有害図書として規制されることになる。以上右六条一項又は二項により指定された有害図書については、その販売又は貸付けを業とする者がこれを青少年に販売し、配付し、又は貸し付けること及び自動販売機業者が自動販売機に収納することを禁止され(本条例六条の二第二項、六条の六第一項)、いずれの違反行為についても罰則が定められている(本条例二一条二号、五号)。

2 本条例の定めるような有害図書が一般に思慮分別の未熟な青少年の性に関する価値観に悪い影響を及ぼし、性的な逸脱行為や残虐な行為を容認する風潮の助長につながるものであつて、青少年の健全な育成に有害であることは、既に社会共通の認識になつているといつてよい。さらに、自動販売機による有害図書の販売は、売手と対面しないため心理的に購入が容易であること、昼夜を問わず購入ができること、収納された有害図書が街頭にさらされているため購入意欲を刺激し易いことなどの点において、書店等における販売よりもその弊害が一段と大きいといわざるをえない。しかも、自動販売機業者において、前記審議会の意見聴取を経て有害図書としての指定がされるまでの間に当該図書の販売を済ませることが可能であり、このような脱法的行為に有効に対処するためには、本条例六条二項による指定方式も必要性があり、かつ、合理的であるというべきである。そうすると、有害図書の自動販売機への収納の禁止は、青少年に対する関係において、憲法二一条一項に違反しないことはもとより、成人に対する関係においても、有害図書の流通を幾分制約することにはなるものの、青少年の健全な育成を阻害する有害環境を浄化するための規制に伴う必要やむをえない制約であるから、憲法二一条一項に違反するものではない
よつて、刑訴法四〇八条により、主文のとおり判決する。
この判決は、裁判官伊藤正己の補足意見があるほか、裁判官全員一致の意見によるものである。

+補足意見
裁判官伊藤正己の補足意見は、次のとおりである。
岐阜県青少年保護育成条例(以下「本件条例」という。)による有害図書の規制が憲法に違反するものではないことは、法廷意見の判示するとおりである。いわゆる有害図書を青少年の手に入らないようにする条例は、かなり多くの地方公共団体において制定されているところであるが、本件において有害図書に該当するとされた各雑誌を含めて、表現の自由の保障を受けるに値しないと考えられる価値のない又は価値の極めて乏しい出版物がもつぱら営利的な目的追求のために刊行されており、青少年の保護育成という名分のもとで規制が一般に受けいれられやすい状況がみられるに至つている。そして、本件条例のような法的規制に対しては、表現の送り手であるマス・メデイア自身も、社会における常識的な意見も、これに反対しない現象もあらわれている。しかし、この規制は、憲法の保障する表現の自由にかかわるものであつて、所論には検討に値する点が少なくない。以下に、法廷意見を補足して私の考えるところを述べておきたいと思う。

一 本件条例と憲法二一条
(一) 本件条例によれば、六条一項により有害図書として指定を受けた図書、同条二項により指定を受けた内容を有する図書は、 青少年に供覧、販売、貸付等をしてはならないとされており(六条の二)、これは明らかに青少年の知る自由を制限するものである。当裁判所は、国民の知る自由の保障が憲法二一条一項の規定の趣旨・目的から、いわばその派生原理として当然に導かれるところであるとしている(最高裁昭和六三年(オ)第四三六号平成元年三月八日大法廷判決・民集四三巻二号八九頁参照)。そして、青少年もまた憲法上知る自由を享有していることはいうまでもない
青少年の享有する知る自由を考える場合に、一方では、青少年はその人格の形成期であるだけに偏りのない知識や情報に広く接することによつて精神的成長をとげることができるところから、その知る自由の保障の必要性は高いのであり、そのために青少年を保護する親権者その他の者の配慮のみでなく、青少年向けの図書利用施設の整備などのような政策的考慮が望まれるのであるが、他方において、その自由の憲法的保障という角度からみるときには、その保障の程度が成人の場合に比較して低いといわざるをえないのである。すなわち、知る自由の保障は、提供される知識や情報を自ら選別してそのうちから自らの人格形成に資するものを取得していく能力が前提とされている青少年は、一般的にみて、精神的に未熟であつて、右の選別能力を十全には有しておらず、その受ける知識や情報の影響をうけることが大きいとみられるから、成人と同等の知る自由を保障される前提を欠くものであり、したがつて青少年のもつ知る自由は一定の制約をうけ、その制約を通じて青少年の精神的未熟さに由来する害悪から保護される必要があるといわねばならない。もとよりこの保護を行うのは、第一次的には親権者その他青少年の保護に当たる者の任務であるが、それが十分に機能しない場合も少なくないから、公的な立場からその保護のために関与が行われることも認めねばならないと思われる。本件条例もその一つの方法と考えられる。
このようにして、ある表現が受け手として青少年にむけられる場合には、成人に対する表現の規制の場合のように、その制約の憲法適合性について厳格な基準が適用されないものと解するのが相当である。そうであるとすれば、一般に優越する地位をもつ表現の自由を制約する法令について違憲かどうかを判断する基準とされる、その表現につき明白かつ現在の危険が存在しない限り制約を許されないとか、より制限的でない他の選びうる手段の存在するときは制約は違憲となるなどの原則はそのまま適用されないし、表現に対する事前の規制は原則として許されないとか、規制を受ける表現の範囲が明確でなければならないという違憲判断の基準についても成人の場合とは異なり、多少とも緩和した形で適用されると考えられる。以上のような観点にたつて、以下に論点を分けて考察してみよう。

(二) 青少年保護のための有害図書の規制について、それを支持するための立法事実として、それが青少年非行を誘発するおそれがあるとか青少年の精神的成熟を害するおそれのあることがあげられるが、そのような事実について科学的証明がされていないといわれることが多い。たしかに青少年が有害図書に接することから、非行を生ずる明白かつ現在の危険があるといえないことはもとより、科学的にその関係が論証されているとはいえないかもしれないしかし青少年保護のための有害図書の規制が合憲であるためには、青少年非行などの害悪を生ずる相当の蓋然性のあることをもつて足りると解してよいと思われる。もつとも青少年の保護という立法目的が一般に是認され、規制の必要性が重視されているために、その規制の手段方法についても、容易に肯認される可能性があるが、もとより表現の自由の制限を伴うものである以上、安易に相当の蓋然性があると考えるべきでなく、必要限度をこえることは許されない。しかし、有害図書が青少年の非行を誘発したり、その他の害悪を生ずることの厳密な科学的証明を欠くからといつて、その制約が直ちに知る自由への制限として違憲なものとなるとすることは相当でない。
西ドイツ基本法五条二項の規定は、表現の自由、知る権利について、少年保護のための法律によつて制限されることを明文で認めており、いわゆる「法律の留保」を承認していると解される。日本国憲法のもとでは、これと同日に論ずることはできないから、法令をもつてする青少年保護のための表現の自由、知る自由の制約を直ちに合憲的な規制として承認することはできないが、現代における社会の共通の認識からみて、青少年保護のために有害図書に接する青少年の自由を制限することは、右にみた相当の蓋然性の要件をみたすものといつてよいであろう。問題は、本件条例の採用する手段方法が憲法上許される必要な限度をこえるかどうかである。これについて以下の点が問題となろう。

(三) すでにみたように本件条例による有害図書の規制は、表現の自由、知る自由を制限するものであるが、これが基本的に是認されるのは青少年の保護のための規制であるという特殊性に基づくといえる。もし成人を含めて知る自由を本件条例のような態様方法によつて制限するとすれば、憲法上の厳格な判断基準が適用される結果違憲とされることを免れないと思われる。そして、たとえ青少年の知る自由を制限することを目的とするものであつても、その規制の実質的な効果が成人の知る自由を全く封殺するような場合には、同じような判断を受けざるをえないであろう。
しかしながら、青少年の知る自由を制限する規制がかりに成人の知る自由を制約することがあつても、青少年の保護の目的からみて必要とされる規制に伴つて当然に附随的に生ずる効果であつて、成人にはこの規制を受ける図書等を入手する方法が認められている場合には、その限度での成人の知る自由の制約もやむをえないものと考えられる。本件条例は書店における販売のみでなく自動販売機(以下「自販機」という。)による販売を規制し、本件条例六条二項によつて有害図書として指定されたものは自販機への収納を禁止されるのであるから、成人が自販機によつてこれらの図書を簡易に入手する便宜を奪われることになり、成人の知る自由に対するかなりきびしい制限であるということができるが、他の方法でこれらの図書に接する機会が全く閉ざされているとの立証はないし、成人に対しては、特定の態様による販売が事実上抑止されるにとどまるものであるから、有害図書とされるものが一般に価値がないか又は極めて乏しいことをあわせ考えるとき、成人の知る自由の制約とされることを理由に本件条例を違憲とするのは相当ではない。

(四) 本件条例による規制が憲法二一条二項前段にいう「検閲」に当たるとすれば、その憲法上の禁止は絶対的なものであるから、当然に違憲ということになるが、それが「検閲」に当たらないことは、法廷意見の説示するとおりである。その引用する最高裁昭和五七年(行ツ)第一五六号同五九年一二月一二日大法廷判決(民集三八巻一二号一三〇八頁)によれば、憲法にいう「検閲」とは、「行政権が主体となつて、思想内容等の表現物を対象とし、その全部又は一部の発表の禁止を目的として、対象とされる一定の表現物につき網羅的一般的に、発表前にその内容を審査した上、不適当と認めるものの発表を禁止することを、その特質として備えるものを指すと解すべきである」ところ、本件条例の規制は、六条一項による個別的指定であつても、また同条二項による規則の定めるところによる指定(以下これを「包括指定」という。)であつても、すでに発表された図書を対象とするものであり、かりに指定をうけても、青少年はともかく、成人はこれを入手する途が開かれているのであるから、右のように定義された「検閲」に当たるということはできない
もつとも憲法二一条二項前段の「検閲」の絶対的禁止の趣旨は、同条一項の表現の自由の保障の解釈に及ぼされるべきものであり、たとえ発表された後であつても、受け手に入手されるに先立つてその途を封ずる効果をもつ規制は、事前の抑制としてとらえられ、絶対的に禁止されるものではないとしても、その規制は厳格かつ明確な要件のもとにおいてのみ許されるものといわなければならない(最高裁昭和五六年(オ)第六〇九号同六一年六月一一日大法廷判決・民集四〇巻四号八七二頁参照)。本件条例による規制は、個別的指定であると包括指定であるとをとわず、指定された後は、受け手の入手する途をかなり制限するものであり、事前抑制的な性格をもつている。しかし、それが受け手の知る自由を全面的に閉ざすものではなく、指定をうけた有害図書であつても販売の方法は残されていること、のちにみるように指定の判断基準が明確にされていること、規制の目的が青少年の保護にあることを考慮にいれるならば、その事前抑制的性格にもかかわらず、なお合憲のための要件をみたしているものと解される。

(五) すでにみたように、本件条例は、有害図書の規制方式として包括指定方式をも定めている。この方式は、岐阜県青少年保護育成審議会(以下「審議会」という。)の審議を経て個別的に有害図書を指定することなく、条例とそのもとでの規則、告示により有害図書の基準を定め、これに該当するものを包括的に有害図書として規制を行うものである。一般に公正な機関の指定の手続を経ることにより、有害図書に当たるかどうかの判断を慎重にし妥当なものとするよう担保することが、有害図書の規制の許容されるための必要な要件とまではいえないが、それを合憲のものとする有力な一つの根拠とはいえる
包括指定方式は、この手続を欠くものである点で問題となりえよう
このような包括指定のやり方は、個別的に図書を審査することなく、概括的に有害図書として規制の網をかぶせるものであるから、検閲の一面をそなえていることは否定できないところである。しかし、この方式は、法廷意見の説示からもみられるように、自販機による販売を通じて青少年が容易に有害図書を入手できることから生ずる弊害を防止するための対応策として考えられたものであるが、青少年保護のための有害図書の規制を是認する以上は、自販機による有害図書の購入は、書店などでの購入と異なつて心理的抑制が少なく、弊害が大きいこと、審議会の調査審議を経たうえでの個別的指定の方法によつては青少年が自販機を通じて入手することを防ぐことができないこと(例えばいわゆる「一夜本」のやり方がそれを示している。)からみて、包括指定による規制の必要性は高いといわなければならない。もとより必要度が高いことから直ちに表現の自由にとつてきびしい規制を合理的なものとすることはできないし、表現の自由に内在する制限として当然に許容されると速断することはできないけれども、他に選びうる手段をもつては有害図書を青少年が入手することを有効に抑止することができないのであるから、これをやむをえないものとして認めるほかはないであろう。私としては、つぎにみるように包括指定の基準が明確なものとされており、その指定の範囲が必要最少限度に抑えられている限り、成人の知る自由が封殺されていないことを前提にすれば、これを違憲と断定しえないものと考える

二 基準の明確性
およそ法的規制を行う場合に規制される対象が何かを判断する基準が明確であることを求められるが、とくに刑事罰を科するときは、きびしい明確性が必要とされる表現の自由の規制の場合も、不明確な基準であれば、規制範囲が漠然とするためいわゆる萎縮的効果を広く及ぼし、不当に表現行為を抑止することになるために、きびしい基準をみたす明確性が憲法上要求される。本件条例に定める有害図書規制は、表現の自由とかかわりをもつものであるのみでなく、刑罰を伴う規制でもあるし、とくに包括指定の場合は、そこで有害図書とされるものが個別的に明らかにされないままに、その販売や自販機への収納は、直ちに罰則の適用をうけるのであるから、罪刑法定主義の要請も働き、いつそうその判断基準が明確でなければならないと解される。もつとも、すでにふれたように青少年保護を目的とした、青少年を受け手とする場合に限つての規制であることから みて、一般の表現の自由の規制と同じに考えることは適当でなく、明確性の要求についても、通常の表現の自由の制約に比して多少ゆるめられることも指摘しておくべきであろう。
右の観点にたつて本件条例の有害図書指定の基準の明確性について検討する。論旨は、当裁判所の判例を引用しつつ、合理的判断を加えても本件条例の基準は不明確にすぎ、憲法二一条一項、三一条に違反すると主張する。本件条例六条一項では指定の要件は、「著しく性的感情を刺激し、又は著しく残忍性を助長する」とされ、それのみでは、・必ずしも明確性をもつとはいえない面がある。とくに残忍性の助長という点はあいまいなところがかなり残る。また「猥褻」については当裁判所の多くの判例によつてその内容の明確化がはかられているが(そこでも問題のあることについて最高裁昭和五四年(あ)第一三五八号同五八年三月八日第三小法廷判決・刑集三七巻二号一五頁における私の補足意見参照。)、本件条例にいう「著しく性的感情を刺激する」図書とは猥褻図書よりも広いと考えられ、規制の及ぶ範囲も広範にわたるだけに漠然としている嫌いを免れない。
しかし、これらについては、岐阜県青少年対策本部次長通達(昭和五二年二月二五日青少第三五六号)により審査基準がかなり具体的に定められているのであつて、不明確とはいえまい。そして本件で問題とされるのは本件条例六条二項であるが、ここでは指定有害図書は「特に卑わいな姿態若しくは性行為を被写体とした写真又はこれらの写真を掲載する紙面が編集紙面の過半を占めると認められる刊行物」と定義されていて、一項の場合に比して具体化がされているとともに、右の写真の内容については、法廷意見のあげる施行規則二条さらに告示(昭和五四年七月一日岐阜県告示第五三九号)を通じて、いつそう明確にされていることが認められる。このように条例そのものでなく、下位の法規範による具体化、明確化をどう評価するかは一つの問題ではあろう。しかし、本件条例は、その下位の諸規範とあいまつて、具体的な基準を定め、表現の自由の保障にみあうだけの明確性をそなえ、それによつて、本件条例に一つの限定解釈ともいえるものが示されているのであつて、青少年の保護という社会的利益を考えあわせるとき基準の不明確性を理由に法令としてのそれが違憲であると判断することはできないと思われる。

三 本件条例と憲法一四条
条例による有害図書の規制が地方公共団体の間にあつて極めて区々に分かれていることは、所論のとおりである。たしかに本件条例は、最もきびしい規制を行う例に属するものであり、他の地方公共団体において、有害図書規制について、単に業界の自主規制に委ねるものや罰則のおかれていないものもみられるし、みなし規制を含め、包括的な指定の方式を有するところは一〇余県で必ずしも多くはなく、自販機への収納禁止を定めながら罰則のないところもある。このようにみると、青少年の保護のための有害図書の規制は地方公共団体によつて相当に差異があるといつてよいであろう。
しかし、このように相当区々であることは認められるとしても、それをもつて憲法一四条に違反するものではないことは、法廷意見の説示するとおりである。私は、青少年条例の定める青少年に対する淫行禁止規定については、その規制が各地方公共団体の条例の間で余りに差異が大きいことに着目し、それをもつて直ちに違憲となるものではないが、このような不合理な地域差のあるところから「淫行」の意味を厳格に解釈することを通じて著しく不合理な差異をできる限り解消する方向を考えるべきものとした(法廷意見のあげる昭和六〇年一〇月二三日大法廷判決における私の反対意見参照。)。このような考え方が有害図書規制の面においても妥当しないとはいえないが、私見によれば、青少年に対する性行為の規制は、それ自体地域的特色をもたず、この点での青少年の保護に関する社会通念にほとんど地域差は認められないのに反して、有害図書の規制については、国全体に共通する面よりも、むしろ地域社会の状況、住民の意識、そこでの出版活動の全国的な影響力など多くの事情を勘案した上での政策的判断に委ねられるところが大きく、淫行禁止規定に比して、むしろ地域差のあることが許容される範囲が広いと考えられる。この観点にたつときには、本件条例が他の地方公共団体の条例よりもきびしい規制を加えるものであるとしても、なお地域の事情の差異に基づくものとして是認できるものと思われる。
このことと関連して、基本的人権とくに表現の自由のような優越的地位を占める人権の制約は必要最小限度にとどまるべきであるから、目的を達するために、人権を制限することの少ない他の選択できる手段があるときはこの方法を採るべきであるという基準が問題とされるかもしれない。すなわち、この基準によれば、他の地方公共団体がゆるやかな手段、例えば業界の自主規制によつて有害図書の規制を行つているにかかわらず、本件条例のようなきびしい規制を行うことは違憲になると主張される可能性がある。しかし、わが国において有害図書が業界のいわゆるアウトサイダーによつて出版されているという現状をみるとき、果して自主規制のようなゆるやかな手段が適切に機能するかどうかは明らかではないし、すでにみたように、青少年保護の目的での規制は、表現の受け手が青少年である場合に、その知る自由を制約するものであつても、通常の場合と同じ基準が適用されると考える必要がないと解されることからみて、本件条例のようなきびしい規制が政策として妥当かどうかはともかくとして、他に選びうるゆるやかな手段があるという理由で、それを違憲と判断することは相当でないと思われる。
以上詳しく説示したように、本件条例を憲法に違反するものと判断することはできず、これを違憲と主張する所論は、傾聴に値するところがないわけではないが、いずれも採用することができないというほかはない。


憲法択一 人権 基本的人権の原理 人権の享有主体性 マクリーン 定住外国人地方参政権 塩見 東京都試験


・憲法第3章の人権規定は、権利の性質上日本国民のみを対象としていると解されるものを除き、我が国に在留する外国人に対して適用される!!!
+判例(53.10.4)マクリーン事件
主文
本件上告を棄却する。
上告費用は上告人の負担とする。
理由
第一 上告代理人秋山幹男、同弘中惇一郎の上告理由第一点ないし第四点、第六点ないし第一一点について
一 本件の経過
(一) 本件につき原審が確定した事実関係の要旨は、次のとおりである。
(1) 上告人は、アメリカ合衆国国籍を有する外国人であるが、昭和四四年四月二一日その所持する旅券に在韓国日本大使館発行の査証を受けたうえで本邦に入国し、同年五月一〇日下関入国管理事務所入国審査官から出入国管理令四条一項一六号、特定の在留資格及びその在留期間を定める省令一項三号に該当する者としての在留資格をもつて在留期間を一年とする上陸許可の証印を受けて本邦に上陸した。
(2) 上告人は、昭和四五年五月一日一年間の在留期間の更新を申請したところ、被上告人は、同年八月一〇日「出国準備期間として同年五月一〇日から同年九月七日まで一二〇日間の在留期間更新を許可する。」との処分をした。そこで、上告人は、更に、同年八月二七日被上告人に対し、同年九月八日から一年間の在留期間の更新を申請したところ、被上告人は、同年九月五日付で、上告人に対し、右更新を適当と認めるに足りる相当な理由があるものとはいえないとして右更新を許可しないとの処分(以下「本件処分」という。)をした
(3) 被上告人が在留期間の更新を適当と認めるに足りる相当な理由があるものとはいえないとしたのは、次のような上告人の在留期間中の無届転職と政治活動のゆえであつた。
(ア)上告人は、ベルリツツ語学学校に英語教師として雇用されるため在留資格を認められたのに、入国後わずか一七日間で同校を退職し、財団法人英語教育協議会に英語教師として就職し、入国を認められた学校における英語教育に従事しなかつた
(イ)上告人は、外国人べ平連(昭和四四年六月在日外国人数人によつてアメリカのベトナム戦争介入反対、日米安保条約によるアメリカの極東政策への加担反対、在日外国人の政治活動を抑圧する出入国管理法案反対の三つの目的のために結成された団体であるが、いわゆるべ平連からは独立しており、また、会員制度をとつていない。)に所属し、昭和四四年六月から一二月までの間九回にわたりその定例集会に参加し、七月一〇日左派華僑青年等が同月二日より一三日まで国鉄新宿駅西口付近において行つた出入国管理法案粉砕ハンガーストライキを支援するため、その目的等を印刷したビラを通行人に配布し、九月六日と一〇月四日べ平連定例集会に参加し、同月一五、一六日ベトナム反戦モラトリアムデー運動に参加して米国大使館にベトナム戦争に反対する目的で抗議に赴き、一二月七日横浜入国者収容所に対する抗議を目的とする示威行進に参加し、翌四五年二月一五日朝霞市における反戦放送集会に参加し、三月一日同市の米軍基地キヤンプドレイク付近における反戦示威行進に参加し、同月一五日べ平連とともに同市における「大泉市民の集い」という集会に参加して反戦ビラを配布し、五月一五日米軍のカンボジア侵入に反対する目的で米国大使館に抗議のため赴き、同月一六日五・一六ベトナムモラトリアムデー連帯日米人民集会に参加してカンボジア介入反対米国反戦示威行進に参加し、六月一四日代々木公園で行われた安保粉砕労学市民大統一行動集会に参加し、七月四日清水谷公園で行われた東京動員委員会主催の米日人民連帯、米日反戦兵士支援のための集会に参加し、同月七日には羽田空港においてロジヤース国務長官来日反対運動を行うなどの政治的活動を行つた。なお、上告人が参加した集会、集団示威行進等は、いずれも、平和的かつ合法的行動の域を出ていないものであり、上告人の参加の態様は、指導的又は積極的なものではなかつた
(二) 原審は、自国内に外国人を受け入れるかどうかは基本的にはその国の自由であり、在留期間の更新の申請に対し更新を適当と認めるに足りる相当の理由があるかどうかは、法務大臣の自由な裁量による判断に任されているものであるとし、前記の上告人の一連の政治活動は、在留期間内は外国人にも許される表現の自由の範囲内にあるものとして格別不利益を強制されるものではないが、法務大臣が、在留期間の更新の許否を決するについてこれを日本国及び日本国民にとつて望ましいものではないとし、更新を適当と認めるに足りる相当な理由がないと判断したとしても、それが何ぴとの目からみても妥当でないことが明らかであるとすべき事情のない本件にあつては、法務大臣に任された裁量の範囲内におけるものというべきであり、これをもつて本件処分を違法であるとすることはできない、と判断した。
(三) 論旨は、要するに、(1) 自国内に外国人を受け入れるかどうかはその国の自由であり、在留期間の更新の申請に対し更新を適当と認めるに足りる相当な理由があるかどうかは法務大臣の自由な裁量による判断に任されているものであるとした原判決は、憲法二二条一項、出入国管理令二一条の解釈適用を誤り、理由不備の違法がある、(2) 本件処分のような裁量処分に対する原審の審査の態度、方法には、判例違反、審理不尽、理由不備の違法があり、行政事件訴訟法三〇条の解釈の誤りがある、(3) 被上告人の本件処分は、裁量権の範囲を逸脱したものであり、憲法の保障を受ける上告人のいわゆる政治活動を理由として外国人に不利益を課するものであつて、本件処分を違法でないとした原判決は、経験則に違背する認定をし、理由不備の違法を犯し、出入国管理令二一条の解釈適用を誤り、憲法一四条、一六条、一九条、二一条に違反するものである、と主張することに帰するものと解される。

