民事訴訟法 基礎演習 審判権の限界


・+裁判所法第三条 (裁判所の権限)  裁判所は、日本国憲法 に特別の定のある場合を除いて一切の法律上の争訟を裁判し、その他法律において特に定める権限を有する。
2  前項の規定は、行政機関が前審として審判することを妨げない。
3  この法律の規定は、刑事について、別に法律で陪審の制度を設けることを妨げない。

・法律上の争訟
当事者間の具体的権利義務ないし法律関係の存否に関する争いであって(狭義の事件性)、法律の適用により終局的に解決できるもの(法律性)

1.判例の二段審査モデル

・第一段審理=まず訴訟物について。
第二段心理=訴訟物を判断する前提問題

+判例(S55.1.11)
理由
上告代理人浅野繁、同広江武彦の上告理由第一、一について
上告人が原審において提起した新訴は、上告人と被上告人宗教法人曹洞宗(以下「被上告人曹洞宗」という。)との間において上告人が被上告人宗教法人種徳寺(以下「被上告人種徳寺」という。)の住職たる地位にあることの確認を求める、というにあるが、原審の適法に確定したところによれば、曹洞宗においては、寺院の住職は、寺院の葬儀、法要その他の仏事をつかさどり、かつ、教義を宣布するなどの宗教的活動における主宰者たる地位を占めるにとどまるというのであり、また、原判示によれば、種徳寺の住職が住職たる地位に基づいて宗教的活動の主宰者たる地位以外に独自に財産的活動をすることのできる権限を有するものであることは上告人の主張・立証しないところであるというのであつて、この認定判断は本件記録に徴し是認し得ないものではない。このような事実関係及び訴訟の経緯に照らせば、上告人の新訴は、ひつきよう、単に宗教上の地位についてその存否の確認を求めるにすぎないものであつて、具体的な権利又は法律関係の存否について確認を求めるものとはいえないから、かかる訴は確認の訴の対象となるべき適格を欠くものに対する訴として不適法であるというべきである(最高裁判所昭和四一年(オ)第八〇五号同四四年七月一〇日第一小法廷判決・民集二三巻八号一四二三頁参照)。もつとも、上告人は、被上告人曹洞宗においては、住職たる地位と代表役員たる地位とが不即不離の関係にあり、種徳寺の住職たる地位は宗教法人種徳寺の代表役員たりうる基本資格となるものであるということをもつて、住職の地位が確認の訴の対象となりうるもののように主張するが、両者の間にそのような関係があるからといつて右訴が適法となるものではない
したがつて、結局、右と同旨に出て上告人の新訴を不適法として却下した原判決は正当である。論旨は、原審において主張しない事実関係を前提とするか、又は独自の見解に基づいて原判決を論難するものにすぎず、採用することができない。

同第一、二及び第二(一)について
所論は、要するに、原審が上告人の新訴については住職たる地位が宗教上の地位であるにすぎないことを理由としてその訴を不適法として却下しながら、これと併合して審理された被上告人種徳寺の上告人に対する不動産等引渡請求事件については曹洞宗管長のした住職罷免の行為をもつて法律的紛争であるとして取り扱い、本案の判断を示したのは、理由齟齬の違法を犯すものである、というにある。
しかしながら、論旨指摘の原審の各判断は、互いに当事者を異にし、訴訟物をも異にする別個の事件について示されたものであるから、その間に民訴法三九五条一項六号所定の理由齟齬の違法を生ずる余地はなく、したがつて、論旨はこの点において理由がない。のみならず、被上告人種徳寺の上告人に対する右不動産等引渡請求事件は、種徳寺の住職たる地位にあつた上告人がその包括団体である曹洞宗の管長によつて右住職たる地位を罷免されたことにより右事件第一審判決別紙物件目録記載の土地、建物及び動産に対する占有権原を喪失したことを理由として、所有権に基づき右各物件の引渡を求めるものであるから、上告人が住職たる地位を有するか否かは、右事件における被上告人種徳寺の請求の当否を判断するについてその前提問題となるものであるところ、住職たる地位それ自体は宗教上の地位にすぎないからその存否自体の確認を求めることが許されないことは前記のとおりであるが、他に具体的な権利又は法律関係をめぐる紛争があり、その当否を判定する前提問題として特定人につき住職たる地位の存否を判断する必要がある場合には、その判断の内容が宗教上の教義の解釈にわたるものであるような場合は格別、そうでない限り、その地位の存否、すなわち選任ないし罷免の適否について、裁判所が審判権を有するものと解すべきであり、このように解することと住職たる地位の存否それ自体について確認の訴を許さないこととの間にはなんらの矛盾もないのである。所論は、独自の見解に基づいて原判決を論難するものにすぎず、採用することができない。

同第二(二)について
原審の確定した事実関係のもとにおいて曹洞宗管長のした上告人の種徳寺住職たる地位を罷免する処分が有効であるとした原審の判断は、正当として是認するに足り、したがつて、右罷免処分が違法、無効であることを前提とする所論違憲の主張は、失当である。論旨は、採用することができない。
被上告人髙田静哉、同鈴木隆造、同鈴木哲に対する上告について
本件上告について提出された上告状及び上告理由書には右被上告人らに対する上告理由の記載がないから、右被上告人らについては適法な上告理由書提出期間内に上告理由書の提出がなかつたことに帰する。してみれば、右被上告人らに対する上告は、いずれも不適法であるから、これを却下すべきである。
よつて、民訴法四〇一条、三九九条ノ三、三九九条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 髙辻正己 裁判官 江里口清雄 裁判官 環昌一 裁判官 横井大三)

+判例(S55.4.10)
理由
上告代理人松井一彦、同中根宏、同落合光雄、同大谷昌彦、同市野沢邦夫の上告理由第一点について
本訴請求は、被上告人が宗教法人である上告人寺の代表役員兼責任役員であることの確認を求めるものであるところ、何人が宗教法人の機関である代表役員等の地位を有するかにつき争いがある場合においては、当該宗教法人を被告とする訴において特定人が右の地位を有し、又は有しないことの確認を求めることができ、かかる訴が法律上の争訟として審判の対象となりうるものであることは、当裁判所の判例とするところである(最高裁昭和四一年(オ)第八〇五号同四四年七月一〇日第一小法廷判決・民集二三巻八号一四二三頁参照)。そして、このことは、本件におけるように、寺院の住職というような本来宗教団体内部における宗教活動上の地位にある者が当該宗教法人の規則上当然に代表役員兼責任役員となるとされている場合においても同様であり。この場合には、裁判所は、特定人が当該宗教法人の代表役員等であるかどうかを審理、判断する前提として、その者が右の規則に定める宗教活動上の地位を有する者であるかどうかを審理、判断することができるし、また、そうしなければならないというべきである。もつとも、宗教法人は宗教活動を目的とする団体であり、宗教活動は憲法上国の干渉からの自由を保障されているものであるがら、かかる団体の内部関係に関する事項については原則として当該団体の自治権を尊重すべく、本来その自治によつて決定すべき事項、殊に宗教上の教義にわたる事項のごときものについては、国の機関である裁判所がこれに立ち入つて実体的な審理、判断を施すべきものではないが、右のような宗教活動上の自由ないし自治に対する介入にわたらない限り、前記のような問題につき審理、判断することは、なんら差支えのないところというべきである。これを本件についてみるのに、本件においては被上告人が上告人寺の代表役員兼責任役員たる地位を有することの前提として適法、有効に上告人寺の住職に選任せられ、その地位を取得したかどうかが争われているものであるところ、その選任の効力に関する争点は、被上告人が上告人寺の住職として活動するにふさわしい適格を備えているかどうかというような、本来当該宗教団体内部においてのみ自治的に決定せられるべき宗教上の教義ないしは宗教活動に関する問題ではなく、専ら上告人寺における住職選任の手続上の準則に従つて選任されたかどうか、また、右の手続上の準則が何であるかに関するものであり、このような問題については、それが前記のような代表役員兼責任役員たる地位の前提をなす住職の地位を有するかどうかの判断に必要不可決のものである限り、裁判所においてこれを審理、判断することになんらの妨げはないといわなければならない。そして、原審は、上告人寺のように寺院規則上住職選任に関する規定を欠く場合には、右の選任はこれに関する従来の慣習に従つてされるべきものであるとしたうえ、右慣習の存否につき審理し、証拠上、上告人寺においては、包括宗派である日蓮宗を離脱して単立寺院となつた以降はもちろん、それ以前においても住職選任に関する確立された慣習が存在していたとは認められない旨を認定し、進んで、このように住職選任に関する規則がなく、確立された慣習の存在も認められない以上は、具体的にされた住職選任の手続、方法が寺院の本質及び上告人寺に固有の特殊性に照らして条理に適合したものということができるかどうかによつてその効力を判断するほかはないとし、結局、本件においては、被上告人を上告人寺の住職に選任するにあたり、上告人寺の檀信徒において、同寺の教義を信仰する僧侶と目した者の中から、沿革的に同寺と密接な関係を有する各末寺(塔中を含む。)の意向をも反映させつつ、その総意をもつてこれを選任するという手続、方法がとられたことをもつて、右条理に適合するものと認定、判断したものであり、右の事実関係に照らせば、原審の右認定、判断をもつて宗教団体としての上告人寺の自治に対する不当な介入、侵犯であるとするにはあたらない。原判決に所論の違法はなく、論旨は、ひつきよう、独自の見解に立つてこれを論難するに帰し、採用することができない。
同第二点及び第三点について
所論の点に関する原審の認定、判断は、原判決挙示の証拠関係に照らし、正当として是認することができ、その過程に所論の違法はない。論旨は、原審の専権に属する証拠の取捨、事実の認定を非難するか、又は独自の見解に立つて原判決の不当をいうものにすぎず、採用することができない。
よつて、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
(本山亨 団藤重光 藤崎萬里 中村治朗)

