民事訴訟法 基礎演習 類似必要的共同訴訟


1.類似必要的共同訴訟の意義
(1)通常共同訴訟と必要的共同訴訟

+(共同訴訟の要件)
第38条
訴訟の目的である権利又は義務が数人について共通であるとき、又は同一の事実上及び法律上の原因に基づくときは、その数人は、共同訴訟人として訴え、又は訴えられることができる。訴訟の目的である権利又は義務が同種であって事実上及び法律上同種の原因に基づくときも、同様とする。

+(必要的共同訴訟)
第40条
1項 訴訟の目的が共同訴訟人の全員について合一にのみ確定すべき場合には、その一人の訴訟行為は、全員の利益においてのみその効力を生ずる。
2項 前項に規定する場合には、共同訴訟人の一人に対する相手方の訴訟行為は、全員に対してその効力を生ずる。
3項 第一項に規定する場合において、共同訴訟人の一人について訴訟手続の中断又は中止の原因があるときは、その中断又は中止は、全員についてその効力を生ずる
4項 第32条第1項の規定は、第1項に規定する場合において、共同訴訟人の一人が提起した上訴について他の共同訴訟人である被保佐人若しくは被補助人又は他の共同訴訟人の後見人その他の法定代理人のすべき訴訟行為について準用する。

(2)固有必要的共同訴訟と類似必要的共同訴訟

・固有必要的共同訴訟=関係者が全員当事者としてそろっている場合、つまり全員そろって初めて当事者適格があるとされる場合

・類似必要的共同訴訟=当事者は1人でもいい(当事者適格がある)が、複数の訴えが提起された場合には共同して訴訟手続きを進めて矛盾のない判決をする必要がある場合

2.共同訴訟とすべき実質的理由
(1)判決効拡張による従来の通説の説明
・判決効が第三者に拡張される場合、既判力が矛盾衝突する。

(2)従来の通説に対する異論
判決効の衝突は生じないが、手続きを別々にすることに合理性が乏しい。

(3)通説的立場からの再反論

3.必要的共同訴訟の手続きの進行

4.類似必要的共同訴訟と上訴
(1)従来の通説

(2)かつての判例
+判例(S58.4.1)
理由
職権をもつて調査するのに、本件訴訟のように普通地方公共団体の数人の住民が当該地方公共団体に代位して提起する地方自治法二四二条の二第一項四号所定の訴訟は、その一人に対する判決が確定すると、右判決の効力は当該地方公共団体に及び(民訴法二〇一条二項)、他の者もこれに反する主張をすることができなくなるという関係にあるのであるから、民訴法六二条一項にいう「訴訟ノ目的カ共同訴訟人ノ全員ニ付合一ニノミ確定スヘキ場合」に当たるものと解するのが相当である。そうすると、本件訴訟を提起した一五名の第一審原告らのうち本件上告人ら五名がした第一審判決に対する控訴は、その余の第一審原告らに対しても効力を生じ(民訴法六二条一項)、原審としては、第一審原告ら全員を判決の名宛人として一個の終局判決をすべきところであつて、第一審判決に対する控訴をした本件上告人らのみを控訴人としてされた原判決は、違法であることが明らかである。
したがつて、本件上告代理人らの上告理由について判断するまでもなく、原判決は破棄を免れず、さらに審理判断を尽くさせるため、本件を原審に差し戻すこととし、行政事件訴訟法七条、民訴法四〇七条一項に従い、裁判官木下忠良の反対意見があるほか、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

+反対意見
裁判官木下忠良の反対意見は、次のとおりである。
私は、多数意見とは異なり、いわゆる類似必要的共同訴訟に属する訴訟であつても、住民が普通地方公共団体に代位して提起する本件のような訴訟にあつては、共同訴訟人の一部の者が上訴しても、それによつて他の者が上訴人としての地位を取得するものではなく、したがつて、本件において第一審判決に対する控訴をした一部の共同訴訟人のみを控訴人として終局判決をした原審の措置には格別の違法はないと考える
そもそも、必要的共同訴訟において共同訴訟人の一部の者が上訴すればそれによつて他の者も上訴人としての地位に就くものと一般に解されているのは、要するに、本来合一的にのみ確定されるべき性質を持つ判決が区区になることを避けるための方法としてであるにほかならない。しかしながら、右のような目的のためには、必ずしもあらゆる場合において一部の共同訴訟人が上訴すれば他の者も上訴人としての地位に就くものとする必要はないばかりか、自ら上訴をせず上訴追行の意思を有しない者にも上訴人としての地位を付与し自ら上訴した者と同様の上訴審当事者としての権利、義務を課することはかえつて不当でもあり、訴訟経済に反するところでもある
多数の住民が普通地方公共団体に代位して提起する本件のような訴訟は、当該公共団体が有する同一の請求権を多数の住民がいわば公益の代表者としての立場において行使するものである。この種の訴訟のこのような性質にかんがみるとき、私は、いわゆる類似必要的共同訴訟一般についてはともかく、少なくとも右のような訴訟にあつては、共同訴訟人の一部の者が上訴すれば、それによつて判決は全体として確定を遮断され、請求は上訴審に移審して、それが上訴審における審判の対象とはなるが、上訴審における訴訟追行は専ら上訴した共同訴訟人によつてのみ行われるべく、自ら上訴しなかつた共同訴訟人はいわば脱退して、ただ上訴審判決の効力を受ける地位にあるにとどまるものと解するのが相当であると考える。けだし、それによつて判決の合一的確定という要請は充たすことができるし、それがこの種の訴訟における当事者の意思に最も適合するところであると考えられるからである。
(裁判長裁判官 宮﨑梧一 裁判官 木下忠良 裁判官 鹽野宜慶 裁判官 大橋進 裁判官 牧圭次)

(3)その後の判例
・上訴しなかった者は上訴人にならないという方向で判例変更。

+判例(H9.4.2)愛媛玉串訴訟
理由
第一 上告代理人西嶋吉光、同菅原辰二、同佐伯善男、同東俊一、同草薙順一、同谷正之、同薦田伸夫、同高田義之、同今川正章、同水口晃、同井上正実、同津村健太郎、同阿河準一、同高村文敏、同三野秀富、同猪崎武典、同久保和彦、同西山司郎、同堀井茂、同渡辺光夫、同平井範明、同桑城秀樹、同臼井滿、同重哲郎、同木田一彦の上告理由について
一 事実関係及び訴訟の経過
1 原審の適法に確定した事実関係によれば、被上告人B1が愛媛県知事の職にあった昭和五六年から同六一年にかけて、(1) 愛媛県(以下「県」という。)の東京事務所長の職あった被上人B2が、宗教法人靖國神社(以下「靖國神社」という。)の挙行した春季又は秋季の例大祭に際して奉納する玉串料として九回にわたり各五〇〇〇円(合計四万五〇〇〇円)を、(2) 同じく同被上告人が、靖國神社の挙行した七月中旬の「みたま祭」に際して奉納する献灯料として四回にわたり各七〇〇〇円又は八〇〇〇円(合計三万一〇〇〇円)を、また、(3) 県生活福祉部老人福祉課長の職にあった被上告人B3、承継前被上告人亡B4、被上告人B5、同B6及び同B7が、宗教法人愛媛県護國神社(以下「護國神社」という。)の挙行した春季又は秋季の慰霊大祭に際して愛媛県遺族会を通じて奉納する供物料として九回にわたり各一万円(合計九万円)を、それぞれ県の公金から支出した(以下、これらの支出を「本件支出」という。)というのであるところ、本件は、本件支出が憲法二〇条三項、八九条等に照らして許されない違法な財務会計上の行為に当たるかどうかが争われた地方自治法二四二条の二第一項四号に基づく損害賠償代位請求住民訴訟である。

2 第一審は、本件支出は、その目的が宗教的意義を持つことを否定することができないばかりでなく、その効果が靖國神社又は護國神社の宗教活動を援助、助長、促進することになるものであって、本件支出によって生ずる県と靖國神社及び護國神社との結び付きは、我が国の文化的・社会的諸条件に照らして考えるとき、もはや相当とされる限度を超えるものであるから、憲法二〇条三項の禁止する宗教的活動に当たり、違法なものといわなければならないと判断した。
これに対して、原審は本件支出は宗教的な意義を持つが、一般人にとって神社に参拝する際に玉串料等を支出することは過大でない限り社会的儀礼として受容されるという宗教的評価がされており、知事は、遺族援護行政の一環として本件支出をしたものであって、それ以外の意図、目的や深い宗教心に基づいてこれをしたものではないし、その支出の程度は、少額で社会的な儀礼の程度にとどまっており、その行為が一般人に与える効果、影響は、靖國神社等の第二次大戦中の法的地位の復活や神道の援助、助長についての特別の関心、気風を呼び起こしたりするものではなく、これらによれば、本件支出は、神道に対する援助、助長、促進又は他の宗教に対する圧迫、干渉等になるようなものではないから、憲法二〇条三項、八九条に違反しないと判断した。

二 本件支出の違法性に関する当裁判所の判断
原審の右判断は是認することができない。その理由は以下のとおりである。
1 政教分離原則憲法二〇条三項八九条により禁止される国家等の行為
憲法は、二〇条一項後段、三項、八九条において、いわゆる政教分離の原則に基づく諸規定(以下「政教分離規定」という。)を設けている。
一般に、政教分離原則とは、国家(地方公共団体を含む。以下同じ。)は宗教そのものに干渉すべきではないとする、国家の非宗教性ないし宗教的中立性を意味するものとされているところ、国家と宗教との関係には、それぞれの国の歴史的・社会的条件によって異なるものがある。我が国では、大日本帝国憲法に信教の自由を保障する規定(二八条)を設けていたものの、その保障は「安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ」という同条自体の制限を伴っていたばかりでなく、国家神道に対し事実上国教的な地位が与えられ、ときとして、それに対する信仰が要請され、あるいは一部の宗教団体に対し厳しい迫害が加えられた等のこともあって、同憲法の下における信教の自由の保障は不完全なものであることを免れなかった。憲法は、明治維新以降国家と神道が密接に結び付き右のような種々の弊害を生じたことにかんがみ、新たに信教の自由を無条件に保障することとし、更にその保障を一層確実なものとするため、政教分離規定を設けるに至ったのである。元来、我が国においては、各種の宗教が多元的、重層的に発達、併存してきているのであって、このような宗教事情の下で信教の自由を確実に実現するためには、単に信教の自由を無条件に保障するのみでは足りず、国家といかなる宗教との結び付きをも排除するため、政教分離規定を設ける必要性が大であった。これらの点にかんがみると、憲法は、政教分離規定を設けるに当たり、国家と宗教との完全な分離を理想とし、国家の非宗教性ないし宗教的中立性を確保しようとしたものと解すべきである。
しかしながら、元来、政教分離規定は、いわゆる制度的保障の規定であって、信教の自由そのものを直接保障するものではなく国家と宗教との分離を制度として保障することにより、間接的に信教の自由の保障を確保しようとするものである。そして、国家が社会生活に規制を加え、あるいは教育、福祉、文化などに関する助成、援助等の諸施策を実施するに当たって、宗教とのかかわり合いを生ずることを免れることはできないから、現実の国家制度として、国家と宗教との完全な分離を実現することは、実際上不可能に近いものといわなければならない。さらにまた、政教分離原則を完全に貫こうとすれば、かえって社会生活の各方面に不合理な事態を生ずることを免れない。これらの点にかんがみると、政教分離規定の保障の対象となる国家と宗教との分離にもおのずから一定の限界があるしとを免れず、政教分離原則が現実の国家制度として具現される場合には、それぞれの国の社会的・文化的諸条件に照らし、国家は実際上宗教とある程度のかかわり合いを持たざるを得ないことを前提とした上で、そのかかわり合いが、信教の自由の保障の確保という制度の根本目的との関係で、いかなる場合にいかなる限度で許されないこととなるかが問題とならざるを得ないのである。右のような見地から考えると、憲法の政教分離規定の基礎となり、その解釈の指導原理となる政教分離原則は、国家が宗教的に中立であることを要求するものではあるが、国家が宗教とのかかわり合いを持つことを全く許さないとするものではなく、宗教とのかかわり合いをもたらす行為の目的及び効果にかんがみ、そのかかわり合いが我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものと認められる場合にこれを許さないとするものであると解すべきである。
右の政教分離原則の意義に照らすと、憲法二〇条三項にいう宗教的活動とは、およそ国及びその機関の活動で宗教とのかかわり合いを持つすべての行為を指すものではなく、そのかかわり合いが右にいう相当とされる限度を超えるものに限られるというべきであって、当該行為の目的が宗教的意義を持ち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為をいうものと解すべきである。そして、ある行為が右にいう宗教的活動に該当するかどうかを検討するに当たっては、当該行為の外形的側面のみにとらわれることなく、当該行為の行われる場所、当該行為に対する一般人の宗教的評価、当該行為者が当該行為を行うについての意図、目的及び宗教的意識の有無、程度、当該行為の一般人に与える効果、影響等、諸般の事情を考慮し、社会通念に従って、客観的に判断しなければならない
憲法八九条が禁止している公金その他の公の財産を宗教上の組織又は団体の使用、便益又は維持のために支出すること又はその利用に供することというのも、前記の政教分離原則の意義に照らして、公金支出行為等における国家と宗教とのかかわり合いが前記の相当とされる限度を超えるものをいうものと解すべきであり、これに該当するかどうかを検討するに当たっては、前記と同様の基準によって判断しなければならない。
以上は、当裁判所の判例の趣旨とするところでもある(最高裁昭和四六年(行ツ)第六九号同五二年七月一三日大法廷判決・民集三一巻四号五三三頁、最高裁昭和五七年(オ)第九〇二号同六三年六月一日大法廷判決・民集四二巻五号二七七頁参照)。

2 本件支出の違法性
そこで、以上の見地に立って、本件支出の違法性について検討する。
(一) 原審の適法に確定した事実関係によれば、被上告人B2らは、いずれも宗教法人であって憲法二〇条一項後段にいう宗教団体に当たることが明らかな靖國神社又は護國神社が各神社の境内において挙行した恒例の宗教上の祭祀である例大祭、みたま祭又は慰霊大祭に際して、玉串料、献灯料又は供物料を奉納するため、前記回数にわたり前記金額の金員を県の公金から支出したというのである。ところで、神社神道においては、祭祀を行うことがその中心的な宗教上の活動であるとされていること、例大祭及び慰霊大祭は、神道の祭式にのっとって行われる儀式を中心とする祭祀であり、各神社の挙行する恒例の祭祀中でも重要な意義を有するものと位置付けられていること、みたま祭は、同様の儀式を行う祭祀であり、靖國神社の祭祀中最も盛大な規模で行われるものであることは、いずれも公知の事実である。そして、玉串料及び供物料は、例大祭又は慰霊大祭において右のような宗教上の儀式が執り行われるに際して神前に供えられるものであり、献灯料は、これによりみたま祭において境内に奉納者の名前を記した灯明が掲げられるというものであって、いずれも各神社が宗教的意義を有すると考えていることが明らかなものである。
これらのことからすれば、県が特定の宗教団体の挙行する重要な宗教上の祭祀にかかわり合いを持ったということが明らかである。そして、一般に、神社自体がその境内において挙行する恒例の重要な祭祀に際して右のような玉串料等を奉納することは、建築主が主催して建築現場において土地の平安堅固、工事の無事安全等を祈願するために行う儀式である起工式の場合とは異なり、時代の推移によって既にその宗教的意義が希薄化し、慣習化した社会的儀礼にすぎないものになっているとまでは到底いうことができず、一般人が本件の玉串料等の奉納を社会的儀礼の一つにすぎないと評価しているとは考え難いところである。そうであれば、玉串料等の奉納者においても、それが宗教的意義を有するものであるという意識を大なり小なり持たざる得ないのであり、このことは、本件においても同様というべきである。また、本件においては、県が他の宗教団体の挙行する同種の儀式に対して同様の支出をしたという事実がうかがわれないのであって、県が特定の宗教団体との間にのみ意識的に特別のかかわり合いを持ったことを否定することができない。これらのことからすれば、地方公共団体が特定の宗教団体に対してのみ本件のような形で特別のかかわり合いを持つことは、一般人に対して、県が当該特定の宗教団体を特別に支援しており、それらの宗教団体が他の宗教団体とは異なる特別のものであるとの印象を与え、特定の宗教への関心を呼び起こすものといわざるを得ない
被上告人らは、本件支出は、遺族援護行政の一環として、戦没者の慰霊及び遺族の慰謝という世俗的な目的で行われた社会的儀礼にすぎないものであるから、憲法に違反しないと主張する。確かに、靖國神社及び護國神社に祭られている祭神の多くは第二次大戦の戦没者であって、その遺族を始めとする愛媛県民のうちの相当数の者が、県が公の立場において靖國神社等に祭られている戦没者の慰霊を行うことを望んでおり、そのうちには、必ずしも戦没者を祭神として信仰の対象としているからではなく、故人をしのぶ心情からそのように望んでいる者もいることは、これを肯認することができる。そのような希望にこたえるという側面においては、本件の玉串料等の奉納に儀礼的な意味合いがあることも否定できない。しかしながら、明治維新以降国家と神道が密接に結び付き種々の弊害を生じたことにかんがみ政教分離規定を設けるに至ったなど前記の憲法制定の経緯に照らせば、たとえ相当数の者がそれを望んでいるとしても、そのことのゆえに、地方公共団体と特定の宗教とのかかわり合いが、相当とされる限度を超えないものとして憲法上許されることになるとはいえない。戦没者の慰霊及び遺族の慰謝ということ自体は、本件のように特定の宗教と特別のかかわり合いを持つ形でなくてもこれを行うことができると考えられるし、神社の挙行する恒例祭に際して玉串料等を奉納することが、慣習化した社会的儀礼にすぎないものになっているとも認められないことは、前記説示のとおりである。ちなみに、神社に対する玉串料等の奉納が故人の葬礼に際して香典を贈ることとの対比で論じられることがあるが、香典は、故人に対する哀悼の意と遺族に対する弔意を表するために遺族に対して贈られ、その葬礼儀式を執り行っている宗教家ないし宗教団体を援助するためのものではないと一般に理解されており、これと宗教団体の行う祭祀に際して宗教団体自体に対して玉串料等を奉納することとでは、一般人の評価において、全く異なるものがあるといわなければならない。また、被上告人らは、玉串料等の奉納は、神社仏閣を訪れた際にさい銭を投ずることと同様のものであるとも主張するが、地方公共団体の名を示して行う玉串料等の奉納と一般にはその名を表示せずに行うさい銭の奉納とでは、その社会的意味を同一に論じられないことは、おのずから明らかである。そうであれば、本件玉串料等の奉納は、たとえそれが戦没者の慰霊及びその遺族の慰謝を直接の目的としてされたものであったとしても、世俗的目的で行われた社会的儀礼にすぎないものとして憲法に違反しないということはできない
以上の事情を総合的に考慮して判断すれば、県が本件玉串料等靖國神社又は護國神社に前記のとおり奉納したことは、その目的が宗教的意義を持つことを免れず、その効果が特定の宗教に対する援助、助長、促進になると認めるべきであり、これによってもたらされる県と靖國神社等とのかかわり合いが我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものであって、憲法二〇条三項の禁止する宗教的活動に当たると解するのが相当である。そうすると、本件支出は、同項の禁止する宗教的活動を行うためにしたものとして、違法というべきである。これと異なる原審の判断は、同項の解釈適用を誤るものというほかはない。
(二) また、靖國神社及び護國神社は憲法八九条にいう宗教上の組織又は団体に当たることが明らかであるところ、以上に判示したところからすると、本件玉串料等を靖國神社又は護國神社に前記のとおり奉納したことによってもたらされる県と靖國神社等とのかかわり合いが我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものと解されるのであるから、本件支出は、同条の禁止する公金の支出に当たり、違法というべきである。したがって、この点に関する原審の判断も、同条の解釈適用を誤るものといわざるを得ない。

三 被上告人らの損害賠償責任の有無
原審は、右の誤った判断に基づき、本件支出に違法はないとして、上告人らの請求をいずれも棄却すべきであるとしたが、以上のとおり、本件支出は違法であるというべきであるから、更に進んで、被上告人らの損害賠償責任の有無について検討することとする。
原審の適法に確定した事実関係によれば、本性支出の当時、本件支出の権限を法令上本来的に有していたのは、知事の職にあった被上告人B1であったところ、本件支出のうち靖國神社に対してされたものについては、県の規則により県東京事務所長に対し権限が委任され、その職にあった被上告人B2がこれを行ったのであり、また、本件支出のうち護國神社に対してされたものについては、県の規則及び訓令により県生活福祉部老人福祉課長に専決させることとされ、その職にあった被上告人B3、承継前被上告人亡B4、被上告人B5、同B6及び同B7(以下、被上告人B2を含め、これらの者を「被上告人B2ら」という。)がそれぞれこれを行ったというのである。
右のように、被上告人B1は、自己の権限に属する本件支出を補助職員である被上告人B2らに委任し、又は専決により処理させたのであるから、その指揮監督上の義務に違反し、故意又は過失によりこれを阻止しなかったと認められる場合には、県に対し右違法な支出によって県が被った損害を賠償する義務を負うことになると解すべきである(最高裁平成二年(行ツ)第一三七号同三年一二月二〇日第二小法廷判決・民集四五巻九号一四五五頁、最高裁昭和六二年(行ツ)第一四八号平成五年二月一六日第三小法廷判決・民集四七巻三号一六八七頁参照)。原審の適法に確定したところによれば、被上告人B1は、靖國神社等に対し、被上告人B2らに玉串料等を持参させるなどして、これを奉納したと認められるというのであり、本件支出には憲法に違反するという重大な違法があること、地方公共団体が特定の宗教団体に玉串料、供物料等の支出をすることについて、文部省、自治省等が、政教分離原則に照らし、慎重な対応を求める趣旨の通達、回答をしてきたことなどをも考慮すると、その指揮監督上の義務に違反したものであって、これにつき少なくとも過失があったというのが相当である。したがって、被上告人B1は、県に対し、違法な本件支出により県が被った本件支出金相当額の損害を賠償する義務を負うというべきである。
これに対し、被上告人B2らについては、地方自治法二四三条の二第一項後段により損害賠償責任の発生要件が限定されており、本件支出行為をするにつき故意又は重大な過失があった場合に限り県に対して損害賠償責任を負うものであるところ、原審の適法に確定したところによれば、被上告人B2らは、いずれも委任を受け、又は専決することを任された補助職員として知事の前記のような指揮監督の下で本件支出をしたというのであり、しかも、本件支出が憲法に違反するか否かを極めて容易に判断することができたとまではいえないから、被上告人B2らがこれを憲法に違反しないと考えて行ったことは、その判断を誤ったものではあるが、著しく注意義務を怠ったものとして重大な過失があったということはできない。そうすると、被上告人B1以外の被上告人らは県に対し損害賠償責任を負わないというべきである。

四 結論
以上によれば、上告人らの被上告人B1に対する請求は、これを認容すべきであり、その余の被上告人らに対する請求は、これを棄却すべきであるところ、これと同旨の第二審判決は、結論において是認し得るから、第一審判決のうち上告人らの被上告人B1に対する請求に係る部分を取り消して同請求を棄却した原判決主文第一項は、破棄を免れず、右部分については、同被上告人の控訴を棄却すべきであり、上告人らのその余の被上告人らに対する控訴を棄却した原判決主文第二項に対する上告は、理由がないとして、これを棄却すべきである。