二 当裁判所の判断
(一) 憲法二二条一項は、日本国内における居住・移転の自由を保障する旨を規定するにとどまり、外国人がわが国に入国することについてはなんら規定していないものであり、このことは、国際慣習法上、国家は外国人を受け入れる義務を負うものではなく、特別の条約がない限り、外国人を自国内に受け入れるかどうか、また、これを受け入れる場合にいかなる条件を付するかを、当該国家が自由に決定することができるものとされていることと、その考えを同じくするものと解される(最高裁昭和二九年(あ)第三五九四号同三二年六月一九日大法廷判決・刑集一一巻六号一六六三頁参照)。したがつて、憲法上、外国人は、わが国に入国する自由を保障されているものでないことはもちろん、所論のように在留の権利ないし引き続き在留することを要求しうる権利を保障されているものでもないと解すべきである。そして、上述の憲法の趣旨を前提として、法律としての効力を有する出入国管理令は、外国人に対し、一定の期間を限り(四条一項一号、二号、一四号の場合を除く。)特定の資格によりわが国への上陸を許すこととしているものであるから、上陸を許された外国人は、その在留期間が経過した場合には当然わが国から退去しなければならない。もつとも、出入国管理令は、当該外国人が在留期間の延長を希望するときには在留期間の更新を申請することができることとしているが(二一条一項、二項)、その申請に対しては法務大臣が「在留期間の更新を適当と認めるに足りる相当の理由があるときに限り」これを許可することができるものと定めている(同条三項)のであるから、出入国管理令上も在留外国人の在留期間の更新が権利として保障されているものでないことは、明らかである。
右のように出入国管理令が原則として一定の期間を限つて外国人のわが国への上陸及び在留を許しその期間の更新は法務大臣がこれを適当と認めるに足りる相当の理由があると判断した場合に限り許可することとしているのは、法務大臣に一定の期間ごとに当該外国人の在留中の状況、在留の必要性・相当性等を審査して在留の許否を決定させようとする趣旨に出たものであり、そして、在留期間の更新事由が概括的に規定されその判断基準が特に定められていないのは、更新事由の有無の判断を法務大臣の裁量に任せ、その裁量権の範囲を広汎なものとする趣旨からであると解される。すなわち、法務大臣は、在留期間の更新の許否を決するにあたつては、外国人に対する出入国の管理及び在留の規制の目的である国内の治安と善良の風俗の維持、保健・衛生の確保、労働市場の安定などの国益の保持の見地に立つて、申請者の申請事由の当否のみならず、当該外国人の在留中の一切の行状、国内の政治・経済・社会等の諸事情、国際情勢、外交関係、国際礼譲など諸般の事情をしんしやくし、時宜に応じた的確な判断をしなければならないのであるが、このような判断は、事柄の性質上、出入国管理行政の責任を負う法務大臣の裁量に任せるのでなければとうてい適切な結果を期待することができないものと考えられる。このような点にかんがみると、出入国管理令二一条三項所定の「在留期間の更新を適当と認めるに足りる相当の理由」があるかどうかの判断における法務大臣の裁量権の範囲が広汎なものとされているのは当然のことであつて、所論のように上陸拒否事由又は退去強制事由に準ずる事由に該当しない限り更新申請を不許可にすることは許されないと解すべきものではない

(二) ところで、行政庁がその裁量に任された事項について裁量権行使の準則を定めることがあつても、このような準則は、本来、行政庁の処分の妥当性を確保するためのものなのであるから、処分が右準則に違背して行われたとしても、原則として当不当の問題を生ずるにとどまり、当然に違法となるものではない処分が違法となるのは、それが法の認める裁量権の範囲をこえ又はその濫用があつた場合に限られるのであり、また、その場合に限り裁判所は当該処分を取り消すことができるものであつて、行政事件訴訟法三〇条の規定はこの理を明らかにしたものにほかならない。もつとも、法が処分を行政庁の裁量に任せる趣旨、目的、範囲は各種の処分によつて一様ではなく、これに応じて裁量権の範囲をこえ又はその濫用があつたものとして違法とされる場合もそれぞれ異なるものであり、各種の処分ごとにこれを検討しなければならないが、これを出入国管理令二一条三項に基づく法務大臣の「在留期間の更新を適当と認めるに足りる相当の理由」があるかどうかの判断の場合についてみれば、右判断に関する前述の法務大臣の裁量権の性質にかんがみ、その判断が全く事実の基礎を欠き又は社会通念上著しく妥当性を欠くことが明らかである場合に限り、裁量権の範囲をこえ又はその濫用があつたものとして違法となるものというべきである。したがつて、裁判所は、法務大臣の右判断についてそれが違法となるかどうかを審理、判断するにあたつては、右判断が法務大臣の裁量権の行使としてされたものであることを前提として、その判断の基礎とされた重要な事実に誤認があること等により右判断が全く事実の基礎を欠くかどうか、又は事実に対する評価が明白に合理性を欠くこと等により右判断が社会通念に照らし著しく妥当性を欠くことが明らかであるかどうかについて審理し、それが認められる場合に限り、右判断が裁量権の範囲をこえ又はその濫用があつたものとして違法であるとすることができるものと解するのが、相当である。なお、所論引用の当裁判所昭和三七年(オ)第七五二号同四四年七月一一日第二小法廷判決(民集二三巻八号一四七〇頁)は、事案を異にし本件に適切なものではなく、その余の判例は、右判示するところとその趣旨を異にするものではない。

(三) 以上の見地に立つて被上告人の本件処分の適否について検討する。
前記の事実によれば、上告人の在留期間更新申請に対し被上告人が更新を適当と認めるに足りる相当な理由があるものとはいえないとしてこれを許可しなかつたのは、上告人の在留期間中の無届転職と政治活動のゆえであつたというのであり、原判決の趣旨に徴すると、なかでも政治活動が重視されたものと解される。
思うに、憲法第三章の諸規定による基本的人権の保障は、権利の性質上日本国民のみをその対象としていると解されるものを除き、わが国に在留する外国人に対しても等しく及ぶものと解すべきであり、政治活動の自由についても、わが国の政治的意思決定又はその実施に影響を及ぼす活動等外国人の地位にかんがみこれを認めることが相当でないと解されるものを除き、その保障が及ぶものと解するのが、相当である。しかしながら、前述のように、外国人の在留の許否は国の裁量にゆだねられ、わが国に在留する外国人は、憲法上わが国に在留する権利ないし引き続き在留することを要求することができる権利を保障されているものではなく、ただ、出入国管理令上法務大臣がその裁量により更新を適当と認めるに足りる相当の理由があると判断する場合に限り在留期間の更新を受けることができる地位を与えられているにすぎないものであり、したがつて、外国人に対する憲法の基本的人権の保障は、右のような外国人在留制度のわく内で与えられているにすぎないものと解するのが相当であつて、在留の許否を決する国の裁量を拘束するまでの保障、すなわち、在留期間中の憲法の基本的人権の保障を受ける行為を在留期間の更新の際に消極的な事情としてしんしやくされないことまでの保障が与えられているものと解することはできない在留中の外国人の行為が合憲合法な場合でも、法務大臣がその行為を当不当の面から日本国にとつて好ましいものとはいえないと評価し、また、右行為から将来当該外国人が日本国の利益を害する行為を行うおそれがある者であると推認することは、右行為が上記のような意味において憲法の保障を受けるものであるからといつてなんら妨げられるものではない。
前述の上告人の在留期間中のいわゆる政治活動は、その行動の態様などからみて直ちに憲法の保障が及ばない政治活動であるとはいえないしかしながら、上告人の右活動のなかには、わが国の出入国管理政策に対する非難行動、あるいはアメリカ合衆国の極東政策ひいては日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約に対する抗議行動のようにわが国の基本的な外交政策を非難し日米間の友好関係に影響を及ぼすおそれがないとはいえないものも含まれており、被上告人が、当時の内外の情勢にかんがみ、上告人の右活動を日本国にとつて好ましいものではないと評価し、また、上告人の右活動から同人を将来日本国の利益を害する行為を行うおそれがある者と認めて、在留期間の更新を適当と認めるに足りる相当の理由があるものとはいえないと判断したとしても、その事実の評価が明白に合理性を欠き、その判断が社会通念上著しく妥当性を欠くことが明らかであるとはいえず、他に被上告人の判断につき裁量権の範囲をこえ又はその濫用があつたことをうかがわせるに足りる事情の存在が確定されていない本件においては、被上告人の本件処分を違法であると判断することはできないものといわなければならない。また、被上告人が前述の上告人の政治活動をしんしやくして在留期間の更新を適当と認めるに足りる相当の理由があるものとはいえないとし本件処分をしたことによつて、なんら所論の違憲の問題は生じないというべきである。
(四) 以上述べたところと同旨に帰する原審の判断は、正当であつて、所論引用の各判例にもなんら違反するものではなく、原判決に所論の違憲、違法はない。論旨は、上述したところと異なる見解に基づいて原判決を非難するものであつて、採用することができない。

第二 同第五点について
原審が当事者双方の陳述を記載するにつき所論の方法をとつたからといつて、判決の事実摘示として欠けるところはないものというべきであり、原判決に所論の違法はない。論旨は、採用することができない。
よつて、行政事件訴訟法七条、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

・精神的自由権のひとつである政治活動の事由や経済的自由権の保障の程度については日本国民と同様のものということはできない。←政治活動の自由は、外国人に認められていない参政権的機能を果たし、経済的自由権については、日本国民と異なる特別の制約を加える必要がある。

・外国人の享有する人権の範囲についてその人権の性質に応じて個別的に判断されるとする考えに立つと、国民が自己の属する国の政治に参加する権利である参政権は、その性質上、外国人に及ばない!!!

+判例(H7.2.28)定住外国人地方参政権事件
上告代理人相馬達雄、同平木純二郎、同能瀬敏文の上告理由について
憲法第三章の諸規定による基本的人権の保障は、権利の性質上日本国民のみをその対象としていると解されるものを除き、我が国に在留する外国人に対しても等しく及ぶものである。そこで、憲法一五条一項にいう公務員を選定罷免する権利の保障が我が国に在留する外国人に対しても及ぶものと解すべきか否かについて考えると、憲法の右規定は、国民主権の原理に基づき、公務員の終局的任免権が国民に存することを表明したものにほかならないところ、主権が「日本国民」に存するものとする憲法前文及び一条の規定に照らせば、憲法の国民主権の原理における国民とは、日本国民すなわち我が国の国籍を有する者を意味することは明らかである。そうとすれば、公務員を選定罷免する権利を保障した憲法一五条一項の規定は、権利の性質上日本国民のみをその対象とし、右規定による権利の保障は、我が国に在留する外国人には及ばないものと解するのが相当である。そして、地方自治について定める憲法第八章は、九三条二項において、地方公共団体の長、その議会の議員及び法律の定めるその他の吏員は、その地方公共団体の住民が直接これを選挙するものと規定しているのであるが、前記の国民主権の原理及びこれに基づく憲法一五条一項の規定の趣旨に鑑み、地方公共団体が我が国の統治機構の不可欠の要素を成すものであることをも併せ考えると、憲法九三条二項にいう「住民」とは、地方公共団体の区域内に住所を有する日本国民を意味するものと解するのが相当であり、右規定は、我が国に在留する外国人に対して、地方公共団体の長、その議会の議員等の選挙の権利を保障したものということはできない。以上のように解すべきことは、当裁判所大法廷判決(最高裁昭和三五年(オ)第五七九号同年一二月一四日判決・民集一四巻一四号三〇三七頁、最高裁昭和五〇年(行ツ)第一二〇号同五三年一〇月四日判決・民集三二巻七号一二二三頁)の趣旨に徴して明らかである。
このように、憲法九三条二項は、我が国に在留する外国人に対して地方公共団体における選挙の権利を保障したものとはいえないが憲法第八章の地方自治に関する規定は、民主主義社会における地方自治の重要性に鑑み、住民の日常生活に密接な関連を有する公共的事務は、その地方の住民の意思に基づきその区域の地方公共団体が処理するという政治形態を憲法上の制度として保障しようとする趣旨に出たものと解されるから、我が国に在留する外国人のうちでも永住者等であってその居住する区域の地方公共団体と特段に緊密な関係を持つに至ったと認められるものについて、その意思を日常生活に密接な関連を有する地方公共団体の公共的事務の処理に反映させるべく、法律をもって、地方公共団体の長、その議会の議員等に対する選挙権を付与する措置を講ずることは、憲法上禁止されているものではないと解するのが相当である。しかしながら、右のような措置を講ずるか否かは、専ら国の立法政策にかかわる事柄であって、このような措置を講じないからといって違憲の問題を生ずるものではない。以上のように解すべきことは、当裁判所大法廷判決(前掲昭和三五年一二月一四日判決、最高裁昭和三七年(あ)第九〇〇号同三八年三月二七日判決・刑集一七巻二号一二一頁、最高裁昭和四九年(行ツ)第七五号同五一年四月一四日判決・民集三〇巻三号二二三頁、最高裁昭和五四年(行ツ)第六五号同五八年四月二七日判決・民集三七巻三号三四五頁)の趣旨に徴して明らかである。
以上検討したところによれば、地方公共団体の長及びその議会の議員の選挙の権利を日本国民たる住民に限るものとした地方自治法一一条、一八条、公職選挙法九条二項の各規定が憲法一五条一項、九三条二項に違反するものということはできず、その他本件各決定を維持すべきものとした原審の判断に憲法の右各規定の解釈の誤りがあるということもできない。所論は、地方自治法一一条、一八条、公職選挙法九条二項の各規定に憲法一四条違反があり、そうでないとしても本件各決定を維持すべきものとした原審の判断に憲法一四条及び右各法令の解釈の誤りがある旨の主張をもしているところ、右主張は、いずれも実質において憲法一五条一項、九三条二項の解釈の誤りをいうに帰するものであって、右主張に理由がないことは既に述べたとおりである。
以上によれば、所論の点に関する原審の判断は、正当として是認することができる。論旨は採用することができない。
よって、行政事件訴訟法七条、民訴法四〇一条、九五条、八九条、九三条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

・社会権について、外国人の享有する人権の範囲について、下記判例は明言していない。しかし、労働基本権は社会権としての性質のみならず、自由権としての性質を有するため、社会権が保障されるかにかかわらず保障される余地がある。

+判例(H元.3.2)塩見訴訟
理  由
上告代理人松本晶行、同阪本政敬、同千本忠一、同川崎裕子、同吉川実、同桂充弘、同竹下義樹の上告理由について
一 原審の適法に確定したところによれば、本件の事実関係は次のとおりである。
上告人は、昭和九年六月二五日大阪市で出生し、幼少のころ罹患したはしかによって失明し、昭和三四年一一月一日において昭和五六年法律第八六号による改正前の国民年金法(以下「法」という。)別表に定める一級に該当する程度の廃疾の状態にあった。上告人は、法八一条一項の障害福祉年金の受給権者であるとして、被上告人に対し右受給権の裁定を請求したところ、被上告人は、昭和四七年八月二一日同請求を棄却する旨の処分(以下「本件処分」という。)をした。本件処分の理由は、上告人は昭和三四年一一月一日において日本国民でなかったから法八一条一項の障害福祉年金の受給権を有しないというものであった。

二 法八一条一項は、昭和一四年一一月一日以前に生まれた者が、昭和三四年一一月一日以前になおった傷病により、昭和三四年一一月一日において法別表に定める一級に該当する程度の廃疾の状態にあるときは、法五六条一項本文の規定にかかわらず、その者に同条の障害福祉年金を支給する旨規定しているが、法五六条一項ただし書は廃疾認定日において日本国民でない者に対しては同条の障害福祉年金を支給しない旨規定しており、法八一条一項の障害福祉年金の支給に関しても当然に法五六条一項ただし書の規定の適用があるから、法八一条一項の障害福祉年金は、廃疾の認定日である昭和三四年一一月一日において日本国民でない者に対しては支給されないものと解すべきである。

三 そこで、まず、法八一条一項が受ける法五六条一項ただし書の規定(以下「国籍条項」という。)及び昭和三四年一一月一日より後に帰化によって日本国籍を取得した者に対し法八一条一項の障害福祉年金の支給をしないことが、憲法二五条の規定に違反するかどうかについて判断する。
憲法二五条は、いわゆる福祉国家の理念に基づき、すべての国民が健康で文化的な最低限度の生活を営みうるよう国政を運営すべきこと(一項)並びに社会的立法及び社会的施設の創造拡充に努力すべきこと(二項)を国の責務として宣言したものであるが、同条一項は、国が個々の国民に対して具体的・現実的に右のような義務を有することを規定したものではなく、同条二項によって国の責務であるとされている社会的立法及び社会的施設の創造拡充により個々の国民の具体的・現実的な生活権が設定充実されてゆくものであると解すべきこと、そして、同条にいう「健康で文化的な最低限度の生活」なるものは、きわめて抽象的・相対的な概念であって、その具体的内容は、その時々における文化の発達の程度、経済的・社会的条件、一般的な国民生活の状況等との相関関係において判断決定されるべきものであるとともに、同条の規定の趣旨を現実の立法として具体化するに当たっては、国の財政事情を無視することができず、また、多方面にわたる複雑多様な考察とそれに基づいた政策的判断を必要とするから、同条の規定の趣旨にこたえて具体的にどのような立法措置を講ずるかの選択決定は、立法府の広い裁量にゆだねられており、それが著しく合理性を欠き明らかに裁量の逸脱・濫用と見ざるをえないような場合を除き、裁判所が審査判断するに適しない事柄であるというべきことは、当裁判所大法廷判決(昭和二三年(れ)第二〇五号同年九月二九日判決・刑集二巻一〇号一二三五頁、昭和五一年(行ツ)第三〇号同五七年七月七日判決・民集三六巻七号一二三五頁)の判示するところである。
そこで、本件で問題とされている国籍条項が憲法二五条の規定に違反するかどうかについて考えるに、国民年金制度は、憲法二五条二項の規定の趣旨を実現するため、老齢、障害又は死亡によって国民生活の安定が損なわれることを国民の共同連帯によって防止することを目的とし、保険方式により被保険者の拠出した保険料を基として年金給付を行うことを基本として創設されたものであるが、制度発足当時において既に老齢又は一定程度の障害の状態にある者、あるいは保険料を必要期間納付することができない見込みの者等、保険原則によるときは給付を受けられない者についても同制度の保障する利益を享受させることとし、経過的又は補完的な制度として、無拠出制の福祉年金を設けている。法八一条一項の障害福祉年金も、制度発足時の経過的な救済措置の一環として設けられた全額国庫負担の無拠出制の年金であって、立法府は、その支給対象者の決定について、もともと広範な裁量権を有しているものというべきである。加うるに、社会保障上の施策において在留外国人をどのように処遇するかについては、国は、特別の条約の存しない限り、当該外国人の属する国との外交関係、変動する国際情勢、国内の政治・経済・社会的諸事情等に照らしながら、その政治的判断によりこれを決定することができるのであり、その限られた財源の下で福祉的給付を行うに当たり、自国民を在留外国人より優先的に扱うことも、許されるべきことと解される。したがって、法八一条一項の障害福祉年金の支給対象者から在留外国人を除外することは、立法府の裁量の範囲に属する事柄と見るべきである。
また、経過的な性格を有する右障害福祉年金の給付に関し、廃疾の認定日である制度発足時の昭和三四年一一月一日において日本国民であることを要するものと定めることは、合理性を欠くものとはいえない。昭和三四年一一月一日より後に帰化により日本国籍を取得した者に対し法八一条一項の障害福祉年金を支給するための措置として、右の者が昭和三四年一一月一日に遡り日本国民であったものとして扱うとか、あるいは国籍条項を削除した昭和五六年法律第八六号による国民年金法の改正の効果を遡及させるというような特別の救済措置を講ずるかどうかは、もとより立法府の裁量事項に属することである。
そうすると、国籍条項及び昭和三四年一一月一日より後に帰化によって日本国籍を取得した者に対し法八一条一項の障害福祉年金の支給をしないことは、憲法二五条の規定に違反するものではないというべく、以上は当裁判所大法廷判決(昭和五一年(行ツ)第三〇号同五七年七月七日判決・民集三六巻七号一二三五頁、昭和五〇年(行ツ)第一二〇号同五三年一〇月四日判決・民集三二巻七号一二二三頁)の趣旨に徴して明らかというべきである。

四 次に、国籍条項及び昭和三四年一一月一日より後に帰化によって日本国籍を取得した者に対し法八一条一項の障害福祉年金の支給をしないことが、憲法一四条一項の規定に違反するかどうかについて考えるに、憲法一四条一項は法の下の平等の原則を定めているが、右規定は合理的理由のない差別を禁止する趣旨のものであって、各人に存する経済的、社会的その他種々の事実関係上の差異を理由としてその法的取扱いに区別を設けることは、その区別が合理性を有する限り、何ら右規定に違反するものではないのである(最高裁昭和三七年(あ)第九二七号同三九年一一月一八日大法廷判決・刑集一八巻九号五七九頁、同昭和三七年(オ)第一四七二号同三九年五月二七日大法廷判決・民集一八巻四号六七六頁参照)。ところで、法八一条一項の障害福祉年金の給付に関しては、廃疾の認定日に日本国籍がある者とそうでない者との間に区別が設けられているが、前示のとおり、右障害福祉年金の給付に関し、自国民を在留外国人に優先させることとして在留外国人を支給対象者から除くこと、また廃疾の認定日である制度発足時の昭和三四年一一月一日において日本国民であることを受給資格要件とすることは立法府の裁量の範囲に属する事柄というべきであるから、右取扱いの区別については、その合理性を否定することができず、これを憲法一四条一項に違反するものということはできない

五 さらに、国籍条項が憲法九八条二項に違反するかどうかについて判断する。
所論の社会保障の最低基準に関する条約(昭和五一年条約第四号。いわゆるILO第一〇二号条約)六八条1の本文は「外国人居住者は、自国民居住者と同一の権利を有する。」と規定しているが、そのただし書は「専ら又は主として公の資金を財源とする給付又は給付の部分及び過渡的な制度については、外国人及び自国の領域外で生まれた自国民に関する特別な規則を国内の法令で定めることができる。」と規定しており、全額国庫負担の法八一条一項の障害福祉年金に係る国籍条項が同条約に違反しないことは明らかである。また、経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約(昭和五四年条約第六号)九条は「この規約の締約国は、社会保険その他の社会保障についてのすべての者の権利を認める。」と規定しているが、これは、締約国において、社会保障についての権利が国の社会政策により保護されるに値するものであることを確認し、右権利の実現に向けて積極的に社会保障政策を推進すべき政治的責任を負うことを宣明したものであって、個人に対し即時に具体的権利を付与すべきことを定めたものではない。このことは、同規約二条1が締約国において「立法措置その他のすべての適当な方法によりこの規約において認められる権利の完全な実現を漸進的に達成する」ことを求めていることからも明らかである。したがって、同規約は国籍条項を直ちに排斥する趣旨のものとはいえない。さらに、社会保障における内国民及び非内国民の均等待遇に関する条約(いわゆるILO第一一八号条約)は、わが国はいまだ批准しておらず、国際連合第三回総会の世界人権宣言、同第二六回総会の精神薄弱者の権利宣言、同第三〇回総会の障害者の権利宣言及び国際連合経済社会理事会の一九七五年五月六日の障害防止及び障害者のリハビリテーションに関する決議は、国際連合ないしその機関の考え方を表明したものであって、加盟国に対して法的拘束力を有するものではない。以上のように、所論の条約、宣言等は、わが国に対して法的拘束力を有しないか、法的拘束力を有していても国籍条項を直ちに排斥する趣旨のものではないから、国籍条項がこれらに抵触することを前提とする憲法九八条二項違反の主張は、その前提を欠くというべきである

六 以上と同旨の見解に立って本件処分を適法とした原審の判断は、正当として是認することができる。論旨は、採用することができない。
よって、行政事件訴訟法七条、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

++解説
《解  説》
Xは、昭和九年六月二五日朝鮮人を父母として大阪市で出生し、大韓民国籍であったが、幼少の時罹患したハシカによって失明し、昭和三四年一一月一日において全盲で法の別表に定める一級に該当する程度の廃疾の状態にあった。Xは、マッサージ師となり、同じく全盲のマッサージ師である日本人の夫と婚姻し、昭和四五年一二月一六日帰化によって日本国籍を取得した。Xは、国民年金法(昭和五六年法律第八六号による改正前のもの。以下「法」という。)八一条一項の障害福祉年金の受給権者であるとして、Yに対し障害福祉年金裁定請求をしたところ、Yは、法八一条一項の障害福祉年金は法五六条一項ただし書により廃疾認定日(本件では昭和三四年一一月一日)において日本国民でない者には支給されないとして、昭和四七年八月二一日付けで右請求を却下する処分をした。Xは、法五六条一項ただし書は違憲無効であるとして、右処分の取消しを求めて本訴を提起したが、一・二審で請求を排斥された。本件判決は、右事件の上告審判決である。
法は八一条一項の障害福祉年金の支給要件に関し、昭和三四年一一月一日において日本国民でない者には同年金を支給しないと規定していた(法八一条一項は法五六条一項を受けるところ、同項ただし書は「ただし、その者が廃疾認定日において日本国民でないときは、この限りでない。」と規定している。以下、この規定を「国籍条項」という。)。本件の争点は、国籍条項は、憲法二五条、一四条一項等に違反するか、また、昭和三四年一一月一日の後に帰化した者に対し法八一条一項の障害福祉年金を支給しないことは、憲法二五条、一四条一項に違反するかということであった。
なお、当時は、法の適用対象は日本国民とされていたが、我が国が「難民の地位に関する条約」及び「難民の地位に関する議定書」へ加入するに際し、同条約二四条に定める社会保障に関する内国民待遇を実現するために、昭和五七年一月一日に難民の地位に関する条約等への加入に伴う出入国管理令その他関係法律の整備に関する法律(昭和五六年法律第八六号)で法の国籍条項を含む国籍要件が撤廃され、昭和五七年一月一日からは適用対象が日本国民に限られないこととなった。しかし、この改正の効果は将来に向かってのみ効力を有し、過去の法律関係を改めるものではない(右法律附則四項及び五項)。
憲法二五条が外国人に及ぶかどうかは若干問題のあるところであり、憲法は、社会権を基本的人権として認めているが、外国人に対してまでこれを保障することを日本国の責任とするものではない、という見解も存する(宮沢俊義・憲法Ⅱ(新版)二四一頁)。しかし、国際的にみれば、国籍による差別は一般的に禁止の方向にあり、我が国の憲法が外国人に対し社会権を保障していないといい切るのは問題であろう。憲法は、外国人に対しても社会権を保障しているものであるが、外国人に対する社会権保障の責任は第一次的には彼の属する国が負うのであり、日本が社会保障の立法において日本国民を優先的に扱うことは憲法の許容するところであると解するのが相当と考えられる(芦部信喜編・憲法Ⅱ一二頁、伊藤正己・憲法(新版)一九七頁。最大判昭53・10・4民集三二巻七号一二二三頁、本誌三六八号一九六頁参照)。
憲法二五条の趣旨及び特定の立法が同条に反するかどうかの判断基準については、最大判昭57・7・7民集三六巻七号一二三五頁、本誌四七七号五四頁の判示するところである。同判決は、右の判断基準について、「憲法二五条の規定の趣旨にこたえて具体的にどのような立法措置を講ずるかの選択決定は、立法府の広い裁量にゆだねられており、それが著しく合理性を欠き明らかに裁量の逸脱・濫用と見ざるをえないような場合を除き、裁判所が審査判断するのに適しない事柄であるといわなければならない。」と判示している。
本判決は、以上の見解に立って、国籍条項及び昭和三四年一一月一日より後に帰化によって日本国籍を取得した者に対し法八一条一項の障害福祉年金を支給しないことは、憲法二五条に違反するものではないと判示したものである。
憲法一四条一項の規定の趣旨は、特段の事情の認められない限り、外国人に対しても類推されるべきものと解される。(最大判昭39・11・18刑集一八巻九号五七九頁、本誌一七〇号一八〇頁)。他面、憲法一四条一項は、法の下の平等を認めているが、国民に対し絶対的平等を保障したものではなく、差別すべき合理的理由なくして差別することを禁止している趣旨と解すべきであるから、法規の制定又はその適用の面において、各人に存する経済的、社会的その他種々の事実関係上の差異に即して合理的と認められる差別的取扱いをしても、これをもって憲法一四条一項に反するものといえないことは、最高裁大法廷判決の判示するところである(最大判昭39・5・27民集一八巻四号六七八頁、本誌一六四号七五頁、右最大判昭39・11・18)。また、立法府の政策的、技術的裁量に基づく判断にゆだねられている立法分野において、立法府が、法規を制定するに当たり、その政策的、技術的判断に基づき、各人に存する経済的、社会的その他種々の事実関係上の差異又は事柄の性質の差異を理由としてその取扱いに区別を設けることは、それが立法府の裁量の範囲を逸脱するものでない限り、合理性を欠くものと断ずることができず、これをもって憲法一四条一項に違反するものということはできないものと解される。
本件においては、法八一条一項の障害福祉年金の給付に関し、廃疾の認定日に日本国籍がある者とそうでない者との間に区別を設けることが憲法一四条一項に違反するかどうかが問題となったのであるが、本判決は、右に述べた見解に基づき、右取扱いの区別は、立法の裁量の範囲内の事柄であってその合理性を否定することができず、これを同項に違反するということはできないと判示したものである。

・地方公共団体において、日本国民である職員に限って管理職に昇進することができる措置をとることは、憲法14条1項に違反しないとした判例は、地方公共団体が、在留外国人を職員として採用する場合、裁量権の問題とはしていない!!!