+判例(H1.9.8)
理由
上告代理人色川幸太郎、同川島武宜、同宮川種一郎、同松本保三、同松井一彦、同中根宏、同中川徹也、同猪熊重二、同桐ケ谷章、同八尋頼雄、同福島啓充、同若旅一夫、同漆原良夫、同小林芳夫、同今井浩三、同大西佑二、同堀正視、同春木實、同川田政美、同稲毛一郎、同平田米男、同松村光晃の上告理由について
一 本件においては、上告人が被上告人に対し、包括宗教法人日蓮正宗(以下「日蓮正宗」という。)が被上告人を僧籍剥奪処分たる擯斥処分(以下「本件擯斥処分」という。)に付したことに伴い、被上告人が蓮華寺の住職たる地位ひいては上告人の代表役員及び責任役員たる地位を失い、上告人所有の第一審判決添付の物件目録記載の建物(以下「本件建物」という。)の占有権原を喪失したとして、本件建物の所有権に基づきその明渡を求めるのに対し、被上告人は、本件擯斥処分は日蓮正宗の管長たる地位を有しない者によってされ、かつ、日蓮正宗宗規(以下「宗規」という。)所定の懲戒事由に該当しない無効な処分であると主張して、上告人の右請求を争っている。

二 裁判所がその固有の権限に基づいて審判することのできる対象は、裁判所法三条にいう「法律上の争訟」、すなわち当事者間の具体的な権利義務ないし法律関係の存否に関する紛争であって、かつ、法令の適用により終局的に解決することができるものに限られ、したがって、具体的な権利義務ないし法律関係に関する紛争であっても、法令の適用により解決するに適しないものは、裁判所の審判の対象となり得ないというべきである(最高裁昭和五一年(オ)第七四九号同五六年四月七日第三小法廷判決・民集三五巻三号四四三頁参照)。
しかるところ、宗教法人法は、宗教団体に法律上の能力すなわち法人格を与えるものであるが、その趣旨は、「宗教の教義をひろめ、儀式行事を行い、及び信者を教化育成すること」(同法二条)を主たる目的とし、固有の組織と活動の主体として存在する宗教団体について、その「礼拝の施設その他の財産を所有し、これを維持運用し、その他その目的達成のための業務及び事業を運営する」(同法一条一項)という、いわば経済的及び市民的生活にかかわる部分のために法人格を認めることにあるのであって、宗教団体は、法人格を取得して宗教法人となった後においても、それに包摂されない宗教活動の主体として存在するものであることはいうまでもない。そして、同法一二条一項五号に規定する宗教法人の代表役員及び責任役員の地位はもとより法律上の地位であるが、宗教団体と宗教法人とが右のような関係にあることから、本件においても、宗教団体内部における宗教活動上の地位としての宗教上の主宰者である法主、管長又は住職たる地位(これらの地位が法律上の地位でないことについては、最高裁昭和五一年(オ)第九五八号同五五年一月一一日第三小法廷判決・民集三四巻一号一頁参照)にある者が、宗教法人の代表役員及び責任役員となるものとされており、したがって、住職たる地位を喪失した場合には、当然代表役員及び責任役員の地位を喪失する関係にある。
そして、宗教団体における宗教上の教義、信仰に関する事項については、憲法上国の干渉からの自由が保障されているのであるから、これらの事項については、裁判所は、その自由に介入すべきではなく、一切の審判権を有しないとともに、これらの事項にかかわる紛議については厳に中立を保つべきであることは、憲法二〇条のほか、宗教法人法一条二項、八五条の規定の趣旨に鑑み明らかなところである(最高裁昭和五二年(オ)第一七七号同五五年四月一〇日第一小法廷判決・裁判集民事一二九号四三九頁、前記昭和五六年四月七日第三小法廷判決参照)。かかる見地からすると、特定人についての宗教法人の代表役員等の地位の存否を審理判断する前提として、その者の宗教団体上の地位の存否を審理判断しなければならない場合において、その地位の選任、剥奪に関する手続上の準則で宗教上の教義、信仰に関する事項に何らかかわりを有しないものに従ってその選任、剥奪がなされたかどうかのみを審理判断すれば足りるときには、裁判所は右の地位の存否の審理判断をすることができるが、右の手続上の準則に従って選任、剥奪がなされたかどうかにとどまらず、宗教上の教義、信仰に関する事項をも審理判断しなければならないときには、裁判所は、かかる事項について一切の審判権を有しない以上、右の地位の存否の審理判断をすることができないものといわなければならない(前記昭和五五年四月一〇日第一小法廷判決参照)。したがってまた、当事者間の具体的な権利義務ないし法律関係に関する訴訟であっても、宗教団体内部においてされた懲戒処分の効力が請求の当否を決する前提問題となっており、その効力の有無が当事者間の紛争の本質的争点をなすとともに、それが宗教上の教義、信仰の内容に深くかかわっているため、右教義、信仰の内容に立ち入ることなくしてその効力の有無を判断することができず、しかも、その判断が訴訟の帰趨を左右する必要不可欠のものである場合には、右訴訟は、その実質において法令の適用による終局的解決に適しないものとして、裁判所法三条にいう「法律上の争訟」に当たらないというべきである(前記昭和五六年四月七日第三小法廷判決参照)。
三 これを本件についてみるに、原審の認定するところによれば、要するに、日蓮正宗の内部において創価学会を巡って教義、信仰ないし宗教活動に関する深刻な対立が生じ、その紛争の過程においてされた被上告人の言説が日蓮正宗の本尊観及び血脈相承に関する教義及び信仰を否定する異説であるとして、日蓮正宗の管長Aが責任役員会の議決に基づいて被上告人を訓戒したが、被上告人が所説を改める意思のないことを明らかにしたことから、宗規所定の手続を経たうえ、昭和五六年二月九日付宣告書をもって、被上告人を宗規二四九条四号所定の「本宗の法規に違反し、異説を唱え、訓戒を受けても改めない者」に該当するものとして、本件擯斥処分に付した、というのであり、原審の右認定は、原判決挙示の証拠関係に照らして、首肯するに足りる。
そして、本件においては、被上告人が本件擯斥処分によって日蓮正宗の僧侶たる地位を喪失したのに伴い蓮華寺の住職たる地位ひいては上告人の代表役員及び責任役員たる地位を失ったかどうか、すなわち本件擯斥処分の効力の有無が本件建物の明渡を求める上告人の請求の前提をなし、その効力の有無が帰するところ本件紛争の本質的争点をなすとともに、その効力についての判断が本件訴訟の帰趨を左右する必要不可欠のものであるところ、その判断をするについては、被上告人に対する懲戒事由の存否、すなわち被上告人の前記言説が日蓮正宗の本尊観及び血脈相承に関する教義及び信仰を否定する異説に当たるかどうかの判断が不可欠であるが、右の点は、単なる経済的又は市民的社会事象とは全く異質のものであり、日蓮正宗の教義、信仰と深くかかわっているため、右教義、信仰の内容に立ち入ることなくして判断することのできない性質のものであるから、結局、本件訴訟の本質的争点である本件擯斥処分の効力の有無については裁判所の審理判断が許されないものというべきであり、裁判所が、上告人ないし日蓮正宗の主張、判断に従って被上告人の言説を「異説」であるとして本件擯斥処分を有効なものと判断することも、宗教上の教義、信仰に関する事項について審判権を有せず、これらの事項にかかわる紛議について厳に中立を保つべき裁判所として、到底許されないところである。したがって、本件訴訟は、その実質において法令の適用により終局的に解決することができないものといわざるを得ず、裁判所法三条にいう「法律上の争訟」に該当しないというべきである。
四 以上のとおり、本件訴えは不適法として却下を免れないというべきであり、これと同旨の原審の判断は、結論において正当として是認することができ、原判決に所論の違法はない。論旨は、違憲をいう点を含め、ひっきょう、右と異なる見解に立って原判決の不当をいうか、又は原審の専権に属する証拠の取捨判断、事実の認定を非難するものにすぎず、採用することができない。
よって、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 香川保一 裁判官 牧圭次 裁判官 島谷六郎 裁判官 藤島昭 裁判官 奧野久之)

