・特別権力関係論とは、特別の公法上の原因によって成立する公権力と国民との特別の法律関係を「特別権力関係」という概念でとらえるものである。この理論には、公権力は包括的な支配権を有し、個々の場合に法律の根拠なくして特別権力関係に属する私人を包括的に支配できること(法治主義の廃除)、特別権力関係内部における公権力の行為は原則として司法審査に服さないこと(司法審査の廃除)が含まれる!!!
・伝統的な公法学では、特別権力関係は肯定されてきた。しかし、現在このような関係は認められておらず、公務員の人権制約は、国民全体の共同利益を図るための必要かつやむを得ない制約であると考えられている。
+++解説
まず、日本国憲法では「法の支配」を採用しています。「基本的人権の尊重」という基本原理があり、法律の根拠なく人権を制限することなど認められるものではありません。また、裁判所が人権制限による救済に関与できないというのも、「法の支配」の原理に沿ったものではありません。もうひとつ、「三権分立」の観点からも矛盾があると言えるでしょう。議会の制定した法律のコントロールが利かないなんて、三権分立の原理から逸脱しています。
41条では、国会は唯一の立法機関であると謳っています。にもかかわらず、特別権力関係内部において規律なるものを勝手に定めて人権制限してしまっては、法律以外の規範で人権を支配することになり、41条違反の余地を大きく残すことになるわけですね。
以上の理由より、特別権力関係理論は日本国憲法下においては妥当し得るものではないと言えます。
個別・具体的な検討は必要
ただ、公務員や在監者は、その立場から考えて、一般の国民と比べて一定の人権制約はやむを得ないのではないかという問題意識もあります。同等の人権保障では何らかの支障をきたす場合が起こり得るのではないかと。
そこで、今日において特別権力関係理論は否定するが、公務員や在監者というような特別の法律関係に入った者について、それぞれの法律関係において、いかなる人権が、いかなる根拠からどの程度制約されるのかを、個別・具体的に考えていこうという考え方が採用されています。
+第41条
国会は、国権の最高機関であつて、国の唯一の立法機関である。
・特別権力関係が成立する場合、法律の規定に基づくものと本人の同意に基づくものとがある。そして、公務員の在勤関係は、本人の同意に基づくものとされる!
・特別権力関係には、本質的な問題がある。それは、特別権力関係に属する者が一般国民としての地位に何らかの修正を受ける点で共通の特色を持つにとどまるにもかかわらず、権力服従性という形式的要素によって包括し、人権制約を一般的・観念的に許容する点である!
・裁判官による積極的な政治活動の禁止の目的は、裁判官の独立及び中立・公正の確保に対する国民の信頼の維持、そして、司法と立法・行政とのあるべき関係を規律することであるので、その要請は、一般職の国家公務員に対する政治的行為の禁止の要請よりも強いものというべきである!!!!
+判例(H10.12.1)寺西判事補戒告事件
理由
第一 懲戒についての認定判断
一 懲戒の原因となる事実等
1 本件に至る経緯
(一)抗告人は、平成五年四月九日付けで判事補に任命され、同一〇年四月一日以降、仙台地方裁判所判事補兼仙台家庭裁判所判事補、仙台簡易裁判所判事の職にある者である。
(二)法制審議会が平成九年九月一〇日に組織的犯罪対策法要綱骨子を法務大臣に答申したことに関連して、抗告人は、朝日新聞に、裁判官であることを明らかにして、「法制審議会が組織的犯罪対策法要綱骨子を法務大臣に答申した。団体概念のあいまいさ、資金洗浄規制など問題が多いのだが、ここでは、盗聴捜査についてのみ触れる。裁判官の発付する令状に基づいて通信傍受が行われるのだから、盗聴の乱用の心配はないという人もいる。しかし、裁判官の令状審査の実態に多少なりとも触れる機会のある身としては、裁判官による令状審査が人権擁護のとりでになるとは、とても思えない。令状に関しては、ほとんど、検察官、警察官の言いなりに発付されているというのが現実だ。それを、検察官、警察官の令状請求自体が適切に行われている結果だと言う人もいる。しかし、現行法上は盗聴捜査を認める令状は存在せず、盗聴捜査は違法であるというのが、刑事訴訟法学者の圧倒的多数説であるにもかかわらず、電話盗聴を認める検証許可状が発付され、それが複数の地裁、高裁の判決で合憲・合法だと言い放たれている現実をみると、とてもそうだとは思えないのである。通信の秘密、プライバシー権、表現の自由という重要な人権にかかわる盗聴令状の審査を、このような裁判官にゆだねて本当に大丈夫だと思いますか?」という内容の投書をし、これが「信頼できない盗聴令状審査」という標題の下に、同年一〇月二日付けの同新聞朝刊に掲載された。
(三)内閣は、右答申に基づいて組織的な犯罪の処罰及び犯罪収益の規制等に関する法律案、犯罪捜査のための通信傍受に関する法律案及び刑事訴訟法の一部を改正する法律案(以下、これらを一括して「本件法案」という。)を作成し、平成一〇年三月一三日、これらを衆議院に提出し、参議院に送付した。本件法案への対応については、政党間で意見が分かれており、その取扱いが政治的問題となっていた。
(四)本件法案提出前から前記答申に係る組織的犯罪対策法の制定に反対するための諸活動を行っていた「組織的犯罪対策法に反対する全国弁護士ネットワーク」(以下「弁護士ネットワーク」という。)、「破防法、組織的犯罪対策法に反対する市民連絡会」(以下「市民連絡会」という。)及び「組織的犯罪対策法に反対する共同行動」(以下「共同行動」という。)の三団体は、平成一〇年二月二八日、連絡会議を開き、右三団体の準備により同年四月一八日に右反対運動の一環として集会を開くこと、その主催者は個人加盟の集会実行委員会とすること、次回の連絡会議までに三団体が呼び掛け人を募ること、集会の内容として、アピール、弁護士ネットワークの劇「盗聴法の施行された日パート4」の上演、「盗聴法と令状主義」に関するシンポジウム等を行うこと、右シンポジウムのパネリストを抗告人等に依頼することなどを決定した。
(五)弁護士ネットワークのa弁護士は、平成一〇年三月一〇日ころ、抗告人に対し、電話で組織的犯罪対策法の制定に反対する集会を開くので右シンポジウムで話をしてほしいとの依頼をし、抗告人は、これを承諾した。その後、同弁護士は、抗告人に対し、集会のビラをファックス送信した。
(六)そのころ、集会実行委員会は、右集会の名称を「つぶせ!盗聴法・組織的犯罪対策法許すな!警察管理社会4/18大集会」とした上で、集会のプログラムとしては、盗聴事件を考える住民の会会員などのアピール、弁護士ネットワークの劇「盗聴法が施行された日パート4」、b(一橋大学・刑事法)、c(裁判官)、d(弁護士)によるシンポジウム「盗聴法と令状主義」のほか、各政党からの「国会からの報告」が予定される旨を記載したビラを作成し、一般に配布した。これとは別に、共同行動は、「盗聴法・組対法を葬りされ!」との見出しの下に、「国会上程強行弾劾!」、「つぶせ盗聴法!許すな警察管理社会!大集会国会に向けた共同行動のデモ(終了後)」、「盗聴法・組対法廃案へ!『共同行動』緊急闘争」などと記載し、右集会に講師として裁判官である抗告人が参加することなどを知らせるビラを作成して、これを東京都内の地下鉄国会議事堂前駅付近等で配布した。また、「逮捕令状問題を考える会」と称する団体は、インターネット通信において、右集会への賛同を呼び掛け、その中で、裁判官である抗告人がシンポジウムに参加すること、右集会には、同法の成立を阻止しようと様々な分野で運動を担った人たちが参加しており、「盗聴法は令状主義を危機におとしいれると新聞に投書した裁判官」らが同法を阻止しようというその一点で集まると説明した。
(七)仙台地方裁判所長は、平成一〇年四月九日、抗告人に対し、共同行動のビラを示して、事実を確認したところ、抗告人は、右集会が本件法案を葬り去るという、法案に反対するための集会であることを承知の上で、その趣旨に共鳴してパネルディスカッションに参加するつもりであることを認め、そのことは裁判所法五二条一号の禁止する「積極的に政治運動をすること」には当たらないと考えるが、同所長が同号に当たると考え、懲戒もあり得るというのなら、再考してみるなどと述べた。
(八)右集会は、平成一〇年四月一八日、東京都千代田区所在の社会文化会館において、約五〇〇人が参加して開かれた(以下、この集会を「本件集会」という。)が、抗告人の申出により、シンポジウムにおいて抗告人がパネリストとして発言することは中止された。
2 懲戒の原因となる事実
抗告人は、本件集会において、パネルディスカッションの始まる直前、数分間にわたり、会場の一般参加者席から、仙台地方裁判所判事補であることを明らかにした上で、「当初、この集会において、盗聴法と令状主義というテーマのシンポジウムにパネリストとして参加する予定であったが、事前に所長から集会に参加すれば懲戒処分もあり得るとの警告を受けたことから、パネリストとしての参加は取りやめた。自分としては、仮に法案に反対の立場で発言しても、裁判所法に定める積極的な政治運動に当たるとは考えないが、パネリストとしての発言は辞退する。」との趣旨の発言をし(以下、本件集会におけるこの抗告人の言動を「本件言動」という。)、本件集会の参加者に対し、本件法案が裁判官の立場からみて令状主義に照らして問題のあるものであり、その廃案を求めることは正当であるという抗告人の意見を伝えることによって、本件集会の目的である本件法案を廃案に追い込む運動を支援し、これを推進する役割を果たし、もって積極的に政治運動をして、裁判官の職務上の義務に違反した。
二 証拠
以上の事実は、次の各証拠により、これを認める。
1 抗告人の履歴書
2 平成一〇年四月二八日付け仙台地方裁判所事務局長作成の報告書
3 同九年一〇月二日付け朝日新聞記事
4 同一〇年三月三〇日付け最高裁判所事務総局総務局第一課課長補佐作成の報告書
5 同年四月二〇日付け同事務総局刑事局第一課長作成の報告書
6 同月二六日付け仙台地方裁判所事務局長作成の報告書
7 同月九日付け同事務局長作成の聴取結果要旨書
8 同年五月一九日付け弁護士海渡雄一作成の報告書
9 同年七月九日付け抗告人作成の報告書
三 本件言動の評価
1 本件集会は、直接的には集会実行委員会なる組織が主催したことになっているが、同委員会の母体となる組織は、弁護士ネットワーク、市民連絡会及び共同行動という本件法案に反対するための諸活動をしている三団体であり、それらの団体がその運動の手段として連帯し、そのメンバー以外の個人の参加も募った上で組織横断的な実行委員会を設けて本件集会を開くことを計画し、準備したものである。「盗聴法と令状主義」に関するシンポジウムを開き、そのパネリストを抗告人に依頼することを決定したのも、右三団体合同の会議においてである。
2 本件集会は、その企画の経緯及び「つぶせ!盗聴法・組織的犯罪対策法許すな!警察管理社会4/18大集会」という名称自体から明らかなとおり、法案の是非について様々な立場から意見を述べ合うというような単なる討論集会ではなく、明確に本件法案を悪法と決め付けた上で、これを廃案に追い込むことを目的とする運動の一環として開催されたものである。したがって、抗告人がパネリストとして参加を依頼されたのも、もちろん単なる一市民としてではなく、また、単に令状実務に明るい専門家の意見を参考に聴くということでもなく、裁判官による令状審査によって盗聴の適正さを保つことは期待し得ないとの理由から抗告人が法案に反対する立場を採っていることが投書によって既に明らかとなっており、パネリストとして同様の発言をしてもらえれば、それが現職の裁判官の意見であるだけに、集会の参加者に本件法案の不当性を強く印象付けることができ、集会の目的である本件法案の廃案を実現するための運動を前進させる効果を有すると考えられたからであると認められる。
3 抗告人は、本件集会が前記のような単なる討論集会ではなく本件法案を廃案に追い込むことを目的とする運動の一環として開かれるものであることを認識して本件集会に参加し、本件言動に及んだものである。
4 本件集会の参加者の多くは、事前にビラ、インターネット通信等によって集会の名称や趣旨を知らされていたと認められるから、その中で行われるシンポジウムも様々な立場から意見を述べ合うものではなく本件法案ないしはそのうちの犯罪捜査のための通信傍受に関する法律案の不当性を訴えるためのものであると予想しており、したがって、現職裁判官である抗告人も本件法案に反対する立場からシンポジウムにおいて「盗聴法と令状主義」について発言する予定であることを認識の上、集まってきていたと認められる。
5 以上のような状況の下においてされた抗告人の本件言動は、発言の直接の内容としても、仙台地方裁判所長の警告は裁判所法の解釈を誤ったものであって、そのような本来従わなくてもよい不当な警告によりやむなくパネリストとなることを断念した旨を積極的に表明したものであり、この発言を聞いた者に対し、自分の本意はあくまで予定どおり壇上においてパネリストとして発言することにあるということを訴える内容を含んでいると認められる。そして、右のような本件集会の参加者の予備知識からするならば、それらの者は、予告されていたとおり令状実務の実情を職務上知る立場にある現職の裁判官が本件法案の廃案実現を目的とする集会に実際に参加していることを認識した上、「仮に」と断ってはいるものの、抗告人の本意は壇上からパネリストとして本件法案に反対の立場で発言することにあると理解したものと認めることができる。このように、本件言動は、本件集会の参加者に対し、本件法案が裁判官の立場からみて令状主義に照らして問題のあるものであり、その廃案を求めることは正当であるという抗告人の意見を伝える効果を有するものであったということができる。
6 したがって、本件言動が本件集会の目的である本件法案を廃案に追い込むための運動を支援しこれを推進する役割を果たしたものであることは、客観的にみて明らかである。抗告人は、単にパネリストにならなかった理由を述べただけであると主張しているが、前記の抗告人の認識からすると、抗告人も、本件言動が右のような役割を果たすものであることを当然認識していたものというべきである。
四 「積極的に政治運動をすること」の意義及びその禁止の合憲性
1 憲法は、近代民主主義国家の採る三権分立主義を採用している。その中で、司法は、法律上の紛争について、紛争当事者から独立した第三者である裁判所が、中立・公正な立場から法を適用し、具体的な法が何であるかを宣言して紛争を解決することによって、国民の自由と権利を守り、法秩序を維持することをその任務としている。このような司法権の担い手である裁判官は、中立・公正な立場に立つ者でなければならず、その良心に従い独立してその職権を行い、憲法と法律にのみ拘束されるものとされ(憲法七六条三項)、また、その独立を保障するため、裁判官には手厚い身分保障がされている(憲法七八条ないし八○条)のである。裁判官は、独立して中立・公正な立場に立ってその職務を行わなければならないのであるが、外見上も中立・公正を害さないように自律、自制すべきことが要請される。司法に対する国民の信頼は、具体的な裁判の内容の公正、裁判運営の適正はもとより当然のこととして、外見的にも中立・公正な裁判官の態度によって支えられるからである。したがって、裁判官は、いかなる勢力からも影響を受けることがあってはならず、とりわけ政治的な勢力との間には一線を画さなければならない。そのような要請は、司法の使命、本質から当然に導かれるところであり、現行憲法下における我が国の裁判官は、違憲立法審査権を有し、法令や処分の憲法適合性を審査することができ、また、行政事件や国家賠償請求事件などを取り扱い、立法府や行政府の行為の適否を判断する権限を有しているのであるから、特にその要請が強いというべきである。職務を離れた私人としての行為であっても、裁判官が政治的な勢力にくみする行動に及ぶときは、当該裁判官に中立・公正な裁判を期待することはできないと国民から見られるのは、避けられないところである。身分を保障され政治的責任を負わない裁判官が政治の方向に影響を与えるような行動に及ぶことは、右のような意味において裁判の存立する基礎を崩し、裁判官の中立・公正に対する国民の信頼を揺るがすばかりでなく、立法権や行政権に対する不当な干渉、侵害にもつながることになるということができる。