+判例(H17.1.26)東京都管理職試験事件
上告代理人金岡昭ほかの上告理由について
1 本件は、上告人に保健婦として採用された被上告人が、平成6年度及び同7年度に東京都人事委員会の実施した管理職選考を受験しようとしたが、日本の国籍を有しないことを理由に受験が認められなかったため、国家賠償法1条1項に基づき、上告人に対し、慰謝料の支払等を請求する事案である。

2 原審の適法に確定した事実関係等の概要は、次のとおりである。
(1) 被上告人は、昭和25年に岩手県で出生した大韓民国籍の外国人であり、日本国との平和条約に基づき日本の国籍を離脱した者等の出入国管理に関する特例法に定める特別永住者である。
(2) 上告人は、昭和61年、保健婦の採用につき日本の国籍を有することを要件としないこととした。被上告人は、同63年4月、上告人に保健婦として採用された。
(3) 後記の平成6年度及び同7年度の管理職選考が実施された当時、上告人における管理職としては、東京都知事の権限に属する事務に係る事案の決定権限を有する職員(本庁の局長、部長及び課長並びに本庁以外の機関における上級の一定の職員)のほか、直接には事案の決定権限を有しないが、事案の決定過程に関与する職員(本庁の次長、技監、理事(局長級)、参事(部長級)、副参事(課長級)等及び本庁以外の機関の一定の職員)があり、さらに、企画や専門分野の研究を行うなどの職務を行い、事案の決定権限を有せず、事案の決定過程にかかわる蓋然性も少ない管理職も若干存在していた。上告人においては、管理職に昇任した職員に終始特定の職種の職務内容だけを担当させるという任用管理は行われておらず、例えば、医化学の分野で管理職選考に合格した職員であっても、管理職に任用されると、その職員は、その後の昇任に伴い、そのまま従来の医化学の分野にだけ従事するものとは限らず、担当がその他の分野の仕事に及ぶことがあり、いずれの分野においても管理的な職務に就くことがあることとされていた
(4) 東京都人事委員会が実施する管理職選考は、東京都知事、東京都議会議長、東京都の公営企業管理者、代表監査委員、教育委員会、選挙管理委員会、海区漁業調整委員会及び人事委員会が任命権を有する職員に対する課長級の職への第1次選考としてされるものである。管理職選考には、A、B及びCの選考種別とそれぞれについての事務系及び技術系の選考種別とがあり、被上告人が受験しようとした選考種別Aの技術系は土木、建築、機械、電気、生物及び医化学に区分される。管理職選考に合格した者は、任用候補者名簿に登載され、その数年後、最終的な任用選考を経て管理職に任用される。
(5) 東京都人事委員会の平成6年度管理職選考実施要綱は、上記(4)の職員に対する課長級の職への第1次選考について受験資格を定めており、明文の定めは置いていなかったものの、受験者が日本の国籍を有することを前提としていた。
(6) 被上告人は、上記要綱に基づいて実施される管理職選考の選考種別Aの技術系の選考区分医化学を受験することとし、平成6年3月10日、所属していた東京都八王子保健所の副所長に申込書を提出しようとしたが、同副所長は、被上告人が日本の国籍を有しないことを理由に、申込書の受領を拒絶した。被上告人は、国籍の点以外は上記要綱が定める受験資格を備えていたが、上記のとおり申込書の受領を拒絶されたため、同年5月に実施された筆記考査を受けることができなかった
(7) 東京都人事委員会の平成7年度管理職選考実施要綱には、日本の国籍を有することが受験資格であることが明記されるに至った。被上告人は、日本の国籍を有しないために同管理職選考を受けることができなかった。

3 原審は、上記事実関係等の下において、上告人の職員が被上告人に平成6年度及び同7年度の管理職選考を受験させなかったことは、被上告人が日本の国籍を有しないことを理由に被上告人から管理職選考の受験の機会を奪い、課長級の管理職への昇任のみちを閉ざすものであり、違法な措置であるとして、被上告人の慰謝料請求を一部認容した。
原審の上記判断の理由の概要は、次のとおりである。
(1) 日本の国籍を有しない者は、憲法上、国又は地方公共団体の公務員に就任する権利を保障されているということはできない。
(2) 地方公務員の中でも、管理職は、地方公共団体の公権力を行使し、又は公の意思の形成に参画するなど地方公共団体の行う統治作用にかかわる蓋然性の高い職であるから、地方公務員に採用された外国人が、日本の国籍を有する者と同様、当然に管理職に任用される権利を保障されているとすることは、国民主権の原理に照らして問題がある。しかしながら、管理職の職務は広範多岐に及び、地方公共団体の行う統治作用、特に公の意思の形成へのかかわり方、その程度は様々なものがあり得るのであり、公権力を行使することなく、また、公の意思の形成に参画する蓋然性が少なく、地方公共団体の行う統治作用にかかわる程度の弱い管理職も存在する。したがって、職務の内容、権限と統治作用とのかかわり方、その程度によって、外国人を任用することが許されない管理職とそれが許される管理職とを分別して考える必要がある。そして、後者の管理職については、我が国に在住する外国人をこれに任用することは、国民主権の原理に反するものではない。
(3) 上告人の管理職には、企画や専門分野の研究を行うなどの職務を行い、事案の決定権限を有せず、事案の決定過程にかかわる蓋然性も少ない管理職も若干存在している。このように、管理職に在る者が事案の決定過程に関与するといっても、そのかかわり方、その程度は様々であるから、上告人の管理職について一律に外国人の任用(昇任)を認めないとするのは相当でなく、その職務の内容、権限と事案の決定とのかかわり方、その程度によって、外国人を任用することが許されない管理職とそれが許される管理職とを区別して任用管理を行う必要がある。そして、後者の管理職への任用については、我が国に在住する外国人にも憲法22条1項、14条1項の各規定による保障が及ぶものというべきである。
(4) 上告人の職員が課長級の職に昇任するためには、管理職選考を受験する必要があるところ、課長級の管理職の中にも外国籍の職員に昇任を許しても差し支えのないものも存在するというべきであるから、外国籍の職員から管理職選考の受験の機会を奪うことは、外国籍の職員の課長級の管理職への昇任のみちを閉ざすものであり、憲法22条1項、14条1項に違反する違法な措置である。被上告人は、上告人の職員の違法な措置のために平成6年度及び同7年度の管理職選考を受験することができなかった。被上告人がこれにより被った精神的損害を慰謝するには各20万円が相当である。

4 しかしながら、前記事実関係等の下で被上告人の慰謝料請求を認容すべきものとした原審の判断は、是認することができない。その理由は、次のとおりである。
(1) 地方公務員法は、一般職の地方公務員(以下「職員」という。)に本邦に在留する外国人(以下「在留外国人」という。)を任命することができるかどうかについて明文の規定を置いていないが(同法19条1項参照)、普通地方公共団体が、法による制限の下で、条例、人事委員会規則等の定めるところにより職員に在留外国人を任命することを禁止するものではない。普通地方公共団体は、職員に採用した在留外国人について、国籍を理由として、給与、勤務時間その他の勤務条件につき差別的取扱いをしてはならないものとされており(労働基準法3条、112条、地方公務員法58条3項)、地方公務員法24条6項に基づく給与に関する条例で定められる昇格(給料表の上位の職務の級への変更)等も上記の勤務条件に含まれるものというべきである。しかし、上記の定めは、普通地方公共団体が職員に採用した在留外国人の処遇につき合理的な理由に基づいて日本国民と異なる取扱いをすることまで許されないとするものではない。また、そのような取扱いは、合理的な理由に基づくものである限り、憲法14条1項に違反するものでもない
管理職への昇任は、昇格等を伴うのが通例であるから、在留外国人を職員に採用するに当たって管理職への昇任を前提としない条件の下でのみ就任を認めることとする場合には、そのように取り扱うことにつき合理的な理由が存在することが必要である。
(2) 地方公務員のうち、住民の権利義務を直接形成し、その範囲を確定するなどの公権力の行使に当たる行為を行い、若しくは普通地方公共団体の重要な施策に関する決定を行い、又はこれらに参画することを職務とするもの(以下「公権力行使等地方公務員」という。)については、次のように解するのが相当である。すなわち、公権力行使等地方公務員の職務の遂行は、住民の権利義務や法的地位の内容を定め、あるいはこれらに事実上大きな影響を及ぼすなど、住民の生活に直接間接に重大なかかわりを有するものである。それゆえ、国民主権の原理に基づき、国及び普通地方公共団体による統治の在り方については日本国の統治者としての国民が最終的な責任を負うべきものであること(憲法1条、15条1項参照)に照らし、原則として日本の国籍を有する者が公権力行使等地方公務員に就任することが想定されているとみるべきであり、我が国以外の国家に帰属し、その国家との間でその国民としての権利義務を有する外国人が公権力行使等地方公務員に就任することは、本来我が国の法体系の想定するところではないものというべきである。
そして、普通地方公共団体が、公務員制度を構築するに当たって、公権力行使等地方公務員の職とこれに昇任するのに必要な職務経験を積むために経るべき職とを包含する一体的な管理職の任用制度を構築して人事の適正な運用を図ることも、その判断により行うことができるものというべきである。そうすると、普通地方公共団体が上記のような管理職の任用制度を構築した上で、日本国民である職員に限って管理職に昇任することができることとする措置を執ることは、合理的な理由に基づいて日本国民である職員と在留外国人である職員とを区別するものであり、上記の措置は、労働基準法3条にも、憲法14条1項にも違反するものではないと解するのが相当である。そして、この理は、前記の特別永住者についても異なるものではない
(3) これを本件についてみると、前記事実関係等によれば、昭和63年4月に上告人に保健婦として採用された被上告人は、東京都人事委員会の実施する平成6年度及び同7年度の管理職選考(選考種別Aの技術系の選考区分医化学)を受験しようとしたが、東京都人事委員会が上記各年度の管理職選考において日本の国籍を有しない者には受験資格を認めていなかったため、いずれも受験することができなかったというのである。そして、当時、上告人においては、管理職に昇任した職員に終始特定の職種の職務内容だけを担当させるという任用管理を行っておらず、管理職に昇任すれば、いずれは公権力行使等地方公務員に就任することのあることが当然の前提とされていたということができるから、上告人は、公権力行使等地方公務員の職に当たる管理職のほか、これに関連する職を包含する一体的な管理職の任用制度を設けているということができる
そうすると、上告人において、上記の管理職の任用制度を適正に運営するために必要があると判断して、職員が管理職に昇任するための資格要件として当該職員が日本の国籍を有する職員であることを定めたとしても、合理的な理由に基づいて日本の国籍を有する職員と在留外国人である職員とを区別するものであり、上記の措置は、労働基準法3条にも、憲法14条1項にも違反するものではない。原審がいうように、上告人の管理職のうちに、企画や専門分野の研究を行うなどの職務を行うにとどまり、公権力行使等地方公務員には当たらないものも若干存在していたとしても、上記判断を左右するものではない。また、被上告人のその余の違憲の主張はその前提を欠く。以上と異なる原審の前記判断には、判決に影響を及ぼすことが明らかな法令の違反がある。この趣旨をいう論旨は理由があり、原判決のうち上告人の敗訴部分は破棄を免れない。そして、被上告人の慰謝料請求を棄却すべきものとした第1審判決は正当であるから、上記部分についての被上告人の控訴を棄却すべきである。

5 よって、裁判官滝井繁男、同泉德治の各反対意見があるほか、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。なお、裁判官藤田宙靖の補足意見、裁判官金谷利廣、同上田豊三の各意見がある。

+補足意見
裁判官藤田宙靖の補足意見は、次のとおりである。
私は、多数意見に賛成するものであるが、本件被上告人が、日本国との平和条約に基づき日本の国籍を離脱した者等の出入国管理に関する特例法(以下「入管特例法」という。)に定める特別永住者であること等にかんがみ、多数意見に若干の補足をしておくこととしたい。
被上告人が、日本国で出生・成育し、日本社会で何の問題も無く生活を営んで来た者であり、また、我が国での永住を法律上認められている者であることを考慮するならば、本人が日本国籍を有しないとの一事をもって、地方公務員の管理職に就任する機会をおよそ与えないという措置が、果たしてそれ自体妥当と言えるかどうかには、確かに、疑問が抱かれないではない。しかし私は、最終的には、それは、各地方公共団体が採る人事政策の当不当の問題であって、本件において上告人が執った措置が、このことを理由として、我が国現行法上当然に違法と判断されるべきものとまでは言えないのではないかと考える。その理由は、以下のとおりである。

1 入管特例法の定める特別永住者の制度は、それ自体としてはあくまでも、現行出入国管理制度の例外を設け、一定範囲の外国籍の者に、出入国管理及び難民認定法(以下「入管法」という。)2条の2に定める在留資格を持たずして本邦に在留(永住)することのできる地位を付与する制度であるにとどまり、これらの者の本邦内における就労の可能性についても、上記の結果、法定の各在留資格に伴う制限(入管法19条及び同法別表第1参照)が及ばないこととなるものであるにすぎない。したがって例えば、特別永住者が、法務大臣の就労許可無くして一般に「収入を伴う事業を運営する活動又は報酬を受ける活動」(同法19条)を行うことができるのも、上記の結果生じる法的効果であるにすぎず、法律上、特別永住者に、他の外国籍の者と異なる、日本人に準じた何らかの特別な法的資格が与えられるからではない。また、現行法上の諸規定を見ると、許可制等の採られている事業ないし職業に関しては、各個の業法において、日本国籍を有することが許可等を受けるための資格要件とされることがあるが(公証人法12条1項1号、水先法5条1号、鉱業法17条本文、電波法5条1項1号、放送法52条の13第1項5号イ、等々)、これらの規定で、特別永住者を他の外国人と区別し、日本国民と同様に扱うこととしたものは無い。他方、日本の国籍を有しない者の国家公務員試験受験資格を否定する人事院規則(人事院規則8-18)において、日本郵政公社職員への採用に関しては、特別永住者もまた郵政一般職採用試験を受験することができることとされるが、このことについては、特に明文の規定が置かれている(同規則8条1項3号括弧書)。以上に照らして見るならば、我が国現行法上、地方公務員への就任につき、特別永住者がそれ以外の外国籍の者から区別され、特に優遇さるべきものとされていると考えるべき根拠は無く、そのような明文の規定が無い限り、事は、外国籍の者一般の就任可能性の問題として考察されるべきものと考える。

2 ところで、外国籍の者の公務員就任可能性について、原審は、日本国憲法上、外国人には、公務員に就任する権利は保障されていない、との出発点に立ちながらも、憲法上の国民主権の原理に抵触しない範囲の職については、憲法22条、14条等により、外国籍の者もまた、日本国民と同様、当然にこれに就任する権利を、憲法上保障される、との考え方を採るものであるように見受けられる。しかし、例えば、〈1〉外国人に公務員への就任資格(以下「公務就任権」という。)が憲法上保障されていることを否定する理由として理論的に考え得るのは、必ずしも、原審のいう国民主権の原理のみに限られるわけではない(例えば、一定の職域について外国人の就労を禁じるのは、それ自体一国の主権に属する権能であろう。)こと、また、〈2〉「憲法上、外国人には、公務員の一定の職に就任することが禁じられている」ということは、必ずしも、理論的に当然に「こうした禁止の対象外の職については、外国人もまた、就任する権利を憲法上当然に有する」ということと同義ではないこと、更に、〈3〉職業選択の自由、平等原則等は、いずれも自由権としての性格を有するものであって、本来、もともと有している権利や自由をそれに対する制限から守るという機能を果たすにとどまり、もともと有していない権利を積極的に生み出すようなものではないこと、等にかんがみると、原審の上記の考え方には、幾つかの論理的飛躍があるように思われ、我が国憲法上、そもそも外国人に(一定範囲での)公務就任権が保障されているか否か、という問題は、それ自体としては、なお重大な問題として残されていると言わなければならない。しかしいずれにせよ、本件は、外国籍の者が新規に地方公務員として就任しようとするケースではなく、既に正規の職員として採用され勤務してきた外国人が管理職への昇任の機会を求めるケースであって、このような場合に、労働基準法3条の規定の適用が排除されると考える合理的な理由の無いことは、多数意見の言うとおりであるから、上記の問題の帰すうは、必ずしも、本件の解決に直接の影響を及ぼすものではない。

3 そこで、進んで、本件の場合に、労働基準法の同条の規定の存在にもかかわらず、外国籍の者を管理職に昇任させないとすることにつき、合理的な理由が認められるかどうかについて考える。記録を参照すると、上告人がこのような措置を執ったのは、「地方公務員の職のうち公権力の行使又は地方公共団体の意思の形成に携わるものについては、日本の国籍を有しない者を任用することができない」といういわゆる「公務員に関する当然の法理」に沿った判断をしたためであることがうかがわれる(参照、昭和48年5月28日自治公一第28号大阪府総務部長宛公務員第一課長回答)。しかし、一般に、「公権力の行使」あるいは「地方公共団体の意思の形成」という概念は、その外延のあまりにも広い概念であって、文字どおりにこの要件を満たす職のすべてに就任することが許されないというのでは、外国籍の者が地方公務員となる可能性は、皆無と言わないまでも少なくとも極めて少ないこととなり、また、そのことに合理的な理由があるとも考えられない。その意味においては、職務の内容、権限と統治作用とのかかわり方、その程度によって、外国人を任用することが許されない管理職とそれが許される管理職とを分別して考える必要がある、とする原審の説示にも、その限りにおいて傾聴に値するものがあることを否定できないし、また、多数意見の用いる「公権力行使等地方公務員」の概念も、この点についての周到な注意を払った上で定義されたものであることが、改めて確認されるべきである。
ただ、その具体的な範囲をどう取るかは別として、いずれにせよ、少なくとも地方公共団体の枢要な意思決定にかかわる一定の職について、外国籍の者を就任させないこととしても、必ずしも違憲又は違法とはならないことについては、我が国において広く了解が存在するところであり、私もまた、そのこと自体に対し異を唱えるものではない。そして、本件の場合、上告人東京都は、一たび管理職に昇任させると、その職員に終始特定の職種の職務内容だけを担当させるという任用管理をするのではなく、したがってまた、外国人の任用が許されないとされる職務を担当させることになる可能性もあった、というのである。この点につき、原審は、管理職に在る者が事案の決定過程に関与すると言っても、そのかかわり方及びかかわりの程度は様々であるから、上告人東京都の管理職について一律に在留外国人の任用を認めないとするのは相当ではなく、上記の基準により、在留外国人を任用することが許されない管理職とそれが許される管理職とを区別して任用管理を行う必要がある、という。もとより、そのような任用管理を行うことは、人事政策として考え得る選択肢の一つではあろうが、他方でしかし、外国籍の者についてのみ常にそのような特別の人事的配慮をしなければならないとすれば、全体としての人事の流動性を著しく損なう結果となる可能性があるということもまた、否定することができない。こういったことを考慮して、上告人東京都が、一般的に管理職への就任資格として日本国籍を要求したことは、それが人事政策として最適のものであったか否かはさておくとして、なお、その行政組織権及び人事管理権の行使として許される範囲内にとどまるものであった、ということができよう。
もっともこの点、専ら、本件における被上告人の立場についてのみ考えるならば、本件において、被上告人を管理職に昇任させることが、現実に全体としての人事の流動性を著しく損なう結果となるおそれが大きかったか否かについては、原審において必ずしも十分な認定がなされているとは言い難く、したがって、この点について審理を尽くさせるために、原判決を破棄して本件を差し戻す、という選択をすることも、考えられないではない。しかし、いうまでも無く、在留外国人に管理職就任の道を制度として開くかどうかは、独り被上告人との関係のみでなく、在留外国人一般の問題として考えなければならないことであって(例えば、将来において被上告人と同様の希望を持つ在留外国人が多数出て来た場合には、そのすべてについて同様の扱いをしなければならないことになる)、こういったことをも考慮するならば、上告人東京都が、本件当時において外国籍の者一般につき管理職選考の受験を拒否したことが、直ちに、法的に許された人事政策の範囲を超えることになるとは、必ずしも言えず、また、少なくともそこに過失を認めることはできないのではないか、と考える。

+意見
裁判官金谷利廣の意見は、次のとおりである。
私は、原判決が上告人において被上告人に対し平成6年度及び同7年度の管理職選考を受験させなかった措置は憲法に違反する違法な措置であると判断したことについて、これを是認できないとする多数意見の結論には賛成するが、その理由付けの一部には同調できない。
1 憲法は、我が国の公務員に就任できる地位(以下「公務員就任権」という。)について、これを一般的に保障する規定を置いてはいないが、日本国民の公務員就任権については、憲法が当然の前提とするものとして、あるいは、国民主権の原理、14条等を根拠として、解釈上これを認めることができると考える。
しかし、公務員(地方公務員を含む。)制度をどのように構築するかは国の統治作用に重大な関係を有すること、公務員の種類は多種多様で、その中には、外国人が就任することが国民主権の原理からして憲法上許容されないと解されるもの(ただし、その範囲をどう考えるかは議論が分かれる難しい問題である。)や外国人の就任が不相当なものが少なくないこと、また、外国人にも就任を認めるのが妥当であるか否かは当該具体的職種の職務内容、人事運用の実態等により左右されること、さらには、これまでの内外の法制の歴史等にかんがみると、日本国民に対し解釈上認められる憲法上の公務員就任権の保障は、その権利の性質上、外国人に対しては及ばないものと解するのが相当である(国の基本法である憲法において公務員の職種を区別してその一部については外国人の公務員就任権を保障していると解することは、明文の規定がない以上、妥当であるとは思われない。)。憲法は、外国人に対しては、公務員就任権を保障するものではなく、憲法上の制限の範囲内において、外国人が公務員に就任することができることとするかどうかの決定を立法府の裁量にゆだねているものというべきである。

2 そこで、地方公務員に関する法制をみると、地方公務員法は、外国人を一般の地方公務員に就任させることができるかどうかについて規定を置いていないし、その就任を禁止する規定も置いていないから、地方公共団体は、外国人を当該地方公共団体の職員に採用できることとするか否かについて、裁量により決めることができるものといわなければならない。すなわち、我が国の現行法制上、外国人に地方公務員となり得るみちを開くか否かは、当該地方公共団体の条例、人事委員会規則等の定めるところにゆだねられているのである。
そして、地方公共団体のこの裁量権は、オール・オア・ナッシングの裁量のみが認められるものではなく、一定の職種のみに限って外国人に公務員となる機会を与えることはもちろん、職務の内容と責任を考慮し昇任の上限を定めてその限度内で採用の機会を与えること、さらには、一定の職種のみに限り、かつ、一定の昇任の上限を定めてその限度内で採用の機会を与えることも許されると解されるのであって、その判断については、裁量権を逸脱し、あるいは濫用したと評価される場合を除き、違法の問題を生じることはないと解される(この点に関する詳細については、上田裁判官の意見を援用する。)。
労働基準法112条により地方公務員にも適用があるものとされる同法3条との関係についていうと、外国人に地方公務員に就任する門戸を開くか否かについては地方公共団体の判断にゆだねられていると考える私のような見解によると、外国人に対し一定の職種の地方公務員に就任するみちを全く開放しないこととしても、原則として違法の問題が生じないのに、その一部開放である昇任限度を定めた開放措置については裁量に関し制約が伴うこととなるのは、甚だ不合理なことであり、また、それでは外国人に対する公務員となるみちの門戸開放を不必要に慎重にさせるおそれもあると思われる。したがって、労働基準法3条は、門戸を開く裁量については適用がなく、開かれた門戸に係るその枠の中での運用において適用されるにとどまるものと解することになる。

3 本件においては、多数意見の4(3)の第1段に記述されているのと同様の理由により、上告人(東京都)において職員が管理職に昇任するための資格要件として当該職員が日本の国籍を有する職員であることを定めていたことが、裁量権の逸脱・濫用として違法性を帯びることはなく、したがって、上告人が被上告人に対し平成6年度及び同7年度の管理職選考を受験させなかった措置に違法はないと考える次第である。

