第1節 労働憲章
1.強制労働の禁止
+(強制労働の禁止)
労働基準法第五条 使用者は、暴行、脅迫、監禁その他精神又は身体の自由を不当に拘束する手段によつて、労働者の意思に反して労働を強制してはならない。
+第百十七条 第五条の規定に違反した者は、これを一年以上十年以下の懲役又は二十万円以上三百万円以下の罰金に処する。
2.中間搾取の禁止
+(中間搾取の排除)
第六条 何人も、法律に基いて許される場合の外、業として他人の就業に介入して利益を得てはならない。
3.公民権行使の保障
+
(公民権行使の保障)
第七条 使用者は、労働者が労働時間中に、選挙権その他公民としての権利を行使し、又は公の職務を執行するために必要な時間を請求した場合においては、拒んではならない。但し、権利の行使又は公の職務の執行に妨げがない限り、請求された時刻を変更することができる。
+判例(S38.6.21)十和田観光電鉄事件
理由
上告代理人小山内績の上告理由について。
論旨は、要するに、原判決が被上告人の十和田市議会議員就任が上告人会社の業務逐行を著しく阻害する虞れがあるかどうかについて、何等審理判断を加わえることなく、被上告人の懲戒解雇を無効と判断したことは、労働基準法七条の解釈適用を誤まり、審理不尽の違法に陥つたものであるという。
原判決(およびその引用する第一審判決)の確定した事実によれば、被上告人は昭和二九年四月一〇日上告人会社に雇い入れられたものであるが、昭和三四年四月三〇日施行の十和田市議会議員選挙に当選し、上告人会社の承認を得ないで、同市議会議員に就任したところ、上告人会社は、右は従業員が会社の承認を得ないで公職に就任したときは懲戒解雇する旨の就業規則(一六条二号、八五条一三号、八四条六号)に該当するとして、同年五月一日付で被上告人を懲戒解雇に附した、というのである。
おもうに、懲戒解雇なるものは、普通解雇と異なり、譴責、減給、降職、出勤停止等とともに、企業秩序の違反に対し、使用者によつて課せられる一種の制裁罰であると解するのが相当である。ところで、本件就業規則の前記条項は、従業員が単に公職に就任したために懲戒解雇するというのではなくして、使用者の承認を得ないで公職に就任したために懲戒解雇するという規定ではあるが、それは、公職の就任を、会社に対する届出事項とするにとどまらず、使用者の承認にかからしめ、しかもそれに違反した者に対しては制裁罰としての懲戒解雇を課するものである。しかし、労働基準法七条が、特に、労働者に対し労働時間中における公民としての権利の行使および公の職務の執行を保障していることにかんがみるときは、公職の就任を使用者の承認にかからしめ、その承認を得ずして公職に就任した者を懲戒解雇に附する旨の前記条項は、右労働基準法の規定の趣旨に反し、無効のものと解すべきである。従つて、所論のごとく公職に就任することが会社業務の逐行を著しく阻害する虞れのある場合においても、普通解雇に附するは格別、同条項を適用して従業員を懲戒解雇に附することは、許されないものといわなければならない。
されば、本件就業規則の右条項に基づく被上告人の懲戒解雇を無効とした原判決の結論は正当であつて、所論の違法はない。
論旨は、その理由なきに帰し、排斥を免かれない。よつて、民訴三九六条、三八四条、九五条、八九条に従い、裁判官全員の一致で、主文のとおり判決する。裁判官池田克は退官につき評議に関与しない。
(裁判官 奥野健一 裁判官 山田作之助 裁判官 草鹿浅之介 裁判長裁判官河村大助は退官につき署名押印することができない。裁判官 奥野健一)
第2節 労働契約に関する規制
1.契約期間の制限
(1)原則
+(契約期間等)
第十四条 労働契約は、期間の定めのないものを除き、一定の事業の完了に必要な期間を定めるもののほかは、三年(次の各号のいずれかに該当する労働契約にあつては、五年)を超える期間について締結してはならない。
一 専門的な知識、技術又は経験(以下この号において「専門的知識等」という。)であつて高度のものとして厚生労働大臣が定める基準に該当する専門的知識等を有する労働者(当該高度の専門的知識等を必要とする業務に就く者に限る。)との間に締結される労働契約
二 満六十歳以上の労働者との間に締結される労働契約(前号に掲げる労働契約を除く。)
○2 厚生労働大臣は、期間の定めのある労働契約の締結時及び当該労働契約の期間の満了時において労働者と使用者との間に紛争が生ずることを未然に防止するため、使用者が講ずべき労働契約の期間の満了に係る通知に関する事項その他必要な事項についての基準を定めることができる。
○3 行政官庁は、前項の基準に関し、期間の定めのある労働契約を締結する使用者に対し、必要な助言及び指導を行うことができる。
+(やむを得ない事由による雇用の解除)
民法第六百二十八条 当事者が雇用の期間を定めた場合であっても、やむを得ない事由があるときは、各当事者は、直ちに契約の解除をすることができる。この場合において、その事由が当事者の一方の過失によって生じたものであるときは、相手方に対して損害賠償の責任を負う。
(2)例外
+(期間の定めのある雇用の解除)
民法第六百二十六条 雇用の期間が五年を超え、又は雇用が当事者の一方若しくは第三者の終身の間継続すべきときは、当事者の一方は、五年を経過した後、いつでも契約の解除をすることができる。ただし、この期間は、商工業の見習を目的とする雇用については、十年とする。
2 前項の規定により契約の解除をしようとするときは、三箇月前にその予告をしなければならない。
2.賠償予定の禁止
+(賠償予定の禁止)
第十六条 使用者は、労働契約の不履行について違約金を定め、又は損害賠償額を予定する契約をしてはならない。
+判例(浦和地判S61.5.30)サロン・ド・リリー事件
理由
一 本件契約の成立
1 請求原因1の事実は当事者間に争いがない。
2 そこで、まず、本件契約の成否について判断するに、いずれも成立に争いのない甲第二、第三号証、原本の存在、成立とも争いのない乙第二、第三号証と原告会社代表者及び被告の各本人尋問の結果に弁論の全趣旨を総合すれば、原告会社の準社員であつた被告は、昭和五九年六月八日原告会社南浦和西口店のプライベートルームで、原告会社代表者から、「誓約書」なる書面を示されて、美容技術を教えてもらいながら突然やめられたら困るし、右書面を作成しないと皆が教わつていることを自分だけ教えてもらえないという技術面でのマイナスがあるなどという趣旨の説明を受けたうえ、右書面に署名押印するよう求められたこと、右書面には、「万一、私が会社からの色々な指導を自分の都合でお願いしているにもかかわらず勝手わがままな言動で会社側に迷惑をおかけした場合には、下記のことをお約束します。記、1、指導訓練に必要な、諸経費として入社月にさかのぼり一か月につき金四万円也の講習手数料を御支払いいたします。2、上記講習手数料は、会社より請求があつた日より一週間以内に御支払いいたします。3、それ以後は、金利(月利三パーセント)を加算することとします。但し、私の態度によつて、会社側より講習手数料を、請求されない時は支払義務なしとさせて頂きます。」等の記載があつたこと、被告は原告会社代表者の右説明を聞いたうえ、右書面に目を通し、その内容を理解したうえ、これに署名、押印したこと、また、右書面上は「勝手わがままな言動で会社側に迷惑をかけた場合」の内容が必ずしも明らかではないが、右当時、原告会社代表者と被告との間では、原告会社の美容指導を受けたにもかかわらず原告会社の意向に反して退職した場合をさすものとの了解がなされていたことが認められ、右認定に反する証拠はない。以上によれば、昭和五九年六月八日に原告会社と被告との間で、右了解の内容となつている退職を停止条件として、入社時に遡及して月額四万円の講習手数料を支払う旨の契約が成立したことが認められる。
二 本件契約の効力
1 被告は、本件契約が労働基準法第一六条に違反するから無効であると主張するので、この点につき判断することとする。
2 ところで、労働基準法第一六条が使用者に対し、労働契約の不履行について違約金を定め、又は損害賠償を予定する契約をすることを禁じている趣旨は、右のような契約を許容するとすれば労働者は、違約金又は賠償予定額を支払わされることを虞れ、その自由意思に反して労働関係を継続することを強制されることになりかねないので、右のような契約を禁じこのような事態が生ずることを予め防止するところにあると解されるところ、当該契約がその規定上右違約金又は損害賠償の予定を定めていることが、一見して必ずしも明白でないような場合にあつても、右立法趣旨に実質的に違反するものと認められる場合においては、右契約は同条により無効となるものと解される。そして、当該契約が同条に違反するか否かを判断するにあたつては、当該契約の内容及びその実情、使用者の意図、右契約が労働者の心理に及ぼす影響、基本となる労働契約の内容及びこれとの関連性などの観点から総合的に検討する必要がある。
そこで、本件についてみるに、いずれも成立に争いのない甲第一号証の一、二、第二、第三号証、第七ないし第一一号証の各一、二、原本の存在、成立とも争いのない甲第四号証、乙第二、第三号証と原告会社代表者及び被告本人の各本人尋問の結果並びに弁論の全趣旨を総合すれば、次の事実が認められる。
本件契約の内容は、前記一2で認定したように、被告が原告会社から、美容指導を受けたにもかかわらず、その意向に反して退職した場合に被告の入社時に遡及して月額四万円の講習手数料を支払う、右講習手数料の支払期限は、原告会社より請求のあつた日より一週間以内とされ、それ以降は、月利三パーセントの遅延損害金を支払うというものであること、また本件契約にいう指導は、技術訓練(集合トレーニング、店舗内訓練、早朝練習、営業終了後練習)、ヘルプ作業をするための数多くのアドバイス、スタイリストになるための指導、接客による実地訓練、常識ある社会人への指導等をその内容としていること、原告会社代表者は、美容指導を受けた従業員が、突然退職しては会社にとつて不都合であるとの配慮から本件契約条項を案出し、本件契約を締結する際にも右意図を被告に説明していること、本件契約条項を読んだ被告は、金銭に縛られて働くことはいやだという気持ちを抱いたが、当時は、原告会社に続けて稼働したいとの希望があり、また、原告会社代表者から、美容技術に関し、他の従業員皆が教わつていることを教えてもらえない旨言われたため、本件契約締結に応じたこと、右講習の実情は、毎週金曜日に一度午後七時から午後九時までの勤務時間外に、指導対象者を営業店舗内に集合させて、原告会社の管理者兼任の指導員が、洗髪、カツト、カール、パーマ、セツトなどの指導を行なう集合トレーニングと、希望者が自ら要望した時に随時右と同様の指導を受ける方式がとられていたこと、また、右講習の対象者は、原告会社との間で講習手数料契約を締結した者に限らず、アルバイトの者を含め、右契約を締結をしない一般の従業員をも含むものであつたこと、さらに、右指導のために原告会社が負担する費用は、指導員の人件費が主であり、その他に設備費や光熱費もあるが、原告会社は、右指導員らに対して給料とは別個の名目で指導料などの支給は行なつていないこと、他方、原告会社との労働契約にもとづき被告が行つてきた業務は、主として客に対するブロー、シヤンプー、ワインデイング等カツトを除いた美容一般の作業であつて、本件契約にもとづく指導内容と極めて近似したものであること、しかも、原告会社と被告間の本件契約の締結は、右当事者間の準社員労働契約締結の二日後であること、加えて、右労働契約における被告の給与額は、月額八万九〇〇〇円ないし九万円とされているのに対し、本件契約にもとづく講習手数料は月額四万円とされ、前者に対する後者の比率がかなり高いうえ、当然のことながら、従業員が講習手数料を支払う場合には、原告会社に在職する期間が長い者ほど支払うべき講習手数料が累積する関係にあることが認められ、右認定を覆すに足る証拠はない。
以上に認定した本件契約の目的、内容、従業員に及ぼす効果、指導の実態、労働契約との関係等の事実関係に照らすと、仮令原告が主張するようにいわゆる一人前の美容師を養成するために多くの時間や費用を要するとしても、本件契約における従業員に対する指導の実態は、いわゆる一般の新入社員教育とさしたる逕庭はなく、右のような負担は、使用者として当然なすべき性質のものであるから、労働契約と離れて本件のような契約をなす合理性は認め難く、しかも、本件契約が講習手数料の支払義務を従業員に課することにより、その自由意思を拘束して退職の自由を奪う性格を有することが明らかであるから、結局、本件契約は、労働基準法第一六条に違反する無効なものであるという他はない。
三 結論
以上のとおりであるから、その余の点について判断するまでもなく原告の請求は理由がない。
よつて、原告の本訴請求を棄却することとし、訴訟費用の負担について民事訴訟法第八九条を適用して主文のとおり判決する。
民事第5部
(裁判官 小笠原昭夫 裁判官 野崎惟子 裁判官 樋口裕晃)
+判例(東京地判H14.4.16)野村証券留学費返還請求事件
第3 争点に対する判断
1 争点(1)(留学費用返還に関する合意の成否)について
被告が署名押印した本件誓約書には「派遣要綱第18条(1),(2),(3)号に該当するに至ったときは,即時留学費用の全部を返済いたします。」と明記され,一定の場合に被告が多額に上ると予想される留学費用の全額を返済する意思が明確に表示されるとともに,派遣要綱の条項が具体的に引用されており,このような場合には同条項の存在及びその内容を了知した上で署名捺印するのが通常であること,派遣要綱は海外人事課に常備されていて,担当者から内容の説明をすることになっていたこと(〈証拠・人証略〉)からすると,被告も同条項の存在及びその内容を了知した上で署名捺印したと推認される。
これに対し,被告はそのような認識がなく合意が成立していないと主張する。しかし,被告は,当初派遣要綱の存在はもとより留学費用の返還について全く意識をしていなかったと主張したにもかかわらず,その後陳述書(〈証拠略〉)では,派遣要綱の存在及び返還の必要があるかについて明確な認識がなく,本件誓約書が形式的なものという程度にしか思っていなかったなどとあいまいな内容を述べ,さらに,本人尋問では留学を終え帰任後,一定期間を超えて脱退原告において勤務を継続した場合は留学費用の全部について返済が免除されるが,そうでなければ返済しなければならないものであること(派遣要綱第18条(1))の認識があったことを事実上自認するに至っている。したがって,上記推認に反する被告の主張及び供述等は採用できない。
また,本件誓約書には「ELFE大学へ留学するにあたっては」と記載されているが,同記載は渡航後最初に入学する学校を記載する扱いであったことによるもので,最終の留学先までの全体が対象となると認識されていたのであり(〈人証略〉),本件でも海外留学の最終目的がビジネス・スクール等の大学院の入学及び卒業にあり,外国人向けの語学学校であるELFE(Ecole de Langue Francaise pour Etrangers)で語学学習をすることが最終目的ではないことは明らかであり,したがって,本件誓約書でいう留学費用の全額とは海外留学の受験及び渡航準備費用はもちろん,その後入学したINSEADの費用にも及ぶ趣旨である。この点に関する被告の主張は採用できない。
以上のとおり,脱退原告と被告との間には,本件留学の派遣要綱8条所定の費用全額につき,被告が留学を終え帰任後5年間脱退原告において就業した場合には債務を免除するが,そうでない場合は返還する旨の合意が成立した。
2 争点(2)(返還合意の性質と労働基準法16条違反の有無)について
(1) 会社が負担した海外留学費用を労働者の退社時に返還を求めるとすることが労働基準法16条違反となるか否かは,それが労働契約の不履行に関する違約金ないし損害賠償額の予定であるのか,それとも費用の負担が会社から労働者に対する貸付であり,本来労働契約とは独立して返済すべきもので,一定期間労働した場合に返還義務を免除する特約を付したものかの問題である。そして,本件合意では,一定期間内に自己都合退職した場合に留学費用の支払義務が発生するという記載方法を取っているものの,弁済又は返却という文言を使用しているのであるから,後者の趣旨であると解するのが相当である。被告は,新要綱では支給される費用と貸与される費用とが区別して規定され,貸与される費用だけが返還の対象とされていることを指摘するが,新要綱は貸付金額を制限するのに伴って表現を整備したにすぎないものと解され,上記判断に影響するものではない。その他被告の主張は採用できない。
しかし,具体的事案が上記のいずれであるのかは,単に契約条項の定め方だけではなく,労働基準法16条の趣旨を踏まえて当該海外留学の実態等を考慮し,当該海外留学が業務性を有しその費用を会社が負担すべきものか,当該合意が労働者の自由意思を不当に拘束し労働関係の継続を強要するものかを判断すべきである。
ところで,勤続年数が短いにもかかわらず将来を嘱望される人材に業務とは直接の関連性がなく労働者個人の一般的な能力を高め個人の利益となる性質を有する長期の海外留学をさせるという場合には,多額の経費を支出することになるにもかかわらず労働者が海外留学の経験やそれによって取得した資格,構築した人脈などをもとにして転職する可能性があることを考慮せざるを得ず,したがって,例外的な事象として早期に自己都合退社した場合には損害の賠償を求めるという趣旨ではなく,退職の可能性があることを当然の前提として,仮に勤務が一定年数継続されれば費用の返還を免除するが,そうでない場合には返還を求めるとする必要があり,仮にこのような方法が許されないとすれば企業としては多額の経費を支出することになる海外留学には消極的にならざるを得ない。また,上記のような海外留学は人材育成策という点で広い意味では業務に関連するとしても,労働者個人の利益となる部分が大きいのであるから,その費用も必ずしも企業が負担しなければならないものではなく,むしろ労働者が負担すべきものと考えられる。他方,労働者としても一定の場合に費用の返還を求められることを認識した上で海外留学するか否かを任意に決定するのであれば,その際に一定期間勤務を継続することと費用を返還した上で転職することとの利害得失を総合的に考慮して判断することができるから,そのような意味では費用返還の合意が労働者の自由意思を不当に拘束するものとはいいがたい。仮に,合意成立時に予想しないような特別の事情が発生して退職を余儀なくされたり,予想の範囲を超える多額の費用を要したのであれば,自己都合の解釈や権利濫用の法理によって妥当な解決を図ることができる。よって,上記場(ママ)合には,費用返還の合意は会社から労働者に対する貸付たる実質を有し,労働者の自由意思を不当に拘束し労働関係の継続を強要するものではなく,労働基準法16条に違反しないといえる。
(2) 認定事実
前記争いのない事実等,証拠(〈証拠・人証略〉)及び弁論の全趣旨によれば次の事実が認められる。
ア 被告は,平成2年1月付けの自己申告書の研修の希望に関する欄及び会社への要望欄に「是非海外留学をして人間の幅を広げたい。」旨記載し提出した(〈証拠略〉)。脱退原告の海外留学制度では,全国の部長・支店長から留学を希望し派遣要綱1条の目的に照らしてふさわしい社員を推薦してもらい,人事部で語学試験の成績,勤務成績,人事部インタビュー等の評価を考慮して面接対象者を決め,複数回の面談を通じて本人の留学希望,上記目的にふさわしい人格,見識,潜在能力,語学力を有するかを考慮して決定する。被告についても,留学希望を確認したところ,外国人の思考方法を知りたいというような理由で留学を強く希望した。
イ 脱退原告は被告に対し留学地域としてフランス語圏を指定したが,それは脱退原告の海外留学制度の目的から多様な地域に留学させ,多様な経験を有する人材を育成するという方針があり,被告の選考時点での英語力が相対的に劣るため他の者を米英に割り当て,被告を著名なビジネス・スクールのあるフランス語圏に指定したものである。ただし,フランス語圏は欧州において,ベルギー,スイスを含め広い範囲を占め,重要な地域であること,中長期的に基幹的な地位に配置することのできる人材を養成するという意味もあった。フランスで勤務する者の中にはフランス留学経験者が複数存するが,そうではない者もいる。
ウ また,脱退原告は被告に対し,フランス語圏にあるINSEAD,IMDを含めた5,6校の留学先の受験を勧め,その中の合格したところに留学するよう指導したが,INSEAD又はIMDに留学するよう指定したことはない。また,鈴木は平成3年秋ころINSEADの副学長が来日した際被告を引き合わせたことがあり,被告自身同校のことを調べて良い学校であると知り,その入学を希望するようになった。語学学校の選択については実績を考慮して脱退原告が数校を指定することはあっても最終的な選択は被告が行った。そして,被告は平成4年4月29日付けでINSEADから,語学力を高めた上で平成5年9月入学の,同年5月4日付けでIMDから平成5年1月入学の各合格通知を得たが,被告はその希望に従ってINSEADに対し入学する旨の連絡をし,脱退原告に対しその間の語学学習の費用を負担するように求め,脱退原告はこれに応じた。この間,脱退原告は被告に対しINSEADに入学するまでの間にロンドンで仕事をしながら語学の勉強をすることを提案したが,被告は平成4年5月13日ころそれは業務命令ではないとして断った。
(〈証拠・人証略〉)
エ 平成4年1月健康診断の結果,被告には健康状態に問題があると指摘されたが,被告は留学したいとの気持ちが強いため留学を断念せず(被告本人12回),内容の説明を受けた7ないし10日後,本件誓約書を脱退原告に提出した(〈証拠略〉)。脱退原告において,留学候補生が希望する留学先に合格しなかったなどの理由で留学を辞退した例があるが,人事制度上特段の不利益を被ったことはない。
オ 留学中は,月に一度月例報告書を提出するが,その趣旨及び内容は留学先での近況や今後の予定である(〈証拠略〉)。留学中は,留学生から脱退原告に相談があれば助言や援助をするが,留学生に現地法人や支店への出頭を命じるなど,命令や義務を課することはなく,留学先での科目の選択も留学生の判断に委ねられており,脱退原告が干渉することはない。ましてや脱退原告の業務を行わせることはない。被告についてもそうであった。(〈証拠・人証略〉)
カ ワッサースタイン・ペレラ社は脱退原告と資本業務提携をしている米国法人であり,主としてM&A業務を行っている。被告は同社に出向中の平成8年1月ないし2月にボストンコンサルティング・グループにコンサルタントとして転職することのオファーを受けてこれに応じ,その後,ゴールドマン・サックス社に転職したが,これら転職にIN-SEADのMBAを持っていることが役立っており,被告にとって大きな財産となっている。(被告12回)
以上の事実が認められ,被告の供述(本人及び〈証拠略〉)のうちこれに反する部分は,被告本人の供述が全体として不利な内容の質問に対しては記憶がないとして供述を回避したり,あいまいな供述をしたり,など信用性が低いから採用できない。なお,被告は,損失補填等の証券スキャンダルが転職の動機であるとの趣旨を述べるが,これが発覚したのは本件誓約書作成前の平成3年であること,退職当時はワッサースタイン・ペレラ社に出向中であったことから,採用できない。
(3) 判断
そこで,上記認定事実及び前記争いのない事実等に基づいて判断する。
本件留学は勤続年数が短いにもかかわらず将来を嘱望される人材に多額の費用をかけて長期の海外留学をさせるという場合に該当する。
本件海外留学決定の経緯を見るに,被告は人間の幅を広げたいといった個人的な目的で海外留学を強く希望していたこと,派遣要綱上も留学を志望し選考に応募することが前提とされていること,面談でも本人に留学希望を確認していること,被告には健康状態の問題など,本件合意の時点で留学を断念する選択肢もあったのに,被告は留学したいとの気持ちが強く本件留学を決定したこと,INSEAD入学及びその入学までの語学学習の方法は被告の強い意向によること,が認められる。これによれば,仮に本件留学が形式的には業務命令の形であったとしても,その実態としては被告個人の意向による部分が大きく,最終的に被告が自身の健康状態,本件誓約書の内容,将来の見通しを勘案して留学を決定したものと推認できる。
また,留学先での科目の選択や留学中の生活については,被告の自由に任せられ,脱退原告が干渉することはなかったのであるから,その間の行動に関しては全て被告自身が個人として利益を享受する関係にある。実際にも被告は獲得した経験や資格によりその後の転職が容易になるという形で現実に利益を得ている。
他方,脱退原告の留学生選定においては勤務成績も考慮すること,脱退原告は被告に対し留学地域としてフランス語圏を指定し,ビジネス・スクールを中心として受験を勧め,それにはフランス語圏が重要な地域であること等,中長期的に基幹的な部署に配置することのできる人材を養成するという会社の方針があることが認められる。しかし,これらは派遣要綱1条の目的に従ったものと見ることができ,あくまでも将来の人材育成という範囲を出ず,そうであれば業務との関連性は抽象的,間接的なものに止まるといえる。したがって,本件留学は業務とは直接の関連性がなく労働者個人の一般的な能力を高め個人の利益となる性質を有するものといえる。
その他,費用債務免除までの期間などを考慮すると,本件合意は脱退原告から被告に対する貸付たる実質を有し,被告の自由意思を不当に拘束し労働関係の継続を強要するものではなく,労働基準法16条に違反しないといえる。
なお,新要綱では費用の一部の貸与に止まること,米国留学に比べてフランス留学が費用がかさむことは認められるが,それによって本件合意が全体として違法なものとなるとは解することはできず,本訴請求の範囲では正当なものというべきである。その他,被告の主張はいずれも採用できない。
第4 結論
以上のとおりであるから,原告引受承継人の請求は正当として認容すべきである。
(裁判官 多見谷寿郎)
+判例(東京地判H10.9.25)新日本証券事件
3.前借金相殺の禁止
+(前借金相殺の禁止)
第十七条 使用者は、前借金その他労働することを条件とする前貸の債権と賃金を相殺してはならない。
4.強制貯金の禁止
+(強制貯金)
第十八条 使用者は、労働契約に附随して貯蓄の契約をさせ、又は貯蓄金を管理する契約をしてはならない。
○2 使用者は、労働者の貯蓄金をその委託を受けて管理しようとする場合においては、当該事業場に、労働者の過半数で組織する労働組合があるときはその労働組合、労働者の過半数で組織する労働組合がないときは労働者の過半数を代表する者との書面による協定をし、これを行政官庁に届け出なければならない。
○3 使用者は、労働者の貯蓄金をその委託を受けて管理する場合においては、貯蓄金の管理に関する規程を定め、これを労働者に周知させるため作業場に備え付ける等の措置をとらなければならない。
○4 使用者は、労働者の貯蓄金をその委託を受けて管理する場合において、貯蓄金の管理が労働者の預金の受入であるときは、利子をつけなければならない。この場合において、その利子が、金融機関の受け入れる預金の利率を考慮して厚生労働省令で定める利率による利子を下るときは、その厚生労働省令で定める利率による利子をつけたものとみなす。
○5 使用者は、労働者の貯蓄金をその委託を受けて管理する場合において、労働者がその返還を請求したときは、遅滞なく、これを返還しなければならない。
○6 使用者が前項の規定に違反した場合において、当該貯蓄金の管理を継続することが労働者の利益を著しく害すると認められるときは、行政官庁は、使用者に対して、その必要な限度の範囲内で、当該貯蓄金の管理を中止すべきことを命ずることができる。
○7 前項の規定により貯蓄金の管理を中止すべきことを命ぜられた使用者は、遅滞なく、その管理に係る貯蓄金を労働者に返還しなければならない。
第3節 プライバシーと人格権
1.労働者のプライバシー
(1)健康情報
a)採用時における調査
+判例(東京地判H15.6.20)B金融公庫B型肝炎ウイルス感染検査事件
・調べておく。
事件概要
金融機関であるYに雇用されるため採用選考に応募したXが、Yに対し、〔1〕B型肝炎ウイルスに感染していることのみを理由としてXを不採用としたこと、ならびに、〔2〕Xに無断でウイルス感染を判定する検査及び精密検査を受けさせたことがいずれも不法行為であるとして損害賠償を求めた事案で、裁判所は、〔1〕XとYとの間で始期付解除権留保付雇用契約は成立しておらず、また仮に、当事者が雇用契約の成立が確実であると相互に期待すべき段階に至っている場合は、合理的な理由なくこの期待を裏切ることは信義則違反になるとしたが、そのような状態には至っていなかったとして、不採用による不法行為を否定する一方で、〔2〕B型肝炎についての最初の検査、ならびに再検査それぞれについて、調査の目的や必要性についてXに対して何らの説明もなく、Xの同意を得ることもなく、B型肝炎についての検査を受検させたYの行為は、いずれもXのプライバシーを侵害する不法行為であるとし、Yに対し、損害賠償を認めた事例。
判決理由
〔労働契約-採用内定〕
〔労働契約-労働契約上の権利義務-使用者に対する労災以外の損害賠償〕
始期付解除権留保付雇用契約が成立(採用内定)したとはいえない場合であっても、当事者が前記雇用契約の成立(採用内定)は確実であると期待すべき段階に至った場合において、合理的な理由なくこの期待を裏切ることは、契約締結過程の当事者を規律する信義則に反するというべきであるから、当事者が雇用契約の成立(採用内定)が確実であると相互に期待すべき段階において、企業が合理的な理由なく内定通知をしない場合には、不法行為を構成するというべきである。〔中略〕
〔労働契約-採用内定〕
〔労働契約-労働契約上の権利義務-使用者に対する労災以外の損害賠償〕
6月2日以降においても、被告は、原告に肝臓の数値が高い等と告げて、再検査(6月18日)、再々検査(6月30日)、精密検査(7月9日)を受検させており、雇用契約の成立(採用内定)の期待が高まったとは評価できないから、6月2日以降においても、雇用契約の成立が確実であると相互に期待すべき段階に至ったということはできない。
したがって、被告が、7月29日、原告に不採用を告げ、9月30日にもその旨告げたこと(本件不採用)は、不採用の理由やその合理性について検討するまでもなく、不法行為には該当しないというべきである。
〔労働契約-労働契約上の権利義務-社員のプライバシー権〕
平成9年当時、B型肝炎ウイルスの感染経路や労働能力との関係について、社会的な誤解や偏見が存在し、特に求職や就労の機会に感染者に対する誤った対応が行われることがあったことが認められるところ、このような状況下では、B型肝炎ウイルスが血液中に常在するキャリアであることは、他人にみだりに知られたくない情報であるというべきであるから、本人の同意なしにその情報を取得されない権利は、プライバシー権として保護されるべきであるということができる。
他方、企業には、経済活動の自由の一環として、その営業のために労働者を雇用する採用の自由が保障されているから、採否の判断の資料を得るために、応募者に対する調査を行う自由が保障されているといえる。そして、労働契約は労働者に対し一定の労務提供を求めるものであるから、企業が、採用にあたり、労務提供を行い得る一定の身体的条件、能力を有するかを確認する目的で、応募者に対する健康診断を行うことは、予定される労務提供の内容に応じて、その必要性を肯定できるというべきである。ただし、労働安全衛生法66条、労働安全衛生規則第43条の定める雇入時の健康診断義務は、使用者が、常時使用する労働者を雇い入れた際における適正配置、入職後の健康管理に役立てるために実施するものであって、採用選考時に実施することを義務づけたものではなく、また、応募者の採否を決定するために実施するものではないから、この義務を理由に採用時の健康診断を行うことはできないというべきである(第2の1(3)の労働省通知参照)。
イ アで検討したB型肝炎ウイルス感染についての情報保護の要請と、企業の採用選考における調査の自由を、前記1(11)で認定したB型肝炎ウイルスの感染経路及び労働能力との関係に照らし考察すると、特段の事情がない限り、企業が、採用にあたり応募者の能力や適性を判断する目的で、B型肝炎ウイルス感染について調査する必要性は、認められないというべきである。また、調査の必要性が認められる場合であっても、求職や就労の機会に感染者に対する誤った対応が行われてきたこと、医療者が患者、妊婦の健康状態を把握する目的で検査を行う場合等とは異なり、感染や増悪を防止するための高度の必要性があるとはいえないことに照らすと、企業が採用選考において前記調査を行うことができるのは、応募者本人に対し、その目的や必要性について事前に告知し、同意を得た場合に限られるというべきである。
ウ 以上をまとめると、企業は、特段の事情がない限り、採用に当たり、応募者に対し、B型肝炎ウイルス感染の血液検査を実施して感染の有無についての情報を取得するための調査を行ってはならず、調査の必要性が存在する場合でも、応募者本人に対し、その目的や必要性について告知し、同意を得た場合でなければ、B型肝炎ウイルス感染についての情報を取得することは、できないというべきである。〔中略〕
金融機関たる被告の業務に照らすと、被告が、採用にあたり、応募者の能力や適性を判断するために、B型肝炎ウイルス感染の有無を検査する必要性は乏しく、B型肝炎ウイルスについて調査すべき特段の事情は認められないといえる。そして、仮に、その必要性が肯定できるとしても、前記1(6)のとおり、本件ウイルス検査は、HBs抗体検査を行う目的や必要性について何ら説明することなく、原告の同意を得ないで行われたものであるから、原告のプライバシー権を侵害するものとして、違法の評価を免れないというべきである。
+判例(東京地判H15.5.28)東京都警察学校警察病院HIV検査事件
第3 争点に対する判断
1 認定した事実(前提となる事実及び末尾記載の証拠により認定できる。)
(1) 警察官の採用及び警察学校における教養・訓練等(平成10年当時)
ア 採用手続及び採用時研修
警視庁職員には、警察官とそれ以外の職員(一般職員)があり、警察官は、原則としてI類ないしIII類の各区分による競争試験(採用試験)を受験して合格し、採用候補者名簿に登載された者の中から、警視庁巡査(階級)として採用される。
採用された者は、警察学校において、全寮制の下、一般教養、警察官として必要かつ基礎的な法学、捜査・交通などの警察実務並びに柔道・剣道の内1種目、逮捕術、けん銃射撃などの術科について研修を受け(初任教養研修)、初任教養研修修了後は、基本的な実務能力を身につけるため、警察署に配属され、実際の諸勤務、取扱いを中心とした実習を行い(職場実習)、職場実習修了後は、再び警察学校で総合的な研修を受ける(初任総合教養)。採用時に行われるこの研修の期間は、採用区分により異なり、I類採用者の場合は、初任教養6か月、職場実習7か月、初任総合教養2か月である。警視庁職員任用規程では、この初任教養期間は条件付採用期間とされ、この期間中の職員が職務の適格性を欠くとき、心身に故障があるとき等で、引き続き任用しておくことが適当でないと認められる場合には、免職することができるとされている。
原告が受験した平成9年度警視庁警察官採用試験においては、身体的に、一定以上の身長、体重、視力を有するほか、色覚・聴力が正常で、職務遂行に支障のない健全な身体であることが受験資格とされており、第1次試験において、身長・視力・色覚・聴力の検査が行われ、第1次試験通過者に対し実施された第2次試験では、体重測定、胸部疾患、伝染病疾患、その他について医師の診察、レントゲン検査が行われ、四肢関節等諸機能についても検査が行われた。これら検査が実施されることは、受験案内にも明示されていた。また、警察学校入校に先立ち、原告ら同期入校者に対し、医療機関での血液検査の結果証明及び赤痢菌検査証明を提出することが求められた。
(甲1、3、乙14)
イ 警察学校における組織等
警察学校入校者は、採用区分及び採用時期(警察学校入校時期)により期が付される。同期入校者は、担当教官の名字を付した教場というグループ(クラス)に分けられ、警部補である教官と巡査部長である助教各1名が各教場の指導を担当する。原告は第1155期であり、同期の約160名は4グループに分けられ、原告は、教官がH警部補、助教がG巡査部長(以下「G巡査部長」という。)のH教場に配属された。
警察学校には、校長、副校長、部長、教授(5名)、係長の下に、教官及び助教その他の職員が配置されており、生徒の指導・教育等に主に関与するのは、第一教養部長、同教授、各教場の教官及び助教である。本件当時、1155期生を担当する第一教養部の教授は2名おり、その1人がE警視であった。
また、学校内には診療所があり、校医(嘱託医)が警察学校職員及び生徒に対し日常的な診療や健康管理等を行っている。本件当時の校医は、C医師であった。
(乙17、証人H、同E)
ウ 健康管理本部
警視庁健康管理本部は、警視庁職員(警察学校の職員生徒も含まれる。)の健康管理、健康相談、健康診断、診療、公務傷病の診断等を担当しており、同本部長は、医師の資格を有している。
A本部長は、昭和56年9月警視庁に入庁し、平成7年2月健康管理本部長兼警視庁診療所長となり、本件当時もその地位にあった。
(乙16、証人A)
(2) 警察官の勤務、職務等
警視庁の各警察署には、警務課、交通課、警備課、地域課、刑事課、生活安全課があり、地域課には交番、駐在所が所属する。
警察官の勤務は、毎日勤務と交代制勤務とがあり、平成10年当時、いずれの場合も週40時間勤務である。毎日勤務は原則として午前8時15分から午後5時15分まで、交代制勤務は職種により異なるが、警察署での交番勤務は4部制で、夜間勤務のある当番目が4日ごとに1日ある。当番目の出勤時間は午後2時30分(午前8時30分の早出当番が月1回)である。完全週休2日制で、祝日休、年末年始休、年次休暇20日などがある。
警察では、その責務を果たすため、24時間警戒態勢を確保しており、全国の警察官の概ね4割は交代制勤務に従事し、交代制勤務以外でも、警察署に勤務する警察官の多くは1週間に1度の割合で夜間勤務に従事している。また、犯罪捜査をはじめ、事件、事故、災害への対応のため、勤務時間以外に長時間にわたり困難な業務に当たることが多い。このような警察職員の勤務の特殊性に鑑み、勤務環境、勤務制度の改善、年次休暇の計画的取得の促進等、職員の待遇改善が積極的に推進する方針がとられている。
(甲1、乙12、13)
(3) HIV感染症
ア 概念
HIVとは、ヒト免疫不全ウイルスの略称をいい、エイズ(AIDS)とは、HIVに感染し、CD4陽性リンパ球数が低下することにより生じた免疫不全状態に、日和見感染症を併発した状態をいうが、実際には、CD4が数的な低下をきたす前に機能的な低下を併発するため、種々の免疫異常が生じる病気である。(乙8)
イ 検査
HIVに感染すると、ウィルスと抗体が共存し、終生この状態が持続する。日本で一般的に実施されている検査法には、HIV抗体を検出する方法、HIV抗原を検出する方法、ウィルスを分離培養する方法、プロウィルスDNAを検出する方法がある。このうち、HIV抗体のスクリーニング検査は、簡便であり、偽陰性がほとんど出現しないため、まずこの検査方法が用いられるのが通常である。ただし、感染直後の採血による検査の場合は、実際に感染しているのに陰性反応を示すことがある。また、スクリーニング検査では、約0.3パーセントの偽陽性が出るため、より精度の高い確認法で確認する必要がある。スクリーニング検査では、陰性か陽性かの判定のみで、被検者の免疫状態は分からない。(甲16、18、乙8)
ウ 感染後の経過
HIVに感染すると、多くの場合、1~2か月以内に急性感染症状がみられるが、その後は症状が消失し、数年から10年以上にわたり、無症候性キャリア期とよばれる無症状で経過する時期が続く。同期間中は、外見からは特別の症状はみられないが、実際には感染直後から正常な免疫応答は損なわれていると考えられる。また、無治療の場合、症状の有無にかかわらず免疫不全は徐々に進行すると考えられている。
HIV感染症が進行し、免疫状態が弱まると、重度の免疫不全を呈するようになり、明らかな感染症を併発しないまでも、原因不明の発熱、下痢、体重減少、全身倦怠感などを呈するほか、さまざまな日和見感染症をおこすようになり、AIDS発症となる。HIV感染症の死亡原因のほとんどは、この合併日和見感染症である。日和見感染症の多くは治療できる疾患であり、早期に適切な治療を受けることで、職場復帰が可能とされている。
エ 治療
HIV感染者に対する治療は、外来での抗HIV薬を用いた併用療法であり、月1回程度の通院と規則的な服薬により行われる。治療薬には副作用が出現することがあり、薬剤によっては、副作用軽減のため、水分を多く摂取する必要がある。
HIV感染者に対する治療をいつ開始するかについては議論があり、ウィルスや免疫を考え、早期治療開始の利点を認める一方で、治療薬の耐性や長期の副作用、今後の治療薬の進歩の可能性を考慮して、治療開始時期は慎重に検討すべきとする見解もある。日本では、平成10年9月に発表された「HIV感染者に係る雇用問題に関する研究会報告書」(以下「報告書」という。)において、免疫不全があまり進行していない早期からの治療が推奨されており、一般にCD4陽性リンパ球数が500/μl(以下「CD4が500」というようにいう。)以下となったころから、外来での抗HIV薬を用いた併用療法が開始されるとしているが、米国では、2グループがHIV感染症治療のガイドラインを出しており、平成12年1月時点においては、〈1〉エイズや説明できない発熱など症状があるものについて治療を推奨し、CD4が500以下又はHIV-RNAが2万以上の場合治療を提案するとするガイドラインと、〈2〉CD4が350以下又はHIV-RNAが3万以上もしくはCD4が350~500でかつHIV-RNAが5000~3万の場合に治療を推奨するとするガイドラインがある。なお、〈1〉のガイドラインは、平成13年2月に改訂され、上記症状のあるものに加え、CD4が200以下の場合に治療を推奨するとしている。
