刑法 面白そうな判例 自衛隊内部潜入ソリッドスネイク事件

要旨
 甲らが、陸上自衛隊駐屯地内に侵入し、兇器を用いて勤務中の自衛官の反抗を抑圧して弾薬庫から武器等を強取し、その際自衛官を死亡させたが、被告人は、甲から、自衛隊の制服を入手しそれを利用して自衛官に変装して駐屯地に侵入し、武器を奪取するとの計画を打明けられ、資金の援助を求められてこれを応諾したものの、具体的な襲撃場所、方法等については何ら説明を受けておらず、被告人の認識は抽象的なものにとどまっていたときは、共謀共同正犯は成立せず、幇助犯が成立する。

《本籍・住居省略》
 無職 甲川太郎こと 甲川一郎
 昭和一五年二月二四日生
 右の者に対する強盗致死、建造物侵入、公務執行妨害被告事件について、当裁判所は、検察官小梛和美出席の上審理し、次のとおり判決する。
主文
 被告人を懲役五年に処する。
 未決勾留日数中、右刑期に満つるまでの分をその刑に算入する。
 別紙(一)記載の訴訟費用は被告人の負担とする。
理由
 (罪となるべき事実)
 被告人は、昭和三五年四月京都大学経済学部に入学し、昭和四二年一〇月同大学経済学部助手となったが、昭和四四年一月ころから京大全共闘運動に参加し、甲川太郎という筆名で、暴力革命について雑誌等に著作を発表し、講演を行い、従来のいわゆる新左翼諸党派を批判し、大衆武装による過激な武装闘争の必要性を説き、暴力思想を主張したことなどから、内ゲバなどで混迷する当時の新左翼運動の状況を背景に、一躍、著名人となり、友人の朝日新聞記者Jから、当時日大闘争に参加するなどの活動をしていた甲野二夫を紹介され、昭和四六年四月中旬から七月上旬にかけて、大阪、京都、東京などで甲野と会い、暴力革命達成のために既存の運動を超えたより過激な武装闘争が必要であるとする闘争の方針について意気投合し、また、心情的にも親近感を抱いていたところ、かねてより武器奪取の考えを持つ甲野が乙山三夫及び丁原四夫と共謀の上、陸上自衛隊朝霞駐屯地内に侵入し、凶器を用いて警衛勤務中の自衛官の反抗を抑圧し、同駐屯地内の弾薬庫等から銃器、弾薬を強取しようと企て、同年八月二一日午後八時三〇分ころ、乙山及び丁原において、自衛官の制服を着用して自衛官を装って、レンタカーに乗ったまま、埼玉県和光市広沢一の二〇番地所在の陸上自衛隊朝霞駐屯地北側正門から同駐屯地司令A看守にかかる同駐屯地内に入り、もって人の看守する建造物に不法に侵入し、降車後の同日午後八時四五分ころ、同駐屯地七三四号隊舎東側路上において、折から動哨警衛の職務に従事中の同駐屯地勤務陸上自衛官陸士長B(当時二一歳)に出会うや、同人の携帯するライフル銃を強取する意思で、同人に対し、乙山において、Bの腹部を手拳で強打し、その肩から首付近を両手でつかんで膝蹴りをし、丁原において、所携の柳刃包丁でBの右胸部等を数回突き刺す等の暴行を加え、Bの前記職務の執行を妨害したものの、くさむらに落下したライフル銃を発見できずに逃走したため、強取の目的を遂げなかったが、前記暴行により、間もなく、同所付近において、Bを胸部刺創に基づく胸腔内出血等により失血死させたが、被告人は、甲野の依頼により、同年七月二三日、大阪市東淀川区十三東之町一丁目一六番東淀川郵便局において、自衛隊基地からの武器奪取闘争のために用いられるかも知れないと認識しながら、電信為替で、現金四万円を、東京都千代田区有楽町二丁目三番地朝日新聞社内の同社記者K宛に送金し、数日後甲野をして右送金額の内現金三万円を受領させ、もって、甲野らの前記犯行を容易ならしめて、これを幇助したものである。
 (評価の標目)《省略》
 (本件争点に対する当裁判所の判断)
 以下においては、便宜上別紙(二)記載の略称、略号等を使用する。
第一 本件の争点
  一 検察官の主張
 検察官は、
 「被告人は、甲野二夫、乙山三夫、丁原四夫と共謀の上、埼玉県和光市広沢一の二〇番地所在の陸上自衛隊朝霞駐屯地内に侵入し、包丁等の凶器を用いて警衛勤務中の陸上自衛官の反抗を抑圧し、同駐屯地内の弾薬庫等から銃器、弾薬を強取しようと企て、昭和四六年八月二一日午後八時三〇分ころ、右乙山及び丁原において、陸上自衛官を装って同駐屯地北側正門から同駐屯地司令A看守にかかる同駐屯地内に不法に侵入し、同日午後八時四五分ころ、同駐屯地七三四号隊舎東側路上において、折から動哨警衛の職務に従事中の同駐屯地勤務陸上自衛官陸士長B(当時二一年)に出会うや、同人からその所携のライフル銃を強取すべく、同人に対し、右乙山において、腹部を手拳で強打し、組みついて膝蹴りを加え、右丁原において、所携の柳刃包丁で右胸部等を数回突き刺す等の暴行を加え、右Bの前記職務の執行を妨害したものの前記ライフル銃を発見することができないまま逃走したため銃器等を強取する目的を遂げなかったが、前記暴行により、同人をして間もなく同所付近において、右胸部刺創に基づく胸腔内出血等により死亡するに至らしめたものである。」
 との強盗致死、建造物侵入、公務執行妨害の訴因について、被告人は共謀共同正犯の責任を負うと主張する。
 その共謀の成立を基礎付ける事実として、次の1ないし16の被告人と甲野との接触状況を指摘する。
   1 被告人は、朝日新聞社記者Jの紹介により昭和四六年四月一三日ころ、旅館「津乃村」において、甲野と会い、同夜同人をエレガントホテルに宿泊させた。その際両者は、暴力革命推進のためには、武装闘争が必要であり、関西と東京の組織が共闘体制を組むべきであるとの意思の一致をみた。
   2(一) 四六年五月四日ころ、被告人は甲野を京都に呼び、京大文学部長室において、地下革命軍(赤衛軍)を建設して行かねばならず、当面、三里塚・沖縄闘争を武装闘争で闘い抜くことが必要であると説き、甲野も今後被告人の指導の下に活動することを約した。
 (二) 翌朝、楽友会館で被告人の同志甲沢(スナック「白樺」の経営者)を甲野に引き合わせ、今後は盗聴防止のため「白樺」方式と称する方法により電話連絡することを打ち合わせた。
   3 被告人は、同年六月一九日ころ、病気見舞いのため、甲野の入院先である下田病院を訪れ、同人の下宿池亀方に立ち寄った後、レストラン「アラスカ」に同人を連れ出した。同所で被告人は甲野に対し、当面は銃器等の使用によりゲリラ戦を基本として、三里塚・沖縄闘争を闘い抜く方針であり、そのために必要な隊員の確保に努めるよう求め、甲野もこれを了承した。
   4 同年七月上旬、甲野は、甲林から「反戦自衛官のリーダーが自衛隊に侵入して大量の武器を奪取する計画を進めている。三〇万円と人手がいるので、誰かを紹介してくれ。」という乙山の話を聞き、被告人に電話でその旨を報告した。被告人は、同年七月三日ころ、スナック「もっきり亭」に甲野を呼び寄せ、直ちにその詳細な報告を聞き、甲野に対し、反戦自衛官組織のリーダーとの連絡役となること、闘争資金を朝日新聞社記者K宛に送金するので、連帯の意思表明として右リーダーに渡すこと、右リーダーの身元調査をすること等を指示し、交通費として現金約八〇〇〇円を手渡した。
   5 同年七月上旬、被告人は、甲野から右リーダーに会うこととなった旨の電話連絡を受けると、前記資金の調達が遅延していることをわびた上、直ちに上京する旨を伝えた。
   6 同年七月一〇日ころ、被告人は、飲食店「久富」において、甲野に対し、リーダーの身元は被告人も調査中であること、闘争資金の一部は至急K宛に送ることを告げ、甲野においては正体を悟られないよう十分注意して、右リーダーと予定通り会うことを指示した。
   7 同年七月一四日ころ、甲野は、喫茶店「ヴィクトリア」で乙山と面談した様子を被告人に報告するためスナック「白樺」に電話した結果、同年七月中旬ころ、甲沢と名古屋で会い、乙山の話を詳細に報告し、闘争資金の送金が遅れているのでKに一部立替てもらって乙山に渡したことを話し、甲沢から今後も乙山と接触すること、身元調査を続行すること、オルグ教育に力を入れることを指示された上、活動資金として一万円を受け取った。
   8 同年七月二三日ころ、被告人は、本件武器奪取闘争の闘争資金として四万円を電信為替でK宛に送金し、甲野はJを介して送金された金員のうち現金三万円を受け取った。
   9 同年七月下旬、被告人は、喫茶店「さぼうる」にいた甲野から乙山の身元調査の結果について電話報告を受けた際、今後も乙山と接触を続けること、前記資金を送金してあるから受け取ることを指示した。
   10 同年七月下旬ころ、被告人は、喫茶店「タイムス」にいた甲野から喫茶店「にしむら」で行われた乙山との面談の模様(朝霞駐屯地の弾薬庫に目標を絞ること、八月五日に装備が入手できること、犯行の実行日時等は甲野の方で決定すること)について報告を受け、身元調査の結果を報告書にまとめること、名古屋で会って具体的指示をすることを伝えた。
   11 同年七月下旬ころ、被告人は、甲野と名古屋で会い、喫茶店「黒百合」において、乙山の身上関係及び喫茶店「にしむら」における面談の模様について詳細な報告を受けた際、乙山の武器奪取計画の実現性は高いので、甲野が獲得した隊員を十分掌握して、何時でも動員をかけられるようにしておくことを指示し、更に喫茶店「モンシェル」において、乙山の身元調査結果を調査報告書にして、Kにコピーさせて届けるよう命じ、活動資金として現金一万円を渡した。
   12 同年八月五日ころ、被告人は、新大阪駅で甲野と会い、乙山の身元調査報告書のコピー二部を受け取った。次いで、中国料理店「青冥」において、本件犯行の謀議を行った。すなわち、乙山と甲野が協力して武器奪取計画を実行すること、襲撃日時は八月一三日午前二時又は三時、襲撃対象はまず米軍グランドハイツ、これに失敗したときは朝霞駐屯地、更に予備として警察官派出所を順次襲撃すること、更に襲撃方法、使用する凶器、出撃拠点、奪取した武器の保管場所、輸送方法、乙山に支払を約した三〇万円は渡すように見せかけて踏み倒すこと及び犯行の宣伝方法等について綿密な打ち合わせを遂げた上、闘争資金として現金一万円を交付した。
   13 同年八月上旬ころ、被告人は、犯行準備を整えた甲野からハイツ闘争を決行する旨の報告を受け、八月一一日夜池亀方に架電し、甲野に八月一二日喫茶店「穂高」に来るよう指示した。
   14 同年八月一二日ころ、被告人は、喫茶店「穂高」において、甲野に対し、ハイツ闘争を貫徹するよう指示し、連絡場所の電話番号を教え、更に成功した場合には報道機関への宣伝は、Kを通じて行うことを指示し、闘争資金四万円を手交した。
 続いて「むらさき寿司」で闘争の前祝いをした上、乙山に渡すべき三〇万円を踏み倒す具体的方法を指示した。
   15 同年八月一三日ころ、被告人は、喫茶店「タイムス」にいる甲野と電話連絡をとったところ、甲野からハイツ闘争は失敗した。八月一四日に朝霞駐屯地からの武器奪取を敢行する、もしこれに失敗すれば、八月二一日に必ず実行する旨の弁明があったので、これに対し「政治生命がかかっている。死んでもやり抜け。」などと武器奪取貫徹を厳命した。
   16 同年八月一五日ころから同月二〇日ころまでの間に、被告人は、池亀方に電話をかけ、甲野から八月一四日の闘争には失敗したが、八月二一日には必ずやり遂げるとの報告を受け、「今度はしっかりやってくれ。しっかり頼むぞ。」と朝霞駐屯地からの武器奪取を完遂を厳命した。
 検察官は、以上の1ないし16の被告人と甲野との意思連絡の結果形成された共謀に基づき、甲野と乙山、丁原との間にも共謀がなされ、乙山、丁原が本件犯行を実行したものであり、被告人は強盗致死、建造物侵入、公務執行妨害の共同正犯の責任を負うと主張する。
  二 弁護人らの主張
 これに対し、弁護人及び被告人は、甲野と被告人との間に共謀は全く存しなかったと強く反論し、本件犯行の首謀者は甲野であり、本件は、甲野という稀にしかいない特異な人物が、京浜安保共闘の上赤塚及び真岡事件に触発されて、これまでの左翼運動史上にない奇抜さを求めて、甘言と詐言と脅迫をもって丁原らをして実行せしめたものであって、被告人は、その甘言と詐言と脅迫を隠蔽する道具として甲野に冒用されたものに外ならず、被告人は本件に全く関係がないと主張する。その主張の具体的論拠は、以下のとおりである。
   1 会合の事実は認めるが、会合内容を争うもの
 検察官主張の1旅館「津乃村」、エレガントホテル2文学部長室、楽友会館3下田病院、池亀方、レストラン「アラスカ」6飲食店「久富」14喫茶店「穂高」、むらさき寿司の各項の事実については、検察官主張の日時ころに被告人が甲野と会った事実はあるが、その際武器奪取計画を相談したことは全くなく、単に当時の新左翼の情勢について論じたり、甲野が執筆中の論文の件について話にのったり、酒を飲んで歓談したにすぎないと主張する。すなわち
 (一) 旅館「津乃村」では、初対面なので自己紹介した後、朝日新聞社記者Lが中心となって、甲野から関東における新左翼の事情について話を聞いた。
 エレガントホテルには甲野を送って行っただけであり、すぐに別れた。
 (二) 文学部長室に行く前に、喫茶店「学士堂」で甲野に会い、甲野が執筆中の原稿の話やその掲載先の紹介依頼の件について話し合った。
 次いで文学部長室では乙内一久の思い出話をし、スナック「白樺」で同様の話をして飲酒歓談した。
 翌朝、甲野と二人で楽友会館に行き、ブランチを食べて別れた。甲沢は同席していない。
 (三) Jから甲野が入院中と聞き、下田病院に見舞に行った。被告人は、午後乙川二久と会う約束があると話したところ、甲野が紹介して欲しいと言うので、池亀方に寄って、レストラン「アラスカ」に行った。同所で甲野を乙川に紹介するとともに、かねて同人から依頼されていたベルリン自由大学の講師就任の件を断った。その後乙原、乙田らも来た。被告人が朝日新聞社記者に三里塚パンフを売りさばいていたところ、甲野がこれを引き受けたため、被告人は甲野の指定する場所に右パンフを送ることを約した。乙原が中国物産販売の話等をしたが、甲野は途中で帰った。
 (四) 飲食店「久富」では、乙谷を交えて三人で雑談をし、その後被告人の知人多数が集まり、いわゆる飲み会となった。被告人は、前に約束していた五万円を甲野から借り受け、遅くとも八月一二日上京の際に返済することを約した。なお期日前に返済する場合には、K宛に送金してくれと甲野に指定され、その後スナック「エスカール」で飲酒し、別れた。
 (五) 喫茶店「穂高」に行く前に、甲野と待ち合わせ場所の喫茶店「カトレア」で会い、借金の残額一万円を返済し、乙丘の待つ喫茶店「穂高」に寄って、むらさき寿司へ行き、昼食をとったが、その際甲野は借金に困っている友人の話をしたにすぎない。
   2 会合日時等を争うもの
 検察官主張の11喫茶店「黒百合」「モンシェル」の項の事実については、その日時、場所、会合状況を争う。
 被告人は、四六年六月末ころ、甲野から原稿の件で会いたいと言われ、七月三日ころ、名古屋の河合塾の前で待ち合わせ、飲食店「喜久屋」に行った。同所で原稿を受け取り、その話をしていたところ、甲野から自衛隊の制服売買の話が出て、被告人がこれを断ったため、甲沢を紹介して欲しいと言われ、甲沢に電話し、翌日京都で甲野と会うことを承諾させた。また、借金の話に及び、甲野が用立てると言ったため、一週間後に上京の際、「久富」で五万円を借りることになった。
 したがって、検察官主張の日時ころ「黒百合」「モンシェル」で甲野と会って、銃器奪取の話はしていないと主張する。
   3 送金の趣旨を争うもの
 検察官主張の8電信為替の件については、送金の事実は認めるものの、その趣旨を争い、闘争資金ではなく、七月二一日ころ、被告人の勤務する難波予備校から四五万円借り受けることができたので、甲野から「久富」で借り受けた五万円の一部返済として送金したものであり、送り先をK宛にしたのも、甲野は不在がちなので、同人の下宿先ではなく、K宛に送金して欲しいと指定されたからであると主張する。
   4 会合等の存在を争うもの
 検察官主張の4架電、スナック「もっきり亭」会合5架電7甲野のスナック「白樺」への架電、同人と甲沢との名古屋会合9架電10架電12新大阪駅、中国料理店「青冥」の会合13架電15架電16架電の各項の事実については、その各事実の存在そのものを争い、いずれも甲野の捏造した嘘であり、そのような事実は、毫も存しないと主張する。
  三 当裁判所の判断の順序
 以下、共謀の成否を中心として、順次検討を加えていく。
 本件の事実関係は多岐にわたり、関係者の供述も種々の点で錯綜しているので、まずはじめに検察官及び弁護人、被告人いずれも認めており、かつ関係証拠上明らかな事実を確定する。
 次に、検察官の主張は、主に甲野供述に依拠しているので、甲野供述の信用性の有無を吟味し、更に甲野供述を補強していると検察官の主張する乙山供述についても検討を進める。
 最後に、被告人の供述の信用性の有無の判断を中心に据えながら、関係各証拠を対比検討した上、本件で問題とされている各事実の存否を判断することとする。
第二 争いのない事実
  一 はじめに
 当事者間に争いがなく、関係各証拠により確定できる事実は以下のとおりである。
  二 被告人と甲野の経歴、本件に至る経緯
   1 被告人の経歴
 被告人は、京都市内で出生し、三五年四月京都大学経済学部に入学し、ローザ・ルクセンブルクの研究を志し、同大学大学院に進学し、四二年一〇月同大学経済学部助手となり、引き続きローザ・ルクセンブルクの研究をしていた。他方、高校生のころからマルクス・レーニン主義の革命思想に関心を持ち、大学入学後、当時高揚していた六〇年安保闘争等学生運動に参加し、三八年から四四年ころまで共産主義者同盟(いわゆる関西ブント)に所属し、労働者教育に従事し、四四年一月ころ京大全共闘が結成されるや、活動家としてこれに参加し、甲川太郎という筆名で京大全共闘機関紙に寄稿し、自主講座を開くなどの活発な活動を続けた。また暴力革命について精力的に学外の雑誌等に著作を発表したり、講演を行い、従来のいわゆる新左翼を痛烈に批判し、既成の新左翼を解体し、革命実現に向けて行動すべきとの暴力思想を主張した。大学閉鎖が相次ぎ、目標を失ない内ゲバなどで混迷する当時の新左翼運動の状況を背景に、一躍、著名人となった。被告人は、四六年四月ころからは、主として大阪市東淀川区十三に居住し、アルバイト先の難波予備校での授業を毎週月曜日、火曜日の二日行い、京都大学の研究会に毎週木曜日出席していた。
   2 甲野の経歴
 甲野は、高校在学中から左翼思想に共鳴し、四五年四月、日本大学文理学部哲学科入学後、哲芸研という学内サークルを創り、その部長となって、丁原、乙島らとマルクス、レーニン、毛沢東思想の学習会を開き、日大闘争に参加するなどの活動をしていた。本件犯行当時は、世田谷区内の池亀方に下宿していた。
   3 本件に至る経緯
 (一) 甲野は、四六年二月一七日京浜安保共闘の犯行とされる真岡猟銃等強奪事件が発生するや、翌一八日、京浜安保共闘の関係者と名乗って朝日新聞社記者Jから、旅館「小富美」でインタビューを受け、同夜は同社記者K宅に泊まった。このときの取材の結果は、週刊朝日三月五日号に掲載された。
 (二) 被告人は、以前に取材を受けたことからJと知り合い、交友関係にあったところ、同人の仲介により、朝日新聞大阪支社のL記者同席のもとに、四月一三日、旅館「津乃村」において甲野と初めて会い、その後、甲野を関西戊野プロに連れて行き、エレガントホテルを紹介し、同夜甲野は同ホテルに泊まった。
 (三) 被告人と甲野は、再びJの仲介で、五月四日ころ、文学部長室で会い、乙沢八久、乙田らを交えて飲酒した。翌日、被告人と甲野は同大学構内にある楽友会館で食事をした。