4 なお、付言すると、公務員の職種の中には外国人が就任しても支障がないと認められるものがあり、国際化が進展する現代において、定住外国人に対しそれらの公務員となるみちの門戸を相当な範囲で開放してゆくことは、時代の流れに沿うものということができるし、また、被上告人のような特別永住者がその一層の門戸開放を強く主張すること自体については、よく理解できる。しかし、この問題は、私の見解からすると、基本的には、政治的ないしは政策的な選択の当否のレベルで議論されるべきことであって、違憲、違法の問題が生ずる事柄ではないということである。

+意見
裁判官上田豊三の意見は、次のとおりである。
私は、上告人が被上告人に対し平成6年度及び同7年度の管理職選考を受験させなかった措置に違法はなく、これが違法であるとして被上告人の慰謝料請求を認容すべきものとした原審の判断は是認することができないとする多数意見に賛成するものであるが、その理由を異にする。
1 憲法は、在留外国人につき我が国の公務員に就任することができる地位を保障するものではなく、在留外国人が公務員に就任することができることとするかどうかの決定を立法府の裁量にゆだねているものと解するのが相当である。
ところで、地方公務員法は、在留外国人の地方公務員への就任につき、これを就任させなければならないとする規定も、逆にこれを就任させてはならないとする規定も置いていない。したがって、同法は、この問題につき、それぞれの地方公共団体が条例ないし人事委員会規則等において定め得るという立場(すなわち、当該地方公共団体の裁量にゆだねるという立場)に立っているものと解されるのである。

2 それぞれの地方公共団体は、在留外国人の地方公務員への就任の問題を定めるに当たり、ある職種について在留外国人の就任を認めるかどうかという裁量(便宜「横軸の裁量」という。)を有するのみならず、職務の内容と責任に応じた級についてどの程度・レベルのものにまでの就任(昇任)を認めるかどうかについての裁量(便宜「縦軸の裁量」という。)をも有するものと解すべきである。換言すれば、在留外国人の地方公務員への就任の問題をどのような制度として(横軸・縦軸の両面において)構築するかは、それぞれの地方公共団体の裁量にゆだねられていると解されるのである(民間事業の経営者がどのような種類の、またどのような規模の事業を経営するかは、その経営者の自由な選択にゆだねられており、たとえ在留外国人を雇用する予定であったとしても、その選択は労働基準法3条により制約されるものではなく、その事業に雇用された在留外国人は、その経営者の選択した事業の種類・規模の範囲において同条による保護を主張することができるにすぎない。すなわち、同条は、経営者による事業の種類・規模の選択に当たっては制約原理としては働かないのであり、同様に、地方公共団体が在留外国人の地方公務員制度を構築するに当たっても、同条は制約原理として働かないものと解すべきである。)。

3 この地方公共団体の裁量にも限界があり、裁量権を逸脱したり、濫用したと評価される場合には、違法性を帯びることになる。縦軸の裁量における限界については、私は、現在、次のように理解すべきものと考えている。すなわち、当該地方公共団体が縦軸の裁量として行使したところが、地方公務員法を中心とする地方公務員制度全体から見ておよそ許容することができないと思われる場合には、裁量の限界を超えていると解することになる。例えば、地方公務員のうち、地方公共団体の公権力の行使に当たる行為若しくは地方公共団体の重要な施策に関する決定を行い、又はこれに関与する者について、解釈上、その就任に日本国籍を有することを必要とするものがあるとされる場合に、地方公共団体がそのような地方公務員にも在留外国人の就任を認めることとしたとき(すなわち、在留外国人への門戸を開放しすぎた場合、換言すれば縦軸の裁量の行使が広すぎた場合)には、裁量の限界を超えていると解することになる。また、逆に、例えば、在留外国人については、その給与を特段の事情もないのに初任給程度に限定することとし、そのような級に相当する職務を専ら行うものと位置付けて地方公務員への就任を認めることとしたような場合(すなわち、門戸の開放が極端に狭い場合、換言すれば縦軸の裁量の行使があまりにも狭すぎる場合)には、在留外国人を蔑視し、在留外国人に苦痛のみを与える制度として、あるいは在留外国人の労働力を搾取する制度として構築したものとして地方公務員制度上のいわば公序良俗に反し、裁量の限界を超えていると解することになろう。
そして、在留外国人の地方公務員への採用につき当該地方公共団体の構築した制度が裁量の限界を超えていないと判断される場合には、在留外国人に対しその制度上許容される範囲を超えた取扱いをしなくても、違法の問題は起きないことになる。なお、その構築した制度の範囲内においては、労働基準法3条や地方公務員法13条の平等取扱いの原則の精神に基づき、在留外国人同士あるいは在留外国人と日本人との間において平等取扱い等の要請が働くことになる。

4 本件においては、上告人は保健婦(当時)について在留外国人の就任を認めることとしたが、課長級以上の管理職についてはこれを認めないこととしたというものであるところ、その制度は、上記に述べたような縦軸の裁量の限界を超えているものではなく、その裁量の範囲内にあるものとして、違法性を帯びることはないというべきである。
したがって、上告人が被上告人に対し平成6年度及び同7年度の管理職選考を受験させなかった措置に違法はないと解すべきである。

+反対意見
裁判官滝井繁男の反対意見は、次のとおりである。
1 私も、外国籍を有する者が我が国の公務員に就任するについては、国民主権の原理から一定の制約があるほか、一定の職に就任するにつき日本国籍を有することを要件と定めることも、法律においてこれを許容し、かつ、合理的な理由がある限り、認めるものである。しかしながら、上告人のように、多数の者が多様な仕事をしている地方公共団体において、その管理職に就く者が、その職務の性質にかかわらず、すべて日本国籍を有しなければならないものとすることには、その合理的根拠を見いだすことはできない。したがって、上告人が管理職選考において日本国籍を有することを受験資格とした措置は、在留外国人である職員に対し国籍のみによって昇任のみちを閉ざしたものであり、憲法14条に由来し、国籍を理由として差別することを禁じた労働基準法3条の規定に反する違法なものであると考える。以下、その理由を述べる。

2(1) 国民主権の原理の下では、統治に参加することができるのはその国に帰属する者だけであって、参政権を保障されているのはその国民だけである。そして、国民は統治の担い手となる者を自由に選び得るのであるが、国の主体性の維持及び独立の見地から、統治権の重要な担い手になる者については外国人を排除すべきものとされているのである。
(2) 憲法15条1項は、公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利であると定めているが、これは、国民主権の原理に基づいたものであって、権利の性質上この規定による保障は我が国に在留する外国人には及ばないものと解されているのである。
(3) 憲法93条2項は、地方公共団体の長、その議会の議員及び法律の定める公務員についてもその地方公共団体の住民が直接選挙すると規定しているが、ここで権利を保障されているのも日本国民に限られている。
我が国実定法も、これに基づいて公務員の選定に関する規定を置いており、地方公共団体についていえば、地方公共団体の議会の議員及び長の選挙権、被選挙権を国民に限定する(地方自治法11条、18条、19条)ほか、国民にのみ、議会解散請求権、議会の議員、長、副知事若しくは助役、出納長若しくは収入役、選挙管理委員若しくは監査委員又は公安委員会委員並びに教育委員会委員の解職請求権などを認めているのである(同法13条)。
しかしながら、我が国憲法は、住民の日常生活に密接な関連を有する公共的事務についてはその地方の住民の意思に基づいて、地方公共団体で処理することを保障していることから、我が国に在留する外国人のうち、その居住する区域の地方公共団体と特段に緊密な関係を持つ者については、その意思をその地方公共団体の公共的事務の処理に反映させるため、法律によって、地方公共団体の長、その議員等に対する選挙権を付与することを禁止しているものではないのである(最高裁平成5年(行ツ)第163号同7年2月28日第三小法廷判決・民集49巻2号639頁参照)。
すなわち、我が国実定法は、一定の公務員に関する選挙権及び被選挙権については日本国民に限定してこれを付与しているが、そうであるからといって、参政権の側面を持つ権利のすべてについて、国民主権の原理からの帰結として当然に、その保障が日本国民に限られることになるというものではないのである。
(4) 本件で問題になっているのは、選挙権、被選挙権のように、その憲法上の保障が日本国民に限られることが国民主権の原理から帰結される権利ではなく、ある公務に就くことができるかどうかの資格である。すべての公務員の選任は、終局的には国民の意思に懸かるべきものであって、その意味でその選任に参政権的な側面があるとしても、すべての公務員に就任するについてその職務の性質を問うことなく、国民主権の原理の当然の帰結として日本国籍が求められているというものではないのである。
私は、地方行政においては、国民による統治の根本へのかかわり方が国政とは異なることを考えれば、国民主権の見地からの当然の帰結として日本国籍を有する者でなければならないものとされるのは、地方行政機関については、その首長など地方公共団体における機関責任者に限られるのであって、その余の公務員への就任については、憲法上の制約はなく、立法によって制限し得るにしろ、立法を待つことなく性質上当然のこととして日本国籍を有する者に制限されると解すべき根拠はないものと考える。
(5) 多数意見は、そのいうところの公権力行使等地方公務員は、その職務の遂行が住民の生活に直接間接に重大なかかわりを有するものであるから、国民主権の原理に基づき、その統治の在り方について日本国の統治者としての国民が最終的な責任を負うべきものであることに照らし、原則として日本国籍を有しない者がこれに就任することは本来我が国の法体系の想定するところではないというのである。
しかしながら、我が国の地方公共団体にはその意思決定機関として議会が置かれている一方で、執行機関は、地方公共団体の事務を自らの判断と責任において誠実に管理し、執行する義務を負うとされているところ(地方自治法138条の2)、法規定上、その名において執行する権限を有するのは、知事、市町村長等の長又は行政委員会だけであって、副知事、助役、その他の補助職員は長を補助するにとどまるものである(同法161条以下)。
もっとも、長は、実際の事務をしばしば補助機関に委任したり、代理させたりしており(地方自治法152条、153条)、また、一つの行政決定は、補助機関の検討を経て最終的に行政庁の名で表示されるというのが通例であるから、地方公共団体の行政運営、組織運営にかかわる重要な事項が実務的には補助機関において行われているとみるべきことは事実である。しかしながら、これらの者は長の指揮監督の下でその職務を行うものであって(同法154条)、その職務を遂行するに当たって、法令、条例、地方公共団体の規則及び地方公共団体の機関の定める規程に従い、かつ、上司の職務上の命令に忠実に従わなければならないものである(地方公務員法32条)。すなわち、これらの者は、法規定上、地方公共団体の長がその判断と責任において行う事務の執行を補助するものとしてその任に当たっているのである。したがって、その関与する仕事が重要なものであっても、主権の行使との関係でみる限りは、補助機関の地位は、長のそれとは質的に異なるものである。憲法93条2項が、地方公共団体の長に限り、住民の公選によることを保障し、その余の公務員については公選によることにするかどうかを立法政策にゆだねているのも、その性質の相違によるものである。その職務の住民生活へのかかわり方に重要性があるからといって、補助機関への就任について、長への就任と同じく日本国籍を要求することを国民主権の原理から当然に法体系が想定しているとまでいうことはできないと考える。

3 このように、外国人が地方公共団体の長の補助機関に就任するについては、国民主権の原理に基づく制約はない。昇格等を伴う補助機関に昇任することができる資格は労働基準法3条にいう労働条件に当たるから、既に職員に採用された者は、同条の適用により上記の資格を有する。職員に採用された外国人についても、これと別異に解する理由はない。
しかしながら、国民主権の原理に基づく制約がない職であっても、そのすべてについて外国人が当然にその職に就任することができる資格を認めなければならないというわけではない。一定の職について日本の国籍を有する者だけが就任することができるとすることも、法律においてこれを許容し、かつ、合理的な理由がある限り、許される。すなわち、執行機関は地方公共団体の事務を誠実に管理し、執行すべきところ、それが適切に行われることについては、住民の理解と支持を得ることが必要であって、公務における外国人の影響の排除を求める住民の一般的規範意識や公務員観からみて、法律によって、ある種の職に就任するについては日本国籍を有することを要件と定めることはできると解される。
のみならず、ある職にどのような人材を配するかは、その仕事の内容と職員の資質を勘案し、個別具体的に検討し決定されるべきものであって、その判断は法律に反しない限り、使用者の広い裁量にゆだねられているところである。したがって、地方公共団体がある種の公務、例えば、高度な判断や広範な裁量を伴うもの、あるいは直接住民に対して命令し強制するものについて、住民の理解と信頼という観点から日本国籍を有する者のみを充てることとすることには合理性を認め得るのであって、そのような措置を執ることは地方公務員法が許容していると解されるから、そのような措置を執ったことをもって合理的理由に基づかない差別ということはできない。

4(1) しかしながら、上告人は、管理職の職務の内容等を考慮して一定の職への就任につき資格を制限したというのではなく、すべての管理職から一律に外国人を排除することとしていたのである。本件で問題となるのは、そのような上告人の措置に合理性があるかどうかである。
職員の昇任における不平等な取扱いもそのことに合理的な理由があれば差別となるものではないが、その合理性は使用者において明らかにすべきところ、本件において上告人はそれを明らかにしているとはいえない。なぜならば、仮に地方公共団体の長の補助職員の中に法体系上日本国籍を有することを要件とすることが想定される職のあることを是認し得るとしても、そのことからすべての管理職を日本国籍を有する者でなければならないとすることにまで合理性があるとし、管理職選考において一律に外国人である職員を排除することもできると解するのは相当でなく、ほかに、上記の措置を執らなければ任用制度の適正な運用ができないことなどは明らかにされていないからである。
(2) 一般に管理職というとき、それは、部下を掌握し管理する地位にある者をいい、部長、課長などの組織上の名称を付されていることが多いが、部下の管理監督を行わない者も、処遇の均衡上管理職と同じ扱いを受けていることがある(そのほかに、重要な行政上の決定を行い又はそれに参画する地位にある職員及び他の職員に対し監督的地位に立つ職員を、職員団体の組織等に制約を受ける管理職員とするという制度も採られている。)。このような管理職は、各地方公共団体が具体的な任用制度を構築するに当たり、民主的効率的な公務員制度や人事行政を実現することなどの見地から設けたものであって、ある職の就任から外国籍の者を排除する必要があるかどうかについて基準となるべき主権の行使への関与の度合いの高いものを選び出して定めたというようなものではない。
(3) 多数意見は、公権力行使等地方公務員の職を公務員の中での上級公務員として位置付けた上で、これに昇任するのに必要な職務経験を積むために経るべきものとして下位の管理職を設けるなどして、その一体的な管理職任用制度を構築し、人事の適正な運用を図ることも地方公共団体はその判断ですることができ、そのためにすべての管理職に昇任することのできる者を日本国籍を有する職員に限定しても、そのことによって国籍を理由とする不当な差別をしたことにはならず、労働基準法3条に違反したことにはならないというのである。
確かに管理職に就いた者に特定の職種の職務だけを担当させるという任用管理をしないことは、それなりの合理性を持つものと考えられる。しかしながら、ここで問題とされるべきことは、管理職に昇任すれば、公権力行使等地方公務員に就くことがあり得ることを理由に、すべての管理職の資格として日本国籍を要件とすることの当否である。
住民の権利義務を形成するなどの公権力の行使に当たる行為を行い、若しくは地方公共団体の重要な施策に関する決定を行い、又はこれらに参画する地方公務員という限定は、それだけでは必ずしもその範囲を明確にし得るものではなく、際限なく広がる可能性を持つものであるが、私は、その中で国民主権の原理に基づいて日本国籍を有する者のみが就任することが想定されているものとして説明し得る職は、仮にそれを肯定するとしても、高度な判断や広範な裁量を伴うもの、あるいは直接住民に対して命令し強制するものなどに限られるのであり(3の末尾を参照)、その数がそれほど多数になることはないと考える。
今日、地方公共団体の扱う職務は私企業のそれと差異のみられない給付行政的なものに拡大し、本来的には非権力的行政といわれるものが多くみられるようになってきており、職務全般における権力性は減少しているため、公務員職の概念にも変容がみられるのであって、今日の国民の規範意識に照らせば、国民主権の見地から、その能力を度外視して外国人であるというだけの理由で排除しなければならないと考えられる職は限られたものであると考える。したがって、相当数ある管理職の中には日本国籍を有する者に限って就任を認め得るものがあるとしても、そのために管理職の選考に当たって、すべて日本国籍を有する者に限定しなければその一体的な任用管理ができないとは到底考えられないのである。
(4) 上告人の職員の中で、多数意見のいう公権力行使等地方公務員の数がどれだけのものになるのか必ずしも明らかではない。しかしながら、原判決の認定するところによれば、上告人の平成9年4月1日現在の一般管理職(警視庁及び消防庁を除く。)の総数は2500に及ぶというのであって、その中には、相当数の公権力行使等地方公務員以外のものが含まれていると思われるのである。しかるに、上告人は、課長級の職は、事案の決定権限を有するか、その決定過程に関与するものであり、公の意思形成に参画するものであるとし、そのことを理由に管理職選考において日本国籍を要求することは合理性があると主張するのみで、管理職全体の中で上級の管理職と位置付けられ、日本国籍を要件とすることが法体系上想定されていると考え得る管理職がどの程度いるのかについて明らかにしていないのである。
しかしながら、そのような管理職の数が相当数に及ぶこと、そして、終始特定の職務だけを担当させるという任用管理をしていないため、下位の管理職にも日本国籍を有することを要件としなければ一体的な任用制度の運用ができないことを明らかにすればともかく、そうでなければ、あらゆる管理職について日本国籍を有することを選考の受験資格とすることの合理性を明らかにしたものということはできない。
結局、上告人は、管理職選考に当たって一律に日本国籍を要件とすることが不合理な差別ではなく、違法でないといえるだけの合理性を明らかにしておらず、上告人の執った措置は外国人である職員に対し違法な差別をするものといわざるを得ないのである。
(5) また、管理職に就くことの適否は、職員本人の資質、能力等によって決せられるべきところ、上告人においては、管理職選考に合格し、任用候補者名簿に登録された後、最終的な選考を経て管理職に任用されるのは数年後のことであるというのであって、その間に合格した職員が管理職としての資質等を備えているかどうかについては十分観察し、吟味する機会があるのである。
したがって、本件で問題となった管理職選考は、管理職に昇任する候補者の選考の段階ともいうべきものであって、管理職としての適性の有無を判定するという見地からみても、日本国籍を有しないことを理由に一律に排除するまでの必要性は認められないのである。
(6) 今日、人間の経済文化活動はその活動領域を国境を越えて広げてきており、一般的にいって、国民と外国人との観念的な差異を意識することは減少しつつあるといってよい。特に地方公共団体では、外国籍を有する者もその社会の一員として責務を果たしている以上、国民と同等の扱いを求め得るということ(地方自治法10条参照)に対する理解は広がりつつあって、公務員としての適性は、国籍のいかんではなく、住民全体の奉仕者として公共の利益のために職務を遂行しているかどうかなどのことこそが重要性を持つということが、改めて認識されるようになってきているのである。そして、管理職選考に合格した職員がそのような観点からみて管理職としての適性を備えているかどうかの判定は、管理職選考に合格された後の勤務の実績等をみた上ですることもできることであって、国籍もその一つの判断の材料になることがあり得るにしろ、外国籍であることをこのような管理職選考の段階で絶対的障害としなければならない理由はないのである。
付言するに、記録によれば、被上告人は日本人を母とし、日本で生まれ、我が国の教育を受けて育ってきた者であるが、父が朝鮮籍であったことから、日本国との平和条約の発効に伴い、本人の意思とは関係なく日本国籍を失ったものである。我が国の場合、被上告人のように、この平和条約によって日本国籍を失うことになったものの、永らく我が国社会の構成員であり、これからもそのような生活を続けようとしている特別永住者たる外国人の数が在留外国人の多数を占めているところ、本件のような国籍条項は、そのような立場にある特別永住者に対し、その資質等によってではなく、国籍のみによって昇任のみちを閉ざすこととなって、格別に過酷な意味をもたらしていることにも留意しなければならない。このような見地からも、我が国においては、多様な外国人を一律にその国籍のみを理由として管理職から排除することの合理性が問われなければならないものと考えるのである。
(7) 以上のとおりであるから、日本国籍を有しないというだけで管理職選考の受験の機会を与えず、一切の管理職への昇任のみちを閉ざすというのは、人事の適正な運用を図るというその目的の正当性は是認し得るにしろ、それを達成する手段としては実質的関連性を欠き、合理的な理由に基づくものとはいえないと考えるのである。
5 したがって、上告人が、日本国籍を有しないことのみを理由として被上告人に管理職選考の受験の機会を与えなかったのは、国籍による労働者の違法な差別といわざるを得ない。また、このような差別が憲法14条に由来する労働基準法3条に違反するものであることからすれば、国家賠償法1条1項の過失の存在も肯定することができるので、被上告人の請求を認容した原判決は結論において正当であり、本件上告は棄却すべきものと考える。

+反対意見
裁判官泉德治の反対意見は、次のとおりである。
1 被上告人は、昭和25年に岩手県で出生した特別永住者であり、日本の法律に従い昭和61年に看護婦免許、昭和63年に保健婦免許をそれぞれ受け、同年4月に東京都日野保健所の保健婦として採用され、平成5年4月から東京都八王子保健所西保健相談所に4級職主任の保健婦として勤務していた(なお、記録によると、被上告人の母は、日本人であったが、昭和10年に日本において朝鮮人と婚姻し、内地戸籍から除籍されて朝鮮戸籍に入籍し、日本国との平和条約の発効に伴い日本国籍を喪失した。また、被上告人は、日本において、義務教育を受け、高等学校、専門学校を卒業している。)。

2 被上告人は、東京都人事委員会により、日本国籍を有しないことを理由として、平成6年度及び平成7年度の管理職選考(以下「本件管理職選考」という。)の受験を拒否された。管理職選考の受験資格として日本国籍を有することが必要であることを定めた東京都条例や東京都人事委員会規則はない。東京都人事委員会は、平成6年度管理職選考実施要綱では、日本国籍の要否について触れていなかったが、平成7年度管理職選考実施要綱で、初めて、受験資格として日本国籍を有することが必要であることを定めた。

3 国家は、国際慣習法上、外国人を自国内に受け入れる義務を負うものではなく、特別の条約がない限り、外国人を自国内に受け入れるかどうか、また、これを受け入れる場合にいかなる条件を付するかを、自由に決定することができるものとされている(最高裁昭和29年(あ)第3594号同32年6月19日大法廷判決・刑集11巻6号1663頁、最高裁昭和50年(行ツ)第120号同53年10月4日大法廷判決・民集32巻7号1223頁参照)。国は、国家主権の一部として上記のような自由裁量権を有するのであり、地方公共団体にはかかる裁量権がないから、地方公共団体は、国が日本における在留を認めた外国人について、当該地方公共団体内における活動を自由に制限できるものではない

4 そこで、まず、特別永住者が地方公務員(選挙で選ばれる職を除く。以下同じ。)となり得るか否かに関連して、国が法令においてどのような定めをしているかを見ることとする。
(1) 国は、日本国との平和条約に基づき日本の国籍を離脱した者等の出入国管理に関する特例法3条において、特別永住者に対し日本で永住することができる地位を与えている。特別永住者は、出入国管理及び難民認定法2条の2第1項の「他の法律に特別の規定がある場合」に該当する者として、同法の在留資格を有することなく日本で永住することができ、日本における就労活動その他の活動について同法による制限を受けない。そして、地方公務員法等の他の法律も、特別永住者が地方公務員となることを制限してはいない。(2) 憲法3章の諸規定による基本的人権の保障は、権利の性質上日本国民のみをその対象としていると解されるものを除き、我が国に在留する外国人に対しても等しく及ぶと解すべきである(最高裁昭和50年(行ツ)第120号同53年10月4日大法廷判決・民集32巻7号1223頁参照)。そして、憲法14条1項が保障する法の下の平等原則は、外国人にも及ぶ(最高裁昭和37年(あ)第927号同39年11月18日大法廷判決・刑集18巻9号579頁参照)。また、憲法22条1項が保障する職業選択の自由も、特別永住者に及ぶと解すべきである。

5 上記のように、国家主権を有する国が、法律で、特別永住者に対し永住権を与えつつ、特別永住者が地方公務員になることを制限しておらず、一方、憲法に規定する平等原則及び職業選択の自由が特別永住者にも及ぶことを考えれば、特別永住者は、地方公務員となることにつき、日本国民と平等に扱われるべきであるということが、一応肯定されるのである。