第二 A1の上告取下げの効力について
本件上告を申し立てた者のうちA1は、平成六年七月七日、上告を取り下げる旨の書面を当裁判所に提出した。そこで、職権により、右上告取下げの効力について判断する。
本件は、地方自治法二四二条の二に規定する住民訴訟である。同条は、普通地方公共団体の財務行政の適正な運営を確保して住民全体の利益を守るために、当該普通地方公共団体の構成員である住民に対し、いわば公益の代表者として同条一項各号所定の訴えを提起する権能を与えたものであり、同条四項が、同条一項の規定による訴訟が係属しているときは、当該普通地方公共団体の他の住民は、別訴をもって同一の請求をすることができないと規定しているのは、住民訴訟のこのような性質にかんがみて、複数の住民による同一の請求については、必ず共同訴訟として提訴することを義務付け、これを一体として審判し、一回的に解決しようとする趣旨に出たものと解される。そうであれば、住民訴訟の判決の効力は、当事者となった住民のみならず、当該地方公共団体の全住民に及ぶものというべきであり、複数の住民の提起した住民訴訟は、民訴法六二条一項にいう「訴訟ノ目的カ共同訴訟人ノ全員ニ付合一ニノミ確定スヘキ場合」に該当し、いわゆる類似必要的共同訴訟と解するのが相当である。
ところで、類似必要的共同訴訟については、共同訴訟人の一部の者がした訴訟行為は、全員の利益においてのみ効力を生ずるとされている(民訴法六二条一項)。上訴は、上訴審に対して原判決の敗訴部分の是正を求める行為であるから、類似必要的共同訴訟において共同訴訟人の一部の者が上訴すれば、それによって原判決の確定が妨げられ、当該訴訟は全体として上訴審に移審し、上訴審の判決の効力は上訴をしなかった共同訴訟人にも及ぶものと解される。しかしながら、合一確定のためには右の限度で上訴が効力を生ずれば足りるものである上、住民訴訟の前記のような性質にかんがみると、公益の代表者となる意思を失った者に対し、その意思に反してまで上訴人の地位に就き続けることを求めることは、相当でないだけでなく、住民訴訟においては、複数の住民によって提訴された場合であっても、公益の代表者としての共同訴訟人らにより同一の違法な財務会計上の行為又は怠る事実の予防又は是正を求める公益上の請求がされているのであり、元来提訴者各人が自己の個別的な利益を有しているものではないから、提訴後に共同訴訟人の数が減少しても、その審判の範囲、審理の態様、判決の効力等には何ら影響がない。そうであれば、住民訴訟については、自ら上訴をしなかった共同訴訟人をその意に反して上訴人の地位に就かせる効力までが行政事件訴訟法七条、民訴法六二条一項によって生ずると解するのは相当でなく、自ら上訴をしなかった共同訴訟人は、上訴人にはならないものと解すべきである。この理は、いったん上訴をしたがこれを取り下げた共同訴訟人についても当てはまるから、上訴をした共同訴訟人のうちの一部の者が上訴を取り下げても、その者に対する関係において原判決が確定することにはならないが、その者は上訴人ではなくなるものと解される。最高裁昭和五七年(行ツ)第一一号同五八年四月一日第二小法廷判決・民集三七巻三号二〇一頁は、右と抵触する限度において、変更すべきものである。
したがって、A1は、上告の取下げにより上告人ではなくなったものとして、本判決をすることとする。
よって、行政事件訴訟法七条、民訴法四〇八条、三九六条、三八四条、九六条、九五条、八九条、九三条に従い、裁判官大野正男、同福田博の各補足意見、裁判官園部逸夫、同高橋久子、同尾崎行信の各意見、裁判官三好達、同可部恒雄の各反対意見があるほか、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

+補足意見
判示第一の二についての裁判官大野正男の補足意見は、次のとおりである。
私は、多数意見に賛同するものであるが、多数意見第一の二につき、私の意見を補足しておきたい。
一 本件行為の目的について
本件で重視されなければならないのは、玉串料等の奉納が、戦没者の慰霊、遺族の慰謝を目的とするものであるといっても、それはあくまで靖國神社、護國神社という特定の宗教団体の祭祀に対してされているという事実である。その点を捨象して、単に、地方公共団体が戦没者の慰霊等を行うことに宗教的的意義があるか否かとか、あるいはそれが社会的儀礼に当たるか否かとかを論ずることは、事柄の本筋を見落とすものである。
被上告人B1は、本件玉串料等の支出目的は、同人の支持団体であり同人が会長を務める県遺族会の要請にこたえ、県の行う戦没者の慰霊、遺族の慰謝という遺族援護行政の一環として行ったものであって、特段の宗教的意識を持って行ったものではない旨主張している。
しかし、憲法二〇条三項にいう宗教的活動に当たるか否かの判断基準の一となるべき行為の目的は、当該行為者の主観的、内面的な感情の有無や濃淡によってのみ判断されるべきではなく、その行為の態様等との関連において客観的に判断されるべきものであり、とりわけ支出が宗教団体の世俗的な行為ではなくその宗教的な行為そのものに向けられているときは、世俗的目的もあるからといって、その行為の客観的目的の宗教的意義が直ちに否定されるものではない。
本件支出行為は、一面において遺族の援護という行政的な目的を有するとしても、その対象が靖國神社等の最も重要な祭祀であって本来の行政の範囲に属する世俗的行為ではないから、直接的に特定の宗教団体の宗教儀式そのものへの賛助を目的としているといわざるを得ず、その宗教的意義を否定することはできない。
二 本件行為の効果について
被上告人B1は、本件玉串料等の奉納は戦没者慰霊等のためにされた少額のもので社会的儀礼であり、宗教に対する関心を特に高めたり、その援助、助長をするようなものではないと主張している。
本件玉串料等の支出は相当年数にわたり継続して行われているとはいえ、一回の金員は五〇〇〇円ないし一万円程度のものであるから、経済的にみれば、宗教に対する援助、助長に当たるとは必ずしもいえないとの議論もあり得るかもしれない。しかしながら、政教分離原則の適用を検討するに当たっては、当該行為の外形的、経済的な側面のみにとらわれるべきでなく、社会的、歴史的条件に即してその実質をみる必要があり、社会に与える無形的なあるいは精神的な効果や影響をも考慮すべきである。そして、その観点よりすれば、以下に述べるとおり、その影響、効果は大きいといわざるを得ない。
1 多数意見の述べるとおり、我が国においては各種の宗教が多元的、重層的に発達、併存しているが、戦没者、戦争犠牲者の慰霊、追悼については各種の宗教団体がそれぞれの教義、教理、祭式に基づいてこれを執り行っているのであって、その中にあって地方公共団体が靖國神社等による戦没者慰霊の祭祀にのみ賛助することは、その祭祀を他に比して優越的に選択し、その宗教的価値を重視していると一般社会からみられることは否定し難く、特定の宗教団体に重要な象徴的利益を与えるものといわざるを得ない。およそ公的機関は、すべての、いかなる宗教をも援助、助長してはならないが、中でも併存する宗教団体のうちから特定の宗教団体を選択してその宗教儀式を賛助することは、政教分離の中心をなす国家の宗教的中立に反するものである。
2 地方公共団体による靖園神社等への玉串料等の公金の支出の世俗的影響も、無視することはできない。
宗教的祭祀に起源を有する儀式等が多くの歳月を経てその宗教的意義が希薄になり、社会的儀礼や風俗として残っていることもまれではない。このような場合に公的機関がこれを行ったり参加したりしても、特定の宗教団体を支持していると受け取られることはなく、また、社会関係の円滑な維持のため役立つことはあっても、社会に対立をもたらすことは考え難い。しかし、公的機関が靖國神社等の祭祀に公金を支出してこれを賛助することについては、靖國神社に崇敬の念を持つ人々や靖國神社を戦没者慰霊の中心的施設と考える人々は、これに満足と共感を覚えるかもしれないが神道と教義を異にする宗教団体に属する人々や、靖國神社が国家神道の中枢的存在であるとしてそれへの礼拝を強制されたことを記憶する人々、あるいは靖國神社に合祀されている者は主として軍人軍属及び準軍属であって一般市民の戦争犠牲者のほとんどが含まれていないことに違和感を抱く人々は、これに不満と反感を持つかもしれない。そのような対立は、宗教的分野ばかりではなく、社会的、政治的分野においても起こり得ることである。公的機関が宗教にかかわりを持つ行為をすることによって、広く社会にこのような効果を及ぼすことは、公的機関を宗教的対立に巻き込むことになり、同時に宗教を世俗的対立に巻き込むことにもなるのであって、社会的儀礼や風俗として容認し得る範囲を超え、公的機関と宗教団体のいずれにとっても害をもたらすおそれを有するといわざるを得ない。そのようなことを避けることこそ、厳格な政教分離原則の規範を憲法が採用した趣旨に合致するものである。
三 被上告人B1は、靖國神社は我が国における戦没者慰霊の中心的存在であるから、その祭祀に地方公共団体が玉串料を奉納することは社会的儀礼であると主張する。
しかしながら、玉串料の奉納に儀礼的な意味合いがあるとしても、また、我が国近代史の一時期に靖國神社が戦没者の中心的慰霊施設として扱われたことがあるとしても、それを理由に政教分離原則の例外扱いを認めるべきものではない。
憲法二〇条三項、八九条が厳格な政教分離原則を採用しているのは、多数意見引用の昭和五二年七月一三日大法廷判決及び多数意見が繰り返し判示しているように、明治維新以降の我が国の社会において国家と神道が結び付き、国家神道に対して事実上国教的な地位が与えられ、その信仰が要請され、一部の宗教団体に対し厳しい迫害が加えられた歴史的経緯に基づくものであるが、このような政教の融合が生じたのも、「神社は宗教にあらず」ということを理由に、神道的祭祀や儀礼を世俗的な次元で社会的規範として取り入れ、また、臣民の義務であるとして事実上強制したからである。憲法は、第二次大戦後このような歴史的経験にかんがみて、信教の自由を国民の基本的人権として、これに強い保障を与えるとともに、国家と宗教が融合することは信教の自由に対する侵害になる危険性が高いことを認識して、その制度的保障として政教分離原則を採用し、前記規定を設けたものである。この立法の経緯及び趣旨に照らせば、右各条項は公的機関に対し強い規範性を有するものと解すべきであるから、我が国社会の中に、靖國神社に崇敬の念を持つ人々がいることは事実であり、また、それは信教の自由の保障するところでもあるが、いやしくも公的機関が特定の宗教団体である靖國神社等に対し、公金を使用して玉串料等を奉納し特別の敬意を表することは、先に述べたとおり、その目的、効果を実質的にみれば、戦没者の慰霊、追悼について公的機関が特定の宗教団体との特別のかかわり合いを示すことは明らかであって、右憲法条項の規範性に照らし到底許されないことである。そして、このことは、単に靖國神社に対してのみ許されないことではなく、あらゆる宗教団体に対しても同様であることはもちろんである。
判示第一の二についての裁判官福田博の補足意見は、次のとおりである。
私は、多数意見に賛成するものであるが、この機会に、我が国における信教の自由について私が考えていることを若干補足して述べておきたい。
信教の自由は、各種の人権の中でも最も基本的な自由権の一つとして、近代民主主義国家にあってその擁護が重視されているものである。多数意見に述べられているとおり、憲法に定める政教分離規定も、そのような信教の自由を一層確実なものとするための制度的保障として設けられたものである。
我が国においては、神道は年中行事や冠婚葬祭などを通じて多くの国民の生活に密接に結び付いており、そのような行事や儀式への参加が自然なこととして受け入れられている部分があることは事実である。とはいえ、神道も宗教の一つであることは、信教の自由を保障する憲法二〇条が当然の前提としているところでもある。したがって、政教分離規定を適用して国(地方公共団体を含む。以下同じ。)の宗教へのかかわりをどこまで許すかを検討する際は、政教分離の原則が目指す国の非宗教性ないし宗教的中立性の理念は、神道を含むあらゆる宗教についてひとしく当てはまる理念であることを常に念頭に置くことが、不可欠であると考える。
また、政教分離規定は、信教の自由を保障するために設けられたものであり、その適用に当たっては、国のかかわりを認めることにつき基本的に慎重な態度で臨むことが重要であると考える。なぜならば、国のかかわりを認めても差し支えないとされたことが結果的には国の信教の自由への過剰な関与(ひいては干渉ないし強制)につながることとなった事例が、諸国の歴史の中に散見されるからである。そして、このような慎重な態度を維持することは、緊密化する国際間の交流を通じ国民が様々な宗教に接する機会が増えつつある今日、我が国が信教の自由を保障し、いかなる信仰についても寛容であることを確保していく上でも、重要ではないかと考えるのである。
判示第一の二についての裁判官園部逸夫の意見は、次のとおりである。
本件支出が違法な公金の支出に当たるということについては、私も多数意見と結論を同じくするものであるが、その理由(多数意見第一の二)については、見解を異にする。
我が国には、戦前から、戦没者追悼慰霊の中心的施設として、靖國神社及び護國神社が置かれているが、原審の判断及び被上告人らの主張はいずれも、これらの神社が通常の宗教施設と異なった意義を有することを強調している。しかしながら、靖國神社及び護國神社は、戦後の法制度の改革により、他の宗教団体と同等の地位にある宗教団体(宗教法人)となっており、その施設は、通常の宗教施設である。
私は、右のことを前提とした上で、本件におりる公金の支出は、公金の支出の憲法上の制限を定める憲法八九条の規定に違反するものであり、この一点において、違憲と判断すべきものと考える。
一般に、葬式・告別式等の際にお悔やみとして供される金員は、社会通念上、特定の故人の遺族を直接の対象とし社会的儀礼の範囲に属する支出とみられている。これと異なり、宗教団体の主催する恒例の宗教行事のために、当該行事の一環としてその儀式にのっとった形式で奉納される金員は、当該宗教団体を直接の対象とする支出とみるべきである。したがって、右のような金員を公金から支出した行為は、一面において、その支出の財務会計上の費目、意図された支出の目的、支出の形態、支出された金額等に照らし社会的儀礼の範囲に属するとみられるところがあったとしても、詰まるところ、当該宗教団体の使用(宗教上の使用)のため公金を支出したものと判断すべきであって、このような支出は、宗教上の団体の使用のため公金を支出することを禁じている憲法八九条の規定に違反するものといわなければならない。
これを本件についてみると、原審の適法に確定した事実関係によれば、被上告人B2らは、靖國神社又は護國神社が各神社の境内において挙行した恒例の祭祀である例大祭、みたま祭又は慰霊大祭に際して、玉串料、献灯料又は供物料を奉納するため、多数意見第一の一掲記の回数及び金額の金員を県の公金から支出したというのであるから、右の金員は、靖國神社又は護國神社の使用のため支出したものと認めるのを相当とする。したがって、右の支出は、憲法八九条の右規定に違反する違法な公金の支出というべきである。
ここで、二つのことを付言しておきたい。まず、従来の最高裁判所判例は、公金を宗教上の団体に対して支出することを制限している憲法八九条の規定の解釈についても、憲法二〇条三項の解釈に関するいわゆる目的効果基準が適用されるとしているが、私は、右基準の客観性、正確性及び実効性について、尾崎裁判官の意見と同様の疑問を抱いており、特に、本判決において、その感を深くしている。しかし、その点はきておき、本件において、憲法八九条の右規定の解釈について、右基準を適用する必要はないと考える。
次に、本件の争点である公金の支出の違憲性の判断について、当該支出が憲法八九条の右規定に違反することが明らかである以上、憲法二〇条三項に違反するかどうかを判断する必要はない。私は、およそ信教に関する問題についての公の機関の判断はできる限り謙抑であることが望ましいと考える。「為政者の全権限は、魂の救済には決して及ぶべきでなく、また及ぶことが出来ない。」(ジョン・ロック。種谷春洋『近代寛容思想と信教自由の成立』二三〇頁以下参照)

+意見
判示第一の二についての裁判官高橋久子の意見は、次のとおりである。
私は多数意見の結論には賛成するが、その結論に至る説示のうち第一の二には同調することができないので、その点に関する私の意見を明らかにしておきたい。
一 我が国憲法は、二〇条に、信教の自由は、何人に対してもこれを保障する、いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない(一項)、何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない(二項)、国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない(三項)と規定し、さらに、八九条に、公の財産は、宗教上の組織又は団体の使用、便益又は維持のため、支出してはならない旨定めている。これは、大日本帝国憲法における信教の自由を保障する規定が極めて不十分で、国家神道に対し事実上国教的な地位が与えられ、それに対する信仰が強制されるとともに、一部の宗教団体に対しては厳しい迫害が加えられるなど、明治維新以降国家と神道が密接に結び付き種々の弊害を生じたことにかんがみ、新たに信教の自由を無条性に保障することとし、その保障を確実ならしめるため政教分離規定を設けるに至ったのである。
憲法は、信教の自由が人間の精神的自由の中核をなす基本的人権であり、我が国においては前述のような歴史的事情があったことにかんがみ、信教の自由を無条件に保障するのみでなく、国家といかなる宗教との結び付きも排除するために、国家と宗教との完全な分離を理想として、国家の宗教的中立性を確保しようとしたものと解される。このことは、多数意見でも認めているところである。
しかしながら、多数意見は、「政教分離規定は、いわゆる制度的保障の規定であって、信教の自由そのものを直接保障するものではなく、国家と宗教との分離を制度として保障することにより、間接的に信教の自由の保障を確保しようとするものである。」とした上、「国家が社会生活に規制を加え、あるいは教育、福祉、文化などに関する助成、援助等の諸施策を実施するに当たって、宗教とのかかわり合いを生ずることを免れることはできないから、現実の国家制度として、国家と宗教との完全な分離を実現することは、実際上不可能に近いものといわなければならない。さらにまた、政教分離原則を完全に貫こうとすれば、かえって社会生活の各方面に不合理な事態を生ずることを免れない。」、「政教分離規定の保障の対象となる国家と宗教との分離にもおのずから一定の限界があることを免れず、政教分離原則が現実の国家制度として具現される場合には、それぞれの国の社会的・文化的諸条件に照らし、国家は実際上宗教とある程度のかかわり合いを持たざるを得ないことを前提とした上で、そのかかわり合いが、信教の自由の保障の確保という制度の根本目的との関係で、いかなる場合にいかなる限度で許されないこととなるかが問題とならざるを得ないのである。」、「(政教分離原則は)国家が宗教とのかかわり合いを持つことを全く許さないとするものではなく、宗教とのかかわり合いをもたらす行為の目的及び効果にかんがみ、そのかかわり合いが我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものと認められる場合にこれを許さないとするものであると解すべきである。」として、憲法のいう「国家と宗教との完全な分離」を「理想」として棚上げし、国家は実際上、宗教とある程度のかかわり合いを持たざるを得ないことを前提とした上で、宗教とのかかわり合いをもたらす行為の目的及び効果にかんがみ、そのかかわり合いが我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものと認められる場合にこれを許さないというのである。
この考え方によれば、憲法二〇条三項にいう宗教的活動とは、国及びその機関の活動で宗教とのかかわり合いを持つすべての行為を指すものではなく、「当該行為の目的が宗教的意義を持ち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為をいうもの」とされ、ある行為が宗教的活動に該当するか否かについては、「当該行為の外形的側面のみにとらわれることなく、当該行為の行われる場所、当該行為に対する一般人の宗教的評価、当該行為者が当該行為を行うについての意図、目的及び宗教的意識の有無、程度、当該行為の一般人に与える効果、影響等、諸般の事情を考慮し、社会通念に従って、客観的に判断しなければならない。」ということになる。
この考え方は、多数意見引用の昭和五二年七月一三日大法廷判決(以下「地鎮祭判決」という。)に示され、いわゆる目的・効果基準としてその後の宗教に関する裁判に大きな影響を与えたものであって、多数意見は、これに依拠して、本判決の枠組みとしているが、私は、この目的・効果基準についていくつかの疑問を持たざるを得ない。
二 第一に、多数意見は、憲法のいう「国家と宗教との完全な分離」は理想であって、これを実現することは「不可能に近く」、これを完全に貫こうとすれば、「各方面に不合理な事態を生ずる」というが、果たしてそうであろうか。地鎮祭判決の挙げている不合理な事態の例は、特定宗教と関係のある私立学校への助成、文化財である神社、寺院の建築物や仏像等の維持保存のための宗教団体に対する補助、刑務所等における教誨活動等であるが、これらについては、平等の原則からいって、当該団体を他団体と同様に取り扱うことが当然要請されるものであり、特定宗教と関係があることを理由に他団体に交付される助成金や補助金などが支給されないならば、むしろ、そのことが信教の自由に反する行為であるといわなければならない。このような例は、政教分離原則を国家と宗教との完全な分離と解することによって生ずる不合理な事態とはいえず、国家と宗教との完全な分離を貫くことの妨げとなるものとは考えられないのである。
私も、「完全分離」が不可能あるいは不適当である場合が全くないと考えているわけではない。クリスマスツリーや門松のように習俗的行事化していることがだれの目にも明らかなものもないわけではなく、他にも同様の取扱いをする理由を有するケースが全くないと断定することはできない。しかし、「いかなる宗教的活動もしてはならない。」とする憲法二〇条三項の規定は、宗教とかかわり合いを持つすべての行為を原則として禁じていると解すべきであり、それに対して、当該行為を別扱いにするには、その理由を示すことが必要であると考える。すなわち、原則はあくまでも「国家はいかなる宗教的活動もしてはならない」のである。ところが、多数意見は、「国家は実際上宗教とある程度のかかわり合いを持たざるを得ないことを前提とした上で」と、前提条件を逆転させている。
憲法二〇条三項の規定が、我が国の過去の苦い経験を踏まえて国家と宗教との完全分離を理想としたものであることを考えると、目的・効果基準によって宗教的活動に制限を付し、その範囲を狭く限定することは、憲法の意図するところではないと考えるのである。
三 第二は、多数意見が、「(国家と宗教との)かかわり合いが我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものと認められる場合にこれを許さない」、さらに、「諸般の事情を考慮し、社会通念に従って、客観的に判断しなければならない。」と、現実の姿を判断の尺度としていることである。前述のとおり、我が国において国家神道に国教的な地位が与えられ、その結果種々の弊害を生じたことは周知の事実であり、憲法は、その反省の上に立って信教の自由を無条件で保障し、それを確実ならしめるために国家と宗教との完全な分離を理想として二〇条の規定を設けたものと考えられるが、信教の自由は、心の深奥にかかわる問題であるだけに、いまだに国家神道の残滓が完全に払拭されたとはいい難い。また、我が国においては宗教は多元的・重層的に発展してきており、国民一般の宗教に対する関心は必ずしも高くはなく、異なった宗教に対して極めて寛容である。特定の宗教に帰依するからといって他宗教を排他的に取り扱うことはなく、このことは、戦前、国家神道が各家庭の中で宗教というよりも超宗教的存在として生活の規範をなし、多くの弊害をもたらす土壌となったと思われる。宗教的感覚において寛容であるということは、それ自体として悪いとはいえないであろうが、宗教が国民一般の精神のコントロールを容易になし得る危険性をはらんでいるともいえる。その意味からも政教分離原則は厳格に遵守されるべきであって、「社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度」、「社会通念に従って、客観的に判断」というように、現実是認の尺度で判断されるべき事柄ではないと思うのである。
四 第三は、いわゆる目的・効果基準は極めてあいまいな明確性を欠く基準であるということである。多数意見は、「(国家が)宗教とのかかわり合いをもたらす行為の目的及び効果にかんがみ、そのかかわり合いが我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものと認められる場合にこれを許さないとするものである」というが、「社会的・文化的諸条件」とは何か、「相当とされる限度」というのはどの程度を指すのか、明らかではない。ある行為が宗教的活動に該当するか否かを判断するに当たって考慮する事情として、「当該行為の目的が宗教的意義を持ち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為をいうものと解すべきである。」、そして、「ある行為が右にいう宗教的活動に該当するかどうかを検討するに当たっては、当該行為の外形的側面のみにとらわれることなく、当該行為の行われる場所、当該行為に対する一般人の宗教的評価、当該行為者が当該行為を行うについての意図、目的及び宗教的意識の有無、程度、当該行為の一般人に与える効果、影響等、諸般の事情を考慮し、社会通念に従って、客観的に判断しなければならない。」としているが、これらの事情について何をどのように評価するかは明らかではない。いわば目盛りのない物差しである。したがって、この基準によって判断された地鎮祭判決後の判決が、同じ事実を認定しながら結論を異にするものが少なくない。
殉職自衛隊員たる亡夫を山口県護國神社に合祀されたことに関し、キリスト教徒である妻からの国家賠償法に基づく損害賠償請求について、一、二審判決は、県隊友会の同神社に対する合祀申請に自衛隊職員が関与した行為が憲法二〇条三項にいき宗教的活動に当たるとしたが、多数意見引用の昭和六三年六月一日大法廷判決は、右行為は宗教的活動に当たらないとした。
箕面市が忠魂碑の存する公有地の代替地を買い受けて忠魂碑の移設・再建をした行為、地元の戦没者遺族会に対しその敷地として右代替地を無償貸与した行為等が右の宗教的活動に該当するかどうかが争われた裁判では、一審判決は、右行為が宗教的活動に当たると判断したが、二審判決は、これを否定し、最高裁平成五年二月一六日第三小法廷判決も、宗教的活動には当たらないとした。
本件についても、一審判決と原判決とでは、同じ目的・効果基準によって判断しながら結論は反対であるし、本判決においても、多数意見と反対意見とでは、同じ認定事実の下にいずれも地鎮祭判決の目的・効果基準に依拠するとしつつ全く反対の結論に到達しているのであって、これをみても、地鎮祭判決の示す基準が明確な指針たり得るかどうかに疑問を禁じ得ないのである。
以上のとおり、目的・効果基準は、基準としては極めてあいまいなものといわざるを得ず、このようなあいまいな基準で国家と宗教とのかかわり合いを判断し、憲法二〇条三項の宗教的活動を限定的に解することについては、国家と宗教との結び付きを許す範囲をいつの間にか拡大させ、ひいては信教の自由もおびやかされる可能性があるとの懸念を持たざるを得ない。
五 私は、憲法二〇条の規定する政教分離原則は、国家と宗教との完全な分離、すなわち、国家は宗教の介入を受けず、また、宗教に介入すべきではないという国家の非宗教性を意味するものと思うのである。信教の自由に関する保障が不十分であったことによって多くの弊害をもたらした我が国の過去を思うとき、政教分離原則は、厳格に解されるべきことはいうまでもない。
したがって、私は、完全な分離が不可能、不適当であることの理由が示されない限り、国が宗教とかかわり合いを持つことは許されないものと考える。県の公金から靖國神社の例大祭、みたま祭に玉串料、献灯料を、護國神社の慰霊大祭に供物料を奉納するため金員を支出した本件各行為は、いずれもそのような例外に当たるものとは到底いえないことが明らかであり、違憲というほかはない。