HIV感染症に対する治療は、平成8、9年ころから急速に進歩し、そのころ以降、HIV治療薬の投与によりウィルス量を抑制すると、多くの場合、いったん低下した免疫力が回復することが明らかとなっており、本件当時においても、HIV感染症の専門医の間では、HIVに感染した場合でも、免疫が著しく低下しない限り治療の必要はなく、日和見感染症が発症しない限り患者の活動を制限する必要はないとするのが一般的見解であり、通常は、スポーツ、激務または仕事ゆえに免疫が低下するということはなく、良好なCD4陽性リンパ球数を保っている患者に運動や就業の制限を指導することはない。
専門医の間では、HIV感染症は、現在では既に共存可能な慢性疾患ととらえられ、免疫が著しく低下しない限り、HIV陰性者と同様の活動をすることに何ら支障はないと考えられている。また、HIV感染症患者の中には、長期未発症者(治療に関係なく免疫低下をきたさない患者)が存在することから、いつ、どのような活動を差し控えるべきかという問題は、免疫が著しく低下してしまった場合に、日和見感染症の危険を考慮しつつ、主治医のアドバイスに基づいて、患者本人が決めるべきことであるとされている。
(甲8、甲16、19、証人F)
(4) 職場におけるエイズ問題に関するガイドライン等(甲8、12)
ア 労働省保険医療局エイズ結核感染症課(当時。以下同じ。)は、HIV検査の実施において本人の同意なく実施していた事例がみられたことから、平成5年7月13日、各都道府県・各指定都市衛生主管部(局)長あてに課長名で、「HIV検査の実施について」と題する通知を発した。
同通知は、以下の事項等につき管下関係機関の指導を要請するものである。
(ア) HIV抗体検査実施にあたっては、人権保護の観点から、本人の同意を得て検査を行うこと。検査結果の取扱いについてはプライバシー保護に十分注意すること。
(イ) 医療機関において、HIV検査を実施する際には、〈1〉患者本人の同意をとること、〈2〉検査前及び検査後の保健指導あるいはカウンセリングがなされること、〈3〉結果についてプライバシーが守られること、〈4〉HIVに感染していることが判明した患者・感染者に対し、検査を実施した医療機関において適切な医療を提供するか、やむを得ず対処できない場合には、他の適切な医療機関へ確実に紹介すること
(ウ) HIVは、日常生活においては感染しないことから、就学時、就職時のHIV検査は実施しないこと
イ 労働省の労働基準局長及び職業安定局長は、平成7年2月20日、各都道府県労働基準局長及び各都道府県知事あてに「職場におけるエイズ問題に関するガイドラインについて」と題する通達(以下「ガイドライン」という。)を発した。
同通達は、職場におけるエイズ問題に関する方針を作成する上で参考とすべき基本的考えを示したもので、以下の内容が含まれている。
(ア) 職場におけるHIV検査は、労働衛生管理上の必要性に乏しく、またエイズに対する理解が一般には未だ不十分である現状を踏まえると職場に不安を招くおそれのあることから、事業者は労働者に対してHIV検査を行わないこと。
(イ) 事業者は、労働者の採用選考を行うに当たって、HIV検査を行わないこと。
(ウ) 事業者は職場において、HIVに感染していても健康状態が良好である労働者については、その処遇において他の健康な労働者と同様に扱うこと。また、エイズを含むエイズ関連症候群に罹患している労働者についても、それ以外の病気を有する労働者の場合と同様に扱うこと。
(エ) HIVに感染していることそれ自体によって、労働安全衛生法68条の就業禁止に該当することはないこと。
また、同通達と一体となるガイドラインの解説は、上記(ア)について、〈1〉日常の職場生活ではHIVに感染することはないことから業務上のHIV感染の危険性のない職場においてHIV検査を実施する労働衛生管理上の必要性に乏しい、〈2〉社会一般のHIV及びエイズに対する理解が未だ不十分であり、職場におけるHIV検査の結果、職場に不安を招くといった問題が懸念される、〈3〉HIV感染の有無に関するプライバシー保護について、特別の配慮を要し、本人の同意のないHIV検査を行った場合にはプライバシーの侵害となり、また、本人の同意を得て行う場合であっても、真に自発的な同意を得られるかの問題がある、以上のように説明し、また、(イ)について、HIV感染の有無それ自体は、応募者の能力及び適性とは一般的には無関係であることから、採用選考を目的としたHIV検査は原則として実施されるべきではない、と説明している。
(5) 警視庁等におけるHIV検査の実施状況
ア 警視庁においては、平成の初めころから、警察官として採用された者に対し、警察学校入校時の血液検査においてHIV抗体検査を実施するようになった。血液検査の結果は、検査対象者に通知していたが、HIV検査の項目は記載されておらず、HIV抗体検査の結果が陰性の場合、別途通知することもなかった。(証人A)
イ 警視庁では、毎年、警察官を含む職員に対し定期健康診断を実施しているが、これにはHIV抗体検査は含まれていない。(甲7、証人A)
ウ 警視庁以外の各道府県警察においては、警察官採用にあたってHIV抗体検査を実施していない。(甲9、10)
(6) 本件の経過
ア 第1回及び第2回の血液検査
(ア) 警察学校は、7月28日、入校受付後完了後、原告を含む1155期の入校者約160人を対象として、入校オリエンテーションを実施した。このオリエンテーションにおいて、G巡査部長は、入校生全員に対し、精密身体検査を実施することを伝え、血液検査を含む各検査項目、手順について5分程度説明を行ったが、血液検査において何を検査するかの具体的項目までは説明せず、検査を受けることについて同意又は拒否の確認はしなかった。また、G巡査部長の説明に対し、入校者から質問などはなされなかった。
精密身体検査は、多数の入校生に対して効率よく機械的に実施され、検査を担当した医師、看護婦及び検査技師らから、血液採取の目的について説明がなされることもなかった。
(甲14、乙17)
(イ) A本部長は、警察病院に対し、原告ら入校者から採取した血液についてHIV抗体スクリーニング検査等の実施を依頼した。検査の結果、原告の血液について、HIV抗体及びワッセルマン反応がそれぞれ陽性であったため、警察病院検査部の医師は、7月30日、A本部長にその旨電話で連絡し、併せて、人違い等の可能性もあるので、確認のため再検査する必要があることを伝えた。
A本部長は、これを受けて、同日、警察学校診療所のC医師に電話で相談の上、警察病院で原告に再検査を受けさせること、原告に対しては過激な運動を控えるよう連絡するよう電話で指示した。
C医師は、原告を診療所に呼び、原告に再検査の必要があること及び検査結果が判明するまで運動を控えるべきことを伝え、その際海外旅行の経験の有無を尋ねた。原告はあると答えた。
7月31日又は8月1日、原告は、D巡査部長に同行して警察病院に赴き、血液検査のため採血を受けた。警察病院は、再度のHIV抗体スクリーニング検査を実施し、陽性であることが確認されたため、A本部長に対し、検査結果を報告した上で、原告がHIVに感染している可能性が高いので、一刻も早く専門医による確認検査を受けさせた方がよいと伝えた。
以上の経緯において、警察病院は、HIV検査の実施について、入校者の同意の有無の確認(第1回検査)、検査目的の説明及び原告の意思確認(第2回検査)等を一切行っていない。
(乙16、証人A)
イ 原告の生活状況等
(ア) H警部補は、入校日(7月28日)以降、原告らH教場の生徒に対し、8月4日に予定されている入校式に向けて、体力を増進させるため、マラソン、腕立て伏せ、腹筋などの運動を指示した。これらの運動は、厳しいものであったが、原告は遅れることなくついていくことができた。
(イ) 原告は、7月30日、前記のとおり、C医師に呼ばれ、再検査の必要があることを告げられたが、その際、C医師から、血液検査の結果に異常があり、何らかの感染症にかかっている可能性があること、今後体力運動は控えたほうがよいことを告げられ、また海外旅行の経験の有無を尋ねられたことと、その際のC医師の態度から、他の病気とともに、エイズの病名も念頭に浮かんだ。なお、原告は、大学時代、エイズ問題に関心を持ち、卒業論文では、日米の各企業におけるHIV感染者に対する対応の比較を通じ、HIV感染やエイズに対する日米の認識の相違を研究することをテーマに選び、自らも数回にわたってHIV抗体検査を受けたことがあり、医学的な専門知識はともかく、HIV感染やエイズに対する一応の知識を有していた。ただし、卒業後進学した大学院修士課程では、HIV感染やエイズに関連する研究は行っていない。
原告が大学時代に受けたHIV抗体検査の結果は、いずれも陰性であった。
(ウ) 原告は、C医師から再検査を告げられた後、HIVに感染しているのではないかという不安感と、再検査の結果に異常がないことを願う気持とが交錯し、当初は強いて通常どおり訓練に参加していたが、8月1日に行われた個人面談で、H警部補から、今回の就職は万が一ということも考えておいてほしい、何かの病気かも知れない旨伝えられた後は、一層不安が募り、訓練に参加せずにいたこともあった。また、不安感から、再検査の前後に母親に電話をした。
(甲14、原告本人)
ウ A本部長との面談
(ア) A本部長は、警察病院から2回目のスクリーニング検査の結果が陽性であるとの報告を受け、C医師に対し、検査結果を伝えた上、A本部長自身が原告に対し説明を行うので、原告及び親には、8月3日午後1時30分に健康管理本部に出向くよう連絡することを指示した。(乙16、証人A)
(イ) H警部補は、8月3日午前中、原告に対し昼食後に服を着替えて教官室に出頭するよう伝え、出頭した原告に対し、健康管理本部に行くことを伝えた。また、H警部補は、同日の午前中、原告の自宅に電話をし、原告の母親に対し、前記時刻に警視庁本部へ来るよう伝え、その際印鑑を持参するよう指示した。(甲14、15、乙17、証人H、同B(以下「証人B」という。)、原告本人。なお、証人Hは、母親に対し印鑑の持参を指示したことを否定する供述をするが、後述するとおり、現実に母親が印鑑を持参している事実及び証人Bの反対供述に照らし、採用できない。)
(ウ) H警部補と原告は、同日午後1時ころ、警視庁本部で原告の母親と落ち合い、健康管理本部へ向かった。到着を知らされたA本部長は、原告のみを本部長室に入室させ、H警部補と母親はホールで待機させた。
A本部長は、原告に対し、しばらく警察学校での生活や原告の学生時代の話を尋ねるなどした後、「君は免疫が落ちる病気を知っているか」と尋ねた。原告が「エイズですね」と答えると、A本部長は「君の健康状態は実のところあまり良くなく、君の免疫力は相当低下している。」、「このまま仕事を継続することは困難だろうし、万が一ということも起こり得る。」、「警察学校は共同生活でもあるし、柔道や剣道もある。」、「今回の就職は諦めて欲しい。」というような趣旨のことを述べた。
原告は、表面上A本部長の話を冷静に聞き、これをそのまま受け容れる様子を示していたが、内心では、最悪の結果に動揺し、いわば思考が停止した状態であった。
また、A本部長は、原告に対し、母親には原告から伝えるか、A本部長から伝えるかを尋ねたところ、原告は、自分から伝える旨答えた。原告がA本部長と面談していた時間は、15分ないし20分であった。
(甲14、15、証人B、原告本人。なお、証人Aは、原告に対し免疫が低下している旨を告げ、就職を断念するよう述べたことを否定するが、原告本人の供述に照らし採用することができない。)
(エ) 原告は、本部長室を辞した後、職員に案内された部屋で、母親に対し、今回の就職が駄目になった、「エイズ」であった旨を告げた。エイズについて、直ぐにでも死亡するような重大な病気であると理解していた母親は、これを聞いて泣き崩れた。原告は、また、H警部補に対し、「エイズでした。」と告げ、警察学校での生活を続けられないことを伝えた。
H警部補は、原告と母親を伴って車で警察学校に戻ったが、車内では会話は全くなされなかった。
(甲14、15、乙15、証人H、同B、原告本人)
エ 入校辞退願の作成
原告と母親は、警察学校内に戻った後、応接室に案内され、H警部補も同席の下で、E警視と面談した。E警視は、原告と母親に対し、「(このような結果になって)残念だ」、「警察学校は団体生活だから」などと話しかけたが、原告は、平静な様子を保つのに精一杯な状態であり、母親も、原告がエイズであり、死ぬかもしれないとの考えにとらわれ、話の内容が十分頭に入らない状態であった。
E警視は、原告に対し入校辞退願を、母親に対し入校辞退同意書を作成するよう求め、入校辞退の場合は、本人と家族にこの書面を作成してもらうのが通常の手続である旨説明した。そして、母親が、参考となるものを見せて欲しいと述べたことから、E警視の指示により、B警部補が別室で各書面の文案を鉛筆書きで作成し、これらを原告と母親に示したので、原告は、この文案どおり、一身上の都合で就職を辞退する旨記載して署名するとともに、警察学校に提出していた自己の印鑑を用いて捺印した。母親も、一刻も早くこの場を逃れたいとの気持から、示された文案どおりに入校辞退同意書を作成し、H警部補の指示により持参していた印鑑を押捺した。
原告と母親は、同日午後4時30分ころ、警察学校を退出した。なお、原告は、警察学校に戻った後から退出するまでの間に、寮の自室に戻り、荷物をまとめ、同室の者に置き手紙をしている。
(甲14、15、証人E、同H、同B、原告本人)
(7) その後の事情
原告は、その後数日間は、仕事という目的を失い、何をする気力も湧かず、自宅の自室に閉じこもり、自殺を考えたりもし、また、同居する両親との関係も悪化した。
その後、原告は、インターネットでHIV感染症の拠点病院を調べた上、8月10日、都立駒込病院感染症課でHIV抗体検査を受けた。検査の結果は、前提となる事実に記載のとおりである。
また、原告の母親も、原告を診察したF医師から、HIV感染症について詳しい説明を受け、原告が直ちにも死亡するような状態にはなく、通常の日常生活を送ることができると知らされ、安堵した。
(甲7、14、15、証人F)
以上の認定事実に基づき、以下、本件の各争点について判断する。
2 争点(1)(警視庁が行った本件HIV検査の違法性)について
(1) HIV感染症に関しては、ガイドラインが作成された当時の平成7年当時以降も、現在に至るまで、1(3)において認定したような病態や感染の経路等について社会一般の理解が十分であるとはいえず、誤った理解に基づくHIV感染者に対する偏見がなお根強く残っていることは、いわば公知の事実に属する。
そのような状況下において、個人がHIVに感染しているという事実は、一般人の感受性を基準として、他者に知られたくない私的事柄に属するものといえ、人権保護の見地から、本人の意思に反してその情報を取得することは、原則として、個人のプライバシーを侵害する違法な行為というべきである。
他方、労働安全衛生法66条は、使用者に対し、雇入れ時の健康診断を義務づけ、これに違反したときの罰則を定め、併せて事業者に対し、労働者の健康保持増進対策を講じるべき努力義務を課している。同法66条の上記定めは、健康診断の結果を労働者の適正配置及び健康管理の基礎資料とし、もって、使用者をして雇入れ後の労働者の健康維持に留意させる趣旨のものと解される。
また、これとは別に、雇用契約は労働者に一定の労務提供を求めるものであるから、使用者が、採用にあたって、労働者がその求める労務を実現し得る一定の身体的条件を具備することを確認する目的で、健康診断を行うことも、その職種及び労働者が従事する具体的業務の内容如何によっては許容され得る。
以上の観点からすると、採用時におけるHIV抗体検査は、その目的ないし必要性という観点から、これを実施することに客観的かつ合理的な必要性が認められ、かつ検査を受ける者本人の承諾がある場合に限り、正当な行為として違法性が阻却されるというべきである。
以下、この観点から、本件HIV抗体検査の違法性について検討する。
(2) 本件HIV抗体検査実施について原告の承諾があったといえるか。
ア 第1回血液検査について
被告東京都は、入校時、原告ら入校者に対し、その目的を述べた上で、血液検査を含む精密検査を実施することを説明し、これを拒否する者がいなかったことをもって、無断検査ではないと主張する。
原告に送付された入校案内において、入校受付後に精密身体検査を実施すること、その際、呼吸器の疾患、循環器疾患、内臓疾患、腰椎及び四肢関節の障害、痔疾、ヘルニア等があると入校延期・取消となることがあることが記載されていた(前提となる事実)が、これにはHIV抗体検査を実施することは記載されていない。また、警察学校では、7月28日の入校当日、原告ら入校者に対し、精密身体検査を行うこと及び血液検査を含む検査項目の説明はしたが、採取した血液によりHIV抗体検査を実施することを明示に説明していない(前提となる事実及び前記1(6)ア)。
上記のような説明により、原告ら入校者が精密身体検査においてHIV抗体検査が実施されることを当然に理解していたとは到底いえないから、検査実施を拒否しなかったからといって、HIV抗体検査実施の同意があったということはできない。この点、警察学校の訓練に耐え得る健康状態であるかを確認するため等、精密検査実施の目的が説明されていたとしても、結論において変わりはない(証人Hは、HIV抗体検査が行われることは当然の認識であるように供述するが、一般常識に照らし採用できない。)。
また、採用試験において伝染病疾患の有無の検査が行われていること、警察学校の教育・訓練が全寮制の下で行われることなどから、伝染病疾患の有無が精密健康診断の対象に含まれることは想定できたといえるが、伝染病疾患の中にはHIV感染症が当然含まれるという一般的理解が存するとはいえないから、上記により、入校者がHIV抗体検査の実施を認識していたともいえない(HIVは日常生活では感染しないものであるから、これに感染していることが集団生活に支障を生じる事由であるともいえない。)。
イ 第2回血液検査
第2回血液検査を実施するにあたっても、A本部長の指示を受けたC医師は、原告に対し、HIV抗体検査を実施することを告げずに、再検査を受けるよう指示した(前記1(6)によれば、C医師が再検査の内容を知っていたことは明らかである。)。したがって、第2回の検査も、原告の承諾なく行われたというべきである。
もっとも、原告は、C医師から第1回血液検査の結果異常が認められたため再検査の必要がある旨告げられた際、HIV感染をも想定した上で再検査に応じているが、HIV抗体検査が行われることを明確に説明された上で再検査に応じたわけではなく、また、上記のようにして再検査の必要を告げられた場合に、最悪の事態は否定したい心情が働くのが通常人の心理ともいえるから(原告の場合もそうであったことは本人の供述により認めることができる。)、HIV検査の可能性をも想定した上で再検査に応じたからといって、HIV抗体検査に同意又は承諾したということはできない。
ウ 以上要するに、被告東京都は、HIV抗体検査を行うことの承諾を得ずに、原告に対し2回にわたるHIV抗体検査を実施したものにほかならず、被告東京都の前記主張は採用できない。
(3) 本件HIV抗体検査実施の必要性について
ア 検査目的
被告東京都は、本件において、警察学校入校者(ただし警察官に限られる。)に対するHIV抗体検査の実施は、警察官の職務に必要とされる健康状態を有しているか否かを確認するために必要なものであり、また警察学校における厳しい教育訓練に耐えうる身体状況にあるかを確認するため必要なものであると強く主張している。この主張態度をみると、警視庁は、HIV感染者はその事実のみで警察官の職には不適であるとの認識の下に、感染者を判別し警察官の職から排除する目的をもって、警察学校入校者に対するHIV抗体検査を実施しているものと認めざるを得ない。同検査が実施されるようになってから10年前後が経過した本件当時でも、上記検査の結果陽性反応を示した者に対し、確認検査の受検や健康状態の把握など、事後にとるべき措置の道筋が明確には定まっていなかったこと(A証人の供述により認められる。)や、被告東京都が警察学校入校者のHIV抗体検査を実施しながら、現職の警察官に対する定期健康診断では同検査を実施していないという事実も、上記目的を裏付けるものといえる。
これと異なり、警視庁が労働安全衛生法の意図する労働者(警察官)の適正配置や健康管理の基礎資料収集という目的のために上記検査を実施していることを窺わせる証拠は存しない。
そこで、上記のような目的の下にHIV抗体検査を実施することの必要性について検討する。
イ 検査実施の必要性
被告東京都は、その職務の特殊性から、HIV感染者にとって警察官の職務は不適である旨主張する。
1(2)において認定したとおり、警察官の職務は、24時間警戒態勢を確保するため、交番勤務をはじめ交代制勤務に従事する者の割合が高く、交番勤務の場合は4日に1回の夜間勤務があり、それ以外の勤務でも多くは週1回程度の夜間勤務に従事している。また、その職務の性質上、突発的な事件が発生した場合などは予定外の勤務を強いられることも避けられず、職責上、精神的緊張を強いられる場面が少なからずあることは、容易に想定しうるところである。その意味において、警察官の職務は、相対的にストレスの高い職務であるということができる。
しかしながら、一般に、身体的、精神的に過度のストレスは生体の免疫力を一時的に低下させるが、その後十分な休息を取ることにより、低下した免疫力は回復する。これはHIV感染の有無を問わない(証人F)。また、HIV感染者であっても、免疫状態が良好であれば、特段の活動制限の必要はなく、激しいスポーツや訓練を行うことには何ら支障がないことは、前記1(3)エのとおりである。
そうであれば、相対的にストレスの高い警察官の職務であろうと、また警察学校における厳しい身体的訓練であろうと、それが過度・長期にわたってストレスを蓄積させるものでない限りは、HIV感染者にとって、当然に不適であるということはできず、その適・不適の判断は、その者の実際の免疫状態によって行われるべきである。そして、前記1(2)のとおり、警察官といえども、週休2日制、週40時間労働、年間20日の有給休暇等が原則として保障されているのであり、不規則な勤務や一時的な長時間勤務を強いられることがあるとしても、それによる疲労やストレスを回復するだけの休息・休日は本来確保し得るはずである。
そうすると、HIV感染の事実から当然に、警察官の職務(警察学校における訓練を含む。)に適しないとはいえない。被告東京都以外の道府県において、警察官採用にあたりHIV抗体検査を実施していないという事実(前記1(5)ウ)は、この見解に沿うものである。また、障害者雇用促進法により国又は地方公共団体が一定の比率で身体障害者(一定の認定基準に該当するHIV感染者は身体障害者と認定される。)又は知的障害者を採用すべき職員から警察官が除外されているという事実は、上記の判断を左右するものとはいえない。
したがって、先に述べた目的の下に、HIV抗体検査を実施することの必要性は、これを認めることができない(労働安全衛生法の趣旨に照らせば、その解釈上も上記検査の正当性を認めることができない。)。
(4) 以上によれば、警察学校が原告に対し2回にわたって実施した本件HIV抗体検査は、本人の同意なしに行われたというにとどまらず、その合理的必要性も認められないのであって、原告のプライバシーを侵害する違法な行為といわざるを得ない。被告東京都は、国家賠償法1条1項に基づく損害賠償責任を免れない。
3 争点(2)(原告の辞職に際して警視庁職員に違法行為があったか)について
1において認定した事実によれば、A本部長は、8月3日、原告の血液についてHIV抗体スクリーニング検査で陽性反応が出たという事実が確認されただけであり、確認検査も経ず、またCD4陽性リンパ球数やウィルス数の検査も実施されていないのに、原告に対し、HIVに感染している事実を告げた上、あたかも原告の免疫力が相当程度低下しており、警察学校での教育訓練に耐えられず、警察官としての職務を継続することが不可能であるかのように述べ、原告の健康状態及び就労能力について不正確な情報を伝えた上で、退職は不可避であるかのように誘導し、この告知により精神的に動揺し冷静な判断ができない状態にある原告に対し、自主的な退職を勧奨したと認められる。
そして、H警部補及びE警視もまた、HIV感染者が警察官としての適格を欠くのは当然であるとの認識の下に、A本部長による上記告知と退職勧奨に引き続き、感染の事実を受け止めることで精一杯の原告及び母親に対し、事態の正確な把握と今後の対応について十分に考慮する時間的余裕を与えないまま、原告らに入校辞退願及び入校辞退同意書を作成させたと認められるところ、前述した検査実施の目的、結果告知の際に母親を警視庁本部に呼び寄せ、その際印鑑の持参を求めたことを併せ勘案すると、E警視らは、A本部長と一体となって、HIV抗体検査で陽性反応を示した原告を警察学校から排除する意図の下に、原告の自由な意思を抑制して辞職に導いたと評価することができる。
上記A本部長らの原告に対する辞職勧奨行為は、そもそも原告に対し行われたHIV抗体検査が違法であることと相まって、違法な公権力の行使というべきであり、被告東京都は、国家賠償法1条1項に基づく責任を免れない。
4 争点(3)(被告自警会の不法行為責任の有無)について
前述したとおり、HIV感染に関する個人情報は保護されるべきものであって、事業者が労働者に対して行うHIV検査は、本人の同意があり、かつ実施について合理的必要性がある場合に限り許されるというべきである。
そして、1(4)で認定したとおり、平成5年には、労働省保健医療局エイズ結核感染症課が各都道府県・各指定都市衛生主管部(局)長あてに通知を発し、その中で、医療機関においてHIV検査を実施する際には、患者本人の同意をとり、検査前及び検査後の保健指導あるいはカウンセリングを行い、結果についてプライバシーを守り、感染が判明した患者・感染者に対し適切な医療を提供するか他の適切な医療機関へ確実に紹介すべきことを周知させるよう指示している事実をも併せ考慮すると、およそ警察病院のように、相当程度の規模を有する総合的医療機関としては、HIV抗体検査を実施するにあたり、医療機関に求められる上記のような諸点に配慮すべきは当然のことである。このことは、警視庁から委託を受けて上記検査を実施する場合であっても同様であり、自らこれを行うのでなければ、依頼者の警視庁においてこれが適切に行われるか否かを確認すべきである。
にもかかわらず、警察病院は、本件HIV抗体検査を行うにあたり、実施及び結果通知に関し、本人の同意の有無の確認等を一切行わず、上記医療機関に求められるべき留意事項に顧慮することもなく、警視庁から依頼されるまま、漫然と検査を実施し、その結果を伝えたものであるから、この警察病院職員の行為は、故意または少なくとも重大な過失により、原告のプライバシーを侵害する違法な行為として、不法行為に該当するというべきである。
5 争点(4)(原告の損害)について
被告らの各違法行為により原告が多大な精神的苦痛を被ったことは容易に想像することができる。とりわけ、被告東京都においては、原告らの採用にあたってHIV抗体検査を行う客観的かつ合理的な必要性も存しないのに、かつ本人の同意も得ずに検査を実施し、原告のプライバシー権を侵害したうえ、原告に退職を余儀なくさせたという点でその責任は重大であり、原告の損害を填補する慰謝料の額としては、被告東京都について300万円、被告自警会について100万円をもって相当と考える。
また、弁護士費用については、それぞれ上記慰謝料額の1割相当額、すなわち、被告東京都につき30万円、被告自警会につき10万円をもって、相当因果関係のある原告の損害と認める。
第4 結論
以上によれば、原告の請求は、被告東京都に対し国家賠償法1条1項に基づく損害賠償として330万円、被告自警会に対し不法行為に基づく損害賠償として110万円及び上記各金員に対する違法行為後の平成10年8月3日から支払済みまで民法所定年5分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるから認容し、その余は理由がないから棄却することとして、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 三代川三千代 裁判官 龍見昇 裁判官 鈴木昭洋)
++解説
《解 説》
一 Xは、警視庁警察官採用試験Ⅰ類に合格し、大学院修士課程の終了後、警察学校への入校手続を完了して、警視庁警察官に任用された。警察学校は、Xに精密身体検査の一環として血液検査を行った。採取した血液により、HIV抗体検査も実施したが、このことは明示的には説明されなかった。警察学校は、Y2の運営する東京警察病院にこの検査を依頼した。XのHIV抗体検査の結果は陽性であり、辞職を勧奨されたため、辞職するに至った。
そこで、Xは、Y1(東京都)に対し、①警視庁がHIV抗体検査を行ったことが違法である、②警視庁職員がXの辞職に際しての対応に違法があるとして、国賠法一条一項又は不法行為に基づき損害賠償(慰謝料一〇〇〇万円、弁護士費用一七七万円)を請求した。同じく、Y2に対して、③Xの意思を確認せずにHIV抗体検査を行い、その結果を警視庁に通知する際にXの同意を確認せず、Xに対し検査結果を知らせず、エイズに関するカウンセリングをしなかったことが違法であるとして、不法行為に基づき同額の損害賠償請求をした。
争点は、Xが主張するYらの①ないし③の行為の違法性の有無及び損害額であった。
二 本判決は、次のとおり判示して、Xの請求を一部認容した(Y1につき慰謝料三〇〇万円、弁護士費用三〇万円、Y2につき慰謝料一〇〇万円、弁護士費用一〇万円)。
すなわち、本判決は、(1)警察官の採用手続、警察学校における採用時研修、警察学校における組織、警視庁健康管理本部、警察官の勤務・職務実態のほか、HIV感染症、職場におけるエイズ問題に関するガイドライン、警視庁等におけるHIV検査の実施状況に加えて、本件の経過について、第一回、第二回の血液検査、Xの生活状況等、警視庁職員とXとの面談、入校辞退願の作成、その後の事情等について詳細に事実認定をした上、(2)個人がHIVに感染している事実は他人に知られたくない私的事柄であり、本人の意思に反してその情報を取得することは個人のプライバシーを侵害する違法な行為であるが、使用者が労働者を雇い入れる時には健康診断が義務づけられる(労働安全衛生法六六条)から、採用時におけるHIV抗体検査は、実施に客観的・合理的必要性があり、本人の承諾がある場合に限り違法性が阻却されるところ、本件においては、Xの同意はなく、その合理的必要性も認められず、違法である、(3)警視庁職員のXの辞職に際しての対応についても、Xの健康状態や就労能力について不正確な情報を伝え、退職は不可避であるかのように誘導する等して、Xの自由な意思を抑制して辞職に導いたもので、違法であり、Y1は国賠法一条一項に基づく損害賠償責任がある、(4)Y2は、HIV抗体検査を行うに当たり、実施及び結果通知に関してXの同意の有無の確認等を一切行わず、医療機関に求められるべき留意事項に顧慮することなく、漫然と検査を実施し、その結果を警視庁に伝えたものであるから、Xのプライバシーを侵害する不法行為に当たる旨判示したのである。
三 本判決は、次のような意義がある。
第一に、本件は、労働者の採用時におけるHIV抗体検査はプライバシー侵害に当たるが、検査の実施に客観的・合理的必要性があり、本人の承諾がある場合に限り違法性が阻却されるとしたケースである。HIV感染に関する情報は、もっともセンシティブな情報であり、プライバシーの典型といえよう。本判決は、そのプライバシー保護と労働安全衛生法六六条の趣旨とを調整したという意味で、規範的意義がある。
第二に、本件は、警視庁警察官に採用された者が採用時に同意なくして、合理的必要性もないHIV抗体検査を受けさせられたこと、陽性との結果を示されて辞職を勧奨され辞職に至ったことは、違法な公権力の行使であるとして国家賠償責任が認められたケースであり、事例的意義がある。とりわけ、警察官の職務は相対的にストレスが高いし、警察学校では厳しい身体的訓練があるとしても、HIV感染者が当然に不適とはいえないとして、この検査の必要性を否定していることは注目してよいであろう。
第三に、本件は、医療機関がHIV抗体検査を行うに当たり、被検者に実施及び結果通知についての同意の有無を確認せず、漫然と検査を実施し、その結果を依頼者に伝えることはプライバシーを侵害する不法行為に当たるとしたケースである。これも、事例的意義があるといえる。
本判決は、その内容から社会的耳目を引き、新聞等にも報道されたが、以上のとおり、規範的観点からも、事例としても、注目されるものとして、紹介したい。
b)雇入れ後の調査
+判例(東京地判H7.3.30)HIV感染者解雇事件
+判例(千葉地判H12.6.12)T工業HIV解雇事件
要旨
事件概要
日本での在留資格を有する日系ブラジル人で期間を一年とする雇用契約の下で工場に勤務していた労働者X(既に退職)が、会社の定期健康診断(年二回)を受けた際に、会社は従前からの取扱いと同様に、新採用のブラジル人従業員に限り、本人に知らせず、その同意も得ることなく、Y経営の病院に依頼してHIV抗体検査を行い、病院から交付された検査結果からXが陽性であることが判明したため、Xになぜ事実を最初から言わなかったかを責め、ブラジルに帰国することを勧め、Xの「クビか?」の質問を肯定し、Xが新聞、領事館等に行く旨の発言によりいったん右発言等を撤回したものの、その約二〇日後、不景気等を理由に解雇する旨を告げ、Xはそれ以降欠勤せざるをえなかったため、会社に対しては、(1)HIV検査を無断で医療機関に依頼し、検査結果表を受け取り、感染を理由とする解雇について不法行為責任に基づく慰謝料賠償を、(2)HIV感染を理由に不当解雇され、違法な更新拒絶であるとして、雇用契約上の地位確認及び賃金支払を、Yに対しては、(3)無断でのHIV抗体検査の実施及び会社への結果表交付行為について不法行為責任に基づく慰謝料請求をしたケースで、(1)については、会社の検査に関する一連の行為はプライバシーの侵害に当たり違法、また解雇も正当な理由を欠くもので解雇権の濫用として無効であるとして請求が一部認容され、(2)については雇用期間満了によって当然に雇用契約は終了するが、期間満了までの会社による不当な解雇によって就労しえなかった期間については賃金請求が認容され、(3)については、秘密保持義務等に違反し、プライバシーの侵害する違法な行為であるとして請求が一部認容された事例。
判決理由
〔解雇-解雇事由-病気〕
原告の健康状態に関しても、原告の平成九年一〇月二二日から二八日までの入院については、肺炎による旨の診断書が提出されており、(〈証拠略〉)、同年一二月六日から一四日までの欠勤についても、事故により受傷した旨の診断書が提出されているのであるから(〈証拠略〉)、それ以上にその健康状態を疑う理由はなく、ましてHIV感染の有無について検査をする必要性があったものとは到底認められない。
このように、被告会社によるブラジル人従業員に対するHIV抗体検査の実施について、格別合理的な理由が認められず、しかもそれが当該従業員本人に秘して行われてきたことや、陽性の結果が出た場合の就労を前提とした対応策について何ら検討がなされていないことなどからすれば、被告会社では、ブラジル人にはHIV感染者の比率が高いといった認識のもとに(証人A)、新規に雇用したブラジル人従業員についてのみ検査を実施して、陽性であった場合にはこれを会社から事実上排除しようとする意図の下にHIV抗体検査を行っていたものと推認できるのである。〔中略〕
〔解雇-解雇事由-病気〕
右の事実によれば、被告会社は、従前から続けてきたのと同様に、日系ブラジル人で新規に雇用した原告につき、定期健康診断として本人に秘したままHIV抗体検査を無断実施し、その結果、原告のHIV感染の事実が判明したことから、それを理由に原告の退職を図って、当初は、感染事実の判明を契機にブラジルへの帰国を促したが、原告が応じなかったため、不景気によるリストラを表面的な理由として原告を解雇したものと認めるのが相当である。〔中略〕
〔解雇-解雇事由-病気〕
〔解雇-解雇権の濫用〕
被告会社が、合理的かつ客観的な必要性もなく、かえって前述のような不当な意図の下に、原告にHIV抗体検査を行うことを知らせず、当然その同意を得ることもなく、B病院に右検査を依頼し、その結果の記載された検査結果票を受けとった行為は、従業員についてのHIV感染に関する個人情報を取得し、あるいは取得しようとしてはならないという義務に違反し、原告のプライバシーを不当に侵害するものであるとともに、原告のHIV感染を実質的な理由としてなされた解雇も、正当な理由を欠くものであって、解雇権の濫用として無効というべきである。
〔労働契約-労働契約上の権利義務-使用者に対する労災以外の損害賠償〕
被告会社の行為によって、原告はそのプライバシーを侵害され、また不当に解雇されたものであり、これによって原告が多大の精神的苦痛を受けたことは明らかであるが、HIV感染の事実そのものはすでに原告は知っていたものであることを考慮すると、原告の右精神的苦痛に対する慰藉料としては二〇〇万円が相当と認められる。〔中略〕
〔労働契約-労働契約上の権利義務-使用者に対する労災以外の損害賠償〕
前述したとおり、個人のHIV感染に関する情報が保護されるべきものであること、事業主にその従業員についてHIV感染の有無を知る必要性は通常認められず、必要性が認められる場合であっても本人の同意が必要と解されることからすれば、HIV抗体検査を実施する医療機関においては、たとえ事業主からの依頼があったとしても、本人の意思を確認した上でなければHIV抗体検査を行ってはならず、また、検査結果についても秘密を保持すべき義務を負っているものというべきであり、これに反して、本人の承諾を得ないままHIV抗体検査を行ったり、本人以外の者にその検査結果を知らせたりすることは、当該本人のプライバシーを侵害する違法な行為であると解すべきである。
(二) しかるに、前述のとおり、被告Yの経営するB病院では、被告会社の依頼に基づき、原告にHIV抗体検査をすることを告げず、原告の意思を確認することなく、原告から右検査のための血液を採取して、保健科学研究所にHIV抗体検査を依頼し、同研究所から送付を受けた検査結果票を被告会社に交付したものであって、その行為は医療機関として負っている前記義務に違反し、原告のプライバシーを侵害する違法な行為であると認められる。
〔労働契約-労働契約上の権利義務-使用者に対する労災以外の損害賠償〕
被告Yの右行為により、原告はそのプライバシーを侵害され、これがもとで被告会社からの不当解雇等の問題が派生するなど、多大の精神的苦痛を受けたことは明らかであるが、前同様、HIV感染の事実は原告も知っていたことを考慮すると、右精神的苦痛に対する慰藉料としては一五〇万円が相当と認められる。
〔解雇-短期労働契約の更新拒否(雇止め)〕
1 前述したとおり、本件雇用契約は、契約期間を、契約締結日から一年間とし、右期間は、契約期間終了後、一年毎に更新することができるが、更新を希望しないときは、相手方に二か月前までに通知する旨の定めがある。
そして、右契約条項や、原告の場合は平成九年九月一七日に雇用契約を締結したばかりであって、まだ一度も契約は更新されていないこと、原告が従事していた作業の内容は、製品の梱包作業や巻き直し作業、清掃作業等の比較的軽易なものが主体で、長期間の継続した就労による技術の修得等を要するようなものではなかったこと(証人A、弁論の全趣旨)、原告以外の雇用契約が更新された従業員についても、その更新ごとに改めて雇用期間を一年間とする雇用契約書が取り交わされていること(〈証拠略〉)などからすれば、原告と被告会社間の本件雇用契約は、その内容のとおりに一年間を雇用期間と定め、更新されない限りはその期間の満了によって終了する性質のものであると認められるのである。
原告は、そうであっても、本件雇用契約には、期間満了後の更新を期待させる合理的な事情が存在したとして、原告は就労ビザを取得して長期就労の意思を有していたことや、旅費の負担、宿舎の用意等に関する主張をしているのであるが、そのような事情があるからといって、雇用契約の更新が当然に予定され期待できたものということはできず、また証拠(〈証拠略〉)によれば、被告会社において平成八年度以降採用した日系ブラジル人一六名のうち、現在も在職している者は僅か三名で、一年以上更新した者は右三名を含めて七名しかいないことが認められるのであって、このような雇用状況からしても、雇用期間満了後の更新が合理的に期待できたものとはいえず、他に雇用契約の更新を期待させる合理的な事情の存在は認められない。
2 被告会社は、平成一〇年七月一二日、原告に対し、本件雇用契約の更新を拒絶する旨通知しており、したがって同年九月一六日をもって被告会社と原告との間の本件雇用契約は終了したことが認められる。
c)医師選択の自由
法定健康診断については認められている(労安衛66条5項)
法定外健康診断については、就業期s区に根拠があり、内容と方法が合理的であれば、使用者は指定した病院での健康診断受診を業務命令として労働者に義務付けられる!