6 そこで、次に、地方公共団体において、特別永住者が地方公務員となることを、一定の範囲で制限することが許されるかどうかを検討する。
(1) 憲法14条1項は、絶対的な平等を保障したものではなく、合理的な理由なくして差別することを禁止する趣旨であって、各人の事実上の差異に相応して法的取扱いを区別することは、その区別が合理性を有する限り、何ら上記規定に違反するものではない(最高裁昭和55年(行ツ)第15号同60年3月27日大法廷判決・民集39巻2号247頁参照)。また、憲法22条1項は、「公共の福祉に反しない限り」という留保の下に職業選択の自由を認めたものであって、合理的理由が存すれば、特定の職業に就くことについて、一定の条件を満たした者に対してのみこれを認めるということも許される(最高裁昭和43年(行ツ)第120号同50年4月30日大法廷判決・民集29巻4号572頁参照)。
(2) 憲法前文及び1条は、主権が国民に存することを宣言し、国政は国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使することを明らかにしている。国民は、この国民主権の下で、憲法15条1項により、公務員を選定し、及びこれを罷免することを、国民固有の権利として保障されているのである。そして、国民主権は、国家権力である立法権・行政権・司法権を包含する統治権の行使の主体が国民であること、すなわち、統治権を行使する主体が、統治権の行使の客体である国民と同じ自国民であること(これを便宜上「自己統治の原理」と呼ぶこととする。)を、その内容として含んでいる
地方公共団体における自治事務の処理・執行は、法律の定める範囲内で行われるものであるが、その範囲内において、上記の自己統治の原理が、自治事務の処理・執行についても及ぶ。そして、自己統治の原理は、憲法の定める国民主権から導かれるものであるから、地方公共団体が、自己統治の原理に従い自治事務を処理・執行するという目的のため、特別永住者が一定範囲の地方公務員となることを制限する場合には、正当な目的によるものということができ、その制限が目的達成のため必要かつ合理的な範囲にとどまる限り、上記制限の合憲性を肯定することができると解される。
ただし、国が法律により特別永住者に対し永住権を認めるとともに、その活動を特に制限してはいないこと、地方公共団体は特別永住者の活動を自由に制限する権限を有しないこと、地方公共団体は法律の範囲内で自治事務を処理・執行する立場にあることを考慮すれば、地方公共団体が、自己統治の原理から特別永住者の就任を制限できるのは、自己統治の過程に密接に関係する職員、換言すれば、広範な公共政策の形成・執行・審査に直接関与し自己統治の核心に触れる機能を遂行する職員、及び警察官や消防職員のように住民に対し直接公権力を行使する職員への就任の制限に限られるというべきである。自己統治の過程に密接に関係する職員以外の職員への就任の制限を、自己統治の原理でもって合理化することはできない。
(3) また、地方公共団体は、自治事務を適正に処理・執行するという目的のために、特別永住者が一定範囲の地方公務員となることを制限する必要があるというのであれば、当該地方公務員が自己統治の過程に密接に関係する職員でなくても、合理的な制限として許される場合もあり得ると考えられる。
ただし、特別永住者は、本来、憲法が保障する法の下の平等原則及び職業選択の自由を享受するものであり、かつ、地方公務員となることを法律で特に制限されてはいないのである。そして、職業選択の自由は、単に経済活動の自由を意味するにとどまらず、職業を通じて自己の能力を発揮し、自己実現を図るという人格権的側面を有しているのである。
その上、特別永住者は、その住所を有する地方公共団体の自治の担い手の一人である。すなわち、憲法8章の地方自治に関する規定は、法律の定めるところによりという限定は付しているものの、住民の日常生活に密接に関連する地方公共団体の事務は、国が関与することなく、当該地方公共団体において、その地方の住民の意思に基づいて処理するという地方自治の制度を定め、「住民」を地方自治の担い手として位置付けている。これを受けて、地方自治法10条は、「市町村の区域内に住所を有する者は、当該市町村及びこれを包括する都道府県の住民とする。住民は、法律の定めるところにより、その属する普通地方公共団体の役務の提供をひとしく受ける権利を有し、その負担を分任する義務を負う。」と規定し、「住民」が地方自治の運営の主体であることを定めている。そして、この住民には、日本国民だけでなく、日本国民でない者も含まれる。もっとも、同法は、地方公共団体の議会の議員及び長の選挙権・被選挙権(11条、18条、19条)、条例制定改廃請求権(12条)、事務監査請求権(12条)、議会解散請求権(13条)、議会の議員、長、副知事若しくは助役、出納長若しくは収入役、選挙管理委員若しくは監査委員又は公安委員会若しくは教育委員会の委員の解職請求権(13条)など、地方参政権の中核となる権利については、日本国民たる住民に限定しているが、原則的には、日本国民でない者をも含めた住民一般を地方自治運営の主体として位置付け、これに住民監査請求権(242条)、住民訴訟提起権(242条の2)なども付与している。特別永住者は、上記のような制限はあるものの、当該地方公共団体の住民の一人として、その自治事務に参加する権利を有しているものということができる。当該地方公共団体の住民ということでは、特別永住者も、他の在留資格を持って在留する外国人住民も、変わるところがないといえるかも知れないが、当該地方公共団体との結び付きという点では、特別永住者の方がはるかに強いものを持っており、特別永住者が通常は生涯にわたり所属することとなる共同社会の中で自己実現の機会を求めたいとする意思は十分に尊重されるべく、特別永住者の権利を制限するについては、より厳格な合理性が要求される。
以上のような、特別永住者の法的地位、職業選択の自由の人格権的側面、特別永住者の住民としての権利等を考慮すれば、自治事務を適正に処理・執行するという目的のために、特別永住者が自己統治の過程に密接に関係する職員以外の職員となることを制限する場合には、その制限に厳格な合理性が要求されるというべきである。換言すると、具体的に採用される制限の目的が自治事務の処理・執行の上で重要なものであり、かつ、この目的と手段たる当該制限との間に実質的な関連性が存することが要求され、その存在を地方公共団体の方で論証したときに限り、当該制限の合理性を肯定すべきである。

7 以上の観点から、東京都人事委員会が特別永住者である被上告人に対し本件管理職選考の受験を拒否した行為が許容されるものかどうかを検討する。
(1) 本件管理職選考は、「課長級の職」への第一次選考である。課長級の職には、自己統治の過程に密接に関係する職員が含まれていることは明らかで、自己統治の原理に従い自治事務を処理・執行するという目的の下に、特別永住者が上記職員となることを制限しても、それは合理的制限として許容される。
しかし、本件管理職選考は、知事、公営企業管理者、議会議長、代表監査委員、教育委員会、選挙管理委員会、海区漁業調整委員会又は人事委員会に任命権がある職員の課長級の職への第一次選考であって、選考対象の範囲が極めて広く、「課長級の職」がすべて自己統治の過程に密接に関係する職員であると当然にいうことはできない。
上告人は、課長級の職は、事案の決定権限を有するか、事案の決定権限は有しないが事案の決定に参画することにより、すべて事案の決定過程に関与しているものであり、公の意思の形成に参画しているものである、と主張する。しかし、事案の決定あるいは公の意思の形成といっても、その内容・性質は各種・各様であって、地方公共団体の課長級の職員が行うこれらの行為のすべてが、広範な公共政策の形成・執行・審査に直接関与し自己統治の核心に触れる機能を遂行するものと評価することは困難である。
もともと、課長級の職員も、地方公務員の一員として、政治的行為をすることを禁じられているとともに、その職務を遂行するに当たって、法令、条例、地方公共団体の規則及び地方公共団体の機関の定める規程に従い、かつ、上司の職務上の命令に忠実に従わなければならない義務を負っていることに留意すべきである(地方公務員法32条及び36条参照)。
また、原審は、上告人の管理職の中には、計画の企画や専門分野の研究を行うなどのスタッフとしての職務を行い、事案の決定権限を有せず、事案の決定過程にかかわる蓋然性も少ない管理職も若干存在していることを指摘している。
そして、上告人の東京都組織規程(昭和27年東京都規則第164号)によると、知事及び出納長の権限に属する事務を処理するための機関だけでも、8条で掲げる「本庁」の局・室・課のほか、31条及び別表3で掲げる「本庁行政機関」、34条及び別表4で掲げる「地方行政機関」(その一つである保健所だけでも8箇所存在する。)及び37条で掲げる「附属機関」があり、上告人は、多数の機関で広範な事務を処理している。
さらに、上告人は、職員の給与に関する条例(昭和26年東京都条例第75号)5条所定の医療職給料表(三)が適用される保健師、助産師、看護師、准看護師の採用については、国籍要件を付していないが、初任給、昇格及び昇給等に関する規則(昭和48年東京都人事委員会規則第3号)3条及び別表第1チ「医療職給料表(三)級別標準職務表」は、7級の標準的な職務として本庁の課長の職務等、8級の標準的な職務として本庁の統括課長の職務等を掲げており、医療職給料表(三)の適用職員が課長級の職員となることを予定している。
以上のような状況からすれば、課長級の職には、自己統治の過程に密接に関係する職員以外の職員が相当数含まれていることがうかがわれるのである。
そうすると、自己統治の原理に従い自治事務を処理・執行するという目的を達成する手段として、特別永住者に対し「課長級の職」への第一次選考である本件管理職選考の受験を拒否するということは、上記目的達成のための必要かつ合理的範囲を超えるもので、過度に広範な制限といわざるを得ず、その合理性を否定せざるを得ない。
(2) 次に、上告人は、本件管理職選考に合格した者は候補者名簿に登載し、数年後に最終的な選考を経て管理職に任用するところ、最終的な選考に合格した者については、職種ごとの任用管理は行っておらず、他の職種の管理職に就かせることもあるとともに、まず出先課長に任用し、次に本庁副参事へ、更に本庁課長へと昇任させる等の任用を行っており、また、同一人を特定の職に退職まで在籍させるということは行っていないから、退職までの昇任過程において必然的に事案決定権限を有する職に就かせることになるので、特別永住者に対し本件管理職選考の受験そのものを拒否することが許される旨主張する。
事案決定権限を行使することがそのまま自己統治の過程に密接に関係することにならないことは、前述のとおりである。上告人の上記主張は、上告人の昇任管理ないし人事管理の下では、本件管理職選考に合格した者はいずれ自己統治の過程に密接に関係する職に就かせることになるから、この昇任管理ないし人事管理政策の遂行のため、特別永住者に対して本件管理職選考の受験そのものを拒否し、「課長級の職」の中で自己統治の過程に密接に関係する職員以外の職員となることも制限することが許されるべきであるとの主張を含むものと解して、その是非を検討することにする。かかる場合の制限が正当化されるためには、前述のとおり、具体的に採用される制限の目的(すなわち、上告人の昇任管理ないし人事管理政策を実施すること。)が自治事務を処理・執行する上において重要なものであり、かつ、この目的と手段たる当該制限(すなわち、特別永住者に対し本件管理職選考の受験を拒否し、「課長級の職」の中の自己統治の過程に密接に関係する職員以外の職員となることを制限すること。)との間に実質的な関連性が存することが必要である。
上告人の上記昇任管理ないし人事管理政策を実施するためという目的は、自治事務を適正に処理・執行する上において合理性を有するものであって、一応の正当性を肯定することができるが、特別永住者に対し法の下の平等取扱い及び職業選択の自由の面で不利益を与えることを正当化するほど、自治事務を処理・執行する上で重要性を有する目的とはいい難い。
また、4級の職員が第一次選考である本件管理職選考に合格しても、直ちに課長級の職に就くわけではなく、更に選考を経て5級及び6級の職をそれぞれ数年間は経験しなければならないのであり、上告人が多数の機関を擁し、多数の課長級の職を設けていることを考えれば、特別永住者に本件管理職選考の受験を認め、将来において課長級の職に昇任させた上、自己統治の過程に密接に関係する職員以外の職員に任用しても、上告人の昇任管理ないし人事管理政策の実施にさほど支障が生ずるものとは考えられず、特別永住者に対し本件管理職選考の受験自体を拒否し、自己統治の過程に密接に関係する職員以外の職員になることを制限するという手段が、上告人の昇任管理ないし人事管理政策の実施という目的と実質的な関連性を有するとはいい難い。
したがって、上記の制限をもって合理的なものということはできない。

8 以上のとおり、特別永住者である被上告人に対する本件管理職選考の受験拒否は、憲法が規定する法の下の平等及び職業選択の自由の原則に違反するものであることを考えると、国家賠償法1条1項の過失の存在も、これを肯定することができるものというべきである。
9 したがって、以上と同旨の原審の判断は正当であり、本件上告は棄却すべきものと考える。

++解説
《解  説》
1 事案の概要 
本件は,大韓民国籍の外国人であり,日本国との平和条約に基づき日本の国籍を離脱した者等の出入国管理に関する特例法に定める特別永住者として我が国に在住するX(控訴人,被上告人)が,昭和63年4月,Y(被控訴人,上告人)に保健婦(その後,保健婦助産婦看護婦法の一部を改正する法律(平成13年法律第153号)により,「保健婦」は「保健師」に改められている。)として採用され,平成6年度及び同7年度に東京都人事委員会の実施した管理職選考を受験しようとしたが,日本の国籍を有しないことを理由に受験が認められなかったため,Yに対し,①管理職選考受験資格の確認を求めると共に,②国家賠償法1条1項に基づき,慰謝料の支払を請求する事案である。

2 原審等の判断
1審判決は,①に係る訴えを却下し,②の請求を棄却した。これに対し,原判決は,①に関するXの控訴を棄却したが,②については,Yの職員が原告に平成6年度及び同7年度の管理職選考を受験させなかったことは,Xが日本の国籍を有しないことを理由にXから管理職選考の受験の機会を奪い,課長級の管理職への昇任のみちを閉ざすものであり,憲法22条1項,14条1項に違反する違法な措置であるとして,一審判決のうち②の部分を変更してXの慰謝料請求を一部認容した([原判決の判批]橋本勇・判自177号96頁)。原判決に対しYだけがY敗訴部分につき上告した。

3 上告理由
上告理由は,①憲法上外国人は公務に就任する権利を保障されていないのに,原判決が,その一部の職種への就任について憲法22条1項,14条1項の各規定による保障が及ぶと解したことは,上記各規定の解釈適用を誤った違法がある,②原判決は,Yの管理職の中に,事案の決定権限を有せず,事案の決定過程にかかわる蓋然性も少ないものも若干存在するとしているが,Yの管理職として任用された者は,事案決定権限を有するか,事案決定過程に関与する地位に置かれることになるのであり,原判決は事実を誤認している,③原判決には,国家賠償法1条1項の解釈適用を誤った違法があるというものである。

4 本判決
本判決は,概要次のとおり判示し,原判決のうちY敗訴部分を破棄し,Xの慰謝料請求を棄却すべきものとした1審判決は正当であるとして,上記部分についてのXの控訴を棄却した。
(1) 地方公務員法は,一般職の地方公務員(職員)に本邦に在留する外国人を任命することができるかどうかについて明文の規定を置いていないが(同法19条1項参照),地方公共団体が,法による制限の下で,条例,人事委員会規則等の定めるところにより職員に在留外国人を任命することを禁止するものではない
(2) 地方公共団体は,職員に採用した在留外国人について,国籍を理由として,給与,勤務時間その他の勤務条件につき差別的取扱いをしてはならないものとされており(労働基準法3条,112条,地方公務員法58条3項),地方公務員法24条6項に基づく給与に関する条例で定められる昇格(給料表の上位の職務の級への変更)等も上記の勤務条件に含まれるものというべきである。
(3) しかし,上記の定めは,普通地方公共団体が職員に採用した在留外国人の処遇につき合理的な理由に基づいて日本国民と異なる取扱いをすることまで許されないとするものではない。また,そのような取扱いは,合理的な理由に基づくものである限り,憲法14条1項に違反するものでもない
(4) 管理職への昇任は,昇格等を伴うのが通例であるから,在留外国人を職員に採用するに当たって管理職への昇任を前提としない条件の下でのみ就任を認めることとする場合には,そのように取り扱うことにつき合理的な理由が存在することが必要である。
(5) 地方公務員のうち,住民の権利義務を直接形成し,その範囲を確定するなどの公権力の行使に当たる行為を行い,若しくは普通地方公共団体の重要な施策に関する決定を行い,又はこれらに参画することを職務とするもの(以下「公権力行使等地方公務員」という。)については,次のように解するのが相当である。すなわち,公権力行使等地方公務員の職務の遂行は,住民の権利義務や法的地位の内容を定め,あるいはこれらに事実上大きな影響を及ぼすなど,住民の生活に直接間接に重大なかかわりを有するものである。それゆえ,国民主権の原理に基づき,国及び普通地方公共団体による統治の在り方については日本国の統治者としての国民が最終的な責任を負うべきものであること(憲法1条,15条1項参照)に照らし,原則として日本の国籍を有する者が公権力行使等地方公務員に就任することが想定されているとみるべきであり,我が国以外の国家に帰属し,その国家との間でその国民としての権利義務を有する外国人が公権力行使等地方公務員に就任することは,本来我が国の法体系の想定するところではないものというべきである。
(6) 普通地方公共団体が,公務員制度を構築するに当たって,公権力行使等地方公務員の職とこれに昇任するのに必要な職務経験を積むために経るべき職とを包含する一体的な管理職の任用制度を構築して人事の適正な運用を図ることも,その判断により行うことができるものというべきである。そうすると,普通地方公共団体が上記のような管理職の任用制度を構築した上で,日本国民である職員に限って管理職に昇任することができることとする措置を執ることは,合理的な理由に基づいて日本国民である職員と在留外国人である職員とを区別するものであり,上記の措置は,労働基準法3条にも,憲法14条1項にも違反するものではないと解するのが相当である。そして,この理は,前記の特別永住者についても異なるものではない
(7) これを本件についてみると,Xが東京都人事委員会の実施する平成6年度及び同7年度の管理職選考を受験しようとした当時,Yにおいては,管理職に昇任した職員に終始特定の職種の職務内容だけを担当させるという任用管理を行っておらず,管理職に昇任すれば,いずれは公権力行使等地方公務員に就任することのあることが当然の前提とされていたということができるから,Yは,公権力行使等地方公務員の職に当たる管理職のほか,これに関連する職を包含する一体的な管理職の任用制度を設けているということができる。
そうすると,Yにおいて,上記の管理職の任用制度を適正に運営するために必要があると判断して,職員が管理職に昇任するための資格要件として当該職員が日本の国籍を有する職員であることを定めたとしても,合理的な理由に基づいて日本の国籍を有する職員と在留外国人である職員とを区別するものであり,上記の措置は,労働基準法3条にも,憲法14条1項にも違反するものではない

5 日本の国籍を有しない者の地方公務員への任用
(1) 本判決は,4の(1)のとおり,地方公務員法は,一般職の地方公務員(職員)に本邦に在留する外国人を任命することができるかどうかについて明文の規定を置いていないが,地方公共団体が,法による制限の下で,条例,人事委員会規則等の定めるところにより職員に在留外国人を任命することを禁止するものではないと判示している。本判決がいう「法による制限」が何を意味するのか,必ずしも明らかではない。
(2) この点に関し,行政解釈により,地方公務員の職のうち公権力の行使又は地方公共団体の意思の形成への参画に携わるものについては,日本の国籍を有しない者を任用することができないとされている(昭和48年5月28日自治公1第28号大阪府総務部長あて公務員第一課長回答)。その反面,公権力の行使又は地方公共団体の意思の形成への参画に携わらない地方公務員となるためには必ずしも日本の国籍を必要としないが,この場合において,日本の国籍を有しない者を任用するかどうかは,当該地方公共団体において判断されるべきものとされている(大平内閣による昭和54年4月13日質問主意書に対する答弁書)。こうした解釈に基づき,自治省公務員第二課長通知(昭和61年6月24日自治公二第33号)は,「保健婦,助産婦,看護婦を採用する場合には,国籍要件を付する必要はない」としている。これがいわゆる公務員に関する当然の法理である。国家公務員法についても同様の行政解釈がされている(鹿兒島重治・森園幸男・北村勇・逐条国家公務員法69ないし70頁,橋本勇・判自177号96頁)。この法理によれば,「公権力の行使又は国家意思の形成に参画する官職」への就任については日本の国籍を要する(昭和23年8月17日法務庁調査一発第155号連絡調整中央事務局第二部長あて法務調査意見長官兼子一回答,昭和28年3月25日法制局一発第29号内閣総理大臣官房総務課長あて法制局第一部長高辻正巳回答)。その理由は,それらの者は,国家に対し単に経済的労務を給付するものではなく,国家からその公権力の行使をゆだねられるものであるから,国家が十分にこれを信頼し得るものであり,また,国家に対し忠誠を誓い,一身を捧げて無定量の義務に服し得るものであることを要すること,一国が他国人を単にその者との間の行為によって自国の官吏に任命することは,上記の忠誠義務とその堅実なる遂行に関しその者の属する国家の対人主権を侵すおそれがあること等にあるとされている。「公権力の行使に携わる公務員」とは,必ずしも直接公権力を行使する者だけに限られるものではなく,公権力の行使に関与する者をも含む趣旨であるとされ,また,「国家意思の形成への参画」とは,国家の活動について,企画,立案,決定等に関与することをいうものであり,この場合の国家の活動は必ずしも権力作用に限られず,非権力作用,さらには私経済作用に属するものも含まれるとされる(前田正道編・法制意見百選370頁)。これに対し,公権力の行使又は国家意思の形成への参画に携わらない公務員となるためには,必ずしも日本の国籍を必要としないものと解されている(昭和30年3月18日12―226人事院事務総長回答,鹿兒島重治・森園幸男・北村勇編・逐条国家公務員法70頁)。職務の内容が,単に学術的若しくは技術的な事務を処理し,又は機械的労務を提供するにすぎないようなものは,ここにいう「公権力の行使」又は「国家意思の形成への参画」には含まれないとされる(前田正道編・法制意見百選370頁)。
(3) 本判決は,4の(5)のとおり,公権力行使等地方公務員については,原則として日本の国籍を有する者がこれに就任することが想定されているとみるべきであるなどと判示している。①この判示と本判決がいう「法による制限」との関係,さらには②本判決がいう「法による制限」と公務員に関する当然の法理との関係については,今後十分な検討を要しよう(藤田裁判官の補足意見を参照)。

6 本件の問題点
憲法が在留外国人に対して公務員に就任し得る資格を平等に認めるという意味で公務就任権を保障しているかどうかは検討を要する問題であるが,本件では,既に地方公共団体の職員(一般職に属するすべての地方公務員。地方公務員法4条1項参照)として採用されたものが管理職に昇任するについて日本の国籍を有することを要することとした地方公共団体の措置が違法かどうかの点が直接問題となる。本件では,在留外国人が我が国の公務員に就任するについて憲法上その地位を保障されているかどうかを判断する必要はない。本判決は,本件の直接の問題点に即して判断しているものと考えられる。

7 地方公共団体の行政組織権と労働基準法3条による制限
(1) 地方公共団体の行政組織権
憲法は,国及び地方公共団体の統治構造の根本を定めるにとどまり,行政組織,これらを担う公務員制度の詳細については,統治権を直接行使する公務員について規定している以外格別規定を置いていない。憲法は,行政組織,公務員制度の詳細についての決定を立法府の判断にゆだねているものと考えられる(憲法73条4号,93条2項参照)。地方自治法は,様々の制約(補助機関その他一定の行政機関については,地方自治法により直接設置され,あるいはその設置が義務付けられている。)を課してはいるが,地方公共団体の長に内部の行政組織の在り方をどのようにするかについての決定権(行政組織権)を与えていると解される(藤田宙靖・行政組織法(新版)269頁)。上記の行政組織権は,法による制限の下で,どのような人事制度を構築するか,そして,地方公務員に誰(どのような人材)を任命するかについての決定権も含むものといえよう。
(2) 地方公共団体の人事に関する決定権と労働基準法3条による制限
上記の行政組織権の一環としての人事に関する決定権は,在留外国人を職員に任命する場合,裁量権を逸脱し,あるいは濫用したと評価される場合を除き,地方公共団体の自由な判断で在留外国人の職員の処遇を日本の国籍を有する職員と異なるものとする制度を設けることを含むであろうか。仮にこれを肯定するならば,職員が管理職に昇任するについて日本の国籍を有することを要することとすることも,当然適法であることになろう。この点に関して問題となるのは労働基準法3条である。
地方公共団体の職員は,国籍,信条又は社会的身分を理由として,給与,勤務時間その他の勤務条件について差別的取扱いを受けないという均等待遇(平等取扱いの原則)の保障を受ける(労働基準法3条,112条,地方公務員法(平成10年法律第112号による改正前のもの)58条3項)。職員の昇格も上記の勤務条件に含まれ,平等取扱いの原則の保障が及ぶ。この保障は,構築された制度の下で特定の職員を個別具体的に差別することを禁止するだけではなく,職員制度として,一般的に在留外国人の昇格を日本人よりも劣位に置く制度を設けて運用することも禁止するものであると考えられる。
本判決(多数意見)の意義は,まず,この点を確認したことにある。さらに,本判決は,上記の平等取扱いの原則が憲法14条1項に基づくものであり,それと同じ内容を労働基準法3条が保障しているという考え方を採っているものと考えられる。金谷裁判官及び上田裁判官の各意見は,上記の各点において多数意見と異なる考え方を採るものである。
(3) 均等待遇(平等取扱いの原則)の保障と合理的な理由に基づく区別
しかしながら,上記の平等取扱いの原則は,絶対的なものではなく,合理的な理由に基づくのであれば,在留外国人の職員について日本人の職員と異なる取扱いをすることも許される。本判決はこのことも明らかにしている。合理的な理由に基づく区別が憲法14条1項に違反するものでないことは,最高裁判所の判例(最大判昭39.5.27〔昭37(オ)第1472号〕民集18巻4号676頁,判タ164号75頁,最大判昭39.11.18〔昭37(あ)第927号〕刑集18巻9号579頁,判タ170号180頁)で確立しているが,本判決は,労働基準法3条についても同様の例外があることを明らかにしたものである。本判決は,労働基準法3条が憲法14条1項の平等原則と同じ内容を保障しているという考え方を採っているので,上記の点は当然の帰結であるといえよう。
(4) 管理職昇任について職員が日本の国籍を有することを要することとする措置とその合理的な理由
① 管理職への昇任は,昇格等を伴うのが通例であるから,在留外国人を職員に採用するに当たって管理職への昇任を前提としない条件の下でのみ就任を認めることとする場合には,そのように取り扱うことにつき合理的な理由が存在することが必要であり,合理的な理由がないにもかかわらず在留外国人に管理職への昇任の機会を与えない制度を設けたとすれば,違法といわざるを得ないことになる。
② 本判決は,地方公務員のうち,住民の権利義務を直接形成し,その範囲を確定するなどの公権力の行使に当たる行為を行い,若しくは地方公共団体の重要な施策に関する決定を行い,又はこれらに参画することを職務とするものを「公権力行使等地方公務員」と呼び,原則として日本の国籍を有する者が公権力行使等地方公務員に就任することが想定されているとみるべきであり,我が国以外の国家に帰属し,その国家との間でその国民としての権利義務を有する外国人が公権力行使等地方公務員に就任することは,本来我が国の法体系の想定するところではないものというべきであると判示している。
本判決がいう公権力の行使に当たる行為とは,法律上は都道府県知事等が有する許可等の行為を指すものと考えられる。例えば,都市計画区域内等における開発行為の許可(都市計画法29条),同法等に違反した者に対する監督処分(同法81条)等の都市計画法に基づく行為,建築基準法令の規定等に違反した建築物に対する措置等(建築基準法9条ないし11条)の建築基準法に基づく行為,生活保護法による保護の決定(同法19条),病院等の開設の許可(医療法7条),病院等の施設の使用制限禁止命令等(同法24条),病院等の管理者の変更命令(同法28条),病院等の開設許可の取消し等(同法29条),薬局の開設の許可(薬事法5条),医薬品の一般販売業の許可(同法26条),薬種販売業の許可(同法28条),配置販売業の許可(同法30条),医薬品の廃棄等の命令(同法70条),検査命令(同法71条),改善命令等(同法72条),薬局又は医薬品の一般販売業の管理者の変更命令(同法73条),薬局の開設の許可の取消し等(同法75条),精神障害者が,入院させなければその精神障害のために自身を傷つけ又は他人に害を及ぼすおそれがあると認めた場合における入院措置等(精神保健及び精神障害者福祉に関する法律29条,29条の2,29条の2の2,29条の4),一定の感染症にかかっていると疑うに足りる正当な理由のある者に対する健康診断の実施,入院措置等(感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律17条,19条,22条,45条ないし48条),結核を伝染させるおそれが著しいと認められる患者に対する従業禁止措置,入所命令(結核予防法28条,29条),地方税の納税の告知(地方税法1条1項7号,同項14号,13条1項)等が挙げられる。また,地方公共団体の重要な施策に関する決定にかかわるものとしては,都市計画(都市計画法15条1項)の原案を作成する行為等がこれに当たるものと思われる。
上記の各行為に関する都道府県知事等の権限のほか,地方公共団体の長が地方公共団体の主要な執行機関として有する広範な権限(法147条ないし149条参照)は,法律の規定(例えば,地方税法3条の2,地域保健法9条)に基づいて権限の委任が行われて行使されるほか,事務決裁規程等の規程により内部的に権限の分配が行われて補助機関により行使される。前記の各行為等に関する地方公共団体の長の権限を権限の委任,専決,代決により行使する補助機関は,本判決にいう公権力行使等地方公務員に当たるものということができよう。そして,公権力行使等地方公務員の権限に係る事務は,その命を受けて事務をつかさどる職員により補助執行される。このような補助執行は,地方公共団体の長及び各部署の長による指揮監督の下に行使されるのであり,これを人事制度の観点からみると,指揮監督権を有する管理職の下に補助執行が行われるということになる。管理職制度がどのようなものであるかは,地方公共団体の長の権限の分配に基づく補助執行の在り方を左右するといえよう。さらに,公権力行使等地方公務員をはじめとする要職に就くに先立って必要な職務経験を積むために上記の補助執行を行う職を務めさせるなど,人事の観点からの考慮も考えられるところである。そうであるとすれば,どのような管理職制度を構築してこれを運営するかは,前述した地方公共団体の行政組織権に基づく判断にゆだねられているものと解するのが相当である。
③ 本判決は,地方公共団体が,公務員制度を構築するに当たって,公権力行使等地方公務員の職とこれに昇任するのに必要な職務経験を積むために経るべき職とを包含する一体的な管理職の任用制度を構築して人事の適正な運用を図ることも,その判断により行うことができるものというべきであるとし,地方公共団体が上記のような管理職の任用制度を構築した上で,日本国民である職員に限って管理職に昇任することができることとする措置を執ることは,合理的な理由に基づいて日本国民である職員と在留外国人である職員とを区別するものであり,上記の措置は,労働基準法3条にも,憲法14条1項にも違反するものではないものと判示している。この判示は,恐らく上に述べたような考え方に基づくものであろう。
④ 本判決は,上の理は,前記の特別永住者についても異なるものではないと判示している。この点については,藤田裁判官の補足意見と泉裁判官の反対意見とを参照されたい。