 このころ、甲野は、京浜安保共闘の幹部と称して、帝国ホテルにおいて、朝日ジャーナルの記者の取材を受け、その記事が同誌五月二一日号に掲載された。
 (四) 被告人は、六月一九日ころ、下田病院に入院中の甲野を見舞い、二人で甲野の下宿(池亀方)に寄った後レストラン「アラスカ」に行き、乙川二久、乙原、乙田らと会い、飲酒し、甲野は途中で退席した。この席には、J、Kも顔を見せた。被告人は、丁原宛に三里塚と題する小冊子(以下「三里塚パンフ」という。符1と同内容のもの)を送ることを甲野と約し、ほどなく右小冊子約七〇部が京大経済甲川の名で丁原に送られた。
 (五) 被告人は、七月一〇日ころ、飲食店「久富」で甲野と会った。そこには乙谷、乙林九久、乙本十久、乙原、J、Kらも同席した。飲食店「久富」を出て被告人、甲野、乙林らはスナック「エスカール」に行き、飲酒歓談した。
 (六) 甲野は、甲林とともに、七月一二日ころ、喫茶店「ヴィクトリア」において、乙山と会った。甲野は、乙山に対し、現金約二万五〇〇〇円を渡した。
 (七) 被告人は、七月二一日、難波予備校から四五万円を借り受け、同月二三日、現金四万円を「ボウハラ(甲野の偽名)ニワタシテクレ、イチマンタリヌ、ワビル、コウカワ」と記載した通信文を添え、Kに電信為替で送金し、そのころ甲野はJを介してKへの借金一万円を差し引いた現金三万円を受け取った。
 (八) 甲野は、七月二六日ころ、喫茶店「にしむら」において、甲林とともに、乙山と会った。
 (九) 八月五日午後二時ないし三時ころ、乙山の母丁田夏子に対し、戊山一郎と名乗る男から、警察が乙山を捜している、話がしたいので同月六日午後八時に新阪急ホテルに来い、よく話して身柄を引き取ってくれ、という内容の電話があった。
 (一〇) 甲野は、七月二五日ころ、丁原とともにヘルメットを窃取し、その後これに赤衛軍等と記入し、戦斗宣言、緊急通達と題する各書面を準備し、乙山の身上に関する調査報告書(以下、「調査報告書」という。)を作成し、八月九日ころの深夜から翌一〇日ころの未明にかけて、甲林、丁原を誘い、ハイツの下見をし、同月一〇日、丙原に戊川商事の戊川という名で、同月一二日の帝国ホテルの部屋を予約させた。
 (一一) 被告人と甲野は、八月一二日昼ころ、喫茶店「穂高」で会い、更に乙丘を交えてむらさき寿司へ行き、飲食した。
  三 本件前の一連の事件
   1 ハイツ闘争
 (一) 甲野は、八月一二日午後、被告人と会った後、ハイツを襲撃し武器を奪取するため、甲林にレンタカーを借りさせ、丁原、乙島に包丁を買わせ、同日夜、帝国ホテルの二階の一室に丁原、乙島、丙原を、三階の一室に乙山、甲林を集合させた。三階の一室で、乙山が自衛官の制服を持参したことをまず確認すると、丁原を証券会社の支店長に仕立てて、乙山に対し、電話で、現金三〇万円の支払が確実である旨を伝えさせた。また、甲野は、前記調査報告書を乙山に示し、同人からハイツ闘争に参加する旨の言を取るや、同室に丁原、乙島を呼び寄せ、甲林に対してはレンタカーを運転すること、乙山、丁原に対しては自衛隊の制服を着用して変装した上、守衛を襲い銃器を奪取することなどの各自の役割分担を説明し、おじけづいた甲林を二階の一室に連れて行き、説得した。その後、乙山、丁原、甲林、乙島はハイツに向かって出発した。
 (二) 乙山と丁原は途中で自衛官の制服に着替え、ハイツ正門付近に自動車を停車させ、八月一三日午前三時ころ、乙島は車内で酔ったふりをし、丁原は包丁を持って同車付近に隠れ、乙山はハイツ正門前の検問所に行き、警備員Cに対し、「車の中で女が酔っている。薬でもあったらお願いしたい。」などと言ったが、拳銃等を発見できなかったため、同所からの武器奪取を諦め、自動車に戻り、四人とも同所を去った。
 (三) 甲野は、ドッキング地点で、前記四人の乗車する自動車に乗り込み、西武新宿駅前の喫茶店「やまき」に行き、乙山らから失敗した旨の報告を受け、次は朝霞駐屯地を襲撃すると言って、八月一四日午後喫茶店「くじゃく」に集まるよう命じた。
   2 第一次朝霞闘争
 甲野は、ハイツ闘争失敗後、甲林から闘争参加を断られたものの、朝霞駐屯地を襲撃するため、八月一四日夜、待機場所の成増駅前の喫茶店「宮殿」に乙山、丁原、乙島を赴かせたが、闘争に使用すべき自動車の調達に失敗したため、闘争を中止した。
   3 七軒町派出所闘争
 甲野は、前同日夜、第一次朝霞闘争中止後、丁原の下宿近くの東京都杉並区方南町一丁目所在の杉並授産所の運動場で、乙山と丁原に対し、七軒町派出所の警官から警棒を奪い、これで警官を殴り倒して拳銃を奪うよう指示した。両名は、自衛官の制服に着替え、翌一五日午前三時三〇分ころ、同派出所で勤務中の警察官中川富夫に対し、酔っていて見苦しいので中で休ませてくれなどと偽りを申し向け、同派出所内に入り、拳銃奪取の機会を窺ったが、果たせず、同所を去った。その後、甲野は、喫茶店「ヴィレッヂゲート」において、乙山と丁原から前同様失敗したとの報告を受け、八月二一日に朝霞駐屯地を襲撃する旨を決めた。
  四 本件(第二次朝霞闘争)
   1 甲野は、八月一七日ころの未明に甲林とともに、その後一人で、本件犯行に使用するレンタカーに取り付けるための偽装用のナンバープレートを窃取し、八月一八日ころ、乙島、甲谷に本件に関する指示等をし、八月一九日ころ、Kを乙島の下宿に連れて行き、本件に用いるヘルメット、制服、ビラ、柳刃包丁等の写真撮影を許し、八月二〇日、木更津駅前の喫茶店で乙山、丁原と会い、本件の段取り等を話し合った。
   2 甲野は、八月二一日午後、乙山、丁原、乙島、甲谷を、喫茶店「タイムス」に集合させ、丁原にレンタカーを借り受けさせ、これに制服、柳刃包丁、奪った銃を隠し入れるため乙島、甲谷が製作した縫いぐるみ人形等を積み込み、乙島、甲谷を連絡役として喫茶店「宮殿」に行かせて待機させた。甲野、乙山、丁原は、レンタカーに乗り込み、丁原の運転で、出発し、甲野は、途中の成増駅付近で降り、喫茶店「宮殿」に行った。乙山と丁原は自衛官の制服に着替えた上、自衛官を装って、同日午後八時三〇分ころ朝霞駐屯地内に侵入し、同所南側駐車場まで進行して降車し、乙山において、付近の公衆電話から喫茶店「宮殿」に待機中の乙島らに侵入の成功を知らせた。乙山、丁原は、同日午後八時四五分ころ、同駐屯地七三四号隊舎東側路上に至り、折りから動哨勤務中の自衛官陸士長B(当時二一歳)に出会った際、同人が携帯するライフル銃を強取する意思で、同人に対し、乙山において、Bの腹部を手拳で殴打し、その肩から首付近を両手でつかんで膝蹴りをし、丁原において、所携の柳刃包丁でBの右胸部等を数回突き刺す等の暴行を加え、同人を付近のくさむらに転倒させた。乙山、丁原は、ライフル銃を捜したが、発見できず、ヘルメット、ビラ、旗等を付近に遺留し、乙山において、Bの腕から警衛腕章一枚をとった上、レンタカーに乗り、同駐屯地から脱出、逃走した。Bは、間もなく、胸部刺創に基づく胸腔内出血等により失血死した。
  五 本件後の状況
   1 乙山は、本件後、喫茶店「宮殿」に立ち寄り、甲野の指示により、警衛腕章を入れた縫いぐるみ人形を乙島に渡した。翌二二日ころ、甲野から、本件に用いた柳刃包丁、制服等を処分するよう指示を受け、その後、まつばら荘付近の海岸で処分した。
   2 甲野は、八月二二日未明、Kに架電し、事件を起こした旨を伝え、翌二三日ころ、旅館「小富美」において、同人と会い、宣伝のため、事件の概要を話し、警衛腕章を丁原に持って来させ、これをKに渡した。
   3 甲野は、八月二四日午後三時三〇分ころ、難波予備校に架電し、被告人に事件を起こしたことなどを伝えた。
   4 被告人は、九月三日ころ、上京し、甲丘と会い、九月五日ころ、浅草の松屋デパート屋上、その付近の飲食店において、甲野と会い、九月六日ころ、甲丘とともに甲島七夫と会った。
   5 被告人は、九月六日付けの日本読書新聞に掲載された「本格的遊撃戦争の時代への勝利の根拠は暴力の人民性に」と題する記事を執筆した。
   6 甲野は、九月二一日午前一〇時ころ、長野県松本市内から、難波予備校にいる被告人に架電した。
   7 被告人は、四七年一月九日、ハイツ闘争に参加したとして強盗予備の容疑で逮捕状が発布されたと知るや、逃亡し、五七年八月八日逮捕されるまで逃亡生活を続けたが、その間五一年一二月ころ、群馬県大泉町で一緒に稼働中の甲本十夫に対し、本件犯行についての被告人の心情を語った。
第三 甲野供述の信用性
  一 はじめに
 被告人と甲野間の共謀の成否については、両当事者の主張が真向から対立している。共謀の成立過程として検察官の主張する事実の多くについては、事柄の性質上共謀者とされる甲野及び被告人の各供述しか直接証拠はなく、その他の点についても第三者の供述は必ずしも多くないので、共謀の成否を決するには、まず甲野供述の信用性を慎重に検討する必要がある。
  二 甲野の供述経過
   1 甲野の逮捕から刑期終了までの概観
 甲野は、四六年一一月一六日本件につき強盗殺人容疑で逮捕され、同年一二月七日公訴を提起された。同年一二月一〇日ハイツ闘争につき強盗予備容疑で再逮捕され、その後本件以外の余罪についても公訴を提起された。そして五〇年一月二九日強盗殺人、公務執行妨害、住居侵入、強盗予備、窃盗被告事件につき浦和地方裁判所で有罪判決を言い渡された。
 これに対して、検察官、弁護人ら双方が控訴し、東京高等裁判所は五二年六月三〇日強盗殺人を強盗致死とする等の破棄自判の判決を言い渡した。甲野が更に上告したものの、同年八月二〇日その上告取下により、右判決が確定した。
 甲野は同日から服役し、六〇年一月一六日仮出獄し、六二年六月一二日刑期が満了した。
   2 甲野の供述状況
 甲野は、逮捕当日から四七年三月一日までの間ほぼ連日の取調を受け、多数の供述調書が作成された。取調にあたった検察官は伊藤、熊澤両検察官であった。
 次に、四七年五月ころ、長山検察官の取調を受け、同月四日付けから同月二三日付けまで合計一一通の検察官に対する供述調書が作成された。
 また、甲野自身の一審公判では、四九年三月一四日から同年九月二日まで四回、二審公判では五一年七月八日から同年一一月二六日まで三回、いずれも詳細な被告人質問を受けた。
 そして受刑中の五六年一〇月から一二月にかけて、再び長山検察官の取調を受け、合計七通の検察官に対する供述調書が作成された。
 更に被告人が逮捕された後の五七年八月、坂田検察官の取調を受け、合計一二通の検察官に対する供述調書が作成された。
 最後に、甲野は、本公判廷において、五八年三月七日から五九年四月二七日まで一九回にわたり証人として尋問され、更に刑期満了後の六三年一月一二日公判期日外で証人として尋問された。
   3 まとめ
 このように甲野は四六年一一月一六日から六三年一月一二日までの一六年二か月間という長期間にわたり被疑者、被告人あるいは参考人として取調を受け、自ら公判では被告人質問を受け、更には証人として尋問された結果、その供述は極めて膨大となったばかりでなく、検察官も認めているように、その供述内容には相当の変遷も見受けられるので、ここで、甲野供述の内容を被告人との接触状況を中心に概観することとする。
  三 甲野の供述内容の概観
 甲野の供述内容を概観するには、供述のなされた時期、供述内容等を考慮して六期に区分して考察するのが便宜である。
   1 一期(四六年一一月一六日から同年一二月二五日、熊澤、伊藤検察官取調)
 甲野は、逮捕当日の四六年一一月一六日は容疑について否認したが、翌日から本件への関与を認めはじめた。供述内容には多くの変転が見受けられるが、その骨子は、次のとおりである。
 (一) 本件は、日本共産党赤衛軍と日大生を含むグループにより組織的、計画的に実行されたものである。被告人は赤衛軍の幹部であり、被告人の下に丙川、丙田、乙原、甲野、丁原、乙島らがいた。制服部隊は、乙山、丁原、私服部隊は丙川ら、レポ部隊は甲野、乙島であり、他に輸送部隊もある。Kも基地襲撃事件の謀議に参加した。
 (二) 六月、甲林から反戦自衛官組織の武器奪取計画を聞き、被告人に報告した。六月下旬スナック「もっきり亭」、文学部長室で被告人と会い、報告をし、甲林を信用できるかと聞かれた。また、「赤衛軍」の名称も出た。翌朝楽友会館で甲沢を紹介され、両名から協力を求められた。資金はK宛に近く送るので、受け取ってくれと言われた。
 (三) 館山で乙山と会うとき、丙川からボディーガードをつけられた。その後の七月上旬名古屋の喫茶店「田園」で甲沢と会い、館山で乙山から聞いた話(乙山の話)を報告した。
 (四) 喫茶店「にしむら」で乙山と会った後の七月一〇日ころ、被告人と名古屋で会った。闘争への参加を求められたが、これを断り、甲野の執筆した原稿を渡して帰った。
 (五) 七月中旬、レストラン「アラスカ」で被告人、乙本、乙田、乙原、Kらと会い、武器奪取の話をした(最終段階で六月一九日と変更した)。
 (六) 七月中旬、飲食店「久富」で、被告人、乙内、乙原らと会合をもった。丁原、甲林らが被告人と意思一致できたことを伝えた。
 (七) 八月二日、丙田から党の綱領及び戦斗宣言の原稿を渡され、緊急通達を暗記させられた。その後甲野は丁原と戦斗宣言の印刷をした。
 (八) 八月五日に上野の和風喫茶店、八月八日に池袋の喫茶店でいずれも丙川、丙田と会い、ハイツ闘争を決定した。
 (九) 八月一二日、喫茶店「穂高」と寿司屋で被告人から闘争用の靴、メガネ及び現金四万円を受け取った。
 (一〇) 八月一五日から二〇日までの間に、被告人から電話があり、Kに会えと言われ、Kに会い、犯行準備状況を写真に撮らせた。
 (一一) 八月一六日、喫茶店「くじゃく」で丙川から二一日に本件を貫徹すると指示された。
   2 二期(四六年一二月二七日から四七年三月一日、熊澤検察官取調)
 一期供述中の丙川、丙田は架空の人物で、同人らとの謀議はいずれも虚偽であるとして撤回した。また、文学部長室と「もっきり亭」会合が分割され、文学部長室の会合は五月とされ、「久富」会合についても他の会合との順序が大きく違っている。
 二期における新供述としては「もっきり亭」会合、「青冥」会合、「白樺」方式が主なものである。また二期内においても、独自の闘争とする供述など供述内容にかなりの変遷が認められる。
 (一) 被告人は「赤衛軍」のキャップである。六月一九日レストラン「アラスカ」で被告人から建党建軍、武器奪取闘争の話があり、甲野もこれを了承した。
 (二) 甲林の前記の話を聞き、七月初旬スナック「もっきり亭」で被告人と合い、報告した。被告人から、要求された三〇万円は連帯資金として渡しておくこと、Kに用立ててもらうことを指示された。
 (三) 館山で乙山と会った後の七月初旬、名古屋で甲沢と会い乙山の話の報告をした。
 (四) 七月下旬、飲食店「久富」で被告人と会い、銃器奪取闘争の必要性を論じた。
 (五) 喫茶店「にしむら」で乙山と会った後に被告人と名古屋で会い報告をした。
 (六) 八月上旬、中国料理店「青冥」で被告人と会い、種々検討した結果、甲野が実行責任者としてハイツ、朝霞駐屯地、派出所を順次襲撃することに決まった。
 (七) 八月一二日、喫茶店「穂高」で被告人からハイツ闘争をやり抜けと激励され、むらさき寿司で乙山に対する三〇万円の支払を踏み倒すのに利用する名刺を受け取った。
 (八) 八月一三日、喫茶店「タイムス」に被告人から電話があり、激励された。朝霞、交番襲撃は甲野の独自の考えでやった(後に嘘と撤回)。
 (九) 八月一五日から一九日までの間、被告人から池亀方の甲野に電話があり、宣伝のためKに会えと指示された(後に嘘と撤回)。
 一期に被告人の指示でKに写真撮影させたと述べたのは嘘である。
 (一〇) 盗聴防止のため、被告人とは「白樺」方式により電話連絡をしていた。
   3 三期(四七年五月四日から同月二三日、長山検察官取調)
 起訴後の取調であるが、四月「エレガントホテル」でサントリーレッドを飲んだ話、「白樺」方式の具体的内容、六月池亀方でマリファナを吸った話等が新たに供述されている。しかし「赤衛軍」の実態はよく知らぬと供述が後退している。
 その余の被告人との会合の日時、場所、会合内容については、二期に比較して供述内容が一般に詳細となっているが、内容的には大概同一内容である。
   4 四期(四九年三月一四日から五一年一一月二六日、甲野公判)
 被告人との共謀関係は明確に供述せず、本件は甲野が乙山に騙されて敢行したものであり、主犯は甲野であるかのように供述を変えた。
 (一) レストラン「アラスカ」では一般的な建党建軍の話をした。
 (二) 甲林の話は被告人に伝えた。
 (三) 飲食店「久富」での会話内容については、はっきり記憶していない。
 (四) 名古屋で甲沢と会った際、同人から「白樺」方式を教わった。
 (五) 七月下旬名古屋で被告人と会った際、「赤衛軍」の話を聞いた。「赤衛軍」は被告人がリーダーという組織形態ではない。
 (六) 大阪で被告人と会った際、乙山の身元調査を命じられた。被告人が包丁を準備しろと言ったという記憶はない。
 (七) 寿司屋で名刺を受け取った。被告人からハイツ闘争に成功すれば入党させるとは言われていない。
 (八) 謀議を喫茶店でしたことはない。いずれも密室や公園でした。ハイツ闘争、第一次朝霞闘争の報告は出していない。
 右のように供述している点が注目される。
   5 五期(五六年一〇月から五七年八月、長山、坂田検察官取調)
 受刑中の取調であるが、内容的には、大筋において、三期と同趣旨のものが多い。八月一五日から二〇日の間に、被告人から池亀方の甲野に電話があったことについては、再びこれを肯定し、二期において撤回した理由を述べている。また「青冥」謀議で当初派出所襲撃が含まれていると供述しなかったのは、後の取調で記憶を呼び戻したためであると供述する。更にKに写真を撮らせた件に関する供述変遷の理由を述べている。
 また四期供述について、甲野自身が最高責任者となって罪責を被ればよいと考え、後退した供述をしたと弁解する。
   6 六期(五八年三月七日から五九年四月二七日、六三年一月一二日、公判)
 受刑中及び刑終了後の供述である。大筋においては、五期供述を再現した内容となっているが、一部について供述を拒否している。
 五月、文学部長室における「赤衛軍云々」の落書について初めて供述した。
 期日外尋問においては、被告人の言う借金の話を明確に否定する供述をなしたが、名古屋での会合の件など公判供述と異なる供述をしている。
   7 まとめ
 以上の供述内容を簡約すると、当初は、被告人、丙川、丙田が主犯であり、甲野は連絡役にすぎないと供述し(一期)、これが捜査官の追及にあい通らないとみるや、丙川、丙田は架空の人物であり、被告人が主犯で、甲野はその指示に従って行動したに過ぎないと供述を変え(二期、三期)、更に自らの公判段階では乙山が主犯であって、甲野は乙山に騙されて本件に関与したものであるかのように供述を二転させ(四期)、受刑中の取調及び本公判では、再び被告人が主犯であるとの供述をするに至ったものである(五期、六期)。
 被告人との関係を除いては、関係証拠上、甲野が本件の首謀者であり、その指示により乙山、丁原が本件の実行行為に及んだことは明らかである。甲野の供述は、自己の刑責を軽減するため、他人に責任を転嫁するという観点では一貫しているものの、その供述内容においては、顕著な変遷が存するといわざるをえない。
  四 甲野供述の変遷についての当事者の一般的主張
   1 検察官の主張