+判例(S61.3.13)電電公社帯広局事件
理 由
上告代理人藤井俊彦、同上野至、同長島裕、同田中一泰、同幸良秋夫、同畑瀬信行、同片桐春一、同山崎久照、同渡辺信行、同川越修一、同小出寛治、同鎌田哲博、同山元毅の上告理由について
一 原審の適法に確定した事実関係は、次のとおりである。
1(一) 上告人日本電信電話公社(昭和五九年法律第八五号日本電信電話株式会社法附則一一条による廃止前の日本電信電話公社法に基づき設立されたもの。以下「公社」という。)は、本件当時、疾病の予防、罹患者の早期発見、早期回復、保健指導、衛生環境の整備等職員の健康管理を適正に実施し、もつて業務の円滑な運営に資することを目的として健康管理規程を定めていたが、右規程は、職員の健康管理にあたつて職員の疾病状況に対応した有効な施策を講ずること(二条一項)を規定する一方、職員は常に自己の健康の保持増進に努め(二条二項)、健康管理上必要な事項について、健康管理従事者の指示もしくは指導を受けたときは、これを誠実に守らなければならない(四条)として職員の遵守すべき義務を明らかにしている。そして、職員の疾病の予防、保健指導を行うとともに罹患者の早期発見等を行うため配置された健康管理医が検診の結果等により必要と認めたときは、当該職員に精密検診を受けさせなければならないこととし(二四条)、また、検診の結果等に基づき、健康管理医は、管理が必要であると認められる個々の職員(以下「要管理者」という。)につき、病状に応じて、「療養」、「勤務軽減」、「要注意」、「準健康」の各指導区分を決定し(二六条)、右決定のあつた当該職員を右指導区分に従い個別に管理することとしている。また、右要管理者については、日本電信電話公社就業規則(以下「公社就業規則」という。)一六五条において、「職員は、心身の故障により、療養、勤務軽減等の措置を受けたときは、衛生管理者の指示に従うほか、所属長、医師及び健康管理に従事する者の指示に従い、健康の回復につとめなければならない。」と定めるとともに、健康管理規程三一条において、「要管理者は、健康管理従事者の指示に従い、自己の健康の回復に努めなければならない。」と規定している。更に、公社は、高度な医療技術のもとに、疾病の早期回復を図るとともに、公社職員の健康管理のために疾病の早期発見、早期治療を行う医療機関として、札幌逓信病院を設置している。
(二) 公社は、従前から頸肩腕症候群罹患者の発生に対処するため、専門医を中心にプロジエクトチームを編成し、その原因の究明に努めるとともに、諸施策を実施してその予防及び早期解決に努力してきた結果、罹患者数は年々減少するに至つたものの、発症後三年以上を経過しても治癒しない長期罹患者の割合が大きいことから、この長期罹患者についての対策を全国的規模で検討するに至つた。公社北海道局においても、頸肩腕症候群罹患者数が昭和五〇年の約二二〇名から昭和五三年の約一五〇名に減少したものの、三年以上の長期罹患者の割合が七五パーセントを占めていたため、これについての対策が検討されたが、管内健康管理医の打合せ会では、頸肩腕症候群の疾病要因がまだ医学的に十分解明されていない現状において、その早期回復を図るためには、単に整形外科のみならず、内科、精神神経科等各科の検診を含む総合的な精密検診を実施する必要がある旨の意見が強く出された。そして、全国電気通信労働組合北海道地方本部(以下「全電通道地本」という。)からも右と同趣旨の要望がされたため、昭和五三年七月一四日、公社北海道局と全電通道地本との間において、右長期罹患者を対象として、その疾病要因を追究してその診断により治療及び療養の指導をして早期に健康回復を図ることを目的とする総合精密検診を実施する旨の労働協約が締結されたが、右協約によつて決定された検診方法は、発症後三年以上経過しているのに症状が軽快していない者その他健康管理医が必要と認めた者を被検者として札幌逓信病院に入院させ、整形外科を中心に内科、精神科、精神神経科、皮膚科、眼科及び耳鼻咽喉科のほか、必要に応じて他科の検診を含む総合精密検診を行うものであり、検診のための入院期間は二週間程度、参加人員は一回四名程度とし、被検者の具体的人選は健康管理医が行うというものであつた。
(三) 被上告人は、当時公社帯広電報電話局(以下「帯広局」という。)に勤務し電話交換の作業に従事する公社職員であつたが、昭和四九年七月五日、川上整形外科医院において頸肩腕症候群と診断される一方、健康管理規程に定める指導区分の「療養」にあたることとされ、その後、休養加療を行つた結果、症状が軽快し、同年九月五日から右指導区分の「要注意」にあたるものとして職場に復帰したが、同年九月一六日からは「勤務軽減」(六時間勤務)となり、同年一一月五日からは再び「療養」にあたることとされて休養し、同年一二月五日「勤務軽減」(四時間勤務)の指導区分により職場に復帰し、昭和五〇年二月一六日に「要注意」となるといつた右指導区分の変遷を繰り返し、本件当時の被上告人の担当職務は、電話番号簿の番号訂正等の事務であつて、本来の職務である電話交換の作業には従事していなかつた。
公社は、昭和四九年九月五日、被上告人の健康状態を考慮し、従来の電話交換作業から軽易な机上作業に担務替えを行うとともに、同年九月二八日、被上告人から提出された右疾病の業務災害認定申請に対して、札幌逓信病院において、整形外科の精密検診を行い、その結果等に基づき、昭和五〇年九月三日付で右疾病が「業務上」である旨の認定をし、各種補償を行つている。
被上告人は、川上整形外科医院において月一二、三回ないし二〇回程度通院治療を受けていたほか、昭和五二年四月から帯広市内の吉田治療院において月二、三回ないし九回程度「あんま、マツサージ」を受けていたが、昭和五〇年二月以降症状の改善はみられなかつた。
(四) 公社は、昭和五三年九月一二日、前記労働協約所定の頸肩腕症候群総合精密検診の第四回目を同年一〇月五日から一八日までに行うこととし、釧路健康管理所の健康管理医の意見に基づき、帯広局所属の被上告人外一名を被検者と決定し、同年九月一三日、被上告人に対し、帯広局岩渕運用部長を介して口頭で受診を指示するとともに、実施期間・場所・検診科名及び入院にあたつての注意事項等を記載した書面を手交し、その後も、受診に消極的な態度を示す被上告人に対して受診するよう説得に努め、同年一〇月三日には、被上告人に対し、右運用部長を介して右受診方の業務命令を発したが、被上告人がこれを拒否したため、更に検診日を一か月後に再設定することとし、同月二七日、右運用部長を介し、一一月九日から同月二二日まで検診を受けるよう業務命令を発したが、被上告人は、同年一〇月三〇日、「札幌逓信病院は信頼できない。」として右の業務命令をも拒否した。
(五) これより先、全電通道地本はかねて広報紙等を通じて前記労働協約で決定された総合精密検診実施の必要等を組合員に周知させていたが、同年八月二一日、公社から全電通道地本帯広分会に対して検診の対象者として帯広局の被上告人外一名が選定される予定である旨の通知を受けるや、右分会村上書記長は、即日右両名にその旨を伝達した。また、右分会は、被上告人が同年一〇月三日に発せられた総合精密検診の業務命令を拒否したことを重視し、全電通道地本に対して役員の派遣を要請した。これに応じて、全電通道地本は、一〇月一一日から一三日まで執行委員長ら執行部を帯広局に派遣し、被上告人に対して、総合精密検診の趣旨説明をするとともに、その受診方を説得したが、被上告人は、「札幌逓信病院は信頼できない」「業務災害認定解除のおそれがある」等の理由で受診に反対である旨を表明し、結局、全電通道地本執行部の説得を受け容れなかつた。
2 全電通道地本帯広分会執行部は、本件総合精密検診が労使確認事項であるとしながらも、被上告人が受診拒否の意向を有しており、業務命令発出という形にまで発展したことを重視し、同年一〇月九日午後三時から、帯広局局舎三階の会議室において、公社と団体交渉を行つた。団体交渉は非公開で行われたが、開始後間もなく、被上告人を含む一二名の女子職員が傍聴のため会場の会議室に立ち入り、右分会役員の退去指示にも従わず、一部の者が公開を要求して騒然となり、更に、同室前で分会長らと公開、非公開をめぐり問答し、結局、いつたん中断された団体交渉は再開されなかつた。被上告人は、この間、午後三時一五分ころから約一〇分間にわたり職場を離脱した。
3 公社は、同年一一月一四日、被上告人に対し、1の(四)の受診拒否は、公社就業規則五九条三号所定の懲戒事由(「上長の命令に服さないとき」)に該当し、2の職場離脱は、同五九条一八号所定の懲戒事由(「第五条の規定に違反したとき」)に該当するとして、日本電信電話公社法(前記日本電信電話株式会社法附則一一条による廃止前のもの。)三三条に基づき、懲戒戒告処分(以下「本件戒告処分」という。)をした。
二 原審は、前記の事実関係に基づき、(一) 医療行為については、原則として、これを受ける者に、自己の信任する医師を選択する自由があるとともに、あらかじめその医療行為の内容につき説明を受けたうえで、これを受診するか否かを選択する自由があり、かつ、このことは、その医療行為が診察を目的とするものか、治療を目的とするものかにより、決定的な差異はない、(二) 公社がその健康配慮義務を尽すために行う施策が、職員に対して疾病につき診察、治療の医療行為を受けさせることをその内容とする場合には、その内容が当該職員の前記自由権の尊重につき考慮を払つたものでない限り、あるいは他にその自由権を制約するについて合理的な理由のない限りは、職員に対し、その施策の受容を承諾なくして強制することは許されないものというべきである、(三) 本件総合精密検診の被検者は、検診期間中における私的生活がかなり制限されるほか、必ずしも自己の信任しない医師により検診に必要な限度において、身体的侵襲を受けるとともに個人の秘密が知られることにもなるから、このような前記自由権に対する重大な制約を伴う検診については、他に合理的な理由のない限りは、被検者たる当該職員にその受診義務を課することはできないというべきである、(四) 一般に労働協約がその協約当事者以外の組合員たる個個の職員に対して直接に義務を負わせる効力を有することはあり得るとしても、それは組合が組合員たる職員のため処分権能を有する範囲あるいは組合員たる職員に対しその統制権能を及ぼし得る範囲に限られると解されるところ、医療行為につき組合員たる個個の職員の有する前記自由権は、本来その個人的領域に属し、組合といえどもこれを処分、制限することのできない事項であるというべきであるから、仮に公社と全電通道地本との間に締結された前記労働協約が、組合員たる個個の職員で長期罹患者等に該当する者に対し、直接に本件総合精密検診を受診すべき義務を課する趣旨を含むものとするならば、かかる労働協約はその部分につき無効というほかなく、したがつて、前記労働協約締結の事実をもつて、本件総合精密検診の受診義務を肯定するうえでの前記合理的理由があるとすることはできず、他に被上告人について前記合理的理由に該当する事実を認めるに足る証拠はない、(五) したがつて、本件総合精密検診は、法的義務の履行としてこれを強制することはできないものというべきであるから、被上告人にその受診を命ずる本件業務命令は無効であり、被上告人がこれを拒否したことをもつて公社就業規則五九条三号所定の懲戒事由に該当するということはできない、(六) 一〇分間の本件職場離脱という事由のみによつて、被上告人に対し、昇給時に昇給額の減額の効果をともなう本件戒告処分をすることは、その原因となつた行為と対比して著しく均衡を失し、社会通念上客観的妥当性を欠いているから、懲戒についての裁量の範囲を逸脱した違法があつて無効である、と判断した。
三 論旨は、要するに、被上告人に対し頸肩腕症候群総合精密検診の受診を命ずる本件業務命令は無効であり、これを拒否した被上告人の行為が公社就業規則五九条三号所定の懲戒事由にあたらないとした原審の判断には法令違背がある、というものであり、以下この点について検討する。
1(一) 一般に業務命令とは、使用者が業務遂行のために労働者に対して行う指示又は命令であり、使用者がその雇用する労働者に対して業務命令をもつて指示、命令することができる根拠は、労働者がその労働力の処分を使用者に委ねることを約する労働契約にあると解すべきである。すなわち、労働者は、使用者に対して一定の範囲での労働力の自由な処分を許諾して労働契約を締結するものであるから、その一定の範囲での労働力の処分に関する使用者の指示、命令としての業務命令に従う義務があるというべきであり、したがつて、使用者が業務命令をもつて指示、命令することのできる事項であるかどうかは、労働者が当該労働契約によつてその処分を許諾した範囲内の事項であるかどうかによつて定まるものであつて、この点は結局のところ当該具体的な労働契約の解釈の問題に帰するものということができる。
ところで、労働条件を定型的に定めた就業規則は、一種の社会的規範としての性質を有するだけでなく、その定めが合理的なものであるかぎり、個別的労働契約における労働条件の決定は、その就業規則によるという事実たる慣習が成立しているものとして、法的規範としての性質を認められるに至つており、当該事業場の労働者は、就業規則の存在及び内容を現実に知つていると否とにかかわらず、また、これに対して個別的に同意を与えたかどうかを問わず、当然にその適用を受けるというべきであるから(最高裁昭和四〇年(オ)第一四五号同昭和四三年一二月二五日大法廷判決・民集二二巻一三号三四五九頁)、使用者が当該具体的労働契約上いかなる事項について業務命令を発することができるかという点についても、関連する就業規則の規定内容が合理的なものであるかぎりにおいてそれが当該労働契約の内容となつているということを前提として検討すべきこととなる。換言すれば、就業規則が労働者に対し、一定の事項につき使用者の業務命令に服従すべき旨を定めているときは、そのような就業規則の規定内容が合理的なものであるかぎりにおいて当該具体的労働契約の内容をなしているものということができる。
そして、公社と公社職員との間の労働関係は、その事業のもつ社会性及び公益性から、一般私企業と若干異なる規制を受けることは否定できないが、基本的には一般私企業における使用者と従業員との関係とその本質を異にするものではなく、私法上のものということができ、また、公社就業規則の目的及び性質も私企業におけるそれと異なるところはないというべきであるから(最高裁昭和四七年(オ)第七七七号同五二年一二月一三日第三小法廷判決・民集三一巻七号九七四頁)、前述した業務命令の根拠及びその範囲に関する考え方は、公社と公社職員との関係においてもあてはまると解すべきである。
(二) 本件業務命令は、被上告人の罹患した頸肩腕症候群の早期回復を図ることを目的として総合精密検診の受診を命ずるものであり、安全及び衛生に関する業務命令ということができるが、前記の事実関係によれば、公社においては、職員の安全及び衛生に関する事項については、公社就業規則で定めるほか、健康管理規程を設けている。労働基準法八九条二項によれば、安全及び衛生に関する事項については、特に細かい規定となりやすいため、就業規則とは別個に規則を定めることができるとされているところ、公社における右の健康管理規程は、右八九条二項所定の規則にあたるというべきである。そして、同条項所定の規則といえども、就業規則の一部であることは変わりはないのであるから、右の健康管理規程も就業規則としての性質を有しているものということができる。
2(一) 以上によれば、安全及び衛生に関する事項については、公社就業規則及び健康管理規程の定めている事項がその内容において合理的なものであるかぎりにおいて公社と被上告人との間の具体的労働契約の内容となつているものということができる。
以上の見地に立つて本件をみるに、前記のとおり、公社の健康管理規程は、二条二項において、一般的に職員の健康保持義務を定めるとともに、四条において、職員は、健康管理上必要な事項について、健康管理従事者の指示もしくは指導を受けたときは、これを誠実に守らなければならない旨を規定し、更に、二四条において、検診の結果等により健康管理医が必要と認めたときは当該職員に精密検診を受けさせなければならないとするとともに、二六条において、健康管理医は、検診の結果等に基づき、要管理者につき、その病状に応じて、「療養」、「勤務軽減」、「要注意」、「準健康」の各指導区分を決定したうえ、当該職員を右指導区分に従い個別に健康管理指導を行うこととしていること、また、要管理者については、公社就業規則一六五条において、「職員は、心身の故障により、療養、勤務軽減等の措置を受けたときは、衛生管理者の指示に従うほか、所属長、医師及び健康管理に従事する者の指示に従い、健康の回復につとめなければならない。」と定めるとともに、健康管理規程三一条においても、「要管理者は、健康管理従事者の指示に従い、自己の健康の回復に努めなければならない。」と規定している。
以上の公社就業規則及び健康管理規程によれば、公社においては、職員は常に健康の保持増進に努める義務があるとともに、健康管理上必要な事項に関する健康管理従事者の指示を誠実に遵守する義務があるばかりか、要管理者は、健康回復に努める義務があり、その健康回復を目的とする健康管理従事者の指示に従う義務があることとされているのであるが、以上公社就業規則及び健康管理規程の内容は、公社職員が労働契約上その労働力の処分を公社に委ねている趣旨に照らし、いずれも合理的なものというべきであるから、右の職員の健康管理上の義務は、公社と公社職員との間の労働契約の内容となつているものというべきである。
(二) もつとも、右の要管理者がその健康回復のために従うべきものとされている健康管理従事者による指示の具体的内容については、特に公社就業規則ないし健康管理規程上の定めは存しないが、要管理者の健康の早期回復という目的に照らし合理性ないし相当性を肯定し得る内容の指示であることを要することはいうまでもない。しかしながら、右の合理性ないし相当性が肯定できる以上、健康管理従事者の指示できる事項を特に限定的に考える必要はなく、例えば、精密検診を行う病院ないし担当医師の指定、その検診実施の時期等についても指示することができるものというべきである。換言すれば、要管理者は、労働契約上、その内容の合理性ないし相当性が肯定できる限度において、健康回復を目的とする精密検診を受診すべき旨の健康管理従事者の指示に従うとともに、病院ないし担当医師の指定及び検診実施の時期に関する指示に従う義務を負担しているものというべきである。もつとも、具体的な労働契約上の義務の存否ということとは別個に考えると、一般的に個人が診療を受けることの自由及び医師選択の自由を有することは当然であるが、公社職員が公社との間の労働契約において、自らの自由意思に基づき、右の自由に対し合理的な制限を加え、公社の指示に従うべき旨を約することが可能であることはいうまでもなく(最高裁昭和二五年(オ)第七号同二七年二月二二日第二小法廷判決・民集六巻二号二五八頁)、また、前記のような内容の公社就業規則及び健康管理規程の規定に照らすと、要管理者が労働契約上負担していると認められる前記精密検診の受診義務は、具体的な治療の方法についてまで健康管理従事者の指示に従うべき義務を課するものでないことは明らかであるのみならず、要管理者が別途自ら選択した医師によつて診療を受けることを制限するものでもないから、健康管理従事者の指示する精密検診の内容・方法に合理性ないし相当性が認められる以上、要管理者に右指示に従う義務があることを肯定したとしても、要管理者が本来個人として有している診療を受けることの自由及び医師選択の自由を侵害することにはならないというべきである。
(三) 前記の事実関係によれば、被上告人は、昭和四九年七月、頸肩腕症候群に罹患している旨の診断がされ、同時に健康管理規程二六条所定の指導区分の「療養」にあたる要管理者として管理指導を受けることとなり、その後も、その症状の推移に従い、「勤務軽減」、「療養」、「要注意」等の指導区分にあたる者として管理指導を受けるとともに、昭和五〇年九月には右疾病につき業務上災害の認定を受けて災害補償を受けていたところ、被上告人の右疾病については、外科医院において月一二、三回ないし二〇回程度通院治療を受けていたほか、月二、三回ないし九回程度「あんま、マツサージ」の治療を受けていたが、昭和五〇年二月以降症状の改善がみられず、本件当時も、担当職務について労務軽減の措置を受けたまま、電話番号簿の番号訂正等の軽易な机上事務に従事するのみで、本来の電話交換作業に従事できないでいた、というのである。
右の事情に照らすと、被上告人は、当時頸肩腕症候群に罹患したことを理由に健康管理規程二六条所定の指導区分の決定がされた要管理者であつたのであるから、前述したところによれば、被上告人には、公社との間の労働契約上、健康回復に努める義務があるのみならず、右健康回復に関する健康管理従事者の指示に従う義務があり、したがつて、公社が被上告人の右疾病の治癒回復のため、頸肩腕症候群に関する総合精密検診を受けるようにとの指示をした場合、被上告人としては、右検診について被上告人の右疾病の治癒回復という目的との関係で合理性ないし相当性が肯定し得るかぎり、労働契約上右の指示に従う義務を負つているものというべきである。
そして、原審の確定した前記事実関係によれば、公社が公社職員を対象として実施することとした頸肩腕症候群総合精密検診は、発症後三年以上を経過しても治癒しない頸肩腕症候群の疾病要因を追究して、その早期回復を図るための具体的方策を見出すことを目的とするものであるところ、右の疾病要因については、まだ医学的に十分な解明がされていないというのであるから、その疾病要因を究明するための右総合精密検診が、整形外科のみならず、内科、精神科、精神神経科、皮膚科、眼科、耳鼻咽喉科等の各専門医による検診を実施したうえ、その各所見を総合的に検討することとしていること、及び右検診のために二週間程度の入院を必要としていることの合理性は否定し難いものというべきである。また、右総合精密検診の実施機関とされる札幌逓信病院は、公社が高度な医療技術により疾病の早期回復を図るとともに、公社職員の健康管理に適した疾病の早期発見、早期治療を行う病院として設置した医療機関であつて、多岐にわたる検診科及び検診項目についての各専門科医の所見を総合して行うべき右総合精密検診を実施するために必要な人的及び物的条件を具備しているとみられるばかりか、同病院が公社内部の医療機関であつて、日頃から公社職員の健康管理に関与していることからすると、他の総合病院におけるよりも、検診を担当する各専門科医に公社職員の頸肩腕症候群の実態及び実施すべき総合精密検診の趣旨を伝達してその周知徹底を期することが比較的容易に行われ得るということも否定できないところである。そして、右のような方法による総合精密検診の実施については、公社と全電通道地本との間で協議がされ、全電通道地本においても右検診方法の合理性を承認したうえで前記労働協約を締結していることが窺われること等の事情をも併せ考慮すると、被上告人ら公社職員を対象とする右総合精密検診の内容・方法の合理性ないし相当性は十分これを肯定することができるものというべきである。
(四) なお、前記の事実関係によれば、被上告人は、本件当時、健康管理医等の管理のもとに、要管理者として健康管理規程所定の方法により健康回復のための指導を受ける一方、一か月あたり相当回数に上る継続的通院治療を受けていたというのであるが、このことから直ちに、被上告人が公社就業規則一六五条及び健康管理規程三一条所定の健康回復に関する努力義務を履行していたものと断定することはできず、かえつて、被上告人は、右のような継続的な治療を受けていたにもかかわらず、昭和五〇年二月以降症状の改善がみられなかつたため、本件当時においても、労務軽減の措置を受けたまま、前記の軽易な机上作業に従事するのみで、本来の電話交換作業に復帰できないでいたというのであるから、当時被上告人には、なお、自己の健康回復に努め、本来の自己の職務に復帰できるように努力する義務が存続しており、また、この義務の履行としては、公社がより高度の医学的方策によるべきことを指示する限りは、その指示に従うべきであるというべきである。本件の総合精密検診は、総合病院の各専門科医による検診結果を総合して被上告人の疾病の原因及びその治療方法を究明し、その疾病の早期回復を企図するものであるというのであるから、単に従前の治療行為を繰り返すにとどまる場合と比較して、右総合精密検診の実施が被上告人の健康回復により資するものであるということも否定し難く、以上の事情にかんがみると、被上告人としては、公社就業規則及び健康管理規程上、公社の指示に従い、本件総合精密検診を受診することにより、その健康回復に努める義務が存したものというべきである。
(五) 以上の次第によれば、被上告人に対し頸肩腕症候群総合精密検診の受診方を命ずる本件業務命令については、その効力を肯定することができ、これを拒否した被上告人の行為は公社就業規則五九条三号所定の懲戒事由にあたるというべきである。
四 そうすると、原判決が本件業務命令の効力を否定したうえ、これを拒否した被上告人の行為が公社就業規則五九条三号所定の懲戒事由に該当しないとしたのは、法律の解釈適用を誤つたものであるといわざるを得ず、右違法は判決の結論に影響を及ぼすことが明らかである。したがつて、論旨は理由があり、原判決は破棄を免れない。そして、前記の職場離脱が同条一八号の懲戒事由にあたることはいうまでなく、以上の本件における二個の懲戒事由及び前記の事実関係にかんがみると、原審が説示するように公社における戒告処分が翌年の定期昇給における昇給額の四分一減額という効果を伴うものであること(公社就業規則七六条四項三号)を考慮に入れても、公社が被上告人に対してした本件戒告処分が、社会通念上著しく妥当を欠き、裁量権の範囲を超え、これを濫用してされた違法なものであるとすることはできないというべきである。したがつて、本件戒告処分は適法ということができ、その無効確認を求める被上告人の本件請求は理由がないというべきであるから、被上告人の請求を認容した第一審判決はこれを取り消したうえ、その請求を棄却すべきである。
よつて、民訴法四〇八条一号、三九六条、三八六条、九六条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
(裁判官 谷口正孝 角田禮次郎 高島益郎 大内恒夫)
(2)服装・身だしなみの自由
+判例(大阪高判H22.10.27)
要旨
争点 :
「伸ばした髭、長髪」をマイナス評価として賃金をカットし、担当職務を差別したこと、また、上司らが職員に髭を剃るよう執拗に迫った行為が違法か否か。
事案概要 :
(1) 郵便事業者Yの従業員Xは、伸ばした髭と長髪という外貌を理由に人事評価でマイナスに評価し、賃金をカットされるとともに担当職務を差別されたこと、また、上司らがXに、髭を剃るよう執拗に求められたことがいずれも違法行為であるとして、Yに、国家賠償法1条1項に該当する行為又は人事権を濫用した不法行為に基づき、損害賠償金等の支払を求め提訴した。
(2) 神戸地裁は、人事評価は裁量権を逸脱した違法なものと認め、上司らから髭を剃り、髪を切るよう繰り返し求められたことも、一定程度の精神的損害を受けたものとした。東京高裁もこれを維持した。
判決理由 :
〔賃金(民事)/賃金請求権と考課査定・昇給昇格・降格・賃金の減額〕
〔労働契約(民事)/労働契約上の権利義務/業務命令〕
争点(1)(被控訴人のひげ・髪型が、身だしなみ基準に違反するか否か)について
Yにおける灘局基準1・2及び公社基準2が男性職員の髪型及びひげについて過度の制限を課するものというべきで、合理的な制限であるとは認められず、「顧客に不快感を与えるようなひげ及び長髪は不可とする」との内容に限定して適用されるべきものであること、Xの長髪及びひげが、これらの基準で禁止される長髪及びひげには該当しない。
争点(2)(担当業務を限定したことの違法性)について
Yが、平成18年4月以降、Xに「特殊」業務の「夜勤」のみに限定して担務指定した理由が、公社身だしなみ基準及び灘局身だしなみ基準に違反してひげを生やしたため窓口業務を担当することはできないとのYの判断に基づくものであると認められること、そのような判断に基づいて、Xに「特殊」業務の「夜勤」のみの担当を指定したことは、Yの裁量権を逸脱し、違法である。
争点(3)(本件各人事評価の違法性)について Yは、人事評価は懲戒処分と比べて使用者により広い裁量が認められているから、身だしなみ基準違反を理由に人事評価でマイナス評価をしたとしても、懲戒処分と異なって違法とはならないと主張する。しかしながら(中略)、長髪とひげを全面的に禁止することに合理性は認められず、他方で、長髪とひげは基本的に個人的自由に属する事柄である上、これに対する制約が勤務時間を超えて個人の私生活にも影響を及ぼすものであることに鑑みれば、裁量の範囲を逸脱していると評価せざるを得ない。
争点(4)(被控訴人の上司らが、ひげをそるよう求めたことの違法性)について
A課長及びB課長ら灘局における被控訴人の上司による指導が違法である。
争点(5)(被控訴人に生じた損害及びその額)について 上司らからひげをそり、髪を切るよう繰り返し求められたことにより、一定程度の精神的損害を受けたと認められる。
+判例(福岡地小倉支決H9.12.25)東谷山家事件
+判例(東京地判S55.12.15)イースタン・エアポートモータース事件
(3)所持品検査等
+判例(H7.9.5)関西電力事件
理由
上告代理人松本正一、同野嶋董、同山田忠史、同竹林節治、同橋本勝の上告理由第一点の一ないし三及び五について
所論の各文書は、その元となる文書に代わる写しとしてではなく、それ自体が原本として提出されたものであり、記録によれば、その元となる文書の存在及び成立並びに右各文書がその写しとして作成された過程についての立証がされたという原審の認定も是認し得るところであるから、右各文書を証拠として採用した点に所論の違法はなく、その他右各文書の取調べの適否に関する原審の判断は、いずれも正当として是認することができる。したがって、原判決に所論の違法があるとはいえない。論旨は、右と異なる見解に立って原判決を論難するか、又は、帰するところ、原審の専権に属する証拠の取捨判断を非難するものであって、採用することができない。
同第一点の四について
原審の認定するところによれば、所論の各文書又はその元となった文書が、窃取されたものとすることは困難であるし、仮に窃取されたものであるとしても誰が窃取したかは不明であるというのであり、右認定は、原判決挙示の証拠関係に照らして肯認するに足りる。そうであれば、上告人においてこれらの文書を保管中に紛失し、その不知の間に相手方挙証者である被上告人らの入手するところとなったというだけでは、右各文書の証拠能力は否定されないとした原審の判断は正当であって、原判決に所論の違法はない。証拠能力に関する立証責任についての所論を含め、論旨は、原審の認定しない事実をまじえ、独自の見解に基づいて原判決を論難するものであって、採用することができない。
同第二点及び第三点について
所論の点に関する原審の事実認定は、原判決挙示の証拠関係に照らして肯認するに足りるところ、これらを含む原審の適法に確定した事実関係によれば、上告人は、被上告人らにおいて現実には企業秩序を破壊し混乱させるなどのおそれがあるとは認められないにもかかわらず、被上告人らが共産党員又はその同調者であることのみを理由とし、その職制等を通じて、職場の内外で被上告人らを継続的に監視する態勢を採った上、被上告人らが極左分子であるとか、上告人の経営方針に非協力的な者であるなどとその思想を非難して、被上告人らとの接触、交際をしないよう他の従業員に働き掛け、種々の方法を用いて被上告人らを職場で孤立させるなどしたというのであり、更にその過程の中で、被上告人水谷及び同三木谷については、退社後同人らを尾行したりし、特に被上告人三木谷については、ロッカーを無断で開けて私物である「民青手帳」を写真に撮影したりしたというのである。そうであれば、これらの行為は、被上告人らの職場における自由な人間関係を形成する自由を不当に侵害するとともに、その名誉を毀損するものであり、また、被上告人三木谷らに対する行為はそのプライバシーを侵害するものでもあって、同人らの人格的利益を侵害するものというべく、これら一連の行為が上告人の会社としての方針に基づいて行われたというのであるから、それらは、それぞれ上告人の各被上告人らに対する不法行為を構成するものといわざるを得ない。原審の判断は、これと同旨をいうものとして是認することができる。また、原判決が上告人による行為として認定判示するところは、右に説示した限りにおいて、不法行為としての違法性評価が可能な程度に各行為の態様を示しており、その特定に欠けるものではない。論旨は、帰するところ、原審の専権に属する証拠の取捨判断、事実の認定を非難するか、前記説示と異なる見解に立ち若しくは原判決を正解せずにこれを非難するか、又は原判決の結論に影響しない説示部分を論難するものであって、採用することができない。
同第四点について
原審の適法に確定した事実関係の下においては、被上告人らが本件損害及び加害者を知ったのは、労務管理懇談会の報告書を見た昭和四六年のことであって、本訴請求権は時効によって消滅していないとした原審の判断は、正当として是認することができ、原判決に所論の違法はない。論旨は、原判決を正解せず、又は右と異なる見解に立って原判決を論難するものであって、採用することができない。
よって、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官千種秀夫 裁判官園部逸夫 裁判官可部恒雄 裁判官大野正男 裁判官尾崎行信)
++解説
《解 説》
一 本件は、上告人会社が七〇年(昭和四五年)安保改定期に予想される破壊活動からの企業防衛を標ぼうして、共産党員及びその同調者の孤立化・排除のために実施した労務対策につき、それが思想の自由及びプライバシーの侵害等に当たり不法行為を構成するとして、右対策の対象とされた被上告人ら四名が、上告人会社に対し各自二八七万一〇〇〇円の損害賠償及び謝罪文の掲示を求めた事案である。一審(神戸地判昭59・5・18労民三五巻三=四号三〇一頁)、原審(大阪高判平3・9・24労民四二巻五号七五二頁)とも、不法行為の成立を認め、損害賠償として、各自に対する九〇万円(慰謝料八〇万円、弁護士費用一〇万円)の支払を命ずる限度で請求を認容した(それを超える損害賠償及び謝罪文の掲示は棄却)。
原判決は、被上告人らが上告人会社の企業秩序を破壊びん乱するなどのおそれを認めさせる証拠は何もなく、同人らが共産党員ないしその同調者であるという理由のみで右のおそれと関連づけることはできないとした上で、上告人会社が、職制を通じて、職場の内外で監視態勢を継続し、尾行、外部からの電話の相手方の調査、ロッカーの無断開扉等を行い、また、他の従業員との接触や交際をしゃ断して職場で孤立させ、職場八分を実現しようとしたことなどを認め、これらは、労務対策の方針に基づいてされた一連の行為であって間接的に転向を強要するものであり、また、使用者の従業員に対する監督権の行使として許される限度を超え、従業員らの思想信条の自由及びプライバシーを侵害し、職場における自由な人間関係の形成を阻害するとともに、その名誉を毀損し、人格的評価を低下させたものである旨判示していた。
本判決は、原審の認定事実を基に判決要旨に掲げた事実を抽出し、この事実関係の下においては、一連の行為は、「職場における自由な人間関係を形成する自由を不当に侵害するとともに、その名誉を毀損し、プライバシーを侵害するものであって、人格的利益を侵害する不法行為に当たる」と判示した。
二 三菱樹脂事件に関する最大判昭48・12・12民集二七巻一一号一五三六頁、本誌三〇二号一一二頁は、憲法一四条、一九条等の私人間適用を否定しつつ、私人間の関係における社会的許容性の限度を超える侵害に対し基本的な自由や平等の利益を保護する方途として、不法行為に関する規定等の適切な運用を挙げている。労働基準法三条は、労働者の信条を理由とする労働条件についての差別的取扱いを禁止しており、最二小判昭63・2・5労判五一二号一二頁は、企業内においても、労働者の思想、信条等の精神的自由は十分尊重されるべきであると判示している。また、労使関係においてもプライバシーが尊重、保護されるべきものであることも、異論はないであろう。
他方、企業は、企業秩序を維持確保するため、これに必要な規制、指示、命令、調査、懲戒処分等をすることができる(最一小判昭49・2・28民集二八巻一号六六頁、本誌三〇七号一八二頁、最三小判昭52・12・13民集三一巻七号一〇三七頁、最三小判昭54・10・30民集三三巻六号六四七頁、本誌四〇〇号一三八頁)。また、使用者は、人事管理、労務管理、諸手当の算定、福祉制度の実施等のため、労働者の個人情報を把握する必要があり、右の企業秩序維持の観点から労働者の動静を把握する必要を生ずる場合があることも否定できない。しかし、企業秩序維持の権限はその本質に伴う限界があり、労働者は企業の一般的支配に服するものということはできない(前記最三小昭和五二判)。労働者の人格や自由に対する制約となるような使用者の行為は、企業の円滑な運営上必要かつ合理的な目的によって行われる必要があり、しかも、その場合であっても、具体的行為の内容につき、その必要性、合理性、手段方法としての相当性を欠くときは、違法と評価されるものというべきであろう(菅野和夫・労働法三版三三一頁、山田省三「職場における労働者のプライバシー保護」日本労働法学会誌七八号四〇頁。なお、最二小判昭43・8・2民集二二巻八号一六〇三頁参照)。本判決は、一般論を説示してはいないが、一審、原審と同様、こうした観点から不法行為の成否を判断したものとみられる。
三 いわゆる村八分のような共同絶交行為は、人の社会的自由に不当な干渉を加えると同時に、人の精神的自由ないし精神的安定の侵害を伴うのを通例とし、名誉の侵害にもなるとされる(幾代通著=徳本伸一補訂・不法行為法八五頁、大判大10・6・28民録二七輯一二六〇頁。なお、大阪地判昭55・3・26労判三三九号二七頁参照)。本件での孤立化は、当人たちにその旨を告知してされたものではなく、それが本人に分かるような形で実行されたものでもないため、直接精神的安定を侵害したとはいえない。しかし、本判決は、職場において自由な人間関係を形成する自由を侵害するとともに、名誉を毀損するものと評価している。なお、右のように会社の行為がその当時当人たちに対して明らかではなかった本件事案につき、「間接的に転向を強要するものである」という理由をもって、思想信条の自由を侵害するとした原判決の説示は、そのままでは採用し難いためか、本判決は、このような説示は避けている。
本判決は、事例判断ではあるが、①労使間におけるプライバシー、思想信条の自由その他の自由の保護と企業の労務指揮権、監督権、企業秩序維持権能との関係、②職場八分的行為による被侵害法益等の問題を踏まえたものであり、注目すべき判断を示したものといえよう。
+判例(S43.8.2)西日本鉄道事件
理由
上告代理人諌山博の上告理由第一点ないし第四点について。
論旨は、要するに、被上告会社の就業規則(以下たんに就業規則という)八条所定の所持品検査には靴の中の検査が含まれるとして、上告人が所持品検査にあたり脱靴を拒否したことが就業規則の右条項に違反し、五七条、五八条の懲戒解雇違由に該当するとした原審の判断が、これら就業規則条項の解釈適用を誤り、憲法一一条ないし一三条、三一条、三五条に違反するものである、という。
おもうに、使用者がその企業の従業員に対して金品の不正隠匿の摘発・防止のために行なう、いわゆる所持品検査は、被検査者の基本的人権に関する問題であつて、その性質上つねに人権侵害のおそれを伴うものであるから、たとえ、それが企業の経営・維持にとつて必要かつ効果的な措置であり、他の同種の企業において多く行なわれるところであるとしても、また、それが労働基準法所定の手続を経て作成・変更された就業規則の条項に基づいて行なわれ、これについて従業員組合または当該職場従業員の過半数の同意があるとしても、そのことの故をもつて、当然に適法視されうるものではない。問題は、その検査の方法ないし程度であつて、所持品検査は、これを必要とする合理的理由に基づいて、一般的に妥当を方法と程度で、しかも制度として、職場従業員に対して画一的に実施されるものでなければならない。そして、このようなものとしての所持品検査が、就業規則その他、明示の根拠に基づいて行なわれるときは、他にそれに代わるべき措置をとりうる余地が絶無でないとしても、従業員は、個別的な場合にその方法や程度が妥当を欠く等、特段の事情がないかぎり、検査を受忍すべき義務があり、かく解しても所論憲法の条項に反するものでないことは、昭和二六年四月四日大法廷決定(民衆五巻五号二一四頁)の趣旨に徴して明らかである。
いま、これを本件についてみるのに、被上告会社は、電車、バス等による陸上運輸業を営むものであり、かねてから、乗務員による乗車賃の不正隠匿を摘発、防止する目的をもつて、就業規則に八条として、「社員が業務の正常な秩序維持のためその所持品の検査を求められたときは、これを拒んではならない。」との規定を設け、右の「所持品」とは身に着けている物のすべてをいうとの見解のもとに、乗務員の鞄等の携帯品や着衣、帽子および靴の内部にわたつて検査を行ない、相当の成果を納め、隠匿箇所も、着衣、鞄、靴の中が目立つて多かつた。ところが、昭和三三年八月頃、所持品検査の際における一検査員の態度が問題となつたところから、被上告会社と上告人の所属する西日本鉄道株式会社労働組合北九州地区支部との間において、同年九月下旬から一〇月下旬頃までの間三回にわたり話合いが行なわれ、その席上、右支部組合によつて所持品検査の際には脱靴すべきものとの従来の方針があらためて確認され、続いて昭和三五年三月四日、被上告会社から右支部組合に対し、従来靴の中の検査は必ずしも画一的に実施されてきたわけではないが、以後検査場の施設を改善することによつて規定どおり励行するから協力されたい旨を申し入れ、組合側もこれを了承し、なお、両者間において、右の旨を組合員に周知させる猶予期間を置くため実施は同月七日以降とすること、検査にあたつては乗務員の人権を尊重し、感情に走ることがないよう、会社側において監督者の教育を十分に行なうこと、人権問題が生じたときは労使協議会で話し合うこと等の申合せがなされ、組合側は、同月四日付けの機関紙にこれらの事項を掲載し、上告人を含む全組合員にその旨を周知徹底させた。そして、上告人の勤務する到津電車営業所においては、とりあえず、検査場に当てられている補導室のコンクリート床上に踏板を敷き並べ、入口の部分を除いて同室を板張りのようにして、検査員から指示がなくても自然に脱靴せざるを得ないような仕組みに改め、会社側提案の前記方法による所持品検査が、まず同月七日約四〇名の乗務員に対し、次いで同月一一日上告人ら四六名の乗務員に対して実施された。上告人は、被上告会社の電車運転士であつて、同日午後一一時二〇分頃の乗車勤務終了直後、同営業所乗客係Aより所持品検査を受けるよう指示を受け、補導室に赴いたが、靴は所持品ではない、本人の承諾なしに靴の検査はできない筈だといつて、上司たる検査員Bの指示があつたにもかかわらず、踏板の上に帽子とポケツト内の携帯品を差し出しただけで、ついに脱靴には応じなかつた。なお、右Bは検査の直前、その上司から靴の中の検査も実施するよう指示されると同時に、行き過ぎや被検査者に対する感情の刺激のないよう、とくに注意され、右検査の際も上告人の感情を刺激しないように努めたもので、上告人のほか、所持品検査において脱靴を拒否した者はいなかつた。被上告会社は、上告人の脱靴の拒否が就業規則八条に違反し、五八条三号の「職務上の指示に不当に反抗し……職場の秩序を紊したとき」に該当するとして、同年七月二一日付けで上告人を懲戒解雇処分に付した。以上の事実は、原判決およびその引用する第一審判決の適法に確定するところである。
そして、脱靴を伴う靴の中の検査は、所論のごとく、ほんらい身体検査の範疇に属すべきものであるとしても、右の事実関係のもとにおいては、就業規則八条所定の所持品検査には、このような脱靴を伴う靴の中の検査も含まれるものと解して妨げなく、上告人が検査を受けた本件の具体的場合において、その方法や程度が妥当を欠いたとすべき事情の認められないこと前述のとおりである以上、上告人がこれを拒否したことは、右条項に違反するものというほかはない。また就業規則五八条三号にいう「職務上の指示」について、所論のごとく脱靴を伴う所持品検査を受けるべき旨の指示をとくに除外する合理的な根拠は見出し難い。そして、懲戒解雇処分にいたるまでの経緯、情状等に関する原審確定の事実に徴すれば、上告人の脱靴の拒否が就業規則五八条三号所定の懲戒解雇事由に該当するとした原審の判断も、所論の違法をおかしたものとは認めえない。
原判決には叙上と理由を異にする点はあるが、その結論は正当であり、論旨は、排斥を免れない。
同第五点について。
論旨は、本件懲戒解雇は解雇権を濫用したもので無効であるという。
しかし、原判決およびその引用する第一審判決の確定した事実関係のもとにおいて、解雇権の濫用は認められないとした原審の判断は是認することができ、論旨は採用できない。
なお、上告人提出の上告理由書の記載は民事訴訟規則所定の方式を備えないので、判断を加えない。よつて、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員の一致で、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 奥野健一 裁判官 草鹿浅之介 裁判官 城戸芳彦 裁判官 石田和外)
+判例(浦和地判H3.11.22)日立物流事件
(4)職場のIT化とプライバシー
・メールが職務専念義務違反になるか?
