憲法 日本国憲法の論じ方 Q10 幸福追求権


Q 13条で規定する幸福追求権の理解はどのように変わっていったか
(1)幸福追求権の補充的機能

+第十三条  すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

・個人の尊厳の原理と結びついて、人格的自律の存在として自己を主張し、そのような存在であり続けるうえで必要不可欠な権利・自由を包摂する包括的な主観的権利である!

(2)包括的基本権条項と理解されるようになった背景

(3)幸福追求権の由来

・プライバシーの侵害に対する法的救済
+判例(S39.9.28)宴の後事件
理   由
一、争いのない事実
(一) 請求原因一のとおり小説「宴のあと」が連載され、のち単行本として刊行されたこと、同小説は請求原因二のような梗概のものであること、小説「宴のあと」が原告および畔上輝井の経歴のうち社会的に周知の事実ならびにニユースに着想し、ストーリーを構成し、創作されたものであること、したがつて同小説に登場する「野口雄賢」および「福沢かづ」に関する描写のなかには原告および畔上輝井の経歴、職業その他社会的活動と似通つた部分があること、(請求原因三(一)関係)原告の略歴および畔上輝井が「般若苑」の経営者であり、原告と結婚し、原告の選挙に際し尽力したこと。「般若苑」を売却しようとして果さなかつたこと、原告主張の怪文書が配布されたこと。都知事選挙で原告が敗れたのち畔上輝井は原告と離婚し「般若苑」を再開したこと(請求原因三(二)関係)、他方小説「宴のあと」には別紙「連想部分の指摘表」同「侵害箇所の指摘表」に挙げられた各描写があること、
(二) 「宴のあと」が単行本として刊行発売されるに際し、請求原因三(三)の(1)ような広告が出され、また被告佐藤、同新潮社が請求原因三(三)(2)、(3)のような広告をしたこと、
(三) 原告が昭和三五年八、九月頃小説「宴のあと」を連載中の中央公論社に対し、同小説を単行本として出版しないようにと申し入れたこと、また同年一〇月末頃被告新潮社に対しても同様の申し入れを行つたが、同被告はこれを拒み、同年一一月一五日付で単行本として出版したこと(請求原因六(一)、(二)関係)、の各事実は当事者間に争いがない。

二、小説「宴のあと」が発売されるまでの経緯
証拠(省略)を総合すると、
(一) 被告平岡は昭和三一年に戯曲「鹿鳴館」を発表した頃から政治と恋愛との衝突というようなテーマを小説としても展開してみたいと考えていたところ昭和三四年の春から夏にかかる頃中央公論社から連載小説の執筆の依頼を受けた。その当時たまたま原告の都知事選挙出馬とそれをめぐる様々な話題が新聞、雑誌等に現われ、とくに原告の選挙とそれをめぐる原告夫婦の破局が同被告のあたためてきたテーマを展開するのに好個の材料であると思われたので、すでに公開されていた原告およびその妻であつた畔上輝井の手記、談話の類その他の報道記事、刊行物等を資料として集める一方、小説の構想を練り、同年秋頃漸く、胸中に小説の決定的契機ともなるべきものをとらえることができたように思えた。そこで被告平岡は中央公論社に対し「般若苑のマダムについて右のようなテーマで書きたいが、それでよいか」とただしたところ、同社は「異存はないがあまりになまなましい事件であるから少くともモデルとされる畔上輝井さんに会つてその意向をうかがつたうえで掲載の運びにしたい」との意見を述べ、被告平岡も小説の構想が女主人公を中心に立てられていたので、その必要性を認め、中央公論社の社長嶋中鵬二、同社の担当記者青柳正己と共に料亭「般若苑」で畔上輝井に会つた。被告平岡はこの当時はまだ女主人公を中心に小説を展開し、男主人公は傍系としてとどめる構想であつた。
(二) 右席上で被告平岡は畔上輝井に対し、自分の念頭にあるのは政治と恋愛との対立というような主題で、私は小説の女主人公に非常に美しいイメージをいだいており、小説では一つの理想の姿、肯定的な人間像をあなたを通して描いてみたいという趣旨の話をしただけで、その構想の具体的な内容、梗概などは話題に上らず、また中央公論社側も小説の具体的な内容については被告平岡に委ねてあり、般若苑のマダムがモデルになるという程度にしかその構想を知つていなかつたので、原告との関係で本件小説がどのように展開されるかなどの問題については格別説明しなかつた。この申し入れに対し、畔上は自分がモデルにされることの可否については即答を留保し、原告の意向もたずねてみたいとの態度であつたが、被告平岡には会談の空気から推して彼女に本当の自分の姿を書いてもらいたいという気持が動いていたように推察された。そして被告平岡ないし中央公論社と畔上との間でこの件について何度か交渉があつて漸く同女もモデルとされることについて明確な承諾を与えたので、小説「宴のあと」は雑誌中央公論の昭和三五年一月号から同年一〇月号まで一〇回にわけて執筆連載される運びになつた。
(三) 原告は小説「宴のあと」が中央公論誌上に連載される前に、畔上輝井から電話で三島由紀夫という小説家が般若苑のことを小説に書きたいと申し入れてきたがどうしたものだろうかという趣旨の簡単な問い合わせを受けたが、そのときはすでに畔上と離婚していたので「その問題については私としては諾否いずれとも返事をしない、お前がどう処置するかは私の関係するところでない」という意味のこれまた簡単な応答に終始し、原告がその作品のモデルとされる余地、その場合の問題などについてはなんらの意見の交換、打合も行われず、また被告平岡ないし中央公論社側から原告に対しこの点について原告の意向を直接打診するような措置はとられなかつた。
(四)畔上輝井は右(二)で認定したように一旦は小説のモデルにされるとを承諾したけれども、「宴のあと」が中央公論誌上に半ばほど発表された頃すなわち連載の第六回分が発表された頃、中央公論社に対し手紙で、「軽卒に承諾したがあのように自分が淫らな女として扱われている小説は全く心外であり、迷惑であるから、「宴のあと」の掲載は中止してもらいたい」旨を申し入れ、その頃から被告平岡の許にも幾度か同趣旨の申し入れがあつた。しかし被告平岡は「小説は中途では否定的な箇所も現われるけれども結論として最後に残るイメージが重要なものであり、「宴のあと」も最後まで読んでもらえば肯定的な人間像として描かれていることが判るでしようから」と答え、連載中の同小説の執筆、発表を続けた。ただ中央公論社の方では、畔上から掲載中止の要求がくり返されるので、連載についてはすでに同女の承諾を得たうえでのことではあり、作品も芸術的に秀れたものであるからこれを中止することはできないけれども、この小説にはモデルがない旨の断り書を中央公論誌上にうたうことで、一応畔上の抗議に応えることにし、同女にもその線で了解を求め、昭和三五年八月号、同一〇月号にその趣旨の断り書を附した。
(五) 原告は「宴のあと」が中央公論誌上に連載されるようになつて暫くしてこの小説の中で原告もモデルとなつていることを知つたけれども、連載のはじめの数回を読んだところでは、とくに不快な感じもいだかなかつたので、安心していたが、回が進み同年四、五月頃からは原告をモデルにしたと覚しい男主人公「野口雄賢」の取り扱いに堪え難いものを感じるようになり、とりわけ「野口雄賢」と「福沢かづ」との間の肉体的交渉が描かれている部分や「野口雄賢」が「福沢かづ」を踏んだり蹴つたりする部分などには非常な不快感と憤怒を覚え、一時は連載を中止させたいとまで思つたが、すでに同小説も結末に近く、いまさらその連載の中止を要求したところで容れられる望みはないから、むしろ人の噂も七五日という諺もあることだしそのままにして騒ぎ立てない方が賢明であると判断し、中央公論誌上での連載については敢えて抗議を申し込まないでいた。
しかしその後になつてこの連載小説が完結したあかつきには、あらためて単行本として出版されるということを耳にしたので、原告も、眠つた子を起すような行為はどうしても阻止しなければならないと決意し、連載が完結する直前頃青野秀吉その他の友人知己に「宴のあと」の発表によつて蒙つている苦痛を話し、この人々を介してまず被告平岡に単行本として出版することを思いとどまつてもらいたい旨を働きかけ、さらに、出版の件で直接同被告と会つて話をしたいと吉田健一、高木健夫を介して申し入れたが、いずれも被告平岡の容れるところとならなかつた。そこで原告は昭和三五年八、九月頃出版を予定していた中央公論社の嶋中鵬二と会つて、この小説によつて原告が蒙る精神的苦痛、不快を縷々説明し、「宴のあと」がモデル小説でないといくら断り書をつけても受け取る方ではそうは取らないこと男主人公「野口雄賢」のような経歴を持つ者は原告一人であり、当然に一般の読者は「野口雄賢」が原告を指していると解釈すること、すでに政界を引退している原告の過去の問題をいまさら小説という形で公衆の前に引きずり出されるのは甚だ迷惑であることを訴え、単行本として出版することは思いとどまつてほしい旨を申し入れた。
(六) 右の申し入れに対し中央公論社長嶋中は原告が迷惑を蒙つていることに同情の念を示し、中央公論社としては「宴のあと」が芸術的に秀れた価値をもつているので出版したいけれども、原告が蒙る迷惑は最小限度にどどめたいと思う旨を答え、原告および被告平岡との間の話合による解決の途を残しておいて、あらためて被告平岡に会い、「宴のあと」の字句の訂正や単行本の発売を適当な時期まで延ばすというような方法で、いわば芸術家として許せる範囲で妥協できないものかとその意向を打診した。しかし被告平岡は、出版社がその主たる雑誌に一旦掲載した以上は、作家の味方になつて単行本として後世に残すよう努力してくれるべき責務があるのに、原告の肩を持ち過ぎること、発売時期を遅らせるというけれども、その時期を明示しないことなどの点で、中央公論社は出版社としての責務に欠けるところがあると反論し、結局両者の話し合いは物別れになつた。
(七) 被告新潮社は昭和三五年九月末頃被告平岡から、「中央公論社では単行本出版のふんぎりがつかないようなので、自分として同社からは出版したくない、ついては新潮社で出さないか」との問い合わせを受けた。被告新潮社はすでは中央公論誌上に連載されたときから「宴のあと」の芸術的価値を認めていたので、同小説が巷間にモデル問題で論議を巻き起しつつあつたこと、同小説を一読すれば原告と畔上輝井が男女主人公のモデルであることは容易に判ることなどは充分認識していたけれども、むしろ中央公論社が連載中に同小説にはモデルがないなどと断り書を附した態度の方が曖昧であつて、第一級の文芸作品であるとの確信がある以上はモデル小説で押し通してはばかるところはない、中央公論社の態度には文学に尽す立場の者として信念が弱いのではないかという意見の下に喜んで「宴のあと」を単行本として出版することを引き受けた。その結果被告平岡は中央公論社の了解を得て、ここに単行本の出版権は連載小説として掲載した中央公論社ではなく被告新潮社が取得するという事態を生じるに至つた。
(八) 原告はこの話を聞き前述した中央公論社の場合と同様に一〇月末頃から手紙およびその秘書を介して口頭で被告新潮社に対して「宴のあと」の出版を取り止めるよう強く訴えたが、被告新潮社はすでに同小説の出版を引き受けるときに、原告からこのような抗議が来るであろうことは予想していたところであり、前記(七)のとおり中央公論社のとつた措置には賛成できないとその態度を明らかにしていたので、原告のこの申し入れによつて既定の方針を左右するようなことは全くないどころか、「宴のあと」の広告にあたつては、むしろ積極的に正面からモデル小説であることをうたい、請求原因三(三)(1)(3)のような広告を出し、被告佐藤を発行者として昭和三五年一一月末にまず初版三万部を発売し、その後一万部を増刷発売したことがそれぞれ認定でき、これを左右する証拠はない。

三、「宴のあと」のモデルについて、
(一) すでに認定したように「宴のあと」は被告平岡が胸中にあたためていたテーマが原告の東京都知事選挙への立候補とその後の夫婦関係の破局という現実に発生した事件に触発されて小説という形式で具体化されたものであるが、被告平岡公威尋問の結果によれば、被告平岡の意図したところは、政治的な理念と人間的な真実としての恋愛とが、ある局面で非常に悲劇的に衝突し、そこに人間の美しい真実が火花のようにひらめき現れるということ、別な表現でいえば全く純粋な人間の魂と魂がじかに触れ合うということは、非常に難しく、様々の外的な条件が制約となつてその触れ合いを妨げ、そこに起るギヤツプがいつも人間の悲劇を生み出すという思想に立つて、たまたまその年の春、すなわち昭和三四年四月の都知事選挙を契機として社会的にも関心を惹いた原告と畔上輝井との間の夫婦の問題を、その主題を展開させる好個の材料と判断し、このような社会的に著名な事件を素材として借りながら、小説としての構想をめぐらすにあたつては、男女の主人公にそのモチーフを展開するにふさわしい性格と肉づけを与えようと試みたこと、したがつて、「宴のあと」の描写で原告がプライバシーの侵害として指摘する部分のごときは、被告平岡が小説家として本件小説のためは創作した情景であつて、原告のいわゆる「侵害箇所の指摘表」に指摘されているような「野口雄賢」および「福沢かづ」に関する描写と同一の行為、感情が原告または畔上輝井に生起したかどうかは被告等の全く関知しないところであつたことを認めることができ、右の指摘表にあるような描写に対応する事実が現実に生起したものであること換言すれば、本件小説の描写が原告や畔上の行動を敷き写しにしたものであることを認めさせるような証拠は存在しない。
(二) このように本件小説はいわゆる暴露小説、実録小説などのように実在し、あるいは実在した特定の人物の私行を探り出しこれを公開しようとする意図の下に書かれた小説とは、その制作の動機および表現された内容において異質のものであることは否定できないところであり、本件小説の発表、刊行をもつて写真、報道記事の類もしくはいわゆる暴露小説、内幕物の類によつて他人の私生活、秘事を暴露、公開する行為と同一視することは正当ではない
しかし小説が写真や報道記事などと異り作家のフイクシヨン(創作)によつて支えられているものであるとしても、いわゆるモデル小説と呼ばれるものについて、そのモデルを探索し考証することが一つの文学的研究とさえなつていることは公知の事実であり、まして小説の一般の読者にとつてはモデルとされるものが読者の記憶に生々しければ生々しいほどその小説によせるモデル的興味(実話的興味と言い換えることもできよう)も大きくならざるを得ないのが実情であり、そうなればなるほどモデル小説といわれるものは小説としての文芸的価値以外のモデル的興味に対して読者の関心が向けられるという宿命にあることもみやすいところである。
(三) しかも「宴のあと」が発表されたのは、原告が出馬した昭和三四年四月の東京都知事選挙から僅に一年前後を経過した時であり、同選挙がいわゆる般若苑マダム物語という怪文書事件や原告と畔上輝井との離婚事件、般若苑の売却、再開問題などでとくに世人の印象に深かつたことは公知の事実であるから、このような社会的な状況の下に、原告の主要経歴、政治的地位、選挙活動および畔上輝井の職業、両者の夫婦関係の破綻といつた事実をそのまま借りて「宴のあと」の主人公である「野口雄賢」および「福沢かづ」を設定する際に利用している以上は、この小説の読者が「野口雄賢」から原告を、「福沢かづ」から畔上輝井を連想することは避けられないところであり、被告平岡公威もその尋問の結果の中でこのことを肯定している。(なおすでに指摘したとおり「野口雄賢」および「福沢かづ」の描写のうちその経歴、職業、社会的活動が原告および畔上輝井のそれに着想したもので、したがつて彼此酷似するところが多いことは被告等も認めるところである。)このように昭和三四年四月の都知事選挙をめぐる公知の事実と原告が別紙「連想部分の指摘表」に挙示した本件小説中の各描写部分(ただしB項を除く)とを対照し、これに(中略)の各証拠を総合すれば「野口雄賢」および「福沢かづ」がそれぞれ原告および畔上輝井をモデルとしたものであることと一般の読者にも察知させるに充分な内容のものであつたことが認定でき、この意味において「宴のあと」がモデル小説であることは否定できない。しかも「宴のあと」が発表、刊行された時期および社会的な状況が前述のとおりであるところ、このように世人の記憶に生々しい事件を小説の筋立に全面的に使用しているため、一般の読者が小説のモデルを察知し易いことは原告の実名を挙げた場合とそれほど大きな差異はないといつても過言ではない。以上の判断を左右する証拠はない。