 検察官は、甲野供述には確かに変遷があるものの、被告人との共謀関係を自白する根幹部分については、大きな変遷がなく、その信用性は高いという。また、供述の変遷部分については、甲野の説明する供述を変えた理由は、いずれも合理的なものであり、本件のように重大事件では共謀者の責任を問われている甲野が当初から全面自白することはありえないことであって、供述の変遷や客観的事実との不一致が過去にあったとしても、これのみを捉えてその信用性を論ずるのは誤りである。殊に六期供述は、甲野が禅との出会いによる悟りの境地で供述したものであって、弁護人の執拗な反対尋問にも耐えたもの、あるいは刑期満了後の自由な社会人としての立場で供述されたものであり、しかもその内容が詳細かつ自然で、臨場感にあふれ、それ自体信用性の高さを示すものでもある。その上甲野供述には、多くの裏付け証拠が存し、大筋においてその信用性は高いと主張する。なお、いわゆるピース缶爆弾事件では、甲野証言はその信用性を否定されたが、本件を同事件と同日に論ずることはできないと説く。
   2 弁護人の主張
 弁護人は、甲野供述には不自然な供述の変遷が多々見受けられ、単なる時間の経過による記憶の稀薄化では説明がつかず、明らかに虚偽の供述であると主張する。このことは、甲野自身が捜査段階、公判段階で自己の従前の供述は一部が嘘であったことを自認しており、甲野の説明する虚偽の供述をするに至った動機、理由は、到底首肯できるものではないことからも認められる。更に、甲野供述は、客観的証拠、関係証拠との不一致が存する上、本件前後におけるKとのインタビュー、本件後のプレイボーイ誌記者とのインタビューの内容とも符合せず、到底措信できない。また、反対尋問における甲野の対応振り等から考えると、甲野には証人としての誠実性、真摯性の欠如が認められるのみならず、甲野の公判供述は、その信用性が否定されたいわゆるピース缶爆弾事件と同様、自己を正当化し、その結果不利益を受ける相手方を中傷化し、心境の変化の理由として仏教の影響を持ち出して強調するもので、その信用性はとても認められない。
 以上の理由から、甲野供述には全く信用性が存しないと反駁する。
   3 当裁判所の判断
 両当事者が指摘するように、甲野供述の信用性をめぐっては解明すべき多くの問題点が存するのであるが、供述の信用性を一刀両断的、一義的に判断するのは相当でなく、個々の事項毎に、両当事者の指摘する点も踏まえた上、個別に検討すべきものと考える。
  五 証人としての誠実性について
   1 虚偽供述の自認
 甲野は自己の供述については虚偽供述の存することを自認している。
 例えば、
 (一) 一期供述では、謀議の日時場所について、従前の謀議の日時場所と変わったのは、記憶を呼び戻した結果であり、自己の作成した自衛隊等襲撃銃器強奪計画(謀議)進展状況表が正しいと供述していた(甲野46・12・18供書9一七五五)。
 ところが二期供述では、同表中の八月上旬の上野、池袋の各喫茶店及び八月一六日の喫茶店「くじゃく」での丙川グループとの謀議はいずれも嘘で、丙川グループと顔を合わせたこともないと供述を変えた。嘘をついた理由としては、責任逃れと丁原の罪を軽くするため、本件には多くの関係者がいることとしたと述べ、実際には甲野は赤衛軍のメンバーでオルグをしていたと供述した(甲野46・12・27PS書10一九七四)。
 (二) 次いで五期供述では、従前の供述は、被疑者又は被告人の立場にあったため、完全な自白をしたものではなく、いい加減な供述をしたり、曖昧な供述をしたものが訂正されず、そのまま残っていたり、捜査官と喧嘩をして、捜査官の書くがままにサインしたものもあり、客観的事実に反したり、説明不足が原因で誤解されたり、表現の曖昧な点があったと供述した。また、公判供述についても、自己保身のため、全部が全部真実を述べたとも限らず、曖昧に供述した点もあると述べ、これからは、既に判決も確定済みなので、事件の全貌を明らかにし、事の真相をありのまま話したいと供述した(甲野56・10・30PS書19三八三三)。
 (三) また六期供述においても、弁護人の反対尋問の際次のように述べている。例えば、タイムスに関する尋問に対して、「被告人には嘘をつく権利がある。自分に不利なことは認めなくてもいいし、ごまかしてもいい。」と述べ(甲野一一回証4八三六)、武器をまつばら荘の沖合の島に隠すことに関する尋問に対して、「証人と同時に被告人なので、仮に宣誓をしていても、自分に不利なことは適当に言ったり、ごまかしたり、いい加減なことを言ったりした。証言については必ずしも全面的に責任は持てない。」と供述している(甲野一四回証5一二六四)。
   2 誇張供述の性癖
 甲野は、自己の経歴、家族関係等について、明らかな虚偽を周囲の者に吹聴しており、誇張供述の性癖が認められる。
 例えば、弟は金沢の医学部に行っている(丁野一夫六四回証20六四五二)、京大、同志社大を中退した(丁山春子六五回証20六五〇七、丁原46・12・25(その二)PS書38八一八九)、フランスの五月革命の時にカルチェ・ラタンにいた(甲山一夫六五回証20六五九四)、妻子がいる(甲山、丁山、丁原前同、丁田夏子五七回証18五六六四)等と述べているのである。
   3 関係者の供述
 また、甲野の虚言癖を指摘する関係者もいる。例えば、丁原は、甲野は一面には見えすいた嘘をつくと供述している(丁原46・12・25(その二)PS書38八一八九)。
   4 まとめ
 以上検討したところから明らかなように、甲野の証人としての誠実性については疑問を投げかける点が見受けられることは否定できないところである。
  六 甲野供述の信用性判断についての当裁判所の方針
 右のように、甲野供述は多くの変遷を重ねており、その変遷の理由に合理性が存するかどうかについても当事者の見解が厳しく対立しており、またその証人としての誠実性にも問題点が見受けられる。
 他方、甲野供述には、確実な裏付け証拠の存する真実を語ったと認められる部分も存することを認めない訳にはいかない。
 したがって、甲野供述の信用性判断にあたっては、極めて慎重な検討が要請されるところであり、供述全体の整合性、供述内容の合理性、自然性、供述変遷の理由、補強証拠の有無、反対証拠の有無等を丹念に検討した上で個々の事項毎に総合的にその信用性を判断するのが至当である。
 以下、事項毎に順次その信用性を検討する。
  七 旅館「津乃村」、エレガントホテル
   1 供述の概要
 (一) 一期
  (1) J記者から週刊朝日の記事についてインタビューを受けた日の数日後に、Jから被告人と会えるよう連絡がついたと言われ、五〇〇〇円貰って翌朝新幹線で大阪へ行った。車内から予備校に電話し、新大阪駅まで出迎えてもらうことになった。
 京浜安保共闘と関西左派ブントのラインを構築するために会いに行った。
  (2) 旅館「津乃村」で朝日新聞社記者Lを紹介された。被告人は関西の新左翼の現状を話し、関西のパルチザンは不調だ、京浜安保共闘の丙谷と手を握りたい、警察、自衛隊、米軍等の武器を奪って武装し、それらと闘争すべきだと言い、甲野も同意した。
  (3) 大阪でLと別れ、梅田近くのもつ焼屋(赤提灯)に行った。被告人は、四・二八沖縄デーをここ一番闘わなければならない、どう闘うかが問題だ、軍団を建設して東京に突込む方針だなどと語った。また、京浜安保共闘の者から爆弾製造の手ほどきをしてもらったとも言っていた。
  (4) その夜はビジネスホテルに泊まった。宿帳は被告人が書き、金を払って帰って行った。
  (5) 四・二八の闘いを側面的に支援するため、四月二八日丁原、甲山一夫、丙丘六男と変電所、大原交差点で火炎びんを投げた。このことは前日予めJに連絡しておいた(甲野46・12・25KS書10一八七五)。
 (二) 二期
  (1) 関西の極左グループと連帯したいとペン丙谷が言っていたので、一度被告人と会って話を聞いてみたいと思い、Jの仲介により四月一三日ころ新幹線で大阪へ行った。車内から予備校に電話し、被告人を本名で呼び出し、新大阪駅まで出迎えてもらった。
  (2) 旅館「津乃村」でLを紹介された。Lが同席していたので、深い話はしなかったが、関西パルチザンと甲沢のエル・ゲー(RG)とペン丙谷の京浜安保共闘が手を組んで闘争を進めることについて一時間位話し合った。
  (3) Lと別れた後、被告人と戊野プロに寄り、エレガントホテルに行った。ホテル代は戊野プロの人が払った。その後近くの赤提灯に行き、二時間位四・二八闘争の話をした。被告人は、京浜安保共闘の者から手製爆弾製造の手ほどきを受けた、東京で一発闘争をやろう、RG、パルチバンの連中をかき集めて東京に送り込む、東京駅や新宿で火炎びんを投げたりして遊撃戦をやろう、君も共闘してくれなどと言った。
  (4) 四・二八闘争の何日か前に、被告人とJに闘争の日時場所を教えた。被告人は東京駅の方でやるようなことを言っていた。甲野らの闘争はプロパガンダのための遊撃戦だった(甲野46・12・27KS書10一九七二、46・12・27PS書10一九八七、46・12・28PS書11二〇〇一、47・2・9PS書13二五五九、47・2・14書13二五七七)。
 (三) 三期
  (1) 被告人に会いに行った目的は二期と同じ。
 被告人と出会うまでの経緯は、指定された予定の時間に間に合う列車に乗り遅れたため予備校に電話したことが加わっている外は、二期と同じ。
  (2) 旅館「津乃村」での対談の模様は、腹の探り合いとの供述が加わる外は、二期と同じ。
  (3) ホテルに行くまでの経緯は二期と同じ。ホテルの部屋で被告人がショルダーバッグからサントリーレッドの普通サイズを取り出し、二人で三〇分位で空けた。赤提灯での話は、二期と同様の会話の外、甲野の補導歴、女性の話等も出た。被告人は、いわばお近付きの印としての杯だと言い、四・二八清水谷の前哨戦をやろうと言ったので、甲野も一緒にやろうと答えた。親近感がわき、引きつけられ共感するところが大きかった。
 ホテルに帰ってから、予備校、京大研究室、自宅の電話番号を教えてくれた。甲野はJを仲介役とし、連絡先は追って知らせることにして別れた(甲野47・5・12PS書14二八〇六)。
 (四) 四期
 特に目的があって会いに行った訳ではない。
 Jの紹介により被告人と初めて会った。新左翼の武装闘争運動の停滞に関して討論した。同じ運動をする者同士として連絡をとり合ってやっていこうという話になった。武装闘争の問題は、一般的な話をしたにすぎず、特定個別の闘争についての話ではなかった(甲野一審二二回49・3・14書16三一九八)。
 (五) 五期
  (1) 被告人の過激な武力革命理論に共鳴する点もあったので、被告人と会ってみる気になった。
 Jに呼び出され、五〇〇〇円交通費の足しとしてもらったことが加わる外、被告人と出会う経緯については三期と同じ。
  (2) 旅館「津乃村」では、被告人は毛思想と中共の路線を評価すると言っていた。武装闘争を推進する中核部隊を建設する必要がある、RG、パルチザン、京浜安保共闘の統一戦線が組めないかとも言っていた。要するに、最近の革命情勢についての話や雑談が主だった。
  (3) ホテルに行くまでの経緯及びホテル内の状況は三期と同じ。赤提灯では、被告人が四・二八には京都などから活動家をかき集めて清水谷公園で開かれる蜂起戦争派の集会に参加して都内で暴れる予定であるが、共闘して何か一つやろうと言ったので、甲野もこれを承諾した。ホテルで被告人が今後も連絡を継続しようと言って、三期と同じ電話番号を教えてくれた(甲野56・11・10PS書19三八六七、56・12・17KS書21四二二九)。
 (六) 六期
  (1) 被告人は、関西方面では、いわゆる過激派集団の教祖的な人なので、会えばいろいろ教えを請うことができるだろうと思って会うことにした。
 被告人と出会う経緯については、二期と同じ。
  (2) 旅館「津乃村」でLの紹介を受けた。日本で暴力革命をやり、世界革命をめざしていく暴力派というか、武闘派として、お互いに一致できるという話が出た。毛沢東思想や中国共産党を評価できるという話が出た。そして、日本の革命は、暴力革命であって、そのためには武装闘争をやらねばならず、中核となるゲリラ戦部隊を作っていかにゃいかんのだということを言われた。関東や関西にいくつかある武装闘争を指向しているセクトとかグループ、こういったものを、いろいろ連絡を付けて共闘といいますが、統一戦線のようなものが組めないだろうか、そういう可能性はないだろうかということについて話し合った。被告人の言うことには異議はなかった。
  (3) ホテルに行くまでの経緯及びホテル内での状況は三期と同じ。赤提灯では、被告人が四・二八に京都のいわゆる過激派の学生の人たちを東京へ送る、蜂起戦争派の集会があるんで、何かそれに呼応して、一つ悪さをしようと話をした。すごくいい人だなあという感じでその人柄に非常にひかれた。革命の問題についても話し合ったが、被告人とだったら、今後、一緒に活動できる。被告人が革命にかけている情熱というのは、非常に立派だと思って感激した。今後連絡を取り合うことになり、三期と同じ電話番号を教えてくれた。甲野も連絡先を話して別れた。
  (4) 甲野は、被告人から一つ悪さをしようという話があったので、四・二八に丁原、甲山、乙本らと代田橋の変電所や大原交差点に火炎ビンを投げた。
   2 旅館「津乃村」会合
 (一) 甲野供述は、会合に行った目的、Jの仲介時期、Jからの交通費の供与、待ち合わせの決定方法、列車に乗り遅れの有無、旅館への到着時間、甲野が紹介されたときの名、会話内容等多岐にわたる変遷があり、直ちには措信し難い。
 (二) 甲野は一期では、武器奪取の話もされたと供述している。
 ところで、「津乃村」での会合には、朝日新聞社の記者であるLが被告人の誘いにより同席していたが、証人Lは、特定の具体的闘争に向かっての重々しい話や具体的な組織の共闘の話などはなく、二人は何やら抽象論に走ったような話をしていたが、なごやかな話し合いであった旨証言している。Lはその経歴などからみて比較的中立的立場にある証人であること、全体的に証言内容は自然で、曖昧な点を含めその証言は記憶に忠実なものであると認められること、甲野供述にあるような武器奪取の話などがあれば印象に残りやすいと考えられることに照らし、右L証言は信用できる。甲野供述は、右L証言と整合しない。
 しかも、甲野は、二期以降においては、被告人とは初対面であり、新聞記者も同席していたので、腹の探り合いで、深い話はしなかったとほぼ一貫して供述しており、その供述内容は、合理的であり、不自然な点は見受けられず、L証言とも矛盾せず、措信できる。したがって、武器奪取の話があったとの甲野供述は信用できない。
 (三) 二期以降の甲野供述では、会話内容に差異は存するものの、要するに、新左翼運動の活動家同志の一般的な共闘の話であり、この点については、L証言とも符合し、被告人も甲野も従前の新左翼運動にあきたらず新たな活動形態を模索していた活動家であることを考慮すると、その会話内容は極めて自然と解される。
 したがって、甲野供述は、新左翼運動の活動家として一般的な共闘の話をしたとの限度では措信できる。
   3 エレガントホテル
 互に緊張をゆるめるために、エレガントホテルで被告人の持参したサントリーレッドを二人で飲んだとの供述は、三期において初めて出現している。
 検察官は、その場にいた者でなければ供述しえない出来事であり、甲野供述全体の信用性を高めるものであると主張する。
 これに対して、弁護人は、逮捕後六か月近くたって初めて供述されたのは極めて不自然で、L、丙沢証言と矛盾し、右事実が存しなかったとの合理的疑いを抱かざるをえないと主張する。
 確かに逮捕後長期間供述されなかったことについての説明は、甲野もしていないのであるが、右の点は、被告人との初会合に関する供述中では些細な出来事に属する事柄であり、その間供述がなされなかったからといって、不自然とまではいえない。
 弁護人の指摘するL、丙沢証言は、エレガントホテルでの出来事を目撃したものではなく、甲野供述に対する反対証拠としての証拠価値は必ずしも大きくない。
 ところでKは甲野から聞いた話として、被告人がブラックニッカをボストンバッグに入れて飲んでいると供述する(K47・1・27PS書34七〇二二)。右供述はウィスキーの銘柄こそ違え、甲野供述を補強するものであり、甲野供述は信用できる。
 しかしながら、甲野供述の変遷に鑑みると、検察官主張のように、二人でウィスキーを飲んだという出来事について供述がなされていることがそれ以上に甲野供述全体の信用性を高めるものでないことはいうまでもない。
   4 居酒屋
 (一) 居酒屋に行ったことについて
 弁護人は、居酒屋に関する甲野供述は、甲野が、その供述をLに否定されるのを避けるため、自己が作り上げた話を、Lが存在しない場での話として供述したものであり、その居酒屋の場所が特定されていない点からみて、居酒屋で話をしたということ自体虚偽である旨主張する。しかし、甲野供述をみると、居酒屋に行ったこと自体は当初より一貫し、変遷がないこと、一期の甲野供述の内容は、被告人が旅館において、警察、自衛隊、米軍などから武器を奪って武装すべきだと言った、Lについて中国のスパイルートとして京都の東方書店を被告人に紹介した人だと言ったなどLにより自己の供述が否定されることに配慮したとは全く解しえないものであったこと、したがって、甲野において行ってもいない居酒屋のことをわざわざ創作すべき動機は存しないこと、大阪の市街地内で初めて行った居酒屋の場所を甲野が特定できなくても不自然ではないことに照らし、居酒屋に行ったこと自体に関する甲野供述は不自然とまではいえず、弁護人の主張は理由がない。
 (二) 四・二八闘争について
  (1) 甲野供述は、四・二八に向けての共闘について話し合ったとするものである。
  (2) この点については甲野供述を一応裏付けるような証拠が存する。すなわち、四・二八闘争に関し、甲野は、実際に、四月二四日夜、丁原、甲山、丙丘とともに、大原交差点及びその付近の変電所に火炎びん数本を投てきしたが、関係者の供述によると、その直前甲野は、丁原らに対し、その日の晩に関西から来る部隊が東京駅で行動を起こす、甲野自身はそちらに行くが、丁原らは側面から援助する意味で右交差点で火炎びんを投げよと命令したこと(丁原46・12・27PS書38八二一七、47・3・1PS書59一三五一三、甲山47・3・6PS書58一三三五七、甲山六五回証20六六〇五も概ね同旨である。)、自分は東京駅に用があるとしてどこかへ行き、当初は投てきの実行に加わらなかったこと(甲山47・2・23PS書58一三三〇九)が認められる。右丁原及び甲山供述は、矛盾なく、また供述内容自体、両名が独自に創作できるものではなく、信用できる。
 また、同人らは、朝日新聞が火炎びん闘争の特集をするので、投げてくれと甲野に言われたとも供述しており、Jも四・二八か何日か前に甲野から何かやるという電話があり、火炎びんを投げると言われたように思う、場所は大原交差点と言われた記憶が残っているがはっきりしない、しかし、アサヒグラフのM記者が取材に行ってみたが、何も起きなかったと言われたことがあると述べている(JPS書43九八九九)。
 弁護人は、甲野が四・二八沖縄反戦デーにかこつけて、朝日新聞にガセネタを売りつけ、丁原らをけしかけて実行させたのが四・二八闘争の真相であり、辻褄合せのため被告人との共闘を作りあげたものであると主張する。
 確かに、四月二四日、被告人が東京に人を送り込んだ形跡はなく(勿論東京駅での行動の形跡もない。)、一方甲野は火炎びん投てき行動を朝日新聞社に取材させようとしており、甲野供述によっても、旅館「津乃村」の会合後、被告人と甲野との間で、この件について共同歩調をとるために連絡をとったことについて、具体的な事実は述べられておらず、また約一〇日後の文学部長室等における被告人と甲野との会合の際、四・二八闘争について反省など話し合われた形跡が全く存しない。しかも甲野の四月二四日当日の行動も、丁原の周囲を徘徊するだけであり、東京駅に向かった形跡も窺われない。