+判例(H10.3.10)

+判例(H12.1.30)
理由
上告代理人小見山繁、同河合怜、同片井輝夫、同仲田哲、同竹之内明の上告受理申立て理由第三の二、第四及び第五について
一 本件は、被上告人によって土地及び建物の占有を侵奪されたとする上告人が被上告人に対して民法二〇〇条に基づきその返還を求めている事件である。原審の適法に確定した事実関係は、次のとおりである。
1 被上告人は、宗教法人日蓮正宗の被包括宗教法人であるところ、被上告人の宗教法人正福寺規則では、「代表役員は、日蓮正宗の規程によってこの寺院の住職の職にある者をもって充てる。」と規定している(同規則八条一項)。
2 上告人は、昭和四一年八月一六日、当時の日蓮正宗の管長細井日達から被上告人の住職に任命され、同時に前記規則により被上告人の代表役員となって、被上告人所有に係る第一審判決別紙物件目録記載の土地建物(以下「旧寺院」という。)に対する管理、所持を開始した。
3 上告人は、昭和五五年一〇月に被上告人が三重県松阪市下村町西之庄八三八番地三に新寺院を建立したことに伴い、それまで居住していた旧寺院建物から新寺院建物に転居したが、その後も、月に一、二度旧寺院に赴いて風通しのために窓を開閉したり、年二回敷地の草刈りを行ったり、旧寺院の近隣住民に何かあったら連絡するよう依頼するなどして、旧寺院を空き家のまま管理していた。
4 日蓮正宗の管長阿部日顕は、昭和五七年二月五日、上告人が教義上の異説を唱えたとして上告人を僧籍はく奪処分である擯斥処分に付するとともに、上告人の後任として八木勝道を被上告人の住職に任命し、さらに昭和六〇年九月二六日、その後任住職に國井位道を任命した。
5 被上告人は、上告人が擯斥処分を受けて日蓮正宗の僧籍を失うと同時に被上告人の住職及び代表役員の地位を失い、新寺院建物を占有する権原を喪失したとの理由により、上告人に対して新寺院建物の明渡しを求める訴訟を提起し、これに対して上告人は、擯斥処分が無効であるとして、上告人が被上告人の代表役員・責任役員の地位にあることの確認を求める訴訟を提起し、両事件は併合して審理された(以下、両事件を併せて「別件訴訟」という。)。なお、被上告人は、当時上告人が新寺院建物に居住していたため、別件訴訟においては、新寺院建物についてのみ明渡しを求め、旧寺院を明渡請求の対象とはしていなかった。
別件訴訟については、平成二年三月八日、双方の訴えをいずれも法律上の争訟に当たらないことを理由に不適法として却下する旨の第一審判決が言い渡された。上告人と被上告人は、右第一審判決に対してそれぞれ控訴、上告を提起したが、いずれも棄却されて、平成五年七月二〇日に右第一判決が確定した。
6 上告人は、旧寺院の管理のため、昭和六〇年春ころ、壇徒である新田正道を旧寺院建物に居住させ、昭和六二年五月に同人が転居したため、壇徒である笠江篤を旧寺院建物に居住させたが、平成二年一二月に同人が転居した後、平成四年ころ、壇徒である湯谷勝夫を旧寺院建物に居住させていた。ところが、湯谷が平成五年暮れに荷物を残したまま不在となったため、これに気付いた上告人は、旧寺院の見回りを行うとともに、門扉が開かないよう施錠するなどしていた。
そして、上告人は、湯谷が平成七年四月ころに残していた荷物を持ち出して旧寺院建物から退去した後も、門扉の扉が開かないように施錠したり、施錠の代わりに針金でくくったりし、建物の窓を内側から施錠して雨戸を閉め、玄関等に施錠するなどしていたほか、年二回程度敷地の草刈りと除草剤散布を行っていた。なお、上告人が、平成八年一二月初めに旧寺院を見回った際には、建物の雨戸はすべて閉められ、玄関等もすべて施錠されていた。
7 上告人は、平成六年一月一〇日、國井に対し、上告人が管理している旧寺院建物を取り壊すこととしたので、これに異存があれば文書で申し入れられたい旨記載した申入書を送付した。これに対して、國井は、同月二六日、上告人に対し、旧寺院が被上告人の基本財産に当たり、その処分については正福寺における規則上の手続等が必要であるとして、旧寺院の明渡しを求めるとともに、上告人が勝手に処分することについて承諾しない旨記載した回答書を送付した。
國井は、被上告人の包括宗教法人の宗務院渉外部の阿部郭道から上告人が旧寺院建物の撤去に同意している旨聞いたことや近隣住民からも建物の撤去を求める申入れがあったことから、平成六年一二月一五日、上告人に対し、上告人が被上告人側で旧寺院建物を撤去することに異議がないと聞いたので、被上告人側で撤去する旨記載した通知書を送付した。これに対して上告人は、同月一九日、國井に対し、旧寺院建物の撤去には同意するが、その敷地は従前どおり上告人において占有することを了承されたい旨記載した通知書を送付した。
その後も上告人と國井との間で、代理人を通じて旧寺院建物の撤去につき話合いが持たれたが、上告人が建物撤去後も従前どおり敷地を占有するという条件を譲らなかったため、平成七年初めころに右話合いは物別れに終わり、國井としては、旧寺院建物を撤去して、旧寺院敷地の管理をすることは難しいと考えていた。
8 國井は、旧寺院敷地内の放置物件を除去し、門扉を閉めて旧寺院を管理することとし、平成九年一月一二日に被上告人の信徒である新田らと共に旧寺院敷地内に立ち入ったところ、建物の庫裏玄関左側の雨戸が何者かによって開けられており、その内側のガラス戸が施錠されていなかったため、國井らは、管理状況を確認するために建物内に立ち入ったが、建物内部も相当朽廃が進んでいる状態であった。そこで、國井は、旧寺院の門扉に新たに南京錠を取り付けるとともに、建物の庫裏玄関及び庫裏台所勝手口の錠前を付け替え、庫裏玄関のアルミドアに「無断で立ち入ることを禁ずる。平成九年一月一二日、宗教法人正福寺代表役員國井位道」と記載した張り紙を掲示するなどして、旧寺院の管理を開始した。その後も、國井は、月一回程度旧寺院を見回り、年二回程度敷地の除草を行うなどして、旧寺院を管理し、上告人の返還請求を拒否している。なお、上告人は、旧寺院の近隣に居住する知人からの通報を受けて、平成九年一月一五日、旧寺院を見回ったところ、國井が旧寺院の管理を開始したことを知った。

