憲法 日本国憲法の論じ方 Q13 公務員の人権


Q 公務員は政治活動の自由をもつのか?
(1)国立大学法人の設置する国立大学の教授は公務員か
(2)公務員の政治活動
(3)政治活動制限の合憲性

+第二十一条  集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
○2  検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

①規制目的の正当性
②規制目的と手段との合理的関連性
③禁止に伴う利益衡量

+判例(S49.11.6)猿払事件
理由
検察官の上告趣意四の(一)について。
第一 本事件の経過
本件公訴事実の要旨は、被告人は、北海道宗谷郡a村の鬼志別郵便局に勤務する郵政事務官で、A労働組合協議会事務局長を勤めていたものであるが、昭和四二年一月八日告示の第三一回衆議院議員選挙に際し、右協議会の決定にしたがい、B党を支持する目的をもつて、同日同党公認候補者の選挙用ポスター六枚を自ら公営掲示場に掲示したほか、その頃四回にわたり、右ポスター合計約一八四枚の掲示方を他に依頼して配布した、というものである。
国家公務員法(以下「国公法」という。)一〇二条一項は、一般職の国家公務員(以下「公務員」という。)に関し、「職員は、政党又は政治的目的のために、寄附金その他の利益を求め、若しくは受領し、又は何らの方法を以てするを問わず、これらの行為に関与し、あるいは選挙権の行使を除く外、人事院規則で定める政治的行為をしてはならない。」と規定し、この委任に基づき人事院規則一四―七(政治的行為)(以下「規則」という。)は、右条項の禁止する「政治的行為」の具体的内容を定めており、右の禁止に違反した者に対しては、国公法一一〇条一項一九号が三年以下の懲役又は一〇万円以下の罰金を科する旨を規定している。被告人の前記行為は、規則五項三号、六項一三号の特定の政党を支持することを目的とする文書すなわち政治的目的を有する文書の掲示又は配布という政治的行為にあたるものであるから、国公法一一〇条一項一九号の罰則が適用されるべきであるとして、起訴されたものである。
第一審判決は、右の事実は関係証拠によりすべて認めることができるとし、この事実は規則の右各規定に該当するとしながらも、非管理職である現業公務員であつて、その職務内容が機械的労務の提供にとどまるものが、勤務時間外に、国の施設を利用することなく、かつ、職務を利用せず又はその公正を害する意図なくして行つた規則六項一三号の行為で、労働組合活動の一環として行われたと認められるものに、刑罰を科することを定める国公法一一〇条一項一九号は、このような被告人の行為に適用される限度において、行為に対する制裁としては合理的にして必要最小限の域を超えるものであり、憲法二一条、三一条に違反するとの理由で、被告人を無罪とした。
原判決は、検察官の控訴を斥け、第一審判決の判断は結論において相当であると判示した。
検察官の上告趣意は、第一審判決及び原判決の判断につき、憲法二一条、三一条の解釈の誤りを主張するものである。

第二 当裁判所の見解
一 本件政治的行為の禁止の合憲性
第一審判決及び原判決が被告人の本件行為に対し国公法一一〇条一項一九号の罰則を適用することは憲法二一条、三一条に違反するものと判断したのは、民主主義国家における表現の自由の重要性にかんがみ、国公法一〇二条一項及び規則五項三号、六項一三号が、公務員に対し、その職種や職務権限を区別することなく、また行為の態様や意図を問題とすることなく、特定の政党を支持する政治的目的を有する文書を掲示し又は配布する行為を、一律に違法と評価して、禁止していることの合理性に疑問があるとの考えに、基づくものと認められる。よつて、まず、この点から検討を加えることとする。
(一) 憲法二一条の保障する表現の自由は、民主主義国家の政治的基盤をなし、国民の基本的人権のうちでもとりわけ重要なものであり、法律によつてもみだりに制限することができないものである。そして、およそ政治的行為は、行動としての面をもつほかに、政治的意見の表明としての面をも有するものであるから、その限りにおいて、憲法二一条による保障を受けるものであることも、明らかである。国公法一〇二条一項及び規則によつて公務員に禁止されている政治的行為も多かれ少なかれ政治的意見の表明を内包する行為であるから、もしそのような行為が国民一般に対して禁止されるのであれば、憲法違反の問題が生ずることはいうまでもない。
しかしながら、国公法一〇二条一項及び規則による政治的行為の禁止は、もとより国民一般に対して向けられているものではなく、公務員のみに対して向けられているものである。ところで、国民の信託による国政が国民全体への奉仕を旨として行われなければならないことは当然の理であるが、「すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。」とする憲法一五条二項の規定からもまた、公務が国民の一部に対する奉仕としてではなく、その全体に対する奉仕として運営されるべきものであることを理解することができる公務のうちでも行政の分野におけるそれは、憲法の定める統治組織の構造に照らし、議会制民主主義に基づく政治過程を経て決定された政策の忠実な遂行を期し、もつぱら国民全体に対する奉仕を旨とし、政治的偏向を排して運営されなければならないものと解されるのであつて、そのためには、個々の公務員が、政治的に、一党一派に偏することなく、厳に中立の立場を堅持して、その職務の遂行にあたることが必要となるのである。すなわち、行政の中立的運営が確保され、これに対する国民の信頼が維持されることは、憲法の要請にかなうものであり、公務員の政治的中立性が維持されることは、国民全体の重要な利益にほかならないというべきである。したがつて、公務員の政治的中立性を損うおそれのある公務員の政治的行為を禁止することは、それが合理的で必要やむをえない限度にとどまるものである限り、憲法の許容するところであるといわなければならない
(二) 国公法一〇二条一項及び規則による公務員に対する政治的行為の禁止が右の合理的で必やむをえない限度にとどまるものか否かを判断するにあたつては、禁止の目的、、この目的と禁止される政治的行為との関連性、政治的行為を禁止することにより得られる利益と禁止することにより失われる利益との均衡の三点から検討することが必要である。そこで、まず、禁止の目的及びこの目的と禁止される行為との関連性について考えると、もし公務員の政治的行為のすべてが自由に放任されるときは、おのずから公務員の政治的中立性が損われ、ためにその職務の遂行ひいてはその属する行政機関の公務の運営に党派的偏向を招くおそれがあり、行政の中立的運営に対する国民の信頼が損われることを免れない。また、公務員の右のような党派的偏向は、逆に政治的党派の行政への不当な介入を容易にし、行政の中立的運営が歪められる可能性が一層増大するばかりでなく、そのような傾向が拡大すれば、本来政治的中立を保ちつつ一体となつて国民全体に奉仕すべき責務を負う行政組織の内部に深刻な政治的対立を醸成し、そのため行政の能率的で安定した運営は阻害され、ひいては議会制民主主義の政治過程を経て決定された国の政策の忠実な遂行にも重大な支障をきたすおそれがあり、このようなおそれは行政組織の規模の大きさに比例して拡大すべく、かくては、もはや組織の内部規律のみによつてはその弊害を防止することができない事態に立ち至るのである。したがつて、このような弊害の発生を防止し、行政の中立的運営とこれに対する国民の信頼を確保するため、公務員の政治的中立性を損うおそれのある政治的行為を禁止することは、まさしく憲法の要請に応え、公務員を含む国民全体の共同利益を擁護するための措置にほかならないのであつて、その目的は正当なものというべきである。また、右のような弊害の発生を防止するため、公務員の政治的中立性を損うおそれがあると認められる政治的行為を禁止することは、禁止目的との間に合理的な関連性があるものと認められるのであつて、たとえその禁止が、公務員の職種・職務権限、勤務時間の内外、国の施設の利用の有無等を区別することなく、あるいは行政の中立的運営を直接、具体的に損う行為のみに限定されていないとしても、右の合理的な関連性が失われるものではない
次に、利益の均衡の点について考えてみると、民主主義国家においては、できる限り多数の国民の参加によつて政治が行われることが国民全体にとつて重要な利益であることはいうまでもないのであるから、公務員が全体の奉仕者であることの一面のみを強調するあまり、ひとしく国民の一員である公務員の政治的行為を禁止することによつて右の利益が失われることとなる消極面を軽視することがあつてはならない。しかしながら、公務員の政治的中立性を損うおそれのある行動類型に属する政治的行為を、これに内包される意見表明そのものの制約をねらいとしてではなく、その行動のもたらす弊害の防止をねらいとして禁止するときは、同時にそれにより意見表明の自由が制約されることにはなるが、それは、単に行動の禁止に伴う限度での間接的、付随的な制約に過ぎず、かつ、国公法一〇二条一項及び規則の定める行動類型以外の行為により意見を表明する自由までをも制約するものではなく、他面、禁止により得られる利益は、公務員の政治的中立性を維持し、行政の中立的運営とこれに対する国民の信頼を確保するという国民全体の共同利益なのであるから、得られる利益は、失われる利益に比してさらに重要なものというべきであり、その禁止は利益の均衡を失するものではない
(三) 以上の観点から本件で問題とされている規則五項三号、六項一三号の政治的行為をみると、その行為は、特定の政党を支持する政治的目的を有する文書を掲示し又は配布する行為であつて、政治的偏向の強い行動類型に属するものにほかならず、政治的行為の中でも、公務員の政治的中立性の維持を損うおそれが強いと認められるものであり、政治的行為の禁止目的との問に合理的な関連性をもつものであることは明白である。また、その行為の禁止は、もとよりそれに内包される意見表明そのものの制約をねらいとしたものではなく、行動のもたらす弊害の防止をねらいとしたものであつて、国民全体の共同利益を擁護するためのものであるから、その禁止により得られる利益とこれにより失われる利益との間に均衡を失するところがあるものとは、認められない。したがつて、国公法一〇二条一項及び規則五項三号、六項一三号は、合理的で必要やむをえない限度を超えるものとは認められず、憲法二一条に違反するものということはできない
(四) ところで、第一審判決は、その違憲判断の根拠として、被告人の本件行為が、非管理職である現業公務員でその職務内容が機械的労務の提供にとどまるものにより、勤務時間外に、国の施設を利用することなく、かつ、職務を利用せず又はその公正を害する意図なく、労働組合活動の一環として行われたものであることをあげ、原判決もこれを是認している。しかしながら、本件行為のような政治的行為が公務員によつてされる場合には、当該公務員の管理職・非管理職の別、現業・非現業の別、裁量権の範囲の広狭などは、公務員の政治的中立性を維持することにより行政の中立的運営とこれに対する国民の信頼を確保しようとする法の目的を阻害する点に、差異をもたらすものではない。右各判決が、個々の公務員の担当する職務を問題とし、本件被告人の職務内容が裁量の余地のない機械的業務であることを理由として、禁止違反による弊害が小さいものであるとしている点も、有機的統一体として機能している行政組織における公務の全体の中立性が問題とされるべきものである以上、失当である。郵便や郵便貯金のような業務は、もともと、あまねく公平に、役務を提供し、利用させることを目的としているのであるから(郵便法一条、郵便貯金法一条参照)、国民全体への公平な奉仕を旨として運営されなければならないのであつて、原判決の指摘するように、その業務の性質上、機械的労務が重い比重を占めるからといつて、そのことのゆえに、その種の業務に従事する現業公務員を公務員の政治的中立性について例外視する理由はない。また、前述のような公務員の政治的行為の禁止の趣旨からすれば、勤務時間の内外、国の施設の利用の有無、職務利用の有無などは、その政治的行為の禁止の合憲性を判断するうえにおいては、必ずしも重要な意味をもつものではない。さらに、政治的行為が労働組合活動の一環としてなされたとしても、そのことが組合員である個々の公務員の政治的行為を正当化する理由となるものではなく、また、個々の公務員に対して禁止されている政治的行為が組合活動として行われるときは、組合員に対して統制力をもつ労働組合の組織を通じて計画的に広汎に行われ、その弊害は一層増大することとなるのであつて、その禁止が解除されるべきいわれは少しもないのである。
(五) 第一審判決及び原判決は、また、本件政治的行為によつて生じる弊害が軽微であると断定し、そのことをもつてその禁止を違憲と判断する重要な根拠としている。しかしながら、本件における被告人の行為は、衆議院議員選挙に際して、特定の政党を支持する政治的目的を有する文書を掲示し又は配布したものであつて、その行為は、具体的な選挙における特定政党のためにする直接かつ積極的な支援活動であり、政治的偏向の強い典型的な行為というのほかなく、このような行為を放任することによる弊害は、軽微なものであるとはいえない。のみならず、かりに特定の政治的行為を行う者が一地方の一公務員に限られ、ために右にいう弊害が一見軽微なものであるとしても、特に国家公務員については、その所属する行政組織の機構の多くは広範囲にわたるものであるから、そのような行為が累積されることによつて現出する事態を軽視し、その弊害を過小に評価することがあつてはならない。

二 本件政治的行為に対する罰則の合憲性
第一審判決は、また、たとえ公務員の政治的行為を違法と評価してこれを禁止することが憲法二一条に違反しないとしても、その禁止の違反に対し罰則を適用することについては、さらに憲法二一条、三一条違反の問題を生じうるとの考えに立ち、国公法の立法過程にふれたうえ、その罰則は被告人の本件行為に対し適用する限度において違憲であると結論し、原判決もこれを支持するのである。よつて、この点について検討を加えることとする。
(一) およそ刑罰は、国権の作用による最も峻厳な制裁であるから、特に基本的人権に関連する事項につき罰則を設けるには、慎重な考慮を必要とすることはいうまでもなく、刑罰規定が罪刑の均衡その他種々の観点からして著しく不合理なものであつて、とうてい許容し難いものであるときは、違憲の判断を受けなければならないのである。そして、刑罰規定は、保護法益の性質、行為の態様・結果、刑罰を必要とする理由、刑罰を法定することによりもたらされる積極的・消極的な効果・影響などの諸々の要因を考慮しつつ、国民の法意識の反映として、国民の代表機関である国会により、歴史的、現実的な社会的基盤に立つて具体的に決定されるものであり、その法定刑は、違反行為が帯びる違法性の大小を考慮して定められるべきものである。
ところで、国公法一〇二条一項及び規則による公務員の政治的行為の禁止は、上述したとおり、公務員の政治的中立性を維持することにより、行政の中立的運営とこれに対する国民の信頼を確保するという国民全体の重要な共同利益を擁護するためのものである。したがつて、右の禁止に違反して国民全体の共同利益を損う行為に出る公務員に対する制裁として刑罰をもつて臨むことを必要とするか否かは、右の国民全体の共同利益を擁護する見地からの立法政策の問題であつて、右の禁止が表現の自由に対する合理的で必要やむをえない制限であると解され、かつ、刑罰を違憲とする特別の事情がない限り、立法機関の裁量により決定されたところのものは、尊重されなければならない
そこで、国公法制定の経過をみると、当初制定された国公法(昭和二二年法律第一二〇号)には、現行法の一一〇条一項一九号のような罰則は設けられていなかつたところ、昭和二三年法律第二二二号による改正の結果右の規定が追加されたのであるが、その後昭和二五年法律第二六一号として制定された地方公務員法においては、初め政府案として政治的行為をあおる等の一定の行為について設けられていた罰則規定は、国会審議の過程で削除された。その際、国公法の右の罰則は、地方公務員法についての右の措置にもかかわらず、あえて削除されることなく今日に至つているのであるが、そのことは、ひとしく公務員であつても、国家公務員の場合は、地方公務員の場合と異なり、その政治的行為の禁止に対する違反が行政の中立的運営に及ぼす弊害に逕庭があることからして、罰則を存置することの必要性が、国民の代表機関である国会により、わが国の現実の社会的基盤に照らして、承認されてきたものとみることができる。
そして、国公法が右の罰則を設けたことについて、政策的見地からする批判のあることはさておき、その保護法益の重要性にかんがみるときは、罰則制定の要否及び法定刑についての立法機関の決定がその裁量の範囲を著しく逸脱しているものであるとは認められない。特に、本件において問題とされる規則五項三号、六項一三号の政治的行為は、特定の政党を支持する政治的目的を有する文書の掲示又は配布であつて、前述したとおり、政治的行為の中でも党派的偏向の強い行動類型に属するものであり、公務員の政治的中立性を損うおそれが大きく、このような違法性の強い行為に対して国公法の定める程度の刑罰を法定したとしても、決して不合理とはいえず、したがつて、右の罰則が憲法三一条に違反するものということはできない。
(二) また、公務員の政治的行為の禁止が国民全体の共同利益を擁護する見地からされたものであつて、その違反行為が刑罰の対象となる違法性を帯びることが認められ、かつ、その禁止が、前述のとおり、憲法二一条に違反するものではないと判断される以上、その違反行為を構成要件として罰則を法定しても、そのことが憲法二一条に違反することとなる道理は、ありえない。
(三) 右各判決は、たとえ公務員の政治的行為の禁止が憲法二一条に違反しないとしても、その行為のもたらす弊害が軽微なものについてまで一律に罰則を適用することは、同条に違反するというのであるが、違反行為がもたらす弊害の大小は、とりもなおさず違法性の強弱の問題にほかならないのであるから、このような見解は、違法性の程度の問題と憲法違反の有為が問題とを混同するものであつて、失当というほかはない。
(四) 原判決は、さらに、規制の目的を達成しうる、より制限的でない他の選びうる手段があるときは、広い規制手段は違憲となるとしたうえ、被告人の本件行為に対する制裁としては懲戒処分をもつて足り、罰則までも法定することは合理的にして必要最小限度を超え、違憲となる旨を判示し、第一審判決もまた、外国の立法例をあげたうえ、被告人の本件行為のような公務員の政治的行為の禁止の違反に対して罰則を法定することは違憲である旨を判示する。
しかしながら、各国の憲法の規定に共通するところがあるとしても、それぞれの国の歴史的経験と伝統はまちまちであり、国民の権利意識や自由感覚にもまた差異があるのであつて、基本的人権に対して加えられる規制の合理性についての判断基準は、およそ、その国の社会的基盤を離れて成り立つものではないのである。これを公務員の政治的行為についてみるに、その規制を公務員自身の節度と自制に委ねるか、特定の政治的行為に限つて禁止するか、特定の公務員のみに対して禁止するか、禁止違反に対する制裁をどのようなものとするかは、いずれも、それぞれの国の歴史的所産である社会的諸条件にかかわるところが大であるといわなければならない。したがつて、外国の立法例は、一つの重要な参考資料ではあるが、右の社会的諸条件を無視して、それをそのままわが国にあてはめることは、決して正しい憲法判断の態度ということはできない
いま、わが国公法の規定をみると、公務員の政治的行為の禁止の違反に対しては、一方で、前記のとおり、同法一一〇条一項一九号が刑罰を科する旨を規定するとともに、他方では、同法八二条が懲戒処分を課することができる旨を規定し、さらに同法八五条においては、同一事件につき懲戒処分と刑事訴追の手続を重複して進めることができる旨を定めている。このような立法措置がとられたのは、同法による懲戒処分が、もともと国が公務員に対し、あたかも私企業における使用者にも比すべき立場において、公務員組織の内部秩序を維持するため、その秩序を乱す特定の行為について課する行政上の制裁であるのに対し、刑罰は、国が統治の作用を営む立場において、国民全体の共同利益を擁護するため、その共同利益を損う特定の行為について科する司法上の制裁であつて、両者がその目的、性質、効果を異にするからにほかならない。そして、公務員の政治的行為の禁止に違反する行為が、公務員組織の内部秩序を維持する見地から課される懲戒処分を根拠づけるに足りるものであるとともに、国民全体の共同利益を擁護する見地から科される刑罰を根拠づける違法性を帯びるものであることは、前述のとおりであるから、その禁止の違反行為に対し懲戒処分のほか罰則を法定することが不合理な措置であるとはいえないのである。このように、懲戒処分と刑罰とは、その目的、性質、効果を異にする別個の制裁なのであるから、前者と後者を同列に置いて比較し、司法判断によつて前者をもつてより制限的でない他の選びうる手段であると軽々に断定することは、相当ではないというべきである。
なお、政治的行為の定めを人事院規則に委任する国公法一〇二条一項が、公務員の政治的中立性を損うおそれのある行動類型に属する政治的行為を具体的に定めることを委任するものであることは、同条項の合理的な解釈により理解しうるところである。そして、そのような政治的行為が、公務員組織の内部秩序を維持する見地から課される懲戒処分を根拠づけるに足りるものであるとともに、国民全体の共同利益を擁護する見地から科される刑罰を根拠づける違法性を帯びるものであることは、すでに述べたとおりであるから、右条項は、それが同法八二条による懲戒処分及び同法一一〇条一項一九号による刑罰の対象となる政治的行為の定めを一様に委任するものであるからといつて、そのことの故に、憲法の許容する委任の限度を超えることになるものではない。
(五) 右各判決は、また、被告人の本件行為につき罰則を適用する限度においてという限定を付して右罰則を違憲と判断するのであるが、これは、法令が当然に適用を予定している場合の一部につきその適用を違憲と判断するものであつて、ひつきょう法令の一部を違憲とするにひとしく、かかる判断の形式を用いることによつても、上述の批判を免れうるものではない。
第三、結論
以上のとおり、被告人の本件行為に対し適用されるべき国公法一一〇条一項一九号の罰則は、憲法二一条、三一条に違反するものではなく、また、第一審判決及び原判決の判示する事実関係のもとにおいて、右罰則を被告人の右行為に適用することも、憲法の右各法条に違反するものではない。第一審判決及び原判決は、いずれも憲法の右各法条の解釈を誤るものであるから、論旨は理由がある。よつて、上告趣意中のその余の所論に対する判断を省略し、刑訴法四一〇条一項本文により第一審判決及び原判決を破棄し、直ちに判決をすることができるものと認めて、同法四一三条但書により被告事件についてさらに判決する。第一審判決の認定した事実(第一審第一回公判調書中の被告人の供述記載、被告人、C、D、E、F、G、Hの検察官に対する各供述調書による。)に法令を適用すると、被告人の各行為は、いずれも国公法一一〇条一項一九号(刑法六条、一〇条により罰金額の寡額は昭和四七年法律第六一号による改正前の罰金等臨時措置法二条一項所定の額による。)、一〇二条一項、規則五項三号、六項一三号に該当するので、所定刑中いずれも罰金刑を選択し、以上は刑法四五条前段の併合罪であるから、同法四八条二項により各罪につき定めた罰金の合算額以下において被告人を罰金五、〇〇〇円に処し、同法一八条により被告人において右罰金を完納することができないときは金一、〇〇〇円を一日に換算した期間被告人を労役場に留置し、刑訴法一八一条一項本文により原審及び第一審における訴訟費用は被告人の負担とし、主文のとおり判決する。
この判決は、裁判官大隅健一郎、同関根小郷、同小川信雄、同坂本吉勝の反対意見があるほか、裁判官全員一致の意見によるものである。