 このように、甲野供述を真実とすると、甲野のその後の行動は不自然な行動といわざるをえず、前記認定事実とも符合しない。
 どちらかといえば、丁原、Jらの朝日新聞社の取材に関する右供述部分を前提として、甲野が自らの行動を朝日新聞社に売り込んだものと解すると、甲野の言動は十分説明がつくと考える余地がある。
  (3) そこで甲野供述の供述経過を検討すると、当初は、被告人が軍団を建設して突込む方針だと述べたのに対し、甲野は態度を明らかにせず、ただ側面的に支援するため火炎びんを投げたと供述していたが(一期)、四・二八に向けて連絡をとって闘争を進めようということになり(二期)、また、共闘の申込に対し、四・二八の何日か前に被告人に闘争の日時場所を教え、甲野においてはプロパガンダのための遊撃戦をしたとの供述(二期)が、共闘の申込に対して甲野も一緒にやろうと答えた(三期)、都内で暴れるので一緒にやろうと言われてこれを承諾した(五期)、蜂起戦争派に呼応して悪さをしようということとなった(六期)と変遷している。この供述経過から明らかなように、甲野供述は、供述の度に内容が詳細となり、甲野の態度が積極的になっていくことが看取されるものの、共闘の中味は依然として曖昧なままである。このような状態で、火炎びんの投てきに至ったとする甲野供述は、やや不自然のそしりを免がれえない。
  (4) また、後述のごとく、五月の京都での会合もJの仲介によるものと認められるが、このことは甲野供述の四・二八に向けて被告人と連絡を取り合っていこうと話し合い、今後も連絡を継続しようということで被告人の勤務する予備校及び研究室の電話番号、自宅の呼出し電話番号を教わったということと整合せず、このように甲野供述には不審な点が認められる。
  (5) 更に甲野は、五月五日、文学部長室から丁原、甲山宛に「六日五時モンブランで待つ 丙林」という内容の電報を打っており、この電報の趣旨を巡っては後述のごとく争いが存するが、火炎びん闘争との辻褄合せのため関西に縁があるかのように装って打電したものとの弁護人の主張を否定するのも困難である。
  (6) 以上の点から考えると、甲野供述は、火炎びん闘争について一応の裏付け証拠は存するものの、甲野供述に反する証拠も存し、不自然な供述の変遷も認められ、五月の会合に至る経緯等との齟齬も認められるので、弁護人の辻褄合せにすぎないとの主張を完全に否定することはできず、四・二八闘争について甲野供述どおりの会話があったと認定するのは躊躇せざるをえない。
 (三) その余の会話内容について
 甲野は、酔って、少年時代に補導されたこととか女性のことなどを話したところ、被告人から、そういうやくざな男が大好きだ、共産主義暴力戦士とはすねに傷を持つならずもののようなやつでなくてはいけない、党派、セクトを越えたところで個人的に結合できるのだ、などとほめられた、更に被告人が自分の女性の話など一般に活動家ではタブーとされている話をし、二人の話がはずんだと供述する(三期)。右供述には、党派、セクトを越えたところでの個人的結合のことなど、どちらかといえば、被告人独特の考え(主義主張を金科玉条とし組織活動を重視する従来の新左翼諸派を批判し、個人の生き方という観点から、下からの新しい人間結合の在り方を生みだそうとするもの、八四回証26八三九九、八四三〇、八四四四)に近い発想があらわれていること、話の流れは自然で創作や誘導の結果とは解し難いこと(補導されたことなどに対する被告人の反応やそこに被告人の女性の話を持ち出し、全体を自然に作り上げることは困難である。また、個人的結合などということは、建党建軍という組織的側面を重視する甲野供述と整合せず、そのようなことをあえて創作したとは解し難い。)、右供述は、四七年五月の段階で初めて供述されたものであるが、会話内容が謀議の形成過程そのものを直接裏付けるものではないので供述者や捜査官の関心が低かったとみられ、右供述過程に不自然さはないことに照らし、右甲野供述は、細部については被告人の考えに対する甲野の理解が不十分であるところも見受けられるものの、概ね信用できる。
  八 京大文学部長室、楽友会館
   1 供述の概要
 (一) 一期
  (1) 甲林の話を被告人に伝えた後、被告人の指示で京都へ行った。駅前からスナック「白樺」に電話したところ、被告人が出て、百万遍の名曲喫茶の前で会うこととなった。
  (2) 被告人と会って、スナック「もっきり亭」へ行き、甲林の話の報告をした後、一人でスナック「白樺」に行き、次いで文学部長室へ行った。
  (3) 文学部長室へ行くと、すぐに被告人、乙田が来て、同所にいた乙沢八久も紹介された。被告人は、非合法遊撃戦争の話をし、武装闘争を基軸として日本革命を推進する日本共産党と赤衛軍建設を説いていた。また、甲林の話の信用性についても聞かれた。被告人は乙田にC、L戦線の者にしっかり空気を入れておけと指示した。当夜は被告人らと同所で寝た。
  (4) 翌朝楽友会館に行き、甲沢の来るのを待った。三人揃ったところで再び甲林の話をした。甲沢から面白い話だが、相手の組織の実体と信用性の問題が気になる、三里塚で忙しいので仲立ちしろと言われたが、意思の一致をみなかった。
  (5) 甲沢と同所で別れ、繁華街の喫茶店へ行った。被告人は甲野の執筆した論文については出版社に頼んでやると言った。被告人から武器が入れば沖縄闘争に実益があると言われ、甲野は今後の連絡役を引き受け、自己の下宿先の住所、電話番号を被告人に教えた。三〇万円はK宛に送るので、受け取って先方に会えと指示された。名古屋の実家に一泊して帰京した(甲野46・11・20KS書7一一六〇、46・11・21KS書7一一八二、46・12・18供書9一七五七)。
 (二) 二期
  (1) 予備校か研究室に電話して五月四日京都へ行った。スナック「白樺」への電話からスナック「もっきり亭」へ行くまでは一期と同じ。「もっきり亭」で被告人の筆名の由来等を聞き、「白樺」へ一人で寄って、文学部長室へ行った。
  (2) 文学部長室で待っていると、被告人が来て、乙田、乙沢八久を紹介してくれた。被告人は、地下革命党の話をし、京浜安保共闘の銃器奪取闘争は評価できる、敵である警察、自衛隊、米軍から武器を奪い、敵を武装解除、消耗させ、人民を武装させ軍事武装闘争をすべきだ、毛沢東思想で、赤衛軍を創り、遊撃戦を行うべきだと説き、甲野と意思一致をみた。話の前後にラーメン屋へ行った。
  (3) 翌日楽友会館で初めて甲沢をRGの黒幕と紹介された。被告人が前夜と同じ話をした。甲沢が三派で構成する誌上座談会を朝日ジャーナルで企画している旨の話をし、これを受け容れて、アジるだけアジって資金をもらい、赤衛軍のプロパガンダをすることとなった。
  (4) その後被告人と鴨川の土手で雑談し、名古屋の実家に一泊して帰京した(甲野46・12・27KS書10一九七二、46・12・27PS10一九八八、46・12・28PS書11二〇一〇、47・1・7KS書11二一八五、47・2・14PS書13二五八一、47・3・2KS書13二六九三)。
 (三) 三期
  (1) Kと会った日に喫茶店「シロー」に被告人から電話があり、来ないかと言われ、特に目的もなかったが、五月四日京都に行った。スナック「白樺」から文学部長室へ行くまでは二期と同じ。
  (2) 文学部長室へ行くと一五分位して被告人が来た。同所はクーラーが設置されており涼しかった。乙田と乙沢八久を紹介され、ラーメン屋に行った。甲野が焼ソバの大盛りを残したところ、乙田がこれを食べた。文学部長室に帰ってから、被告人はラーメン屋はスパイかも知れぬと言っていた。被告人は建党建軍の話をし、敵を襲撃して武器を奪い、遊撃戦を獲得せねばならぬ、人民の軍隊として「赤衛」という形をとるなどと説き、甲野も闘争を一緒にやっていこうと思った。
  (3) 翌日楽友会館で甲沢をRGの黒幕と紹介された。被告人は、左から解体し、日本階級闘争のヘゲモニーを取るなどといい、意思の一致をみた。
 甲沢からいわゆる「白樺」方式という電話連絡の方法を教わり、その後は何時でもこの架電方法によることになり、常に右方法で連絡を取り合った。
 朝日ジャーナルの件は二期と同じ。
  (4) 甲沢と別れて、被告人と鴨川の土手でローザ・ルクセンブルグの話などをした。その後御所を散歩中甲野の結婚の話が出た。名古屋の実家で一泊して帰京した(甲野47・5・16PS書14二八四〇、47・5・17PS書14二八七四)。
 (四) 四期
 五月に被告人と会ったときは、主として運動論とか組織論とか思想的な問題を話し合った。建党建軍の話も出た。武器奪取の具体的な話はなかった。抽象的にはあったかもしれないが、記憶がない。被告人は先生の立場であった。甲沢から朝日ジャーナルの誌上座談会の話はあった(甲野一審二二回49・3・14書16三二〇〇)。
 (五) 五期
  (1) 文学部長室へ行くまでの経緯は、三期と同じ。
  (2) 文学部長室で待っていると、被告人が来て、乙田、乙沢八久を紹介され、雑談をした。その後、ラーメン屋からスパイの話までは三期と同じ。
 被告人は、日本革命の現段階は武装闘争であり、マルクス・レーニン主義、毛沢東思想を基調とする地下非公然の革命共産党と軍隊(赤衛軍)を建設し、銃、爆弾を使用した遊撃戦争を展開する、当面は三里塚、沖縄闘争を戦争として闘い切らねばならぬと言った。甲野もこれに賛同し、今後とも連絡をとりながら活動していくことになった。
  (3) 翌日楽友会館で甲沢を紹介され、被告人が昨日と同じ話をした。一致して闘争を組んでいくこととなった。「白樺」方式の件は三期と同じ。朝日ジャーナルの誌上座談会の件については、被告人がおおいに暴力派を宣伝し、取材費だけふんだくろうと言い出し、やることになった。
  (4) その後、鴨川、御所をぶらついて、名古屋の実家で一泊して帰京した(甲野56・11・10PS書19三八七八、56・12・17KS書21四二三五)。
 (六) 六期
  (1) 大阪で被告人と会った後も、被告人と連絡を取り合っていた。何時のときだかはっきりしないが、被告人から京都に来いよという話があった。それで特別の用件もなく京都に出かけた。
  (2) スナック「白樺」への電話からラーメン屋までの話は、大概二期と同じ。
  (3) その後、文学部長室で被告人は、新左翼は既に組織ごと体制の内部に丸め込まれ、革命性を喪失して変質し堕落しており、革命勢力とは認め難い。
 赤軍派は、武装蜂起を主張して、古い新左翼の枠を破って登場したが、弾圧を受け、壊滅状態になっており、展望はない。
 だから、従来の新左翼と訣別して新しい流れを作っていかなければならない。毛沢東の中国共産党の世界革命の路線を評価しつつ新しい日本革命の総路線を確立しなければならない。中国共産党とのルートを確立して資金等の援助をしてもらわないと、革命はできない。
 マルクス・レーニン主義を基本にして、毛沢東思想に学びながら、全国に散在している武闘派の群小グループを闘いの中から統合止揚して、非合法の革命的共産党及び軍としての赤衛軍を作っていかなければならない。
 当面、三里塚闘争、沖縄闘争を如何に軍事的に戦争として闘い抜くかということが問われていると述べた。
 甲野は、これを聞いて共鳴し、感激し、賛成した。
 被告人と、今後、お互いが連絡を取り合って、その目的のために力を合わせて頑張っていこうと約束した。
 甲野は、被告人の右の話に感激し、文学部長室で寝るとき、壁に赤衛軍万歳(ないし、赤衛軍の建設を戦いとるぞ)との落書をし、このことを早く伝えるために、丁原、甲山に電話電報を打った。
  (4) 楽友会館の件は五期と同じ。
  (5) その後御所、鴨川を被告人とぶらつき、喫茶店に入って後別れた。名古屋の実家に一泊して帰京した。
   2 会合時期についての供述変遷
 (一) 甲野供述は、当初文学部長室、楽友会館での会合をスナック「もっきり亭」での会合と一体のものとし、時期も四六年六月下旬から七月上旬ころで、甲林からの話を被告人らに伝え、その問題について討議したと供述していたが、46・12・27KS(書10一九七二)からレストラン「アラスカ」での会合(六月)の前の五月初旬ころとし、スナック「もっきり亭」での甲林の話は「アラスカ」会合後の七月上旬のころとし、文学部長室等では建党建軍、赤衛軍、武器奪取闘争について話し合ったとなり、甲沢からの朝日ジャーナルの誌上座談会の話が付加された。更に47・5・17PS(書14二八八三)で甲沢から「白樺」方式を教わったとの話が初めて供述され、四期においては供述が全体的に後退し、「白樺」方式の件も七月の甲沢との名古屋会合での出来事となったが、五期で再び三期と同趣旨の供述となり、六期に至っている。
 被告人との謀議状況を中心に甲野供述の変遷を時系列順に図式化すると次表のようになる。
 謀議順序一覧表

 <1> 46・11・20KS、46・12・3PS
 <2> 46・12・18供
 <3> 46・12・27KS、46・12・29PS
 <4> 47・1・7KS
 <5> 47・2・14PS
 〓 前後関係が不明確との趣旨
 1 甲林の話
 2 文学部長室
 3 「もっきり亭」
 4 「ヴィクトリア」
 5 甲沢との名古屋会合
 6 「にしむら」
 7 被告人との名古屋会合
 8 「アラスカ」
 9 「久富」
 10 「青冥」
 11 「穂高」、むらさき寿司
 このように一期と二期以降では文学部長室の会合と甲林の話の時間的順序が逆転していることが明らかである。
 確かに日時の点については、時間の経過により記憶が稀薄化し、供述が曖昧となることは日常生起することで決して不自然とはいえないが、一連の出来事の時間的前後関係の変動を同様に解することはできない。自己の体験した一連の出来事の前後関係に混乱が生じるのは、ごく普通の事とはいえず、甲野供述の変遷には不自然さが認められる。
 (二) しかも甲野供述は、文学部長室での会合と他の会合との前後関係が逆転しているのみではない。前述のように当初はスナック「もっきり亭」での会合と一体のものとして供述されていたものが、その後両者が分離され、文学部長室での会合は、レストラン「アラスカ」会合の前の五月初旬ころに、スナック「もっきり亭」会合は、レストラン「アラスカ」会合後の七月初旬ころに分割され、会合内容も当初の甲林の話の報告が建党建軍、武装闘争等の話に一新されており、この供述の変遷は、はなはだ不自然である。
 甲野は、一期においては被告人と甲野との間に丙川ら架空の人物を介在させたため虚偽の供述をしたと弁解する。しかしながら、その虚偽の供述をした訳として述べる理由は、被告人との会合についての供述の変遷の合理的説明とはいえず、何故文学部長室での会合に関する供述が四六年一二月二七日を境に変遷していったのか、その理由は判然とせず、甲野供述は、真実記憶に基いたものか疑問が残る。
   3 Jの仲介
 甲野は、被告人と直接連絡をとった上で京都に赴いたと供述している(連絡の電話を何処へ架けたか、あるいは何処で受けたかについては、供述の顕著な変遷が見られる)。
 ところで、Jは甲野と被告人との会合の仲介をとったと供述している(六七回証21六七七六)。同人の供述は、かなり朧気であるが(同人のPS書43九九一六参照)、同人が当時使用していた手帳(符64)には、四月三〇日深夜の欄に「戊原へTEL」とあり、五月四日午後零時の欄に「甲川へTEL」、その甲川という記載のすぐ横に「戊原」と併記された記載があり、五月五日の欄には「甲川×丙本」との記載が抹消されていること、また甲野供述からは、右の記載が仲介以外の趣旨であることを窺わせる事情は認められないことをも考慮すると、J供述の信用性は高く、五月の会合についても甲野と被告人との仲介の労をJがとったものと認定するのが相当であり、これに反する甲野の前記供述は措信し難い。
   4 建党建軍の話
 甲野は、ほぼ一貫して被告人が、非合法の革命的共産党(日本共産党)及び赤衛軍を革命の担い手として建設すべきであるなどと力説したと供述する。
 しかしながら、被告人の当時の著作物を検討しても、被告人が暴力革命を志向し、既存の新左翼運動を超えた武装闘争の必要性を説いていることは明らかであるが、その論説の具体的内容は、左翼運動停滞の原因は既存の左翼組織が大衆の闘争を固定したものに限定している点にある、そのような形で大衆を組織するのではなく、大衆から自然発生的に生ずる運動を助長し、無定形、無方向、無秩序なものを増加させる必要があり、その担い手である、ならずもの赤衛軍を増殖せよ、というもので、甲野供述にあるような革命的共産党及びそれに属する軍として赤衛軍を建設するといった、秩序ある組織の編成を主張するものではなく、また、被告人の主張は、そのような組織による下命関係を批判し、大衆からの自然発生的運動を重視するものと認められる。
 このように甲野供述の建党建軍の話は、被告人の当時の著作物の内容とは相反するものといわざるをえない。
 殊に、日本共産党の名称は、新左翼運動の中では殆ど用いられていず、僅かに京浜安保共闘の母胎である日本共産党左派の名称が注目され、被告人が従前所属していた関西ブントも右名称を用いていない。また被告人の著作物にも日本共産党の創設を論じている箇所は見当たらない。これに対して、甲野は、四六年二月一八日及び同年五月ころ、京浜安保共闘の幹部を騙って週刊誌の記者の取材を受けており、当時の甲野には京浜安保共闘の影が色濃く残存していると見受けられ、日本共産党の名称は、被告人に由来するのではなく、甲野に由来すると解するのが自然である。
 しかも文学部長室での会合に同席した乙沢八久も、被告人側の立場にある者とはいえ、建党建軍の話はなかったと供述している点も無視しえない。
 以上検討した結果建党建軍の話に関する甲野供述には、首肯し難い点が認められ、俄かに措信し難い。
   5 赤衛軍の落書
 (一) 落書の有無
 甲野は被告人との会合の結果感激の余り文学部長室の出入口附近の壁に赤衛軍云々の落書をしたと六期に至り初めて供述した。
 弁護人は事件後一〇年以上経過して初めて供述されたこと自体から右供述が記憶に基づくものでないことは明らかであり、虚偽であると主張する。
 しかしながら、当時甲野の供述するような落書の存したことは乙沢八久の供述により明らかに裏付けられている。すなわち同人は、甲野が文学部長室に宿泊した翌日、同所窓付近の壁に赤のポスターカラーで書かれた「赤衛軍」ないし「赤衛軍万歳」という趣旨の落書を見つけたと供述する(証17五一五一)。同人は、四八年一一月ころを皮切りに何度か捜査官から事情聴取を受け、一貫してこの件について話しており、供述内容も、九月初めころ、右落書を白のペンキで消したが薄く跡が残ったなど経験した者でなければ語りえない内容であって、右証言は信用できる。被告人もそのような話を聞いたと供述しているところである。
 更に乙沢八久は甲野が落書したものと思ったと供述しており、他に甲野以外の者が落書をしたという証拠は全く存しないのであるから、甲野の供述するように、甲野がその落書をしたものと認めるのが相当である。
 (二) 落書の動機
 問題は、甲野が供述するように、文学部長室で赤衛軍建設の話が被告人から出され、甲野が感激の余りそのような落書をしたかどうかである。