←社会通念上相当か。
+判例(東京地判H15.9.22)グレイワールドワイド事件
要旨
争点 : 会社のパソコンを使った私用メールや競合会社への転職あっせん行為などが解雇の合理的な理由に当たるかが争われた事案
事案概要 : 会社のパソコン等を利用して私用メールを送受信することが、職務専念義務に違反するか否か、取引先や友人宛てて上司を批判し、会社の対外的信用を害しかねない行為を繰り返すことは、誠実義務に反するか否かが争われた事案。
判決理由 : 〔労働契約(民事)/労働契約上の権利義務/服務規律〕
(中略)イ 就業時間中の私用メール
(中略)(イ) 労働者は、労働契約上の義務として就業時間中は職務に専念すべき義務を負っているが、労働者といえども個人として社会生活を送っている以上、就業時間中に外部と連絡をとることが一切許されないわけではなく、就業規則等に特段の定めがない限り、職務遂行の支障とならず、使用者に過度の経済的負担をかけないなど社会通念上相当と認められる限度で使用者のパソコン等を利用して私用メールを送受信しても上記職務専念義務に違反するものではないと考えられる。
(中略)被告においては就業時間中の私用メールが明確には禁じられていなかった上、就業時間中に原告が送受信したメールは1日あたり2通程度であり、それによって原告が職務遂行に支障を来したとか被告に過度の経済的負担をかけたとは認められず、社会通念上相当な範囲内にとどまるというべきであるから、上記(ア)のような私用メールの送受信行為自体をとらえて原告が職務専念義務に違反したということはできない。
以上を前提に本件解雇が解雇権の濫用にあたるか否かを検討するに、被告の主張する解雇事由のうち、就業規則上の解雇事由(就業規則35条1項5号)に該当するといえるのは、私用メールによる上司への誹謗中傷行為(上記(1)ウ)及び他の従業員の転職あっせん行為(同カ)のみであり、後者については前記のとおり背信性の程度が低いこと、原告が、本件解雇時まで約22年間にわたり被告のもとで勤務し、その間、特段の非違行為もなく、むしろ良好な勤務実績を挙げて被告に貢献してきたことを併せ考慮すると、本件解雇が客観的合理性及び社会的相当性を備えているとは評価し難い。
したがって、本件解雇は解雇権の濫用にあたり無効である。
〔解雇/解雇事由/会社批判〕
ウ 上記イの私用メールにおける上司の誹謗中傷
(ア) 証拠(〈証拠略〉、証人C)によれば、原告が就業時間中に被告の取引先や競合会社の従業員を含む友人らに送信した私用メールの中には、被告が行った人事についての不満や、「アホバカCEO」、「気違いに刃物(権力)」など上司に対する批判が含まれていることが認められる。
(イ) 私用メールの送受信行為自体が直ちに職務専念義務違反にはならないとしても、その中で上記のような被告に対する対外的信用を害しかねない批判を繰り返す行為は、労働者としての使用者に対する誠実義務の観点からして不適切といわざるを得ず、就業規則35条1項5号に該当する。
〔解雇/解雇事由/守秘義務違反〕
(ア) 証拠(〈証拠略〉、証人C、原告本人)によれば、平成13年5月30日、原告が、同月28日に実施された被告の従業員の昇格人事の一覧(個人名及びその新しい肩書が併記されたもの)を被告の元社員2名にメールで送信したこと、原告が被告から入手した同一覧の末尾には「この文書とそれが送信されたファイルは機密であり、同文書に記載されている個人及び組織の使用目的のものです。」という意味の英文が付されていたこと、同英文は被告からのメール送信に際して自動的に付される処理がなされていたことが認められる。
(イ) 上記(ア)の事実関係からすると、被告の送信するメールに機密文書であることを示す英文が付されているからといって、その内容が常に被告にとって実質的な営業上の機密にあたるものとは断定できず、むしろ、上記(ア)の昇格人事については、原告のメール送信以前に既に実施されており、外部に対しても早晩明らかになるべき事項であると考えられるから、被告にとって実質的な営業上の機密にはあたらないというべきである(中略)
したがって、原告の上記行為は秘密漏洩行為にはあたらない。
(中略) (イ) 労働者が上司を批判することについては、これが一切許されないというわけではなく、その動機、内容、態様等において社会通念上著しく不相当と評価される場合にのみ解雇事由となり得るものと解される。
本件では、B自身が、原告の文書送付以前に、被告の従業員に対して上記(ア)のような発言をしていたものであり、同人が真意から忌憚のない意見具申を期待していたかどうかはともかく、これを聞いた原告が同発言中の「会社に関して日本のマネージメントに言えないようなこと」には被告または被告の経営陣に対する批判にあたる事項が含まれると考えたとしてもやむを得ないし、1回目の文書送付(平成12年10月10日付け書面)から3回目の文書送付(平成13年5月付け書面)までに約7か月も経っているのに、その間、Bや被告における原告の上司が原告に対してこの件につき何ら注意や処分を行った形跡はないこと、これらの文書の中に客観的事実と異なる部分があるとしても、原告が各文書送付当時の自己の認識に照らし明らかに虚偽の事実を記載して被告の経営陣を陥れようとしたとまでは認められないこと、また、この種の文書は作成者の主観が多分に混入しがちであるところ、読み手であるBは、被告の経営陣から直接事情を聴くなどしてその内容を検証し得る立場にあること等の諸事情を考慮すると、これらの文書送付が就業規則35条1項4号、5号に該当するということはできない。
カ 他の従業員の転職あっせん
(中略) (イ) 労働者が、他の従業員の競合他社への転職をあっせんする行為は、使用者が必要とする従業員数を減少させて、その企業活動を妨げるとともに、競合他社の企業活動を支援するものであるから、使用者に対する背信行為と評価すべきであり、原告の上記(ア)の行為も広い意味ではそのような背信行為として就業規則35条1項5号に該当する。
もっとも、原告は、既に被告を退職することを決めていたDからの依頼に応じて同人を競合他社に勤める知人に紹介したにとどまり、それ以上の関与はしていないことや、結果としてDは退職後に同社への就職はしなかったことを考慮すると、その背信性の程度は低いというべきである。
(中略)以上を前提に本件解雇が解雇権の濫用にあたるか否かを検討するに、被告の主張する解雇事由のうち、就業規則上の解雇事由(就業規則35条1項5号)に該当するといえるのは、私用メールによる上司への誹謗中傷行為(上記(1)ウ)及び他の従業員の転職あっせん行為(同カ)のみであり、後者については前記のとおり背信性の程度が低いこと、原告が、本件解雇時まで約22年間にわたり被告のもとで勤務し、その間、特段の非違行為もなく、むしろ良好な勤務実績を挙げて被告に貢献してきたことを併せ考慮すると、本件解雇が客観的合理性及び社会的相当性を備えているとは評価し難い。
したがって、本件解雇は解雇権の濫用にあたり無効である。
〔賃金(民事)/賃金請求権の発生/賃金請求権の発生時期・根拠〕
(中略)(1) 原告の月額賃金のうち、通勤手当2万1160円(〈証拠略〉)については、就労のために要した実費を補償する趣旨で支給されるものであると解され、現実に就労しなかった解雇期間中はその支給の前提を欠くから、原告が被告に請求し得る月額賃金は同手当を除いた52万3900円である。(中略)
(3) 将来請求
原告は、口頭弁論終結後に支払期日が到来する賃金についても請求しているが、本件のように労働契約上の権利を有する地位の確認と未払賃金を併せて請求している場合には、本判決確定後に支払期日が到来する賃金については予め請求する必要性があるとはいえず、同部分に係る訴えは却下することとする。
(4) したがって、被告は、原告に対し、〈1〉本件解雇後である平成13年10月から本訴提起日であることが記録上明らかである平成14年6月14日までの未払賃金合計628万6800円(523,900×8+1,257,360+838,240=6,286,800)及びこれに対する訴状送達の日の翌日であることが記録上明らかである同年7月2日から支払済みまで商事法定利率である年6分の割合による金員、〈2〉同年6月25日から本判決確定に至るまで毎月25日限り各52万3900円、毎年6月10日限り83万8240円、毎年12月10日限り125万7360円及び各支払期日の翌日から支払済みまで商事法定利率である年6分の割合による金員の各支払義務がある。
・モニタリング
+判例(東京地判H14.2.26)日経クイック情報電子メール事件
第3 当裁判所の判断
1 不法行為〈1〉について
まずもって,使用者の行う企業秩序違反事件の調査に対する労働者の協力義務については次のように解される。すなわち,企業秩序は,企業の存立と事業の円滑な運営の維持のために必要不可欠なものであるから,企業は企業秩序を定立し維持する権限を有する。他方,労働者は労働契約の締結によって当然に企業秩序の遵守義務を負う。したがって,企業は,具体的な規則を定めるまでもなく当然のこととして,企業秩序を維持確保するため,具体的に労働者に指示,命令することができ,また,企業秩序に違反する行為があった場合には,その違反行為の内容,態様,程度等を明らかにして,乱された企業秩序の回復に必要な業務上の指示,命令を発し,又は違反者に対し制裁として懲戒処分を行うため,事実関係の調査をすることができる。
しかしながら,上記調査や命令も,それが企業の円滑な運営上必要かつ合理的なものであること,その方法態様が労働者の人格や自由に対する行きすぎた支配や拘束ではないことを要し,調査等の必要性を欠いたり,調査の態様等が社会的に許容しうる限界を超えていると認められる場合には労働者の精神的自由を侵害した違法な行為として不法行為を構成することがある。
そこで,以下検討する。
(一) 誹謗中傷メール事件の調査の必要性と原告との結びつきについて
(1) 前記争いのない事実等(四)(1)に,証拠(〈証拠・人証略〉)及び弁論の全趣旨を併せれば,次の事実が認められ,これを覆すに足りる適切な証拠はない。
被告会社は,前記争いのない事実等(四)(1)(ア)の苦情を受けて,被告丁嶋らをして,まず,誹謗中傷メールの内容とともに,メールサーバーに保管されているメールの送受信ログ(送受信者と送信端末が記録されているファイル)を分析させ,その結果,次の事実が判明した。
〈1〉 誹謗中傷メールの内容は,川城と谷山とが接近することを阻害する趣旨で谷山に対し,同人の言動により川城を始め多くの者が不快感・嫌悪感を持っている,苦情が出ている,同人が仕事をせず,任務懈怠行為や業務妨害を行っている,異常である,このままだと重大な結果を招く,最終局面を迎えるなどとして,同人を非難するなどのものであり(〈証拠略〉),誹謗中傷メールの送信は何者かが悪意に基づいて谷山に対し不快感等を与える意図で行った行為である。
〈2〉 その中で,川城とのやり取りをはじめ谷山の言動を詳しく指摘している。
〈3〉 その中で,谷山のメールの内容等を引用しているところ,原告は谷山が以前使用していたパソコンを預かったことがある。また,原告は川城と親しい間柄であった。
〈4〉 誹謗中傷メールの発信者は,誹謗中傷メールを共有端末から,フリーメールサービスの電子メールアドレス(インターネット上の無料メールアドレス)である「xyza@geocities.co.jp」を使って谷山の社内の電子メールアドレスである「aaaa@ijk.co.jp」に対して送信した。
〈5〉 誹謗中傷メールとほぼ同時期に,共有端末を使用して,「xyza@geocities.co.jp」から原告の社内の電子メールアドレスである「efgh@ijk.co.jp」に対して6通の電子メールが送信されている。
〈6〉 誹謗中傷メールとほぼ同時期に,同共有端末を使用して,xyza@geocities.co.jpから原告の個人の電子メールアドレスであるabcd@geocities.co.jpへのメール2通が送信されている。
〈7〉 共有端末を使用して電子メールを送信した記録は,〈4〉ないし〈6〉しか存在しなかった。
〈8〉 誹謗中傷メールとほぼ同時期に,原告の机の上の端末を使用して,「efgh@ijk.co.jp」から「xyza@geocities.co.jp」に対して電子メール1通が送信されている。
〈9〉 被告会社の調査では,社内でジオシティの電子メールアドレスで交信しているのは,原告と川城と田上好子の3名であった。
(2) これらの事実から,誹謗中傷メールの送信者が,谷山及び川城にごく近い立場の被告会社の社員であることは明らかであり,その内容が谷山の言動を事細かに指摘し,非難し,皆から嫌われているとするなど,その送信は違法性を有すると考えられ,谷山の申出で(ママ)に応じて発信者を特定して防止措置を講じることはもちろん必要であり,のみならず,それは企業秩序を乱す行為であり,就業規則(3条のほか,29条の1,2,10項,55条の1,5,8,12項)に照らして懲戒処分の対象となる可能性があるから,その観点からいっても速やかに調査の必要がある。そして,メールの送受信記録,原告と川城の関係,原告が谷山のパソコンを預かったことからすると,原告が誹謗中傷メールの送信者であると疑う合理的理由があったから,原告に対し事情聴取その他の調査を行う業務上の必要があったということができる。
これに対し,原告は,原告よりむしろ,川城自身,山井,田上好子,これらの者に近い者,谷山に近い営業第2部の者,被告丁嶋,訴外神内などが誹謗中傷メールの送信者であると疑うべき理由があり,これらの者を調査することなく原告を調査する合理的理由はない旨種々主張するが,採用できない。また,(証拠略)によると,誹謗中傷メールが送信された11月29日に原告が会社から外出した事実が認められるが,送信した時間帯には在社した可能性があることまでは否定されない(〈証拠略〉。なお,乙3の3頁の11月29日午前9時45分送信の誹謗中傷メールには「これから外出するので意見がある場合はメールでください。」と記載されているのであり,かえって原告の行動と一致する。)(ママ)
なお,この時点で被告らがファイルサーバー等を調査して私用メールと思われるメールの内容を入手したことはない(被告丁嶋24ないし47項,被告乙島4ないし11頁。原告の8月6日尋問調書7頁はこれを覆すに足りるものではない。)。
(二) 第1回事情聴取(平成11年12月17日)の状況について
(1) 前記争いのない事実等(四)(2)に,証拠(〈証拠・人証略〉)及び弁論の全趣旨を併せれば,以下の事実が認められ,これを覆すに足りる適切な証拠はない。
(ア) この際,主に被告乙島が原告に対する質問をし,同丙崎,同戊木はさしたる発言はしなかった。同被告らは被告乙島をたしなめるなど原告を擁護することもなかった。
(イ) 被告戊木は,原告が誹謗中傷メールの送信者であるとすると原告の上司としてその監督責任を問われる立場にあった。
(ウ) 被告乙島は,もともと声が大きくぶっきらぼうな話し方であるが,この際も大きな声で発言していた。原告も入室時点から身構えた様子で,質問に対し円滑に回答するという状況ではなかった。
(エ) やり取りの内容には次のようなものがあった。
〈1〉 被告乙島が,まず,誹謗中傷メール事件の概要を説明した。その中で発信者のメールアドレスがジオシティであることを指摘し,誹謗中傷メールの送信者のメールアドレスと原告のメールアドレスとの間に交信があることを告知した,(ママ)しかし,詳細な内容や客観的な証拠を示すことはなかった。
〈2〉 その後,原告に対し,ジオシティのメールアドレスを有しているか,田上と川城のジオシティのメールアドレスを作成してやったかを質問し,原告は肯定した。
〈3〉 さらに3人以外にジオシティのメールアドレスを保有する者が社内にいるか質問し,原告は知らないと答えた。
〈4〉 誹謗中傷メールの送信者のメールアドレスと原告のメールアドレスとの間の交信の内容を質問したが,原告は,交信の事実は忘れた,内容は知らないなどと述べて話が進展しなかった。
〈5〉 原告は,自分の机の上のパソコンをのぞけば,誰でも原告のメールアドレスを知ることができ,他人がそれを使って誹謗中傷メールを発信できるなどと反論し,最後まで誹謗中傷メールの発信者であることを否定した。その他,原告は自分が疑われる合理的な根拠がないと認識し,十分に反論するなどしており,意に反して事実関係を認めさせられたようなことはなかった。
〈6〉 原告が被告乙島に対し技術的な観点から反論し,同被告はこれに十分対応できなかったため,質問を終了した。
(オ) 同被告らは質問の結果,原告が誹謗中傷メールの発信者であると判断はできなかったが,その疑いを解いたわけでもなかった。
(カ) 質問時間は約30分間であった。
(2) 原告は前記(一)(1)(ア)のとおり主張し,(証拠略)にはこれに副う部分がある。しかし,このうち,同被告らが「原告が実行者と思われる。」「お前がやったんだ。」など,原告が犯人であるとして激しい口調で事実を認めるようにと追及したとの点については,上記やり取りの経過,特に,被告乙島は客観的な証拠を示すことなく質問し,原告から技術的な観点からの反論に十分対応できなかったため,質問を終了したことに照らすと,これを否定する同被告らの供述に比べて直ちに採用できない。他に,原告の主張を認めるに足りる証拠はない。
(三) 不法行為該当性について
そこで上記認定事実に基づいて検討するに,本件は,社内における誹謗中傷メールの送信という企業秩序違反事件の調査を目的とするもので,かつ,原告にはその送信者であると合理的に疑われる事情が存するのであるから,原告から事情聴取をする必要性と合理性は強く認められる。また,その態様を見ると,質問の声が大きく,また,仮に同じ質問が繰り返してなされたとしても,他方,事情聴取の時間は30分程度であること,原告が送信者であればその監督責任を追及されるべき立場の被告戊木が同席していること,冒頭に事情聴取の趣旨を説明した上で開始していること,質問内容等も特に不適切なものではなく,強制にわたるものとまでは認めがたいことからすると,第1回事情聴取は社会的に許容しうる限界を超えて原告の精神的自由を侵害した違法な行為であるとはいえない。なお,誹謗中傷メールの詳細な内容等を明らかにせずに行ったことも,原告が送信者と疑われる以上,手の内を示すことによる今後の調査への影響を考慮せざるを得ず,不当なこととはいえない。
2 不法行為〈2〉(「私用メール関係」)について
(一) 認定事実
前記争いのない事実等(四)(3),(4)に,証拠(〈証拠・人証略〉)及び弁論の全趣旨を併せれば,以下の事実が認められ,これを覆すに足りる適切な証拠はない。
(1) 第1回事情聴取後,被告会社は,誹謗中傷メール事件の犯人が原告であることの裏付け資料を入手するため,被告乙島と同丙崎が被告丁嶋らに指示して,平成11年12月下旬ころ,被告会社が所有し管理するファイルサーバーの「個人使用」の領域の内,原告が使用していた部分を調査したが,誹謗中傷メール事件と原告の結びつきを示す有力な資料は見あたらなかった(〈証拠略〉)。
そこで,上記ファイルサーバーの12月上旬に取得されたバックアップテープを調査したところ,原告が使用していた「個人使用」の領域から,原告のメールの送受信ファイル,業務と関係のないパリ留学用の経歴書,社員の画像ファイルにいたずら書きしたものなどが,多数見つかった(〈証拠略〉)。
これらは,主に原告が平成11年4月から12月にかけて社内において「efgh@ijk.co.jp」のメールアドレスを使って川城(「lmno@geocities.co.jp」及び川城の電子メールアドレスである「m-mn@a3.mnx.ne.jp」)に対し送信していた多数の私用メールや,自宅から「abcd@geocities.co.jp」から「efgh@ijk.co.jp」宛てに送信している電子メールで,業務に関連するものが混在した状態で発見された。その一部で,勤務時間中に送信されたと思われる私用メールがある程度固まった状態になっていた部分を取り出したのが,乙7(そのリストは乙5の1)であるが,その中の,ジオシティのメールアドレスで送受信されたものの中にも,その題名及び内容から業務に関連する部分を含んでいることが窺えるものが相当数ある(原告準備書面(二)7頁,最終準備書面1,2頁参照)。例えば,(証拠略)の1の1枚目8行目及び18行目,2枚目3行目及び15行目,3枚目4行目及び13行目,11枚目14行目,13枚目8行目及び9行目などである。また,自宅から転送したものの中にも業務に関連するものがある(原告準備書面(二)9,10頁参照)。
被告会社は,この調査に際して原告所有ないし専用パソコン機器又は原告所有のフロッピイディスクを調査したことはない(〈証拠・人証略〉)。
(2) 上記調査結果の報告を受けて,被告乙島及び同丙崎は,被告丁嶋及び神内に内容を確認しやすいように印刷するよう指示し,被告丁嶋らは乙7を作成した。その結果,被告乙島らは,まず,誹謗中傷メール事件については,原告が川城と親しい間柄であることが確認でき,原告には誹謗中傷メールを送信する動機があるものの,確実な証拠が見あたらなかったので,この件で原告を処分することは無理であると考えたが,再度の事情聴取は必要であると判断した(〈証拠・人証略〉)。
(3) その後,12月末及び翌12年1月7日の被告会社の経営戦略会議において,調査状況が報告され,被告会社社長ら常勤の取締役も乙7を閲覧した。会議の結果,誹謗中傷メール事件については,原告が否認している状況であり,処分は予定しないこと,私用メール事件については,過度に私用メールを行っている社員が発見された以上,原告に事情聴取の上,譴責程度の処分をすることが相当であるとの結論となった(〈証拠略〉)。
(4) 乙7を閲覧したのは,調査ないし処分の決定に関与した被告ら4名及び神内,被告会社社長ら常勤の取締役だけである(〈証拠略〉)。
(5) 原告は,退職前に被告戊木らに,私用メールのデータを削除等するよう求めたが,被告会社は,これに応じず,現在も乙7のものを含め本件データなどを保有している。なお,被告会社は,これらのデータをバックアップテープから一旦,ファイルサーバーのハードディスクに移動したが,調査終了後これを消去したため,現在はバックアップテープ上にのみ存在する。バックアップテープ上の一部の情報のみを消去することは技術的に不可能であるが,データをバックアップテープから一旦,ファイルサーバー上のハードディスクに移動し,特定のデータだけを消去した後に,残りのデータをバックアップテープに書き込むことにより一部の情報のみを消去することは可能である(〈証拠略〉)。
(6) 本訴請求にかかるメールファイルその他のデータは,少なくともその一部は別途原告が所持し,又は原告においてデータを具体的に利用する予定はないものである(〈証拠略〉)。
(7) 被告会社は,ハードディスク自体二重化され,テープでバックアップを取っていたから,故障や誤消去に対応できるため,業務上のデータはできるだけ被告会社が管理するファイルサーバーに保存するように指導していた。被告会社は,ファイルサーバーのハードディスクに,「共用」と「個人使用」の2種類の領域を設けていたが,「共用」が文書ファイルの回覧や受け渡しの手間を省くために複数の社員がひとつの文書ファイルを共有できるように設定したのに対し,「個人使用」はそのような必要がない各社員用の業務文書を保管するために設定したもので,社員の私用のファイルを保存するための領域ではない。(〈証拠略〉)
(8) 平成11年12月初めころ,原告が個人用のパソコンを修理に出す際に,被告丁嶋が業務に関する情報を入れたままではなく,消去した上で修理に出すように述べたことがあるが,私用のファイルまでファイルサーバーに移動させてよいと述べたことはない(〈証拠略〉)。
(9) 被告会社は,本件を契機にインターネットの利用等に関する規定を設けて私用メールを規制し,同種事件の再発防止を図っている。
以上の事実が認められる。(証拠略)には本件データがファイルサーバーのハードディスク上に存在していたとの記載があるが,平成11年12月上旬ころまでは同所に存在していたという意味では誤りではなく,上記(1)の認定を左右するものではない。また,原告は,被告会社がこの調査に際して原告所有ないし専用パソコン機器又は原告所有のフロッピイディスクを調査したと主張し証拠を提出するが(〈証拠略〉),結局は何をどこに保存していたかという記憶を根拠とするものであり,原告の個人用パソコンに保存したデータはこれを修理に出す際にそのデータを全てファイルサーバーに移動させたと考えられること,フロッピイディスクについても会社に持ち込んだ以上は何らかの理由で個人用パソコンに保存したと考えるのがむしろ自然であるから,上記調査はしていないとする証拠(〈証拠・人証略〉)に比べて直ちに採用できない。
この他,被告会社が原告のメールの交信を継続して傍受していたなど,原告主張の事実を認めるに足りる証拠はない。この点,原告は願書等の作成時期を問題とする〔〈証拠略〉〕が,願書等は,原告が自宅において一太郎7で作成し,平成11年7月29日ころ会社に持ち込みワードで読み込み,更新し印刷し,その後ファイルサーバーのハードディスクに保存したものと解される(〈証拠略〉。一太郎7で以前に作成した文書をワードで読み込めば,ワード文書としてその時点が作成日付になるが,これをファイルサーバーのハードディスクに保存した場合も,その作成日付は変わらず,ワードで読み込んだ日になる。ワードで読み込まずに,一太郎7のままファイルサーバーのハードディスクに保存した場合は,自宅で作成した日が作成日となる。)。
(二) 原告の私用メール調査の必要性
被告会社としては,まず,誹謗中傷メール事件について,原告にはその送信者であると合理的に疑われる事情が存したことから,原告から事情聴取したが,その結果,原告が送信者であることを否定する一方,その疑いをぬぐい去ることができなかったのであるから,さらに調査をする必要があり,事件が社内でメールを使用して行われたことからすると,その犯人の特定につながる情報が原告のメールファイルに書かれている可能性があり,その内容を点検する必要があった。
また,私用メール事件についても,私用メールは,送信者が文書を考え作成し送信することにより,送信者がその間職務専念義務に違反し,かつ,私用で会社の施設を使用するという企業秩序違反行為を行うことになることはもちろん,受信者に私用メールを読ませることにより受信者の就労を阻害することにもなる。また,本件ではこれに止まらず,証拠(〈証拠略〉)によると,受信者に返事を求める内容のもの,これに応じて現に返信として私用メールが送信されたものが相当数存在する。これは,自分が職務専念義務等に違反するだけではなく,受信者に返事の文書を考え作成し送信させることにより,送信者にその間職務専念義務に違反し,私用で会社の施設を使用させるという企業秩序違反行為を行わせるものである。このような行為は,被告会社の就業規則(〈証拠略〉)55条4,5,8,12号,29条2,3号に該当し,懲戒処分の対象となりうる行為である。そして,原告の私用メールの量は,証拠(〈証拠略〉)によると,平成11年9月から誹謗中傷メールの調査が始まる直前の12月2日までの間は,無視できないものであり,日によっては,頻繁に私用メールのやり取りがなされ,仕事の合間に行ったという程度ではないのであるから,このように多量の業務外の私用メールの存在が明らかになった以上,新たにこれについて原告に関して調査する必要が生じた。そして,業務外の私用メールであるか否かは,その題名だけから的確に判断することはできず,その内容から判断する必要がある。
なお,被告会社が本件程度の量の私用メールの交信を黙認していたと評価されるような事実を認めるに足りる証拠はない。
(三) 調査の相当性
被告会社が行った調査は,業務に必要な情報を保存する目的で被告会社が所有し管理するファイルサーバー上のデータの調査であり,かつ,このような場所は,会社に持ち込まれた私物を保管させるために貸与されるロッカー等のスペースとは異なり,業務に何らかの関連を有する情報が保存されていると判断されるから,上記のとおりファイルの内容を含めて調査の必要が存する以上,その調査が社会的に許容しうる限界を超えて原告の精神的自由を侵害した違法な行為であるとはいえない。
原告が指摘する点についてみるに,まず,原告に調査することを事前に告知しなかったことは,事前の継続的な監視とは異なり,既に送受信されたメールを特定の目的で事後に調査するものであること,原告が誹謗中傷メールと私用メールという秩序違反行為を行ったと疑われる状況があり,事前の告知による調査への影響を考慮せざるを得ないことからすると,不当なこととはいえない。
また,他の社員に対し同時に私用メールの調査を行わなかったことについては,原告には,誹謗中傷メール事件の調査としてファイルの内容を含めて調査の必要が存していたし,私用メール事件としても,原告について,過度の私用メールが発覚した以上,原告についてのみ調査を行うことが,他の社員との関係で公平を欠いたり,原告への調査が違法となることはない。なお,川城については,(証拠略)によれば,4月1日から15日までは専ら原告が川城に送信し,この間に川城のためにジオシティのメールアドレスを取得させ,その後も7月末まではほぼ一方的に原告が送信しているなど量的にも積極性の点でも原告と比べれば軽微であり,原告と川城とでは,原告が正社員で社内システム委員であり,川城が契約社員の立場であること,被告(ママ)が川城にジオシティのメールアドレスを作ってやったことを考慮すると,川城について調査なり処分なりをしなかったことが公平を欠くとは言い難い。
さらに,上記調査目的に照らして,結果としては誹謗中傷メール事件にも,私用メール事件にも関係を有しない私的なファイルまで調査される結果となったとしても,真にやむを得ないことで,そのような情報を入手してしまったからといって調査自体が違法となるとはいえない。
(四) 乙7を閲覧した行為について
処分を相当とする事案に関して,調査ないし処分の決定に必要な範囲で関係者がその対象となる行為の内容を知ることは当然であり,それが私用メールであっても違法な行為ではない。被告らが不必要な者にまで乙7などを広く閲覧させたことはない。
(五) 私用メール等の本件データを保存し返還しない行為について
保存する行為については,処分事案に関する調査記録は当該事案に関連する紛争に備えて,あるいは同種事件への対応の参考資料として相当期間保管の必要があり,上記のとおり違法に入手したものではない以上,これを削除する義務はなく,それをしないことが違法となることはない。また,直接処分の理由とされたもの以外についても,被告会社が業務目的で所有し管理する機器等を個人目的に利用したという点で(なお,〈証拠略〉参照),私用メール事件の情状に関するものということができるから,これらについても同様である。なお,被告乙島が本件データを削除すると発言したこと,被告戊木がこれを返還してはどうかと考えたことについては,上記判断を左右しない。
返還しない行為については,原告において,それらを具体的に必要とする事情が存し,かつ,原告がそれらを保有していないのであれば格別,そのような事実が認められない本件においては,被告にはこれらを返還する義務はなく,それをしないことが違法となることはない。
また,所有権侵害の主張については,被告が所有し管理する機器上に存するデータについて,原告が所有権を有するとはいえない。
3 不法行為〈3〉(「第2回事情聴取関係」)について
(一) 認定事実
争いのない事実等(四)(5),証拠(〈証拠・人証略〉)及び弁論の全趣旨によれば,以下の事実が認められ,これを覆すに足りる適切な証拠はない。
(1) 第2回事情聴取は主に私用メール事件について原告の処分を決定するための情報を得る目的で行われた。
(2) 被告乙島ら及び記録係の田辺は,原告をコの字形に取り囲む形で着席していた。ただし,被告丁嶋は後に参加した。主に被告乙島が原告に対する質問をし,同戊木はさしたる発言はしなかった。
(3) やり取りの内容は,まず,被告乙島が,誹謗中傷メールについて再度確認するとして聴取した。その際,誹謗中傷メールのコピーを示し,そのメールアドレスを明らかにして,原告のメールアドレスや原告の使用するパソコンとの間に通信記録があることなどについて,順次聴取した。その際に,被告丁嶋が呼ばれ,被告乙島の指示で上記通信記録の内容等を説明した。しかし,原告は逐次反論し否定した。その際,原告は原告のパソコンを被告丁嶋か神内が使用してメールを送信したなどと述べた。その後,被告乙島は,私用メールについて,就業規則違反ではないかということで確認したいとして,具体的に期間,頻度等を含め事実関係を聴取し,原告は,私用メールの回数が多いこと,今は申し訳ないと思っていることなどを述べ,その事実は素直に認めた。最後に,被告乙島は,私用メールを社内で行わないこと,メールの濫用として就業規則違反になることを告知した。(〈証拠・人証略〉)
(4) その際,被告乙島が大声を出す場面があった(〈人証略〉)。被告丙崎は,当日の事情聴取を査問と表現している(〈証拠略〉)。
(5) 質問時間は約1時間であった。
以上の事実が認められる。
原告は,さらに被告らが原告を誹謗中傷メールの犯人と決めつけ大声で怒鳴るなどしたと主張し,証拠(〈証拠・人証略〉)を提出する。しかし,誹謗中傷メールを示して「他人の名前を使って人を誹謗中傷する行為は犯罪であり,男がやるような行為ではない。」との発言をしたとの点は,経緯から見て,直接には誹謗中傷メールの発信者を非難したと解するのが自然であり,また,特に繰り返して質問し,嘘だなどと発言したとする部分も,誹謗中傷メールと原告のメールアドレスや原告の使用するパソコンとの間に通信記録があることに関するもので(〈証拠・人証略〉),この点は原告と中誹謗傷メールの発信者を結びつける核心部分であり十分に質問する必要があることから,時間をかけて質問したにすぎないと解され,その他,原告を犯人と決めつけたとする具体的な発言内容があいまいであり,また,私用メールについては原告が事実関係を認めて謝罪していることなど,上記認定及び証拠に照らして,上記認定以上の不適切な発言行為があったとは認められない。
(二) そこで上記認定事実に基づいて検討するに,本件は,社内における誹謗中傷メールの送信及び過度の私用メールという企業秩序違反事件の調査を目的とするもので,かつ,原告は誹謗中傷メールの送信者であると合理的に疑われる事情が存するにもかかわらず,第1回事情聴取では,原告からの技術的な反論のため十分な聴取ができなかったのであるから,再度事実関係を確認する必要があり,私用メールについても,処分の前提として,原告から事情聴取をする必要性と合理性は強く認められる。また,その態様を見ると,質問の声が大きく,また,同じ質問が繰り返してなされたとしても,他方,事情聴取の時間は1時間程度であるところ,質問内容からして不当に長いとはいえないこと,原告の監督責任を追及されるべき立場の被告戊木が同席していること,冒頭に事情聴取の趣旨を説明した上で開始していること,質問内容等も特に不適切なものではなく,強制にわたるものとまでは認められないことからすると,第2回事情聴取が社会的に許容しうる限界を超えて原告の精神的自由を侵害した違法な行為であるとはいえない。
4 不法行為〈4〉(「被告乙島,同戊木による早期退職・出勤停止の強要と脅迫関係」)について
(一) 認定事実
争いのない事実等(四)(6)ないし(8),証拠(〈証拠・人証略〉)及び弁論の全趣旨によれば,以下の事実が認められ,これを覆すに足りる適切な証拠はない。
(1) 1月14日の被告会社経営戦略会議において,原告が同日朝辞職を申し出たことが報告され,原告によるデータ破壊などの危険性を危倶して直ちに出社を差し止める措置が取れないか検討することとされた(〈証拠略〉)。
(2) 原告は,1月20日までに引継資料を作成し引継をした。
(3) 1月21日の被告会社経営戦略会議において,争いのない事実等(四)(6)の事実,1月20日の業務引継後,翌日から出社に及ばないことを通告し,実質的に当日で退社としたこと,ただし,社員の地位は3月1日まで残ることが報告された(〈証拠略〉)。
(4) 1月20日午後4時ころの面談では,被告乙島は,原告に対し,会社が引継ぎは終了したという以上最早原告の仕事はないとして,まず,1月末日で事実上退職するが,2月末までの賃金を支払うことを打診し,これに対し,原告は「仕事の引継ぎは何も終わっていない。退職願の退職日は3月1日である。」として抗議した。これに対し,被告乙島は,「1月の時点で既に仕事をしないのに,3月1日付け退職となると3月まで在籍したことになってしまう。そのようなことはできない。」などとして押し問答が続いた。その中で,被告乙島は「基本的には,前歴照会があるんだから,会社に」と発言した。この間,当初被告乙島が原告を平静に説得し始め,その後双方が要求を繰り返すようになったが,被告乙島は3月1日付退社はあり得ないとしながらも,合意を前提とする会社の要求であるとの趣旨を述べるなど,双方冷静に対応していた。その後,事務引継の方法について,原告が台帳等を個人使用の領域に保管していると述べたことから,被告乙島が,やや強い調子で注意した場面があるが,全体としては被告乙島が一方的に大声で強要する状況ではなかった。その後も押し問答が続いたが,結局,被告乙島が「3月1日付け退職はまず駄目だが,社長と相談してくる。」として,返事を留保した。
(5) 被告乙島は,その直後,被告会社社長に相談の上,3月1日付け退職を認める代わりに,翌日からの出勤はせず,有給休暇として処理することにした(〈証拠略〉)。
(6) 同日午後6時ころの2回目の面談では,まず,被告乙島は,原告に対し平静に社長の判断として上記(5)を伝え,社員証等は返してもらうが,手続のため2月25日ころに一回出社してもらいたいと述べたが,原告は検討して翌日返事をしたいと述べた。これに対し,被告乙島は,社長の寛大な措置に対して即答しないなら,提案を撤回すると述べ,原告は,さらに検討して翌日返事をしたいとして押し問答になった。そのようなやり取りの中で,被告乙島は原告に対し,「今(返事を)もらいたいんだよ。名刺や社員証を置いていってもらいたいんだよ。」「だから(提案を)やめるぞって,だから,もうイエスしかないだろう。」「何を躊躇しているんだ君は。」「何を考えているんだ。」「無礼だぞ。お前。」などと興奮して大声で発言した。しかし,被告乙島は短時間で平静を取り戻し,原告はこの間当初と余り変わらない様子で冷静に対応していた。
以上の事実が認められ,原告主張のうち被告乙島が前歴照会に言及したことに関する点を含め上記認定以上の発言行為があったとする部分を認めるに足りる証拠はない。
(二) ところで,不法行為〈4〉は,退職日付けをめぐって紛争となったものであるが,原告の労働契約の終了事由が原告側からの解約申入れである以上,被告会社としては退職日付けを申出の日以前に遡らせることができるという法的根拠は存しない。したがって,被告会社の提案は合意退職の申入れ行為にすぎず,社会的相当性を逸脱した態様での,強制にわたる執拗な要求行為は不法行為を構成することがあり得る。