これらのことからすると、裁判所法五二条一号が裁判官に対し「積極的に政治運動をすること」を禁止しているのは、裁判官の独立及び中立・公正を確保し、裁判に対する国民の信頼を維持するとともに、三権分立主義の下における司法と立法、行政とのあるべき関係を規律することにその目的があるものと解される。
なお、国家公務員法一〇二条及びこれを受けた人事院規則一四―七は、行政府に属する一般職の国家公務員の政治的行為を一定の範囲で禁止している。これは、行政の分野における公務が、憲法の定める統治組織の構造に照らし、議会制民主主義に基づく政治過程を経て決定された政策の忠実な遂行を期し、専ら国民全体に対する奉仕を旨とし、政治的偏向を排して運営されなければならず、そのためには、個々の公務員が政治的に、一党一派に偏することなく、厳に中立の立場を堅持して、その職務の遂行に当たることが必要となることを考慮したことによるものと解される(最高裁昭和四四年(あ)第一五〇一号同四九年一一月六日大法廷判決・刑集二八巻九号三九三頁参照)。これに対し、裁判所法五二条一号が裁判官の積極的な政治運動を禁止しているのは、右に述べたとおり、裁判官の独立及び中立・公正を確保し、裁判に対する国民の信頼を維持するとともに、三権分立主義の下における司法と立法、行政とのあるべき関係を規律することにその目的があると解されるのであり、右目的の重要性及び裁判官は単独で又は合議体の一員として司法権を行使する主体であることにかんがみれば、裁判官に対する政治運動禁止の要請は、一般職の国家公務員に対する政治的行為禁止の要請より強いものというべきである。また、国家公務員法一〇二条及び人事院規則一四―七は、一般職の国家公務員が禁止される政治的行為について、同条が自ら規定しているもののほかは、同規則六項が具体的に列挙したものに限定され、政治的色彩が強いと思われる行為であっても、具体的列挙事項のいずれにも該当しないものは、同条の禁止する「政治的行為」には当たらないものとし、しかも、同規則六項は、五号から七号までに定めるものを除き、同規則五項の定義する「政治的目的」をもってする行為のみを「政治的行為」と規定している。これは、右禁止規定の違反行為が懲戒事由となるほか刑罰の対象ともなり得るものである(同法一一〇条一項一九号)ことから、懲戒権者等のし意的な解釈運用を排するために、あえて限定列挙方式が採られているものと解される。これに対し、裁判官の禁止される「積極的に政治運動をすること」については、このような限定列挙をする規定はなく、その意味はあくまで右文言自体の解釈に懸かっている。裁判官の場合には、強い身分保障の下、懲戒は裁判によってのみ行われることとされているから、懲戒権者のし意的な解釈により表現の自由が事実上制約されるという事態は予想し難いし、違反行為に対し刑罰を科する規定も設けられていないことから、右のような限定列挙方式が採られていないものと解される。これらのことを考えると、裁判所法五二条一号の「積極的に政治運動をすること」の意味は、国家公務員法の「政治的行為」の意味に近いと解されるが、これと必ずしも同一ではないというのが相当である。
以上のような見地に立って考えると、「積極的に政治運動をすること」とは、組織的、計画的又は継続的な政治上の活動を能動的に行う行為であって、裁判官の独立及び中立・公正を害するおそれがあるものが、これに該当すると解され、具体的行為の該当性を判断するに当たっては、その行為の内容、その行為の行われるに至った経緯、行われた場所等の客観的な事情のほか、その行為をした裁判官の意図等の主観的な事情をも総合的に考慮して決するのが相当である。
2 憲法二一条一項の表現の自由は基本的人権のうちでもとりわけ重要なものであり、その保障は裁判官にも及び、裁判官も一市民として右自由を有することは当然である。しかし、右自由も、もとより絶対的なものではなく、憲法上の他の要請により制約を受けることがあるのであって、前記のような憲法上の特別な地位である裁判官の職にある者の言動については、おのずから一定の制約を免れないというべきである。裁判官に対し「積極的に政治運動をすること」を禁止することは、必然的に裁判官の表現の自由を一定範囲で制約することにはなるが、右制約が合理的で必要やむを得ない限度にとどまるものである限り、憲法の許容するところであるといわなければならず、右の禁止の目的が正当であって、その目的と禁止との間に合理的関連性があり、禁止により得られる利益と失われる利益との均衡を失するものでないなら、憲法二一条一項に違反しないというべきである。そして、右の禁止の目的は、前記のとおり、裁判官の独立及び中立・公正を確保し、裁判に対する国民の信頼を維持するとともに、三権分立主義の下における司法と立法、行政とのあるべき関係を規律することにあり、この立法目的は、もとより正当である。
また、裁判官が積極的に政治運動をすることは前記のように裁判官の独立及び中立・公正を害し、裁判に対する国民の信頼を損なうおそれが大きいから、積極的に政治運動をすることを禁止することと右の禁止目的との間に合理的な関連性があることは明らかである。さらに、裁判官が積極的に政治運動をすることを、これに内包される意見表明そのものの制約をねらいとしてではなく、その行動のもたらす弊害の防止をねらいとして禁止するときは、同時にそれにより意見表明の自由が制約されることにはなるが、それは単に行動の禁止に伴う限度での間接的、付随的な制約にすぎず、かつ、積極的に政治運動をすること以外の行為により意見を表明する自由までをも制約するものではない。他面、禁止により得られる利益は、裁判官の独立及び中立・公正を確保し、裁判に対する国民の信頼を維持するなどというものであるから、得られる利益は失われる利益に比して更に重要なものというべきであり、その禁止は利益の均衡を失するものではない。そして、「積極的に政治運動をすること」という文言が文面上不明確であるともいえないことは、前記1に示したところから明らかである。したがって、裁判官が「積極的政治運動をすること」を禁止することは、もとより憲法二一条一項に違反するものではない。
そうすると、抗告人の本件言動が裁判所法五二条一号所定の「積極的に政治運動をすること」に該当すると解される限り、これを禁止することは、憲法二一条一項に違反しないというべきである。
抗告人は、諸外国において裁判官の政治的行為の自由は広く認められているなどと主張するが、本件においては、本件言動が我が国の裁判官の行為として裁判所法五二条一号に違反したとみられるか否か、その禁止が我が国の憲法二一条一項に違反するか否かが問題であり、歴史的経緯や社会的諸条件等を異にする諸外国における法規制やその運用の実態は、一つの参考資料とはなり得ても、これをそのまま我が国に当てはめることはできない。のみならず、どこの国においても裁判官の政治的な行動には程度の差こそあれ裁判の本質に基づく一定の限界を認めているのであって、裁判所法五二条一号が特異な規定であるとはいえない。なお、同号は、以上のような理由により憲法二一条一項に違反しないものである以上、市民的及び政治的権利に関する国際規約一九条に違反するといえないことも明らかである。
五 本件言動の裁判所法五二条一号該当性特定の法律を制定するか否かの判断は、国の唯一の立法機関である国会の専権に属するものであるところ、裁判官が、一国民として法律の制定に反対の意見を持ち、その意見を裁判官の独立及び中立・公正を疑わしめない場において表明することまでも禁止されるものではないが、前記事実関係によれば、本件集会は、単なる討論集会ではなく、初めから本件法案を悪法と決め付け、これを廃案に追い込むことを目的とするという党派的な運動の一環として開催されたものであるから、そのような場で集会の趣旨に賛同するような言動をすることは、国会に対し立法行為を断念するよう圧力を掛ける行為であって、単なる個人の意見の表明の域を超えることは明らかである。このように、本件言動は、本件法案を廃案に追い込むことを目的として共同して行動している諸団体の組織的、計画的、継続的な反対運動を拡大、発展させ、右目的を達成させることを積極的に支援しこれを推進するものであり、裁判官の職にある者として厳に避けなければならない行為というべきであって、裁判所法五二条一号が禁止している「積極的に政治運動をすること」に該当するものといわざるを得ない。
なお、例えば、裁判官が審議会の委員等として立法作業に関与し、賛成・反対の意見を述べる行為は、立法府や行政府の要請に基づき司法に携わる専門家の一人としてこれに協力する行為であって、もとより裁判所法五二条一号により禁止されるものではない。裁判官が職名を明らかにして論文、講義等において特定の立法の動きに反対である旨を述べることも、その発表の場所、方法等に照らし、それが特定の政治運動を支援するものではなく、一人の法律実務家ないし学識経験者としての個人的意見の表明にすぎないと認められる限りにおいては、同号により禁止されるものではないということができる。また、裁判所は、司法制度の運営に当たる立場にあり、規則制定権を有していることなどにかんがみると、司法制度に関する法令の制定改廃についても、一定の意見を述べることができるものと解される。しかし、本件において抗告人が行ったように、特定の法案を廃案に追い込むことを目的とする団体の党派的運動を積極的に支援するような行動をすることは、これらとは質の異なる行為であるといわざるを得ない。
六 懲戒事由該当性及び懲戒の選択
裁判所法四九条にいう「職務上の義務」は、裁判官が職務を遂行するに当たって遵守すべき義務に限られるものではなく、純然たる私的行為においても裁判官の職にあることに伴って負っている義務をも含むものと解され、積極的に政治運動をしてはならないという義務は、職務遂行中と否とを問わず裁判官の職にある限り遵守すべき義務であるから、右の「職務上の義務」に当たる。したがって、抗告人には同条所定の懲戒事由である職務上の義務違反があったということができる。
そして、本件言動の内容、その後の抗告人の態度その他記録上認められる一切の事情にかんがみれば、抗告人を戒告することが相当である。
第二 手続上の問題に関する抗告人の主張に対する判断
抗告人の抗告理由は、別紙の抗告代理人ら提出の抗告理由書、各抗告理由補充書及び抗告人提出の抗告理由書の各抗告理由に記載のとおりであるところ、当裁判所の懲戒についての認定判断は以上のとおりであるが、本件の手続上の問題に関する抗告人の主張のうち主要なものについて、当裁判所の判断を述べることとする。
一 当審において審問期日を開くことの要否
裁判官の分限事件手続規則(以下「規則」という。)三条ないし五条の規定は、分限事件においては、当該裁判官立会いの下において審問期日を開くことを要請しているものとみられるから、第一審においては必ず一度は審問期日を開かなければならないものと解すべきである。しかしながら、抗告審においても審問期日を開かなければならない旨の規定はなく、抗告審は続審であるから、第一審において審問期日を開いている場合に、抗告審において重ねて審問期日を必ず開かなければならないものと解することはできない。したがって、抗告審は、書証以外の新たな証拠を取り調べる必要がある場合を除き、審問期日を開かなければならないものではない。そして、本件において確定すべき事実関係は、原審において取り調べた証拠によって明らかとなっており、当審において新たな証拠を取り調べることを要しないから、審問期日を開く必要はないものということができる。
なお、裁判官分限法(以下「法」という。)八条二項が抗告裁判所の裁判について法七条二項の規定を準用しているので、抗告審は、第一審で既に当該裁判官の陳述を聴いている場合でも、当該裁判官の陳述を改めて聴かなければならないが、陳述を聴く方法については、分限事件に関して準用される非訟事件手続法八条一項が右陳述は書面又は口頭で行うことと規定しているから、抗告審としては、当該裁判官に書面を提出させる方式を採ることも口頭で陳述させる方式を採ることも、いずれも可能であると解される。したがって、法八条二項の規定から、抗告審が必ず審問期日を開かなければならないということが導かれるものではない。
二 抗告人の陳述がないまま懲戒の裁判をすることの適否法七条二項、八条二項が裁判所は懲戒の裁判をする前に当該裁判官の陳述を聴かなければならないとしているのは、陳述の機会を与えなければならないという趣旨であって、その機会を与えたにもかかわらず当該裁判官が陳述をしなかった場合に、陳述のないまま懲戒の裁判をすることを禁ずるものでないことは、明らかである。
記録によれば、原審が二回にわたる審問期日において繰り返し抗告人本人に対し陳述を促したにもかかわらず、抗告人は、本件の審理手続等についての抗告人の主張が裁判所によって受け入れられない限り陳述しないとの態度に終始し、原審がそれらの主張に対する最終的な判断を示してもなお右態度を覆さないまま期日が終了したことが明らかであり、さらに、原審が第三回審問期日は指定しないことを明らかにした上で審問期日における陳述に代わる書面の提出の機会を与えたにもかかわらず、代理人からあくまで第三回審問期日の指定を求める旨の書面が提出されたにとどまり、抗告人の陳述書は提出されなかったことが認められる。右の経過に照らせば、抗告人は、原審が再三にわたり陳述の機会を与えたにもかかわらず陳述をしなかったことが明らかであって、原審が抗告人の陳述がないままに懲戒の裁判をしたことに違法はない。抗告人は、陳述する意思があることを終始明らかにしていたから、抗告人が陳述の機会を放棄したものということは許されないと主張するが、手続を主宰する裁判所の判断が示された以上、法定の不服申立てにより右判断が変更されない限り、その判断に従うべきであって、自己の主張する手続によらなければ審理に応じないとの態度を執り続けることは許されないものというべきである。右主張は到底採用することができない。
抗告人は、当審においても、当裁判所が三週間の期間を定めて書面による陳述の機会を与えたにもかかわらず、独自の見解に固執して、これには応じかねる旨の書面を提出しただけで、本件について陳述する書面を提出しなかったものである。したがって、抗告人は、当審においても陳述の機会が与えられたにもかかわらず陳述をしなかったことが明らかであるから、抗告人の陳述がないことは本件懲戒の裁判をすることの妨げとなるものではない。
三 原審が審問を公開しなかったことの適否
1 規則七条は分限事件の性質に反しない限り非訟事件手続法第一編の規定を準用すると規定しており、審問の非公開を定める同法一三条の規定も、性質に反しない限り分限事件に準用される。
憲法八二条一項は、裁判の対審及び判決は公開の法廷で行わなければならない旨を規定しているが、右規定にいう「裁判」とは、現行法が裁判所の権限に属するものとしている事件について裁判所が裁判という形式をもってする判断作用ないし法律行為のすべてを指すのではなく、そのうちの固有の意味における司法権の作用に属するもの、すなわち、裁判所が当事者の意思いかんにかかわらず終局的に事実を確定し当事者の主張する実体的権利義務の存否を確定することを目的とする純然たる訴訟事件についての裁判のみを指すものと解すべきである(最高裁昭和四一年(ク)第四〇二号同四五年六月二四日大法廷決定・民集二四巻六号六一〇頁等)。