 弁護人は、赤衛軍の名称は、甲野がロシア革命から借用したものであり、被告人とは無関係であると主張する。そして、甲野が京浜安保共闘の幹部を騙って取材に応じた結果が記事となった朝日ジャーナル五月二一日号の記事の中に、甲野の言葉として「赤衛軍」の名称が使われていることについては、同誌の発売日が五月一四日であることから推して考えると、その記事の取材がなされたのは、文学部長室での会合以前である可能性が高く、右会合で被告人が「赤衛軍」を提起したことを示すものではないと説く。
 関係各証拠によれば、甲野が京浜安保共闘の幹部を騙って、いわゆる真岡事件について、事件発生の翌日である四六年二月一八日朝日新聞社のJ記者の取材を受け、その結果が週刊朝日四六年三月五日号(符49)に掲載されたが、右記事の中には甲野が述べた言葉として人民軍の正規兵「紅衛軍」との記載が存すること、然るに甲野が右同様に騙って取材に応じた内容の記事が朝日ジャーナル一九七一年五月二一日号(符3)に掲載されているが、同記事の中には甲野の発言内容として「ソビエト革命での赤衛軍」、「人民大衆から赤衛軍は自分たちの赤い子弟……」との記載がなされていること、当時既に発表されていた被告人の著作「ならずもの暴力宣言」の中に、「ならずもの赤衛軍を増殖せよ!」(二三五頁)との記載があり、また被告人の蔵書毛沢東選集第一巻に「民兵=赤衛軍」という書き込みがあること(七九頁)、被告人自身「赤衛軍」は、自己の造語であることを自認していることが各々認められる。
 右朝日ジャーナルの取材の時期については、甲野供述以外に証拠がなく、週刊誌は発行日の一週間前に発売されるのが通例であることから考えると、五月一四日以前であることは確かに認定できるが、五月会合との前後関係は確定し難い。
 右各事実を勘案するに、甲野は被告人との五月の会合以前においては「紅衛軍」の名称を用いていたが、右会合後の五月一四日ころ発売された週刊誌上での対談からは「赤衛軍」の名称を使うように変わっており、右会合があった夜甲野は文学部長室に「赤衛軍云々」の落書をしたこと、他方被告人は当時発表済みの論文中で「赤衛軍」の名称を用いており、かつ、「赤衛軍」は自己の造語と自認していること等からすると、「赤衛軍」の名称は甲野の創案にかかるものではなく、右会合において被告人が述べた「赤衛軍」の話を契機として、甲野もこの名称を使用するようになったと解するのが相当である。
 なお、弁護人は、被告人及び乙沢八久が文学部長室では「赤衛軍」の話は出なかったと供述しており、甲野供述は措信できないと主張するが、両供述は、会合の内容については、記憶が曖昧であり、前記認定事実に照らせばその供述をそのまま信用することはできない。
 したがって、被告人の発言に感激して落書したとの甲野供述は十分信用性が認められる。なお、被告人の発言内容については、後述の被告人の供述の信用性の項で改めて検討を加えることとする。
   6 ラーメン屋での出来事
 検察官は、文学部長室における会合の途中で甲野らは屋台のラーメン屋に出掛けているが、その屋台での出来事に関する甲野供述は、臨場感に溢れ、甲野供述全体の信用性を高めるものであると主張し、これに対して、弁護人は三期において初めて供述されたもので甲野の創作にすぎないと反論する。
 この出来事自体は、本件全体からみれば枝葉末節であり、供述が遅れたことは不自然とまではいえないが、それをもって供述全体の信用性を判断できないのは、エレガントホテルの項で述べたとおりである。いずれにせよ本件の本筋とは関係のない些細な出来事なので、事実の存否については検討の必要を認めない。
   7 電話電報
 甲野は、六期において、文学部長室で被告人から「赤衛軍」の話を聞いて感激し、甲山や丁原に一刻も早くこの話を伝えようと思って、二人宛に電話電報を打ったと供述している。
 確かに電報用紙(符28)によれば、甲野が四六年五月五日甲山宛に、「六日五時モンブランで待つ。」との電話電報を京都から打ったことが認められる。しかし、甲山、丁原は、五月六日喫茶店「モンブラン」で甲野から京都での会合の状況について説明を受けたとは供述していないので、この点については甲野供述は裏付けを欠くといわざるをえない。
 弁護人は、この電報の趣旨は、四月二四日の火炎びん闘争の背後に関西の部隊がいるとの甲野供述の嘘を糊塗するために、京都から打電したものであると主張する。
 前述のように、甲野供述の四月大阪・居酒屋の会合における四・二八沖縄デーに向けての共闘に関する供述部分は、種々の点で信用性が低いのであるが、この電報の件についても、電文内容が単に会合の日時場所を指定するにすぎないものであり、現にそのような会合が持たれたとの裏付け証拠が存しないことから考えると、弁護人の右主張は、電報の解釈の一つとしてありえないわけではなく、これを排斥することは躊躇される。したがって、この点に関する甲野供述の信用性には疑問が残る。
   8 楽友会館における甲沢との会合
 (一) 甲野は、翌日楽友会館で被告人から甲沢を引き合わせられ、同人からいわゆる「白樺」方式を教わり、また朝日ジャーナルの誌上座談会の企画についても三人で相談したと供述する。
 (二) 甲沢との面談の有無
 甲野は一期以来一貫して甲沢と面談したと供述する。
 関係者の供述を検討するに、甲沢は当時甲野と楽友会館で会ったか否か判らないと供述しており(同人の弁護人に対する供述録取書)、その記憶は曖昧である。他方被告人は、前夜文学部長室からスナック「白樺」に甲野らと行き、そこで甲沢と会っているが、翌朝楽友会館では会っていないと供述する。
 このように三者三様の供述をしているので、その余の関係者の供述をみるに、乙沢八久は、断言はしていないが、文学部長室で飲酒歓談した後スナック「白樺」に行ったと供述している。同人は、文学部長室には布団が一組しかなく、自分も被告人も当夜同室に宿泊していないと供述するが、甲野は、丁内を除く乙田、乙沢八久、被告人、甲野の四人が当夜同室に泊まったと供述している。
 しかしながら、乙沢八久は、甲野が落書している現場も電話電報を打っている現場も目撃したことはないと供述しており、当夜甲野とともに同室に宿泊したのであれば、当然これらの現場を目撃している筈であり、乙沢八久が日頃落書を禁じていたとの供述内容をも考慮すれば、この点に関する同人の記憶は十分信頼できるものと考えられ、甲野供述は措信し難い。そうすると、甲野が五月四日夜被告人らとスナック「白樺」に赴いた可能性も否定できないところであり、翌朝楽友会館で初めて甲沢と会い、紹介を受けたという甲野供述の信用性もぐらつかざるをえない。
 (三) 朝日ジャーナルの誌上座談会
 甲野供述は二期から出現しているのであるが、朝日ジャーナルの発行社から金を貰おうとの話を甲沢が言い出したのか被告人が言い出したのか一定しないのみならず、話の内容自体甲野が京浜安保共闘の名を騙って赤衛軍のプロパガンダをやろうというものであり、その趣旨が極めて奇妙で、はなはだ合理性に欠ける不自然な内容である。更に、対談目的からすれば、当初の朝日ジャーナルの企画に合わせて赤軍派の役割の者をも含めて座談会を構成するはずであって、これを否定する話し合いをしたという甲野供述にはやや自己矛盾の存することも認められる。また甲沢が明確に朝日ジャーナルの誌上座談会の件を否定している上、同人が現に朝日ジャーナル記者のインタビューを受けたことを裏付ける他の証拠がないことも甲野供述の信用性判断に当っては無視できない。
 しかも甲野供述によれば、インタビューの当日、丙原、甲林を使って取材記者が真の記者であるかどうかをチェックしたということであるが、楽友会館で甲沢らと朝日ジャーナルからの依頼について相談検討した上、その取材を受けたのであれば、無用の手続を踏んだ感は否めないところである。
 以上検討の結果、朝日ジャーナルの誌上座談会に関する甲野供述には疑問が残り、俄かに信用し難い。
 (四) 「白樺」方式の教示について
  (1) 甲野は、甲沢からいわゆる「白樺」方式を教わり、その後は「白樺」方式で電話連絡をしたと供述する。
 甲野のいう「白樺」方式とは、盗聴を防止し、尾行を撒くためのもので、例えば甲が乙に電話連絡をとる場合、甲は予め一時間後に電話を受ける安全な場所を決めた上、甲が乙にまず架電して、一時間後に安全な場所で甲が乙から受ける電話番号のみを告げてすぐ電話を切り、一時間内にその安全な場所に行き、乙からの電話を受けるという方式であるが、電話番号を割り出されぬように、市外局番、市内局番は、そのままにするものの、市内局番の最初の数字を市内電話番号の四桁の数字にそれぞれ加算した数字(加算の結果一〇を越えれば一の位の数字のみとする。)を乙に連絡し、乙は、逆算により正しい電話番号を算出して甲に架電するというものである。
  (2) 弁護人の主張
 弁護人は、「白樺」方式については逮捕されてから四か月後に初めて供述されたものであり、四七年五月の供述内容とも異なっていること、四期供述では七月上旬に名古屋で教わったと述べていること、甲野自身本件犯行後被告人への電話連絡にこの方式を使用せず、一〇〇番電話を使用していること、検察官の援用する写真(符24)の作成の真正に疑問がある上、それは被告人や甲沢の記載したものではないこと、甲沢も右方式を否定していること等を理由に、甲野供述は明らかに虚偽であると主張する。
  (3) 供述の経過
 「白樺」方式については、47・2・16PS(書13二六一〇)で初めて供述しているが、そこでの方式の説明は、一時間後に指定された電話番号に架電するというもので、電話番号の組替えは含まれていない。また右方式の取決がなされた時期についても言及されていない。ところが、三期に至り、前記(1)の供述をするに至ったものである。
 甲野は、右供述経過について何も説明していないのであるが、既に楽友会館におけるその余の会話については供述がなされていたのであるから、記憶の喚起は十分であったと認められ、盗聴防止のための連絡方法という重要な事項のみが事件後四か月も記憶喚起されず、しかもその後供述内容が詳細となった点は、単なる記憶の整理では説明がつかず、四期においてその供述が変転していることも考慮すると、右の供述経過は不自然である。
  (4) 爾後の行動との不一致
 甲野は、被告人との電話連絡はその後いずれもこの「白樺」方式によったと供述する。
 しかしながら、本件以前においても後に述べるように「白樺」方式によらず被告人と電話連絡をとったとの甲野供述があり、また最も盗聴に気を遣うべき本件後の二回にわたる予備校への電話連絡についてもこの方式によっていないことは明らかである。したがって、「白樺」方式に関する甲野供述は、その後の実際の電話連絡の方法との整合性に欠けるものである。
  (5) Kメモ
 「白樺」方式に関して、メモ紙片を写した写真一枚(符24)が存在する。
 右写真は、K(証13三八四二)及び警察官江田信久の証言(証16四六二七)により、Kが自筆で作成したメモ紙片で、かつ、K方から適法に押収されたものを、警察官が写真に撮影したものと認定できる。検察官はメモの筆跡が被告人の筆跡と似ていると主張するが、採用できない。
 右写真の記載内容は次のとおりである。
 検察事務官作成の昭和六二年一二月一日付け捜査報告書(書51一一八六五)によると、右写真には、文学部長室とスナック「白樺」の正しい電話番号がそのまま記載されていることが明らかである。
 そして「シロー」はKが日頃利用していた喫茶店の店名であるが、本件証拠上その電話番号は確定できない。「シロー」の左横に記載されている五七二―一〇四七の数字が何処の電話番号かは不明であるが、これを「シロー」の電話番号とすると、「シロー」の上部に記載されている五七二―六五九二の数字は正に「白樺」方式により組替えた「シロー」の電話番号となり、その余の記載とあいまって、甲野供述にいう「白樺」方式の存在を裏付ける有力な証拠のように見える。

 そして、その記載内容を更に検討すると、「L戦線」の記載は日大L戦線、また「東京・戊原・〓」の記載は東京・甲野の代理という意と解せられ、京都の文学部長室及びスナック「白樺」と東京の「シロー」にいる甲野の代理人日大L戦線の者との間の連絡に関するメモと解することができないでもない。
 しかし、右メモの意義を仮に右のように解すると、右メモは、作成者であるKが自ら甲野の代理人日大L戦線の者として、東京の喫茶店「シロー」から京都の文学部長室及びスナック「白樺」と「白樺」方式により電話連絡をとるため、またはとったことをメモしたものか、それともKが誰かから右方式による電話連絡に関して聞知したことをメモしたものか、そのいずれかである。
 Kは、右メモの作成時期については、週刊朝日から配置転換となった四六年五月二四日以前に作成したものであると言うものの、作成の経緯については全く記憶がなく、また「白樺」方式という架電方法は本件公判で証人として尋問を受けた時初めて知ったもので、今迄そのような架電方法の話は聞いたことがないと供述する(証13三八四七)。Kの「白樺」方式に関する供述部分は、同人自身が作成した右メモの記載内容に照らし、措信できないが、Kは朝日新聞社の記者であり、甲野とは取材をしたことから知り合いの間柄になっていたにすぎず、同人の代理をするような仲間ではないことが証拠上明らかであるから、右メモはKが自ら「白樺」方式により電話連絡をとるための、またはとったことをメモしたものとは解し難い。
 そうすると、右メモはKが誰かから聞知したことをメモしたものとみる外ないが、四六年五月当時のKと被告人、甲沢及び甲野との交友関係の親疎の程を考慮すると、Kが被告人あるいは甲沢から聞いたことをメモしたものとは到底解されず、甲野から聞いたことをメモしたものと解するのが相当である。作成時期については、K供述によると五月二四日以前となるが、それ以上に特定することはできない。
 ここで甲野供述をみると、甲野は四月の会合後で五月の会合前の時期に被告人からの電話を喫茶店「シロー」で受けたと供述したことがあるが、それ以外の機会に「シロー」で電話を受けたとの供述は全く存しない。そうすると右メモは甲野が五月の会合前に被告人から「シロー」で電話を受ける際に作成されたものと解する余地があるかのように窺われるが、そもそも「シロー」で被告人からの電話を受けた旨の供述が信用性に乏しいものであるから、本件証拠上五月の会合前に作成されたものと断定することはできない。しかし、前述のように、五月の会合前の連絡以外の機会に作成されたものと認むべき証拠は全く存しない。
 そこで視点をかえて検討するに、右メモの「いつも……」という記載等からして、既に右メモ作成以前において、甲野はKに対し少なくとも組替え電話番号の解読方法、最初の連絡電話を受けてから一定時間後に本来の電話を入れるという架電方法を教えていたものと認められ、甲野はKに対し、三、四月ころ、よく、今尾行がついてるなどと言っていたこと(K三六回証14四〇九九)、甲野は既に「自衛隊方式」という電話連絡方法を知っていたことに照らし、甲野が尾行の話をもっともらしくみせるため、右方式をKに教えたことのメモという疑いを抱かせるものである。
 したがって、右写真は、甲野の供述するような「白樺」方式が実際に存在したことを示す客観的証拠であるが、五月の会合で甲沢から右方式を教わったとの甲野供述とは明らかに矛盾する証拠でもある。
 (五) その他の楽友会館における出来事に関する甲野供述についても、両当事者は各々相対立する主張をしているが、いずれも些細な出来事であり、前判示の理由により、この点についての判断は示さない。
 (六) 以上説示してきたところから明らかなように、甲野の楽友会館における会合に関する供述には、多くの不合理、不自然な点があり、供述変遷の理由も首肯し難く、その信用性は認め難い。
  九 下田病院、池亀方、レストラン「アラスカ」
   1 供述の概要
 (一) 一期
  (1) 甲野が入院中の病院に被告人が慶応の学生を連れて見舞いに来た。ドラ焼をもらった。被告人がベッドで気持ちが悪いと言って寝込んでいたので、池亀方で休ませた。
  (2) 喫茶店「にしむら」で乙山と会った後の七月二九日か三〇日レストラン「アラスカ」に行った。乙川二久もいて、被告人が乙川に甲野の原稿の掲載を頼んだ。乙田、乙原が来た。関西と関東のキャップである。被告人から一致できないかと言われた。乙山の話を甲野が説明して、各基地の位置等を乙原がノートを出して確認していた。具体的な襲撃の相談であった。被告人は闘争の意義を語った。その席には、K、Jもいた。甲野は乙山の履歴書を被告人に渡して途中で帰った(甲野46・11・25KS書7一二九四、46・12・3PS書8一五〇六、46・12・18供書9一七六一、46・12・12PS書9一六八一)。
 (二) 二期
  (1) 下田病院に入院中の六月一九日朝自室に戻ると被告人がベッドで寝ていた。ドラ焼をもらった。気持ちが悪いので寝かしてくれというので、被告人の連れの慶応の男と三人で池亀方へ行った。甲野がショートホープを吸い、ローザ・レクセンブルクの話をした。退院手続をして、再び被告人を迎えに行き、そば屋に立ち寄った後、レストラン「アラスカ」に行った。途中の電車内で被告人が兄は頭がおかしいので生活保護を受けていると話してくれた。
  (2) 「アラスカ」で会った人は一期と同じ。被告人が文学部長室でした話と同じ話をし、甲野も一緒にやる気になった。甲野は被告人から新しいメンバーを獲得し、部隊を作れと指示されたが、部隊の任務については何も与えられていない。ここで甲野は正式に日本共産党の党員と認定された。甲野の原稿の話も出た(甲野46・12・27KS書10一九四二、46・12・27KS書10一九七二、46・12・27PS書10一九八九、46・12・28PS書11二〇一七、47・1・7KS11書二一八五、47・1・10KS書11二一九一、47・3・2KS書13二七〇四)。
 (三) 三期
  (1) 六月一六日か一七日に被告人が下田病院に来た。池亀方へ行く経緯は二期と同じ。池亀方でローザ・ルクセンブルクの話の外宮沢賢治の話も出た。甲野がマリファナタバコを取り出し、被告人に四本進呈した。ペタスがいいと被告人は言っていた。
  (2) そば屋に寄った後、地下鉄の車内で被告人がマリファナの密売やポルノの販売をすれば、がっぽり金が入る、ピストルの密輸入の話もあると言った。
  (3) レストラン「アラスカ」では乙川二久と甲野の原稿について話をした。乙田、乙原が来て、乙川が帰った後、被告人が共産主義暴力戦士共同体の有機的結合を勝ち取り、赤衛軍を勝ち取ろう、ここで一発闘争をやり抜こうと説き、甲野もこれを承諾した。基本的な闘争形態は敵からの武器奪取とボンだ、当面はオルグを入れて部隊として役立つよう鍛えることだ、日大の学生部隊用の教材として被告人の論文を使えと被告人から言われ、下宿の住所と電話番号と丁原の住所を教えた。ここで三里塚とブラックパンサーのパンフを貰った。中国物産の話も出ていた。また被告人はタバコを配っていた(甲野47・5・19PS書14二九一二)
 (四) 四期
 レストラン「アラスカ」では、三里塚闘争の話が主だった。建党建軍の話、武器奪取、爆弾闘争の話も出た。メンバーをオルグし部隊を組織して行けと被告人から言われたが、武器奪取、爆弾闘争という限られた目的のためではない(甲野一審二二回49・3・14書16三二〇四)。
 (五) 五期
  (1) 下田病院からそば屋までの経緯は三期と同じ。京王線の電車内で被告人から二期と同じ兄の話があった。地下鉄内での話は三期と同じ、目的は革命の軍資金稼ぎである。