しかし,本件の経過からすると被告会社が原告に対し上記(1)のような不信感を持つことはやむを得ない面があり,退職が決まり特段なすべき仕事がなくなったという前提の下に原告に対し出勤しないように求めることが必ずしも不当とも言い難い。また,原則として労働者に就労請求権(使用者に労働受領義務)はないというべきであり,そうである以上,被告が賃金を支払う以上は早期退職の要求というより就労義務の免除にすぎない。なお,懲戒処分たる出勤停止はその間の賃金が支払われないのであって,就労義務の免除とは異なる(就業規則56条3項)。
そこで上記認定事実に基づいて検討するに,まず,4時ころのやり取りについては,退職日の点で1日早期退職を求める行為であり,しかも被告乙島は早期退職を求める法的根拠がないにもかかわらず,3月1日の退職は認められないと繰り返したのであるが,全体の経過としては双方が合意の成立を目指してねばり強い交渉を続けたという程度に止まり,結局被告会社側が再検討の上譲歩したことを考慮すると,社会的に許容しうる限界を超えて原告の精神的自由を侵害した違法な行為であるとはいえない。なお,被告乙島が前歴照会に言及した点については原告主張のような内容ないし趣旨のものであると認めるに足りる証拠はない。
また,6時ころのやり取りについては,被告乙島の発言には,一部ではあるが穏当を欠いて不適切な部分がある。しかし,同部分は,被告会社としては,社長の判断で大幅に譲歩したと認識しこれ以上譲歩の余地はない状況下で,原告が当日限りで出社しないことを前提条件として3月1日付け退職を認める提案をしたにもかかわらず,原告が,検討して翌日回答するとして,同前提条件を承諾せず翌日回答に固執し,そうであれば提案を撤回するとの発言にも同様の応答であったことからなされたもので,双方が容易に譲歩しない状況でのねばり強い交渉の中での発言であること,短時間のことであること,これに対して原告は冷静に対応していることを考慮すると,社会的に許容しうる限界を超えて原告の精神的自由を侵害した違法な行為であるとはいえない。
また,被告戊木について違法な言動があったと認めるに足りる証拠はない。
5 以上のとおりであるから,不法行為〈1〉ないし〈4〉の主張はその余の点について判断するまでもなく理由がない。
6 本件データの返還請求等
前記のとおり被告会社には違法なプライバシー権の侵害はなく,原告には所有権も認められないから,その余の点について判断するまでもなく理由がない。
第4 結論
以上のとおりであるから,原告の本訴請求は理由がないからいずれも棄却することとし,主文のとおり判決する。
(裁判官 多見谷寿郎)
+判例(東京地判H13.12.3)F社Z事業部電子メール事件
第3 当裁判所の判断
1 認定した事実
当事者間に争いのない事実に、証拠(後掲)及び弁論の全趣旨を総合して当裁判所が認定する事実は、概ね以下のとおりである。
(1) ア 原告Aは、平成9年10月からフィッシャー社の社員となり、ゾーモックス事業部において、同事業部の営業部長D(以下「D」という。)の直属のアシスタントとして勤務していた。
イ Dは、昭和49年にゾーモックス事業部の前身であるゾーモックス株式会社が設立された直後から同事業部に勤務し、2年目から営業部長職に就き、平成7年に同事業部がフィッシャー社の傘下となった後も引き続いて同事業部の営業部長の地位にあった。(甲28)
ウ 被告は、平成11年4月に三菱商事株式会社を退社した後、フィッシャー社に入社し、同年5月上旬ころ、ゾーモックス事業部の事業部長として着任した。当時、営業部長であるDは、同事業部内において、被告に次ぐような地位にあった。
(2) 平成11年5月14日午後6時ころから、新横浜プリンスホテルにおいて被告の歓迎会が催され、原告A、被告、Dの他ゾーモックス事業部の数名、工場配置の者数名、大阪・九州の営業担当者ら若干名が参加した。(乙71)
(3) 平成11年12月3日午後6時半ころから、居酒屋「地魚屋」において、ゾーモックス事業部の忘年会が催された。この忘年会には、原告A、被告、Dの他、ゾーモックス事業部に所属するE、F、契約社員のGら、さらに多摩川工場の工場勤務者7名らの合計20名が参加した。
忘年会前半、原告A、G及び被告がいわゆる「一気飲み」を始め、その際、原告Aは、高さ7~8cm程度のグラスで日本酒を7、8杯飲み、被告も日本酒で何度か応じていた。宴会の半ばころには、Gは、目上の者に対してまで悪ふざけをしたり、他の者にビールをかけるような仕草をするなど、かなり酔っていた。原告Aは、酒には強い方であったが、宴会の後半はかなり酔っていた。(乙91、乙99、乙101、原告A本人、被告本人)
(4) 平成12年1月ころ、被告は、東日本営業担当社員のEの勤務態度に大きな問題点を発見し、調査の結果、同年2月18日ころには、Eに退職を求める方針を決め、Eの担当していた営業案件について、被告自ら処理をし始めた。同月24日ころ、被告がEを外してEの営業先に赴いたことを巡り、同じく東日本営業担当のアシスタントであったFが、被告に不満げな態度を示したことについて被告が立腹するといったことがあり、このことについて、被告は、同月29日まで複数回にわたり、Fに対し電子メールで釈明を求めた。
Dは、Fから相談を受け、Fが被告に送る電子メールの文案を添削するなどの援助をしたが、この一件により、被告について、問題を簡単には終わらせない性格の人という認識を持った。(甲20、証人D、被告本人)
(5) 平成12年1月中旬ころ、原告Aは、被告から、退職するGの送別会の設定を示唆されたが、その日程調整について、被告が協力的でないと感じ、そのことを不満に思っていた。
Gの送別会を設定した後、新たに他の女性社員の退職が決まったことから、同年2月29日の昼休みに、職場の女性社員らで送別会代わりに昼食を共にすることになったが、その際、女性社員の一人が、昼食を準備していることを理由に参加しなかった。被告は、その女性社員が一人残されているのを見て、同日午後0時ころ、原告A宛に、「(その女性社員は)何故、呼ばれなかったのですか?」と問い質すような文面を含む電子メールを送った。同日夕刻、原告Aは、被告に対し、事情を説明する電子メールを送ったが、被告の対応について、「女性同士の人間関係にまで口を出す上司」という強い反感を持つに至った。(乙2、乙3、原告A本人、被告本人)
(6) ア 被告は、平成12年2月中旬ころ、原告Aに対し、仕事や上司の話などを聞きたいからという言い方で飲食等の誘いをしていたところ、前記(5) の原告Aからの説明の電子メールを受けて、同日午後6時42分ころ、原告Aに対し、「黒岩さん、ご説明ありがとうございました。了解しました。先日も話しましたが一度時間を割いて戴き黒岩さんから見た当事業部の問題点等を教えて戴きたいと思っていますので宜しく。」という電子メール(以下便宜のため「勧誘メール」という。)を送信した。
イ 原告Aは、前記(5) の不満もあって、被告からの飲食の誘いについて消極的に感じていたところ、同年3月1日朝、勧誘メールを読み、仕事にかこつけての誘いであるという強い反感を持ち、同日午後2時ころ、被告からの勧誘メールを引用したうえで、「夫へ 日頃のストレスは新事業部長にある。細かい上に女性同士の人間関係にまで口を出す。いかに関わらずして仕事をするかが今後の課題。まったく、単なる呑みの誘いじゃんかねー。胸の痛い嫁」という内容の電子メールを原告Bに対して送信しようとしたが、操作を誤り、被告宛に送信してしまった(以下、被告宛の電子メールを「誤送信メール」といい、この一件を「誤送信メール事件」という。)。
ウ 原告Aは、同日午後4時ころ、電子メールを誤送信したことに気付き、FとDに対し、勧誘メールと誤送信メールのプリントアウトを見せて相談した。原告Aは、最初、被告に謝って辞表を出すと言っていたが、DとFに止められた。その際、原告Aからは、被告にセクシャルハラスメント行為を受けているといった話は全くでなかった。その後、原告Aは、原告Bに対して勧誘メールと誤送信メールを引用したうえで「会社辞めるかもしれない」という内容の電子メールを送信したが、原告Bは、同日午後4時16分ころ、「これはセクハラである」「辞める必要はない」という内容の電子メールを返信した。(以上、甲28、乙4ないし乙7、証人D、原告A本人)
(7) 被告は、平成12年3月1日午後3時前ころ、誤送信メールを読み、原告Aの電子メールの使用を監視し始めた。社内では、各自の電子メールアドレスが公開されており、パスワードも各自の氏名で構成されていたことから、アクセスは容易であり、同年2月29日以降にサーバー内に残されていた電子メールを読むことができた。被告は、原告Aがやり取りした電子メールの内容から、原告Aが誤送信メール事件についてFに相談していることを知り、Fの電子メールも監視した。被告は、その中で、原告Aが、電子メールを誤送信したことに気付いていない段階で、被告に対する激しい反感をもって「スキャンダルでも探して何とかしましょうよ。このままじゃ許せん。絶対!!」という電子メールをFに送っていたこと、誤送信に気付いた直後には被告に謝って退職しようと考えていた原告Aが、その後、被告をセクシャルハラスメント行為で告発しようとする方向に動いていることを知り、警戒感を強めた。3月6日ころ、原告Aがパスワードを変更したことから、被告において電子メールを監視することができなくなった。被告は、会社のIT部に対し、原告A及びF宛の電子メールを被告宛に自動転送するよう依頼し、その後はこの方法により原告A宛に着信する電子メールを監視した。(乙1ないし乙88、乙124、被告本人)
(8) 同年3月2日夜までの間に、原告Bは、被告が原告Aに対し、〈1〉「ホテルの一室を取ったから」等の誘いをかけた、〈2〉宴会の場で酔いながら後ろから抱きついた、〈3〉たびたび飲食の誘いをかけた、という3点を指摘して、被告の今後の対応によっては被告をセクシャルハラスメント行為で告発することも辞さないとする内容の被告宛の電子メール(以下「警告メールの原案」という。乙9)を起案した。原告Aは、翌3日、DやFに、警告メールの原案を見せて原告Bがかんかんに怒っていることなどを伝え、警告メールを送信すべきかどうかなどについて相談した。Dは、警告メールの送信に関して消極的な助言はしなかった。
また、原告Aは、このころから、複数の知人に対し、本件について言及した電子メールを送信した。特に、出版の仕事をしているHに対しては、警告メールの原案を含め、定期的に電子メールで情況を伝え、3月30日ころには、「記事としてもとても面白くなりそうです。」「SPA!でカンタンに紹介してもらおうとおもっておりましたが、これはやっぱりFLASHネタまで昇格させる価値がありますね。」といった返信をもらうまでに至っていたが、実際に本件が雑誌等に取り上げられることはなかった。(乙10、乙73ないし乙88、乙126ないし乙131)
(9) 被告は、3月3日の朝、原告らが警告メールの原案を準備し、送信するか否かを検討していることを知り、同日午後0時33分ころ、原告Aに対し、勧誘メールは個人的な付き合いを意図した飲食の誘いではないこと、誤送信メールについては見なかったことにしたいと考えていることを内容とする電子メール(乙11)を送信した。原告Aは、そのことを原告Bに電子メールで知らせた。原告Bは、被告が、自らのセクシャルハラスメント行為を意識し、事実を隠蔽する方向で事態の収拾を図っていると解釈した。(乙12)
(10) 同日午後、被告とDは、取引先に向かう車の中で、誤送信メールのことを話題にした。その際、Dは、被告に対しては、原告Aに謝りなさいと指示したと述べたが、実際には、見せられた警告メールの原案に対して特に批判的なことも言っておらず、むしろ前記(4) のFの一件もあり、警告メールを送信した方がよいと判断していた。他方、被告も、Dの言葉を信用しておらず、警告メールの原案の作成にはDも関与していると考えていた。
帰社後、Dは、原告Aに対し、警告メールを送信しておいた方がよいと助言したが、被告も、原告Aの電子メールを監視していたことから、そのことに気付いていた。被告は、これ以上事が大きくならないように、原告Aに一言声をかけておいた方がよいのではないか、そうすれば、警告メールが実際に送信されるような事態までには至らないのではないかと考え、同日夕刻ころ、原告に対し、口頭で、誤送信メールのことを言っているのがわかるように、「(「夫へ」とあったことを指して)いつ結婚したっけ。黒岩さん、水臭いな。嫌なら嫌と断ってくれたらいいのに。」などと声を掛け、誤送信メールのことは見なかったことにしようというような趣旨の話をした。原告Aは何も答えなかったが、被告が原告Aに送信していた前記の同趣旨の電子メール(乙11)に対しては、「了解しました。」という返信のメールを送信した。
原告Bは、原告Aからこの話を聞いて被告が事実の隠蔽を図っていると決めつけるに至り、警告メールの発信を強く主張したが、原告Aは、「本当にこれがベストなやり方なのかどうかも悩んでいる。」としてこれを止めた。(甲28、乙13、乙15、乙124、乙132、証人D、被告本人)
(11) 被告は、翌4日の土曜日、自宅から、原告Aに対し、事業部をより良くしていくため、問題点・改善案を知らせて欲しいという内容の電子メールを送信したが、他方では、警告メールの原案に、宴会での抱きつき行為については「目撃者が多数あり明確な立証可能」とあったことから、原告らが、D、E、Fらを目撃者として証拠固めをしようとしているかもしれないとも考え、これを阻止するつもりで、週末に薄型のポケットレコーダーを準備し、週の明けた6日の朝から、原告A、D、F及びEを順次呼び出して1人ずつ面談し、証拠作りのつもりでその会話を録音しながら、これらの者に対し、警告メールの原案にある「宴会での抱きつき行為」について探りを入れるような質問をした。
被告は、これらの者が一致して被告の抱きつき行為を見たと言うのではないかと考えていたが、原告Aは、自分は酔っていてよく覚えていないが、工場の人2、3人らから、忘年会で被告が原告Aに後ろから抱きついていたが皆の前であのような行為はまずいのではないかと指摘されたというような趣旨の答えをしたに止まり、続いてDが、「なんか肩なんか抱いてたのは見ましたよ。」などという言い方で、被告が原告Aに抱きついている姿を見たと答えたものの、FとEは、そのようなことは見ていないと答えた。そこで、被告は、忘年会に出席していた大阪事務所の営業部員や工場の従業員数人に対し、電話でそのような行為を見たかと確かめたが、見たと答える者はいなかった。(乙16の1、乙91ないし乙92、乙124、乙138の2、乙139の2、被告本人)
(12) 3月7日の午後10時41分ころ、原告Bは、被告に対し、警告メールの原案のうち、抱きつき行為の目撃者を「多数」から「複数」に改めるなどの若干の変更を加えたうえ、委任している弁護士として原告代理人名を明示した警告メール(乙16の2)を送信し、翌8日の朝、被告はこれを読んだ。(乙124、被告本人)
(13)ア 3月9日、被告は、Dを呼び出し、Dが協力して原告らに警告メールを送信させたと決めつけ、刑法の条文を示してDの行為は名誉毀損罪や脅迫罪にあたると主張し、「家族もいるんでしょう。」などの言辞を用いるなどしながら語気鋭く謝罪を迫った。Dは、警告メールの作成に関わったことは否定したが、被告はそれを認めず、被告のセクシャルハラスメント行為として挙げられている前記(8) の〈1〉から〈3〉についてDを詰問した。
Dは、〈1〉(ホテルの部屋を取ったといって誘ったこと)については、即座に、そんなこと知るわけがないという趣旨の答えをしたが、抱きつき行為の目撃については3月6日の話を変えず、見たものは見たと答えていた。しかし、被告から、さらに、他の者は誰も見ていない、見た者がいるというなら直接確かめるから名前を挙げよ、人を陥れるのはよせ、などと強く責められたのに対して、宴会だからみんな見ているはずだが誰と言われてもわからない、などとして返答に窮した。最後には、被告から、被告が予め用意していた抱きつき行為などなかったという趣旨の文書に署名することを強く求められ、結局、これに署名した。
翌10日午前、被告とDは再度この件について話をしたが、Dは、その際には、被告に対し、警告メールについては自分は関与していない、抱きつき行為については、忘年会でGが酔っぱらって被告に抱きつくなどしていたことから、忘年会の直後に、Dが原告Aに対して、「あんたは抱きつかれたんじゃないの」というような話をしたことがあり、原告らは、そのことを警告メールに記載したのではないかと思うという趣旨の話をした。(乙93、乙94、証人D)
イ その間、Dは、9日の夜、原告A及び原告Bと会い、本件について相談をした。また、10日午後1時過ぎころ、原告Aと原告Bは、電子メールで、Dが、被告に呼び出されて本件について詰問される事態になったことについて原告Bに抗議をするという文面の架空の電子メールを作成することを相談し、「なんちゃってメール」と題して起案した。
被告は、これらの状況を、原告Aの電子メールを監視することにより把握していた。(乙23ないし乙25、被告本人)
(14) 平成12年3月21日、被告は、同年4月1日付けでゾーモックス事業部の組織改編を実施することとし、その旨を文書で告知した。この改編は、被告の意図によるものであり、この改編の結果、Dは、「事業部長補佐営業部員営業活動指導(営業部長)」「特定重要顧客グループリーダー(営業部長)」という肩書きを与えられ、給与等の待遇面での降格はなかったものの、従前の、東日本・西日本・九州の各営業を直接統括する地位からは外されて実質的に営業部長の任を解かれ、営業の統轄は事業部長である被告が直轄することとなった。(乙123の1ないし3、乙124)
(15) 平成12年3月22日の昼ころ、被告は、Dと東日本の営業のリーダーであるIに対し、原告Aを多摩川工場の事務要員に配置転換することを検討している旨を話したが、これに対し、Dは、当惑した様子を示した。Dが、その直後に、そのことを原告A本人に知らせたことから、原告Aは、同日午後1時10分ころ、すぐに原告代理人に連絡を取ってほしい旨を添えて電子メールで原告Bに知らせた。被告は、原告Aの電子メールを監視してこのことを知り、Dが未決定の人事問題を直接本人に伝えたことに強い不信感を持った。同年4月7日、原告代理人は、被告に対し、被告が原告Aにセクシャルハラスメント行為を行っているとし、書面で返答を求める趣旨の内容証明郵便を送り、同月17日には、被告が反論の内容証明郵便を返した。原告Aに対して、実際に配置転換が命じられることはなかった。(甲5、甲6、乙51、乙124、証人D、被告本人)
(16) 平成12年5月初めころ、被告は、原告Aが就業時間中に席を空けていることが日立つという理由で原告Aの残業時間の承認を留保し、Dに調査を命じた。その後、原告Aから総務部に不服の申入れがあり、被告は、総務部から説明を求められた。被告は、総務部に対して調査中であることを伝え、Dに対して調査結果の報告を求めたが、Dから、自分が常に見ているわけではないのでそのような調査は不可能であるとの趣旨の回答を受け、原告Aの残業時間を承認した。(乙124)
(17) 平成12年5月12日、Dは、本件について調査するため来日したゾーモックス事業部アジア総括責任者であるシュレットに対し、自分は被告のセクシャルハラスメント行為を目撃したと述べたが、シュレットからは、Dが事業部のためにならない行動を繰り返していると非難された。Dは、シュレットに対し、抱きつき行為を目撃したのは自分だけではなく、他に正社員でない者1人が見ている、4月に行われた組織改編は被告の報復であると述べ、この件については正確を期するため後日書簡を送ると申し出て了承された。
Dは、同月23日付けで、シュレットに対し、前記(8) の〈1〉ないし〈3〉は全て事実であり、〈1〉(ホテルの部屋を取ったといって誘ったこと)については、原告Aが非常にショックを受けて自分にそのことを話した旨、〈2〉の抱きつき行為については、被告が原告Aを後ろから掴み、被告の顔を原告Aの顔に擦りつけ、体を強く押しつけて、しばらくの間抱きついていたのを自分がはっきりと目撃した旨、〈3〉の飲食の誘いについては、被告から何度も飲食に誘われているという相談を受けている旨を記載した書簡を提出したが、シュレットは、これによりかえってDに対する否定的な見解を強くした。(乙117、乙120、乙124)
(18) 平成12年6月14日、本訴が提起された。
(19) Dは、同年7月、前月に支給された賞与の額について、被告に対し、異議申立てをしたが、認められなかった。また、被告が異動した後の同年12月27日、営業部長職を解かれる降格処分を受け、これに対しては代理人をたてて異議申立てをしたが、会社が処分の撤回に応じず、結局、処分を受け入れた。(乙124、証人D)
2 本訴請求に対する判断
(1) セクシャルハラスメント行為の存否について
証拠により当裁判所が認定した事実は前記第3の1のとおりであり、原告の主張する前記第2の2の(2) のアの(ア)ないし(キ)に列記した事実のうち、(ア)ないし(オ)の各事実は、いずれもこれを認めるに足りる証拠はなく、(カ)の事実については認められるものの、これが被告によるセクシャルハラスメント行為であるとは認められず、(キ)の事実についても、証拠により認められるのは前記認定の事実であって、その範囲では、未だ被告による嫌がらせ行為がなされたとは認められない。
結局、本件において取り調べた全証拠によっても、原告Aが、被告からセクシャルハラスメント行為を受けて精神的な苦痛を感じていたという事実についての証明がないことに帰着するから、被告のセクシャルハラスメント行為を理由とする原告の請求には理由がない。
以下、そのように判断した理由について、詳述する。
ア 証人Dの供述の信用性について
原告らの主張する事実に沿う証拠は、原告A本人の供述を除くと、ほとんど証人Dの供述(陳述書を含む)のみである。しかしながら、同証人の供述には、以下のような問題があり、直ちに採用できない。
(ア) Dの当事者的立場
前記認定のとおり、Dは、本件に関し、中立的第三者の地位にあるというよりは、むしろ、紛争の渦中に巻き込まれた当事者というべき情況にある。例えば、前記のとおり、Dは、3月3日の時点で、原告らに対し、警告メールの送信を促しているが、証人Dの供述によると、Dは、原告Aから前日に詳しい話をきいて初めてセクシャルハラスメント行為であるという認識を持ったばかりであるのに、その翌日に、直属の上司として、このような内容の電子メールの送信を促す助言をするなどということは、客観的にみて異常な判断と言わざるを得ず、前記第3の1の(4) のFの問題もからんで、既にこの時点で、Dは被告に対して強い不信感を持っていたと推認せざるを得ない。
(イ) 供述の変遷や曖昧さ
前記認定のとおり、Dは、相手やその場の情況などにより、しばしばその供述内容を変遷させている。個々の変遷については、その場の情況等から変遷の理由を十分説明できるものもあるが、必ずしも説明できない変遷もあり(例えば、当初、被告から詰問された際には、抱きつき行為については見たとはっきり主張していながら、歓迎会の件については知らない旨即答している。)、結局、現に変遷を繰り返している供述の信用性が低いことに変わりはない。また、変遷とまではいえないとしても、最も肝心な抱きつき行為の態様の詳細について一貫した供述ができているとは言い難いうえ、他の目撃者の有無についても、被告に対してはEの名を挙げ、シュレットに対してはGを目撃者として申告(ただし、Gの氏名は明示はしていない。)しているが、証人尋問の結果によると、D自身は、Eに対してもGに対しても、忘年会における抱きつき行為と特定して目撃の有無をはっきり確認したことはないことが認められ、結局のところは、宴会の場であるから、他にも見ている者がいるはずだということだけである。
法廷における証言も、核心部分が全て誘導尋問により語られており、十分な信用性を認めることができない(証人Dが尋問に不慣れであったことがその理由であったとしても、証拠価値が補完されるものではない。)。
(ウ) 供述自体の不自然さ
証人Dは、要旨、〈1〉歓迎会の件は、質の悪い冗談だと思った、〈2〉12月3日の忘年会の抱きつき行為を見たときには、セクシャルハラスメント行為だという認識はなかった、〈3〉忘年会の次の出勤日に、原告Aに、「抱きつかれたね」と聞いたら「そうなんです」という相づちみたいな形で話があったが、そのときの原告Aの様子は普通で、自分もそんなに細かい記憶がない、その時点でもセクシャルハラスメント行為という認識はなかった、〈4〉忘年会以後、原告Aから、被告に飲みに誘われているという話は何度か聞いていた、12月中旬ころ、原告Aから、被告から飲みに行こうと誘われ、ガスの支払があるなどの口実で逃げたという話を聞いたが、そのとき原告Aは非常に不愉快という感じであった、しかし、そのときも、セクシャルハラスメント行為だという認識は全くなかった、〈5〉誤送信メール後の3月2日に、原告Aから、実はかなりしつこく誘われている、期限付きで来週までにいつ飲みに行けるか返事をくれというふうに言われていると聞いて、セクシャルハラスメント行為としてかなり悪質だなと認識した、などと供述している。
しかしながら、歓迎会は、被告が着任して10日も経たない時期に行われているところ、そのような席で、いきなり「ホテルに部屋を取ってあるからこい」などと誘うというのは、一般論として余りに唐突でありにわかには信じ難い話である。もしそのような著しく常識はずれの行為が真実行われたのであれば、そのような人間が事業部長に着任したことについて、原告Aとその場で報告を受けたというDとの間で極めて重大な問題と認識されたはずであり、これを直ちに社内で問題にするのか、仮に問題にしないという方針を選択するのであれば、その代わり、今後、どのようなスタンスで被告と接するのか、さらに同じようなことが行われた場合にはどうするのかについて、何らかの協議が行われるのが自然である。
ところが、証人Dの証言によると、Dは、原告Aから事の報告を受けた直属の上司でありながら、単に質の悪い冗談とは思ったのみで、特段セクシャルハラスメント行為だとも思わず、何の対処もしなかったというのであり、それ自体、不自然である。この点、歓迎会事件のみであれば、余りに唐突であったために対処も考えられなかったということもあり得なくはないが、前記のように、忘年会で被告による抱きつき行為を直接目撃し、その後にまた、被告から飲みに誘われたが口実を作って逃げたなどという話を聞いていながら、なおかつ、セクシャルハラスメント行為という認識がないというのも不自然である。特に、証人Dは、本件審理においては、被告の抱きつき行為の態様について、原告らの主張に相当程度沿う供述をし、また、シュレット宛の書簡において、ほとんど原告らの主張するとおりの態様を目撃したと述べているが、このような態様の抱きつき行為を目撃し、かつ、その後にまた誘われて口実を作って逃げたという話を聞いてながら、これをセクシャルハラスメント行為と感じないという感性は極めて理解困難である(Dが3月6日に被告に直接話していたような態様であれば、肯けない話ではない。)。
もっとも、これだけなら、証人Dがこの種の行為について極めて寛大な考え方を持っているのだと理解することもできないではない。しかし、証人Dは、他方では、誤送信メール事件後になって、原告Aから、被告の原告Aに対する誘いが、いつなら飲みに行けるか来週までに返事をくれという期限付きで回答を求めるものだったと聞いたということから、これはかなり悪質なセクシャルハラスメント行為だという認識に至ったなどと供述しており、この供述を額面どおりに受け取るならば、証人Dのセクシャルハラスメント行為に対する考え方はあまりにも一貫性を欠く不自然なもので、少なくとも当裁判所には理解し難いものであるといわざるを得ない。むしろ、証人Dの一連の証言の中に誇張や歪曲があるため、結果として整合性が取れていないと理解するほうが合理的である。
イ 原告A本人の供述の信用性について
原告Aは、前記第2の2の(2) のアの(ア)ないし(キ)の事実に沿う供述をしているが、証人Dの供述を除き、他に原告Aの供述の裏付けとなる証拠は存在しないところ、仮に、原告Aが、誤送信メール事件よりも以前から、被告のセクシャルハラスメント行為に深く悩まされていたという前提を維持した場合、原告Aの供述には、以下のとおり、理解しにくい点が多々存在するといわざるを得ず、直ちに採用できない。
(ア) 糾弾行為の唐突さについて
原告Aは、誤送信メールを発信した直後は、被告に謝罪して退職しようと考えたが、その後、セクシャルハラスメント行為を行った被告の側にそもそもの原因があるのに、何故自分が責められるべき立場に置かれなければならないのかという憤りを覚えるに至り、被告を弾劾する立場に転換したものである旨主張し、供述している。
しかし、誤送信メールを送信した後、それに気付いた原告Aが、まずは会社を辞めようと考え、その後、方針を転換し、原告らが協議のうえ被告をセクシャルハラスメント行為で糾弾する方針を固めるまでの間、被告は、誤送信メールについて沈黙しており、原告Aに対して、何らの叱責も糾弾もしていない。原告Aが方針を転換するまでの間に生じた事情といえば、原告Bが被告に「セクシャルハラスメント行為」があると決めつけ、被告を告発することを繰り返し主張しているということくらいである。(これに対し、被告は、誤送信メールの件はなかったことにして済ませようと原告Aに伝えている。)
(イ) 誤送信メール事件以前の原告Aの態度等について
a 原告Aが平成12年1月以前の段階で何らかの重大な悩みを抱えていたことを示すような証拠は全く存在しない。かえって、忘年会においても、原告Aは、Gとともに被告と一気飲みをするなどして陽気に振る舞っていることが認められる。
原告Aが被告から飲食の誘いを受けていたことは聞いていたとか、抱きつき行為を見たと供述するDでさえ、平成12年2月末ころまでは、特段、異常を感じていない。そして、この時期は、客観的にみる限り本件における原告らの主張の事実のうち最も露骨で重大なセクシャルハラスメント行為であるはずの「抱きつき行為」からは3か月近くも後であり、前記第3の1の(5) で認定したように、原告Aが、職場での昼食会の件などを通じて、被告に対し、「女性同士の人間関係にまで口を出す」細かい上司という強い不満を抱いた時期と一致する。この際に、原告Aが被告に発したメール(乙3)の内容や文面からも、原告Aが被告のセクシャルハラスメント行為に深く悩まされているという情況は全く窺えない。
b 続いて、原告Aは、誤送信メールを発信する直前、Fに対し、「スキャンダルでも探して何とかしましょうよ。」という電子メール(乙5)を発信しているが、このことは、誤送信メールの発信以前から被告によるセクシャルハラスメント行為に悩まされていたという主張とは明らかに整合的でない。
この点、原告らは、原告Aは被告のセクシャルハラスメント行為を念頭に置いていたものの、未だ第三者に打ち明けていない段階であったことから敢えてこのように書いたという趣旨の主張をしているが、そうであれば、「スキャンダルでも『探して』」という言葉遣いは明らかに不自然である。なぜなら、正式な告発行動以前の段階で第三者に対してこのような言葉を遣っていたのでは、後に、本件における被告の主張のように、「捏造」との疑惑を招くことは余りにも明らかだからである。このような誤解を招くおそれがない場合というのは、F自身が被告のセクシャルハラスメント行為を認識している場合であろうが、そのような事実は証拠上認められないし、何より、Fが被告のセクシャルハラスメント行為を認識している者であれば、そのような者に宛てて「スキャンダルでも『探して』」という文面のメールを出す理由が説明できない。
c 原告Aは、誤送信メールを送ったことに気付いた直後、原告Bに対し、「昨日までは仕事のストレス」と言い切るメールを送信している。
この点、妻が夫に対し、自己に対するセクシャルハラスメント行為を明言しにくいとか、夫をあまり刺激してはいけないといった配慮から、敢えてこういう書き方をするということは、一般経験則上は十分あり得ることであるから、これをもって、原告Aがセクシャルハラスメント行為を受けていなかったと断定することは妥当でないであろうが、前記a及びbの事情と証拠(乙3・乙5・乙6他多数の電子メール、特に乙6の「21」のメールの原告A自身による記載、乙91)及び弁論の全趣旨から認められる原告Aの性格や人となりを総合して考慮すると、原告Aが以前から被告によるセクシャルハラスメント行為に悩まされていたという事実に対する有力な反対証拠のひとつであることは否定できない。
d 原告Aは、誤送信メール事件以降は、社内社外を問わず、友人知人に対して、電子メールを用いて本件を知らせていることが認められるところ、このような手段として電子メールを多用している原告Aが、誤送信メール事件以前にこれらの知人に対し、被告のセクシャルハラスメント行為を示唆するような何らの訴えもしていないというのは不自然といわざるを得ない。
(ウ) 誤送信メール事件以後の原告Aの態度等について
a 前記第3の1の(11)で認定した3月6日の原告Aと被告との面談のテープ録音の全情況を総合的に観察しても、原告Aが、被告の着任以来、被告から誘いを受け続けることに困惑し、忘年会の抱きつき行為により大変な衝撃を受け、なおかつ、2月中旬以降、明確なセクシャルハラスメント行為を受け続けて我慢の限界にあるという意識を持つ者であるという事実を、わずかでも窺わせるような部分は全く存在しない。
b 原告Aが、前記第3の1の(13)のイに認定したような画策的な行動をしていることは、それ自体仮に本気ではなかったとしても、供述全体の信用性を減じさせる事実である。
(2) 電子メールの閲読行為について
ア 証拠(乙110、乙124)によると、被告が原告らの電子メールを閲読した当時、フィッシャー社の米国本部には、会社のネットワークシステムを用いた電子メールの私的使用の禁止等を定めたガイドラインがあったものの、日本国内のゾーモックス事業部においてはこれが周知されたことはなく、社員による電子メールの私的使用の禁止が徹底されたこともなく、社員の電子メールの私的使用に対する会社の調査等に関する基準や指針、会社による私的電子メールの閲読の可能性等が社員に告知されたこともないことが認められる。
イ 前記アのような事実関係の下では、会社のネットワークシステムを用いた電子メールの私的使用に関する問題は、通常の電話装置におけるいわゆる私用電話の制限の問題とほぼ同様に考えることができる。すなわち、勤労者として社会生活を送る以上、日常の社会生活を営む上で通常必要な外部との連絡の着信先として会社の電話装置を用いることが許容されるのはもちろんのこと、さらに、会社における職務の遂行の妨げとならず、会社の経済的負担も極めて軽微なものである場合には、これらの外部からの連絡に適宜即応するために必要かつ合理的な限度の範囲内において、会社の電話装置を発信に用いることも社会通念上許容されていると解するべきであり、このことは、会社のネットワークシステムを用いた私的電子メールの送受信に関しても基本的に妥当するというべきである。
ウ 社員の電子メールの私的使用が前記イの範囲に止まるものである限り、その使用について社員に一切のプライバシー権がないとはいえない。
しかしながら、その保守点検が原則として法的な守秘義務を負う電気通信事業者によって行われ、事前に特別な措置を講じない限り会話の内容そのものは即時に失われる通常の電話装置と異なり、社内ネットワークシステムを用いた電子メールの送受信については、一定の範囲でその通信内容等が社内ネットワークシステムのサーバーコンピューターや端末内に記録されるものであること、社内ネットワークシステムには当該会社の管理者が存在し、ネットワーク全体を適宜監視しながら保守を行っているのが通常であることに照らすと、利用者において、通常の電話装置の場合と全く同程度のプライバシー保護を期待することはできず、当該システムの具体的情況に応じた合理的な範囲での保護を期待し得るに止まるものというべきである。
エ 証拠(乙124、被告本人)及び弁論の全趣旨によると、フィッシャー社では、会社の職務の遂行のため、従業員各人に電子メールのドメインネームとパスワードを割り当てており、このアドレスは社内で公開され、パスワードは各人の氏名をそのまま用いていたこと、実際に社内における従業員相互の連絡手段として電子メールシステムが多用され、必要な場合にはCC(カーボンコピー)と呼ばれる同時に複数の従業員に対して同一内容の電子メールを発信する方法なども用いられていたことが認められる。
このような情況のもとで、従業員が社内ネットワークシステムを用いて電子メールを私的に使用する場合に期待し得るプライバシーの保護の範囲は、通常の電話装置における場合よりも相当程度低減されることを甘受すべきであり、職務上従業員の電子メールの私的使用を監視するような責任ある立場にない者が監視した場合、あるいは、責任ある立場にある者でも、これを監視する職務上の合理的必要性が全くないのに専ら個人的な好奇心等から監視した場合あるいは社内の管理部署その他の社内の第三者に対して監視の事実を秘匿したまま個人の恣意に基づく手段方法により監視した場合など、監視の目的、手段及びその態様等を総合考慮し、監視される側に生じた不利益とを比較衡量の上、社会通念上相当な範囲を逸脱した監視がなされた場合に限り、プライバシー権の侵害となると解するのが相当である。
オ 本件において、被告が原告らの電子メールを監視し始めた経緯、監視の目的及び手段は、前記第3の1の(7) 以下に認定したとおりである。
これを前記の基準に照らして検討すると、被告の地位及び監視の必要性については、一応これを認めることができる。もっとも、本件においては、セクシャルハラスメント行為の疑惑を受けているのが被告本人であることから、事後の評価としては、被告による監視行為は必ずしも適当ではなく、第三者によるのが妥当であったとはいえよう。しかしながら、被告がゾーモックス事業部の最高責任者であったことは確かであり、かつ、他に適当な者があったと認めるに足りる証拠もないから、被告による監視であることの一時をもって社会通念上相当でないと断じることはできない。また、被告が当初、独自に自己の端末から原告A及びFの電子メールを閲読したその方法は相当とはいえないが、3月6日以降は、担当部署に依頼して監視を続けており、全く個人的に監視行為を続けたわけでもない。