+意見
判示第一の二についての裁判官尾崎行信の意見は、次のとおりである。
私は、多数意見の結論には同調するが、多数意見のうち第一の二については賛成することができないので、その点についての私の意見を明らかにしておきたい。
一 政教分離規定の趣旨・目的と合憲性の判断基準
多数意見引用の昭和五二年七月一三日大法廷判決及び多数意見も説示しているとおり、憲法は、大日本帝国憲法下において信教の自由の保障が不十分であったため種々の弊害が生じたことにかんがみ、信教の自由を無条件に保障し、更にその保障を一層確実なものとするため、政教分離規定を設けたものであり、これを設けるに当たっては、国家(地方公共団体を含む。以下同じ。)と宗教との完全な分離を理想とし、国家の非宗教性ないし宗教的中立性を確保しようとしたものと解すべきである。右大法延判決は、右の説示に続けて、国家が諸施策を実施するに当たり宗教とのかかわり合いを生ずることは免れ難く、国家と宗教との完全分離を実現することは実際上不可能に近いし、これに固執すればかえって社会生活の各方面に不合理な事態を生ずることを免れないとし、完全分離の理想を貫徹し得ない例として、宗教関係の私立学校への助成等を挙げている。なるほど平等権や信教の自由を否定する結果を招くような完全分離は不合理極まりないとみることができるから、こうした憲法的価値を確保することができるよう考慮を払うことには理由があり、厳格な完全分離の例外を一定限度で許し、柔軟に対応する余地を残すことは、複雑多岐な社会事象を処理するための慎重な態度というべきであろう。この範囲において、私は、右大法廷判決の説くところに同意することができる。そして、私は、右の説示の趣旨に沿って政教分離規定を解釈すれば、国家と宗教との完全分離を原則とし、完全分離が不可能であり、かつ、分離に固執すると不合理な結果を招く場合に限って、例外的に国家と宗教とのかかわり合いが憲法上許容されるとすべきものと考えるのである。
このような考え方に立てば、憲法二〇条三項が「いかなる宗教的活動もしてはならない。」と規定しているのも、国が宗教とのかかわり合いを持つ行為は、原則として禁止されるとした上で、ただ実際上国家と宗教との分離が不可能で、分離に固執すると不合理な結果を生ずる場合に限って、例外的に許容されるとするものであると解するのが相当である。したがって、国は、その施策を実施するための行為が宗教とのかかわり合いを持つものであるときには、まず禁じられた活動に当たるとしてこれを避け、宗教性のない代替手段が存しないかどうかを検討すべきである。そして、当該施策を他の手段でも実施することができるならば、国は、宗教的活動に当たると疑われる行為をすべきではない。しかし、宗教とのかかわり合いを持たない方法では、当該施策を実施することができず、これを放棄すると、社会生活上不合理な結果を生ずるときは、更に進んで、当該施策の目的や施策に含まれる法的価値、利益はいかなるものか、この価値はその行為を行うことにより信教の自由に及ぼす影響と比べて優越するものか、その程度はどれほどかなどを考慮しなければならない。施策を実施しない場合に他の重要な価値、特に憲法的価値の侵害が生ずることも、著しい社会的不合理の一場合である。こうした検証を経た上、政教分離原則の除外例として特に許容するに値する高度な法的利益が明白に認められない限り、国は、疑義ある活動に関与すべきではない。このような解釈こそが、憲法が政教分離規定を設けた前述の経緯や趣旨に最もよく合致し、文言にも忠実なものである上、合憲性の判断基準としても明確で疑義の少ないものということができる。そして、右の検討の結果、明確に例外的事情があるものと判断されない限り、その行為は禁止されると解するのが、制度の趣旨に沿うものと考える。
二 多数意見に対する疑問
これに対し、多数意見の示す政教分離規定の解釈は、前述の制定経緯やその趣旨及び文言に忠実とはいえず、また、その判断基準は、極めて多様な諸要素の総合考慮という漠然としたもので、基準としての客観性、明確性に欠けており、相当ではないというほかはなく、私は、これに賛成することができない。その理由は、次のとおりである。
1 多数意見は、憲法が政教の完全分離を理想としているとしつつ、「分離にもおのずから一定の限界がある」という。この判示のみをみれば、宗教的活動のすべてが「許されない」のが原則であるが、分離不能など特別の事情のために「許される」例外的な場合が存するとの趣旨をうかがわせる。ところが、それに続いて、「信教の自由の保障の確保という制度の根本目的との関係で、いかなる場合にいかなる限度で許されないこととなるかが問題」となるといい、突如「許されない」活動を限定的に定義している。完全分離を理想と考え、国が宗教とかかわり合いを持つことは原則的に許されないという立場から出発するのであれば、何が「許されない」かを問題とするのではなく、何が例外的に「許される」のかをこそ論ずべきである。私は、このような多数意見の立場は、政教分離制度の趣旨、目的にかなわず、同制度が信教の自由を確保する手段として最大限機能するよう要請されていることを忘れたものであって、望ましくないと考える。
2 法解釈の原則は、法文を通常の意味・用法に従って解釈し、それで分明でないときは、立法者の意思を探求することである。「いかなる宗教的活動」をも禁止するとの文言を素直に読めば、宗教とかかわり合いを持つ行為はすべて禁止されていると解釈すべきことは、極めて分明で、「原則禁止、例外許容」の立場を採るのが当然である。にもかかわらず、何ら限定が付されていない文言を「いかなる場合にいかなる限度で許されないこととなるかが問題」として、性質上の制限があると読むことは、文意を離れるものであり、これを採ることができない。
憲法二〇条三項に影響を与えた米国憲法の類似規定(修正一条)に関し、いわゆる目的効果基準を採る判例が、この規定は一定の目的、効果を持つ行為を禁ずるものであると解釈していることにならって、我が国でも同様な限定を「宗教的活動」に加える考えが生まれたとみられる。しかし、これは、両国憲法の規定の相違を無視するものである。米国憲法は、「国教の樹立を定め、又は宗教の自由な行使を禁止する法律(省略)を制定してはならない。」と規定し、国教樹立や宗教の自由行使の禁止に当たる行為のみが許されないとしているため、右の禁止に当たる範囲を定義する必要が生じ、判例は、許されない行為を決定する立場から基準を定めたのである。これに対し、我が憲法は、端的にすべての宗教的活動を禁止の対象とするとしているのであるから、およそ宗教色を帯びる行為は一義的に禁止した上、特別の場合に許容されるとの基準を設けるのが自然なこととなる。両国の条文の差異をみれば、基準の立て方が異なってこそ、それぞれ素直に条文に適するといえよう。
3 また、多数意見は、憲法二〇条三項の解釈に当たって、用語の意味内容があいまいで、その適用範囲が明確でなく、将来の指標とするには不十分と認められる。
多数意見は、「宗教的活動」とは、「国及びその機関の活動」で宗教とのかかわり合いを持つ「すべての行為」を指すものではなく、「かかわり合いをもたらす行為」の目的効果にかんがみ、そのかかわり合いが諸条件に照らし「相当とされる限度を超えるもの」のみをいい、この相当限度を超えるのは「当該行為の目的が宗教的意義を持ち、その効果が宗教に対する援助…等になるような行為」であるという。この定義において、「当該行為」は、「国及びその機関」(以下「国」という。)の活動で宗教との「かかわり合いをもたらす行為」(以下「関与行為」という。)を意味している。
国と宗教とのかかわり合いをみる場合、右のように国の「かかわり合いをもたらす」国自体の関与行為とかかわり合いの対象となる宗教的とみられる行為(以下「対象行為」という。)が存在し、その両者の関係がいかなるものか検討されることとなる。なお、この両者は、国教樹立のように大きく重なることもあれば、津地鎮祭のように重なる部分が減少し、本件玉串料奉納のように重なりが更に小さくなることもあり得る。また、津地鎮祭の場合、市がその主催者となっているとはいえ、宗教行事そのものは、神職が主宰者となり独自の宗教儀式として実施されており、市はこの他者の宗教行事と参加・利用の関係に立ったのであって、ここでも関与行為と対象行為の区別は明らかである。
続いて多数意見は、「ある行為」が禁止される宗教的活動に該当するかどうかを検討するに当たっては、「当該行為」の外形的側面のみにとらわれることなく、「当該行為の行われる場所」その他の要素も考慮せよという。この場合、「ある行為」や「当該行為」は、先行定義によれば、国の活動を意味する。ところが、多数意見引用の昭和五二年七月一三日大法廷判決は、「当該行為」の外形的側面の例示として、主宰者が宗教家か、式次第が宗教の定める方式にのっとったものかなど、を挙げており、右大法廷判決が「当該行為」なる用語を国の関与行為とは別異の、宗教行事など国がかかわり合いを持とうとする対象行為を指すものとして使用していることを推知させる。しかし、この判示を定義どおり国の関与行為の外形と解する者もあろうし、特にこの例示を欠く多数意見は、その可能性を高めている。
さらに、後続部分における「当該行為」も、多義的で意味を特定し難い。多数意見が「当該行為の行われる場所」というとき、愛媛県による玉串料などの支出が問題になっているので、県のかかわり合いをもたらす出損行為の場所と考えることもできるが、直前の「当該行為」が祭式を指すのと同様、例大祭の場所とみる方が自然である。「当該行為に対する一般人の宗教的評価」も同様で、玉串料奉納行為など関与行為に対するものか、例大祭など対象行為に対するものか、両者を含めてか、人々を迷わせる。「当該行為者が当該行為を行うについての意図、目的及び宗教的意識」という場合、検討するのは関与行為(者)、対象行為(者)のいずれについてか、その双方か、やはり不分明である。津地鎮祭の場合、まず、一般人の意識においては、地鎮祭には宗教的意義を認めず、世俗的行為、慣習化した社会的儀礼として、世俗的な行事と評価しているとした上で、津市長らも同一の意識を持っていたと説示した点をみれば、対象行為を主眼としているとみられる一方、本件の原判決においては、県の行為は、戦没者の慰霊が目的であったこと、遺族援護行政の一環としてされたこと、金額が小さく儀礼的とみられることが論じられているところからすれば、県の関与行為を中心に「当該行為」や「当該行為者」が理解されていたとみられる。つまり、「当該行為」、「当該行為者」という同一用語を、前記大法廷判決は対象行為について、本件原判決は関与行為について、それぞれ使用しており、この用語が必ずしも一義的には解し得ないことを示している。「当該行為の一般人に与える効果、影響」というときも、国の行為のみについて論じているのか、例大祭なども考慮の対象としているのか明らかでなく、ことの性質上、後者が除かれているとは思えない。要するに、多数意見は、その意味内容を特定し難い部分があり、真意を把握するのが困難でその適用に際し、判断を誤らせる危険があり、合憲性を左右する基準として、このような不明確さは許されるべきでない。
4 そして、私の主張する前記一の立場によれば、国の行為のうち、一応宗教的と認められるものは、すべて回避され、特に例外とすべき事由が明確に示されて初めて許容されることとなるため、検討すべき行為の量も検討すべき事項も、選別され、限定される。要するに、基準の客観的定立と適用がより容易になるといい得る。
これに対し、多数意見の立場は、「宗教的活動」が本来的に限定された意味、内容を持つことを出発点とする。そこでは、すべての宗教的活動は、例示されたような多様な考慮要素に照らし総合評価して初めて、許されない宗教的活動の範囲に属することが決定される。検討対象の量も多く、検討事項も広範に及び、特に総合評価という漠然たる判断基準に頼らざるを得ず、客観性、明確性の点で大きな不安を感じさせる。判断基準という以上、単に考慮要素を列挙するだけでは足りず、各要素の評価の仕方や軽重についても何らかの基準を示さなければ、尺度として意味をなさない。事実、これまでの裁判例において、同一の目的効果基準にのっとって同一の行為を評価しながら、反対の結論に達している例があることは、右基準が明確性を欠き、その適用が困難なことを示すものというべきである。
私は、右基準に代え、前記一に述べたところに従って新たな基準を用いることにより、将来の混乱を防止すべきものと考える。
三 結論
1 そこで、本件を前記一において述べた基準に従って見てみると、まず、県が戦没者を慰霊するという意図を実現するために、靖國神社等の祭祀に当たって玉串料等を奉納する以外には、宗教とかかわり合いを持たないでこれを行う方法はなかったのかどうかを検討しなければならない。しかし、そのような主張、立証はないのみならず、反対に、多くの宗教色のない慰霊のみちがあることは、公知の事実である。したがって、本件の県の行為は、宗教との分離が実際上不可能な場合には当たらないというほかはない。また、当然のことながら、宗教とのかかわり合いを持たないでも県の右意図は実現することができる以上、本件の県の行為がなければ社会生活上不合理な結果を招来するということはできず、この面からも、政教分離原則に反しない例外的事情があるということはできない。実際に他の都道府県の知事らが本件のような玉串料等の奉納をしなくても、特段の不合理を生じているとは認められず、この種の社会的儀礼を尊重するあまり、憲法上の重要な価値をおろそかにするのは、ことの順逆を誤っている。したがって、本件の玉串料等の奉納は、憲法二〇条三項に違反するものであり、本件支出は違法というべきである。
2 これに対し、本件の玉串料等の奉納は、その金額も回数も少なく、特定宗教の援助等に当たるとして問題とするほどのものではないと主張されており、これに加えて、今日の社会情勢では、昭和初期と異なり、もはや国家神道の復活など期待する者もなく、その点に関する不安はき憂に等しいともいわれる。
しかし、我々が自らの歴史を振り返れば、そのように考えることの危険がいかに大きいかを示す実例を容易に見ることができる。人々は、大正末期、最も拡大された自由を享受する日々を過ごしていたが、その情勢は、わずか数年にして国家の意図するままに一変し、信教の自由はもちろん、思想の自由、言論、出版の自由もことごとく制限、禁圧されて、有名無実となったのみか、生命身体の自由をも奪われたのである。「今日の滴る細流がたちまち荒れ狂う激流となる」との警句を身をもって体験したのは、最近のことである。情勢の急変には一〇年を要しなかったことを想起すれば、今日この種の問題を些細なこととして放置すべきでなく、回数や金額の多少を問わず、常に発生の初期においてこれを制止し、事態の拡大を防止すべきものと信ずる。
右に類する主張として、我が国における宗教の雑居性、重層性を挙げ、国民は他者の宗教的感情に寛大であるから、本件程度の問題は寛容に受け入れられており、違憲などといってとがめ立てする必要がないとするものもある。しかし、宗教の雑居性などのために、国民は、宗教につき寛容であるだけでなく、無関心であることが多く、他者が宗教的に違和感を持つことに理解を示さず、その宗教的感情を傷付け、軽視する弊害もある。信教の自由は、本来、少数者のそれを保障するところに意義があるのであるから、多数者が無関心であることを理由に、反発を感ずる少数者を無視して、特定宗教への傾斜を示す行為を放置することを許すべきでない。さらに、初期においては些少で問題にしなくてよいと思われる事態が、既成事実となり、積み上げられ、取り返し不能な状態に達する危険があることは、歴史の教訓でもある。この面からも、現象の大小を問わず、ことの本質に関しては原則を固守することをおろそかにすべきではない。
私は、こうした点を考慮しつつ、憲法がその条文に明示した制度を求めるに至った歴史的背景を想起し、これを当然のこととして、異論なく受容した制定者始め国民の意識に思いを致せば、国は、憲法の定める制度の趣旨、目的を最大限実現するよう行動すべきであって、憲法の解釈も、これを要請し、勧奨するよう、なさるべきものと信じ、本意見を述べるものである。