裁判官に対する懲戒は、裁判所が裁判という形式をもってすることとされているが、一般の公務員に対する懲戒と同様、その実質においては裁判官に対する行政処分の性質を有するものである。したがって、裁判官に懲戒を課する作用は、固有の意味における司法権の作用ではなく、懲戒の裁判は、純然たる訴訟事件についての裁判には当たらないことが明らかである。また、その手続の構造をみても、法及び規則の規定中には、監督権を行う裁判所の申立てにより手続を開始し、申立裁判所を代表する裁判官に審問への立会権を認め、申立裁判所にも裁判に対する即時抗告権を認めるなど、当事者対立構造を思わせる定めもみられるけれども、申立てを受けた裁判所は、申立裁判所に懲戒事由の主張立証をさせ、その主張の当否を判断するのではなく、右申立てを端緒として、職権で事実を探知し、必要な証拠調べを行って(規則七条、非訟事件手続法一一条)、当該裁判官に対する処分を自ら行うのである(申立てを受けた裁判所は、懲戒事由に該当する事実を認定したとしても、懲戒を課するか否か、課するとしていかなる内容の懲戒とするかについて、懲戒権者としての裁量権を行使して第一次的判断をするのであり、その点に関する申立裁判所の主張の当否を判断するのではない。)から、分限事件は、訴訟とは全く構造を異にするというほかはない。したがって、分限事件については憲法八二条一項の適用はないものというべきである(最高裁昭和三七年(ク)第六四号同四一年一二月二七日大法廷決定・民集二〇巻一〇号二二七九頁参照)。
なお、憲法八二条二項ただし書の規定は、同条一項の適用がある裁判の対審に関する規定であるから、同項の適用がない分限事件に適用される余地がないことは、いうまでもない。
2 抗告人は、一般の公務員に対する懲戒については、これに不服がある場合には抗告訴訟を提起して裁判所の公開審理を受けることができるのに、裁判官の懲戒については公開審理を受けられないのは不合理であるから、分限事件には憲法八二条一項の適用があると解すべきであると主張する。
しかしながら、裁判官の分限事件を非公開の手続で行うこと自体が憲法八二条一項に違反しないことは既に述べたとおりである。そして、法及び規則においては、手続を公開しないものの、分限事件の重要性にかんがみて、当該裁判官の所属する裁判所の上級裁判所がこれを管轄することとし、高等裁判所においては五人の裁判官により構成される特別の合議体で、最高裁判所においては大法廷で、これを取り扱うこととされている。その手続も、申立書の謄本を当該裁判官に送達しなければならず、第一審においては必ず審問期日を開くこととして、その期日は当該裁判官に通知をし、当該裁判官はその期日に立ち会うことができ、また、懲戒の裁判をする前には当該裁判官の陳述を聴かなければならず、懲戒の裁判をするには、その原因たる事実及び証拠によりこれを認めた理由を示さなければならないとされている。このように、分限事件については、一般の非訟事件はもとより抗告訴訟との比較においても適正さに十分に配慮した特別の立法的手当がされているのであり、これに更に公開審理が保障された訴訟の形式による不服申立ての機会が与えられていなくても、手続保障に欠けるということはできない。
3 そして、以上に述べたところからすれば、分限事件の審問を公開しないことは、憲法三一条、三二条や市民的及び政治的権利に関する国際規約一四条一項に違反するということもできないし、非訟事件手続法一三条の規定を分限事件に準用することがその性質に反するものともいえない。
なお、規則七条の準用する非訟事件手続法一三条ただし書は、裁判所が相当と認める者に傍聴を許すことができる旨を規定しているところ、抗告人は、原審は少なくとも右規定に基づいて報道関係者に傍聴を許すべきであったと主張する。しかし、右規定によって傍聴を認めるか否かは当該裁判所の裁量にゆだねられており、傍聴を認めないことが違法になるのは、裁量の範囲を逸脱し、裁量権の濫用に当たる場合に限られるというべきであり、本件において裁量権の濫用等に当たることを根拠付ける事情は存在しないのであるから、原審が報道関係者の傍聴を許さなかったことに違法はない。
四 原審が第二回審問期日の立会代理人数を三五人に制限したことの適否刑訴法三五条、刑訴規則二六条、二七条は、被告人及び被疑者の弁護人の数の制限につき規定しており、被告人についてみても、裁判所は、特別の事情があるときは、弁護人の選任自体を各被告人について三人までに制限することができるものとしている。右規定をみれば、刑事裁判手続においてすら無制限に弁護人の援助を受け得ることが被告人の当然の権利であるといえないことは、明らかである。民事訴訟及び非訟の手続における代理人については、類似の規定は見当たらないが、これらの手続においても、手続を主宰する裁判所は、その手続を円滑に進行させるために与えられた指揮権に基づいて、期日を開く場所の収容能力、当該期日に予定されている手続の内容、裁判所の法廷警察権ないし指揮権行使の難易等を考慮して、必要かつ相当な場合には、期日に立会う代理人の数を合理的と認められる限度にまで制限することが許されるものと解すべきである。そのように解したからといって、右の制限が合理的なものである限り、当事者の防御権が不当に侵害されるとはいえない。
本件においては、原審が、代理人らに第二回審問期日の前に期日を開く場所の収容能力に限界があるため必要かつ相当な措置として立ち会う代理人の数を制限する意向を示し、当日も約一時間にわたり折衝を経た上で期日を開いたこと、また、三五人の範囲内であれば、抗告人側で適切な者を選別して立ち会わせることが保障されていたことが、記録上明らかであり、三五人という数をもって防御権行使に不足するとは到底考えられないところである。抗告人は、審問期日を開く場所として、中会議室ではなく大会議室を使用すべきであったと主張しているが、原審が審問期日を開く場所を中会議室と定めたのは分限事件の性質にふさわしいと考えたからであることが記録上明らかであり、その判断が不当であるとは認められない。以上のことからすると、原審が立会代理人数を三五人に制限したことに違法はないものというべきである。
なお、抗告人は、原審が審問の立会代理人を弁護士資格のある者に限定をしたことを前提として、その違法をも主張するが、原審の第二回審問調書によれば、原審が右の資格の限定をしたとは認められない。したがって、右主張は前提を欠き失当である。
五 本件懲戒申立てについて裁判官会議の議を経ることの要否裁判官の懲戒申立ては当該裁判官に対して司法行政の監督権を行う裁判所の権限とされている(法六条)から、司法行政事務として裁判官会議の議により行われるべきものである(裁判所法二九条二項等)が、裁判官会議は下級裁判所事務処理規則二〇条一項により所長に権限を委任することができる。そして、仙台地方裁判所事務処理規則四条一項は、司法行政事務のうち同項各号に列挙した事項以外の事項を所長に委任するものと定めているところ、裁判官の分限事件の申立ては、右列挙事項に含まれていない。したがって、右申立ての権限は所長に委任されていると解される。右の委任は、仙台地方裁判所の裁判官会議の議により決せられたものであり、憲法七六条、七八条、裁判所法四〇条等に違反しない。
抗告人は、右事務処理規則六条二項が、所長が常置委員会に諮問して意見を聴いた上で行うべき事項を列挙しており、その中に、「裁判官以外の職員の懲戒に関する事項」を挙げているのに、「裁判官の懲戒に関する事項」は挙げていないことから、裁判官以外の職員の懲戒については所長が単独で処理することができず必ず常置委員会の意見を聴かなければならないのに、裁判官の懲戒については所長が単独で処理することができるというのでは不合理であるから、右規定は裁判官の懲戒に関する事項は所長に委任されていないことを前提としていると主張する。しかしながら、「裁判官以外の職員の懲戒に関する事項」の内容は、所長が任命権を有する職員については所長が懲戒処分そのものを行うことを意味するのに対し、裁判官の懲戒に関しては、所長が行うのは高等裁判所に対して懲戒の申立てをすることにとどまり、懲戒をするか否かは申立てを受けた高等裁判所の裁判体が決定すること、また、裁判官以外の職員の懲戒は場合によっては懲戒免職という重大な結果をもたらすものであるのに対し、裁判官の懲戒は戒告又は一万円以下の過料にすぎない(法二条)ことを考慮すれば、「裁判官以外の職員の懲戒に関する事項」より「裁判官の懲戒に関する事項」の方が重要な事項であるとは、必ずしも断定し得ない。そうすると、規定の文言を無視してまで、裁判官の懲戒に関する事項は所長に委任されていないと解さなければならない理由はないというべきである。
したがって、本件分限事件の申立てについて仙台地方裁判所の裁判官会議の議を経なかったことに違法があったとはいえない。
六 不告不理の原則違反の有無前記のとおり、裁判官分限事件は当該裁判官の監督裁判所の申立てによって手続が開始されるが、申立てを受けた裁判所は、申立ての当否を判断するのではなく、自らが処分の主体となって証拠により認定した事実に基づいて当該裁判官に懲戒を課するかどうかを決するのである。申立ては手続開始の端緒にすぎず、申立てを受けた裁判所は、申立裁判所が申立ての前提とした事実や申立裁判所が提出した証拠に拘束されるのではなく、必要に応じて職権で事実を探知して(規則七条、非訟事件手続法一一条)、懲戒事由の存否や情状につき認定判断すべきものである。したがって、申立書に記載された事実関係と申立てを受けた裁判所が証拠によって認定した事実関係との間に同一性を欠くとはいえない程度の相違があっても、懲戒の裁判が違法となるものではないというべきであり、右の同一性がある範囲内であれば、当該裁判官の弁明・反証の機会を奪うものとはいえない。本件において抗告人の指摘する相違点は、すべて右の同一性の範囲内にあることは明らかであり、しかも、抗告人において反論済みの問題点であって、抗告人の防御権行使に何らの支障もなかったことが明らかである。抗告人の投書の事実も、申立書に証拠として投書記事が添付されており、不意打ちとはいえない。
したがって、原審が申立裁判所に釈明を求めずに申立書記載の事実と細部において異なる事実を認定してこれを基に懲戒を決定したことに違法はなく、このことが憲法三一条等に違反するとはいえない。
第三 結論
以上によれば、抗告人を戒告した原決定は正当であり、本件抗告は理由がない。よって、裁判官園部逸夫、同尾崎行信、同河合伸一、同遠藤光男、同元原利文の各反対意見があるほか、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり決定する。
+反対意見
裁判官園部逸夫の反対意見は、次のとおりである。
私は、裁判官が在任中積極的に政治運動をしたことが認められる場合でも、そのことのみを理由として、当該裁判官を懲戒処分に付することはできないと考えるものである。多数意見は、これと異なる前提に立って懲戒についての認定判断をしているが、私は、多数意見が前提とする裁判所法の解釈については見解を異にするため、これに賛成することができない。その理由は、次のとおりである。
裁判所法五二条一号は、裁判官は在任中積極的に政治運動をすることができないと定め、右行為を絶対的に禁止している。すなわち、裁判官に在任することと積極的な政治運動に従事することとは、そもそも両立し得ないのである。また、右条項により禁止されている裁判官の積極的な政治運動に該当する行為(懲戒事実)と同法四九条所定の懲戒事由及び裁判官分限法二条所定の懲戒処分の種類(戒告又は一万円以下の過料)との間には、明確な対応関係がないので、積極的に政治運動をしたことのみを理由として在任中の裁判官を懲戒処分に付するということは、法の建前ではないと考える。したがって、在任中に積極的に政治運動をしたことが直ちに職務上の義務違反に該当すると判断するのは妥当でない。この点、国家公務員法一〇二条一項及び人事院規則一四―七「政治的行為」が政治的行為の制限を規定し、右制限違反については、同法八二条一号が「この法律又はこの法律に基づく命令に違反した場合」と規定してこれを懲戒事由とした上で戒告から免職に至る各種の懲戒を課するものとするとともに、同法一一○条一項一九号がこれに刑事罰を科するものとしているのとは異なる。
右の理由により、私は、裁判官が在任中に積極的に政治運動をしたことが認定される場合でも、裁判所法四九条所定の第一の懲戒事由である職務上の義務に違反することに該当するとして当該裁判官を戒告又は一万円以下の過料のいずれかの懲戒処分に付することはできないと考える。
ただし、積極的であるかどうかにかかわらず、およそ政治運動をするために職務を怠ったという事実が認められるときは、同法四九条所定の第二の懲戒事由に、また、政治運動をすることによって裁判官の品位を辱める行状があったという事実が認められるときは、同条所定の第三の懲戒事由に該当するとして、懲戒処分に付することができる。
なお、裁判官に対する懲戒処分の手続とは直接関係のないことであるが、裁判官が在任中に積極的に政治運動をした事実が認められ、右運動をするため当該裁判官が職務を甚だしく怠った場合、又は右運動が職務の内外を問わず裁判官としての威信を著しく失うべき非行に当たる場合には、最高裁判所は、所定の手続を経て、当該裁判官について、裁判官弾劾法二条一号後段又は同条二号所定の罷免事由に該当するとして、同法一五条三項に基づき裁判官訴追委員会に罷免の訴追をすべきことを求め、弾劾による罷免の事由に該当するか否かの認定判断を裁判官弾劾裁判所の裁判にゆだねることができる。
以上の前提に立って、本件についてみると、原決定は、抗告人が在任中に積極的に政治運動をしたことを認定判断し、そのことが裁判官の職務上の義務に違反するとして、抗告人を懲戒処分に付しているのであって、抗告人の行為が裁判所法四九条所定の他の懲戒事由に該当するかどうかについては、認定判断をしていない。したがって、原決定には、同法の規定の解釈適用を誤った違法があるといわざるを得ない。そして、本件全証拠によっても、抗告人の行為が同条所定の他の懲戒事由に該当するとは認められない。よって、原決定を取り消し、抗告人を懲戒処分に付さないこととすべきである。
+反対意見
裁判官尾崎行信の反対意見は、次のとおりである。
私は、本件の実体面については、元原裁判官の反対意見に同調するほか、抗告人の行為は「積極的に政治運動をすること」に当たらないとする点において遠藤裁判官とも考えを同じくし、たとえ多数意見のいうとおり抗告人の本件言動をもって右懲戒事由に当たると解し得るとしても、懲戒処分をすることは差し控えるのが相当であるとする点において河合裁判官と考えを同じくするものであるが、当審における審理手続についても、多数意見と立場を異にする。その理由は、次のとおりである。
一 裁判官の分限事件手続規則(以下「規則」という。)七条は、裁判官の分限事件に関し、「その性質に反しない限り、非訟事件手続法第一編の規定を準用する。」と規定している。しかし、本件の当審における審理手続がいかにあるべきかについては、関連する法条の文言にとらわれることなく、事件の類型、性質、内容などに照らしそれらに適した手続はいかなるものか、それが近代法の下における適正な司法運営として広く受容され得るものかを検討の上で、決定することが必要である。
二 かつては、実体的権利義務の存否を確定する純然たる訴訟事件でないものは、いわゆる非訟事件として非訟事件手続法(以下「非訟法」という。)の定める手続により処理され、公開・対審の手続の保障(憲法三二条、八二条)は及ばないと考えられていたが、非訟事件に分類されている事件の中にも、その性質や内容に応じて、今日では、手続的保障を加味し公開・対審の原則の適用を考慮すべき場合があることを認め、そのような場合には、適正手続に従った裁判によって基本的人権を保障することが必要であるとするのが憲法の趣旨に合致すると解されている。従来の訴訟事件・非訟事件の二分類説によって画一的・形式的に審理方法を区別するときは、分類基準のあいまいさから、事件の実質にそぐわない場合が生ずるからである。