+反対意見
裁判官大隅健一郎、同関根小郷、同小川信雄、同坂本吉勝の反対意見は、次のとおりである。
検察官の上告趣意について。
本件の経過は多数意見記載のとおりであり、検察官の上告趣意は、第一審判決及び原判決の判断につき、憲法二一条、三一条の解釈の誤りと判例違反とを主張するものである。思うに、国公法一〇二条一項は、公務員に関して、「職員は、政党又は政治的目的のために、寄附金その他の利益を求め、若しくは受領し、又は何らの方法を以てするを問わず、これらの行為に関与し、あるいは選挙権の行使を除く外、人事院規則で定める政治的行為をしてはならない。」と規定し、これに基づいて規則一四―七は、右条項の禁止する「政治的行為」の内容を詳細に定めている。そして右条項及びこれに基づく規則の違反に対しては、国公法八二条以下に懲戒処分、同法一一〇条一項一九号に刑事制裁が定められている。すなわち、国公法一〇二条一項は、違反に対する制裁の関連からいえば、公務員にりき禁止されるべき政治的行為に関し、懲戒処分を受けるべきものと、犯罪として刑罰を科せられるべきものとを区別することなく、一律一体としてその内容についての定めを人事院規則に委任している。このような立法の委任は、少なくとも後者、すなわち、犯罪の構成要件の規定を委任する部分に関するかぎり、憲法に違反するものと考える。その理由は、次のとおりである。第一、基本的人権としての政治活動の自由と公務員の政治的中立。
一、政治活動の自由に関する基本的人権の重要性(憲法一五条一項、一六条、二一条)。およそ国民の政治活動の自由は、自由民主主義国家において、統治権力及びその発動を正当づける最も重要な根拠をなすものとして、国民の個人的人権の中でも最も高い価値を有する基本的権利である。政治活動の自由とは、国民が、国の基本的政策の決定に直接間接に関与する機会をもち、かつ、そのための積極的な活動を行う自由のことであり、それは、国の基本的政策の決定機関である国会の議員となり、又は右議員を選出する手続に様々の形で関与し、あるいは政党その他の政治的団体を結成し、これに加入し、かつ、その一員として活動する等狭義の政治過程に参加することの外、このような政治過程に働きかけ、これに影響を与えるための諸活動、例えば政治的集会、集団請願等の集団行動的なものから、様々の方法、形態による単なる個人としての政治的意見の表明に至るまで、極めて広い範囲にわたる行為の自由を含むものである。このように、政治活動の自由は、単なる政治的思想、信条の自由のような個人の内心的自由にとどまるものではなく、これに基づく外部的な積極的、社会的行動の自由をその本質的性格とするものであり、わが憲法は、参政権に関する一五条一項、請願権に関する一六条、集会、結社、表現の自由に関する二一条の各規定により、これを国民の基本的人権の一つとして保障しているのである。
もとより、右のような基本的人権としての政治活動の自由も、絶対無制限のものではなく、公共の利益のために真にやむをえない場合には、多かれ少なかれ何らかの制限に服することをまぬかれないが、積極的な政治活動はその性質上その時々の政府の見解や利益と対立、衝突しがちであるため、とかく政治権力による制限を受けやすいことにかんがみるときは、このような制限がされる場合には、その理由を明らかにし、その制限が憲法上十分の正当性をもつものであるかどうかにつき、特に慎重な吟味検討を施すことが要請されるものといわなければならない。
二、公務員の政治的中立(憲法一五条二項)。国家公務員もまた、国民の一人として、右に述べた政治活動の自由を憲法上保障されているわけであるが、国公法一〇二条及び同条一項に基づく規則は、公務員に属する者の政治活動に対し、前記のような制限を加えている。その理由は、おおよそ次のごときものと考えられる。すなわち、国公法は、日本国憲法のもとにおいて、国の行政に従事する公務員につき、「国民に対し、公務の民主的かつ能率的な運営を保障する」目的(同法一条)から、成績制を根幹とする公務員制度を採用しているが、この成績制公務員制度においては、いわゆる中立性の原則がその本質的なものとされている。けだし、公務員は、国民を直接代表する立法府の政治的意思を忠実に実行すべきものであつて、自己の政治的意思に従つて行政の運営にあたつてはならないとともに、近代民主国家における政治(立法)と行政の分離の要請に基づき、政治と行政の混こう、政治の介入による行政のわい曲を防止しなければならないからである。そして、国公法がこのような公務員制度を採用したことは、公務員が国民全体の奉仕着たるべきことを定めた憲法一五条二項の趣旨及び精神にも合致するものということができる。
三、右一、二の関係と憲法。
国公法の採用した右のような公務員制度の趣旨及び性格、なかんずく公務員の政治的中立性の原則からするときは、公務員は、ひとり実際の行政運営において政治的な利害や影響に基づく、法に忠実でない行政活動を厳に避けなければならないばかりでなく、現実にこのような行政のわい曲をもたらさないまでも、その危険性を生じさせたり、又は第三者からそのような疑惑を抱かれる原因となるような政治的性格をもつ行動を避けるべきことが要請される。のみならず、公務員は、多かれ少なかれ国政の運営に関与するものであるから、それが集団的、組織的に政治活動を行うときは、それ自体が大きな政治的勢力となり、その過大な影響力の行便によつて民主的政治過程を不当にわい曲する危険がないとはいえない。国の行政が国の存立と円満な国民生活の維持のうえで必要不可欠なものであり、行政の政治的中立性が右に述べたように極めて重要な要請であることを考えるときは、公務員に対し、その職務を離れて専ら一市民としての立場においてする政治活動についても、一定の制限を課すべき公共的な利益と必要が存することは、これを否定することができないのである。
しかしながら、このことから直ちに、一般的、抽象的に公務員の個人的基本権としての政治活動の自由を行政の中立性の要請に従属させ、その目的のために必要と認められるかぎり、右政治活動の自由に対していかなる制限を課しても憲法上是認されるとの結論を導き出すことはできない。けだし、ひとしく公務員といつても、それが属する行政主体の事業の内容及び性質、その中における公務員の地位、職務の内容及ひ「性質は多種多様であり、またそれらの公務員が行う政治活動の種類、性質、態様、規模、程度も区々であつて、これらの多様性に応じ、公務員の特定の政治活動が行政の中立性に及ぼす影響の性質及び程度、並びにその禁止が公務員の個人的基本権としての政治活動の自由に対して及ぼす侵害の意義、性質、程度及び重要性にも大きな相違が存するからである。それゆえ、前記の相反する二つの法益ないしは要求の間に調整を施すにあたつても、右に述べた相違を考慮し、より具体的、個別的に両法益の相互的比重を吟味検討し、真に行政の中立性保持の利益の前に公務員の政治活動の自由が退かなければならない場合、かつ、その限度においてのみこれを制限するとの態度がとられなければならない。のみならず、ひとり制限されるべき政治活動の範囲及び内容ばかりでなく、制限の方法、態様においてもその性質、効果を異にするのであるから、この点もまた、右の問題を解決するうえにおいて重要な要素であることを失わない。そして、以上に述べたことは、ひとり国会の専権に属する立法政策上の問題であるにとどまらず、また、憲法の要求するところでもあるというべきである。第二、国公法一〇二条一項における犯罪構成要件(同法一一〇条一項一九号)についての立法委任の違憲性。
一、公務員関係の規律の対象となる政治的行為と刑罰権の対象となる政治的行為についてそれぞれの内容、範囲を区別することなく、一律に人事院規則に委任していることの問題点(国公法八二条、一一〇条一項一九号)。
国公法一〇二条は、冒頭記述のとおり、公務員の政治活動に関して若干の特定の形態の行為を直接禁止した外は、選挙権の行使を除き人事院規則で定める政治的行為を一般的に禁止するものとし、禁止行為の具体的内容及び範囲の決定を人事院に一任するとともに、その禁止の方法においても、これを単に公務員関係上の権利義務の問題として規定するにとどまらず、刑事制裁を伴う犯罪として扱うべきものとしている。国公法におけるこのような規制の方法は、同法に基づく規則における具体的禁止規定の内容の適否を離れても、それ自体として重大な憲法上の問題を惹起するものと考える。すなわち、(い)公務員関係の規律として公務員の一定の政治的行為を禁止する場合と、かかる関係を離れて刑罰権の対象となる一個人としてその者の政治的行為を禁止する場合とでは、憲法上是認される制限の範囲に相違を生ずべきものであり、この両者を同視して一律にこれを定めることは、それ自体として憲法一五条一項、一六条、二一条、三一条に違反するのではないかという問題があり、(ろ)国会が公務員の政治的行為を規制するにあたり、直接公務員の政治活動の制限の要否を具体的に検討しその範囲を決定することなく、人事院にこれを一任することは、立法府が公開の会議(憲法五七条)において国民監視のもとに自ら行うべき立法作用の本質的部分を放棄して非公開の他の国家機関に移譲するものであつて、憲法四一条に違反するのではないかという問題があり、(は)右(い)と(ろ)の問題の関連において、懲戒原因としての政治的行為の禁止と可罰原因としてのそれを区別することなく一律にその具体的規定を規則に委任することは、委任自体として憲法に違反するのではないかという問題があるのである。
これらの問題は、事の性質上、右授権に基づいて制定された規則における具体的禁止規定の内容の適否の問題に入る以前において検討、決定されるべき問題であるといわなければならない。
二、右一についての詳論。
(一) 公務員関係の規律の対象となる政治的行為と刑罰権の対象となる政治的行為とでは、その内容、範囲についてそれぞれ憲法上の区別があること(憲法一五条一項、一六条、二一条、三一条)。
(1) 公務員関係の規律の対象となる政治的行為について(憲法七三条四号、一五条、一六条、二一条、国公法一〇二条一項、八二条)。
公務員と国との間に成立する法律関係は、公務員としての職務活動に自己の労働力を提供する個人と、これを使用して公務を遂行する国との間に成立する権利義務の関係であり、基本的には双方の意思に基づいて成立し、その内容は、法律によつて直接これを規定しないかぎり、本来は当事者の合意によつて決定されうるところのものである。しかし、公務員関係の内容をすべて当事者の合意によつて定めることは適当でなく、他方、憲法はこの問題を行政主体の完全な裁量に委ねず、法律で定める基準に従つて処理すべきものとしている(七三条四号)ので、公務員関係の法的内容は、実際においては、国公法をはじめとする関係諸法律によつて詳細に規定され、その具体的内容は、公務員関係の成立の基礎となる任用の方法、基準、手続、勤務時間、給与、勤務上の地位の異動等の勤務条件に関する基準、公務員の勤務上及び勤務外の行為に関する規律、公務員関係内における紛争の処理等極めて広い範囲にわたつている。
このように、公務員関係を規制すべき法内容を定めるにあたつては、立法機関としての国会が広い裁量権を有し、国会は、日本国憲法のもとにおいていかなる公務員制度が最も望ましいかを考え、その構想のもとに、その具体化のための措置を講ずることができるのであつて、国会が具体的に採用、決定した立法措置は、憲法上是認しうる目的のために必要又は適当であると合理的に判断しうる範囲にとどまるかぎり、憲法に適合する有効なものであるとしなければならない。
国公法一〇二条における公務員に対する政治的行為の禁止もまた、前述のような公務員制度の具体化の一環として、公務員関係内における公務員の職務上又は職務外における義務又は負担の一つとして定められたものと認められるのであり、その目的ないしは理由が、国公法の採用した成績制公務員制度における公務員の政治的中立性の要請にこたえるにあり、公務員の任免、昇進、異動の面における政治的考慮ないしは影響の排除の反面として、公務員自身に対しても一定範囲における政治的中立性遵守の義務を課したものであることは、さきに述べたとおりである。
そして、成績制公務員制度が憲法の精神に適合するものであり、かかる制度の要請する公務員の政治的中立性の保持が憲法上是認される目的に基づくものである以上、たとえ政治活動の自由が憲法における最も重要な個人的基本権であるとしても、自らの意思に基づいて国との間に公務員関係という一定の法律関係に入る者に対し、かかる法律関係の一内容として、前記の目的を達するために必要かつ相当であると合理的に認められる範囲において右権利に対する制約を加えることは、憲法上許されるところであるとしなければならない。
また、右の基準のもとにお、ける制限の必要性に関する国会の判断の合理性については、前記のような国会の裁量権の広範性にかんがみ、必ずしも特定の政治的行為が公務員の政治的中立性を侵害する現実の危険を伴うかどうかというような厳格、狭あいな視点にのみ限局されることなく、より広くその種の行為が一般的に右のような侵害の抽象的危険性を有するかどうかという点をも考慮に入れることが許されるというべきである。それゆえ、国公法一〇二条における政治的行為の禁止は、その違反に対し公務員関係上の義務違反に対する制裁としての懲戒によつて強制されるべき義務を設定するものであるかぎりにおいては、右の基準に照らしてその合憲性を決定すべく、この基準に適合するかぎり、これを違憲とする理由はないのである。
(2) 刑罰権の対象となる公務員の政治的行為について(憲法一五条一項、一六条、二一条、三一条)。
およそ刑罰は、一般統治権に基づき、その統治権に服する者に対して一方的に行使される最も強力な権能であり、国家が一般統治上の見地から特に重大な反国家性、反社会性をもつと認める個人の行為、すなわち、国家、社会の秩序を害する行為に対してのみ向けられるべきものである。単なる私人間の法律関係上の義務違背や、公私の団体又は組織の内部的規律侵犯行為のように、間接に国家、社会の秩序に悪影響を及ぼす危険があるにすぎない行為は、当然には処罰の対象とはなりえない。一般に個人の自由は、多種多様の関係において種々の理由により法的拘束を受けるが、それらの拘束が法的に是認される範囲は、それぞれの関係と理由において必ずしも同一ではないのであつて、公務員の政治活動の自由についても、事は同様である。究極的には当事者の合意に基づいて成立する公務員関係上の権利義務として公務員の政治活動の自由に課せられる法的制限と、一般統治権に基づき刑罰の制裁をもつて課せられるかかる自由の制限とは、その目的、根拠、性質及び効果を全く異にするのであり、このことにこそ民事責任と刑事責任との分化と各その発展が見られるのである。したがつてまた、右両種の制限が憲法上是認されるかどうかについても、おのずから別個に考察、論定されなければならないのであつて、公務員が公務外において一市民としてする政治活動を刑罰の制裁をもつて制限、禁止しうる範囲は、一般に国が一定の統治目的のために、国民の政治活動を刑罰の制裁をもつて制限、禁止する場合について適用される憲法上の基準と原理とによつて、決せられなければならないのである。
右の見地に立つて考えると、刑罰の制裁をもつてする公務員の政治活動の自由の制限が憲法上是認されるのは、禁止される政治的行為が、単に行政の中立性保持の目的のために設けられた公務員関係上の義務に違反するというだけでは足りず、公務員の職務活動そのものをわい曲する顕著な危険を生じさせる場合、公務員制度の維持、運営そのものを積極的に阻害し、内部的手段のみでこれを防止し難い場合、民主的政治過程そのものを不当にゆがめるような性質のものである場合等、それ自体において直接、国家的又は社会的利益に重大な侵害をもたらし、又はもたらす危険があり、刑罰によるその禁圧が要請される場合に限られなければならない。
更に、個人の政治活動の自由が憲法上極めて重大な権利であることにかんがみるときは、一般統治権に基づく刑罰の制裁をもつてするその制限は、これによつて影響を受ける政治的自由の利益に明らかに優越する重大な国家的、社会的利益を守るために真にやむをえない場合で、かつ、その内容が真に必要やむをえない最小限の範囲にとどまるかぎりにおいてのみ、憲法上容認されるものというべきである。すなわち、単に国家的、社会的利益を守る必要性があるとか、当該行為に右の利益侵害の観念的な可能性ないしは抽象的な危険性があるとか、右利益を守るための万全の措置として刑罰を伴う強力な禁止措置が要請される等の理由だけでは、かかる形における自由の制限を合憲とすることはできない。けだし、一般に政治活動、なかんずく反政府的傾向をもつ政治活動は政治権力者からみれば、ややもすると国家的、社会的利益の侵害をもたらすものと受けとられがちであるが、このような危険や可能性を観念的ないし抽象的にとらえるかぎり、その存在を肯定することは比較的容易であり、したがつて、政治活動の自由の制限に対して前述のような厳格な基準ないし原理によつて臨むのでなければ、国民の政治的自由は時の権力によつて右の名目の下に容易に抑圧され、憲法の基本的原理である自由民主主義はそのよつて立つ基礎を失うに至るおそれがあるからである。我々は、過去の歴史において、為政者の過度の配慮と警戒による自由の制限がもたらした幾多の弊害を度外視してはならないのである。このことは、公務員の政治活動についても同様であるといわなければならない。
(3) 規則六項一三号の違憲性(憲法一五条一項、一六条、二一条、三一条)。
以上の基準に照らすときは、例えば、本件において問題とされている規則六項一三号による文書の発行、配布、著作等は、政治活動の中でも最も基礎的かつ中核的な政治的意見の表明それ自体であり、これを意見表明の側面と行動の側面とに区別することはできず、その禁止は、政治的意見の表明それ自体に対する制約であるのみならず、これを政治的目的についての同規則五項、特に同項三号ないし六号の広範かつ著しく抽象的な定義と併せ読むときは、右の意見表明に所定の形態で関与する行為につき、その者の職種、地位、その所属する行政主体の業務の性質等、その具体的な関与の目的、関与の内容及び態様のいかん並びに前後の事情等に照らし、その行為が行政の政治的中立性の保持等の国家的、社会的利益に対していかなる現実的、直接的な侵害を加え、ないしはいかなる程度においてその危険を生じさせるかを一切問うことなく、単に行為者が公務員たる身分を有するというだけの理由で、包括的、一般的な禁止を施しているものであり、公務員に対し、実際上あまねく国の政策に関する批判や提言等の政治上の意見表明の機会を封ずるに近く、公務員関係上の義務の設定として合理的規制ということができるかどうかは別論として、少くとも刑罰を伴う禁止規定としては、公務員の政治的言論の自由に対する過度に広範な制限として、それ自体憲法に違反するとされてもやむをえないといわなければならない。
右に述べたように、ひとしく公務員の政治的行為の禁止であつても、公務員関係上の義務として定める場合と刑罰の対象となる行為として定める場合とでは、その意義、性質、効果を異にし、憲法上それが許される範囲にも相違が生ずることをまぬかれえないのであり、これらの点を全く無視し、専ら行為の禁止の点のみを抽象してそれが憲法に適合する制限かどうかを判断すべきものとし、禁止違反に対して懲戒が課せられるか刑罰が科せられるかは、単なる強制手段の問題として立法政策上の当否の対象となるにすぎないとすることはできないのである。
(二)、国公法一〇二条一項の委任。
(1) 公務員関係の規律の対象となる政治的行為の規定の委任(憲法七三条四号、地方公務員法三六条、二九条)。
以上の次第であるから、法律が直接公務員の政治的行為の禁止を具体的に定めるには、公務員関係内における規律として定める場合と刑罰の構成要件として定める場合とを区別し、前述したような別個の観点、考慮に従つてその具体的内容を定めるべきであり、現実に定められた禁止内容に対しても、それが憲法に違反しないかどうかは別個の基準によつて判断すべきものであるが、国公法一〇二条は、上述のように、禁止行為の内容及び範囲を直接定めないでこれを人事院規則に委任しており、そのためにかかる委任の適否について問題が生ずることは、さきに指摘したとおりである。そこでこの点について順次考察するのに、まず一般論として、国会が、法律自体の中で、特定の事項に限定してこれに関する具体的な内容の規定を他の国家機関に委任することは、その合理的必要性があり、かつ、右の具体的な定めがほしいままにされることのないように当該機関を指導又は制約すべき目標、基準、考慮すべき要素等を指示してするものであるかぎり、必ずしも憲法に違反するものということはできず、また、右の指示も、委任を定める規定自体の中でこれを明示する必要はなく、当該法律の他の規定や法律全体を通じて合理的に導き出されるものであつてもよいと解される。この見地に立つて国公法一〇二条一項の規定をみると、同条項の委任には、選挙権の行使の除外を除き、いわゆる政治的行為のうち、禁止しうるものとしえないものとを区分する基準につきなんら指示するところはないけれども、国公法の他の規定を通覧するときは、右の禁止が国公法の採用した成績制公務員制度の趣旨、目的、特に行政の中立性の保持の目的を達するためのものであることが明らかであり、他方、一般に法律が特定の目的を達するための具体的措置の決定を他の機関に委任した場合には、特にその旨を明示しなくても、右目的を達するために必要かつ相当と合理的に認められる措置を定めるべきことを委任したものと解すべきものであるから、前記法条における禁止行為の特定についての委任も、行政の中立性又はこれに対する信頼を害し、若しくは害するおそれがある公務員の政治的行為で、このような中立性又はその信頼の保持の目的のために禁止することが必要かつ相当と合理的に認められるものを具体的に特定することを人事院規則に委ねたものと解することができる。また、公務員の多種多様性、政治活動の広範性とその態様及び内容の多様性、これに伴う禁止の必要の程度の複雑性と多様性、更に社会的、政治的情勢の変化によるこれらの要素の変動の可能性等にかんがみるときは、具体的禁止行為の範囲及び内容の特定を他のしかるべき国家機関に委任することに合理性が認められるのみならず、人事院が内閣から相当程度の独立性を有し、政治的中立性を保障された国家機関で、このような立場において公務員関係全般にわたり法律の公正な実施運用にあたる職責を有するものであることに照らすときは、右の程度の抽象的基準のもとで広範かつ概括的な立法の委任をしても、その濫用の危険は少なく、むしろ現実に即した適正妥当な規則の制定とその弾力的運用を期待することができると考えられる。そして、前述のように、公務員関係の規律としては、行政の中立性の保持のために必要かつ相当であると合理的に認められる範囲において公務員の政治活動の自由に制約を加えることが是認されるのであるから、以上の諸点をあわせて考えると、右の関係における公務員の政治的行為禁止の具体的な規定を規則に委任することは、その委任に基づいて制定された規則の個々の規定内容が、あるいは憲法に違反し、あるいは委任の範囲をこえるものとして一部無効となるかどうかは別として、委任自体を憲法に違反する無効のものとするにはあたらないというべきである(地方公務員法三六条、二九条参照)。
(2) 刑罰権の対象となる政治的行為の規定の委任(憲法四一条、一五条一項、一六条、二一条、三一条)。
しかしながら、違反に対し刑罰が科せられる場合における禁止行為の規定に関しては、公務員関係の規律の場合におけると同一の基準による委任を適法とすることはできない。けだし、前者の場合には、後者の場合と、禁止の目的、根拠、性質及び効果を異にし、合憲的に禁止しうる範囲も異なること前記のとおりであつて、その具体的内容の特定を委任するにあたつては、おのずから別個の、より厳格な基準ないしは考慮要素に従つて、これを定めるべきことを指示すべきものだからである。
しかるに、国公法一〇二条一項の規定が、公務員関係上の義務ないしは負担としての禁止と罰則の対象となる禁止とを区別することなく、一律一体として人事院規則に委任し、罰則の対象となる禁止行為の内容についてその基準として特段のものを示していないことは、先に述べたとおりであり、また、同法の他の規定を通覧し、可能なかぎりにおける合理的解釈を施しても、右のような格別の基準の指示があると認めるに足りるものを見出すことができない。これは、同法が、両者のいずれの場合についても全く同一の基準、同一の考慮に基づいて禁止行為の範囲及び内容を定めることができるとする誤つた見解によつたものか、又は憲法上前記のような区別が存することに思いを致さなかつたためであるとしか考えられない。それゆえ、国公法一〇二条一項における前記のごとき無差別一体的な立法の委任は、少なしとも、刑罰の対象となる禁止行為の規定の委任に関するかぎり、憲法四一条、一五条1項、一六条、二一条及び三一条に違反し無効であると断ぜざるをえないのである。第三、結論。
以上説述したとおり、国公法一〇二条一項による政治的行為の禁止に関する人事院規則への委任は、同法一一〇条一項一九号による処罰の対象となる禁止規定の定めに関するかぎり無効であるから、これに基づいて制定された規則もこの関係においては無効であり、したがつて、これに違反したことの故をもつて前記罰条により処罰することはできない。したがつて、これに反する従来の最高裁判所の判決は変更すべきものである。それゆえ、本件被告人の行為に適用されるかぎりにおいて規則六項一三号の規定を無効として、被告人を無罪とした原判決は、結論において正当であるから、結局、本件上告は理由がなく、棄却すべきものである。
検察官横井大三、同辻辰三郎、同石井春水、同佐藤忠雄、同外村隆 公判出席
(裁判長裁判官 村上朝一 裁判官 関根小郷 裁判官 藤林益三 裁判官 岡原昌男 裁判官 小川信雄 裁判官 下田武三 裁判官 岸盛一 裁判官 天野武一 裁判官 坂本吉勝 裁判官 岸上康夫 裁判官 江里口清雄 裁判官 大塚喜一郎 裁判官 高辻正己 裁判官 吉田豊 裁判官大隅健一郎は、退官のため署名押印することができない。裁判長裁判官 村上朝一)

Q 国立大学教授の政治活動は許されるのか
(1)免責のためのアプローチ
(2)学問の自由
・学問の自由はすべての人が原則として享有する
+判例(S38.5.22)東大ポポロ
理由
東京高等検察庁検事長花井忠の上告趣意について。
論旨のうちで、原判決には憲法二三条の学問の自由に関する規定の解釈、適用の誤りがあると主張する点について見るに、同条の学問の自由は、学問的研究の自由とその研究結果の発表の自由とを含むものであつて、同条が学問の自由はこれを保障すると規定したのは、一面において、広くすべての国民に対してそれらの自由を保障するとともに、他面において、大学が学術の中心として深く真理を探究することを本質とすることにかんがみて、特に大学におけるそれらの自由を保障することを趣旨としたものである。教育ないし教授の自由は、学問の自由と密接な関係を有するけれども、必ずしもこれに含まれるものではないしかし、大学については、憲法の右の趣旨と、これに沿つて学校教育法五二条が「大学は、学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究」することを目的とするとしていることとに基づいて、大学において教授その他の研究者がその専門の研究の結果を教授する自由は、これを保障されると解するのを相当とする。すなわち、教授その他の研発者は、その研究の結果を大学の講義または演習こおいて教授する自由を保障されるのである。そして、以上の自由は、すべて公共の福祉による制限を免れるものではないが、大学における自由は、右のような大学の本質に基づいて、一般の場合よりもある程度で広く認められると解される。
大学における学問の自由を保障するために、伝統的に大学の目治が認められているこの自治は、とくに大学の教授その他の研究者の人事に関して認められ、大学の学長、教授その他の研究者が大学の自主的判断に基づいて選任される。また、大学の施設と学生の管理についてもある程度で認められ、これらについてある程度て大学に自主的な秩序維持の権能が認められている。
このように、大学の学問の自由と自治は、大学が学術の中心として深く真理を探求し、専門の学芸を教授研究することを本質とすることに基づくから、直接には教授その他の研究者の研究、その桔呆の発表、研究結果の教授の自由とこれらを保障するための自治とを意味すると解される。大学の施設と学生は、これらの自由と自治の効果として、施設が大学当局によつて自治的に管理され、学生も学問の自由と施設の利用を認められるのである。もとより、憲法二三条の学問の自由は、学生も一般の国民ど同じように享有する。しかし、大学の学生としてそれ以上に学問の自由を享有し、また大学当局の自冶的管理による施設を利用できるのは、大学の本質に基づき、大学の教授その他の研究者の有する特別な学問の自由と自治の効果としてである。
大学における学生の集会も、右の範囲において自由と自治を認められるものであつて、大学の公認した学内団体てあるとか、大学の許可した学内集会であるとかいうことのみによつて、特別な自由と自治を享有するものではない学生の集会が真に学問的な研究またはその結果の発表のためのものでなく、実社会の政治的社会的活動に当る行為をする場合には、大学の有する特別の学問の自由と自治は享有しないといわなければならない。また、その集会が学生のみのものでなく、とくに一般の公衆の入場を許す場合には、むしろ公開の集会と見なされるべきであり、すくなくともこれに準じるものというべきである。
本件のA演劇発表会は、原審の認定するところによれば、いわゆる反植民地闘争デーの一環として行なわれ、演劇の内容もいわゆる松川事件に取材し、開演に先き立つて右事件の資金カンパが行なわれ、さらにいわゆる渋谷事件の報告もなされた。これらはすべて実社会の政治的社会的活動に当る行為にほかならないのであつて、本件集会はそれによつてもはや真に学問的な研究と発表のためのものでなくなるといわなければならない。また、ひとしく原審の認定するところによれば、右発表会の会場には、B大学の学生および教職員以外の外来者が入場券を買つて入場していたのであつて、本件警察官も入場券を買つて自由に入場したのである。これによつて見れば、一般の公衆が自由に入場券を買つて入場することを許されたものと判断されるのであつて、本件の集会は決して特定の学生のみの集会とはいえず、むしろ公開の集会と見なさるべきであり、すくなくともこれに準じるものというべきである。そうして見れば、本件集会は、真に学問的な研究と発表のためのものでなく、実社会の政治的社会的活動であり、かつ公開の集会またはこれに準じるものであつて、大学の学問の自由と自治は、これを享有しないといわなければならない。したがつて、本件の集会に警察官が立ち入つたことは、大学の学問の自由と自治を犯すものではない
これによつて見れば、大学自治の原則上本件警察官の立入行為を違法とした第一審判決およびこれを是認した原判決は、憲法二三条の学問の自由に関する規定の解釈を誤り、引いて大学の自治の限界について解釈と適用を誤つた違法があるのであつて、この点に関して論旨は理由があり、その他の点について判断すろまてもなく、原判決および第一審判決は破棄を免れない。
よつて刑訴四一〇条一項本文、四〇五条一号、四一三条本文に従い、主文のとおり判決する。
この判決は、裁判官入江俊郎、同垂水克己、同奥野健一、同石坂修一、同山田作之助、同斎藤朔郎の補足意見および裁判官横田正俊の意見があるほか、裁判官全員一致の意見によるものである。