二 原審は、右事実関係の下において、(一) 上告人は当初被上告人の代表役員として旧寺院を占有していたところ、その後に受けた擯斥処分が有効であるとすれば、上告人は、被上告人の代表役員としての地位を喪失し、個人のために旧寺院を占有していることになり、擯斥処分が無効であるとすれば、上告人が引き続き被上告人の代表役員として旧寺院を占有していることになるが、この場合に、上告人において法人の機関として物を所持するにとどまらず、個人のためにもこれを所持するものと認めるべき特別の事情があるときは、個人としての占有をも有していることになる、(二) 上告人は、新寺院に転居するまで家族と共に旧寺院に居住しており、その間の旧寺院の占有については、右特別の事情があったといえるが、右転居後の旧寺院の占有については、上告人が被上告人の代表者であるとされる場合において、上告人が被上告人の機関として旧寺院を占有しているにすぎず、右特別の事情は認められない、(三) そうすると、上告人の個人としての占有を認めるためには、上告人に対する擯斥処分が有効であることを確定する必要があるが、右の点を判断するには、宗教上の教義ないし信仰の内容に深く立ち入らざるを得ないから、結局、上告人の本件訴えは、法律上の争訟に該当しないと判断し、これを不適法として却下すべきものとした。

三 しかしながら、原審の右二の(二)、(三)の判断は是認することができない。その理由は、次のとおりである。
法人の代表者が法人の業務として行う物の所持は、法人の機関としてその物を占有しているものであって、法人自体が直接占有を有するというべきであり、代表者個人は、特別の事情がない限り、その物の占有を有しているわけではないから、民法一九八条以下の占有の訴えを提起することはできないと解すべきである(最高裁昭和二九年(オ)第九二〇号同三二年二月一五日第二小法廷判決・民集一一巻二号二七〇頁、最高裁昭和三〇年(オ)第二四一号同三二年二月二二日第二小法廷判決・裁判集民事二五号六〇五頁参照)。しかしながら、代表者が法人の機関として物を所持するにとどまらず、代表者個人のためにもこれを所持するものと認めるべき特別の事情がある場合には、これと異なり、代表者は、その物について個人としての占有をも有することになるから、占有の訴えを提起することができるものと解するのが相当である(最高裁平成六年(オ)第一九九八号同一〇年三月一〇日第三小法廷判決・裁判集民事一八七号二六九頁参照)。
これを本件についてみると、前記の事実関係によれば、上告人は、当初は被上告人の代表者として旧寺院の所持を開始し、旧寺院建物から新寺院建物へ転居した後も旧寺院の管理を継続して、これを所持していたのであり、別件訴訟の係属中及びその終了後においても、新田、笠江及び湯谷を通じ、あるいは自ら直接旧寺院を所持していたところ、その間に日蓮正宗管長から擯斥処分を受けたものの、これに承服せず新寺院への居住を続けていた。そして、上告人は、被上告人から新寺院の占有権原を喪失したとしてその明渡しを求める訴えを提起されたときにも、右擯斥処分の効力を否定し、上告人が被上告人の代表役員等の地位にあることの確認を求める訴えを提起するなどして争っていただけでなく、別件訴訟終了後にされた國井との間での旧寺院建物の撤去についての話合いの際にも、上告人が旧寺院を管理、所持していることを前提として、建物撤去後の敷地の占有継続を主張するなどしていたのである。右によれば、上告人は、平成九年一月一二日当時、上告人自身のためにも旧寺院を所持する意思を有し、現にこれを所持していたということができるのであって、前記特別の事情がある場合に当たると解するのが相当である。そして、本件においては、國井は、平成九年一月一二日、被上告人の代表者として、上告人が管理していた旧寺院に立ち入って、建物の錠前を付け替え、無断立入禁止の張り紙を掲示するなどして旧寺院の管理を行い、上告人の返還請求を拒否しているというのであるから、上告人は、その意思に反して旧寺院の占有を奪われたものというべきであり、旧寺院を占有している被上告人に対し、民法二〇〇条に基づき、その返還を求めることができると解すべきである。

四 以上によれば、本件事実関係の下で上告人の本件占有回収の訴えを却下すべきものとした原審の判断には、法令の解釈適用を誤った違法があるといわざるを得ず、この違法は原判決の結論に影響を及ぼすことが明らかである。右の趣旨をいう論旨は理由があり、原判決は破棄を免れない。そして、前記説示に照らせば、上告人の請求を認容すべきものとした第一審判決は正当であるから、被上告人の控訴を棄却すべきである。
よって、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官梶谷玄 裁判官河合伸一 裁判官福田博 裁判官北川弘治 裁判官亀山継夫)

