1.レペタ事件から考える。
・取材の事由は表現の事由そのものではなく、単に「尊重」に値するもの
・筆記行為の自由は21条1項の規定によって直接保障されている表現の自由そのものとは異なるものであるから、その制限又は禁止には、表現の自由に制約を加える場合に一般に必要とされる厳格な基準が要求されるものではない!
+(H1.3.8)レペタ
理由
上告代理人秋山幹男、同鈴木五十三、同喜田村洋一、同三宅弘、同山岸和彦の上告理由について
一 原審の確定した事実関係は、次のとおりである。
上告人は、米国ワシントン州弁護士の資格を有する者で、国際交流基金の特別研究員として我が国における証券市場及びこれに関する法的規制の研究に従事し、右研究の一環として、昭和五七年一〇月以来、東京地方裁判所における被告人加藤暠に対する所得税法違反被告事件の各公判期日における公判を傍聴した。右事件を担当する裁判長(以下「本件裁判長」という。)は、各公判期日において傍聴人がメモを取ることをあらかじめ一般的に禁止していたので、上告人は、各公判期日に先立ちその許可を求めたが、本件裁判長はこれを許さなかつた。本件裁判長は、司法記者クラブ所属の報道機関の記者に対しては、各公判期日においてメモを取ることを許可していた。
二 憲法八二条一項の規定は、裁判の対審及び判決が公開の法廷で行われるべきことを定めているが、その趣旨は、裁判を一般に公開して裁判が公正に行われることを制度として保障し、ひいては裁判に対する国民の信頼を確保しようとすることにある。
裁判の公開が制度として保障されていることに伴い、各人は、裁判を傍聴することができることとなるが、右規定は、各人が裁判所に対して傍聴することを権利として要求できることまでを認めたものでないことはもとより、傍聴人に対して法廷においてメモを取ることを権利として保障しているものでないことも、いうまでもないところである。
三1 憲法二一条一項の規定は、表現の自由を保障している。そうして、各人が自由にさまざまな意見、知識、情報に接し、これを摂取する機会をもつことは、その者が個人として自己の思想及び人格を形成、発展させ、社会生活の中にこれを反映させていく上において欠くことのできないものであり、民主主義社会における思想及び情報の自由な伝達、交流の確保という基本的原理を真に実効あるものたらしめるためにも必要であつて、このような情報等に接し、これを摂取する自由は、右規定の趣旨、目的から、いわばその派生原理として当然に導かれるところである(最高裁昭和五二年(オ)第九二七号同五八年六月二二日大法廷判決・民集三七巻五号七九三頁参照)。市民的及び政治的権利に関する国際規約(以下「人権規約」という。)一九条二項の規定も、同様の趣旨にほかならない。
2 筆記行為は、一般的には人の生活活動の一つであり、生活のさまざまな場面において行われ、極めて広い範囲に及んでいるから、そのすべてが憲法の保障する自由に関係するものということはできないが、さまざまな意見、知識、情報に接し、これを摂取することを補助するものとしてなされる限り、筆記行為の自由は、憲法二一条一項の規定の精神に照らして尊重されるべきであるといわなければならない。
裁判の公開が制度として保障されていることに伴い、傍聴人は法廷における裁判を見聞することができるのであるから、傍聴人が法廷においてメモを取ることは、その見聞する裁判を認識、記憶するためになされるものである限り、尊重に値し、故なく妨げられてはならないものというべきである。
四 もつとも、情報等の摂取を補助するためにする筆記行為の自由といえども、他者の人権と衝突する場合にはそれとの調整を図る上において、又はこれに優越する公共の利益が存在する場合にはそれを確保する必要から、一定の合理的制限を受けることがあることはやむを得ないところである。しかも、右の筆記行為の自由は、憲法二一条一項の規定によつて直接保障されている表現の自由そのものとは異なるものであるから、その制限又は禁止には、表現の自由に制約を加える場合に一般に必要とされる厳格な基準が要求されるものではないというべきである。
これを傍聴人のメモを取る行為についていえば、法廷は、事件を審理、裁判する場、すなわち、事実を審究し、法律を適用して、適正かつ迅速な裁判を実現すべく、裁判官及び訴訟関係人が全神経を集中すべき場であつて、そこにおいて最も尊重されなければならないのは、適正かつ迅速な裁判を実現することである。傍聴人は、裁判官及び訴訟関係人と異なり、その活動を見聞する者であつて、裁判に関与して何らかの積極的な活動をすることを予定されている者ではない。したがつて、公正かつ円滑な訴訟の運営は、傍聴人がメモを取ることに比べれば、はるかに優越する法益であることは多言を要しないところである。してみれば、そのメモを取る行為がいささかでも法廷における公正かつ円滑な訴訟の運営を妨げる場合には、それが制限又は禁止されるべきことは当然であるというべきである。適正な裁判の実現のためには、傍聴それ自体をも制限することができるとされているところでもある(刑訴規則二〇二条、一二三条二項参照)。
メモを取る行為が意を通じた傍聴人によつて一斉に行われるなど、それがデモンストレーシヨンの様相を呈する場合などは論外としても、当該事件の内容、証人、被告人の年齢や性格、傍聴人と事件との関係等の諸事情によつては、メモを取る行為そのものが、審理、裁判の場にふさわしくない雰囲気を醸し出したり、証人、被告人に不当な心理的圧迫などの影響を及ぼしたりすることがあり、ひいては公正かつ円滑な訴訟の運営が妨げられるおそれが生ずる場合のあり得ることは否定できない。
しかしながら、それにもかかわらず、傍聴人のメモを取る行為が公正かつ円滑な訴訟の運営を妨げるに至ることは、通常はあり得ないのであつて、特段の事情のない限り、これを傍聴人の自由に任せるべきであり、それが憲法二一条一項の規定の精神に合致するものということができる。
五1 法廷を主宰する裁判長(開廷をした一人の裁判官を含む。以下同じ。)には、裁判所の職務の執行を妨げ、又は不当な行状をする者に対して、法廷の秩序を維持するため相当な処分をする権限が付与されている(裁判所法七一条、刑訴法二八八条二項)。右の法廷警察権は、法廷における訴訟の運営に対する傍聴人等の妨害を抑制、排除し、適正かつ迅速な裁判の実現という憲法上の要請を満たすために裁判長に付与された権限である。しかも、裁判所の職務の執行を妨げたり、法廷の秩序を乱したりする行為は、裁判の各場面においてさまざまな形で現れ得るものであり、法廷警察権は、右の各場面において、その都度、これに即応して適切に行使されなければならないことにかんがみれば、その行使は、当該法廷の状況等を最も的確に把握し得る立場にあり、かつ、訴訟の進行に全責任をもつ裁判長の広範な裁量に委ねられて然るべきものというべきであるから、その行使の要否、執るべき措置についての裁判長の判断は、最大限に尊重されなければならないのである。
2 裁判所法七一条、刑訴法二八八条二項の各規定により、法廷において裁判所の職務の執行を妨げ、又は不当な行状をする者に対し、裁判長が法廷の秩序を維持するため相当な処分をすることが認められている以上、裁判長は、傍聴人のメモを取る行為といえども、公正かつ円滑な訴訟の運営の妨げとなるおそれがある場合は、この権限に基づいて、当然これを禁止又は規制する措置を執ることができるものと解するのが相当であるから、実定法上、法廷において傍聴人に対してメモを取る行為を禁止する根拠となる規定が存在しないということはできない。
また、人権規約一九条三項の規定は、情報等の受領等の自由を含む表現の自由についての権利の行使に制限を課するには法律の定めを要することをいうものであるから、前示の各法律の規定に基づく法廷警察権 傍聴人のメモを取る行為の制限は、何ら人権規約の右規定に違反するものではない。
3 裁判長は傍聴人がメモを取ることをその自由に任せるべきであり、それが憲法二一条一項の規定の精神に合致するものであることは、前示のとおりである。裁判長としては、特に具体的に公正かつ円滑な訴訟の運営の妨げとなるおそれがある場合においてのみ、法廷警察権によりこれを制限又は禁止するという取扱いをすることが望ましいといわなければならないが、事件の内容、傍聴人の状況その他当該法廷の具体的状況によつては、傍聴人がメモを取ることをあらかじめ一般的に禁止し、状況に応じて個別的にこれを許可するという取扱いも、傍聴人がメモを取ることを故なく妨げることとならない限り、裁判長の裁量の範囲内の措置として許容されるものというべきである。
六 本件裁判長が、各公判期日において、上告人に対してはメモを取ることを禁止しながら、司法記者クラブ所属の報道機関の記者に対してはこれを許可していたことは、前示のとおりである。
憲法一四条一項の規定は、各人に対し絶対的な平等を保障したものではなく、合理的理由なくして差別することを禁止する趣旨であつて、それぞれの事実上の差異に相応して法的取扱いを区別することは、その区別が合理性を有する限り、何ら右規定に違反するものではないと解すべきである(最高裁昭和五五年(行ツ)第一五号同六〇年三月二七日大法廷判決・民集三九巻二号二四七頁等参照)とともに、報道機関の報道は、民主主義社会において、国民が国政に関与するにつき、重要な判断の資料を提供するものであつて、事実の報道の自由は、表現の自由を定めた憲法二一条一項の規定の保障の下にあることはいうまでもなく、このような報道機関の報道が正しい内容をもつためには、報道のための取材の自由も、憲法二一条の規定の精神に照らし、十分尊重に値するものである(最高裁昭和四四年(し)第六八号同年一一月二六日大法廷決定・刑集二三巻一一号一四九〇頁)。
そうであつてみれば、以上の趣旨が法廷警察権の行使に当たつて配慮されることがあつても、裁判の報道の重要性に照らせば当然であり、報道の公共性、ひいては報道のための取材の自由に対する配慮に基づき、司法記者クラブ所属の報道機関の記者に対してのみ法廷においてメモを取ることを許可することも、合理性を欠く措置ということはできないというべきである。
本件裁判長において執つた右の措置は、このような配慮に基づくものと思料されるから、合理性を欠くとまでいうことはできず、憲法一四条一項の規定に違反するものではない。
七1 原審の確定した前示事実関係の下においては、本件裁判長が法廷警察権に基づき傍聴人に対してあらかじめ一般的にメモを取ることを禁止した上、上告人に対しこれを許可しなかつた措置(以下「本件措置」という。)は、これを妥当なものとして積極的に肯認し得る事由を見出すことができない。上告人がメモを取ることが、法廷内の秩序や静穏を乱したり、審理、裁判の場にふさわしくない雰囲気を醸し出したり、あるいは証人、被告人に不当な影響を与えたりするなど公正かつ円滑な訴訟の運営の妨げとなるおそれがあつたとはいえないのであるから、本件措置は、合理的根拠を欠いた法廷警察権の行使であるというべきである。過去においていわゆる公安関係の事件が裁判所に多数係属し、荒れる法廷が日常であつた当時には、これらの裁判の円滑な進行を図るため、各法廷において一般的にメモを取ることを禁止する措置を執らざるを得なかつたことがあり、全国における相当数の裁判所において、今日でもそのような措置を必要とするとの見解の下に、本件措置と同様の措置が執られてきていることは、当裁判所に顕著な事実である。しかし、本件措置が執られた当時においては、既に大多数の国民の裁判所に対する理解は深まり、法廷において傍聴人が裁判所による訴訟の運営を妨害するという事態は、ほとんど影をひそめるに至つていたこともまた、当裁判所に顕著な事実である。
裁判所としては、今日においては、傍聴人のメモに関し配慮を欠くに至つていることを率直に認め、今後は、傍聴人のメモを取る行為に対し配慮をすることが要請されることを認めなければならない。
もつとも、このことは、法廷の秩序や静穏を害したり、公正かつ円滑な訴訟の運営に支障を来したりすることのないことを前提とするものであることは当然であつて、裁判長は、傍聴人のいかなる行為であつても、いやしくもそれが右のような事態を招くものであると認めるときには、厳正かつ果断に法廷警察権を行使すべき職務と責任を有していることも、忘れられてはならないであろう。
2 法廷警察権は、裁判所法七一条、刑訴法二八八条二項の各規定に従つて行使されなければならないことはいうまでもないが、前示のような法廷警察権の趣旨、目的、更に遡つて法の支配の精神に照らせば、その行使に当たつての裁判長の判断は、最大限に尊重されなければならない。したがつて、それに基づく裁判長の措置は、それが法廷警察権の目的、範囲を著しく逸脱し、又はその方法が甚だしく不当であるなどの特段の事情のない限り、国家賠償法一条一項の規定にいう違法な公権力の行使ということはできないものと解するのが相当である。このことは、前示のような法廷における傍聴人の立場にかんがみるとき、傍聴人のメモを取る行為に対する法廷警察権の行使についても妥当するものといわなければならない。
本件措置が執られた当時には、法廷警察権に基づき傍聴人がメモを取ることを一般的に禁止して開廷するのが相当であるとの見解も広く採用され、相当数の裁判所において同様の措置が執られていたことは前示のとおりであり、本件措置には前示のような特段の事情があるとまではいえないから、本件措置が配慮を欠いていたことが認められるにもかかわらず、これが国家賠償法一条一項の規定にいう違法な公権力の行使に当たるとまでは、断ずることはできない。
八 以上説示したところと同旨に帰する原審の判断は、結局これを是認することができる。原判決に所論の違憲、違法はなく、論旨は、いずれも採用することができない。
よつて、民訴法三九六条、三八四条、九五条、八九条に従い、裁判官四ツ谷巖の意見があるほか、裁判官全員の一致で、主文のとおり判決する。
+意見
裁判官四ツ谷巖の意見は、次のとおりである。
私は、本件上告を棄却すべきであるとする多数意見の結論には同調するが、その結論にいたる説示には同調することができないので、私の見解を明らかにしておきたい。
一1 憲法八二条一項の規定の趣旨は、裁判を一般に公開して裁判が公正に行われることを制度として保障し、ひいては裁判に対する国民の信頼を確保しようとすることにあつて、各人に裁判所に対して傍聴することを権利として要求できることまでを認めたものでないことはもとより、傍聴人に対して法廷においてメモを取ることを権利として保障しているものでもないことは、多数意見の説示するとおりであり、右規定の要請を満たすためには、各法廷を物的に傍聴可能な状態とし、不特定の者に対して傍聴のための入廷を許容し、その者がいわゆる五官の作用によつて、裁判を見聞することを妨げないことをもつて足りるものといわなければならない。
2 憲法二一条一項の規定は、表現の自由を保障している。そうして、多数意見は、各人が自由にさまざまな意見、知識、情報に接し、これを摂取する自由は、右規定の趣旨、目的からいわばその派生原理として当然に導かれるところであり、筆記行為も、情報等の摂取を補助するものとしてなされる限り、右規定の精神に照らして尊重されるべきであるとし、更に傍聴人が法廷においてメモを取ることも、見聞する裁判を認識、記憶するためになされるものである限り、尊重に値すると説示する。情報等を摂取する自由及び筆記行為の自由についての説示は、一般論としては、正にそのとおりであろう。しかしながら、傍聴人のメモに関する説示には、賛同することができない。
法廷は、いわゆる公共の場所ではなく、事件を審理、裁判するための場であることは、いうまでもない。したがつて、そこにおいては、冷静に真実を探究し、厳正に法令を適用して、適正かつ迅速な裁判を実現することが最優先されるべきである。法廷を主宰する裁判長に、法廷警察権が付与されているのも、訴訟の運営に対する妨害を抑制、排除して、常に法廷を審理、裁判にふさわしい場として維持し、適正かつ迅速な裁判の実現という憲法上の要請を満たすためにほかならない。そうして、このような法廷警察権の趣旨、目的及び裁判権を行使するに当たつての裁判官の憲法上の地位、権限に照らせば、法廷警察権の行使は、専ら裁判の進行に全責任を負う裁判長の裁量に委ねられているものというべきであり、傍聴人の行為も、裁判長の裁量によつて規制されて、然るべきものである。メモを取る行為も、その例外ではない。そうすると、裁判長は、その裁量により、傍聴人がメモを取ることを禁止することができ、その結果、傍聴人は法廷において情報等を摂取する自由を十全に享受することができないこととなるが、法廷は前示のとおり審理、裁判のための場であること、並びに、傍聴人は、その自由な意思によつて、裁判長の主宰の下に裁判が行われる法廷に入り、裁判官及び訴訟関係人の活動を見聞するにすぎない立場にあることにかんがみれば、これをもつて憲法二一条の規定に違背するといえないことはもちろん、その精神に違背するということもできない。
多数意見が引用する最高裁昭和五二年(オ)第九二七号同五八年六月二二日大法廷判決・民集三七巻五号七九三頁は、その意に反して拘置所に拘束されている未決拘禁者の新聞閲読の自由について判示するものであつて、傍聴人がこのように公権力によりその意に反して拘束されている者とその立場を異にする者であることは、前示のとおりであるし、また、未決拘禁者は、新聞を閲読できないことにより、それによる情報等の摂取が全く不可能となるのに対し、傍聴人は、法廷においてメモを禁止されても、そこにおける五官の作用によつての情報等の摂取それ自体は、何ら妨げられていないのである。
なお、人権規約一九条二項の規定の趣旨は、憲法の右規定のそれと異なるところはないから、傍聴人のメモを禁止しても、それが人権規約の右規定ないしその精神に違背するということはできないし、また法廷警察権に基づいて傍聴人のメモを禁止することが、人権規約一九条三項の規定に違反するものでないことは、多数意見の説示するとおりである。
3 以上のとおり、傍聴人の法廷におけるメモを許容することが要請されているとすべき憲法その他法令上の根拠は、これを見出すことができない。
してみれば、傍聴人が法廷においてメモを取る自由は、法的に保護された利益とまでいうことはできず、上告人の本訴請求は、その余の点について判断するまでもなく、失当であり、これを棄却すべきものとした原判決は結局正当であつて、本件上告は棄却されるべきである。
二 この機会に、傍聴人の法廷におけるメモをその自由に任せることの当否について、付言する。
傍聴人のメモをその自由に任せるべきことが、憲法その他法令上要請されていないとしても、もしそれが一般的に公正かつ円滑な訴訟の運営を妨げるおそれがないとするならば、特段の事情のない限り、これをその自由に任せることとするのも、一つの在り方であろう。
しかしながら、法廷は真実を探究する場であることは前示のとおりであるから、最も配慮されなければならないことは、法廷を真実が現れ易い場としておくことであるところ、法廷において傍聴人がメモを取つていた場合、たとえそれが静穏になされていて、法廷の秩序を乱すことがないとしても、証人や被告人に微妙な心理的影響を与え、真実を述べることを躊躇させるおそれなしとしないのである。そうして、そのような影響の有無は、多くの場合、事前に予測することは困難ないし不可能に近く、しかも、そのために法廷に真実が現れなかつた場合には、当該事件の裁判にも取り返しのつかない影響を及ぼすこととなつてしまうことは多言を要しない。また、影響は、必ずしも証人や被告人に対してばかりではない。傍聴人がメモを取つている法廷においては、厳粛であるべきその雰囲気が乱されるなどし、ために、心を集中すべき真実の探求に支障を生ずるおそれがないわけではないことにも、思いを致すべきであろう。
次に、法廷の情況を記述した文書が、傍聴人が法廷において取つたメモに基づいて作成したものとして、頒布された場合には、それが不正確なものであつたとしても、世人に対しあたかもその内容が真実であるかのような印象を与え、疑惑を招きかねないし、このような事態を事前に防止することは不可能というべきであり、しかも一旦世人に与えられた印象は、容易に払拭することができないのである。右のような弊害を招かないためには、法廷の情況に関する報道は、原則として司法記者クラブ所属の報道機関によつてなされることとするのが相当であり、右クラブ所属の報道機関の記者に対してのみ、メモを取ることを許容することも、憲法一四条一項の規定に違反するものでないことは、多数意見の説示するとおりである。