+補足意見
裁判官入江俊郎、同奥野健一、同山田作之助、同斎藤朔郎の補足意見は次のとおりである。
憲法二三条にいう「学問の自由」には、教授その他の研究者の学問的研究及びその発表、教授の自由と共に、学生の学ぶ自由も含まれるものと解する。すなわち、教授その他の研究者が国家権力により干渉されることなく、自由に研究し、発表し、教授することが保障されると同時に、学生においても自由にその教授を受け、自由に学ぶことをも保障されているものと解する。そして、大学は学術の中心としての教育の場であり、学問の場であるから、右学問の自由の保障は、また、その自由を保障するため必要な限度において、大学の自治をも保障しているものと解する。けだし、若し大学の教育の場、学問の場に警察官が常に立ち入り、教授その他の研究者の研究、発表及び教授の仕方を監視したり、学問のための学生集会を監視し、これらに関する警備情報を収集する等の警察活動が許されるとすれば、到底学問の自由及び大学の自治が保持されないことは明白てあるからである。従つて、警察官が特に、警察官職務執行法(本件当時は警察官等職務執行法)六条所定の立入権の行使としてではなく、単に、警備情報の收集の目的を以つて大学の教育の場、学問の場に立ち入ることは、憲法二三条の保障する学問の自由ないし大学の自冶を侵す違法行為であるといわねはならない。
しかし、本件A劇団の集会は、原判決の認定事実によれば、反植民地闘争デーの一環として行なわれ、演劇の内容も裁判所に係属中の松川事件に取材し、開演に先き立ち右事件の資金カンパが行なわれ、更にいわゆる渋谷事件の報告もされたというのてあつて、真に学問的な研究や、その発表のための集会とは認められない。従つて、本件警察官の立入行為が前記の学問の自由ないし大学の自治を侵した違法行為であるということはできない。
しかし、本件集会が、少くとも大学における屋内集会であることは否定できない。憲法二一条で集会の自由を保障する所以のものは、集会において、各自が相互に、自由に思想、意見の発表、交換をすることを保障するためであるから、若し、警察官が警備情報収集の目的で集会に立ち入り、その監視の下に集会が行なわれるとすれば、各自の表現の自由は到底保持されず、集会の自由は侵害されることになる。そして、本件集会が平穏なものでなかつたという資料はなく、警察官は警察官職務執行法六条の立入権によらず、単に警備情報の收集を目的とする警察活動を行なうため、これに立ち入つたことは、たとえ、学問の自由ないし大学の自治を侵害したものでないにしても、憲法の保障する集会の自由を侵害することにならないとは断じ難い。(本件において、警察官が入場券を購入して入場したものてあつても、一私人または一観客として入場したものではなく、警備官報収集のための警察活動を行なうため入場したものであることは、原判決の認定するところであり、また、本件集会が公司に準ずべきものであつたとしても、集会の自由が侵害されないとはいえない。)
しかし、本件警察官の立入行為が違法であつたとしても、その違法行為を阻止、排除する手段は、当該集会の管理者またはこれに準ずる者がその管理権に基づき警察官の入場を拒否するか、入場した警察官の退去を要求す、べきであつて、若し警察官が右要求に応じないため、これに対して実力により阻止、退去の措置に出て、それが暴行行為となつた場合に、始めてその暴行行為につき違法性阻却事由の有無が問題となるわけてある。
然るに、原判決の認定するところによれば、被告人は警察官が自発的に立ち去ろうとしているのに、無理に引き止めて、判示の如き暴力を加えたというのである。然らば、本件暴行は警察官の立入行為を阻止、排除するために必要な行為であつたとはいえず、警察官が警察活動を断念して立ち去ろうとしている際に、もはや現在の急迫した侵害は存在せすその排除とは関係なく、被告人が警察官に対し暴行を加えたものというべきであるから、違法行為を排除するため、緊急にして必要已むを得ない行為てあつたとは到底認めることはてきない。
わが刑法上、加害行為の違法性を阻却するのは、例えば正当防衛、緊急避難等の場合におけるように、法益に対する侵害または危難が現在し、これを防衛するために行なわれる加害行為か緊急の必要にせまられて已むを得ないものと認められる場合でなければならないものと解すべきである。然るに、被告人の本件加害行為についは、かかる緊急性は認められないのみならず、過去において違法な警察活動があつたとか、また将来における違法な警察活動の防止のためとかいうが如き理由では、到底本件加害行為の違法性を阻却するに足る緊急性あるものと認めることができないことは明白である。第一、二審判決は、法益の比較均衡のみに重点をおきすぎて、右の緊急性について十分な考慮をめぐらしていない憾みがある。それは、ひつきょう、判決に影響を及ぼすべき刑法の解釈に誤りがあることになり、これを破棄しなければ著しく正義に反するものと認められるから、第一、二審判決はいずれも破棄を免れない。裁判官垂水克己の補足意見は次のとおりである。
一 学問 憲法二三条にいう「学問」とは、まず、本来の意味では、深い真理(真の事実を含む)の専門的、体系的探究解明をいい、哲学およびあらゆる自然科学、社会科学を含む。けれども、倫理学、文学、美学等には世界観、人世観等哲学や高い美の探究創造が含まれることがあり、高い芸術の探究創造は本来の意味の学問と同様に自由が保障されるべきであるから、憲法二三条にいう「学問」には芸術を含むと解される。(学校教育法五二条が「大学は学術の中心として……深く専門の学芸を教授研究……することを目的とする。」という所以である。)現代の学問芸術は人類数千年の文明、文化の遺産に現代の学者、芸術家が加えたもので出来ており、これが、万人が健康で高等な文明的、文化的生活をなしうる基をなしており、また、同時に次の世代の文明、文化の基となるものである。国民の間に、真に学芸に専念する人々の多いことは国民の大いなる福祉である。
二 憲法上の学芸の自由は誰が持つかそれはその意思と能力を持つて専門的に学芸を研究する学者、芸術家個人であると思う。かような学者、芸術家の多数が自由独立の立場で学芸を研究、解明する永続的、組織的中心である公私立の大学はまたその構成員たろ学者、芸術家個人とは別に大学自体として学芸の自由を憲法上保障される。だが、学問芸術の新規な理論や傾向や、諸流派の芸をみて何が学問、芸術であり、何が非学問、非芸術であるかを専門家でない者が判断することは至難のことであるから、この判断には権威ある学者、芸術家の良識判断を尊重するほかないが、しかし、憲法ないし法律にいう「学問一「学芸」「その自由」とは法概念であるからこれが訴訟で争点となつた場合には裁判所は学者、芸術家の意見を尊重しつつ究極には自己の見解により法的判断をしなければならないのてはないか。国会や行政機関が法的判断を下すに当つても憲法に従うかぎり、やはり学者らの意見を尊重しつつ自から憲法の許すと考える範囲内でこれをなすほかないのではないか。問題であるが、本判決の多数意見はこの立場に立つて学問の自由を観念し、これと、その自由に属する事項と左様でない事項とを区別しているのではないか。多数意見第二段は説示して要するに次のようにいう「大学の学問の自由と自治は、直接には、大学の本質に基づき、教授その他の研究者の研究、その結果の発表、教授の自由とこれらを保障するための自治とを意味する。これらの自由と自治の効果として、施設が大学当局によつて自治的に管理され、学生も一般国民以上に学問の自由を享有し大学当局の自治的管理による施設を利用できる。大学における学生の集会も右の範囲において自由と自治を認められる。」と。しかし、大学における或る教授の担任学科が演劇ないし芸術である場合に、その学科を研究する学生がその教授を受け若しくはその指導の下に演劇を行い或いは鑑賞する行為はまさに憲法上の自由に属するけれども、私は、演劇専門外の法学、理学、医学部等の学生がかような行為をすることは深い字問又は高い芸術の専門的研究ではない、と考える。教育基本法八条が「良識ある公民たるに必要な政治的教養は、教育上これ之尊重しなけれはならない。」というのは大学教育に限らず、高等学校等についてもいうことであつて、右のような演劇を行う如きは一般教養の一部にすぎない。大学内で学生が自己の専攻に属しない事項について科学的研究、芸術的修養をすることは自由であり、大学生であるだけに余程尊重されるべきであろうが、かような活動は高等学校、中額校ても、一般市民でも、固より自由に行うことを妨げられろものではなく、これを大学生が大学内で行うからといつて「大学の学問の自由」とはいえないと思う。演劇をその専門の教授その他の研究者の指導、意向から全く離れて行うことは教授、研究者でもなく、また、学生が選んだ自己の専攻額芸の専門的研究に必ずしも当らない。いわんや、本件において、若し学生らが反殖民地闘争デーの一環として、松川事件に取材した演劇を行うべきことを告げずして教室使用許可を受けてかかる演劇を行わんとしその際資金刀ンパや渋谷事件の報告が行われたとすれば、それは、教室の許可外目的のための使用であつて、無許可使用若しくは使用権の濫用であり多数意見の判示する如く右上演集会は実社会の政冶的、社会的活動に当るものというべきで、学芸の研究には属しない。(私は、わが国今日の大学前期は実は大学でなく予科にすぎず、その学生は未だ深い専門的学同研究を教授されていないのではないかと疑う。)
三 大学の学問の自由の侵害はどんな場合に起るか立法、裁判により又は行政権をもつて、或る大学又は或る学者、芸術家に或る事項の研究、発表を困難ならしめ、制限するが如き、或いは個人か字音の研究を圧迫、妨害し、資料を隠匿し、又は反対に誘惑するが如きはその侵害となろう。大学当局ないし学生自ら学問の自田を放棄するなら学問の自由は失われるであろう。例えば、所定の授業時間に教授や一般学生の教室に入場できないよう一部字生か勝手に教室入口に机や椅子を積み重ねてピケを張る如き行為や、これを大学当局が黙視する如きである。(大学は治外法権を持つものではないから、右のようた授業妨害行為を実力で排除しうる自警隊を持ちえないとはいえ。)刑法は別段大学の自由を侵す罪を規定していないが、これは何故か。前記の外、私人のする大学の自由の侵害は、概ね刑事法上の教授、研究者らに対する暴行、共同暴行、脅迫、強要、住居侵入、傷害、業務併行妨害、詐欺、名誉毀損、物の隠匿、損壊等々の犯罪の形で行われると思われ、その場合にはかような犯罪として処罰されうるからであろう。だが、貴重な学問的研究報告書を窃取する目的で、大学構内に紛れ込んだだけでは大学の自由は未だ侵されまい。侵されるとしてもそれは少くとも抽象的な意味での大学の自由である。又、大学の研究用の顕微鏡の窃取は研究者の業務妨害罪なり学問の自由の侵害に、常になるであろうか。
四 大学の自由の擁護手段と本件本件起訴状記載の如きB大学法文経第二五番教室における劇団Aの演劇が、たとえ同大学における学芸の研究てあり、警察員が入場券を買い自己の警察員たる身分を秘して入場したこと(これは刑法二三三条、二三四条の業務妨害罪成立の要件を欠く)が、大学の学芸研究の自由の侵害であるとしても、警察員が着席して静止し、又は、退場すべく出入口に向つて歩み寄つた際に、学生がその手を押え手拳で腹部を突き或はその洋服の内ポケツトに手を入れオーバーのボタンをもき取り或いは洋服の内ポケツトに手を入れボタン穴に紐でつけてあつた警察手帳を引張つてその紐を引きちぎるなどその他の暴行を加える如きは、大学の自由の侵害を排除するに適せず、起訴にかかる刑事法上の犯罪を構成するものというほかない。この場合の暴行こそかえつて演劇の進行、鑑賞を妨害するものてなくて何であろう。原判決が犯罪の成立を阻却すべき事由として認めた事情の如きは刑法上何ら右犯罪の成立を阻却するに足るものでなく、右の場合超法規的犯罪成立阻却事由があるとした原判決の法律判断も失当である。右の如き場合、学生としては演劇の進行を妨げないよう静かに警察員に質し、理由を告げて退場を求め、或いは大学当局に急報して適切な措置を求めるに止めるべきてあつた。にも拘わらず、若し起訴状記載の行為に出でたものとすればこれこそ最高学府に相応しくない、学生自身による暴力犯罪であるといわねばならない。裁判官石坂修一の補足意見は次の通りである。
(1)本件公訴事実は、「被告人はB大学経済学部四年在学中の学生であるがC外数名と共同して、(一)昭和二七年二月二〇日午後七時三〇分頃東京都文京区a町b番地B大学広文経二五番教室に於てA主催の演劇を観覧中の本富士警察署員Dに対し同人の右手を押え手拳で腹部を突き或は同人の洋服内ポケツトに手を入れオーバーのボタンをもぎとる等の暴行を加え、(二)其の頃前同所に於て同様演劇観覧中の同署員茅根隆に対し同人の両手を押え洋服の内ポケツトに手を入れボタン穴に紐でつけてあつた警察手帳を引張つて其の紐を引きちぎる等の暴行を加えたものである」というにあるものであり、その起訴状には適条として、暴力行為等処罰に関する法律一条一項が記載せられておる。
したがつて、第一審としては、果して、被告人自身に右公訴事実となつておる、右両巡査に対する暴行の所為があつたか否か、C外数名の者にも同公訴事実となつておる同様の暴行の所為があつたか否か、及び被告人と右E外数名の者との間に右両巡査に対する犯罪を共同する意思があつたか否かについて審理を尽し、共同の罪責に帰するものがあるとすればその具体的事実関係を明らかにすべきである。然るに、第一審は、その審理を尽すことなくして、被告人が他の行為者と共同する意思の下に犯罪を行つたことを確認すべき何等の証拠もないとし、僅かに、証拠上被告人の行為として認定し得ることは、D巡査が教室内より逃げ去ろうとするに際し、同巡査の腕をつかみ、他の学生等と共に逮捕したこと及び同巡査が舞台前に連行せられて、学生等に取り囲まれた際、同巡査が警察手帳の呈示を拒むので、そのオーバーの襟に手をかけて引き、強く手帳の呈示を求めた以外には出ないものと認定しておるにとどまるのである。而して原審も亦、第一審と同一轍をふみ、たやすく第一審の前記事実認定を是認し、事実誤認を主張する検察官の控訴趣意を却けておる。
しかしながら、記録及び証拠に徴するときは、第一審判決及びこれを維持する原判決には、重大な事実の誤認を疑うに足る顕著な事由が認められる。
(2)記録及び証拠によれば、B大学においては、教室を使用する希望の者に対し、政治的目的のないことを条件とし、かつ、借用願を徴してその使用を許可していたところ、原判示劇団Aの代表者は、昭和二七年二月一一日、会合の次第が演劇「何時の日にか」(いわゆる松川事件に取材したもの)及び「あさやけの詩」の他、挨拶、解説であり、入場者は同大学学生職員てあるとして、同月二〇日午後五時より九時まで同大学法文経二五番教室を使用したき冒の教室借用願及びこの会合に政治的目的のないことを保証する書面を管理者に提出し、実際には、労働組合青年部と提携して行う再軍備反対署名、他の団体においても行なう反植民地闘争デーの闘争の一環としての活動である演劇(何時の日にか)及び資金カンパその他を行う意図あることを秘して、同月二〇日右教室を借受けた事実の存在を疑うに足る顕著な事由があり、しかも同夜開演に先立ち、右松川事件の救援資金カンパが行われ、更に、いわゆる渋谷事件の報告もなされたことは、原審の自ら認定する事実であり、いわゆる渋谷事件とは、本事件発生に極めて近い頃、渋谷駅前広場において、B大学教養学部学生等が再軍備反対、徴兵反対のための署名運動をしたところより、警察官が無届集会として解散を命じ、学生側がこれに応ぜずして警察官隊と衝突し、その内の数名が検挙せられたことを指すものである事案及び右借用願には、入場者をB大学学生職員とせられていたけれども、実状においては、入場券を買い求める者は随意に入場しており、その内の相当数が外来者であつた事実を証拠上認め得るのであり、本件集会は、公開のものであつたと判断せられる。したがつて、右教室を借受けた巨的は、真に、憲法の保障する「学問の自由」及びこれに由来する「大学の自治」の範囲に属する研究集会のため使用するにあつたのではなくして、実社会の政治的、社会的盾ψに当る行為としての公開集会を開催するため使用するにあつたものであるとの認定判断に到達する確実性が高度であるといわねばならない。然りとすれば、到底、第一審判決及びこれを維持する原判決において判断せられる如くに、原判示劇団Aの本件集会を以つて、右「学問の自由」、「大学の自治」の範囲に属するとなす由もない。以上説明した事情のある限り、警察官としては、警察法一条、警察官等職務執行法六条二項(本件当時)により本件集会に立入るにつき、合理的理由があつたものといわねばならないのみならず、右両巡査に、右集会の進行を害する意図があつたと認むべき資料もない。かような事実関係の下においては、警察官が公衆の一員として本件集会に入場券を買求めて入場したことに対しても被告人にこれを排除防衛すべき何らの法益もない。
更に又、入場料を徴する本件の如き公開集会において、内心の指向するところは何であれ、言説、演技がそれ自体に止まつておつて、現実に他の法益を害するものでない限り、これらを行なう者の自由にまかせらるべきことは固よりてあり、同時に、入場者としても亦、内心の指向するところは何であれ、場内の静粛をみだし、他の入場者に迷惑を被むらしめ或は集会の進行を妨害する等によつて、現実に他の法益を害しない限り、単に言説を聴き、演技を看ることは、入場者の自由にまかせられるものと解すべきである。この理は、入場者が一般公衆であると警察官であるとによつて異るところはなく、原判示両巡査に前叙の如き現実に他の法益を害する意図及び行動のあつたことを認むべき資料はない。
第一審判決及びこれを維持する原判決は、頗る薄弱な事実認定の上に立つて、徒らに超法規的な正当行為論を想定展開した憾みがある。
(3)法益防衛行為の違法性が阻却せられるためには、単に、その法益と右防衛行為により害せられる法益とが均衡を保つことのみを以つて足るものではなくして、法益に対する侵害が現に急迫してむり、かつ、防衛行為がやむことを得ざるに出ることを必要とするものと解すべきである。本件に即してこれを観るときは、次の通りとなる。仮に本件犯行以前において、警察官による違法な学内立入が行われたとしても、既に過去の行為に属し、法益に対する侵害は終了しておるのであるから、これに対する侵害排除行為を認め得る余地がない。更に原審の認定によれば、原判示D巡査は、本件集会場である原判示教室内の大学学生より警察官であることを感付かれた気配を覚え、急遽、同教室より退去すべく、右中央辺の席を立つて同教室後側西南来にある出入口に向つて歩み寄つたとき、被告人が同巡査の右手を掴み、その後、被告人は、同巡査に原判示の暴行を加えたのであるから、被告人は、同巡査が任意に現場より退去を開始したにも拘らす、これを阻止した上、同巡査に暴行を加えたものと判断すべきであつて、仮に被告人に防衛すべき何らかの法益があつたとしても、その法益に対する侵害は、他に特段の事情がなければ、最早、現に急迫しておるとはいえないのみならず、右暴行を以つて、法益を防衛するためやむことを得ざるに出たものともなし得ない。仮に原判示の如く、本件集会の際、将来における警察官の違法な学内侵入の虞れあることが予想せられたとしても、これを現に急迫しておるとは考えられない。したがつて、本件所為を正当な防衛行為であると解すべき刑法上の根拠はない。
上述の観点よりするときは、被告人の本件所為を違法性の阻却せられたものであると解した原審の判断は、誤つておるとなすべきてある。

+意見
裁判官横田正俊の意見は次のとおりである。
(一)大学における学問の自由を保障するため、大学の自治が認められ、この自治の権能が大学の施設及び学生の管理にも及ぶここは、論のないところである。この大学の施設こ学生の管理に関する自冶は、大学における学問の自由を保障することを窮極の目的としてはいるが、その権能は、決して、純然たる学問の研究又はその結果の発表、すなわち学問ヒ直結する事項にのみ限定されるものではない。これを学生の学内活動についていえば、学生は、学内において、純然たる学問的活動のほか、各種の活動(いわゆる自治活動)をしているのであるが、大学は、それらの活動についても、ある程度において、これを指導し監督する権限と責任をもつものといわなければならない。けだし、大学がこのような権限と責任をもち、学生の活動を健全な方向に導くことは、その結果において、学問に資することとなるからである。そして、学生の活動が大学の権限と責任の下におかれている範囲においては、大学の自主性を尊重し、これに対する外部からの干渉は、できうるかぎりこれを排除すべきであるというのが、大学の自治の本義であると解される。
(二)他面において、大学といえども治外法権を享有するものではなく、学生の学内活動もまた、個人の生命、身体及び財産の保護に任じ、犯罪の予防、鎮圧及び捜査、被疑者の逮捕、公共の安全と秩序の維持こを責務とする警察の正当な活動の対象となるものであることはいうをまたないところであり、また、この警察の活動のうちには、警察官が任意の手段によつて行う、いわゆる警備情報活動が含まれることもこれを認めなければならない。ただし、大学における学問の自由と大学の自治の本義にかんがみれば、学内に対する警察権の行使、ことに警備情報活動は、他の場合に比較して、より慎重にこれを行い、必要の限度をこえないことが強く要請されるのてある。
(三)この大学の自治と警察権の行使の調整を図ることは、かなりの困難を伴う問題であり、結局においては、関係者の良識と節度にまつほかはないが、この点に関して注目に価するものは、原判決に示されている文部次官の通達であろう。この通達は、集会、集団行進及び集団示威運動に関する東京都条例が施行されるに際し、右条例の解釈につき、警視庁と協議の上、文部次官が、昭和二五年七月二五日、東京都内所在の大学の長等に宛てて発したものであるが、右通達中、大学の学生による学内集会に関する部分を摘示してみると、この通達においては、学校構内における集会で、学生又はその団体が学校の定める手続による許可を得て、特定の者を対象として開催されるものは、公共の場所における集会とは認めず、したがつて公安委員会の許可を要しないことが明らかにされているが、同時に、右集会の取締については学校長が措置することを建前とし、要請があつた場合に警察がこれに協力することとする旨が定められているのてあつて、右は、単に集会の許可権者を明らかにしているに止まらず、学内集会に対する大学の自治と警察権の行使との調整の問題にもふれているものと解されるのてある。右通達によれば、大学の責任と監督の下に行われる正規の学内集会の条件としては、特定の者を対象とするものてあること、すなわち一般公衆を入場させないという意味での非公開性が定められているだけで、集会の目的、内容については、とくにふれるところはないが、本来、大学においては政治的活動はもとより(教育基本法八条二項)、大学教育の理念とする政治的中立性を害し、学問に専念すべき学生の本分にもとるがごとき社会的活動をすることは許されないのであるから、かかる目的、内容を有する集会に対しては、大学が許可に際し規制を加えること(学生の管理に関する大学の自治の作用)が当然に予定されているものと考えられるので、正規の学内集会といいうるためには、集会が少くとも右のごとき活動を目的、内容としないものであることも条件とされているものと認められる。右通達に示されたところは、それ自体に法律的な抗束力を認めることは困難であるとしても、大学の自治と警察権の行使の調整に関する一応の具体的基準を示したものとして、決して軽視してはならないものと考えられる。要するに、学生による学内集会が、少くとも以上の二条件を現実に具備しているかぎり、警察官のこれに対する職務行為としての立入りは、正規の法的手続を践み、必要の限度をこえないでする場合のほかは、許されないものと解される反面、集会が現実に右条件を欠いている場合には、警察官は、これに対し、一般の屋内集会に対すると同一条件で立入ることができるのであり、その集会が大学の許可をえて学内において行われているという形式的理由だけで、警察官の立入りを拒むことをえないものと解するのが相当である。もつとも、この後の場合においても、集会が単に非公開性を欠くに止まる場合においては、警察官の警備情報活動としての立入りは、警察官の特殊性にかんがみ、これが学内集会(ことに学問的会合)の運行を不当に妨げることとなり、集会主催者側においてその立入りを拒否するにつき正当の理由があることとなる場合もありうることを見逃してはならないであろう。
(四)本件につきこれをみるに、大学の公認団体であるAが主催した本件学内集会が、前示通達の線に副い、大学の許可(形式上は施設使用の許可)を得て法文経二五番教室において開催されたものてあり、また、東大の学生、職員約三〇〇名を対象とし、政治的目的を有する集会でないことを条件として許可されたものてあることは、本件記録に徴し明らかであり、また、原審は、右劇団Aの性格、本件集会の内容、警察官立入りの実情等につき一応の認定をしているのであるが、本件記録に徴すれば、原審は、右劇団Aの実休、本件集会の真の目的、その現実のあり方、許可に際し大学当局はこの集会の目的、内容をどのように理解していたか等本件集会の実態を明らかにするために必要な事項次関し審理又は判断をよく尽していないうらみがあることを否みえないのである。そして、この事実関係が明らかでないかぎりは、本件集会に対する警察官の立入りが、上述したところに照し、許容される限度をこえたものであるかどうかを判定することはできないのであるから、原判決には、少くとも、右の点に関し判決に影響を及ぼすべき審理不尽の違法があり、これを破棄しなければ著しく正義に反するものと思料する。
検祭官村上朝一、同中村哲夫、同神山欣治公判出席
(裁判長裁判官 横田喜三郎 裁判官 河村又介 裁判官 入江俊郎 裁判官 池田克 裁判官 垂水克己 裁判官 河村大助 裁判官 下飯坂潤夫 裁判官 奥野健一 裁判官 石坂修一 裁判官 山田作之助 裁判官 五鬼上堅磐 裁判官 横田正俊 裁判官 斎藤朔郎)

+判例(S51.5.21)旭川学力テスト
理由
(本件の経過)
本件公訴事実の要旨は、
被告人らは、いずれも、昭和三六年一〇月二六日A5中学校において実施予定の全国中学校一せい学力調査を阻止する目的をもつて、当日、他の数十名の説得隊員とともに、同校に赴いた者であるところ、
第一 被告人A4、同A1、同A2は、前記説得隊員と共謀のうえ、同校校長A6の制止にもかかわらず、強いて同校校舎内に侵入し、その後、同校長より更に強く退去の要求を受けたにもかかわらず、同校舎内から退去せず、
第二 同校長が同校第二学年教室において右学力調査を開始するや、
(一) 被告人A4は、約一〇名の説得隊員と共謀のうえ、右学力調査立会人として旭川市教育委員会から派遣された同委員会事務局職員A7が右学力調査の立会に赴くため同校長室を出ようとしたのに対し、共同して同人に暴行、脅迫を加えて、その公務の執行を妨害し、
(二) 被告人A2は、右学力調査補助者A8に対し暴行を加え、
(三) 被告人A1、同A2、同A3は、外三、四〇名の説得隊員と共謀のうえ、右学力調査を実施中の各教室を見回りつつあつた同校長に対し、共同して暴行、脅迫を加えて、その公務の執行を妨害し
たものである、
というものであつて、第一の事実につき建造物侵入罪、第二の(一)及び(三)の事実につき公務執行妨害罪、第二の(二)の事実につき暴行罪に該当するとして、起訴されたものである。
第一審判決は、右公訴事実第一の建造物侵入の事実については、ほぼ公訴事実に沿う事実を認定して被告人A4、同A1、同A2につき建造物侵入罪の成立を認め、第二の(一)、(二)の各事実については、いずれも被告人A4、同A2がA7及びA8に暴行、脅迫を加えた事実を認めるべき証拠がないとして、公務執行妨害罪及び暴行罪の成立を否定し、第二の(三)の事実については、ほぼ公訴事実に沿う外形的事実の存在を認めたが、A6校長の実施しようとした前記学力調査(以下「本件学力調査」という。)は違法であり、しかもその違法がはなはだ重大であるとして、公務執行妨害罪の成立を否定し、共同暴行罪(昭和三九年法律第一一四号による改正前の暴力行為等処罰に関する法律一条一項)の成立のみを認め、被告人A4を建造物侵入罪で有罪とし、被告人A1、同A2を建造物侵入罪と共同暴行罪とで有罪とし、両者を牽連犯として共同暴行罪の刑で処断し、被告人A3を共同暴行罪で有罪とした。
第一審判決に対し、検察官、被告人らの双方から控訴があつたが、原判決は、第一審判決の判断を是認して、検察官及び被告人らの各控訴を棄却した。
これに対し、検察官は、被告人A1、同A2、同A3に対する関係で上告を申し立て、また、被告人らも上告を申し立てた。
(弁護人の上告趣意について)
弁護人森川金寿、同南山富吉、同尾山宏、同彦坂敏尚、同上条貞夫、同手塚八郎、同新井章、同高橋清一、同吉川基道(旧姓川島)の上告趣意について
第一点は、判例違反をいうが、所論引用の判例はいずれも事案を異にして本件に適切でなく、第二点及び第三点は、単なる法令違反の主張であり、第四点は、事実誤認の主張であり、第五点は、判例違反をいうが、所論引用の判例はいずれも事案を異にして本件に適切でなく、いずれも適法な上告理由にあたらない。
(検察官の上告趣意第二点について)
一 論旨
論旨は、要するに、第一審判決及び原判決において、本件学力調査が違法であるとし、したがつて、これを実施しようとしたA6校長に対する暴行は公務執行妨害罪とならないとしているのは、本件学力調査の適法性に関する法令の解釈適用を誤つたものであるというのである。よつて、所論にかんがみ、職権により、本件学力調査の適法性について判断する。
二 本件学力調査の適法性に関する問題点
1 本件学力調査の概要
文部省は、昭和三五年秋ころ、全国中学校第二、三学年の全生徒を対象とする一せい学力調査を企画し、これを雑誌等を通じて明らかにした後、昭和三六年三月八日付文部省初等中等教育局長、同調査局長連名による「中学校生徒全国一せい学力調査の実施期日について(通知)」と題する書面を、次いで、同年四月二七日付同連名による「昭和三六年度全国中学校一せい学力調査実施について」と題する書面に調査実施要綱を添付したものを、各都道府県教育委員会教育長等にあて送付し、各都道府県教育委員会に対し、地方教育行政の組織及び運営に関する法律(以下「地教行法」という。)五四条二項に基づき、右調査実施要綱による調査及びその結果に関する資料、報告の提出を求めた。右調査実施要綱は、(1) 本件学力調査の目的は、(イ)文部省及び教育委員会においては、教育課程に関する諸施策の樹立及び学習指導の改善に役立たせる資料とすること、(ロ)中学校においては、自校の学習の到達度を全国的な水準との比較においてみることにより、その長短を知り、生徒の学習の指導とその向上に役立たせる資料とすること、(ハ)文部省及び教育委員会においては、学習の改善に役立つ教育条件を整備する資料とすること、(ニ)文部省及び教育委員会においては、育英、特殊教育施設などの拡充強化に役立てる等今後の教育施策を行うための資料とすること等であり、(2) 調査の対象は、全国中学校第二、三学年の全生徒とし、(3) 調査する教科は、国語、社会、数学、理科、英語の五教科とし、(4) 調査の実施期日は、昭和三六年一〇月二六日午前九時から午後三時までの間に、一教科五〇分として行い、(5)調査問題は、文部省において問題作成委員会を設けて教科別に作成し、(6) 調査の系統は、都道府県教育委員会(以下「都道府県教委」という。)は当該都道府県内の学力調査の全般的な管理運営にあたり、また、市町村教育委員会(以下「市町村教委」という。)は当該市町村の公立中学校の学力調査を実施するが、右実施のため、原則として、管内の各中学校長を当該学校のテスト責任者に、同教員を同補助員に命じ、更に教育委員会事務局職員などをテスト立会人として各中学校に派遣し、(7) 調査結果の整理集計は、原則として、市町村立学校については市町村教委が行い、都道府県教委において都道府県単位の集計を文部省に提出するものとし、(8) なお、調査結果の利用については、生徒指導要録の標準検査の記録欄に調査結果の換算点を記録する、等の内容を含むものである。
そこで、北海道教育委員会(以下「北海道教委」という。)は、同年六月二〇日付教育長名の通達により、道内各市町村教委に対して同旨の調査及びその結果に関する資料、報告の提出を求め、これを受けた旭川市教育委員会(以下「旭川市教委」という。)においては、同年一〇月二三日、同市立の各中学校長に対し、学校長をテスト責任者として各中学校における本件学力調査の実施を命じるに至つた。
なお、北海道教委及び旭川市教委の権限行使の根拠規定としては、それぞれ地教行法五四条二項、二三条一七号が挙げられていた。
以上の事実は、原判決が適法に確定するところである。