四、小説のモデルとプライバシー
(一) すでに認定したとおり、原告がプライバシーの侵害として挙示する描写はいずれも原告の現実の私生活を写したものではなく、被告平岡のフイクシヨンになるものと認められ、そのかぎりでは「宴のあと」が原告の私生活を暴露、公開したとはいえない
1 しかしモデル小説の一般の読者にとつて、当該モデル小説のどの叙述がフイクシヨンであり、どの叙述が現実に生起した事象に依拠しているものであるかは必ずしも明らかではないところから、読者の脳裏にあるモデルに関する知識、印象からら推して当該小説に描写されているような主人公の行動が現実にあり得べきことと判断されるかぎり、そのあり得べきことに関する叙述が現実に生起した事象に依拠したものすなわちフイクシヨンではなく実際にもあつた事実と誤解される危険性は常に胚胎しているものとみなければならない。ましてモデル小説の執筆にあたつて作家が当該モデルに関する様々の資料を入手し、執筆の参考に供していることは読書人の常識となつている実情にあるから、モデル小説の読者の既成の知識にない事柄の叙述が出てきた場合にこれを悉く作家のフイクシヨンと受け取るとはとうてい期待できないところであり、叙述された事象が読者のモデルに関する知識イメージなどから推して信じ難いようなものであれば別であるが、あり得べきことであるかぎり一般的には読者のモデルに対する好奇心、詮索心によつて助長されてフイクシヨンと事実の判別は極めて難しくなるであろうことは明らかである。もつとも、作者がそのような叙述の内容となつた事実についてなんらの資料、知識をも有しないことが一般の読者にも明らかであれば、全くのフイクシヨンであることは読者にとつても明らかであろうけれども、本件ではそのような事情が存在したことを窺うに足る証拠はない。しかも被告平岡公威尋問の結果によつても明らかなとおり、被告平岡は「宴のあと」の構想、執筆にあたつて、小説の背景には現実感が必要であり、原告および畔上輝井をモデルとする以上は両者に関する公知の事実を小説上でわざわざ舞台を変えて設定することはかえつて不自然な感じを与えるから、小説の舞台は現実らしきものを設定して書かなければならないと考えていたことが認められるから、このような技法が一般の読者をして事実とフイクシヨンとの境界をますます判別し難くさせたであろうことは察するに難くない。(もし事実とフイクシヨンが水と油のように分離して何人にもその区別が明らかな小説があるとすれば、そのような小説ではいわゆるモデルのプライバシーの問題は起り得ないであろう。)
2 そしてモデル小説というものは必ずしも常に小説としての文芸的価値の面でのみ読者の興味を惹くとはかぎらず、モデルの知名度言葉を換えればモデルに対する社会の関心が高ければ高いだけ、モデル的興味(実話的もしくは裏話的興味)が読者の関心を唆る傾向にあることは否定できないところであり、このようなモデル小説は、味わうために読まれるばかりでなく知るために読まれる傾向が作者の意図とは別に否応なく生じるものである。これが小説の正しい読み方であるかどうかの論議は別としてこのようなモデル的興味は好奇心、詮索癖という人間の心理的な特質に由来するかぎりにわかに消滅し去るものではない。いわんや被告新潮社、同佐藤が「宴のあと」を単行本として発売するに当つて行つた広告であることに争いがない請求原因三(三)の各事実およびこれらの広告である成立に争いない甲第一ないし五号証を総合すれば被告新潮社が内心どのように「宴のあと」を評価していたかは別として、モデル的興味を惹き起すことに広告効果の重点が置かれていたものと認めざるを得ないのであり、モデル小説においては、このようなモデル的興味が潜在しているからこそ、このような広告効果を期待できるわけであり、それもモデルの知名度が高ければ高いほど大きいことは明らかである。そして作者の被告平岡自身もこのような広告がますます原告の憤満をかうであろうことが予想できた旨同被告本人尋問の結果中で供述している。被告佐藤亮一尋問の結果も右の認定を左右するに至らず他に反証はない。とくに「宴のあと」の発表、刊行は原告の都知事選挙出馬とその後の離婚といつた社会的に著名な事件の発生から僅に一年前後を経過したにすぎない時であり、当時なお原告と畔上輝井の夫婦関係の破綻は世人の記憶に生々しく、週刊誌等でも大きく取り上げられたことは成立に争いない乙第一ないし八号証の各一、二にまつまでもなく公知の事実であつたから、モデルが原告および畔上輝井(もしくは般若苑のマダム)であることの確信とそれに支えられたモデル的興味とは今日とは比較にならないほど強かつたことは想像するに余りがある。
3 このようにモデル小説におけるプライバシーは小説の主人公の私生活の描写がモデルの私生活を敷き写しにした場合に問題となるものはもちろんであるが、そればかりでなく、たとえ小説の叙述が作家のフイクシヨンであつたとしてもそれが事実すなわちモデルの私生活を写したものではないかと多くの読者をして想像をめぐらさせるところに純粋な小説としての興味以外のモデル的興味というものが発生し、モデル小説のプライバシーという問題を生むものであるといえよう。
4 これまで判断したように、「宴のあと」の中で原告がプライバシーの侵害として指摘するような私生活の各描写はいずれも被告平岡のフイクシヨンであると認めざるを得ないけれども、原告の消息に特に通じた者を除けば、一般の読者は、そのフイクシヨンと事実とを小説の叙述のうえで明確に識別することは難しく、とくに「宴のあと」にあつては読者にとつて既知の事実が極めて巧に小説の舞台に織り込まれているだけに、作者の企図した「現実感」という効果が読者に強く迫り、迫真性を帯びて来ることと、この小説がモデルおよび事件に対する世人の記憶がまだ生々しい間に発表されたという時間的要素とが相乗的に作用し、モデル的興味を唆ると同時に本来なら主人公の私生活の叙述であるにすぎないものがモデルである原告および畔上輝井の私生活を写しまたはそれに着想した描写ではないかと連想させる結果を招いていたことは否定できないところと認められ、このような受け取られ方が、モデル小説、私小説をも含めて小説本来の正しい味わい方であるかどうかは別として、主人公の私生活ないし心理の描写はすべて作者のフイクシヨンであるとか読者にとつて既知の事実でない部分はすべてフイクシヨンであると受け取られるほどには、今日のモデル小説に対する関心、興味は純化されていないと考えられ、いわばこれがモデル小説の今日おかれている社会的な環境ということができ、「宴のあと」の発表方法もその例外であることはできない。
(二) したがつて、小説「宴のあと」が発表されたため、作者の本来の意図とは別に、そこに展開されている主人公「野口雄賢」の私生活における様々の出来事の叙述の全部もしくは一部が実際に原告の身の上に起つた事実ではないかと推測する読者によつて原告は好奇心の対象となり、いわれなくこれら読者の揣摩臆測の場に引き出されてしまうのであり、これによつて原告が心の平穏を乱され、精神的な苦痛を感じたとしてもまことに無理からぬものがあるといわなければならない。そしてこのようなことによつて原告が受ける不快の念は、小説に叙述されたところが真実に合致していると否とによつてさしたる径庭はない。(むしろ虚構の事実である場合の方が臆測をたくましくされたという感じをいだく点でより不快の念を覚えることさえ考えられないではない。) 
この点については、成立に争いない甲第二八号証の一、二、および証人嶋中鵬二の証言、原告本人尋問の結果ならびに弁論の全趣旨を総合すれば、「宴のあと」の描写のなかで原告がとくに強く不快の念をいだいた点は、(イ)妻を踏んだり蹴つたりする場面が詳細に叙述されていること(一六六頁ないし一七〇頁)、(ロ)寝室での行為、心理の描写(とくに一三五頁、一三六頁など)、(ハ)妻が料亭の再開にあたつて政敵から金銭的な援助を得たような描写の三点で、このほか「野口雄賢」と「福沢かづ」夫婦の生活のあとを叙述する部分とくに接吻などの場面についても程度の差はあるが、それが原告と畔上輝井の夫婦の間に起つた出来事として受け取られるおそれがあることを思うときは、羞恥ないし不快の念を禁じることができなかつたこと、なかんずく原告が憲法擁護国民連合に関与していたこともあつて、(イ)のように女性を足にかけるような描写にはとくに強い憤満を感じたし、また総体的にも、原告は都知事選挙を最後に政界から引退し、余生を平穏に送るべく念願していたところに、「宴のあと」が発表され、再び公衆の面前に自分の全身をさらけ出されたような気持で、堪え難い苦痛を覚えたことが窺い知られ他に反証はない。これによれば原告がとくに不快ないし羞恥、嫌悪の念を覚えたという(イ)(ロ)の部分およびこれにまつわる「野口雄賢」と「福沢かづ」の私生活の描写(とくに二二七頁ないし二二九頁)については、それがたとえ小説という形式で発表され、したがつて当然に作者のフイクシヨンないし潤色が施されていることが考えられるものであるにしても通常人の感受性を基準にしてみたときになお、原告がその公開を望まない感情は法律上も尊重されなければならないものと考える。
(三) もつとも、被告等は私生活をみだりに公開されないという意味でのプライバシーの尊重が必要なことは認めるけれども、それが実定法的にも一つの法益として是認され、したがつて法的保護の対象となる権利であるかどうかは疑問であると主張する。しかし近代法の根本理念の一つであり、また日本国憲法のよつて立つところでもある個人の尊厳という思想は、相互の人格が尊重され、不当な干渉から自我が保護されることによつてはじめて確実なものとなるのであつて、そのためには、正当な理由がなく他人の私事を公開することが許されてはならないことは言うまでもないところである。このことの片鱗はすでに成文法上にも明示されているところであつて、たとえば他人の住居を正当な理由がないのにひそかにのぞき見る行為は犯罪とせられており(軽犯罪法一条一項二三号)その目的とするところが私生活の場所的根拠である住居の保護を通じてプライバシーの保障を図るにあることは明らかであり、また民法二三五条一項が相隣地の観望について一定の規制を設けたところも帰するところ他人の私生活をみだりにのぞき見ることを禁ずる趣旨にあることは言うまでもないし、このほか刑法一三条の信書開披罪なども同じくプライバシーの保護に資する規定であると解せられるのである。
ここに挙げたような成文法規の存在と前述したように私事をみだりに公開されないという保障が、今日のマスコミユニケーシヨンの発達した社会では個人の尊厳を保ち幸福の追求を保障するうえにおいて必要不可欠なものであるとみられるに至つていることとを合わせ考えるならば、その尊重はもはや単に倫理的に要請されるにとどまらず、不法な侵害に対しては法的救済が与えられるまでに高められた人格的な利益であると考えるのが正当であり、それはいわゆる人格権に包摂されるものではあるけれども、なおこれを一つの権利と呼ぶことを妨げるものではないと解するのが相当である。 
(四) 右に判断したように、いわゆるプライバシー権は私生活をみだりに公開されないという法的保障ないし権利として理解されるから、その侵害に対しては侵害行為の差し止めや精神的苦痛に因る損害賠償請求権が認められるべきものであり、民法七〇九条はこのような侵害行為もなお不法行為として評価されるべきことを規定しているものと解釈するのが正当である。
そしてここにいうような私生活の公開とは、公開されたところが必ずしもすべて真実でなければならないものではなく、一般の人が公開された内容をもつて当該私人の私生活であると誤認しても不合理でない程度に真実らしく受け取られるものであれば、それはなおプライバシーの侵害としてとらえることができるものと解すべきであるけだし、このような公開によつても当該私人の私生活とくに精神的平穏が害われることは、公開された内容が真実である場合とさしたる差異はないからである。むしろプライバシーの侵害は多くの場合、虚実がないまぜにされ、それが真実であるかのように受け取られることによつて発生することが予想されるが、ここで重要なことは公開されたところが客観的な事実に合致するかどうか、つまり真実か否かではなく、真実らしく思われることによつて当該私人が一般の好奇心の的になり、あるいは当該私人をめぐつてさまざまな揣摩臆測が生じるであろうことを自ら意識することによつて私人が受ける精神的な不安、負担ひいては苦痛にまで至るべきものが、法の容認し難い不当なものであるか否かという点にあるものと考えられるからである。
そうであれば、右に論じたような趣旨でのプライバシーの侵害に対し法的な救済が与えられるためには、公開された内容が(イ)私生活上の事実または私生活上の事実らしく受け取られるおそれのあることがらであること、(ロ)一般人の感受性を基準にして当該私人の立場に立つた場合公開を欲しないであろうと認められることがらであること、換言すれば一般人の感覚を基準として公開されることによつて心理的な負担、不安を覚えるであろうと認められることがらであること、(ハ)一般の人々に未だ知られていないことがらであることを必要とし、このような公開によつて当該私人が実際に不快、不安の念を覚えたことを必要とするが、公開されたところが当該私人の名誉、信用というような他の法益を侵害するものであることを要しないのは言うまでもない。すでに論じたようにプライバシーはこれらの法益とはその内容を異にするものだからである。
このように解せられるので、右に指摘したところに照らしても、本件「宴のあと」は少くとも前記(二)末尾で説示した範囲では原告のプライバシーを侵害したものと認めるのが相当である。(原告が掲げる侵害個所の指摘表挙示のその他の叙述については、後に判断する。)