8 本件についての判断
本判決は,以上のとおり判示した上で,東京都が管理職に昇任すれば公権力の行使に当たる行為を行うことなどを職務とする地方公務員に就任することがあることを当然の前提として任用管理を行う管理職の任用制度を設けていたなど判示の事情の下では,職員が管理職に昇任するための資格要件として日本の国籍を有することを定めた東京都の措置は,労働基準法3条,憲法14条1項に違反しないと判示している。

9 個別意見
判示事項1,2につき①藤田裁判官の補足意見,②金谷裁判官,上田裁判官の各意見及び③滝井裁判官,泉裁判官の各反対意見がある。
(1) 藤田裁判官の補足意見は,日本国との平和条約に基づき日本の国籍を離脱した者等の出入国管理に関する特例法に定める特別永住者の法的地位について考察した上で,特別永住者がそれ以外の外国籍の者から区別され,特に優遇さるべきものとされていると考えるべき根拠はなく,事は,外国籍の者一般の就任可能性の問題として考察されるべきものであるとし,上告人が執った措置が当然に違法と判断されるべきものとまではいえないとするものである。
(2) 金谷裁判官及び上田裁判官の各意見は,地方公共団体は,外国人を当該地方公共団体の職員に採用できることとするか否かについて裁量によりこれを決めることができるのであり,在留外国人の地方公務員への就任の問題を定めるに当たり,ある職種について在留外国人の就任を認めるかどうかという裁量を有するのみならず,職務の内容と責任に応じた級についてどの程度・レベルのものにまでの就任(昇任)を認めるかどうかについての裁量をも有するのであって,その判断については,裁量権を逸脱し,あるいは濫用したと評価される場合を除き,違法の問題を生じることはないとするものである。
(3) 滝井裁判官の反対意見は,管理職の職務の内容等を考慮して一定の職への就任につき資格を制限するというのであればともかく,すべての管理職から一律に外国人を排除することとしていた上告人の措置に合理性があるとはいえないとするものである。
(4) 泉裁判官の反対意見は,特別永住者は,地方公務員となることにつき,法の下の平等原則及び職業選択の自由を享受するものであり,その住所を有する地方公共団体の自治の担い手の一人であることなどからすると,自治事務を適正に処理・執行するという目的のために,特別永住者が自己統治の過程に密接に関係する職員以外の職員となることを制限する場合には,その制限に厳格な合理性が要求されるとするものである。

10 本判決の意義
職員の管理職制度は地方公共団体によって様々であるが,管理職に昇任すれば公権力の行使に当たる行為を行うことなどを職務とする地方公務員に就任することがあることを当然の前提として任用管理を行う管理職の任用制度を設けているといえる限りは,本件と同様の判断が当てはまるものと思われ,本判決が以上のとおり判示したことには重要な意義があると考えられる。


憲法択一 人権 基本的人権の原理 人権の享有主体性 八幡 国労広島 南九州 群馬


・天皇も人権享有主体となると考えることができるが、天皇は国政に関する権能を有しないため、選挙権や被選挙権等の参政権は認められない!!
+第四条
1項 天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない
2項 天皇は、法律の定めるところにより、その国事に関する行為を委任することができる。

・憲法第3章の人権規定は、法人についても性質上可能な限り適用される!
+判例(45.6.24 八幡)

上告代理人有賀正明、同吉田元、同長岡邦の上告理由第二点ならびに上告人の上告理由第一および第二について。
原審の確定した事実によれば、訴外八幡製鉄株式会社は、その定款において、「鉄鋼の製造および販売ならびにこれに附帯する事業」を目的として定める会社であるが、同会社の代表取締役であつた被上告人両名は、昭和三五年三月一四日、同会社を代表して、自由民主党に政治資金三五〇万円を寄附したものであるというにあるところ、論旨は、要するに、右寄附が同会社の定款に定められた目的の範囲外の行為であるから、同会社は、右のような寄附をする権利能力を有しない、というのである。
会社は定款に定められた目的の範囲内において権利能力を有するわけであるが、目的の範囲内の行為とは、定款に明示された目的自体に限局されるものではなく、その目的を遂行するうえに直接または間接に必要な行為であれば、すべてこれに包含されるものと解するのを相当とする。そして必要なりや否やは、当該行為が目的遂行上現実に必要であつたかどうかをもつてこれを決すべきではなく、行為の客観的な性質に即し、抽象的に判断されなければならないのである(最高裁昭和二四年(オ)第六四号・同二七年二月一五日第二小法廷判決・民集六巻二号七七頁、同二七年(オ)第一〇七五号・同三〇年一一月二九日第三小法廷判決・民集九巻一二号一八八六頁参照)。

ところで、会社は、一定の営利事業を営むことを本来の目的とするものであるから、会社の活動の重点が、定款所定の目的を遂行するうえに直接必要な行為に存することはいうまでもないところである。しかし、会社は、他面において、自然人とひとしく、国家、地方公共団体、地域社会その他(以下社会等という。)の構成単位たる社会的実在なのであるから、それとしての社会的作用を負担せざるを得ないのであつて、ある行為が一見定款所定の目的とかかわりがないものであるとしても、会社に、社会通念上、期待ないし要請されるものであるかぎり、その期待ないし要請にこたえることは、会社の当然になしうるところであるといわなければならない。そしてまた、会社にとつても、一般に、かかる社会的作用に属する活動をすることは、無益無用のことではなく、企業体としての円滑な発展を図るうえに相当の価値と効果を認めることもできるのであるから、その意味において、これらの行為もまた、間接ではあつても、目的遂行のうえに必要なものであるとするを妨げない。災害救援資金の寄附、地域社会への財産上の奉仕、各種福祉事業への資金面での協力などはまさにその適例であろう。会社が、その社会的役割を果たすために相当を程度のかかる出捐をすることは、社会通念上、会社としてむしろ当然のことに属するわけであるから、毫も、株主その他の会社の構成員の予測に反するものではなく、したがつて、これらの行為が会社の権利能力の範囲内にあると解しても、なんら株主等の利益を害するおそれはないのである。

以上の理は、会社が政党に政治資金を寄附する場合においても同様である。憲法は政党について規定するところがなく、これに特別の地位を与えてはいないのであるが、憲法の定める議会制民主主義は政党を無視しては到底その円滑な運用を期待することはできないのであるから、憲法は、政党の存在を当然に予定しているものというべきであり、政党は議会制民主主義を支える不可欠の要素なのである。そして同時に、政党は国民の政治意思を形成する最も有力な媒体であるから、政党のあり方いかんは、国民としての重大な関心事でなければならない。したがつて、その健全な発展に協力することは、会社に対しても、社会的実在としての当然の行為として期待されるところであり、協力の一態様として政治資金の寄附についても例外ではないのである。論旨のいうごとく、会社の構成員が政治的信条を同じくするものでないとしても、会社による政治資金の寄附が、特定の構成員の利益を図りまたその政治的志向を満足させるためでなく、社会の一構成単位たる立場にある会社に対し期待ないし要請されるかぎりにおいてなされるものである以上、会社にそのような政治資金の寄附をする能力がないとはいえないのである。上告人のその余の論旨は、すべて独自の見解というほかなく、採用することができない。要するに、会社による政治資金の寄附は、客観的、抽象的に観察して、会社の社会的役割を果たすためになされたものと認められるかぎりにおいては、会社の定款所定の目的の範囲内の行為であるとするに妨げないのである。
原判決は、右と見解を異にする点もあるが、本件政治資金の寄附が八幡製鉄株式会社の定款の目的の範囲内の行為であるとした判断は、結局、相当であつて、原判決に所論の違法はなく、論旨は、採用することができない。

上告代理人有賀正明、同吉田元、同長岡邦の上告理由第一点および上告人の上告理由第四について。論旨は、要するに、株式会社の政治資金の寄附が、自然人である国民にのみ参政権を認めた憲法に反し、したがつて、民法九〇条に反する行為であるという。
憲法上の選挙権その他のいわゆる参政権が自然人たる国民にのみ認められたものであることは、所論のとおりである。しかし、会社が、納税の義務を有し自然人たる国民とひとしく国税等の負担に任ずるものである以上、納税者たる立場において、国や地方公共団体の施策に対し、意見の表明その他の行動に出たとしても、これを禁圧すべき理由はない。ヘーー のみならず、憲法第三章に定める国民の権利および義務の各条項は、性質上可能なかぎり、内国の法人にも適用されるものと解すべきであるから、会社は、自然人たる国民と同様、国や政党の特定の政策を支持、推進しまたは反対するなどの政治的行為をなす自由を有するのである。政治資金の寄附もまさにその自由の一環であり、会社によつてそれがなされた場合、政治の動向に影響を与えることがあつたとしても、これを自然人たる国民による寄附と別異に扱うべき憲法上の要請があるものではない。論旨は、会社が政党に寄附をすることは国民の参政権の侵犯であるとするのであるが、政党への寄附は、事の性質上、国民個々の選挙権その他の参政権の行使そのものに直接影響を及ぼすものではないばかりでなく、政党の資金の一部が選挙人の買収にあてられることがあるにしても、それはたまたま生ずる病理的現象に過ぎず、しかも、かかる非違行為を抑制するための制度は厳として存在するのであつて、いずれにしても政治資金の寄附が、選挙権の自由なる行使を直接に侵害するものとはなしがたい。会社が政治資金寄附の自由を有することは既に説示したとおりであり、それが国民の政治意思の形成に作用することがあつても、あながち異とするには足りないのである。所論は大企業による巨額の寄附は金権政治の弊を産むべく、また、もし有力株主が外国人であるときは外国による政治干渉となる危険もあり、さらに豊富潤沢な政治資金は政治の腐敗を醸成するというのであるが、その指摘するような弊害に対処する方途は、さしあたり、立法政策にまつべきことであつて、憲法上は、公共の福祉に反しないかぎり、会社といえども政治資金の寄附の自由を有するといわざるを得ず、これをもつて国民の参政権を侵害するとなす論旨は採用のかぎりでない。 
以上説示したとおり、株式会社の政治資金の寄附はわが憲法に反するものではなく、したがつて、そのような寄附が憲法に反することを前提として、民法九〇条に違反するという論旨は、その前提を欠くものといわなければならない。原判決に所論の違法はなく、論旨は採用しがたい。

上告代理人有賀正明、同吉田元、同長岡邦の上告理由第三点および上告人の上告理由第三について。論旨は、要するに、被上告人らの本件政治資金の寄附は、商法二五四条ノ二に定める取締役の忠実義務に違反するというのである。
商法二五四条ノ二の規定は、同法二五四条三項民法六四四条に定める善管義務を敷衍し、かつ一層明確にしたにとどまるのであつて、所論のように、通常の委任関係に伴う善管義務とは別個の、高度な義務を規定したものとは解することができない。
ところで、もし取締役が、その職務上の地位を利用し、自己または第三者の利益のために、政治資金を寄附した場合には、いうまでもなく忠実義務に反するわけであるが、論旨は、被上告人らに、具体的にそのような利益をはかる意図があつたとするわけではなく、一般に、この種の寄附は、国民個々が各人の政治的信条に基づいてなすべきものであるという前提に立脚し、取締役が個人の立場で自ら出捐するのでなく、会社の機関として会社の資産から支出することは、結果において会社の資産を自己のために費消したのと同断だというのである。会社が政治資金の寄附をなしうることは、さきに説示したとおりであるから、そうである以上、取締役が会社の機関としてその衝にあたることは、特段の事情のないかぎり、これをもつて取締役たる地位を利用した、私益追及の行為だとすることのできないのはもちろんである。論旨はさらに、およそ政党の資金は、その一部が不正不当に、もしくは無益に、乱費されるおそれがあるにかかわらず、本件の寄附に際し、被上告人らはこの事実を知りながら敢て目をおおい使途を限定するなど防圧の対策を講じないまま、漫然寄附をしたのであり、しかも、取締役会の審議すら経ていないのであつて、明らかに忠実義務違反であるというのである。ところで、右のような忠実義務違反を主張する場合にあつても、その挙証責任がその主張者の負担に帰すべきことは、一般の義務違反の場合におけると同様であると解すべきところ、原審における上告人の主張は、一般に、政治資金の寄附は定款に違反しかつ公序を紊すものであるとなし、したがつて、その支出に任じた被上告人らは忠実義務に違反するものであるというにとどまるのであつて、被上告人らの具体的行為を云々するものではない。もとより上告人はその点につき何ら立証するところがないのである。したがつて、論旨指摘の事実は原審の認定しないところであるのみならず、所論のように、これを公知の事実と目すべきものでないことも多言を要しないから、被上告人らの忠実義務違反をいう論旨は前提を欠き、肯認することができない。いうまでもなく取締役が会社を代表して政治資金の寄附をなすにあたつては、その会社の規模、経営実績その他社会的経済的地位および寄附の相手方など諸般の事情を考慮して、合理的な範囲内において、その金額等を決すべきであり、右の範囲を越え、不相応な寄附をなすがごときは取締役の忠実義務に違反するというべきであるが、原審の確定した事実に即して判断するとき、八幡製鉄株式会社の資本金その他所論の当時における純利益、株主配当金等の額を考慮にいれても、本件寄附が、右の合理的な範囲を越えたものとすることはできないのである。
以上のとおりであるから、被上告人らがした本件寄附が商法二五四条ノ二に定める取締役の忠実義務に違反しないとした原審の判断は、結局相当であつて、原判決に所論の違法はなく、論旨はこの点についても採用することができない。

上告人の上告理由第五について。
所論は、原判決の違法をいうものではないから、論旨は、採用のかぎりでない。
よつて、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官入江俊郎、同長部謹吾、同松田二郎、同岩田誠、同大隅健一郎の意見があるほか、裁判官全員の一致で、主文のとおり判決する。

++裁判官松田二郎の意見もあったりする・・・今後補足。

・信教の自由(20条1項前段)のうちの信仰の自由は、個人の内面的精神活動に関する自由であることから、自然人についてのみ認められる!!!

・信教の自由のうちの宗教的行為の自由、宗教的結社の自由については、その性質上、宗教法人などの法人にも認められる!!!

・法人は、自然人である国民と同様に、国や政党の特定の政策を推進し又は反対するなどの政治的行為をなす自由を有する!

・憲法上の選挙権その他の参政権は自然人である国民にのみ認められたものである!!

・会社は、自然人たる国民と同様、政治的行為をなす自由を有し、政治資金の寄付もまさにその自由の一環であるとしたうえで、会社によってそれがなされた場合、政治の動向に影響を与えることがあったとしても、これを自然人たる国民による寄付と別異に扱うべき憲法上の要請はない!!!

・労働組合による統制と組合員が市民又は人間として有する自由や権利とが矛盾衝突する場合、問題とされている具体的な組合活動の内容・性質、これについて組合員に求められる協力の内容・程度・態様等を比較衡量して、組合の統制力とその反面としての組合員の協力義務の範囲に合理的な限定を加えるべきである!!

+判例(S50.11.28)国労広島地本
上告代理人大野正男、同西田公一、同外山佳昌の上告状記載の上告理由及び上告理由書記載の上告理由について
一 原判決によれば、上告組合がその組合員から徴収することを決定した本件各臨時組合費のうち、(1) 原判示の炭労資金三五〇円(組合員一人あたりの額。以下同じ。)及び春闘資金中の三〇円は、上告組合が日本炭鉱労働組合(以下「炭労」という。)の三井三池炭鉱を中心とする企業整備反対闘争を支援するための資金、(2) 原判示の安保資金五〇円は、昭和三五年に行われたいわゆる安保反対闘争により上告組合の組合員多数が民事上又は刑事上の不利益処分を受けたので、これら被処分者を救援するための資金(ただし、右資金は、いつたん上部団体である日本労働組合総評議会に上納され、他組合からの上納金と一括されたうえ、改めて救援資金として上告組合に配分されることになつていた。)、(3) 原判示の政治意識昂揚資金二〇円は、上告組合が昭和三五年一一月の総選挙に際し同組合出身の立候補者の選挙運動を応援するために、それぞれの所属政党に寄付する資金である、というのである。本件は、上告組合がその組合員であつた被上告人らに対して右各臨時組合費の支払を請求する事案であるが、原審は、労働組合は組合員の労働条件の維持改善その他経済的地位の向上という目的の遂行のために現実に必要な活動についてのみ組合員から臨時組合費を徴収することができるとの見解を前提としたうえ、右(1)については、上告組合が炭労の企業整備反対闘争を支援することは右目的の範囲外であるとし、(2)については、いわゆる安保反対闘争自体が右目的の達成に必要な行為ではないから、これに参加して違法行為をしたことにより処分を受けた組合員を救援することも目的の範囲を超えるものであるとし、更に、(3)については、選挙応援資金の拠出を強制することは組合員の政治的信条の自由に対する侵害となるから許されないとし、結局、右いずれの臨時組合費の徴収決議も法律上無効であつて、被上告人らにはこれを納付する義務がない、と判断している。
論旨は、要するに、原審の前提とした労働組合の目的の範囲に関する一般的判断につき民法四三条、労働組合法二条、上告組合規約三条、四条の解釈適用の誤り及び理由齟齬の違法を主張するとともに、右(1)に関する判断には、同組合規約三条、四条の解釈適用を誤り、社会通念及び経験則に違反した違法、同(2)に関する判断には、憲法二八条、労働組合法二条、同組合規約三条、四条の解釈適用を誤り、条理及び判例に違反した違法、同(3)に関する判断には、憲法一九条、二一条、二八条、労働組合法二条、民法九〇条の解釈適用を誤り、条理及び判例に違反した違法がある、というのである。

二 思うに、労働組合の組合員は、組合の構成員として留まる限り、組合が正規の手続に従つて決定した活動に参加し、また、組合の活動を妨害するような行為を避止する義務を負うとともに、右活動の経済的基礎をなす組合費を納付する義務を負うものであるが、これらの義務(以下「協力義務」という。)は、もとより無制限のものではない。労働組合は、労働者の労働条件の維持改善その他経済的地位の向上を図ることを主たる目的とする団体であつて、組合員はかかる目的のための活動に参加する者としてこれに加入するのであるから、その協力義務も当然に右目的達成のために必要な団体活動の範囲に限られる。しかし、いうまでもなく、労働組合の活動は、必ずしも対使用者との関係において有利な労働条件を獲得することのみに限定されるものではない。労働組合は、歴史的には、使用者と労働者との間の雇用関係における労働者側の取引力の強化のために結成され、かかるものとして法認されてきた団体ではあるけれども、その活動は、決して固定的ではなく、社会の変化とそのなかにおける労働組合の意義や機能の変化に伴つて流動発展するものであり、今日においては、その活動の範囲が本来の経済的活動の域を超えて政治的活動、社会的活動、文化的活動など広く組合員の生活利益の擁護と向上に直接間接に関係する事項にも及び、しかも更に拡大の傾向を示しているのである。このような労働組合の活動の拡大は、そこにそれだけの社会的必然性を有するものであるから、これに対して法律が特段の制限や規制の措置をとらない限り、これらの活動そのものをもつて直ちに労働組合の目的の範囲外であるとし、あるいは労働組合が本来行うことのできない行為であるとすることはできない
しかし、このように労働組合の活動の範囲が広く、かつ弾力的であるとしても、そのことから、労働組合がその目的の範囲内においてするすべての活動につき当然かつ一様に組合員に対して統制力を及ぼし、組合員の協力を強制することができるものと速断することはできない。労働組合の活動が組合員の一般的要請にこたえて拡大されるものであり、組合員としてもある程度まではこれを予想して組合に加入するのであるから、組合からの脱退の自由が確保されている限り、たとえ個々の場合に組合の決定した活動に反対の組合員であつても、原則的にはこれに対する協力義務を免れないというべきであるが、労働組合の活動が前記のように多様化するにつれて、組合による統制の範囲も拡大し、組合員が一個の市民又は人間として有する自由や権利と矛盾衝突する場合が増大し、しかも今日の社会的条件のもとでは、組合に加入していることが労働者にとつて重要な利益で、組合脱退の自由も事実上大きな制約を受けていることを考えると、労働組合の活動として許されたものであるというだけで、そのことから直ちにこれに対する組合員の協力義務を無条件で肯定することは、相当でないというべきである。それゆえ、この点に関して格別の立法上の規制が加えられていない場合でも、問題とされている具体的な組合活動の内容・性質、これについて組合員に求められる協力の内容・程度・態様等を比較考量し、多数決原理に基づく組合活動の実効性と組合員個人の基本的利益の調和という観点から、組合の統制力とその反面としての組合員の協力義務の範囲に合理的な限定を加えることが必要である。
そこで、以上のような見地から本件の前記各臨時組合費の徴収の許否について判断する。

三 炭労資金(春闘資金中三〇円を含む。)について
右資金は、上告組合自身の闘争のための資金ではなく、他組合の闘争に対する支援資金である。労働組合が他の友誼組合の闘争を支援する諸活動を行うことは、しばしばみられるところであるが、労働組合ないし労働者間における連帯と相互協力の関係からすれば、労働組合の目的とする組合員の経済的地位の向上は、当該組合かぎりの活動のみによつてではなく、広く他組合との連帯行動によつてこれを実現することが予定されているのであるから、それらの支援活動は当然に右の目的と関連性をもつものと考えるべきであり、また、労働組合においてそれをすることがなんら組合員の一般的利益に反するものでもないのである。それゆえ、右支援活動をするかどうかは、それが法律上許されない等特別の場合でない限り、専ら当該組合が自主的に判断すべき政策問題であつて、多数決によりそれが決定された場合には、これに対する組合員の協力義務を否定すべき理由はない。右支援活動の一環としての資金援助のための費用の負担についても同様である。
のみならず、原判決は、本件支援の対象となつた炭労の闘争が、石炭産業の合理化に伴う炭鉱閉鎖と人員整理を阻止するため、使用者に対して企業整備反対の闘争をすると同時に、政府に対して石炭政策転換要求の闘争をすることを内容としたものであつて、右石炭政策転換闘争において炭労が成功することは、当時上告組合自身が行つていた国鉄志免炭鉱の閉山反対闘争を成功させるために有益であつたとしながら、本件支援資金が、炭労の右石炭政策転換闘争の支援を直接目的としたものでなく、主としてその企業整備反対闘争を支援するための資金であつたことを理由に、これを拠出することが上告組合の目的達成に必要なものではなかつたと判断しているのであるが、炭労の前記闘争目的から合理的に考えるならば、その石炭政策転換闘争と企業整備反対闘争とは決して無関係なものではなく、企業整備反対闘争の帰すうは石炭政策転換闘争の成否にも影響するものであつたことがうかがわれるのであり、そうである以上、直接には企業整備反対闘争を支援するための資金であつても、これを拠出することが石炭政策転換闘争の支援につながり、ひいて上告組合自身の前記闘争の効果的な遂行に資するものとして、その目的達成のために必要のないものであつたとはいいがたいのである。
してみると、前記特別の場合にあたるとは認められない本件において、被上告人らが右支援資金を納付すべき義務を負うことは明らかであり、これを否定した原審及び第一審の判断は誤りというほかなく、その違法をいう論旨は理由がある。