++解説
《解  説》
一 本件の事案の概要は、次のとおりである(なお、詳細については、判文を参照されたい。)。
1 宗教法人日蓮正宗の被包括宗教法人Yの寺院規則では、代表役員は、日蓮正宗の管長(法主)の任命する住職を充てることとされていたところ、Xは、昭和四一年にYの住職に任命されてその代表役員となり、Y所有の旧寺院に入居してその管理、所持を開始し、昭和五五年に新寺院に転居した後も、月に一、二度風通しのために旧寺院に赴いたり、年二回敷地の草刈りを行ったりしていたが、昭和五七年二月五日、教義上の異説を唱えたとして日蓮正宗管長から僧籍はく奪処分である擯斥処分を受けた。
2 新たに住職として任命されたAを代表者とするYは、Xが僧籍喪失によりYの住職及び代表役員の地位を失ったとして新寺院の明渡しを求める訴訟を提起し、これに対してXは、擯斥処分が無効であるとして、XがYの代表役員・責任役員の地位にあることの確認を求める訴訟を提起したが(別件訴訟)、双方の訴えにつき、いずれも法律上の争訟に当たらないとして不適法却下する旨の判決が平成五年に確定した。
3 その後、旧寺院の管理のためにXの依頼により旧寺院に居住していた檀徒が不在となったことから、Xは、旧寺院の門扉や建物を施錠したり、年二回程度敷地の草刈りをしたりしてその管理を続けていた。その間に、XとAの間で旧寺院建物の撤去に関する話合いが行われたが、撤去後の敷地の占有者をいずれにするかなどの点をめぐって合意に至らず、物別れに終わった。
4 Aは、平成九年一月、旧寺院内に立ち入り、門扉及び建物の錠前を付け替えるとともに立入禁止の張り紙を掲示するなどして、旧寺院の管理を開始し、Xの返還請求を拒否している。
二 本件は、Xが、Yに対し、占有回収の訴えにより旧寺院の返還を求めるものである。
一審は、Xの旧寺院の占有は、Yの代表者(機関)としての所持にとどまらず、X個人のためにもするものと認めるべき特別の事情があるとして、Xの本訴請求を認容した。
原審は、XにおいてYの機関として物を所持するにとどまらず、個人のためにもこれを所持するものと認めるべき特別の事情があるときは、個人としての占有をも有していることになるが、本件では、新寺院への転居後の旧寺院の占有について右特別の事情は認められないから、Xに対する擯斥処分が有効か無効かによって、Xの旧寺院の占有が個人占有であるか機関占有であるかが決せられることになるところ、擯斥処分の効力については宗教上の教義ないし信仰の内容に深く立ち入らないと判断できないから、これを法律上の争訟ということはできないとして、Xの本件訴えを不適法却下した。
三 法人の占有は、機関である個人を占有補助者とする占有であり、機関である個人が業務上行う物の所持は、法人の直接占有であって、個人としての固有の占有とはいえないから、占有訴訟の当事者となるのは法人であって機関である個人ではないと解するのが判例通説である(判例学説の状況につき、最三小判平10・3・10裁判集民一八七号二六九頁、本誌一〇〇七号二五九頁のコメント参照。)。右の判例学説は、専ら第三者との関係を念頭に置いた上で、機関である個人の占有を法人の占有とは別個独立に認めるべきかどうかを問題にしているもののようであるが、法人とその機関である個人との間で機関たる地位をめぐって争いがあり、これに関連して法人の所有物の占有が問題となっている場合に、右の理を貫くときは、個人が法人の機関である地位に基づいて法人に対して主張し得べき占有利益が、機関である地位の有無にかかわらず否定されることになり、法人による実力行使を助長するという結果がもたらされるおそれさえ生じかねない。前掲最三小判平10・3・10は、宗教法人の代表役員(住職)として寺院建物の所持を開始した者が、僧籍はく奪の処分を受け、宗教法人から右寺院建物の明渡しを訴求されたが、これに応訴してその管理を継続中に宗教法人から右寺院建物の占有を奪われたという本件と同種の事案において、個人のためにも右寺院建物を所持していたものと認めるべき特別の事情があるとして、占有回収の訴えによる返還請求を認めた(右判例の評釈として、生熊長幸・判評四九五号一二頁がある。)。
四 本判決は、右判例を引用しつつ、代表者が法人の機関として物を所持するにとどまらず、代表者個人のためにもこれを所持するものと認めるべき特別の事情がある場合には、代表者は、その物について個人としての占有をも有することになるから、占有の訴えを提起することができるものと解するのが相当であるとした上で、本件では、XがYの代表役員(住職)として旧寺院の所持を開始した後にYを包括する宗教団体である日蓮正宗から僧籍はく奪の処分である擯斥処分を受けたが、Yから提起された訴訟において右処分の効力を争うとともに旧寺院の管理を続け、Yとの間の旧寺院建物の撤去についての話合いの際にも、撤去後の敷地の占有継続を主張していたなどの事実関係の下においては、Xが個人のためにも旧寺院を所持していたものと認めるべき特別の事情があるということができ、Xは、旧寺院の所持を奪ってこれを占有しているYに対して占有回収の訴えによりその返還を求めることができると判示して、原判決を破棄した上、同旨の一審判決を正当としてYの控訴を棄却した。原審は、前掲最三小判平10・3・10で示された法人の機関が個人のためにも所持していたものと認めるべき特別の事情について、機関である個人としての生活利益であると捉え、その占有態様から右利益が客観的に認定できないときには前記特別の事情を認め難いとしたものであろうが、前記判例に照らし、右判断には問題があるとされたものである。
五 法人とその機関である個人との間で機関たる地位をめぐる内部紛争がある場合には、機関たる地位は個人の法的利益でもあり、機関としての占有利益も個人利益に属する面があるところから、紛争の経過に照らして、機関たる個人が右個人利益のため機関たる地位を主張して争っているときには、当該法人との間では、原則として前記特別の事情の存在を肯認すべきであるという考え方が、前掲最三小判平10・3・10及び本判決の根底にあるように思われる。もっとも、日蓮正宗の内部紛争に絡んで擯斥処分を受けた被包括宗教法人の住職と右宗教法人との間で、寺院の明渡しの可否や従前の住職の地位の有無をめぐって多数の訴訟が係属していたが、いわゆる蓮華寺事件の最高裁判決(最二小判平1・9・8民集四三巻八号八八九頁、本誌七一一号八〇頁)が、右訴訟は法律上の争訟に当たらず、訴えを却下すべきものと判断して以後、同旨の最高裁判決が繰り返されているところ(直近の判例として、最三小判平11・9・28裁判集民一九三号七三九頁がある。)、右と同じ日蓮正宗の内部紛争に属する本件も、本権に基づく法的解決の途が閉ざされているという特殊性がある点では同様である。前述したような紛争態様(対外紛争か内部紛争か)によって占有意思(自己のためにする意思)ないし占有訴権の主体を区別して処理するという考え方が、前記のような特殊性を有する本件のような事例にとどまることなく、それ以外の事案にまで及ぼされ得るものかどうかは、今後に残された課題といえよう。
六 本判決は、第二小法廷が前掲最三小判平10・3・10で示された判断枠組みに従って、同種の事案について上告審として具体的な判断を示したものであり、実務の参考となると思われるので紹介する。

2.本案判決説とその問題点
・審理過程において相手に反論を許さず、一方的な主張立証を導き中立的でない!

3.当事者の争い方への着目

+判例(H14.2.22)
理由
上告代理人青木康、同鰍澤健三、同横山弘美、同青木清志、同大塚章男、同當山泰雄、同末川吉勝、同高瀬博之、同古谷野賢一、同島田新一郎、同長谷部修、同法月正志、同石川勝利の上告受理申立て理由について
1 本件は、被上告人が被上告人所有の第一審判決別紙物件目録記載の建物(以下「本件建物」という。)を占有している上告人に対し、本件建物の所有権に基づきその明渡しを求める訴訟である。被上告人は、被上告人を包括する宗教法人日蓮正宗の管長が上告人を大経寺の住職から罷免する旨の処分(以下「本件罷免処分」という。)をしたことに伴い、上告人が本件建物の占有権原を失ったと主張しているのに対し、上告人は、本件罷免処分は日蓮正宗の管長たる地位を有しない者によってされた無効な処分であると主張している。
原審の適法に確定した事実関係等は、次のとおりである。
(1) 大経寺は昭和四一年四月に日蓮正宗の寺院として設立され、上告人が当時の日蓮正宗の管長細井日達から住職に任命され、その寺院である本件建物の占有を開始した。
(2) 大経寺は、昭和五一年七月、法人格を取得して日蓮正宗に包括される宗教法人(被上告人)となり、同時に住職である上告人が被上告人の代表役員となった。
(3) 日蓮正宗においては、代表役員は管長の職にある者をもって充て、管長は法主の職にある者をもって充てるものとされ、法主は宗祖以来の唯授一人の血脈を相承する者とされているところ、細井日達が昭和五四年七月二二日死亡した後、阿部日顕(以下「阿部」という。)が、細井日達から血脈相承を受けたとして日蓮正宗の法主に就任したことを祝う儀式が執り行われ、日蓮正宗の代表役員に就任した旨の登記がされた。
(4) 平成二年一二月ころから、日蓮正宗とその信徒団体である創価学会とが激しく対立するようになり、日蓮正宗は、平成三年一一月二八日、創価学会に対し破門通告をした。
(5) 上告人は、創価学会は日蓮正宗の教義を広めるに当たって多大の貢献があったし、今後も日蓮正宗の教義を広めるために創価学会が不可欠の存在であると考えていたところ、上記日蓮正宗と創価学会との一連の確執の中で、日蓮正宗の法主である阿部の在り方に次第に疑問を抱き、同人が血脈相承を受けていないと考えるに至り、宗祖日蓮大聖人の教えを守るとともに信徒の意思にこたえるために、被上告人と日蓮正宗との被包括関係を廃止しようと考えるようになった。
そこで、上告人は、日蓮正宗との被包括関係の廃止に係る被上告人の規則変更を行うために、平成四年一〇月一七日、阿部の承認を受けることなく、創価学会の会員でない信徒の中から選定されていた責任役員三名を解任するとともに、新たに創価学会の会員である信徒の中から責任役員三名を選定した。そして、同日、上告人及び新責任役員により開催された責任役員会において、日蓮正宗との被包括関係の廃止に係る規則変更について議決がされ、日蓮正宗に対してその旨の通知がされた。
(6) 日蓮正宗は、日蓮正宗の代表役員の承認を得ることなくされた上記解任行為は違法無効であるとして、これをただすために上告人を召喚しようとしたが、上告人はこれに応じなかったので、上告人に対し、上記解任行為を撤回し、非違を改めるように訓戒した。しかし、上告人は、同訓戒にも従わなかったため、阿部は、平成五年一〇月一五日付け宣告書をもって、上告人に対し本件罷免処分をした。
(7) 上告人は、神奈川県知事に対し、被上告人の規則の変更認証申請をし、同知事は、平成五年二月五日、これを認証したが、日蓮正宗等が審査請求をしたところ、文部大臣は、同年八月四日、同認証を取り消す旨の裁決をしたので、被上告人は依然として日蓮正宗の被包括宗教法人にとどまっている。