更に、前示のように、法廷におけるメモを傍聴人の自由に任せ、メモを取ることにより証人、被告人に心理的影響を与えるおそれがあるか、又は法廷を審理、裁判にふさわしい場として保持できないおそれがある場合においてのみ、裁判長が法廷警察権に基づきこれを禁止する措置を講ずることとした場合には、私の経験によれば、例外的に禁止の措置を執つた法廷において、その措置をめぐつて紛糾し、円滑な訴訟の運営が妨げられるに至る危惧が十分にあり、これを防止するためには、各法廷においてあらかじめ一般的に傍聴人がメモを取ることを禁止し、申出をまつて裁判長の裁量により個別的にその許否を決することとするのが相当であるということになるのである。
したがつて、これまでも、少なからざる裁判長が、傍聴人のメモにつきいわゆる許可制を採用し、傍聴人がメモを取ることを一般的に禁止した上、それを希望する傍聴人から申出があるときは、その傍聴の目的、証人、被告人の年齢、性格、当該事件の内容、当該公判期日に予定されている手続等を考慮して、メモを取ることによる弊害のおそれの有無を判断し、そのおそれがないと認められる場合に限り、これを許容するという措置を執つてきているが、私は、現時点における法廷の実状からすれば、このような措置を執つていくことが一つの妥当な方策ではないかと考える。この許否を決するに当たつては、当該傍聴人のメモを取ろうとする目的など、その個別的事情についても十分に配慮すべきであることはいうまでもない。
三 裁判、特に刑事裁判は、厳粛な雰囲気に包まれた法廷において行われてこそ、その使命を十分に果たすことができ、ひいては裁判に対する世人の信頼をも確保することができるのである。裁判長は、傍聴人等の行為が法廷の秩序や静穏を害したり、公正かつ円滑な訴訟の運営に支障をきたすものであると認めるときは、厳正かつ果断に法廷警察権を行使すべき職務と責任を有していることは、多数意見も説示するとおりである。私は、今日に至るまで、いわゆる荒れる法廷を担当した各裁判長をはじめとし、多くの裁判長が、この法廷警察権の適切な行使によつて、法廷の秩序とその厳粛な雰囲気を維持し、公正かつ円滑な訴訟の運営に対する支障を排除してきているものと考えるし、今後もまたそれを期待するものである。
2.泉佐野市民会館事件判決、広島県教から考える
+判例(H7.3.7)泉佐野
理由
上告代理人大野康平、同北本修二、同大石一二、同佐々木哲蔵、同仲田隆明、同浦功、同大野町子、同後藤貞人、同石川寛俊、同三上陸、同竹岡富美男、同横井貞夫、同中道武美、同梶谷哲夫、同黒田建一、同信岡登紫子、同永嶋靖久、同泉裕二郎、同森博行、同池田直樹、同福森亮二、同小田幸児の上告理由について
一 原審の適法に確定した事実関係等の概要は、次のとおりである。
1 上告人らは、昭和五九年六月三日に市立泉佐野市民会館(以下「本件会館」という。)ホールで「関西新空港反対全国総決起集会」(以下「本件集会」という。)を開催することを企画し、同年四月二日、上告人Aが、泉佐野市長に対し、市立泉佐野市民会館条例(昭和三八年泉佐野市条例第二七号。以下「本件条例」という。)六条に基づき、使用団体名を「全関西実行委員会」として、右ホールの使用許可の申請をした(以下「本件申請」という。)。
2 本件会館は、被上告人が泉佐野市民の文化、教養の向上を図り、併せて集会等の用に供する目的で設置したものであり、南海電鉄泉佐野駅前ターミナルの一角にあって、付近は、道路を隔てて約二五〇店舗の商店街があり、市内最大の繁華街を形成している。本件会館ホールの定員は、八一六名(補助席を含めて一〇二八名)である。
3 本件申請の許否の専決権者である泉佐野市総務部長は、左記の理由により、本件集会のための本件会館の使用が、本件会館の使用を許可してはならない事由を定める本件条例七条のうち一号の「公の秩序をみだすおそれがある場合」及び三号の「その他会館の管理上支障があると認められる場合」に該当すると判断し、昭和五九年四月二三日、泉佐野市長の名で、本件申請を不許可とする処分(以下「本件不許可処分」という。)をした。
(一) 本件集会は、全開西実行委員会の名義で行うものとされているが、その実体はいわゆる中核派(全学連反戦青年委員会)が主催するものであり、中核派は、本件申請の直後である四月四日に後記の連続爆破事件を起こすなどした過激な活動組織であり、泉佐野商業連合会等の各種団体からいわゆる極左暴力集団に対しては本件会館を使用させないようにされたい旨の嘆願書や要望書も提出されていた。このような組織に本件会館を使用させることは、本件集会及びその前後のデモ行進などを通じて不測の事態を生ずることが憂慮され、かつ、その結果、本件会館周辺の住民の平穏な生活が脅かされるおそれがあって、公共の福祉に反する。
(二) 本件申請は、集会参加予定人員を三〇〇名としているが、本件集会は全国規模の集会であって右予定人員の信用性は疑わしく、本件会館ホールの定員との関係で問題がある。
(三) 本件申請をした上告人Aは、後記のとおり昭和五六年に関西新空港の説明会で混乱を引き起こしており、また、中核派は、従来から他の団体と対立抗争中で、昭和五八年には他の団体の主催する集会に乱入する事件を起こしているという状況からみて、本件集会にも対立団体が介入するなどして、本件会館のみならずその付近一帯が大混乱に陥るおそれがある。
4 本件集会に関連して、上告人らないし中核派については、次のような事実があった。
(一)(1) 本件集会の名義人である「全関西実行委員会」を構成する六団体は、関西新空港の建設に反対し、昭和五七年、五八年にも全国的規模の反対集会を大阪市内の扇町公園で平穏に開催するなどしてきた。
(2) 右六団体の一つで上告人Aが運営委員である「泉佐野・新空港に反対する会」は、本件会館小会譲室で過去に何度も講演等を開催してきた。
(3) 上告人Bが代表者である「全関西実行委員会」は、反対集会を昭和五二年ころから大阪市内の中之島中央公会堂等で平穏に開催してきた。
(二)(1) ところが、昭和五九年に至り、関西新空港につきいよいよ新会社が発足し、同年中にも工事に着手するような情勢になってくると、「全関西実行委員会」と密接な関係があり、本件集会について重要な地位を占める中核派は、関西新空港の建設を実力で阻止する闘争方針を打ち出し、デモ行進、集会等の合法的活動をするにとどまらず、例えば、「1」 昭和五九年三月一日、東京の新東京国際空港公団本部ビルに対し、付近の高速道路から火炎放射器様のもので火を噴き付け、「2」 同年四月四日、大阪市内の大阪科学技術センター(関西新空港対策室が所在)及び大阪府庁(企業局空港対策部が所在)に対し、時限発火装置による連続爆破や放火をして九人の負傷者を出すといった違法な実力行使について、自ら犯行声明を出すに至った。中核派は、特に右「2」の事件について、その機関紙『前進』において、「この戦闘は一五年余のたたかいをひきつぐ関西新空港粉砕闘争の本格的第一弾である。同時に三・一公団本社火炎攻撃、三・二五三里塚闘争の大高揚をひきつぎ、五・二〇―今秋二期決戦を切り開く巨弾である。」とした上、「四・四戦闘につづき五・二〇へ、そして、六・三関西新空港粉砕全国総決起へ進撃しよう。」と記載し、さらに、「肉迫攻撃を敵中枢に敢行したわが革命軍は、必要ならば百回でも二百回でもゲリラ攻撃を敢行し、新空港建設計画をズタズタにするであろう。」との決意を表明して、本件集会がこれらの事件の延長線上にある旨を強調している。
(2) 中核派は、本件不許可処分の日の前日である昭和五九年四月二二日、関西新空港反対闘争の一環として、泉佐野市臨海緑地から泉佐野駅前へのデモ行進を行ったが、「四・四ゲリラ闘争万才! 関西新空港実力阻止闘争 中核派」などと記載し、更に本件集会について「六・三大阪現地全国闘争へ! 」と記載した横断幕を掲げるなどして、本件集会が右一連の闘争の大きな山場であることを明示し、参加者のほぼ全員がヘルメットにマスクという姿であり、その前後を警察官が警備するという状況であったため、これに不安を感じてシャッターを閉じる商店もあった。
(3) 上告人Aは、中核派と活動を共にする活動家であり、昭和五六年八月に岸和田市市民会館で関西新空港の説明会が開催された際、壇上を占拠するなどして混乱を引き起こし、威力業務妨害罪により罰金刑に処せられたことがあった。また、右(2)のデモ行進の許可申請者兼責任者であり、自身もデモに参加してビラの配布活動等も行った。
(三) 中核派は、従来からいわゆる革マル派と内ゲバ殺人事件を起こすなど左翼運動の主導権をめぐって他のグループと対立抗争を続けてきたが、本件不許可処分のされた当時、次のように、他のグループとの対立抗争の緊張を高めていた。
(1) 昭和五八年七月一日、大阪市内の中之島中央公会堂でいわゆる第四インターの主催する三里塚闘争関西集会が開催された際、中核派が会場に乱入し、多数の負傷者や逮捕者を出した。
(2) 中核派は、同月一八日付けの機関紙『前進』において、「すべての第四インター分子は断罪と報復の対象である。絶対に等価以上の報復をたたきつけてやらなくてはならない。」と記述し、さらに、昭和五九年四月二日付けの同紙において、一〇年前に法政大学で中核派の同志が虐殺された事件の犯人が革マル派の者であることを報じて「革命的武装闘争」の中で「反革命カクマルをせん滅・一掃せよ!」と記述し、同月二三日付けの同紙において、「四・四戦闘の勝利は同時に、四―六月の三里塚二期、関西新空港闘争の大爆発の巨大な条件となっている。」とした上、「間断なき戦闘と戦略的エスカレーションの原則にのっとり革命的武装闘争をさらに発展させよ。この全過程を同時に脱落派、第四インター、日向派など、メンシェビキ、解党主義的腐敗分子、反革命との戦いで断固として主導権を堅持して戦い抜かなければならない。」と記述している。
5 上告人らは、本件会館の使用が許可されなかったため、会場を泉佐野市野出町の海浜に変更して本件集会を開催したところ、中核派の機関紙によれば二六〇〇名が結集したと報じられ、少なくとも約一〇〇〇名の参加があった。
二 原審は、右一の事実関係に基づき、次のように説示して、本件不許可処分が適法であるとした。(1) 中核派は、単に本件集会の一参加団体ないし支援団体というにとどまらず、本件集会の主体を成すか、そうでないとしても、本件集会の動向を左右し得る有力な団体として重要な地位を占めるものであった。(2) 本件集会が開催された場合、中核派と対立する団体がこれに介入するなどして、本件会館の内外に混乱が生ずることも多分に考えられる状況であった。(3) このような状況の下において、泉佐野市総務部長が、本件集会が開催されたならば、少なからぬ混乱が生じ、その結果、一般市民の生命、身体、財産に対する安全を侵害するおそれがある、すなわち公共の安全に対する明白かつ現在の危険があると判断し、本件条例七条一号の「公の秩序をみだすおそれがある場合」に当たるとしたことに責めるべき点はない。(4) また、本件集会の参加人員は、本件会館の定員をはるかに超える可能性が高かったから、本件条例七条三号の「その他会館の管理上支障があると認められる場合」にも当たる。
三 所論は、本件条例七条一号及び三号は、憲法二一条一項に違反し、無効であり、また、本件不許可処分は、同項の保障する集会の自由を侵害し、同条二項前段の禁止する検閲に当たり、地方自治法二四四条に違反すると主張するので、以下この点について判断する。
1 被上告人の設置した本件会館は、地方自治法二四四条にいう公の施設に当たるから、被上告人は、正当な理由がない限り、住民がこれを利用することを拒んではならず(同条二項)、また、住民の利用について不当な差別的取扱いをしてはならない(同条三項)。本件条例は、同法二四四条の二第一項に基づき、公の施設である本件会館の設置及び管理について定めるものであり、本件条例七条の各号は、その利用を拒否するために必要とされる右の正当な理由を具体化したものであると解される。
そして、地方自治法二四四条にいう普通地方公共団体の公の施設として、本件会館のように集会の用に供する施設が設けられている場合、住民は、その施設の設置目的に反しない限りその利用を原則的に認められることになるので、管理者が正当な理由なくその利用を拒否するときは、憲法の保障する集会の自由の不当な制限につながるおそれが生ずることになる。したがって、本件条例七条一号及び三号を解釈適用するに当たっては、本件会館の使用を拒否することによって憲法の保障する集会の自由を実質的に否定することにならないかどうかを検討すべきである。
2 このような観点からすると、集会の用に供される公共施設の管理者は、当該公共施設の種類に応じ、また、その規模、構造、設備等を勘案し、公共施設としての使命を十分達成せしめるよう適正にその管理権を行使すべきであって、これらの点からみて利用を不相当とする事由が認められないにもかかわらずその利用を拒否し得るのは、利用の希望が競合する場合のほかは、施設をその集会のために利用させることによって、他の基本的人権が侵害され、公共の福祉が損なわれる危険がある場合に限られるものというべきであり、このような場合には、その危険を回避し、防止するために、その施設における集会の開催が必要かつ合理的な範囲で制限を受けることがあるといわなければならない。そして、右の制限が必要かつ合理的なものとして肯認されるかどうかは、基本的には、基本的人権としての集会の自由の重要性と、当該集会が開かれることによって侵害されることのある他の基本的人権の内容や侵害の発生の危険性の程度等を較量して決せられるべきものである。本件条例七条による本件会館の使用の規制は、このような較量によって必要かつ合理的なものとして肯認される限りは、集会の自由を不当に侵害するものではなく、また、検閲に当たるものではなく、したがって、憲法二一条に違反するものではない。
以上のように解すべきことは、当裁判所大法廷判決(最高裁昭和二七年(オ)一一五〇号同二八年一二月二三日判決・民集七巻一三号一五六一頁、最高裁昭和五七年(行ツ)第一五六号同五九年一二月一二日判決・民集三八巻一二号一三〇八頁、最高裁昭和五六年(オ)第六〇九号同六一年六月一一日判決・民集四〇巻四号八七二頁、最高裁昭和六一年(行ツ)第一一号平成四年七月一日判決・民業四六巻五号四三七頁)の趣旨に徴して明らかである。
そして、このような較量をするに当たっては、集会の自由の制約は、基本的人権のうち精神的自由を制約するものであるから、経済的自由の制約における以上に厳格な基準の下にされなければならない(最高裁昭和四三年(行ツ)第一二〇号同五〇年四月三〇日大法廷判決・民集二九巻四号五七二頁参照)。
3 本件条例七条一号は、「公の秩序をみだすおそれがある場合」を本件会館の使用を許可してはならない事由として規定しているが、同号は、広義の表現を採っているとはいえ、右のような趣旨からして、本件会館における集会の自由を保障することの重要性よりも、本件会館で集会が開かれることによって、人の生命、身体又は財産が侵害され、公共の安全が損なわれる危険を回避し、防止することの必要性が優越する場合をいうものと限定して解すべきであり、その危険性の程度としては、前記各大法廷判決の趣旨によれば、単に危険な事態を生ずる蓋然性があるというだけでは足りず、明らかな差し迫った危険の発生が具体的に予見されることが必要であると解するのが相当である(最高裁昭和二六年(あ)第三一八八号同二九年一一月二四日大法廷判決・刑集八巻一一号一八六六頁参照)。そう解する限り、このような規制は、他の基本的人権に対する侵害を回避し、防止するために必要かつ合理的なものとして、憲法二一条に違反するものではなく、また、地方自治法二四四条に違反するものでもないというべきである。
そして、右事由の存在を肯認することができるのは、そのような事態の発生が許可権者の主観により予測されるだけではなく、客観的な事実に照らして具体的に明らかに予測される場合でなければならないことはいうまでもない。
なお、右の理由で本件条例七条一号に該当する事由があるとされる場合には、当然に同条三号の「その他会館の管理上支障があると認められる場合」にも該当するものと解するのが相当である。
四 以上を前提として、本件不許可処分の適否を検討する。
1 前記一の4の事実によれば、本件不許可処分のあった昭和五九年四月二三日の時点においては、本件集会の実質上の主催者と目される中核派は、関西新空港建設工事の着手を控えて、これを激しい実力行使によって阻止する闘争方針を採っており、現に同年三月、四月には、東京、大阪において、空港関係機関に対して爆破事件を起こして負傷者を出すなどし、六月三日に予定される本件集会をこれらの事件に引き続く関西新空港建設反対運動の山場としていたものであって、さらに、対立する他のグループとの対立緊張も一層増大していた。このような状況の下においては、それ以前において前記一の4(一)のように上告人らによる関西新空港建設反対のための集会が平穏に行われたこともあったことを考慮しても、右時点において本件集会が本件会館で開かれたならば、対立する他のグループがこれを阻止し、妨害するために本件会館に押しかけ、本件集会の主催者側も自らこれに積極的に対抗することにより、本件会館内又はその付近の路上等においてグループ間で暴力の行使を伴う衝突が起こるなどの事態が生じ、その結果、グループの構成員だけでなく、本件会館の職員、通行人、付近住民等の生命、身体又は財産が侵害されるという事態を生ずることが、客観的事実によって具体的に明らかに予見されたということができる。
2 もとより、普通地方公共団体が公の施設の使用の許否を決するに当たり、集会の目的や集会を主催する団体の性格そのものを理由として、使用を許可せず、あるいは不当に差別的に取り扱うことは許されない。しかしながら、本件において被上告人が上告人らに本件会館の使用を許可しなかったのが、上告人らの唱道する関西新空港建設反対という集会目的のためであると認める余地のないことは、前記一の4(一)(2)のとおり、被上告人が、過去に何度も、上告人Aが運営委員である「泉佐野・新空港に反対する会」に対し、講演等のために本件会館小会議室を使用することを許可してきたことからも明らかである。また、本件集会が開かれることによって前示のような暴力の行使を伴う衝突が起こるなどの事態が生ずる明らかな差し迫った危険が予見される以上、本件会館の管理責任を負う被上告人がそのような事態を回避し、防止するための措置を探ることはやむを得ないところであって、本件不許可処分が本件会館の利用について上告人らを不当に差別的に取り扱ったものであるということはできない。それは、上告人らの言論の内容や団体の性格そのものによる差別ではなく、本件集会の実質上の主催者と目される中核派が当時激しい実力行使を繰り返し、対立する他のグループと抗争していたことから、その山場であるとされる本件集会には右の危険が伴うと認められることによる必要かつ合理的な制限であるということができる。
3 また、主催者が集会を平穏に行おうとしているのに、その集会の目的や主催者の思想、信条に反対する他のグループ等がこれを実力で阻止し、妨害しようとして紛争を起こすおそれがあることを理由に公の施設の利用を拒むことは、憲法二一条の趣旨に反するところである。しかしながら、本件集会の実質上の主催者と目される中核派は、関西新空港建設反対運動の主導権をめぐって他のグループと過激な対立抗争を続けており、他のグループの集会を攻撃して妨害し、更には人身に危害を加える事件も引き起こしていたのであって、これに対し他のグループから報復、襲撃を受ける危険があったことは前示のとおりであり、これを被上告人が警察に依頼するなどしてあるかじめ防止することは不可能に近かったといわなければならず、平穏な集会を行おうとしている者に対して一方的に実力による妨害がされる場合と同一に論ずることはできないのである。
4 このように、本件不許可処分は、本件集会の目的やその実質上の主催者と目される中核派という団体の性格そのものを理由とするものではなく、また、被上告人の主観的な判断による蓋然的な危険発生のおそれを理由とするものでもなく、中核派が、本件不許可処分のあった当時、関西新空港の建設に反対して違法な実力行使を繰り返し、対立する他のグループと暴力による抗争を続けてきたという客観的事実からみて、本件集会が本件会館で開かれたならば、本件会館内又はその付近の路上等においてグループ間で暴力の行使を伴う衝突が起こるなどの事態が生じ、その結果、グループの構成員だけでなく、本件会館の職員、通行人、付近住民等の生命、身体又は財産が侵害されるという事態を生ずることが、具体的に明らかに予見されることを理由とするものと認められる。
したがって、本件不許可処分が憲法二一条、地方自治法二四四条に違反するということはできない。
五 以上のとおりであるから、原審の判断は正当として是認することができ、その余の点を含め論旨はいずれも採用することができない。