2 第一審判決及び原判決の見解
第一審判決及び原判決は、前記の過程を経て行われた本件学力調査は、文部省が独自に発案し、その具体的内容及び方法の一切を立案、決定し、各都道府県教委を経て各市町村教委にそのとおり実施させたものであつて、文部省を実質上の主体とする調査と認めるべきものであり、その適法性もまた、この前提に立つて判断すべきものであるとしたうえ、右調査は、(1) その性質、内容及び影響からみて教育基本法(以下「教基法」という。)一〇条一項にいう教育に対する不当な支配にあたり、同法を初めとする現行教育法秩序に違反する実質的違法性をもち、また、(2) 手続上の根拠となりえない地教行法五四条二項に基づいてこれを実施した点において、手続上も違法である、と判断している。そこで、以下において右の二点につき検討を加える。
三 本件学力調査と地教行法五四条二項(手続上の適法性)
(一) 原判決は、本件学力調査は、教育的価値判断にかかわり、教育活動としての実質を有し、行政機関による調査(行政調査)のわくを超えるものであるから、地教行法五四条二項を根拠としてこれを実施することはできない、と判示している。
行政調査は、通常、行政機関がその権限を行使する前提として、必要な基礎資料ないしは情報を収集、獲得する作用であつて、文部省設置法五条一項一二号、一三号、二八号、二九号は、特定事項に関する調査を文部省の権限事項として掲げ、地教行法二三条一七号は、地方公共団体の教育にかかる調査を当該地方公共団体の教育委員会(以下「地教委」という。)の職務権限としているほか、同法五三条は、特に文部大臣による他の教育行政機関の所掌事項についての調査権限を規定し、同法五四条にも調査に関する規定がある。本件学力調査がこのような行政調査として行われたものであることは、前記実施要綱に徴して明らかであるところ、原判決は、右調査が試験問題によつて生徒を試験するという方法をとつている点をとらえて、それは調査活動のわくを超えた固有の教育活動であるとしている。しかしながら、本件学力調査においてとられた右の方法が、教師の行う教育活動と一部としての試験とその形態を同じくするものであることは確かであるとしても、学力調査としての試験は、あくまでも全国中学校の生徒の学力の程度が一般的にどのようなものであるかを調査するためにされるものであつて、教育活動としての試験の場合のように、個々の生徒に対する教育の一環としての成績評価のためにされるものではなく、両者の間には、その趣旨と性格において明らかに区別があるのである。それ故、本件学力調査が生徒に対する試験という方法で行われたことの故をもつて、これを行政調査というよりはむしろ固有の教育活動としての性格をもつものと解し、したがつて地教行法五四条二項にいう調査には含まれないとすることは、相当でない。もつとも、行政調査といえども、無制限に許されるものではなく、許された目的のために必要とされる範囲において、その方法につき法的な制約が存する場合にはその制約の下で、行われなければならず、これに違反するときは、違法となることを免れない。原判決の指摘する上記の点は、むしろ本件学力調査の右の意味における適法性の問題に帰し、このような問題として論ずれば足りるのであつて、これについては、後に四で詳論する。
(二) 次に、原判決は、地教行法五四条二項は、文部大臣において地教委が自主的に実施した調査につきその結果の提出を要求することができることを規定したにとどまり、その前提としての調査そのものの実施を要求する権限を認めたものではないから、文部省が同条項の規定を根拠として本件学力調査の実施を要求することはできず、この点においても右調査の実施は手続上違法である、と判示している。
地教行法五四条二項が、同法五三条との対比上、文部大臣において本件学力調査のような調査の実施を要求する権限までをも認めたものと解し難いことは、原判決の説くとおりである。しかしながら、このことは、地教行法五四条二項によつて求めることができない文部大臣の調査要求に対しては、地教委においてこれに従う法的義務がないということを意味するだけであつて、右要求に応じて地教委が行つた調査行為がそのために当然に手続上違法となるわけのものではない。地教委は、前述のように、地教行法二三条一七号により当該地方公共団体の教育にかかる調査をする権限を有しており、各市町村教委による本件学力調査の実施も、当該市町村教委が文部大臣の要求に応じその所掌する中学校の教育にかかる調査として、右法条に基づいて行つたものであつて、文部大臣の要求によつてはじめて法律上根拠づけられる調査権限を行使したというのではないのである。その意味において、文部大臣の要求は、法手続上は、市町村教委による調査実施の動機をなすものであるにすぎず、その法的要件をなすものではない。それ故、本件において旭川市教委が旭川市立の各中学校につき実施した調査行為は、たとえそれが地教行法五四条二項の規定上文部大臣又は北海道教委の要求に従う義務がないにもかかわらずその義務があるものと信じてされたものであつても、少なくとも手続法上は権限なくしてされた行為として違法であるということはできない。そして、市町村教委は、市町村立の学校を所管する行政機関として、その管理権に基づき、学校の教育課程の編成について基準を設定し、一般的な指示を与え、指導、助言を行うとともに、特に必要な場合には具体的な命令を発することもできると解するのが相当であるから、旭川市教委が、各中学校長に対し、授業計画を変更し、学校長をテスト責任者としてテストの実施を命じたことも、手続的には適法な権限に基づくものというべく、要するに、本件学力調査の実施には手続上の違法性はないというべきである。
もつとも、右のように、旭川市教委による調査実施行為に手続上の違法性はないとしても、それが地教行法五四条二項による文部大臣の要求に応じてされたという事実がその実質上の適法性の問題との関連においてどのように評価、判断されるべきかは、おのずから別個の観点から論定されるべき問題であり、この点については、四で検討する。
四 本件学力調査と教育法制(実質上の適法性)
原判決は、本件学力調査は、その目的及び経緯に照らし、全体として文部大臣を実質上の主体とする調査であり、市町村教委の実施行為はその一環をなすものにすぎず、したがつてその実質上の適否は、右の全体としての調査との関連において判断されなければならないとし、文部大臣の右調査は、教基法一〇条を初めとする現行教育法秩序に違反する実質的違法性をもち、ひいては旭川市教委による調査実施行為も違法であることを免れない、と断じている。本件学力調査は文部大臣において企画、立案し、その要求に応じて実施されたものであり、したがつて、当裁判所も、右調査実施行為の実質上の適法性、特に教基法一〇条との関係におけるそれは、右の全体としての調査との関連において検討、判断されるべきものとする原判決の見解は、これを支持すべきものと考える。そこで、以下においては、このような立場から本件学力調査が原判決のいうように教基法一〇条を含む現行の教育法制及びそれから導かれる法理に違反するかどうかを検討することとする。

1 子どもの教育と教育権能の帰属の問題
(一) 子どもの教育は、子どもが将来一人前の大人となり、共同社会の一員としてその中で生活し、自己の人格を完成、実現していく基礎となる能力を身につけるために必要不可欠な営みであり、それはまた、共同社会の存続と発展のためにも欠くことのできないものである。この子どもの教育は、その最も始源的かつ基本的な形態としては、親が子との自然的関係に基づいて子に対して行う養育、監護の作用の一環としてあらわれるのであるが、しかしこのような私事としての親の教育及びその延長としての私的施設による教育をもつてしては、近代社会における経済的、技術的、文化的発展と社会の複雑化に伴う教育要求の質的拡大及び量的増大に対応しきれなくなるに及んで、子どもの教育が社会における重要な共通の関心事となり、子どもの教育をいわば社会の公共的課題として公共の施設を通じて組織的かつ計画的に行ういわゆる公教育制度の発展をみるに至り、現代国家においては、子どもの教育は、主としてこのような公共施設としての国公立の学校を中心として営まれるという状態になつている。
ところで、右のような公教育制度の発展に伴つて、教育全般に対する国家の関心が高まり、教育に対する国家の支配ないし介入が増大するに至つた一方、教育の本質ないしはそのあり方に対する反省も深化し、その結果、子どもの教育は誰が支配し、決定すべきかという問題との関連において、上記のような子どもの教育に対する国家の支配ないし介入の当否及びその限界が極めて重要な問題として浮かびあがるようになつた。このことは、世界的な現象であり、これに対する解決も、国によつてそれぞれ異なるが、わが国においても戦後の教育改革における基本的問題の一つとしてとりあげられたところである。本件における教基法一〇条の解釈に関する前記の問題の背景には右のような事情があり、したがつて、この問題を考察するにあたつては、広く、わが国において憲法以下の教育関係法制が右の基本的問題に対していかなる態度をとつているかという全体的な観察の下で、これを行わなければならない。
(二) ところで、わが国の法制上子どもの教育の内容を決定する権能が誰に帰属するとされているかについては、二つの極端に対立する見解があり、そのそれぞれが検察官及び弁護人の主張の基底をなしているようにみうけられる。すなわち、一の見解は、子どもの教育は、親を含む国民全体の共通関心事であり、公教育制度は、このような国民の期待と要求に応じて形成、実施されるものであつて、そこにおいて支配し、実現されるべきものは国民全体の教育意思であるが、この国民全体の教育意思は、憲法の採用する議会制民主主義の下においては、国民全体の意思の決定の唯一のルートである国会の法律制定を通じて具体化されるべきものであるから、法律は、当然に、公教育における教育の内容及び方法についても包括的にこれを定めることができ、また、教育行政機関も、法律の授権に基づく限り、広くこれらの事項について決定権限を有する、と主張する。これに対し、他の見解は、子どもの教育は、憲法二六条の保障する子どもの教育を受ける権利に対する責務として行われるべきもので、このような責務をになう者は、親を中心とする国民全体であり、公教育としての子どもの教育は、いわば親の教育義務の共同化ともいうべき性格をもつのであつて、それ故にまた、教基法一〇条一項も、教育は、国民全体の信託の下に、これに対して直接に責任を負うように行われなければならないとしている、したがつて、権力主体としての国の子どもの教育に対するかかわり合いは、右のような国民の教育義務の遂行を側面から助成するための諸条件の整備に限られ、子どもの教育の内容及び方法については、国は原則として介入権能をもたず、教育は、その実施にあたる教師が、その教育専門家としての立場から、国民全体に対して教育的、文化的責任を負うような形で、その内容及び方法を決定、遂行すべきものであり、このことはまた、憲法二三条における学問の自由の保障が、学問研究の自由ばかりでなく、教授の自由をも含み、教授の自由は、教育の本質上、高等教育のみならず、普通教育におけるそれにも及ぶと解すべきことによつても裏付けられる、と主張するのである。
当裁判所は、右の二つの見解はいずれも極端かつ一方的であり、そのいずれをも全面的に採用することはできないと考える。以下に、その理由と当裁判所の見解を述べる。

2 憲法と子どもに対する教育権能
(一) 憲法中教育そのものについて直接の定めをしている規定は憲法二六条であるが、同条は、一項において、「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。」と定め、二項において、「すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。」と定めているこの規定は、福祉国家の理念に基づき、国が積極的に教育に関する諸施設を設けて国民の利用に供する責務を負うことを明らかにするとともに、子どもに対する基礎的教育である普通教育の絶対的必要性にかんがみ、親に対し、その子女に普通教育を受けさせる義務を課し、かつ、その費用を国において負担すべきことを宣言したものであるが、この規定の背後には、国民各自が、一個の人間として、また、一市民として、成長、発達し、自己の人格を完成、実現するために必要な学習をする固有の権利を有すること、特に、みずから学習することのできない子どもは、その学習要求を充足するための教育を自己に施すことを大人一般に対して要求する権利を有するとの観念が存在していると考えられる。換言すれば、子どもの教育は、教育を施す者の支配的権能ではなく、何よりもまず、子どもの学習をする権利に対応し、その充足をはかりうる立場にある者の責務に属するものとしてとらえられているのである。
しかしながら、このように、子どもの教育が、専ら子どもの利益のために、教育を与える者の責務として行われるべきものであるということからは、このような教育の内容及び方法を、誰がいかにして決定すべく、また、決定することができるかという問題に対する一定の結論は、当然には導き出されない。すなわち、同条が、子どもに与えるべき教育の内容は、国の一般的な政治的意思決定手続によつて決定されるべきか、それともこのような政治的意思の支配、介入から全く自由な社会的、文化的領域内の問題として決定、処理されるべきかを、直接一義的に決定していると解すべき根拠は、どこにもみあたらないのである。
(二) 次に、学問の自由を保障した憲法二三条により、学校において現実に子どもの教育の任にあたる教師は、教授の自由を有し、公権力による支配、介入を受けないで自由に子どもの教育内容を決定することができるとする見解も、採用することができない確かに、憲法の保障する学問の自由は、単に学問研究の自由ばかりでなく、その結果を教授する自由をも含むと解されるし、更にまた、専ら自由な学問的探求と勉学を旨とする大学教育に比してむしろ知識の伝達と能力の開発を主とする普通教育の場においても、例えば教師が公権力によつて特定の意見のみを教授することを強制されないという意味において、また、子どもの教育が教師と子どもとの間の直接の人格的接触を通じ、その個性に応じて行われなければならないという本質的要請に照らし、教授の具体的内容及び方法につきある程度自由な裁量が認められなければならないという意味においては、一定の範囲における教授の自由が保障されるべきことを肯定できないではないしかし、大学教育の場合には、学生が一応教授内容を批判する能力を備えていると考えられるのに対し、普通教育においては、児童生徒にこのような能力がなく、教師が児童生徒に対して強い影響力、支配力を有することを考え、また、普通教育においては、子どもの側に学校や教師を選択する余地が乏しく、教育の機会均等をはかる上からも全国的に一定の水準を確保すべき強い要請があること等に思いをいたすときは、普通教育における教師に完全な教授の自由を認めることは、とうてい許されないところといわなければならないもとより、教師間における討議や親を含む第三者からの批判によつて、教授の自由にもおのずから抑制が加わることは確かであり、これに期待すべきところも少なくないけれども、それによつて右の自由の濫用等による弊害が効果的に防止されるという保障はなく、憲法が専ら右のような社会的自律作用による抑制のみに期待していると解すべき合理的根拠は、全く存しないのである
(三) 思うに、子どもはその成長の過程において他からの影響によつて大きく左右されるいわば可塑性をもつ存在であるから、子どもにどのような教育を施すかは、その子どもが将来どのような大人に育つかに対して決定的な役割をはたすものである。それ故、子どもの教育の結果に利害と関心をもつ関係者が、それぞれその教育の内容及び方法につき深甚な関心を抱き、それぞれの立場からその決定、実施に対する支配権ないしは発言権を主張するのは、極めて自然な成行きということができる。子どもの教育は、前述のように、専ら子どもの利益のために行われるべきものであり、本来的には右の関係者らがその目的の下に一致協力して行うべきものであるけれども、何が子どもの利益であり、また、そのために何が必要であるかについては、意見の対立が当然に生じうるのであつて、そのために教育内容の決定につき矛盾、対立する主張の衝突が起こるのを免れることができない。憲法がこのような矛盾対立を一義的に解決すべき一定の基準を明示的に示していないことは、上に述べたとおりである。そうであるとすれば、憲法の次元におけるこの問題の解釈としては、右の関係者らのそれぞれの主張のよつて立つ憲法上の根拠に照らして各主張の妥当すべき範囲を画するのが、最も合理的な解釈態度というべきである。
そして、この観点に立つて考えるときは、まず親は、子どもに対する自然的関係により、子どもの将来に対して最も深い関心をもち、かつ、配慮をすべき立場にある者として、子どもの教育に対する一定の支配権、すなわち子女の教育の自由を有すると認められるが、このような親の教育の自由は、主として家庭教育等学校外における教育や学校選択の自由にあらわれるものと考えられるし、また、私学教育における自由や前述した教師の教授の自由も、それぞれ限られた一定の範囲においてこれを肯定するのが相当であるけれども、それ以外の領域においては、一般に社会公共的な問題について国民全体の意思を組織的に決定、実現すべき立場にある国は、国政の一部として広く適切な教育政策を樹立、実施すべく、また、しうる者として、憲法上は、あるいは子ども自身の利益の擁護のため、あるいは子どもの成長に対する社会公共の利益と関心にこたえるため、必要かつ相当と認められる範囲において、教育内容についてもこれを決定する権能を有するものと解さざるをえず、これを否定すべき理由ないし根拠は、どこにもみいだせないのである。もとより、政党政治の下で多数決原理によつてされる国政上の意思決定は、さまざまな政治的要因によつて左右されるものであるから、本来人間の内面的価値に関する文化的な営みとして、党派的な政治的観念や利害によつて支配されるべきでない教育にそのような政治的影響が深く入り込む危険があることを考えるときは、教育内容に対する右のごとき国家的介入についてはできるだけ抑制的であることが要請されるし、殊に個人の基本的自由を認め、その人格の独立を国政上尊重すべきものとしている憲法の下においては、子どもが自由かつ独立の人格として成長することを妨げるような国家的介入、例えば、誤つた知識や一方的な観念を子どもに植えつけるような内容の教育を施すことを強制するようなことは、憲法二六条、一三条の規定上からも許されないと解することができるけれども、これらのことは、前述のような子どもの教育内容に対する国の正当な理由に基づく合理的な決定権能を否定する理由となるものではないといわなければならない。

3 教基法一〇条の解釈
次に、憲法における教育に対する国の権能及び親、教師等の教育の自由についての上記のような理解を背景として、教基法一〇条の規定をいかに解釈すべきかを検討する。
(一) 教基法は、憲法において教育のあり方の基本を定めることに代えて、わが国の教育及び教育制度全体を通じる基本理念と基本原理を宣明することを目的として制定されたものであつて、戦後のわが国の政治、社会、文化の各方面における諸改革中最も重要な問題の一つとされていた教育の根本的改革を目途として制定された諸立法の中で中心的地位を占める法律であり、このことは、同法の前文の文言及び各規定の内容に徴しても、明らかである。それ故、同法における定めは、形式的には通常の法律規定として、これと矛盾する他の法律規定を無効にする効力をもつものではないけれども、一般に教育関係法令の解釈及び運用については、法律自体に別段の規定がない限り、できるだけ教基法の規定及び同法の趣旨、目的に沿うように考慮が払われなければならないというべきである。
ところで、教基法は、その前文の示すように、憲法の精神にのつとり、民主的で文化的な国家を建設して世界の平和と人類の福祉に貢献するためには、教育が根本的重要性を有するとの認識の下に、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的で、しかも個性豊かな文化の創造をめざす教育が今後におけるわが国の教育の基本理念であるとしている。これは、戦前のわが国の教育が、国家による強い支配の下で形式的、画一的に流れ、時に軍国主義的又は極端な国家主義的傾向を帯びる面があつたことに対する反省によるものであり、右の理念は、これを更に具体化した同法の各規定を解釈するにあたつても、強く念頭に置かれるべきものであることは、いうまでもない。
(二) 本件で問題とされている教基法一〇条は、教育と教育行政との関係についての基本原理を明らかにした極めて重要な規定であり、一項において、「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである。」と定め、二項において、「教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない。」と定めている。この規定の解釈については、検察官の主張と原判決が大筋において採用したと考えられる弁護人の主張との間に顕著な対立があるが、その要点は、(1) 第一に、教育行政機関が法令に基づいて行政を行う場合は右教基法一〇条一項にいう「不当な支配」に含まれないと解すべきかどうかであり、(2) 第二に、同条二項にいう教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立とは、主として教育施設の設置管理、教員配置等のいわゆる教育の外的事項に関するものを指し、教育課程、教育方法等のいわゆる内的事項については、教育行政機関の権限は原則としてごく大綱的な基準の設定に限られ、その余は指導、助言的作用にとどめられるべきものかどうかである、と考えられる。
(三) まず、(1)の問題について考えるのに、前記教基法一〇条一項は、その文言からも明らかなように、教育が国民から信託されたものであり、したがつて教育は、右の信託にこたえて国民全体に対して直接責任を負うように行われるべく、その間において不当な支配によつてゆがめられることがあつてはならないとして、教育が専ら教育本来の目的に従つて行われるべきことを示したものと考えられる。これによつてみれば、同条項が排斥しているのは、教育が国民の信託にこたえて右の意味において自主的に行われることをゆがめるような「不当な支配」であつて、そのような支配と認められる限り、その主体のいかんは問うところでないと解しなければならない。それ故、論理的には、教育行機関が行う行政でも、右にいう「不当な支配」にあたる場合がありうることを否定できず、問題は、教育行政機関が法令に基づいてする行為が「不当な支配」にあたる場合がありうるかということに帰着する。思うに、憲法に適合する有効な他の法律の命ずるところをそのまま執行する教育行政機関の行為がここにいう「不当な支配」となりえないことは明らかであるが、上に述べたように、他の教育関係法律は教基法の規定及び同法の趣旨、目的に反しないように解釈されなければならないのであるから、教育行政機関がこれらの法律を運用する場合においても、当該法律規定が特定的に命じていることを執行する場合を除き、教基法一〇条一項にいう「不当な支配」とならないように配慮しなければならない拘束を受けているものと解されるのであり、その意味において、教基法一〇条一項は、いわゆる法令に基づく教育行政機関の行為にも適用があるものといわなければならない。
(四) そこで、次に、上記(2)の問題について考えるのに、原判決は、教基法一〇条の趣旨は、教育が「国民全体のものとして自主的に行われるべきものとするとともに」、「教育そのものは人間的な信頼関係の上に立つてはじめてその成果をあげうることにかんがみ、教育の場にあつて被教育者に接する教員の自由な創意と工夫とに委ねて教育行政機関の支配介入を排し、教育行政機関としては、右の教育の目的達成に必要な教育条件の整備確立を目標とするところにその任務と任務の限界があることを宣明」したところにあるとし、このことから、「教育内容及び教育方法等への(教育行政機関の)関与の程度は、教育機関の種類等に応じた大綱的基準の定立のほかは、法的拘束力を伴わない指導、助言、援助を与えることにとどまると解すべきである。」と判示している。
思うに、子どもの教育が、教師と子どもとの間の直接の人格的接触を通じ、子どもの個性に応じて弾力的に行われなければならず、そこに教師の自由な創意と工夫の余地が要請されることは原判決の説くとおりであるし、また、教基法が前述のように戦前における教育に対する過度の国家的介入、統制に対する反省から生まれたものであることに照らせば、同法一〇条が教育に対する権力的介入、特に行政権力によるそれを警戒し、これに対して抑制的態度を表明したものと解することは、それなりの合理性を有するけれども、このことから、教育内容に対する行政の権力的介入が一切排除されているものであるとの結論を導き出すことは、早計である。さきにも述べたように、憲法上、国は、適切な教育政策を樹立、実施する権能を有し、国会は、国の立法機関として、教育の内容及び方法についても、法律により、直接に又は行政機関に授権して必要かつ合理的な規制を施す権限を有するのみならず、子どもの利益のため又は子どもの成長に対する社会公共の利益のためにそのような規制を施すことが要請される場合もありうるのであり、国会が教基法においてこのような権限の行使を自己限定したものと解すべき根拠はない。むしろ教基法一〇条は、国の教育統制権能を前提としつつ、教育行政の目標を教育の目的の遂行に必要な諸条件の整備確立に置き、その整備確立のための措置を講ずるにあたつては、教育の自主性尊重の見地から、これに対する「不当な支配」となることのないようにすべき旨の限定を付したところにその意味があり、したがつて、教育に対する行政権力の不当、不要の介入は排除されるべきであるとしても、許容される目的のために必要かつ合理的と認められるそれは、たとえ教育の内容及び方法に関するものであつても、必ずしも同条の禁止するところではないと解するのが、相当である。
もつとも、原判決も、教育の内容及び方法に対する教育行政機関の介入が一切排除されていると解しているわけではなく、前述のように、権力的介入としては教育機関の種類等に応じた大綱的基準の設定を超えることができないとするにとどまつている。原判決が右にいう大綱的基準としてどのようなものを考えているかは必ずしも明らかでないが、これを国の教育行政機関についていえば、原判決において、前述のような教師の自由な教育活動の要請と現行教育法体制における教育の地方自治の原則に照らして設定されるべき基準は全国的観点からする大綱的なものに限定されるべきことを指摘し、かつ、後述する文部大臣の定めた中学校学習指導要領を右の大綱的基準の限度を超えたものと断じているところがらみれば、原判決のいう大綱的基準とは、弁護人の主張するように、教育課程の構成要素、教科名、授時数等のほか、教科内容、教育方法については、性質上全国的画一性を要する度合が強く、指導助言行政その他国家立法以外の手段ではまかないきれない、ごく大綱的な事項を指しているもののように考えられる。
思うに、国の教育行政機関が法律の授権に基づいて義務教育に属する普通教育の内容及び方法について遵守すべき基準を設定する場合には、教師の創意工夫の尊重等教基法一〇条に関してさきに述べたところのほか、後述する教育に関する地方自治の原則をも考慮し、右教育における機会均等の確保と全国的な一定の水準の維持という目的のために必要かつ合理的と認められる大綱的なそれにとどめられるべきものと解しなければならないけれども、右の大綱的基準の範囲に関する原判決の見解は、狭きに失し、これを採用することはできないと考える。これを前記学習指導要領についていえば、文部大臣は、学校教育法三八条、一〇六条による中学校の教科に関する事項を定める権限に基づき、普通教育に属する中学校における教育の内容及び方法につき、上述のような教育の機会均等の確保等の目的のために必要かつ合理的な基準を設定することができるものと解すべきところ、本件当時の中学校学習指導要領の内容を通覧するのに、おおむね、中学校において地域差、学校差を超えて全国的に共通なものとして教授されることが必要な最小限度の基準と考えても必ずしも不合理とはいえない事項が、その根幹をなしていると認められるのであり、その中には、ある程度細目にわたり、かつ、詳細に過ぎ、また、必ずしも法的拘束力をもつて地方公共団体を制約し、又は教師を強制するのに適切でなく、また、はたしてそのように制約し、ないしは強制する趣旨であるかどうか疑わしいものが幾分含まれているとしても、右指導要領の下における教師による創造的かつ弾力的な教育の余地や、地方ごとの特殊性を反映した個別化の余地が十分に残されており、全体としてはなお全国的な大綱的基準としての性格をもつものと認められるし、また、その内容においても、教師に対し一方的な一定の理論ないしは観念を生徒に教え込むことを強制するような点は全く含まれていないのである。それ故、上記指導要領は、全体としてみた場合、教育政策上の当否はともかくとして、少なくとも法的見地からは、上記目的のために必要かつ合理的な基準の設定として是認することができるものと解するのが、相当である。