五、違法性阻却事由について
プライバシーの保護がさきに指摘したような要件の下に認められるものとすれば、他人の私生活を公開することに法律上正当とみとめられる理由があれば違法性を欠き結局不法行為は成立しないものと解すべきことは勿論である。
(一) しかし、小説なり映画なりがいかに芸術的価値においてみるべきものがあるとしても、そのことが当然にプライバシー侵害の違法性を阻却するものとは考えられない。それはプライバシーの価値と芸術的価値(客観的な基準が得られるとして)の基準とは全く異質のものであり、法はそのいずれが優位に立つものとも決定できないからである。それゆえたとえば無断で特定の女性の裸身をそれと判るような形式、方法で表現した芸術作品が、芸術的にいかに秀れていても、この場合でいえば通常の女性の感受性を基準にしてそのような形での公開を欲しないのが通常であるような社会では、やはりその公開はプライバシーの侵害であつて、違法性を否定することはできない。もつともさきに論じたとおりプライバシーの侵害といえるためには通常の感受性をもつた人がモデルの立場に立つてもなお公開されたことが精神的に堪え難いものであるか少くとも不快なものであることが必要であるから、このような不快、苦痛を起させない作品ではプライバシーの侵害が否定されるわけでありまた小説としてのフイクシヨンが豊富で、モデルの起居行動といつた生の事実から解放される度合が大きければ大きいほど特定のモデルを想起させることが少くなり、それが進めばモデルの私生活を描いているという認識をもたれなくなるから、同じく侵害が否定されるがそのような例が芸術的に昇華が十分な場合に多いであろうことは首肯できるとしても、それは芸術的価値がプライバシーに優越するからではなく、プライバシーの侵害がないからにほかならない。
(二) また被告等は言論、表現の自由の保障がプライバシーの保障に優先すべきものであると積極的主張二のとおり主張するけれども、本件についてはその主張するところは正当でない。もちろん小説を発表し、刊行する行為についても憲法二一条一項の保障があることはその主張のとおりであるが、元来、言論、表現等の自由の保障とプライバシーの保障とは一般的にはいずれが優先するという性質のものではなく、言論、表現等は他の法益すなわち名誉、信用などを侵害しないかぎりでその自由が保障されているものである。このことはプライバシーとの関係でも同様であるが、ただ公共の秩序、利害に直接関係のある事柄の場合とか社会的に著名な存在である場合には、ことがらの公的性格から一定の合理的な限界内で私生活の側面でも報道、論評等が許されるにとどまり、たとえ報道の対象が公人、公職の候補者であつても、無差別、無制限に私生活を公開することが許されるわけではない。このことは文芸という形での表現等の場合でも同様であり、文芸の前にはプライバシーの保障は存在し得ないかのような、また存在し得るとしても言論、表現等の自由の保障が優先さるべきであるという被告等の見解はプライバシーの保障が個人の尊厳性の認識を介して、民主主義社会の根幹を培うものであることを軽視している点でとうてい賛成できないものである。
(三) 被告等は原告が右にいう公的存在であつたことを理由に侵害行為に違法性がないと主張する。
なるほど公人ないし公職の候補者については、その公的な存在、活動に附随した範囲および公的な存在、活動に対する評価を下すに必要または有益と認められる範囲では、その私生活を報道、論評することも正当とされなければならないことは前述のとおりであるが、それにはこのような公開が許容される目的に照らして自ら一定の合理的な限界があることはもちろんであつて無差別、無制限な公開が正当化される理由はない。とくに私生活の公開が公人ないし公職の候補者に対する評価を下すための資料としてなされるものであるときはその目的の社会的正当性のゆえに公開できる範囲が広くなることが肯定されるであろうけれども、本件のように、都知事選挙から一年前後も経過し、原告がすでに公職の候補者でなくなり、公職の候補者となる意思もなくなつているときに、公職の候補者の適格性を云々する目的ではなく、もつぱら文芸的な創作意慾によつて他人のプライバシーを公開しようとするのであれば、それが違法にわたらないとして容認される範囲はおのずから先の例よりも狭くならざるを得ない道理であり、おおむねその範囲は、世間周知の事実および過去の公的活動から当然うかがい得る範囲内のことがらまたは一般人の感受性をもつてすれば、被害意識を生じない程度のことがらと解するのが妥当である。
そうであれば先に四(四)末尾で認定したような部分は、原告が被告等主張のような公的経歴を有していること(この点は争いがない)を考慮に入れてもなお原告が受忍すべき範囲を越えたものとして、そのプライバシーの侵害は違法なものと認められる。(もつとも侵害箇所の指摘表で原告が挙げるその他の部分は右に挙げた基準に照らし未だ原告のプライバシーを侵害したと認めるに充分ではない。なお、同表で侵害した部分として原告が挙げるもののうち野口雄賢に関する叙述がなく「福沢かづ」の心理、挙動を中心に描写した部分たとえば一四〇頁、一四一頁、一五九頁、二三九頁、二七五頁ないし二七七頁などについて、原告は、妻の私行や妻の肉体の描写も夫である原告のプライバシーを侵害したことになると主張するけれど、両者は別個の人格であるから、原告に関する叙述がないかぎり原告のプライバシーを侵害したとは認め難い。)これらの判断を覆すに足る証拠はない。
(四) さらに被告等は「宴のあと」の執筆について原告が承諾を与えていたと主張するけれども、これを認めるに充分な証拠はない。≪中略≫
(五) なお被告平岡は右に認定したとおり少くとも「宴のあと」を中心公論誌上に連載してからかなりの間は原告も承諾を与えてくれたものと誤信していたのであるから、直接原告に承諾を求めるとかあるいは畔上その他第三者に明確に原告の承諾を得てもらいたい旨を依頼するなどの積極的な措置を講じないまま、このように誤信した点で過失の責任は免かれないとしても、故意はなかつたものと認めるのが相当である。しかし前記二(五)で認定したところから、被告平岡は「宴のあと」の連載が完結する頃には原告が承諾を与えていなかつたことを察知できたものと認められるから、本件で問題とされる被告新潮社からの単行本としての出版については他の両被告と共に故意があつたものと認めて妨げない。
被告佐藤及び被告新潮社は「宴のあと」が中央公論社に連載された後に単行本として刊行される段階において関与するに至つたものではあるが、前認定の事情の下で原告からの出版の中止方の要請に対してこれを拒みモデル小説としての広告を敢てなした上で単行本として出版したものであるから被告平岡のなした原告のプライバシー権の侵害行為に加担したものというべく、被告平岡と共同して出版により新に原告に精神的苦痛をあたえたものといえるから被告平岡と共に原告のプライバシー権の侵害による損害賠償義務あるものと解するのが相当である。
六、請求の当否について
(一) 以上判断したとおり、被告等の主張は結局採用することができないので、被告等は「宴のあと」の発表及び単行本としての出版によつて原告が蒙つたプライバシーの侵害に対し損害を填補すべき義務があるものといわなければならない。
原告は本件損害の賠償請求として、謝罪広告および金銭による損害賠償の二つを請求するけれども、私生活(私事)がみだりに公開された場合に、それが公開されなかつた状態つまり原状に回復させるということは、不可能なことであり名誉の毀損、信用の低下を理由とするものでない以上は、民法七二三条による謝罪広告等は請求し得ないものと解するのが正当である。
(二) そこで金銭賠償の請求について判断すると、原告が本件「宴のあと」の発表及び単行本としての出版によつて蒙つた精神的な不安、苦痛は前記二(五)、四(二)、(四)で認定したとおりであること、しかしながら「宴のあと」が中央公論誌上に連載される過程では、被告平岡に署名入りの自著を贈呈したり、また連載分について承認を与えたわけではないが積極的に抗議もしなかつたというような事情があつて、被告平岡をして、原告の承諾があつたかのように誤信させると同時に、これによつて被告新潮社から単行本として発売される以前に、すでに「宴のあと」は広く発表されていたこと、他方、被告新潮社および被告佐藤は前記二(七)、(八)、四(一)、2で認定したように、出版業に従事する者としての信念に基づくとはいうものの原告の重ねての出版中止の要求を拒否し、そのうえ積極的にモデル小説であることを広告したというより、モデル的興味を喚起するのが主眼であるとしか考えられないような広告を出すことによつて、とくに世人の注意を惹き、原告のプライバシーに対する侵害を著しくしたこと、そして被告新潮社が出版した部数は合計四万部に達することその他本件で認定した諸事実を合せ考えると、「宴のあと」を執筆し発表し出版をさせた点で被告平岡の責任が最も大きいもののようにもみえるが、プライバシーの侵害という観点からみれば、被告新潮社の販売方針とみられる前示のような広告の内容が著しく影響していることは看過することができない事実である。このような点を考慮すれば、中央公論誌上に発表した点で被告平岡の行為は他の被告等よりも侵害の態様、期間において大きい(この部分については被告新潮社および被告佐藤は関与していない)けれども、その他の被告等の責任との間に結局甲乙はないものというべく被告等は連帯して原告の受けた精神的苦痛を慰藉するに要する金員として八〇万円を支払うべき義務があると認めるのが相当である。この損害額の算定を左右するに足る証拠はない。
七、結論
以上のとおり判断されるので、本訴請求のうち慰藉料の支払を求める部分は八〇万円およびこれに対する各訴状送達の後であること記録上明らかな昭和三六年三月二六日から完済まで年五分の割合による民法所定の遅延損害金の範囲で認容し、その余の部分および謝罪広告を命じる請求はいずれも棄却することとし、民事訴訟法九二条九三条一項但書、一九六条を適用し主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官石田哲一 裁判官滝田薫 裁判官山本和敏は転官のため署名捺印できない。)

+判例(S44.12.24)京都府学連事件
理由
被告人本人の上告趣意二のうち、および弁護人青柳孝夫の上告趣意第一点のうち、昭和二九年京都市条例第一〇号集会、集団行進及び集団示威運動に関する条例(以下「本条例」という。)が、憲法二一条に違反するという主張について。
本条例が、道路その他屋外の公共の場所で、集会もしくは集団行進を行なおうとするときまたは場所のいかんを問わず集団示威運動を行なおうとするときは、公安委員会の許可を受けなければならないと定め、これらの集団行動(以下単に「集団行動」という。)を事前に規制しようとするものであることは所論のとおりである。しかしながら、本条例を検討すると、同条例は、集団行動について、公安委員会の許可を必要としているが(二条)、公安委員会は、集団行動の実施が「公衆の生命、身体、自由又は財産に対して直接の危険を及ぼすと明らかに認められる場合の外はこれを許可しなければならない。」と定め(六条)、許可を義務づけており、不許可の場合を厳格に制限しているのである。
そして、このような内容をもつ公安に関する条例が憲法二一条の規定に違反するものでないことは、これとほとんど同じ内容をもつ昭和二五年東京都条例第四四号集会、集団行進及び集団示威運動に関する条例についてした当裁判所の大法廷判決(昭和三五年(あ)第一一二号同年七月二〇日判決、刑集一四巻九号一二四三頁)の明らかにするところであり、これを変更する必要は認められないから、所論は理由がない。同弁護人の上告趣意第一点のうち、本条例が憲法三一条に違反するとの主張について。
所論は、本条例は、許可を与える際必要な条件をつけることができると定め(六条)、この条件に違反し、または違反しようとする場合には、警察本部長が、その主催者、指導者もしくは参加者に対し警告を発し、その行動を制止することができ(八条)、更に、条件違反の場合には、主催者、指導者等を処罰することができる旨定めている(九条)が、このように、右条件の内容の解釈および条件違反の判定をすべて警察に委ねている点で、適法手続を定めた憲法三一条に違反し、また、条件を取締当局に都合のよいように定めることを許している点でも、白地刑法を禁止した同条に違反する旨主張する。
しかし、本条例六条一項但書は、公安委員会の付しうる条件の範囲を定めており、これに基づいて具体的に条件が定められ、これが主催者または連絡責任者に通告され(六条二項、同条例施行規則五条)、この具体化された条件に違反した行為が、警告、制止および処罰の対象となるのであつて、所論のように取締当局がほしいままに条件を定めることを許しているものではなく、犯罪の構成要件が規定されていないとかまたは不明確であるとかいうことはできない。そうすると、所論違憲の主張は、その前提を欠くことになり、適法な上告理由とならない。

被告人本人の上告趣意三の(4)について。
所論は、本人の意思に反し、かつ裁判官の令状もなくされた本件警察官の写真撮影行為を適法とした原判決の判断は、肖像権すなわち承諾なしに自己の写真を撮影されない権利を保障した憲法一三条に違反し、また令状主義を規定した同法三五条にも違反すると主張する。
ところで、憲法一三条は、「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」と規定しているのであつて、これは、国民の私生活上の自由が、警察権等の国家権力の行使に対しても保護されるべきことを規定しているものということができる。そして、個人の私生活上の自由の一つとして、何人も、その承諾なしに、みだりにその容ぼう・姿態(以下「容ぼう等」という。)を撮影されない自由を有するものというべきである。
これを肖像権と称するかどうかは別として、少なくとも、警察官が、正当な理由もないのに、個人の容ぼう等を撮影することは、憲法一三条の趣旨に反し、許されないものといわなければならないしかしながら、個人の有する右自由も、国家権力の行使から無制限に保護されるわけでなく、公共の福祉のため必要のある場合には相当の制限を受けることは同条の規定に照らして明らかである。そして、犯罪を捜査することは、公共の福祉のため警察に与えられた国家作用の一つであり、警察にはこれを遂行すべき責務があるのであるから(警察法二条一項参照)、警察官が犯罪捜査の必要上写真を撮影する際、その対象の中に犯人のみならず第三者である個人の容ぼう等が含まれても、これが許容される場合がありうるものといわなければならない
そこで、その許容される限度について考察すると、身体の拘束を受けている被疑者の写真撮影を規定した刑訴法二一八条二項のような場合のほか、次のような場合には、撮影される本人の同意がなく、また裁判官の令状がなくても、警察官による個人の容ぼう等の撮影が許容されるものと解すべきである。すなわち、現に犯罪が行なわれもしくは行なわれたのち間がないと認められる場合であつて、しかも証拠保全の必要性および緊急性があり、かつその撮影が一般的に許容される限度をこえない相当な方法をもつて行なわれるときである。このような場合に行なわれる警察官による写真撮影は、その対象の中に、犯人の容ぼう等のほか、犯人の身辺または被写体とされた物件の近くにいたためこれを除外できない状況にある第三者である個人の容ぼう等を含むことになつても、憲法一三条、三五条に違反しないものと解すべきである
これを本件についてみると、原判決およびその維持した第一審判決の認定するところによれば、昭和三七年六月二一日に行なわれた本件A連合主催の集団行進集団示威運動においては、被告人の属するB大学学生集団はその先頭集団となり、被告人はその列外最先頭に立つて行進していたが、右集団は京都市a区b町c約三〇メートルの地点において、先頭より四列ないし五列目位まで七名ないし八名位の縦隊で道路のほぼ中央あたりを行進していたこと、そして、この状況は、京都府公安委員会が付した「行進隊列は四列縦隊とする」という許可条件および京都府中立売警察署長が道路交通法七七条に基づいて付した「車道の東側端を進行する」という条件に外形的に違反する状況であつたこと、そこで、許可条件違反等の違法状況の視察、採証の職務に従事していた京都府山科警察署勤務の巡査Cは、この状況を現認して、許可条件違反の事実ありと判断し、違法な行進の状態および違反者を確認するため、木屋町通の東側歩道上から前記被告人の属する集団の先頭部分の行進状況を撮影したというのであり、その方法も、行進者に特別な受忍義務を負わせるようなものではなかつたというのである。
右事実によれば、C巡査の右写真撮影は、現に犯罪が行なわれていると認められる場合になされたものてあつて、しかも多数の者が参加し刻々と状況が変化する集団行動の性質からいつて、証拠保全の必要性および緊急性が認められ、その方法も一般的に許容される限度をこえない相当なものであつたと認められるから、たとえそれが被告人ら集団行進者の同意もなく、その意思に反して行なわれたとしても、適法な職務執行行為であつたといわなければならない
そうすると、これを刑法九五条一項によつて保護されるべき職務行為にあたるとした第一審判決およびこれを是認した原判決の判断には、所論のように、憲法一三条、三五条に違反する点は認められないから、論旨は理由がない。
被告人本人のその余の上告趣意は、憲法違反をいう点もあるが、実質はすべて単なる法令違反、事実誤認の主張であつて、刑訴法四〇五条の上告理由にあたらない。
同弁護人のその余の上告趣意は、事実誤認、単なる法令違反の主張であつて、同条の上告理由にあたらない。
よつて、同法四〇八条、一八一条一項本文により、裁判官全員一致の意見で主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 石田和外 裁判官 入江俊郎 裁判官 草鹿浅之介 裁判官 長部謹吾 裁判官 城戸芳彦 裁判官 田中二郎 裁判官 松田二郎 裁判官 岩田誠 裁判官 下村三郎 裁判官 色川幸太郎 裁判官 大隅健一郎 裁判官 松本正雄 裁判官 飯村義美 裁判官 村上朝一 裁判官 関根小郷)

Q 13条の保障する権利の考え方にどのような対立があるか
(1)対立する2つの考え方
一般行為自由説
=人間のあらゆる生活領域に関する行為
人格的利益説
=個人の人格的生存に不可欠な利益