よって、民訴法四〇一条、九五条、八九条、九三条に従い、裁判官園部逸夫の補足意見があるほか、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
+補足意見
裁判官園部逸夫の補足意見は、次のとおりである。
一 一般に、公の施設は、本来住民の福祉を増進する目的をもってその利用に供するための施設(地方自治法二四四条一項)であるから、住民による利用は原則として自由に行われるべきものであり、「正当な理由」がない限り利用を拒むことはできない(同条二項)。右の規定は、いずれも、住民の利用に関するものであるが、公の施設は、多くの場合、当該地方公共団体の住民に限らず広く一般の利用にも開放されているという実情があり、右の規定の趣旨は、一般の利用者にも適用されるものと解される。他方、公の施設は、地方公共団体の住民の公共用財産であるから、右財産の管理権者である地方公共団体の行政庁は、公の施設の使用について、住民・滞在者の利益(公益)を維持する必要があるか、あるいは、施設の保全上支障があると判断される場合には、公物管理の見地から、施設使用の条件につき十分な調整を図るとともに、最終的には、使用の不承認、承認の取消し、使用の停止を含む施設管理権の適正な行使に努めるべきである。
右の見地に立って本件をみると、会館の管理権者である市長(本件の場合、専決機関としての総務部長)が、本件不許可処分に当たって、「その他会館の管理上支障があると認められる場合」という要件を定めた本件条例七条三号を適用したことについては、法廷意見の挙示する原審の確定した事実関係の下では、総務部長の判断が不適切であったとはいえず、また、本件会館の使用に関する調整を行うことが期待できる状況でなかったことも認められる以上、右判断に裁量権の行使を誤った違法はないというべきである。
二 ところで、公の施設の利用を拒否できる「正当な理由」は、さきに述べた公の施設の一般的な性格から見て、専ら施設管理の観点から定めるべきものであることはいうまでもない。しかし、本件会館のような集会の用に供することを主な目的とする施設の管理規程については、その他の施設と異なり、単なる施設管理権の枠内では処理することができない問題が生ずる。
本件条例は、会館が自ら実施する各種事業のほか、所定の集会に会館を供すること(同五条各号)、会館の使用については、市長の許可を要すること(同六条)、使用を不許可としなければならない要件(同七条各号)を定めている。右の要件の一つとして、七条一号(以下「本件規定」という。)に「公の秩序をみだすおそれがある場合」という要件があるが、これは、いわゆる行政法上の不確定な法概念であるから、平等原則、比例原則等解釈上適用すべき条理があるとはいえ、総務部長に対し、右要件の解釈適用についてかなり広範な行政裁量を認めるものといわなければならない。しかも、右の要件を適用して会館の便用の不許可処分をすることが、会館における集会を事実上禁止することになる場合は、たとい施設管理権の行使に由来するものであっても、実質的には、公の秩序維持を理由とする集会の禁止(いわゆる警察上の命令)と同じ効果をもたらす可能性がある。この種の会館の使用が、集会の自由ひいては表現の自由の保障に密接にかかわる可能性のある状況の下において、右要件により、広範な要件裁量の余地が認められ、かつ、本件条例のように右要件に当たると判断した場合は不許可処分をすることが義務付けられている場合は、条例の運用が、右の諸自由に対する公権力による恣意的な規制に至るおそれがないとはいえない。したがって、右要件の設定あるいは右要件の解釈については、憲法の定める集会の自由ひいては表現の自由の保障にかんがみ、特に周到な配慮が必要とされるのである。
本件条例は、公物管理条例であって、会館に関する公物管理権の行使について定めるのを本来の目的とするものであるから、公の施設の管理に関連するものであっても、地方公共の秩序の維持及び住民・滞在者の安全の保持のための規制に及ぶ場合は(地方自治法二条三項一号)、公物警察権行使のための組織・権限及び手続に関する法令(条例を含む。)に基づく適正な規制によるべきである。右の観点からすれば、本件条例七条一号は、「正当な理由」による公の施設利用拒否を規定する地方自治法二四四条二項の委任の範囲を超える疑いがないとはいえない(注)。
(注)現に、自治省は、公の施設及び管理に関するモデル条例の中に置くことのできる規定として、「公益の維持管理上の必要及び施設保全に支障があると認められるときは、使用を承認しないことができる。」という例を示しており、本件規定のような明らかに警察許可に類する規制は認めていない。
三 私の見解は、以上のようなものであるところ、法廷意見の三は、本件規定について、極めて限定的な解釈を施している。私は右のような限定解釈により、本件規定を適用する局面が今後厳重に制限されることになるものと理解した上で、法廷意見の判断に与するものである。
++解説
《解 説》
一 本件は、集会を開催する目的で市民会館の使用許可の申請をしたXらが、市長から「公の秩序をみだすおそれがある場合」という条例所定の不許可事由があるとして不許可処分を受け、右条例の違憲、違法、不許可処分の違憲、違法を主張して、Y市に対し、国家賠償法による損害賠償を請求した事件である。本件の中心的争点は、憲法二一条一項が集会の自由を保障していることに照らして、公の施設における集会の開催を制限することが許されるか、許されるとすればどのような要件の下に許されるのかという点である。本判決は、これまでの大法廷判決の憲法判断の趣旨に徴しながら、右の不許可事由について集会の自由を保障する見地から限定して解すべきであるとした上、右事由に当たるとしてされた不許可処分を適法としたものである。アメリカの判例におけるパブリック・フォーラムの法理(紙谷雅子「パブリック・フォーラム」公法研究五〇号一〇三頁、同「表現の自由(三・完)」國家學会雑誌一〇二巻五・六号二四三頁等を参照)をも想起させる注目すべき憲法判例であるということができよう。
二 本件の事実関係は、本判決が詳細に摘示しているとおりであるが、概要次のとおりである。①Xらは、昭和五九年六月三日にY市の市立泉佐野市民会館で「関西新空港反対全国総決起集会」を開催することを企画し、市長に対し、市立泉佐野市民会館条例に基づき、使用団体名を「全関西実行委員会」として、使用許可の申請をした。②本件会館は、Y市が集会等の用に供する目的で設置したものであり、市内最大の繁華街の一角にある。本件条例七条は、本件会館の使用を許可してはならない事由として三つの場合を掲げており、そのうち一号は「公の秩序をみだすおそれがある場合」、三号は「その他会館の管理上支障があると認められる場合」である。③市長(総務部長の専決処分)は、本件集会の実体はいわゆる中核派が主催するものであり、本件申請の直後に連続爆破事件を起こすなどした過激な活動組織である中核派に本件会館を使用させると、不測の事態を生ずることが憂慮され、その結果、周辺住民の平穏な生活が脅かされるおそれがあること、中核派が他の団体と対立抗争中で、本件集会にも対立団体が介入するなどして、付近一帯が大混乱に陥るおそれがあることなどの理由により、同年四月二三日、本件申請を不許可とする処分をした。④Xらが関西新空港反対の集会を平穏に開催したこともあるが、昭和五九年になってからは、中核派は、関西新空港の建設を実力で阻止する闘争方針を打ち出し、連続爆破や放火といった違法な実力行使について自ら犯行声明を出し、機関紙において、本件集会がこれらの事件の延長線上にある旨を強調した。また、中核派は、本件不許可処分の前日に、右闘争の一環として泉佐野市内でデモ行進を行ったが、横断幕等に本件集会が右一連の闘争の大きな山場であることを明示し、参加者のほぼ全員がヘルメットにマスクという姿で、その前後を警察官が警備するという状況であったため、これに不安を感じてシャッターを閉じる商店もあった。⑤中核派は、従来からいわゆる革マル派等の他のグループと対立抗争を続けてきたが、本件不許可処分のされた当時、いわゆる第四インターの主催する集会の会場に乱入して多数の負傷者や逮捕者を出し、機関紙において、革マル派、第四インター等に対する報復を呼びかけていた。
右の事実関係に基づき、第一審及び原審は、いずれも本件不許可処分が適法であるとして、請求を棄却し、これに対する控訴を棄却した。
三 本件会館は、地方自治法二四四条にいう公の施設に当たるから、その設置者であるY市は、正当な理由がない限り、住民がこれを利用することを拒んではならず(同条二項)、また、住民の利用について不当な差別的取扱いをしてはならない(同条三項)。本件条例(同法二四四条の二に基づく公の施設の設置及び管理に関する条例である)七条の各号は、利用を拒否するために必要とされる右の正当な理由を具体化したものであると解される。
ある施設における集会の開催をその施設の所有者等が容認する義務を負うわけではないが(佐藤幸治・憲法〔新版〕四七七頁)、右の公の施設については、住民は、その設置目的に反しない限りその利用を原則的に認められることになるので、集会の用に供するための公の施設を設置した地方公共団体が正当な理由なくその利用を拒否するときは、憲法二一条一項の保障する集会の自由の不当な制限につながるおそれを生ずることになる(伊藤正己・憲法〔新版〕二九二頁は、集会の自由には「公共施設の利用を要求できる権利」が含まれるとするが、阪本昌成「精神活動の自由」佐藤幸治編著・憲法Ⅱ二四三頁は、これに反対する。)。そして、管理条例の定める不許可事由を文字どおりに解したのでは、集会の自由を実質的に否定することになるときは、これを限定的に解する必要が生ずることもあろう。本判決は、所論に対する判断の冒頭において、このような問題意識の下に本件条例七条の解釈をすべきことを明らかにしている。
四 集会の用に供される公共施設の管理者は、当該公共施設の種類に応じ、また、その規模、構造、設備等を勘案し、公共施設としての使命を十分達成せしめるよう適正にその管理権を行使すべきである(本判決の引用する皇居外苑メーデー使用不許可事件の最大判昭28・12・23民集七巻一三号一五六一頁が公共福祉用財産について説示するところである)。これらの点からみて利用が不相当である場合、例えば定員超過、目的外使用等について利用を拒否し得ることは当然であろうし、利用の希望が競合する場合にこれを調整する必要があることももちろんであるが、それ以外に利用を拒否し得るのは、憲法が集会の自由を保障する趣旨にかんがみれば、施設をその集会のために利用させることによって、他の基本的人権が侵害され、公共の福祉が損なわれる危険がある場合(例えば人の生命が侵害される危険がある場合)に限られるものというべきであろう。
このように表現の自由と他の基本的人権とが衝突する場合に、どのような基準によって表現の自由の制限の可否を判断すべきかという問題については、様々な見解が唱えられているが、昭和五〇年代以降の最高裁大法廷判決においては、いわゆる利益較量論が中心的な判断基準になっている。本判決の引用する最大判昭59・12・12民集三八巻一二号一三〇八頁、本誌五四五号六五頁(税関検査事件)は、直接には利益較量的な表現を用いてはいないものの、利益較量の考え方に基づくものであることがうかがわれ、さらに、表現の自由に対する規制はより制限的でない他の選び得る手段が利用できないときに限って許されるとするいわゆる「LRAの原則」をも意識しているものと思われる。次に本判決の引用する最大判昭61・6・11民集四〇巻四号八七二頁、本誌六〇五号四二頁(北方ジャーナル事件)は、表現の自由と人格権としての名誉権が衝突する場合について、利益較量論を判断基準としたものであることが明らかであり、同じく最大判平4・7・1民集四六巻五号四三七頁(成田空港団結小屋使用禁止命令事件)は、集会の自由と航空の安全の確保の関係について利益較量論を判断基準として採用すべきことを明示している。また、本判決は引用していないが、最大判昭58・6・22民集三七巻五号七九三頁(よど号乗っ取り新聞記事抹消事件)も、利益較量論を判断基準の基本としている。
利益較量論によれば、集会の自由の制限が必要かつ合理的なものとして肯認されるかどうかは、基本的には、基本的人権としての集会の自由の重要性と、当該集会が開かれることによって侵害されることのある他の基本的人権の内容や侵害の発生の危険性の程度等を較量して決せられるべきことになろう。本判決は、右の引用する三件の大法廷判決の趣旨に徴して、まずこの判断基準を明らかにし、このような較量によって必要かつ合理的なものとして肯認される限りは、集会の自由を不当に侵害するものではなく、検閲に当たるものでもないとした。
五 もっとも、利益較量論に対しては、判断基準として核となるべきものを欠くという批判が加えられている(芦部信喜編・憲法Ⅱ(有斐閣大学双書)四九六頁〔佐藤幸治執筆〕等)。確かに、例えば集会の自由と人の生命を比較較量するといっても、その集会が開かれることによってほとんど確実に人命が失われるという場合とその可能性がないではないという場合とでは同日の談ではないはずである。したがって、当然、前記のように、比較されるべき他の基本的人権に対する侵害発生の危険性の程度(蓋然性)が問題になるのであるが、その蓋然性がどの程度であれば表現の自由の制限が肯認されるかについては、利益較量論のみによって一義的に結論が導かれるものではなく、次の段階の判断基準が必要となろう。その際に留意すべきことは、本判決が最大判昭50・4・30民集二九巻四号五七二頁(薬事法違憲判決)を引用して述べるように、基本的人権の中でも集会の自由のような精神的自由の制約は、経済的自由の制約における以上に厳格な基準の下にされなければならないということであり、基本的人権としての集会の自由の重要性を考えれば、これを制限することが必要かつ合理的なものとして肯認されるのは、右の危険性が高度である場合に限られるものというべきであろう。
このような判断基準として古くから用いられているものに「明白かつ現在の危険の原則」がある。本判決の引用する最大判昭29・11・24刑集八巻一一号一八六六頁(新潟県公安条例事件)は、行列行進又は公衆の集団示威運動について「公共の安全に対し明らかな差迫った危険を及ぼすことが予見されるときは」、公安条例に「これを許可せず又は禁止することができる旨の規定を設けることも、これをもって直ちに憲法の保障する国民の自由を不当に制限することにはならないと解すべきである。」と説示して、「明白かつ現在の危険の原則」を示唆し、その後多くの下級審判決がこの原則を採用した。本件の原判決も、「基本的人権たる集会、表現の自由を制限できるのは、右公共の安全に対する明白かつ現在の危険が存在する場合に限ると解するのが相当である」とした上、本件集会について市長がその危険があると判断したことに責めるべき点はないとしていた。
本判決は、憲法が集会の自由を保障する趣旨にかんがみ、前記各大法廷判決の趣旨によれば、利益較量論の次の段階の判断基準としては、「明白かつ現在の危険の原則」を採用することが相当であるとしたものであり、次のように説示する。「本件条例七条一号は、……本件会館における集会の自由を保障することの重要性よりも、本件会館で集会が開かれることによって、人の生命、身体又は財産が侵害され、公共の安全が損なわれる危険を回避し、防止することの必要性が優越する場合をいうものと限定して解すべきであり、その危険性の程度としては、……単に危険な事態を生ずる蓋然性があるというだけでは足りず、明らかな差し迫った危険の発生が具体的に予見されることが必要であると解するのが相当である……。そう解する限り、このような規制は、……憲法二一条に違反するものではなく、また、地方自治法二四四条に違反するものでもない」。このうち「明らかな差し迫った危険」という表現は、前記最大判昭29・11・24の説示に依拠するものであろう。
以上のように、本判決は、本件条例七条による集会の自由の制限の合憲性について、利益較量論、次いで「明らかな差し迫った危険」の基準という二段階の判断基準を採用し、かつ、本件条例七条一号が広義の表現を採っていても、これが合憲となるように限定して解釈することが十分に可能であるところから、上告理由の主張する「過度の広汎性の理論」や「文面上無効の法理」を採らず、合憲限定解釈の手法を採用したものである。
六 本判決は、本件条例七条一号についての以上の解釈に基づき、前記の事実関係によれば、本件集会の実質上の主催者と目される中核派が、関西新空港の建設に反対して違法な実力行使を繰り返し、対立する他のグループと暴力による抗争を続けてきており、本件集会が本件会館で開かれたならば、会館内又はその付近の路上等においてグループ間で暴力の行使を伴う衝突が起こるなどの事態が生じ、その結果、会館の職員、通行人、付近住民等の生命、身体又は財産が侵害される事態を生ずることが客観的事実によって具体的に明らかに予見されたということができるとして、そのことを理由とする本件不許可処分は、憲法二一条、地方自治法二四四条に違反しないとした。本判決が詳細に摘示する本件の事実関係によれば、本件条例七条一号について前記のように厳格な合憲限定解釈をしてもなお、本件不許可処分が合憲、適法であるとする結論は、十分に首肯し得るところであろう。
公の施設の使用の許否を決するに当たり、集会の目的や集会を主催する団体の性格そのものを理由として、使用を許可せず、あるいは不当に差別的に取り扱うことが許されないことはもちろんであるが、本件不許可処分がそのような理由によるものでないことは本件の事実関係から明らかであり、本判決は、その点についても懇切に説示をしている。
また、本判決は、アメリカの判例にいう「敵意ある聴衆」の理論(トマス・I・エマスン=木下毅「合衆国憲法判例の最近の動向〔第6回〕」ジュリ六〇七号一三五頁参照)に類似する問題にも触れ、「主催者が集会を平穏に行おうとしているのに、その集会の目的や主催者の思想、信条に反対する他のグループ等がこれを実力で阻止し、妨害しようとして紛争を起こすおそれがあることを理由に公の施設の利用を拒むことは、憲法二一条の趣旨に反するところである」が、本件はこのような場合に当たらないとしている。後記七で従前の裁判例を紹介するが、そこに現れるこの種の事案を解決するのに、参考となる判示であろう。
なお、本判決には、園部裁判官の補足意見が付されている。本件条例七条三号の「その他会館の管理上支障があると認められる場合」という不許可事由が満たされるので、本件不許可処分に違法はないとした上、同条一号は、「かなり広範な行政裁量を認めるもの」で、「地方自治法二四四条二項の委任の範囲を超える疑いがないとはいえない」が、法廷意見「のような限定解釈により、本件規定を適用する局面が今後厳重に制限されることになるものと理解した上で、法廷意見の判断に与するものである」というものである。