これに対し、原告らによる社内ネットワークを用いた電子メールの私的使用の程度は、前記イの限度を超えているといわざるを得ず、被告による電子メールの監視という事態を招いたことについての原告A側の責任、結果として監視された電子メールの内容及び既に判示した本件における全ての事実経過を総合考慮すると、被告による監視行為が社会通念上相当な範囲を逸脱したものであったとまではいえず、原告らが法的保護(損害賠償)に値する重大なプライバシー侵害を受けたとはいえないというべきである。
3 反訴請求に対する判断
(1) 原告らの主張が、事実無根の捏造であるか否かについて
ア 原告らの主張する被告のセクシャルハラスメント行為については、これを認めるに足りる証拠がないことは前記のとおりである。しかし、そのことと、これらの事実が全て事実無根であり、原告らによって「捏造」されたものであることが、被告による損害賠償請求が認容される程度にまで証明されたかどうかということとは、別個の問題である。
イ 確かに、証人Dの供述には前記のとおり、不自然な点があり、事実を誇張したり歪曲している疑いがある。しかしながら、前記認定の事実経過に照らすと、原告らとDが当初から共謀のうえ、事実無根のセクシャルハラスメント行為を捏造する意図であったと断定することにも疑念が残る。その理由は、以下のとおりである。
(ア) そもそも、事実無根の行為を捏造するのであれば、事業部員ほか20名が現に参加している「忘年会」という場での抱きつき行為を主張するというのは、些か理解し難いところであり、初めから第三者が目撃したり証人になったりする余地のない事実を作出するのが自然であろう。
実際、抱きつき行為について、原告Bは、3月2日の警告メールの原案の段階において、早々に「(尚、幸い目撃者が多数ある明確な立証可能)」と記載しているが、事が「捏造」であっては、このような立証ができるわけがなく、当初から捏造する意図の者の書いた文章としては不自然である。被告は、原告らがDやFと打ち合わせていたことを強調するが、3月2日の段階で、DやFを巻き込んでセクシャルハラスメント行為を「捏造」する謀議が早々に整ったとも考えにくく、むしろ、原告Bとしては、「忘年会の場で抱きつき行為があった」と聞いて、そのような場なら多数の者が見ているに違いないと楽観したと推認する方が自然である。
(イ) 証人Dの供述については、確かに変遷があるが、忘年会における抱きつき行為については、その細かい態様を除けば、3月9日の被告に対する供述を除くと、一貫して「見たものは見た」と話している。
被告は、3月9日にDが目撃供述を撤回したことを強調するが、同日の被告のDに対する詰問態度は、当事者特有の興奮や過剰で攻撃的な表現を伴うもので、このような態度で詰問すれば、被告とDとの社内での地位的関係に照らすと、事の真相とは別に、供述の撤回に至るという流れになることも、経験則上十分考えられることである。
実際、被告は、Dに対して、警告メールは「脅迫」にあたると指摘しながら、自らもそれと全く同じ手法でDに供述の撤回を迫っているということについて自覚が足りない(ここで謝ればそれで終わるが、認めないならば、警察に言うなどして徹底的に争う、というのは警告メールと全く同じ論法であるし、他の者は誰も見ていないと言っている、と言って供述の変更を迫るのも、警告メールが、一方的に「目撃者が複数あり」と決めつけているやり方と同じである。)。
その結果、Dは、要するに、自分が抱きつき行為を目撃したと明言している唯一の人間であることから、その自分に、見ていないと言わせようというのが被告の意図であると「理解」し、供述を撤回する書面に署名したという推認も十分可能なのであり、このような推認が経験則に反するとも言い切れない。
また、被告は、比較的冷静に話している3月10日の会話においても、この会話が録音されていることを自覚しているにもかかわらず、Dに対して自分の推察を執拗に認めさせようとしたり、Dの言葉尻を捉えて返答不能な質問を繰り返したり(「鵜呑み発言」のこと)、一方的な決めつけをしたりしており、紛争の当事者にありがちな、配慮の足りない、真実解明の妨げになる会話を繰り返している。
(ウ) また、被告は、3月6日の被告とE及びFとの会話の記録や、その他の従業員の陳述書などを提出し、抱きつき行為が原告らの捏造であることがこれらの証拠から明らかであると主張する。
しかしながら、そもそも、訴訟における最も重要かつ基本的な争点に関する直接証拠としては、反対尋問を経ない供述に十分な証拠価値を認めることはできないうえ、本件のような事案における事実の解明に関し、当事者以外の第三者に対して事実を確認する作業を行う場合には、その担当者、手続、実施の手順、事前の被調査者に対する調査の趣旨の説明などの点について、十分な注意を払う必要があり、これを欠くと、徒に供述を混乱させ、事実の解明に役立たないどころか、かえって有害な結果となることがある。このようなことは、日頃から、このような作業に従事する者においては顕著な事実である。
このような観点からすると、3月6日という早期の段階で、紛争の一方の当事者で、しかも上司である被告によって、第三者に対する聴き取りが行われたことは、事実の解明という観点からは、かなり問題がある。聴き取りを受ける者に対し、自己の提供する情報がどの範囲の者に認識され、誰により分析・判断され、どのような目的で用いられるのかが正しく説明されていなければ、聴き取りを受ける者は安心して真実を述べることなどできないし、また、これらの者のした回答の趣旨を正しく理解することもできない。本件で提出されている陳述書自体は、後に被告代理人弁護士の関与により作成されたものであるとしても、第三者ではなくあくまで被告の訴訟代理人弁護士の関与であること、これに先立つ時期に、一部にせよ被告自身による聴き取りが行われていること、被告自身が陳述書の提出を促すような発言をしていることなどに照らすと、大きな証拠価値を認めることは困難である。
結局、被告とE及びFとの会話や、後に提出された第三者の陳述書は、「抱きつき行為の存在を疑わせる証拠」のひとつには成り得ても、「抱きつき行為の不存在を証明する証拠」としては、決して価値の高いものではない。
(エ) 被告は、忘年会においては終始記憶もはっきりしており、抱きつき行為は事実無根であると供述している。しかしながら、被告も忘年会の前半に日本酒の一気飲みをしており、かなり酔っていた可能性がある。また、3月6日の原告AやDとの会話における被告の言動や、この段階で、自ら工場の従業員らに対してまで抱きつき行為を見たか否かを確認するという対応などは、始終記憶もはっきりしていて抱きつき行為と受け取られるような行為はおよそ行っていないことについて盤石の自信を持っている者の行動としては、些か冷静さに欠けるという印象も払拭できない。
ウ 以上によると、本件については、被告によるセクシャルハラスメント行為の存在を認めるに足りる証拠はないが、逆に、原告らが事実無根のセクシャルハラスメント行為を意図的に捏造したと認定するに足りるだけの証拠もないというべきである。
(2) 原告らの行為が名誉毀損行為にあたるか否かについて
ア Hに対する電子メールの送信について
原告AのHに対する電子メールの送信は、未だ私信の範囲を超えておらず、この段階で公然事実を摘示したとはいえない。Hが実際に雑誌に掲載するなどすれば、名誉毀損行為に当たる可能性があることは言うまでもないが、Hは、出版等の業務に携わる者として、自らに寄せられる多種多様な情報を自らの判断で取捨選択し、自らの責任で発表する者である。仮に、Hの行為による名誉毀損行為が発生したとしても、それはHによる名誉毀損行為であって、原告らによる名誉毀損行為であるとはいえない。したがって、Hによって発表される可能性があったというだけで、Hに対する電子メールの送信が被告に対する名誉毀損行為を構成するとはいえない。
イ フィッシャー社のゾーモックス事業部以外の部署の者に本件の内容が知られるに至ったことについて
(ア) 被告は、原告らが、社内のFやJに対して、被告によるセクシャルハラスメント行為が行われたと告げたことや、総務部に対して本件訴訟を提起したことを告げたことなどによって、ゾーモックス事業部以外の部署の者に本件の内容が広く知られることとなり、被告の名誉が毀損されたと主張する。
しかしながら、そもそも、本件のような紛争になれば、会社内の相当程度の範囲に噂が広がるのは避けがたいことである。また、このような結果に対して名誉毀損の不法行為の成立を認めることは、一般論として、この種の問題(セクシャルハラスメント問題)の調査に対する過大な萎縮効果を招来するおそれがあるから慎重でなければならず、特に、セクシャルハラスメント行為を受けたと主張する者が、社内の同僚や、総務部の者に対してその旨を告げることが名誉毀損行為となるのは、明確な加害意図のもとに故意に虚偽の事実を捏造し、かつ、当該担当部署に通常の方法で申告するだけでなく、それ以外の不特定多数の者に広く了知されるような方法で殊更に告知されたような場合に限定されるべきである。
(イ) 本件においては、前記認定のとおり、原告らが、明確な加害意図のもとに故意に虚偽の事実を捏造したと認めるに足りる証拠はない。また、被告提出の乙111及び118号証を前提としても、原告らが、フィッシャー社内において、ことさらな風説流布行為を行ったとまでは認められない。さらに、被告自身が、3月6日という早い時点から、F、E、さらには工場の従業員らに対してまで、忘年会での抱きつき行為を見たかどうかの聴き取りをしているところ、被告のこのような行為から社内に噂が広がることも十分考えられるから、原告らの行為によって会社の他の部署に広まったと断定することはできない。
被告は、被告が聴き取りをした者らは、誰も抱きつき行為など見ていないのだから、被告の聴き取り行為によって噂が広がることはないと主張する。しかしながら、聴き取りを受ける側やこのような聴き取りが行われたことを知った第三者の一般的な心理としては、被告自身が確かな記憶のもとに、抱きつき行為及びそれと誤解されるような行為を一切行っていないという確信を持っているのであれば、わざわざそのような聴き取りを行う必要はないのではないか、などと考え易く、上司である被告が自らこのような聴き取りを実施することにより、第三者らの間に、被告自身が何かしら身に覚えがあるのではないか、そうでなくとも酔っていたために十分な記憶がないのではないか、などの憶測を生むことも十分考えられる。被告の地位に照らすと、被告の行った聴き取り行為は、一般の従業員らにとって衝撃的なことであった可能性が多分にあり、被告の主張は採用できない。
4 結論
以上のとおりであるから、本件については、本訴請求及び反訴請求のいずれについても、これを認めるに足りる証拠がないことに帰着する。
よって、主文のとおり判決する。
(裁判官 綱島公彦)
(5)業務命令と思想信条の自由
+判例(H23.5.30)東京都都教委事件
+判例(H23.6.14)同じ!?
理 由
第1 上告代理人飯田美弥子ほかの上告理由のうち職務命令の憲法19条違反を
いう部分について
1 本件は,東京都八王子市又は町田市の市立中学校の教諭であった上告人らが,卒業式又は入学式において国旗掲揚の下で国歌斉唱の際に起立して斉唱すること(以下「起立斉唱行為」という。)を命ずる旨の校長の職務命令に従わず,上記国歌斉唱の際に起立しなかったところ,東京都教育委員会(以下「都教委」という。)から,事情聴取をされ,戒告処分を受け,服務事故再発防止研修を受講させられるとともに,東京都人事委員会から,上記戒告処分の取消しを求める審査請求を棄却する旨の裁決を受けたため,上記職務命令は憲法19条に違反し,上記事情聴取,戒告処分,服務事故再発防止研修及び裁決は違法であるなどと主張して,被上告人に対し,上記戒告処分及び裁決の各取消し並びに国家賠償法1条1項に基づく損害賠償を求めている事案である。
2 原審の適法に確定した事実関係等の概要は,次のとおりである。
(1) 学校教育法(平成19年法律第96号による改正前のもの。以下同じ。)38条及び学校教育法施行規則(平成19年文部科学省令第40号による改正前のもの。以下同じ。)54条の2の規定に基づく中学校学習指導要領(平成10年文部省告示第176号。平成20年文部科学省告示第99号による特例の適用前のもの。以下「中学校学習指導要領」という。)第4章第2C(1)は,「教科」とともに教育課程を構成する「特別活動」の「学校行事」のうち「儀式的行事」の内容について,「学校生活に有意義な変化や折り目を付け,厳粛で清新な気分を味わい,新しい生活の展開への動機付けとなるような活動を行うこと。」と定めている。そして,同章第3の3は,「特別活動」の「指導計画の作成と内容の取扱い」において,「入学式や卒業式などにおいては,その意義を踏まえ,国旗を掲揚するとともに,国歌を斉唱するよう指導するものとする。」と定めている(以下,この定めを
「国旗国歌条項」という。)。
(2) 八王子市教育委員会の教育長は,平成15年9月22日付けで,同市立小中学校の各校長宛てに,「卒業式及び入学式等の式典における国旗掲揚及び国歌斉唱について(通達)」(以下「本件八王子市通達」という。)を発した。その内容は,上記各校長に対し,① 学習指導要領に基づき,入学式,卒業式等を適正に実施すること,② 入学式,卒業式等の実施に当たっては,式典会場の舞台正面中央に国旗を掲揚し,全員が起立し国歌を斉唱するなど,所定の実施指針のとおり行うものとすること等を通達するものであった。
町田市教育委員会の教育長は,同年10月29日付けで,同市立小中学校の各校長宛てに,「入学式,卒業式などにおける国旗掲揚及び国歌斉唱の実施について(通達)」(以下「本件町田市通達」といい,本件八王子市通達と併せて「本件各通達」という。)を発した。その内容は,上記各校長に対し,上記①及び②と同様の事項(ただし,所定の実施指針には,教職員は式典会場の指定された席で国旗に向かって起立し国歌を斉唱することも含まれていた。)等を通達するものであった。
(3) X1は,平成16年3月当時,町田市立A中学校に勤務する教諭であったところ,同月15日,同校の校長から,本件町田市通達を踏まえ,平成15年度卒業式における国歌斉唱の際に起立斉唱行為を命ずる旨の職務命令を,同校長の命を受けた教頭から文書で受けた。しかし,同上告人は,上記職務命令に従わず,同月19日に行われた同校の卒業式における国歌斉唱の際に起立しなかった。
X2は,平成15年9月ないし同16年3月当時,八王子市立B中学校に勤務する教諭であったところ,同15年9月3日,同16年1月14日及び同年3月17日,同校の校長から,本件八王子市通達を踏まえ,平成15年度卒業式における国歌斉唱の際に起立斉唱行為を命ずる旨の職務命令を受けた。しかし,同上告人は,上記職務命令に従わず,同月19日に行われた同校の卒業式における国歌斉唱の際に起立しなかった。
X3は,平成16年3月ないし同年4月当時,同市立C中学校に勤務する教諭であったところ,同年3月17日,同校の校長から,本件八王子市通達を踏まえ,平成16年度入学式における国歌斉唱の際に起立斉唱行為を命ずる旨の職務命令を受けた(以下,上告人らに対するこれらの職務命令を併せて「本件各職務命令」という。)。しかし,X3は,同上告人に対する上記職務命令に従わず,同年4月7日に行われた同校の入学式における国歌斉唱の際に起立しなかった。
(4) X1は,平成16年3月24日に約20分間,X2は,同月25日に約1時間,X3は,同年4月16日に約10分間,それぞれ都教委から上記不起立行為に関する事情聴取を受けた。
(5) 都教委は,上記不起立行為がそれぞれ職務命令違反に当たり,地方公務員法29条1項1号,2号及び3号に該当するとして,平成16年4月6日,X1及びX2に対し,同年5月25日,X3に対し,それぞれ戒告処分をした。また,都教委は,同年8月,上記戒告処分を受けたことを理由として,上告人らにそれぞれ服務事故再発防止研修を受講させた。
(6) X1及びX2は,平成16年5月31日,X3は,同年7月22日,それぞれ東京都人事委員会に対し,上記戒告処分の取消しを求めて審査請求をしたが,同19年4月26日,同人事委員会から,いずれもこれを棄却する旨の裁決(以下「本件裁決」という。)を受けた。
3(1)ア 上告人らは,卒業式等の式典における国歌斉唱の際の起立斉唱行為を拒否する理由について,天皇主権と統帥権が暴威を振るい,侵略戦争と植民地支配によって内外に多大な惨禍をもたらした歴史的事実から,「君が代」や「日の丸」に対し,戦前の軍国主義と天皇主義を象徴するという否定的評価を有しているので,「君が代」や「日の丸」に対する尊崇,敬意の念の表明にほかならない国歌斉唱の際の起立斉唱行為をすることはできない旨主張する。
上記のような考えは,我が国において「日の丸」や「君が代」が戦前の軍国主義や国家体制等との関係で果たした役割に関わる上告人ら自身の歴史観ないし世界観及びこれに由来する社会生活上ないし教育上の信念等ということができる。
イ しかしながら,本件各職務命令当時,公立中学校における卒業式等の式典において,国旗としての「日の丸」の掲揚及び国歌としての「君が代」の斉唱が広く行われていたことは周知の事実であり,学校の儀式的行事である卒業式等の式典における国歌斉唱の際の起立斉唱行為は,一般的,客観的に見て,これらの式典における慣例上の儀礼的な所作としての性質を有するものというべきであって,上記の歴史観ないし世界観を否定することと不可分に結び付くものということはできない。したがって,上告人らに対して学校の卒業式等の式典における国歌斉唱の際の起立斉唱行為を求めることを内容とする本件各職務命令は,直ちに上記の歴史観ないし世界観それ自体を否定するものということはできないというべきである。
ウ また,本件各職務命令当時,公立中学校の卒業式等の式典における国旗掲揚及び国歌斉唱の実施状況は上記イのとおりであり,学校の儀式的行事である卒業式等の式典における国歌斉唱の際の起立斉唱行為は,一般的,客観的に見て,これらの式典における慣例上の儀礼的な所作として外部から認識されるものというべきであって,それ自体が特定の思想又はこれに反する思想の表明として外部から認識されるものと評価することは困難である。なお,職務上の命令に従ってこのような行為が行われる場合には,上記のように評価することは一層困難であるともいえる。
したがって,本件各職務命令は,上告人らに対して,特定の思想を持つことを強制したり,これに反する思想を持つことを禁止したりするものではなく,特定の思想の有無について告白することを強要するものともいえない。
エ そうすると,本件各職務命令は,上記イ及びウの観点において,個人の思想及び良心の自由を直ちに制約するものと認めることはできないというべきである。
(2) もっとも,卒業式等の式典における国歌斉唱の際の起立斉唱行為は,教員が日常担当する教科等や日常従事する事務の内容それ自体には含まれないものであって,一般的,客観的に見ても,国旗及び国歌に対する敬意の表明の要素を含む行為であり,そのように外部から認識されるものであるということができる(なお,例えば音楽専科の教諭が上記国歌斉唱の際にピアノ伴奏をする行為であれば,音楽専科の教諭としての教科指導に準ずる性質を有するものであって,敬意の表明としての要素の希薄な行為であり,そのように外部から認識されるものであるといえる。)。そうすると,自らの歴史観ないし世界観との関係で否定的な評価の対象となる「日の丸」や「君が代」に対して敬意を表明することには応じ難いと考える者が,これらに対する敬意の表明の要素を含む行為を求められることは,その行為が個人の歴史観ないし世界観に反する特定の思想の表明に係る行為そのものではないとはいえ,個人の歴史観ないし世界観に由来する行動(敬意の表明の拒否)と異なる外部的行動(敬意の表明の要素を含む行為)を求められることとなり,それが心理的葛藤を生じさせ,ひいては個人の歴史観ないし世界観に影響を及ぼすものと考えられるのであって,これを求められる限りにおいて,その者の思想及び良心の自由についての間接的な制約となる面があることは否定し難い。
(3)ア そこで,このような間接的な制約について検討するに,個人の歴史観ないし世界観には多種多様なものがあり得るのであり,それが内心にとどまらず,それに由来する行動の実行又は拒否という外部的行動として現れ,当該外部的行動が社会一般の規範等と抵触する場面において制限を受けることがあるところ,その制限が必要かつ合理的なものである場合には,その制限を介して生ずる上記の間接的な制約も許容され得るものというべきである。そして,職務命令においてある行為を求められることが,個人の歴史観ないし世界観に由来する行動と異なる外部的行動を求められることとなり,その限りにおいて,当該職務命令が個人の思想及び良心の自由についての間接的な制約となる面があると判断される場合にも,職務命令の目的及び内容には種々のものが想定され,また,上記の制限を介して生ずる制約の態様等も,職務命令の対象となる行為の内容及び性質並びにこれが個人の内心に及ぼす影響その他の諸事情に応じて様々であるといえる。したがって,このような間接的な制約が許容されるか否かは,職務命令の目的及び内容並びに上記の制限を介して生ずる制約の態様等を総合的に較量して,当該職務命令に上記の制約を許容し得る程度の必要性及び合理性が認められるか否かという観点から判断するのが相当である。
イ これを本件についてみるに,本件職務命令に係る国歌斉唱の際の起立斉唱行為は,前記のとおり,上告人らの歴史観ないし世界観との関係で否定的な評価の対象となるものに対する敬意の表明の要素を含み,そのように外部から認識されるものであることから,そのような敬意の表明には応じ難いと考える上告人らにとって,その歴史観ないし世界観に由来する行動(敬意の表明の拒否)と異なる外部的行動となり,心理的葛藤を生じさせるものである。この点に照らすと,本件各職務命令は,一般的,客観的な見地からは式典における慣例上の儀礼的な所作とされる行為を求めるものであり,それが結果として上記の要素との関係においてその歴史観ないし世界観に由来する行動との相違を生じさせることとなるという点で,その限りで上告人らの思想及び良心の自由についての前記(2)の間接的な制約となる面があるものということができる。
他方,学校の卒業式や入学式等という教育上の特に重要な節目となる儀式的行事においては,生徒等への配慮を含め,教育上の行事にふさわしい秩序を確保して式典の円滑な進行を図ることが必要であるといえる。法令等においても,学校教育法は,中学校教育の目標として国家の現状と伝統についての正しい理解と国際協調の精神の涵養を掲げ(同法36条1号,18条2号),同法38条及び学校教育法施行規則54条の2の規定に基づき中学校教育の内容及び方法に関する全国的な大綱的基準として定められた中学校学習指導要領も,学校の儀式的行事の意義を踏まえて国旗国歌条項を定めているところであり,また,国旗及び国歌に関する法律は,従来の慣習を法文化して,国旗は日章旗(「日の丸」)とし,国歌は「君が代」とする旨を定めている。そして,住民全体の奉仕者として法令等及び上司の職務上の命令に従って職務を遂行すべきこととされる地方公務員の地位の性質及びその職務の公共性(憲法15条2項,地方公務員法30条,32条)に鑑み,公立中学校の教諭である上告人らは,法令等及び職務上の命令に従わなければならない立場にあり,地方公務員法に基づき,中学校学習指導要領に沿った式典の実施の指針を示した本件各通達を踏まえて,その勤務する当該学校の各校長から学校行事である卒業式等の式典に関して本件各職務命令を受けたものである。これらの点に照らすと,公立中学校の教諭である上告人らに対して当該学校の卒業式又は入学式という式典における慣例上の儀礼的な所作として国歌斉唱の際の起立斉唱行為を求めることを内容とする本件各職務命令は,中学校教育の目標や卒業式等の儀式的行事の意義,在り方等を定めた関係法令等の諸規定の趣旨に沿って,地方公務員の地位の性質及びその職務の公共性を踏まえ,生徒等への配慮を含め,教育上の行事にふさわしい秩序の確保とともに当該式典の円滑な進行を図るものであるということができる。
以上の諸事情を踏まえると,本件各職務命令については,前記のように上告人らの思想及び良心の自由についての間接的な制約となる面はあるものの,職務命令の目的及び内容並びに上記の制限を介して生ずる制約の態様等を総合的に較量すれば,上記の制約を許容し得る程度の必要性及び合理性が認められるものというべきである。
(4) 以上の諸点に鑑みると,本件各職務命令は,上告人らの思想及び良心の自由を侵すものとして憲法19条に違反するとはいえないと解するのが相当である。以上は,当裁判所大法廷判決(最高裁昭和28年(オ)第1241号同31年7月4日大法廷判決・民集10巻7号785頁,最高裁昭和44年(あ)第1501号同49年11月6日大法廷判決・刑集28巻9号393頁,最高裁昭和43年(あ)第1614号同51年5月21日大法廷判決・刑集30巻5号615頁,最高裁昭和44年(あ)第1275号同51年5月21日大法廷判決・刑集30巻5号1178頁)の趣旨に徴して明らかというべきである。所論の点に関する原審の判断は,以上の趣旨をいうものとして,是認することができる。論旨は採用することができない。
第2 その余の上告理由について
論旨は,違憲をいうが,その実質は事実誤認又は単なる法令違反をいうものであって,民訴法312条1項及び2項に規定する事由のいずれにも該当しない。
なお,上告人らは本件上告のうち本件裁決の取消請求に関する部分について上告理由を記載した書面を提出しないから,本件上告のうち同部分を却下することとする。
よって,裁判官田原睦夫の反対意見があるほか,裁判官全員一致の意見で,主文のとおり判決する。なお,裁判官那須弘平,同岡部喜代子,同大谷剛彦の各補足意見がある。
2.ハラスメント・いじめからの保護
(1)セクシュアル・ハラスメント
a)対価型と環境型
+判例(東京地判H15.7.7)東京セクハラ(破産出版会社D社)事件
+判例(福岡地判H4.4.16)福岡セクシャル・ハラスメント事件
理由
一 当事者間に争いのない事実
請求原因1の事実(当事者)、並びに、原告が昭和六〇年一二月初めに被告会社の雑誌「B誌」の表紙のデザイナーをしていたAの紹介で被告丙の面接を受け当初三か月はアルバイトで月額九万円支給、正社員になれば月額一〇万円の賃金支給との条件で入社したこと、原告は昭和六一年一月には正社員となったこと、原告の入社当時、編集は被告丙が、営業はEが、制作はFが担当していたが、他には社員はおらず、学生アルバイト多数を用いて雑誌作成を行っていたこと、原告は入社後間もなく編集業務等に関与するようになり、その仕事量は次第に増加して、被告会社における立場の重要性も増していったこと、原告の給与は昭和六二年五月ころ月額一一万円に昇給されたこと、同年八月二〇日にL専務が被告会社に入社し、被告会社の事実上の最高責任者として被告会社の経営の建て直しに当たり、その一環として指揮系統がL専務と被告丙間に明確化されたこと、原告が被告会社の取引先である旅行代理店支店長と男女のいわゆる不倫関係にあったこと、被告会社と同代理店との取引が同年六月ころ終了したこと、原告と被告丙とは同年一二月末ころ協議の機会を待ち、その際、原告が当時「Y社」からいわゆる「引き抜き」の話を受けていたのに対し、被告丙が転職を勧めたこと、被告丙は、昭和六二年三月一〇日、原告に対して原告が取引先の複数の男性と交際していることを話して退職の勧告をしたこと、L専務は同月ころ原告及び被告丙から両者間の関係について相談を受けたこと、原告は同月に月額一三万円に昇給したこと、原告は同月二四日にL専務と協議の機会を持ち、その結果被告会社を退職したこと、その際に被告丙も三日間の自宅謹慎及び減俸の処分を受けたこと、原告は退職に際して被告会社から二一万二一九〇円の支給を受けたこと、以上の事実は、当事者間に争いがない。
二 本件の経緯の概要
右争いのない事実及び証拠(〈書証番号略〉、証人L、同M、同I、被告丙本人、原告本人)によれば、次の事実が認められる(なお、原告は、証人Iの証言及び同人の陳述書(〈書証番号略〉)について、本件のようないわゆるセクシャル・ハラスメントの有無が争われている訴訟において事案と何ら関連性がない原告の私生活に関する虚偽の点さえ含む事実を証拠として開示することを許すと、それ自体が新たなセクシャル・ハラスメントとなり、原告のプライバシーが更に回復不能に侵害されるから、証拠から排除されるべきであると主張するが、前掲証拠の内容はいずれも本件で問題された事項と直接に又はこれらと密接に関連するものであること、原告の懸念する虚偽内容の証言等の開示の点は裁判所において適切に証拠評価することによって補えることに鑑み、原告の右主張は採用しない。)。
1 昭和六〇年六月二〇日に被告会社に入社し、同年八月二一日からは同社の編集長の地位にあった被告丙は、同年一一月ころ、編集事務等を担当していた女性社員が退職したので、その欠員を補うために編集のできる人材を探していたところ、当時「B誌」の表紙のデザインを担当していたAが、原告を紹介してきた。
そして、原告は、被告丙の面接を受け、当初三か月はアルバイト待遇で試用期間とし、アルバイト期間中は月額九万円支給、正社員になれば月額一〇万円支給との条件の呈示を受け、原告は右条件を了承して被告会社に入社した。その後、原告は、被告会社の忘年会での司会振りを被告代表者ら役員に認められて、入社一か月後の昭和六一年一月から被告会社の正社員となった。
入社当時、被告会社の業務は、学生向けの情報雑誌である「B誌」の発行が中心であり、編集長の被告丙、営業担当のE及び制作担当のC社から派遣の同社社員Fの三人の社員と、特派員と呼ばれていた三〇名前後のアルバイト学生ら(所属大学の学内情報に関する記事の執筆等を担当)によって遂行されていた。「B誌」は、当時一部一〇〇円で一般に販売もされていたが、その主たる収入源は同誌に掲載される広告の広告料によるものであり、被告会社の経営は赤字状態にあった。
2 原告は、入社直後の昭和六一年一月、大学の外国語学科で英語を専攻していたことから、被告丙の指示で「B誌」同年一月号の英語関係の特集記事の執筆を初めて担当した。その後も、原告は、過去に雑誌編集の経験があった上、執筆、編集等の仕事を行うだけの能力を有していることが明らかになったため、徐々に取材、執筆、編集等の仕事を任せられるようになり、「B誌」の特集記事等や、被告会社が経営状態改善のために同年四月からC社から作成を請け負うようになったアルバイト情報雑誌「日刊D」の記事の執筆を度々担当することとなった。
特に、同年九月にEが退社して被告丙が営業に労力の多くを注ぐ必要が生じた結果、被告会社の発行する雑誌の編集等における原告の役割は大きくなっていった。
一方、取材等で原告が外部へ出る機会が増えるにつれて、取引先との付き合いから宴席等に加わる機会も多くなっていった。そうするうち、原告は、同年五月ころ、被告丙の友人で被告会社の広告主でもある旅行代理店の支店長と交際を開始するようになった。
3 ところで、被告丙は、やや内向的で家庭的であり、派手さはなく、私生活では生真面目な方で、女性の在り方や役割等についての女性観は旧来のいわゆる常識的な考えの持ち主である。
その仕事振りについては、被告丙が取引先との打合せに遅れ原告が取引先からの苦情に対応するといったことが何度もあったことや、原告らが残業しているのに被告丙は終電車に間に合わないからとの理由で自分だけ帰宅してしまうことがあったことなどから、被告丙の仕事振りに不満を抱くようになった原告から、昭和六二年の春ころ及び秋ころに、「出かけるときは、出先をはっきりして、二時間おきに連絡をして下さい。」旨言われることもあった。
4 Iは、被告丙の高校時代以来の友人で、同じ新聞部に所属していたし、しかも、同新聞部同窓会事務局が被告会社内にあった上、被告会社のアルバイト学生も同新聞部の出身者が中心であった関係もあって、昭和六一年ころから、被告会社の経営の建て直しにつき被告丙の相談に乗るなどのために被告会社に頻繁に出入りし始め、同社の経営についてまでも深く関与するようになり、時には編集会議を主催することすらあった。
5 原告は、昭和六一年一一月二〇日ころ、卵巣腫瘍により入院して手術を受けることが必要との診断を受けたので、被告丙に仕事上その旨報告した。
ところが、同月二四日、被告丙が突然一二指腸潰瘍で先に入院したため、原告は自分の入院を延期した。被告丙は、結局同年末まで入院を続け、原告は、被告丙が退院して被告会社に復帰した後の昭和六二年一月一七日から約三週間入院した。
被告丙が入院している間被告会社の業務が滞らないように、昭和六一年一二月、C社からP係長が被告会社に出向してきた。同係長は、直接には経理担当とされていたが、実質上は被告会社の業務全般にわたっての責任者としての立場を有していた。P係長が出向して来てからは、Iは被告会社に出入りしないようになり、被告会社の経営を含めた業務の方針は、同係長と原告との間で決まることが多くなった。また、昭和六二年五月ころ、原告は、同年七月分からの給与を月額一一万四〇〇〇円とする二万円余りの昇給措置を受けた。
このような状況において、被告丙は、編集長ではあったが、被告会社の業務の重要部分に関われない疎外感を持つようになっていった。
加えて、被告丙は、同年五月の決算期に被告会社の役員から被告会社の業績不振について責任を問われたり、被告会社の業績のばん回策として考えた「B誌」を無料誌化するとの案も採用されなかったことなどから、被告会社を辞めようかと思い悩むようになった。
6 なお、原告は、昭和六二年一月ころ前記旅行代理店支店長との交際を一応終了し、同年五月ころ同人との関係を最終的に清算したが、同人の勤める旅行代理店の広告の掲載は、昭和六一年一月から昭和六二年四月まで継続した後、同年七月号に掲載されたことをもって終了した。
7 L専務は、大手の広告代理店での勤務経歴を持っていたところ、昭和六二年に被告会社の経営建て直しを依頼されていたが、同年二、三月ころから約半年間被告会社の業務内容等の様子を見た結果、再建が見込めると判断して、同年八月二〇日、専務との役職名の下に、代表権を必要とする業務以外の通常業務すべてを統括する事実上の最高責任者として被告会社に入社した。なお、これと相前後して、P係長はC社に戻った。
L専務は、被告会社の経営建て直しのために、当時の被告会社の業務遂行の指揮系統がはっきりしていなかったので自己の意思が編集長である被告丙を通じて原告ら他の社員に伝わるようにして秩序立った業務運営ができる体制を作ったり、「B誌」を無料化するとの被告丙の案を採用したりした。
右により、一時は疎外感を持ち被告会社を退社しようかと悩んでいた被告丙も、被告会社で編集長として仕事を続けていける自身を取り戻した。
また、仕事の分担についても、被告会社の主たる業務である「B誌」の発行は被告丙が、C社からの請負業務である「日刊D」の作成は原告が、各担当することと大まかに分けられた。
このような経緯から、その後は、被告会社の運営は、L専務と被告丙とを中心に行われるようになった。
8 しかしながら、昭和六二年一二月になっても、被告会社は、その経営状態が改善されず、年内に原告にボーナスが出せるかどうか不確実という状態にあった。
このこともあって、被告丙は、同年一二月二七、八日ころ、原告を呼び出し、原告と協議する機会を持ったが、その際、当時原告に「Y社」から来ていたいわゆる引き抜きの件に話が及び、被告丙は、「Y社」が被告会社よりもかなり高い給与を支給する予定であると聞いたこともあって、原告に引き抜きの話を受けて転職することを勧めた。原告は、この引き抜きの話はいまだ確定的なものではないので、とりあえず年明けに結果を報告する旨答え、話を終えた。
このことがあった後、原告は、被告丙が原告を被告会社から辞めさせたがっているものとの意識を持つようになり、同被告の自分に対する言動に神経を使うようになった。
9 その後、原告は、被告丙に対して事務的な会話以外はあまり話をしないようになった。
この結果、被告丙は、仕事が円滑に回らなくなり職場の雰囲気も次第に悪くなったと感じ、このままでは被告会社の業務にも支障を来すことにもなりかねないと考えるようになり、原告に対し、被告会社を辞めて欲しいと思うようになった。
10 被告丙は、昭和六三年二月ころから、L専務に対して被告会社の社内の雰囲気について報告をしていたが、同年三月九日、L専務に対し、原告に被告会社を辞めて欲しいと考えている旨を告げた。これに対して、L専務は、被告丙には人事権はないとの指摘を行った上で、原告に自分の考えを示して十分に話し合うよう述べるとともに、自らは、その翌日の一〇日、被告会社の社員であるMから事情を聴取した。
一方、被告丙は、同一〇日、原告を呼び出し、原告と前記旅行代理店支店長との関係を聞き知っていることや、その関係が終了したことにより同代理店からの広告依頼が被告会社に来なくなったと理解していたことのほか、被告会社と関係のあるスポーツ新聞の記者SやフリーライターTなどの個人名を挙げて、原告がこれらとも交際があり、更には昭和六二年九月ころから被告会社に掛かって来ていた無言電話も原告の男性との交際に絡むものと思われる等述べた上、このままでは被告会社の業務に差支えが生ずるとして、原告に退職を求めた。
しかし、原告は、右のような原告の交遊関係についての噂を流したのは被告丙自身であり、それを理由に辞めさせるなどは筋が違うと反論して、逆に、被告丙に関係者への謝罪を要求した。
さらに、原告は、同月一一日、直接L専務に対しても、被告丙が関係者に謝るように指示してほしい旨訴えたが、L専務は、噂の出所が不明である段階においては、被告丙に謝罪を強いることはできず、二人でよく話合って誤解を解くしかないとの返事をした。なお、L専務は、右のころ、被告丙からも同月一〇日の原告との協議の結果について報告を受けた。
また、原告は、同月一七日ころ、被告代表者にも前同様の救済を求めたが、同人は原告に事態を余り深刻に考えないように述べるに止まった。
なお、原告は、その前後ころ、同月一〇日に被告丙から言われたこと等を、当時の被告会社の社員MやN等のほか、レコード会社社員のX等に相談したところ、被告丙が昭和六二年末ころXの出席した宴席上でスポーツ新聞の記者と男女のいわゆる不倫関係にあると話していたことや、同被告が昭和六三年一月ころ当時被告会社に入社したばかりのNに対して、原告の私生活について否定的評価を行ったことを聞き及んだ。そして、原告の相談を受けた者の中には、このような被告丙の言動に対して否定的な評価を有する者もあった。
11 L専務は、右のころから、被告会社の運営上原告と被告丙との対立を解消させることを特に重視するようになった。そして、同年三月二二日ころ、L専務は、被告代表者を含む被告会社の役員と協議した結果、被告丙に対し、原告と十分話合いをするよう重ねて言った。また、L専務は、原告に諸々の不満があるのは原告の給与が他の会社に比較してかなり低いことにも遠因があると考えて、原告の給与を従来よりも月額二万円上げたりもした。
しかし、原告と被告丙の仲は一向に改善されず、被告会社内では必要事項以外は一切口をきかず、また、調査の結果被告会社に掛かって来ていた無言電話は原告の交際相手の関係者からではないことが判明した等として、原告が被告丙に面談や電話で謝罪を要求する状態であった。