(2)両説の前提とする人間観

Q 13条は具体的にどのような権利を保障しているのか?
(1)プライバシーの権利

+判例(S61.6.11)北方ジャーナル
理由
一 上告人の上告理由第一点(4)について
憲法二一条二項前段は、検閲の絶対的禁止を規定したものであるから(最高裁昭和五七年(行ツ)第一五六号同五九年一二月一二日大法廷判決・民集三八巻一二号一三〇八頁)、他の論点に先立つて、まず、この点に関する所論につき判断する。
憲法二一条二項前段にいう検閲とは、行政権が主体となつて、思想内容等の表現物を対象とし、その全部又は一部の発表の禁止を目的として、対象とされる一定の表現物につき網羅的一般的に、発表前にその内容を審査したうえ、不適当と認めるものの発表を禁止することを、その特質として備えるものを指すと解すべきことは、前掲大法廷判決の判示するところである。ところで、一定の記事を掲載した雑誌その他の出版物の印刷、製本、販売、頒布等の仮処分による事前差止めは、裁判の形式によるとはいえ、口頭弁論ないし債務者の審尋を必要的とせず、立証についても疎明で足りるとされているなど簡略な手続によるものであり、また、いわゆる満足的仮処分として争いのある権利関係を暫定的に規律するものであつて、非訟的な要素を有することを否定することはできないが、仮処分による事前差止めは、表現物の内容の網羅的一般的な審査に基づく事前規制が行政機関によりそれ自体を目的として行われる場合とは異なり、個別的な私人間の紛争について、司法裁判所により、当事者の申請に基づき差止請求権等の私法上の被保全権利の存否、保全の必要性の有無を審理判断して発せられるものであつて、右判示にいう「検閲」には当たらないものというべきである。したがつて、本件において、札幌地方裁判所が被上告人Aの申請に基づき上告人発行の「ある権力主義者の誘惑」と題する記事(以下「本件記事」という。)を掲載した月刊雑誌「北方ジヤーナル」昭和五四年四月号の事前差止めを命ずる仮処分命令(以下「本件仮処分」という。)を発したことは「検閲」に当たらない、とした原審の判断は正当であり、論旨は採用することができない。

二 上告人のその余の上告理由について
1 論旨は、本件仮処分は、「検閲」に当たらないとしても、表現の自由を保障する憲法二一条一項に違反する旨主張するので、以下に判断する。
(一) 所論にかんがみ、事前差止めの合憲性に関する判断に先立ち、実体法上の差止請求権の存否について考えるのに、人の品性、徳行、名声、信用等の人格的価値について社会から受ける客観的評価である名誉を違法に侵害された者は、損害賠償(民法七一〇条)又は名誉回復のための処分(同法七二三条)を求めることができるほか、人格権としての名誉権に基づき、加害者に対し、現に行われている侵害行為を排除し、又は将来生ずべき侵害を予防するため、侵害行為の差止めを求めることができるものと解するのが相当である。けだし、名誉は生命、身体とともに極めて重大な保護法益であり、人格権としての名誉権は、物権の場合と同様に排他性を有する権利というべきであるからである。
(二) しかしながら、言論、出版等の表現行為により名誉侵害を来す場合には、人格権としての個人の名誉の保護(憲法一三条)と表現の自由の保障(同二一条)とが衝突し、その調整を要することとなるので、いかなる場合に侵害行為としてその規制が許されるかについて憲法上慎重な考慮が必要である。
主権が国民に属する民主制国家は、その構成員である国民がおよそ一切の主義主張等を表明するとともにこれらの情報を相互に受領することができ、その中から自由な意思をもつて自己が正当と信ずるものを採用することにより多数意見が形成され、かかる過程を通じて国政が決定されることをその存立の基礎としているのであるから、表現の自由、とりわけ、公共的事項に関する表現の自由は、特に重要な憲法上の権利として尊重されなければならないものであり、憲法二一条一項の規定は、その核心においてかかる趣旨を含むものと解される。もとより、右の規定も、あらゆる表現の自由を無制限に保障しているものではなく、他人の名誉を害する表現は表現の自由の濫用であつて、これを規制することを妨げないが、右の趣旨にかんがみ、刑事上及び民事上の名誉毀損に当たる行為についても、当該行為が公共の利害に関する事実にかかり、その目的が専ら公益を図るものである場合には、当該事実が真実であることの証明があれば、右行為には違法性がなく、また、真実であることの証明がなくても、行為者がそれを真実であると誤信したことについて相当の理由があるときは、右行為には故意又は過失がないと解すべく、これにより人格権としての個人の名誉の保護と表現の自由の保障との調和が図られているものであることは、当裁判所の判例とするところであり(昭和四一年(あ)第二四七二号同四四年六月二五日大法廷判決・刑集二三巻七号九七五頁、昭和三七年(オ)第八一五号同四一年六月二三日第一小法廷判決・民集二〇巻五号一一一八頁参照)、このことは、侵害行為の事前規制の許否を考察するに当たつても考慮を要するところといわなければならない。
(三) 次に、裁判所の行う出版物の頒布等の事前差止めは、いわゆる事前抑制として憲法二一条一項に違反しないか、について検討する。
(1) 表現行為に対する事前抑制は、新聞、雑誌その他の出版物や放送等の表現物がその自由市場に出る前に抑止してその内容を読者ないし聴視者の側に到達させる途を閉ざし又はその到達を遅らせてその意義を失わせ、公の批判の機会を減少させるものであり、また、事前抑制たることの性質上、予測に基づくものとならざるをえないこと等から事後制裁の場合よりも広汎にわたり易く、濫用の虞があるうえ、実際上の抑止的効果が事後制裁の場合より大きいと考えられるのであつて、表現行為に対する事前抑制は、表現の自由を保障し検閲を禁止する憲法二一条の趣旨に照らし、厳格かつ明確な要件のもとにおいてのみ許容されうるものといわなければならない
出版物の頒布等の事前差止めは、このような事前抑制に該当するものであつて、とりわけ、その対象が公務員又は公職選挙の候補者に対する評価、批判等の表現行為に関するものである場合には、そのこと自体から、一般にそれが公共の利害に関する事項であるということができ、前示のような憲法二一条一項の趣旨(前記(二)参照)に照らし、その表現が私人の名誉権に優先する社会的価値を含み憲法上特に保護されるべきであることにかんがみると、当該表現行為に対する事前差止めは、原則として許されないものといわなければならない。ただ、右のような場合においても、その表現内容が真実でなく、又はそれが専ら公益を図る目的のものでないことが明白であつて、かつ、被害者が重大にして著しく回復困難な損害を被る虞があるときは、当該表現行為はその価値が被害者の名誉に劣後することが明らかであるうえ、有効適切な救済方法としての差止めの必要性も肯定されるから、かかる実体的要件を具備するときに限つて、例外的に事前差止めが許されるものというべきであり、このように解しても上来説示にかかる憲法の趣旨に反するものとはいえない。
(2) 表現行為の事前抑制につき以上説示するところによれば、公共の利害に関する事項についての表現行為に対し、その事前差止めを仮処分手続によつて求める場合に、一般の仮処分命令手続のように、専ら迅速な処理を旨とし、口頭弁論ないし債務者の審尋を必要的とせず、立証についても疎明で足りるものとすることは、表現の自由を確保するうえで、その手続的保障として十分であるとはいえず、しかもこの場合、表現行為者側の主たる防禦方法は、その目的が専ら公益を図るものであることと当該事実が真実であることとの立証にあるのである(前記(二)参照)から、事前差止めを命ずる仮処分命令を発するについては、口頭弁論又は債務者の審尋を行い、表現内容の真実性等の主張立証の機会を与えることを原則とすべきものと解するのが相当である。ただ、差止めの対象が公共の利害に関する事項についての表現行為である場合においても、口頭弁論を開き又は債務者の審尋を行うまでもなく、債権者の提出した資料によつて、その表現内容が真実でなく、又はそれが専ら公益を図る目的のものでないことが明白であり、かつ、債権者が重大にして著しく回復困難な損害を被る虞があると認められるときは、口頭弁論又は債務者の審尋を経ないで差止めの仮処分命令を発したとしても、憲法二一条の前示の趣旨に反するものということはできない
 けだし、右のような要件を具備する場合に限つて無審尋の差止めが認められるとすれば、債務者に主張立証の機会を与えないことによる実害はないといえるからであり、また、一般に満足的仮処分の決定に対しては債務者は異議の申立てをするとともに当該仮処分の執行の停止を求めることもできると解される(最高裁昭和二三年(マ)第三号同年三月三日第一小法廷決定・民集二巻三号六五頁、昭和二五年(ク)第四三号同年九月二五日大法廷決定・民集四巻九号四三五頁参照)から、表現行為者に対しても迅速な救済の途が残されているといえるのである。
2 以上の見地に立つて、本件をみると、
(一) 原審の適法に確定した事実関係の概要は、次のとおりである。
(1) 被上告人Aは、昭和三八年五月から同四九年九月までの間、旭川市長の地位にあり、その後同五〇年四月の北海道知事選挙に立候補し、更に同五四年四月施行予定の同選挙にも同年二月の時点で立候補する予定であつた。
(2) 上告人代表者は、本件記事の原稿を作成し、上告人はこれを昭和五四年二月二三日頃発売予定の本件雑誌(同年四月号、予定発行部数第一刷二万五〇〇〇部)に掲載することとし、同年二月八日校了し、印刷その他の準備をしていた。本件記事は、北海道知事たる者は聡明で責任感が強く人格が清潔で円満でなければならないと立言したうえ、被上告人Aは右適格要件を備えていないとの論旨を展開しているところ、同被上告人の人物論を述べるに当たり、同被上告人は、「嘘と、ハツタリと、カンニングの巧みな」少年であつたとか、「A(中略)のようなゴキブリ共」「言葉の魔術者であり、インチキ製品を叩き売つている(政治的な)大道ヤシ」「天性の嘘つき」「美しい仮面にひそむ、醜悪な性格」「己れの利益、己れの出世のためなら、手段を選ばないオポチユニスト」「メス犬の尻のような市長」「Aの素顔は、昼は人をたぶらかす詐欺師、夜は闇に乗ずる凶賊で、云うならばマムシの道三」などという表現をもつて同被上告人の人格を評し、その私生活につき、「クラブ(中略)のホステスをしていた新しい女(中略)を得るために、罪もない妻を卑劣な手段を用いて離別し、自殺せしめた」とか「老父と若き母の寵愛をいいことに、異母兄たちを追い払」つたことがあると記し、その行動様式は「常に保身を考え、選挙を意識し、極端な人気とり政策を無計画に進め、市民に奉仕することより、自己宣伝に力を強め、利権漁りが巧みで、特定の業者とゆ着して私腹を肥やし、汚職を蔓延せしめ」「巧みに法網をくぐり逮捕はまぬかれ」ており、知事選立候補は「知事になり権勢をほしいままにするのが目的である。」とする内容をもち、同被上告人は「北海道にとつて真に無用有害な人物であり、社会党が本当に革新の旗を振るなら、速やかに知事候補を変えるべきであろう。」と主張するものであり、また、標題にそえ、本文に先立つて「いま北海道の大地にAという名の妖怪が蠢めいている昼は蝶に、夜は毛虫に変身して赤レンガに棲みたいと啼くその毒気は人々を惑乱させる。今こそ、この化物の正体を……」との文章を記すことになつていた。 
(3) 被上告人Aの代理人弁護士菅沼文雄らは、昭和五四年二月一六日札幌地方裁判所に対し、債権者を同被上告人、債務者を上告人及び山藤印刷株式会社とし、名誉権の侵害を予防するとの理由で本件雑誌の執行官保管、その印刷、製本及び販売又は頒布の禁止等を命ずる第一審判決添付の主文目録と同旨の仮処分決定を求める仮処分申請をした。札幌地方裁判所裁判官は、同日、右仮処分申請を相当と認め、右主文目録記載のとおりの仮処分決定をした。その後、札幌地方裁判所執行官においてこれを執行した。
(二) 右確定事実によれば、本件記事は、北海道知事選挙に重ねて立候補を予定していた被上告人Aの評価という公共的事項に関するもので、原則的には差止めを許容すべきでない類型に属するものであるが、前記のような記事内容・記述方法に照らし、それが同被上告人に対することさらに下品で侮辱的な言辞による人身攻撃等を多分に含むものであつて、到底それが専ら公益を図る目的のために作成されたものということはできず、かつ、真実性に欠けるものであることが本件記事の表現内容及び疎明資料に徴し本件仮処分当時においても明らかであつたというべきところ、本件雑誌の予定発行部数(第一刷)が二万五〇〇〇部であり、北海道知事選挙を二か月足らず後に控えた立候補予定者である同被上告人としては、本件記事を掲載する本件雑誌の発行によつて事後的には回復しがたい重大な損失を受ける虞があつたということができるから、本件雑誌の印刷、製本及び販売又は頒布の事前差止めを命じた本件仮処分は、差止請求権の存否にかかわる実体面において憲法上の要請をみたしていたもの(前記1(三)(1)参照)というべきであるとともに、また、口頭弁論ないし債務者の審尋を経たものであることは原審の確定しないところであるが、手続面においても憲法上の要請に欠けるところはなかつたもの(同(2)参照)ということができ、結局、本件仮処分に所論違憲の廉はなく、右違憲を前提とする本件仮処分申請の違憲ないし違法の主張は、前提を欠く
3 更に、所論は、原審が、本件記事の内容が名誉毀損に当たるか否かにつき事実審理をせず、また、被上告人Aらの不法に入手した資料に基づいて、本件雑誌の頒布の差止めを命じた本件仮処分を是認したものであるうえ、右資料の不法入手は通信の秘密の不可侵を定めた憲法二一条二項後段に違反するともいうが、記録によれば、原審が事実審理のうえ本件記事の内容が名誉毀損に当たることが明らかである旨を認定判断していることが認められ、また、同被上告人らの資料の不法入手の点については、原審においてその事実は認められないとしており、所論は、原審の認定にそわない事実に基づく原判決の非難にすぎないというほかない。
4 したがつて、以上と同趣旨の原審の判断は、正当として是認することができ、その過程に所論の違憲、違法はないものというべきである。論旨は、採用することができない。
よつて、民訴法三九六条、三八四条、九五条、八九条に従い、裁判官伊藤正己、同大橋進、同牧圭次、同長島敦の補足意見、裁判官谷口正孝の意見があるほか、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