2 原審は、次のとおり判断して、本件訴えを却下した第一審判決を取り消し、本件を第一審に差し戻した。
上告人は、日蓮正宗内にとどまりながら懲戒処分の効力を争っているのではなく、被上告人と日蓮正宗との被包括関係の廃止を求めているのであるから、日蓮正宗の法主がだれであるかについて利害関係は認められない。本件訴訟の本質的争点は、上告人が、被上告人と日蓮正宗との被包括関係を廃止するために、日蓮正宗の代表役員の承認を受けることなく責任役員を解任し、新たに責任役員を選任した上で行った被上告人の規則変更の効力の有無にあり、その判断は、阿部が血脈相承を受けたか否かという宗教上の問題とは関係なく行うことができる。したがって、本件訴えは法律上の争訟に当たる。

3 しかしながら、原審の上記判断は是認することができない。その理由は、次のとおりである。
本件においては、日蓮正宗の管長として本件罷免処分をした阿部が正当な管長としての地位にあったかどうかが本件罷免処分の効力を判断するための争点となっており、本件罷免処分の効力は、被上告人の請求の当否の判断の前提問題となっている。そして、日蓮正宗においては、前記のとおり、管長は法主の職にある者をもって充てるものとされているから、本件罷免処分の効力の有無を決するためには、阿部が日蓮正宗においていわゆる血脈相承を受けて法主の地位に就いたか否かの判断が必要であり、阿部が血脈相承を受けたか否かを判断するためには、日蓮正宗の教義ないし信仰の内容に立ち入って血脈相承の意義を明らかにすることが避けられない。このように、請求の当否を決定するために判断することが必要な前提問題が、宗教上の教義、信仰の内容に深くかかわっており、その内容に立ち入ることなくしてはその問題の結論を下すことができないときは、その訴訟は、実質において法令の適用による終局的解決に適しないものとして、裁判所法三条にいう「法律上の争訟」に当たらないというべきである(最高裁昭和五一年(オ)第七四九号同五六年四月七日第三小法廷判決・民集三五巻三号四四三頁、最高裁昭和六一年(オ)第九四三号平成元年九月八日第二小法廷判決・民集四三巻八号八八九頁参照)。
そうすると、被上告人の本件訴えが「法律上の争訟」に当たるとした原審の判断には、判決に影響を及ぼすことが明らかな法令の違反がある。したがって、原判決は破棄を免れない。本件訴えを却下した第一審判決の結論は正当であって、同判決に対する被上告人の控訴はこれを棄却すべきである。
よって、裁判官河合伸一、同亀山継夫の各反対意見があるほか、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

+反対意見
裁判官河合伸一の反対意見は、次のとおりである。
1 裁判所は、憲法に特別の定めのある場合を除き、一切の法律上の争訟を裁判する権限を有するのであるが、この権限は、憲法の保障する裁判を受ける権利と表裏をなすものである。そして、裁判を受ける権利は、基本的人権であり、基本権の基本権ともいわれるものであって、この権利が十全に保障されることは、我が国の社会秩序の基盤を形成するものである。したがって、裁判所の上記権限は、同時に憲法上の責務でもあって、裁判所は、憲法に基づく制約のない限り、すべての法律上の争訟について裁判し、これを解決しなければならない。
法律上の争訟とは、当事者間の具体的な権利義務ないし法律関係の存否に関する紛争であって、かつ、それが法令の適用により終局的に解決することができるものを意味する。本件は、被上告人が、その所有する建物を占有する上告人に対し、明渡しを請求する事件であるから、上記要件の前段を充たしていることは明らかである。このような事件について裁判所が裁判による解決を拒絶するならば、所有者としては、自力救済も許されず、自己の所有権の侵害に対してなすすべがなく、占有者としても、自己の占有ひいては生活関係の安定を得られないままとなり、さらには関係社会にもさまざまな支障が及びかねない。たしかに、本件には、上記要件の後段に関し、多数意見の指摘する問題がある。しかし、私は、その問題にかかわらず、本件の紛争を裁判によって終局的に解決することが可能であると考え、多数意見に反対するものである。
2 本件においては、阿部の日蓮正宗管長としての罷免処分権限の有無が、被上告人の本訴請求の当否を決する前提問題となっている。すなわち、日蓮正宗において住職の罷免の権限を有するのはその管長であり、管長は法主の職にある者が充てられるところ、上告人は、阿部は宗規に基づく法主の選定を受けておらず、したがって、本件罷免処分をする権限を有しないと主張しているのである。
記録によれば、日蓮正宗における法主の選定は、血脈相承によってされること、血脈相承とは、宗祖日蓮以来代々の法主に伝えられてきた特別な力ないし権能を、現法主が次の法主となる者に口伝及び秘伝によって伝授する宗教的行為であること、血脈相承がそのようなものであることは、同宗の信仰及び教義の核心をなしていること、そして、本件の当事者はいずれも、これらの点において特に認識を異にするものではないことがうかがわれる。
日蓮正宗における法主選定行為の性質がこのようなものであるとすれば、裁判所としては、その行為の存否ないし効力の有無を判断することができない。それを判断するためには、血脈相承についての日蓮正宗の信仰ないし教義として何が正しいかを判断した上、その正しい信仰ないし教義にかなった行為があったか否かを判断しなければならないが、そのような判断は、法令の適用によってすることができるものではないからである。
3 また、憲法は、同じく基本的人権として、信教の自由を保障しているが、この自由の中には、いかなる信仰ないし教義をもって正しいとし、人のある行為又は事実がその信仰ないし教義にかなうものであるか否かの判断(以下「宗教的判断」という。)をする自由が含まれることは明らかである。そして、信教の自由は、自然人のみならず、法人ことに宗教法人ないし宗教団体(以下「宗教団体」という。)も享有するものと解される。したがって、ある宗教団体において、ある行為又は事実について宗教的判断が定立されている場合には、国の機関たる裁判所は、公序良俗に反するなど格別の事由のない限り、その判断を信教の自由に属するものとして尊重しなければならず、自ら信仰の内容あるいは教義の解釈に立ち入って、独自の判断をすることは許されない。
阿部が日蓮正宗の信仰及び教義にかなう血脈相承を受けていたか否かの争点につき、裁判所が法令の適用によって判断することができないことは前項で述べたが、さらに、もしこの点について日蓮正宗としての宗教的判断が定立されているとすれば、上記の理由により、裁判所は、それについて自ら判断することが許されないことにもなるのである。
4 しかしながら、これらのことは必ずしも、本件紛争を裁判によって解決することができないとの結論に直結するものではない。
信教の自由に対する憲法の保障として、裁判所が、ある宗教団体の前記の意義での宗教的判断を尊重しなければならないということは、単にその内容に介入しないとの消極的意味にとどまらず、さらに、法律上の争訟について裁判するに当たって、その宗教的判断を受容し、これを前提として法令を適用しなければならないことを意味するものというべきである。けだし、宗教団体は、純粋な宗教活動のみならず、その宗教活動のための財産を所有管理し、さらにはこれらのための事業を行うなど、一般市民秩序にかかわる諸活動をすることを認められている。宗教団体のこれらの活動から生じる具体的な権利義務ないし法律関係の紛争において、当該団体が信教の自由の行使として定めた宗教的判断が裁判所によって受容されず、その宗教的判断を前提とする紛争の終局的解決を得られないとすれば、当該団体は、たとえば本件に見るように、市民法上の法律関係において不安定ないし不利な状況のまま放置され、あるいは、自己の宗教的判断と矛盾する法律関係を強制されることになりかねない。それでは、憲法が信教の自由を保障した趣旨に反すると考えられるからである。
5 これを本件についてみると、記録によれば、昭和五四年に、阿部が前法主から血脈相承を受けた者として法主に就任したことが日蓮正宗の諸機関において承認され、公表されたこと、それ以来、本件罷免処分がされるまでに一四年余を経過したこと、その間、阿部は終始同宗の法主兼管長として行動してきたことが認められる。
これらの事実によれば、本件罷免処分当時には、日蓮正宗において、阿部が前法主から血脈相承を受けて法主に選定された者であるとの宗教的判断が定立されていた可能性があると推認することができる(注)。そして、同宗の宗教的判断としてそのような判断が定立されていたか否かは、裁判所が事実認定に関する法則を含め、法令を適用して判断することができる事柄である。したがって、一審としては、その点について審理し、もし、本件罷免処分時において日蓮正宗のそのような宗教的判断が定立されていたと認定できるならば、阿部が同宗の法主であったことを前提として、その余の点について審理を進め、法令を適用して本案判決をするべきであった。
しかるに、一審は、阿部についての血脈相承の有無を審理判断することができないことから直ちに、本件紛争が法令の適用による終局的解決に適さず、法律上の争訟に当たらないとしたが、これは、結局、法令の解釈適用を誤り、ひいては審理不尽の違法をおかしたものであって、取消しを免れない。原審の判断は、結論において正当であり、上告は棄却すべきものである。
注 ある事柄に関する宗教的判断をめぐって、宗教団体の内部が大きく分裂し、異端紛争となっているような事案では、裁判所として、団体の宗教的判断が何であるかを認定し得ないのみか、認定すべきでない場合もあり得るであろう。けだし、そのような事案で、裁判所があえて一方の宗教的判断をもって団体の判断とし、他方を排除することが、憲法が裁判所に要求する宗教的中立性保持のために、許されない場合があり得るからである。いかなる事案がその場合に当たるかは、いずれも憲法が裁判所に求める前記責務とこの宗教的中立性保持の義務との調和の観点から、個々の事案ごとに決しなければならない。たとえば、多数意見が引用する最高裁第二小法廷平成元年九月八日判決の事案はこれに当たると考えられる。これに対し、本件事案は、記録による限り、そのような場合に当たるとは考えられない。すなわち、本件は、上記最高裁判決の事案とは事実関係を異にするものというべきである。