そして、同年四月に入ると、原告と被告丙との対立の結果、「B誌」の編集、発行等にも支障が生じていると直接L専務に訴えるアルバイト学生も出るに至った。L専務及び被告丙は、これらのことから、原告がアルバイト学生等に働きかけて被告会社内部での原告への同調者を募っていると考えるようになった。
以上の結果、L専務は、同月中旬のころには、原告と被告丙とはもはや両立させることが困難ではないかと考えるに至っていた。
12 昭和六三年四月二六日ころ、L専務は、被告代表者に右のような被告会社内の状況について報告した上で今後の対処方法について相談し、同年五月の連休明けまで冷却期間をおいて原告と被告丙とで話し合うよう被告丙に指示したが、両者の関係にはやはり改善が見られなかった。
連休明けの同年五月六日、L専務が被告会社の役員らと相談した際、同役員らから、原告について再度昇給することで解決できないかとの助言もあった。しかし、L専務は、原告だけを同年三月に昇給させたばかりであること等を考慮の上で、昇給はできないと判断し、この助言を採用しなかった。
また、同年五月中旬ころ、被告丙がアルバイト学生を集めて開いた懇親会の費用について、学生からL専務に対し、被告丙が学生から費用を徴収しながら、店から領収書をもらい二重取りしているのではないかとの疑念が出されるということもあった。
さらに、同月二一日には、アルバイト学生からL専務に対し、重ねて、原告と被告丙との対立の結果被告会社の業務運営に支障が生じており、いったん雑誌を廃刊して体制を建て直すことも必要ではないかとの意見が告げられた。
13 L専務は、昭和六三年五月二四日の午前中、被告代表者を含む被告会社役員にそれまでの経過を報告して解決の方策につき意見を求めたが、結局、L専務が原告及び被告丙とそれぞれ会って話し合い、場合によってはいずれかに退職してもらうほかに手段がないという結論になり、被告代表者は、L専務に対し、そうするよう指示した。
そこで、L専務は、その日の午後、双方の話を聞くこととして、まず、原告を呼び、被告丙と妥協する余地はないかとの申入れをしてみたが、原告は、前同様に被告丙の謝罪要求に固執し、同専務に情報提供した被告会社の他の関係者に電話で事情を確認することも要求する状況であった。
このため、L専務は、話し合いがつかないことになれば被告会社を退職してもらうことになる旨述べたところ、原告は、退職する意思を表明した。L専務は、原告が右のような意思表明をしたので、原告との話を打ち切った。そして、次に面談すべく待機させていた被告丙に対し、原告が自ら辞めると言ったことを伝えた上で、これは喧嘩であり両方に責任があるとして、三日間の自宅謹慎を命じ、その後、被告代表者とも相談して、賞与を減俸する処分をした。
14 なお、その後、被告会社は、原告に対し、三か月間の平均給与額で算出した一か月分(但し、昭和六三年五月二一日ないし同月二五日分を日割計算した分を含む。)の給与に功労金の名目で五万円を加えた二一万二一九〇円を支払った。
三 原告の指摘する被告丙の行為の存否について
前項に認定した事実関係を前提にして、以下検討する。
1 第一の事実(被告丙が昭和六一年六月ころアルバイト学生らに原告の異性との交遊関係が派手である旨述べたこと)について
先に認定したとおり、昭和六一年六月当時原告は取引先との付き合いから宴席に加わる機会が多くなっていたところ、被告丙はその供述中で各種の雑談の機会に原告がよく酒を飲みに行くと話したことがあると述べ、また、被告丙としては原告の右態度を必ずしも是認していなかったことも窺われるし、前述の同被告の性向、女性観や、後に認定する第七、第一〇及び第一四の各事実、すなわち、同被告が被告会社女子社員M、N或いはアルバイト学生に対して原告に関し本件事実と同様の女性としてのマイナスの人物評価を行っている事実に照らしても、本件事実程度の発言を行ったであろうことは推測するに難くなく、この点に関する原告の供述は信用できる。
もっとも、アルバイト学生らに伝わった同事実に関する噂の出所が同被告のみであったとも断定はできない。
2 第二の事実(被告丙が昭和六一年八月ころIらに原告とAとの間の異性関係を示唆する発言をしたこと)について
右に認定のとおり、原告はAの紹介で被告会社に入社したのであり、また、証拠(原告本人、被告丙本人)によれば、Aと原告とが以前同じアパートにそれぞれの住居を有していたことや、Aは昭和六一年当時被告会社にしばしば出入りしていたこと、そのため被告丙が原告に「最近Aがよく来るね。原告に気があるのでは。」と話していたことが認められ、これに、被告丙が、後に認定する第六、第八、第九、第一二及び第一五の各事実にも現れているとおり、原告の男女関係について度々言及しており、そのような性向を持っていることや、Iと親しい間柄であったことなどを考えれば、この点に関する原告の供述は信用でき、本件事実、つまり、同被告が原告とAとの関係についての噂を流布したことを推認することができる。
3 第三の事実(被告丙が昭和六一年八月末ころ体調が悪く被告会社のソファーで休んでいた原告に対して「昨夜も遊んだのか。」と言ったこと)について
証拠(原告本人、被告丙本人)によれば、昭和六一年八、九月ころ、原告が通勤中に貧血症状が出て被告会社のソファーで横になって休んでいたことがあったことは認められるが、原告供述以外には、その際に被告丙が第三の事実のような発言をしたことを裏付ける証拠はないから、直ちにこれを認めるのは困難である。
4 第四の事実(被告丙が昭和六一年一一月二〇日ころ被告会社の外部の者との電話での会話で原告が卵巣腫瘍になったことに触れ、その原因が異性関係にあるかのように言ったこと)について
先に認定したとおり、原告は昭和六一年一一月二〇日ころ卵巣腫瘍との診断を受けたが、この点に関連して被告丙が第四の事実のようなことを発言したことを直接裏付ける証拠は原告供述以外にないから、直ちにこれを認めるのには若干躊躇を覚える。
5 第五の事実(被告丙が昭和六二年三月ころ被告会社の取引先の人々に原告がパーテイーの後異性とホテル等へ行ったと述べたこと)について
証拠(原告本人、被告丙本人)によれば、昭和六二年三月ころに原告を含む被告会社関係者が同社の広告主が開店した飲食店の披露パーティーに参加したことは認められるが、この点に関連しても、被告丙が第五の事実のような発言をしたことを裏付ける証拠は原告供述以外にないから、右供述のみで直ちにこれを認めるのは困難である。
6 第六の事実(被告丙が昭和六二年五月ころIやEに対して原告がP係長と特別に親密な関係にあるかのように窺わせる発言をしたこと)について
先に認定したとおり、昭和六二年五月ころには、被告会社の業務の運営がP係長と原告とを中心として行われる状況であったため、被告丙は、疎外感を持っていたし、また、同じころ、仕事に関して自信を喪失し被告会社を辞めようかと思い悩んでいたこと、被告丙自身、その供述中で、原告とP係長とが仕事の上で非常に仲がいいと感じ、右疎外感や悩みから、Iらに対して、「二人はえらい仲がいい。仕事も二人でしている。」との趣旨の愚痴を言ったことがある旨述べていること、原告供述によれば、本件類似の話をアルバイト学生の一人も同被告に聞かされて信じていたと認められることのほかに、認定可能な第二、第八、第九、第一三及び第一五の各事実に現れた被告丙の原告の男女関係に関する発言傾向を考えると、その言葉の一言一句は別として、被告丙が、原告とP係長とが職場の関係以上の関係にある趣旨の発言をしたであろうことが推測され、これに反する被告丙の供述やI証言は信用しない。
7 第七の事実(被告丙が昭和六二年八月七日に新入女子社員に対して原告の異性との交遊関係や日常生活が派手で被告会社よりもむしろいわゆる水商売に向いていると述べたこと)について
被告丙は、その供述中で、当時被告会社に入社したばかりのMに対し、昭和六二年八月七日ころの会社帰りに、原告は酒が好きで取引先との付き合いでよく酒を飲みに行くがMはそのようにする必要はない旨言ったことを自認しており、少なくとも被告丙が右のように自認する範囲で原告の私生活面について批判を行ったことは認められ、また、被告丙は、その供述中の別の部分で、当時から原告の取引先の男性との関係について問題視していた旨を述べていることに照らすと、その発言が原告の異性関係に対する評価にもわたるものであったことは十分に推認できる。
なお、証拠(〈書証番号略〉、証人M、原告本人、被告丙本人)によれば、Mは昭和六二年初めころからアルバイトとして被告会社に出入りし、同社の雰囲気は既に十分に把握していた上、Mの被告会社社内における担当業務は雑誌の体裁を整理する制作事務で、対外的な付き合いは予定されていなかったことが認められるから、被告丙が当時Mに対して右のような発言を行う必要性は特に存しなかったというべきであり、先に認定のとおりの当時の原告と被告丙との関係を考慮すると、被告丙の右発言は原告の評価を下落させる性格のものであったと認めるのが相当である。
8 第八の事実(被告丙が昭和六二年秋ころL専務に対して同年六月以降旅行代理店の広告依頼が途絶えたのは同社支店長と原告との異性関係が終了したことが原因であると報告したこと)について
被告丙は、その供述中で、L専務に対して第八の事実のような報告をしたことを認めている。
ところで、先に認定のとおり、原告と右支店長とは昭和六一年五月から昭和六二年一月まで交際し、その関係は同年五月ころ最終的に解消されたのであり、一方、同旅行代理店の広告は昭和六一年一月から昭和六二年四月までは毎月掲載されたが、その後は同年六月の発注をもって終了している。
被告丙は、その供述中で、昭和六二年秋ころIから原告の右交際について聞かされ、その終了時期が同旅行代理店の広告の終了時期と符号していたため、両事実間に因果関係があるものと考えた旨述べているところ、なるほど右のような推論も成り立たないではないが、かと言って被告丙がL専務に報告したように右事実間に関連が存するものと断言するだけの根拠も十分ではなく、被告丙がこの点を客観的に明らかにしようとした形跡も窺われない。
してみると、被告丙は、専ら推測に立脚してL専務に前述のような報告をしたというべきであるが、これは、被告丙が被告会社においていわゆる管理職にあり、そのような立場の者として部下の取引先との交遊関係についてある程度の注意を払い、適宜上司にも報告することが社会活動として通常みられることを考慮しても、軽率な行動であったとの評価を免れない。
9 第九の事実(被告丙が昭和六二年秋ころL専務に対して原告がスポーツ新聞の記者に対する原稿料の支払やフリーライターからの原稿受領等に関して問題となる行動があったと報告したこと)について
被告丙は、その供述中で、L専務に対して職務遂行上の問題事例として第九の事実のような報告をしたことを認めている。
ところで、原告が実際にスポーツ新聞の記者やフリーライターに対して被告丙が問題視したような行動をとったことを認めるに足りる証拠はなく(かえって、問題の相手とされたスポーツ新聞記者が作成した陳述書である〈書証番号略〉には、この点を明確に否定する部分が存する。)、被告丙自身がその供述中でL専務に報告するに当たり事実関係について調査を行っていないことを述べているのであり、被告丙の報告は専ら自己の主観的判断に基づくものというべきであるが、右報告の内容は事柄の性質上報告を受けた者に原告の異性関係の在り方について否定的な印象を与えるものであること、現にL専務の証言中にも被告丙の報告を右のような印象をもって受け止めた旨述べる部分が存することに照らすと、被告丙の右報告は軽率なものであったとの評価を免れがたい。
10 第一〇の事実(被告丙が昭和六二年夏から秋にかけてのころ被告会社のアルバイト学生に対して原告の異性関係が乱れており、そのために卵巣腫瘍になったと言ったこと)について
原告の主張に添う証拠としては、〈書証番号略〉(当時被告会社のアルバイト学生であったOの陳述書)が存するし、右8及び9に見たとおり、被告丙が右当時原告の異性関係について否定的な評価を有していたことにも照らすと、右証拠は信用することができ、右事実は認められる。
11 第一一(被告丙が昭和六二年夏から秋にかけてのころ原告に対し「遊び好きのくせに。」等の嫌がらせを繰り返し言ったこと)及び第一二(被告丙が昭和六二年一〇月ころL専務らに対して原告の創作した小説について実体験を踏まえたポルノ小説だろうと述べたこと)の各事実について
証拠(〈書証番号略〉、証人M、原告本人)によれば、右各事実を認めるに十分である。
12 第一二の事実(被告丙が昭和六二年末に被告会社の取引先のレコード会社社員に対して原告がいわゆる不倫を行っていると言ったこと)について
被告丙は、その供述中で、昭和六二年の年末に行われた広告主であるレコード会社の社員Xらの出席した宴席で話題がいわゆる男女関係に及んだ際に、被告丙の知り合いにも妻子ある男性といわゆる不倫の関係を持った経験者がいるとの趣旨の話をしたことは自認しているところ、被告丙は、右の際に話題の対象とされた人物については特に明言せず、それが原告と分からないように話をしたと述べるが、前認定のとおり、被告丙は右のころまでに原告の右男女関係を聞き知っていたほか、他の男性との交遊関係についても問題視していたのであり、右事実によれば、被告丙は右の際に聞いている者をして話題の対象とされた人物が原告であると推知し得るような言い方で話をしたことが推認でき、第一三の事実は認められる。
13 第一四の事実(被告丙が昭和六三年一月に新たに被告会社に出向して来た女子社員に対していわゆる異性関係を含む原告の私生活について否定的評価をする発言をしたこと)について
先に認定のとおり、原告は昭和六三年三月ころNから右事実について聞き及んだのであるが、被告丙が右発言をしたとされる同年一月ころには、被告丙が既に原告に対して転職を勧めたこともあって、両者の仲は事務的なこと以外は口をきかないほど悪化し、被告丙はやがて原告の退職を積極的に強く希望するほどの心境になっていたのであり、また、被告丙は昭和六二年八月ころMに対しても類似のことを言っていること(第七の事実)にも照らせば、第一四の事実は認められる。
14 第一五の事実(被告丙が昭和六三年三月一〇日に原告のいわゆる異性関係に言及しつつ被告会社からの退職を求めたこと)について
先に認定のとおり、被告丙は、原告と旅行代理店支店長とのいわゆる不倫関係を聞き知っていたことや、その関係が終了したことにより同旅行代理店からの広告依頼が被告会社に来なくなったと理解していたし、また、原告がスポーツ新聞の記者と男女関係があったと思い込んでいたこと、同被告は本件の前日の同月九日にL専務に対して原告にはいわゆる引き抜きの話があるし自分との仕事関係もうまく行っていないので一言言ってみると話し、L専務も原告と話をするよう指示したこと(この事実から、同被告は、当初から退職を勧める心づもりで同月一〇日に原告と協議したことが窺われる。)、そこで、同被告は、原告に対し、原告がスポーツ新聞の記者やフリーライターとも交際があり、更には当時被告会社に掛かって来ていた無言電話も原告の異性関係に絡むものと思われると述べた上、このままでは被告会社の業務に差支えが生ずる旨言って、原告に退職を求めたことから、第一五の事実も概ね認められる。
四 被告丙の不法行為責任について
1 被告丙が、被告会社の職場又は被告会社の社外ではあるが職務に関連する場において、原告又は職場の関係者に対し、原告の個人的な性生活や性向を窺わせる事項について発言を行い、その結果、原告を職場に居づらくさせる状況を作り出し、しかも、右状況の出現について意図していたか、又は少なくとも予見していた場合には、それは、原告の人格を損なってその感情を害し、原告にとって働きやすい職場環境のなかで働く利益を害するものであるから、同被告は原告に対して民法七〇九条の不法行為責任を負うものと解するべきことはもとよりである。
2 右二及び三に認定したところによれば、被告丙は、原告が編集その他の被告会社の業務にその能力を顕し、また、関係取引先からも声が掛かることが多くなった昭和六一年六月ころから、被告会社の内外の関係者らに原告の男女関係や被告会社外での私生活を窺わせその評価を落とすような発言をし(第一及び第二の各事実)、また、同被告が入院してP係長が被告会社に出向してきた同年一二月以降は、一応被告会社の編集長という立場にあるものの、実際の業務の運営はP係長と原告とのラインで方針が決定されることが多くなって疎外感を持ち、加えて自らは被告会社の幹部から業績不振の責任を問われる状況の中で、P係長と原告とが職場関係以上の関係にあるかのような悪評を被告会社関係者に述べたり(第六の事実)、新たに被告会社の社員となったMに対して原告の異性との交遊関係や日常生活について評価を下落させるような発言をするなどし(第七の事実)、その後、P係長に代わってL専務が被告会社に入社して被告丙を業務運営の中心に据えた結果、同専務と被告丙との業務ラインが形成された後は、事実関係を十分に確認することなく、同専務に対し、原告の異性関係に伴って被告会社の収入基礎に影響が生じたこと(第八の事実)や、原告の取引先の男性との職務上の問題行動を報告することによって原告の異性関係を否定的に印象付ける言動をとったりし(第九の事実)、また、被告会社のアルバイト学生らに対して原告の異性関係等について否定的評価を行う発言をし(第一〇の事実)、被告会社の取引先の社員にも原告の異性との交遊関係を明らかにする発言をし(第一三の事実)、原告自身に対してもその異性との交遊関係をやゆするような発言をした(第一一及び第一二の各事実)ものであり、さらに、昭和六二年一二月ころに原告にいわゆる引き抜きの話があると知って転職を勧めたのを契機に原告との関係が悪化した後も、被告会社の新入社員に対して異性関係を含む原告の私生活について否定的評価をする発言をし(第一四の事実)、昭和六三年三月一〇日には原告の異性関係が被告会社の運営に支障を生じさせるとして退職を求めるに至っている(第一五の事実)のである。そして、被告丙が右退職要求の根拠として挙げた事情が、客観的裏付けを欠くことも、既に認定説示したところから明らかである。
右のような被告丙の一連の行動は、まとめてみると、一つは、被告会社の社内の関係者に原告の私生活ことに異性関係に言及してそれが乱脈であるかのようにその性向を非難する発言をして働く女性としての評価を低下させた行為(第一、第七、第一〇、第一二ないし第一四の各事実)、二つは、原告の異性関係者の個人名を具体的に挙げて(特に、それらの者はすべて被告会社の関係者であった。)、被告会社の内外の関係者に噂するなどし、原告に対する評価を低下させた行為(第二、第六、第八及び第九の各事実)であって、直接原告に対してその私生活の在り方をやゆする行為(第一一の事実)と併せて、いずれも異性関係等の原告の個人的性生活をめぐるもので、働く女性としての原告の評価を低下させる行為であり、しかも、これらを上司であるL専務に真実であるかのように報告することによって、最終的には原告を被告会社から退職せしめる結果にまで及んでいる。これらが、原告の意思に反し、その名誉感情その他の人格権を害するものであることは言うまでもない。また、被告丙が原告に対して昭和六三年三月にした退職要求の後原告と被告丙との対立が激化してアルバイト学生からもL専務に職場環境が悪いとの指摘が出されるほどになった等からも明らかなように、右の一連の行為は、原告の職場環境を悪化させる原因を構成するものともなったのである。そして、被告丙としては、前記の一連の行為により右のような結果を招くであろうことは、十分に予見し得たものと言うべきである。
もっとも、原告の職場環境の悪化の原因となったのは、必ずしも被告丙の右一連の言動のみによるものではなく、自己の能力や同被告の無責任さを意識して同被告をライバル視し、被告会社の内外関係者を影響下に入れてその業務の中心となることを目論んだとも窺われる原告の姿勢、言動、気性(証人I、同L、原告本人、被告丙本人)なども寄与して生じた原告と同被告との対立関係にも大いに起因するものであり、本件について判断するに際しては、このような事情も十分考慮に入れるべきである。そして、このような状況の中では、相互に多少の中傷や誹謗が行われることはやむを得ないこととも考えられなくはない。しかしながら、現代社会の中における働く女性の地位や職場管理層を占める男性の間での女性観等に鑑みれば、本件においては、原告の異性関係を中心とした私生活に関する非難等が対立関係の解決や相手方放逐の手段ないしは方途として用いられたことに、その不法行為性を認めざるを得ない。
3 してみると、被告丙は、前記一連の行為について、原告に対し、不法行為責任を負うことを免れ難い。
五 被告会社の責任について
1 被告丙の行為についての使用者責任
前記四に認定したとおり、被告丙の原告に対する一連の行為は原告の職場の上司としての立場からの職務の一環又はこれに関連するものとしてされたもので、その対象者も、原告本人のほかは、同被告の上司、部下に該たる社員やアルバイト学生又は被告会社の取引先の社員であるから、右一連の行為は、被告会社の「事業の執行に付き」行われたものと認められ、被告会社は被告丙の使用者として不法行為責任を負うことを免れない。
2 L専務らの行為についての使用者責任
原告は、L専務らの行為について被告丙との共同不法行為が成立し、被告会社はこの点についても使用者責任を負うと主張するので、以下に検討する。
(一) 使用者は、被用者との関係において社会通念上伴う義務として、被用者が労務に服する過程で生命及び健康を害しないよう職場環境等につき配慮すべき注意義務を負うが、そのほかにも、労務遂行に関連して被用者の人格的尊厳を侵しその労務提供に重大な支障を来す事由が発生することを防ぎ、又はこれに適切に対処して、職場が被用者にとって働きやすい環境を保つよう配慮する注意義務もあると解されるところ、被用者を選任監督する立場にある者が右注意義務を怠った場合には、右の立場にある者に被用者に対する不法行為が成立することがあり、使用者も民法七一五条により不法行為責任を負うことがあると解すべきである。
(二) 先に認定のとおり、L専務は、代表権はないものの被告会社の実質上の最高責任者の地位にあったし、被告代表者は、文字どおり代表取締役であるから、いずれも原告の上司として、その職場環境を良好に調整すべき義務を負う立場にあったものといえる。
ところで、先に認定のように、L専務は、昭和六二年八月に被告会社に入社後間もなく被告丙から原告の異性関係などについて報告を受け(第八及び第九の各事実)、また、同年一二月に被告丙が原告に転職を勧めたのを契機に原告と被告丙との関係が悪化して来たことについて昭和六三年二月ころには被告丙から報告を受けていた。さらに、同年三月一〇日に被告丙が原告に退職を要求した際(第一五の事実)には、その前日に被告丙からそうする意向を伝えられ、事後にもそうした旨の報告を受けたほか、そのころ自らも被告会社社員のMから事情を聞いており、その後原告本人からも被告丙の行為について問題を訴えられていたのである。
そして、被告代表者も、L専務から問題の報告を受けていたほか、直接原告からも問題を訴えられていたのである。
このように、L専務らは、原告と被告丙との間の確執の存在を十分に認識し、これが職場環境に悪影響を及ぼしていることを熟知していながら、これをあくまで個人間の問題として把え、同年三月に原告について昇給措置を行った以外は、両者の話合いによる解決を指示するに止まった。そして、被告会社の役員らは、両者間の任意の調整が成立する見込みがないと判断すると、最終的には右両者のいずれかを退職させる方針で臨み、被告代表者の指示に従って、L専務が、同年五月二四日、まず原告と面談して被告丙との話合いがつかなければ退職してもらうしかない旨話したところ、原告はこれを受けて退職する意思を表明したというのである。
(三) 以上の経過によれば、L専務らに被告会社の職場環境を調整しようとの姿勢は一応見られ、その対処もあながち不当とまでは断言できないけれども、原告と被告丙との対立の主たる原因となったのが、前記のような原告の異性関係等に関する被告丙の一方的な理解及びこれに基づく同被告の原告に対する退職要求等であった点については、正しく認識していたとは言い難い。そして、問題を専ら原告と被告丙との個人的な対立と見て、両者の話合いを促すことを対処の中心とし、これが不調に終わると、いずれかを被告会社から退職させることもやむを得ないとの方針を予め定めた上で、L専務により両者の妥協の最後の余地を探ったものである。このように、L専務らは、早期に事実関係を確認する等して問題の性質に見合った他の適切な職場環境調整の方途を探り、いずれかの退職という最悪の事態の発生を極力回避する方向で努力することに十分でないところがあったということができる。また、L専務が昭和六三年五月二四日に原告と面談した際にも、当初から判然と意識的に原告のみを退職させて問題を解決しようとの心づもりであったとまでは断定し難いが、L専務は、双方面談の予定をまず先に原告から面談し、その話合いの経緯から退職以外には被告丙との対立関係の解消方法がない状況となって原告がやむなく退職を口にするや、これを引き止めるでもなく直ちに話合いを打ち切り、次に面談する予定で待機させていた被告丙に対しては、解決策については特段の話合いは何もせず、原告が退職することを告げた上で三日間の自宅謹慎を命じたに止まったというのであり、このようなL専務の処理の経過や結果から見るとき、同専務らは、原告の退職をもってよしとし、これによって問題の解決を図る心情を持ってことの処理に臨んだものと推察されてもやむを得ないものと思われる(このことは、右に前後して、L専務が原告に対して「被告丙を一人前の男に仕立て上げねばならない。」、「原告が有能であることは分かっているが、男を立てることもしなければならない。」趣旨の発言をしていることからも窺われる。)。
そして、L専務らは、原告と被告丙との関係悪化が現れた早期の段階から、主として被告丙を通じて事情を認識しており、その行為について同被告の行為との関連性も認められる。
(四) 以上のとおり、L専務らの行為についても、職場環境を調整するよう配慮する義務を怠り、また、憲法や関係法令上雇用関係において男女を平等に取り扱うべきであるにもかかわらず、主として女性である原告の譲歩、犠牲において職場関係を調整しようとした点において不法行為性が認められるから、被告会社は、右不法行為についても、使用者責任を負うものというべきである。
六 原告の受けた損害
1 前記認定の経緯、ことに、原告は、被告丙の原告の異性関係等私生活についての一方的理解や他の者への原告の異性関係等に関する噂の流布などから、同被告と職場内で対立し、その上で被告会社からの退職を求められ、これが原因となって結局被告会社を退職するに至ったこと、働く女性にとって異性関係や性的関係をめぐる私生活上の性向についての噂や悪評を流布されることは、その職場において異端視され、精神的負担となり、心情の不安定ひいては勤労意欲の低下をもたらし、果ては職を失うに至るという結果を招来させるものであって、本件もこれに似た経緯にあり、原告は生きがいを感じて打ち込んでいた職場を失ったこと、本件の被侵害利益が女性としての尊厳や性的平等につながる人格権に関わるものであることなどに鑑みると、その違法性の程度は軽視し得るものではなく、原告が被告らの行為により被った精神的苦痛は相当なものであったと窺われる。
しかし、他方、原告も、被告丙から退職要求を受けた後、立腹して、被告丙等に原告及び原告との交際があるとされた関係者に謝罪することを強く求め、また、ことごとに対決姿勢を堅持し、被告丙と冷静に協議していく姿勢に欠けるところがあったこと、さらには、相互の能力をかれこれ対比して、被告会社内における編集業務における主導的地位をめぐって係争する姿勢を保持するなど、被告丙に対するライバル意識を強く持ち、アルバイト学生や被告会社関係者を巻き込むなどして自ら派閥的な行動をとり、時には逆に被告丙に対して攻撃的な行動に出るに及んだことなどが、両者の対立を激化させる一端となったことも認められ、また、原告の異性関係についてその一部は原告自ら他人に話したことも認められる。
これらの事情や、その他前認定に現れた諸般の事情を考慮すれば、原告の精神的損害に対する慰謝料の額は、一五〇万円をもって相当と認める。
2 前記不法行為と相当因果関係のある損害として認められる弁護士費用は、事案の難易、請求額、認容額その諸事情を斟酌すれと、一五万円をもって相当と認める。
七 結論
よって、原告の請求は、被告丙及び被告株式会社乙に対し、不法行為による損害賠償請求権に基づき、連帯して、損害賠償金一六五万円及びうち慰謝料に相当する一五〇万円に対する本件の最終の不法行為の日(原告とL専務とが最終的な協議をした日)の翌日である昭和六三年五月二五日から、うち弁護士費用に相当する一五万円に対する各被告に本件訴状が送達された日の翌日である平成元年八月一三日から、各支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるから認容し、その余は失当として棄却することとし、訴訟費用の負担について民訴法八九条、九二条本文、九三条一項ただし書を、仮執行の宣言及びその免脱の宣言について同法一九六条一項及び三項をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官川本隆 裁判官八木一洋 裁判官佐々木信俊は、転補につき、署名捺印することができない。裁判長裁判官川本隆)
++解説
《解 説》
一 本件は、いわゆるセクシャル・ハラスメントの法理につき初の本格的な司法判断が示された事例として、注目を集めたものである。
二 裁判所の認定した事実関係の概要は、以下のとおりである。
原告は、昭和六〇年一二月に、学生向けの情報雑誌の発行等を業務としていた被告会社乙に入社し、その後同社の編集長である被告丙の下で、雑誌の作成等に携わっていた独身女性であった。原告は、入社後間もない時期から、雑誌の編集等の事務において重要な役割を果たすようになっていたが、被告丙は、女性である原告が宴会に出席するなど仕事上の対外関係で積極的に活動することを必ずしも快く考えていなかった。原告が入社して一年ほど経ったころには、原告が編集等の事務において中心的な役割を担うようになり、一方、被告丙は、被告会社の幹部から業績不振の責任を問われたりして、退職すら考える状況になっていた。このような中で、被告丙は、被告会社のアルバイト学生等に対し、原告の異性との交遊関係が派手であるといった、原告の社会的評価にとっては不利益な発言を繰り返していた。
ところで、昭和六二年八月に、被告会社の経営建て直しのためにL専務が被告会社に入社し、その方策の一環として被告丙を業務運営の中心に据えることとした結果、被告丙は仕事上の自信を取り戻したが、被告丙は、L専務に対し、同年六月ころ被告会社の取引の一つが途絶えたのは原告がその取引先の担当者と結んでいた男女関係のもつれが原因であるといった報告を、事実関係を充分確認することなく行ったりした。
このような中で、被告丙は、同年暮れ、原告に他社からいわゆる引き抜きの話が来ていると聞いて、原告に転職を勧めたが、これを契機に、原告と被告丙との関係は悪化していった。そして、被告丙は、このままでは被告会社の業務にも支障が生じかねないと考えて、予めL専務にも相談の上、昭和六三年三月、原告に対し、原告と取引先の男性との関係に問題が見られるといった指摘をして、原告に退職するよう求めた。原告は、被告丙の発言を不服とし、L専務や被告会社の代表者に対して被告丙に謝罪させるよう求めたりしたが、L専務らは、原告と被告丙とでよく話し合うようにとの対応を行った。
この間、原告と被告丙との関係は極めて悪化し、被告会社のアルバイト学生からL専務に対して両者の対立の結果被告会社の業務にも支障が生じているとの指摘が行われるほどとなった。このため、L専務は、予め被告会社の幹部と相談し、最悪の場合には原告か被告丙かに退職してもらうしかないとの方針を定めた上で、同年五月、原告と面談し、原告と被告丙との妥協の余地を探る最後の調整を行った。しかしながら、原告が依然として被告丙の謝罪を強く求めたため、L専務が、話合いがつかないことになると被告会社を退職してもらうことになると述べたところ、原告は、退職する意思を表明した。そこで、L専務は、原告との協議を終了し、続いて面談すべく待機させていた被告丙には、電話で三日間の自宅謹慎を命じたが、面談は行わなかった。
以上のような経緯を経て、原告は、同月、被告会社を退職した。
三 裁判所は、以下のような理由により、被告丙及び被告会社の不法行為責任を求めた。
まず、被告丙については、被告会社内外の関係者に対し、原告の私生活、ことに異性との交遊関係に関してそれが乱脈であるかのように原告の性向を非難する発言をしたり、個人名を挙げて原告の異性との交遊関係に関する噂を流したりして原告の働く女性としての評価を下げさせ、原告をめぐる職場環境を悪化させて、最終的には原告が被告会社から退職するという結果を生じさせたとして、民法七〇九条に基づく不法行為責任を認めた。なお、この判断を示すに当たり、裁判所は、原告の職場環境を悪化させた原因として、原告側にも被告会社の業務上の主導権を得ようとして対立関係を増大させたとの事情が存することを指摘し、このような状況下では相互に多少の中傷等が行われることはやむを得ないとも考えられるとしつつも、現代社会における働く女性の地位や職場管理層を占める男性の間での女性観等に言及して、被告丙が原告との対立関係に対処するに当たり原告の異性との交遊関係を中心とした私生活に関する非難等を手段ないしは方途として用いたことを重視している。
次に、被告会社については、被告丙の行為の被告会社の業務との関連性を肯定して、これについての民法七一五条による使用者責任を認めるとともに、L専務ら被告会社のいわゆる管理職の対応についても、使用者には、被用者の労務遂行に関連して、被用者の人格的尊厳を侵しその労務提供に重大な支障を来す事由が生ずることがないように、職場が被用者にとって働きやすい環境を保つよう配慮する注意義務が存するとの一般論を展開した上で、L専務らには、職場環境を調整しようとした姿勢は一応見られるものの、原告と被告丙との対立の主因が被告丙の原告の私生活等に対する一方的な理解等に存することを正しく認識していたとはいえず、両者の話合いを促すことを対処の中心とし、結局は主として女性である原告の譲歩、犠牲において職場関係を調整しようとしたのであり、早期に事実関係を確認する等して問題の性質に見合った適切な職場環境調整の方途を探り、退職という最悪の事態の発生を極力回避する方向で努力することに十分でないところがあったとして、やはり使用者責任を認めている。
もっとも、具体的慰謝料額の算定に当たっては、原告側の行動にも問題が見られたことを指摘して、請求額(弁護士費用を除き三〇〇万円)の約半額のみ認めている。
四 いわゆるセクシャル・ハラスメントの法理は、アメリカ公民権法第七編の適用上発達した法概念であり、同国においては既に相当多数の判例が見られ、これらに立脚して雇用機会均等委員会(EEOC)によるガイドラインの作成も行われているが(奥山「アメリカに見る労働環境と性差別―性的いやがらせと公民権法第七編」本誌五二三号一八頁、同「セクシャル・ハラスメントと違法性判断の基準―アメリカにおける最近の状況を中心に」ジュリ九五六号五一頁等参照)、我が国においても最近関心が高まっており、議論が深まりつつある(労旬一二二八号、ジュリ九五六号の特集記事等参照)。
本件において、原告は、アメリカ公民権法上発達した法理を基礎に、これを我が国の不法行為法等に適用した主張を展開し、セクシャル・ハラスメントの意味について、職場で行われる相手方の意思に反する性的言動であって、労働環境や労働条件に悪影響を与えるような行為をいうとした上で、これには、代償型(対価型)(上司が部下の女性に対して労働条件を盾にとって性的行為を要求するような行為)と、環境型(一見明白には被害者の経済的不利益を伴わないが、ある種の発言や動作を繰り返すことにより職場環境を悪化させ、被害者にその職場に居づらくさせるような行為)とがあり、いずれも性的自己決定の自由等のプライバシーを含む人格権を侵害すると同時に、働く権利を侵害し、ひいては生存権をも脅かすものであるとし、被告丙の行為は環境型のセクシャル・ハラスメントに該当すると主張した。また、雇用者(使用者)に関しても、被用者のセクシャル・ハラスメントを受けずに職場で働く権利の保障のためにあらゆる措置を採る職場環境調整義務を負うと主張した。
本判決は、その説示において、セクシャル・ハラスメントの語は用いておらず、原告の主張に見られるような一般論も展開していないが、事案の事実関係に則しつつ、その実質的な内容においては原告の主張する考え方に近い判断を示している。
いわゆるセクシャル・ハラスメントの法理に関連しては、本件に先立ってその考え方を採り入れた判決も一件紹介されているが(静岡地沼津支判平2・12・20本誌七四五号二三八頁。ただし、具体的事案においては、被告側の不出頭によりいわゆる欠席判決として処理された。)、この判決に現れた事例が直接の加害者を相手方とするいわゆる代償型(対価型)のセクシャル・ハラスメントに関するものであったのに対し、本判決は、いわゆる環境型のセクシャル・ハラスメントに関するもので、しかも、使用者の責任についてまで踏み込んでいる点で、注目に値しよう。
もっとも、本判決は、あくまで事案の具体的な事実関係に則して判断するとの論理展開を示しており、今後本判決の示した考え方が受け入れられるとしても、個々の場面における注意義務のあり方の詳細については、一層の議論の積み重ねが必要とされよう。
五 なお、原告は、本件訴訟手続で尋問された証人の証言等について、その内容は事案とは何ら関連性がない原告の私生活に関するものであり、本件のようないわゆるセクシャル・ハラスメントが問題とされている訴訟においては、証拠調べを通じての右のような事実の開示自体が新たなセクシャル・ハラスメントともなりかねず、原告のプライバシーが更に回復不能に侵害されるとして、証拠からの排除を求めたが、裁判所は、問題とされた証拠の事案との関連性を肯定し、虚偽が混入するかもしれないとの点については裁判所の適切な証拠評価により補えるとして、証拠から排除することはしなかった。
原告の主張は、アメリカにおけるセクシャル・ハラスメント訴訟において被害者の私生活に関する事実がいたずらに暴露されることを防止するための証拠制限に関する訴訟手続法理が形成されていること(このような例として、カリフォルニア民事訴訟法二〇一七条及び同証拠法一一〇六条の存在が知られている。)を反映したものである。本判決は、結論としては原告の主張を採用しなかったが、一般論としても原告主張のような考え方は成り立たないとまで判断しているわけではなく、いわゆるセクシャル・ハラスメントの法理に関する議論の一論点として、今後の研究の進展が期待される。
b)民事上の救済
・業務関連性が必要!