+補足意見
裁判官伊藤正己の補足意見は、次のとおりである。
私は、多数意見に示された結論とその理由についてともに異論がなく、これに同調するものであるが、本件は、表現行為に対して裁判所の行う事前の規制にかかわる憲法上の重要な論点を提起するものであるから、それが憲法によつて禁止されるものであるかどうか、また憲法上許容されうるとしてもその許否を判断する基準をどこに求めるか、というこの問題の実体的側面を中心として、私の考えるところを述べて、多数意見を補足することとしたい。
一 多数意見の説示するとおり、当裁判所は、憲法二一条二項前段に定める検閲とは、行政権が主体となつて、思想内容等の表現物を対象とし、その全部又は一部の発表の禁止を目的として、対象とされる一定の表現物について網羅的一般的に、発表前にその内容を審査したうえ、不適当と認めるものの発表を禁止することを、その特質として備えるものを指すと解し、「検閲」を右のように古くから典型的な検閲と考えられてきたものに限定するとともに、それは憲法上絶対的に禁止されるものと判示している(昭和五七年(行ツ)第一五六号同五九年一二月一二日大法廷判決・民集三八巻一二号一三〇八頁)。この見解は、憲法の定める検閲の意味を狭く限定するものであるが、憲法によるその禁止に例外を認めることなく、およそ「検閲」に該当するとされるかぎり憲法上許容される余地がないという厳格な解釈と表裏をなすものであつて、妥当な見解であるといつてよいと思われる。
しかし、右の判示は、表現行為に対する公権力による事前の規制と考えられるもののすべてが「検閲」に当たるという理由によつて憲法上許されないと解することはできない、とするものであつて、一般に表現行為に対する事前の規制が表現の自由を侵害するおそれのきわめて大であることにかんがみると、憲法の規定する「検閲」の絶対的禁止には、憲法上事前の規制一般について消極的な評価がされているという趣旨が含まれていることはいうまでもないところであろう。そして、このような趣旨は、表現の自由を保障する憲法二一条一項の解釈のうちに、当然に生かされなければならないものと考える。もとより、これは同項による憲法上の規律の問題であつて、同条二項前段のような絶対的禁止のそれではないから、事前の抑制であるという一事をもつて直ちに違憲の烙印を押されるものではないが、それが許容されるかどうかについての判断基準の設定においては、厳格な要件が求められることとなるのである。
そもそも表現の自由の制約の合憲性を考えるにあたつては、他の人権とくに経済的な自由権の制約の場合と異なつて、厳格な基準が適用されるのであるが(最高裁昭和四五年(あ)第二三号同四七年一一月二二日大法廷判決・刑集二六巻九号五七六頁、昭和四三年(行ツ)第一二〇号同五〇年四月三〇日大法廷判決・民集二九巻四号五七二頁参照)、同じく表現の自由を制約するものの中にあつても、とりわけ事前の規制に関する場合には、それが合憲とされるためにみたすべき基準は、事後の制裁の場合に比していつそう厳しいものとならざるをえないと解される。当裁判所は、すでに、法律の規制により表現の自由が不当に制限されるという結果を招くことがないよう配慮する必要があるとしつつ、「事前規制的なものについては特に然りというべきである」と判示している(前記昭和五九年一二月一二日大法廷判決)。これは、表現の自由を規制する法律の規定の明確性に関連して論じたものではあるが、表現の自由の規制一般について妥当する考え方であると思われる。もとより、事前の規制といつても多様なものがあるから、これを画一的に判断する基準を設定することは困難であるし、画一的な基準はむしろ適切とはいえない。私は、この場合には、当該事前の規制の性質や機能と右に示された「検閲」のもつ性質や機能との異同の程度を図つてみることが有益であろうと考えている。
二 本件で問題とされているのは、表現行為に対する裁判所の仮処分手続による差止めである。これは、行政機関ではなく、司法裁判所によつてされるものであつて、前示のような「検閲」に当たらないことは明らかである。したがつて、それが当然に、憲法によつて禁止されるものに当たるということはできない。しかし、単に規制を行う機関が裁判所であるという一事によつて、直ちにその差止めが「検閲」から程遠いものとするのは速断にすぎるのであつて、問題の検討にあたつては、その実質を考慮する必要がある。「検閲」の大きな特徴は、一般的包括的に一定の表現を事前の規制の枠のうちにとりこみ、手続上も概して密行的に処理され、原則として処分の理由も示されず、この処分を法的に争う手段が存在しないか又はきわめて乏しいところに求められる。裁判所の仮処分は、多数意見も説示するとおり、網羅的一般的な審査を行うものではなく、当事者の申請に基づいて司法的な手続によつて審理判断がされるもので、理由を付して発せられ、さらにそれが発せられたときにも、法的な手続で争う手段が認められているのであつて、単に担当の機関を異にするというだけではなく、その実質もまた「検閲」と異なるものというべきである。
しかしながら、他面において、裁判所の仮処分による差止めが「検閲」に類似する側面を帯有していることも、否定することはできない。第一に、それは、表現行為が受け手に到達するに先立つて公権力をもつて抑止するものであつて、表現内容の同一のものの再発行のような場合を除いて、差止めをうけた表現は、思想の自由市場、すなわち、いかなる表現も制限なしにもち出され、表現には表現をもつて対抗することが予定されている場にあらわれる機会を奪われる点において、「検閲」と共通の性質をもつている。第二に、裁判所の審査は、表現の外面上の点のみならず、その思想内容そのものにも及ぶのであつて、この点では、当裁判所が、表現物を「容易に判定し得る限りにおいて審査しようとするものにすぎ」ないと判断した税関による輸入品の検査に比しても、「検閲」に近い要素をもつている。第三に、仮の地位を定める仮処分の手続は、司法手続とはいつても非訟的な要素を帯びる手続で、ある意味で行政手続に近似した性格をもつており、またその手続も簡易で、とくに不利益を受ける債務者の意見が聞かれる機会のないこともある点も注意しなければならない。
三 このように考えてくると、裁判所の仮処分による表現行為の事前の差止めは、憲法の絶対的に禁止する「検閲」に当たるものとはいえないが、それと類似するいくつかの面をそなえる事前の規制であるということができ、このような仮処分によつて仮の満足が図られることになる差止請求権の要件についても、憲法の趣旨をうけて相当に厳しい基準によつて判断されなければならないのである。多数意見は、このような考え方に基づくものということができる。私として、以下にこの基準について検討することとしたい。
1 まず考えられるのは、利益較量によつて判断する方法である。およそ人権の制約の合憲性を判断する場合に、その人権とそれに対立する利益との調整が問題となり、そこに利益較量の行われるべきことはいうまでもないところであろう(憲法制定者が制定時においてすでに利益較量を行つたうえでその結論を成文化したと考えられる場合、例えば「検閲」の禁止はそれに当たるが、かかる場合には、ある規制が「検閲」に当たるかどうかは問題となりうるとしても、それに当たるとされる以上絶対的に禁止され、もはや解釈適用の過程で利益較量を行うことは排除されることとなる。しかし、これはきわめて例外的な事例である。)。本件のように、人格権としての名誉権と表現の自由権とが対立する場合、いかに精神的自由の優位を説く立場にあつても、利益較量による調整を図らなければならないことになる。その意味で、判断の過程において利益が較量されるべきこと自体は誤りではない。しかし、利益較量を具体的事件ごとにそこでの諸事情を総合勘案して行うこととすると、それはむしろ基準を欠く判断となり、いずれの利益を優先させる結論に到達するにしても、判断者の恣意に流れるおそれがあり、表現の自由にあつては、それに対する萎縮的効果が大きい。したがつて、合理性の基準をもつて判断してよいときは別として、精神的自由権にかかわる場合には、単に事件ごとに利益較量によつて判断することで足りるとすることなく、この較量の際の指標となるべき基準を求めなければならないと思われる。
表現行為には多種多様のものがあるが、これを類型に分類してそれぞれの類型別に利益較量を行う考え方は、右に述べた事件ごとに個別的に較量を行うのに比して、較量に一定のルールを与え、規制の許される場合を明確化するものであつて、有用な見解であると思われる。本件のような名誉毀損の事案において、その被害者とされる対象の社会的地位を考慮し、例えば公的な人物に対する批判という類型に属するとき、その表現のもつ公益性を重視して判断するのはその一例であるが、この方法によれば、表現の自由と名誉権との調和について相当程度に客観的とみられる判断を確保できることになろう。大橋裁判官の補足意見はこの考え方を支持するものであつて、示唆に富む見解である。そして、このような類型を重視する利益較量を行うならば、本件においては、多数意見と同じ結論になるといえるし、多数意見も、基本的にはこの考え方に共通する立場に立つものといつてもよい。ただ、私見によれば、本件のような事案は別として、一般的に類型別の利益較量によつて判断すべきものとすれば、表現の類型をどのように分類するか、それぞれの類型についてどのような判断基準を採用するか、の点において複雑な問題を生ずるおそれがあり、また、もし類型別の基準が硬直化することになると、妥当な判断を保障しえないうらみがある。そして、何よりも、類型別の利益較量は、表現行為に対する事後の制裁の合憲性を判断する際に適切であるとしても、事前の規制の場合には、まさに、事後ではなく「事前の」規制であることそれ自体を重視すべきものと思われる。ここで表現の類型を考えることも有用ではあるが、かえつて事前の規制である点の考慮を稀薄にするのではあるまいか。� 2 つぎに、谷口裁判官の意見に示された「現実の悪意」の基準が考えられる。これは、表現の自由のもつ重要な価値に着目して、その保障を強くする理論であつて、この見解に対して深い敬意を表するものである。そして、同裁判官が本件における多数意見の結論に賛成されることでも明らかなように、この見解をとつても本件において結論は変ることはなく、あえていえば、異なる視角から同じ結論に到達するものといえなくもない。ただ私としては、たとえ公的人物を対象とする名誉毀損の場合に限るとしても、これを事前の規制に対する判断基準として用いることに若干の疑問をもつている。客観的な事実関係から現実の悪意を推認することも可能ではあるが、それが表現行為者の主観に立ち入るものであるだけに、仮処分のような迅速な処理を要する手続において用いる基準として適当でないことも少なくなく、とくに表現行為者の意見を聞くことなしにこの基準を用いることは、妥当性を欠くものと思われる。私は、この基準を、公的な人物に対する名誉毀損に関する事後の制裁を考える場合の判断の指標として、その検討を将来に保留しておきたいと思う。
3 多数意見の採用する基準は、表現の自由と名誉権との調整を図つている実定法規である刑法二三〇条ノ二の規定の趣旨を参酌しながら、表現行為が公職選挙の候補者又は公務員に対する評価批判等に関するものである場合に、それに事前に規制を加えることは裁判所といえども原則として許されないとしつつ、例外的に、表現内容が真実でなく又はそれが専ら公益に関するものでないことが明白であつて、かつ、被害者が重大にして著しく回復困難な損害を被るおそれのある場合に限つて、事前の差止めを許すとするものである。このように、表現内容が明白に真実性を欠き公益目的のために作成されたものでないと判断され、しかも名誉権について事後的には回復し難い重大な損害を生ずるおそれのある場合に、裁判所が事前に差し止めることを許しても、事前の規制に伴う弊害があるということはできず、むしろ、そのような表現行為は価値において名誉権に劣るとみられてもやむをえないというべきであり、このような表現行為が裁判によつて自由市場にあらわれえないものとされることがあつても、憲法に違背するとは考えられない。そして、顕著な明白性を要求する限り、この基準は、谷口裁判官の説かれるように、不確定の要件をもつて表現行為を抑えるもので表現の自由の保障に対する歯止めとなりえない、ということはできないように思われる。
四 以上のような厳格な基準を適用することにすれば、実際上、立証方法が疎明に限定される仮処分によつて表現行為の事前の差止めが許される場合は、著しく制限されることになろう。公的な人物、とりわけ公職選挙の候補者、公務員とくに公職選挙で選ばれる公務員や政治ないし行政のあり方に影響力を行使できる公務員に対する名誉毀損は、本件のような特異な例外的場合を除いて、仮処分によつて事前に差し止めることはできないことになると思われる。私も、名誉権が重要な人権であり、また、名誉を毀損する表現行為が公にされると名誉は直ちに侵害をうけるものであるため、名誉を真に保護するために事前の差止めが必要かつ有効なものであることを否定するものではない。しかし、少なくとも公的な人物を対象とする場合には、表現の自由の価値が重視され、被害者が救済をうけることができるとしても、きわめて限られた例外を除いて、その救済は、事後の制裁を通じてされるものとするほかはないと思われる。なお、わが国において名誉毀損に対する損害賠償は、それが認容される場合においても、しばしば名目的な低額に失するとの非難を受けており、関係者の反省を要することについては、大橋裁判官の補足意見に指摘されるとおりである。またさらに、このような事後の救済手段として、現在認められているよりもいつそう有効適切なものを考える必要があるようにも考えられるが、それは本件のような仮処分による事前の規制の許否とは別個の問題である。

+補足意見
裁判官大橋進の補足意見は、次のとおりである。
一 私は、表現行為に対する差止請求権の成否の判断基準についても、多数意見に賛成するものであるが、その理由について私の考えるところを補足しておくこととしたい。
憲法二一条一項によつて保障されている表現の自由と一三条によつて保障されている個人の名誉は、互いに衝突することがあるのを免れない。しかし、真実を公表し、自己の意見を表明して世論形成に参加する自由が保障されていることは、自由な討論を通じて形成された世論に基づいて政治が行なわれる民主主義社会にとつて欠くことのできない基盤である。憲法二一条一項の規定には、このような表現行為による世論形成への参加の自由を保障する機能があるのであり、この機能がみたされるためには、公共の利害に関する事項については、表現行為をする側において知らせたい事実、表明したい意見を公表する自由が保障されているとともに、表現行為を受け取る側においても知りたい情報に自由に接することのできる機会が保障されていなければならない。また、裁判所が人格権としての名誉権に基づく表現行為の差止請求権の存否を判断して、その事前差止めを命ずることは、本案訴訟による場合はもとより、仮処分による場合であつても、多数意見のいうとおり検閲に当たらないのであるが、検閲を禁止した憲法二一条二項前段の趣旨とするところは、表現の自由との関係においても十分に考慮されなければならない性質のものであり、事前差止めは、当該表現物が公表され読者ないし聴視者がこれに接することのできる状態になる前にその公表自体を差し止めるという点において、すでに極めて重大な問題を含んでいるものといわなければならない。したがつて、たとえ個人の名誉を毀損する表現行為であつても、それが公共の利害に関する事項にかかるものであるときは、個人の名誉の保護よりも表現の自由の保障が優先すべきこととなり、また、その事前差止めは、事後制裁の場合に比較して、実体上も手続上もより厳格な要件のもとにおいてのみ許されるものというべきこととなる。
このような観点から、どのような場合に差止請求権を肯定してよいかについて考えてみると、基本的には、互いに衝突する人格権としての個人の名誉の保護と表現の自由の保障との調和と均衡をどのような点に求めるべきかという問題なのであるが、結局は、当該表現行為により侵害される個人の名誉の価値とその表現行為に含まれている価値とを比較衡量して、そのいずれを優先させるべきかによつて判断すべきものということができよう。そして、比較衡量にあたり考慮の対象となりうる要素としては、表現行為により批判の対象とされた人物の公的性格ないし事実の公共性、表現内容の公益性・真実性、表現行為者の意図、名誉侵害の程度、マス・メデイアの種類・性格などのさまざまな事情が考えられ、これらの諸事情を個別的な事件ごとにきめ細かく検討して利益衡量をすれば、当該事件について極めて妥当な結論を得ることができるとも考えられる。しかしながら、事前差止めにあつては、これらの諸般の事情を比較衡量するといつても、事前であるために不確定な要素も多く、また、右のような諸般の事情を考慮することになれば、その審理判断も複雑なものとなり、これに伴う判断の困難性も考えられること、更には、事前差止めの効果が直接的であり、被害者にとつては魅力的であるため濫用される虞があるとともに、表現行為者の受ける影響や不利益は大きいのに、右のようなさまざまな事情が個々の事件ごとに個別的具体的に検討され比較衡量されるのでは、その判断基準が明確であるとはいいがたく、これについて確実な予測をすることが困難となる虞があり、表現行為者に必要以上の自己規制を強いる結果ともなりかねないことなどを考慮すると、事前差止めがそれ自体前記のような重大な問題を含むものであることにかんがみ、比較衡量に当たり諸般の事情を個別的具体的に考慮して判断する考え方には左袒することができない。そして、このような個別的衡量による難点を避けるためには、名誉の価値と表現行為の価値との比較衡量を、表現行為をできるだけ類型化し、類型化された表現行為の一般的利益とこれと対立する名誉の一般的利益とを比較衡量して判断するという類型的衡量によるのが相当であると考えられる。類型的衡量によるときは、個別的衡量の場合のように個別的事件に最も適した緻密な利益衡量には達し得ないかも知れないが、その点を犠牲にしても、判断の客観性、安定性を選ぶべきものと考えるからである。
多数意見は、表現行為が公共の利害に関する事項にかかるものである場合には、原則として事前差止めが許されず、その表現内容が真実でないか、又は専ら公益を図る目的のものでないことが明白であり、かつ、被害者が重大にして著しく回復困難な損害を被る虞のあるときに限つて例外的に差止めを求めることができるとしているのであるが、私は、以上述べるような見地に立つて、この多数意見に賛成するものである。
二 次に、多数意見の言及する手続的側面について、以下のとおり付言しておきたい。
多数意見は、右のような見地に立ちつつ、事前差止めを命ずる仮処分は、実定法の規定(民訴法七五六条、七四一条一項)にかかわらず、発令にあたり口頭弁論又は債務者審尋を経ることを原則とすべきものとし、ただ、口頭弁論を開き又は債務者審尋を行うまでもなく、債権者の提出した資料によつて、その表現内容が真実でなく、又はそれが公益を図る目的のものでないことが明白であり、かつ、重大にして著しく回復困難な損害を被る虞があると認められるときは、債務者審尋等を経ることなく差止命令を発したとしても、憲法の趣旨に反するものとはいえない、とした。
思うに、ここに「債権者の提出した資料によつて」とは、債務者側の資料を含まないとの趣旨であつて、公知の事実又は裁判所に顕著な事実を排斥する趣旨でないことはいうまでもないところであろう。本件において差止めの対象となつたのは、北方ジヤーナル昭和五四年四月号中の記事であるが、それ以前数次にわたり被上告人Aを含む公職の候補者に関する記事について札幌地方裁判所より頒布・販売等禁止の仮処分命令を受け、特に同被上告人に関する本件類似の記事を掲載した同誌昭和五三年一一月号の販売・頒布等禁止の仮処分については、仮処分裁判所より本件上告人に対し日時の余裕を置いて書面による反論の機会を与えられている(すなわち、最も丁重な方式による債務者審尋が行われたものである)ことが、本件記録上窺われるのであつて、本件記事の表現内容並びに疎明資料及び以上のような仮処分裁判所に顕著な事実に徴し、本件において事前差止めの仮処分命令が債務者審尋等を経ることなく発せられたとしても(この点は原審の確定しないところである)、そのことの故に本件仮処分が憲法の要請に反するものでないことは明らかであるといわなければならない。
三 以上、私は、事前抑制につき厳しい態度をとる多数意見(この点は谷口裁判官意見も同様である)に全面的に賛同するものであるが、反面、「生命、身体とともに極めて重大な保護法益であ」る名誉を侵害された者に対する救済が、事後的な形によるものであるにせよ十分なものでなければ、権衡を失することとなる点が強く指摘されなければならない。わが国において名誉毀損に対する損害賠償は、それが認容される場合においても、しばしば名目的な低額に失するとの非難を受けているのが実情と考えられるのであるが、これが本来表現の自由の保障の範囲外ともいうべき言論の横行を許す結果となつているのであつて、この点は、関係者の深く思いを致すべきところと考えられるのである。
裁判官牧圭次は、裁判官大橋進の補足意見に同調する。