七 集会等の目的による公の施設の使用の許否に関する従前の裁判例として、以下のものがある。[1]長野地判昭48・5・4行裁集二四巻四=五号三四〇頁(暴力団と関係のある歌謡ショーの開催を目的とする市民会館の使用の許可取消処分の取消請求を棄却)、[2]名古屋地判昭50・2・24行裁集二六巻二号二六三頁、本誌三二〇号二三頁(ごみを素材とする作品展示のための県立美術館の利用の許可取消処分の取消請求を棄却)、[3]大阪地判昭50・5・28本誌三二九号二二三頁(日本共産党大阪府委員会が部落解放同盟に対抗する決起集会を開催するための大阪市公会堂の使用の許可取消処分を理由とする国家賠償請求を認容)、[4]広島地判昭50・11・25判時八一七号六〇頁(部落解放同盟の支部結成大会のための公民館の使用の不許可処分を理由とする国家賠償請求を認容)、[5]最一小判昭54・7・5裁判集民一二七号一三三頁、本誌四〇〇号一四八頁([3]の上告審、請求認容の結論を維持)、[6]福岡地小倉支判昭55・2・4判時九七五号七九頁(日本共産党北九州市委員会が部落解放同盟に対抗する集会を開催するための市立体育館の使用の不許可処分を理由とする国家賠償請求を認容)、[7]神戸地尼崎支判昭55・4・25判時九七九号一〇七頁(部落解放同盟に批判的な市民団体による映画・講演会、総会等のための市民会館の使用の不許可処分を理由とする国家賠償請求を認容)、[8]福岡地小倉支判昭56・3・26本誌四四九号二三七頁(同和行政に批判的な日本共産党の市議会議員による市政報告会のための公民館の使用の拒否処分を理由とする国家賠償請求を認容)、[9]鹿児島地判昭58・10・21判地自一号四七頁(県高教組主催のミュージカル「あヽ野麦峠」の公演のための公民館の使用の不許可処分を理由とする国家賠償請求を認容)、[10]大阪地決昭63・9・14本誌六八四号一八七頁(「『日の丸』焼き捨てを支援し、沖縄と本土のたたかいを結ぶ関西知花裁判を支援する会」の集会を開催するための区民センターの使用の許可取消処分の効力停止の申立てを認容)、[11]大阪高決昭63・9・16本誌六九〇号一七五頁、判時一三〇五号七〇頁([10]の抗告審、即時抗告を棄却)、[12]東京地決昭63・10・21判地自五二号三一頁(映画「橋のない川」の上映を阻止するための打合せ会議を目的とする区立文化センターの使用の取消処分の効力停止の申立てを却下)、[13]東京地決昭63・10・21判地自五二号二七頁(映画「橋のない川」の上映会のための区立文化センターの使用の取消処分の効力停止の申立てを却下)、[14]東京高決昭63・10・22本誌六九三号九五頁([13]の抗告審、即時抗告を棄却)、[15]福岡地小倉支判平1・11・30判時一三三三号一三九頁(基地の日米共同訓練に反対する集会を開催するための公民館の使用の許可取消処分を理由とする国家賠償請求を認容)、[16]岡山地決平2・2・19本誌七三〇号七四頁(県教職員組合が全国教育研究集会を開催するための県営武道館の使用の許可取消処分の効力停止の申立てを認容)、[17]京都地決平2・2・20本誌七三七号九七頁、判時一三六九号九四頁、(教職員組合が全国教育研究集会を開催するための府立勤労会館の使用の許可取消処分の効力停止の申立てを認容)、[18]大阪高決平2・2・26判地自七五号三四頁([17]の抗告審、即時抗告を棄却)、[19]水戸地判平2・6・29本誌七五二号一一二頁、判時一三六四号八〇頁、(火力発電所建設問題追及等のための学習会のための市立コミュニティセンターの使用の許可取消処分を理由とする国家賠償請求を認容)、[20]大阪地決平2・7・17本誌七五五号一四三頁(日教組の定期大会を開催するための市民会館の使用の許可取消処分の効力停止の申立てを認容)、[21]東京高決平3・1・21判地自八七号四四頁(日教組の教育研究全国集会を開催するための東京体育館の使用の許可取消処分の効力停止の申立てを認容する決定に対する即時抗告を棄却)、[22]熊本地判平3・4・8本誌七六五号一九一頁(人権尊重を求める市民シンポジウムを開催するための県立劇場の使用の不許可処分の取消請求を認容)、[23]東京地決平3・7・15判時一四〇三号二三頁(日教組の定期大会を開催するための市公会堂の使用の許可取消処分の効力停止の申立てを認容)、[24]東京高決平3・7・20本誌七七〇号一六五頁([23]の抗告審、即時抗告を棄却)、[25]浦和地判平3・10・11本誌七八三号一一三頁、判時一四二六号一一五頁(殺害された労働組合総務部長の合同葬を行うための市立福祉会館の使用の許可取消処分を理由とする国家賠償請求を認容)、[26]静岡地判平4・3・12判地自一〇二号四二頁(天皇制を考える討論会を開催するための県婦人会館の使用の不承認処分を理由とする国家賠償請求を認容)、[27]大阪高判平4・9・16本誌八〇五号一〇二頁、判時一四六七号八六頁(昭和天皇の大葬の礼当日の市立音楽堂の使用申請の不受理を理由とする国家賠償請求を認容)、[28]東京高判平4・12・2本誌八一一号一一〇頁、判時一四四九号九五頁([26]の控訴審、控訴を棄却)、[29]東京高判平5・3・30本誌八二七号六五頁、判時一四五五号九七頁([25]の控訴審、原判決を取り消し、請求を棄却)、[30]熊本地判平5・4・23判時一四七七号一一二頁([22]の関連事件。オウム真理教に対する人権侵害をやめさせることを目的して結成された「人権尊重を求める市民の会」のシンポジウム等を開催するための県立劇場の使用の不許可処分を理由とする国家賠償請求を認容、その後された許可の取消処分を理由とする国家賠償請求を棄却)、[31]東京地判平6・3・30本誌八五九号一六三頁(同性愛者の団体の青年の家の利用申込みの不承認処分を理由とする国家賠償請求を認容)。
これらの裁判例を検討するに当たっては、本判決との事案の相違に留意する必要があることはもちろんである。
++判例(H18.2.7)
理由
上告代理人岡秀明の上告受理申立て理由について
1 本件は、広島県の公立小中学校等に勤務する教職員によって組織された職員団体である被上告人が、その主催する第49次広島県教育研究集会(以下「本件集会」という。)の会場として、呉市立二河中学校(以下「本件中学校」という。)の体育館等の学校施設の使用を申し出たところ、いったんは口頭でこれを了承する返事を本件中学校の校長(以下、単に「校長」という。)から得たのに、その後、呉市教育委員会(以下「市教委」という。)から不当にその使用を拒否されたとして、上告人に対し、国家賠償法に基づく損害賠償を求めた事案である。
2 原審の適法に確定した事実関係等の概要は、以下のとおりである。
(1) 呉市立学校施設使用規則(昭和40年呉市教育委員会規則第4号。以下「本件使用規則」という。)2条は、学校施設を使用しようとする者は、使用日の5日前までに学校施設使用許可申請書を当該校長に提出し、市教委の許可を受けなければならないとしている。本件使用規則は、4条で、学校施設は、市教委が必要やむを得ないと認めるときその他所定の場合に限り、その用途又は目的を妨げない限度において使用を許可することができるとしているが、5条において、施設管理上支障があるとき(1号)、営利を目的とするとき(2号)、その他市教委が、学校教育に支障があると認めるとき(3号)のいずれかに該当するときは、施設の使用を許可しない旨定めている。
(2) 被上告人は、本件集会を、本件中学校において、平成11年11月13日(土)と翌14日(日)の2日間開催することとし、同年9月10日、校長に学校施設の使用許可を口頭で申し込んだところ、校長は、同月16日、職員会議においても使用について特に異議がなかったので、使用は差し支えないとの回答をした。
市教委の教育長は、同月17日、被上告人からの使用申込みの事実を知り、校長を呼び出して、市教委事務局学校教育部長と3人で本件中学校の学校施設の使用の許否について協議をし、従前、同様の教育研究集会の会場として学校施設の使用を認めたところ、右翼団体の街宣車が押し掛けてきて周辺地域が騒然となり、周辺住民から苦情が寄せられたことがあったため、本件集会に本件中学校の学校施設を使用させることは差し控えてもらいたい旨切り出した。しばらくのやりとりの後、校長も使用を認めないとの考えに達し、同日、校長から被上告人に対して使用を認めることができなくなった旨の連絡をした。
被上告人側と市教委側とのやりとりを経た後、被上告人から同月10日付けの使用許可申請書が同年10月27日に提出されたのを受けて、同月31日、市教委において、この使用許可申請に対し、本件使用規則5条1号、3号の規定に該当するため不許可にするとの結論に達し、同年11月1日、市教委から被上告人に対し、同年10月31日付けの学校施設使用不許可決定通知書が交付された(以下、この使用不許可処分を「本件不許可処分」という。)。同通知書には、不許可理由として、本件中学校及びその周辺の学校や地域に混乱を招き、児童生徒に教育上悪影響を与え、学校教育に支障を来すことが予想されるとの記載があった。
(3) 本件集会は、結局、呉市福祉会館ほかの呉市及び東広島市の七つの公共施設を会場として開催された。
(4) 被上告人は、昭和26年から毎年継続して教育研究集会を開催してきており、毎回1000人程度の参加者があった。第16次を除いて、第1次から第48次まで、学校施設を会場として使用してきており、広島県においては本件集会を除いて学校施設の使用が許可されなかったことはなかった。呉市内の学校施設が会場となったことも、過去10回前後あった。
(5) 被上告人の教育研究集会では、全体での基調提案ないし報告及び記念公演のほか、約30程度の数の分科会に分かれての研究討議が行われる。各分科会では、学校教科その他の項目につき、新たな学習題材の報告、授業展開に当たっての具体的な方法論の紹介、各項目における問題点の指摘がされ、これらの報告発表に基づいて討議がされる。このように、教育研究集会は、教育現場において日々生起する教育実践上の問題点について、各教師ないし学校単位の研究や取組みの成果が発表、討議の上、集約され、その結果が教育現場に還元される場ともなっている一方、広島県教育委員会(以下「県教委」という。)等による研修に反対する立場から、職員団体である被上告人の基本方針に基づいて運営され、分科会のテーマ自体にも、教職員の人事や勤務条件、研修制度を取り上げるものがあり、教科をテーマとするものについても、学習指導要領に反対したり、これを批判する内容のものが含まれるなど、被上告人の労働運動という側面も強く有するものであった。
(6) 平成4年に呉市で行われた第42次教育研究集会を始め、過去、被上告人の開催した教育研究集会の会場である学校に、集会当日、右翼団体の街宣車が来て、スピーカーから大音量の音を流すなどの街宣活動を行って集会開催を妨害し、周辺住民から学校関係者等に苦情が寄せられたことがあった。
しかし、本件不許可処分の時点で、本件集会について右翼団体等による具体的な妨害の動きがあったという主張立証はない。
(7) 被上告人の教育研究集会の要綱などの刊行物には、学習指導要領の問題点を指摘しこれを批判する内容の記載や、文部省から県教委等に対する是正指導にもあった卒業式及び入学式における国旗掲揚及び国歌斉唱の指導に反対する内容の記載が多数見受けられ、過去の教育研究集会では、そのような内容の討議がされ、本件集会においても、同様の内容の討議がされることが予想された。もっとも、上記記載の文言は、いずれも抽象的な表現にとどまっていた。
(8) 県教委と被上告人とは、以前から、国旗掲揚、国歌斉唱問題や研修制度の問題等で緊張関係にあり、平成10年7月に新たな教育長が県教委に着任したころから、対立が激化していた。
3 原審は、上記事実関係を前提として、本件不許可処分は裁量権を逸脱した違法な処分であると判断した。所論は、原審の上記判断に、地方自治法244条2項、238条の4第4項、学校教育法85条、教育公務員特例法(平成15年法律第117号による改正前のもの。以下同じ。)19条、20条の解釈の誤り、裁量権濫用の判断の誤り等があると主張するので、以下この点について判断する。
(1) 地方公共団体の設置する公立学校は、地方自治法244条にいう「公の施設」として設けられるものであるが、これを構成する物的要素としての学校施設は同法238条4項にいう行政財産である。したがって、公立学校施設をその設置目的である学校教育の目的に使用する場合には、同法244条の規律に服することになるが、これを設置目的外に使用するためには、同法238条の4第4項に基づく許可が必要である。教育財産は教育委員会が管理するとされているため(地方教育行政の組織及び運営に関する法律23条2号)、上記の許可は本来教育委員会が行うこととなる。
学校施設の確保に関する政令(昭和24年政令第34号。以下「学校施設令」という。)3条は、法律又は法律に基づく命令の規定に基づいて使用する場合及び管理者又は学校の長の同意を得て使用する場合を例外として、学校施設は、学校が学校教育の目的に使用する場合を除き、使用してはならないとし(1項)、上記の同意を与えるには、他の法令の規定に従わなければならないとしている(2項)。同意を与えるための「他の法令の規定」として、上記の地方自治法238条の4第4項は、その用途又は目的を妨げない限度においてその使用を許可することができると定めており、その趣旨を学校施設の場合に敷えんした学校教育法85条は、学校教育上支障のない限り、学校の施設を社会教育その他公共のために、利用させることができると規定している。本件使用規則も、これらの法令の規定を受けて、市教委において使用許可の方法、基準等を定めたものである。
(2) 地方自治法238条の4第4項、学校教育法85条の上記文言に加えて、学校施設は、一般公衆の共同使用に供することを主たる目的とする道路や公民館等の施設とは異なり、本来学校教育の目的に使用すべきものとして設置され、それ以外の目的に使用することを基本的に制限されている(学校施設令1条、3条)ことからすれば、学校施設の目的外使用を許可するか否かは、原則として、管理者の裁量にゆだねられているものと解するのが相当である。すなわち、学校教育上支障があれば使用を許可することができないことは明らかであるが、そのような支障がないからといって当然に許可しなくてはならないものではなく、行政財産である学校施設の目的及び用途と目的外使用の目的、態様等との関係に配慮した合理的な裁量判断により使用許可をしないこともできるものである。学校教育上の支障とは、物理的支障に限らず、教育的配慮の観点から、児童、生徒に対し精神的悪影響を与え、学校の教育方針にもとることとなる場合も含まれ、現在の具体的な支障だけでなく、将来における教育上の支障が生ずるおそれが明白に認められる場合も含まれる。また、管理者の裁量判断は、許可申請に係る使用の日時、場所、目的及び態様、使用者の範囲、使用の必要性の程度、許可をするに当たっての支障又は許可をした場合の弊害若しくは影響の内容及び程度、代替施設確保の困難性など許可をしないことによる申請者側の不都合又は影響の内容及び程度等の諸般の事情を総合考慮してされるものであり、その裁量権の行使が逸脱濫用に当たるか否かの司法審査においては、その判断が裁量権の行使としてされたことを前提とした上で、その判断要素の選択や判断過程に合理性を欠くところがないかを検討し、その判断が、重要な事実の基礎を欠くか、又は社会通念に照らし著しく妥当性を欠くものと認められる場合に限って、裁量権の逸脱又は濫用として違法となるとすべきものと解するのが相当である。
(3) 教職員の職員団体は、教職員を構成員とするとはいえ、その勤務条件の維持改善を図ることを目的とするものであって、学校における教育活動を直接目的とするものではないから、職員団体にとって使用の必要性が大きいからといって、管理者において職員団体の活動のためにする学校施設の使用を受忍し、許容しなければならない義務を負うものではないし、使用を許さないことが学校施設につき管理者が有する裁量権の逸脱又は濫用であると認められるような場合を除いては、その使用不許可が違法となるものでもない。また、従前、同一目的での使用許可申請を物理的支障のない限り許可してきたという運用があったとしても、そのことから直ちに、従前と異なる取扱いをすることが裁量権の濫用となるものではない。もっとも、従前の許可の運用は、使用目的の相当性やこれと異なる取扱いの動機の不当性を推認させることがあったり、比例原則ないし平等原則の観点から、裁量権濫用に当たるか否かの判断において考慮すべき要素となったりすることは否定できない。
(4) 以上の見地に立って本件を検討するに、原審の適法に確定した前記事実関係等の下において、以下の点を指摘することができる。
ア 教育研究集会は、被上告人の労働運動としての側面も強く有するものの、その教育研究活動の一環として、教育現場において日々生起する教育実践上の問題点について、各教師ないし学校単位の研究や取組みの成果が発表、討議の上、集約される一方で、その結果が、教育現場に還元される場ともなっているというのであって、教員らによる自主的研修としての側面をも有しているところ、その側面に関する限りは、自主的で自律的な研修を奨励する教育公務員特例法19条、20条の趣旨にかなうものというべきである。被上告人が本件集会前の第48次教育研究集会まで1回を除いてすべて学校施設を会場として使用してきており、広島県においては本件集会を除いて学校施設の使用が許可されなかったことがなかったのも、教育研究集会の上記のような側面に着目した結果とみることができる。このことを理由として、本件集会を使用目的とする申請を拒否するには正当な理由の存在を上告人において立証しなければならないとする原審の説示部分は法令の解釈を誤ったものであり是認することができないものの、使用目的が相当なものであることが認められるなど、被上告人の教育研究集会のための学校施設使用許可に関する上記経緯が前記(3)で述べたような趣旨で大きな考慮要素となることは否定できない。
イ 過去、教育研究集会の会場とされた学校に右翼団体の街宣車が来て街宣活動を行ったことがあったというのであるから、抽象的には街宣活動のおそれはあったといわざるを得ず、学校施設の使用を許可した場合、その学校施設周辺で騒じょう状態が生じたり、学校教育施設としてふさわしくない混乱が生じたりする具体的なおそれが認められるときには、それを考慮して不許可とすることも学校施設管理者の裁量判断としてあり得るところである。しかしながら、本件不許可処分の時点で、本件集会について具体的な妨害の動きがあったことは認められず(なお、記録によれば、本件集会については、実際には右翼団体等による妨害行動は行われなかったことがうかがわれる。)、本件集会の予定された日は、休校日である土曜日と日曜日であり、生徒の登校は予定されていなかったことからすると、仮に妨害行動がされても、生徒に対する影響は間接的なものにとどまる可能性が高かったということができる。
ウ 被上告人の教育研究集会の要綱などの刊行物に学習指導要領や文部省の是正指導に対して批判的な内容の記載が存在することは認められるが、いずれも抽象的な表現にとどまり、本件集会において具体的にどのような討議がされるかは不明であるし、また、それらが本件集会において自主的研修の側面を排除し、又はこれを大きくしのぐほどに中心的な討議対象となるものとまでは認められないのであって、本件集会をもって人事院規則14-7所定の政治的行為に当たるものということはできず、また、これまでの教育研究集会の経緯からしても、上記の点から、本件集会を学校施設で開催することにより教育上の悪影響が生ずるとする評価を合理的なものということはできない。
エ 教育研究集会の中でも学校教科項目の研究討議を行う分科会の場として、実験台、作業台等の教育設備や実験器具、体育用具等、多くの教科に関する教育用具及び備品が備わっている学校施設を利用することの必要性が高いことは明らかであり、学校施設を利用する場合と他の公共施設を利用する場合とで、本件集会の分科会活動にとっての利便性に大きな差違があることは否定できない。
オ 本件不許可処分は、校長が、職員会議を開いた上、支障がないとして、いったんは口頭で使用を許可する意思を表示した後に、上記のとおり、右翼団体による妨害行動のおそれが具体的なものではなかったにもかかわらず、市教委が、過去の右翼団体の妨害行動を例に挙げて使用させない方向に指導し、自らも不許可処分をするに至ったというものであり、しかも、その処分は、県教委等の教育委員会と被上告人との緊張関係と対立の激化を背景として行われたものであった。
(5) 上記の諸点その他の前記事実関係等を考慮すると、本件中学校及びその周辺の学校や地域に混乱を招き、児童生徒に教育上悪影響を与え、学校教育に支障を来すことが予想されるとの理由で行われた本件不許可処分は、重視すべきでない考慮要素を重視するなど、考慮した事項に対する評価が明らかに合理性を欠いており、他方、当然考慮すべき事項を十分考慮しておらず、その結果、社会通念に照らし著しく妥当性を欠いたものということができる。そうすると、原審の採る立証責任論等は是認することができないものの、本件不許可処分が裁量権を逸脱したものであるとした原審の判断は、結論において是認することができる。論旨はいずれも採用することができない。
4 よって、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
++解説
《解 説》
1 本件は,広島県の公立小中学校等に勤務する教職員によって組織された職員団体であるXが,Xが主催し昭和26年から毎年開催してきている広島県教育研究集会の第49次集会の会場として,呉市立中学校の学校施設の使用を申し出たところ,いったんは口頭でこれを了承する返事を校長から得たのに,その後,呉市教育委員会から不当にその使用を拒否されたとして,Y(呉市)に対し,国家賠償法に基づく損害賠償を求めた事案である。呉市教育委員会は,右翼団体による妨害活動のおそれ等を挙げ,当該中学校及びその周辺の学校や地域に混乱を招き,児童生徒に教育上悪影響を与え,学校教育に支障を来すことが予想されるとの理由で不許可処分をしていた。教育研究集会の態様,これまでの学校施設使用の経緯,今回の申請に係る事実経過等の事実関係は,直接判決文を参照されたい。