4 本件学力調査と教基法一〇条
そこで、以上の解釈に基づき、本件学力調査が教基法一〇条一項にいう教育に対する「不当な支配」として右規定に違反するかどうかを検討する。
本件学力調査が教育行政機関である文部大臣において企画、立案し、その要求に応じて実施された行政調査たる性格をもつものであることはさきに述べたとおりであるところ、それが行政調査として教基法一〇条との関係において適法とされうるかどうかを判断するについては、さきに述べたとおり、その調査目的において文部大臣の所掌とされている事項と合理的関連性を有するか、右の目的のために本件のような調査を行う必要性を肯定することができるか、本件の調査方法に教育に対する不当な支配とみられる要素はないか等の問題を検討しなければならない。
(一) まず、本件学力調査の目的についてみるのに、右調査の実施要綱には、前記二の1の(1)で述べたように、調査目的として四つの項目が挙げられている。このうち、文部大臣及び教育委員会において、調査の結果を、(イ)の教育課程に関する諸施策の樹立及び学習指導の改善に役立たせる資料とすること、(ハ)の学習の改善に役立つ教育条件を整備する資料とすること、(ニ)の育英、特殊教育施設などの拡充強化に役立てる等今後の教育施策を行うための資料とすること等は、文部大臣についていえば、文部大臣が学校教育等の振興及び普及を図ることを任務とし、これらの事項に関する国の行政事務を一体的に遂行する責任を負う行政機関(文部省設置法四条)として、全国中学校における教育の機会均等の確保、教育水準の維持、向上に努め、教育施設の整備、充実をはかる責務と権限を有することに照らし、これらの権限と合理的関連性を有するものと認めることができるし、右目的に附随して、地教委をしてそれぞれの所掌する事項に調査結果を利用させようとすることも、文部大臣の地教委に対する指導、助言的性格のものとして不当ということはできない。また、右四項目中(ロ)の、中学校において、本件学力調査の結果により、自校の学習の到達度を全国的な水準との比較においてみることにより、その長短を知り、生徒の学習の指導とその向上に役立たせる資料とするという項目は、それが文部大臣固有の行政権限に直接関係せず、中学校における教育実施上の目的に資するためのものである点において、調査目的として正当性を有するかどうか問題であるけれども、右は、本件学力調査全体の趣旨、目的からいえば、単に副次的な意義をもつものでしかないと認めるのが相当であるのみならず、調査結果を教育活動上利用すべきことを強制するものではなく、指導、助言的性格のものにすぎず、これをいかに利用するかは教師の良識ある判断にまかされるべきものと考えられるから、右の(ロ)が調査目的の一つに掲げられているからといつて、調査全体の目的を違法不当のものとすることはできないというべきである。
(二) 次に、本件学力調査は、原判決の認定するところによれば、文部省が当時の中学校学習指導要領によつて試験問題を作成し、二の1で述べたように、全国の中学校の全部において一せいに右問題による試験を行い、各地教委にその結果を集計、報告させる等の方法によつて行われたものであつて、このような方法による調査が前記の調査目的のために必要と認めることができるかどうか、及び教育に対する不当な支配の要素をもつものでないかどうかは、慎重な検討を要する問題である。
まず、必要性の有無について考えるのに、全国の中学校における生徒の学力の程度がどの程度のものであり、そこにどのような不足ないしは欠陥があるかを知ることは、上記の(イ)、(ハ)、(ニ)に掲げる諸施策のための資料として必要かつ有用であることは明らかであり、また、このような学力調査の方法としては、結局試験によつてその結果をみるよりほかにはないのであるから、文部大臣が全国の中学校の生徒の学力をできるだけ正確かつ客観的に把握するためには、全国の中学校の生徒に対し同一試験問題によつて同一調査日に同一時間割で一せいに試験を行うことが必要であると考えたとしても、決して不合理とはいえない。それ故、本件学力調査は、その必要性の点において欠けるところはないというべきである。
(三) 問題となるのは、上記のような方法による調査が、その一面において文部大臣が直接教育そのものに介入するという要素を含み、また、右に述べたような調査の必要性によつては正当化することができないほどに教育に対して大きな影響力を及ぼし、これらの点において文部大臣の教育に対する「不当な支配」となるものではないか、ということである。
これにつき原判決は、右のような方法による本件学力調査は教基法一〇条にいう教育に対する「不当な支配」にあたるとし、その理由として、(1) 右調査の実施のためには、各中学校において授業計画の変更を必要とするが、これは実質上各学校の教育内容の一部を強制的に変更させる意味をもつものであること、また、(2) 右調査は、生徒を対象としてその学習の到達度と学校の教育効果を知るという性質のものである点において、教師が生徒に対する学習指導の結果を試験によつて把握するのと異なるところがなく、教育的価値判断にかかわる教育活動としての実質をもつていること、更に、(3) 前記の方法による調査を全国の中学校のすべての生徒を対象として実施することは、これらの学校における日常の教育活動を試験問題作成者である文部省の定めた学習指導要領に盛られている方針ないしは意向に沿つて行わせる傾向をもたらし、教師の自由な創意と工夫による教育活動を妨げる一般的危険性をもつものであり、現に一部においてそれが現実化しているという現象がみられること、を挙げている。
そこでまず、右(1)及び(2)の点について考えるのに、本件学力調査における生徒に対する試験という方法が、あくまでも生徒の一般的な学力の程度を把握するためのものであつて、個々の生徒の成績評価を目的とするものではなく、教育活動そのものとは性格を異にするものであることは、さきに述べたとおりである。もつとも、試験という形態をとる以上、前者の目的でされたものが後者の目的に利用される可能性はあり、現に本件学力調査においても、試験の結果を生徒指導要録に記録させることとしている点からみれば、両者の間における一定の結びつきの存在を否定することはできないけれども、この点は、せつかく実施した試験の結果を生徒に対する学習指導にも利用させようとする指導、助言的性格のものにすぎないとみるべきであるから、以上の点をもつて、文部省自身が教育活動を行つたものであるとすることができないのはもちろん、教師に対して一定の成績評価を強制し、教育に対する実質的な介入をしたものとすることも、相当ではない。また、試験実施のために試験当日限り各中学校における授業計画の変更を余儀なくされることになるとしても、右変更が年間の授業計画全体に与える影響についてみるとき、それは、実質上各学校の教育内容の一部を強制的に変更させる意味をもつほどのものではなく、前記のような本件学力調査の必要性によつて正当化することができないものではないのである。
次に、(3)の点について考えるのに、原判決は、本件学力調査の結果として、全国の中学校及びその教師の間に、学習指導要領の指示するところに従つた教育を行う風潮を生じさせ、教師の教育の自由が阻害される危険性があることをいうが、もともと右学習指導要領自体が全体としてみて中学校の教育課程に関する基準の設定として適法なものであり、これによつて必ずしも教師の教育の自由を不当に拘束するものとは認められないことはさきに述べたとおりであるのみならず、本件学力調査は、生徒の一般的な学力の実態調査のために行われたもので、学校及び教師による右指導要領の遵守状況を調査し、その結果を教師の勤務評定にも反映させる等して、間接にその遵守を強制ないしは促進するために行われたものではなく、右指導要領は、単に調査のための試験問題作成上の基準として用いられたにとどまつているのである。もつとも、右調査の実施によつて、原判決の指摘するように、中学校内の各クラス間、各中学校間、更には市町村又は都道府県間における試験成績の比較が行われ、それがはねかえつてこれらのものの間の成績競争の風潮を生み、教育上必ずしも好ましくない状況をもたらし、また、教師の真に自由で創造的な教育活動を畏縮させるおそれが絶無であるとはいえず、教育政策上はたして適当な措置であるかどうかについては問題がありうべく、更に、前記のように、試験の結果を生徒指導要録の標準検査の欄に記録させることとしている点については、特にその妥当性に批判の余地があるとしても、本件学力調査実施要綱によれば、同調査においては、試験問題の程度は全体として平易なものとし、特別の準備を要しないものとすることとされ、また、個々の学校、生徒、市町村、都道府県についての調査結果は公表しないこととされる等一応の配慮が加えられていたことや、原判決の指摘する危険性も、教師自身を含めた教育関係者、父母、その他社会一般の良識を前提とする限り、それが全国的に現実化し、教育の自由が阻害されることとなる可能性がそれほど強いとは考えられないこと(原判決の挙げている一部の県における事例は、むしろ例外的現象とみるべきである。)等を考慮するときは、法的見地からは、本件学力調査を目して、前記目的のための必要性をもつてしては正当化することができないほどの教育に対す強い影響力、支配力をもち、教基法一〇条にいう教育に対する「不当な支配」にあたるものとすることは、相当ではなく、結局、本件学力調査は、その調査の方法において違法であるということはできない。
(四) 以上説示のとおりであつて、本件学力調査には、教育そのものに対する「不当な支配」として教基法一〇条に違反する違法があるとすることはできない。
5 本件学力調査と教育の地方自治
なお、原判決は、文部大臣が地教委をして本件のような調査を実施させたことは、現行教育法制における教育の地方自治の原則に反するものを含むとして、この点からも本件学力調査の適法性を問題としているので、最後にこの点について判断を加える。
(一) 思うに、現行法制上、学校等の教育に関する施設の設置、管理及びその他教育に関する事務は、普通地方公共団体の事務とされ(地方自治法二条三項五号)、公立学校における教育に関する権限は、当該地方公共団体の教育委員会に属するとされる(地教行法二三条、三二条、四三条等)等、教育に関する地方自治の原則が採用されているが、これは、戦前におけるような国の強い統制の下における全国的な画一的教育を排して、それぞれの地方の住民に直結した形で、各地方の実情に適応した教育を行わせるのが教育の目的及び本質に適合するとの観念に基づくものであつて、このような地方自治の原則が現行教育法制における重要な基本原理の一つをなすものであることは、疑いをいれない。そして、右の教育に関する地方自治の原則からすれば、地教委の有する教育に関する固有の権限に対する国の行政機関である文部大臣の介入、監督の権限に一定の制約が存することも、原判決の説くとおりである。このような制限は、さまざまの関係において問題となりうべく、前記中学校学習指導要領の法的効力に関する問題もその一つであるが、この点についてはすでに触れたので、以下においては、本件学力調査において、文部大臣が地教行法五四条二項によつては地教委にその調査の実施を要求することができないにもかかわらずこれを要求し、地教委をしてその実施に至らせたことが、教育に関する地方自治の原則に反するものとして実質的違法性を生じさせるものであるかどうかを、検討する。
(二) 文部大臣は、地教行法五四条二項によつては地教委に対し本件学力調査の実施をその義務として要求することができないことは、さきに三において述べたとおりであり、このような要求をすることが教育に関する地方自治の原則に反することは、これを否定することができない。しかしながら、文部大臣の右要求行為が法律の根拠に基づかないものであるとしても、そのために右要求に応じて地教委がした実施行為が地方自治の原則に違反する行為として違法となるかどうかは、おのずから別個の問題である。思うに、文部大臣が地教行法五四条二項によつて地教委に対し本件学力調査の実施を要求することができるとの見解を示して、地教委にその義務の履行を求めたとしても、地教委は必ずしも文部大臣の右見解に拘束されるものではなく、文部大臣の右要求に対し、これに従うべき法律上の義務があるかどうか、また、法律上の義務はないとしても、右要求を一種の協力要請と解し、これに応ずるのを妥当とするかどうかを、独自の立場で判断し、決定する自由を有するのである。それ故、地教委が文部大臣の要求に応じてその要求にかかる事項を実施した場合には、それは、地教委がその独自の判断に基づきこれに応ずべきものと決定して実行に踏み切つたことに帰着し、したがつて、たとえ右要求が法律上の根拠をもたず、当該地教委においてこれに従う義務がない場合であつたとしても、地教委が当該地方公共団体の内部において批判を受けることは格別、窮極的にはみずからの判断と意見に基づき、その有する権限の行使としてした実施行為がそのために実質上違法となるべき理はないというべきである。それ故、本件学力調査における調査の実施には、教育における地方自治の原則に反する違法があるとすることはできない。
五 結び
以上の次第であつて、本件学力調査には、手続上も実質上も違法はない。
そうすると、A6校長の本件学力調査の実施は適法な公務の執行であつて、同校長がこのような職務を執行するにあたりこれに対して暴行を加えた本件行為は公務執行妨害罪を構成すると解するのが、相当である。これと異なる見地に立ち、被告人A1、同A2、同A3のA6校長に対する暴行につき公務執行妨害罪の成立を認めず、共同暴行罪の成立のみを認めた第一審判決及びこれを維持した原判決は、地教行法五四条二項、二三条一七号、教基法一〇条の解釈を誤り、ひいては刑法九五条一項の適用を誤つたものであつて、その誤りは判決に影響を及ぼし、かつ、原判決及び第一審判決を破棄しなければ著しく正義に反するものと認める。
(結論)
よつて、検察官の上告趣意中のその余の所論に対する判断を省略し、刑訴法四一四条、三九六条により被告人A4の本件上告を棄却し、同法四一一条一号により原判決及び第一審判決中被告人A1、同A2、同A3に関する部分を破棄し、なお、直ちに判決をすることができるものと認めて、同法四一三条但書により被告人A1、同A2、同A3に対する各被告事件について更に判決する。
第一審判決の証拠の標目掲記の各証拠によると、被告人A1、同A2、同A3は、いずれも、昭和三六年一〇月二六日旭川市永山町所在のA5中学校において実施予定の全国中学校一せい学力調査を阻止するための説得活動をする目的をもつて、当日、同校に赴いた者であるところ、(1) 被告人A1は、右説得活動をするために集まつた約七〇名の者と互いにその意思を通じて共謀のうえ、同日午前八時過ぎころ、右の者らとともに、同校正面玄関から、同校校長A6の制止にもかかわらず、同校長が管理するA5中学校校舎内各所に立ち入り、もつて故なく建造物に侵入し、被告人A2は、同日午前九時ころ、前記のとおりすでに故なく校舎内に侵入していた者らと意思を通じて、同校正面玄関から右校舎内各所に立ち入り、もつて故なく建造物に侵入し、また、(2) 同校長が同日午前一一時四〇分ころから同校二階の二年A、B、C、D各組の教室において学力調査を実施し始めたところ、(イ)被告人A3は、同日午後零時過ぎころ、二年各組の教室前の廊下において、職務として学力調査実施中の各教室を見回りつつあつた同校長に対し、同校長が教室への出入りを妨げられたためやむなく二年D組教室の外側窓から同C組教室の外側窓に足をかけて渡つた事実をとらえて、「最高責任者である校長が窓渡りをするとはあまりに非常識じゃないか。」等と激しく非難抗議をするに際し、手拳をもつて同校長の胸部付近を突いて暴行を加え、もつてその公務の執行を妨害し、更に、(ロ)被告人A1、同A2、同A3は、そのころ、同校二階において、職務として学力調査実施中の各教室を見回りつつあつた同校長を階下校長室に連れて行こうとして、同校長の周辺に集まつていた約一四、五名の者と互いに意思を通じて共謀のうえ、被告人A1においては同校長の右腕をかかえて二、三歩引つぱり、被告人A2、同A3においては右の者らとともに同校長の身近かにほぼ馬てい形にこれをとり囲み、これらの者は口々に「テストを中止したらどうか。」とか「下へ行つて話をしよう。」などと抗議し、あるいは促し、また、同校長の体に手をかけたり、同校長が教室内にはいろうとするのを出入口に立つて妨げる等して、同校長をとり囲んだままの状態で、同校長をして、その意思に反して正面玄関側階段方向へ二年A組教室前付近まで移動するのやむなきに至らせて同校長の行動の自由を束縛する等の暴行を加え、もつてその公務の執行を妨害したものであることが、認めらる。
右事実に法令を適用すると、被告人A1、同A2の所為中建造物侵入の点は、行為時においては刑法六〇条、一三〇条前段、昭和四七年法律第六一号による改正前の罰金等臨時措置法三条一項一号に、裁判時においては刑法六〇条、一三〇条前段、昭和四七年法律第六一号による改正後の罰金等臨時措置法三条一項一号に該当するが、犯罪後の法律により刑の変更があつたときにあたるから、刑法六条、一〇条により軽い行為時法の刑によることとし、A6校長の職務の執行に対し暴行を加えた点は、同法六〇条、九五条一項に該当し、被告人A3の同校長の職務の執行に対し暴行を加えた所為は、包括して同法六〇条、九五条一項に該当するところ、被告人A1、同A2の建造物侵入と公務執妨害との間には手段結果の関係があるので、同法五四条一項後段、一〇条により一罪として重い後者の罪につき定めた懲役刑で処断し、被告人A3の罪につき所定刑中懲役刑を選択することとし、各刑期の範囲内において、被告人A1を懲役三月に、被告人A2を懲役一月に、被人A3を懲役二月に処し、同法二五条一項を適用して、被告人A1、同A2、同A3に対し、この裁判確定の日から一年間その刑の執行を猶予し、また、公訴事実第二の(二)の被告人A2のA8に対する暴行については、その証明がないとする第一審判決の判断はこれを維持すべきであるが、同被告人に対する判示建造物侵入の罪と牽連犯の関係にあるとして起訴されたものであるから、主文において特に無罪の言渡をしないこととし、なお、第一審及び原審における訴訟費用の負担については、刑訴法一八一条一項本文、一八二条により、主文第四項記載のとおり定めることとし、主文のとおり判決する。
この判決は、裁判官全員一致の意見によるものである。
検察官長島敦、同蒲原大輔、同伊藤栄樹、同臼井滋夫、同安田道夫 公判出席
(裁判長裁判官 村上朝一 裁判官 藤林益三 裁判官 岡原昌男 裁判官 下田武三 裁判官 岸盛一 裁判官 天野武一 裁判官 岸上康夫 裁判官 江里口清雄 裁判官 大塚喜一郎 裁判官 高辻正己 裁判官 吉田豊 裁判官 団藤重光 裁判官 本林護 裁判官 服部高顯 裁判官坂本吉勝は、退官のため署名押印することができない。裁判長裁判官 村上朝一)

・学問とは
論理的手段をもって真理を探究する人の意識作用

Q 裁判官の政治活動は許されるか?
(1)政治活動を制限する理由

+判例(H10.12.1)寺西判事補事件
理由
第一 懲戒についての認定判断
一 懲戒の原因となる事実等
1 本件に至る経緯
(一)抗告人は、平成五年四月九日付けで判事補に任命され、同一〇年四月一日以降、仙台地方裁判所判事補兼仙台家庭裁判所判事補、仙台簡易裁判所判事の職にある者である。
(二)法制審議会が平成九年九月一〇日に組織的犯罪対策法要綱骨子を法務大臣に答申したことに関連して、抗告人は、朝日新聞に、裁判官であることを明らかにして、「法制審議会が組織的犯罪対策法要綱骨子を法務大臣に答申した。団体概念のあいまいさ、資金洗浄規制など問題が多いのだが、ここでは、盗聴捜査についてのみ触れる。裁判官の発付する令状に基づいて通信傍受が行われるのだから、盗聴の乱用の心配はないという人もいる。しかし、裁判官の令状審査の実態に多少なりとも触れる機会のある身としては、裁判官による令状審査が人権擁護のとりでになるとは、とても思えない。令状に関しては、ほとんど、検察官、警察官の言いなりに発付されているというのが現実だ。それを、検察官、警察官の令状請求自体が適切に行われている結果だと言う人もいる。しかし、現行法上は盗聴捜査を認める令状は存在せず、盗聴捜査は違法であるというのが、刑事訴訟法学者の圧倒的多数説であるにもかかわらず、電話盗聴を認める検証許可状が発付され、それが複数の地裁、高裁の判決で合憲・合法だと言い放たれている現実をみると、とてもそうだとは思えないのである。通信の秘密、プライバシー権、表現の自由という重要な人権にかかわる盗聴令状の審査を、このような裁判官にゆだねて本当に大丈夫だと思いますか?」という内容の投書をし、これが「信頼できない盗聴令状審査」という標題の下に、同年一〇月二日付けの同新聞朝刊に掲載された。
(三)内閣は、右答申に基づいて組織的な犯罪の処罰及び犯罪収益の規制等に関する法律案、犯罪捜査のための通信傍受に関する法律案及び刑事訴訟法の一部を改正する法律案(以下、これらを一括して「本件法案」という。)を作成し、平成一〇年三月一三日、これらを衆議院に提出し、参議院に送付した。本件法案への対応については、政党間で意見が分かれており、その取扱いが政治的問題となっていた。
(四)本件法案提出前から前記答申に係る組織的犯罪対策法の制定に反対するための諸活動を行っていた「組織的犯罪対策法に反対する全国弁護士ネットワーク」(以下「弁護士ネットワーク」という。)、「破防法、組織的犯罪対策法に反対する市民連絡会」(以下「市民連絡会」という。)及び「組織的犯罪対策法に反対する共同行動」(以下「共同行動」という。)の三団体は、平成一〇年二月二八日、連絡会議を開き、右三団体の準備により同年四月一八日に右反対運動の一環として集会を開くこと、その主催者は個人加盟の集会実行委員会とすること、次回の連絡会議までに三団体が呼び掛け人を募ること、集会の内容として、アピール、弁護士ネットワークの劇「盗聴法の施行された日パート4」の上演、「盗聴法と令状主義」に関するシンポジウム等を行うこと、右シンポジウムのパネリストを抗告人等に依頼することなどを決定した。
(五)弁護士ネットワークのa弁護士は、平成一〇年三月一〇日ころ、抗告人に対し、電話で組織的犯罪対策法の制定に反対する集会を開くので右シンポジウムで話をしてほしいとの依頼をし、抗告人は、これを承諾した。その後、同弁護士は、抗告人に対し、集会のビラをファックス送信した。
(六)そのころ、集会実行委員会は、右集会の名称を「つぶせ!盗聴法・組織的犯罪対策法許すな!警察管理社会4/18大集会」とした上で、集会のプログラムとしては、盗聴事件を考える住民の会会員などのアピール、弁護士ネットワークの劇「盗聴法が施行された日パート4」、b(一橋大学・刑事法)、c(裁判官)、d(弁護士)によるシンポジウム「盗聴法と令状主義」のほか、各政党からの「国会からの報告」が予定される旨を記載したビラを作成し、一般に配布した。これとは別に、共同行動は、「盗聴法・組対法を葬りされ!」との見出しの下に、「国会上程強行弾劾!」、「つぶせ盗聴法!許すな警察管理社会!大集会国会に向けた共同行動のデモ(終了後)」、「盗聴法・組対法廃案へ!『共同行動』緊急闘争」などと記載し、右集会に講師として裁判官である抗告人が参加することなどを知らせるビラを作成して、これを東京都内の地下鉄国会議事堂前駅付近等で配布した。また、「逮捕令状問題を考える会」と称する団体は、インターネット通信において、右集会への賛同を呼び掛け、その中で、裁判官である抗告人がシンポジウムに参加すること、右集会には、同法の成立を阻止しようと様々な分野で運動を担った人たちが参加しており、「盗聴法は令状主義を危機におとしいれると新聞に投書した裁判官」らが同法を阻止しようというその一点で集まると説明した。
(七)仙台地方裁判所長は、平成一〇年四月九日、抗告人に対し、共同行動のビラを示して、事実を確認したところ、抗告人は、右集会が本件法案を葬り去るという、法案に反対するための集会であることを承知の上で、その趣旨に共鳴してパネルディスカッションに参加するつもりであることを認め、そのことは裁判所法五二条一号の禁止する「積極的に政治運動をすること」には当たらないと考えるが、同所長が同号に当たると考え、懲戒もあり得るというのなら、再考してみるなどと述べた。
(八)右集会は、平成一〇年四月一八日、東京都千代田区所在の社会文化会館において、約五〇〇人が参加して開かれた(以下、この集会を「本件集会」という。)が、抗告人の申出により、シンポジウムにおいて抗告人がパネリストとして発言することは中止された。

2 懲戒の原因となる事実
抗告人は、本件集会において、パネルディスカッションの始まる直前、数分間にわたり、会場の一般参加者席から、仙台地方裁判所判事補であることを明らかにした上で、「当初、この集会において、盗聴法と令状主義というテーマのシンポジウムにパネリストとして参加する予定であったが、事前に所長から集会に参加すれば懲戒処分もあり得るとの警告を受けたことから、パネリストとしての参加は取りやめた。自分としては、仮に法案に反対の立場で発言しても、裁判所法に定める積極的な政治運動に当たるとは考えないが、パネリストとしての発言は辞退する。」との趣旨の発言をし(以下、本件集会におけるこの抗告人の言動を「本件言動」という。)、本件集会の参加者に対し、本件法案が裁判官の立場からみて令状主義に照らして問題のあるものであり、その廃案を求めることは正当であるという抗告人の意見を伝えることによって、本件集会の目的である本件法案を廃案に追い込む運動を支援し、これを推進する役割を果たし、もって積極的に政治運動をして、裁判官の職務上の義務に違反した。
二 証拠
以上の事実は、次の各証拠により、これを認める。
1 抗告人の履歴書
2 平成一〇年四月二八日付け仙台地方裁判所事務局長作成の報告書
3 同九年一〇月二日付け朝日新聞記事
4 同一〇年三月三〇日付け最高裁判所事務総局総務局第一課課長補佐作成の報告書
5 同年四月二〇日付け同事務総局刑事局第一課長作成の報告書
6 同月二六日付け仙台地方裁判所事務局長作成の報告書
7 同月九日付け同事務局長作成の聴取結果要旨書
8 同年五月一九日付け弁護士海渡雄一作成の報告書
9 同年七月九日付け抗告人作成の報告書

三 本件言動の評価
1 本件集会は、直接的には集会実行委員会なる組織が主催したことになっているが、同委員会の母体となる組織は、弁護士ネットワーク、市民連絡会及び共同行動という本件法案に反対するための諸活動をしている三団体であり、それらの団体がその運動の手段として連帯し、そのメンバー以外の個人の参加も募った上で組織横断的な実行委員会を設けて本件集会を開くことを計画し、準備したものである。「盗聴法と令状主義」に関するシンポジウムを開き、そのパネリストを抗告人に依頼することを決定したのも、右三団体合同の会議においてである。
2 本件集会は、その企画の経緯及び「つぶせ!盗聴法・組織的犯罪対策法許すな!警察管理社会4/18大集会」という名称自体から明らかなとおり、法案の是非について様々な立場から意見を述べ合うというような単なる討論集会ではなく、明確に本件法案を悪法と決め付けた上で、これを廃案に追い込むことを目的とする運動の一環として開催されたものである。したがって、抗告人がパネリストとして参加を依頼されたのも、もちろん単なる一市民としてではなく、また、単に令状実務に明るい専門家の意見を参考に聴くということでもなく、裁判官による令状審査によって盗聴の適正さを保つことは期待し得ないとの理由から抗告人が法案に反対する立場を採っていることが投書によって既に明らかとなっており、パネリストとして同様の発言をしてもらえれば、それが現職の裁判官の意見であるだけに、集会の参加者に本件法案の不当性を強く印象付けることができ、集会の目的である本件法案の廃案を実現するための運動を前進させる効果を有すると考えられたからであると認められる。
3 抗告人は、本件集会が前記のような単なる討論集会ではなく本件法案を廃案に追い込むことを目的とする運動の一環として開かれるものであることを認識して本件集会に参加し、本件言動に及んだものである。
4 本件集会の参加者の多くは、事前にビラ、インターネット通信等によって集会の名称や趣旨を知らされていたと認められるから、その中で行われるシンポジウムも様々な立場から意見を述べ合うものではなく本件法案ないしはそのうちの犯罪捜査のための通信傍受に関する法律案の不当性を訴えるためのものであると予想しており、したがって、現職裁判官である抗告人も本件法案に反対する立場からシンポジウムにおいて「盗聴法と令状主義」について発言する予定であることを認識の上、集まってきていたと認められる。
5 以上のような状況の下においてされた抗告人の本件言動は、発言の直接の内容としても、仙台地方裁判所長の警告は裁判所法の解釈を誤ったものであって、そのような本来従わなくてもよい不当な警告によりやむなくパネリストとなることを断念した旨を積極的に表明したものであり、この発言を聞いた者に対し、自分の本意はあくまで予定どおり壇上においてパネリストとして発言することにあるということを訴える内容を含んでいると認められる。そして、右のような本件集会の参加者の予備知識からするならば、それらの者は、予告されていたとおり令状実務の実情を職務上知る立場にある現職の裁判官が本件法案の廃案実現を目的とする集会に実際に参加していることを認識した上、「仮に」と断ってはいるものの、抗告人の本意は壇上からパネリストとして本件法案に反対の立場で発言することにあると理解したものと認めることができる。このように、本件言動は、本件集会の参加者に対し、本件法案が裁判官の立場からみて令状主義に照らして問題のあるものであり、その廃案を求めることは正当であるという抗告人の意見を伝える効果を有するものであったということができる。
6 したがって、本件言動が本件集会の目的である本件法案を廃案に追い込むための運動を支援しこれを推進する役割を果たしたものであることは、客観的にみて明らかである。抗告人は、単にパネリストにならなかった理由を述べただけであると主張しているが、前記の抗告人の認識からすると、抗告人も、本件言動が右のような役割を果たすものであることを当然認識していたものというべきである。