・+判例(京都地判H9.4.17)京都セクシャル・ハラスメント呉服販売会社事件
+判例(静岡沼津支判H11.2.26)沼津セクハラ(F鉄道土木工業事件)
+判例(津地判H9.11.5)三重セクシャル・ハラスメント(厚生農協連合会)事件
要旨
被告Y2(原告Xらの男性上司・副主任)は日勤中に、原告X1、X2(女性・看護師、准看護師)らとすれ違う際、Xらの尻を撫でるように触り性的発言を行った。またY2は、夜勤中の休憩室でも、Xらに対して同様の行為を行っていたが、その際XらはY2の手を払いのけるなどして詰所に逃げていた。
これら行為の数日後、X2はA主任に対し、Y2との深夜勤はやりたくないと申し入れたが、Aは何も答えず、その理由も聞かなかった。その後もY2はX2に対して同様の行為を繰り返したため、X2は再びAに対し、深夜勤の際のY2の行動を何とかして欲しいと訴えたが、AはX2の話になかなか耳を傾けず、最終的には何とかすると答えたものの、AはB師長に報告しなかった。
そこでX2は後日、Aに対してY2への対処を申し入れたが、Aは今日一日だけ待ってくれと回答するに止まった。X2はさらにBに対して、Y2の行為について訴えたところ、B、C院長、D事務長らは、Y2や他の看護師らから事情聴取を行い、Xらが所属する病棟に勤務する者も交えて話し合いの場を持った。
この事件のE病院は、経営主体である被告厚生農協連合会Y1に話し合いの結果を報告し、Y1はY2を就業規則に基づいて懲戒処分に処すると共に、副主任の任を解いた。Y2はY1に対して反省の誓約書を提出し、Y1はX1に対して、事務長・師長連名の謝罪書を提出した。なお、以上の経緯においては、勤務表を変更してXらを夜勤から外し、その後はXらとY2が夜勤で一緒に組むことのないように勤務表を作成している。
以上の事実に基づき、XらはY2に対しては違法行為、Y1に対しては違法行為及び契約違反を理由に損害賠償(330万円)の支払いを求めて訴えを起こした。
被告Y2の行為は違法な環境型セクシュアル・ハラスメント(以下、S.H.)行為に当たる。会社は従業員に対して労働契約の義務の一つとして、労働者にとり働きやすい職場環境を保つよう配慮すべき義務を負っている。Y2には従前から、日常勤務中、特に卑猥な言動が認められたが、Y1はY2に対して何も注意をしなかった。AはX2からY2と夜勤をやりたくないと聞きながらも、その理由すら尋ねず何ら対応策を取らなかった。AはX2から休憩室でのY2の行為を聞いたにも拘わらず、直ちにB師長らに伝えようとせず、Y2に注意することもしなかった。これらの結果、夜勤中、Y2のX1に対する休憩室での行為が行われた。したがってY1は、Xらに対して負っている働きやすい職場環境を保つよう配慮すべき義務を怠り、その結果Y2の休憩室での行為を招いたと認められるから、Xらに対して労働契約に基づく義務違反の法的責任を負う。
←これは債務不履行責任で攻めてる。
c)均等法上の取扱い
d)業務災害の認定
(2)職場でのいじめ、ハラスメント
+判例(広島高松江支判H21.5.22)三洋電気コンシューマエレクトロニクス事件
+判例(東京地八王子支判H2.2.1)東芝府中工場事件
+判例(名古屋地判H17.4.27)U福祉会事件
+判例(東京高判H15.3.25)川崎市水道局いじめ自殺事件
+判例(東京地判H19.10.15)国・静岡労基署長日研化学事件
第3 当裁判所の判断
1 認定事実
前記争いのない事実等に加え,証拠(それぞれの項目の括弧内に掲記したもの)及び弁論の全趣旨によれば,以下の事実が認められる。
(1)F係長について(〈証拠略〉,証人K,同N,原告本人)
ア 経歴
F係長は,昭和49年2月に本件会社に入社し,以来,MRとして,大阪支店,名古屋支店勤務を経て,平成8年4月に東京支店立川営業所2係長になり,部下のMRの上司としての立場に就いた。その後,名古屋支店医専課1係長を経て,平成14年4月に静岡営業所静岡2係長になった。その異動を命じられた際,F係長は,M支店長から,営業成績のよくない静岡2係の体質改善のために行ってもらう旨言われた。
イ 他者から見たF係長の印象等
F係長は,上司からも部下からも,その性格に関する評価は一致している。単純で一途な性格であり,相手の言うことを最後まで聞かず,大きな声で一方的に,しかも相手の性格や言い方等に気を配ることなく上司にも部下にも傍若無人にしゃべることから,癖が強いという印象を持たれ,損をしている。仕事でも一生懸命であり,営業職としての業績は順調であるが,一つのことにのめり込んでしまう傾向もある。ただし,害意をもって,人をいじめたりするような性格ではない。
部下との間では,ものの言い方から口論になる等,衝突することが多かった。言い返すような性格の部下であればともかく,そうでない者にとっては,きつく感じ,傷つく可能性がある。また,前後を考えないで決めつけたようなものの言い方をし,個人攻撃にわたることもあった。自分の仕事はよくできるものの,部下に対する指導の面において,どうすれば解決できるかという建設的な方向性ではなく,直截なものの言い方で単に状況だけをとらえて否定的な発言をするとも受け取られる面があるため,相談を持ちかけにくく,部下や若い人からは,人気がなかった。
F係長は,太郎死亡後の告別式で,太郎の遺族に対し,太郎のふけや喫煙による口臭がひどく,太郎に対し,肩にフケがベターと付いていて,お前病気と違うかと言ったことがある旨告げたほか,営業先で医師等と意思疎通をしようとしないし,できなかったことを指摘した。また,F係長は,太郎の死後,静岡営業所の従業員の前で,太郎のことを,仕事ができない,していないと言った上で,ふけのことを取り上げて悪く言ったことがあった。
(2)静岡2係の勤務形態(争いのない事実等,〈証拠略〉)
静岡2係は,F係長,太郎及びIの3名のMRで構成されていた。この係のMRは,自宅と営業先(静岡県東部における大規模病院等)との間を直行直帰するのが基本的な業務形態であった。同係のMRは,その席が静岡営業所にあり,毎週月曜日の午前中に,MR活動報告書の提出と営業に関する打合せを行い,月に1回程度,静岡営業所での営業会議に出席するほかは,週に1~2回程度,不定期にファミリーレストラン等に集合して打合せを行ったり,依頼して営業先に同行してもらう等,必要に応じて顔を合わせる以外に日常的な接点はなかった。
(3)F係長と太郎との関係(〈証拠略〉)
ア F係長は,平成14年4月に静岡2係長として着任後約半年間は,前任の係長から引き継いだMR業務の担当地域について把握することを最優先とし,部下の業務に関しては,口を出さないようにしていた。
イ F係長は,太郎に接する機会に,営業担当者でありながら,背広に汗がにじんでいるのに替えないこと,背広にふけが付いていること,喫煙による口臭がすることを見かねて注意したことがある。これらの点につき太郎が何度注意しても改めないため,家の者がなぜ気が付かないのかと言ったこともあった。また,太郎が毎日同じ靴しか履いていないこと,季節に関わりなく1年中ほぼ同じ背広を着続け,夏などズボンに汗がにじんでもそのままにしていることも注意した。
平成14年11月ころから,従前静岡2係のMRは同じ自動車で静岡営業所に行っていたのを改めて,別々に行くことになった。
ウ 太郎の担当地域で新製品の採用が不振であることについて,太郎は,担当の病院の薬局長や医師に難しい人が多いと言うことが多かった。F係長は,平成14年9月,太郎の求めにより,初めて太郎が担当する病院への訪問に同行したが,その際,F係長は,太郎が病院の医師の顔や名前を知らないことを不審に感じた。また,F係長は,同行して様子を見たいと考え,同年12月3日,太郎がB市立病院を訪問するのに同行した。この際,F係長は,太郎から難しい人だと聞かされていた薬局長が至極普通の人物に見えたこと,太郎が既に5年以上の訪問実績があるのに,出会った大勢の医師の中に知った者がいなかったことに驚いた。F係長は,この機会に本件会社の新製品の説明をして回り,同月16日に病院内で新製品の説明会を開催する予定を立てることができた。F係長は,帰りがけに,営業の仕方について指導するとともに,医師らに説明会に参加してもらうため挨拶して回るよう指示した。また,新入社員でもないのに医師と情報交換ができないのかとの思いから,「お前,対人恐怖症やろ。」と述べた。F係長は,同月9日,月曜日の静岡営業所での打合せで,太郎に対し,その後B市立病院に行ったかどうかを尋ねたところ,太郎はその後同病院に行っていないと答え,もう一回同行することを求めてきたので,情けないという思いを持った。
エ 平成14年12月9日の夜,静岡営業所の忘年会において,F係長は,太郎に対し,長い間B市立病院を担当していたはずなのに,医師の顔もわからないという状況を変えよう,自分が時間をやりくりして同行して,やり方を一から教えているのに,教えられたとおり実践する気持ちがないのでは話にならないという考えから,酒の勢いもあって,病院の訪問をせずに給料を取るのは給料泥棒だ,病院を回っていないならばガソリンが無駄だといった言い方で叱責した。それに対して,太郎は,病院の回り方がわからなくなった旨の反応をしたので,F係長は,太郎の逃避的な態度に立腹し,「病院の回り方がわからないのか,何年回っているんだ,そんなことまで言わなければならないのか,勘弁してよ。」等の発言をした。
同席していた静岡1係のOは,太郎とF係長とのやり取りの様子を目にして,太郎が辛そうにしているとの印象を抱いた。
(4)太郎のF係長に関する発言等(〈証拠略〉,原告本人)
ア 太郎は,F係長が着任した平成14年4月ころ,原告からその人柄を尋ねられ,他人に厳しい人であることを話した。また,Oに対し,同年6,7月ころ,F係長の下が厳しいと話し,同年夏ころには,F係長は話を聞いてくれず,人間的に合わないと話していた。
また,同年秋ころ,太郎は,母と電話で会話した際,ちょっと上司が難しく,やりにくい旨話した。
イ 太郎は,平成14年12月15日,Gに対し,「今年は私が転勤しそうです。私がいたらないのがいけないんでしょうが,Fさんと合わないんで飛ばされそうです。」との内容のメールを送信した。また,Gは,個人的に太郎との間でメールのやりとりをした際,太郎が,F係長から「ガソリンの無駄だからあまり動くな。」とか「給料泥棒。」と言われ,辛い思いをしているという内容のメールを受け取ったことがある。
ウ 太郎は,平成15年2月18日,19日の名古屋支店での研修に参加した際,名古屋支店の同僚であるPから,F係長とうまくいってないのではないかと尋ねられ,肯定する答えをした。
(5)太郎による遺書の作成とその内容(〈証拠略〉)
太郎は,自殺をした際,8通の遺書を残した。名宛人は,K所長,I,F係長,原告,長男,二男,太郎の両親と妹及び原告の両親であった。太郎が遺書の作成に着手したのは,上司と同僚を名宛人とするものは平成15年1月13日,家族を名宛人とするものは同月17日であった。そして,文書ファイルの最終更新日時は,原告の両親宛のものが同月17日,長男宛のものが同年2月26日であるほかは,いずれも太郎の自殺直前の同年3月7日未明であった。
これらの遺書の内容は,全体として極めて自罰的な語調であり,仕事の面において,自分が能力が足りず,欠点だらけであることを嘆き,転職をするだけの気力が失われ,自殺するほかはないという内容のものである。そして,その文中には,「もう頑張れなくなりました。」「疲れました。」といった文言や,「申し訳ありません。」「すみません。」「ごめんなさい。」等の謝罪の文言が繰り返され,自分について「欠点だらけ」の「腐った欠陥品」と表現する等極度の自虐的な表現も複数認められる等,抑うつ気分,易疲労性,悲観的思考,自信の喪失,罪責感と無価値感が表れた内容,表現がある。
K所長に宛てた遺書の中には,自分の先輩達が築いた財産をつぶしてすみませんでしたという記述がある。また,F係長に宛てた遺書中には,F係長から受けた発言が多数挙げられ,その際に指摘,批判された点や本件第1~第3トラブルについて,自分の努力不足による結果であるとして受け入れる内容となっている。F係長から受けた発言として同人宛の遺書に記載されているものとしては,上記認定事実に顕れている発言のほか,次のようなものがある。
「存在が目障りだ,居るだけでみんなが迷惑している。おまえのカミさんも気がしれん,お願いだから消えてくれ。」
「何処へ飛ばされようと俺は甲野は仕事しない奴だと言いふらしたる。」
(上記(3)エの忘年会の席において)「甲野は誰かがやってくれるだろうと思っているから,何にも堪えていないし,顔色ひとつ変わってない。」
なお,これらの発言については,太郎の遺書中の記載以外に根拠付ける証拠はないが,上記のとおり,これらの発言が,いずれも自罰的な傾向が顕著に顕れている太郎の遺書に,F係長による太郎に対する発言として記載されていることからすれば,当該記載内容の信用性は高く,これらの発言があったと認定することができる。
(6)太郎の顧客トラブル(前記争いのない事実等,〈証拠略〉,証人K)
ア 本件第1トラブル
太郎は,J医師からの紹介を断ったのは,当日にM支店長とともにT研究所の院長を訪問する予定が入っていたためであった。この行動は,みすみす商機を失うという本件会社にとって惜しい結果をもたらす行動であり,営業担当者の行動として合理的なものとはいえなかった。K所長は,F係長から事の顛末を電話で知らされた際,惜しいことであったという感想を洩らしたものの,太郎の行動に呆れているというほどではなかった。F係長は,太郎に対して,自らの印象に基づき,所長も呆れていたと告げた。
イ 本件第2トラブル
太郎は,J医師から,新規のグロウジェクトペンの説明の依頼を断ったことに関し,K所長から,F係長とともにすぐにJ医師を訪問するよう指示され,F係長とともにJ医師の診察室を訪ねた。その際,太郎は,F係長の制止にも関わらず土下座をして謝罪し,J医師は,極めて異例な太郎の行動に驚き,太郎の精神的な異変を感じた。
平成15年2月24日に行われた新規のグロウジェクトペンの使用方法の説明においても,太郎の不手際が続いた。J医師は,同月27日,太郎に対し,不手際の指摘をするとともに,慰めのことばをかけたところ,太郎は,「そんなことを言ってくれるのは先生だけです。」と涙ぐんでいるように見えた。
J医師は,上記の土下座も含めた一連の太郎の言動に,改めて精神的な異変を感じ,同じ職場の人なら気付かないはずはないと感じた。
ウ 本件第3トラブルに関して
平成15年3月6日,太郎は,記録集が自身に配布されていないことに憤慨していたL医師に対し,K所長に伴われて謝罪に向かった。病院から出てきて駐車場に向かうL医師に対し,K所長は頭を下げて謝ったが,太郎はただ立っているだけであった。K所長は,M支店長に電話をし,L医師が担当者の交代を求めていることを報告したところ,M支店長は,他の社員から太郎の携帯の番号を聞き出して直接太郎に電話をした。
(7)太郎の様子の変化(前記争いのない事実等,〈証拠略〉,原告本人)
ア 毎週月曜日に太郎と顔を合わせていた静岡1係のOは,平成14年12月末ころから,太郎に元気がないと感じるようになった。また,太郎は,同月終わりころから,もともと暑がりだったにもかかわらず,就寝時に冷えを感じて毎朝4時か5時ころに尿意を催して目が覚めるようになった。
イ 平成15年1月,Oは,太郎の表情や口数などから疲れている感じを受けた。太郎は,同月に入ってからは,好きだった映画鑑賞やテレビゲームもしなくなり,就寝時の冷えや早朝の覚醒も持続しており,原告に対して朝まで眠れなかったと訴えることもあった。さらに,普段は食事を残すことのない太郎が,同月中旬に,原告の母が作った唐揚げを食べずに残したことがあった。
ウ 平成15年2月中旬ころから,太郎は,大好物で習慣として必ず食していた餃子について,原告が尋ねても興味を失ったような返事をするようになった。また,通常は食欲旺盛であった太郎が,夕食時にじっと下を向いて食物を口に運んでいるだけの様子を見せた。同月下旬ころ,大好物であったロールキャベツもあまり食べようとしなくなる等,食欲自体が落ちており,これについて太郎は,「もう年かな。」と言っていた。もっとも,太郎は,週末に家族と公園に遊びに行くことは続けていた。
また,同月中に,太郎は,原告に対し,「俺って気持ち悪い。」と尋ね,「俺はもう一杯一杯や。」と述べたことがある。太郎は,同月22日に,それまで原告と同じ部屋で就寝していたのに別の部屋で寝るようになり,そのころまでは普通にあった夫婦生活もなくなった。
エ Gは,平成15年3月5日に太郎と電話で会話をしたが,その際の太郎の発言に異変を感じ,相当いじめられているか投げやりになる要因があるかとも思った。同月6日の昼ころ,太郎は,久々にOに電話をしたが,その内容はとりとめのないものであった。また,同日朝,太郎は,同業他社のMRに「いい事ないわ,なんか魂死んでるわ。」とのメールを送信した。K所長は,同月6日の太郎の様子に元気がなく,口数も少なく,夕食も食べなかったことから食欲もないように感じた。
オ F係長は,時期については記憶がないが,太郎はだんだんと口数が少なくなったと感じた。Iは,食欲の点も含めて太郎の様子に特段の変化を感じなかった。
(8)同僚の原告宅訪問(〈証拠略〉,証人N,原告本人)
本件会社で太郎の同僚であったP,N等4名は,太郎の自殺後の平成15年3月29日,原告宅を訪れ,26名の名古屋支店従業員及び元従業員らの連名による文書と見舞金25万3000円を原告に手渡した。上記文書には,「この度の件につきまして,誠に申し訳ございませんでした。同じ名古屋支店に所属しながら,こういう結果を向かえてしまい,なんともお詫びのしようがございません。」(原文のまま)との記載があった。Pは,この文書を手渡す際,原告に対して,上記(4)ウの出来事を紹介し,その時にもう少し話を聞いていればよかった,自分はF係長が沼津に行ったら何かをしでかすだろうと思っていた,自分たちは今の会社の体質を改善したい,このままだとまた太郎のような犠牲者が出る旨話した。
2 争点に対する判断
以上に認定した事実関係を前提に,以下,本件の争点である太郎の自殺の業務起因性について判断することにする。
(1)業務起因性の判断基準
ア 労災保険法に基づく保険給付は,労働者の業務上の死亡等について行われるところ(同法7条1項1号),労働者の死亡等を業務上のものと認めるためには,業務と死亡との間に相当因果関係が認められることが必要である(最高裁昭和51年11月12日第二小法廷判決・判例時報837号34頁)。また,労災保険制度が,労働基準法上の危険責任の法理に基づく使用者の災害補償責任を担保する制度であることからすれば,上記の相当因果関係を認めるためには,当該死亡等の結果が,当該業務に内在する危険が現実化したものであると評価し得ることが必要である(最高裁平成8年1月23日第三小法廷判決・判例時報1557号58頁,量高裁平成8年3月5日第三小法廷判決・判例時報1564号137頁)。
イ 精神障害の発症については,環境由来のストレスと,個体側の反応性,脆弱性との関係で,精神的破綻が生じるかどうかが決まるという「ストレス―脆弱性」理論が,現在広く受け入れられていると認められること(〈証拠略〉)からすれば,業務と精神障害の発症との間の相当因果関係が認められるためには,ストレス(業務による心理的負荷と業務以外の心理的負荷)と個体側の反応性,脆弱性を総合考慮し,業務による心理的負荷が,社会通念上,客観的にみて,精神障害を発症させる程度に過重であるといえる場合に,業務に内在又は随伴する危険が現実化したものとして,当該精神障害の業務起因性を肯定するのが相当である。
ウ 労働者の自殺による死亡が業務上の死亡と認められるか否か,すなわち,労働者の自殺についての業務起因性が問題となる場合,通常は,当該労働者が死の結果を認識し認容したものと考えられるが,少なくとも,当該労働者が業務に起因する精神障害を発症した結果,正常な認識,行為選択能力が著しく阻害され,自殺を思い止まる精神的な抑制力が著しく阻害されている状態で自殺に至った場合には,当該労働者が死亡という結果を認識し認容していたとしても,当該結果を意図したとまではいうことができず,労災保険法12条の2の2第1項にいう「故意」による死亡には該当しないというべきである。
ICD-10のF0~F4に分類される精神障害の患者が自殺を図ったときには,当該精神障害により正常な認識,行為選択能力及び抑制力が著しく阻害されていたと推定する取扱いが,医学的見地から妥当であると判断されていることが認められる(〈証拠略〉,弁論の全趣旨)から,業務により発症したICD-10のF0~F4に分類される精神障害に罹患していると認められる者が自殺を図った場合には,原則として,当該自殺による死亡につき業務起因性を認めるのが相当である。その一方で,自殺時点において正常な認識,行為選択能力及び抑制力が著しく阻害されていなかったと認められる場合や,業務以外のストレス要因の内容等から,自殺が業務に起因する精神障害の症状の蓋然的な結果とは認め難い場合等の特段の事情が認められる場合には,業務起因性を否定するのが相当である。
(2)太郎の精神障害発症の業務起因性についての判断
ア 精神障害の発症
(ア)前記認定事実によれば,太郎は,平成14年12月末ころから,職場の同僚の目から元気がないと映るようになり,その傾向は平成15年1月に入ってから太郎の表情や口数にも現れるようになったこと,家庭内においても,同年2月中旬ころには原告が太郎の食事中の様子に元気がないと感じたこと,太郎は平成14年12月末ころから,就寝時に冷えを感じて早朝に覚醒するようになり,この傾向は平成15年1月に入ってからも続き,一晩中眠れないこともあったこと,太郎は,同月中旬以降,家庭内において食欲の低下が明らかに認められ,同年2月中旬以降は,それまで大の好物であった食物への興味や関心すら失った上,同年1月に入ってからは,趣味である映画鑑賞やテレビゲームへの関心を失ったことが認められる。被告は,これを単なる嗜好の変化であると主張するが,前記認定事実のとおり,この変化は急激に現れており,これを嗜好の変化と評価するのは,余りに不自然であって,適切な評価とはいえない。そして,前記認定事実によれば,太郎は遅くとも同月13日には希死念慮を生じ,それが自殺した同年3月7日まで継続したものと認められる。
(イ)ICD-10によれば,①抑うつ気分,②興味と喜びの喪失及び③易疲労性のうち少なくとも2つに加え,(a)集中力と注意力の減退,(b)自己評価と自信の低下,(c)罪責感と無価値観,(d)将来に対する希望のない悲観的な見方,(e)自傷あるいは自殺の観念や行為,(f)睡眠障害及び(g)食欲不振の各症状のうち少なくとも2つが存在する場合(ただし,いかなる症状も著しい程度であってはならず,エピソード全体の最小の持続期間は約2週間である。)に,軽症うつ病エピソードの診断ガイドラインを満たすところ(〈証拠略〉),上記のとおり,太郎は,平成14年12月末ころ~平成15年1月中旬ころの時期に,①抑うつ気分,②興味と喜びの喪失を生じた上,(e)自殺の観念,(f)睡眠障害及び(g)食欲不振の各症状を呈するようになり,これらの症状は2週間以上継続したことが認められることからすれば,太郎は,平成14年12月末ころ~平成15年1月中旬ころの時期に,ICD-10のF32.0軽症うつ病エピソードの診断ガイドラインに該当する症状を呈しはじめ,遅くとも同月末ころには,少なくとも,軽症うつ病エピソードとの診断が可能になったと認めるのが相当である。
(ウ)原告は,Q医師の意見(〈証拠略〉,証人Q)基づき,太郎が平成15年2月中ごろには中等症うつ病エピソードに該当する状態になったと主張する。前記認定事実及びQ医師の意見を前提に考えれば,太郎は,同年2月以降も,上記のとおり,抑うつ気分,興味と喜びの喪失,自殺の観念,睡眠障害及び食欲不振という状態が続いていたことが認められるし,太郎は,同年1月末以降,本件第1~第3トラブルという仕事上のミスを立て続けに起こしており,本件第1トラブルについては,太郎が,営業担当者としては合理性にかなり疑問のある判断をしたことに起因するものであること,本件第2トラブルに際し,太郎が土下座という非常に突飛な行動に出ていること,本件第3トラブルの際,K所長がL医師に対し頭を下げて謝罪しているのに,太郎はただ立っているだけであったこと等に照らすと,本件第1~第3トラブルは,その時点における太郎の思考力,判断力の低下を示しており,うつ病エピソードの診断基準の一つである「集中力と注意力の減退」に該当するものといえる。ICD-10によれば,中等症うつ病エピソードの診断基準として,前記(イ)の①~③の症状のうち少なくとも2つ,(a)~(g)の症状のうち少なくとも3つ(4つが望ましい。)が存在することが必要とされるところ,症状数についてみると,確かに中等症うつ病エピソードとの診断も可能であるようにも見える。
しかしながら,ICD-10によれば,中等症うつ病エピソードの場合,いくつかの症状は著しい程度にまでなる傾向を持ち,社会的,職業的又は家庭的な活動を続けていくのがかなり困難になるとされているところ(〈証拠略〉),前記認定事実によれば,太郎は,さまざまな異変が家族や職場の同僚の目に明らかになったとはいえ,問題なく出勤を続け,本件第1~第3トラブル以外に職場で特段の問題は発生していない上,睡眠障害も,全く眠れない日が続いていたとまでは認定する根拠はなく,食欲の低下についても,Iは特段の変化に気が付かなかったし,家庭内でも週末に家族と公園に遊びに行くことは続けていたことなどに見られるように,活動が困難になっていたとまでは認められないことからすると,太郎に見られた各症状は,いずれも著しい程度になるとか,全体的で広汎な症状を呈していたとか,社会的,職業的,家庭的活動を続けるのが困難になっていたとは認め難い。そうだとすると,太郎が中等症うつ病エピソードにまで至っていたとまで認めることは困難である。
(エ)他方,被告は,R医師の意見(〈証拠略〉)に基づき,太郎が発症していたのは,平成14年12月ころ,ICD-10分類の「F43.21遷延性抑うつ反応」(適応障害)であったと主張する。確かに,太郎の抑うつ状態等の症状が2週間以上持続しないうちは,うつ病エピソードとの診断を下すことはできず,当該症状が現れた当初の時点では,せいぜい適応障害という診断を下し得るに止まるといえる。しかし,上記のとおり,太郎が同月末ころから自殺に至るまでに呈した症状を子細に見れば,平成15年1月末ころには少なくとも軽症うつ病エピソードの診断基準を満たすに至ったことは否定し得ない。適応障害とは暫定的な診断カテゴリであり,適応障害との診断後も,うつ病エピソードの診断基準を満たす状態になれば,診断名を切り換えることは当然あり得ること(証人Q)からすれば,太郎が同月以降にうつ病エピソードの診断基準を満たす状態になった以上,発症した精神障害の最終的な診断を適応障害からうつ病エピソードに切り換えるのが相当だといえる。
したがって,平成15年1月以降の太郎の症状を考慮することなく,太郎の精神障害の最終診断を適応障害とするR医師の意見を前提とする被告の主張を全面的に採用することはできない。
(オ)以上の認定,判断並びにR医師及びQ医師の意見を総合考慮すると,太郎は,平成14年12月末~平成15年1月中旬の時期に精神障害を発症したと認めるのが相当である。そして,当該精神障害の診断名は,発症当初の時点においてはICD-10のF43.21遷延性抑うつ反応(適応障害)と診断し得るに止まったものの,その後も症状が継続し,遅くとも平成15年1月中には,F32.0軽症うつ病エピソードと診断し得る状態に至ったと認めるのが相当である。
イ 心理的負荷を伴う業務上の出来事の具体的内容
次に,精神障害の発症までに太郎に加わった,心理的負荷を伴う業務上の出来事がいかなるものであったかを検討する。
(ア)前記認定事実のとおり,太郎が遺書においてF係長の言動を自殺の動機として挙げていること,太郎がF係長の着任後,しばしばF係長との関係が困難な状況にあることを周囲に打ち明けていたこと,太郎の個体側要因に特段の問題は見当たらないことについて当事者間に争いがないこと(前記争いのない事実等)からして,太郎が精神障害を発症した平成14年12月末~平成15年1月の時期までに太郎に加わった業務上の心理的負荷の原因となる出来事としては,F係長の太郎に対する発言を挙げることができる。
(イ)前記認定事実に顕れているF係長による太郎に対する発言を列挙すると,以下のとおりである。
① 存在が目障りだ,居るだけでみんなが迷惑している。おまえのカミさんも気がしれん,お願いだから消えてくれ。
② 車のガソリン代がもったいない。
③ 何処へ飛ばされようと俺は甲野は仕事しない奴だと言い触らしたる。
④ お前は会社を食いものにしている,給料泥棒。
⑤ お前は対人恐怖症やろ。
⑥ 甲野は誰かがやってくれるだろうと思っているから,何にも堪えていないし,顔色ひとつ変わってない。
⑦ 病院の廻り方がわからないのか。勘弁してよ。そんなことまで言わなきゃいけないの。
⑧ 肩にフケがベターと付いている。お前病気と違うか。
(ウ)上記認定のF係長による発言の背景となるF係長と太郎との関係について検討する。
前記認定事実のとおり,F係長は,そもそも業績が低迷している静岡2係の体質改善を行うことを指示されて,太郎を含む同係のMRの上司となり,平成14年秋ころから,太郎の業績や営業手法に疑問を抱き,その営業活動のてこ入れをすることを目指して,太郎に同行して営業先に赴いたところ,自らは積極的な営業活動を行うF係長から見ると,太郎の営業活動は,医師への顔つなぎという基本的な事項自体が全くできていないことに驚くとともに,仕事をする心構えができていないと感じ,さらに,太郎が身なりに無頓着で,背広や靴を替えることなく,ふけがひどかったり,喫煙による口臭があるという基本的な生活習慣自体に問題があると考えたこと,太郎の死後も,本件会社の同僚や太郎の遺族に対し,太郎が仕事ができなかったことや身なりがだらしないことを発言していることからすれば,F係長は,太郎について,部下として指導しなければならないという任務を自覚していたと同時に(前記認定事実のとおり,F係長は,太郎の営業活動を強く援助している。),太郎に対し,強い不信感と嫌悪の感情を有していたものと認められる。
(エ)次に,太郎とF係長との関係をめぐる職場環境について検討する。
前記認定事実のとおり,本件会社における静岡2係の勤務形態は,自宅と営業先との直行直帰を原則とし,係員で集まることは,月曜日の静岡営業所での打合せのほかは,不定期に週に1,2回,必要に応じて集まるという勤務形態である。被告は,太郎はF係長と週に1,2回しか顔を合わさなかった点を強調する。しかしながら,この勤務形態によって,本件会社の中で接する社員が,F係長とIという狭い範囲に限定され,他の同僚やF係長より上位の社員との接点が日常的にはないことからすれば,F係長から厳しい発言を受けることのはけ口がなく,本件会社が人事管理面から従業員間の関係を適正に把握し難いことから,むしろ心理的負荷を高めるという側面もあることを指摘しなければならない。
ウ 上記の出来事に伴う心理的負荷の評価
以上の事実関係を前提として,上記の出来事に伴う心理的負荷が,社会通念上客観的にみて精神障害を発症させる程度に過重であると認められるかどうかを検討する。
一般に,企業等の労働者が,上司との間で意見の相違等により軋轢を生じる場合があることは,組織体である企業等において避け難いものである。そして,評価表は,精神障害の発症の原因としての業務上の出来事の一つとして,「上司とのトラブル」を挙げ,ストレス要因の平均的強度を,Ⅱ(中程度)と評価している。上司とのトラブルに伴う心理的負荷が,企業等において一般的に生じ得る程度のものである限り,社会通念上客観的にみて精神障害を発症させる程度に過重であるとは認められないものである。しかしながら,そのトラブルの内容が,上記の通常予定されるような範疇を超えるものである場合には,従業員に精神障害を発症させる程度に過重であると評価されるのは当然である。
被告は,R医師の意見(〈証拠略〉)に基づき,F係長の言動が太郎に対する指導,助言として行われたものであること,太郎とF係長とは週に1,2回の打合せの際に顔を合わせていただけであることから,太郎とF係長との関係に伴う太郎の心理的負荷は,評価表によれば「上司とのトラブル」の平均的心理的負荷の強度であるⅡに止まり,これを強度なものと修正すべき事由はない旨主張する。
しかしながら,以下の点に照らしていえば,太郎が業務上接したF係長との関係の心理的負荷は,被告の主張する平均的強度を大きく上回るものであると言わなければならない。
第1に,F係長が太郎に対して発したことば自体の内容が,過度に厳しいことである。前記認定事実のとおり,F係長のことばは,10年以上のMRとしての経験を有する太郎のキャリアを否定し,そもそもMRとして本件会社で稼働することを否定する内容であるばかりか,中には,太郎の人格,存在自体を否定するものもある。このようなことばが,企業の組織体の中で,上位で強い立場にある者から発せられることによる部下の心理的負荷は,通常の「上司とのトラブル」から想定されるものよりもさらに過重なものである。
第2に,F係長の太郎に対する態度に,太郎に対する嫌悪の感情の側面があることである。前述のとおり,F係長の太郎に対する発言は,害意によるというよりは,基本的には業務上の指導の必要性に基づいて行われたものと解されるが,上述のことば自体の内容に加え,営業活動の基本すらできておらず身なりもだらしないという太郎に対する評価,太郎の死後に同僚や太郎の親族に対してした発言内容からも,F係長が太郎に対し嫌悪の感情を有していたことが認められる。上記のような太郎のMRとしてのキャリアや人格までも否定するような発言が,仮に主観的には上司としての指導的な意図に基づいたものであるとしても,上司としての優位性を前提としたその発言を受ける側から見れば,上記の意図から出た発言であるからといって心理的負荷が軽減されるか,はなはだ疑問であるし,後述するようなF係長の性格やものの言い方も相まって考えるならば,その悪感情の側面は,太郎の心理的負荷を加重させる要因であるといえる。
第3に,F係長が,太郎に対し,極めて直截なものの言い方をしていたと認められることである。前記認定事実のとおり,衆目の一致するF係長の性格と他人に対する態度は,自分の思ったこと,感じたことを,特に相手方の立場や感情を配慮することなく,直截に表現し,しかも大きい声で傍若無人に(受ける部下の立場からすれば威圧的に)発言するというものである。上司の側から,表現の厳しさに一定の悪感情を混じえた発言を,何らの遠慮,配慮なく受けるのであるから,そこには,通常想定されるような「上司とのトラブル」を大きく超える心理的負荷があるといえる。
第4に,静岡2係の勤務形態が,上記のような上司とのトラブルを円滑に解決することが困難な環境にあることを挙げることができる。前述のとおり,本件会社における静岡2係の勤務形態からして,太郎はF係長から受ける厳しいことばを,心理的負荷のはけ口なく受け止めなければならなかった上,周囲の者や本件会社が,静岡2係の人間関係ひいては太郎の異常に気付き難い職場環境にあったものと認められ,本件の証拠関係を見ても,F係長の太郎に対する言動を本件会社の職制として探知,察知して,何らかの対処をした形跡を認めることはできない。このような勤務形態と本件会社の管理態勢の問題も相まって,本件会社は,F係長による太郎の心理的負荷を阻止,軽減することができなかったと認められる。
前記認定事実のとおり,太郎の自殺後,太郎の同僚らが原告方を訪問して弔意を表した際に,同僚が,太郎とF係長の関係に言及し,このままではまた太郎のような犠牲者が出る旨述べたという事実は,本件会社の従業員の中にも,F係長の言動は部下の自殺を引き起こし得る程度の過重な心理的負荷をもたらすと感じる者が少なからず存在したことを意味する。このことは,上記のとおり検討した太郎の受けた心理的負荷を客観的に評価すれば,同種労働者にとって,判断指針が想定している「上司とのトラブル」を大きく超えていることを根拠付けている。
以上に検討したところによれば,F係長の太郎に対する態度による太郎の心理的負荷は,人生においてまれに経験することもある程度に強度のものということができ,一般人を基準として,社会通念上,客観的にみて,精神障害を発症させる程度に過重なものと評価するのが相当である。
エ まとめ
以上に検討したとおり,太郎は,平成14年12月末~平成15年1月中に精神障害(その診断名は,発症当初の時点では適応障害,そして,同月段階では軽症うつ病エピソード。)を発症したところ,太郎は,発症に先立つ平成14年秋ころから,上司であるF係長の言動により,社会通念上,客観的にみて精神疾患を発症させる程度に過重な心理的負荷を受けており,他に業務外の心理的負荷や太郎の個体側の脆弱性も認められないことからすれば,太郎は,業務に内在ないし随伴する危険が現実化したものとして,上記精神障害を発症したと認めるのが相当である。
(3)太郎の自殺の業務起因性についての判断
以上から,太郎の自殺について,業務起因性が認められるかを検討する。
ア 前記判断のとおり,業務に起因してICD-10のF0~F4に分類される精神障害を発症し,それに罹患していると認められる者が自殺を図った場合には,自殺時点において正常な認識,行為選択能力及び抑制力が著しく阻害されていなかったと認められるとか,業務以外のストレス要因の内容等から自殺が業務に起因する精神障害の症状の蓋然的な結果とは認め難いなどといった特段の事情が認められない限りは,原則として,当該自殺による死亡は故意のものではないとして,業務起因性を認めるのが相当である。
イ 上記検討のとおり,太郎は,業務に起因して,ICD-10のF43.21遷延性抑うつ反応(適応障害)ないしF32.0軽症うつ病エピソードという精神障害を発症したと認めることができる。そして,発症後の状況を見ても,前記認定事実のとおり,太郎は発症後,自殺直前に至るまで,抑うつ気分や食欲,興味・関心,性欲の低下といった症状が続いていること,太郎は本件第1~第3トラブルに表れているとおり思考力,判断力の低下を示していることという各事情に照らすと,太郎が発症した精神障害が自殺までの間に治癒,寛解したものとは認められない。
そして,前記認定事実のとおり,太郎が家族と職場の上司,同僚に残した遺書の中には,うつ病エピソードの診断ガイドラインに該当する症状である抑うつ気分,易疲労性,悲観的思考,自信の喪失,罪責感と無価値感が表れていたと認めることができるから,太郎の自殺時の希死念慮も精神障害の症状の一環と見るのが自然であって,太郎の自殺が,精神障害によって正常な認識,行為選択能力及び抑制力を阻害された状態で行われたという事実を認定することができる。
この点について,被告は,太郎が自殺の2か月余り前から順次遺書を作成しており,自殺後に残される者にも配慮した整然とした内容のものであること,インターネットで死に方や母子手当及び生活保護の受給方法等を調べていたことを理由に,太郎は精神障害によって正常な認識,行為選択能力が著しく阻害された状態に陥り自殺したとは認められない旨主張する。しかし,そもそも,被告の指摘する点は,太郎が心神喪失の状態に陥っていなかったことを裏付け得るとはいえても,太郎の希死念慮が精神障害による正常な認識等を阻害された状態でされたものではないことまでを裏付ける事情とは解し難い。本件に現れた事情に照らせば,この被告の主張は,上記認定,判断を左右するものではない。
さらに,被告は,太郎の抑うつ状態は軽度であったから,強い希死念慮は出現しておらず,正常な認識,行為選択能力が著しく阻害されていたとは認められないとも主張するが,上述のとおり,ICD-10のF0~F4に分類される精神障害の患者が自殺を図ったときには,当該精神障害により正常な認識,行為選択能力及び抑制力が著しく阻害されていたと推定する取扱いが,医学的見地から妥当であると判断されているのであるから,抑うつ状態が軽度であるという一点から,上記推定によらず,正常な認識を有していたとか,行為選択能力が著しく阻害されていたとは認められないという評価をすることもまた,根拠がないものと言わなければならず,結局,被告の主張には,全く理由がないという結論になる。
ウ 以上からすると,業務に起因してICD-10のF0~F4に分類される精神障害を発症した太郎は,当該精神障害に罹患したまま,正常の認識及び行為選択能力が当該精神障害により著しく阻害されている状態で自殺に及んだと推定され,この評価を覆すに足りる特段の事情は見当たらないから,太郎の自殺は,故意の自殺ではないとして,業務起因性を認めるのが相当である。
3 結論
以上によれば,太郎の自殺による死亡が業務に起因するものではないことを前提にして行われた本件処分は違法であり,その取消を求める原告らの請求は理由があるから,これを認容することとする。