1審は,50万円及び遅延損害金の限度でXの請求を一部認容し,原審もこれを維持した。原審は,学校施設の使用の許否の判断は広い裁量にゆだねられているとしつつ,教育委員会としては原告が教育研究集会を行える場を確保できるよう配慮する義務があったとし,本件集会を使用目的とする申請を拒否するには正当な理由の存在を被告において立証しなければならないなどと説示し,本件不許可処分は裁量権を逸脱した違法な処分であると判断した。最高裁第三小法廷は,Yからの上告受理申立てを受理して,本判決によりその判断を示した。
2 地方公共団体の設置する公立学校は,地方自治法244条にいう「公の施設」として設けられるものであるが,公立学校を構成する物的要素としての学校施設は,同法238条4項にいう行政財産(普通地方公共団体において公用又は公共用に供し,又は供することと決定した財産)である。したがって,公立学校施設をその設置目的である学校教育の目的に使用する場合には同法244条の規律に服することになるが,これを設置目的外に使用するためには,同法238条の4第4項に基づく許可が必要である。教育財産は教育委員会が管理するとされているため(地方教育行政の組織及び運営に関する法律23条2号),上記の許可は本来教育委員会が行うこととなる。
学校施設の確保に関する政令(昭和24年政令第34号)3条は,法律又は法律に基づく命令の規定に基づいて使用する場合及び管理者又は学校の長の同意を得て使用する場合を例外として,学校施設は,学校が学校教育の目的に使用する場合を除き,使用してはならないとし(1項),上記の同意を与えるには,他の法令の規定に従わなければならないとしている(2項)。同意を与えるための「他の法令の規定」として,上記の地方自治法238条の4第4項は,その用途又は目的を妨げない限度においてその使用を許可することができると定めており,その趣旨を学校施設の場合に敷えんした学校教育法85条は,学校教育上支障のない限り,学校の施設を社会教育その他公共のために,利用させることができると規定している。これらの定めの解釈上,その許可をするか否かは管理者の裁量処分と解され,不許可処分がされた場合,申請者においてその不許可処分に裁量権の逸脱濫用があることを主張,立証して,初めてその処分は違法と判断されることになる。
3 地方自治法244条2項は,正当な理由がない限り,住民が公の施設を利用することを拒んではならないと定めているところ,本件原判決は,目的外使用については同項の適用がないことを前提として説示をしているが,前記のような見解を媒介とすることにより,結果的には,本件許可申請について同条2項の適用ないし類推適用があるのと同様の基準で判断している。また,原判決は,右翼団体の街宣活動等の妨害行動のおそれにつき,それに伴って生ずる紛争の責任は専ら当該右翼団体にあるから,これを教育上の支障として学校施設利用を拒否することは許されないと判示していた。
最三小判平7.3.7民集49巻3号687頁,判タ876号84頁(泉佐野市民会館事件)や最二小判平8.3.15民集50巻3号549頁,判タ906号192頁(上尾市福祉会館事件)は,市民会館における集会開催のための使用許可や市福祉会館における組合幹部の合同葬のための使用という本来の施設設置目的に応じた使用許可に関して,条例上の不許可事由につき地方自治法244条の適用を前提として厳格に解し,主催者が集会を平穏に行おうとしているのに,その集会の目的や主催者の思想,信条に反対する者らが,これを実力で阻止し,妨害しようとして紛争を起こすおそれがあることを理由に公の施設の利用を拒むことができるのは,公の施設の利用関係の性質に照らせば,警察の警備等によってもなお混乱を防止することができないなど特別の事情がある場合に限られるべきであるなどと判示していた。原判決の上記判示は,これに影響されたものとみることができる。
しかし,前記のとおり,公立学校施設を設置目的外に使用するためには,同条の適用はなく,同法238条の4第4項に基づく許可が必要であり,その許可をするか否かは管理者の裁量にゆだねられていることからすると,原判決の上記判示部分には問題があったように思われる。
4 本判決は,判決要旨1のとおり,学校施設の目的外使用の許否の判断が管理者の裁量にゆだねられていることを明らかにし,要旨2のとおり,学校教育法85条が使用を許さない場合として掲げている「学校教育上支障」の意義につき,学校教育上の支障がある場合とは,物理的支障がある場合に限られるものではなく,教育的配慮の観点から,児童,生徒に対し精神的悪影響を与え,学校の教育方針にもとることとなる場合も含まれ,現在の具体的な支障がある場合だけでなく,将来における教育上の支障が生ずるおそれが明白に認められる場合も含まれるとした。また,学校施設の使用の許否の判断に関する司法審査の方法については,一般に裁量処分に対する司法審査について判例の採る立場(懲戒処分についての最三小判昭52.12.20民集31巻7号1101頁,判タ357号142頁,在留期間更新不許可処分についての最大判昭53.10.4民集32巻7号1223頁,判タ368号196頁等)と同様に,その判断が裁量権の行使としてされたことを前提とした上で,その判断要素の選択や判断過程に合理性を欠くところがないかを検討し,その判断が,重要な事実の基礎を欠くか,又は社会通念に照らし著しく妥当性を欠くものと認められる場合に限って,裁量権の逸脱又は濫用として違法となるとすべきものであるとする一般論を示した。
その上で,要旨4に掲げたような事情を逐一指摘し,これらの事情をすべて考慮すれば,本件不許可処分は,重視すべきでない考慮要素を重視するなど,考慮した事項に対する評価が明らかに合理性を欠いており,他方,当然考慮すべき事項を十分考慮しておらず,その結果,社会通念に照らし著しく妥当性を欠いたものといえるとして,原審の採る立証責任論等は是認することができないものの,本件不許可処分を裁量権の逸脱であるとした原審の判断も結論において是認することができるとしたものである。
本判決は,最高裁として初めて,学校施設の目的外使用の許否の判断の性質,司法審査の在り方等を明らかにして,原審の採った一般論を是正したものであり,今後の同種事件の処理に当たり参考となる。また,具体的事案についての判断も,教育研究集会の性格等も含め,あくまでも原審確定事実を前提とした判断ではあるが,実務上参考となるものと考えられる。
なお,学校施設の使用許可に関する下級審裁判例としては,広島地判昭50.11.25判時817号60頁,鹿児島地判昭58.10.21訟月30巻4号685頁,その控訴審福岡高宮崎支判昭60.3.29判タ574号78頁,福岡高判平16.1.20判タ1159号149頁等があり,参考文献として,今村武俊=別府哲『学校教育法解説(初等中等教育編)』393~406頁,鈴木勲『逐条学校教育法』666~678頁,鈴木勲『新訂・学校経営のための法律常識』279~288頁等がある。
3「選挙制度」の判決から考える
+判例(H11.11.10)小選挙区
理由
上告代理人森徹の上告理由及び上告人Aの上告理由について
一 原審の適法に確定した事実関係等によれば、第八次選挙制度審議会は、平成二年四月、衆議院議員の選挙制度につき、従来のいわゆる中選挙区制にはいくつかの問題があったので、これを根本的に改めて、政策本位、政党本位の新たな選挙制度を採用する必要があるとして、いわゆる小選挙区比例代表並立制を導入することなどを内容とする答申をし、その後の追加答申等も踏まえて内閣が作成、提出した公職選挙法の改正案が国会において審議された結果、同六年一月に至り、公職選挙法の一部を改正する法律(平成六年法律第二号)が成立し、その後、右法律が同年法律第一〇号及び第一〇四号によって改正され、これらにより衆議院議員の選挙制度が従来の中選挙区単記投票制から小選挙区比例代表並立制に改められたものである。右改正後の公職選挙法(以下「改正公選法」という。)は、衆議院議員の定数を五〇〇人とし、そのうち、三〇〇人を小選挙区選出議員、二〇〇人を比例代表選出議員とした(四条一項)上、各別にその選挙制度の仕組みを定め、総選挙については、投票は小選挙区選出議員及び比例代表選出議員ごとに一人一票とし、同時に選挙を行うものとしている(三一条、三六条)。このうち小選挙区選出議員の選挙(以下「小選挙区選挙」という。)については、全国に三〇〇の選挙区を設け、各選挙区において一人の議員を選出し(一三条一項、別表第一)、投票用紙には候補者一人の氏名を記載させ(四六条一項)、有効投票の最多数を得た者をもって当選人とするものとしている(九五条一項)。また、比例代表選出議員の選挙(以下「比例代表選挙」という。)については、全国に一一の選挙区を設け、各選挙区において所定数の議員を選出し(一三条二項、別表第二)、投票用紙には一の衆議院名簿届出政党等の名称又は略称を記載させ(四六条二項)、得票数に応じて各政党等の当選人の数を算出し、あらかじめ届け出た順位に従って右の数に相当する当該政党等の名簿登載者(小選挙区選挙において当選人となった者を除く。)を当選人とするものとしている(九五条の二第一項ないし第五項)。これに伴い、各選挙への立候補の要件、手続、選挙運動の主体、手段等についても、改正が行われた。
本件は、改正公選法の衆議院議員選挙の仕組みに関する規定が憲法に違反し無効であるから、これに依拠してされた平成八年一〇月二〇日施行の衆議院議員総選挙(以下「本件選挙」という。)のうち東京都第八区における小選挙区選挙は無効であると主張して提起された選挙無効訴訟である。
二 代表民主制の下における選挙制度は、選挙された代表者を通じて、国民の利害や意見が公正かつ効果的に国政の運営に反映されることを目標とし、他方、政治における安定の要請をも考慮しながら、それぞれの国において、その国の実情に即して具体的に決定されるべきものであり、そこに論理的に要請される一定不変の形態が存在するわけではない。我が憲法もまた、右の理由から、国会の両議院の議員の選挙について、およそ議員は全国民を代表するものでなければならないという制約の下で、議員の定数、選挙区、投票の方法その他選挙に関する事項は法律で定めるべきものとし(四三条、四七条)、両議院の議員の各選挙制度の仕組みの具体的決定を原則として国会の広い裁量にゆだねているのである。このように、国会は、その裁量により、衆議院議員及び参議院議員それぞれについて公正かつ効果的な代表を選出するという目標を実現するために適切な選挙制度の仕組みを決定することができるのであるから、国会が新たな選挙制度の仕組みを採用した場合には、その具体的に定めたところが、右の制約や法の下の平等などの憲法上の要請に反するため国会の右のような広い裁量権を考慮してもなおその限界を超えており、これを是認することができない場合に、初めてこれが憲法に違反することになるものと解すべきである(最高裁昭和四九年(行ツ)第七五号同五一年四月一四日大法廷判決・民集三〇巻三号二二三頁、最高裁昭和五四年(行ツ)第六五号同五八年四月二七日大法廷判決・民集三七巻三号三四五頁、最高裁昭和五六年(行ツ)第五七号同五八年一一月七日大法廷判決・民集三七巻九号一二四三頁、最高裁昭和五九年(行ツ)第三三九号同六〇年七月一七日大法廷判決・民集三九巻五号一一〇〇頁、最高裁平成三年(行ツ)第一一一号同五年一月二〇日大法廷判決・民集四七巻一号六七頁、最高裁平成六年(行ツ)第五九号同八年九月一一日大法廷判決・民集五〇巻八号二二八三頁及び最高裁平成九年(行ツ)第一〇四号同一〇年九月二日大法廷判決・民集五二巻六号一三七三頁参照)。
三 右の見地に立って、上告理由について判断する。
1 改正公選法の一三条一項及び別表第一の衆議院小選挙区選出議員の選挙区の定め(以下「本件区割規定」という。)は、前記平成六年法律第二号と同時に成立した衆議院議員選挙区画定審議会設置法(以下「区画審設置法」という。)により設置された衆議院議員選挙区画定審議会の勧告に係る区割り案どおりに制定されたものである。そして、区画審設置法附則二条三項で準用される同法三条は、同審議会が区割り案を作成する基準につき、一項において「各選挙区の人口の均衡を図り、各選挙区の人口・・・のうち、その最も多いものを最も少ないもので除して得た数が二以上とならないようにすることを基本とし、行政区画、地勢、交通等の事情を総合的に考慮して合理的に行わなければならない。」とした上、二項において「各都道府県の区域内の衆議院小選挙区選出議員の選挙区の数は、一に、・・・衆議院小選挙区選出議員の定数に相当する数から都道府県の数を控除した数を人口に比例して各都道府県に配当した数を加えた数とする。」と規定しており、同審議会は右の基準に従って区割り案を作成したのである。したがって、改正公選法の小選挙区選出議員の選挙区の区割りは、右の二つの基準に従って策定されたということができる。前者の基準は、行政区画、地勢、交通等の事情を考慮しつつも、人口比例原則を重視して区割りを行い選挙区間の人口較差を二倍未満とすることを基本とするよう定めるものであるが、後者の基準は、区割りに先立ち、まず各都道府県に議員の定数一を配分した上で、残る定数を人口に比例して各都道府県に配分することを定めるものである。このように、後者の基準は、都道府県間においては人口比例原則に例外を設けて一定程度の定数配分上の不均衡が必然的に生ずることを予定しているから、前者の基準は、結局、その枠の中で全国的にできるだけ人口較差が二倍未満に収まるように区割りを行うべきことを定めるものと解される。
論旨は、右のような区画審設置法三条二項の定める基準は、小選挙区選出議員を地域の代表ととらえるもので、国会議員を全国民の代表者と位置付けている憲法四三条一項に違反し、また、右の基準に従って区割りを行った結果、人口較差が二倍を超える選挙区が二八も生じたことは、憲法一四条一項、一五条一項、四三条一項等の規定を通じて憲法上当然に保障されている投票価値の平等の要請に違反するから、本件区割規定は違憲無効であるなどというのである。
2 憲法は、選挙権の内容の平等、換言すれば、議員の選出における各選挙人の投票の有する影響力の平等、すなわち投票価値の平等を要求していると解される。しかしながら、投票価値の平等は、選挙制度の仕組みを決定する唯一、絶対の基準となるものではなく、国会が正当に考慮することのできる他の政策的目的ないし理由との関連において調和的に実現されるべきものと解さなければならない。それゆえ、国会が具体的に定めたところがその裁量権の行使として合理性を是認し得るものである限り、それによって右の投票価値の平等が損なわれることになっても、やむを得ないと解すべきである。
そして、憲法は、国会が衆議院議員の選挙につき全国を多数の選挙区に分けて実施する制度を採用する場合には、選挙制度の仕組みのうち選挙区割りや議員定数の配分を決定するについて、議員一人当たりの選挙人数又は人口ができる限り平等に保たれることを最も重要かつ基本的な基準とすることを求めているというべきであるが、それ以外にも国会において考慮することができる要素は少なくない。とりわけ都道府県は、これまで我が国の政治及び行政の実際において相当の役割を果たしてきたことや、国民生活及び国民感情においてかなりの比重を占めていることなどにかんがみれば、選挙区割りをするに際して無視することのできない基礎的な要素の一つというべきである。また、都道府県を更に細分するに当たっては、従来の選挙の実績、選挙区としてのまとまり具合、市町村その他の行政区画、面積の大小、人口密度、住民構成、交通事情、地理的状況等諸般の事情が考慮されるものと考えられる。さらに、人口の都市集中化の現象等の社会情勢の変化を選挙区割りや議員定数の配分にどのように反映させるかという点も、国会が政策的観点から考慮することができる要素の一つである。このように、選挙区割りや議員定数の配分の具体的決定に当たっては、種々の政策的及び技術的考慮要素があり、これらをどのように考慮して具体的決定に反映させるかについて一定の客観的基準が存在するものでもないから、選挙区割りや議員定数の配分を定める規定の合憲性は、結局は、国会が具体的に定めたところがその裁量権の合理的行使として是認されるかどうかによって決するほかはない。そして、具体的に決定された選挙区割りや議員定数の配分の下における選挙人の有する投票価値に不平等が存在し、それが国会において通常考慮し得る諸般の要素をしんしゃくしてもなお、一般に合理性を有するものとは考えられない程度に達しているときは、右のような不平等は、もはや国会の合理的裁量の限界を超えていると推定され、これを正当化すべき特別の理由が示されない限り、憲法違反と判断されざるを得ないというべきである。
以上は、前掲昭和五一年四月一四日、同五八年一一月七日、同六〇年七月一七日、平成五年一月二〇日の各大法廷判決の趣旨とするところでもあって、これを変更する要をみない。
【要旨】3 区画審設置法三条二項が前記のような基準を定めたのは、人口の多寡にかかわらず各都道府県にあらかじめ定数一を配分することによって、相対的に人口の少ない県に定数を多めに配分し、人口の少ない県に居住する国民の意見をも十分に国政に反映させることができるようにすることを目的とするものであると解される。しかしながら、同条は、他方で、選挙区間の人口較差が二倍未満になるように区割りをすることを基本とすべきことを基準として定めているのであり、投票価値の平等にも十分な配慮をしていると認められる。前記のとおり、選挙区割りを決定するに当たっては、議員一人当たりの選挙人数又は人口ができる限り平等に保たれることが、最も重要かつ基本的な基準であるが、国会はそれ以外の諸般の要素をも考慮することができるのであって、都道府県は選挙区割りをするに際して無視することができない基礎的な要素の一つであり、人口密度や地理的状況等のほか、人口の都市集中化及びこれに伴う人口流出地域の過疎化の現象等にどのような配慮をし、選挙区割りや議員定数の配分にこれらをどのように反映させるかという点も、国会において考慮することができる要素というべきである。そうすると、これらの要素を総合的に考慮して同条一項、二項のとおり区割りの基準を定めたことが投票価値の平等との関係において国会の裁量の範囲を逸脱するということはできない。
また、憲法四三条一項が両議院の議員が全国民を代表する者でなければならないとしているのは、本来的には、両議院の議員は、その選出方法がどのようなものであるかにかかわらず、特定の階級、党派、地域住民など一部の国民を代表するものではなく全国民を代表するものであって、選挙人の指図に拘束されることなく独立して全国民のために行動すべき使命を有するものであることを意味していると解される。そして、右規定は、全国を多数の小選挙区に分けて選挙を行う場合に、選挙区割りにつき厳格な人口比例主義を唯一、絶対の基準とすべきことまでをも要求しているとは解されないし、衆議院小選挙区選出議員の選挙制度の仕組みについて区画審設置法三条二項が都道府県にあらかじめ定数一を配分することとした結果、人口の少ない県に完全な人口比例による場合より多めに定数が配分されることとなったからといって、これによって選出された議員が全国民の代表者であるという性格と矛盾抵触することになるということはできない。
そして、本件区割規定は、区画審設置法三条の基準に従って定められたものであるところ、その結果、選挙区間における人口の最大較差は、改正の直近の平成二年一〇月に実施された国勢調査による人口に基づけば一対二・一三七であり、本件選挙の直近の同七年一〇月に実施された国勢調査による人口に基づけば一対二・三〇九であったというのである。このように抜本的改正の当初から同条一項が基本とすべきものとしている二倍未満の人口較差を超えることとなる区割りが行われたことの当否については議論があり得るところであるが、右区割りが直ちに同項の基準に違反するとはいえないし、同条の定める基準自体に憲法に違反するところがないことは前記のとおりであることにかんがみれば、以上の較差が示す選挙区間における投票価値の不平等は、一般に合理性を有するとは考えられない程度に達しているとまではいうことができず、本件区割規定が憲法一四条一項、一五条一項、四三条一項等に違反するとは認められない。
4 以上と同旨の原審の判断は、正当として是認することができ、原判決が憲法一四条一項、一五条一項、四三条一項、四四条、四七条等に違反するとはいえない。論旨は採用することができない。
よって、裁判官河合伸一、同遠藤光男、同福田博、同元原利文、同梶谷玄の反対意見があるほか、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
+反対意見
判示三についての裁判官河合伸一、同遠藤光男、同元原利文、同梶谷玄の反対意見は、次のとおりである。