+反対意見
裁判官亀山継夫の反対意見は、次のとおりである。
私は、河合裁判官の反対意見(以下「河合意見」という。)に同調するとともに、事案にかんがみ、若干付言したい。
裁判を受ける権利が国民の基本的人権を守るための最も基本的な権利であり、これを十全に保障することが裁判所の重大な責務であることは、河合意見の説くとおりである。また、信教の自由を存立の基盤とする宗教団体の存在とその社会的活動が是認されている以上、そのような宗教団体についても信教の自由が保障されなければならないこともいうまでもない。
信教の自由も裁判を受ける権利によって守られるべき権利である上、宗教団体は、信仰を基盤としつつ、その構成員あるいは団体外の第三者との間にも広く、かつ多種多様な世俗的法律関係を作り出していくものであるから、このような宗教団体の宗教的判断に基づく種々の行動等の存否ないし当否について信教の自由に対する不介入の名の下に裁判の回避が安易に認められるならば、宗教団体自身の信教の自由が保障されないことになるおそれが大きいことになるのみならず、宗教団体の宗教的判断を前提とする紛争については、およそ裁判による解決を得られないという事態を招きかねず、当該宗教団体やその構成員のみならず、これらと関わりを持つ一般人のすべてにとって、法的に著しく不安定な状態を招来することになるのであって、裁判所の上記責務に著しくもとるものといわなければならない。したがって、上記のような理由による裁判の回避は、ある宗教的判断の当否を直接判断する結果、内心の意思に反する宗教的判断を公権力によって強制することとなるような場合、あるいは、争いのある宗教的判断の一方に裁判所が軍配を揚げたと受け取られざるを得ないため、裁判所の宗教的中立性に疑念を抱かせるおそれが強いような、極めて限局された場合にのみ許されるべきものである。多数意見が引用する最高裁第二小法廷平成元年九年八日判決が、「(懲戒処分の)効力の有無が当事者間の紛争の本質的争点をなすとともに、(中略)その判断が訴訟の帰趨を左右する必要不可欠のものである場合には」裁判の回避が許されるとしているのもこのような趣旨と理解されなければならない。
これを本件についてみると、記録によれば、阿部は昭和五四年に前法主から血脈相承を受けた者として法主に就任し、その旨が日蓮正宗の諸機関において承認され、公表されたこと、それ以来、本件罷免処分がなされるまでに一四年余が経過し、その間、阿部は対内的にも対外的にも終始日蓮正宗の法主・管長として行動してきたことが認められる。さらに、本件に先立つ昭和五五年ころにも、日蓮正宗内部において創価学会との関係をめぐって対立が生じ、当時阿部の採っていた同学会との協調路線に反対する一派の僧侶から同人が血脈相承を受けたことを否定する主張がなされ、これに基づく訴訟も提起される事態になったが、上告人は、当時このような主張にくみすることなく、かえって阿部が法主であることを前提とした積極的な活動を続けてきたことが認められる。また、平成二年末ころ、創価学会との対立路線に転じた日蓮正宗の方針に反対して同宗からの離脱を企図した住職等に対し同宗が寺院の明渡訴訟を提起した事件は、本件訴訟を含めて一六件あるが、そのうち、阿部によって任命された住職に係る一三件においては阿部の血脈相承を否定する主張がなされていないことも認められる。
以上のような事実を総合的に考察するならば、上告人は、阿部ら日蓮正宗執行部が創価学会との対立路線に転じたことに反発し、たまたま上告人が阿部の前法主から任命されていたために阿部の法主たる地位を争っても自己の住職たる地位を否定することにはならないことを奇貨として、阿部の法主たる地位を争っているに過ぎず、本件訴訟において阿部が血脈相承を受けた法主であるか否かが当事者間の紛争の本質的争点をなすものとはいえないことが明らかである。したがって、本件は、上記最高裁判決とは事案を異にするものであって、この点が争点となるとしても、河合意見が説くところに従って判断すれば足りることになるのであるが、それ以前に、本件において、上告人が阿部の血脈相承を否定する主張をすることによって訴えの却下を求めることは、上記のような事情の下にあっては、訴訟を回避するために便宜的に争点を作出したとも見られるものであって、信義則違反ないし権利の濫用として許されないものというべきである。けだし、このような主張を認めることは、阿部を法主と認めて世俗的な法律関係を結んだ第三者が、後になって阿部の血脈相承を否定することによって訴えの却下を求めることと本質的に何ら変わるところがないからである。
以上の次第であるから、本件においては、裁判所としては、阿部の血脈相承の有無に関する主張の判断に入ることなく審理を進めれば足りたのであり、一審判決はこの点において違法といわざるを得ないから、原判決は、結論において正当である。
(裁判長裁判官 福田博 裁判官 河合伸一 裁判官 北川弘治 裁判官 亀山継夫 裁判官 梶谷玄)