  (2) レストラン「アラスカ」で乙川が帰るまでは三期と同じ。被告人は、日本共産党と赤衛軍の基本構想をぶち、三里塚では銃、爆弾を使ってゲリラ戦をする、甲野は被告人からオルグを入れてゲリラ隊の編成に着手するように命じられた。ここで一発やらねば男でないと言われ、甲野もこれを承諾した。オルグの資料として三里塚パンフを丁原方に送ることになり、同人の住所を教えた。被告人は三里塚、ブラックパンサーのパンフの販売をしていた。中国物産、タバコの件は三期と同じ(甲野56・11・10PS書19三九〇七、56・12・17KS書21四二四三)。
 (六) 六期
  (1) 池亀方へ行くまでは五期と同じ。池亀方でマリファナを吸い、ローザ・ルクセンブルクの話をした。
  (2) レストラン「アラスカ」に行く途中、被告人は、兄が精神病で困っていること、覚せい剤、ポルノ、拳銃の密売で革命運動の軍資金を稼ぐこと等を話した。
  (3) レストラン「アラスカ」での乙川の件は五期と同じ。被告人は、建党建軍の基本構想を話し、乙田、乙原、甲野らのグループを闘争の中で鍛え、将来統合してゆく、当面の三里塚闘争及び沖縄闘争は負けられない。鉄砲や爆弾を用いたゲリラ戦が必要などと語り、乙田は三里塚で闘争し、乙原は爆弾で東京を制圧し、甲野は非合法な地下活動に耐えうる部隊を編成するようけしかけた。甲野は、ここで一発やらなければ男でないぞと言われ、やる旨を答えた。甲野が、丁原のことを暴力派で将来有望だと話したところ、丁原らに読ませて学習するため、丁原方に被告人が持っていた三里塚パンフを郵送することになった。
 パンフ販売の件は五期と同じ。
   2 会合時期についての供述変遷
 甲野は、当初レストラン「アラスカ」での会合は、喫茶店「にしむら」で乙山と会った後の七月下旬としていたが、46・12・27KS(書10一九四二)でその時期を六月一九日ころと訂正し、その後は日時についての多少の変動はあるものの、大概同旨の供述をしている。また当初は会合の内容も乙山の武器奪取計画の具体的内容を検討し、同人の履歴書を被告人に渡したと供述していたが、時期が六月一九日ころと特定されてからは、会合の内容も文学部長室におけるそれと同趣旨となり、ただ甲野がオルグをして新しいメンバーを獲得し、部隊編成をするよう指示を受けたが、具体的任務は特に与えられていないとの供述が付け加わっている。また、47・3・2KS(書13二七一三)からは、被告人が爆弾闘争の話をしたとの供述もなされている。
 既に文学部長室の項で検討したように、このような出来事の前後関係及び会合内容に関する供述の変転は、不自然であり、これについて納得しうる理由は何も示されていない。
   3 建党建軍の話
 甲野は、文学部長室における会合と同様の話を被告人が説いたと供述するが、弁護人は、乙原が中国物産の販売の話をしたものであり、その余の同席者も甲野供述を裏付ける供述をしていないので、甲野供述は虚偽であると主張する。
 確かに、乙原がJに対し、朝日新聞社で中国物産を売ってもらう話をしたことは、J手帳の記載とも合致し、そのような話がなされたものと認められる。
 しかしながら乙原がレストラン「アラスカ」に出掛けた理由について、同人はKから連絡を受けたためと供述するが、Kはこれを否定し、乙原が同席したのを不思議に思ったと供述しており、判然しない。更に、Kはその席で被告人が三里塚闘争について「今までの戦術では生ぬるい。これからはどんどんこの辺で爆弾を使わなければならない。」と述べたと供述しており(47・1・27PS書34七〇三四)、「アラスカ」会合が単なる雑談の場であったとのJ、乙原供述とは対立しているのである。
 また、乙川二久は、被告人とベルリン自由大学の講師依頼の件で話をし、甲野の原稿の話をした後一人先に退席したと供述しており、甲野の原稿に関する甲野供述には裏付けがあり、信用できる。
 甲野の建党建軍の話は、既に文学部長室の項で検討したように措信できず、「赤衛軍」の話についても、会合の出席者が一致して否定していること、非合法の武装闘争集団について新聞記者の面前で公然と議論するとは考え難いことからして、レストラン「アラスカ」で「赤衛軍」の話が出たとの甲野供述は信用できない。
 しかし、被告人、甲野、乙原、乙田は、いずれも新左翼の活動家であり、そのような者が一同に会したときに、同人らの関心事である革命、三里塚闘争について会話を交すことはごく自然であり、これを否定する乙原、K供述は措信できず、前記のK供述に照らし、一般的な話題としてそのような話がなされたとの限度では、甲野供述にも証拠価値を認めうる。
   4 具体的闘争の相談
 弁護人は、レストラン「アラスカ」は、朝日新聞社及び一般の人の利用するレストランであり、甲野供述のような具体的闘争の相談をする場所としては相応しくないこと、第三者のいない池亀方ではそのような相談のなされた形跡の存しないこと、右の相談と全く無関係の乙川二久が右会合に同席していること等を理由に甲野供述は信用できないと主張する。
 確かに弁護人主張のようにレストラン「アラスカ」は、一般公衆の出入りするレストランであるが、そのような場所で甲野供述のような相談がなされないとまではいいえない。
 甲野供述によると、被告人から具体的戦術の話があり、被告人から甲野にオルグの指示が出たとのことである。
 しかしながら「アラスカ」会合は事前に予定されていたものではなく、偶々甲野が退院できたために同人も出席できたに過ぎないこと、甲野も会合の途中で退席していること、池亀方では何らそのような相談はなされておらず、「アラスカ」会合の出席者は甲野を除き一致してそのような話は聞いていないと供述していること、会合の同席者はいずれも被告人の知人とはいえ、新左翼の活動家とは認められない乙川二久及び新聞記者であるJ、Kを含んでおり、J、Kはそのような謀議の際にも同席したとされていること、殊に関東軍の責任者とされた乙原は、「アラスカ」会合後Kに甲野が京浜安保共闘の幹部と称しているのは嘘であると説明し、Kに注意を喚起しており(K47・1・27PS書34七〇三七、乙原七六回証23七三二七)、「アラスカ」で甲野と具体的闘争についての共闘関係を結んだ者の言動とは解し難いこと、「アラスカ」会合以降乙原が爆弾闘争を手掛けたことを示す証拠は存しないこと等を総合考慮すると、甲野の前記供述は俄かに措信し難い。
   5 三里塚パンフ送付の話
 甲野、被告人からオルグ用の学習教材として三里塚パンフ(符1と同内容のもの)を送るといわれ、丁原の下宿に送ってもらい、これを基本に学習会を開いたと供述する。
 これに対し、弁護人は、被告人から送られた三里塚パンフは三里塚闘争支援の必要性等を訴えたもので、非合法な地下活動に耐えうる部隊を編成するという甲野に課した課題と合致しない内容のものであると主張する。
 丁原は、七月初めころ、被告人から三里塚パンフ七七冊が送られてきたので売れということだと思い(46・11・20KS書38八〇三七)、一〇冊位を甲山たちが学内で売りさばき、甲野、甲山、乙島、甲谷、丁原に分配した残りは、乙島の下宿に預けていたこと、二〇日位前に甲野から丁原方を被告人に紹介した旨の話を聞いていたこと、丁原は右パンフを読んで学習したことをそれぞれ供述している(46・11・20KS書38八〇三七、46・12・25PS書38八一九二)。また乙島、甲谷らは右パンフを教材に学習したとは供述していない。
 一方、被告人がレストラン「アラスカ」でKらに右三里塚パンフを販売した事実も認められる。
 以上により検討するに、送付されたパンフレットが七七冊と大量であること、送付を受けた丁原も販売委託の趣旨にとり、現に甲山において販売していること、被告人もレストラン「アラスカ」で新聞記者に販売していること、学習会が開かれたとは認められないこと等は、甲野供述とは整合しない点といわざるをえず、甲野供述は措信し難い。
   6 軍資金稼ぎの話
 甲野は、被告人が禁制品を密売して革命の軍資金を稼ぐ話をレストラン「アラスカ」に行く途中の電車内でしたと供述する。
 甲野の下宿や電車の中における被告人の発言等に関する甲野供述は、当初、甲野がショートホープを吸ったという供述があったのみで、被告人がマリファナを吸ったことは供述されていなかったところ(一期)、被告人がマリファナを吸ったとなり(三期)、更に二人ともマリファナを吸った(五期)と変遷している。
 被告人の兄の精神病の話は四七年一月の段階で既に供述されているのに、同じく地下鉄内で話されたとされる禁制品の密売の話は、三期に至り初めて供述され、その際密売する禁制品はマリファナ、ポルノ、けん銃であったのに、六期ではマリファナが覚せい剤に変わっている。
 このように供述内容が相当変遷しており、記憶に忠実な供述とは解し難い。
 その上、甲野供述においても、レストラン「アラスカ」に行くまでは、甲野と被告人との間に具体的な闘争の話は全くなされていないとされているのに、軍資金稼ぎの話が飛び出すのは、はなはだ唐突の感を否めず、禁制品の密売の話自体の非現実性をも考えると、この点の甲野供述は採用し難い。
   7 その他
 その他両当事者の指摘する池亀方での出来事、車内での被告人の兄に関する会話の存否は「アラスカ」会合についての甲野供述の信用性判断にあたっては、いずれも些細な出来事であり、前同様特に判断は示さないこととする。
  一〇 甲林の話
   1 供述の概要
 甲野が喫茶店「白樺」で甲林から聞いた乙山の話の内容は、細部はともかくとしてその大筋においては捜査当初から本公判に至るまでほぼ一貫している。ただ乙山が自ら制服を着て侵入するとの話が三期、五期(甲野47・5・20PS書15二九七六、56・11・24PS書20三九三九)で述べられていることが注目される。
 その供述の要旨は、次のとおりである。
 六月下旬ないし七月上旬、喫茶店「白樺」で、甲林が知人の反戦自衛官のリーダーから次のような話があったと知らせてくれた。そのリーダーは五〇名(一〇数名との供述もある。)のグループを組織して反軍反戦闘争をしている。自衛官の制服等が入手できるので、制服を着て自衛隊の基地に侵入し、弾薬庫から大量の武器弾薬を奪う計画を立てている(四期では、騙してかっぱらうとなっている)。非常に奇抜な作戦で計画は実行寸前にあるが、工作費、組織費等として三〇万円必要である。資金や人材を出してくれる人を紹介して欲しい(甲野46・11・20KS書7一一三九、46・12・3PS書8一四九六、46・12・18供書9一七五七、47・5・20PS書15二九七六、一審二二回49・3・14書16三二〇七、56・11・24PS書20三九三九、56・12・17KS書21四二五一)。
   2 関係者の供述との不一致
 甲林の話については、乙山、甲林の各供述及び甲林が探していることを甲野に伝えた丁川二平の供述があるので、右各供述を検討する。
 甲林は、逮捕当初から一貫して乙山から持ち込まれた話は自衛隊の情報等の売買の話であり、反戦自衛官組織による武器奪取計画の話は聞いていないと供述する。
 乙山も逮捕当初から自己の公判に至るまでは、自衛官の制服等売買の話を甲林に持ち込んだと供述していた。しかし、五七年には、憲法改正、自衛隊を憲法上認知させるために、何か違法行為をやらせ、世論に衝撃を与えようと思い、制服等が入手できるので、それを用いて武器奪取ができる左翼の人を紹介して欲しい旨依頼したと供述を変え、更に五八年から本件公判においては、右同様の目的から、自衛隊の装備一式を買い、自衛官を装って過激派の人が隊内に入れば大量の武器を奪取できる、乙山が手引きするので過激派の幹部を紹介してくれと頼んだと供述している。
 また、丁川二平は、六月下旬か七月上旬ころ、甲林から、元自衛官が自衛隊の情報を売りたがっており、それを甲野に話しに行くと聞き、一緒に甲野の下宿に行ったものの、甲野は不在であった、情報の内容は朝霞駐屯地の見取図や武器の使用方法等であり、銃器奪取計画の話はなかったと供述する(丁川二平PS書64一四六八〇)。
 乙山の供述の信用性については、別項で検討するが、乙山のいずれの供述も甲野供述の内容と異なるもので、甲野供述を裏付けるものではない。
 甲林、丁川の供述は、制服等が入手できる、そのためには金が要る、武器奪取計画の話はなかったという点では大筋において一致している。これに対し、甲野供述は、甲林、乙山、丁川の各供述と全く違うものであり、他に裏付け証拠も存しない点も考慮すると、その信用性には疑問が残る。
  一一 スナック「もっきり亭」
   1 供述の概要
 (一) 一期
  (1) 前記八の文学部長室と一体の出来事として供述されている。
  (2) 六月下旬から七月上旬ころ甲林の話を聞いた後、被告人に呼び出されて、京都へ赴いた。百万遍近くで被告人と会い、スナック「もっきり亭」へ行き、甲林の話を報告した。被告人は自分の方で相手を調査すると言い、この件でこれから人に会うので、ひとりでスナック「白樺」に行けと言われ、スナック「白樺」で待っていた。次に甲沢から文学部長室へ行けと言われ、文学部長室へ行った(甲野46・11・20KS書7一一六〇、46・12・18供書9一七五七)。
 (二) 二期
  (1) 文学部長室での出来事とは全く別個の出来事であると供述が変わった。スナック「もっきり亭」へ行く経緯は一期と同じ。
  (2) スナック「もっきり亭」で甲林の話を報告すると、被告人は非常に乗り気になった。しかし、右翼の謀略や警察のスパイでは危険なので、相手の正体を詳しく調査する必要があると言った。
  (3) 被告人の指示でスナック「白樺」に行った。農学部前で再び被告人と会い、四条の喫茶店に入り、そこで三〇万円の使途を説明した。被告人から更に反戦自衛官組織や三〇万円の使途について調査を進めろと命じられ、相手と会って具体的に話を進めることになった。被告人は、武器が手に入れば三里塚、沖縄闘争の軍事路線を貫徹する突破口になる、金はKを通して用意させる(用立ててもらえとの供述もある。)、連帯資金として相手に渡しておけと言われた。七、八〇〇〇円受け取って別れた(甲野46・12・27KS書10一九七三、46・12・27PS書10一九九〇、46・12・29PS書11二〇三二、47・1・7KS書11二一八六、47・2・16PS書13二六〇四)。
 (三) 三期
  (1) スナック「白樺」に電話をして、被告人に連絡をとってもらった。スナック「もっきり亭」で被告人と会った。
  (2) スナック「もっきり亭」での会話は二期と同じ。被告人から連絡役を頼まれ引き受けたとの事項が付加されている。
  (3) 四条の喫茶店での話が明確でないが、被告人から身元調査は甲林を通してなし、かつ報告せよと命じられた。手付金、連帯の意思表明として金を渡せ、金はKに用意させると言われた(問答式、翌日のPSでは送金の趣旨と訂正)。
  (4) 喫茶店を出てから八〇〇〇円貰い、帰京した(甲野47・5・20PS書15二九八五、47・5・21PS書15三〇〇〇)。
 (四) 四期
 スナックで甲林の話を報告した。具体性はどの位かと被告人が尋ねた。警察のわなを一寸警戒する必要があるが先方と会え、金は早速作ると言われた(甲野一審二二回49・3・14書16三二一〇)。
 (五) 五期
 三期とほぼ同じ。金の件については先方と会った時要求額の一部でも連帯の意思表明として渡せ、金は至急作ってK宛に送る(甲野56・11・24PS書20三九四九、56・12・17KS書21四二五三)。
 (六) 六期
 スナック「もっきり亭」で被告人に会い、甲林の話をした。被告人は、銃や弾薬が手に入れば自分たちが考えてきた三里塚、沖縄の闘争が戦争として実現できる。被告人の方で背後関係があるかどうかジャーナリズムの方に探りを入れてみる。三〇万円は被告人の方で用意するが、取り敢えずその一部として、顔つなぎの意味で幾らか渡そう。その金はK宛に送ると述べ、更に相手との連絡役を引き受け、相手と会い、金の使い道を詳しく聞くようにと指示した。喫茶店で雑談し、金(金額不明)をもらって帰京した。
   2 会合時期等についての供述変遷
 甲野供述は、当初文学部長室での会合と一連の出来事として供述されていた。これが二つの時期を異にする出来事に分割されたものの、スナック「もっきり亭」へ行く経緯は一期と同じであった(二期)。ところが三期供述では、スナック「もっきり亭」で被告人と会い、スナック「白樺」への電話に関しても被告人が直接出たのではなく、被告人に連絡をとってもらったと変遷している。
 また二期のスナック「もっきり亭」、スナック「白樺」、四条の喫茶店と甲野が移動した旨の供述も、47・2・16PS(書13二六〇二)からはスナック「白樺」に立ち寄ったとの部分が欠落するに至っている。
 更に、三〇万円の資金については、当初はKに送るので受け取れと供述していたが、二期、三期では手元にないのでKに用立ててもらえ、あるいはKに用意させるとなり、三期の終りに再び送金の話に変わっている。
 その上、当初は名古屋で一泊したと供述していたが、二期ではその点の供述がなくなり、三期以降は即日帰京したとの供述に変わっている。
 前に述べたように、日時についての記憶が稀薄化するのは無理からぬものの、出来事の前後関係が大きく食い違うのは不自然であり、この点に関する供述変遷についての合理的説明は何らなされていない。
 しかも甲野供述は、被告人との会合に至る経緯、甲野の移動場所、送金の話と大きく変転しており、甲林の話を伝えた場所及び会話内容についても種々の異同が認められる。
   3 甲林の話
 前項で検討したように甲林の話に関する甲野供述は措信し難いのであるから、その話を被告人に報告したとの供述も同様と解される。
   4 即日帰京
 甲野供述には、即日帰京したと述べている部分も存するが、丙島ノート(符21)には、七月三日から五日までの間甲野が名古屋に行ったとの記載があり、右供述は、ノートの記載とそぐわないことは明らかである。
   5 送金の話
 甲野は、K宛に送金することとなったとも供述しているが、飲食店「久富」における送金の会話(送金の催促、遅延を謝罪する会話)はスナック「もっきり亭」で送金の約束があったことを前提としているところ、後述のように、飲食店「久富」における送金の会話に関する供述が信用できないのであるから、その前提となったスナック「もっきり亭」における送金の約束に関する供述もまた信用できない。また、送金の約束があったとする供述は、飲食店「久富」での金銭の交付がなかった事実と矛盾するし、送金約束の際、捜査官に対し送金の事実を隠蔽するために甲野宛ではなく、K宛に送金することにしたという供述も、飲食店「久富」で直接交付するのが痕跡を残さない最善の方法であるのにそうしなかったことと矛盾する。
   6 まとめ、
 以上のとおり、「もっきり亭」会合に関する甲野供述は、不自然な供述変遷、関係証拠との不一致、爾後の出来事との矛盾等を総合考慮すると、全体として措信し難い。
 なお、検察官は、乙沢八久が六月下旬から八月二一日までの間にスナック「白樺」で甲野を見かけたと供述している点を捉えて、甲野供述は裏付けられていると主張する。しかしながら、乙沢八久の述べる期間は相当長期間であり、またスナック「もっきり亭」の後スナック「白樺」に甲野が立ち寄ったかどうかについては、甲野供述自体揺れ動いていること、甲野が七月に京都にきたのは一回だけとは必ずしも供述していないと窺われる節もあること(書65一四七一一)等から考えると、乙沢供述は、検察官の主張するような裏付け証拠とはいえない。
  一二 飲食店「久富」
   1 供述の概要
 (一) 一期
  (1) 喫茶店「にしむら」で乙山と会った後の七月中旬ころ、飲食店「久富」で被告人と会った。被告人は、丁原達との意思一致の状況を尋ねたので、一致できたと答えた。しばらくして乙谷が来て、被告人は武器奪取闘争の論理を話しはじめ、その後乙原も加わり、討論をした。乙本十久も後から加わった。次第に雑談めいた話となった。