四 安保資金について
右資金は、いわゆる安保反対闘争に参加して処分を受けた組合員を救援するための資金であるが、後記五の政治意識昂揚資金とともに、労働組合の政治的活動に関係するので、以下においては、まず労働組合の政治的活動に対する組合員の協力義務について一般的に考察し、次いで右政治的活動による被処分者に対する救援の問題に及ぶこととする。
1 既に述べたとおり、労働組合が労働者の生活利益の擁護と向上のために、経済的活動のほかに政治的活動をも行うことは、今日のように経済的活動と政治的活動との間に密接ないし表裏の関係のある時代においてはある程度まで必然的であり、これを組合の目的と関係のない行為としてその活動領域から排除することは、実際的でなく、また当を得たものでもない。それゆえ、労働組合がかかる政治的活動をし、あるいは、そのための費用を組合基金のうちから支出すること自体は、法的には許されたものというべきであるが、これに対する組合員の協力義務をどこまで認めうるかについては、更に別個に考慮することを要する。
すなわち、一般的にいえば、政治的活動は一定の政治的思想、見解、判断等に結びついて行われるものであり、労働組合の政治的活動の基礎にある政治的思想、見解、判断等は、必ずしも個々の組合員のそれと一致するものではないから、もともと団体構成員の多数決に従つて政治的行動をすることを予定して結成された政治団体とは異なる労働組合としては、その多数決による政治的活動に対してこれと異なる政治的思想、見解、判断等をもつ個々の組合員の協力を義務づけることは、原則として許されないと考えるべきである。かかる義務を一般的に認めることは、組合員の個人としての政治的自由、特に自己の意に反して一定の政治的態度や行動をとることを強制されない自由を侵害することになるからである。
しかしながら、労働組合の政治的活動とそれ以外の活動とは実際上しかく截然と区別できるものではなく、一定の行動が政治的活動であると同時に経済的活動としての性質をもつことは稀ではないし、また、それが政治的思想、見解、判断等と関係する度合いも必ずしも一様ではない。したがつて、労働組合の活動がいささかでも政治的性質を帯びるものであれば、常にこれに対する組合員の協力を強制することができないと解することは、妥当な解釈とはいいがたい。例えば、労働者の権利利益に直接関係する立法や行政措置の促進又は反対のためにする活動のごときは、政治的活動としての一面をもち、そのかぎりにおいて組合員の政治的思想、見解、判断等と全く無関係ではありえないけれども、それとの関連性は稀薄であり、むしろ組合員個人の政治的立場の相違を超えて労働組合本来の目的を達成するための広い意味における経済的活動ないしはこれに付随する活動であるともみられるものであつて、このような活動について組合員の協力を要求しても、その政治的自由に対する制約の程度は極めて軽微なものということができる。それゆえ、このような活動については、労働組合の自主的な政策決定を優先させ、組合員の費用負担を含む協力義務を肯定すべきである。
これに対し、いわゆる安保反対闘争のような活動は、究極的にはなんらかの意味において労働者の生活利益の維持向上と無縁ではないとしても、直接的には国の安全や外交等の国民的関心事に関する政策上の問題を対象とする活動であり、このような政治的要求に賛成するか反対するかは、本来、各人が国民の一人としての立場において自己の個人的かつ自主的な思想、見解、判断等に基づいて決定すべきことであるから、それについて組合の多数決をもつて組合員を拘束し、その協力を強制することを認めるべきではない。もつとも、この種の活動に対する費用負担の限度における協力義務については、これによつて強制されるのは一定額の金銭の出捐だけであつて、問題の政治的活動に関してはこれに反対する自由を拘束されるわけではないが、たとえそうであるとしても、一定の政治的活動の費用としてその支出目的との個別的関連性が明白に特定されている資金についてその拠出を強制することは、かかる活動に対する積極的協力の強制にほかならず、また、右活動にあらわされる一定の政治的立場に対する支持の表明を強制するにも等しいものというべきであつて、やはり許されないとしなければならない。
2 次に、右安保反対闘争のような政治的活動に参加して不利益処分を受けた組合員に対する救援の問題について考えると、労働組合の行うこのような救援そのものは、組合の主要な目的の一つである組合員に対する共済活動として当然に許されるところであるが、それは同時に、当該政治的活動のいわば延長としての性格を有することも否定できないしかし、労働組合が共済活動として行う救援の主眼は、組織の維持強化を図るために、被処分者の受けている生活その他の面での不利益の回復を経済的に援助してやることにあり、処分の原因たる行為のいかんにかかわるものではなく、もとよりその行為を支持、助長することを直接目的とするものではないから、右救援費用を拠出することが直ちに処分の原因たる政治的活動に積極的に協力することになるものではなく、また、その活動のよつて立つ一定の政治的立場に対する支持を表明することになるものでもないというべきである。したがつて、その拠出を強制しても、組合員個人の政治的思想、見解、判断等に関係する程度は極めて軽微なものであつて、このような救援資金については、先に述べた政治的活動を直接の目的とする資金とは異なり、組合の徴収決議に対する組合員の協力義務を肯定することが、相当である。なお、処分の原因たる被処分者の行為は違法なものでもありうるが、右に述べた救援の目的からすれば、そのことが当然には協力義務を否定する理由となるものではない(当裁判所昭和四八年(オ)第四九八号組合費請求事件同五〇年一一月二八日第三小法廷判決参照)。
3 ところで、本件において原審の確定するところによれば、前記安保資金は、いわゆる安保反対闘争による処分が行われたので専ら被処分者を救援するために徴収が決定されたものであるというのであるから、右の説示に照らせば、被上告人らはこれを納付する義務を負うことが明らかであるといわなければならない。それゆえ、これを否定した原審及び第一審の判断は誤りであり、その違法をいう論旨は理由がある。

五 政治意識昂揚資金について
右資金は、総選挙に際し特定の立候補者支援のためにその所属政党に寄付する資金であるが、政党や選挙による議員の活動は、各種の政治的課題の解決のために労働者の生活利益とは関係のない広範な領域にも及ぶものであるから、選挙においてどの政党又はどの候補者を支持するかは、投票の自由と表裏をなすものとして、組合員各人が市民としての個人的な政治的思想、見解、判断ないしは感情等に基づいて自主的に決定すべき事柄である。したがつて、労働組合が組織として支持政党又はいわゆる統一候補を決定し、その選挙運動を推進すること自体は自由であるが(当裁判所昭和三八年(あ)第九七四号同四三年一二月四日大法廷判決・刑集二二巻一三号一四二五頁参照)、組合員に対してこれへの協力を強制することは許されないというべきであり、その費用の負担についても同様に解すべきことは、既に述べたところから明らかである。これと同旨の理由により本件政治意識昂揚資金について被上告人らの納付義務を否定した原審の判断は正当であつて、所論労働組合法又は民法の規定の解釈適用を誤つた違法はない。また、所論違憲の主張は、その実質において原判決に右違法のあることをいうものであるか、独自の見解を前提として原判決の違憲を主張するものにすぎないから、失当であり、更に、所諭引用の判例も、事案を異にし、本件に適切でない。この点に関する論旨は、採用することができない。
六 以上のとおりであるから、原判決及び第一審判決中、本件炭労資金(春闘資金中三〇円を含む。)及び安保資金について上告人の請求を認めなかつた部分は違法として破棄又は取消を免れず、右部分に関する上告人の請求はすべてこれを認容すべきであり、また、その余の上告は、理由がないものとして棄却すべきである。

++補足意見もあり

・労働組合が、その実施する政治闘争に必要となる費用を臨時組合費として徴収する旨の組合決議を行った場合でも、組合員に納付義務はない!!
←上の判決の政治意識昂揚資金についての判断?

・政治資金規正法上の政治団体に寄付するか否かは選挙における投票の自由と表裏をなし、各人が個人的な政治思想に基づいて自主的に決定すべき事項であるから、会員に脱退の自由のない強制加入団体である税理士会が、上記寄付のために特別会費の納入を会員に強制することは許されない。

+(H8.3.19)南九州税理士会事件
上告代理人馬奈木昭雄、同板井優、同浦田秀徳、同加藤修、同椛島敏雅、同田中利美、同西清次郎、同藤尾順司、同吉井秀広の上告理由第一点、第四点、第五点、上告代理人上条貞夫、同松井繁明の上告理由、上告代理人諌山博の上告理由及び上告人の上告理由について
一 右各上告理由の中には、被上告人が政治資金規正法(以下「規正法」という。)上の政治団体へ金員を寄付することが彼上告人の目的の範囲外の行為であり、そのために本件特別会費を徴収する旨の本件決議は無効であるから、これと異なり、右の寄付が被上告人の目的の範囲内であるとした上、本件特別会費の納入義務を肯認した原審の判断には、法令の解釈を誤った違法があるとの論旨が含まれる。以下、右論旨について検討する。

二 原審の適法に確定した事実関係の概要は、次のとおりである。
1 被上告人は、税理士法(昭和五五年法律第二六号による改正前のもの。以下単に「法」という。)四九条に基づき、熊本国税局の管轄する熊本県、大分県、宮崎県及び鹿児島県の税理士を構成員として設立された法人であり、日本税理士会連合会(以下「日税連」という。)の会員である(法四九条の一四第四項)。被上告人の会則には、被上告人の目的として法四九条二項と同趣旨の規定がある。
2 南九州税理士政治連盟(以下「南九税政」という。)は、昭和四四年一一月八日、税理士の社会的、経済的地位の向上を図り、納税者のための民主的税理士制度及び租税制度を確立するため必要な政治活動を行うことを目的として設立されたもので、被上告人に対応する規正法上の政治団体であり、日本税理士政治連盟の構成員である。
3 熊本県税理士政治連盟、大分県税理士政治連盟、宮崎県税理士政治連盟及び鹿児島県税理士政治連盟(以下、一括して「南九各県税政」という。)は、南九税政傘下の都道府県別の独立した税政連として、昭和五一年七、八月にそれぞれ設立されたもので、規正法上の政治団体である。
4 被上告人は、本件決議に先立ち、昭和五一年六月二三日、被上告人の第二〇回定期総会において、税理士法改正運動に要する特別資金とするため、全額を南九各県税政へ会員数を考慮して配付するものとして、会員から特別会費五〇〇〇円を徴収する旨の決議をした。被上告人は、右決議に基づいて徴収した特別会費四七〇万円のうち四四六万円を南九各県税政へ、五万円を南九税政へそれぞれ寄付した。
5 被上告人は、昭和五三年六月一六日、第二二回定期総会において、再度、税理士法改正運動に要する特別資金とするため、各会員から本件特別会費五〇〇〇円を徴収する、納期限は昭和五三年七月三一日とする、本件特別会費は特別会計をもって処理し、その使途は全額南九各県税政へ会員数を考慮して配付する、との内容の本件決議をした。
6 当時の被上告人の特別会計予算案では、本件特別会費を特別会計をもって処理し、特別会費収入を五〇〇〇円の九六九名分である四八四万五〇〇〇円とし、その全額を南九各県税政へ寄付することとされていた。
7 上告人は、昭和三七年一一月以来、被上告人の会員である税理士であるが、本件特別会費を納入しなかった
8 被上告人の役員選任規則には、役員の選挙権及び被選挙権の欠格事由として「選挙の年の三月三一日現在において本部の会費を滞納している者」との規定がある。
9 被上告人は、右規定に基づき、本件特別会費の滞納を理由として、昭和五四年度、同五六年度、同五八年度、同六〇年度、同六二年度、平成元年度、同三年度の各役員選挙において、上告人を選挙人名簿に登載しないまま役員選挙を実施した。

三 上告人の本件請求は、南九各県税政へ被上告人が金員を寄付することはその目的の範囲外の行為であり、そのための本件特別会費を徴収する旨の本件決議は無効であるなどと主張して、被上告人との間で、上告人が本件特別会費の納入義務を負わないことの確認を求め、さらに、被上告人が本件特別会費の滞納を理由として前記のとおり各役員選挙において上告人の選挙権及び被選挙権を停止する措置を採ったのは不法行為であると主張し、被上告人に対し、これにより被った慰謝料等の一部として五〇〇万円と遅延損害金の支払を求めるものである。

四 原審は、前記二の事実関係の下において、次のとおり判断し、上告人の右各請求はいずれも理由がないと判断した。
1 法四九条の一二の規定や同趣旨の被上告人の会則のほか、被上告人の法人としての性格にかんがみると、被上告人が、税理士業務の改善進歩を図り、納税者のための民主的税理士制度及び租税制度の確立を目指し、法律の制定や改正に関し、関係団体や関係組織に働きかけるなどの活動をすることは、その目的の範囲内の行為であり、右の目的に沿った活動をする団体が被上告人とは別に存在する場合に、被上告人が右団体に右活動のための資金を寄付し、その活動を助成することは、なお被上告人の目的の範囲内の行為である。
2 南九各県税政は、規正法上の政治団体であるが、被上告人に許容された前記活動を推進することを存立の本来的目的とする団体であり、その政治活動は、税理士の社会的、経済的地位の向上、民主的税理士制度及び租税制度の確立のために必要な活動に限定されていて、右以外の何らかの政治的主義、主張を掲げて活動するものではなく、また、特定の公職の候補者の支持等を本来の目的とする団体でもない。
3 本件決議は、南九各県税政を通じて特定政党又は特定政治家へ政治献金を行うことを目的としてされたものとは認められず、また、上告人に本件特別会費の拠出義務を肯認することがその思想及び信条の自由を侵害するもので許されないとするまでの事情はなく、結局、公序良俗に反して無効であるとは認められない。本件決議の結果、上告人に要請されるのは五〇〇〇円の拠出にとどまるもので、本件決議の後においても、上告人が税理士法改正に反対の立場を保持し、その立場に多くの賛同を得るように言論活動を行うことにつき何らかの制約を受けるような状況にもないから、上告人は、本件決議の結果、社会通念上是認することができないような不利益を被るものではない。
4 上告人は、本件特別会費を滞納していたものであるから、役員選任規則に基づいて選挙人名簿に上告人を登載しないで役員選挙を実施した被上告人の措置、手続過程にも違法はない。

  五 しかしながら、原審の右判断は是認することができない。その理由は、次のとおりである。
1 税理士会が政党など規正法上の政治団体に金員の寄付をすることは、たとい税理士に係る法令の制定改廃に関する政治的要求を実現するためのものであっても、法四九条二項で定められた税理士会の目的の範囲外の行為であり、右寄付をするために会員から特別会費を徴収する旨の決議は無効であると解すべきである。すなわち、
(一) 民法上の法人は、法令の規定に従い定款又は寄付行為で定められた目的の範囲内において権利を有し、義務を負う(民法四三条)。この理は、会社についても基本的に妥当するが、会社における目的の範囲内の行為とは、定款に明示された目的自体に限局されるものではなく、その目的を遂行する上に直接又は間接に必要な行為であればすべてこれに包含され(最高裁昭和二四年(オ)第六四号同二七年二月一五日第二小法廷判決・民集六巻二号七七頁、同二七年(オ)第一〇七五号同三〇年一一月二九日第三小法廷判決・民集九巻一二号一八八六頁参照)、さらには、会社が政党に政治資金を寄付することも、客観的、抽象的に観察して、会社の社会的役割を果たすためにされたものと認められる限りにおいては、会社の定款所定の目的の範囲内の行為とするに妨げないとされる(最高裁昭和四一年(オ)第四四四号同四五年六月二四日大法廷判決・民集二四巻六号六二五頁参照)。
(二) しかしながら、税理士会は、会社とはその法的性格を異にする法人であって、その目的の範囲については会社と同一に論ずることはできない
税理士は、国税局の管轄区域ごとに一つの税理士会を設立すべきことが義務付けられ(法四九条一項)、税理士会は法人とされる(同条三項)。また、全国の税理士会は、日税連を設立しなければならず、日税連は法人とされ、各税理士会は、当然に日税連の会員となる(法四九条の一四第一、第三、四項)。
税理士会の目的は、会則の定めをまたず、あらかじめ、法において直接具体的に定められている。すなわち、法四九条二項において、税理士会は、税理士の使命及び職責にかんがみ、税理士の義務の遵守及び税理士業務の改善進歩に資するため、会員の指導、連絡及び監督に関する事務を行うことを目的とするとされ(法四九条の二第二項では税理士会の目的は会則の必要的記載事項ともされていない。)、法四九条の一二第一項においては、税理士会は、税務行政その他国税若しくは地方税又は税理士に関する制度について、権限のある官公署に建議し、又はその諮問に答申することができるとされている。
また、税理士会は、総会の決議並びに役員の就任及び退任を大蔵大臣に報告しなければならず(法四九条の一一)、大蔵大臣は、税理士会の総会の決議又は役員の行為が法令又はその税理士会の会則に違反し、その他公益を害するときは、総会の決議についてはこれを取り消すべきことを命じ、役員についてはこれを解任すべきことを命ずることができ(法四九条の一八)、税理士会の適正な運営を確保するため必要があるときは、税理士会から報告を徴し、その行う業務について勧告し、又は当該職員をして税理士会の業務の状況若しくは帳簿書類その他の物件を検査させることができる(法四九条の一九第一項)とされている。
さらに、税理士会は、税理士の入会が間接的に強制されるいわゆる強制加入団体であり、法に別段の定めがある場合を除く外、税理士であって、かつ、税理士会に入会している者でなければ税理士業務を行ってはならないとされている(法五二条)。
(三) 以上のとおり、税理士会は、税理士の使命及び職責にかんがみ、税理士の義務の遵守及び税理士業務の改善進歩に資するため、会員の指導、連絡及び監督に関する事務を行うことを目的として、法が、あらかじめ、税理士にその設立を義務付け、その結果設立されたもので、その決議や役員の行為が法令や会則に反したりすることがないように、大蔵大臣の前記のような監督に服する法人である。また、税理士会は、強制加入団体であって、その会員には、実質的には脱退の自由が保障されていない(なお、前記昭和五五年法律第二六号による改正により、税理士は税理士名簿への登録を受けた時に、当然、税理士事務所の所在地を含む区域に設立されている税理士会の会員になるとされ、税理士でない者は、この法律に別段の定めがある場合を除くほか、税理士業務を行ってはならないとされたが、前記の諸点に関する法の内容には基本的に変更がない。)。
税理士会は、以上のように、会社とはその法的性格を異にする法人であり、その目的の範囲についても、これを会社のように広範なものと解するならば、法の要請する公的な目的の達成を阻害して法の趣旨を没却する結果となることが明らかである。
(四) そして、税理士会が前記のとおり強制加入の団体であり、その会員である税理士に実質的には脱退の自由が保障されていないことからすると、その目的の範囲を判断するに当たっては、会員の思想・信条の自由との関係で、次のような考慮が必要である。
税理士会は、法人として、法及び会則所定の方式による多数決原理により決定された団体の意思に基づいて活動し、その構成員である会員は、これに従い協力する義務を負い、その一つとして会則に従って税理士会の経済的基礎を成す会費を納入する義務を負う。しかし、法が税理士会を強制加入の法人としている以上、その構成員である会員には、様々の思想・信条及び主義・主張を有する者が存在することが当然に予定されている。したがって、税理士会が右の方式により決定した意思に基づいてする活動にも、そのために会員に要請される協力義務にも、おのずから限界がある。
特に、政党など規正法上の政治団体に対して金員の寄付をするかどうかは、選挙における投票の自由と表裏を成すものとして、会員各人が市民としての個人的な政治的思想、見解、判断等に基づいて自主的に決定すべき事柄であるというべきである。なぜなら、政党など規正法上の政治団体は、政治上の主義若しくは施策の推進、特定の公職の候補者の推薦等のため、金員の寄付を含む広範囲な政治活動をすることが当然に予定された政治団体であり(規正法三条等)、これらの団体に金員の寄付をすることは、選挙においてどの政党又はどの候補者を支持するかに密接につながる問題だからである。
法は、四九条の一二第一項の規定において、税理士会が、税務行政や税理士の制度等について権限のある官公署に建議し、又はその諮問に答申することができるとしているが、政党など規正法上の政治団体への金員の寄付を権限のある官公署に対する建議や答申と同視することはできない。
(五) そうすると、前記のような公的な性格を有する税理士会が、このような事柄を多数決原理によって団体の意思として決定し、構成員にその協力を義務付けることはできないというべきであり(最高裁昭和四八年(オ)第四九九号同五〇年一一月二八日第三小法廷判決・民集二九巻一〇号一六九八頁参照)、税理士会がそのような活動をすることは、法の全く予定していないところである。税理士会が政党など規正法上の政治団体に対して金員の寄付をすることは、たとい税理士に係る法令の制定改廃に関する要求を実現するためであっても、法四九条二項所定の税理士会の目的の範囲外の行為といわざるを得ない
2 以上の判断に照らして本件をみると、本件決議は、被上告人が規正法上の政治団体である南九各県税政へ金員を寄付するために、上告人を含む会員から特別会費として五〇〇〇円を徴収する旨の決議であり、被上告人の目的の範囲外の行為を目的とするものとして無効であると解するほかはない。
原審は、南九各県税政は税理士会に許容された活動を推進することを存立の本来的目的とする団体であり、その活動が税理士会の目的に沿った活動の範囲に限定されていることを理由に、南九各県税政へ金員を寄付することも被上告人の目的の範囲内の行為であると判断しているが、規正法上の政治団体である以上、前判示のように広範囲な政治活動をすることが当然に予定されており、南九各県税政の活動の範囲が法所定の税理士会の目的に沿った活動の範囲に限られるものとはいえない。因みに、南九各県税政が、政治家の後援会等への政治資金、及び政治団体である南九税政への負担金等として相当額の金員を支出したことは、原審も認定しているとおりである。

六 したがって、原審の判断には法令の解釈適用を誤った違法があり、右の違法は判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、論旨は理由があり、その余の論旨について検討するまでもなく、原判決は破棄を免れない。そして、以上判示したところによれば、上告人の本件請求のうち、上告人が本件特別会費の納入義務を負わないことの確認を求める請求は理由があり、これを認容した第一審判決は正当であるから、この部分に関する被上告人の控訴は棄却すべきである。また、上告人の損害賠償請求については更に審理を尽くさせる必要があるから、本件のうち右部分を原審に差し戻すこととする。
よって、民訴法四〇八条、三九六条、三八四条、四〇七条一項、九六条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

+++解説
二 甲は、本件訴訟を提起し、公的性質をもつ強制加入団体である税理士会乙が規正法上の政治団体である南九各県税政へ金員を寄付するのは税理士会の目的の範囲外の行為であって、そのために会員から特別会費を徴収する旨の本件決議は、結局、特定の政党や候補者への寄付を会員に強制することになり、反対の意思を有していた甲の思想、信条の自由(憲法一九条)を侵害するもので無効である、本件特別会費の滞納を理由として役員選挙における甲の選挙権及び被選挙権を停止した乙の措置は不法行為である、などと主張して、乙に対し、① 本件特別会費五〇〇〇円の納入義務が存在しないことの確認、② 損害賠償として慰謝料五〇〇万円等の支払を求めた。
乙は、税理士法改正について政治的活動をすることは、税理士の社会的経済的地位の向上を図ることに直結するから、税理士会自体が右政治的活動をすることは無論、右の政治活動を行うことを目的とする南九各県税政に寄付をすることも乙の権利能力の範囲内の行為である、などと主張した。

三 第一審判決(本誌五八四号七六頁)は、詳細な理由説示をして、本件決議は、乙が権利能力を有しない事柄を内容とする議案につき決議したもので民法四三条に違反して無効である、仮に有効であるとしても、本件決議に反対していた甲に本件特別会費の納入を強制することはできない、甲についての役員の選挙権、被選挙権の停止措置はXに対する不法行為である、などと判断し、甲の①の請求を認め、②の請求も一五〇万円と遅延損害金の限度で認めた。
原審判決(本誌七八六号一一九頁)は、一審とは逆に、甲の①②の請求を全部排斥した。その判断の要旨は、(1) 本件決議は、本件特別会費をもって南九各県税政を通じて特定政党又は特定政治家へ政治献金を行うことを目的としてされたものとは認められない、(2) 政治団体である南九各県税政への寄付は、乙の目的の範囲外の行為であるとはいえない、(3) 本件決議により甲に本件特別会費の拠出義務を肯認することが、甲の思想、信条の自由を侵害するもので許されないとするまでの事情はなく、本件決議が公序良俗に反して無効であるとは認められない、(4) 本件決議により乙が南九各県税政へ寄付をし、南九各県税政が特定の政治家の後援会等に寄付をすると、本件特別会費の支出が、結局、特定政治家の一般的な政治的立場の支援になるという関係が生じないわけではないが、それは迂遠且つ希薄である、(5) 甲は、本件特別会費を滞納していたから、選挙人名簿に甲を登載しないで役員選挙を実施した乙の措置等にも違法はない、というものであった。
甲から上告。上告理由は多岐にわたるが、本判決が問題とするのは、税理士会が政党など規正法上の政治団体に金員の寄付をすることが税理士会の目的の範囲外の行為かどうか、そのために会員から特別会費を徴収する旨の決議が無効かどうかについての点である。

四 本判決は、前記判決要旨のとおり判断し、原判決を破棄して、甲の①の請求は理由があるとして自判し、②の請求についてはさらに審理を尽くさせる必要があるとして原審に差し戻した。