私たちは、多数意見とは異なり、本件区割規定は憲法に違反するものであって、本件選挙は違法であると考える。その理由は、以下のとおりである。
一 投票価値の平等の憲法上の意義
代議制民主主義制度を採る我が憲法の下においては、国会議員を選出するに当たっての国民の権利の内容、すなわち各選挙人の投票の価値が平等であるべきことは、憲法自体に由来するものというべきである。けだし、国民は代議員たる国会議員を介して国政に参加することになるところ、国政に参加する権利が平等であるべきものである以上、国政参加の手段としての代議員選出の権利もまた、常に平等であることが要請されるからである。
そして、この要請は、国民の基本的人権の一つとしての法の下の平等の原則及び「両議院は、全国民を代表する選挙された議員でこれを組織する。」と定める国会の構成原理からの当然の帰結でもあり、国会が具体的な選挙制度の仕組みを決定するに当たり考慮すべき最も重要かつ基本的な基準である。
二 投票価値の平等の限界
1 投票価値の平等を徹底するとすれば、本来、各選挙人の投票の価値が名実ともに同一であることが求められることになるが、具体的な選挙制度として選挙区選挙を採用する場合には、その選挙区割りを定めるに当たって、行政区画、面積の大小、交通事情、地理的状況等の非人口的ないし技術的要素を考慮せざるを得ないため、右要請に厳密に従うことが困難であることは否定し難い。しかし、たとえこれらの要素を考慮したことによるものではあっても、選挙区間における議員一人当たりの選挙人数又は人口の較差が二倍に達し、あるいはそれを超えることとなったときは、投票価値の平等は侵害されたというべきである。けだし、そうなっては、実質的に一人一票の原則を破って、一人が二票、あるいはそれ以上の投票権を有するのと同じこととなるからである。
2 もっとも、投票価値の平等は、選挙制度の仕組みを定めるに当たっての唯一、絶対的な基準ではなく、国会としては、他の政策的要素をも考慮してその仕組みを定め得る余地がないわけではない。この場合、右の要素が憲法上正当に考慮するに値するものであり、かつ、国会が具体的に定めたところのものがその裁量権の行使として合理性を是認し得るものである限り、その較差の程度いかんによっては、たとえ投票価値の平等が損なわれたとしても、直ちに違憲とはいえない場合があり得るものというべきである。したがって、このような事態が生じた場合には、国会はいかなる目的ないし理由を斟酌してそのような制度を定めたのか、その目的ないし理由はいかなる意味で憲法上正当に考慮することができるのかを検討した上、最終的には、投票価値の平等が侵害された程度及び右の検討結果を総合して、国会の裁量権の行使としての合理性の存否をみることによって、その侵害が憲法上許容されるものか否かを判断することとなる。
三 本件区割規定の違憲性
1 本件区割規定に基づく選挙区間における人口の最大較差は、改正直近の平成二年一〇 月実施の国勢調査によれば一対二・一三七、本件選挙直近の平成七年一〇月実施の国勢調査によれば一対二・三〇九に達し、また、その較差が二倍を超えた選挙区が、前者によれば二八、後者によれば六〇にも及んだというのであるから、本件区割規定は、明らかに投票価値の平等を侵害したものというべきである。
2 そこで、国会はいかなる目的ないし理由を斟酌してこのような制度を定めたのか、右目的等が憲法上正当に考慮することができるものか否か、本件区割規定を採用したことが国会の裁量権の行使としての合理性を是認し得るか否かについて検討する。
(一)選挙区間の人口較差が二倍以上となったことの最大要因が区画審設置法三条二項に定めるいわゆる一人別枠方式を採用したことによるものであることは明らかである。けだし、平成二年一〇月実施の国勢調査を前提とすると、この方式を採用したこと自体により、都道府県の段階において最大一対一・八二二の較差(東京都の人口一一八五万五五六三人を定数二五で除した四七万四二二三人と、島根県の人口七八万一〇二一人を定数三で除した二六万〇三四〇人の較差)が生じているが、各都道府県において、更にこれを市区町村単位で再配分しなければならないことを考えると、既にその時点において、最大較差を二倍未満に収めることが困難であったことが明らかだからである。
(二)もし仮に、一人別枠方式を採用することなく、小選挙区選出議員の定数三〇〇人全員につき最初から最大剰余方式(全国の人口を議員総定数で除して得た基準値でブロックの人口を除して数値を求め、その数値の整数部分と同じ数の議員数を各ブロックに配分し、それで配分し切れない残余の議員数については、右数値の小数点以下の大きい順に配分する方式)を採用したとするならば、平成二年一〇月実施の国勢調査を前提とすると、都道府県段階の最大較差は一対一・六六二(香川県の人口一〇二万三四一二人を定数二で除した五一万一七〇六人と、鳥取県の人口六一万五七二二人を定数二で除した三〇万七八六一人の較差)にとどまっていたことが明らかであるから、市区町村単位での再配分を考慮したとしても、なおかつ、その最大較差を二倍未満に収めることは決して困難ではなかったはずである。
(三)区画審設置法は、その一方において、選挙区間の人口較差が二倍未満になるように区割りをすることを基本とすべきことを定めておきながら(同法三条一項)、他方、一人別枠方式を採用している(同条二項)。しかしながら、前記のとおり、後者を採用したこと自体によって、前者の要請の実現が妨げられることとなったのであるから、この両規定は、もともと両立し難い規定であったといわざるを得ない。のみならず、第八次選挙制度審議会の審議経過をみてみると、同審議会における投票価値の平等に対する関心は極めて高く、同審議会としては、当初、「この改革により今日強く求められている投票価値の較差是正の要請にもこたえることが必要である。」旨を答申し、小選挙区選出議員全員について無条件の最大剰余方式を採用する方向を選択しようとしたところ、これによって定数削減を余儀なくされる都道府県の選出議員から強い不満が続出したため、一種の政治的妥協策として、一人別枠方式を採用した上、残余の定数についてのみ最大剰余方式を採ることを内容とした政府案が提出されるに至り、同審議会としてもやむなくこれを承認したという経過がみられる。このように、一人別枠方式は、選挙区割りの決定に当たり当然考慮せざるを得ない行政区画や地理的状況等の非人口的、技術的要素とは全く異質の恣意的な要素を考慮して採用されたものであって、到底その正当性を是認し得るものではない。
(四)多数意見は、一人別枠方式を採用したのは、「人口の少ない県に居住する国民の意見をも十分に国政に反映させることができるようにすることを目的とするもの」と解した上、いわゆる過疎地化現象を考慮して右のような選挙区割りを定めたことが投票価値の平等との関係において、なお国会の裁量権の範囲内であるとする。
しかし、このような考え方は、次のような理由により、採り得ない。
(1) 通信、交通、報道の手段が著しく進歩、発展した今日、このような配慮をする合理的理由は極めて乏しいものというべきである。
(2) 一人別枠方式は、人口の少ない県に居住する国民の投票権の価値を、そうでない都道府県に居住する国民のそれよりも加重しようとするものであり、有権者の住所がどこにあるかによってその投票価値に差別を設けようとするものにほかならない。このように、居住地域を異にすることのみをもって、国民の国政参加権に差別を設けることは許されるべきではない。
(3) いわゆる過疎地対策は、国政において考慮されるべき重要な課題ではあるが、それに対する各議員の取組は、投票価値の平等の下で選挙された全国民の代表としての立場でされるべきものであって、過疎地対策を理由として、投票価値の平等を侵害することは許されない。
(4) 一人別枠方式と類似する制度として、参議院議員選挙法(昭和二二年法律第一一号)が地方選出議員の配分につき採用した各都道府県選挙区に対する定数二の一律配分方式を挙げることができるが、憲法自体が、参議院議員の任期を六年と定め、かつ、三年ごとの半数改選を定めたことにかんがみると、改選期に改選を実施しない選挙区が生じることを避けるため採用したものと解される右制度については、それなりの合理性が認められないわけでもない。しかし、衆議院議員の選挙については、憲法上このような制約は全く存しないのであるから、右のような方式を採ることについての合理的理由を見いだす余地はない。
(五)以上要するに、私たちは、過疎地対策として一人別枠方式を採用することにより投票価値の平等に影響を及ぼすことは、憲法上到底容認されるものではないと考えるものであるが、その点をしばらくおくとしても、過疎地対策としてのこの方式の実効性についても、甚だ疑問が多いことを、念のため指摘しておきたい。
(1) 平成二年一〇月実施の国勢調査を前提としてみた場合、小選挙区選出議員の定数三〇〇人全員につき最初から最大剰余方式を採用した場合の議員定数と比較してみて、一人別枠方式を採用したことによる恩恵を受けた都道府県は一五に達する。その内訳をみると、本来二人の割当てを受けるべきところ三人の割当てを受けた県が七(山梨、福井、島根、徳島、香川、高知、佐賀の各県)、三人の割当てを受けるべきところ四人の割当てを受けた県が四(岩手、山形、奈良、大分の各県)、四人の割当てを受けるべきところ五人の割当てを受けた県が三(三重、熊本、鹿児島の各県)、五人の割当てを受けるべきところ六人の割当てを受けた県が一(宮城県)、それぞれ生じているが、これらの過剰割当てが過疎地対策として現実にどれほどの意味を持ち得るのか、甚だ疑問といわざるを得ない。
(2) 右によっても明らかなとおり、一人別枠方式を採用したことにより恩恵を受けた都道府県のすべてが過疎地に当たるわけではなく、また、過疎地のすべてがその恩恵を受けているわけでもない。すなわち、人口二二四万人余の宮城県、同一八四万人余の熊本県がこの恩恵を受けているのに対し、人口一二〇万人以下の富山、石川、和歌山、鳥取、宮崎の五県はこの恩恵を受けていないのである。
(3) 過疎地対策としての実効性をいうのであれば、最大剰余方式を採用したことによって、一人の定数配分すら受けられない都道府県が生じてしまう場合が想定されることになるが、平成二年一〇月実施の国勢調査を前提とする限り、人口の最も少ない鳥取県においてすら、最大剰余方式により定数二の配分が受けられるのであり、現に鳥取県は一人別枠方式による恩恵を受けていないのであるから、本件区割規定の前提となった一人別枠方式は、過疎地対策とは何らかかわり合いのないものというべきである。
四 結論
小選挙区制を採用することのメリットは幾つか挙げられているが、その一つとして、議員定数不均衡問題の解消が挙げられていることは周知のとおりである。つまり、小選挙区制の下においては、選挙区の区割りの画定のみに留意すればよく、中選挙区制を採用した場合のように当該選挙区に割り当てるべき議員定数を考慮する必要が一切ないところにその特色を有し、いわば小回りがきく制度であるところから、定数不均衡問題の解消に資し得るとされているのである。したがって、二倍未満の較差厳守の要請は、中選挙区制の場合に比し、より一層厳しく求められてしかるべきである。
そうすると、本件区割規定に基づく選挙区間の最大較差は二倍をわずかに超えるものであったとはいえ、二倍を超える選挙区が、改正直近の国勢調査によれば二八、本件選挙直近の国勢調査によれば六〇にも達していたこと、このような結果を招来した原因が専ら一人別枠方式を採用したことにあること、一人別枠方式を採用すること自体に憲法上考慮することのできる正当性を認めることができず、かつ、国会の裁量権の行使としての合理性も認められないことなどにかんがみると、本件区割規定は憲法に違反するものというべきである。なお、その違憲状態は法制定の当初から存在していたのであるから、いわゆる「是正のための合理的期間」の有無を考慮する余地がないことはいうまでもない。
もっとも、本件訴訟の対象となった選挙区の選挙を無効としたとしても、それ以外の選挙区の選挙が当然に無効となるものではないこと、当該選挙を無効とする判決の結果、一時的にせよ憲法の予定しない事態が現出することになることなどにかんがみると、本件については、いわゆる事情判決の法理により、主文においてその違法を宣言するにとどめ、これを無効としないこととするのが相当である。
判示三についての裁判官福田博の反対意見は、次のとおりである。
一 私は、裁判官河合伸一、同遠藤光男、同元原利文、同梶谷玄の反対意見に共感するところが多いが、憲法に定める投票価値の平等は、極めて厳格に貫徹されるべき原則であり、選挙区割りを決定するに当たり全く技術的な理由で例外的に認められることのある平等からのかい離も、最大較差二倍を大幅に下回る水準で限定されるべきであるとの考えを持っているので、その理由等につき、あえて別途反対意見を述べることとした。なお、国会議員選挙における投票価値の平等の問題は、衆議院議員選挙のそれと参議院議員選挙のそれとが相互に密接に関連しているところ、参議院議員選挙については、多数意見の引用する平成一〇年九月二日大法廷判決(以下「平成一〇年判決」という。)における裁判官尾崎行信、同河合伸一、同遠藤光男、同福田博、同元原利文の反対意見及び裁判官尾崎行信、同福田博の追加反対意見において詳しく見解を述べているので、適宜これを引用することとする。
二 国会は、全国民を代表する選挙された議員で組織された国の機関であり、国権の最高機関である(憲法四一条、四三条)。国権の最高機関たる理由は、国会の決定は、国民全体の中の意見や利害が議員の国会活動を通じて具体的に主張されこれを反映した結果である公算が極めて高く、いわば国民全体の自己決定権の行使の結果とみなし得るからである。すなわち、全国民が平等な選挙権をもって参加した自由かつ公正な選挙により自らの代表として選出した議員で構成されていることこそが、憲法の定める国会の高い権威の源泉なのである。憲法は、選挙区、投票の方法その他両議院の議員の選挙に関する事項は法律でこれを定めるとしている(四七条)が、そのような法律を策定する際に認められる国会の裁量権は、当然のことながら、憲法の定めるいくつかの原則に従うことが前提である。法の下の平等により保障される有権者の投票価値の平等の原則(以下「平等原則」という。)に従うことはそのような前提の一つであって、事務処理上生ずることが不可避な較差など明白に合理的であることが立証されたごく一部の例外が極めて限定的に許されるにすぎない。平等原則は、秘密投票の保障(一五条四項)など、自由、平等、公正な選挙を確保するために憲法が定める他のいくつかの原則と同様に重要なものであって、選挙区、投票の方法など国会議員の選挙に関する事項を法律で定める際には、当然かつ厳格に遵守されるべきものである。それが理想論ではなく十分に実現可能なものであることは、代表民主制を有する諸外国の近年における動向を見ても明らかである(後記九参照)。
三 平等原則は、全国の選挙人数を議員総定数で除して得た数値を基準値として、この基準値ごとに一人の議員を割り当てることにより最もよく実現される。このことは、小選挙区、中選挙区、比例区すべてに当てはまる。もし、過疎の地域にもその地域からの議員選出の機会を与えたいというのであれば、それは、その実現方法が他の地域について平等原則を満たす場合にのみ許される。例えば、過疎の地域に代表を選出する機会を与えるために、過密の地域に対し割り当てられる議員定数を人口比に見合って増加するのも一つの方法である。議員の総定数を固定したままで「過疎への配慮」を行うことは、すなわち「過密の軽視」に等しく、それはとりもなおさず、有権者の住所がどこにあるかで有権者の投票価値を差別することになる。そのような差別は、身分、収入、性別その他を理由として一部の有権者に優越的地位を与えた過去のシステムと基本的発想を同じくするものであって、憲法の規定に明らかに反し、近代民主制の基本である平等な投票権者による多数決の原理をゆがめることとなる。
四 戦後我が国の国会議員選挙制度が制定された際、参議院議員選出のための選挙区選挙において、都道府県を選挙区とする制度が導入され、当初から最大二・六二倍の較差の存在が容認されたことが、今日においても衆・参両院議員選挙における平等原則軽視の風潮をもたらす端緒となったことは否めない。当初大きな疑念も差し挟まれないまま容認されたこの較差は、宮城県と鳥取県との間で生じたものであって、「過疎への配慮」とはおよそ無縁のものであった。しかし、そのような較差の存在を容認したことは、その後の大規模な人口移動によって生じた都市部への人口集中に基づく全く違う種類の較差の問題を、過疎への配慮などの名目の下に、長年にわたり放置することにつながったといえる。そして、この傾向は、参議院議員選挙にとどまらず、衆議院議員選挙のそれにも拡散したのである。そして、この問題に対しては、司法も、選挙制度策定において国会の有する広範な裁量権の範囲にとどまるものか否かを判断すれば足りるとの考えの下に寛容な態度をとり続けた。その結果、最高裁判所による累次の判決は、衆議院議員選挙については最大三倍、参議院議員選挙のうち選挙区選出議員については最大六倍までの投票価値の較差は国会の裁量権の範囲内として許容されるとの考えに基づいて行われていると一般に理解されるに至っている。
五 衆・参両院議員選挙について近年行われた公職選挙法の改正は、いずれも平等原則を十分に遵守するために必要な是正を行っていない。今回問題となっている改正公選法について見れば、個人の投票価値は他人のそれと同一であるにもかかわらず、選挙区選挙について最大較差が二倍以上にならないことを改正の基本方針としている点で、そもそも質的に不十分なものであること(最大較差二倍とは、要するに一人の投票に二人分の投票価値を認めるということである。)、そして、それを所与のものとして、いわゆる「一人別枠制」(それは、正に投票価値についての明白かつ恣意的な操作である。)を導入し、平成二年一〇月実施の国勢調査によっても三〇〇の選挙区中二八の選挙区において一対二を超える例外を当初から設けていることの二点において、憲法が定める代表民主制の基本的前提である平等原則を遵守していない。そして、次に述べるようにそれを正当化する理由は存在しないのである。
第一に、憲法は、選ばれる者(議員)が選ぶ者(有権者)の投票価値を意図的に操作し差別することを認めていない。繰り返しになるが、選挙制度策定に当たっては「過疎への配慮」は「過密の軽視」を伴ってはならないのである。有権者数に見合った選挙区の統合又は議員総定数の増加などの工夫を行うことにより、投票価値の平等を実現することは、選挙に関する法律を制定する際の前提条件である(後者の方法は統治機構のスリム化の要請には反するであろうが、そのような要請は憲法の定める平等原則の重要性に比すれば質的に大きく劣後する。)。
第二に、都道府県制をあたかも連邦制を採る国の州の地位に対比することによって、都道府県に依拠する選挙区割りの持つ重要性を平等原則に優先させて認めようとする考えがあるが、これも採り得ない。我が国が連邦国家でないことは明らかであり、基本的に行政区画である都道府県間において平等原則を劣後させ定数較差の存在を認めるようなことは憲法に何の規定も見いだせない。連邦制を採り成文の憲法を持つ国にあっては、各州に人口ないし有権者数と見合わない代表権を認める場合には、憲法にそれを認める明文の規定がある。そのような明文の規定は我が国憲法には存在せず、行政区画である都道府県制度に依拠して選挙制度を策定することが国会の裁量権の範囲内にあるという論理から平等原則に反する選挙制度も許されるとするのはしょせん無理である。
第三に、地方議会において、その地方自治の持つ特性ゆえに、平等原則がやや緩やかに適用される例が皆無ではないことをもって、国会についても同様の配慮を認めよという議論も、国会が一部地域ではなく全国民を代表する議員で構成される国権の最高機関であるという憲法の規定に合致しないことは明らかである。