  (2) その後被告人らとスナック「エスカール」に行った。被告人はそこで武器奪取に成功した暁には三里塚、沖縄にかけて闘い抜く、ゲリラ戦を貫徹するぞと言っていた(甲野46・12・18供書9一七六二)。
 (二) 二期
  (1) 七月下旬喫茶店「にしむら」で乙山と会う前に、被告人から池亀方に電話があり、上京するから場所を確保しろと言われ、飲食店「久富」で会うことになった。飲食店「久富」には乙谷、乙本、乙原、乙林九久らが来て、被告人は銃器奪取闘争の必要性を強調していた。乙谷を同志として紹介され、同人はスト破りの話をしていた。話が終わったころ、K、Jらも来た。
  (2) その後スナック「エスカール」で飲んだが、まとまった話はなかった(甲野46・12・27PS書10一九九一、46・12・29PS書11二〇五一、47・1・7KS書11二一八七、47・2・16PS書13二六〇四)。
 (三) 三期
  (1) 喫茶店「さぼうる」にいる甲野に被告人から電話があり、甲野は乙山と会う約束ができたことを報告した。そのことについて相談しようと被告人から言われ、飲食店「久富」で会うことになった。
  (2) 七月一一日ころ飲食店「久富」で会った。被告人は乙山の正体を調べているが未だ判らない、金はKに至急送るから大丈夫だ、こちらの正体を悟られないようにして探れ、会わないことには話の進めようがないので、しっかりやってくれと言われた。その後乙谷が来て、スト破りの話をした。被告人は武器奪取闘争の話をし、乙谷もこれに賛同していた。
  (3) その後スナック「エスカール」で被告人は武器奪取と爆弾で暴力闘争をやり抜こうと言った。この席で、被告人から乙山の身元調べは甲林を通してしろと指示された。Jから毛沢東が死亡したらしい旨の話があり、被告人はこれで日本革命は一〇年遅れたと嘆いていた(甲野47・5・21PS書15三〇〇八)。
 (四) 四期
 飲食店「久富」、スナック「エスカール」で被告人が話したことははっきり記憶していない。銃、弾薬を奪取する必要があるとの話はあった。甲野は甲林の話をした(甲野一審二二回49・3・14書16三二一三)。
 (五) 五期
  (1) 飲食店「久富」で会う経緯は三期と同じ。
  (2) 飲食店「久富」には被告人と乙谷が一緒に来たかもしれない。甲野は乙山の件について報告した。被告人は、乙山の正体が不明だ、金は至急Kに送金するから心配するななどと断片的に言っていた。乙谷が同席していたとしても全体的なことは判らないと思う。武装闘争の話もしたが詳しい内容は忘れた。
  (3) スナック「エスカール」で被告人は武装闘争の話をした。毛沢東の件は、三期と同じ(甲野56・11・24PS書20三九六二)。
 (六) 六期
  (1) 飲食店「久富」で会う経緯は三期と同じ。
  (2) 飲食店「久富」で乙山の件について報告した。
 被告人は乙山の人物とか、その背後関係について調べているが未だ判らない、金は遅れて済まないが、至急、Kに送る、乙川に会うにあたり、尾行されたり写真を撮られたりしないよう十分に注意し、こちらの正体を絶対に悟られないように気をつけろ、自衛隊からの銃器奪取がうまくいけば、左や右の腐れ切った奴に先駆けて三里塚や沖縄闘争で戦争ができると言った。
  (3) スナック「エスカール」では雑談をし、三里塚戦争勝利とか言って、景気をつけて飲んだ。Jから、毛沢東が死んだかもしれないと聞かされて、被告人はこれで、革命は一〇年遅れたと言ってがっかりしていた。
   2 供述変遷の不自然性
 甲野は、当初、飲食店「久富」について全く供述しておらず、逮捕後二五日以上経過して初めてこれを供述し、その際会合の日は不明であるとし、また単なる酒飲みの話で、武器奪取の謀議があったことは全く供述していなかった(46・12・12PS書9一六八三)。その後前記の一期供述を経、二期も初めのころは、一期と同様喫茶店「にしむら」で乙山と会った後の七月下旬ころと供述したが、二期の後半から七月一〇日ころと供述するようになった。
 このように甲野供述は、飲食店「久富」の会合時期について大幅に変動しており(前記文学部長室の項の表参照)、それに伴い喫茶店「にしむら」後の打ち合わせの話が一般的な武器奪取闘争の必要性の話へと変わり、更に甲林の話の報告及び乙山の身元調査、送金の話へと大きく変遷している。しかも身元調査等の話は三期で初めて供述されている。また飲食店「久富」で会うに至る経緯も二期供述と三期供述以降で全く異なっていることが次目される。
 確かに会合の日時については、甲野の記憶が明確でなく、捜査の結果えられた会合日時及び喫茶店「ヴィクトリア」の会合日時を基準にして特定していったものと解しうるのであるが、日時の変動とともに、出来事の前後関係が逆転し、会話内容等が一変する点は首肯し難い。飲食店「久富」で謀議があったのであれば、その時期が喫茶店「ヴィクトリア」の直前であることからして、その前後関係や会話内容は記憶に残り易いはずであるところ、当初飲食店「久富」を供述していなかったのは実際は謀議がなされなかったため思い出せなかったのではないかとの疑問を抱かせるし、その後の供述も、供述ごとにその内容が変遷するのは、甲野の記憶によるものというよりは、会合時期に合わせて会話内容を意図的に変えたのではなかろうか疑問である。その供述の変遷は不合理、不自然といわざるをえない。
   3 客観的状況、関係者の供述との矛盾
 (一) 闘争資金を送金する会話について、甲野は、乙山と会うにあたり顔つなぎという意味で乙山に渡すものであったと供述するところ、右両名の喫茶店「ヴィクトリア」における会合の日は七月一二日(月曜日)であり、飲食店「久富」における会合の日が七月一〇日(土曜日)であることから考えると、「久富」会合後の送金(七月一一日は休日であるから、七月一二日発送となる。)では「ヴィクトリア」の会合に間に合わないのであって、右供述は、「久富」と「ヴィクトリア」の会合との時間的関係で齟齬をきたしているのである。また、乙丘家計簿によれば、被告人が七月一一日乙丘に生活費九万円を渡したことが認められ、その金銭の出所は確定し難いものの、被告人が「久富」会合後右金員を取得したとの証拠は存しないのであるから、飲食店「久富」において、被告人がかなりの現金を所持していたと考えられるが、そうすると当時の被告人の一か月分の生活費を考慮すると、その所持金のいくばくかも拠出せずに九万円全額を生活費としてしまうことは不自然である。
 そればかりか、Kは、飲食店「久富」において、被告人、甲野らと会っているが、K宛に送金があることを被告人、甲野いずれからも聞いたとは供述していず、現に送金があった七月二三日より何日か前にJから送金があるので甲野への貸金を差し引いておくように言われたと供述するのみである。当の送金先であるKが面前にいるのに、何も送金について被告人らから言及されなかったのは不自然といわざるをえない。
 (二) 甲野は、乙山と会うことになった旨を伝えると、被告人が乙山の背後関係は判らない、会うにあたっては尾行、写真等に注意せよ、奪った銃器で武装闘争をする旨話したとも供述しているが、当時同席していた乙谷、乙原、乙林九久は一致してそのような話は聞いていないと供述する。同人らは、いずれも被告人と親交を結んでいる者であり、乙谷らが故意に被告人に有利な供述をしている可能性も否定できないが、その点はさておき、謀議が存した旨の甲野供述を裏付ける証拠の存しないことは無視できないところである(同人らは、いずれも酒を飲んで歓談したと供述しており、甲野の二期供述に近い内容である。)
 ちなみに、弁護人は、Jがスナック「エスカール」を出て被告人と別れた後、深夜、喫茶店で甲野から自衛隊の情報や装備が手に入るという話を聞いたと供述していることから、甲野供述は信用できないと主張する。
 確かに、Jは当公判で弁護人主張のとおりの供述をしているが、しかし同人のPSではその点を全く供述しておらず、六一年の本法廷で初めて供述し、しかも詳細であるのは不自然であり、俄かに信用し難い。
   4 検察官の主張
 検察官は、飲食店「久富」で乙谷が「スト破りでもしていた方がいい。」と言っていた状況、被告人において、K、Jらがなかなか来ないため立腹していた状況、スナック「エスカール」においてJから毛沢東死亡の話を聞くや被告人がひどく落胆して「日本革命もこれで一〇年遅れる。」等と言った状況について、甲野供述は臨場感があり、信用性が高いと主張する。確かに毛沢東死亡の話を除くこれらの点については、これを裏付ける関係者の供述もあり、信用できるものと思われる。しかし、その余の会合状況等については甲野供述は関係者の供述と大きく食い違っており、検察官主張の事実のみをもって、甲野供述全体の信用性を認める訳にはいかない。
   5 まとめ
 以上、飲食店「久富」に関する甲野供述は、一部の出来事については信用できるものの、その余の部分は、客観的証拠、関係者の供述と矛盾し、不自然な変遷が認められ信用できない。
  一三 喫茶店「ヴィクトリア」
   1 供述の概要
 (一) 一期
  (1) 喫茶店「ヴィクトリア」で乙山は、自分は反戦自衛官を組織し、反軍闘争をしている、制服を着て基地に侵入し、大量の武器弾薬を奪う計画が実行寸前だ、制服等は何時でも入手可能だと説明した。更に練馬、朝霞、高崎の基地(以下三基地という。)の見取図を書きながら内部の様子についても説明を加えた。実行費用、内部工作費、活動維持費として三〇万円必要だ、メンバーは五〇人いるが、現職の自衛官なので直接活動できないため、実行メンバーも欲しい、共闘しようと言い、甲野は握手をして連帯の意思表明として被告人の指示により準備した三、四万円を乙山に渡した。制服を少し甲野側に分けてもよいとの話もあった。
  (2) 被告人から約束の送金がなかったので、他で調達した。なお、その調達方法については供述が変転している(甲野46・11・23KS書7一二三〇、46・12・3PS書8一四九八、46・12・18供書9一七五九)。
 (二) 三期
  (1) 喫茶店「ヴィクトリア」に行く列車内で甲林から乙山の経歴を聞いた。
  (2) 喫茶店「ヴィクトリア」での話は一期とほぼ同じ。乙山の発言として、高崎の演習場での冬期トレーニング中は、武器の管理が杜撰で簡単に奪取できる、金と人を出してもらえば全責任をもって自衛官教育をし、内部の細胞を使って手引の指導をするとの項目が付加されている(甲野47・5・22PS書15三〇四六)。
 (三) 四期
 乙山は、反戦自衛官数一〇名のリーダーである、反軍反戦闘争をしている、制服等一式手に入るので基地に侵入して弾薬庫から大量の武器弾薬を奪取できる(盗める)、工作費や連絡費に金がかかるので三〇万出して欲しい、共闘しようと言った。三基地及び朝霞の弾薬庫の図面を書いて基地の状況、弾薬庫内部の状況を詳しく説明した。高崎の冬期トレーニングの話もあった。Kから借りたかはっきりしないが、掻き集めた三万円位を乙山に渡した。会合の時間は三時間位だった(甲野一審二二回49・3・14書16三二一六、一審二五回49・5・9書17三四三六)。
 (四) 五期
 喫茶店「ヴィクトリア」に行く前に甲野がナイフを購入したこと、乙山の発言内容について、反戦自衛官の人数は一〇数名又は数十名である、乙山を信頼し、乙山の組織の手引に委せろ、あらゆる協力を惜しまないとの発言が付加され、奪取する物が武器から小銃に変わっている外は、三期と大概同じ。但し、供述が非常に詳細となっている(甲野56・11・24PS書20四〇〇三、56・12・17KS書21四二六五)。
 (五) 六期
  (1) 喫茶店「ヴィクトリア」に至る経緯は五期と同じ。
  (2) 乙山は、自己紹介及び反戦自衛官の組織を説明した後、自衛官の制服等一成と通行証明書とか身分証明書を手に入れて、自衛官に変装して正面から堂々と駐屯地に入って行って銃を奪取し、正面から逃げてくる計画である、必要な物資は、反戦自衛官の組織を使って調達する、反戦自衛官の組織は、現職の隊員から組織されているので、事件を起こせば、警務隊に追及されて発覚してしまうから、銃奪取に自分の組織は使えない、物資を調達し、組織を維持し、自分の生活を維持するために活動費として三〇万円の金が必要であり、また実行する人手が必要である、それを出してくれれば、自分たちが手引をすると言い、三基地等の図面を書き、それぞれからの銃奪取の方法を説明し、反戦自衛官の組織が手引をするので一緒に手を組んでやろう、安全確実に大量に銃が手に入れば、武装闘争が実現でき、日本の革命運動は飛躍的な発展を勝ち取ることができると述べた。これに甲野は驚きまた興奮し、信用できそうな話だと思い、持ち帰り、至急相談して検討すると答え、三万円を渡し、同志だというので握手をした。
   2 乙山に手交した金員の出所
 甲野は、当初、被告人から立替を指示され、実家に帰った際もらった金一万円と手持の金を合わせて三、四万円準備してこれを渡したと供述していたが(46・11・23KS書7一二三〇)、二期以降は全く供述されていず、他にこれを裏付ける証拠もないので、措信し難い。
 また甲野は、被告人からの送金が遅れたので、Kから借りて乙山に渡したとも供述している。しかしながら、前述のようにスナック「もっきり亭」、飲食店「久富」における被告人の送金の約束に関する甲野供述は措信し難いのであるから、送金が遅れたとの供述も措信できない。
 Kからの借金については、Kは甲野に金を貸したのは一回だけであると供述しており、その時期は三月ころ(一審一一回48・3・15書35七二五四)、四月二七日ころ(47・1・27PS書34七〇一〇)、七月二四日から一月以内(47・1・12KS書35七三一三)と判然としないものの、千葉に行くのに旅費がないから貸してくれと言われて貸したと供述しており、右供述は、いずれも喫茶店「ヴィクトリア」への架電依頼の件とは別項でなされていることから考えると、四月銚子行きの際の借金と解する余地もあり、検察官が主張するように喫茶店「ヴィクトリア」行きのための借金の裏付け証拠とするには不十分なものである。
   3 乙山の話
 (一) 甲野は、乙山が反戦自衛官組織のリーダーで武器奪取の計画を立てていると言って、三基地の図面を作成しながら基地の状況、武器奪取の方法について説明を加え、その資金として三〇万円必要であるので出してくれと言ったとほぼ一貫して供述している(なお、四期供述においては、武器騙取あるいは武器窃取の話となっているが、四期供述は、乙山への責任転嫁を企図した意図的なものであることが供述自体から明らかであり、到底措信し難い)。
 甲野供述は、武器奪取計画を有する反戦自衛官組織が、計画を実行するのに必要な人も資金も用意できないので共闘しようとの申出があったという内容であるが、その供述内容自体人も金もない組織が武器奪取計画を有しているという不合理さが見受けられる。
 次に、甲野供述は関係者の供述とも大きく食い違っている。
 乙山は、当初は、反戦自衛官組織、武器奪取計画及び三〇万円に関する話を甲野にしておらず、自衛官の制服等売買の話をしたにすぎないと供述していたが、五七年以降においては、その右翼的思想・考え方から、その目的達成のために過激派に武器奪取をするよう共闘を申し込んだと供述している。
 乙山供述の信用性は別項で検討を加えるが、いずれの供述も甲野供述とは相当差異があり、甲野供述を裏付けるものではない。
 また、甲林も乙山の話は制服等売買の話であったと一貫して供述しており、甲野供述とは全く異なるものである。甲林は、反戦自衛官の話が話題に上ったと述べているが、その内容は甲野供述と合致しないものであり、甲林供述も甲野供述を裏付けるものではない。
 Kは、甲野から喫茶店「ヴィクトリア」で右翼と会うので、電話を入れてくれと頼まれ、何回か喫茶店「ヴィクトリア」に架電し、後日背叛社関係の調査を依頼されたと供述しているが、甲野供述の反戦自衛官組織の話とは全く正反対の話であり、甲野供述の信用性を減殺するものである。
 (二) 甲野供述は、乙山が三基地の図面を書いて詳細に内部を説明したと供述しているが、乙山の説明内容、作成した図面数、殊に朝霞駐屯地の弾薬庫の内部状況については、供述内容が日時の経過とともに詳細となり、新たな事項が付加されており、記憶に基づいた供述なのか、その後獲得した知識で記憶を補充して供述されたものか明らかではなく、その供述変遷には不自然さが感じられる。
 また後述のように、乙山、丙原の供述によると、乙山は「ヴィクトリア」会合後に丙原方で、朝霞駐屯地及び吉井の弾薬庫の構造や高崎の自衛隊の冬期トレーニング等について、図面を書いてもらって説明を受けたものと認められる。
 右事実に加え、乙山の朝霞駐屯地の勤務が僅か半年であり、弾薬庫勤務の経験もないこと、朝霞以外の関東の基地の勤務経験もないことから考えると、「ヴィクトリア」会合当時乙山は、甲野供述のような各基地の状況についての正確な知識を有していなかったものと解するのが相当であり、甲野供述にはこの点においても疑問が残る。
   4 まとめ
 以上検討してきたところから、喫茶店「ヴィクトリア」における乙山との会合でなされた相談の内容及び出来事に関する甲野供述は全体として信用性に欠ける。
  一四 甲沢との名古屋会合
   1 供述の概要
 (一) 一期
  (1) 「ヴィクトリア」での会合を済ました後難波予備校に電話し、被告人から甲沢の指示を受けうと言われた。スナック「白樺」に電話し、名古屋で会うことになった。
  (2) 七月中旬今池の喫茶店「田園」で甲沢と会ったが、尾行がついていると言うので、すぐ出て星ケ丘ボーリンク場に行き、乙山の話を報告した。甲沢から意思一致を迫られたが断った。また先方と会えと言われ、これを了承し、約一万五〇〇〇円を受け取って別れた。実家に一泊して翌日帰京した(甲野46・11・23KS書7一二五二、46・12・18供書9一七六〇)。
 (二) 二期
  (1) 予備校か研究室に電話し、被告人の指示でスナック「白樺」に電話し、甲沢と会うことになった。
  (2) ボーリング場に行くまでの経緯は一期と同じ。甲沢に図面を書きながら乙山の話を報告した。乙山の身分を確認し、写真を手に入れて欲しい、乙山との折衝を続けその組織とのラインを作れと指示された。甲野は丁原と学習会を開き、意思統一を図り、一つの部隊をまとめつつあると報告した。一万円位受け取って別れた(甲野46・12・29PS書11二〇四五、47・1・7KS書11二一八六)。
 (三) 三期
  (1) 「ヴィクトリア」での会合を済ました翌日「白樺」方式でスナック「白樺」に電話し、喫茶店「モンブラン」で甲沢の電話を受け、名古屋で会うことになった。
  (2) ボーリング場へ行くまでの経緯は一期と同じ。
 乙山の話を報告すると、甲沢は、甲林から探り出せ、写真も入手して欲しい、接触を保ち、その都度連絡しろと指示した。丁原らに対するオルグの話をすると、しっかり空気を入れておけと言われた。次の連絡日を七月中頃に決め、一万円貰って別れ、実家に一泊して帰京した(甲野47・5・22PS書15三〇六八)。
 (四) 四期
  (1) 「ヴィクトリア」での会合のすぐ後甲沢と名古屋で会い、乙山の話を報告した。人物について調べる必要があると言われた。
  (2) 今後の連絡方法について話し合い、盗聴、尾行される危険を考えて、電話番号の組替え方や連絡の方法について取り決めをした(甲野一審二二回49・3・14書16三二二五)。
 (五) 五期
 三期と同じ(甲野56・11・24PS書20四〇二五、56・12・17KS書21四二七〇)。
 (六) 六期
  (1) 「ヴィクトリア」での会合のすぐ後甲沢に電話し、名古屋で会うことになった。