三 また、本件のように特別な公法関係に入った者に対する基本的人権保障規定の適用に当たっては、一般人に対する場合と異なった制約の生ずることを認めざるを得ないが、その制約は、特別な公法関係の設定目的及び存在理由からみて合理的であって必要不可欠なものが最小限度で許されるにとどまると解すべきである。これを懲戒について考えると、職務規範、懲戒事由等の実体面では具体的な職務、地位、責任に応じ必要で合理的と認められる制約があり得るが、懲戒手続やその不服申立方法等の手続面では被処分者の名誉等への配慮を要するほかはその関係に内在する合理的な制約を想定することはほとんど不可能である。つまり、懲戒処分事件の場合にも、憲法が一般国民に保障する公正な手続に従った裁判によって最終判断を受ける権利(憲法三二条)を奪う合理的理由は見いだせず、その手続に関する限りは近代司法の諸原則たる直接主義、口頭主義のほか、被処分者が希望する場合には公開主義にものっとって行われるべきものと考えられる。一般の公務員の懲戒については、行政処分として懲戒決定があると、行政不服審査を経た上で司法審査による救済の道が開かれていることをみても、このようにいうべきである。
四 以上の観点からみるだけでも、本件は非訟法に従って処理するだけでは足りないとの結論を導くことができるが、さらに、裁判官の懲戒については、非訟法の定めによらず公開手続、口頭主義、直接主義などの近代司法の原則の下に、基本的人権を保障すべく、格別の配慮を必要とする理由が認められる。
第一に、本件では、懲戒権者が裁判所である点に留意することを要する。すなわち、裁判所は、懲戒権の行使すなわち行政処分の実質を有する行為を裁判という形式で行うのであり、行政機関としての役割と司法機関としての役割を一つの行為によって果たしている。その結果、利害が相反することも想定され、特に被処分者からみれば司法的判断者としての公正・中立に危ぐを抱きやすいことは当然であるし、また外部の一般国民も同様の不信感を覚えることもあろう。
このことにかんがみれば、裁判所は、司法審査権能を適正に行使したことを内外に示すため、本来の司法裁判の原則に照らし、最も公正な手続を採り、司法過程を最大限透明にし、当事者及び世人の危ぐを払拭すべきである。裁判官の職にある者がした裁判であるということだけでは、公正・中立を保障するものではなく、また、その無びゅう性を担保するものでもない。公正・中立は、公開・対審の手続を経ることによって保障の実が上げられるというべきである。公開法廷において、直接主義、口頭主義の原則の下に審理を尽くすことこそが、単に被処分者の基本的人権を保障するだけでなく、裁判所の公正・中立を社会に公示し、その信頼性を確保することとなるのである。
第二に、規則七条が「その性質に反しない限り」非訟法を準用すると定めていることを忘れてはならない。裁判官の懲戒事件は、刑事事件に比すべき重みを有するものであり、その審理手続は、刑事事件手続において要請される裁判の公開、対審構造、証拠主義などの原則に沿ったものが適切である。この面を無視し、民事・家事など通常の非訟事件と同一レベルで本懲戒事件を考え、単に非訟法を文面どおり準用すればよいとすることは、同条が特に「その性質に反しない限り」と定めた趣旨に違背するものというべきである。
また、特別な公法関係にある者の懲戒手続につき司法的救済を拒否する合理的な理由は存在しない。一般の公務員はこれを享受しているのであるから、裁判官も同様の救済を得られるよう非訟法を解釈運用すべきである。
しかも、本件においては、裁判所が懲戒権者の側面と司法的判断者の側面を同時に帯有するため、外観においても内容においても公正・中立を実現するためには特段の努力が要求される場合であるから、本事件の特質、特に右の二面性を考慮すれば、「その性質に反しない限り」の文言に照らし、前記の近代司法の諸原則を適用すべきである。
第三に、裁判所の行う懲戒の裁判が行政処分の実質を有することにかんがみると、当裁判所が本抗告事件を非訟法に従って現に執った手続の下で処理することは、上級行政機関の行う再審査手続と大差がなく、行政機関が終審として裁判を行うことを禁ずる憲法七六条二項の趣旨に反することになると考える。裁判官の場合も他の公務員と同様不利益処分に対して司法救済のみちを開いておくべきである。
しかも、当裁判所において、抗告人が非訟法の定めの下で執り得る司法裁判に要請される適正手続に最大限近い手続による審理を受けることができなかったことは、懲戒事由の有無、懲戒権の存否など訴訟事件として判断さるべき事案につき適正手続下の公正な裁判を受ける権利(憲法三二条)を行使し得なかったこととなるというべきである。
五 要するに、当審において本件を処理するに当たっては、裁判所は公開裁判、口頭主義、直接主義など近代司法の諸原則の下にこれを審理するべきであり、こうした審理、判断であってこそ社会一般も当事者本人も納得させることができ、裁判所への信頼も高められるのであり、そうでない限り、当審の手続は違法たるを免れない。
+反対意見
裁判官河合伸一の反対意見は、次のとおりである。
私は、当審における審理を公開法廷で、直接、口頭により行うべきであるとする点において尾崎裁判官と考えを同じくし、抗告人の本件言動が裁判所法四九条及び五二条一号後段所定の懲戒事由たる「積極的に政治運動をすること」に該当しないとする点において遠藤裁判官及び元原裁判官と考えを同じくするものであるが、さらに、たとえ多数意見のいうとおり抗告人の本件言動をもって右懲戒事由に当たると解し得るとしても、懲戒処分をすることは差し控えるのが相当であると考えるので、その理由を述べておきたい。
一 憲法の保障する思想・信条の自由及びこれに伴う表現の自由は、政治について自己の見解や意見を持ち、それを表明する自由を含むものであり、裁判官も、国民の一人として、基本的にこれらの自由を有することは多言するまでもない。他方、裁判官が、司法に対する国民の信頼を維持するため、その職務を行うについて中立・公正でなければならないことはもとより、外見上も中立・公正を保つことが要請されることは、多数意見の説示するとおりである(裁判官がその職務を行うについて中立・公正でなければならないとの要請は、外見上の中立・公正の要請よりもはるかに強く、いわば絶対的なものである。しかし、本件は直接には裁判官の職務遂行に関するものではないから、以下では、その場合の中立・公正の要請については論じない。)。
二 問題は、裁判官の政治について見解等を表明する自由と、外見上中立・公正を保つことを要請されるという制約とを、いかにして調整し、調和させるかというところにある。
私は、これをするのはまず裁判官自身であり、かつ、制度としても、できる限り、各裁判官の自律と自制に期待すべきものと考える。
本来、裁判官は、高い職業的倫理観ないし良識を有する者であることが想定されている。そのことからすれば、右の調整ないし調和を、まず、裁判官自身の良識に基づく自律と自制にゆだねるのが、当然の順序である。裁判官は、もし何らかの政治的言動をするのであれば、その内容や表現方法はもとより、いわゆる時・所・機会を十分に吟味し、前記中立・公正の要請との調和を図らなければならない。もとより、その判断は常に容易であるとは限らず、殊に経験の浅い裁判官が迷い、ときに誤ることがあるかもしれない。しかし、裁判官は、一般に、比較的親密でしかも自由な職場で、先輩や同僚の意見に接し、助言を得ることができる環境にあるから、それらを得ながら、熟慮を重ねることによって、やがては右判断を適切に行い得る域に達することが期待できるのである。
裁判所法及び裁判官分限法が制定、施行され、裁判官が積極的に政治運動をすることが懲戒事由に該当するものとされてから既に半世紀を超えているのに、これまで右事由により懲戒された例はない。このことは、これまで裁判官が全体として右のような期待に十分こたえてきたことを示すとともに、今後ともその期待を基礎として制度を運用することの正しさを裏付けるものといえよう。
三 私が右のようにいうのは、それが、裁判官及び司法のあるべき姿に添うと信じるからである。
憲法七六条三項は「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。」と規定している。これは、個々の裁判官が裁判をするについての自主独立性を宣明するものである。裁判官は、不断に考究し、謙虚な自省を重ねつつ、自己の裁判官としての良心に従って、職務を行うのである。その裁判官の職務は、事実を確定し、憲法以下の法令を適用して裁判をすることであるが、現代の複雑かつ変化を続ける社会においてこれを適切に行うためには、単に法律や先例の文面を追うのみでは足りないのであって、裁判官は、裁判所の外の事象にも常に積極的な関心を絶やさず、広い視野をもってこれを理解し、高い識見を備える努力を続けなくてはならない。
このような、自主、独立して、積極的な気概を持つ裁判官を一つの理想像とするならば、司法行政上の監督権の行使、殊に懲戒権の発動はできる限り差し控え、だれの目にも当然と見えるほどの場合に限るとすることが、そのような裁判官を育て、あるいは守ることに資するものと信じるのである。
四 抗告人の本件言動それ自体は、要するに、「本件集会においてパネリストとして参加する予定であったが、所長から警告を受けたので取りやめる」との趣旨の発言をしたというものである。、多数意見は、右発言を、それに至る経緯等を背景に置いて評価し、裁判所法五二条一号後段の「積極的に政治運動をすること」という懲戒事由に該当するとしている。しかし、たとえそのような評価が可能であるとしても、それは、いわばぎりぎりの解釈によってである。その意味で、本件はいわゆる限界事例であり、だれが見ても右事由に該当することが明らかで、懲戒権の発動は当然であると見えるということはできない。
このような限界例にまで懲戒権を発動することが、特に若年の裁判官が前述のような自主、独立、積極的な気概を持つ裁判官に育つのを阻害することを、私は危倶する。殊に、右懲戒事由の要件は、「積極的に」といい、「政治運動」といっても、いずれも多義的な、相当に幅のある定めである。そのような幅のある要件について限界まで懲戒権が発動される例を見ることにより、裁判官の中に必要以上に言動を自制する者が現れはしないかと案ずるのである。
本件について、国民の一部から右と同様の危倶が表明されている。それらの多くは、司法が前述のような裁判官によって担われることを望み、懲戒権あるいは司法行政上の監督権が今後広く行使されることによって、その望みが達せられなくなるのではないかとの不安ないし不信を感じているものであろう。もとより、そのような不安ないし不信は杞憂であると考えるが、殊に本件が積極的政治運動を理由とする裁判官懲戒の初めての例であるだけに、そのような不安・不信を感じることも理解できないではない。そして、司法に対する国民の信頼の確保の観点からすれば、そのような不安、不信感を与えること自体、できる限り避けるべきものである。五 抗告人の本件言動を含む一連の言動は、裁判官として不適切であり、支持できるものではない。しかし、だからといって本件懲戒処分の当否の検討が不要となるわけではない。
分限裁判によって裁判官を懲戒する目的は、まず、当該裁判官をして反省させ、その将来の言動を是正しようとするところにあるが、これに加えて、他の裁判官一般に対して、基準を示して自戒を求め、ひいては、司法の中立・公正を国民の前に明らかにして、その信頼を確保しようとするところにもある。本件のような限界事案をもって前記事由による懲戒の初めての先例とすることは、裁判官に示すべき基準として適切でないばかりか、前述のとおり、裁判官一般及び国民に対し、かえって悪しき影響を及ぼすことが懸念されるのである。
六 以上のとおり、私は、たとえ抗告人の本件言動が裁判所法五二条一号後段に該当するといえるとしても、それを理由として懲戒処分をすることは相当でないから、いずれにしても原決定を取り消し、抗告人を懲戒しない旨の決定をすべきものと考える次第である。
+反対意見
裁判官遠藤光男の反対意見は、次のとおりである。
私は、抗告人の本件言動が裁判所法五二条一号所定の「積極的に政治運動をすること」に該当するものではなく、同法四九条所定の懲戒事由である職務上の義務違反行為に当たらないと考えるので、多数意見の結論には反対である。
一 「積極的に政治運動をすること」の意義及びその判断基準
1 憲法二一条一項が保障した表現の自由は、近代民主主義国家の一員である我が国の国民にとって、侵すことのできない永久の権利として付与された貴重な基本的人権の一つである。したがって、この権利は、何人に対しても最大限に保障されなければならないのであって、裁判官であるからといって、その保障の対象から除外される理由はない。もっとも、右自由も、必ずしも絶対的なものではなく、憲法上の他の要請により一定の限度において制約を受けることがあり得ることは、多数意見が指摘するとおりである。裁判所法五二条一号が裁判官に対し、「積極的に政治運動をすること」を禁止したことは、その禁止対象行為が「積極的な政治運動」のみに限定されていること、裁判官が置かれている特別な地位及びその職務内容の特殊性等からみて、やむを得ないものというべきである。
2 「積極的に政治運動をすること」の意義については、それ自体、かなり幅広い概念であって、これを一義的に定義付けることは困難である。
しかしながら、右の概念は、憲法二一条一項が保障した表現の自由に対する重大な制約としての意味を持つものである以上、でき得る限り厳格に解釈されなければならないことはいうまでもない。そして、その解釈の手掛かりとしては、裁判官の政治的行為につき定めていた旧裁判所構成法の制約条項と現行法である裁判所法の制約条項との比較、一般公務員の政治的行為につき定める国家公務員法の制約条項と裁判所法の制約条項との比較、各立法の背景的事実、それぞれの立法の趣旨、目的の違い等からみて、おおよその判断基準を設定することが可能であると考える。
3 旧裁判所構成法七二条一、二号は、判事は在職中「公然政事ニ関係スル事」及び「政党ノ党員又ハ政社ノ社員トナリ又ハ府県市町村ノ議員トナル事」を禁止していた。これに対し、裁判所法五二条一号は、禁止事項として「国会若しくは地方議会の議員となること」及び「積極的に政治運動をすること」を掲げている。このように、右各規定の間には、明らかに文意上の違いがみられる。すなわち、旧裁判所構成法が「政事ニ関係スル事」として、その禁止行為の範囲を幅広く、かつ、漠然と規定していたのに対し、裁判所法は、「積極的に政治運動をすること」とし、その行為を限定している。また、旧裁判所構成法が「政党ノ党員又ハ政社ノ社員」となることまでをも禁止していたのに対し、裁判所法においては、その旨の規定が意識的に排除されているのである。この違いは、単なる表現上の違いにとどまるものではなく、憲法の精神に由来した実質的相違点として理解されなければならない。けだし、旧憲法においても、臣民に対する表現の自由が一応保障されていたとはいえ(旧憲法二九条)、その内容は、「侵すことのできない永久の権利として付与された基本的人権」に基づくものとはほど遠いものであったのに対し、新憲法が保障した表現の自由は、これとは全く異質のものであったため、裁判所法五二条は、憲法二一条一項との抵触を回避するため、前記のように、極めて限定した条件の下に、その制約を認めることとしたものと解されるからである。
したがって、裁判所法は、新憲法の精神にかんがみ、裁判官が政党の党員又は政治結社の社員となることを容認しているばかりでなく、裁判官が社会通念的にみて相当と認められる範囲内の通常の政治運動をすることを認めているものと理解することができるのである。