四 「積極的に政治運動をすること」の意義及びその禁止の合憲性
1 憲法は、近代民主主義国家の採る三権分立主義を採用している。その中で、司法は、法律上の紛争について、紛争当事者から独立した第三者である裁判所が、中立・公正な立場から法を適用し、具体的な法が何であるかを宣言して紛争を解決することによって、国民の自由と権利を守り、法秩序を維持することをその任務としているこのような司法権の担い手である裁判官は、中立・公正な立場に立つ者でなければならず、その良心に従い独立してその職権を行い、憲法と法律にのみ拘束されるものとされ(憲法七六条三項)、また、その独立を保障するため、裁判官には手厚い身分保障がされている(憲法七八条ないし八○条)のである。裁判官は、独立して中立・公正な立場に立ってその職務を行わなければならないのであるが、外見上も中立・公正を害さないように自律、自制すべきことが要請される司法に対する国民の信頼は、具体的な裁判の内容の公正、裁判運営の適正はもとより当然のこととして、外見的にも中立・公正な裁判官の態度によって支えられるからである。したがって、裁判官は、いかなる勢力からも影響を受けることがあってはならず、とりわけ政治的な勢力との間には一線を画さなければならないそのような要請は、司法の使命、本質から当然に導かれるところであり、現行憲法下における我が国の裁判官は、違憲立法審査権を有し、法令や処分の憲法適合性を審査することができ、また、行政事件や国家賠償請求事件などを取り扱い、立法府や行政府の行為の適否を判断する権限を有しているのであるから、特にその要請が強いというべきである。職務を離れた私人としての行為であっても、裁判官が政治的な勢力にくみする行動に及ぶときは、当該裁判官に中立・公正な裁判を期待することはできないと国民から見られるのは、避けられないところである。身分を保障され政治的責任を負わない裁判官が政治の方向に影響を与えるような行動に及ぶことは、右のような意味において裁判の存立する基礎を崩し、裁判官の中立・公正に対する国民の信頼を揺るがすばかりでなく、立法権や行政権に対する不当な干渉、侵害にもつながることになるということができる。 
これらのことからすると、裁判所法五二条一号が裁判官に対し「積極的に政治運動をすること」を禁止しているのは、裁判官の独立及び中立・公正を確保し、裁判に対する国民の信頼を維持するとともに、三権分立主義の下における司法と立法、行政とのあるべき関係を規律することにその目的があるものと解される。 
なお、国家公務員法一〇二条及びこれを受けた人事院規則一四―七は、行政府に属する一般職の国家公務員の政治的行為を一定の範囲で禁止している。これは、行政の分野における公務が、憲法の定める統治組織の構造に照らし、議会制民主主義に基づく政治過程を経て決定された政策の忠実な遂行を期し、専ら国民全体に対する奉仕を旨とし、政治的偏向を排して運営されなければならず、そのためには、個々の公務員が政治的に、一党一派に偏することなく、厳に中立の立場を堅持して、その職務の遂行に当たることが必要となることを考慮したことによるものと解される(最高裁昭和四四年(あ)第一五〇一号同四九年一一月六日大法廷判決・刑集二八巻九号三九三頁参照)。これに対し、裁判所法五二条一号が裁判官の積極的な政治運動を禁止しているのは、右に述べたとおり、裁判官の独立及び中立・公正を確保し、裁判に対する国民の信頼を維持するとともに、三権分立主義の下における司法と立法、行政とのあるべき関係を規律することにその目的があると解されるのであり、右目的の重要性及び裁判官は単独で又は合議体の一員として司法権を行使する主体であることにかんがみれば、裁判官に対する政治運動禁止の要請は、一般職の国家公務員に対する政治的行為禁止の要請より強いものというべきである。また、国家公務員法一〇二条及び人事院規則一四―七は、一般職の国家公務員が禁止される政治的行為について、同条が自ら規定しているもののほかは、同規則六項が具体的に列挙したものに限定され、政治的色彩が強いと思われる行為であっても、具体的列挙事項のいずれにも該当しないものは、同条の禁止する「政治的行為」には当たらないものとし、しかも、同規則六項は、五号から七号までに定めるものを除き、同規則五項の定義する「政治的目的」をもってする行為のみを「政治的行為」と規定している。これは、右禁止規定の違反行為が懲戒事由となるほか刑罰の対象ともなり得るものである(同法一一〇条一項一九号)ことから、懲戒権者等のし意的な解釈運用を排するために、あえて限定列挙方式が採られているものと解される。これに対し、裁判官の禁止される「積極的に政治運動をすること」については、このような限定列挙をする規定はなく、その意味はあくまで右文言自体の解釈に懸かっている。裁判官の場合には、強い身分保障の下、懲戒は裁判によってのみ行われることとされているから、懲戒権者のし意的な解釈により表現の自由が事実上制約されるという事態は予想し難いし、違反行為に対し刑罰を科する規定も設けられていないことから、右のような限定列挙方式が採られていないものと解される。これらのことを考えると、裁判所法五二条一号の「積極的に政治運動をすること」の意味は、国家公務員法の「政治的行為」の意味に近いと解されるが、これと必ずしも同一ではないというのが相当である。
以上のような見地に立って考えると、「積極的に政治運動をすること」とは、組織的、計画的又は継続的な政治上の活動を能動的に行う行為であって、裁判官の独立及び中立・公正を害するおそれがあるものが、これに該当すると解され、具体的行為の該当性を判断するに当たっては、その行為の内容、その行為の行われるに至った経緯、行われた場所等の客観的な事情のほか、その行為をした裁判官の意図等の主観的な事情をも総合的に考慮して決するのが相当である。

2 憲法二一条一項の表現の自由は基本的人権のうちでもとりわけ重要なものであり、その保障は裁判官にも及び、裁判官も一市民として右自由を有することは当然である。しかし、右自由も、もとより絶対的なものではなく、憲法上の他の要請により制約を受けることがあるのであって、前記のような憲法上の特別な地位である裁判官の職にある者の言動については、おのずから一定の制約を免れないというべきである。裁判官に対し「積極的に政治運動をすること」を禁止することは、必然的に裁判官の表現の自由を一定範囲で制約することにはなるが、右制約が合理的で必要やむを得ない限度にとどまるものである限り、憲法の許容するところであるといわなければならず、右の禁止の目的が正当であって、その目的と禁止との間に合理的関連性があり、禁止により得られる利益と失われる利益との均衡を失するものでないなら、憲法二一条一項に違反しないというべきである。そして、右の禁止の目的は、前記のとおり、裁判官の独立及び中立・公正を確保し、裁判に対する国民の信頼を維持するとともに、三権分立主義の下における司法と立法、行政とのあるべき関係を規律することにあり、この立法目的は、もとより正当である。
また、裁判官が積極的に政治運動をすることは前記のように裁判官の独立及び中立・公正を害し、裁判に対する国民の信頼を損なうおそれが大きいから、積極的に政治運動をすることを禁止することと右の禁止目的との間に合理的な関連性があることは明らかである。さらに、裁判官が積極的に政治運動をすることを、これに内包される意見表明そのものの制約をねらいとしてではなく、その行動のもたらす弊害の防止をねらいとして禁止するときは、同時にそれにより意見表明の自由が制約されることにはなるが、それは単に行動の禁止に伴う限度での間接的、付随的な制約にすぎず、かつ、積極的に政治運動をすること以外の行為により意見を表明する自由までをも制約するものではない。他面、禁止により得られる利益は、裁判官の独立及び中立・公正を確保し、裁判に対する国民の信頼を維持するなどというものであるから、得られる利益は失われる利益に比して更に重要なものというべきであり、その禁止は利益の均衡を失するものではない。そして、「積極的に政治運動をすること」という文言が文面上不明確であるともいえないことは、前記1に示したところから明らかである。したがって、裁判官が「積極的政治運動をすること」を禁止することは、もとより憲法二一条一項に違反するものではない。
そうすると、抗告人の本件言動が裁判所法五二条一号所定の「積極的に政治運動をすること」に該当すると解される限り、これを禁止することは、憲法二一条一項に違反しないというべきである。
抗告人は、諸外国において裁判官の政治的行為の自由は広く認められているなどと主張するが、本件においては、本件言動が我が国の裁判官の行為として裁判所法五二条一号に違反したとみられるか否か、その禁止が我が国の憲法二一条一項に違反するか否かが問題であり、歴史的経緯や社会的諸条件等を異にする諸外国における法規制やその運用の実態は、一つの参考資料とはなり得ても、これをそのまま我が国に当てはめることはできない。のみならず、どこの国においても裁判官の政治的な行動には程度の差こそあれ裁判の本質に基づく一定の限界を認めているのであって、裁判所法五二条一号が特異な規定であるとはいえない。なお、同号は、以上のような理由により憲法二一条一項に違反しないものである以上、市民的及び政治的権利に関する国際規約一九条に違反するといえないことも明らかである。

五 本件言動の裁判所法五二条一号該当性特定の法律を制定するか否かの判断は、国の唯一の立法機関である国会の専権に属するものであるところ、裁判官が、一国民として法律の制定に反対の意見を持ち、その意見を裁判官の独立及び中立・公正を疑わしめない場において表明することまでも禁止されるものではないが、前記事実関係によれば、本件集会は、単なる討論集会ではなく、初めから本件法案を悪法と決め付け、これを廃案に追い込むことを目的とするという党派的な運動の一環として開催されたものであるから、そのような場で集会の趣旨に賛同するような言動をすることは、国会に対し立法行為を断念するよう圧力を掛ける行為であって、単なる個人の意見の表明の域を超えることは明らかである。このように、本件言動は、本件法案を廃案に追い込むことを目的として共同して行動している諸団体の組織的、計画的、継続的な反対運動を拡大、発展させ、右目的を達成させることを積極的に支援しこれを推進するものであり、裁判官の職にある者として厳に避けなければならない行為というべきであって、裁判所法五二条一号が禁止している「積極的に政治運動をすること」に該当するものといわざるを得ない。
なお、例えば、裁判官が審議会の委員等として立法作業に関与し、賛成・反対の意見を述べる行為は、立法府や行政府の要請に基づき司法に携わる専門家の一人としてこれに協力する行為であって、もとより裁判所法五二条一号により禁止されるものではない。裁判官が職名を明らかにして論文、講義等において特定の立法の動きに反対である旨を述べることも、その発表の場所、方法等に照らし、それが特定の政治運動を支援するものではなく、一人の法律実務家ないし学識経験者としての個人的意見の表明にすぎないと認められる限りにおいては、同号により禁止されるものではないということができる。また、裁判所は、司法制度の運営に当たる立場にあり、規則制定権を有していることなどにかんがみると、司法制度に関する法令の制定改廃についても、一定の意見を述べることができるものと解される。しかし、本件において抗告人が行ったように、特定の法案を廃案に追い込むことを目的とする団体の党派的運動を積極的に支援するような行動をすることは、これらとは質の異なる行為であるといわざるを得ない。

六 懲戒事由該当性及び懲戒の選択
裁判所法四九条にいう「職務上の義務」は、裁判官が職務を遂行するに当たって遵守すべき義務に限られるものではなく、純然たる私的行為においても裁判官の職にあることに伴って負っている義務をも含むものと解され、積極的に政治運動をしてはならないという義務は、職務遂行中と否とを問わず裁判官の職にある限り遵守すべき義務であるから、右の「職務上の義務」に当たる。したがって、抗告人には同条所定の懲戒事由である職務上の義務違反があったということができる。
そして、本件言動の内容、その後の抗告人の態度その他記録上認められる一切の事情にかんがみれば、抗告人を戒告することが相当である。

第二 手続上の問題に関する抗告人の主張に対する判断
抗告人の抗告理由は、別紙の抗告代理人ら提出の抗告理由書、各抗告理由補充書及び抗告人提出の抗告理由書の各抗告理由に記載のとおりであるところ、当裁判所の懲戒についての認定判断は以上のとおりであるが、本件の手続上の問題に関する抗告人の主張のうち主要なものについて、当裁判所の判断を述べることとする。
一 当審において審問期日を開くことの要否
裁判官の分限事件手続規則(以下「規則」という。)三条ないし五条の規定は、分限事件においては、当該裁判官立会いの下において審問期日を開くことを要請しているものとみられるから、第一審においては必ず一度は審問期日を開かなければならないものと解すべきである。しかしながら、抗告審においても審問期日を開かなければならない旨の規定はなく、抗告審は続審であるから、第一審において審問期日を開いている場合に、抗告審において重ねて審問期日を必ず開かなければならないものと解することはできない。したがって、抗告審は、書証以外の新たな証拠を取り調べる必要がある場合を除き、審問期日を開かなければならないものではない。そして、本件において確定すべき事実関係は、原審において取り調べた証拠によって明らかとなっており、当審において新たな証拠を取り調べることを要しないから、審問期日を開く必要はないものということができる。
なお、裁判官分限法(以下「法」という。)八条二項が抗告裁判所の裁判について法七条二項の規定を準用しているので、抗告審は、第一審で既に当該裁判官の陳述を聴いている場合でも、当該裁判官の陳述を改めて聴かなければならないが、陳述を聴く方法については、分限事件に関して準用される非訟事件手続法八条一項が右陳述は書面又は口頭で行うことと規定しているから、抗告審としては、当該裁判官に書面を提出させる方式を採ることも口頭で陳述させる方式を採ることも、いずれも可能であると解される。したがって、法八条二項の規定から、抗告審が必ず審問期日を開かなければならないということが導かれるものではない。
二 抗告人の陳述がないまま懲戒の裁判をすることの適否法七条二項、八条二項が裁判所は懲戒の裁判をする前に当該裁判官の陳述を聴かなければならないとしているのは、陳述の機会を与えなければならないという趣旨であって、その機会を与えたにもかかわらず当該裁判官が陳述をしなかった場合に、陳述のないまま懲戒の裁判をすることを禁ずるものでないことは、明らかである。
記録によれば、原審が二回にわたる審問期日において繰り返し抗告人本人に対し陳述を促したにもかかわらず、抗告人は、本件の審理手続等についての抗告人の主張が裁判所によって受け入れられない限り陳述しないとの態度に終始し、原審がそれらの主張に対する最終的な判断を示してもなお右態度を覆さないまま期日が終了したことが明らかであり、さらに、原審が第三回審問期日は指定しないことを明らかにした上で審問期日における陳述に代わる書面の提出の機会を与えたにもかかわらず、代理人からあくまで第三回審問期日の指定を求める旨の書面が提出されたにとどまり、抗告人の陳述書は提出されなかったことが認められる。右の経過に照らせば、抗告人は、原審が再三にわたり陳述の機会を与えたにもかかわらず陳述をしなかったことが明らかであって、原審が抗告人の陳述がないままに懲戒の裁判をしたことに違法はない。抗告人は、陳述する意思があることを終始明らかにしていたから、抗告人が陳述の機会を放棄したものということは許されないと主張するが、手続を主宰する裁判所の判断が示された以上、法定の不服申立てにより右判断が変更されない限り、その判断に従うべきであって、自己の主張する手続によらなければ審理に応じないとの態度を執り続けることは許されないものというべきである。右主張は到底採用することができない。
抗告人は、当審においても、当裁判所が三週間の期間を定めて書面による陳述の機会を与えたにもかかわらず、独自の見解に固執して、これには応じかねる旨の書面を提出しただけで、本件について陳述する書面を提出しなかったものである。したがって、抗告人は、当審においても陳述の機会が与えられたにもかかわらず陳述をしなかったことが明らかであるから、抗告人の陳述がないことは本件懲戒の裁判をすることの妨げとなるものではない。

三 原審が審問を公開しなかったことの適否
1 規則七条は分限事件の性質に反しない限り非訟事件手続法第一編の規定を準用すると規定しており、審問の非公開を定める同法一三条の規定も、性質に反しない限り分限事件に準用される。
憲法八二条一項は、裁判の対審及び判決は公開の法廷で行わなければならない旨を規定しているが、右規定にいう「裁判」とは、現行法が裁判所の権限に属するものとしている事件について裁判所が裁判という形式をもってする判断作用ないし法律行為のすべてを指すのではなく、そのうちの固有の意味における司法権の作用に属するもの、すなわち、裁判所が当事者の意思いかんにかかわらず終局的に事実を確定し当事者の主張する実体的権利義務の存否を確定することを目的とする純然たる訴訟事件についての裁判のみを指すものと解すべきである(最高裁昭和四一年(ク)第四〇二号同四五年六月二四日大法廷決定・民集二四巻六号六一〇頁等)。
裁判官に対する懲戒は、裁判所が裁判という形式をもってすることとされているが、一般の公務員に対する懲戒と同様、その実質においては裁判官に対する行政処分の性質を有するものである。したがって、裁判官に懲戒を課する作用は、固有の意味における司法権の作用ではなく、懲戒の裁判は、純然たる訴訟事件についての裁判には当たらないことが明らかである。また、その手続の構造をみても、法及び規則の規定中には、監督権を行う裁判所の申立てにより手続を開始し、申立裁判所を代表する裁判官に審問への立会権を認め、申立裁判所にも裁判に対する即時抗告権を認めるなど、当事者対立構造を思わせる定めもみられるけれども、申立てを受けた裁判所は、申立裁判所に懲戒事由の主張立証をさせ、その主張の当否を判断するのではなく、右申立てを端緒として、職権で事実を探知し、必要な証拠調べを行って(規則七条、非訟事件手続法一一条)、当該裁判官に対する処分を自ら行うのである(申立てを受けた裁判所は、懲戒事由に該当する事実を認定したとしても、懲戒を課するか否か、課するとしていかなる内容の懲戒とするかについて、懲戒権者としての裁量権を行使して第一次的判断をするのであり、その点に関する申立裁判所の主張の当否を判断するのではない。)から、分限事件は、訴訟とは全く構造を異にするというほかはない。したがって、分限事件については憲法八二条一項の適用はないものというべきである(最高裁昭和三七年(ク)第六四号同四一年一二月二七日大法廷決定・民集二〇巻一〇号二二七九頁参照)。
なお、憲法八二条二項ただし書の規定は、同条一項の適用がある裁判の対審に関する規定であるから、同項の適用がない分限事件に適用される余地がないことは、いうまでもない。
2 抗告人は、一般の公務員に対する懲戒については、これに不服がある場合には抗告訴訟を提起して裁判所の公開審理を受けることができるのに、裁判官の懲戒については公開審理を受けられないのは不合理であるから、分限事件には憲法八二条一項の適用があると解すべきであると主張する。
しかしながら、裁判官の分限事件を非公開の手続で行うこと自体が憲法八二条一項に違反しないことは既に述べたとおりである。そして、法及び規則においては、手続を公開しないものの、分限事件の重要性にかんがみて、当該裁判官の所属する裁判所の上級裁判所がこれを管轄することとし、高等裁判所においては五人の裁判官により構成される特別の合議体で、最高裁判所においては大法廷で、これを取り扱うこととされている。その手続も、申立書の謄本を当該裁判官に送達しなければならず、第一審においては必ず審問期日を開くこととして、その期日は当該裁判官に通知をし、当該裁判官はその期日に立ち会うことができ、また、懲戒の裁判をする前には当該裁判官の陳述を聴かなければならず、懲戒の裁判をするには、その原因たる事実及び証拠によりこれを認めた理由を示さなければならないとされている。このように、分限事件については、一般の非訟事件はもとより抗告訴訟との比較においても適正さに十分に配慮した特別の立法的手当がされているのであり、これに更に公開審理が保障された訴訟の形式による不服申立ての機会が与えられていなくても、手続保障に欠けるということはできない。
3 そして、以上に述べたところからすれば、分限事件の審問を公開しないことは、憲法三一条、三二条や市民的及び政治的権利に関する国際規約一四条一項に違反するということもできないし、非訟事件手続法一三条の規定を分限事件に準用することがその性質に反するものともいえない。
なお、規則七条の準用する非訟事件手続法一三条ただし書は、裁判所が相当と認める者に傍聴を許すことができる旨を規定しているところ、抗告人は、原審は少なくとも右規定に基づいて報道関係者に傍聴を許すべきであったと主張する。しかし、右規定によって傍聴を認めるか否かは当該裁判所の裁量にゆだねられており、傍聴を認めないことが違法になるのは、裁量の範囲を逸脱し、裁量権の濫用に当たる場合に限られるというべきであり、本件において裁量権の濫用等に当たることを根拠付ける事情は存在しないのであるから、原審が報道関係者の傍聴を許さなかったことに違法はない。
四 原審が第二回審問期日の立会代理人数を三五人に制限したことの適否刑訴法三五条、刑訴規則二六条、二七条は、被告人及び被疑者の弁護人の数の制限につき規定しており、被告人についてみても、裁判所は、特別の事情があるときは、弁護人の選任自体を各被告人について三人までに制限することができるものとしている。右規定をみれば、刑事裁判手続においてすら無制限に弁護人の援助を受け得ることが被告人の当然の権利であるといえないことは、明らかである。民事訴訟及び非訟の手続における代理人については、類似の規定は見当たらないが、これらの手続においても、手続を主宰する裁判所は、その手続を円滑に進行させるために与えられた指揮権に基づいて、期日を開く場所の収容能力、当該期日に予定されている手続の内容、裁判所の法廷警察権ないし指揮権行使の難易等を考慮して、必要かつ相当な場合には、期日に立会う代理人の数を合理的と認められる限度にまで制限することが許されるものと解すべきである。そのように解したからといって、右の制限が合理的なものである限り、当事者の防御権が不当に侵害されるとはいえない。
本件においては、原審が、代理人らに第二回審問期日の前に期日を開く場所の収容能力に限界があるため必要かつ相当な措置として立ち会う代理人の数を制限する意向を示し、当日も約一時間にわたり折衝を経た上で期日を開いたこと、また、三五人の範囲内であれば、抗告人側で適切な者を選別して立ち会わせることが保障されていたことが、記録上明らかであり、三五人という数をもって防御権行使に不足するとは到底考えられないところである。抗告人は、審問期日を開く場所として、中会議室ではなく大会議室を使用すべきであったと主張しているが、原審が審問期日を開く場所を中会議室と定めたのは分限事件の性質にふさわしいと考えたからであることが記録上明らかであり、その判断が不当であるとは認められない。以上のことからすると、原審が立会代理人数を三五人に制限したことに違法はないものというべきである。
なお、抗告人は、原審が審問の立会代理人を弁護士資格のある者に限定をしたことを前提として、その違法をも主張するが、原審の第二回審問調書によれば、原審が右の資格の限定をしたとは認められない。したがって、右主張は前提を欠き失当である。

五 本件懲戒申立てについて裁判官会議の議を経ることの要否裁判官の懲戒申立ては当該裁判官に対して司法行政の監督権を行う裁判所の権限とされている(法六条)から、司法行政事務として裁判官会議の議により行われるべきものである(裁判所法二九条二項等)が、裁判官会議は下級裁判所事務処理規則二〇条一項により所長に権限を委任することができる。そして、仙台地方裁判所事務処理規則四条一項は、司法行政事務のうち同項各号に列挙した事項以外の事項を所長に委任するものと定めているところ、裁判官の分限事件の申立ては、右列挙事項に含まれていない。したがって、右申立ての権限は所長に委任されていると解される。右の委任は、仙台地方裁判所の裁判官会議の議により決せられたものであり、憲法七六条、七八条、裁判所法四〇条等に違反しない。
抗告人は、右事務処理規則六条二項が、所長が常置委員会に諮問して意見を聴いた上で行うべき事項を列挙しており、その中に、「裁判官以外の職員の懲戒に関する事項」を挙げているのに、「裁判官の懲戒に関する事項」は挙げていないことから、裁判官以外の職員の懲戒については所長が単独で処理することができず必ず常置委員会の意見を聴かなければならないのに、裁判官の懲戒については所長が単独で処理することができるというのでは不合理であるから、右規定は裁判官の懲戒に関する事項は所長に委任されていないことを前提としていると主張する。しかしながら、「裁判官以外の職員の懲戒に関する事項」の内容は、所長が任命権を有する職員については所長が懲戒処分そのものを行うことを意味するのに対し、裁判官の懲戒に関しては、所長が行うのは高等裁判所に対して懲戒の申立てをすることにとどまり、懲戒をするか否かは申立てを受けた高等裁判所の裁判体が決定すること、また、裁判官以外の職員の懲戒は場合によっては懲戒免職という重大な結果をもたらすものであるのに対し、裁判官の懲戒は戒告又は一万円以下の過料にすぎない(法二条)ことを考慮すれば、「裁判官以外の職員の懲戒に関する事項」より「裁判官の懲戒に関する事項」の方が重要な事項であるとは、必ずしも断定し得ない。そうすると、規定の文言を無視してまで、裁判官の懲戒に関する事項は所長に委任されていないと解さなければならない理由はないというべきである。
したがって、本件分限事件の申立てについて仙台地方裁判所の裁判官会議の議を経なかったことに違法があったとはいえない。

六 不告不理の原則違反の有無前記のとおり、裁判官分限事件は当該裁判官の監督裁判所の申立てによって手続が開始されるが、申立てを受けた裁判所は、申立ての当否を判断するのではなく、自らが処分の主体となって証拠により認定した事実に基づいて当該裁判官に懲戒を課するかどうかを決するのである。申立ては手続開始の端緒にすぎず、申立てを受けた裁判所は、申立裁判所が申立ての前提とした事実や申立裁判所が提出した証拠に拘束されるのではなく、必要に応じて職権で事実を探知して(規則七条、非訟事件手続法一一条)、懲戒事由の存否や情状につき認定判断すべきものである。したがって、申立書に記載された事実関係と申立てを受けた裁判所が証拠によって認定した事実関係との間に同一性を欠くとはいえない程度の相違があっても、懲戒の裁判が違法となるものではないというべきであり、右の同一性がある範囲内であれば、当該裁判官の弁明・反証の機会を奪うものとはいえない。本件において抗告人の指摘する相違点は、すべて右の同一性の範囲内にあることは明らかであり、しかも、抗告人において反論済みの問題点であって、抗告人の防御権行使に何らの支障もなかったことが明らかである。抗告人の投書の事実も、申立書に証拠として投書記事が添付されており、不意打ちとはいえない。
したがって、原審が申立裁判所に釈明を求めずに申立書記載の事実と細部において異なる事実を認定してこれを基に懲戒を決定したことに違法はなく、このことが憲法三一条等に違反するとはいえない。
第三 結論
以上によれば、抗告人を戒告した原決定は正当であり、本件抗告は理由がない。よって、裁判官園部逸夫、同尾崎行信、同河合伸一、同遠藤光男、同元原利文の各反対意見があるほか、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり決定する。

+反対意見
裁判官園部逸夫の反対意見は、次のとおりである。
私は、裁判官が在任中積極的に政治運動をしたことが認められる場合でも、そのことのみを理由として、当該裁判官を懲戒処分に付することはできないと考えるものである。多数意見は、これと異なる前提に立って懲戒についての認定判断をしているが、私は、多数意見が前提とする裁判所法の解釈については見解を異にするため、これに賛成することができない。その理由は、次のとおりである。
裁判所法五二条一号は、裁判官は在任中積極的に政治運動をすることができないと定め、右行為を絶対的に禁止している。すなわち、裁判官に在任することと積極的な政治運動に従事することとは、そもそも両立し得ないのである。また、右条項により禁止されている裁判官の積極的な政治運動に該当する行為(懲戒事実)と同法四九条所定の懲戒事由及び裁判官分限法二条所定の懲戒処分の種類(戒告又は一万円以下の過料)との間には、明確な対応関係がないので、積極的に政治運動をしたことのみを理由として在任中の裁判官を懲戒処分に付するということは、法の建前ではないと考える。したがって、在任中に積極的に政治運動をしたことが直ちに職務上の義務違反に該当すると判断するのは妥当でない。この点、国家公務員法一〇二条一項及び人事院規則一四―七「政治的行為」が政治的行為の制限を規定し、右制限違反については、同法八二条一号が「この法律又はこの法律に基づく命令に違反した場合」と規定してこれを懲戒事由とした上で戒告から免職に至る各種の懲戒を課するものとするとともに、同法一一○条一項一九号がこれに刑事罰を科するものとしているのとは異なる。
右の理由により、私は、裁判官が在任中に積極的に政治運動をしたことが認定される場合でも、裁判所法四九条所定の第一の懲戒事由である職務上の義務に違反することに該当するとして当該裁判官を戒告又は一万円以下の過料のいずれかの懲戒処分に付することはできないと考える。
ただし、積極的であるかどうかにかかわらず、およそ政治運動をするために職務を怠ったという事実が認められるときは、同法四九条所定の第二の懲戒事由に、また、政治運動をすることによって裁判官の品位を辱める行状があったという事実が認められるときは、同条所定の第三の懲戒事由に該当するとして、懲戒処分に付することができる。
なお、裁判官に対する懲戒処分の手続とは直接関係のないことであるが、裁判官が在任中に積極的に政治運動をした事実が認められ、右運動をするため当該裁判官が職務を甚だしく怠った場合、又は右運動が職務の内外を問わず裁判官としての威信を著しく失うべき非行に当たる場合には、最高裁判所は、所定の手続を経て、当該裁判官について、裁判官弾劾法二条一号後段又は同条二号所定の罷免事由に該当するとして、同法一五条三項に基づき裁判官訴追委員会に罷免の訴追をすべきことを求め、弾劾による罷免の事由に該当するか否かの認定判断を裁判官弾劾裁判所の裁判にゆだねることができる。
以上の前提に立って、本件についてみると、原決定は、抗告人が在任中に積極的に政治運動をしたことを認定判断し、そのことが裁判官の職務上の義務に違反するとして、抗告人を懲戒処分に付しているのであって、抗告人の行為が裁判所法四九条所定の他の懲戒事由に該当するかどうかについては、認定判断をしていない。したがって、原決定には、同法の規定の解釈適用を誤った違法があるといわざるを得ない。そして、本件全証拠によっても、抗告人の行為が同条所定の他の懲戒事由に該当するとは認められない。よって、原決定を取り消し、抗告人を懲戒処分に付さないこととすべきである。