+反対意見
判示第一についての裁判官三好達の反対意見は、次のとおりである。
私は、本件支出は、憲法二〇条三項の禁止する宗教的活動に該当せず、また、同八九条の禁止する公金の支出にも該当しないし、宗教団体が国から特権を受けることを禁止した同二〇条一項後段にも違反しないと考える。したがって、上告人らの本訴請求は棄却されるべきものであり、これを棄却した原判決は、その結論において維持せらるべく、本件上告は、理由がないものとして、これを棄却すべきものであると考える。以下、その理由を述べる。
一 憲法における政教分離原則と憲法の禁止する宗教的活動及び公金の支出
この点についての私の考えは、多数意見も引用するところの最高裁昭和四六年(行ツ)第六九号同五二年七月一三日大法廷判決・民集三一巻四号五三三頁及び最高裁昭和五七年(オ)第九〇二号同六三年六月一日大法廷判決・民集四二巻五号二七七頁の判示するところと同一であるが、以下、その主要な点を申し述べる。
現実の国家制度として、国家と宗教との完全な分離を実現することは、実際上不可能に近く、政教分離原則を完全に貫こうとすれば、かえって社会生活の各方面に不合理な事態を生ずることを免れない。これらの点にかんがみると、政教分離規定の保障の対象となる国家と宗教との分離にもおのずから一定の限界があることを免れず、政教分離原則が現実の国家制度として具現される場合には、それぞれの国の社会的・文化的諸条件に照らし、国家は実際上宗教とある程度のかかわり合いを持たざるを得ないことを前提とした上で、そのかかわり合いが、信教の自由の保障の確保という制度の根本目的との関係で、いかなる場合にいかなる限度で許されないこととなるかが、問題とならざるを得ないのである。右のような見地から考えると、憲法の前記政教分離規定の基礎となり、その解釈の指導原理となる政教分離原則は、国家が宗教的に中立であることを要求するものではあるが、国家が宗教とのかかわり合いを持つことを全く許さないとするものではなく、宗教とのかかわり合いをもたらす行為の目的及び効果にかんがみ、そのかかわり合いが我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものと認められる場合にこれを許さないとするものであると解すべきである。
右の政教分離原則の意義に照らすと、憲法二〇条三項にいう宗教的活動とは、およそ国及びその機関の活動で宗教とかかわり合いを持つすべての行為を指すものではなく、そのかかわり合いが我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものに限られるというべきであって、当該行為の目的が宗教的意義を持ち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為をいうものと解すべきであり、ある行為が右にいう宗教的活動に該当するか否かを検討するに当たっては、当該行為の外形的側面のみにとらわれることなく、当該行為に対する一般人の宗教的評価、当該行為者が当該行為を行うについての意図、目的及び宗教的意義の有無、程度、当該行為の一般人に与える効果、影響等、諸般の事情を考慮し、社会通念に従って、客観的に判断しなければならない。
そして、本件支出が、宗教上の組織又は団体に対する公金の支出として、憲法八九条によって禁止されるものに当たるか否かの判断も、右の基準によってされるべきものであり、本件支出を評価するに当たっては、我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものと認められるか否かを検討すべきであり、また、その検討に当たっては、当該行為の外形的側面のみにとらわれることがあってはならないのである。
二 靖國神社及び各県などの護國神社(私の反対意見において、護國神社とは、宗教法人愛媛県護國神社のみを指すのではなく、各県などに存在する護國神社一般を指称する。)をめぐる国民の意識等
1 祖国や父母、妻子、同胞等を守るために一命を捧げた戦没者を追悼し、慰霊することは、遺族や戦友に限らず、国民一般としての当然の行為ということができる。このような追悼、慰霊は、祖国や世界の平和を祈念し、また、配偶者や肉親を失った遺族を慰めることでもあり、宗教、宗派あるいは民族、国家を超えた人間自然の普遍的な情感であるからである。そして、国や地方公共団体、あるいはそれを代表する立場に立つ者としても、このような追悼、慰霊を行うことは、国民多数の感情にも合致し、遺族の心情にも沿うものであるのみならず、国家に殉じた戦没者を手厚く、末長く追悼、慰霊することは、国や地方公共団体、あるいはそれを代表する立場にある者としての当然の礼儀であり、道義の上からは義務ともいうべきものである。諸外国の実情をみても、各国の法令上の差異や、国家と宗教とのかかわり方の相違などにかかわらず、国が自ら追悼、慰霊のための行事を行い、あるいは、国を代表する者その他公的立場に立つ者が民間団体の行うこれらの行事に公的資格において参列するなど、戦没者の追悼、慰霊を公的に行う多数の例が存在する。我が国においても、この間の事情は、これら諸外国と同様に考えることができる。そして、前述のように戦没者に対する追悼、慰霊は人間自然の普遍的な情感であることからすれば、追悼、慰霊を行うべきことは、戦没者が国に殉じた当時における国としての政策が、長い歴史からみて、正であったか邪であったか、当を得ていたか否かとはかかわりのないことというべきである。
以上のような私の考えは、さきに内閣総理大臣その他の国務大臣の靖國神社参拝の在り方をめぐる問題について検討を遂げた「閣僚の靖國神社参拝問題に関する懇談会」の昭和六〇年八月九日の報告書(以下、「靖國懇報告書」という。)において述べられているところと概ね趣旨を同じくするものである。
そして、一般的にいえば、慰霊の対象である御霊というものは、宗教的意識と全く切り離された存在としては考え難いのであって、ただ留意すべきことは、追悼、慰霊に当たり、特定の宗教とのかかわり合いが相当とされる限度を超えることによって、憲法二〇条三項等に違反してはならないということである。
2 靖國神社は、主として我が国に殉じた戦没者二四六万余を祀る神社であり、各県などにある護國神社は、主として右戦没者のうちその県などに縁故のある人々を祀る神社であって、いずれも宗教的施設にほかならない。そして、折りにふれ靖國神社や護國神社にいわゆるお参りをする遺族や戦友を始め国民の中には、祭神を信仰の対象としてお参りするという者もあるであろうが、より一般的には、そのような宗教的行為をしているという意識よりは、国に殉じた父、息子、兄弟、友人、知人、さらにはもっと広く国に殉じた同胞を偲び、追悼し、慰霊するという意識が強く、これをもっと素朴にいえば、戦没者を慰めるために、会いに行くという気持が強いといえる。
そうであってみれば、靖國神社や護國神社は、正に神道の宗教的施設であり、右各神社の側としては、お参りする者はすべて祭神を信仰の対象とする宗教的意識に基づき宗教的行為をしている者と受け取っているであろうことはいうまでもないところであるが、右に述べたような多くの国民の意識からすれば、右各神社は、戦没者を偲び、追悼し、慰霊する特別の施設、追悼、慰霊の中心的施設となっているといえるのであって、国民の多くからは、特定の宗教にかかる施設というよりも、特定の宗教を超えての、国に殉じた人々の御霊を象徴する施設として、あたかも御霊を象徴する標柱、碑、名牌などのように受け取られているといってよいものと思われる。
靖國懇報告書も、国民や遺族の多くは、戦後から今日に至るまで、靖國神社を、その沿革や規模からみて、依然として我が国における戦没者追悼の中心的施設であるとしている旨を指摘しているところである。
これに加えて、現実の問題として、戦没者を追悼、慰霊しようとする場合、我が国に殉じた戦没者すべての御霊を象徴するものは、靖國神社以外に存在しないし、右戦没者のうちその県などに縁故のある人々すべての御霊を象徴するものは、その県などの護國神社をおいてほかに存在しないといってよい。千鳥ヶ淵戦没者墓苑もあり、右墓苑における追悼、慰霊も怠ってはならないが、何といっても、右墓苑は、先の大戦での戦没者の遺骨のうち、氏名が判明せず、また、その遺族が不明なことから、遺族に渡すことのできない遺骨を奉安した墓苑であって、日清戦争や日露戦争での戦没者を始めとし、我が国のために殉じたすべての戦没者の御霊にかかる施設ではない。また、識者の中には、追悼、慰霊のための宗教、宗派にかかわりのない公的施設を新たに設置することを提案する意見もあり、考慮に値する意見ではあるが、国民感情や遺族の心境は、必ずしも合理的に割り切れるものではなく、このような施設が設置されたからといって、これまで靖國神社や護國神社を追悼、慰霊の中心的施設としてきている国民感情や遺族の心境に直ちに大きな変化をもたらすものとは考え難い。
3 国民の中に、靖國神社や護國神社において、国や地方公共団体などを代表する立場にある者によって戦没者の追悼、慰霊の途が講ぜられることを望む声が多く、また、いわゆる公式参拝決議をした県議会や市町村議会も多いが、それらは、このように多くの国民の意識として右各神社が戦没者の追悼、慰霊の中心的施設として意識されていることによるものである。これらのことなどから、まだ占領下であった昭和二六年一〇月一八日、戦後はじめての靖國神社の秋季例大祭に内閣総理大臣、その他の国務大臣らによる参拝が行われて以来、靖國神社の春季、秋季の例大祭や終戦記念日に同神社に参拝した内閣総理大臣その他の国務大臣は多く(一定の時期までは、内閣総理大臣のうち参拝しなかった者は、むしろ例外である。)、それらのうちには、いわゆる公式参拝であることを言明した者がかなりの数に上っているし、参拝した内閣総理大臣の中には、クリスチャンである者も含まれているとされている。靖國懇報告書も、「政府は、この際、大方の国民感情や遺族の心情をくみ、政教分離原則に関する憲法の規定の趣旨に反することなく、また、国民の多数により支持され、受け入れられる何らかの形で、内閣総理大臣その他の国務大臣の靖國神社への公式参拝を実施する方途を検討すべきである」と提言しているところである。
4 本件支出を評価するに当たっての社会的・文化的諸条件として、以上述べたような靖國神社や護国神社に対する多くの国民の意識等を十分に考慮しなければならない。
三 本件支出にかかる事実関係とその検討
1 靖國神社に対する供与
靖國神社に対する供与は、昭和五六年から同六一年までの間、春秋の例大祭に際し、玉串料名下に一回五〇〇〇円ずつ九回、七月のみたま祭に際し、献灯料名下に一回七〇〇〇円ないし八〇〇〇円ずつ四回供与したもので、その供与は合計七万六〇〇〇円である。
右各供与は、恒例の宗教上の祭祀である春秋の例大祭及びみたま祭に際してされたものであり、しかも昭和三三年ころから毎年継続して行われてきたというのであるが、次の諸点が留意されなければならない。
(一) 金員の供与が靖國神社の恒例の祭祀に際してされたことが問題とされている。しかしながら、現在の靖國神社の春秋の例大祭の日は、戦後の政教分離政策の実施とともに、それぞれ春分の日及び秋分の日を基に新旧暦で換算して定めたものであり、春分の日及び秋分の日は、国民生活において、彼岸の中日として、祖先など死没者の墓参りが行われる日である。また、みたま祭は、古来我が国で祖先などの霊を祀り、慰め、供養する日とされてきたお盆(もともと民間習俗であって、仏教に由来するものではないとされている。)の日にちなんで、戦後設定したものであり、お盆に帰ってくる祖先などの霊を迎えるため提灯を掲げる習俗に合わせ、靖國神社の境内にも、献灯料によって二万を超える提灯が掲げられるのである。すなわち、いずれも特に祭神に直接かかわりのある日を卜して定められたものではなく、我が国において多数を占める国民が日常生活の上で祖先などの追悼、慰霊の日としてきた日にちなんで定められた日であって、特定の宗教への信仰を離れても、戦没者の追悼、慰霊をするにふさわしい日といえる。
春秋の例大祭及びみたま祭は、靖國神社の立場からすれば、いわゆる恒例祭として、重要な宗教的意義を持ち、外形的にも主要な宗教的儀式にほかならないけれども、二に述べたように、多くの国民は、靖國神社を戦没者の追悼、慰霊の中心的施設と意識しているのであって、祖先などの追悼、慰霊の日にちなんだ日に行われる例大祭やみたま祭については、多くの国民や遺族は、戦没者を偲び、追悼し、慰霊する行事との意識が強く、祭神を信仰の対象としての宗教的儀式という意識は、必ずしも一般的ではないといえる。憲法二〇条三項の禁止する宗教的活動及び同八九条の禁止する公金の支出に当たるかどうかの判断は、多くの国民の側の意識を考慮してされるべきであって、靖國神社の立場に立ってされるべきではない。このことは宗教的儀式の二面性ともいうべきものであって、世俗的行事とされている地鎮祭のような宗教的儀式についてもいえる。すなわち、地鎮祭も、これを主宰している神職の立場からすれば、降神の儀により大地主神及び産土神をその場所に招いて行う厳粛な神儀であり、外形的にも宗教的儀式にほかならないが、ただ建築主その他の参列者を含む国民一般は、世俗的行事と意識しているということなのである。
(二) 右各金員の供与は、いずれも靖國神社からの案内に基づき、あらかじめ愛媛県知事である被上告人B1から委任を受けていた愛媛県東京事務所長である被上告人B2が通常の封筒に金員を入れて同神社の社務所に持参し、玉串料又は献灯料として持参した旨を口頭で告げて、同神社に交付したというのである。この供与の機会あるいは例大祭やみたま祭の機会に、県知事自らが参拝した事実はないのみならず、東京事務所長その他の県職員が代理して参拝した事実もなく、通常の封筒に入れて玉串料又は献灯料と記載することもなく交付しているのであって、供与の態様は極めて事務的といえる。
例大祭に際しては、交付に当たり「玉串料」と告げているが、玉串料とは、神式による儀式に関連して金員を供与するに当たっての一つの名目でもあり、葬儀が神式で行われる場合、香典の表書を「御玉串料」とする例も多いことは、周知のところであるし、例大祭において、県関係者による現実の玉串奉奠がされたこともない。それ故、玉串料という名目に、必ずしも供与する側の宗教的意図、目的を見い出すことはできず、また、必ずしも国民一般がこれを宗教的意義ある供与として意識するともいえないと思われる。ちなみに、前出最高裁昭和五二年七月一三日大法廷判決が世俗的行事であって憲法二〇条三項にいう宗教的活動に当たらないと判示した津市体育館の地鎮祭においては、神事として、津市長、同市議会議長らによって、現実に玉串奉奠が行われているし、最高裁昭和六二年(行ツ)第一四八号平成五年二月一六日第三小法廷判決・民集四七巻三号一六八七頁がそれへの参列は宗教的活動に当たらないとした忠魂碑前での神式による慰霊祭の神事においても、市長ら参列者により現実の玉串奉奠が行われているのである。
みたま祭に際しては、交付に当たり「献灯料」と告げているが、境内に提灯が掲げられるのは、お盆に祖先を迎えるため提灯を掲げる我が国の習俗に由来すること、多くの国民は靖國神社を戦没者の追悼、慰霊の中心的施設と意識しているしと前述のとおりであることからすれば、多くの国民は、みたま祭の献灯を靖國神社の祭神にかかる宗教的儀式と結び付ける意識は薄く、戦没者の追悼、慰霊のためとの意識が強いということができる。そのための献灯料の供与に、必ずしも供与する側の宗教的意図、目的を見い出すことはできず、また、必ずしも国民一般がこれを宗教的意義ある供与として意識するともいえないと思われる。
(三) 供与にかかる金員の額は、一般に冠婚葬祭などに際し、都道府県ないしその知事の名義で社会的儀礼として供与する金員として最低限度の額といえるものであることは明らかであるし、愛媛県の規模、予算その他からしても、逆に靖國神社のそれらからしても、極めて微少であって、金額からみれば、宗教とのかかわり合いは最低限度のものといってよい。金員供与が毎年の例大祭ないしみたま祭に際し継続的にされていることから、単に社会的儀礼の範囲にとどまるものとは評価し難いとする向きもあるが、右のように、例大祭やみたま祭に際しての金員の供与が、追悼、慰霊としての社会的儀礼の範囲内といえる程度のものであるならば、それが春秋ないし毎年の追悼、慰霊の機会に継続的にされたことは、あたかも死没者に対する毎年の命日ごとの追悼、慰霊のように、手厚い儀礼上の配慮がされたというべきものであって、継続的にされたことから、社会的儀礼の範囲を超えるものと評価することは当たらない。
ちなみに、靖國懇報告書をふまえて、昭和六〇年の終戦記念日に内閣総理大臣が靖國神社の本殿に昇殿して、公式に参拝をしたが、その際、「内閣総理大臣何某」の名入りの花一対を本殿に供えた。その代金として公金から支出され靖國神社に交付された金員の額は、三万円であり、一国を代表する者としての戦没者の追悼、慰霊のための支出として、当然社会的儀礼の範囲内といえる額であるが、これとの対比においても、右各供与が社会的儀礼の範囲を超えるものでないことは明らかである。
なお、判例をみると、地方公共団体が行う接待等については、一回の機会にかなりの金額を支出している場合にも、社会通念上儀礼の範囲を逸脱したものとまでは断じ難いとしており、奈良県の某町が、地元出身の大臣の祝賀式典の挙行等のために、三二六万余円の公金(同町の当時の歳出予算額の〇・一六パーセントを占める金額)を支出した事案で、「社交儀礼の範囲を逸脱しているとまでは断定することができず」と判示した(最高裁昭和六一年(行ツ)第一二一号平成元年七月四日第三小法廷判決・判例時報一三五六号七八頁)のは、その例である。戦没者の追悼、慰霊のための宗教とのかかわり合いが相当とされる限度を超えるかどうかが問題とされる場合のみ、微少な金額の支出についても、厳しく糾弾するのは、バランスを欠くとの感を否めない。
2 宗教法人愛媛県護國神社(以下、私の反対意見において、「愛媛県護國神社」という。)に対する供与愛媛県護國神社に対する供与は、昭和五六年から同六一年までの間、春秋の慰霊大祭に際し、供物料名下に一回一万円ずつ九回供与したもので、その供与は合計九万円である。
右各供与は、恒例の宗教上の祭祀である春秋の慰霊大祭に際してされたものであり、しかも、昭和三三年ころから毎年継続して行われてきたというのであるが、次の諸点が留意されなければならない。
(一) 金員の供与は春秋の慰霊大祭の際にされており、愛媛県護國神社の恒例の大祭に際して供与されたことが問題とされる。しかしながら、春秋の大祭は、愛媛県護國神社の立場からすれば、重要な宗教的意義を持ち、外形的にも主要な宗教的儀式にほかならないけれども、二に述べたように、多くの国民は、護國神社を戦没者の追悼、慰霊の中心的施設と意識しているのであって、慰霊大祭の名の下に行われるこの行事については、(二)に後述するようにこの行事に深く関与している財団法人愛媛県遺族会(以下、私の反対意見において、「愛媛県遺族会」という。)を始めとし、多くの国民や遺族は、慰霊大祭の名に示されるとおり、正に戦没者を偲び、追悼し、慰霊する行事との意識が強く、祭神を信仰の対象としての宗教的儀式という意識は、必ずしも一般的ではないといえる。このことは、靖國神社の例大祭及びみたま祭について述べたと同じく、宗教的儀式の二面性として把握されるべきものであって、憲法二〇条三項の禁止する宗教的活動及び同八九条の禁止する公金の支出に当たるかどうかの判断は、多くの国民の側の意識を考慮してされるべきものであって、愛媛県護國神社の立場に立ってされるべきではない。
(二) 右各金員の供与は、以下のようにしてされた。すなわち、まず愛媛県遺族会ないし同会長の名義による愛媛県知事あての慰霊大祭の案内状が届き、愛媛県では、慰霊大祭の供物料として一万円を支出する手続をとり、「供物料、愛媛県」と表書したのし袋に入れ、通常は老人福祉課遺族援護係長が愛媛県遺族会の事務所に持参し、これを受領した同会は、慰霊大祭の日に、右一万円を「供物料、財団法人愛媛県遺族会会長B1」と表書したのし袋に入れ替えて、愛媛県護國神社に交付した、というのである。
このように、愛媛県からの金員供与は、直接的には、愛媛県遺族会に対してされ、同会において、同会会長名を表書した別ののし袋に入れ替えて、愛媛県護國神社に交付しているのであるから、愛媛県から愛媛県護國神社に対する金員の供与というべきであるかは著しく疑問で、むしろ、供物料を奉納するのは愛媛県遺族会であって、愛媛県は、遺族援護業務として、愛媛県遺族会に対し供物料を供与したものといえるのである。愛媛県遺族会が宗教上の組織又は団体に当たらないことはいうまでもない。仮に愛媛県から愛媛県護國神社への供与とみることができるとしても、その供与は間接的というほかはない。
表書は「供物料」となっているが、供物料とは、神式に限らず、神式又は仏式による儀式に関連して金員を供与するに当たっての一の名目でもあり、葬儀が神式で行われる場合、香典の表書を「神饌料」(「神饌」とは、神に供する酒食の意である。)とする例もあることは、周知のところである。それ故、供物料という名目に、必ずしも供与する側の宗教的意図、目的を見い出すことはできず、また、必ずしも国民一般がこれを宗教的意義ある供与として意識するともいえないと思われる。
(三) 供与にかかる金員の額は、一般に冠婚葬祭などに際し、都道府県ないしその知事の名義で社会的儀礼として供与する金員として最低限度の額といえるものであることは明らかであり、愛媛県の規模、予算その他からしても、極めて微少であって、金額からみれば、宗教とのかかわり合いは最低限度のものといってよいことなどは、靖國神社に対する供与について述べたのと同様である。金員の供与が毎年春秋の慰霊大祭に際し継続的にされていることから、単に社会的儀礼の範囲にとどまるものとは評価し難いとする向きもあるが、靖國神社に対する供与について述べたのと同様に、金員の供与が追悼、慰霊としての社会的儀礼の範囲内といえる程度のものであるならば、それが継続されたことは、手厚い儀礼上の配慮がされたと評価すべきものであって、継続的にされたことから、社会的儀礼の範囲を超えるものと評価することはできない。
四 本件支出の評価
戦没者に対する追悼、慰霊は、国民一般として、当然の行為であり、また、国や地方公共団体、あるいはそれを代表する立場にある者としても、当然の礼儀であり、道義上からは義務ともいえるものであること、また、靖國神社や護國神社は、多くの国民から、日清戦争、日露戦争以来の我が国の戦没者の追悼、慰霊の中心的施設であり、戦没者の御霊のすべてを象徴する施設として意識されており、現実の問題として、そのような施設は、靖國神社や護國神社をおいてはほかに存在しないことは、二に述べたとおりである。また、本件支出にかかる靖國神社及び愛媛県護國神社への供与は、右各神社の側からすれば、重要な宗教的意義を持ち外形的にも主要な宗教的儀式である恒例祭に際してされたものであるけれども、多くの国民や遺族にとっては、戦没者を偲び、追悼し、慰霊する行事に際してのことであること、靖國神社への供与は、その交付の態様は極めて事務的であること、愛媛県護國神社への供与とされている供与は、遺族援護業務としての愛媛県遺族会への供与ということができ、愛媛県護國神社への供与と断ずべきものか著しく疑問であるのみならず、仮にそのような供与とみることができるとしても、その供与は間接的であること、玉串料又は献灯料と告げ、あるいは供物料と表書したことに、必ずしも供与する側の宗教的意図、目的を見い出すことはできず、また、必ずしも国民一般がこれを宗教的意義ある供与として意識するともいえないと思われること、供与の額は、一般に冠婚葬祭などに際し、都道府県やその知事の名義で社会的儀礼として供与される金員として最低限度の額といえるものであり、金額からみれば、宗教とのかかわり合いは最低限度のものといってよいこと、供与が毎年継続的にされたことから、社会的儀礼の範囲を超えるものと評価することはできないことなどは、三に述べたとおりである。
以上に加えて、我が国においては、家に神棚と仏壇が併存し、その双方にお参りをし、さらに、家の中にはそれ以外の神仏の守り札も掲げられているといった家庭が多く、場合によっては、その子女はミッション系の学園で学んでいるといったこともみられる。また、前出最高裁平成五年二月一六日第三小法廷判決の事案にみられるように、同一の遺族会主催の下に毎年一回行われる同一の忠魂碑の前での慰霊祭が、神式、仏式隔年交替で行われている事例もある。すなわち、我が国においては、多くの国民の宗教意識にも、その日常生活にも、異なる宗教が併存し、その併存は、調和し、違和感のないものとして、肯定されているのであって、我が国の社会においては、一般に、特定の宗教に対するこだわりの意識は希薄であり、他に対してむしろ寛容であるといってよい。このような社会の在り方は、別段批判せらるべきものではなく、一つの評価してよい在り方であり、少なくとも「宗教的意識の雑居性」というような「さげすみ」ともとれる言葉で呼ばれるべきものではない。このような社会的事情も考慮に入れるれなければならず、特定の宗教のみに深い信仰を持つ人々にも、本件のような問題につきある程度の寛容さが求められるところである。
これら諸般の事情を総合すれば、本件支出は、いずれも遺族援護業務の一環としてされたものであって、支出の意図、目的は、戦没者を追悼し、慰霊し、遺族を慰めることにあったとみるべきであり、多くの国民もそのようなものとして受け止めているということができ、国民一般に与える効果、影響等としても、戦没者を追悼、慰霊し、我が国や世界の平和を折求し、遺族を慰める気持を援助、助長、促進するという積極に評価されるべき効果、影響等はあるけれども、特定の宗教を援助、助長、促進し、又は他の宗教に対する圧迫、干渉等となる効果、影響等があるとは到底いうことができず、これによってもたらされる愛媛県と靖國神社又は愛媛県護國神社とのかかわり合いは、我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超えるとはいえない。本件支出は、憲法二〇条三項の禁止する宗教的活動に該当せず、同八九条の禁止する公金の支出にも該当せず、また、同二〇条一項後段にも違反しないというべきである。
五 付言
1 本件支出をもって違憲ということができないことは、以上に詳述したとおりであるが、心の問題としては、わだかまるものがないではない。二に述べたとおり、公人が公人の立場で、過度に特定の宗教とかかわることのない限度で、戦没者の追悼、慰霊に尽くすことは、当然の礼儀であり、道義上は義務ともいえるのであるが、追悼、慰霊が特定の宗教とかかわりを持って行われる場合の支出は、そのかかわり合いが相当とされる限度を超えないものに限られるのであるから、当然本件支出の金額程度にとどまる。そうだとすれば、心の問題としては、その程度の金員は、これを自己において支弁することに、より共感を覚える。けだし、自己において支弁する方がより心のこもった供与となり、追悼、慰霊の趣旨に一層かなうからである。しかし、このことは、本件支出が違憲かどうかにはかかわりがない。本件では、心の問題としての本件支出の相当性が問われているのではない。上述のような判断となった次第である。
2 靖國神社や護國神社と国や地方公共団体とのかかわりに関して、世上、国家神道及び軍国主義の復活を懸念する声がある。戦前の一時期及び戦時中において、事実上神社に対する礼拝が強制されたことがあり、右危惧を抱く気持は理解し得ないではない。しかしながら、昭和二〇年一二月一五日の連合国最高司令官からのいわゆる神道指令により、神社神道は一宗教として他のすべての宗教と全く同一の法的基礎に立つものとされると同時に、神道を含む一切の宗教を国家から分離するための具体的措置が明示され、さらに、昭和二二年五月三日には政教分離規定を設けた憲法が施行された。戦後現在に至る靖國神社や護園神社は、他の宗教法人と同じ地位にある宗教法人であって、戦前とはその性格を異にしている。また、政教分離規定を設けた憲法の下では、国家神道の復活はあり得ないし、平和主義をその基本原理の一つとする憲法は、軍国主義の十分な歯止めとなっている。靖國神社の社憲二条にも、神社の目的として、「…万世にゆるぎなき太平の基を開き、以て安国の実現に寄与するを以て根幹の目的とする。」と定められているところである。靖國神社や護國神社と国や地方公共団体との本件程度のかかわり合いにつき、そのような危惧を抱くのは、短絡的との感を免れず、日本国民の良識を疑っているものといわざるを得ない。戦後長い間に培われた日本国民の良識をもっと信頼すべきであろう。
3 世上、靖國神社に一四人のA級戦犯も合祀されているしとを指摘する向きもある。今ここに東京裁判について論述することは、本件訴訟の争点と関係がないので、差し控えるが、A級戦犯が合祀されていることは、二四六万余にのぼる多くの戦没者につき、追悼、慰霊がされるべきであることとかかわりのないことであるし、まして本件支出が特定の宗教との相当とされる限度を超えるかかわり合いに当たるかどうかとは無関係の事柄である。靖國懇報告書にも、「合祀者の決定は、現在、靖國神社の自由になし得るところであり、また、合祀者の決定に仮に問題があるとしても、国家、社会、国民のために尊い生命を捧げた多くの人々をおろそかにして良いことにはならないであろう。」と指摘されているので、これを引用する。
4 なお、本件のような問題は、本質的には、国内問題であることはいうまでもないが、右2及び3については、常に関係諸外国の理解を得るための努力も続けられなければならないところである。