4 そこで、「積極的な政治運動」と「通常の政治運動」とをどのように画すべきかが問題となるが、多数意見が指摘するとおり、この両者は、裁判官が置かれている憲法上の地位の特殊性(三権分立の原則に基づく独立性)とその職務の特殊性(中立性・公正性)を念頭において分別されるべきものと思われる。すなわち、裁判官は、名実ともに中立・公正に、かつ、すべての権力から独立してその職務を行わなければならないことはいうまでもないが、具体的な職務の遂行を離れてもまた、常に外見上、中立・公正らしさを保持していることが求められているのである。したがって、客観的にみて、そのような中立・公正らしさを保持していることが著しく疑われるような程度に達するような政治運動を行うことは厳に慎まなければならない。裁判所法が「積極的に政治運動をすること」を禁止したゆえんも、正にこの点にあると考えられる。しかし、裁判官といえども、裁判官である前に一市民である。一市民である以上、政治に無縁であり、無関心であり得るはずがない。政治的意識を持つことは当然であり、もともと何らかの政治的立場を保有していたとしても、何ら不思議ではない。現に、前述したとおり、裁判官が政党の党員となり、政治結社の社員となることが容認されている以上、これに準じる程度の政治運動を行うことが禁じられるいわれはない。また、その程度の行為をしたことだけで、裁判官に対し求められる外見上の中立性・公正性が直ちに損なわれることとなったとみるべきではない。けだし、憲法は、「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」と規定しているが(憲法七六条三項)、裁判所法は、裁判官がどのような政治的立場にあろうとも、その立場を超越して、前記規定に基づき忠実にその職権を行うことを期待したものとみてよく、現実にも、多くの裁判官は、その期待に十分こたえているとみられるからである。さらに、我が国における裁判官の政治運動の許容範囲をみるに当たり、社会的諸条件等を異にする諸外国の運用実態を安易に当てはめるべきでないことはいうまでもないが、それにしても、この問題に関する我が国の裁判所の伝統的な考え方は諸外国における考え方とはかなり異なっているように思われてならない。河合裁判官が指摘するとおり、裁判官は、裁判所外の事象にも常に積極的な関心を絶やさず、広い視野をもってこれを理解し、高い識見を備えるよう努めなければならないのであって、そのためにも、でき得る限り自由かっ達な雰囲気の中でその職務に従事することが望まれるのである。このような考え方は、近時国民各層の間に深く浸透しつつあるように思われる。そのような国民の意識からみても、裁判官が多少の政治運動に従事することがあったからといって、直ちにその独立性が失われ、外見上の中立性・公正性が損なわれるに至ったとみることは杞憂にすぎないというべきである。したがって、裁判所法は、裁判官が行った政治運動の態様が社会通念に照らしかなり突出したものであるがゆえに、将来、前記憲法上の要請を逸脱してその職権が行使されるおそれがあり、ひいては、そのことによって、裁判官に求められるその地位の独立性や前記外見上の中立性・公正性までもが著しく損なわれるに至ったと認められる場合に限り、これを禁止行為の対象としたものと解するのが相当である。
5 また、国家公務員法一〇二条及びこれを受けた人事院規則一四―七は、行政府に属する一般職の国家公務員の政治的行為を一定の範囲で禁止しているが、その規定の仕方は、裁判所法五二条一号で定めるところとは、やや異なったものとなっている。
その詳細については、多数意見が指摘しているとおりである。すなわち、国家公務員法及び人事院規則の前記各規定は、法自体が定める政治的行為のほか、右規則が定める政治的行為を禁止することとした上、同規則は、その政治的行為を具体的に列挙する形でこれを定めている。しかし、その範囲は、現実的にはかなり広範なものに及んでおり、しかも、積極的にこれらの行為を行うことを要件付けていない。これに対し、裁判所法は、「積極的に政治運動をすること」のみに限定してこれを禁止しているのであるが、その点に両者の違いが端的に現れている。多数意見は、裁判官に対する政治運動禁止の要請は、一般職の国家公務員に対する要請にも増してより強いものがあるとする。確かに、そのような一面があることは否定することができないが、他面また、行政府に属する一般職の国家公務員は、一たび決定された政策を団体的組織の中で一体となって忠実に執行しなければならない立場に置かれているのに対し、裁判官は、憲法と法律のみに制約されることを前提として独立してその職権を行うことが求められていることに加え、違憲立法審査権が付与されていることなど、その職務の執行面において大きな違いがみられる。このため、一般職の国家公務員に対しては、ある程度幅広くその行為を法的に制約することとしたものの、裁判官の政治的行動に対する制約については、法的強制力を伴った制約をできるだけ最小限度のものにとどめた上、裁判官一人一人の自制的判断と自律的行動にその多くを期待したとみることもできると思われるのである。したがって、裁判所法五二条一号所定の政治運動につき、その行為の修飾語として「積極的に」という言葉が付与されていることの意味は、極めて重く受け止められなければならないと考える。
そうだとするならば、右両規定の違いもまた、その判断基準を前記4のとおり、厳しく限定して解釈すべきものとすることについての重要な一指針となり得るものというべきである。
二 抗告人の言動と懲戒事由の該当性
1 抗告人の言動は、おおむね多数意見において認定されたとおりである。すなわち、抗告人は、いったんは本件集会に出席し、パネリストとして発言しようとしたものの、仙台地方裁判所長から注意されたため、パネリストとしての発言を断念し、会場の一般参加者席からその身分を明らかにした上、これを辞退した理由を説明したというのである。
2 もし仮に、抗告人が現実にパネリストとして登壇し、発言したとした場合、その具体的発言内容いかんによっては、「積極的に政治運動をした」と評価される場合があったかもしれないし、また、他の理由により(例えば、「品位を辱める行状」があったものとして)懲戒事由の存在が認められる場合もあり得るかもしれない。しかし、抗告人の言動が前記の域を超えるものでなかった以上、これによって、抗告人が「積極的に政治運動をした」とみることは困難というべきである。けだし、抗告人の言動は、その主観的意図、目的はともかくとして、(一)主として、いったん応諾したパネリストとしての発言を辞退する理由を説明するためされたものにすぎないこと、(二)特定の法案に反対である旨を表明するとともに、懲戒事由の成否に関する自己の見解を明らかにするにとどまっていること、(三)裁判官としての身分を明らかにした上での発言であることからみて、出席者に対して、事実上、多くの影響を与えたことは推測できないわけではないとしても、反対運動をせん動し、又は反対運動の進め方などにつき具体的かつ積極的な発言をしたものではなかったこと、などにかんがみると、右言動により、抗告人の裁判官としての独立性及び前記外見上の中立性・公正性が著しく損なわれるに至ったと断定することはできないと考えられるからである。
3 抗告人の言動には、遺憾と思われる部分が少なくない。例えば、朝日新聞に対する投書一つをとってみても、あたかも令状実務に携わる裁判官の多くが、検察官や警察官の言いなりになって安易に令状を発付しているかのような誤解を読者に与えかねない性質のものである。現実には、大部分の裁判官が心血を注いで誠実に令状実務に従事していることは疑いの余地がないが、抗告人の投書は、これらの裁判官に対し、耐え難い侮辱を与えたものであるばかりでなく、その実情を知らない多くの国民に対し、いわれなき司法不信の念を植え付けたものであって、その責任は誠に大きい。しかし、右の事情は、本件言動に至るまでの前提的事実にすぎないのであって、申立裁判所の申立て事実である本件言動自体の内容をなすものではない。したがって、この点をとらえて、抗告人を懲戒処分とすることは、許されるべきではない。
私は以上の理由により、抗告人には懲戒事由が存在しないものと考える。よって、原決定を取り消した上、抗告人を懲戒に付さない旨決定すべきである。なお、私は、当審において審問期日を開いた上その手続を公開して行うべきであるとする点において、尾崎裁判官と考えを同じくする。
+反対意見
裁判官元原利文の反対意見は、次のとおりである。
私は、多数意見と異なり、裁判官尾崎行信の反対意見に同調するほか、抗告人の本件言動は、裁判所法五二条一号に定める「積極的に政治運動をすること」には該当せず、同法四九条所定の職務上の義務に違反したことにはならないと考える。その理由は、次のとおりである。
一 裁判所法五二条は、憲法一五条二項、七六条三項、九九条、裁判所法七五条二項後段、七六条等の規定とともに、裁判官としての地位にある者の職務上の義務を定めたものである。したがって、裁判官がこれに反する行為をしたときは、裁判所法四九条に定める「職務上の義務に違反」したものとして、同条を受けて定められた裁判官分限法所定の手続により懲戒されることがあり、さらに、義務違反の程度が著しいときは、裁判官弾劾法所定の手続により罷免されることがあり得るのである。
すなわち、裁判所法五二条各号の定めは、その名あて人である各裁判官に対し、これに違反するときは懲戒あるいは罷免手続に付されることがあり得ることを予告することにより、同条各号の行為をすることを禁ずる職務上の行為準則を示したものであり、このことは、他方、右準則に違反した裁判官に対して懲戒権を行使する者につき、懲戒権行使の限界を画する意味を有するのである。
二 ところで、懲戒の対象となる行為を定める規定は、できる限り具体的かつ個別的であることが望ましい。具体的、個別的であることにより、名あて人はいかなる行為が禁じられているかを容易に知ることができ、懲戒権者も、名あて人が行為準則に反する行為をしたか否かを的確に判断できるからである。
もしその定めが包括的ないし多義的であるときは、その解釈をめぐって意見の相違を来すおそれのあることは明らかである。
懲戒権者は、規定をできる限り広義に解しようとするに対し、名あて人はこれを限定的に解しようとすることは避けられないからである。かくては、行為準則の内容をめぐる懲戒権者と名あて人間の共通の認識が失われ、行為準則を定めたことによる一般予防的な効果が期待できないこととなる一方、懲戒権者が懲戒権を行使するに当たり、行為準則の解釈がし意的であり、懲戒権の行使は不意打ちであるとの非難を被る余地を残すこととなるのである。
三 これを裁判所法五二条各号についてみると、国会又は地方公共団体の議会の議員となること、最高裁判所の許可のある場合を除いて報酬のある他の職務に従事すること、商業を営み、その他金銭上の利益を目的とする業務を行うことについては、その意味内容がそれぞれ一義的であって、その解釈適用については、まず疑問を生ずる余地がないと思われる。ところが、「積極的に政治運動をすること」の意義については、その解釈が区々になる可能性をはらむものと認めざるを得ない。「積極的に」といい、「政治運動」といっても、これを読む者の立場、認識のいかんによって、広狭いかようにも理解し得る表現だからである。
かかる規定を解釈するに当たっては、これが懲戒の対象となるべき行為を定めたものであることに思いを致し、懲戒権者と名あて人の双方が、共通の認識を分かち得るように、その字句から文理上導き出せるところに従い、客観的に中庸を得た視点でこれを行わなければならないと考える。
特に本件の場合、裁判所は懲戒権を行使する行政庁の立場にあるが、それを裁判という形式で行うものであるから、規定の解釈、適用に当たっては、右視点の保持に特に意を用いることが肝要であり、むしろ謙抑的な解釈態度をもって臨むことが望ましいとすら考えられるのである。
四 右の見地に立って、「積極的に政治運動をすること」の意義を考えると、字義に即していえば、「自から進んで、一定の目的又は要求を実現するために、政治権力の獲得、政治的状況の変革、政治的支配者への抵抗、あるいは政策の変更を求めて展開する活動」ということになろう。したがって、その意味するところは、単なる意見表明の域を超え、一定の政治目的を標ぼうする運動の中に自らの意思で身を投じ、目的実現のために活発に活動することを指すこととなるであろう。
また、行為の積極性は、行為者自身の意思とこれを表現する具体的行為の態様に即してこれを見るべきであって、行為の対象となった第三者自体が主体的に決定し、行動した内容について見るべきものでないことはもちろんである。
裁判所法制定当時の経緯及び公刊された同法の解説をみると、単に政党に加入して政党員になったり、一般国民の立場において政府や政党の政策を批判し、あるいは裁判官が講師をしている大学の講義中に特定政党の批判をすることなどは「積極的に政治運動をすること」には当たらないと解されてきたのである。すなわち、裁判所法は、裁判官が「政治運動」をすることの是非については、裁判官個人の職業的倫理感や良識にゆだね、これが「積極的」と評価し得る程度にまで及んだときに、初めて懲戒の対象となる行為としたものと理解できる。したがって、「積極的に政治運動をすること」の解釈は、この相違を念頭において行わなければならないものである。
五 そこで、本件集会における抗告人の言動が、右の意味における「積極的な政治運動」に該当するか否かを検討するに、抗告人の言動が、多数意見第一の一の2で認定されたとおり(ただし、「本件集会の参加者に対し」以降の記載を除く。)であるとしても、その発言の内容は、
(一) 当初は、盗聴法と令状主義というテーマのシンポジウムにパネリストとして参加する予定であったこと
(二) 所長から集会に参加すれば懲戒処分もあり得るとの警告を受けたため、パネリストとしての参加を取りやめたこと
(三) 仮に自分が法案に反対の立場で発言しても、裁判所法に定める積極的な政治運動に当たるとは考えていないこと
(四) しかし、パネリストとしての発言は辞退することであったというのである。
右のうち、(一)、(二)及び(四)は、パネリストとしての参加を求められていながら、参加と発言を辞退するに至った経過を説明したにすぎず、この発言のみに限っていえば、これを目して積極的な政治運動を行ったとまでは到底いい得ないであろう。
したがって、問題は、仮定的な表現となっている(三)の発言が、積極的な政治運動に該当するか否かであろうと思われる。確かに抗告人のこの発言は、出席者に対して、自己がパネリストとして発言するときには、盗聴法の内容に反対する立場から意見を述べる予定であったことを言外に伝える趣旨を含むものであり、抗告人が望んだのもかかる効果であったと理解することも可能である。しかしながら、この発言は、抗告人が、本件集会の出席者に対し、盗聴法の制定に対する反対運動に参加し、これを廃案に追い込むべきことを、明確かつ積極的に訴えかけていると認めるには程遠いものである。そうだとすると、抗告人の本件言動は、先に示した基準に照らし、いまだ積極的な政治運動をしたことには該当しないと解さざるを得ない。これをもって、反対運動を支援し、これを推進する役割を果たしたというのは、過大な評価である。
六 以上の次第であるから、原決定には、裁判所法五二条一号の解釈適用を誤った違法があるというべきである。よって原決定を取り消し、抗告人を懲戒に付さない旨を決定するべきである。
++解説
《解 説》
一 本件は、仙台地方裁判所判事補がいわゆる組織的犯罪対策法案を廃案に追い込むための運動の一環として開催された集会に参加して行った言動が、裁判所法五二条一号が禁止する「積極的に政治運動をすること」に該当し、同法四九条所定の懲戒事由である職務上の義務違反に当たるとして、仙台地方裁判所によって仙台高等裁判所に申し立てられた裁判官分限事件につき、同裁判所が戒告の裁判をしたのに対し、同判事補が最高裁判所に即時抗告を申し立てた事件である。裁判官分限事件の即時抗告審は、最高裁判所が事実認定をも行ったり、小法廷を経由せずに大法廷で審理することが義務付けられているなど、極めて異例の手続を有する。また、裁判官が右禁止規定に違反したことを理由に懲戒の申立てをされたことも、懲戒の裁判に対して即時抗告がされたことも初めてである。本件の抗告理由は憲法論を含む実体上、手続上の多くの点にわたるものであって、先例も文献も乏しい中で、本決定はそれらの点について大法廷が詳細な理由を付して初めての判断を示したものである。それらのうち主要なものが、判示事項として採り上げたものであり、一~四が実体上の問題、五、六が手続上の問題である。