+反対意見
裁判官尾崎行信の反対意見は、次のとおりである。
私は、本件の実体面については、元原裁判官の反対意見に同調するほか、抗告人の行為は「積極的に政治運動をすること」に当たらないとする点において遠藤裁判官とも考えを同じくし、たとえ多数意見のいうとおり抗告人の本件言動をもって右懲戒事由に当たると解し得るとしても、懲戒処分をすることは差し控えるのが相当であるとする点において河合裁判官と考えを同じくするものであるが、当審における審理手続についても、多数意見と立場を異にする。その理由は、次のとおりである。
一 裁判官の分限事件手続規則(以下「規則」という。)七条は、裁判官の分限事件に関し、「その性質に反しない限り、非訟事件手続法第一編の規定を準用する。」と規定している。しかし、本件の当審における審理手続がいかにあるべきかについては、関連する法条の文言にとらわれることなく、事件の類型、性質、内容などに照らしそれらに適した手続はいかなるものか、それが近代法の下における適正な司法運営として広く受容され得るものかを検討の上で、決定することが必要である。
二 かつては、実体的権利義務の存否を確定する純然たる訴訟事件でないものは、いわゆる非訟事件として非訟事件手続法(以下「非訟法」という。)の定める手続により処理され、公開・対審の手続の保障(憲法三二条、八二条)は及ばないと考えられていたが、非訟事件に分類されている事件の中にも、その性質や内容に応じて、今日では、手続的保障を加味し公開・対審の原則の適用を考慮すべき場合があることを認め、そのような場合には、適正手続に従った裁判によって基本的人権を保障することが必要であるとするのが憲法の趣旨に合致すると解されている。従来の訴訟事件・非訟事件の二分類説によって画一的・形式的に審理方法を区別するときは、分類基準のあいまいさから、事件の実質にそぐわない場合が生ずるからである。
三 また、本件のように特別な公法関係に入った者に対する基本的人権保障規定の適用に当たっては、一般人に対する場合と異なった制約の生ずることを認めざるを得ないが、その制約は、特別な公法関係の設定目的及び存在理由からみて合理的であって必要不可欠なものが最小限度で許されるにとどまると解すべきである。これを懲戒について考えると、職務規範、懲戒事由等の実体面では具体的な職務、地位、責任に応じ必要で合理的と認められる制約があり得るが、懲戒手続やその不服申立方法等の手続面では被処分者の名誉等への配慮を要するほかはその関係に内在する合理的な制約を想定することはほとんど不可能である。つまり、懲戒処分事件の場合にも、憲法が一般国民に保障する公正な手続に従った裁判によって最終判断を受ける権利(憲法三二条)を奪う合理的理由は見いだせず、その手続に関する限りは近代司法の諸原則たる直接主義、口頭主義のほか、被処分者が希望する場合には公開主義にものっとって行われるべきものと考えられる。一般の公務員の懲戒については、行政処分として懲戒決定があると、行政不服審査を経た上で司法審査による救済の道が開かれていることをみても、このようにいうべきである。
四 以上の観点からみるだけでも、本件は非訟法に従って処理するだけでは足りないとの結論を導くことができるが、さらに、裁判官の懲戒については、非訟法の定めによらず公開手続、口頭主義、直接主義などの近代司法の原則の下に、基本的人権を保障すべく、格別の配慮を必要とする理由が認められる。
第一に、本件では、懲戒権者が裁判所である点に留意することを要する。すなわち、裁判所は、懲戒権の行使すなわち行政処分の実質を有する行為を裁判という形式で行うのであり、行政機関としての役割と司法機関としての役割を一つの行為によって果たしている。その結果、利害が相反することも想定され、特に被処分者からみれば司法的判断者としての公正・中立に危ぐを抱きやすいことは当然であるし、また外部の一般国民も同様の不信感を覚えることもあろう。
このことにかんがみれば、裁判所は、司法審査権能を適正に行使したことを内外に示すため、本来の司法裁判の原則に照らし、最も公正な手続を採り、司法過程を最大限透明にし、当事者及び世人の危ぐを払拭すべきである。裁判官の職にある者がした裁判であるということだけでは、公正・中立を保障するものではなく、また、その無びゅう性を担保するものでもない。公正・中立は、公開・対審の手続を経ることによって保障の実が上げられるというべきである。公開法廷において、直接主義、口頭主義の原則の下に審理を尽くすことこそが、単に被処分者の基本的人権を保障するだけでなく、裁判所の公正・中立を社会に公示し、その信頼性を確保することとなるのである。
第二に、規則七条が「その性質に反しない限り」非訟法を準用すると定めていることを忘れてはならない。裁判官の懲戒事件は、刑事事件に比すべき重みを有するものであり、その審理手続は、刑事事件手続において要請される裁判の公開、対審構造、証拠主義などの原則に沿ったものが適切である。この面を無視し、民事・家事など通常の非訟事件と同一レベルで本懲戒事件を考え、単に非訟法を文面どおり準用すればよいとすることは、同条が特に「その性質に反しない限り」と定めた趣旨に違背するものというべきである。
また、特別な公法関係にある者の懲戒手続につき司法的救済を拒否する合理的な理由は存在しない。一般の公務員はこれを享受しているのであるから、裁判官も同様の救済を得られるよう非訟法を解釈運用すべきである。
しかも、本件においては、裁判所が懲戒権者の側面と司法的判断者の側面を同時に帯有するため、外観においても内容においても公正・中立を実現するためには特段の努力が要求される場合であるから、本事件の特質、特に右の二面性を考慮すれば、「その性質に反しない限り」の文言に照らし、前記の近代司法の諸原則を適用すべきである。
第三に、裁判所の行う懲戒の裁判が行政処分の実質を有することにかんがみると、当裁判所が本抗告事件を非訟法に従って現に執った手続の下で処理することは、上級行政機関の行う再審査手続と大差がなく、行政機関が終審として裁判を行うことを禁ずる憲法七六条二項の趣旨に反することになると考える。裁判官の場合も他の公務員と同様不利益処分に対して司法救済のみちを開いておくべきである。
しかも、当裁判所において、抗告人が非訟法の定めの下で執り得る司法裁判に要請される適正手続に最大限近い手続による審理を受けることができなかったことは、懲戒事由の有無、懲戒権の存否など訴訟事件として判断さるべき事案につき適正手続下の公正な裁判を受ける権利(憲法三二条)を行使し得なかったこととなるというべきである。
五 要するに、当審において本件を処理するに当たっては、裁判所は公開裁判、口頭主義、直接主義など近代司法の諸原則の下にこれを審理するべきであり、こうした審理、判断であってこそ社会一般も当事者本人も納得させることができ、裁判所への信頼も高められるのであり、そうでない限り、当審の手続は違法たるを免れない。

+反対意見
裁判官河合伸一の反対意見は、次のとおりである。
私は、当審における審理を公開法廷で、直接、口頭により行うべきであるとする点において尾崎裁判官と考えを同じくし、抗告人の本件言動が裁判所法四九条及び五二条一号後段所定の懲戒事由たる「積極的に政治運動をすること」に該当しないとする点において遠藤裁判官及び元原裁判官と考えを同じくするものであるが、さらに、たとえ多数意見のいうとおり抗告人の本件言動をもって右懲戒事由に当たると解し得るとしても、懲戒処分をすることは差し控えるのが相当であると考えるので、その理由を述べておきたい。
一 憲法の保障する思想・信条の自由及びこれに伴う表現の自由は、政治について自己の見解や意見を持ち、それを表明する自由を含むものであり、裁判官も、国民の一人として、基本的にこれらの自由を有することは多言するまでもない。他方、裁判官が、司法に対する国民の信頼を維持するため、その職務を行うについて中立・公正でなければならないことはもとより、外見上も中立・公正を保つことが要請されることは、多数意見の説示するとおりである(裁判官がその職務を行うについて中立・公正でなければならないとの要請は、外見上の中立・公正の要請よりもはるかに強く、いわば絶対的なものである。しかし、本件は直接には裁判官の職務遂行に関するものではないから、以下では、その場合の中立・公正の要請については論じない。)。
二 問題は、裁判官の政治について見解等を表明する自由と、外見上中立・公正を保つことを要請されるという制約とを、いかにして調整し、調和させるかというところにある。
私は、これをするのはまず裁判官自身であり、かつ、制度としても、できる限り、各裁判官の自律と自制に期待すべきものと考える。
本来、裁判官は、高い職業的倫理観ないし良識を有する者であることが想定されている。そのことからすれば、右の調整ないし調和を、まず、裁判官自身の良識に基づく自律と自制にゆだねるのが、当然の順序である。裁判官は、もし何らかの政治的言動をするのであれば、その内容や表現方法はもとより、いわゆる時・所・機会を十分に吟味し、前記中立・公正の要請との調和を図らなければならない。もとより、その判断は常に容易であるとは限らず、殊に経験の浅い裁判官が迷い、ときに誤ることがあるかもしれない。しかし、裁判官は、一般に、比較的親密でしかも自由な職場で、先輩や同僚の意見に接し、助言を得ることができる環境にあるから、それらを得ながら、熟慮を重ねることによって、やがては右判断を適切に行い得る域に達することが期待できるのである。
裁判所法及び裁判官分限法が制定、施行され、裁判官が積極的に政治運動をすることが懲戒事由に該当するものとされてから既に半世紀を超えているのに、これまで右事由により懲戒された例はない。このことは、これまで裁判官が全体として右のような期待に十分こたえてきたことを示すとともに、今後ともその期待を基礎として制度を運用することの正しさを裏付けるものといえよう。
三 私が右のようにいうのは、それが、裁判官及び司法のあるべき姿に添うと信じるからである。
憲法七六条三項は「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。」と規定している。これは、個々の裁判官が裁判をするについての自主独立性を宣明するものである。裁判官は、不断に考究し、謙虚な自省を重ねつつ、自己の裁判官としての良心に従って、職務を行うのである。その裁判官の職務は、事実を確定し、憲法以下の法令を適用して裁判をすることであるが、現代の複雑かつ変化を続ける社会においてこれを適切に行うためには、単に法律や先例の文面を追うのみでは足りないのであって、裁判官は、裁判所の外の事象にも常に積極的な関心を絶やさず、広い視野をもってこれを理解し、高い識見を備える努力を続けなくてはならない。
このような、自主、独立して、積極的な気概を持つ裁判官を一つの理想像とするならば、司法行政上の監督権の行使、殊に懲戒権の発動はできる限り差し控え、だれの目にも当然と見えるほどの場合に限るとすることが、そのような裁判官を育て、あるいは守ることに資するものと信じるのである。
四 抗告人の本件言動それ自体は、要するに、「本件集会においてパネリストとして参加する予定であったが、所長から警告を受けたので取りやめる」との趣旨の発言をしたというものである。、多数意見は、右発言を、それに至る経緯等を背景に置いて評価し、裁判所法五二条一号後段の「積極的に政治運動をすること」という懲戒事由に該当するとしている。しかし、たとえそのような評価が可能であるとしても、それは、いわばぎりぎりの解釈によってである。その意味で、本件はいわゆる限界事例であり、だれが見ても右事由に該当することが明らかで、懲戒権の発動は当然であると見えるということはできない。
このような限界例にまで懲戒権を発動することが、特に若年の裁判官が前述のような自主、独立、積極的な気概を持つ裁判官に育つのを阻害することを、私は危倶する。殊に、右懲戒事由の要件は、「積極的に」といい、「政治運動」といっても、いずれも多義的な、相当に幅のある定めである。そのような幅のある要件について限界まで懲戒権が発動される例を見ることにより、裁判官の中に必要以上に言動を自制する者が現れはしないかと案ずるのである。
本件について、国民の一部から右と同様の危倶が表明されている。それらの多くは、司法が前述のような裁判官によって担われることを望み、懲戒権あるいは司法行政上の監督権が今後広く行使されることによって、その望みが達せられなくなるのではないかとの不安ないし不信を感じているものであろう。もとより、そのような不安ないし不信は杞憂であると考えるが、殊に本件が積極的政治運動を理由とする裁判官懲戒の初めての例であるだけに、そのような不安・不信を感じることも理解できないではない。そして、司法に対する国民の信頼の確保の観点からすれば、そのような不安、不信感を与えること自体、できる限り避けるべきものである。五 抗告人の本件言動を含む一連の言動は、裁判官として不適切であり、支持できるものではない。しかし、だからといって本件懲戒処分の当否の検討が不要となるわけではない。
分限裁判によって裁判官を懲戒する目的は、まず、当該裁判官をして反省させ、その将来の言動を是正しようとするところにあるが、これに加えて、他の裁判官一般に対して、基準を示して自戒を求め、ひいては、司法の中立・公正を国民の前に明らかにして、その信頼を確保しようとするところにもある。本件のような限界事案をもって前記事由による懲戒の初めての先例とすることは、裁判官に示すべき基準として適切でないばかりか、前述のとおり、裁判官一般及び国民に対し、かえって悪しき影響を及ぼすことが懸念されるのである。
六 以上のとおり、私は、たとえ抗告人の本件言動が裁判所法五二条一号後段に該当するといえるとしても、それを理由として懲戒処分をすることは相当でないから、いずれにしても原決定を取り消し、抗告人を懲戒しない旨の決定をすべきものと考える次第である。
裁判官遠藤光男の反対意見は、次のとおりである。
私は、抗告人の本件言動が裁判所法五二条一号所定の「積極的に政治運動をすること」に該当するものではなく、同法四九条所定の懲戒事由である職務上の義務違反行為に当たらないと考えるので、多数意見の結論には反対である。
一 「積極的に政治運動をすること」の意義及びその判断基準
1 憲法二一条一項が保障した表現の自由は、近代民主主義国家の一員である我が国の国民にとって、侵すことのできない永久の権利として付与された貴重な基本的人権の一つである。したがって、この権利は、何人に対しても最大限に保障されなければならないのであって、裁判官であるからといって、その保障の対象から除外される理由はない。もっとも、右自由も、必ずしも絶対的なものではなく、憲法上の他の要請により一定の限度において制約を受けることがあり得ることは、多数意見が指摘するとおりである。裁判所法五二条一号が裁判官に対し、「積極的に政治運動をすること」を禁止したことは、その禁止対象行為が「積極的な政治運動」のみに限定されていること、裁判官が置かれている特別な地位及びその職務内容の特殊性等からみて、やむを得ないものというべきである。
2 「積極的に政治運動をすること」の意義については、それ自体、かなり幅広い概念であって、これを一義的に定義付けることは困難である。
しかしながら、右の概念は、憲法二一条一項が保障した表現の自由に対する重大な制約としての意味を持つものである以上、でき得る限り厳格に解釈されなければならないことはいうまでもない。そして、その解釈の手掛かりとしては、裁判官の政治的行為につき定めていた旧裁判所構成法の制約条項と現行法である裁判所法の制約条項との比較、一般公務員の政治的行為につき定める国家公務員法の制約条項と裁判所法の制約条項との比較、各立法の背景的事実、それぞれの立法の趣旨、目的の違い等からみて、おおよその判断基準を設定することが可能であると考える。
3 旧裁判所構成法七二条一、二号は、判事は在職中「公然政事ニ関係スル事」及び「政党ノ党員又ハ政社ノ社員トナリ又ハ府県市町村ノ議員トナル事」を禁止していた。これに対し、裁判所法五二条一号は、禁止事項として「国会若しくは地方議会の議員となること」及び「積極的に政治運動をすること」を掲げている。このように、右各規定の間には、明らかに文意上の違いがみられる。すなわち、旧裁判所構成法が「政事ニ関係スル事」として、その禁止行為の範囲を幅広く、かつ、漠然と規定していたのに対し、裁判所法は、「積極的に政治運動をすること」とし、その行為を限定している。また、旧裁判所構成法が「政党ノ党員又ハ政社ノ社員」となることまでをも禁止していたのに対し、裁判所法においては、その旨の規定が意識的に排除されているのである。この違いは、単なる表現上の違いにとどまるものではなく、憲法の精神に由来した実質的相違点として理解されなければならない。けだし、旧憲法においても、臣民に対する表現の自由が一応保障されていたとはいえ(旧憲法二九条)、その内容は、「侵すことのできない永久の権利として付与された基本的人権」に基づくものとはほど遠いものであったのに対し、新憲法が保障した表現の自由は、これとは全く異質のものであったため、裁判所法五二条は、憲法二一条一項との抵触を回避するため、前記のように、極めて限定した条件の下に、その制約を認めることとしたものと解されるからである。
したがって、裁判所法は、新憲法の精神にかんがみ、裁判官が政党の党員又は政治結社の社員となることを容認しているばかりでなく、裁判官が社会通念的にみて相当と認められる範囲内の通常の政治運動をすることを認めているものと理解することができるのである。
4 そこで、「積極的な政治運動」と「通常の政治運動」とをどのように画すべきかが問題となるが、多数意見が指摘するとおり、この両者は、裁判官が置かれている憲法上の地位の特殊性(三権分立の原則に基づく独立性)とその職務の特殊性(中立性・公正性)を念頭において分別されるべきものと思われる。すなわち、裁判官は、名実ともに中立・公正に、かつ、すべての権力から独立してその職務を行わなければならないことはいうまでもないが、具体的な職務の遂行を離れてもまた、常に外見上、中立・公正らしさを保持していることが求められているのである。したがって、客観的にみて、そのような中立・公正らしさを保持していることが著しく疑われるような程度に達するような政治運動を行うことは厳に慎まなければならない。裁判所法が「積極的に政治運動をすること」を禁止したゆえんも、正にこの点にあると考えられる。しかし、裁判官といえども、裁判官である前に一市民である。一市民である以上、政治に無縁であり、無関心であり得るはずがない。政治的意識を持つことは当然であり、もともと何らかの政治的立場を保有していたとしても、何ら不思議ではない。現に、前述したとおり、裁判官が政党の党員となり、政治結社の社員となることが容認されている以上、これに準じる程度の政治運動を行うことが禁じられるいわれはない。また、その程度の行為をしたことだけで、裁判官に対し求められる外見上の中立性・公正性が直ちに損なわれることとなったとみるべきではない。けだし、憲法は、「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」と規定しているが(憲法七六条三項)、裁判所法は、裁判官がどのような政治的立場にあろうとも、その立場を超越して、前記規定に基づき忠実にその職権を行うことを期待したものとみてよく、現実にも、多くの裁判官は、その期待に十分こたえているとみられるからである。さらに、我が国における裁判官の政治運動の許容範囲をみるに当たり、社会的諸条件等を異にする諸外国の運用実態を安易に当てはめるべきでないことはいうまでもないが、それにしても、この問題に関する我が国の裁判所の伝統的な考え方は諸外国における考え方とはかなり異なっているように思われてならない。河合裁判官が指摘するとおり、裁判官は、裁判所外の事象にも常に積極的な関心を絶やさず、広い視野をもってこれを理解し、高い識見を備えるよう努めなければならないのであって、そのためにも、でき得る限り自由かっ達な雰囲気の中でその職務に従事することが望まれるのである。このような考え方は、近時国民各層の間に深く浸透しつつあるように思われる。そのような国民の意識からみても、裁判官が多少の政治運動に従事することがあったからといって、直ちにその独立性が失われ、外見上の中立性・公正性が損なわれるに至ったとみることは杞憂にすぎないというべきである。したがって、裁判所法は、裁判官が行った政治運動の態様が社会通念に照らしかなり突出したものであるがゆえに、将来、前記憲法上の要請を逸脱してその職権が行使されるおそれがあり、ひいては、そのことによって、裁判官に求められるその地位の独立性や前記外見上の中立性・公正性までもが著しく損なわれるに至ったと認められる場合に限り、これを禁止行為の対象としたものと解するのが相当である。
5 また、国家公務員法一〇二条及びこれを受けた人事院規則一四―七は、行政府に属する一般職の国家公務員の政治的行為を一定の範囲で禁止しているが、その規定の仕方は、裁判所法五二条一号で定めるところとは、やや異なったものとなっている。
その詳細については、多数意見が指摘しているとおりである。すなわち、国家公務員法及び人事院規則の前記各規定は、法自体が定める政治的行為のほか、右規則が定める政治的行為を禁止することとした上、同規則は、その政治的行為を具体的に列挙する形でこれを定めている。しかし、その範囲は、現実的にはかなり広範なものに及んでおり、しかも、積極的にこれらの行為を行うことを要件付けていない。これに対し、裁判所法は、「積極的に政治運動をすること」のみに限定してこれを禁止しているのであるが、その点に両者の違いが端的に現れている。多数意見は、裁判官に対する政治運動禁止の要請は、一般職の国家公務員に対する要請にも増してより強いものがあるとする。確かに、そのような一面があることは否定することができないが、他面また、行政府に属する一般職の国家公務員は、一たび決定された政策を団体的組織の中で一体となって忠実に執行しなければならない立場に置かれているのに対し、裁判官は、憲法と法律のみに制約されることを前提として独立してその職権を行うことが求められていることに加え、違憲立法審査権が付与されていることなど、その職務の執行面において大きな違いがみられる。このため、一般職の国家公務員に対しては、ある程度幅広くその行為を法的に制約することとしたものの、裁判官の政治的行動に対する制約については、法的強制力を伴った制約をできるだけ最小限度のものにとどめた上、裁判官一人一人の自制的判断と自律的行動にその多くを期待したとみることもできると思われるのである。したがって、裁判所法五二条一号所定の政治運動につき、その行為の修飾語として「積極的に」という言葉が付与されていることの意味は、極めて重く受け止められなければならないと考える。
そうだとするならば、右両規定の違いもまた、その判断基準を前記4のとおり、厳しく限定して解釈すべきものとすることについての重要な一指針となり得るものというべきである。
二 抗告人の言動と懲戒事由の該当性
1 抗告人の言動は、おおむね多数意見において認定されたとおりである。すなわち、抗告人は、いったんは本件集会に出席し、パネリストとして発言しようとしたものの、仙台地方裁判所長から注意されたため、パネリストとしての発言を断念し、会場の一般参加者席からその身分を明らかにした上、これを辞退した理由を説明したというのである。
2 もし仮に、抗告人が現実にパネリストとして登壇し、発言したとした場合、その具体的発言内容いかんによっては、「積極的に政治運動をした」と評価される場合があったかもしれないし、また、他の理由により(例えば、「品位を辱める行状」があったものとして)懲戒事由の存在が認められる場合もあり得るかもしれない。しかし、抗告人の言動が前記の域を超えるものでなかった以上、これによって、抗告人が「積極的に政治運動をした」とみることは困難というべきである。けだし、抗告人の言動は、その主観的意図、目的はともかくとして、(一)主として、いったん応諾したパネリストとしての発言を辞退する理由を説明するためされたものにすぎないこと、(二)特定の法案に反対である旨を表明するとともに、懲戒事由の成否に関する自己の見解を明らかにするにとどまっていること、(三)裁判官としての身分を明らかにした上での発言であることからみて、出席者に対して、事実上、多くの影響を与えたことは推測できないわけではないとしても、反対運動をせん動し、又は反対運動の進め方などにつき具体的かつ積極的な発言をしたものではなかったこと、などにかんがみると、右言動により、抗告人の裁判官としての独立性及び前記外見上の中立性・公正性が著しく損なわれるに至ったと断定することはできないと考えられるからである。
3 抗告人の言動には、遺憾と思われる部分が少なくない。例えば、朝日新聞に対する投書一つをとってみても、あたかも令状実務に携わる裁判官の多くが、検察官や警察官の言いなりになって安易に令状を発付しているかのような誤解を読者に与えかねない性質のものである。現実には、大部分の裁判官が心血を注いで誠実に令状実務に従事していることは疑いの余地がないが、抗告人の投書は、これらの裁判官に対し、耐え難い侮辱を与えたものであるばかりでなく、その実情を知らない多くの国民に対し、いわれなき司法不信の念を植え付けたものであって、その責任は誠に大きい。しかし、右の事情は、本件言動に至るまでの前提的事実にすぎないのであって、申立裁判所の申立て事実である本件言動自体の内容をなすものではない。したがって、この点をとらえて、抗告人を懲戒処分とすることは、許されるべきではない。
私は以上の理由により、抗告人には懲戒事由が存在しないものと考える。よって、原決定を取り消した上、抗告人を懲戒に付さない旨決定すべきである。なお、私は、当審において審問期日を開いた上その手続を公開して行うべきであるとする点において、尾崎裁判官と考えを同じくする。

+反対意見
裁判官元原利文の反対意見は、次のとおりである。
私は、多数意見と異なり、裁判官尾崎行信の反対意見に同調するほか、抗告人の本件言動は、裁判所法五二条一号に定める「積極的に政治運動をすること」には該当せず、同法四九条所定の職務上の義務に違反したことにはならないと考える。その理由は、次のとおりである。
一 裁判所法五二条は、憲法一五条二項、七六条三項、九九条、裁判所法七五条二項後段、七六条等の規定とともに、裁判官としての地位にある者の職務上の義務を定めたものである。したがって、裁判官がこれに反する行為をしたときは、裁判所法四九条に定める「職務上の義務に違反」したものとして、同条を受けて定められた裁判官分限法所定の手続により懲戒されることがあり、さらに、義務違反の程度が著しいときは、裁判官弾劾法所定の手続により罷免されることがあり得るのである。
すなわち、裁判所法五二条各号の定めは、その名あて人である各裁判官に対し、これに違反するときは懲戒あるいは罷免手続に付されることがあり得ることを予告することにより、同条各号の行為をすることを禁ずる職務上の行為準則を示したものであり、このことは、他方、右準則に違反した裁判官に対して懲戒権を行使する者につき、懲戒権行使の限界を画する意味を有するのである。
二 ところで、懲戒の対象となる行為を定める規定は、できる限り具体的かつ個別的であることが望ましい。具体的、個別的であることにより、名あて人はいかなる行為が禁じられているかを容易に知ることができ、懲戒権者も、名あて人が行為準則に反する行為をしたか否かを的確に判断できるからである。
もしその定めが包括的ないし多義的であるときは、その解釈をめぐって意見の相違を来すおそれのあることは明らかである。
懲戒権者は、規定をできる限り広義に解しようとするに対し、名あて人はこれを限定的に解しようとすることは避けられないからである。かくては、行為準則の内容をめぐる懲戒権者と名あて人間の共通の認識が失われ、行為準則を定めたことによる一般予防的な効果が期待できないこととなる一方、懲戒権者が懲戒権を行使するに当たり、行為準則の解釈がし意的であり、懲戒権の行使は不意打ちであるとの非難を被る余地を残すこととなるのである。
三 これを裁判所法五二条各号についてみると、国会又は地方公共団体の議会の議員となること、最高裁判所の許可のある場合を除いて報酬のある他の職務に従事すること、商業を営み、その他金銭上の利益を目的とする業務を行うことについては、その意味内容がそれぞれ一義的であって、その解釈適用については、まず疑問を生ずる余地がないと思われる。ところが、「積極的に政治運動をすること」の意義については、その解釈が区々になる可能性をはらむものと認めざるを得ない。「積極的に」といい、「政治運動」といっても、これを読む者の立場、認識のいかんによって、広狭いかようにも理解し得る表現だからである。
かかる規定を解釈するに当たっては、これが懲戒の対象となるべき行為を定めたものであることに思いを致し、懲戒権者と名あて人の双方が、共通の認識を分かち得るように、その字句から文理上導き出せるところに従い、客観的に中庸を得た視点でこれを行わなければならないと考える。
特に本件の場合、裁判所は懲戒権を行使する行政庁の立場にあるが、それを裁判という形式で行うものであるから、規定の解釈、適用に当たっては、右視点の保持に特に意を用いることが肝要であり、むしろ謙抑的な解釈態度をもって臨むことが望ましいとすら考えられるのである。
四 右の見地に立って、「積極的に政治運動をすること」の意義を考えると、字義に即していえば、「自から進んで、一定の目的又は要求を実現するために、政治権力の獲得、政治的状況の変革、政治的支配者への抵抗、あるいは政策の変更を求めて展開する活動」ということになろう。したがって、その意味するところは、単なる意見表明の域を超え、一定の政治目的を標ぼうする運動の中に自らの意思で身を投じ、目的実現のために活発に活動することを指すこととなるであろう。
また、行為の積極性は、行為者自身の意思とこれを表現する具体的行為の態様に即してこれを見るべきであって、行為の対象となった第三者自体が主体的に決定し、行動した内容について見るべきものでないことはもちろんである。
裁判所法制定当時の経緯及び公刊された同法の解説をみると、単に政党に加入して政党員になったり、一般国民の立場において政府や政党の政策を批判し、あるいは裁判官が講師をしている大学の講義中に特定政党の批判をすることなどは「積極的に政治運動をすること」には当たらないと解されてきたのである。すなわち、裁判所法は、裁判官が「政治運動」をすることの是非については、裁判官個人の職業的倫理感や良識にゆだね、これが「積極的」と評価し得る程度にまで及んだときに、初めて懲戒の対象となる行為としたものと理解できる。したがって、「積極的に政治運動をすること」の解釈は、この相違を念頭において行わなければならないものである。
五 そこで、本件集会における抗告人の言動が、右の意味における「積極的な政治運動」に該当するか否かを検討するに、抗告人の言動が、多数意見第一の一の2で認定されたとおり(ただし、「本件集会の参加者に対し」以降の記載を除く。)であるとしても、その発言の内容は、
(一) 当初は、盗聴法と令状主義というテーマのシンポジウムにパネリストとして参加する予定であったこと
(二) 所長から集会に参加すれば懲戒処分もあり得るとの警告を受けたため、パネリストとしての参加を取りやめたこと
(三) 仮に自分が法案に反対の立場で発言しても、裁判所法に定める積極的な政治運動に当たるとは考えていないこと
(四) しかし、パネリストとしての発言は辞退することであったというのである。
右のうち、(一)、(二)及び(四)は、パネリストとしての参加を求められていながら、参加と発言を辞退するに至った経過を説明したにすぎず、この発言のみに限っていえば、これを目して積極的な政治運動を行ったとまでは到底いい得ないであろう。
したがって、問題は、仮定的な表現となっている(三)の発言が、積極的な政治運動に該当するか否かであろうと思われる。確かに抗告人のこの発言は、出席者に対して、自己がパネリストとして発言するときには、盗聴法の内容に反対する立場から意見を述べる予定であったことを言外に伝える趣旨を含むものであり、抗告人が望んだのもかかる効果であったと理解することも可能である。しかしながら、この発言は、抗告人が、本件集会の出席者に対し、盗聴法の制定に対する反対運動に参加し、これを廃案に追い込むべきことを、明確かつ積極的に訴えかけていると認めるには程遠いものである。そうだとすると、抗告人の本件言動は、先に示した基準に照らし、いまだ積極的な政治運動をしたことには該当しないと解さざるを得ない。これをもって、反対運動を支援し、これを推進する役割を果たしたというのは、過大な評価である。
六 以上の次第であるから、原決定には、裁判所法五二条一号の解釈適用を誤った違法があるというべきである。よって原決定を取り消し、抗告人を懲戒に付さない旨を決定するべきである。
(裁判長裁判官 山口繁 裁判官 園部逸夫 裁判官 小野幹雄 裁判官 千種秀夫 裁判官 根岸重治 裁判官 尾崎行信 裁判官 河合伸一 裁判官 遠藤光男 裁判官 井嶋一友 裁判官 福田博 裁判官 藤井正雄 裁判官 元原利文 裁判官 大出峻郎 裁判官 金谷利廣 裁判官 北川弘治)