+補足意見
裁判官長島敦の補足意見は、次のとおりである。
刑法上の名誉毀損罪につき、その刑責を免ずるいわゆる事実証明に関する刑法二三〇条ノ二の規定が、民法上の名誉毀損の成否、ひいては名誉権の侵害に対する事前差止めの許否とどのようにかかわるかについて、私の考えるところを補足しておくこととしたい。
一1 多数意見がこの点に関して引用する二つの判例は、次のとおり判示している。昭和四一年六月二三日第一小法廷判決は、「民法上の不法行為たる名誉毀損については、その行為が公共の利害に関する事実に係りもつぱら公益を図る目的に出た場合には、摘示された事実が真実であることが証明されたときは、右行為には違法性がなく、不法行為は成立しないものと解するのが相当であり、もし、右事実が真実であることが証明されなくても、その行為者においてその事実を真実と信ずるについて相当の理由があるときには、右行為には故意もしくは過失がなく、結局、不法行為は成立しないものと解するのが相当である(このことは、刑法二三〇条ノ二の規定の趣旨からも十分窺うことができる。)。」とし、ついで、同四四年六月二五日大法廷判決は、刑法の名誉毀損罪につき、「刑法二三〇条ノ二の規定は、人格権としての個人の名誉の保護と、憲法二一条による正当な言論の保障との調和をはかつたものというべきであり、これら両者間の調和と均衡を考慮するならば、たとい刑法二三〇条ノ二第一項にいう事実が真実であることの証明がない場合でも、行為者がその事実を真実であると誤信し、その誤信したことについて、確実な資料、根拠に照らし相当の理由があるときは、犯罪の故意がなく、名誉毀損の罪は成立しないものと解するのが相当である。」としている。これら二つの判例を総合すると、刑法二三〇条ノ二は、人格権としての個人の名誉の保護と憲法二一条による正当な言論の保障との調和を図つた規定であり、その解釈に当たつては、これらの二つの憲法上の権利の調和と均衡を考慮すべきこと、このような考慮の上に立つて解釈される刑法二三〇条ノ二の規定の趣旨は、真実性についての誤信に相当の理由があるときに不法行為責任が免責される点を含めて、民法上の不法行為としての名誉毀損の成否の判断においても妥当することを明らかにしたものと解することができる。不法行為としての名誉毀損の成否を判断するこの基準を、以下「相当性の理論」とよぶこととする。
2 ところで、刑法の「名誉ニ対スル罪」の中には、名誉毀損罪(刑法二三〇条)のほか侮辱罪(同二三一条)が設けられており、同二三〇条ノ二の規定は名誉毀損罪の免責規定として置かれているが、民法上の不法行為としての名誉毀損は人格権としての名誉が違法に侵害を受ければ成立し、当該侵害行為が刑法の定める構成要件のもとで名誉毀損罪に当たるか、侮辱罪に当たるか、はその成立には直接の関係をもたないといえる。
刑法では、右の二つの罪が同じく「名誉ニ対スル罪」の章下に設けられ、かつ、両者とも公然性を要件とするところから、両者を区別する構成要件要素は、一般に、事実の摘示の有無であると解されている。又、その保護法益は、両者とも、人が社会から受ける客観的な評価としての名誉であるとされている。尤も、侮辱罪の中には、被害者の面前において、公然、一過性の罵詈雑言が加えられた場合のように、被害者の名誉感情が主たる法益であると解される事例もありうるが、多少とも永続性のある文書、録音・録画テープ等に収録された侮辱的な表現は、具体的な事実の摘示をともなわなくても、人の客観的な名誉を損なうことのあることはいうまでもない。
二 このようにして、不法行為としての名誉毀損にあつては、客観的な名誉が違法に侵害されたかどうかか重要であつて、その侵害行為たる表現行為が事実の摘示をともなうかどうかは、その成立のための要件ではないことが明らかとなつた。しかし、このことは、それが事実の摘示をともなう場合に、刑法二三〇条ノ二の規定の趣旨に基づき免責を受けうることを否定するものではなく、却つて、具体的な事実の摘示がなくても客観的な名誉を毀損する場合に、やはり、その表現行為が公共の利害に関しもつぱら公益を図る目的に出た相当な行為と評価できるときは、相当性の理論のもとで免責されうることを意味するものと解することの妨げとはならない。角度を変えて論ずれば、政治、社会問題等に関する公正な論評(フエア・コメント)として許容される範囲内にある表現行為は、具体的事実の摘示の有無にかかわらず、その用語や表現が激越・辛辣、時には揶揄的から侮辱的に近いものにまでわたることがあつても、公共の利害に関し公益目的に出るものとして許容されるのが一般である。この意味での公正な論評は、既に述べて来た相当性の理論という判断基準の中に、その一つの要素として組み入れることができると考えられる(ここでは、このような論評の基づいている事実が真実でなかつたときには、一般的にいつて、真実と信ずるについて相当の理由のあつたことがやはりフエア・コメントとして許容されるための要件の一つになることを前提としている。尤も、論評それ自体の公共性、公益性が強ければ強いほど、「相当性」の判断は、それだけ、論評者に有利になされ、相当性の不存在の立証の必要性が相手方の肩に重くのしかかることとなろう。)。しかし、その内容や表現が文脈上、主題たる論評と全く無関係であつて明らかに公共の利害に関しないと認められるものや、表現行為の重点が侮辱・誹謗・軽蔑・中傷等に向けられ、仮りになんらかの事実の摘示がそこに含まれているとしても、その指摘がその事実の真実性を主張することに意味をもつのではなくて、たんに人身攻撃のための背景事情として用いられるにとどまつているような侮辱的名誉毀損行為として社会通念上到底是認し得ないものは、いずれも公正な論評に含まれず、公共性、公益性をもたない言論として、相当性の理論からも名誉毀損の成立を肯認すべきことは当然である。
三1 本件雑誌に掲載が予定されていた本件記事は、それ自体、一方では、被上告人Aの支持母体であるとされている政治団体の政治的立場、政策等をとりあげて批判を加え、それが北海道の将来にとつて有害であることを論評し、他方では、同被上告人の人物、その生い立ち、私生活、行動様式等にわたり、ことさらに下品で侮辱的な言辞による人身攻撃を加えることにより、同被上告人は北海道知事として不適格であるとの論旨を展開しようとするものと認められるところ、前者の政治問題に関する論評と後者の人物論等に関する記述との間に脈絡を欠き、後者は、政治問題の論評とは無関係に、くり返して、もつぱら人身攻撃に終始する内容表現をもつて記述されている点に、特色をもつている。分量的に本件記事の大半の部分を政治問題に関する論評が占めているという事実は、それが公正な論評に当たるかどうかを論ずるまでもなく、これと無関係に展開されている不必要に侮辱的、中傷的な記述部分について、名誉毀損の成立を認めることの妨げとならないことはいうまでもない。
2 ところで、被上告人Aは、本件雑誌の発売が予定されていた頃には、北海道知事選挙に立候補する予定になつていたが、立候補届出前であつて公職選挙の候補者たるの身分をもつていなかつたものの、立候補が確実視されていたものと認められるのであつて、その人物、生い立ち、行動様式等が広い範囲にわたつて報道され、一般の評価、批判にさらされることは、一般に、公共の利害にかかるものと解されるところであるが、原審の確定した事実関係として引用摘示されている本件記事の該当部分は、そこには引用されていない。引用することさえはばかられる「父は、旭川では有名な馬方上りの逞ましい経済人であつた。その父が晩年溺愛した若く美しい女郎がおり、二人の傑作がすなわち」同被上告人である、などという蔑視的、差別的なことばとともに、その記述自体からみて、社会通念上到底是認し得ない侮辱的、誹謗的、中傷的な、いわば典型的な侮辱的名誉毀損文書ということを妨げず、それ自体で、その作成が公益を図る目的に出たものでないことが明らかであるというべきである。それが出版され公にされたときは、過去十年余にわたり公選市長として旭川市長の地位にあり、既に一度、北海道知事選挙にも立候補した経歴をもつ同被上告人が社会から受けている客観的評価としての名誉を、著しく害されることは見易い道理である。
四 刑法二三〇条ノ二の条文を手掛りに、憲法上の言論の自由と人格権としての名誉の保護との調和と均衡を図つてみちびき出された前記の相当性の理論が、公正な論評の理論と相俟つて、名誉権の侵害の事前差止めを求める仮処分についてどのように妥当するか、が最後に論ずべき点である。
私も、多数意見の説示するとおり、出版物の頒布等の事前差止めは、事後的な刑罰制裁、損害賠償、原状回復措置の場合に比し、その許容につきより慎重であるべきであり、とりわけ、その表現が公共の利害にかかわるときは、表現の自由が私人の名誉権に優先する社会的価値を含み、憲法上特に保護されるべきものであることにかんがみ、原則としてこれを許さないものと解すべきことについて、そこに示されている理由をも含めてすべて同調するものである。
しかし、前記の相当性の理論は、不法行為としての名誉毀損の成否を判断する基準として、同時に、それが名誉権そのものの存在を確認するための基準ともなりうることはいうまでもない。ただ、ここでは、表現行為が公共の利害にかかわるときに、憲法上特に優先的に保護されるべきものとされる表現の自由とこれに対抗する名誉権との間の調和と均衡が問題となつているのであるから、その間に均衡を回復するためには、その名誉権について特にこれを保護すべき特別の事由が存在していなければならないこととなる。このような観点から、まず相当性の理論によつて判断基準とされる公益目的及び事実の真実性のテストをとりあげて検討すると、当該表現行為が明らかに公益目的に出るものでないこと、又は摘示事実が明らかに真実でないことが先決問題となり、又このように名誉権の侵害が明白に認められうることにつき、事前差止めを請求する側においてその立証を果しうることが、必要な要件となると解される。これを仮処分についていえば、仮処分債権者の側でその疎明資料によつて右の証明を果しうることが必要である。裁判所が口頭弁論又は債務者の審尋を行ない、表現内容の真実性等の主張立証の機会を与えることを原則とすべきものとする多数意見は、債権者の提出する疎明資料等によつて右の証明が果されていることが明らかなような例外的な場合を除いては、裁判所が右の証明が果されたかどうかを慎重に吟味すべきことを要求するものと解される。より重要な実質的な特別の事由としては、名誉権の侵害が一般の場合に比し特に重大なものであり、しかも、事前の差止めをしなければ、その重大な損害の回復が事後的には著しく困難であることを挙げるべきであろう。この二つは、憲法上の要請にかかる言論の自由と人格権としての名誉の保護との間に均衡と調和を保ちつつ、公共の利害にかかわる表現行為につき、事前の差止め請求を許容することができると考えられる実体的要件であつて、それが事実上、事前差止めの仮処分を許すための要件と重なり合う面があるとしても、そのことのために、これらの要件が憲法上の要請でなくなるわけではない。
これを本件についてみると、大橋裁判官の補足意見でも指摘されているとおり、本件記事については、仮処分手続で債権者の提出した資料及び裁判所に顕著な事実によつて、その表現内容が真実でなく、かつ、それが専ら公益を図るものでないことが明白に認められるのであつて、その出版による被害の特別の重大性にかんがみ、本件仮処分決定には、その実体面においても、手続面においても、違憲、違法の廉はないとする多数意見に異論はない。ただ、私は、本件記事の名誉毀損に該当するとされる部分は、それ自体において、社会通念上、到底許容し難い侮辱的名誉毀損の典型的なものと認められるから、その僅か一部に抽象的な事実の指摘ともみられるものがあるとしても、その部分の表現内容が真実であるかどうかに立ち入るまでもなく、その部分をも含めて事前差止めの仮処分をすることが許容される、と解しうるのではないかと考えていることを念のため付言しておくこととする。