++解説
《解  説》
一 本件は、A宗の被包括宗教法人である各宗教法人が、その寺院の住職に任命されていたが、A宗の管長Bによって住職を罷免されるか(①事件)、僧階剥奪処分である奪階処分に付せられた(②事件)各僧侶らに対し、各僧侶らが各寺院建物の占有権原を失ったとして、所有権に基づき各寺院建物の明渡しを求める訴訟を提起した事案である。A宗においては、代表役員は管長の職にある者をもって充て、管長は法主の職にある者をもって充てるものとされており、法主は宗祖以来の唯授一人の血脈を相承する者とされている。A宗とその信徒団体であるC会とが激しく対立するようになった。各僧侶らは、その確執の中で、A宗の管長であるBが血脈相承(けちみゃくそうじょう)を受けていないと考えるに至り、各宗教法人とA宗との被包括関係を廃止しようと考え、責任役員会でA宗との被包括関係の廃止に係る各宗教法人の規則変更についての決議が成立したとして、A宗に対してその旨の通知をするなどの宗派離脱手続を行った。A宗は、A宗からの宗派離脱手続が違法、無効であるなどとして、各僧侶に対し上記各懲戒処分をした。各僧侶らは、各宗教法人とA宗との被包括関係を解消することができず、A宗の僧侶の地位にとどまっている。各僧侶らは、上記各懲戒処分はA宗の管長たる地位を有しない者によってされた無効な処分であると主張している。
二 ①、②事件の各一審は、いずれも本件訴えを却下したが、その理由の要旨は次のとおりである。本件訴えは、BがA宗の法主の地位に就任したか否かの判断を必要不可欠の前提にするところ、Bが法主の地位にあるか否かを判断するためには、A宗における血脈相承の意義を明らかにした上で、同人が血脈を相承したか否かを判断しなければならない。そのためには、A宗における教義ないし信仰の内容に立ち入らなければならないことになるから、本件訴えは、裁判所法三条にいう「法律上の争訟」に当たらないというべきである。
これに対し、①、②事件の各原審(①事件の原審は判時一六九六号一一一頁に登載)は、各判決二項に要約されているように説示し、本件訴えは法律上の争訟に当たると判断して、一審判決を取り消し、本件を一審に差し戻した。各僧侶から上告及び上告受理申立て。
三 各上告については、民訴法三一二条一項、二項所定の事由を主張するものではないとして棄却決定がされたが、法律上の争訟性の解釈の誤り及び判例違反をいう各上告受理申立てについてはこれが受理された(②事件についてはそれ以外の上告受理申立て理由は排除された。)。第二小法廷の①判決は、本件は、請求の当否を決定するために判断することが必要な前提問題が宗教上の教義、信仰の内容に深くかかわっており、その内容に立ち入ることなくしては前提問題の結論を下すことができないものであることを理由に、第三小法廷の②判決は、本件は、宗教団体内部における紛争において、訴訟の争点につき判断するために宗教上の教義及び信仰の内容について一定の評価をすることを避けることができないものであることを理由に、いずれも、その訴訟は、実質において法令の適用による終局的解決に適しないものとして、裁判所法三条にいう「法律上の争訟」に当たらないというべきであるとして、原判決を破棄してXの控訴を棄却した。なお、①、②事件と同様な事案に関し、一審が訴えを却下し、原審が控訴を棄却した事件についての上告及び上告不受理申立てについては(平成一二年(オ)第一四〇〇号、同年(受)第一二一四号事件)、第三小法廷が平成一四年一月二二日に上告棄却兼不受理決定をしている(この事件の事案の詳細は、井上治典「宗教団体の懲戒処分の効力をめぐる司法審査の新たな流れ(上)―寺院明渡し訴訟の現状と展望」判評五一〇号八頁、判時一七四九号一八六頁に妙道寺事件として紹介されている。なお、この論文の二頁の注(1)には本件問題に関する文献がほぼ網羅されている。)。
四 従前の判例の立場
宗教法人の自治によって決定すべき事項、ことに宗教上の教義にわたる事項は、裁判所が立ち入って実体的な審理、判断をすべきではなく(最一小判昭55・4・10裁集民一二九号四三九頁、本誌四一九号八〇頁)、訴訟が具体的権利義務ないし法律関係に関する紛争の形式をとっており、信仰の対象の価値ないし宗教上の教義に関する判断が請求の当否を決するについての前提問題にとどまる場合であっても、それが訴訟の帰すうを左右する必要不可欠のものであり、紛争の核心となっているときには、当該訴訟は、裁判所法三条にいう法律上の争訟に当たらない(①判決の引用する最三小判昭56・4・7民集三五巻三号四四三頁、本誌四四一号五九頁)。また、具体的な権利義務ないし法律関係に関する訴訟であっても、宗教団体内部においてされた懲戒処分の効力が請求の当否を決する前提問題となっており、その効力の有無が当事者間の紛争の本質的争点をなすとともに、それが宗教上の教義・信仰の内容に深くかかわっているため、右教義、信仰の内容に立ち入ることなくしてその効力の有無を判断することができず、しかも、その判断が訴訟の帰すうを左右する必要不可欠のものである場合には、右訴訟は、裁判所法三条にいう法律上の争訟には当たらない(①判決の引用する最二小判平1・9・8民集四三巻八号八八九頁、本誌七七一号八〇頁(いわゆる蓮華寺事件)。この事案は、本件と同様に宗教法人であるA宗を包括宗教法人とする宗教法人が住職を罷免された僧侶に対し寺院建物の明渡しを求める訴訟であった。なお、特定の者が宗教法人の代表役員の地位にあることが争われている訴訟につき、同旨の判断を示している判例として最三小判平5・9・7民集四七巻七号四六六七頁、本誌八五五号九〇頁がある。)。右平成元年判決に引き続く一連の判例は、宗教法人がその所有する建物の明渡しを求める訴訟において、訴訟が提起されるに至った紛争の経緯及び当事者双方の主張並びに訴訟の経過に照らして、当該訴訟の争点を判断するために宗教上の教義ないし信仰の内容について一定の評価をすることを避けることができない場合には、右明渡しを求める訴えは裁判所法三条にいう法律上の争訟に当たらないとしている(最三小判平5・7・20裁集民一六九号三一九頁、本誌八五五号五八頁。最二小判平5・9・10裁集民一六九号六二九頁、本誌八五五号五八頁。最一小判平5・11・25裁集民一七〇号四七五頁、本誌八五五号五八頁)。最近の最三小判平11・9・28裁集民一九三号七三九頁、本誌一〇一四号一七四頁も、宗教法人の代表役員及び責任役員の地位にあることの確認を求める訴訟について同様の判断を示しているが、宗教団体とその外部の者との間における一般民事上の紛争に係るものであれば、これを適法とする余地を残したものと解する余地がある。

五 ①判決の法廷意見、②判決は、多少文言は異なっているが、実質的な差異はなく、従前の最高裁判例の立場を踏襲したものであることは、①判決が右平成元年判決等を引用していることからも明らかである。両判決とも、右平成元年判決等の使用していた「紛争の本質的争点」という用語の使用を避けているが、これは、この用語の意味が右平成元年判決後の一連の判例から見ても、当該訴訟の結論を下すために判断が避けられないという意味であるのに、①、②事件の各原審のように紛争全体の本質的争点の意味と誤解する向きもあったことから、あえてこの用語の使用を避けたのではないかと推測される
②判決は全員一致によるものであるが、①判決には二人の裁判官の反対意見が付されている。その内容の詳細については判決文を直接参照していただきたい。河合裁判官の反対意見は、憲法が宗教団体にも信教の自由を保障していることから、裁判所が自ら宗教団体の信仰の内容あるいは教義の解釈に立ち入って独自の判断をすることは許されないという点では法廷意見と同様の立場に立っている。しかし、そのことから法廷意見のように、請求の当否を決する前提問題が宗教上の教義、信仰の内容に深くかかわっており、その内答に立ち入ることなくしては前提問題の結論を下すことができない場合に法律上の争訟性を否定することは、憲法の保障する裁判を受ける権利と表裏をなす裁判所の責務にもとるのみならず、憲法の信教の自由を保障した趣旨に反するとして、裁判所は、公序良俗に反するなど格別の事由のない限り、宗教団体の宗教的判断を受容し、これを前提として法令を適用しなければならないとするものである。河合裁判官の反対意見は、部分社会論を理由に懲戒処分自体につき自律的判断を受容すべきであるとの立場に立つものではなく、憲法が信教の自由を保障する宗教的判断に限り受容すべきであるとの立場に立つものである。亀山裁判官の反対意見は、河合裁判官の反対意見に同調しつつ、本件記録から認められる事実関係に照らせば、本件において、当該僧侶がBの血脈相承を否定する主張をすることによって本件訴えの却下を求めることは、訴訟を回避するために便宜的に争点を作出したものとも見られるのであって、信義則違反ないし権利の濫用として許されないとするとの意見を付言するものである。
右平成元年判決等の事案と本件の事案とは、(1)明渡しを求められた僧侶が前者ではA宗の内部にとどまって批判的言動をした者であるのに対し、後者ではA宗から離脱しようとした者であること、(2)前者ではBが血脈相承を受けたか否かを巡ってA宗内で異端紛争となっていたのに対し、後者においてはBが血脈相承を受けたことがA宗内での宗教的判断として定立していた可能性があると推認されることなどに相違があることを理由として、事実関係を異にするとの見解もある。(1)の点を強調する見解として、①事件のXの訴訟代理人でもある井上治典「宗教団体の懲戒処分の効力をめぐる司法審査の新たな流れ(上)(下)―寺院明渡し訴訟の現状と展望」判評五一〇号二頁、判時一七四九号一八〇頁、判評五一一号二頁、判時一七五二号一八〇頁があり、(2)の点を指摘するものとして河合裁判官の反対意見がある。しかし、(1)の点を強調する見解は、本件において、各僧侶らが各宗教法人とA宗との被包括関係を解消することができず、A宗の僧侶の地位にとどまっていることを看過した議論ではないかと考えられるであろう。(2)の点についても、①判決の法廷意見の立場及び②判決の立場によれば結論を左右すべきものとは考えられないであろう。