二 本決定は、まず、証拠に基づいて、本件の懲戒の原因となる事実とこれに至る経緯について詳細に事実認定をし、右認定事実に基づいて、抗告人の本件言動の評価を行っている。その上で、本決定は、実体上の問題について、右懲戒の原因となる事実とされた本決定の理由第一、一2記載の抗告人の言動が、裁判所法五二条一号の禁止する「積極的に政治運動をすること」に該当するか否か、その前提として、右規定の解釈、裁判官に対し積極的政治運動を禁止することが裁判官の市民的自由(表現の自由)を侵害しないか、などの問題点について、要旨一~三のとおり判断した。
要旨一の判断は、裁判所法が「積極的に政治運動をすること」を禁止しているのは、憲法の要請に基づき、裁判官の独立及び中立・公正を確保し、裁判に対する国民の信頼を維持するとともに、三権分立主義の下における司法と立法、行政とのあるべき関係を規律することにその目的があるとの認識に基づいてされたものである。その判断の過程においては、従来右規定の解釈の重要な準拠となるといわれていた国家公務員法一〇二条、人事院規則一四―七の規定する「政治的行為」と「積極的に政治運動をすること」の異同についても判断が示されている。
また、要旨二の判断においては、裁判官にも表現の自由の保障が及ぶことは当然であるが、憲法上の特別な地位である裁判官の職にある者の言動にはおのずから一定の制約を免れないとした上で、国家公務員の政治的行為の制限の合憲性について判断した最大判昭49・11・6刑集二八巻九号三九三頁、本誌三一三頁一七一頁、判時七五七号三〇頁と同様の合憲性審査基準が用いられ、裁判官に対し「積極的に政治運動をすること」を禁止することは、合理的で必要やむを得ない限度にとどまる表現の自由の制限であり、憲法二一条一項に違反しないとされている。
要旨三の具体的当てはめの判断は、本決定が冒頭で判示している事実認定とその評価を踏まえてされている。すなわち、本件集会が組織的犯罪対策法案を廃案に追い込むことを目的とするという党派的な運動の一環として開かれたものであったこと、抗告人も他の集会参加者もそのような集会の目的を認識してこれに参加していたことなどに照らし、本件言動は、言葉の上ではそのように明言してはいないものの、集会参加者に対し、右法案が裁判官の立場からみて令状主義に照らして問題のあるものであり、その廃案を求めることは正当であるという同人の意見を伝える効果を有するものであったというほかはなく、抗告人は、これにより、右集会の開催を決定し右法案を廃案に追い込むことを目的として共同して行動している諸団体の組織的、計画的、継続的な反対運動を拡大、発展させ、右目的を達成させることを積極的に支援しこれを推進する行為をしたと認められた。そして、本決定は、右のような党派的運動を拡大、発展、支援、推進する言動をしたことが、裁判所法五二条一号にいう「積極的に政治運動をすること」すなわち「組織的、計画的又は継続的な政治上の活動を能動的に行う行為であって裁判官の独立及び中立・公正を害するおそれがあるもの」に当たると判断したものである。
その上で、本決定は、裁判官の懲戒事由を定める同法四九条と右禁止規定との関係についても判断を示し、同条にいう「職務上の義務」は、裁判官が職務を遂行するに当たって遵守すべき義務に限られるものではなく、純然たる私的行為においても裁判官の職にあることに伴って負っている義務をも含むという解釈を示した上、要旨四のとおり、右禁止に触れる行為は「職務上の義務」に違反するものとして懲戒の対象となると判断した。同条の右解釈は、例えば評議の秘密(同法七五条)を純然たる私的行為に際して漏らす行為が「職務上の義務」違反に当たることが明らかであることからも、是認されよう。そして、本決定は、以上のような認定判断の結果、本件の一切の事情にかんがみて、抗告人を戒告することを相当とし、抗告を棄却したものである。
三 次に、手続上の問題としては、抗告人は様々な主張をしたが、原審が審問手続を非公開で行ったことから、裁判官分限事件に憲法八二条一項の適用があり審問手続を公開の法廷において行わなければならないかが、最大の問題であり、本決定は、要旨五のとおり、同項の適用を否定し、このように解しても、一般の公務員に対する懲戒との対比上も、手続保障に欠けるということはできないとしている。裁判官分限事件の裁判が同項にいう「裁判」に当たらないということについては、憲法の概説書、注釈書等においても一般的に説かれているところであり(例えば、宮沢俊義=芦部信喜・全訂日本国憲法六九五頁、佐藤功・憲法(下)〔新版〕一〇七二頁、樋口陽一外編・注釈日本国憲法下巻一二九六頁〔浦部法穂〕)、あまり異論をみないが、判例としては初の判断である。そして、右の憲法解釈の結果、審問の非公開を定める非訟事件手続法一三条の規定は、裁判官分限事件の性質に反しないから、裁判官の分限事件手続規則七条によって分限事件に準用されることになるものとされている。
また、手続上の問題として、原審が会議室のスペースの関係から審問期日に立ち会うことができる代理人の数を三五人に制限した措置が問題とされたが、本決定は、要旨六のとおり判断して、民事訴訟や非訟の手続については、明文の規定はないが、裁判所の指揮権行使の一態様として立会代理人数の制限をすることも許されるとした。この判断は、分限事件以外にも当てはまるものと解される。
そのほかの手続上の問題に関する判断については、本決定自体を読まれたい。
四 本決定には、「積極的に政治運動をすること」が直ちに「職務上の義務」に違反することにはならないから抗告人を懲戒することはできないとする園部裁判官の反対意見、「積極的に政治運動をすること」をより厳格に解して、これへの本件言動の該当性を否定する遠藤裁判官、元原裁判官の各反対意見、仮に該当するとしても本件において抗告人を懲戒するのは相当でないとする河合裁判官の反対意見、公開の法廷において期日を開いて本件の審理をすべきであるとする尾崎裁判官の反対意見がある。
・労働基本権は、団結権、団体交渉権、団体行動権(争議権)の3つからなり、労働三権と言われている。このうち団結権は、労働者を団結させて使用者の地位と対等に立たせるための権利でありもっとも基本的な権利であるが、現行法上、警察職員・消防職員・自衛隊員等は団結権が制限されている!
・一切の公務員の団体交渉権及び争議権を否認する昭和23年政令201号の合憲性が争われた判例は、憲法13条の「公共の福祉」と憲法15条の「全体の奉仕者」を根拠に(×特別権力関係にに服すること)、公務員の労働基本権の一律禁止を合憲としている!!!!
+判例(S28.4.8)政令201号事件
理由
弁護人森長英三郎の上告趣意第一点について。
被告人又は弁護人においてある法令が憲法違反であるとの主張をした場合に、裁判所が有罪判決の理由中にその法令の適用を挙示したときは、即ちその法令は憲法に適合するとの判断を示したものに外ならないと見るべきであること、当裁判所の判例(昭和二二年(れ)第三四一号、同二三年一二月二二日大法廷判決、刑集二巻一四号一八四五頁)の示すとおりである。それ故に本件の被告人側において所論政令第二〇一号が違憲無致であると主張したのに対し、原判決が特にその判断を明示しないで同政令を適用したからとて、これを以て所論のような違法あるものということはできない。論旨は理由がない。
同第二点について。
昭和二〇年勅令第五四二号は、わが国の無条件降伏に伴う連合国の占領管理に基いて制定されたものである。世人周知のごとく、わが国はポツダム宣言を受諾し、降伏文書に調印して、連合国に対して無条件降伏をした。その結果連合国最高司令官は、降伏条項を実施するため適当と認める措置をとる権限を有し、この限りにおいてわが国の統治の権限は連合国最高司令官の制限の下に置かれることとなつた(降伏文書八項)。また、日本国民は、連合国最高司令官により又はその指示に基き日本国政府の諸機関により課せられるすべての要求に応ずべきことが命令されており(同三項)、すべての官庁職員は、連合国最高司令官が降伏実施のため適当であると認めて、自ら発し又はその委任に基き発せしめる一切の布告、命令及び指令を遵守し且つこれを実施することが命令されておる(同五項)。そして、わが国は、ポツダム宣言の条項を誠実に履行することを約すると共に、右宣言を実施するため連合国最高司令官又はその他特定の連合国代表者が要求することあるべき一切の指令を発し且つ一切の措置をとることを約したのである(同六項)。さらに、日本の官庁職員及び日本国民は、連合国最高司令官又は他の連合国官憲の発する一切の指示を誠実且つ迅速に遵守すべきことが命ぜられており、若しこれらの指示を遵守するに遅滞があり、又はこれを遵守しないときは、連合国軍官憲及び日本国政府は、厳重且つ迅速な制裁を加えるものとされている(指令第一号附属一般命令第一号一二項)。それ故連合国の管理下にあつた当時にあつては、日本国の統治の権限は、一般には憲法によつて行われているが、連合国最高司令官が降伏条項を実施するため適当と認める措置をとる関係においては、その権力によつて制限を受ける法律状態におかれているものと言わねばならぬ。すなわち、連合国最高司令官は、降伏条項を実施するためには、日本国憲法にかかわりなく法律上全く自由に自ら適当と認める措置をとり、日本官庁の職員に対し指令を発してこれを遵守実施せしめることを得るのである。かかる基本関係に基き前記勅令第五四二号、すなわち「政府ハポツダム宣言ノ受諾ニ伴ヒ聯合国最高司令官ノ為ス要求ニ係ル事項ヲ実施スル為、特ニ必要アル場合ニ於テハ命令ヲ以テ所要ノ定ヲ為シ及必要ナル罰則ヲ設クルコトヲ得」といふ緊急勅令が、降伏文書調印後間もなき昭和二〇年九月二〇日に制定された。この勅令は前記基本関係に基き、連合国最高司令官の為す要求に係る事項を実施する必要上制定されたものであるから、日本国憲法にかかわりなく憲法外において法的効力を有するものと認めなければならない。されば論旨は採るを得ない。
同第三点について。
(一) 昭和二〇年勅令第五四二号に基いて命令を制定するためには、連合国最高司令官の要求がなければならぬこと所論のとおりであるが、連合国最高司令官の意思表示が要求であるか又は単なる勧告又は示唆に止まるものであるかは、その意思表示が文書を以てなきれたか口頭によつてなされたか、或は指令、覚書、書簡等如何なる名義を以てなされたかというような形式によつて判定さるべきではなく、意思表示の全体の趣旨を解釈して実質的に判断されなければならない。そこで昭和二三年七月二二日附連合国最高司令官の内閣総理大臣宛書簡を見ると、マツクアーサー元帥は、国家公務員法の改正についてその方針を指示した上、「本改革の成功が占領政策の第一義的目標の一つ」であると言い、次いで「余が国家公務員法を全面的に改正してここに論議された考え方の体制に適合せしめることが時を移さず着手さるべきであると考えたのは、以上の目的達成のためである」と述べ、更らに「本件に関し貴下を援助する可く本司令部は従前通り助言と相談に応ずるであろう」と附言している。これらの文言並にこの書簡が発せられた前後における諸般の事情を合わせ考えてみると、この書簡は、昭和二三年政令第二〇一号に盛られたような改正の方向を指示し要求したものであるのみならず、その具体的内容も右の要求を実現するために必要なものとして連合国司令部が指示したものであると認められる。
(二) 昭和二〇年勅令第五四二号に基く命令を発し得るのは、国会の議決を求めるいとまなき場合に限るという法規は存しないのであるから、所論のように昭和二三年政令第二〇一号の制定の際に、国会を召集するいとまがあつたとしても(実際そのいとまがあつたか否かは爰に論ずるまでもなく)、そのことは右の政令を違法又は無致のものとする理由とはならない。
(三) 論旨はマツクアーサー元帥の書簡にいわゆる公務員とは高級官僚の意味であると主張するけれども、その援用する同書簡中の文言は、このような主張の論拠として薄弱であるのみならず、却て書簡全体の趣旨を綜合すれば、そのいわゆる公務員の中には下級官僚や現業の職員を含むものと解される。例えば同書簡は、従来の国家公務員法の欠陥として、「少数者が団結して政府の権限と権威に加える圧力に対し積極的な保護を与えるもので無」かつた点や、「政府における職員関係と私企業における労働者関係の区別が著しく明確を欠いて」いた点を挙げ、「政府関係に於ては労働運動は極めて制限された範囲に於て適用せらるべきであり、正当に設定せられて主権を行使する行政、司法、立法の各機関にとつて代り或はこれ等に挑戦することはゆるされない」と言い、「国民の団結と公共利益の優越とを宣言している憲法の根本理念」を防護するためには「政府の権能の如何なる一部分も私的の団体若しくは一部の階級にこれをわかち授け、若しくは奪われることはできない」と述べ、また「その勤労を公務に捧げる者と私的企業に従う者との間には顕著なる区別が存在する」「雇傭若しくは任命により日本政府機関若しくはその従属団体に地位を有する者は、何人といえども争議行為若しくは政府運営の能率を阻害する遅延戦術その他の紛争戦術に訴えてはならない。」「団体交渉は国家公務員制度に適用せられるに当つては明確なそして変更し得ない制限を受ける。」と説いている。これ等の語句を、その発せられた当時国鉄、全逓等の労働組合が政府に対して強力な労働攻勢を展開しようとしていた緊迫した情勢と合わせ考えるならば、現業官庁従業員の争議行為を規制することこそ正にこの書簡の主たる目的の一であつたとさえ解される。尤も鉄道並に塩、煙草等の専売など政府事業の職員は普通職から除外せられて良いと述べてはいるが、しかしこれ等の職員についても、「その雇傭せられている責任を忠実に遂行することを怠り、為に、業務運営に支障を起すことなきよう公共の利益を擁護する方法が定められなければならない」と要求している。してみれば、マツクアーサー書簡は高級官僚に関するものであるのに、本件政令第二〇一号は下級官公吏や現業労働者の争議行為を規制しているから、その内容がくいちがつているという論旨は到底採用することができない。
(四) 一般労働委員会による調停、仲裁、斡旋等の紛争処理手段は、団体交渉権及び争議権を有する労働組合の存在を前提とする。それ故にマツクアーサー書簡が既に公務員の団体交渉権及び争議権を否認している以上、労働委員会による調停、仲裁、斡旋なども当然認められなくなつたものと考えなければならない。同書簡にも、公務員がその雇傭条件の改善を求めるためにその希望や不満等を政府に申出る権利は認めているが、それ以外に所論のような紛争処理手段を認めたものと解すべき趣旨は見出されない。してみれば本件政令第二〇一号が、現に係属中の国又は地方公共団体を関係当事者とするすべての斡旋、調停又は仲裁に関する手続を中止することにしたとしても、これを以てマツクアーサー書簡の要求範囲を逸脱した不法あるものということはできない。
(五) マツクアーサー書簡が、政府には常に政府職員の福祉並に利益のために十分な保護の手段を講じなければならぬ義務あるものとしていることは所論のとおりであるが、官公吏の労働条件の改善は、必ずしも所論のように団体交渉権禁止の先決問題とせられているわけではないから、臨時応急的性格を有する本件政令第二〇一号においては、とうあえず団体交渉権禁止の点だけを規定し、労働条件改善については別途の措置を講ずるものとしたとしても、所論のように本件政令がマツクアーサー書簡を曲解した違法のものであるとは言えない。
以上のような次第で本件政令第二〇一号が昭和二〇年勅令第五四二号の要件を充たさないから無效であるとの論旨は、いずれも理由がない。
同第四点について。
国民の権利はすべて公共の福祉に反しない限りにおいて立法その他の国政の上で最大の尊重をすることを必要とするのであるから、憲法二八条が保障する勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利も公共の福祉のために制限を受けるのは已を得ないところである。殊に国家公務員は、国民全体の奉仕者として(憲法一五条)公共の利益のために勤務し、且つ職務の遂行に当つては全力を挙げてこれに専念しなければならない(国家公務員法九六条一項)性質のものであるから、団結権団体交渉権等についても、一般の勤労者とは違つて特別の取扱を受けることがあるのは当然である。従来の労働組合法又は労働関係調整法において非現業官吏が争議行為を禁止され、又警察官等が労働組合結成権を認められなかつたのはこの故である。同じ理由により、本件政令第二〇一号が公務員の争議を禁止したからとて、これを以て憲法二八条に違反するものということはできない。