+意見
裁判官谷口正孝の意見は、次のとおりである。
第一 公的問題に関する雑誌記事等の事前の差止めの要件について、私は、多数意見の説くところと些か所見を異にするので、以下この点について述べることとする。
一 憲法二一条二項、一項は、公的問題に関する討論や意思決定に必要・有益な情報の自由な流通、すなわち公権力による干渉を受けない意見の発表と情報授受の自由を保障している。そして、この自由の保障は、多数意見に示すとおり活力ある民主政治の営為にとつて必須の要素となるものであるから、憲法の定めた他の一般的諸権利の保護に対し、憲法上「優越的保障」を主張しうべき法益であるといわなければならない。この保障の趣旨・目的に合致する限り、表現の自由は人格権としての個人の名誉の保護に優先するのである。
したがつて、雑誌記事等による表現内容が公務員、公選による公職の候補者についての公的問題に関するものである場合には、これを発表し、討論し、意思決定をするに必要・有益な情報の流通を確保することの自由の保障が右公務員、公選による公職の候補者の名誉の保護に優先し、これらの者の名誉を侵害・毀損する事実を摘示することも正当とされなければならず、かかる記事を公表する行為は違法とされることなく、民事上、刑事上も名誉毀損としての責任を問われることはない。
二 そこで、進んで、人格権としての個人の名誉と表現の自由という二つの法益が抵触する場合に、公的問題に関する自由な討論や意思決定を確保するために情報の流通をどの限度まで確保することが必要・有益か、特に、真実に反する情報の流通をどこまで許容する必要があるかが問われることになる。
思うに、真実に反する情報の流通が他人の名誉を侵害・毀損する場合に、真実に反することの故をもつて直ちに名誉毀損に当たり民事上、刑事上の責任を問われるということになれば、一般の市民としては、表現内容が真実でないことが判明した場合にその法的責任を追及されることを慮り、これを危惧する結果、いきおい意見の発表ないし情報の提供を躊躇することになるであろう。そうなれば、せつかく保障された表現の自由も「自己検閲」の弊に陥り、言論は凍結する危険がある。
このような「自己検閲」を防止し、公的問題に関する討論や意思決定を可能にするためには、真実に反した言論をも許容することが必要となるのである。そして、学説も指摘するように、言論の内容が真実に反するものであり、意見の表明がこのような真実に反する事実に基づくものであつても、その提示と自由な討論は、かえつてそれと矛盾する意見にその再考と再吟味を強い、その意見が支持されるべき理由についてのより深い意見形成とその意味のより十分な認識とをもたらすであろう。このような観点に立てば、誤つた言論にも、自由な討論に有益なものとして積極的に是認しうる面があり、真実に反する言論にも、それを保護し、それを表現させる自由を保障する必要性・有益性のあることを肯定しなければならない。公的問題に関する雑誌記事等の事前差止めの要件を考えるについては、先ず以上のことを念頭においてかからなければならない。(誤つた言論に対する適切な救済方法はモア・スピーチなのである。)
三 そこで、事前差止めの要件について検討する。
さて、表現の自由が優越的保障を主張しうべき理由については、先に述べたとおりである。その保障の根拠に照らして考えるならば、表現の自由といつても、そこにやはり一定の限界があることを否定し難い。表現内容が真実に反する場合、そのすべての言論を保護する必要性・有益性のないこともまた認めざるをえないのである。特に、その表現内容が真実に反するものであつて、他人の人格権としての名誉を侵害・毀損する場合においては、人格権の保護の観点からも、この点の考慮が要請されるわけである。私は、その限界は以下のところにあると考える。すなわち、表現の事前規制は、事後規制の場合に比して格段の慎重さが求められるのであり、名誉の侵害・毀損の被害者が公務員、公選による公職の候補者等の公的人物であつて、その表現内容が公的問題に関する場合には、表現にかかる事実が真実に反していてもたやすく規制の対象とすべきではない。しかし、その表現行為がいわゆる現実の悪意をもつてされた場合、換言すれば、表現にかかる事実が真実に反し虚偽であることを知りながらその行為に及んだとき又は虚偽であるか否かを無謀にも無視して表現行為に踏み切つた場合には、表現の自由の優越的保障は後退し、その保護を主張しえないものと考える。けだし、右の場合には、故意に虚偽の情報を流すか、表現内容の真実性に無関心であつたものというべく、表現の自由の優越を保障した憲法二一条の根拠に鑑み、かかる表現行為を保護する必要性・有益性はないと考えられるからである。多数意見は、表現内容が真実でなく、又はそれが専ら公益を図る目的のものでないことが明らかな場合には、公的問題に関する雑誌記事等の事前差止めが許容されるというが、私は、この点については同調できない。思うに、多数意見も認めているように、記事内容が公務員又は公選による公職の候補者に対する評価、批判等であるときは、そのこと自体から公共の利害に関する事項であるといわなければならないわけで、このような事項については、公益目的のものであることは法律上も擬制されていると考えることもできるのである(刑法二三〇条ノ二第三項参照)。したがつて、かかる表現行為について、専ら公益を図る目的のものでないというような不確定な要件を理由として公的問題に関する雑誌記事等の事前差止めを認めることは、その要件が明確な基準性をもたないものであるだけに、表現の自由の保障に対する歯止めとはならないと考えるからである。
第二 次に、裁判所が行う仮処分手続による表現行為の事前差止めの要件について考える。
多数意見がこの点について、一般の仮処分命令手続のように、専ら迅速な処理を旨とし、口頭弁論ないし債務者の審尋を必要的とせず、立証についても疎明で足りるものとすることは、憲法二一条の規定の趣旨に照らし、手続的保障において十分であるとはいえず、事前差止めを命ずる仮処分命令を発するについては、債務者の審尋を行いその意見弁解を聴取するとともに、表現内容の真実性等の主張立証の機会を与えることを原則としたこと、しかしながら、差止めの対象が公務員又は公職選挙の候補者に対する評価、批判等、公共の利害に関する事項についての表現行為である場合においても、口頭弁論を開き又は債務者の審尋を行うまでもなく、債権者の提出した資料によつて明白に事前差止めの要件を充すものと認められる場合には、口頭弁論又は債務者の審尋を経ないで差止めの仮処分命令を発したとしても、憲法二一条の規定の趣旨に反するものということはできないとしたことについては、私としても同意見である。もつとも、私は公的問題に関する雑誌記事等の事前の差止めについては、表現内容が真実に反することにつき表現行為をする者に現実の悪意のあることを要件とすると考えるので、この種の記事について、裁判所が事前差止めを命ずる仮処分命令を発するについては、多数意見を多少修正する必要がある。
私としては、裁判所が事前差止めを命ずる仮処分命令を発するについては、多数意見に示すとおり口頭弁論を開き、債務者を審尋し、主張、立証の機会を与えなければならないことは、憲法二一条二項、一項の規定の趣旨に照らし当然の要件となるものであつて、その場合、債務者に対し、表現内容にかかる事実の真実性を一応推測させる程度の相当な合理的根拠・資料があり、表現行為がそのような根拠・資料に基づいてなされたことの主張、立証の機会が与えられなければならないものと考える。そのことが、現実の悪意がなかつたことの債務者の抗弁を許し、事前の差止めを求められている裁判所に対し仮処分命令を出させないための必要不可缺の要件であるからである。なお、多数意見は、表現行為の事前差止めの要件として、名誉権の侵害・毀損の場合について、被害者が重大にして著しく回復困難な損害を被る虞があることを実体的要件としているが、私はこの要件は、仮処分命令を発するについて、保全の必要性についての要件として考慮すれば足りると考える。
以上、裁判所の仮処分手続による公的事実に関する差止命令を発するための手続的要件を述べたわけであるが、この手続的要件を充足しない場合、すなわち、口頭弁論ないし債務者の審尋を経ないで発した裁判所の仮処分手続による差止命令が常に必ず憲法二一条二項、一項の規定の趣旨に反するものと断じ切ることはできないと思われる。
差止めの対象が公務員又は公選による公職の候補者に対する評価、批判等、公共の利害に関する事項についての表現行為である場合においても、極めて例外的な事例について、口頭弁論を開き債務者の前記抗弁の当否の審尋を行うまでもなく、債権者の提出した資料によつて、その表現内容が真実でなく、それが債務者の現実の悪意をもつてなされたものであることが表現方法、内容に照らし極めて明白であるときは、以上の手続要件を充足せず差止めの仮処分命令を発したとしても、前記憲法の趣旨に反するものとはいえないであろう。その理由については、多数意見の述べるとおりである。そして、本件仮処分命令を発した裁判所に提出された疎明資料によれば、上告人が本件雑誌記事を掲載するについて現実の悪意のあつたことは明白であつたものというべきである。
私も、上告論旨にいう憲法二一条二項違反の主張の理由のないことは多数意見に示すとおりであり、その余の違憲の主張もすでに見たとおり理由がないものと考えるので、本件上告は棄却されるべきものと思料する。
(裁判長裁判官 矢口洪一 裁判官 伊藤正己 裁判官 谷口正孝 裁判官 大橋進 裁判官 牧圭次 裁判官 安岡滿彦 裁判官 角田禮次郎 裁判官 島谷六郎 裁判官 長島敦 裁判官 髙島益郎 裁判官 藤島昭 裁判官 大内恒夫 裁判官 香川保一 裁判官 坂上壽夫)

(2)自己決定権

(3)適正な手続も保障しているか
31条で処理
+判例(H.4.7.1)成田新法事件
理由
一 被上告人運輸大臣が昭和六〇年二月一日の公告をもってした主文第一項掲記の処分の取消しの訴えについて
職権をもって調査するに、上告人は、本件訴えにおいて、被上告人運輸大臣が昭和六〇年二月一日の公告をもってした主文第一項掲記の処分の取消しを求めているところ、右処分は、別紙記載の建築物の所有者である上告人に対し、昭和六〇年二月六日から昭和六一年二月五日までの間右工作物を新東京国際空港の安全確保に関する緊急措置法(昭和五九年法律第八七号による改正前のもの。以下「本法」という。)三条一項一号又は二号の用に供することを禁止することを命ずるものであり、右処分の効力は、昭和六一年二月五日の経過により失われるに至ったから、その取消しを求める法律上の利益も消滅したものといわざるを得ない。そうすると、右処分の取消しを求める訴えはこれを却下すべきであり、右訴えに係る請求につき本案の判断をした原判決は失当であることに帰するから、原判決のうち右請求に関する部分を破棄し、右訴えを却下すべきである。
二 被上告人運輸大臣がしたその余の処分の取消しの訴え及び被上告人国に対する訴えについて
1 上告代理人高橋庸尚の上告理由第一点の(一)のうち、本法は制定の経緯、態様に照らして拙速を免れず、法全体として違憲無効であるという点について
本法の法案が衆議院及び参議院でそれぞれ可決されたものとされ、昭和五三年五月一三日、同年法律第四二号として公布されたものであることは公知の事実であるところ、法案の審議にどの程度の時間をかけるかは専ら各議院の判断によるものであり、その時間の長短により公布された法律の効力が左右されるものでないことはいうまでもない。論旨は、独自の見解であって、採用することができない。

2 同第一点の(二)について
現代民主主義社会においては、集会は、国民が様々な意見や情報等に接することにより自己の思想や人格を形成、発展させ、また、相互に意見や情報等を伝達、交流する場として必要であり、さらに、対外的に意見を表明するための有効な手段であるから、憲法二一条一項の保障する集会の自由は、民主主義社会における重要な基本的人権の一つとして特に尊重されなければならないものである。
しかしながら、集会の自由といえどもあらゆる場合に無制限に保障されなければならないものではなく、公共の福祉による必要かつ合理的な制限を受けることがあるのはいうまでもない。そして、このような自由に対する制限が必要かつ合理的なものとして是認されるかどうかは、制限が必要とされる程度と、制限される自由の内容及び性質、これに加えられる具体的制限の態様及び程度等を較量して決めるのが相当である(最高裁昭和五二年(オ)第九二七号同五八年六月二二日大法廷判決・民集三七巻五号七九三頁参照)。
原判決が本法制定の経緯として認定するところは、次のとおりである。新東京国際空港(以下「新空港」という。)の建設に反対する上告人及び上告人を支援するいわゆる過激派等による実力闘争が強力に展開されたため、右建設が予定より大幅に遅れ、ようやく新空港の供用開始日を昭和五三年三月三〇日とする告示がされたが、その直前の同月二六日に、上告人の支援者である過激派集団が新空港内に火炎車を突入させ、新空港内に火炎びんを投げるとともに、管制塔に侵入してレーダーや送受信器等の航空管制機器類を破壊する等の事件が発生したため、右供用開始日を同年五月二〇日に延期せざるを得なくなった。このような事態に対し、政府は、同年三月二八日に過激派集団の暴挙を厳しく批判し、新空港を不法な暴力から完全に防護するための抜本的対策を強力に推進する旨の声明を発表した。また、国会においても、衆議院では同年四月六日に、参議院でも同月一〇日に、全会一致又は全党一致で、過激派集団の破壊活動を許し得ざる暴挙と断じた上、政府に対し、暴力排除に断固たる処置を採るとともに、地元住民の理解と協力を得るよう一段の努力を傾注すべきこと及び新空港の平穏と安全を確保し、我が国内外の信用回復のため万全の諸施策を強力に推進すべきことを求める決議をそれぞれ採択した。本法は、右のような過程を経て議員提案による法律として成立したものである。
本法は、新空港若しくはその機能に関連する施設の設置若しくは管理を阻害し、又は新空港若しくはその周辺における航空機の航行を妨害する暴力主義的破壊活動を防止するため、その活動の用に供される工作物の使用の禁止等の措置を定め、もって新空港及びその機能に関連する施設の設置及び管理の安全の確保を図るとともに、航空の安全に資することを目的としている(一条)。本法において「暴力主義的破壊活動等」とは、新空港若しくは新空港における航空機の離陸若しくは着陸の安全を確保するために必要な航空保安施設若しくは新空港の機能を確保するために必要な施設のうち政令で定めるもの(以下、右の航空保安施設若しくは新空港の機能を確保するために必要な施設のうち政令で定めるものを「航空保安施設等」という。)の設置若しくは管理を阻害し、又は新空港若しくはその周辺における航空機の航行を妨害する刑法九五条等に規定された一定の犯罪行為をすることをいうと定義され(二条一項)、「暴力主義的破壊活動者」とは、暴力主義的破壊活動等を行い又は行うおそれがあると認められる者をいうと定義されている(同条二項)。
ところで、本法三条一項一号は、規制区域内に所在する建築物その他の工作物が多数の暴力主義的破壊活動者の集合の用に供され又は供されるおそれがあると認めるときは、運輸大臣は、当該工作物の所有者等に対し、期限を付して当該工作物をその用に供することを禁止することを命ずることができるとしているが、同号に基づく工作物使用禁止命令により当該工作物を多数の暴力主義的破壊活動者の集合の用に供することが禁止される結果、多数の暴力主義的破壊活動者の集会も禁止されることになり、ここに憲法二一条一項との関係が問題となるのである。
そこで検討するに、本法三条一項一号に基づく工作物使用禁止命令により保護される利益は、新空港若しくは航空保安施設等の設置、管理の安全の確保並びに新空港及びその周辺における航空機の航行の安全の確保であり、それに伴い新空港を利用する乗客等の生命、身体の安全の確保も図られるのであって、これらの安全の確保は、国家的、社会経済的、公益的、人道的見地から極めて強く要請されるところのものである。他方、右工作物使用禁止命令により制限される利益は、多数の暴力主義的破壊活動者が当該工作物を集合の用に供する利益にすぎない。しかも、前記本法制定の経緯に照らせば、暴力主義的破壊活動等を防止し、前記新空港の設置、管理等の安全を確保することには高度かつ緊急の必要性があるというべきであるから、以上を総合して較量すれば、規制区域内において暴力主義的破壊活動者による工作物の使用を禁止する措置を採り得るとすることは、公共の福祉による必要かつ合理的なものであるといわなければならない。また、本法二条二項にいう「暴力主義的破壊活動等を行い、又は行うおそれがあると認められる者」とは、本法一条に規定する目的や本法三条一項の規定の仕方、さらには、同項の使用禁止命令を前提として、同条六項の封鎖等の措置や同条八項の除去の措置が規定されていることなどに照らし、「暴力主義的破壊活動を現に行っている者又はこれを行う蓋然性の高い者」の意味に解すべきである。そして、本法三条一項にいう「その工作物が次の各号に掲げる用に供され、又は供されるおそれがあると認めるとき」とは、「その工作物が次の各号に掲げる用に現に供され、又は供される蓋然性が高いと認めるとき」の意味に解すべきである。したがって、同項一号が過度に広範な規制を行うものとはいえず、その規定する要件も不明確なものであるとはいえない。
以上のとおりであるから、本法三条一項一号は、憲法二一条一項に違反するものではない。右と同旨の原審の判断は正当であり、原判決に所論の違憲はなく、論旨は採用することができない。

3 同第一点の(三)について
本法三条一項一号に基づく工作物使用禁止命令により多数の暴力主義的破壊活動者が当該工作物に居住することができなくなるとしても、右工作物使用禁止命令は、前記のとおり、新空港の設置、管理等の安全を確保するという国家的、社会経済的、公益的、人道的見地からの極めて強い要請に基づき、高度かつ緊急の必要性の下に発せられるものであるから、右工作物使用禁止命令によってもたらされる居住の制限は、公共の福祉による必要かつ合理的なものであるといわなければならない。
したがって、本法三条一項一号は、憲法二二条一項に違反するものではない。右と同旨の原審の判断は正当であり、原判決に所論の違憲はなく、論旨は採用することができない。なお、論旨は、本法三条一項三号についても憲法二二条一項違反を主張しているが、右三号は本件工作物使用禁止命令に関係がない。