六 我が国は、長年にわたって高度成長を続け、その中に内在する矛盾を基本的に解決しなくても各種の問題に対応していくことができた。しかし、そのような余裕のあった時代は去り、また、全く新しい重要課題への対応も迫られている。厳しい環境の中にあって、国の内外における新たな重大問題に的確に対応していくためには、民意を正確に反映した立法府の存在、すなわち憲法に定める平等原則を忠実に遵守する選挙制度で選出された議員により構成される国会の存在が以前にも増して格段に重要となってきている。もちろん代表民主制の下において、有権者及び選出された議員の選択する政策が常に最善のものであるとは限らず、見通しの甘さや誤りも往々にして存在する。しかし、代表民主制の強みは、有権者の考えが変われば、それが議員選出を通じて政策の変更に反映されやすいことにある。有権者は、投票の際、前回の選挙において自らが投票し選出された議員の選択した政策がもはや最善のものではないと考えるに至ったときには、その投票態度を容易に変更する。議員もそのことを十分に承知し、有権者の多数が選択する政策を推進しようと心掛ける。換言すれば、代表民主制の基本とするところは、選挙を通じて議員を交代させ又はその政見に影響を及ぼすことにより、より的確に多数の有権者の支持する政策が選択されることを可能ならしめるものである。代表民主制を採用しても、有権者の持つ投票価値が平等でないのであれば、そのような選挙を通じ選出された議員で構成される国会は選挙時点における民意を正しく反映しないゆがんだ構成になる。その場合には、国会において多数決で行われる決定も多数の民意を反映していないこととなる可能性を生じ、我が国の直面する内外の問題への対応に誤りを生ずる可能性もなしとしない。憲法の意図する代表民主制はそのようなものではない。平等でない投票価値に基づく選挙は、憲法の規定に反するほか、有権者の政治不信及び政治離れにもつながる危険を有する。
七 平等原則を忠実に遵守した選挙区割りを行う中心的責任は、もとより国会自身にある。しかし、それを構成する現職の国会議員は、現存の選挙制度で当選してきているのであるから、選挙制度の改正に対し基本的に慎重な対応を行う傾向が強い。それゆえに、選挙制度が投票価値の不平等を内包している場合であっても、その是正に対する熱意は不足しがちである。三権分立を採る統治システムの中にあっては、そのような事態を是正する役割は行政及び司法にもあるが、司法が違憲立法審査権を与えられているとき、司法の果たす役割は極めて重大なものとなる。この点は、行政が、元来国会の影響を受けやすい立場にあることのみならず、我が国のように現職の国会議員を頂点とする議院内閣制の下にあっては、行政府の長が別途の選挙によって選出される大統領制などに比し、選挙区割りなど国会議員の利害に直接影響する問題について具体的に発言することがおのずから限定されている事情の下では、一層認識されるべきものである。
八 司法は、長年にわたり、選挙制度に関する国会の広い裁量権の存在を基本とした理由付けの下に、衆・参両院の存在意義の相違等を理由として、衆議院議員選挙については最大較差三倍未満、参議院議員選挙のうち選挙区選出議員については最大較差六倍未満の較差(平等原則からのかい離)の発生を容認してきた。今回の多数意見も、平成一〇年判決に引き続き、改正公選法により行われた本件選挙についても、従来の判例が踏襲した判断の枠組み及びその考え方を変更する必要を見ないとしている。
しかし、今や衆・参両院議員の選挙制度は極めて似通ったものとなっており、衆議院議員選挙は小選挙区及び比例区の並立制により、また、参議院議員選挙は選挙区(小選挙区、中選挙区)及び比例代表の並立制により行われている(参議院では選挙区選挙を半数改選制により行うので、定員二人の選挙区は定員一人の小選挙区として行われ、それ以上の定員の選挙区は中選挙区となる。)。このような状況下にあっては、そもそも何ゆえに憲法が代表民主制の前提としている投票価値の平等といった重要原則からのかい離を認めるのかを理解し難いことのほか、国会が平等原則からのかい離の程度を衆・参両院について異ならしめ、それによって衆・参両院の差を際立たせようとしていることをどうして容認し続ける必要があるのか、私には全く理解できない。衆・参両院の差を設けることが望ましいという命題は、投票価値の不平等を通じて達成されてはならないのである。
また、司法は、従来参議院議員選挙のうち選挙区選出議員については、地域性の要素が存在すると認定する(平成一〇年判決における多数意見は、選挙区選出議員について、都道府県を選挙区とすることは、都道府県が歴史的にも政治的、経済的、社会的にも独自の意義と実体を有し政治的に一つのまとまりを有する単位としてとらえ得ることに照らし、これを構成する住民の意見を集約的に反映させるという意義ないし機能を加味しようとしたものと解することができるから、合理性を欠くものとはいえないと述べている。)一方、今回は衆議院議員選挙のうち選挙区選挙において、「一人別枠制」(その違憲性は、裁判官河合伸一、同遠藤光男、同元原利文、同梶谷玄の反対意見により極めて明らかであるので、再説を要しない。)という形で導入された地域性の要素を是認するに至っている。しかし、そもそも憲法には平等原則の遵守や投票の秘密の程度などを地域性の要素によって操作することを認める規定などはないのである。選挙区の画定方法において、地域性によって平等原則の遵守の程度を異ならしめることまでを容認することは、すなわち平等原則の軽視に対し目を閉ざすことにほかならない。
九 我が国憲法の解釈は、我が国司法の積み重ねてきた判例に沿って行われればよいのであって、外国における経験などといったものは考慮する要がないといった議論があるが、そのような考え方はもちろん採ることができない。「代表民主制」とか「法の支配」とかいった概念は、民主主義制度を持つ多くの国における歴史と経験の積重ねに基づいて発展してきたものである。我が国の憲法もそのような経験に裏打ちされている。成熟した民主主義国家の会合といわれるG7を構成する諸外国を見ても、我が国のように平等原則からのかい離について寛容な国はない。そのうち米国、英国、フランス、ドイツにおいて投票価値の平等が尊重されていることについては、平成一〇年判決における裁判官尾崎行信、同福田博の追加反対意見に詳述したので、これを引用する。
イタリアにおいては、一九九三年に上下両院につき従来の全面的な比例代表制から小選挙区比例代表並立制への転換が行われ(いずれも小選挙区七五パーセント、比例区二五パーセントの割合になっているが、下院については重複立候補が認められている。)、今回の我が国公職選挙法の改正に当たっても参考とされたといわれる。しかし、定数の較差について見ると、我が国と異なり、伝統的に人口比に応じた選挙区割りが厳格に行われているので、定数較差が政治的又は司法上の問題となったことはない(一〇年ごとに実施される国勢調査を基礎として、各選挙区の人口に比例して定数配分を行い、委任立法により確定する。)(注)。(注)イタリアの下院議員定数は六三○人で、選挙区は全二七区からなり、原則として各州(全国で二○州)を一選挙区としつつ、人口の多い州について二又は三の選挙区を設け、議員定数は、各選挙区の人口に厳格に比例して配分される。
各選挙区においては、原則として議員定数の七五パーセントが小選挙区、二五パーセントが比例代表区に割り当てられる。それぞれの選挙区の中に画定される小選挙区の区割りには詳細かつ厳格な基準が設けられており、各小選挙区の人口と当該選挙区内の全小選挙区の基準人口とのかい離は最大でも一五パーセント(最大較差に換算すれば一・三五倍)とされている。
具体的には、全国の議員一人当たりの基準人口からのかい離は、議員一人当たりの人口が最小のモリーゼ選挙区と最大のフリウリ・ヴェネツィア・ジューリア選挙区について見てもそれぞれ一○パーセント未満にすぎず(最大較差は約一・一一倍となっている。)、特例が適用されるヴァッレ・ダオスタ選挙区(人口が少ないため小選挙区総定数四七五人のうちの議員一人を選出するための小選挙区選挙のみが行われ、比例区選挙権は与えられない。)についても最大較差換算で約一・四倍に収まっている。以上の結果、全国を小選挙区のレベルで比較しても、最大較差は約一・五倍の範囲にとどまっている(イタリア憲法五六条四項、五七条四項、一九五七年三月三○日付け大統領令第三六一号(下院選挙法単一法典)、一九九三年八月四日付け法律第二七七号(下院選挙に関する新規則)外参照)。
カナダにおいては、連邦下院選挙についての各州内の選挙区は一〇年ごとに行われる国勢調査に基づき求められる基準人口に等しくなるよう再区分を行い、原則としてその偏差は、最大でも二五パーセント以内(最大較差に換算すれば一・六七倍まで)にとどまるよう選挙区の区割りを行うこととなっている(注)。
(注)カナダ連邦下院議員選挙の選挙区は、一九六四年の選挙区割委員会法及び一九七○年の選挙区割法に基づいて設置された各州(準州を含む。)の選挙区割委員会により画定されることになっており、一〇年ごとに行われる国勢調査に基づき各州内の選挙区間の人口が等しくなるよう選挙区の再区分が行われる。具体的には連邦下院議員定数(一九九七年の総選挙時は三○一議席)を基礎とし、各州の人口を各々の議員定数で割って得た基準住民数の上下二五パーセントを超えない範囲で選挙区の区割りが行われる(ただし、各州の選挙区割委員会が特別な事情があると認めた場合(投票の便など)にはごく一部の例外が認められるときがある。)。各州に割り当てられる連邦下院議員数は、一八六七年憲法五一条一項に従い、同じく一〇年ごとの国勢調査により、原則として各州の人口に応じ調整されるが、連邦制であるため、いくつかの例外が存在する。
なお、恣意的な境界線が決定されることを防止するため、各州の選挙区割委員会は、政治的に中立な構成となるよう工夫されている。現実には、三人の構成員のうち、一人は州最高裁判所判事が任命され、他の二人は連邦下院議長により任命されている。委員会による区割案は各州で検討された後、連邦選挙管理委員長に提出され、最終的には連邦下院の承認を受けることとなっている。
以上の各国について見れば、いずれも投票価値の平等の原則に関する我が国の考え方よりもはるかに厳格な考え方を採っていることが明らかである。
我が国憲法に規定する平等原則が国会議員選挙においていかに軽んじられてきているか、また、実際にどこまで一対一の目標の近くまで是正を行うことが可能かを見極めるに当たっては、このような他国の例は大いに参考になる。
一〇 我が国における累次の定数訴訟の根本的争点は、現代における人間の平等という概念をいかに理解するかに懸かっている。長きにわたる人間の歴史において、平等や自由は、神から王へ、王から諸侯貴族へ、更に少数有産階級へ、ついには一般市民へと、次第にその享受対象を拡大し、我が国で国民一般にまでこれが及んだのは、二十世紀中葉に至ってからである。しかも、対象の範囲のみならず平等の実質や程度も、文化経済の進展につれて今日においても、なおかつ変化し徹底し続けていることを忘れてはならない。平等原則が国家の政治制度に表現されたのが代表民主制であり、それが選挙制度において具体化されたのがいわゆる「一人一票」の原則であって、市民に「政治参加への平等な機会」を与えることこそ、長い歴史の実験を経て、現存する最も好ましい政治制度であると評価されている。その実施に当たっては、世界各国においてある程度の投票価値の較差が許容されることがあったが、社会一般における平等への希求の深化に応じ、差別を許容する程度は急速に狭められ、今日では、二倍の較差(これは要するに一人の投票に二人分の投票の価値を認めるものである。)は到底適法とは認められず、可能な限り一対一に近接しなければならないとするのが、文明社会における常識となっている。今や我が国の独自性とか累次の判例を口実に、人類の普遍的価値である平等を、世界的に広く要請され、受容されている水準から、遠く離れた位置に放置し続けることの許されない時代に達している。かねてから特殊な社会的背景を理由に「分離すれども平等」との主張を採り続けた立場を正した裁判の例(米国)を想起すれば、二十一世紀も間近な今日、「三倍又は六倍近くの投票価値の較差があってもなお平等」という宿年の論理を矯正するべき時期に至っていることは疑いをいれない。
一一 憲法の定める三権分立は、三権のそれぞれの自律性を尊重しつつも、相互に的確にチェックし合うことを予定している。
国会がその構成員(議員)を選出する制度を策定する際、憲法の定める投票価値の平等の原則を軽視し、遵守しないのであれば、これを違憲と断ずるのは司法の責務である。長年にわたって寛容な態度をとってきたからといって、その違憲性から目を背けてはならない。憲法に定める平等原則に照らせば、今回の公職選挙法改正における小選挙区決定に当たっての定数較差是正の方針の程度はそもそも質的に不十分であるのみならず、恣意的な投票価値の操作である「一人別枠制」の導入と相まって、右改正の内容が憲法に違反することは極めて明らかである。
一二 したがって、本件選挙には、憲法に違反する定数配分規定に基づいて施行された瑕疵が存したことになるが、改正公選法による一回目の総選挙であったこともあり、多数意見の引用する昭和五一年四月一四日大法廷判決及び同六〇年七月一七日大法廷判決の判示するいわゆる事情判決の法理により、主文において本件訴訟の対象となった選挙区の選挙の違法を宣言するにとどめ、これを無効としないことが相当と考える。
++解説
《解 説》
一 リクルート事件に端を発した政治改革論議の一つの到達点として、平成六年に至り、衆議院議員選挙の仕組みが現行制度に改正された。この改正は、従前の中選挙区制に様々な欠陥があったとの認識に基づき、政策本位、政党本位の選挙制度の実現を図るため小選挙区比例代表並立制を導入するというものであった。この改正後に初めて行われた平成八年一〇月二〇日の衆議院議員総選挙について、東京高裁管内の各地の選挙区の選挙人らが、右改正後の公職選挙法の定める小選挙区選挙又は比例代表選挙の仕組みが憲法に違反すると主張して、それぞれの選挙区における選挙の無効を請求する訴訟を提起した。最高裁大法廷は、それら三一件の事件について、同一一年一一月一〇日、同時に判決を言い渡したが、ここで紹介するのは、そのうちの代表的な三件である。①事件と③事件が小選挙区選挙に、②事件が比例代表選挙に係るものである。
これまで国政選挙の無効を請求する事件は、「定数訴訟」と呼ばれてきたように、専ら衆議院又は参議院の選挙区選挙における議員定数の定めが憲法の投票価値の平等の要請に反すると主張して提起されたものである。
ところが、今回の訴訟においては、小選挙区間の人口等の較差を問題とする争点のほかに、小選挙区制ないし比例代表制という仕組みそれ自体の合憲性や、小選挙区選挙と比例代表選挙への重複立候補を認める制度の合憲性、小選挙区選挙において候補者の届出をした政党に候補者とは別に選挙運動を認めたことの合憲性など、これまでにない新たな憲法上の問題が争点となった。大法廷は、これらのすべてについて合憲の判断をしたものであるが、投票価値の平等の問題と、選挙運動の平等の問題については、それぞれ五人の裁判官による反対意見がある。
二 ①事件においては、投票価値の平等の問題が争点となった。これまでの判例は、一つの選挙区に複数の議員定数が割り当てられていたいわゆる中選挙区制の下における各選挙区への議員定数の配分を定める規定の合憲性が問題となってきたが、小選挙区制においては、各選挙区とも議員定数は一であるから、選挙区をどのように区割りするかを定める規定が、議員一人当たりの人口等の較差、すなわち投票価値の較差を決定することになる。小選挙区制の導入は、従来課題とされてきた較差の是正が容易になることを一つの理由として行われたものであり、第八次選挙制度審議会の答申においては、較差を二倍未満とすることを基本原則とする考え方が示され、これに基づいて較差が二倍未満となる都道府県別の議員定数配分案も作成された。ところが、その後、従来より定数が削減されることになる地方の議員等から異論が出て、結局、区割りの基準を定める衆議院議員選挙区画定審議会設置法(以下「区画審設置法」という。)三条の規定は、一項に較差二倍未満を基本として区割り案を策定すべきことが定められるとともに、二項に各都道府県にまず定数一を配分した上で残る定数のみを人口比例で配分すること(ぃわゆる一人別枠方式)が定められることになり、これに基づいて策定された公職選挙法の区割規定は、当初から較差が二倍を超えるものとなってしまったといういきさつがある。そこで、①事件原告らは、抜本的な不均衡是正を行うとしながら、また、その方策として容易に較差二倍未満を実現することのできる小選挙区制を採用することとしながら、一人別枠方式を導入したことは、衆議院議員を地域代表ととらえるものであり、国会議員を全国民の代表者と位置付けている憲法四三条一項に違反し、その結果、改正当初から較差二倍を超える区割りがされたことは、憲法一四条一項等に違反するなどと主張した。
次に、②事件は、比例代表選挙の違憲無効を請求する事件であり、比例代表制それ自体の合憲性と、比例代表選挙と小選挙区選挙への重複立候補制の合憲性が問題となった。②事件原告らが比例代表制を違憲という主たる論拠は、投票が候補者に対してされるのでなく政党に対してされるという仕組みが、選挙人が候補者を直接選ぶことができないという意味において直接選挙の要請に反するというものである。この点は、合憲判決がされている参議院議員選挙についても既にあった問題であるが、参議院議員選挙の選挙無効請求訴訟においてはこのような主張はされてこなかったため、従来の大法廷判決も、明示的にはその合憲性の判断をしていない。また、重複立候補制を違憲という主たる論拠は、小選挙区選挙で落選させられた者が比例代表選挙では当選することができるという仕組みは小選挙区選挙で示された選挙人の意思に反する結果を認めるものであり、重複立候補することができる者が所定の要件を備えた大政党に所属する者に限られていることは合理性のない差別であるなどというものである。重複立候補制については、これまでこれを禁止してきた公職選挙法の原則に例外を設けるものである上、小選挙区選挙において落選した者、特に法定得票数に達しない者や票数が少ないため供託金を没収された者でも、名簿順位が高ければ比例代表選挙においては当選人となり得ることや、重複立候補者の順位を同じにしておいて小選挙区選挙におけるいわゆる惜敗率によって順位を決定するという仕組みについて、様々な角度から議論がされている。原告らは、このような仕組みが民意に反し、直接選挙の要請等に違反すると主張したものである。
そして、③事件は、小選挙区選挙の違憲無効を請求する事件であり、①事件と共通の争点のほか、小選挙区制それ自体の合憲性と、小選挙区選挙において候補者届出政党に選挙運動を認めたことの合憲性が争われた。原告が小選挙区制を違憲と主張する主たる論拠は、小選挙区制においては、相対多数を占めた者一人のみが当選するため、大政党が議席を独占することになり、死票率が大きいから、議会が正しく国民を代表した者で構成されることにならないなどというものである。また、候補者届出政党に選挙運動を認めたことが違憲であるという主たる論拠は、その結果、候補者届出政党に所属する候補者は、候補者自身の選挙運動に加え、政党の選挙運動の効果も受けることができ、これを受けられない候補者との間に著しい不平等を生ずるなどというものである。
二 ①事件において、大法廷の多数意見は、一人別枠方式は、人口の少ない県に居住する国民の意見も十分に国政に反映させることを目的とするもので、過疎化現象等に配慮して区割りをすることは国会の裁量の範囲内であるし、他方で較差を二倍未満に収めることを基本とするとしているのであるから、区画審設置法三条の規定が投票価値の平等の要請に反するとはいえず、その結果人口の少ない県に人口比例による場合より多めに定数が配分されることになっても、議員の国民代表的性格と矛盾しないなどと判断した上で、右の基準に従って定められた公職選挙法の区割規定は、選挙区間の人口較差が一対二・一三七あるいは一対二・三〇九にとどまっており、憲法一四条一項、四三条一項等に違反するものではないと判示した。これに対し、右区割規定を違憲とする五人の裁判官の反対意見がある。
②事件において、大法廷は、いわゆる拘束名簿式比例代表選挙は、政党の届け出た名簿に候補者名と当選人となるべき順位が記載されており、選挙人による投票の結果により当選人が決定されるのであるから、憲法の直接選挙の要請に反しないとした。また、重複立候補制については、大法廷は、二つの選挙に重複して立候補することを認めるか否かは、立法府が裁量により決定し得る事項であり、これを認める以上一方で落選した者が他方では当選人となることがあるのは当然であるなどとして、憲法に違反しないと判断した。