+反対意見
判示第一についての裁判官可部恒雄の反対意見は、次のとおりである。
一 本件第一審判決(松山地裁平成元年三月一七日判決)は、いわゆる津地鎮祭大法廷判決(最高裁昭和五二年七月一三日大法廷判決)を先例として掲げて被上告人B1(元愛媛県知事)の行為を違憲とし、その控訴審である原審判決(高松高裁平成四年五月一二日判決)は、同じく右大法廷判決に従って元知事の行為を合憲とし、当審大法廷の多数意見は、同じく右大法廷判決を先例として引いて元知事の行為を違憲であるとする。私は、津地鎮祭大法廷判決の定立した基準に従い、その列挙した四つの考慮要素を勘案すれば、自然に合憲の結論に導かれるものと考えるので、多数意見の説示するところと対比しながら、以下に順次所見を述べることとしたい。
二 本件は、被上告人B1が愛媛県知事として在任中の昭和五六年から同六一年にかけて靖國神社の春秋の例大祭に際して奉納された玉串料各五千円、みたま祭に際して奉納された献灯料各七千円又は八千円、愛媛県護國神社の春秋の慰霊大祭に際し県遺族会を通じて奉納された供物料各一万円の公金からの支出が憲法二〇条三項、八九条に違反するや否やが争われた事件であるが、多数意見は、本件支出の適否を判断するにあたり、「政教分離原則と憲法二〇条三項、八九条により禁止される国家等の行為」との標題を掲げて、次のように説示した。
1 まず、政教分離規定がいわゆる制度的保障の規定であること、現実の国家制度として国家と宗教との完全な分離を実現することは実際上不可能に近いこと、政教分離原則を完全に貫こうとすればかえって社会生活の各方面に不合理な事態を生ずることを挙げて、
2 国家と宗教との分離にもおのずから一定の限界があり、政教分離原則が現実の国家制度として具現される場合には、それぞれの国の社会的・文化的諸条件に照らし、国家は実際上宗教とある程度のかかわり合いを持たざるを得ないことを前提とした上で、制度の根本目的(信教の自由の保障の確保)との関係において、そのかかわり合いの許否の限度を論ずべきであるとし、
3 このような見地から考えると、政教分離原則は、国家の宗教的中立性を要求するものではあるが、国家と宗教とのかかわり合いを全く許さないものではなく、宗教とのかかわり合いをもたらす行為の目的・効果にかんがみ、そのかかわり合いが我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものと認められる場合にこれを許さないとするものである、と結論づけた。
三 右にいう「我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものと認められる場合にこれを許さないとするもの」というのは、表現それ自体としては、いわば、適法とされる限度を超える場合には違法となるとするの類いで、もとよりその内容において一義的でなく、それ自体としては、当該行為の合違憲性の判断基準として明確性を欠くとの非難を免れないが、多数意見は、以上に続いて次のように述べている。
「憲法二〇条三項にいう宗教的活動とは、およそ国及びその機関の活動で宗教とのかかわり合いを持つすべての行為を指すものではなく、そのかかわり合いが右にいう相当とされる限度を超えるものに限られるというべきであって、当該行為の目的が宗教的意義を持ち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為をいうものと解すべきである」と。いわゆる目的・効果基準であり、さきにみた「相当とされる限度を超えるもの」というおよそ一義性に欠ける説示の内容が合違憲性の判断基準として機能することが可能となるための指標が与えられたものと評することができよう。
しかしながら、具体的な憲法訴訟として提起される社会的紛争につき右の基準を適用して妥当な結論に到達するためには、更により具体的な考慮要素が示されなければならない。多数意見は、この点につき、「1」当該行為の行われる場所、「2」当該行為に対する一般人の宗教的評価、「3」当該行為者が当該行為を行うについての意図、目的及び宗教的意識の有無、程度、「4」当該行為の一般人に与える効果、影響の四つの考慮要素を挙げ、ある行為が憲法二〇条三項にいう「宗教的活動」に該当するかどうかを検討するにあたっては、当該行為の外形的側面のみにとらわれることなく、右の「1」ないし「4」の考慮要素等諸般の事情を考慮し、社会通念に従って客観的に判断しなければならない旨を判示した。
以上、多数意見の説示するところが津地鎮祭大法廷判決の判旨に倣ったものであることは、その判文に照らして明らかである。そこで、以下に津地鎮祭大法廷判決の事案及びその判旨と対比しつつ、多数意見に賛同し得ない理由を述べることとする。
四 津地鎮祭大法廷判決が判例法理として定立した目的・効果基準とは、(1)当該行為の目的が宗教的意義を持つものであること、及び(2)その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為であること、の二要件を充足する場合に、それが憲法二〇条三項にいう「宗教的活動」として違憲となる(その一つでも欠けるときは違憲とならない)とするもので、この点、合衆国判例にいうレモン・テストにおいて、a目的が世俗的なものといえるか、b主要な効果が宗教を援助するものでないといえるか、c国家と宗教との間に過度のかかわり合いがないといえるか、の一つでも充足しないときは違憲とされることとの違いがまず指摘されるべきであろう。
本件において県のしたさきの支出行為が目的(宗教的意義を持つか)効果(宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等となるか)基準の二要件を充足するか否かを、四つの考慮要素を勘案し、社会通念に従って客観的に判断するためには、まず、津地鎮祭大法廷判決の事案を眺め、それと本件玉串料等支出の事案との異同を識別しなければならない。
津地鎮祭大法廷判決の事案は、次のようなものである。津市体育館の建設にあたり、その建設現場において、津市の主催による起工式[地鎮祭]が、市職員が進行係となって、神職四名の主宰のもとに、所定の服装で、神社神道固有の祭祀儀式に則り、一定の祭場を設け、一定の祭具を使用して行われ、これを主宰した神職自身、宗教的信仰心に基づいて式を執行したものと考えられるが、その挙式費用(神職に対する報償費及び供物料)を市の公金から支出したことの適否が争われたというものである。
そして、右大法廷判決は、ある行為が憲法二〇条三項にいう「宗教的活動」に該当するかどうかを検討するにあたっては、「当該行為の主宰者が宗教家であるかどうか、その順序作法(式次第)が宗教の定める方式に則ったものであるかどうかなど」当該行為の外形的側面のみにとらわれることなく、前述の四つの考慮要素等諸般の事情を考慮し、社会通念に従って客観的に判断しなければならない、としたのである。
津市長個人を被告とする住民訴訟の形式で争われたのは、地鎮祭の挙式費用としての公金支出の適否であるが、津地鎮祭大法廷判決が憲法二〇条三項にいう「宗教的活動」に該当するか否かを論じたのは、いうまでもなく、津市の主催した地鎮祭(その主宰者は専門の宗教家である神職で、神社神道固有の祭祀儀式に則って行われたもの)そのものについてである。同判決は、地鎮祭の主宰者が宗教家であるかどうか、その順序作法(式次第)が宗教の定める方式に則ったものであるかどうかなど、地鎮祭の外形的側面のみにとらわれることなく、「1」地鎮祭の行われる場所、「2」地鎮祭に対する一般人の宗教的評価、「3」地鎮祭主催者である市が地鎮祭を行うについての意図・目的、宗教的意識の有無・程度、「4」地鎮祭の一般人に与える効果・影響等、四つの考慮要素を勘案し、社会通念に従って客観的に判断すべきであるとした。
以下に、津地鎮祭大法廷事件との対比において、本件において、〝当該行為〟が憲法二〇条三項にいう「宗教的活動」に該当するか否かを決するにあたり、検討されるべき考慮要素とは何か、についてみることとする。
五 本件において、多数意見が憲法適合性の論議の対象として取り上げるのは、前述のように、靖國神社の春秋の例大祭に際して奉納された玉串料、みたま祭に際して奉納された献灯料、県護國神社の春秋の慰霊大祭に際して県遺族会を通じて奉納された供物料、の公金からの支出行為自体であって、それ以外にない。
さきの津地鎮祭大法廷事件において憲法適合性が論ぜられたのは津市の主催する地鎮祭であるが、本件において多数意見の言及する右の例大祭、みたま祭、慰霊大祭の主催者は、靖國神社や県護國神社であって、もとより県ではない(慰霊大祭についてはその主催者が県護國神社であるか遺族会であるかの争いがあるが、その実態からみて両者の共催であるとしても、主催者が県でないことに変わりはない)。
靖國神社についていえば、被上告人B1の委任に基づき県東京事務所長の決するところにより、同事務所の職員が、例大祭やみたま祭に際し、多くはその当日ではなく事前に、通常の封筒に入れて玉串料や献灯料を社務所に届けたものであり、知事は勿論、職員の参拝もなかった。
県護國神社についていえば、遺族会の要請により春と秋の彼岸に近接した日に行われる慰霊大祭に際し知事である被上告人B1が(老人福祉課長の専決処理により)遺族会会長である被上告人B1に対し供物料を支出した後、遺族会会長名義の供物料として奉納したものである(一審判決によれば、春秋の慰霊大祭の行事中に知事又はその代理者の参列についての記述がみられる)。
六 津地鎮祭大法廷事件と本件との事案の相違の最も顕著な点は右のとおりであるが、まず、検討すべき考慮要素の「1」「当該行為の行われる場所」についてみると果たしてどうであろうか。
この点につき多数意見は、本件公金の支出は、靖國神社又は県護國神社が各神社の境内において挙行した恒例の宗教上の祭祀である例大祭、みたま祭又は慰霊大祭に際し、玉串料、献灯料又は供物料を奉納するためになされたものであるとした上、神社神道においては、祭祀を行うことがその中心的な宗教上の活動であるとされていること、例大祭及び慰霊大祭は、神道の祭式に則って行われる儀式を中心とする祭祀であり、各神社の挙行する恒例の祭祀中でも重要な意義を有するものと位置付けられていること、みたま祭は同様の儀式を行う祭祀であり、靖國神社の祭祀中最も盛大な規模で行われるものであることは、いずれも公知の事実である、とする。これらの事実が果たして公知であるか否かは暫く措くとして、多数意見は、神社神道において中心的な宗教上の活動とされる祭祀の中でも重要な意義を有するものと位置付けられ或いは最も盛大な規模で行われる春秋の例大祭、みたま祭又は慰霊大祭が、各神社の境内で挙行されることを強調しているやに見受けられる(このことは、みたま祭において奉納者の名前を記した灯明が境内に掲げられる旨を特記する点にも表れている)。しかし、恒例の宗教上の祭祀である例大祭、みたま祭又は慰霊大祭が神社の境内において挙行されるのは、あまりにも当然のことであって(灯明の掲げられる場所が境内であることについても同様である)、問題とされた本件支出行為につき、津地鎮祭大法廷判決が例示し、本件において多数意見がこれに倣う考慮要素の一としての〝当該行為の行われる場所〟としての意味を持ち得るものではない。
七 次に、多数意見の掲げる考慮要素の「2」「当該行為に対する一般人の宗教的評価」についてみることとする。この点につき多数意見は、一般に、神社自体がその境内において(ここで再び「境内において」と強調されるのは、考慮要素「1」とのかかわり合いであろう)挙行する恒例の重要な祭祀に際して右のような玉串料を奉納することは、建築主が主催して建築現場において土地の平安堅固工事の無事安全等を祈願するために行う儀式である起工式[地鎮祭]の場合とは異なり、時代の推移によって既にその宗教的意義が希薄化し、慣習化した社会的儀礼にすぎないものになっているとまでは到底いうこということができず、一般人が本件の玉串料等の奉納を社会的儀礼の一つにすぎないと評価しているとは考え難いところである、という。
元来、我が国においては、(キリスト教諸国や回教諸国と異なり)各種の宗教が多元的、重層的に発達、併存して来ていることは、多数意見の述べるとおりであるが、さきの津地鎮祭大法廷判決は、この点の指摘とともに、多くの国民は、地域社会の一員としては神道を、個人としては仏教を信仰するなどし、冠婚葬祭に際しても異なる宗教を使い分けしてさしたる矛盾を感ずることがないというような宗教意識の雑居性が認められ、国民一般の宗教的関心は必ずしも高いものとはいい難い、と述べている。地域社会の一員としては、鎮守の杜のお社の氏子として行動し、家に帰っては、それぞれの寺院に先祖代々の墳墓を設け、葬儀も供養も仏式によって行うというのは、国民の間で広く受け容れられている生活の類型である。
初詣には神社に参詣することが多いが、参詣者の大部分は仏教徒である。神社に参詣すれば通常はお賽銭を上げるが、履物を脱いで参殿し、神前に額づいて神職から格別の扱いを受ければ、玉串料を捧げることになる。七五三の行事は概ねこれによって行われる。式次第は神社神道固有の祭祀儀式に則って行われるが、それを受ける側の参詣者の多くは仏教徒その他神道信仰者以外の者であって、内心において信仰上の違和感を持たないのが通常であろう。
国民が神社に参詣し玉串料等を捧げるのは、初詣や神前の結婚式や七五三や個人的な祈願のための行事の機会の外に、神社神道においてその中心的な宗教上の活動であるとされる恒例の祭祀の機会がある。靖國神社の春秋の例大祭、みたま祭、県護國神社の春秋の慰霊大祭もその一つである。靖國神社や県護園神社は、元来、戦没者の慰霊のための場所、施設である。戦後、占領政策の一環として宗教法人としての性格付けを与えられたが、そのために戦没者の慰霊のための場所、施設としての基本的性質が失われたわけではない。靖國神社の祭神は百五単位をもって数える戦没者が主体であり、県護國神社のそれは愛媛県出身の戦没者が主体であるが、そのほかに、旧藩主、藩政に功労のあった者、産業功労者、警察官、消防団員、自衛官の公務殉職者等を含むとされる。祭神という言葉はいかめしいが、いわば神社神道固有の〝術語〟であり、神社に参詣する国民一般からすれば、今は亡きあの人この人であって、ゴッドではない。
各県における護國神社は、かつては招魂社と呼ばれた。その恒例の祭祀が招魂祭である。現に六〇歳代以上の年輩者には記憶のあることであるが、「招魂祭」とは戦没者の慰霊のための催しであるとはいえ、現在の政教分離原則の下で国家神道との関係が云々されるようないかめしいものではなく、招魂社の境内には綿菓子やのし烏賊を売る屋台が並び、それらの匂いの漂う子供心にも楽しいお祭り以外の何物でもなかった。
県護國神社についていえば、春秋二回の慰霊大祭に際し、「供物料 愛媛県」と書いたのし袋に一万円を入れて、県護國神社の境内にある県遺族会事務所に届け、県遺族会から「供物料 財団法人愛媛県遺族会会長B1」と書いたのし袋に一万円を入れて、県護國神社に奉納したものであり、靖國神社についても、県職員が多くは事前に通常の封筒に入れて玉串料(各五千円)や献灯料(七千円又は八千円)を社務所に届け、知事は勿論、職員の参列もなかったことは、前述のとおりである。金額が軽少であることが特に注目されよう。
以上のように具体的に考察してみれば、神社の恒例の祭祀に際し、招かれて或いは求められて玉串料、献灯料、供物料等を捧げることは、神社の祭祀にかかわることであり、奉納先が神社であるところから、宗教にかかわるものであることは否定できず、またその必要もないが、それが慣習化した社会的儀礼としての側面を有することは、到底否定し難いところといわなければならない。
しかるに多数意見は、地鎮祭の先例を引いて社会的儀礼にすぎないとはいえないとする。地鎮祭は、前述のとおり、津市の主催の下に、専門の宗教家である神職が、所定の服装で、神社神道固有の祭祀儀式に則って、一定の祭場を設け一定の祭具を使用して行ったものであるのに対し、本件は靖國神社又は県護國神社の主催する例大祭、みたま祭又は慰霊大祭に際して、比較的低額の玉串料等を奉納したというのが実態であって、当該行為に対する一般人の宗教的評価いかんを判定するにあたり、前者は社会的儀礼にすぎないが、後者をもって「一般人が…社会的儀礼の一つにすぎないと評価しているとは考え難い」とするのは、著しく評価のバランスを失するものといわなければならない。
多数意見がこのように性急に論断する理由は、「県が特定の宗教団体の挙行する重要な宗教上の祭祀にかかわり合いを持ったということが明らかである」ことにある。
しかしながら、「政教分離原則が現実の国家制度として具現される場合には、それぞれの国の社会的・文化的諸条件に照らし、国家は実際上宗教とある程度のかかわり合いを持たざるを得ない」ことは、多数意見の自ら述べるとおりで、「そのかかわり合いが…相当とされる限度を超えるものと認められる場合にこれを」違憲と判断するための目的・効果基準を定立し、その具体的適用にあたり検討すべき四つの考慮要素を掲げた。その考慮要素の「2」〝当該行為に対する一般人の宗教的評価〟を論ずるにあたり、「県が特定の宗教団体の挙行する重要な宗教上の祭祀にかかわり合いを持った」ことを理由に、当該行為が宗教的意義を持つとの一般人の評価が肯定されるというのでは、目的・効果基準を具体的に適用する上での考慮要素「2」は何ら機能していないものといわざるを得ない。
八 次に、多数意見の掲げる考慮要素の「3」「当該行為者が当該行為を行うについての意図、目的及び宗教的意識の有無、程度」についてみることとする。この点につき多数意見は、考慮要素「2」検討に該当する箇所において、一般人が本件の玉串料等の奉納を社会的儀礼の一つにすぎないと評価しているとは考え難いとした上で、そうであれば、玉串料等の奉納者においても、それが宗教的意義を有するものであるという意識を大なり小なり持たざるを得ないのであり、このことは、本件においても同様というべきである、とした。
玉串料等の奉納は、靖國神社又は県護國神社の挙行する恒例の祭祀中でも重要な意義を有するものと位置付けられ、或いは最も盛大な規模で行われる祭に際し、神社あてに拠出されるものであるから、宗教にかかわり合いを持つものであることは当然で、玉串料等の奉納者においても、それが宗教的意義を有するものであるという意識を大なり小なり持たざるを得ないことは勿論であろう。問題は、その意識の程度である。玉串料等の奉納が儀礼的な意味合いを持つことは、後に多数意見の説示自体にも現れる。曰く、「確かに、靖國神社及び護國神社に祭られている祭神の多くは第二次大戦の戦没者であって、その遺族を始めとする愛媛県民のうちの相当数の者が、県が公の立場において靖國神社等に祭られている戦没者の慰霊を行うことを望んでおり、そのうちには、必ずしも戦没者を祭神として信仰の対象としているからではなく、故人をしのぶ心情からそのように望んでいる者もいることは、これを肯認することができる。そのような希望にこたえるという側面においては、本件の玉串料等の奉納に儀礼的な意味合いがあることも否定できない」と。
長年にわたって比較的低額のまま維持された玉串料等の奉納が慣習化した社会的儀礼としての側面を持つことは、多数意見の右の説示をまつまでもなく、社会生活の実際において到底否定し難いところであり、玉串料等の奉納者においても、それが宗教的意義を有するという意識を「大なり小なり持たざるを得ない」とする説示は、あたかも、この間の消息を物語るもののようにも感ぜられる。なお、多数意見は、本件の玉串料等の奉納に儀礼的な意味合いがあることも否定できないとした上で、たとえ相当数の者がそれを望んでいるとしても、そのことのゆえに、地方公共団体と特定の宗教とのかかわり合いが、相当とされる限度を超えないものとして憲法上許されることになるとはいえないとするが、これは既に違憲と決めつけた上での駄目押しにすぎず、この項で論じているのは、「相当とされる限度を超える」か否かの判断に資するために定立された目的・効果基準を具体的に適用するにあたり、検討すべき考慮要素の一々についてであるから、右の多数意見についてはこれ以上の言及をしない。多数意見が「戦没者の慰霊及び遺族の慰謝ということ自体は、本件のように特定の宗教と特別のかかわり合いを持つ形でなくてもこれを行うことができると考えられる」云々と説示する点についても同様である。
ところで、考慮要素「3」にいう、当該行為者が当該行為を行うについての意図・目的についてはどうであろうか。この点につき、多数意見は「本件においては、県が他の宗教団体の挙行する同種の儀式に対して同様の支出をしたという事実がうかがわれないのであって、県が特定の宗教団体との間にのみ意識的に特別のかかわり合いを持つたことを否定することができない」と判示した。その表現はさりげなく、その文章は短いが、その意図するところは大きい。考慮要素「3」にいう当該行為者が当該行為を行うについての意図・目的の検証をこれで一挙に完結させようとするものであるからである。
被上告人B1らの主張及びこれに副う書証・人証等によれば、靖國神社の例大祭、みたま祭や県護國神社の慰霊大祭以外にも、愛媛県は公金を支出して来た。千鳥ヶ淵戦没者墓苑における慰霊祭には、同墓苑の創設された昭和三四年以来ずっと公金を支出し、東京事務所長らが出席している。支出金は一万五千円(昭和六〇年)で、靖國神社や県護國神社に対する年間支出金額と大差ない。全国戦没者追悼式に際しても、毎年供花料として一万円を支出している。沖縄には愛媛県出身戦没者のための慰霊塔「愛媛の塔」(昭和三七年一〇月建立)があり、遺族会は毎年慰霊塔の前で仏式慰霊祭を行って来たが、この慰霊塔の維持管理のため、毎年公金(約二〇万円)を支出している、という。県の公金支出は宗教的目的のためではなく、目的はあくまで戦没者の慰霊や遺族の慰謝にある、というのである。千鳥ヶ淵戦没者墓苑における慰霊祭、全国戦没者追悼式、「愛媛の塔」の前での慰霊祭を挙行しているのは、なるほど宗教団体ではない。しかし、千鳥ヶ淵も、全国追悼式も、「愛媛の塔」も、靖國神社も、県護國神社も、公金の支出はすべて戦没者の慰霊、遺族の慰謝が目的であると主張されている案件において、靖國神社と県議園神社のみが宗教団体といえるものであることを捉えて、「県が他の宗教団体の挙行する同種の儀式に対して同様の支出をしたという事実がうかがわれない」との理由付けで、「県が特定の宗教団体との間にのみ意識的に特別のかかわり合いを持ったことを否定することができない」とするのは、判断として公正を欠くとの譏りを免れないであろう。これまで特定の宗教団体とのかかわり合いとされて来たのが、ここで俄かに「特別の」かかわり合いとされたことに注目すべきであろう。
九 最後に、多数意見の掲げる考慮要素の「4」「当該行為の一般人に与える効果、影響」についてみることとしよう。いわゆる目的・効果基準の二要件のうち、当該行為の憲法適合性を判断するための最も重要な要件に関するものである。考慮要素「4」につき多数意見の述べるところは少ない。曰く、「地方公共団体が特定の宗教団体に対してのみ本件のような形で特別のかかわり合いを持つことは、一般人に対して、県が当該特定の宗教団体を特別に支援しており、それらの宗教団体が他の宗教団体とは異なる特別のものであるとの印象を与え、特定の宗教への関心を呼び起こすものといわざるを得ない」と。
多数意見が千鳥ヶ淵戦没者墓苑における慰霊祭、全国戦没者追悼式、「愛媛の塔」前の仏式慰霊祭の例を度外視し、これら慰霊の行事の主催者が宗教団体でない点を捉えてした立論が当を得ないことはさきに指摘したとおりで、これを根拠として、「地方公共団体が特定の宗教団体に対してのみ本件のような形で特別のかかわり合いを持つ」ことの是非を論じたのは、その前提に誤りがあるものといわなければならない。しかも、この前提の上に立って、多数意見が考慮要素の「4」当該行為の一般人に与える効果、影響として述べるのは、「一般人に対して、県が当該特定の宗教団体を特別に支援しており、それらの宗教団体が他の宗教団体とは異なる特別のものであるとの印象を与え、特定の宗教への関心を呼び起こすもの」であるというに尽きる。
甚だ抽象的で具体性に欠け、援助、助長、促進との観念上のつながりを手探りしているかの感があるが、この点はむしろ一審判決の方が分かり易い。一審判決は次のようにいう。県が靖國神社に対して支出した金額は通常の社会的儀礼の範囲内に属するといってよい額である。しかし、一回一回の支出が少額であっても毎年繰り返されて行けば、県と神社との結び付きも無視することができなくなり、それが広く知られるときは、一般人に対しても、靖國神社は他の宗教団体とは異なり特別のものであるとの印象を生じさせ、或いはこれを強めたり固定したりする可能性が大きくなる。結論として、玉串料等の支出は、県と靖國神社との結び付きに関する象徴としての役割を果たしているとみることができ、玉串料等の支出は、経済的な側面からみると、靖國神社の宗教活動を援助、助長、促進するものとまではいえなくとも、精神的側面からみると、右の象徴的な役割の結果として靖國神社の宗教活動を援助、助長、促進する効果を有するものということができる、と。県護國神社への供物料についても同旨である。
一審判決は、県と靖國神社、県護國神社との間に具体的な結び付きの実体がないにもかかわらず、両者の「結び付きに関する象徴」としての役割を論じたところに無理があった。或いは結び付きの実体がないからこそ、「結び付きの象徴」として精神的側面を端的に強調したものとも考えられよう(合衆国判例における「象徴的結合」とは、事案も内容も異なる)。
津地鎮祭大法廷判決によって定立された目的・効果基準の適用にあたって、当該行為の効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるか否かの判定は、このような専ら精神面における印象や可能性や象徴を主要な手がかりとして決せられてはならない。このように抽象的で内容的に具体的なつかみどころのない観念が指標とされるときは、違憲審査権の行使は恣意的とならざるを得ないからである。多数意見は、一審判決のいう「結び付きに関する象徴」云々の表現を用いなかったが、その判旨の内容は実質的に異なるものではない。
一〇 以上、津地鎮祭大法廷判決の定立した判例法理に従うとして、多数意見が考慮要素の「1」ないし「4」について説示するところをみて来たが、論理に従ってその文脈を辿ることは著しく困難であるといわざるを得ない。考慮要素の「1」はそもそも本件において機能し得ず、また考慮要素の「2」ないし「4」については十分な説明も論証もないまま、多数意見は、目的・効果基準を適用して、本件支出行為と宗教とのかかわり合いが「相当と認められる限度を超えるもの」と論断した。
しかし、すでにみたように、玉串料等の奉納行為が社会的儀礼としての側面を有することは到底否定し難く、そのため右行為の持つ宗教的意義はかなりの程度に減殺されるものといわざるを得ず、援助、助長、促進に至っては、およそその実体を欠き、徒らに国家神道の影に怯えるものとの感を懐かざるを得ない。
本件玉串料等の奉納は、被上告人B1が知事に就任する以前から、通算二十数年の長きにわたり、一審判決の表現によれば「通常の社会的儀礼の範囲に属するといってよい額」を細々と長々と続けて来たものにほかならない。訴訟において関係人の陳述を指して…は何々である旨縷々陳述するが…と評することが多いが、縷々とは細く長く絶えず続くことの意味である。本件玉串料等の支出はまさしくそれに当たる。そして、この細く長く絶えず続けられた玉串料等の支出が、多数意見によって「相当とされる限度を超えるもの」とされるとき、私は今は故人となった憲法学徒の次の言葉を想起させられるのである。曰く、「民間信仰の表現としての地蔵や庚申塚が公有地の隅に存することも容認しないほど憲法は不寛容と解すべきであるのか」(小嶋和司「いわゆる『政教分離』について」ジュリスト八四八号)と。
一一 本件支出の合違憲性についての私の所見は、基本的に以上に述べたところに尽きるが、私は本件支出は違憲でないとの結論をとるので、憲法二〇条のみならず八九条についても言及する必要がある。
多数意見はこの点につき、靖國神社及び県護國神社は憲法八九条にいう宗教上の組織又は団体に当たることが明らかであり、本件玉串料等を靖國神社又は県護國神社に奉納したことによってもたらされる県と靖國神社等とのかかわり合いが我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものと解されるから、本件支出は、同条の禁止する公金の支出に当たり、違法というべきであるとした。
憲法八九条は、行政実務上の解釈困難な問題規定の一つであり、多数意見が津地鎮祭大法廷判決の定立した目的・効果基準に従い、本件支出の憲法八九条適合性を判断した態度は是認されよう。津地鎮祭大法廷判決は、次のように述べている。
曰く、本件起工式[地鎮祭]はなんら憲法二〇条三項に違反するものではなく、また、宗教団体に特権を与えるものともいえないから、同条一項後段にも違反しないというべきである。更に、右起工式の挙式費用の支出も、本件起工式の目的、効果及び支出金の性質、額等から考えると、特定の宗教組織又は宗教団体に対する財政援助的な支出とはいえないから、憲法八九条に違反するものではなく、地方自治法二条一五項、一三八条の二にも違反するものではない、と。
津地鎮祭大法廷判決においていう「当該行為」とは津市当局の主催した地鎮祭の挙行であり、本件においては、玉串料等の奉納という支出以外に「当該行為」と目すべきものは存在しないから、右の先例の判文をそのままなぞって本件に翻訳することはできないが、要するに、玉串料等の奉納という本件支出の目的、効果、支出金の性質、額等から考えると、特定の宗教組織又は宗教団体に対する財政援助的な支出とはいえないから、憲法八九条に違反するものではない、というに帰着しよう。
一二 憲法八九条についての戦後の論議は、実り豊かなものではなかった(旧帝国議会での審議当時、宗教関係者が最も怖れたのは、明治政府によつて国有化された、名義上の国有財産である神社・寺院の境内地等が、この規定を根拠にして全面的に取り上げられるのではないか、ということであった)。そして、その条文は、その規定に該当する限り一銭一厘の支出も許されないかの如き体裁となっている。そこで忽ち問題となるのが、津地鎮祭大法廷判決の判文にも現れる「特定宗教と関係のある私立学校に対し一般の私立学校と同様な助成を」することは、憲法八九条に違反することにならないか、ということである。
この点は、他の私学への助成金(公金)の支出が許されるのに、特定宗教と関係のある私学への助成金(公金)の支出が許されないとすれば、平等原則の要請に反するから…と説明されるのが通常である。しかし、憲法解釈上の難問に遭遇したとき、安易に平等原則を引いて問題を一挙にクリヤーしようとするのは、実は、憲法論議としての自殺行為にほかならないのではあるまいか。
一方において、宗教関係学校法人に対する億単位、否、十億単位をもってする巨額の公金の支出が平等原則の故に是認され得るとすれば、そして、もしそれが許されないとすれば即信教の自由の侵害になると論断されるのであれば、その論理は同時に、他の戦没者慰霊施設に対する公金の支出が許されるとすれば、同じく戦没者慰霊施設としての基本的性質を有する神社への、五千円、七千円、八千円、一万円という微々たる公金の支出が許されないわけがない、もし神社が「宗教上の組織又は団体」に当たるとの理由でそれが許されないとすれば、即信教の自由の侵害になる、との結論を導き出すものでなければならない。宗教関係学校法人への巨額の助成を許容しながら微細な玉串料等の支出を違憲として、何故、論者は矛盾を感じないのであろうか。すべて、戦前・戦中の神社崇拝強制の歴史を背景とする、神道批判の結論が先行するが故である。
戦前・戦中における国家権力による宗教に対する弾圧・干渉をいうならば、苛酷な迫害を受けたものとして、神道系宗教の一派である大本教等があったことが指摘されなければならない。
一三 悪の芽は小さな中に摘みとるのがよく、憲法の理想とするところを実現するための環境を整える努力を怠ってはならない。しかし、国家神道が消滅してすでに久しい現在、我々の目の前に小さな悪の芽以上のものは存在しないのであろうか。
憲法八九条に関連して一例を挙げれば、宗教団体の所有する不動産やその収益と目すべきものにつき、これを課税の対象から外すことは、宗教団体に対し積極的に公金を支出するのと同様の意味を持つ。これが政教分離原則との関係において合衆国判例において論ぜられて久しい。
我が国において、これらの点に関連して論ぜられるべき問題状況は果たして存在しないのであろうか。何故これらの点がまともに論ぜられることなく、かえって、細く長く絶えず続けられた本件玉串料等の支出の如きが、何故かくも大々的に論議されなければならないのであるか。これが疑問とされないのは何故であるかを疑問とせざるを得ないのである。
(裁判長裁判官 三好達 裁判官 園部逸夫 裁判官 可部恒雄 裁判官 大西勝也 裁判官 小野幹雄 裁判官 大野正男 裁判官 千種秀夫 裁判官 根岸重治 裁判官 高橋久子 裁判官 尾崎行信 裁判官 河合伸一 裁判官 遠藤光男 裁判官 井嶋一友 裁判官 福田博 裁判官 藤井正雄)