五 ところで、八幡製鉄政治献金事件の最高裁大法廷判決(①最大判昭45・6・24民集二四巻六号六二五頁、本誌二四九号一一六頁)は、営利法人である会社が政党にする政治献金と国民の選挙権その他の参政権との関係につき、会社は、自然人たる国民と同様に、国や政党の特定の政策を支持、推進しまたは反対するなどの政治的行為をなす自由を有し、政治資金の寄付もまさにその自由の一環であり、会社によってそれがなされた場合、政治の動向に影響を与えることがあったとしても、これを自然人たる国民による寄付と別異に扱うべき憲法上の要請があるものではない、などと判示するとともに、会社の構成員が政治的信条を同じくするものでないとしても、会社による政治資金の寄付が、特定の構成員の利益を図りまたその政治的志向を満足させるためではなく、社会の一構成単位たる立場にある会社に対し期待ないし要請されるかぎりにおいてなされるものである以上、会社にそのような政治資金の寄付をする能力がないとはいえないなどと判示し、結局、会社が政党に政治献金をすることも、客観的、抽象的に観察して、会社の社会的役割を果たすためにされたものと認められる限りにおいては、会社の定款所定の目的の範囲内の行為とするに妨げないと判断した。
その後、国労広島地方本部事件の最高裁判決(②最三小判昭50・11・28民集二九巻一〇号一六九八頁、本誌三三〇号二一三頁)は、労働組合の構成員の協力義務について、選挙においてどの政党又はどの候補者を支持するかは、投票の自由と表裏をなすもので、個人が市民としての個人的な政治思想、見解、判断ないしは感情等に基づいて自主的に決定すべき事柄であるから、労働組合(国労)が、総選挙において出身候補者の支持を決定し、右立候補者の所属政党に国労政治連盟を通じて寄付をするため、臨時組合費を徴収する決議をしたとしても、組合員は右臨時組合費を納付する義務を負わないと判断し、構成員個人の思想、信条の自由の観点から労働組合の構成員の協力義務に一定の限界を認めた。

六 本判決は、法で設立が義務付けられ、その目的も法で特定されている税理士会について、その目的の範囲について会社と同一に論ずることはできないとした上、法に具体的に規定されている税理士会の目的の範囲の内容を検討し、税理士会がいわゆる強制加入団体であって、会員には様々の思想、信条の者がいることが当然に予定されているところから、法が予定した税理士会の活動の範囲にも限界があるもので、税理士会が政党など規正法上の政治団体に金員の寄付をすることは、会員個人が市民としての個人的な政治的思想、見解等に基づいて自主的に決定すべき事柄であり、かような事柄を税理士会が多数決原理によって団体の意思として決定し、構成員にその協力を義務付けることはできないだけでなく、そもそも税理士会がそのような活動をすることを法は全く予定していないと解し、結局、そのような行為は目的の範囲外の行為であると判断したものである。

七 すでに、大阪合同税理士会を被告として、右税理士会に所属する税理士らが、本件と同様の主張をして、納入した特別会費分の不当利得返還請求をした事案について、最高裁(最一小判平5・5・27本誌八四二号一二〇頁)は、原告らの請求を排斥した原審の判断を維持する判決をした(要件事実の構成が不十分であったため、法廷意見はその点を説示して上告棄却した。)。三好裁判官は、右判決の補足意見において、税理士会が政治活動をし、又は政治団体に対し金員を拠出することは、たとい税理士に係る法令の制定改廃に関してであっても、構成員である税理士会の政治活動の自由を侵害する結果となることを免れず、税理士会の権利能力の範囲を逸脱することは明らかである、との判断を明らかにしている。
本判決の判断も、結論的には三好補足意見と同旨であり、その理由も基本的には三好補足意見と同趣旨の部分が多いが、細部については若干異なる説示もみられる。まず、三好補足意見が、営利を目的としない団体についても、それが任意加入団体である限り①の八幡製鉄政治献金事件の大法廷判決の判断が原則として妥当すると解しているのに対し、本判決は、会社については①の判例がある旨説示するだけで、会社以外の公益法人について右判例が妥当するとの説示はない。むしろ、本判決の理由においては、①の判例を引用しながらも、これとは一歩距離を置いたともみられる説示がされている。また、三好補足意見は、金員の寄付以外の税理士会の政治活動一般についても、構成員の政治活動の自由の観点から問題にしているのに対し、本判決は、政党など政治団体の活動一般に対する支援になる金員の寄付に限って説示しており、税理士会のその他の政治活動については触れていない(法四九条の一二第一項の「建議」以外にも、その延長線上にある政治的アピールの範囲内で政治的活動が可能であるとする見解として西鳥羽和明・判評四三二号五六頁がある。)。

八 会社についての前記①の判例には、わが国の政治の現状に対する評価とも関連して様々の批評があるが(純粋に法的な視点からの近時の批判として武藤春光・商事一三四三号三七頁)、右の判決の理由説示には法人の構成員(株主)の個人的な思想・信条の自由に対する配慮は特に窺えない。労働組合についての前記②の判例は、労働組合の活動については、その範囲を民法四三条の目的の範囲で制約せずに広く解した上で、労働組合と組合員との関係では、多数決の原理に基づくその統制力をもってしても、投票の自由と表裏をなすような、組合員個人が市民としての個人的な思想等に基づいて自主的に決定すべき事柄について、労働組合が組合員の協力を強制することはできないと判断したもので、これは、団体の多数決原理による決議や活動にも憲法で保障された構成員の思想信条との関係からの制約があることを前提とした注目すべき重要な判断であったといえる。
対象とする団体の法的性質はそれぞれ異なり、構成員の脱退の自由や困難性の問題もあるが、①②の各判例の理由説示と本判決の理由説示を比較してみると、①の判例が法人実在説的な考え方を徹底させた説示をしているのに対し、②の判例や本判決は、法人が行う政治活動とその構成員個人の思想・信条の自由という問題について、憲法で保障された個々の構成員の思想信条の自由を重視した説示がされていることが注目される。

九 平成六年の政治改革関連の法改正の一つとしての政治資金規正法の改正により、会社、労組その他の団体(税理士会も含まれる。)は、政党、政治資金団体及び資金管理団体以外の政治団体(税理士政治連盟のようないわばトンネル機関としての政治団体も含まれる。)に政治献金をすることが禁止されるに至った。しかし、右改正の後も、法律の明文上は、税理士会が政党や政治資金団体に対して政治献金をすることを禁止した規定は存在しない。
本判決は、税理士会が政党などの規制法上の政治団体に金員の寄付をすることがその目的の範囲外の行為であると判断した初めての最高裁判決であり、その判断は、税理士会のような公的性格を有する法人の政治献金の問題のみならず、前記のとおり、法人の活動とその構成員の思想・信条の自由の問題についての最高裁としての極めて重要な判断ということができると思われる。

・税理士会は公益法人であり、また、その会員である税理士に実質的に脱退の事由が認められていないから、税理士会がする政治資金規正法上の政治団体に対する政治献金は、それが税理士法改正にかかわるものであったとしても、税理士会の目的の範囲外の行為と解される!!!

・群馬司法書士会事件
+判例(H14.4.25)
理由
上告代理人樋口和彦、同大谷豊、同平山知子及び同遠藤秀幸、上告人ら並びに上告補助参加人の各上告受理申立て理由について
1 本件は、司法書士法一四条に基づいて設立された司法書士会である被上告人が、阪神・淡路大震災により被災した兵庫県司法書士会に三〇〇〇万円の復興支援拠出金(以下「本件拠出金」という。)を寄付することとし、その資金は役員手当の減額等による一般会計からの繰入金と被上告人の会員から登記申請事件一件当たり五〇円の復興支援特別負担金(以下「本件負担金」という。)の徴収による収入をもって充てる旨の総会決議(以下「本件決議」という。)をしたところ、被上告人の会員である上告人らが、(1)本件拠出金を寄付することは被上告人の目的の範囲外の行為であること、(2)強制加入団体である被上告人は本件拠出金を調達するため会員に負担を強制することはできないこと等を理由に、本件決議は無効であって会員には本件負担金の支払義務がないと主張して、債務の不存在の確認を求めた事案である。
2 原審の適法に確定したところによれば、本件拠出金は、被災した兵庫県司法書士会及び同会所属の司法書士の個人的ないし物理的被害に対する直接的な金銭補てん又は見舞金という趣旨のものではなく、被災者の相談活動等を行う同司法書士会ないしこれに従事する司法書士への経済的支援を通じて司法書士の業務の円滑な遂行による公的機能の回復に資することを目的とする趣旨のものであったというのである。
司法書士会は、司法書士の品位を保持し、その業務の改善進歩を図るため、会員の指導及び連絡に関する事務を行うことを目的とするものであるが(司法書士法一四条二項)、その目的を遂行する上で直接又は間接に必要な範囲で、他の司法書士会との間で業務その他について提携、協力、援助等をすることもその活動範囲に含まれるというべきである。そして、三〇〇〇万円という本件拠出金の額については、それがやや多額にすぎるのではないかという見方があり得るとしても、阪神・淡路大震災が甚大な被害を生じさせた大災害であり、早急な支援を行う必要があったことなどの事情を考慮すると、その金額の大きさをもって直ちに本件拠出金の寄付が被上告人の目的の範囲を逸脱するものとまでいうことはできない。したがって、兵庫県司法書士会に本件拠出金を寄付することは、被上告人の権利能力の範囲内にあるというべきである。
そうすると、被上告人は、本件拠出金の調達方法についても、それが公序良俗に反するなど会員の協力義務を否定すべき特段の事情がある場合を除き、多数決原理に基づき自ら決定することができるものというべきである。これを本件についてみると、被上告入がいわゆる強制加入団体であること(同法一九条)を考慮しても、本件負担金の徴収は、会員の政治的又は宗教的立場や思想信条の自由を害するものではなく、また、本件負担金の額も、登記申請事件一件につき、その平均報酬約二万一〇〇〇円の0.2%強に当たる五〇円であり、これを三年間の範囲で徴収するというものであって、会員に社会通念上過大な負担を課するものではないのであるから、本件負担金の徴収について、公序良俗に反するなど会員の協力義務を否定すべき特段の事情があるとは認められない。したがって、本件決議の効力は被上告人の会員である上告人らに対して及ぶものというべきである。
3 以上と同旨の原審の判断は、正当として是認することができる。原判決に所論の違法はなく、論旨は、いずれも採用することができない。
よって、裁判官深澤武久、同横尾和子の各反対意見があるほか、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

+反対意見
裁判官深澤武久の反対意見は、次のとおりである。
1 私は、本件拠出金の寄付が被上告人の目的の範囲を逸脱するものではなく、その調達方法についても、会員の協力義務を否定すべき特段の事情は認められないとし、また、被上告人が強制加入団体であることを考慮しても、本件負担金の徴収は、会員の政治的又は宗教的立場や思想信条の自由を害するものではなく、会員に社会通念上過大な負担を課するものではない、とする法廷意見に賛同することができない。
その理由は次のとおりである。
2(1) 司法書士となる資格を有する者が司法書士となるには、その者が事務所を設けようとする地を管轄する法務局又は地方法務局の管轄区域内に設立された司法書士会を経由して日本司法書士会連合会に登録をしなければならない(司法書士法六条一項、六条の二第一項)。登録をしないで司法書士の業務を行った場合は一年以下の懲役又は三〇万円以下の罰金が定められている(同法一九条一項、二五条一項)。このように被上告人は、司法書士になろうとする者に加入を強制するだけでなく、会員が司法書士の業務を継続する間は脱退の自由を有しない公的色彩の強い厳格な強制加入団体である。
(2) このことは会員の職業選択の自由、結社の自由を制限することになるが、これは司法書士法が、司法書士の業務の適正を図り、国民の権利の保全に寄与することを目的とし(同法一条)、司法書士会が業務の改善を図るため会員の指導・連絡に関する事務を行う(同法一四条二項)という公共の福祉の要請による規制として許容されているのである。このように公的な性格を有する司法書士会は、株式会社等営利を目的とする法人とは法的性格を異にし、その目的の範囲も会の目的達成のために必要な範囲内で限定的に解釈されなければならない
(3) 被上告人も社会的組織として相応の社会的役割を果たすべきものであり、本件拠出金の寄付も相当と認められる範囲においてその権利能力の範囲内にあると考えられる。ところで、本件決議当時、被上告人の会員は二八一名で年間予算は約九〇〇〇万円であり、経常費用に充当される普通会費は一人月額九〇〇〇円でその年間収入は三〇三四万八〇〇〇円であるから、本件拠出金は、被上告人の普通会費の年間収入にほぼ匹敵する額であり、被上告人より多くの会員を擁すると考えられる東京会の五〇〇万円、広島会の一〇〇〇万円、京都会の一〇〇〇万円の寄付に比して突出したものとなっている。これに加えて被上告人は本件決議に先立ち、一般会計から二〇〇万円、会員からの募金一〇〇万円とワープロ四台を兵庫県司法書士会に寄付している。司法書士会設立の目的、法的性格、被上告人の規模、財政状況(本件記録によれば、被上告人においては、平成七年一月頃、同年度の予算編成について、会費の増額が話題になったこともうかがえる。)などを考慮すれば、本件拠出金の寄付は、その額が過大であって強制加入団体の運営として著しく慎重さを欠き、会の財政的基盤を揺るがす危険を伴うもので、被上告人の目的の範囲を超えたものである。
3(1) 被上告人は2(1)のような性格を有する強制加入団体であるから、多数決による決定に基づいて会員に要請する協力義務にも自ずから限界があるというべきである。
(2) 本件決議は、本件拠出金の調達のために特別負担金規則を改正して、従前の取扱事件数一件につき二五〇円の特別負担金に、復興支援特別負担金として五〇円を加えることとしたのであるが、決議に従わない会員に対しては、会長が随時注意を促し、注意を受けた会員が義務を履行しないときはその一〇倍相当額を会に納入することを催告するほか、会則に、ア 被上告人の定める顕彰規則による顕彰を行わない、イ 共済規則が定める傷病見舞金、休業補償金、災害見舞金、脱会一時金の共済金の給付及び共済融資を停止し、既に給付又は貸付を受けた者は直ちにその額を返還しなければならない、ウ 注意勧告を行ったときは、被上告人が備える会員名簿に注意勧告決定の年月日及び決定趣旨を登載することなどの定めがあり、また、総会決議の尊重義務を定めた会則に違反するものとして、その司法書士会の事務所の所在地を管轄する法務局又は地方法務局の長に報告し(司法書士法一五条の六、一六条)、同法務局又は地方法務局の長の行う懲戒の対象(同条一二条)にもなり得るのである。
(3) 本件拠出金の寄付は、被上告人について法が定める本来の目的(同法一四条二項)ではなく、友会の災害支援という間接的なものであるから、そのために会員に対して(2)記載のような厳しい不利益を伴う協力義務を課することは、目的との間の均衡を失し、強制加入団体が多数決によって会員に要請できる協力義務の限界を超えた無効なものである
4 以上のとおり、本件決議は、被上告人の目的の範囲を逸脱し、かつ、本件負担金の徴収は多数決原理によって会員に協力を求め得る限界を超えた無効なものであるから、これと異なる原判決は破棄し、被上告人の控訴は理由がないものとして棄却すべきである。

+反対意見
裁判官横尾和子の反対意見は、次のとおりである。
私は、本件拠出金を寄付することは被上告人の目的の範囲外の行為であると考える。その理由は、次のとおりである。
司法書士法一四条二項は、「司法書士会は、司法書士の品位を保持し、その業務の改善進歩を図るため、会員の指導及び連絡に関する事務を行うことを目的とする。」と規定している。この定めは、基本的には、当該司法書士会の会員である同司法書士を対象とするものであるが、司法書士業務の改善進歩を図るために、被災した他の司法書士会又はその会員に見舞金を寄付することも、それが社会的に相当と認められる応分の寄付の範囲内のものである限り、司法書士会の権利能力の範囲内にあるとみる余地はある。しかしながら、原審が適法に確定した事実関係によれば、<1>本件決議がされた前後の被上告人の年間予算は約九〇〇〇万円であった、<2>本件決議以前に発生した新潟地震や北海道奥尻島沖地震、長崎県雲仙普賢岳噴火災害等の災害に対し儀礼の範囲を超える義援金が送られたことはない、<3>被上告人の会員について火災等の被災の場合拠出される見舞金は五〇万円である(共済規則一八条)というのであり、このような事実を考慮すると、後記のような趣旨、性格を有する本件の三〇〇〇万円の寄付は、社会的に相当と認められる応分の寄付の範囲を大きく超えるものであるといわざるを得ず、それが被上告人の権利能力の範囲内にあるとみることはできないというべきである。
原審が適法に確定した事実関係によれば、<1>本件決議の決議案の提案理由(平成七年二月一〇日ころ臨時総会の開催通知とともに被上告人の会員に送付された。)及び本件決議の行われた臨時総会議事録によれば、本件決議案の提案理由の中には、「被災会員の復興に要する費用の詳細は(中略)、最低一人当たり数百万円から千万円を超える資金が必要になると思われる。」との記載があり、被災司法書士事務所の復興に要する費用をおよそ三五億円とみて、その半額を全国の司法書士会が拠出すると仮定して被上告人の拠出金額三〇〇〇万円を試算していること等からすると、本件拠出金の使途としては、主として被災司法書士の事務所再建の支援資金に充てられることが想定されていたとみる余地がある、<2>本件拠出金については、その後、司法書士会又は司法書士の機能の回復に資することを目的とするものであるという性格付けがされていったとしても、前記のように試算した三〇〇〇万円という金額は変更されなかった、<3>本件拠出金の具体的な使用方法は、挙げて寄付を受ける兵庫県司法書士会の判断運用に任せたものであったというのであり、このような事実等によれば、本件拠出金については、被災した司法書士の個人的ないし物理的被害に対する直接的な金銭補てんや見舞金の趣旨、性格が色濃く残っていたものと評価せざるを得ない。
よって、本件拠出金を寄付することが被上告人の権利能力の範囲内であるとして上告人らの請求を棄却した原判決はこれを破棄し、上記と同旨の第一審の判断は正当であるから、被上告人の控訴は理由がないものとして棄却すべきである。

++解説
一 事案の概要
1 本件は、司法書士会である被告(被上告人)がした、阪神大震災により被災した兵庫県司法書士会に三〇〇〇万円の復興支援拠出金を送金するために、被告の会員から登記申請一件当たり五〇円の復興支援特別負担金の徴収を行う旨の総会決議について、被告の会員である原告(上告人)らが、同決議は無効であると主張して、同決議に基づく債務の不存在確認を求めた事案である。
なお、司法書士会は、司法書士法一四条により、法務局又は地方法務局の管轄区域ごとに設立が義務づけられている団体であり、司法書士会に入会している司法書士でない者は司法書士の業務を行ってはならないとされている(同法一九条一項)。
2 原告らの主張は、次のとおりである。
① 本件拠出金の支出は被告の目的の範囲外の行為であるから、本件決議は無効である。
② 義務なき行為を強制する本件決議は、強制加入の公益法人としてなし得る範囲を超えており、法律に基づかずに原告らの財産権を侵害するものであり、さらに、強制される者の思想・信条を害するものであるから、公序良俗に反し無効である。
3 一審の前橋地裁は、本件拠出金の支出は司法書士法一四条二項所定の司法書士会の目的の範囲外の行為であるなどとして、原告らの請求を認容した。これに対し、二審の東京高裁は、本件拠出金は、被災司法書士会・司法書士の業務の円滑な遂行を経済的に支援することにより、司法書士会・司法書士の機能の回復に資することを目的とするもので、その使途目的及び拠出方法の公的性格に着目していうならば、被告からの「公的支援金」ともいえるものであるとした上で、これを司法書士会の目的の範囲内の行為であると認め、多数決によりそれが決定された以上は、これに反対の意見をもつ会員にも協力義務があると判断して、一審判決を取り消し、原告らの請求を棄却した。
4 上告受理申立ての理由は、民法四三条、九〇条、司法書士法一四条二項等の解釈適用の誤り、判例違反などをいうものであった

二 本判決は、司法書士会は、司法書士の品位を保持し、その業務の改善進歩を図るため、会員の指導及び連絡に関する事務を行うことを目的とするものであるが(司法書士法一四条二項)、その目的を遂行する上で直接又は間接に必要な範囲で、他の司法書士会との間で業務その他について提携、協力、援助等をすることもその活動範囲に含まれるというべきであるとして、兵庫県司法書士会に本件拠出金を寄付することは、被告の権利能力の範囲内にあるというべきであるとした上で、被告がいわゆる強制加入団体であることを考慮しても、本件負担金の徴収は会員の政治的又は宗教的立場や思想信条の自由を害するものではなく、また、本件負担金の額も会員に社会通念上過大な負担を課するものではないから、本件負担金の徴収について公序良俗に反するなど会員の協力義務を否定すべき特段の事情があるとは認められず、本件決議の効力は被告の会員である原告らに対して及ぶとして、本件上告を棄却した。
なお、本判決には、深澤裁判官及び横尾裁判官の各反対意見がある。深澤裁判官の反対意見は、本件拠出金の寄付は、被告の目的の範囲を超えるものであり、また、強制加入団体が多数決によって会員に要請できる協力義務の限界を超えた無効なものであるというものである。横尾裁判官の反対意見は、本件拠出金の寄付は被告の目的の範囲外の行為であるというものである。

三1 まず、本件拠出金の寄付は被告の目的の範囲内の行為であるか、という点については、法人は、法令の規定に従い定款又は寄付行為で定められた目的の範囲内において権利を有し、義務を負う(民法四三条)のであるが、その目的の範囲内の行為とは、定款等に目的として記載された個々の行為に限られるものではなく、その目的達成のために必要な行為についても、一定の範囲でこれに包含されるものと解するのが通説(我妻榮・新訂民法総則一五七頁等参照)であり、判例の基本的立場でもあるところ、本判決はこれと同旨をいうものである。司法書士法一四条二項に規定する「司法書士の品位を保持し、その業務の改善進歩を図るため」という目的の対象となるのは基本的には当該司法書士会の会員たる司法書士であるとしても、他の司法書士会又はその会員への支援によって司法書士全体の品位を保持し、その業務の改善進歩を図ること等は、自己の会員の品位を保持する等という目的の達成に資すると考えることもできるのであるから、被災した他の司法書士会又はその会員に対する支援も、それが、被災者の相談活動等を行う司法書士への経済的支援を通じて司法書士の業務の円滑な遂行による公的機能の回復に資することを目的とする趣旨のものであったという本件の事実関係の下においては、上記の目的達成に必要な行為として、被告の目的の範囲に含まれると解することができると考えられる。
ところで、司法書士会は、法律によってその設立が義務付けられた強制加入団体であって、その会員には実質的には脱退の自由が保障されていない。司法書士会のこのような法的性格は、税理士会等とよく似ている。そこで、「税理士会が政党など政治資金規正法上の政治団体に金員を寄付することは、税理士会の目的の範囲外の行為である。」とした最三小判平8・3・19民集五〇巻三号六一五頁(南九州税理士会政治献金事件)との関係が問題となる。しかしながら、被災した司法書士会又は司法書士のために復興支援拠出金を支出することは、政党など政治資金規正法上の政治団体に対して金員の寄付をすることとは性質の大きく異なる行為であると考えられる。すなわち、政党など政治資金規正法上の政治団体に金員の寄付をするかどうかは、選挙においてどの政党又はどの候補者を支持するかに密接につながる問題であり、選挙における投票の自由と表裏を成すものとして、会員各人がその政治的思想等に基づいて自主的に決定すべき事柄である。これに対し、阪神大震災により被災した兵庫県司法書士会に対して復興支援拠出金を寄付することは、特定の政治的立場を支援するものではないのであるから、必ずしも会員各人がその個人的な思想等に基づいて自主的に決定しなければならない事柄ではなく、司法書士会が団体として決定することができる事柄であると考えられる。
この点に関して、同旨を述べるものとして、西原博史・法教二三四号別冊・セレクト’99(憲法)六頁、市川正人・ジュリ一一七九号一〇頁、甲斐道太郎・NBL六二五号五九頁、山田創一・山梨学院大学法学論集三九巻一八八頁、倉田原志・法セ五三九号一〇七頁等があり、反対の見解を述べるものとして、大野秀夫・判評四七四号四一号、渡辺康行・法教二一二号三六頁がある。また、参考となるその他の判例として、いわゆるスパイ活動防止法に反対する総会決議をすることが日弁連の権利能力の範囲内にあるとした東京高判平4・12・21自正四四巻二号九九頁及びその上告審判決である最二小判平10・3・13自正四九巻五号二一三頁、弁護士会は、警察官の特別公務員暴行陵虐被告事件につき、弁護士会自身として告発をし、付審判請求をする権能を有すると判示した最三小決昭36・12・26刑集一五巻一二号二〇五八頁、本誌一二六号五〇頁等がある。
2 次に、原告らは本件決議に従うべき義務を負うか、という点については、構成員個人の思想、信条の自由の観点から労働組合の構成員の協力義務に一定の限界を認めた最三小判昭50・11・28民集二九巻一〇号一六九八頁、本誌三三〇号二一三頁(国労広島地方本部事件)との関係が問題となる。この判例は、労働組合が、いわゆる安保反対闘争実施の費用として、又は公職選挙に際し特定の立候補者の選挙運動支援のためその所属政党に寄付する資金として、徴収する臨時組合費について、このような政治的要求に賛成するか反対するか、又は選挙においてどの政党を支持するかは、本来、組合員各人が市民としての個人の思想、見解、判断等に基づいて自主的に決定すべき事柄であるから、組合員に対して協力を強制することはできないとしたものである。しかし、本件の復興支援拠出金の支出は、阪神大震災で被災した兵庫県司法書士会に対してされるものであり、政治的活動に対する積極的協力の強制や、一定の政治的立場に対する支持表明の強制などとは異なり、この拠出金について一定の負担を強制しても、会員個人の思想、信条等に関係する程度は軽微なものであるから、本件はこの判例とは事案を異にするものである。また、本件決議によって会員に課される負担が不当に重いものであるなどの事情もないのであるから、そのような観点からも、これへの協力を強制することが公序良俗違反になるとはいえない。
四 本判決の判示する内容は、特に目新しいものでないが、これまでに問題となった前記各判例の事例とは異なり、被災した他の司法書士会に対する寄付の当否が問題となったものであって、事例的な意義があり、また、二人の裁判官の反対意見が付されていることからも、注目されるべき判例であると考えられる。
なお、司法書士法は、本判決が言い渡された後の平成一四年五月七日に公布された同年法律第三三号(施行日平成一五年四月一日)によって改正され、一四条は、若干の修正の上五二条とされている。