また憲法二五条一項は、すべての国民が健康で文化的な最低限度の生活を営み得るよう国政を運営すべきことを国家の責務としして宣言したものである(当裁判所昭和二三年(れ)二〇五号同年九月二九日大法廷判決、刑集二巻一〇号一二三五頁)。公務員がその争議行為を禁止されたからとてその当然の結果として健康で文化的な最低限度の生活を営むことができなくなるというわけのものではないから、本件政令が憲法二五条に違反するという主張も採用し難い。
要するに論旨いずれも理由がない。
同第五点について。
公務員は本件政令第二〇一号により、その二条一項に該当するいわゆる職場離脱を禁止せられたけれども、人格を無視してその意思にかかわらず束縛する状態におかれるのではなく所定の手続を経れば何時でも自由意思によつてその雇傭関係を脱することもできるのである。それ故、所論のように同政令が憲法一八条にいわゆる奴隷的拘束を公務員に加え、その意に反して苦役を科するものであるということはできない。論旨は理由がない。
同第六点について。
論旨は被告人等が何等かの要求を提出しその要求を実現するために行動したものであるという証拠はないのであるから、原判決がその所為を争議手段と認めたのは違法であるというのである。しかし原判決挙示の証拠、就中被告人Aに対する本件第一審第一回公判調書中の同人の供述記載によれば、被告人等の所属する国鉄労働組合青森支部弘前機関区分会が国家公務員法改正反対、五千二百円べース即時実施、芦田内閣打倒等の項目を挙げて闘争方針を定めたこと、並に機関区の者達が庫内手や機関車乗務員の劣悪な待遇の改善に関する政府の冷淡な態度に対し被告人等の当然の権利を奪還するために、また憲法、ポツダム宣言等に違反し、団体交渉権争議権を奪う本件政令は無効なものであるとの主張を貫徹するために祖国独立推進青年行動隊を結成して闘争したものであることがわかる。被告人等は政府に対するこのような主張を貫徹する手段として職場を離脱したものであるから、原判決がこれを本件政令第二〇一号二条一項にいわゆる争議手段にあたるものと認めたのは正当であつて、論旨は理由がない。
弁護人小沢茂の上告趣意第一点について。
昭和二〇年勅令第五四二号が違憲であるとの論旨(1、2、3)及び昭和二三年政令第二〇一号が右勅令に定めた要件を充たさないから無效であるとの論旨(4)いずれの点も理由なきことは、それぞれ森長弁護人の上告趣意第二点及び第三点について述べたとおりである。
次に論旨(5)は、政令第二〇一号は憲法七三条に違反するから無效であると主張するが、既に森長弁護人の上告趣意第二点について述べたように、勅令第五四二号が憲法にかかわりなく憲法外において法的效力を有する以上、この勅令に基いて制定された勅令第二〇一号も亦右憲法の規定にかかわりなく有効である。
更らに勤労者の団結権、団体交渉権、団体行動権に関する事項は法律を以て規定すべきであるのに、政令を以てこれを規定したのは違憲であるとの論旨(6)も亦、右と同様の理由によりて政令第二〇一号を無数とする理由とならない。論旨(6)はなお右政令第二〇一号が政令でありながらその一条二項において、本来法律を以て規定すべき勤労条件に関する基準的事項を規定したことを以て憲法二七条に違反するものであると主張しているが、原判決は右政令一条二項を本件に適用していないから、これは本件と関係なき主張である。
最後に政令第二〇一号が憲法二八条に定めた基本的人権を侵すものであるとの論旨(6)の理由なきことは、森長弁護人の上告趣意第四点について述べたとおりである。
同第二点について。
前記のように政令第二〇一号は憲法にかかわりなく有效である。従つてまた当然に憲法に基いて制定された労働組合法、労働関係調整法等にかかわりなく有数である。換言すればこれ等の法律の規定は政令第二〇一号に矛盾する限り廃止又は変更されたこととなるのであるから、原判決が本件に前者を適用せずして後者を適用したのは当然である。論旨は理由がない。
同第三点について。
昭和二三年政令第二〇一号にいわゆる公務員の中に国鉄従業員を含まないという論旨の理由なきことは、森長弁護人の上告趣意第三点((三))について述べたとおりである。
同第四点について。
原判決の確定したところによれば、被告人B、同Cは、昭和二三年八月二四日免雇に至るまで各仙台鉄道局弘前機関区勤務の機関助士であり、同Dは、同年同月三〇日免雇に至るまで同機関区勤務の技工であり、また、同Aは、同年同月二七日免雇に至るまで同機関区勤務の庫内手であつた者で、いずれも、判示のごとく国鉄業務運営の能率を阻害する争議手段をとつた者である。しかるに、昭和二三年七月三一日公布の政令第二〇一号一条によれば、任命によると雇傭によるとを問わず、国又は地方公共団体の職員の地位にある者は、同令にいわゆる公務員であつて、同令二条、三条によれば、かかる公務員は、何人といえども、同盟罷業又は怠業的行為をなし、その他国又は地方公共団体の業務の運営能率を阻害する争議手段をとつてはならないものであつて、これに違反する行為をしたときは、国又は地方公共団体に対し、その保有する任命又は雇傭上の権利をもつて対抗することがてきないばかりでなく、一年以下の懲役又は五千円以下の罰金に処されるものである。されば、被告人等は、いずれも、同政令にいわゆる公務員として同政令二条一項に違反し、同三条に該当するものといわなければならない。
そして、同政令附則二項によれば、同令は、昭和二三年七月二二日附内閣総理大巨宛連合国最高司令官書簡に言う国家公務員法の改正等国会による立法が成立実施されるまで、その効力を有するに過ぎない性格の法令であり、しかも、右書簡に言う国家公務員法の第一次改正法律(昭和二三年一二月三日法律第二二二号国家公務員法の一部を改正する法律)附則八条は、「昭和二三年七月二二日附内閣総理大臣宛連合国最高司令官書簡に基く臨時措置に関する政令(昭和二三年政令第二〇一号)は、国家公務員に関して、その致力を失う。前項の政令がその致力を失う前になした同令第二条第一項の規定に違反する行為に関する罰則の適用については、なお従前の例による。」と明定して、当時既に同政令に違反して成立した同令の刑罰を廃止しない旨を表明しているのである。従つて、被告人等の判示在職中の前記政令第二〇一号二条一項の違反行為に対する罰則の適用については、依然として同令三条によるべきものといわなければならない。それ故、所論は、いずれも採用することはできない。
同第五点について。
原判決は被告人等が判示日時に、無届でその職場を欠勤し以て国鉄業務運営の能率を阻害する争議手段をとつた旨を判示している。判決書には罪となるべき事実を具体的に記載すれば足るのであるから、原判決は本件政令第二〇一号違反の犯罪事実を判示するものとして欠けるところなく、それ以上に本件無届欠勤が何故に犯罪となるかの理由等を判示する必要はない。論旨は理由がない。
同第六点について。
昭和二三年政令第二〇一号が憲法違反であるとの主張に対して原判決が判断を示していないという非難の理由なきことは、森長弁護人の上告趣意第一点について述べたとおりである。
同第七点について。
被告人等は所論のように本件政令が違憲のものであるとの見解を抱いていたという理由によつて罰せられたのではなく、その主張を貫徹するために職場離脱により国鉄運営の能率を阻害する争議手段をとつたがために処罰せられたのである。病人の無届欠勤の場合との相違は、如何なる見解を抱いていたかの点にあるのではなくして、争議手段として欠勤したか否かの点にある。それ故に原判決が憲法一九条及び二一条に違反するという論旨は理由がない。
弁護人福田力之助の上告趣意第一点及び第二点について。
昭和二〇年勅令第五四二号が新憲法下で無致であるとの論旨(第一点)及び昭和二三年政令第二〇一号が違法であるとの主張(第二点)がいずれも理由なきことは、それぞれ森長弁護人の上告趣意第二点及び第三点((一)及び(二))について述べたとおりである。
同第三点について。
原判決は、被告人B及びCは仙台鉄道局弘前機関区勤務の機関助士、同Dは同機関区勤務技工、同Aは同機関区勤務庫内手であるという事実を、それぞれ原審公判廷における各自供に基いて認定し、これ等の身分はいずれも昭和二三年政令第二〇一号にいわゆる公務員にあたるものとして、同政令を適用したのである。同政令においては、任命によると雇傭によるとを問わず、国又は地方公共団体の職員の地位にある者を公務員という(一条)のであるから、被告人等のような職員が公務員であることは明らかである。それ故原判決に所論のような違法あるものということはできない。論旨は理由がない。
同第四点について。
本件政令第二〇一号違反の罪が成立するためには、必ずしも業務の運営能率を阻害するという具体的結果が現実に発生することを必要とするのではなく、争議手段としてなされた行為が、その性質上通常国又は地方公共団体の業務の運営能率を阻害する危険性あるものであれば足りるのである。そうして本件の職場抛棄がいずれもこのような危険性あるものであることは明らかなところである。従つてこの点に関して原判決の理由不備を主張する論旨は採用することができない。
なお被告人等の無断欠勤を争議手段ということはできないと主張する論旨の理由なきことは、森長弁護人の上魯趣意第六点について述べたところによりおのずから明らかであろう。
同第五点について。
被告人等の所為が本件政令第二〇一号のいわゆる争議手段に該当するものであることは、森長弁護人の上告趣意第六点について説明したとおりである。そうだとすれば、原判決がこれに同政令を適用して処罰したのは当然であつて、そのことを非難する論旨はいずれも理由がない。
弁護人青柳盛雄の上告趣意について。
昭和二〇年勅令第五四二号及び昭和二三年政令第二〇一号が違憲無効であるとの論旨の理由なきことは、それぞれ森長弁護人の上告趣意第二点及び第四点について説明したとおりである。
弁護人岡林辰雄の上告趣意第一点について。
有罪判決には、罪となるべき事実、証拠によりこれを認めた理由並びに法令の適用を示すだけで事足り、刑の量定や執行猶予言渡の理由を示す必要はない。それ故原判決が、被告人B他二名に対して何故に執行猶予の言渡をしたかの理由を判示しなかつたからとて、これを以て所論のような違法あるものということはできない。
なお原判決が被告人Aに対して執行猶予の言渡をしなかつたのは、同人がE党員であるが故であるとは認められないから、このことを前提とする論旨はいずれも全く理由がない。
同第二点について。
被告人Aは、原審において被告人B、同D及び同Cと併合審理を受けたが共犯ではない。また原判決が被告人Aに負担させた訴訟費用は、同被告人の特別弁護人中嶋輝年が同被告人のために申請した(記録四二一丁)証人Fに対して支給されたものであつて、この証人費用がA被告人のために特に要した訴訟費用であることは、原審公判調書に照らしてみて明らかである。してみれば原判決が訴訟費用をA被告人の単独の負担としたことは当然であつて所論のような違法はない。また判決書に訴訟費用を負担せしめた理由を記載する必要のないことはいうを俟たない。なお原判決はA被告人がE党員であるが故にこれに訴訟費用を負担せしめたものであるとは認められないから、所論はすべて理由がない。
同第三点について。
原判決はG外五名に対する政令第二〇一号違反被告事件記録中被告人Bに対する検察事務官の訊問調書中同人の供述記載及び同記録中の検事の宮川武彦に対する聴取書中同人の供述記載並びにH外二名に対する政令第二〇一号違反事件記録中検察事務官のHに対する第一回聴取書中同人の供述記載を証拠として挙示している。論旨は、右の被告事件なるものが如何なる裁判所の被告事件であるかすら明らかでないから、違法であると主張するのであるが、記録を調べてみると、右被告事件は本件記録中第一審裁判所並びに原審裁判所の被告事件であること明瞭であるばかりでなく、右の各聴取書及び訊問調書はいずれも原審公判に顕出され適式の証拠調の手続が行われたものであるから、原判決がこれ等を証拠として採用したことには所論のような違法はない。
また所論Iの聴取書は、所論のように単なる推測を供述したものではなく、事実に関する同人の過去の見聞の供述であること明白であるから、原判決がこれを証拠として採用したことには何等の違法もなく、論旨は理由がない。
同第四点について。
原審公判廷においてA被告人が、庫内手、機関車乗務員の給与が甚だ悪いに拘らず、政府はその改善について何等の措置をもとらないので、自分等の当然の権利を奪還するために闘つているのである、という趣旨の供述をしたことは所論のとおりである。しかし、政府が給与の改善について有效な措置をとつたか否かということは罪となるべき事実の記載として必要なきことであるから、原判決がそのことについての判断を示さなかつたからといつて、所論のような違法あるものということはできない。論旨はそのことを以て憲法三七条に違反するものであると主張しているが、憲法三七条にいわゆる公平な裁判所の裁判とは、構成その他において偏頗のおそれなき裁判所の裁判という意味であること、当裁判所の判例(昭和二二年(れ)第一七一号、同二三年五月五日大法廷判決)の示すとおりであるから、この場合にあたらない。論旨はすべて理由がない。
同第五点について。
マツクアーサー書簡が国家公務員制度を法律によつて改正することを要求しているという前提に立つて昭和二三年政令第二〇一号の無数を主張する論旨については、同書簡はその指令を実施するための応急的措置として命令によつて公務員法を改正することを許さない趣旨とは認められないから、これを採用することができない。その他の論旨いずれも理由なきことは、森長弁護人の上告趣意第二点第三点及び第四点並びに小沢弁護人の上告趣意第一点について述べたところによつて明らかである。
同第六点について。
刑事裁判は公訴の提起のあつた被告人を裁判するものであるから、仮りに所論のように内閣総理大臣、運輸大臣等の高級職員が被告人等を免雇し懲戒したことが本件政令第二〇一号に違反する争議手段であつたとしても、起訴されない以上裁判所ばこれを処罰することはできない。裁判所が起訴されないものを罰しなかつたことは、起訴された本件被告人等の処罰の合法性を少しでも左右する理由とはならない。論旨は、政府高級職員に対する起訴がないならば、当然に本件被告人の審理を拒否し、公訴棄却又は無罪の判決をすべく、さもなければ憲法三七条に違反することとなると主張するが、憲法三七条に公平な裁判所の裁判というのは、上に第四点について説明したとおりであるから、右のような場合はこれにあたらない。なお本件政令のいわゆる公務員の中には国鉄現業員たる被告人等を含まないという論旨の理由なきことは、森長弁護人の上告趣意第三点((三))について説明したところによつておのずから明らかであろう。要するに論旨はいずれも理由がない。
同第七点について。
論旨の理由なきこと、既に小沢弁護人の上告趣意第四点について述べたとおりである。
よつて旧刑訴四四六条に従い主文のとおり判決する。
この判決は裁判官栗山茂の意見、裁判官真野毅の反対意見を除く他の裁判官全員一致の意見によるものである。
++意見
裁判官栗山茂の意見は次のとおりである。
(一) 弁護人森長英三郎の上告趣意第二点について。
ポツダム宣言受諾の効果として契約関係の基礎において「わが国の統治の権限が連合国最高司令官の制限の下におかれることになつた」と解するのが多数意見である。この見解はポツダム宣言の受諾に伴い成立した休戦条約の実施と同時に開始された占領の性質を正解しないのによるものであるから左の理由により同調できない。この意見は弁護人小沢茂の上告趣意第一点、同福田力之助の上告趣意第一点及び第二点、同青柳盛雄の上告趣意、同岡林辰雄の上告趣意第五点において多数意見が森長弁護人の上告趣意第二点の説明を援用している場合にもそれぞれ援用するものである。