++解説
《解  説》
一 本件は、「愛媛玉串料訴訟」として著名な住民訴訟事件についての最高裁大法廷の判決であり、国や地方公共団体の行為が憲法の政教分離規定に違反するという判断を示した初めての最高裁判決である。
本件の事案は、愛媛県が、昭和五六年から昭和六一年にかけて、宗教法人靖國神社の挙行した恒例の宗教上の祭祀である例大祭に際し玉串料として九回にわたり各五〇〇〇円(合計四万五〇〇〇円)を、同みたま祭に際し献灯料として四回にわたり各七〇〇〇円又は八〇〇〇円(合計三万一〇〇〇円)を、宗教法人護國神社の挙行した恒例の宗教上の祭祀である慰霊大祭に際し供物料として九回にわたり各一万円(合計九万円)を、それぞれ県の公金から支出して奉納したことにつき、同県の住民であるXらが、憲法二〇条三項、八九条等に違反する違法な財務会計上の行為に当たると主張して、靖國神社に対してした公金支出については当時知事の職にあったY1及び東京事務所長の職にあり知事の委任に基づき右支出を行ったY2に対し、護國神社に対してした支出についてはY1及び右期間に老人福祉課長の職を順次勤め専決権限に基づき右支出を行ったY3ら(ただし、一名は死亡により相続人らが承継)に対し、地方自治法二四二条の二第一項四号に基づき、県に代位して、それぞれ当該支出相当額の損害賠償を求めたというものである。
憲法は、二〇条一項後段、三項、八九条において、いわゆる政教分離の原則に基づく諸規定(政教分離規定)を設けている。周知のとおり、国や地方公共団体の行為が右の政教分離規定に違反するか否かについて判断を示した最高裁大法廷の判例としては、本判決の引用する最大判昭52・7・13民集三一巻四号五三三頁、本誌三五〇号二〇四頁(津地鎮祭訴訟大法廷判決)及び最大判昭63・6・1民集四二巻五号二七七頁、本誌六六九号六六頁(自衛官合祀訴訟大法廷判決)がある。これらの判例により確立された合憲性の審査基準が、一般に「目的効果基準」と呼ばれているものである。
ところが、地方公共団体が靖國神社等の恒例祭に際して公金を支出して玉串料等を奉納する行為が憲法二〇条三項、八九条に違反するかという点については、いずれも目的効果基準を援用しつつ、本件一審判決及び仙台高判平3・1・10本誌七五〇号五八頁(岩手靖國訴訟控訴審判決)が違憲の判断を示したのに対し、本件原判決及び盛岡地判昭62・3・5本誌六三〇号九〇頁(同訴訟一審判決)が逆に合憲の判断を示し、下級審段階における判断が分かれていた。このようなことから、目的効果基準に対しては、厳格性に欠けるという批判のほか、基準としての役割を果たし得ていないという批判があった。そのため、判断基準の見直しをすべきかどうかの点を含め、本件の大法廷の判断が注目されていた。
二 一審判決は、本件支出は、その目的が宗教的意義を持つことを否定することができないばかりでなく、その効果が靖國神社等の宗教活動を援助、助長、促進することになるものであって、本件支出によって生ずる県と靖國神社及び護國神社との結び付きは、我が国の文化的・社会的諸条件に照らして考えるとき、もはや相当とされる限度を超えるものであるから、憲法二〇条三項の禁止する宗教的活動に当たり、違法なものといわなければならないと判断した上で、本件支出を実質的に決定したのは知事であるY1にほかならず、Y1が自ら本件支出をしたものと評価できるところ、Y1は未必的に本件支出が違法であることについての認識があったと認められるとして、Y1の県に対する損害賠償義務を肯定し、他方、Y2らについては、Y1の強固で明確な意思と異なる判断に基づく行為に出ることは期待できなかったと認められるから、職務上要求される義務の懈怠はないとして、損害賠償義務を否定して、XらのY1に対する請求を認容し、Y2らに対する請求を棄却した。
これに対して、原判決は、本件支出は宗教的な意義を持つが、一般人にとって神社に参拝する際に玉串料等を支出することは過大でない限り社会的儀礼として受容されるという宗教的評価がされており、知事は、遺族援護行政の一環として本件支出をしたものであって、それ以外の意図、目的や深い宗教心に基づいてこれをしたものではないし、支出の程度は少額で社会的な儀礼の程度にとどまっており、その行為が一般人に与える効果、影響は、靖國神社等の第二次大戦中の法的地位の復活や神道の援助、助長についての特別の関心、気風を呼び起こしたりするものではないから、本件支出は、神道に対する援助、助長、促進又は他の宗教に対する圧迫、干渉等になるようなものではなく、憲法二〇条三項、八九条に違反しないと判断して、一審判決のうちY1に対する請求を認容した部分を取り消し、Xらの請求を全部棄却する趣旨の判決をした。そこで、Xらが上告した。
なお、上告したXらのうち一名が上告を取り下げたことから、その取扱いも問題となった。
Xらの上告理由は、極めて多岐にわたるが、要するに、目的効果基準に従えば、靖國神社等の恒例祭に向けられた玉串料等の支出は、時代の推移とともに宗教的意義が次第に希薄化し、もはやそれがほとんど認められなくなった儀礼と化しているとはいえず、多数者が受け入れるような宗教活動であれば、それが世俗化していなくても国家が関与することを認めるというのでは、政教分離原則を有名無実化するし、本件支出の事実上の影響力があったことは明らかであって、本件支出が合憲とされるならば、玉串料等の公金支出が助長、拡大されることになり、靖國神社等の祭神に対しては敬意を払うことが当然であるとの気風を呼び起こすことが必然であるなど、本件支出は、その目的、効果にかんがみ、憲法二〇条三項、八九条に違反するのに、原判決は、目的効果基準に名を借りてはいるが、全くその名に値しない審査しかせずに、合憲の結論を出したものであって、憲法の解釈に誤りがあるほか、多くの理由不備、理由齟齬、法令違背があるというものである。
これに対し、Yらの上告審における答弁の要旨は、玉串料等の宗教的意義は、時代の推移とともに次第に希薄化し、現在においてはほとんど認められなくなり、その奉納は単純無因の贈与と化したものであって、一般人の意識においては、さい銭の奉納と同様、慣習化した社会的儀礼として、世俗的な行為と評価されており、また、本件支出は、戦没者の慰霊及び遺族の慰謝のためにされたものであって、全国戦没者追悼式への供花料の支出等と同様、宗教的意図はないから、本件支出のみが禁止されることになれば、宗教による差別となるし、靖國神社は我が国における戦没者慰霊の中心的施設であり、同神社を戦没者の霊の存在する場所と考えている者は多く、それらの者は必ずしも戦没者を信仰の対象にしているのではないのであり、本件支出は、このような同神社の戦没者慰霊施設としての本質を重視し、儀礼的な意味においてされたものである上、右の一般人の意識やその金額等に照らし、本件支出が靖國神社等を援助、助長、促進するような効果をもたらしたりするとは、到底考えられないから、本件支出は、憲法二〇条三項、八九条に違反しないなどというものである。
三 本判決は、一五人中一〇人の多数意見により、結論において一審判決を是認する判断を示し、原判決中これと異なる部分を破棄した。
多数意見は、まず、本件支出の合憲性の審査基準については、津地鎮祭訴訟大法廷判決及び自衛官合祀訴訟大法廷判決を引用して、憲法二〇条三項、八九条は、国家の活動で宗教とかかわり合いを持つ行為又は公金支出行為等のうち、その目的及び効果にかんがみ、当該行為における国家と宗教とのかかわり合いが我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものを禁止しているのであり、これに該当するかどうかを検討するに当たっては、諸般の事情を考慮し、社会通念に従って、客観的に判断しなければならないとして、判例理論である目的効果基準を踏襲することを明らかにした。このように、本判決の多数意見は、憲法二〇条三項にいう宗教的活動に該当するかどうかについて津地鎮祭訴訟大法廷判決の多数意見と同旨の判断を示したほか、憲法八九条が禁止している公金の支出等に該当するかどうかを検討するに当たっては、右の宗教的活動に該当するかどうかの判断と同様の基準によって判断しなければならないと判示し、目的効果基準が憲法八九条にも同様に当てはまる合憲性審査基準であることを明らかにしている。
本判決が目的効果基準を踏襲することを明らかにした(なお、反対意見の二裁判官も、同基準を踏襲する立場に立っているから、一五人中一二人が同基準を維持すべきものと判断したことになる。)ことにより、今後も、政教分離規定の適合性については、同基準に基づいて判断すべきことになろう。本判決の高橋裁判官や尾崎裁判官の意見においては、目的効果基準があいまいであるとの趣旨の批判がされているが、これに代わって両裁判官が提示している判断基準は、明らかに多数意見の考え方より厳格な政教分離を求めるものである。かねてより右のような批判はあっても、津地鎮祭訴訟大法廷判決の多数意見と同様の限定的な分離を前提とする立場からの目的効果基準に代わるより明確な基準の提案がされてこなかったことも事実である。結局、限定的分離を前提とする以上、一刀両断的に合憲性を判断することは事柄の性質になじまず、個々の事案における諸般の事情を総合的に考慮し、社会通念に従って、客観的に判断するという手法を採るほかはないというのが、本判決の到達した結論ということになろう。そして、前記二つの大法廷判決と本判決とは、合憲、違憲と結論が分かれたが、それは、政教分離規定についての考え方に違いがあったためではなく、事案に違いがあったためというべきである。
そして、愛媛県が本件支出をして玉串料等を奉納したことは、一般人がこれを社会的儀礼にすぎないものと評価しているとは考え難く、その奉納者においてもこれが宗教的意義を有するものであるという意識を持たざるを得ず、これにより県が特定の宗教団体との間にのみ意識的に特別のかかわり合いを持ったことを否定することができないのであり、これが、一般人に対して、県が当該特定の宗教団体を特別に支援しており右宗教団体が他の宗教団体とは異なる特別のものであるとの印象を与え、特定の宗教への関心を呼び起こすものといわざるを得ないなどという事情を総合的に考慮して判断すれば、その目的が宗教的意義を持つことを免れず、その効果が特定の宗教に対する援助、助長、促進になると認めるべきであって、憲法二〇条三項、八九条に違反すると判断した(以上の判断については大野裁判官、福田裁判官の補足意見があるほか、異なる理由により憲法八九条に違反するとする園部裁判官の意見、異なる理由により憲法二〇条三項に違反するとする高橋裁判官、尾崎裁判官の意見、憲法二〇条三項にも八九条にも違反しないとする三好長官、可部裁判官の反対意見がある。したがって、一五人中一三人が違憲判断をしたことになる。)。
なお、本判決の多数意見は、Yらの主張に答えて、県民のうちの相当数の者が県が靖國神社等に祭られている戦没者の慰霊を行うことを望んでいることなどからすると、本件の玉串料等の奉納に儀礼的な意味合いがあることは否定できないが、憲法制定の経緯に照らせば、たとえ相当数の者がそれを望んでいるとしても、そのことのゆえに、地方公共団体と特定の宗教とのかかわり合いが、相当とされる限度を超えないものになるとはいえないし、戦没者の慰霊ということ自体は、本件のように特定の宗教と特別のかかわり合いを持つ形でなくてもこれを行うことができると考えられるなどと説示している。また、香典やさい銭との違いについても、根拠を挙げて説明している。
本判決は、政教分離規定に違反する行為についての重要な判断事例を提供するものであり、先例としての価値は大きいものがあると思われる。ただ、判文から明らかなとおり、本判決の多数意見が判断を示したのは、本件の具体的事案における玉串料の奉納行為等の合憲性であり、一般的に国や地方公共団体の玉串料の奉納行為等の合憲性について判断したものではなく、さらには、例えば公人が靖國神社等に参拝する行為の合憲性については、何らの判断をも示したものではない。右のような問題については、本判決の判断を参考にしつつ、それぞれその事情に基づいて、目的効果基準に従って、検討されるべきものであろう。
四 本判決には、以下のとおりの個別意見がある。
まず、多数意見に加わった裁判官の補足意見としては大野裁判官が、地方公共団体が靖國神社等による祭祀にのみ賛助することは特定の宗教団体に象徴的利益を与えるものであることなどを、福田裁判官が、国の非宗教性ないし宗教的中立性の理念は神道を含むあらゆる宗教に等しく当てはまるものであることなどを、それぞれ補足して述べている。
次に、異なる理由により結論として違憲判断をした意見としては、まず、園部裁判官が、宗教団体の主催する恒例の宗教行事のために、当該行事の一環としてその儀式にのっとった形式で奉納される金員は、当該宗教団体を直接の対象とする支出とみるべきであり、憲法八九条に違反するという見解に基づいて、本件支出は、同条に違反するなどとしている。また、高橋裁判官は、政教分離原則は、国家と宗教との完全な分離を意味し、それが不可能、不適当であることの理由が示されない限り、国が宗教とかかわり合いを持つことは許されないとした上で、本件各行為は、そのような例外に当たらず、違憲というほかはないなどとしている。そして、尾崎裁判官は、憲法二〇条三項は国が宗教とのかかわり合いを持つ行為を原則として禁止するものであるから、政教分離原則の除外例として特に許容するに値する高度な法的利益が明白に認められない限り、国は疑義ある活動に関与すべきではないとした上で、本件においては、例外的事情はなく、本件の玉串料等の奉納は、同項に違反するなどとしている。
また、合憲判断をした反対意見としては、まず、三好長官が、多くの国民の意識では、靖國神社等は戦没者追悼等の中心的施設となっており、また、本件の各祭祀は、多くの国民や遺族からすれば、戦没者の追悼、慰霊の行事との意識が強いし、本件金員供与の態様から宗教的意図を見いだすことなどはできず、その金額等も儀礼の範囲を超えないことや、我が国では、特定の宗教に対するこだわりの意識は希薄で、他に対してむしろ寛容であるという社会的事情など、諸般の事情を総合すれば、本件支出の意図、目的は戦没者の追悼等にあったとみるべきであり、また、特定の宗教を援助、助長、促進し、又は他の宗教に対する圧迫、干渉等となる効果、影響等があるとは到底いえないから、本件支出は憲法二〇条三項、八九条等に違反しないなどとしている。そして、可部裁判官は、恒例祭が神社の境内において挙行されるのは、当然のことであり、特段の意味を持たず、恒例祭に際し、招かれてあるいは求められて玉串料等を捧げることは社会的儀礼としての側面を有しており、県は千鳥ヶ淵戦没者墓苑における慰霊祭等にも公金を支出しているから、「特定の宗教団体との間にのみ意識的に特別のかかわり合いを持った」とするのは、判断として公正を欠くし、当該行為の効果の判定は、専ら精神面における印象等を主要な手がかりとして決せられてはならないなどとして、本件支出は憲法二〇条三項に違反しないとし、また、本件支出の目的、効果、支出金の性質、額等から考えると、特定の宗教組織又は宗教団体に対する財政援助的な支出とはいえないから、本件支出は憲法八九条にも違反しないとしている。
五 次に、本判決の多数意見は、前記の違憲判断に基づき、Yらの損害賠償責任の有無について判断を示した(この部分については、前記の意見を述べた三裁判官も同調している。)。
まず、知事であるY1については、最二小判平3・12・20民集四五巻九号一四五五頁、本誌七七八号七五頁及び最三小判平5・2・16民集四七巻三号一六八七頁、本誌八一五号九四頁を引用して、自己の権限に属する本件支出を補助職員であるY2らに委任し、又は専決により処理させたのであるから、その指揮監督上の義務に違反し、故意又は過失によりこれを阻止しなかったと認められる場合には、県に対し違法な支出によって県が被った損害を賠償する義務を負うことになると解すべきであるという一般論を示した上で、Y1は、靖國神社等に対し、Y2らに玉串料等を持参させるなどして、これを奉納したと認められるというのであり、本件支出には憲法に違反するという重大な違法があること、地方公共団体が特定の宗教団体に玉串料、供物料等の支出をすることについて、文部省、自治省等が、政教分離原則に照らし、慎重な対応を求める趣旨の通達、回答をしてきたことなどをも考慮すると、その指揮監督上の義務に違反したものであって、これにつき少なくとも過失があったというのが相当であるとして、Y1の責任を肯定した。これに対し、補助職員であるY2らについては、地方自治法二四三条の二第一項後段により、本件支出行為をするにつき故意又は重大な過失があった場合に限り県に対して損害賠償責任を負うものであるという一般論を示した上、知事であるY1の右のような指揮監督の下で本件支出をしたというのであり、しかも、本件支出が憲法に違反するか否かを極めて容易に判断することができたとまではいえないから、これを憲法に違反しないと考えて行ったことは、その判断を誤ったものではあるが、重大な過失があったということはできないとして、Y2らの責任を否定した。
Y1は、本件支出を直接行った者ではないが、知事であるから、本件支出につき法令上本来的に権限を有する者であり、また、Y2は知事から委任を受け、Y3らは知事から専決することを任されて、本件支出を行った者らである。これらの立場において財務会計上の行為に関係した者が、それぞれ地方自治法二四二条の二第一項四号にいう「当該職員」に当たるかどうかについては、議論があったが、小法廷の判例により、いずれも肯定された(最二小判昭62・4・10民集四一巻三号二三九頁、本誌六四〇号八三頁、前掲最二小判平3・12・20、最二小判平3・12・20民集四五巻九号一五〇二頁、本誌七七八号八三頁及び前掲最三小判平5・2・16)。したがって、本件訴えは、同号の類型に該当する適法な訴えということができる。本判決は、このことを前提としており、明示の判断を示していないが、右小法廷の判例法理が大法廷でも確認されたということができる。
そして、このように、委任又は専決により補助職員が違法な財務会計上の行為をした場合における長及び補助職員の地方公共団体に対する損害賠償責任の内容についても、かつては説が分かれていたが、小法廷の判例によって解決されており、長は、民法に基づき責任を負うが(最一小判昭61・2・27民集四〇巻一号八八頁、本誌五九二号三二頁)、補助職員に対する指揮監督上の義務に違反し、故意又は過失により補助職員の行為を阻止しなかったと認められる場合に限り責任を負うのであり(最二小判平3・12・20民集四五巻九号一四五五頁、本誌七七八号七五頁及び右最三小判平5・2・16)、他方、補助職員は、地方自治法二四三条の二第一項後段に基づき責任を負う(右最一小判昭61・2・27)から、当該行為をするにつき故意又は重大な過失(現金の亡失については、故意又は過失)があった場合に限り責任を負うことになる。本判決は、右の小法廷の判例法理を確認したものである。
右の考え方に立った上で、本判決は、Y1の責任については、支出を補助職員に任せた長としての指揮監督上の義務に違反したものであり、しかも、そのことにつき少なくとも過失があったものと判断した。前記のような一般論からすると、長が実際に責任を負う場合は、自ら当該財務会計上の非違行為を行ったのと同視し得る程度の指揮監督の懈怠がある場合に限られることになるものと解されるところであるが、Y1主導ともいうべき本件支出の実態や憲法違反の公金支出を阻止せず放置し続けたということなどが、右のような判断の理由となったものと思われる。これに対して、Y2らの責任については、Y1の判断に実際上束縛されていたという実態や本件支出が憲法に違反するか否かを極めて容易に判断し得たとはいえない(このことは、本判決に反対意見があることからも明らかであろう。)ことから、重過失まではないと判断し、その責任を否定したものと思われる。本判決が長の指揮監督責任を肯定した判断や補助職員の重過失を否定した判断は、事例として今後の参考になるものと思われる。
六 以上の本案についての判断が社会的には極めて重要なものであったため、マスコミ等においては、その部分のみが大きく報道されたが、本判決は、第二の職権判断部分において、Xらのうち一人が上告をしながらこれを取り下げたことについて、一五人全員一致の意見で、最二小判昭58・4・1民集三七巻三号二〇一頁を変更している点でも、注目される。
右最二小判は、複数の住民が提起する地方自治法二四二条の二第一項四号所定の訴訟は、類似必要的共同訴訟であると解した上、共同原告となった住民らの一部の者のみが上訴をした場合には、民訴法六二条一項の規定により、上訴をしなかったその余の共同原告にも上訴の効力が及び、全員が上訴人になるという判断を示していた。これによれば、上訴審としては、上訴しなかった者も上訴人として取り扱い、準備書面を送達したり、期日の呼出しをしたりする必要があるほか、判決に当事者として表示した上、その送達をしなければならない。しかし、実際には、敗訴判決を受けて上訴しなかった者は、訴訟活動を続行する意思を失っており、その者を上訴人として取り扱い続けることは実情に合わない面があることから、むしろ訴えの取下げを勧告して、訴訟関係から完全に離脱させるように促すのが、一般的な取扱いとなっていた。ところが、上訴をした共同原告らや訴訟代理人を通じて上訴をしなかった者と連絡をとることが困難であったり、両者の信頼関係が失われているため、取下げの手続を執ることが容易でない場合があり、他方、万一このことを看過すれば、判決の内容に全く問題がない場合でも、破棄差戻しの理由になってしまうという問題があった。また、右判例は、地方自治法二四二条の二第一項四号所定の訴訟についてのみ判断したものであり、類似必要的共同訴訟に当たることの理由付けにおいても四号訴訟特有の事由を援用しており、その他の類型の住民訴訟についても同様に考えるべきなのかどうかは、問題として残されていた。
類似必要的共同訴訟における共同訴訟人の一部の者がした上訴の効力についての右判決の判断は、通説にのっとったものであるが、右の問題については、右判決前に既に、上訴審の審判対象の問題と当事者地位の問題とは別個に考慮することが可能であり、上訴審の審判対象は全請求に及ぶが、上訴人たる地位は現実に上訴し上訴審手続に関与している者だけに認めれば足りるとする見解が唱えられていた(井上治典「多数当事者訴訟における一部の者のみの上訴」多数当事者訴訟の法理二〇一頁)。また、右判決において、木下裁判官の反対意見が、これと同様の考え方を示している。そして、右判決後、右の井上説や木下裁判官の反対意見を支持する学説も現れるに至っていた。
そのような中で、本判決は、まず、住民訴訟一般につき、その判決の効力は全住民に及ぶとした上、そのことを根拠に、複数の住民の提起した住民訴訟は、類似必要的共同訴訟に当たるとの判断を示した。そして、類似必要的共同訴訟においては、共同訴訟人の一部の者がした上訴の効力は、上訴をしなかった者にも及び、原判決は確定を遮断されるが、住民訴訟の性質にかんがみて、上訴をしなかった者は上訴人にはならないという新判断を示した。この考え方は、前記木下裁判官の反対意見に近いが、同意見が上訴をしなかった共同訴訟人は「いわば脱退」するという表現を採っていたのに対し、本判決はそのような表現を用いていない。
本判決のような考え方を採った場合の法律関係の詳細について、本判決は明らかにしていない。前記井上説は、上訴人となった者とならなかった者との間に選定当事者的な任意的訴訟担当の関係が成立すると説明しているが、そのように解すべき法律上の根拠や、そのように解した場合に生じてくる法律問題については、なお十分解明されたとはいえないところがあり、学説上も議論が煮詰まっているとはいえない状況にあることなどからすると、むしろ、本判決を契機に、議論が深まることが期待されるところである。
また、本判決は住民訴訟一般について判断を示したことから、四号訴訟以外の住民訴訟においても同様に解すべきことが明らかになったが、住民訴訟以外の類似必要的共同訴訟や固有必要的共同訴訟については、判断していない。本判決の理由付けは、住民訴訟の特質を強調したものであるから、その他の類似必要的共同訴訟等に当てはまるものではない。もっとも、審判の対象の問題と当事者の地位の問題とが分離不能ではないということを肯定したことになるから、他の類型についてどう考えるべきかについても、今後議論が深まることが予想される。