4 同第一点の(四)について
本法三条一項に基づく工作物使用禁止命令は、当該工作物を、(1) 多数の暴力主義的破壊活動者の集合の用に供すること、(2) 暴力主義的破壊活動等に使用され、又は使用されるおそれがあると認められる爆発物、火炎びん等の物の製造又は保管の場所の用に供すること、又は(3) 新空港又はその周辺における航空機の航行に対する暴力主義的破壊活動者による妨害の用に供することの三態様の使用を禁止するものである。そして、右三態様の使用のうち、多数の暴力主義的破壊活動者の集合の用に供することを禁止することが、新空港の設置、管理等の安全を確保するという国家的、社会経済的、公益的、人道的見地からの極めて強い要請に基づくものであり、高度かつ緊急の必要性を有するものであることは前記のとおりであり、この点は他の二態様の使用禁止についても同様であるから、右三態様の使用禁止は財産の使用に対する公共の福祉による必要かつ合理的な制限であるといわなければならない。また、本法三条一項一号の規定する要件が不明確なものであるといえないことは、前記のとおりであり、同項二号の規定する要件も不明確なものであるとはいえない。
したがって、本法三条一項一、二号は、憲法二九条一、二項に違反するものではない。右と同旨の原審の判断は正当であり、原判決に所論の違憲はなく、論旨は採用することができない。なお、論旨は、同項三号についてもその規定する要件が不明確であると主張するが、同号は本件工作物使用禁止命令に関係がない。

5 同第一点の(五)について
憲法三一条の定める法定手続の保障は、直接には刑事手続に関するものであるが、行政手続については、それが刑事手続ではないとの理由のみで、そのすべてが当然に同条による保障の枠外にあると判断することは相当ではない
しかしながら、同条による保障が及ぶと解すべき場合であっても、一般に、行政手続は、刑事手続とその性質においておのずから差異があり、また、行政目的に応じて多種多様であるから、行政処分の相手方に事前の告知、弁解、防御の機会を与えるかどうかは、行政処分により制限を受ける権利利益の内容、性質、制限の程度、行政処分により達成しようとする公益の内容、程度、緊急性等を総合較量して決定されるべきものであって、常に必ずそのような機会を与えることを必要とするものではないと解するのが相当である。
本法三条一項に基づく工作物使用禁止命令により制限される権利利益の内容、性質は、前記のとおり当該工作物の三態様における使用であり、右命令により達成しようとする公益の内容、程度、緊急性等は、前記のとおり、新空港の設置、管理等の安全という国家的、社会経済的、公益的、人道的見地からその確保が極めて強く要請されているものであって、高度かつ緊急の必要性を有するものであることなどを総合較量すれば、右命令をするに当たり、その相手方に対し事前に告知、弁解、防御の機会を与える旨の規定がなくても、本法三条一項が憲法三一条の法意に反するものということはできない。また、本法三条一項一、二号の規定する要件が不明確なものであるといえないことは、前記のとおりである。
右と同旨の原審の判断は正当であり、原判決に所論の違憲はなく、論旨は採用することができない。

6 同第一点の(六)について
憲法三五条の規定は、本来、主として刑事手続における強制につき、それが司法権による事前の抑制の下に置かれるべきことを保障した趣旨のものであるが、当該手続が刑事責任追及を目的とするものではないとの理由のみで、その手続における一切の強制が当然に右規定による保障の枠外にあると判断することは相当ではない(最高裁昭和四四年(あ)第七三四号同四七年一一月二二日大法廷判決・刑集二六巻九号五五四頁)。しかしながら、行政手続は、刑事手続とその性質においておのずから差異があり、また、行政目的に応じて多種多様であるから、行政手続における強制の一種である立入りにすべて裁判官の令状を要すると解するのは相当ではなく、当該立入りが、公共の福祉の維持という行政目的を達成するため欠くべからざるものであるかどうか、刑事責任追及のための資料収集に直接結び付くものであるかどうか、また、強制の程度、態様が直接的なものであるかどうかなどを総合判断して、裁判官の令状の要否を決めるべきである。
本法三条三項は、運輸大臣は、同条一項の禁止命令をした場合において必要があると認めるときは、その職員をして当該工作物に立ち入らせ、又は関係者に質問させることができる旨を規定し、その際に裁判官の令状を要する旨を規定していない。しかし、右立入り等は、同条一項に基づく使用禁止命令が既に発せられている工作物についてその命令の履行を確保するために必要な限度においてのみ認められるものであり、その立入りの必要性は高いこと、右立入りには職員の身分証明書の携帯及び提示が要求されていること(同条四項)、右立入り等の権限は犯罪捜査のために認められたものと解釈してはならないと規定され(同条五項)、刑事責任追及のための資料収集に直接結び付くものではないこと、強制の程度、態様が直接的物理的なものではないこと(九条二項)を総合判断すれば、本法三条一、三項は、憲法三五条の法意に反するものとはいえない。
右と同旨の原審の判断は正当であり、原判決に所論の違憲はなく、論旨は採用することができない。
7 同第二点ないし第五点について
所論の点に関する原審の認定判断は正当として是認することができ、その過程に所論の違法はない。所論違憲の主張は、前記説示と異なる前提に立つか又は独自の見解にすぎない。論旨は、いずれも採用することができない。
8 以上のとおり、被上告人運輸大臣がした前記一の使用禁止命令以外の使用禁止命令の取消しの訴え及び被上告人国に対する訴えに関する上告人の上告は、すべて理由がなく、これを棄却すべきである。
三 結論
よって、行政事件訴訟法七条、民訴法四〇八条、三九六条、三八四条、九六条、九五条、八九条に従い、裁判官園部逸夫、同可部恒雄の意見があるほか、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

+意見
上告理由第一点の(五)についての裁判官園部逸夫の意見は、次のとおりである。
私は、本法三条一項が憲法三一条の法意に反するものではないとする法廷意見の結論には同調するが、その理由を異にするので、以下、私の意見を述べることとする。
私は、行政庁の処分のうち、少なくとも、不利益処分(名宛人を特定して、これに義務を課し、又はその権利利益を制限する処分)については、法律上、原則として、弁明、聴聞等何らかの適正な事前手続の規定を置くことが、必要であると考える。このように行政手続を法律上整備すること、すなわち、行政手続法ないし行政手続条項を定めることの憲法上の根拠については、従来、意見が分かれるところであるが、上告理由は、これを憲法三一条に求めている。確かに、判例及び学説の双方にわたって、憲法三一条の法意の比較法的検討をめぐる議論が、我が国の行政手続法理の発展に寄与してきたことは、高く評価すべきことである。しかしながら、我が国を含め現代における各国の行政法理論及び行政法制度の発展状況を見ると、いわゆる法治主義の原理(手続的法治国の原理)、法の適正な手続又は過程(デュー・プロセス・オヴ・ロー)の理念その他行政手続に関する法の一般原則に照らして、適正な行政手続の整備が行政法の重要な基盤であることは、もはや自明の理とされるに至っている。したがって、我が国でも、憲法上の個々の条文とはかかわりなく、既に多数の行政法令に行政手続に関する規定が置かれており、また、現在、行政手続に関する基本法の制定に向けて努力が重ねられているところである。もとより、個別の行政庁の処分の趣旨・目的に照らし、刑事上の処分に準じた手続によるべきものと解される場合において、適正な手続に関する規定の根拠を、憲法三一条又はその精神に求めることができることはいうまでもない。
ところで、一般に、行政庁の処分は、刑事上の処分と異なり、その目的、種類及び内容が多種多様であるから、不利益処分の場合でも、個別的な法令について、具体的にどのような事前手続が適正であるかを、裁判所が一義的に判断することは困難というべきであり、この点は、立法当局の合理的な立法政策上の判断にゆだねるほかはないといわざるを得ない。行政手続に関する基本法の制定により、適正な事前手続についての的確な一般的準則を明示することは、この意味においても重要なのである。
もっとも、不利益処分を定めた法令に事前手続に関する規定が全く置かれていないか、あるいは事前手続に関する何らかの規定が置かれていても、実質的には全く置かれていないのと同様な状態にある場合は、行政手続に関する基本法が制定されていない今日の状況の下では、さきに述べた行政手続に関する法の一般原則に照らして、右の法令の妥当性を判断しなければならない事態に至ることもあろう。しかし、そのような場合においても、当該法令の立法趣旨から見て、右の法令に事前手続を置いていないこと等が、右の一般原則に著しく反すると認められない場合は、立法政策上の合理的な判断によるものとしてこれを是認すべきものと考える。
これを本法三条一項について見ると、右規定の定める工作物使用禁止命令は、処分の名宛人を確知できる限りにおいて、右名宛人に対し不作為義務を課する典型的な行政上の不利益処分に当たる。したがって、本法に右命令についての事前手続に関する規定が全く置かれていないことに着目すれば、右に述べた意味において、右条項の妥当性が問題とされなければならない。しかし、この点については、右工作物使用禁止命令により制限される権利利益の内容、性質は、当該工作物の三態様における使用であり、右のような態様の使用を禁止することは、新空港の設置・管理等の安全を確保するという国家的、社会経済的、公益的、人道的見地からの極めて強い要請に基づくものであり、高度かつ緊急の必要性を有するものである、という本判決理由の全体にわたる法廷意見の判断があり、私もこれに同調しているところである。本法三条一項の定める工作物使用禁止命令については、右命令自体の性質に着目すると、緊急やむを得ない場合の除外規定を付した上で、事前手続の規定を置くことが望ましい場合ではあるけれども、本法は、法律そのものが、高度かつ緊急の必要性という本件規制における特別の事情を考慮して制定されたものであることにかんがみれば、事前手続の規定を置かないことが直ちに前記の一般原則に著しく反するとまでは認められないのであって、右のような立法政策上の判断は合理的なものとして是認することができると考えるのである。このような見地から、私は、本法三条一項が憲法三一条の法意に反するものではないとする法廷意見に対し、その結論に同調するのである。
上告理由第一点の(五)についての裁判官可部恒雄の意見は、次のとおりである。
一 憲法三一条にいう「法律に定める手続」とは、単に国会において成立した法律所定の手続を意味するにとどまらず、「適正な法律手続」を指すものであること、同条による適正手続の保障はひとり同条の明規する刑罰にとどまらず「財産権」にも及ぶものであること(昭和三〇年(あ)第二九六一号同三七年一一月二八日大法廷判決・刑集一六巻一一号一五九三頁)、また、民事上の秩序罰としての過料を科する作用は、その実質においては一種の行政処分としての性質を有するものであるが、非訟事件手続法による過料の裁判は、過料を科するについての同法の規定内容に照らして、法律の定める適正な手続によるものということができ、憲法三一条に違反するものでないこと(昭和三七年(ク)第六四号同四一年一二月二七日大法廷決定・民集二〇巻一〇号二二七九頁)、また同条の法意に関連するものとして、憲法三五条一項の規定は、本来、主として刑事責任追及の手続における強制について、それが司法権による事前の抑制の下におかれるべきことを保障した趣旨であるが、当該手続が刑事責任追及を目的とするものでないとの理由のみで、その手続における一切の強制が当然に右規定による保障の枠外にあるとするのは相当でないこと(昭和四四年(あ)第七三四号同四七年一一月二二日大法廷判決・刑集二六巻九号五五四頁)は、いずれも当裁判所の判例とするところである。
二 憲法三一条による適正手続の保障は、ひとり刑事手続に限らず、行政手続にも及ぶと解されるのであるが、行政手続がそれぞれの行政目的に応じて多種多様である実情に照らせば、同条の保障が行政処分全般につき一律に妥当し、当該処分につき告知・聴聞を含む事前手続を欠くことが直ちに違憲・無効の結論を招来する、と解するのは相当でない。多種多様な行政処分のいかなる範囲につき同条の保障を肯定すべきかは、それ自体解決困難な熟慮を要する課題であって、いわゆる行政手続法の制定が検討されていることも周知のところであるが、論点をより具体的に限定して、私人の所有権に対する重大な制限が行政処分によって課せられた事案を想定すれば、かかる場合に憲法三一条の保障が及ぶと解すべきことは、むしろ当然の事理に属し、かかる処分が一切の事前手続を経ずして課せられることは、原則として憲法の許容せざるところというべく、これが同条違反の評価を免れ得るのは、限られた例外の場合であるとしなければならない。例外の最たるものは、消防法二九条に規定する場合のごときであるが、これを極限状況にあるものとして、本件が例外の場合に当たるか否かを考察すべきであろう。
三 本法の制定をめぐる問題状況については、上告理由第一点の(二)について法廷意見の述べるとおりであるが、本件において注目されるのは、本件工作物の設置の時期、場所、特に当該工作物自体の構造である。すなわち、原判決(その引用する第一審判決を含む)の認定するところによれば、
「本件工作物は鉄骨鉄筋コンクリート地上三階、地下一階建の建物であり、東西11.47メートル、南北11.5メートル、地上部分の高さ約一〇メートルの立法体に類似した形状をしていて、七か所の小さな換気口及び明り取りのほかには窓及び出入口は存在せず、四方がコンクリートづくめの異様な外観であり、また、内部への出入りは地上から梯子をかけて屋上に昇りその開口部分から行う等の特異な構造を有し、その内部構造も、一階から二階へ、地下部分から直接二階へ、三階から屋上への各昇降口には鉄パイプ梯子がかけられており、二階から三階への昇降口には木製の踏み台が置かれているほかは各階相互間に階段等の昇降手段がない特異な構造となっていること、そして地下部分から緊急時の出入り用のトンネルが左右に掘られている」
というのであって、その構造は、右の判示にみられるように異様の一語に尽き、通常の居住用又は農作物等の格納用の建物とは著しく異なり、何びともその使用目的の何たるかを疑問とせざるを得ないであろう。
次に、本件工作物に対する行政処分の具体的内容をみるのに、そこにおいて禁止される財産権行使の態様としては、「多数の暴力主義的破壊活動者の集合の用に供すること」及び「暴力主義的破壊活動等に使用され、又は使用されるおそれがあると認められる爆発物、火炎びん等の物の製造又は保管の場所の用に供すること」という二態様に尽きるのである。
四 対象となる所有権の内容が、具体的には右にみるようなものであり、また、これを制限する行政処分の内容が右にみるとおりであるとすれば、本件の具体的案件を、行政処分による所有権に対する重大な制限として一般化した上で、本件処分を目して、事前の告知・聴聞を経ない限り、憲法三一条に違反するものとするのは相当でない。
すなわち、本件工作物の構造の異様さから考えられるその使用目的とこれに対する本件処分の内容とを総合勘案すれば、前記にみるような態様の財産権行使の禁止が憲法二九条によって保障される財産権に対する重大な制限に当たるか否か、疑問とせざるを得ないのみならず、これを強いて「重大な制限」に当たると観念するとしても、当該処分につき告知・聴聞を含む事前手続を経ない限り、三一条を含む憲法の法条に反するものとはたやすく断じ難いところである。
五 これを要するに、一般に、行政処分をもってする所有権の重大な制限には憲法三一条の保障が及ぶと解されるのであり、また、かく解することが当裁判所の累次の先例の趣旨に副う所以であると考えられるが、本件工作物につき前記態様の使用の禁止を命じた本件処分につき、事前手続を欠く限り憲法三一条に違反するものとすることはできない。
論旨は理由がなく、原判決は結論において是認すべきものと考える。
(裁判長裁判官草場良八 裁判官藤島昭 裁判官坂上壽夫 裁判官貞家克己 裁判官大堀誠一 裁判官園部逸夫 裁判官橋元四郎平 裁判官中島敏次郎 裁判官佐藤庄市郎 裁判官可部恒雄 裁判官木崎良平 裁判官味村治 裁判官大西勝也 裁判官小野幹雄 裁判官三好達)