(2)公正性・中立性を担保するもの

(3)職務行使と市民的自由の峻別
+第七十六条  すべて司法権は、最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する。
○2  特別裁判所は、これを設置することができない。行政機関は、終審として裁判を行ふことができない。
○3  すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。

QR
+判例(H19.2.27)ピアノ伴奏拒否事件
理由
1 本件は、市立小学校の音楽専科の教諭である上告人が、入学式の国歌斉唱の際に「君が代」のピアノ伴奏を行うことを内容とする校長の職務上の命令に従わなかったことを理由に被上告人から戒告処分を受けたため、上記命令は憲法19条に違反し、上記処分は違法であるなどとして、被上告人に対し、上記処分の取消しを求めている事案である。

2 原審の適法に確定した事実関係等の概要は、次のとおりである。
(1) 上告人は、平成11年4月1日から日野市立A小学校に音楽専科の教諭として勤務していた。
(2) A小学校では、同7年3月以降、卒業式及び入学式において、音楽専科の教諭によるピアノ伴奏で「君が代」の斉唱が行われてきており、同校の校長(以下「校長」という。)は、同11年4月6日に行われる入学式(以下「本件入学式」という。)においても、式次第に「国歌斉唱」を入れて音楽専科の教諭によるピアノ伴奏で「君が代」を斉唱することとした。
(3) 同月5日、A小学校において本件入学式の最終打合せのための職員会議が開かれた際、上告人は、事前に校長から国歌斉唱の際にピアノ伴奏を行うよう言われたが、自分の思想、信条上、また音楽の教師としても、これを行うことはできない旨発言した。校長は、上告人に対し、本件入学式の国歌斉唱の際にピアノ伴奏を行うよう命じたが、上告人は、これに応じない旨返答した。
(4) 校長は、同月6日午前8時20分過ぎころ、校長室において、上告人に対し、改めて、本件入学式の国歌斉唱の際にピアノ伴奏を行うよう命じた(以下、校長の上記(3)及び(4)の命令を「本件職務命令」という。)が、上告人は、これに応じない旨返答した。
(5) 同日午前10時、本件入学式が開始された。司会者は、開式の言葉を述べ、続いて「国歌斉唱」と言ったが、上告人はピアノの椅子に座ったままであった。校長は、上告人がピアノを弾き始める様子がなかったことから、約5ないし10秒間待った後、あらかじめ用意しておいた「君が代」の録音テープにより伴奏を行うよう指示し、これによって国歌斉唱が行われた。
(6) 被上告人は、上告人に対し、同年6月11日付けで、上告人が本件職務命令に従わなかったことが地方公務員法32条及び33条に違反するとして、地方公務員法(平成11年法律第107号による改正前のもの)29条1項1号ないし3号に基づき、戒告処分をした。

3 上告代理人吉峯啓晴ほかの上告理由第2のうち本件職務命令の憲法19条違反をいう部分について 
(1) 上告人は、「君が代」が過去の日本のアジア侵略と結び付いており、これを公然と歌ったり、伴奏することはできない、また、子どもに「君が代」がアジア侵略で果たしてきた役割等の正確な歴史的事実を教えず、子どもの思想及び良心の自由を実質的に保障する措置を執らないまま「君が代」を歌わせるという人権侵害に加担することはできないなどの思想及び良心を有すると主張するところ、このような考えは、「君が代」が過去の我が国において果たした役割に係わる上告人自身の歴史観ないし世界観及びこれに由来する社会生活上の信念等ということができるしかしながら、学校の儀式的行事において「君が代」のピアノ伴奏をすべきでないとして本件入学式の国歌斉唱の際のピアノ伴奏を拒否することは、上告人にとっては、上記の歴史観ないし世界観に基づく一つの選択ではあろうが、一般的には、これと不可分に結び付くものということはできず、上告人に対して本件入学式の国歌斉唱の際にピアノ伴奏を求めることを内容とする本件職務命令が、直ちに上告人の有する上記の歴史観ないし世界観それ自体を否定するものと認めることはできないというべきである。
(2) 他方において、本件職務命令当時、公立小学校における入学式や卒業式において、国歌斉唱として「君が代」が斉唱されることが広く行われていたことは周知の事実であり、客観的に見て、入学式の国歌斉唱の際に「君が代」のピアノ伴奏をするという行為自体は、音楽専科の教諭等にとって通常想定され期待されるものであって、上記伴奏を行う教諭等が特定の思想を有するということを外部に表明する行為であると評価することは困難なものであり、特に、職務上の命令に従ってこのような行為が行われる場合には、上記のように評価することは一層困難であるといわざるを得ない
本件職務命令は、上記のように、公立小学校における儀式的行事において広く行われ、A小学校でも従前から入学式等において行われていた国歌斉唱に際し、音楽専科の教諭にそのピアノ伴奏を命ずるものであって、上告人に対して、特定の思想を持つことを強制したり、あるいはこれを禁止したりするものではなく、特定の思想の有無について告白することを強要するものでもなく、児童に対して一方的な思想や理念を教え込むことを強制するものとみることもできない
(3) さらに、憲法15条2項は、「すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない。」と定めており、地方公務員も、地方公共団体の住民全体の奉仕者としての地位を有するものである。こうした地位の特殊性及び職務の公共性にかんがみ、地方公務員法30条は、地方公務員は、全体の奉仕者として公共の利益のために勤務し、かつ、職務の遂行に当たっては全力を挙げてこれに専念しなければならない旨規定し、同法32条は、上記の地方公務員がその職務を遂行するに当たって、法令等に従い、かつ、上司の職務上の命令に忠実に従わなければならない旨規定するところ、上告人は、A小学校の音楽専科の教諭であって、法令等や職務上の命令に従わなければならない立場にあり、校長から同校の学校行事である入学式に関して本件職務命令を受けたものである。そして、学校教育法18条2号は、小学校教育の目標として「郷土及び国家の現状と伝統について、正しい理解に導き、進んで国際協調の精神を養うこと。」を規定し、学校教育法(平成11年法律第87号による改正前のもの)20条、学校教育法施行規則(平成12年文部省令第53号による改正前のもの)25条に基づいて定められた小学校学習指導要領(平成元年文部省告示第24号)第4章第2D(1)は、学校行事のうち儀式的行事について、「学校生活に有意義な変化や折り目を付け、厳粛で清新な気分を味わい、新しい生活の展開への動機付けとなるような活動を行うこと。」と定めるところ、同章第3の3は、「入学式や卒業式などにおいては、その意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものとする。」と定めている。入学式等において音楽専科の教諭によるピアノ伴奏で国歌斉唱を行うことは、これらの規定の趣旨にかなうものであり、A小学校では従来から入学式等において音楽専科の教諭によるピアノ伴奏で「君が代」の斉唱が行われてきたことに照らしても、本件職務命令は、その目的及び内容において不合理であるということはできないというべきである。
(4) 以上の諸点にかんがみると、本件職務命令は、上告人の思想及び良心の自由を侵すものとして憲法19条に反するとはいえないと解するのが相当である。
なお、上告人は、雅楽を基本にしながらドイツ和声を付けているという音楽的に不適切な「君が代」を平均律のピアノという不適切な方法で演奏することは音楽家としても教育者としてもできないという思想及び良心を有するとも主張するが、以上に説示したところによれば、上告人がこのような考えを有することから本件職務命令が憲法19条に反することとなるといえないことも明らかである。
以上は、当裁判所大法廷判決(最高裁昭和28年(オ)第1241号同31年7月4日大法廷判決・民集10巻7号785頁、最高裁昭和44年(あ)第1501号同49年11月6日大法廷判決・刑集28巻9号393頁、最高裁昭和43年(あ)第1614号同51年5月21日大法廷判決・刑集30巻5号615頁及び最高裁昭和44年(あ)第1275号同51年5月21日大法廷判決・刑集30巻5号1178頁)の趣旨に徴して明らかである。所論の点に関する原審の判断は、以上の趣旨をいうものとして、是認することができる。論旨は採用することができない。

4 その余の上告理由について
論旨は、違憲及び理由の不備をいうが、その実質は事実誤認若しくは単なる法令違反をいうもの又はその前提を欠くものであって、民訴法312条1項及び2項に規定する事由のいずれにも該当しない。
よって、裁判官藤田宙靖の反対意見があるほか、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。なお、裁判官那須弘平の補足意見がある。

+補足意見
裁判官那須弘平の補足意見は、次のとおりである。
私は、本件職務命令が憲法19条に違反しないとする多数意見にくみするものであるが、その理由とするところについては、以下のとおり若干の補足をする必要があると考える。
1 学校の儀式的行事において国歌斉唱の際のピアノ伴奏を拒否することは、一般的には上告人の有する「君が代」に関する特定の歴史観ないし世界観と不可分に結び付くものということはできず、国歌斉唱の際にピアノ伴奏を求めることを内容とする職務命令を発しても、その歴史観ないし世界観を否定することにはならないこと(理由3(1))、客観的に見ても、入学式の国歌斉唱の際に「君が代」のピアノ伴奏をするという行為自体は、音楽専科の教諭等にとって通常想定され期待されるものであって、その伴奏を行う教諭等が特定の思想を有するということを外部に表明する行為であると評価することが困難であること(同3(2))は、多数意見のとおりである。
しかし、本件の核心問題は、「一般的」あるいは「客観的」には上記のとおりであるとしても、上告人の場合はこれが当てはまらないと上告人自身が考える点にある。上告人の立場からすると、職務命令により入学式における「君が代」のピアノ伴奏を強制されることは、上告人の前記歴史観や世界観を否定されることであり、さらに特定の思想を有することを外部に表明する行為と評価され得ることにもなるものではないかと思われる。
この点、本件で問題とされているピアノ伴奏は、外形的な手足の作動だけでこれを行うことは困難であって、伴奏者が内面に有する音楽的な感覚・感情や知識・技能の働きを動員することによってはじめて演奏可能となり、意味のあるものになると考えられる。上告人のような信念を有する人々が学校の儀式的行事において信念に反して「君が代」のピアノ伴奏を強制されることは、演奏のために動員される上記のような音楽的な内心の働きと、そのような行動をすることに反発し演奏をしたくない、できればやめたいという心情との間に心理的な矛盾・葛藤を引き起こし、結果として伴奏者に精神的苦痛を与えることがあることも、容易に理解できることである。
本件職務命令は、上告人に対し上述の意味で心理的な矛盾・葛藤を生じさせる点で、同人が有する思想及び良心の自由との間に一定の緊張関係を惹起させ、ひいては思想及び良心の自由に対する制約の問題を生じさせる可能性がある。したがって、本件職務命令と「思想及び良心」との関係を論じるについては、上告人が上記のような心理的矛盾・葛藤や精神的苦痛にさいなまれる事態が生じる可能性があることを前提として、これをなぜ甘受しなければならないのかということについて敷えんして述べる必要があると考える。
2 上記の点について、多数意見が挙げる憲法15条2項(「全体の奉仕者」)、地方公務員法30条(「全体の奉仕者」として「公共の利益」のために勤務)、32条(法令等及び上司の職務上の命令に従う義務)等の規定と、上告人のような「君が代」斉唱に批判的な信念を持つ教師の思想・良心の自由との関係については、以下のとおり理解することができる。
第1に、入学式におけるピアノ伴奏は、一方において演奏者の内心の自由たる「思想及び良心」の問題に深く関わる内面性を持つと同時に、他方で入学式の進行において参列者の国歌斉唱を補助し誘導するという外部性をも有する行為である。その内面性に着目すれば、演奏者の「思想及び良心の自由」の保障の対象に含まれ得るが、外部性に着目すれば学校行事の一環としての「君が代」斉唱をより円滑かつ効果的なものにするに必要な行為にほかならず、音楽専科の教諭の職務の一つとして校長の職務命令の対象となり得る性質のものである。
このような両面性を持った行為が、「思想及び良心の自由」を理由にして、学校行事という重要な教育活動の場から事実上排除されたり、あるいは各教師の個人的な裁量にゆだねられたりするのでは、学校教育の均質性や組織としての学校の秩序を維持する上で深刻な問題を引き起こし、ひいては良質な教育活動の実現にも影響を与えかねない。
なお、学校の教師は専門的な知識と技能を有し、高い見識を備えた専門性を有するものではあるが、個別具体的な教育活動がすべて教師の専門性に依拠して各教師の裁量にゆだねられるということでは、学校教育は成り立たない面がある。少なくとも、入学式等の学校行事については、学校単位での統一的な意思決定とこれに準拠した整然たる活動(必ずしも参加者の画一的・一律の行動を要求するものではないが、少なくとも無秩序に流れることにより学校行事の意義を損ねることのない態様のものであること)が必要とされる面があって、学校行事に関する校長の教職員に対する職務命令を含む監督権もこの目的に資するところが大きい。
第2に、入学式における「君が代」の斉唱については、学校は消極的な意見を有する人々の立場にも相応の配慮を怠るべきではないが、他方で斉唱することに積極的な意義を見いだす人々の立場をも十分に尊重する必要がある。そのような多元的な価値の併存を可能とするような運営をすることが学校としては最も望ましいことであり、これが「全体の奉仕者」としての公務員の本質(憲法15条2項)にも合致し、また「公の性質」を有する学校における「全体の奉仕者」としての教員の在り方(平成18年法律第120号による全部改正前の教育基本法6条1項及び2項)にも調和するものであることは明らかである。
他面において、学校行事としての教育活動を適時・適切に実践する必要上、上記のような多元性の尊重だけではこと足りず、学校としての統一的な意思決定と、その確実な遂行が必要な場合も少なくなく、この場合には、校長の監督権(学校教育法28条3項)や、公務員が上司の職務上の命令に従う義務(地方公務員法32条)の規定に基づく校長の指導力が重要な役割を果たすことになる。そこで、前記のような両面性を持った行為についても、行事の目的を達成するために必要な範囲内では、学校単位での統一性を重視し、校長の裁量による統一的な意思決定に服させることも「思想及び良心の自由」との関係で許されると解する。
3 本件職務命令は、小学校における入学式に際し、その式典の一環として従前の例に従い「君が代」を斉唱することを学校の方針として決定し、これを実施するために発せられたものである。そして、入学式において、「君が代」を斉唱させることが義務的なものかどうかについてはともかく、少なくとも本件当時における市立小学校においては、学校現場の責任者である校長が最終的な裁量権を行使して斉唱を行うことを決定することまで否定することは、上記校長の権限との関係から見ても、困難である。そうしてみると、学校が組織として国歌斉唱を行うことを決めたからには、これを効果的に実施するために音楽専科の教諭に伴奏させることは極めて合理的な選択であり、その反面として、これに代わる措置としてのテープ演奏では、伴奏の必要性を十分に満たすものとはいえないことから、指示を受けた教諭が任意に伴奏を行わない場合に職務命令によって職務上の義務としてこれを行わせる形を採ることも、必要な措置として憲法上許されると解する。
この場合、職務命令を受けた教諭の中には、上告人と同様な理由で伴奏することに消極的な信条・信念を持つ者がいることも想定されるところであるが、そうであるからといって思想・良心の自由を理由にして職務命令を拒否することを許していては、職場の秩序が保持できないばかりか、子どもたちが入学式に参加し国歌を斉唱することを通じ新たに始まる学年に向けて気持ちを引き締め、学習意欲を高めるための格好の機会を奪ったり損ねたりすることにもなり、結果的に集団活動を通じ子どもたちが修得すべき教育上の諸利益を害することとなる。
入学式において「君が代」の斉唱を行うことに対する上告人の消極的な意見は、これが内面の信念にとどまる限り思想・良心の自由の観点から十分に保障されるべきものではあるが、この意見を他に押しつけたり、学校が組織として決定した斉唱を困難にさせたり、あるいは学校が定めた入学式の円滑な実施に支障を生じさせたりすることまでが認められるものではない。
4 上告人は、子どもに「君が代」がアジア侵略で果たしてきた役割等の正確な歴史的事実を教えず、子どもの思想及び良心の自由を実質的に保障する措置を執らないまま、「君が代」を歌わせることは、教師としての職業的「思想・良心」に反するとも主張する。上告人の主張にかかる上記職業的な思想・良心も、それが内面における信念にとどまる限りは十二分に尊重されるべきであるが、学校教育の実践の場における問題としては、各教師には教育の専門家として一定の裁量権が認められるにしても、すべてが各教師の選択にゆだねられるものではなく、それぞれの学校という教育組織の中で法令に基づき採択された意思決定に従い、総合的統一的に整然と実施されなければ、教育効果の面で深刻な弊害が生じることも見やすい理である。殊に、入学式や卒業式等の行事は、通常教員が単独で担当する各クラス単位での授業と異なり、学校全体で実施するもので、その実施方法についても全校的に統一性をもって整然と実施される必要があり、本件職務命令もこの観点から事前にしかも複数回にわたって校長から上告人に発出されたものであった。
したがって、A小学校において、入学式における国歌斉唱を行うことが組織として決定された後は、上記のような思想・良心を有する上告人もこれに協力する義務を負うに至ったというべきであり、本件職務命令はこの義務を更に明確に表明した措置であって、これを違憲、違法とする理由は見いだし難い。

+反対意見
裁判官藤田宙靖の反対意見は、次のとおりである。
私は、上告人に対し、その意に反して入学式における「君が代」斉唱のピアノ伴奏を命ずる校長の本件職務命令が、上告人の思想及び良心の自由を侵すものとして憲法19条に反するとはいえないとする多数意見に対しては、なお疑問を抱くものであって、にわかに賛成することはできない。その理由は、以下のとおりである。
1 多数意見は、本件で問題とされる上告人の「思想及び良心」の内容を、上告人の有する「歴史観ないし世界観」(すなわち、「君が代」が過去において果たして来た役割に対する否定的評価)及びこれに由来する社会生活上の信念等であるととらえ、このような理解を前提とした上で、本件入学式の国歌斉唱の際のピアノ伴奏を拒否することは、上告人にとっては、この歴史観ないし世界観に基づく一つの選択ではあろうが、一般的には、これと不可分に結び付くものということはできないとして、上告人に対して同伴奏を命じる本件職務命令が、直ちに、上告人のこの歴史観ないし世界観それ自体を否定するものと認めることはできないとし、また、このようなピアノ伴奏を命じることが、上告人に対して、特定の思想を持つことを強制したり、特定の思想の有無について告白することを強要するものであるということはできないとする。これはすなわち、憲法19条によって保障される上告人の「思想及び良心」として、その中核に、「君が代」に対する否定的評価という「歴史観ないし世界観」自体を据えるとともに、入学式における「君が代」のピアノ伴奏の拒否は、その派生的ないし付随的行為であるものとしてとらえ、しかも、両者の間には(例えば、キリスト教の信仰と踏み絵とのように)後者を強いることが直ちに前者を否定することとなるような密接な関係は認められない、という考え方に立つものということができよう。しかし、私には、まず、本件における真の問題は、校長の職務命令によってピアノの伴奏を命じることが、上告人に「『君が代』に対する否定的評価」それ自体を禁じたり、あるいは一定の「歴史観ないし世界観」の有無についての告白を強要することになるかどうかというところにあるのではなく(上告人が、多数意見のいうような意味での「歴史観ないし世界観」を持っていること自体は、既に本人自身が明らかにしていることである。そして、「踏み絵」の場合のように、このような告白をしたからといって、そのこと自体によって、処罰されたり懲戒されたりする恐れがあるわけではない。)、むしろ、入学式においてピアノ伴奏をすることは、自らの信条に照らし上告人にとって極めて苦痛なことであり、それにもかかわらずこれを強制することが許されるかどうかという点にこそあるように思われる。そうであるとすると、本件において問題とされるべき上告人の「思想及び良心」としては、このように「『君が代』が果たしてきた役割に対する否定的評価という歴史観ないし世界観それ自体」もさることながら、それに加えて更に、「『君が代』の斉唱をめぐり、学校の入学式のような公的儀式の場で、公的機関が、参加者にその意思に反してでも一律に行動すべく強制することに対する否定的評価(従って、また、このような行動に自分は参加してはならないという信念ないし信条)」といった側面が含まれている可能性があるのであり、また、後者の側面こそが、本件では重要なのではないかと考える。そして、これが肯定されるとすれば、このような信念ないし信条がそれ自体として憲法による保護を受けるものとはいえないのか、すなわち、そのような信念・信条に反する行為(本件におけるピアノ伴奏は、まさにそのような行為であることになる。)を強制することが憲法違反とならないかどうかは、仮に多数意見の上記の考えを前提とするとしても、改めて検討する必要があるものといわなければならない。このことは、例えば、「君が代」を国歌として位置付けることには異論が無く、従って、例えばオリンピックにおいて優勝者が国歌演奏によって讃えられること自体については抵抗感が無くとも、一方で「君が代」に対する評価に関し国民の中に大きな分かれが現に存在する以上、公的儀式においてその斉唱を強制することについては、そのこと自体に対して強く反対するという考え方も有り得るし、また現にこのような考え方を採る者も少なからず存在するということからも、いえるところである。この考え方は、それ自体、上記の歴史観ないし世界観とは理論的には一応区別された一つの信念・信条であるということができ、このような信念・信条を抱く者に対して公的儀式における斉唱への協力を強制することが、当人の信念・信条そのものに対する直接的抑圧となることは、明白であるといわなければならない。そしてまた、こういった信念・信条が、例えば「およそ法秩序に従った行動をすべきではない」というような、国民一般に到底受け入れられないようなものであるのではなく、自由主義・個人主義の見地から、それなりに評価し得るものであることも、にわかに否定することはできない。本件における、上告人に対してピアノ伴奏を命じる職務命令と上告人の思想・良心の自由との関係については、こういった見地から更に慎重な検討が加えられるべきものと考える。
2 多数意見は、また、本件職務命令が憲法19条に違反するものではないことの理由として、憲法15条2項及び地方公務員法30条、32条等の規定を引き合いに出し、現行法上、公務員には法令及び上司の命令に忠実に従う義務があることを挙げている。ところで、公務員が全体の奉仕者であることから、その基本的人権にそれなりの内在的制約が伴うこと自体は、いうまでもなくこれを否定することができないが、ただ、逆に、「全体の奉仕者」であるということからして当然に、公務員はその基本的人権につき如何なる制限をも甘受すべきである、といったレヴェルの一般論により、具体的なケースにおける権利制限の可否を決めることができないことも、また明らかである。本件の場合にも、ピアノ伴奏を命じる校長の職務命令によって達せられようとしている公共の利益の具体的な内容は何かが問われなければならず、そのような利益と上記に見たようなものとしての上告人の「思想及び良心」の保護の必要との間で、慎重な考量がなされなければならないものと考える。
ところで、学校行政の究極的目的が「子供の教育を受ける利益の達成」でなければならないことは、自明の事柄であって、それ自体は極めて重要な公共の利益であるが、そのことから直接に、音楽教師に対し入学式において「君が代」のピアノ伴奏をすることを強制しなければならないという結論が導き出せるわけではない。本件の場合、「公共の利益の達成」は、いわば、「子供の教育を受ける利益の達成」という究極の(一般的・抽象的な)目的のために、「入学式における『君が代』斉唱の指導」という中間目的が(学習指導要領により)設定され、それを実現するために、いわば、「入学式進行における秩序・紀律」及び「(組織決定を遂行するための)校長の指揮権の確保」を具体的な目的とした「『君が代』のピアノ伴奏をすること」という職務命令が発せられるという構造によって行われることとされているのである。そして、仮に上記の中間目的が承認されたとしても、そのことが当然に「『君が代』のピアノ伴奏を強制すること」の不可欠性を導くものでもない。公務員の基本的人権の制約要因たり得る公共の福祉ないし公共の利益が認められるか否かについては、この重層構造のそれぞれの位相に対応して慎重に検討されるべきであると考えるのであって、本件の場合、何よりも、上記の〈1〉「入学式進行における秩序・紀律」及び〈2〉「校長の指揮権の確保」という具体的な目的との関係において考量されることが必要であるというべきである。このうち上記〈1〉については、本件の場合、上告人は、当日になって突如ピアノ伴奏を拒否したわけではなく、また実力をもって式進行を阻止しようとしていたものでもなく、ただ、以前から繰り返し述べていた希望のとおりの不作為を行おうとしていたものにすぎなかった。従って、校長は、このような不作為を充分に予測できたのであり、現にそのような事態に備えて用意しておいたテープによる伴奏が行われることによって、基本的には問題無く式は進行している。ただ、確かに、それ以外の曲については伴奏をする上告人が、「君が代」に限って伴奏しないということが、参列者に一種の違和感を与えるかもしれないことは、想定できないではないが、問題は、仮に、上記1において見たように、本件のピアノ伴奏拒否が、上告人の思想・良心の直接的な表現であるとして位置付けられるとしたとき、このような「違和感」が、これを制約するのに充分な公共の福祉ないし公共の利益であるといえるか否かにある(なお、仮にテープを用いた伴奏が吹奏楽等によるものであった場合、生のピアノ伴奏と比して、どちらがより厳粛・荘厳な印象を与えるものであるかには、にわかには判断できないものがあるように思われる。)。また、上記〈2〉については、仮にこういった目的のために校長が発した職務命令が、公務員の基本的人権を制限するような内容のものであるとき、人権の重みよりもなおこの意味での校長の指揮権行使の方が重要なのか、が問われなければならないことになる。原審は、「思想・良心の自由も、公教育に携わる教育公務員としての職務の公共性に由来する内在的制約を受けることからすれば、本件職務命令が、教育公務員である控訴人の思想・良心の自由を制約するものであっても、控訴人においてこれを受忍すべきものであり、受忍を強いられたからといってそのことが憲法19条に違反するとはいえない。」というのであるが、基本的人権の制約要因たる公共の利益の本件における上記具体的構造を充分に踏まえた上での議論であるようには思われない。また、原審及び多数意見は、本件職務命令は、教育公務員それも音楽専科の教諭である上告人に対し、学校行事におけるピアノ伴奏を命じるものであることを重視するものと思われるが、入学式におけるピアノ伴奏が、音楽担当の教諭の職務にとって少なくとも付随的な業務であることは否定できないにしても、他者をもって代えることのできない職務の中枢を成すものであるといえるか否かには、なお疑問が残るところであり(付随的な業務であるからこそ、本件の場合テープによる代替が可能であったのではないか、ともいえよう。ちなみに、上告人は、本来的な職務である音楽の授業においては、「君が代」を適切に教えていたことを主張している。)、多数意見等の上記の思考は、余りにも観念的・抽象的に過ぎるもののように思われる。これは、基本的に「入学式等の学校行事については、学校単位での統一的な意思決定とこれに準拠した整然たる活動が必要とされる」という理由から本件において上告人にピアノ伴奏を命じた校長の職務命令の合憲性を根拠付けようとする補足意見についても同様である。
3 以上見たように、本件において本来問題とされるべき上告人の「思想及び良心」とは正確にどのような内容のものであるのかについて、更に詳細な検討を加える必要があり、また、そうして確定された内容の「思想及び良心」の自由とその制約要因としての公共の福祉ないし公共の利益との間での考量については、本件事案の内容に即した、より詳細かつ具体的な検討がなされるべきである。このような作業を行ない、その結果を踏まえて上告人に対する戒告処分の適法性につき改めて検討させるべく、原判決を破棄し、本件を原審に差し戻す必要があるものと考える。
(裁判長裁判官 那須弘平 裁判官 上田豊三 裁判官 藤田宙靖 裁判官 堀籠幸男 裁判官 田原睦夫)


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