+判例(H12.7.7)
理由
第一 本件の概要
一 原審の適法に確定した事実関係の概要は、次のとおりである。
1 A證券株式会社(以下「A證券」という。)は、有価証券の売買、その媒介、取次ぎ及び代理、有価証券の引受け及び売出し等を目的とする我が国最大手の証券会社であり、被上告人らは、平成二年三月当時A證券の代表取締役の地位にあった者であり、上告人らは、A證券の株主である。
2 B株式会社(以下「B」という。)は、A證券の大口顧客であり、A證券は、昭和四八年三月からBと有価証券の売買等による資金運用の取引を継続し、また、Bの証券発行に際しては主幹事証券会社の地位にあって、多額の手数料収入を得ていた。
主幹事証券会社になると多額の引受手数料等の収入を得ることができるため、主幹事となることにつき証券会社相互間で競争があり、また、いったん主幹事から外れるとこれを取り返すことには困難が伴うため、各証券会社は、証券発行を行う事業法人との取引関係の維持、拡大に努めている。
3(一)委託者が受託者である信託銀行と締結した特定金銭信託契約に基づき、信託銀行が、証券会社にそのための口座を開設して、委託者の指図に従い有価証券の売買等を行う取引(以下「特金勘定取引」という。)のうち、委託者が投資顧問業者と投資顧問契約を締結することなく、専ら証券会社が委託者に代わって信託銀行に指図することにより運用されていたものがあり、「営業特金」と呼ばれていた。
(二)Bは、平成元年四月、C信託銀行株式会社(以下「C信託銀行」という。)との間で、Bを委託者、C信託銀行を受託者とし、期間を平成二年三月までとする特定金銭信託契約を締結して一〇億円を信託し、これに基づきC信託銀行がA證券に取引口座を開設して、有価証券の売買によるBのための資金運用が開始された。Bは右取引につき投資顧問業者との間で投資顧問契約を締結しておらず、営業特金による取引であった。
(三)Bのための特金勘定取引口座には、平成元年末ころに約二億七〇〇〇万円の損失が生じており、平成二年一月ころからの株式市況の急激な悪化によって、更に損失が拡大し、期間満了を待たずに取引を終了させた同年二月末ころには、損失額は約三億六〇〇〇万円となっていた。
4(一)D証券株式会社が大口顧客に対して約一〇〇億円に上る損失補てんをしていたなどと報道される中で、大蔵省は、平成元年一二月二六日、日本証券業協会会長あてに、「証券会社の営業姿勢の適正化及び証券事故の未然防止について」と題する証券局長通達(以下「本件通達」という。)を発し、法令上の禁止行為である損失保証による勧誘や特別の利益提供による勧誘はもとより、事後的な損失の補てんや特別の利益提供も厳にこれを慎むこと、特金勘定取引について、原則として、顧客と投資顧問業者との間に投資顧問契約が締結されたものとすること等について、所属証券会社に周知徹底させるべきものとした。その趣旨を徹底するために、同日付けの大蔵省証券局業務課長による各財務(支)局理財部長あての事務連絡が発せられ、証券会社に対し、既存の特金勘定取引について本件通達に沿う所要の措置を講ずべき期限は平成二年末までとし、各年三月末及び九月末に特金勘定取引の口座数、そのうち投資顧問契約のないものの口座数等を報告させるなどの指導をすべきものとされた。
(二)日本証券業協会は、平成元年一二月二六日、本件通達を受けて、同協会の内部規則である公正慣習規則第九号「協会員の投資勧誘、顧客管理等に関する規則」(以下「本件規則」という。)を改正し、「協会員は、損失保証による勧誘、特別の利益提供による勧誘を行なわないことはもとより、事後的な損失の補填や特別の利益提供も厳にこれを慎む」ものとする旨の規定(同規則八条)を新設した。
(三)A證券を始めとする証券会社は、本件通達等の主眼が早急に営業特金の解消を求める点にあると理解し、株式市況が急激に悪化する中で顧客との関係を良好に維持しつつ営業特金の解消を進めていくためには、損失補てんを行うこともやむを得ないという考え方が大勢を占めるようになった。
5(一)A證券の担当者は、本件通達の直後から、Bの財務部長らと営業特金の解消について交渉したが解決に至らず、損失補てんをしなければ今後の取引関係に重大な影響が生ずると考えて、管理部門の最高責任者であった被上告人Eに対し、損失補てんの必要がある旨の報告をした。被上告人Eは、Bの営業特金については、有価証券市場が好況であった当時から損失が生じており、将来のBの証券発行に際しての主幹事証券会社の地位を失うおそれがあることも考慮して、損失補てんを実施する必要があると判断した。平成二年三月一三日、被上告人らが出席したA證券の専務会において、被上告人Eから、Bほかの顧客に生じた損失について総額約一六一億円の補てんをすることが提案され、了承された。なお、被上告人らは、右損失補てんの実施を決定するに当たり、その違法性の有無につき法律家等の専門家の意見を徴することをしなかった。
(二)A證券のBに対する損失補てん(以下「本件損失補てん」という。)の具体的な方法は、市場や一般投資者に影響が及ばないように外貨建てワラントの相対取引によることとされ、平成二年三月一四日、ルクセンブルク証券取引所に上場の大成建設ワラントをA證券がBに売却し、即日買い戻すという方法により実施された。この結果、Bは三億六〇一九万一一二七円の利益を得て、営業特金による損失が補てんされ、営業特金も解消された。
6 本件損失補てん後、A證券とBとの取引関係は維持され、Bが平成四年七月に三〇〇億円、平成五年三月に二〇〇億円の社債を発行した際、A證券は、その主幹事証券会社として一億二〇〇〇万円余の手数料を得るなど、既に相当額の収入を得ており、かつ今後も得られる見込みである。

二 本件は、A證券の株主である上告人らにおいて、本件損失補てんにつき、当時A證券の代表取締役であった被上告人らが取締役としての義務に違反して会社に損害を被らせたものであると主張して、被上告人らに対し、商法二六六条一項五号の規定(以下「本規定」という。)に基づく取締役の責任を追及する株主代表訴訟である。
原審は、(一)本件損失補てんは、平成三年法律第九六号による改正前の証券取引法(以下「旧証券取引法」という。)五〇条一項三号、四号、五八条一号に違反しない、(二)本件損失補てんは、私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律(以下「独占禁止法」という。)二条九項三号に基づき公正取引委員会が指定した不公正な取引方法(昭和五七年同委員会告示第一五号。以下「一般指定」という。)の9(不当な利益による顧客誘引)に該当し、同法一九条に違反する、(三)しかし、同条は競争者の利益を保護することを意図した規定であって、同条違反の行為により損害を被るのは当該会社ではないから、同条違反が本規定にいう法令違反に含まれると解するのは相当でないなどとして、上告人らの本訴請求を棄却すべきものと判断した。
本件上告は、原審の右(一)及び(三)の判断が違法であるとして、原判決の破棄を求めるものである。

第二 上告人兼上告人Fの代理人亀田信男、上告代理人吉武伸剛、同飯田秀人の上告理由中、旧証券取引法違反に関する点について
前記事実関係の下において、本件損失補てんが、旧証券取引法五〇条一項三号、四号、五八条一号に違反するものとはいえないとした原審の判断は、正当として是認することができ、その過程に所論の違法はない。論旨は、独自の見解に立って原判決を論難するものにすぎず、採用することができない。

第三 その余の上告理由について
一 株式会社の取締役は、取締役会の構成員として会社の業務執行を決定し、あるいは代表取締役として業務の執行に当たるなどの職務を有するものであって、商法二六六条は、その職責の重要性にかんがみ、取締役が会社に対して負うべき責任の明確化と厳格化を図るものである。本規定は、右の趣旨に基づき、法令に違反する行為をした取締役はそれによって会社の被った損害を賠償する責めに任じる旨を定めるものであるところ、【要旨1】取締役を名あて人とし、取締役の受任者としての義務を一般的に定める商法二五四条三項(民法六四四条)、商法二五四条ノ三の規定(以下、併せて「一般規定」という。)及びこれを具体化する形で取締役がその職務遂行に際して遵守すべき義務を個別的に定める規定が、本規定にいう「法令」に含まれることは明らかであるが、さらに、商法その他の法令中の、会社を名あて人とし、会社がその業務を行うに際して遵守すべきすべての規定もこれに含まれるものと解するのが相当である。けだし、会社が法令を遵守すべきことは当然であるところ、取締役が、会社の業務執行を決定し、その執行に当たる立場にあるものであることからすれば、会社をして法令に違反させることのないようにするため、その職務遂行に際して会社を名あて人とする右の規定を遵守することもまた、取締役の会社に対する職務上の義務に属するというべきだからである。したがって、【要旨2】取締役が右義務に違反し、会社をして右の規定に違反させることとなる行為をしたときには、取締役の右行為が一般規定の定める義務に違反することになるか否かを問うまでもなく、本規定にいう法令に違反する行為をしたときに該当することになるものと解すべきである。

二 これを本件について見ると、証券会社が、一部の顧客に対し、有価証券の売買等の取引により生じた損失を補てんする行為は、証券業界における正常な商慣習に照らして不当な利益の供与というべきであるから、A證券がBとの取引関係の維持拡大を目的として同社に対し本件損失補てんを実施したことは、一般指定の9(不当な利益による顧客誘引)に該当し、独占禁止法一九条に違反するものと解すべきである。そして、独占禁止法一九条の規定は、同法一条所定の目的達成のため、事業者に対して不公正な取引方法を用いることを禁止するものであって、事業者たる会社がその業務を行うに際して遵守すべき規定にほかならないから、本規定にいう法令に含まれることが明らかである。したがって、被上告人らが本件損失補てんを決定し、実施した行為は、本規定にいう法令に違反する行為に当たると解すべきものである。
しかるに、原審は、独占禁止法一九条に違反する行為が当然に本規定にいう法令に違反する行為に当たると解するのは相当でないと判断しているのであって、この点において、原審は法令の解釈を誤ったものといわなければならない。

三 しかしながら、株式会社の取締役が、法令又は定款に違反する行為をしたとして、本規定に該当することを理由に損害賠償責任を負うには、右違反行為につき取締役に故意又は過失があることを要するものと解される(最高裁昭和四八年(オ)第五〇六号同五一年三月二三日第三小法廷判決・裁判集民事一一七号二三一頁参照)。
原審の適法に確定したところによれば、(一)被上告人らは、本件損失補てんが旧証券取引法あるいは本件通達に違反するものでないかどうかについては重大な関心を有していたが、それが一般の投資家に対して取引を勧誘するような性質のものではなかったことから、独占禁止法一九条に違反するか否かの問題については思い至らなかった、(二)被上告人らのみならず、関係当局においても、証券取引については所管の大蔵省によって証券取引法及びその関連法令を通じて規制が行われるべきであるとの基本的理解から、証券取引に伴う損失補てんが独占禁止法に違反するかどうかという問題は、本件損失補てんが行われた後一年半余にわたって取り上げられることがなかった、(三)公正取引委員会は、第一二一回衆議院証券及び金融問題に関する特別委員会が開催された平成三年八月三一日の時点においても、なお損失補てんが独占禁止法に違反するとの見解を採っておらず、公正取引委員会が、本件損失補てんを含む証券会社の一連の損失補てんが不公正な取引方法に該当し独占禁止法一九条に違反するとして、同法四八条二項に基づく勧告を行ったのは、同年一一月二〇日であった、というのである。
右事実関係の下においては、被上告人らが、本件損失補てんを決定し、実施した平成二年三月の時点において、その行為が独占禁止法に違反するとの認識を有するに至らなかったことにはやむを得ない事情があったというべきであって、右認識を欠いたことにつき過失があったとすることもできないから、本件損失補てんが独占禁止法一九条に違反する行為であることをもって、被上告人らにつき本規定に基づく損害賠償責任を肯認することはできない。

四 以上のとおりであるから、被上告人らが本件損失補てんを決定し、実施したことにつき、本規定に基づく損害賠償責任を否定すべきものとした原審の判断は、結論において是認することができる。論旨は、原判決の結論に影響しない事項についての違法をいうものに帰し、採用することができない。

第四 G及び株式会社H設計事務所の上告審における地位について
商法二六七条に規定する株主代表訴訟は、株主が会社に代位して、取締役の会社に対する責任を追及する訴えを提起するものであって、その判決の効力は会社に対しても及び(民訴法一一五条一項二号)、その結果他の株主もその効力を争うことができなくなるという関係にあり、複数の株主の追行する株主代表訴訟は、いわゆる類似必要的共同訴訟と解するのが相当である。
類似必要的共同訴訟において共同訴訟人の一部の者が上訴すれば、それによって原判決の確定が妨げられ、当該訴訟は全体として上訴審に移審し、上訴審の判決の効力は上訴をしなかった共同訴訟人にも及ぶと解される。しかしながら、合一確定のためには右の限度で上訴が効力を生ずれば足りるものである上、取締役の会社に対する責任を追及する株主代表訴訟においては、既に訴訟を追行する意思を失った者に対し、その意思に反してまで上訴人の地位に就くことを求めることは相当でないし、複数の株主によって株主代表訴訟が追行されている場合であっても、株主各人の個別的な利益が直接問題となっているものではないから、提訴後に共同訴訟人たる株主の数が減少しても、その審判の範囲、審理の態様、判決の効力等には影響がない。そうすると、【要旨3】株主代表訴訟については、自ら上訴をしなかった共同訴訟人を上訴人の地位に就かせる効力までが民訴法四〇条一項によって生ずると解するのは相当でなく、自ら上訴をしなかった共同訴訟人たる株主は、上訴人にはならないものと解すべきである(最高裁平成四年(行ツ)第一五六号同九年四月二日大法廷判決・民集五一巻四号一六七三頁参照)。
したがって、本件において自ら上告を申し立てなかったG及び株式会社H設計事務所は上告人ではないものとして、本判決をする。
よって、裁判官河合伸一の補足意見があるほか、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