③事件において、大法廷は、小選挙区制の合憲性につき、死票は中選挙区制でもある問題であり、小選挙区制が特定の政党等にのみ有利であるということはできないなどとして、これを合憲とした。また、選挙運動に関しては、今回の改正が政策本位、政党本位の選挙を目指すものであり、そのため候補者届出政党にも選挙運動を認めることには合理性があり、その結果、候補者届出政党に属するか否かで一定の選挙運動上の差異を生ずるが、その差異は不可避的に生ずる程度のものであるから、違憲とはいえないとした。もっとも、政見放送は、小選挙区選挙については、候補者届出政党のみがすることができ、候補者はすることができないものとされたため、政見放送という選挙運動の手段に限ってみれば、程度の違いを超える差異があるというほかはなく、その合理性には疑問の余地があるといわざるを得ないが、それだけで選挙運動に関する規定が憲法に違反するとまではいえないと判断している。この選挙運動の規定の合憲性に関しては、五人の裁判官の共同反対意見があり、右の差異は不可避的な程度にとどまるものではなく合理性を有するとはいえないし、だれでも候補者届出政党の要件を備えることができるわけではないから、右規定は憲法に違反するというべきであるとしている。
三 本件各判決において示された憲法判断は、いずれも最高裁としての初めての判断であり、現行の小選挙区比例代表並立制の選挙制度が、立法論上のいくつかの議論の余地を抱えつつも、憲法論上は違憲とはいえないとされたものである。
まず、判示一についてみると、投票価値の平等の要請は憲法一四条一項に基づくもので、憲法自体は具体的選挙制度を予定したものではなく、国会が法律によって具体的に規定して初めて選挙制度が中選挙区制になったり小選挙区制になったりするものであることからするならば、憲法上許容される人口較差の限界についての考え方が具体的制度の改正に伴って変容するということは、困難であるように思われる。多数意見は、抜本的改正の当初から人口較差が二倍を超えたことの当否には議論があり得るとしつつ、最大較差が二・三〇九倍にとどまったことなどを根拠に合憲の判断をしており、従来の中選挙区制の下における判例が衆議院議員の選挙制度について暗黙の前提としてきたとみられる較差三倍以内は違憲と断じ得ないという考え方を、小選挙区制の下においても維持しているのではないかと推測される。これに対し、河合、遠藤、元原、梶谷各裁判官の共同反対意見は、較差を二倍未満にすることは、小選挙区制の下においては、中選挙区制の下における以上に厳しく要請されるとして、区割規定を違憲としており、また、福田裁判官の反対意見は、投票価値の平等の要請は厳格に遵守されるべきものであって、較差は可能な限り一対一に近付けなければならないとして、区割規定を違憲としている。
次に、判示二については、本判決は、重複立候補制を採用し、小選挙区選挙の落選者が比例代表選挙で当選し得るものとしたことについては、小選挙区選挙において示された民意に照らし議論があり得るとしつつ、国会の裁量の範囲内であると判断している。比例代表選挙において小選挙区選挙の結果をいわば覆し得ること、とりわけ小選挙区選挙において供託金を没収された者でも比例代表選挙において当選し得ることなどについては、既に様々な批判もされているところであるが、憲法の要請に反するとまでいえるかどうかについては、消極に解さざるを得ないであろう。
判示三については、比例代表制そのものは参議院議員選挙において先に導入され、同選挙に関する大法廷判決も、これが合憲であることを前提としていたとみられるが、本判決は、これを明示的に合憲としたものである。直接選挙の要請を満たすか否かは、選挙の結果が選挙人の意思により決定されるといえるか否かにより判断されるべきものである。比例代表選挙も、拘束名簿式であるならば、候補者名簿を作成し、その順位を決定するのが政党であっても、最終的に当落を決定しているのは政党ではなく選挙人の投票の結果であるから、憲法の直接選挙の要請に反しないというべきである。ただ、重複立候補をした複数の者が名簿上同順位とされた場合の当選人の決定は、比例代表選挙の結果のみでは決まらず、小選挙区選挙の結果を待たなければならないが、これも選挙人の意思を離れて当落が決まるものではないから、立法論上の当否は別として、憲法の要請には反しないというべきである。
判示四については、小選挙区制が死票を多く生ずる制度であることは、その欠点の一つといって差し支えなかろう。しかし、死票が多いことをもって違憲というなら、従来の中選挙区制もそのゆえに違憲と断じざるを得ないことになるし、小選挙区制には、本判決も述べるような中選挙区制や比例代表制にない特質もあり、プラス面、マイナス面を併せ考慮した上でいかなる制度を採用するか、またそれらをどのように組み合わせるかは、立法機関の裁量判断にゆだねられているものというほかはない。本判決が小選挙区制をもって「一つの合理的方法」といっているのは、憲法上許容される様々な選択肢の一つとしているもので、小選挙区制が他の制度より合理性が高いとしているものでないことは、いうまでもない。
判示五は、意見が分かれたが、反対意見も、政党に選挙運動を認めること自体は憲法に違反せず、政党所属の者とそうでない者との間に生ずる較差の程度と内容によっては、平等原則に反するというのであるから、候補者届出政党にも選挙運動を認めた結果生じた差異が政党に選挙運動を認めた結果生ずるやむを得ない程度のものか、それを超えて著しい差異を生じているかという評価の違いが結論を左右したといえよう。なお、政見放送を候補者届出政党にのみ認めたことについては、合憲判断をした多数意見においても、単なる程度の違いを超える大きな差異であり、そのような差異を設ける理由とされたところは十分合理的理由といい得るか疑問の余地があるとしており、これが選挙運動手段の一つにすぎないことから、全体としては違憲とまではいえないとしていることは、注目すべきであろう。政見放送を候補者届出政党にのみ認める規定だけを取り出せば、憲法論上も疑義なしとしないというのであり、この規定の見直しは、今後の法改正上の課題というべきであろう。
+判例(H11.11.10)同日。こっちの方だった(笑)
理由
上告人兼上告代理人森徹の上告理由、上告人Aの上告理由及び上告人Bの上告理由について
一 原審の適法に確定した事実関係等によれば、第八次選挙制度審議会は、平成二年四月、衆議院議員の選挙制度につき、従来のいわゆる中選挙区制にはいくつかの問題があったので、これを根本的に改めて、政策本位、政党本位の新たな選挙制度を採用する必要があるとして、いわゆる小選挙区比例代表並立制を導入することなどを内容とする答申をし、その後の追加答申等も踏まえて内閣が作成、提出した公職選挙法の改正案が国会において審議された結果、同六年一月に至り、公職選挙法の一部を改正する法律(平成六年法律第二号)が成立し、その後、右法律が同年法律第一〇号及び第一〇四号によって改正され、これらにより衆議院議員の選挙制度が従来の中選挙区単記投票制から小選挙区比例代表並立制に改められたものである。右改正後の公職選挙法(以下「改正公選法」という。)は、衆議院議員の定数を五〇〇人とし、そのうち、三〇〇人を小選挙区選出議員、二〇〇人を比例代表選出議員とした(四条一項)上、各別にその選挙制度の仕組みを定め、総選挙については、投票は小選挙区選出議員及び比例代表選出議員ごとに一人一票とし、同時に選挙を行うものとしている(三一条、三六条)。このうち小選挙区選出議員の選挙(以下「小選挙区選挙」という。)については、全国に三〇〇の選挙区を設け、各選挙区において一人の議員を選出し(一三条一項、別表第一)、投票用紙には候補者一人の氏名を記載させ(四六条一項)、有効投票の最多数を得た者をもって当選人とするものとしている(九五条一項)。また、比例代表選出議員の選挙(以下「比例代表選挙」という。)については、全国に一一の選挙区を設け、各選挙区において所定数の議員を選出し(一三条二項、別表第二)、投票用紙には一の衆議院名簿届出政党等の名称又は略称を記載させ(四六条二項)、得票数に応じて各政党等の当選人の数を算出し、あらかじめ届け出た順位に従って右の数に相当する当該政党等の名簿登載者(小選挙区選挙において当選人となった者を除く。)を当選人とするものとしている(九五条の二第一項ないし第五項)。これに伴い、各選挙への立候補の要件、手続、選挙運動の主体、手段等についても、改正が行われた。
本件は、改正公選法の衆議院議員選挙の仕組みに関する規定が憲法に違反し無効であるから、これに依拠してされた平成八年一〇月二〇日施行の衆議院議員総選挙のうち東京都選挙区における比例代表選挙は無効であると主張して提起された選挙無効訴訟である。
二 代表民主制の下における選挙制度は、選挙された代表者を通じて、国民の利害や意見が公正かつ効果的に国政の運営に反映されることを目標とし、他方、政治における安定の要請をも考慮しながら、それぞれの国において、その国の実情に即して具体的に決定されるべきものであり、そこに論理的に要請される一定不変の形態が存在するわけではない。我が憲法もまた、右の理由から、国会の両議院の議員の選挙について、およそ議員は全国民を代表するものでなければならないという制約の下で、議員の定数、選挙区、投票の方法その他選挙に関する事項は法律で定めるべきものとし(四三条、四七条)、両議院の議員の各選挙制度の仕組みの具体的決定を原則として国会の広い裁量にゆだねているのである。このように、国会は、その裁量により、衆議院議員及び参議院議員それぞれについて公正かつ効果的な代表を選出するという目標を実現するために適切な選挙制度の仕組みを決定することができるのであるから、国会が新たな選挙制度の仕組みを採用した場合には、その具体的に定めたところが、右の制約や法の下の平等などの憲法上の要請に反するため国会の右のような広い裁量権を考慮してもなおその限界を超えており、これを是認することができない場合に、初めてこれが憲法に違反することになるものと解すべきである(最高裁昭和四九年(行ツ)第七五号同五一年四月一四日大法廷判決・民集三〇巻三号二二三頁、最高裁昭和五四年(行ツ)第六五号同五八年四月二七日大法廷判決・民集三七巻三号三四五頁、最高裁昭和五六年(行ツ)第五七号同五八年一一月七日大法廷判決・民集三七巻九号一二四三頁、最高裁昭和五九年(行ツ)第三三九号同六〇年七月一七日大法廷判決・民集三九巻五号一一〇〇頁、最高裁平成三年(行ツ)第一一一号同五年一月二〇日大法廷判決・民集四七巻一号六七頁、最高裁平成六年(行ツ)第五九号同八年九月一一日大法廷判決・民集五〇巻八号二二八三頁及び最高裁平成九年(行ツ)第一〇四号同一〇年九月二日大法廷判決・民集五二巻六号一三七三頁参照)。
三 右の見地に立って、上告理由について判断する。
1 改正公選法八六条の二は、比例代表選挙における立候補につき、同条一項各号所定の要件のいずれかを備えた政党その他の政治団体のみが団体の名称と共に順位を付した候補者の名簿を届け出ることができるものとし、右の名簿の届出をした政党その他の政治団体(衆議院名簿届出政党等)のうち小選挙区選挙において候補者の届出をした政党その他の政治団体(候補者届出政党)はその届出に係る候補者を同時に比例代表選挙の名簿登載者とすることができ、両選挙に重複して立候補する者については右名簿における当選人となるべき順位を同一のものとすることができるという重複立候補制を採用している。重複立候補者は、小選挙区選挙において当選人とされた場合には、比例代表選挙における当選人となることはできないが、小選挙区選挙において当選人とされなかった場合には、名簿の順位に従って比例代表選挙の当選人となることができ、後者の場合に、名簿において同一の順位とされた者の間における当選人となるべき順位は、小選挙区選挙における得票数の当該選挙区における有効投票の最多数を得た者に係る得票数に対する割合の最も大きい者から順次に定めるものとされている(同法九五条の二第三ないし第五項)。同法八六条の二第一項各号所定の要件のうち一号、二号の要件は、同法八六条一項一号、二号所定の候補者届出政党の要件と同一であるから、これらの要件を充足する政党等に所属する者は小選挙区選挙及び比例代表選挙に重複して立候補することができるが、右政党等に所属しない者は、同法八六条の二第一項三号所定の要件を充足する政党その他の政治団体に所属するものにあっては比例代表選挙又は小選挙区選挙のいずれかに、その他のものにあっては小選挙区選挙に立候補することができるにとどまり、両方に重複して立候補することはできないものとされている。また、右の名簿に登載することができる候補者の数は、各選挙区の定数を超えることができないが、重複立候補者はこの計算上除外されるので、候補者届出政党の要件を充足した政党等は、右定数を超える数の候補者を名簿に登載することができることとなる(同条五項)。そして、衆議院名簿届出政党等のすることができる自動車、拡声機、ポスターを用いた選挙運動や新聞広告、政見放送等の規模は、名簿登載者の数に応じて定められている(同法一四一条三項、一四四条一項二号、一四九条二項、一五〇条五項等)。さらに、候補者届出政党は、小選挙区選挙の選挙運動をすることができるほか、衆議院名簿届出政党等でもある場合には、その小選挙区選挙に係る選挙運動が同法の許す態様において比例代表選挙に係る選挙運動にわたることを妨げないものとされている(同法一七八条の三第一項)。
右のような改正公選法の規定をみると、立候補の機会において、候補者届出政党に所属する候補者は重複立候補をすることが認められているのに対し、それ以外の候補者は重複立候補の機会がないものとされているほか、衆議院名簿届出政党等の行うことができる選挙運動の規模において、重複立候補者の数が名簿登載者の数の制限の計算上除外される結果、候補者届出政党の要件を備えたものは、これを備えないものより規模の大きな選挙運動を行うことができるものとされているということができる。
論旨は、右のような重複立候補制に係る改正公選法の規定は、重複立候補者が小選挙区選挙で落選しても比例代表選挙で当選することができる点において、憲法前文、四三条一項、一四条一項、一五条三項、四四条に違反し、また、重複立候補をすることができる者ないし候補者届出政党の要件を充足する政党等と重複立候補をすることができない者ないし右要件を充足しない政党等とを差別的に取り扱うものであり、選挙人の選挙権の十全な行使を侵害するものであって、憲法一五条一項、三項、四四条、一四条一項、四七条、四三条一項に違反し、さらに、選挙の時点で候補者名簿の順位が確定しないものであるから直接選挙といえず、憲法四三条一項、一五条一項、三項に違反するなどというのである。
2 【要旨第一】重複立候補制を採用し、小選挙区選挙において落選した者であっても比例代表選挙の名簿順位によっては同選挙において当選人となることができるものとしたことについては、小選挙区選挙において示された民意に照らせば、議論があり得るところと思われる。しかしながら、前記のとおり、選挙制度の仕組みを具体的に決定することは国会の広い裁量にゆだねられているところ、同時に行われる二つの選挙に同一の候補者が重複して立候補することを認めるか否かは、右の仕組みの一つとして、国会が裁量により決定することができる事項であるといわざるを得ない。改正公選法八七条は重複立候補を原則として禁止しているが、これは憲法から必然的に導き出される原理ではなく、立法政策としてそのような選択がされているものであり、改正公選法八六条の二第四項が政党本位の選挙を目指すという観点からこれに例外を設けたこともまた、憲法の要請に反するとはいえない。重複して立候補することを認める制度においては、一の選挙において当選人とされなかった者が他の選挙において当選人とされることがあることは、当然の帰結である。したがって、重複立候補制を採用したこと自体が憲法前文、四三条一項、一四条一項、一五条三項、四四条に違反するとはいえない。
もっとも、衆議院議員選挙において重複立候補をすることができる者は、改正公選法八六条一項一号、二号所定の要件を充足する政党その他の政治団体に所属する者に限られており、これに所属しない者は重複立候補をすることができないものとされているところ、被選挙権又は立候補の自由が選挙権の自由な行使と表裏の関係にある重要な基本的人権であることにかんがみれば、合理的な理由なく立候補の自由を制限することは、憲法の要請に反するといわなければならない。しかしながら、右のような候補者届出政党の要件は、国民の政治的意思を集約するための組織を有し、継続的に相当な活動を行い、国民の支持を受けていると認められる政党等が、小選挙区選挙において政策を掲げて争うにふさわしいものであるとの認識の下に、第八次選挙制度審議会の答申にあるとおり、選挙制度を政策本位、政党本位のものとするために設けられたものと解されるのであり、政党の果たしている国政上の重要な役割にかんがみれば、選挙制度を政策本位、政党本位のものとすることは、国会の裁量の範囲に属することが明らかであるといわなければならない。したがって、同じく政策本位、政党本位の選挙制度というべき比例代表選挙と小選挙区選挙とに重複して立候補することができる者が候補者届出政党の要件と衆議院名簿届出政党等の要件の両方を充足する政党等に所属する者に限定されていることには、相応の合理性が認められるのであって、不当に立候補の自由や選挙権の行使を制限するとはいえず、これが国会の裁量権の限界を超えるものとは解されない。
そして、行うことができる選挙運動の規模が候補者の数に応じて拡大されるという制度は、衆議院名簿届出政党等の間に取扱い上の差異を設けるものではあるが、選挙運動をいかなる者にいかなる態様で認めるかは、選挙制度の仕組みの一部を成すものとして、国会がその裁量により決定することができるものというべきである。一般に名簿登載者の数が多くなるほど選挙運動の必要性が増大するという面があることは否定することができないところであり、重複立候補者の数を名簿登載者の数の制限の計算上除外することにも合理性が認められるから、前記のような選挙運動上の差異を生ずることは、合理的理由に基づくものであって、これをもって国会の裁量の範囲を超えるとはいえない。これが選挙権の十全な行使を侵害するものでないことも、また明らかである。したがって、右のような差異を設けたことが憲法一五条一項、三項、四四条、一四条一項、四七条、四三条一項に違反するとはいえない。
また、【要旨第二】政党等にあらかじめ候補者の氏名及び当選人となるべき順位を定めた名簿を届け出させた上、選挙人が政党等を選択して投票し、各政党等の得票数の多寡に応じて当該名簿の順位に従って当選人を決定する方式は、投票の結果すなわち選挙人の総意により当選人が決定される点において、選挙人が候補者個人を直接選択して投票する方式と異なるところはない。複数の重複立候補者の比例代表選挙における当選人となるべき順位が名簿において同一のものとされた場合には、その者の間では当選人となるべき順位が小選挙区選挙の結果を待たないと確定しないことになるが、結局のところ当選人となるべき順位は投票の結果によって決定されるのであるから、このことをもって比例代表選挙が直接選挙に当たらないということはできず、憲法四三条一項、一五条一項、三項に違反するとはいえない。
3 論旨はまた、改正公選法の一三条二項及び別表第二の定める南関東選挙区の比例代表選挙の定数と同選挙区内の同条一項及び同法別表第一の定める小選挙区選挙の定数との合計数が五五となるのに対し、同東海選挙区のそれは五七となり、この合計数でみるならば、人口の多い南関東選挙区に人口の少ない東海選挙区より少ない定数が配分されるという逆転現象が生じており、これが憲法一四条一項、一五条一項、三項、四四条の各規定による投票価値の平等の要請に違反するとも主張する。
しかしながら、所論のように選挙区割りを異にする二つの選挙の議員定数を一方の選挙の選挙区ごとに合計して当該選挙区の人口と議員定数との比率の平等を問題とすることには、合理性がないことが明らかであり、比例代表選挙の無効を求める訴訟においては、小選挙区選挙の仕組みの憲法適合性を問題とすることはできないというほかはない。そして、比例代表選挙についてみれば、投票価値の平等を損なうところがあるとは認められず、その選挙区割りに憲法に違反するところがあるとはいえない。したがって、改正公選法の一三条二項及び別表第二の規定が憲法一四条一項、一五条一項、三項、四四条に違反するとは認められない。
4 以上と同旨の原審の判断は、正当として是認することができ、原判決が憲法前文、一三条、一四条一項、一五条一項、三項、四三条一項、四四条、四七条等に違反するとはいえず、所論の理由の食違いの違法もない。論旨は採用することができない。
よって、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 山口繁 裁判官 小野幹雄 裁判官 千種秀夫 裁判官 河合伸一 裁判官 遠藤光男 裁判官 井嶋一友 裁判官 福田博 裁判官 藤井正雄 裁判官 元原利文 裁判官 金谷利廣 裁判官 北川弘治 裁判官 亀山継夫 裁判官 奥田昌道 裁判官 梶谷玄)