(1) ポツダム宣言の条項中には敵対行為の停止に関する軍事条項(軍隊の無条件降伏の如き)と平和の予備条項(領土の割譲軍隊の帰還等の如き)とが含まれていて、いずれも相手国の合意を前提とするものである。―而して当事国の合意によつて敵対行為が停止されるものは国際法上休戦条約と呼ばれるものである。―他方同宣言の条項中には連合国は相手国の合意を前提としないものがある。戦争犯罪人の処罰の如き新秩序建設(内政干渉)のためにする占領の如きはそれである。しかし相手国の合意を前提とはしないがその実施には我方の協力が望ましいから(例えば占領行政の如き)その協力が要求されたのである。
(2) ポツダム宣言の条頃中相手国の合意を前提とするものについてはポツグム宣言の受諾は休戦条約の成立を意味するものであるが、(而して休戦条約はいわゆる降伏文書の調印に終るポツダム宣言の受諾に関する一連の往復文書によつて成立したと解すべきである)右休戦の成立にかかわらず連合国は同宣言第七項で「新秩序ガ建設セラレ且日本国ノ戦争遂行能力ガ破砕セラレタコトノ確認アルマデ」日本国領土内の諸地点を占領する旨を宣明している。而してこれについて降伏後における米国の初期の対日方針は「右占領ハ日本国ト戦争状態ニ在ル聯合国ノ利益ノ為行動スル主要聯合国ノ為ノ軍事行動タルノ性質ヲ有スベシ」と説明している。(尤も休戦と日本の場合のような軍事行動の拡大となる占領とはたとえ戦争状態が存続していても両立しないものであるから国際法上はこの点は問題とする余地がある。)即ち軍事行動である占領は敵の同意を前提とするものでないから連合国の意図は右占領を休戦から除外し、たとえ休戦条約が成立してもその成立に当つて占領を留保しているものと解すべきである。それ故一九四五年八月一一目附で米英い中の四国政府の名において米国政府が日本国政府の同月一〇日附申入に対する回答において「降伏ノ時ヨリ天皇及日本国政府ノ国家統治ノ権限ハ降伏条項ノ実施ノ為其ノ必要ト認ムル措置ヲ執ル連合国最高司令官ノ制限ノ下ニ置カルルモノトス」と答えたのはとりもなおさず、休戦実施の時(それは同時に占領開始の時である。)から被占領地域は事実上占領軍司令官の権力内に置かれるから(へ―グ陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則四条)右権力の行使と両立しない限度において被占領国の統治の権限が事実上制限されることを指摘したのである。而して降伏文書第八項はこれを受けて同趣旨を重ねて宣明しているものである。
(3) 我方はボツダム宣言の条項で当事国の合意を前提とするものについては我方が誠実に履行するのは固より、同宣言の条項中その合意を前提としないものについても我方の協力を約束したのである。降伏文書第六項がそれである。即ち連合国は降伏文書において我方をして「ポツダム宣言ノ条項ヲ誠実ニ履行スルコト並ニ右宣言ヲ実施スル為連合国最高司令官又ハ其ノ他特定ノ連合国代表者ガ要求スルコトアルベキ一切ノ命令ヲ発シ且斯ル一切ノ措置ヲ執ルコト」を約束せしめたのである。しかし我方が連合国軍の占領行政に協力することを応諾してもそのために占領の性質には変りはない。この約束は占領軍からすれば占領行政が支障なく運行されることであり他方被占領国からすれば国際法上占領軍の命令に服従すべき彼占領国民の義務と併せて日本国政府の協力義務があるということである。さればこの約束があるからといつて連合国最高司令官の被占領国民に対し行使する権力とその義務とに変りがないことは明である。連合国最高司令官が軍事占領者として有する権力と義務とは国際法上の法規及び慣例に基くものであつて、この約束に基くものではない。多数意見は「わが国はボツダム宣言を受諾し、降伏文書に調印して、連合国に対して無条件降伏をした。」とし「その結果連合国最高司令官は降伏条項を実施するため適当と認める措置をとる権限を有し云々」というけれども、わが国はポツダム宣言を受諾した結果契約関係として成立した休戦条約その他降伏文書の規定にかかわりなく休戦と同時に連合国が留保している占領が開始されたため連合国最高司令官が占領行政を行使することとなつて「この限りにおいてわが国の統治の権限は連合国最高司令官の制限の下に置かれることになつた」のである。それ故ポツダム宣言の受諾を無条件降伏と呼ぶと否とにかかわらずわが国の統治の権限が連合国最高司令官の制限の下に置かれることになつたのは同宣言受諾の効果ではなく同宣言中我方の同意を前提としない占領の効果に外ならないのである。
(4) 右にいう占領の結果として占領軍の新秩序建設のためにする内政干渉は二つの形式をとつたのである。一つはわが国の統治の権力の行使に協力する形式であつて、いわゆる内面指導である。等しく占領軍の息のかかつたものであるが、この形式はわが憲法のわく内におけるものであるから、わが国家意思の発動というべきである。他の一つの形式はわが国の統治の権力にかかわりなく連合国最高司令官の要求として我方に発動されたものである。(降伏文書第六項)而して後者について我方から軍の必要に協力する形式を規定したのが即ち緊急勅令五四二号である。かように考えてくると、占領中わが国の法秩序には二元的渕源があつた事実はこれを認めざるを得ない。それ故右勅令五四二号によつて、所要の定めをした「連合国最高司令官ノ為ス要求ニ係ル事項」は結局連合国の軍の必要に基く事項であるからその権力から来る法秩序である。もともと緊急勅令五四二号はその制定当初はわが国の統治の権限の行使として発足したものであろうが(当初は連合国の占領がどういう行き方をするかわからなかつたのである。)占領の進行に伴い連合国最高司令官のなす要求にかかる事項について所要の定めをなす唯一の形式となつたものであるからこれ又連合国の軍権力に因る法源と不可分の関係にあるものとして日本国憲法にかかわりなく効力あるものと認めるのが相当と考える。
(二) 弁護人森長英三郎の上告趣意第四点について。(1) 憲法二八条が保障している権利は私有財産制度を前提としていることは沿革上明である。羅馬法以来の私有財産権の至上性が十八世紀的個人主義即ち個人の意思の至上性と結付いて経済活動をする場合に、企業家のもつ力は公権力の至上性にも比すべきものがある。かような企業家又はその利益の代表者即ち使用者と被傭者が取引するものとすれば双方が対等な交渉力を持つのでなければ契約の自由はありえない。この労使(労資)の対等取引を前提として正義を分配しそれを保障したものが憲法二八条である。然るに国又は地方公共団体とその公務員との関係は毫も対等取引を前提とする関係でもなければ又もとより私有財産制度を前提とする労使の関係にかかわりないものである!!!。それ故公務員は憲法二七条にいう勤労の権利を有する者であることは勿論であるけれども本質的に憲法二八条の勤労者ではないのであつて、同条が保障している権利はもともと享有していないのである。憲法二七条の勤労の権利の内容が何であるかはしばらくおくとしても事業主でも失業者でも等しく同条の勤労の権利を有する者であるけれども、同条の勤労の権利を有する者はすべて使用者と被傭者との関係、ことにその対等な交渉関係を前提要件とする憲法二八条の勤労者であるということはできない。されば旧労働組合法四条一項の警察官吏等の組合結成禁止の規定はこれ等の公務員が労資の利害を前提とする憲法二八条の団結権の保障には均霑しないものであることを明にしただけのことである。多数意見のように警察官吏等はもとから憲法二八条の組合結成権を享有しているけれども彼等は「全体の奉仕者」であるから公共の福祉で、法律により之を取上げられたものと解すべきではない。
多数意見は又国又は公共団体の非現業官吏が争議行為を禁止されたのも(法律一七五号による改正前の労働関係調整法三八条)前記警察官吏等と同じ理由即ち公共の福祉で法律によつてもともと憲法二八条で享有している争議権が剥奪されたと解するのである。しかし実は現業官吏たると非現業官吏たるとを問わず、公務員である以上は結局前に述べたと同じ理由で憲法二八条の勤労者でもなく、その保障している争議権を享有しているものではない。もとより同条の権利を享有していなくとも法律が之を附与するかどうかは立法政策の問題にすぎない。されば前記労働関係調整法三八条が非現業官吏の争議行為を禁止し之と同時に現業官吏の争議行為を容認したとしても、それは憲法二八条の保障にかかわりないものである。故に同条の禁止は公共の福祉を理由に憲法二八条の保障が否定されたものと解すべからざるはいうまでもない。(2) 憲法二八条の権利が私有財産制度を前提とするということはとりもなおさず資本主義経済を前提とするということである。それ故資本主義経済を否定する制度においてはその保障の理由はない。けれども資本主義経済の範囲内でもその修正例えば特定の私的企業における私有財産権を社会化し公有化することが是認される。この場合に利潤を追う資本(私有財産たる株主の投資)の力は排除されたけれども公有材産としての企業の形態は私的企業の形態と異るところがない。それに現代の発達した産業組織では生産手段の所有(株主)とその管理(経営)とは分離されていて、後者は公有全美におけると等しく有給職員にすぎないものであつて私的企業と言つても公有企業とその経営の面において異るところがないから勤労者の立場からすれば賃金、就業時間、休息その他の勤労条件等の法律上の保護を受くべきはもとより(憲法二七条二項)組合の結成についても差別さるべき理由がないといえるのである。それ故私有財産制度を前提とする労資の関係に準じてできるだけ公有企業における労使の関係をも調整せしめるのが公正且妥当であるといえるのである。しかしそれは一に立法による労働政策の問題にすぎない。それ故多数意見のように旧労働組合法又は労働関係調整法(法律一七五号による改正前の)から逆に憲法二八条の権利を帰納すべからざるは言うまでもない。例えば旧労働組合法三条は憲法二八条の勤労者よりも広い労働者を指すと同時に同法五条、一一条(改正後の七条)一二条(改正後の八条)の如きは罷業権を内在する憲法二八条の権利の確保のためであるから、公務員又は公有企業の職員には当然に適用ないのであつて、それを多数意見はこれ等の者も初めからこの権利を享有する労働者であるとし、それが公共の福祉のため取上げられたと解するものの如くである。(3) 多数意見は右にいう如く国家公務員はもともと憲法二八条の保障する権利を享有しているけれども、それを本件政令二〇一号が公共の福祉のため禁止したからとてこれを以て憲法二八条に違反するものということはできないとしている。しかし日本国憲法によればすべての基本的人権はそれを享有している個人の利益のためばかりでなく公共の利益のためにも保障されたものであるから公共の福祉のために利用さるべき責務を伴つているとされている。このことは個人の幸福と公共の幸福とは共通のものであつて相排斥する別異のものでないことを意味する。後者が前者より重いときは後者に吸収されて前者が法律で否定されるのもやむを得ないという考方は絶対主義的のものであつて日本国憲法のものではない。基本的人権が同時に責務であるということはその責務の範囲をこえれば濫用があるばかりでなく、その責務の範囲内でもその責務に適合するように権利の行使が調整(規制乃肇制限である)されることが当然期待されているのである。と同時に憲法は個人の幸福追求の権利たる財産権は公共の用のため取上げられ(二九条三項)又個人の生命、身体若しくは財産は刑罰として奪われることを(三一条)明定しているけれども、その保障している自由及び権利は法律で公共の福祉の名の下に奪われてよいという矛盾(アンチノミ)をどこにも内蔵してはいないのである。これが多数意見に同調しない大きな点である。
+反対意見
裁判官真野毅の反対意見は次のとおりである。
わたくしは、本件は刑の廃止があつたものとして、原判決を破棄し免訴を言渡すべきものと考える。その理由を要約して述べる。
本件において被告人等は、「国鉄業務運営の能率を阻害する争議手段をとつた」行為に対し、昭和二三年七月政令第二〇一号二条一項、三条、国家公務員法第一次改正法律附則八条を適用して処罰されたものである。同政令二条一項には「公務員は、何人といえども、同盟罷業又は怠業的行為をなし、その他国……の業務の運営能率を阻害する争議手段をとつてはならない」と定め、同三条には「第二条第一項の規定に違反した者は、これを一年以下の懲役又は五千円以下の罰金に処する」「と定めている。
その後昭和二三年一二月三日公布施行された「国家公務員法の一部を改正する法律」の附則八条において、前記政令は、「国家公務員に関して、その効力を失う」旨を定めると共に、前記政令が「その効力を失う前になした同令第二条第一項の規定に違反する行為に関する罰則の適用については、なお従前の例による」旨を定めている。それ故、前記政令の罰則規定は、将来国家公務員に対して効力を及ぼさないことになつたと共に、その失効前になされた国家公務員の違反行為に関する限りにおいて、なお従前の例によつて、前記政令の罰則規定が効力を持続するわけである。だから、昭和二四年一月二九日言渡された原判決当時の法律適用としては、該政令の罰則規定を適用して被告人等を処罰したことはもとより正当であつて誤りはない。前述のように法令改廃の場合に経過規定として「改廃前に行われた犯行に関する罰則の適用については、なお従前の例による」という附則が定められる事例は少くない。そして、その意義は、法令改廃の後においてもその改廃以前に行はれた犯行に対しては、その限度において相対的・部分的に法令の改廃はなく、なお改廃前の法令が効力を持続し適用されることを意味するものである。いまこれを本件の場合について言えば、前記国家公務員法の一部改正法が行われた以後においても、その改正前に行われた犯行に対しては、右改正法の罰則(九八条五項六項、一一〇条一七号参照)が適用されるものではなく、前記政令の罰則(二条一項、三条参照)が効力を持続し適用される関係にあるのである。
しかしそれだからといつて、法令改廃前の違反行為に対しては永久に従前の政令罰則が適用されることに確定したものと速断することは大いなる誤りである。なぜならば、その後にあける立法すなわち再度の法令の改廃によつては、前述のように相対的・部分的に効力を持続している従前の罰則の刑の廃止変更が生じ得るからである。
そこで、本件に関してこの点を考察すると、その後昭和二三年一二月二〇日公布(同二四年六月一日施行)の日本国有鉄道法及び公共命業体労働関係法が制定された。その前者三四条二項には、日本国有鉄道の「職員には国家公務員法は適用されない」と定められ、また同三五条には、「日本国有鉄道の職員の労働関係に関しては、公共企業体労働関係法の定めるところによる」と定められた。そして、後者二条においては日本国有鉄道を公共企業体とし、同三条においては公共企業体の職員に関する労働関係等についてはこの法律の定めるところによるものとし、同一七条によれば争議行為等は禁止はされているが、処罰の対象とはされていない(一八条)。かようにして、日本国有鉄道の職員の争議行為等に対しては国家公務員法の罰則規定(九八条五項六項、一一〇条一七号)及びその他一切の罰則規定は適用されないし、また公共企業体労働関係法には争議行為等に対して罰則規定は全然設けられていないのである。そこで、この両法の制定を境としてその前後の法律状態を較べてみると、本件におけるがごとく昭和二三年一二月三日の国家公務員法一部改正法以前の「国鉄職員の争議行為等」の犯行については、なお従前の例により、前記政令二条一項及び三条の罰則が相対的・部分的に効力を持続し適用されていたものが、前記両法の制定により「国鉄職員の争議行為等」については全然罰則がなくなつたのであるから、この意義において刑の廃止があつたものと認めるを相当とする。(この前記両法の制定に際しては、経過規定として前記政令第二条一項の規定に違反する行為に関する罰則の適用については、なお従前の例による旨の規定はおかれてはいない。これはあるいは立法の不備ないし疎漏であつたかも知れないと思われるが、いやしくもかかる経過規定を欠く以上法令の改廃により法律状態の変更を生ずるに至つたときは、従前の犯行に対して従前の罰則を適用して処罰することはできないものと信ずる。)それ故、原判決を破棄し被告人等に対し免訴を言渡すを相当とする。裁判長裁判官塚崎直義、裁判官B太一郎、同沢田竹治郎、同穂積重遠は合議に干与しない。