+補足意見
裁判官河合伸一の補足意見は、次のとおりである。
法廷意見は、本規定にいう「法令」には、商法その他の法令中の、会社を名あて人とし、会社として遵守すべきすべての規定(以下「対会社規定」という。)が含まれることを明らかにした上、取締役が会社をして対会社規定に違反させることとなる行為をしたときは、一般規定の定める取締役の義務に違反するか否かを問うまでもなく、本規定に該当すると解している。すなわち、本規定に基づく取締役の責任は会社に対する債務不履行責任であるところ、本規定は、取締役が右のような行為をしたときは、当然に、民法四一五条所定の「債務ノ本旨ニ従ヒタル履行ヲ為ササル」との要件(以下「不履行要件」という。)を充足すると定めるものであって、その意味で同条に対する特則を成すと解するものである。
これに対し、対会社規定の全部又は一部について、取締役がそれらの規定に違反しても直ちに不履行要件を充足すると解すべきではなく、取締役の行為が一般規定の定める義務に違反するもの(以下「任務懈怠」という。)と評価されて初めて、これを充足することになると解する説(以下「反対説」という。)が唱えられており、原審もこれによったものと思われる。
私は、反対説には解釈論として相当の難点がある上、具体的事案の処理においても、法廷意見による場合に対比して、少なくとも右難点を無視するに足るほどの利点があるとはいえないと考えるので、以下、その概要を述べておきたい。
一 営利法人たる会社を経営する取締役の任務は、約言すれば、会社の最善の利益を図るため善良な管理者の注意をもってその職務を遂行することにある。反対説が、取締役の行為に対会社規定違反があっても、なお任務懈怠の評価を経るべきものとするのは、取締役の行為を、右違反の点をも含め、全体として観察すれば、任務懈怠とはいえない場合がある、すなわち前記の取締役の任務にかなうものと評価できる場合があるとの理解を前提とするのであろう。それは、結局、取締役が会社をして対会社規定に違反させることになる行為をしても、それが会社の利益を図るものであれば、会社に対する関係では債務不履行とはならない場合のあることを承認するものであり、換言すれば、会社の利益を図るためには、会社をして法令に違反させることになるような行為をすることもなお取締役の任務に属する場合があることを承認するものではなかろうか。しかし、私は、そのようなことを承認することには、とうてい賛成できない。
また、反対説は、商法の規定の構成や文理にも整合しないように思われる。本規定にいう「法令」に一般規定が含まれることについては、反対説の論者にも異論はない。対会社規定がこれに含まれるかは必ずしも一致していないが、もし含まれるとするのであれば、対会社規定は一般規定の下部規範でありながら、両者が同一条文中に並列的に置かれていることになるし、もし含まれていないとするのであれば、本規定は「取締役ガ其ノ任務ヲ怠リタルトキ」と定めていた昭和二五年改正前の二六六条一項とほとんど同じものとなり、右改正において、取締役の地位及び権限の強化に伴い、その責任の明確化と厳格化を図るため現行のように改められた趣旨にそぐわないことになる。商法が、監査役について、取締役に関する規定の多くを準用しながら、会社に対する責任については本規定を準用せず、「其ノ任務ヲ怠リタルトキ」と定めている(二七七条)こととも整合しない。商法二五四条ノ三にいう「法令」が対会社規定を含むことは明らかであるところ、同じく取締役の義務に関する本規定中の「法令」を別異に解することも、容易に理解し難いところである。
二 反対説には右のような難点があるが、それにもかかわらず反対説が提唱される理由には、法廷意見のように解すると取締役に対し不当に苛酷な責任を負わせることになるとの憂慮があるように思われる。
たしかに、対会社規定には多種多様なものがあり、取締役がそのすべてに通じていることは期し難いから、本件のように、取締役の行為が思いがけず対会社規定に違反する結果となる場合の生じ得ることを否定できない。その場合、取締役が当然に商法二六六条の定める責任を負うことになれば、その責任はきわめて厳格なものである。さらに、近年、本規定に基づいて取締役の責任を追及する代表訴訟が増加し、ことに商法二六七条四項の改正後は、その請求額が巨額に及ぶ例も少なくない。これらのことからすると、右の憂慮を故なきものということはできない。
ところで、取締役は、会社を取り巻く複雑かつ流動的な諸状況の下で、その任務を遂行するため、専門的な知識と経験に基づき、諸種の配慮をめぐらして経営上の判断をしなければならない。このような取締役の経営上の判断については、その性質上おのずから広い裁量が認められるべきであって、取締役のある判断が結果的に会社に損害をもたらしたとしても、それだけで直ちに取締役に任務懈怠があったとすることはできず、具体的事案における諸事情を総合勘案して評価決定すべきものとするのが、一般的理解である。反対説は、取締役が対会社規定に違反して会社に損害が生じた場合においても、右の経営判断に関する一般的理解に従い、具体的諸事情を総合勘案して任務懈怠と評価できるか否かを決することにより、取締役が前記の苛酷な責任から救済される可能性を拡大しようとするものと思われるのである。
しかし、私は、本規定に基づく取締役の責任の諸要件をより具体的に検討すれば、両説のいずれを採るかにより、結論においてそれほどの差を生じるものではないと考える。
1 まず、取締役の対会社規定に違反する行為の結果会社に損害が生じた場合において、取締役が、その行為をするに際し、それが対会社規定に違反するものであることを認識していたときには、前記の一般的理解によっても、取締役に任務懈怠なしとすることはできないであろう。取締役の裁量権には、法令に違反し、あるいは会社をして違反させることは含まれないはずであり、会社の利益を図るためには故意に法令を犯してもよいとはいえないからである。現に、反対説の論者も、多くは右の結論を認めているように思われる。
2 右の場合において、取締役が、自己の行為が対会社規定に違反することを認識していないときは、どうであろうか。
法廷意見の立場からは、債務不履行責任における帰責要件としての過失の問題となるところ、これについては一般に、債務者が取引関係上通常要求される程度の注意を欠いたがゆえに債務不履行という結果の発生を認識しなかったか否かが問われるのであって、右の場合に即していえば、当該行為をめぐる諸般の状況の下で、取締役が前記のような経営上の判断をするに際し、同様の状況にある通常の取締役に要求される程度の注意、すなわち善管注意を欠いたがゆえに、対会社規定違反となることを認識しなかったか否かが問われるのである。
反対説の立場からは、必ずしも帰責要件の問題とはされず、むしろ、あるいはまず、不履行要件の問題とされる如くであるが、いずれにしても、右の善管注意を欠いたか否かを基準として決せられることになると思われ、そうだとすれば、判断基準において法廷意見と差がないと考えられる。ただ、この立場においては、認識すべきものとされる対象が、法廷意見の立場におけるそれと異なることになるであろうが、そうであっても、その対象の中に当該行為が対会社規定に違反するという事実が含まれなければならない以上、右の差異によって結論が左右される事例は、次に述べるような場合を除き、容易に想定することができない。
3 取締役が善管注意を尽くせば対会社規定違反となることを認識し得たと判断されるけれども、この判断に供せられた事実関係に加えて、当該行為をめぐる状況を更に広く考察すれば、なお任務懈怠とは評価できないという場合はあり得るかも知れない。しかし、ここで更に考察の対象に加えられる事実関係ないしその評価とは、ほとんどの場合、通常の債務不履行の要件論において違法性阻却又は責任阻却事由として位置付けられるものではなかろうか。法廷意見の立場からも、緊急避難等の違法性阻却事由や、期待可能性等の責任阻却事由の存在が認められるときは、取締役の責任は否定されることになるのである。
4 あるいは、主張立証責任の所在については、両説のいずれを採るかにより、理論上、差異を生じるかも知れない。本規定に基づいて取締役の責任が追及される事案のほとんどはいわゆる不完全履行の類型に属するであろうが、同類型においては、不完全な履行があったこと、すなわち不履行要件の存在の主張立証責任は債権者側にあると解するのが一般である。これを前提とすると、法廷意見の立場からは、取締役が対会社規定に違反する行為をしたことが立証されれば、それだけで不履行要件を充足し、帰責事由の不存在又は違法性・責任阻却事由の存在は、すべて取締役が主張立証責任を負うことになる。これに対し、反対説の立場では、これらの事由は、ほとんどすべてが不履行要件たる任務懈怠の中に溶融され、取締役の責任を追及する側が主張立証責任を負うことになる。
もっとも、右は理論上のものに過ぎず、訴訟の実践の場においてはそれほどの差を生じないであろうが、もし右の理論のとおりに訴訟が運ばれるとすれば、反対説を採ることにより、取締役の責任が否定される場合が増えるであろう。
しかし、私は、右の理論にも、反対説によるその結果の妥当性にも、疑問を呈さざるを得ない。たとえば一定の品質を有すべき物の給付債務など、債務の内容が客観的、具体的に明確であり、それが完全に履行されたか否かを債権者が普通に知り得るものについては、その不履行要件についての主張立証責任を債権者に課すことは正当であろう。しかし、反対説がいうように、任務懈怠をもって不履行要件とするなら、そこで認定判断されるべき事柄は複雑多岐にわたり、しかもそのほとんどは取締役の関与領域内にあるから、物の給付債務などについてと同断には論じ得ないし、ことに代表訴訟の場合を考えると、原告にその主張立証責任を課すことにより取締役が勝訴するという結果は、公平でなく、妥当でもないと考えるのである。
三 本規定に基づき取締役に命じられる賠償額についても言及しておきたい。
前述のとおり、反対説が提唱される理由に、取締役に対し不当に苛酷な責任を負わせることへの憂慮があるとすれば、私も、それに共感を覚える場合がないわけではない。しかし、そのような結果を回避することは、反対説のように、不履行要件を任務懈怠として、対会社規定に違反した取締役の責任を全面的に否定する方法によってではなく、その責任を肯定した上、要賠償額の量定を妥当なものとする方法によってされる方が望ましく、現行法の下においても、その余地があると考えるからである。
1 たとえば、いわゆる損益相殺である。取締役の本規定該当の行為によって会社が損害を被ったが、同時に利益をも得ている場合、原則として、その差額をもって要賠償額とするものである。商法二六六条が会社の被った損害を取締役に賠償させる制度である以上、右のように損益相殺することは、むしろ当然のことといえる。
もっとも、取締役の行為から会社に利益が生じているにしても、その行為が刑事犯罪に該当するなど、その利益をもって損益相殺することが社会的に正当視できない場合はあろう。しかし、そのような場合は、会社に生じた損害をそのまま取締役に負わせても、不当に苛酷なものとはいえないと考える。
2 過失相殺の規定(民法四一八条)を適用し、あるいはその趣旨を類推適用することも、検討されるべきである。
取締役は会社の機関であり、対外的には一体と見るべきものであるが、会社の取締役に対する損害賠償請求権が訴求されているときには、たとえ取締役が現在もその地位にあるとしても、両者は債権者と債務者の関係にあるから、右規定が適用されることは自然である。
また、たとえば取締役の行為が本規定に該当するものではあるが、それは会社の歴代の経営者がしてきたことを継承するものであるとか、会社の組織や管理体制に牢固たる欠陥があるなど、いわば会社の体質にも起因するところがある場合には、損害賠償制度の根本理念である公平の原則、あるいは債権法を支配する信義則に照らし、右規定を類推適用することが許されてよいと考える(最高裁昭和五九年(オ)第三三号同六三年四月二一日第一小法廷判決・民集四二巻四号二四三頁、最高裁昭和六三年(オ)第一〇九四号平成四年六月二五日第一小法廷判決・民集四六巻四号四〇〇頁参照)。
もっとも、右の例のような場合、取締役は会社の体質を改善すべき義務を負うものであることも、考慮されなければならない。また、本規定に基づく責任が関与した取締役の連帯責任とされていることが、過失相殺規定の適用又は類推適用を困難にする場合もあろう。しかし、そのようなことも考慮しつつ、なおこれによって妥当な結論を導き得る場合があると考えるのである。
要賠償額を具体的事情に適合する合理的、現実的なものにするため、解釈論として用い得る調整手法は、右以外にもあり得よう。そして、このような調整をすることは、決して、商法二六六条ないし代表訴訟制度の目的に反するものではなく、その機能を減殺するものでもない。ことに、訴額に関する法改正により取締役の職務是正機能が鮮明になってきた代表訴訟制度にとっては、むしろ、これをより活性化することにつながるものである。
現行法の下では、右の合理的調整をするのに相当の困難があることは否定できない。これを適切かつ十分に行い得るようにするには、本来、法改正が必要であって、その早期の実現が待たれるところである。しかし、これが実現するまでの間にあっても、法解釈を工夫することによって不当な結果を回避し得る余地が多分にあると考える次第である。
(裁判長裁判官 河合伸一 裁判官 福田博 裁判官 北川弘治 裁判官 亀山継夫 裁判官 梶谷玄)

++解説
《解  説》
一 本件は、大手証券会社Aが大口顧客である訴外会社Bに対して損失補填を行ったことによりAに補填相当額の損害を生じたとして、Aの株主であるXらが、その決定・実施に関わった当時のAの代表取締役であるYらに対し、商法二六六条一項五号に基づき損害賠償を求める株主代表訴訟である。
二 本件の事実関係及び訴訟経過の概要は次のとおりである(なお、詳細については判文を参照されたい。)。
1 Aは、大口顧客であるBと有価証券の売買等による資金運用取引を継続してきており、Bの証券発行に際しては主幹事証券会社の地位にあった。
2 Bは、訴外信託銀行との間で一〇億円の特定金銭信託契約を締結し、同銀行がAに開設した取引口座を通じて有価証券の売買を行う特金勘定取引を開始したが、実際にはAがBに代わって同銀行に取引の指図をすることによって運用されるいわゆる営業特金による取引であった。ところが、右取引により平成元年末には約二億七〇〇〇万円の損失が生じ、平成二年に入ってからの株式市況の急激な悪化により損失が更に拡大し、Bが期間満了を待たずに右取引を終了させた同年二月末には損失は約三億六〇〇〇万円に上っていた。
3 平成元年一一月ころから証券会社の大口顧客に対する損失補填が社会問題となり、大蔵省は、同年一二月二六日、「証券会社の営業姿勢の適正化及び証券事故の未然防止について」と題する証券局長通達(本件通達)を発し、証券会社において法令上の禁止行為である損失保証等による勧誘に限らず、事後的な損失補填等も厳にこれを慎むとともに、特金勘定取引についても顧客と投資顧問業者との間に投資顧問契約を締結させるべきものとした。日本証券業協会も、本件通達を受けて、同協会の内部規則である公正慣習規則第九号(本件規則)を改正し、事後的な損失補填等をも厳に慎むものとする旨の定めを置いた。
Aを始めとする証券会社においては、本件通達等の主眼が営業特金の早期解消にあると理解し、株式市況が急激に悪化する中で顧客との関係を良好に維持しつつ営業特金の解消を進めていくためには、損失補填を行うこともやむを得ないとする考え方が大勢を占めていた。
4 Aでは本件通達の直後からBと営業特金の解消に向けて交渉したが解決に至らず、Bとの円満な取引関係を維持するために損失補填を実施する必要があるとして、平成二年三月、Yらが出席したAの専務会においてBに対する損失補填が決定され、AがBに売却した外貨建てワラントを即日買い戻すという相対取引により実施された(本件損失補填)。この結果、Bは三億六〇〇〇万円強の利益を得て、営業特金も解消された。その後、AとBとの取引関係は良好に維持され、AはBとの取引により相応の利益を得ている。
5 Xらは、本件損失補填が①平成三年法律第九六号による改正前の証券取引法(旧証取法)五〇条一項等に違反する、②昭和五七年公取委告示第一五号の9(不当な利益による顧客誘引)に該当し、独禁法一九条に違反する、③取締役の善管注意義務・忠実義務に違反するなどとして、Yらに対し、商法二六六条一項五号に基づく損害賠償として損害金内金一億円の支払を請求している。
6 一、二審とも本件損失補填の独禁法一九条違反性のみを肯認したが、一審は、本件損失補填によりその後得られる利益を考慮すれば損害があるとはいえないとしたのに対し、原審は、独禁法一九条が競争者の利益を保護することを意図した規定であることを理由に、同条違反は商法二六六条一項五号にいう法令違反には含まれないとして、Xらの請求を棄却すべきものとした。これに対してXらのうち二名から上告がされたところ、最高裁は、商法二六六条一項五号にいう法令には、取締役を名あて人とし取締役がその職務遂行に際して遵守すべき義務を定める規定のほか、会社を名あて人とし会社がその業務を行うに際して遵守すべき義務を定める規定も含まれるとした上で、Yらにおいて独禁法一九条違反の認識を欠いた点につき過失があったとはいえないとして、Yらの責任を否定した原審の判断を結論的に維持したものである。
二 取締役の任務は、会社の業務執行に関する意思決定に参画し、同時に他の取締役等の業務執行を監視するほか、取締役会からの委託等を受けて具体的な業務執行に携わるなど多岐に及ぶものであるところ、商法二六六条一項五号は、取締役がその任務を懈怠して会社に損害を被らせるすべての場合を包含する債務不履行責任であって、無過失責任であるとされる一ないし四号とは異なり、取締役の故意又は過失(帰責事由)を要すると解するのが通説及び判例(最三小判昭51・3・23裁判集民一一七号二三一頁)である。
そこでいう法令については、自己株式取得禁止(商法二一〇条)や競業避止義務(商法二六四条)等を定める商法中の具体的規定だけでなく、取締役の一般的な善管義務や忠実義務を定める規定(商法二五四条三項、二五四条ノ三)をも含むとするのが判例(最三小判昭47・4・25裁判集民一〇五号八四三頁)であり、従来の通説も、漠然と法令一般が含まれると考えていたようであるが、本件一審判決等を契機として、会社の財産・利益の保護を目的とする実質的意義の会社法に属する規定等に限定されるべきであるとする限定説が有力に唱えられる一方、これに対して、従来の通説とは異なる自覚的な非限定説が主張されるようになり、その中にも、法令違反行為があったからといって直ちに取締役の履行不完全と評価すべきではなく、法令違反の事実が主張立証されると、注意義務違反が事実上推定されるにとどまるとする見解や、取締役の法令遵守義務は、会社との間の委任契約に基づく善管注意義務とは別個の会社に対する義務であり、当該行為の決定に際して法令違反に当たることを知り得べき場合には、取締役に過失ありとして、損害賠償責任を負うとする見解が見受けられるなど、学説上議論が活発化していささか錯綜した状況にあって、下級審裁判例も分かれていたところである。
三 本判決は、商法二六六条一項五号にいう法令の意義について、取締役を名あて人とし、取締役の受任者としての義務を一般的に定める商法二五四条三項(民法六四四条)、商法二五四条ノ三の規定及びこれを具体化する形で取締役がその職務遂行に際して遵守すべき義務を個別的に定める規定のほか、会社を名あて人とし、会社がその業務を行うに際して遵守すべきすべての規定も含まれると解するのが相当であると判示して(判決要旨一)、前記限定説を採らないことを明らかにしている。営利法人である会社は会社ないしその所有者である株主の利益の極大化という目的を追求するものであるが、法認された社会的存在として、自然人と同様に、会社を名あて人とするあらゆる法令を遵守すべきは当然であり、取締役は、右の法令の直接の名あて人ではないが、受任者として会社に法令を遵守させるという義務を負い、その違反は取締役の責任原因となるものである。換言すれば、会社の意思決定に関与する機関たる取締役に対して、会社として法令を遵守するか否かに関して、これを否定する裁量権を認めることはできないというべきであろう。もっとも、本判決の採る立場は、前記の非限定説とも微妙に異なっており、近時の学説上の議論状況にかんがみて、漠然と法令一般が含まれるとしていた従来のいわば無自覚的な通説の見解を、明確な形で定式化し直したものと見ることもできるのではなかろうか。
取締役の会社に対する債務不履行責任は、いわゆる不完全履行の類型に属するものであるから、取締役の責任を追及する側で、問題とされている取締役の行為が取締役の受任者としての会社に対する義務に反するもの(受任者としての債務の本旨に従わざる履行)であることを主張立証しなければならない。商法二六六条一項は、各号で責任原因となるべき取締役の行為を列挙する形をとっており、五号にいう法令違反行為とは、不完全履行における履行不完全に相当する要件を規定しているものと解される。本判決は、取締役が会社をして会社がその業務を行うに際して遵守すべき規定に違反させることとなる行為をしたときは、右行為が取締役の善管義務・忠実義務に違反することになるか否かを改めて問うまでもなく、商法二六六条一項五号にいう法令に違反する行為をしたときに該当する旨判示して(判決要旨二)、取締役の責任を追及する側において、取締役の行為が同号にいう法令(善管義務・忠実義務を定める規定を除く。)に違反するものであることを主張立証すれば、それにより直ちに履行不完全の要件を充足し、取締役側において、帰責事由(故意過失)の不存在又は違法性・責任阻却事由の存在を主張立証しなければならないことを明らかにした。前記非限定説の中には、商法二六六条一項五号にいう法令違反行為の主張立証がされても取締役の受任者としての義務違反を事実上推定させるにとどまるとする見解も見受けられるが、このように解するときは、取締役の個別的義務を定める規定及び会社が遵守すべき義務を定める規定が善管義務・忠実義務を定める規定の下位規範として位置付けられる結果となり、妥当でないとされたものであろう(河合裁判官の補足意見参照)。
本判決は、右の商法二六六条一項五号の解釈及び判断枠組みを前提とした上で、本件損失補填が独禁法一九条に違反するものであり、商法二六六条一項五号にいう法令違反に該当することを肯定しながら、Yらが本件当時において、その行為が独禁法に違反するとの認識を有するに至らなかったことにはやむを得ない事情があったというべきであって、右認識を欠いたことにつき過失があったとすることはできないとして、Yらの損害賠償責任を否定した原審の判断を結論において是認している。具体的法令違反が問題となっている場合に法令違反の認識を欠いたことにつき過失がなかったとして取締役の賠償責任が否定された先例として、前掲最三小判昭51・3・23がある。本件では、Yらが本件損失補填の決定実施に当たって法律専門家の意見を聴くこともしていないにもかかわらず、法令違反の認識を欠いたことに過失がないとされるのは、本判決が指摘しているような本件当時の特殊な状況が存在していればこそであり、こうした形での免責が認められるのは極めて例外的なものというべきであろう。
また、本件損失補填の決定実施がYらの取締役としての善管義務・忠実義務に違反するか否かに関しては、Xらの上告理由において論旨となっていないことなどから、本判決は、この点につき明示的な理由説示をしてはいないが、右義務違反を否定した原審の判断を是認し得るものとしていることはいうまでもない。
四 最大判平9・4・2民集五一巻四号一六七三頁(玉串料大法廷判決)本誌九四〇号九八頁は、類似必要的共同訴訟である地方自治法二四二条の二に規定する住民訴訟においては、自ら上訴をしなかった共同訴訟人は、上訴人の地位には就かない旨判示して、類似必要的共同訴訟における上訴審での審判対象の問題と当事者の地位の問題が、従来考えられていたように分離不能なものではないことを明らかにした。
株主代表訴訟は、個々の株主が共益権に基づいて、実質的には他の株主全体を代表して、形式的には第三者の法定訴訟担当として提起追行する類似必要的共同訴訟であって、訴訟の構造ないし形式の点では住民訴訟のうちいわゆる四号訴訟に最も類似しているところ、個々の株主にとっての個別的具体的利益が直接問題となるものではなく、原告株主の数が提訴後に減少しても、審判の範囲、審理の態様、判決の効力には格別差違を生じない点や、株主全体の代表として訴訟を追行する意思を失った者に対して上訴人の地位に就き続けることを求めることが相当でないという点では、住民訴訟と基本的に変わるところはないことから、本判決は、大法廷判決の趣旨を推し及ぼして、複数の株主が共同して追行する株主代表訴訟においても、共同訴訟人である株主の一部の者のみが上訴した場合には、自ら上訴しなかった者は上訴人にはならないと判示した(判決要旨三)。本件では、自ら上告を提起したのは原審で参加した二名の株主だけであり、残りの二名は自ら上告をしていないところから、前者のみを上告人として取り扱っている。
五 取締役の責任が問題となるケースには、具体的法令違反が問題となるもの、経営判断の当否(善管注意義務)が問題となるもの、監視義務違反が問題となるものの三類型があるところ、本判決は、商法二六六条一項五号にいう法令の意義及び取締役の善管義務・忠実義務違反以外の具体的法令違反が問題となっている場合における判断枠組みに関して、最高裁として初めて明確な判断を示したものである。また、これらの点に関しては、河合裁判官の詳細な補足意見が付されており、法廷意見の採る立場を理論的に説明するとともに、取締役の責任追及の場面、とりわけ株主代表訴訟において問題とされることの多い取締役の責任の苛酷性ないし賠償金額の過大性という問題について、現行法下においても様々な工夫をこらすことによって妥当な結果を導くことが可能である旨説かれており、極めて示唆に富むものといえよう。平成五年の商法改正による貼用印紙額の固定化に伴って多数の株主代表訴訟が提起される一方で、株主代表訴訟制度をめぐる法改正への動きも活発化している昨今、裁判実務に大きな影響を有するだけでなく、会社経営陣に対しても遵法経営の必要性を強く迫るものであり、企業のコンプライアンスの観点からも注目すべき判例である。なお、本判決の評釈として、手塚裕之・商事一五七二号四頁、鳥山恭一・法セ五四九号一〇八頁等がある。

+判例(H23.2.17)
理 由
数人の提起する養子縁組無効の訴えは,いわゆる類似必要的共同訴訟と解すべきであるところ(最高裁昭和43年(オ)第723号同年12月20日第二小法廷判決・裁判集民事93号747頁),記録によれば,上告人兼申立人が本件上告を提起するとともに,本件上告受理の申立てをした時には,既に共同訴訟人であるX2が本件養子縁組無効の訴えにつき上告を提起し,上告受理の申立てをしていたことが明らかであるから,上告人の本件上告は,二重上告であり,申立人の本件上告受理の申立ては,二重上告受理の申立てであって,いずれも不適法である。
よって,裁判官全員一致の意見で,主文のとおり決定する。
(裁判長裁判官 宮川光治 裁判官 櫻井龍子 裁判官 金築誠志 裁判官横田尤孝 裁判官 白木 勇)

++解説
調べておく。


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です