  (2) ボーリング場へ行くまでの経緯は一期と同じ。乙山の話を報告すると、甲沢は、非常に興味を示し、装備を使えば、銃奪取も可能だ、すぐに被告人に伝える、乙山の写真が手に入らないか、自衛隊の隊員名簿が手に入らないだろうか、おたがいに手を尽くして調査をしてみよう、継続して相手と連絡をつけて会うようにしてくれ、甲林を通じて情報を取るようにしてくれ、オルグはうまくいっているか、しっかり空気を入れておけと言われた。約一万円受け取って別れ、実家に一泊して帰京した。
   2 供述変遷
 甲野は、「ヴィクトリア」での会合を済ました後名古屋で甲沢と会ったと一貫して供述しているが、会うに至る経緯について、一期、二期供述では「ヴィクトリア」会合の翌日、難波予備校あるいは研究室に架電し被告人に報告し、その際、被告人からの指示により、甲沢と連絡をとり、名古屋で会うことになったと供述していたが、三期に至り、被告人からの指示に関する部分が供述されなくなり、四期では「白樺」方式を用いた旨の供述が現われ、受電先の喫茶店が一定していない。
 会話内容についても丁原らのオルグの話が二期から出現し、これに対して甲沢が発破を掛けたことは三期で初めて供述され、今後の連絡日時の取り決めについても三期から供述され、四期では甲沢から初めて「白樺」方式を教わったとなっている。また乙山の話の報告内容が日時の経過とともに詳細になっている。
 このように会合に至る経緯、会合における会話内容にかなりの変動が認められるのであるが、甲野は特に供述変遷の合理的理由を説明しておらず、単なる記憶の欠落等では説明のつかない不自然な変遷といわざるをえない。
   3 供述内容の不合理性
 この会合については、甲野と甲沢の二人のみ登場するが、甲野供述で甲沢が登場するのは五月の楽友会館と七月の名古屋の二回だけである。五月の会合については、前記のとおり甲野供述は措信し難いものであるが、七月についても被告人ではなく何故甲沢が会合の相手方となったかの合理的説明はなされていない。
 甲野供述によれば、甲沢との名古屋会合は、七月一三日以降二〇日ころまでの間と解されるが、被告人は七月一三日で予備校の講義を終え、大学での研究会も既に終わっており、甲野と必ずしも会えない事情にあったとは考えられない。他の用事ではあるが、七月二四日には上京し、一泊しているのである。したがって、被告人ではなく、甲沢が会う理由は必ずしも明らかといえない。
 会合場所が京都ではなく、名古屋であることも奇異な印象を与える。
   4 丙島ノート
 甲野は一貫して名古屋の実家で一泊したと供述しているが、丙島ノートには七月三日から七月五日まで甲野が名古屋に行ったとの記載があるのみであり、甲野供述は客観的証拠の裏付けを欠くものである。
   5 甲沢供述
 甲沢は、甲野と名古屋で会ったことはありうると思うが、その際甲野から「自衛隊から武器を奪取する。」という話を聞かされたことはないと供述する(書51一一八六八)。同人は、被告人と親交を結んでいる者であり、右供述も事件後一六年近く経ってなされたものであるから、その信用性は直ちに肯認できない。しかし、被告人も七月上旬ころ甲沢に架電し、明日同人が上京した際東京で甲野と会ってその話を聞いてもらいたい旨依頼したと供述しており、甲野も一貫して甲沢と会ったと供述していることから推してみると、甲野と甲沢が名古屋で会った可能性も否定はできないが、関係者の供述内容が一致しておらず、右事実が存したと断定することはできない。
   6 まとめ
 以上の次第で、甲野供述には、不合理な供述変遷、供述内容の不自然さ、客観的証拠との不一致が見受けられるし、前記のごとく甲野供述は「ヴィクトリア」の会合についても信用性に疑問が存するのであるから、それを受けた形での名古屋会合についても、同様と解される。したがって、甲野供述は措信し難い。
  一五 喫茶店「にしむら」
   1 供述の概要
 (一) 一期
 七月一〇日ころ喫茶店「にしむら」で乙山と会った。乙山は、三基地の見取図を書いて具体的な作戦を詳細に説明した。朝霞の弾薬庫も見取図を書いて説明した。メンバーを出せば、手引も自衛官教育も責任をもってする、お互いの組織的連帯と友好関係確立のために制服を渡そうとの話があった。二時間位話をして別れた(甲野46・11・24KS書7一二七一、46・12・3PS書8一五〇五、46・12・18供書9一七六〇)。
 (二) 三期
  (1) 三基地と朝霞の弾薬庫の説明は一期と同じ。
  (2) 少人数のメンバーで簡単にできる、制服は何時でも入手できる、朝霞が一番手取り早い、乙山が責任をもって手引する、決行の日時は甲野の方で指定してくれなどの話があり、六四年式小銃の性能、分解の仕方について詳細な説明を受け、一時間半位で別れた(甲野47・5・22PS書15三〇八八)。
 (三) 四期
 三期と同じ。三〇万円の内訳を聞いたことと制服等が八月五日に全部揃うとの会話事項が付加されている(甲野一審二二回49・3・14書16三二二八、一審二五回49・5・9書17三四四一)。
 (四) 五期
  (1) 三基地、朝霞弾薬庫及び小銃についての説明、決行日時の指定については、三期と同じ。
  (2) 乙山は、朝霞の弾薬庫が最も成功する確率が高いので、そこに目標を定めて決行しよう、一、二人メンバーを出せば直接侵入の手引や銃の分解運搬には協力する、装備は八月五日あるいは一〇日に揃う、幹部はフリーパスで基地に入れる、お金は今すぐもらえないかと言った(甲野56・11・24PS書20四〇五一、56・12・17KS書21四二七八)。
 (五) 六期
 乙山は、銃器奪取の目標を朝霞駐屯地の弾薬庫とし、六四年式小銃、弾丸を奪って来る、襲撃に際しては乙山が直接、駐屯地の中に入って手引をする、襲撃の実行メンバーを一、二名出してくれ、八月五日までに自衛隊の装備一式が全部揃うので、それ以降であれば、何時でも計画を実行できる、詳しいことはそちらで決めてくれと言った。銃の分解、取り扱いについても説明し、また三〇万円の催促もした。
   2 供述変遷
 甲野供述は、三基地及び朝霞の弾薬庫の見取図を乙山が書いて説明したこと、メンバーを出してくれれば責任をもって手引をすると乙山が述べたことについては、ほぼ一貫しているものの、六四年式小銃の性能、分解の仕方についての話及び決行日時は甲野側において指定する話が三期で出現し、四期においては、三〇万円の内訳を尋ねたこと、制服は八月五日に揃うとの事項が付加されている。このように日時の経過とともに供述内容が詳細となり、新たな事項が付加されているが、この点については何ら説明がなされていない。
   3 前後の状況との不一致
 甲野供述によると、乙山は自分が手引をするので資金及び実行部隊を甲野の方で準備してくれということになる。
 しかし、「ヴィクトリア」の会合では、反戦自衛官組織と甲野の組織との共闘の話がなされたとされているのであり、喫茶店「にしむら」では当然共闘の話の具体化が話し合われるべきところ、それが乙山が手引する話に変わっており、「ヴィクトリア」会合における相談内容と符合しない。
 しかも、喫茶店「にしむら」では朝霞駐屯地を攻撃目標としたのに、後述の「青冥」会合では、第二順位の攻撃目標となり、「にしむら」会合後の状況とも合致しない供述内容である。
 このように会合状況に関する供述内容は、前後の会合状況の供述内容と整合しておらず不合理である。
   4 関係者の供述との不一致
 既に「ヴィクトリア」の項で検討したように、甲林、乙山の供述と大きく食い違っている点も注目せざるをえない。会合の相談内容が武器奪取計画の話か売買の話かについては再論しないが、会合の時間も甲林、乙山は一〇分あるいは三〇分位というのに対し、甲野は一時間半ないし二時間と供述しているのである。
   5 会合場所
 喫茶店「にしむら」は繁華街のフルーツパーラーであり、甲野供述のように三人の男性が長時間図面を書きながら武器奪取計画を練るのは、周囲の関心を惹き易く、謀議をこらしている者の行動としては、はなはだ不用心といえよう。
   6 まとめ
 以上検討してきたところから、喫茶店「にしむら」において乙山とした相談内容についての甲野供述の信用性には疑問が残る。
  一六 被告人との名古屋会合
   1 供述の概要
 (一) 一期
  (1) 「にしむら」での会合の翌日被告人に電話し、名古屋で会うことになった。
  (2) 河合塾の前で被告人と待ち合わせ、本山の喫茶店で「にしむら」会合の報告をした。乙山は右翼か警察のスパイの疑いがあるので身元を洗えと指示された。闘争への参加を求められたが断った。
  (3) 覚王山のレストランで党の話、理論的な話をし、丁原らを紹介した。被告人の論文を読めと言われ、丁原の住所を教えた。
  (4) 飲食店「喜久屋」で酒を飲み、栄をぶらつき、一万円貰って別れた。この間に甲野執筆の原稿を被告人に渡した。実家で一泊して帰京した(甲野46・11・25KS書7一二七九、46・12・3PS書8一五〇五、46・12・18供書9一七六一)。
 (二) 二期
  (1) 喫茶店「タイムス」にいた甲野に被告人から電話があり、河合塾で待ち合わせることになった。
  (2) 本山の喫茶店に入ったが、客が多かったのですぐ出て、覚王山の軽食の店に入り、「にしむら」会合の報告をした。乙山の身元についての報告書を受け取り、整理してKにコピーを五部作らせろと命じられた。甲野の任務はオルグした部隊を鍛えて闘争を担えるものを作ることだと言われた。乙山の身元調査についてははっきりした話は出なかった。
  (3) 飲食店「喜久屋」で酒を飲み、栄の喫茶店で一万円貰い別れた(甲野46・12・29PS書11二〇五八、47・1・7KS書11二一八七)。
 (三) 三期
  (1) 待ち合わせの経緯は二期と同じ。その間に大井の専売所に電話し、乙山の身上を調べた。
  (2) 本山の喫茶店で「にしむら」会合での話及び乙山の経歴を報告すると、乙山の経歴は出たら目だが、武器奪取の話は信用できると言われた。
  (3) 覚王山で軽食をとり飲食店「喜久屋」で飲んだ。
  (4) 街をぶらつき栄の喫茶店で、整理して報告書を作成し、Kに五、六部コピーさせろと指示された。甲野は朝霞の近くにはハイツがあることを話した。実家に一泊して帰京した(甲野47・5・23PS書15三一〇三)。
 (四) 四期
 七月下旬名古屋で被告人と会ったとき、乙山の話を報告した。被告人は、具体性があり、面白い話だ、乙山の身上を調べろと指示した。「赤衛軍」の話が出て全国に散在する軍団を集中する一形態と把握していた。ハイツを小手調べ的にやろうと話し合った(甲野一審二二回49・3・14書16三二三六、二審一〇回51・11・26書18三七六六)。
 (五) 五期
  (1) 被告人と会うまでの経緯は三期と同じ。
  (2) 本山の喫茶店「黒百合」でメモ、図面を出して、「にしむら」会合での話及び乙山の身上を報告した。計画は信用出来るので、オルグをしっかりして統制しろと言われた。
  (3) 一時間半か二時間いて、レストラン「カリエンテ」、飲食店「喜久屋」と寄り雑談した。
  (4) 街をぶらつき栄の喫茶店「モンシェル」で報告書を作成して、KかJにコピーさせ、二部被告人に渡せと指示された。甲野は朝霞の周辺には、米軍の朝霞キャンプやハイツがあると話した。一万円貰い実家に一泊して帰京した(甲野56・11・24PS書20四〇六三、56・12・17KS書21四二八一)。
 (六) 六期
  (1)「にしむら」会合の直後、被告人に電話し河合塾で待ち合わせることになった。甲林を通じて乙山の履歴書の写しを入手し、大井専売所に電話して調査した。
  (2) 喫茶店「黒百合」以降は五期と同じ。
   2 供述変遷
 「にしむら」会合での乙山の話を報告した場所が一期では本山の喫茶店とされていたのが、二期では覚王山の軽食の店となり、二期で再び本山の喫茶店と変遷している
 「にしむら」会合の報告は名古屋における会合の第一の目的であり最も記憶に残り易いはずの事項であるのに、その報告をした店がどこかという点がこのように変遷しているのは不自然である。
 栄の喫茶店のことが逮捕後四〇日以上も経て初めて供述され、そこでの会話内容、特に報告書の作成、ハイツの話等は三期に至って初めて供述され、米軍朝霞キャンプの話は五期に至って初めて供述されているのであるが、特に供述変遷の理由についての説明はなく、単なる記憶の混乱によるものとは解し難い。
 調査報告書について、一期では乙山の履歴と人物評を書いた紙を名古屋で被告人に渡したと供述していたが、二期当初では、甲野が乙山の履歴書の写しをスナック「白樺」に郵送しておいたところ、それが調査報告書になり、名古屋で被告人から受け取った(46・12・29PS書11二〇六一)となり、二期後半には名古屋で乙山の調査結果を報告し、被告人から調査報告書を整理してKにコピーしてもらえと指示された(47・2・16PS書13二六〇八)と目まぐるしく変遷した点も首肯し難い。
 更に、甲野供述は、日時の経過とともに供述内容が詳細となっているが、この点も理解し難い。
   3 丙島ノート
 甲野は被告人と会った後実家で一泊して帰京したと述べているが、甲沢名古屋の項で検討したように、丙島ノートにはその旨の記載を欠き、甲野供述は客観的証拠の裏付けに欠ける(なお、弁護人は、飲食店「喜久屋」の経営者であった後藤なおみも甲野が来店したのは七月上旬と供述しており、甲野供述は信用できないと主張するが、同女の供述は、甲野が久し振りに来店したのは夏の暑いころというにすぎず、七月上旬と断定しているものではないので、弁護人の右主張は前提事実を欠き、採用できない)。
   4 甲野の行動
 甲野供述によれば、名古屋に行ったのは七月二七日から三一日ころまでの間と解されるが、七月三一日には丙島秋子とアパートの手付金を支払に行っているので(領収証、符43)、七月二七日から遅くとも七月三〇日の間と解すべきである。
 しかしながら、この間甲野は、丁原と盗んだヘルメットの色を塗り替えたり、「赤衛軍」等と書き込み、乙島の下宿の鍵を借り、乙山の履歴書の写しを甲林から受け取り、日経大井専売所に電話をかけ、乙山の身上調査をし、戦斗宣言(符14)等を作成するなど多忙な日々を送っていたものと窺われ、名古屋への一泊旅行をするだけの時間的余裕が存したのか疑問に思われるところである。
   5「にしむら」会合との関係
 前記のごとく甲野供述は、「にしむら」会合についても信用性に疑問が存するのであるから、それを受けた形での名古屋会合についても、同様と解される。
   6 まとめ
 以上検討を加えてきたところから、甲野供述は措信し難い。
  一七 中国料理店「青冥」、戊野プロ
   1 供述の概要
 (一)「青冥」会合に至る経緯、会合の日
  (1) 二期
 七月下旬から八月初旬ころ、調布(あるいは府中)と思われる駅前の喫茶店でマッチを貰い、パンなどを売っている店で一〇〇円玉を両替し、駅前広場の青電話でスナック「白樺」に架電し喫茶店で待っていたところ、その日の午後六時ころ被告人から至急会いたいとの電話があり、日時場所を決め、翌日昼ころ新大阪駅で待っていた被告人と会い、調査書のコピー五部全部を渡し、駅ビルの中で喫茶店を探したが、話ができるような店がないので、地下鉄で梅田へ行き、阪急梅田地下街で適当な店を探し歩いた末、中国料理店に入った。
 なお、被告人と名古屋で会った後二回位「白樺」方式により被告人と連絡をとったが、その際朝霞の自衛隊をやれと言われ、自信が持てないと答えたところ、被告人から大阪で会って最終的に決めようと言われ、八月五日ころ阪急梅田で会うようになったとの供述もある(甲野46・12・30PS書11二〇八〇、47・1・11KS書11二二一九、47・1・15PS書12二二五七)。
  (2) 三期
 調査書をコピーした後、二度位「白樺」方式により被告人と連絡をとったが、その場所は下高井戸の喫茶店「ポエム」と「さぼうる」だと思う。いずれかの時に被告人から、「大阪に来てくれ。朝霞、練馬、高崎などについて話がある。」と言われ、日時場所を決め、八月五日ころの昼過ぎ新大阪駅で被告人と会い、調査書のコピーを渡し、駅構内で喫茶店を探したが、話ができるような店がないので、梅田で食事をすることにし、地下鉄で梅田へ行き、阪急梅田地下街で適当な店を探し歩いた後、中国料理店「青冥」に入った(甲野47・5・23PS書15三一二〇)。
  (3) 四期
 八月の初めころに大阪で被告人と会った(甲野一審二二回49・3・14書16三二四七)。
  (4) 五期
   ア 中国料理店「青冥」で会う何日か前、喫茶店「パール」での「白樺」方式による電話連絡で被告人から大事な話があるから調査書をKらにコピーしてもらい、それを持って至急大阪に来いと言われ、日時場所を決め、Kにコピーしてもらい、八月初旬ころ、新大阪駅で被告人と会い、調査書のコピー五部位を渡して、駅ビルの中で喫茶店を探したが、話ができるような店がないので、地下鉄で梅田に行き、阪急地下街で、被告人に言われてそば屋かとんかつ屋のような店に入ろうとしたが、話をするのに適当でなかったため駄目だと報告し、来た道を引き返したところ、話ができそうな中国料理店「青冥」があったので入った。
   イ 喫茶店「さぼうる」と前に供述したのは明らかに間違いである。何故そのような記載がなされたか判らない(甲野56・11・24PS書20四〇八四、56・12・17KS書21四二八七、57・8・14PS書22四三六五、57・8・27PS書22四四五一、57・8・29PS(58丁)書22四四七六)。
  (5) 六期
 四六年七月下旬ころ名古屋から東京に帰った後、乙山に関する新たな調査報告書を作成し、朝日新聞社でK記者にそのコピーを依頼し、コピーができた後京王線調布駅近くの喫茶店「パール」から被告人に電話連絡したところ、被告人から大事な話があるからすぐ大阪へ来てくれと言われ、新大阪駅の改札口で落ち合うことにした。八月上旬大阪へ行き、その日の午後新大阪駅で被告人と会い、新たな調査報告書のコピー二部を渡し、話のできる場所を探して駅構内の喫茶店をのぞいたが、いいところがないので、地下鉄で梅田へ行った。阪急梅田地下街で適当な店を探し歩いたが、その際どこの店も人が一杯いて満員であったという印象があり、また噴水があった。被告人に言われて和風のそば屋かとんかつ屋をのぞいたが適当な店ではなく、L字型の角を曲ってしばらく歩いた後、中国料理店「青冥」をのぞき、よさそうだったので中に入った。
 喫茶店「パール」から架電した先は判らない。架電した日が「青冥」会合の何日前か判らない。
 (二) 会合状況、会合内容
  (1) 二期
   ア 被告人は都内の地図と朝霞駐屯地、ハイツの手製図面のコピーを示しながら説明した。その図面は以前に甲野が乙山から聞いて書いたものに、更に他の者が調査して詳しくなっていた。
   イ 甲野が武器奪取闘争をやり抜く決意を表明したところ、乙山の信用性に疑問があって、朝霞駐屯地をやった場合右翼の謀略にひっかかるなどの危険があったことから、被告人から、君の部隊は二つのうち一つを担当してくれ、ハイツから武器を奪取してくれと言われ、ハイツは銃の管理が杜撰で中に侵入できる公算が大きいなどと現場状況の説明を受けた上、君の部隊は八月一二日深夜三時にハイツをやってくれ、上でそのように決まってきている、ピストル二丁とカービン銃三丁を奪えと指示され、朝霞基地については弾薬庫を狙う、武器奪取後は環七と青梅街道の交差点の所で輸送部隊にドッキングすれば任務は終了と言われた。甲野が、自分のアジトに一時保管することを提言したところ、被告人もこれを了承した。また、部隊は帝国ホテルに集結させること、武器としてブラックジャック、ナイフ、包丁、スパナを用意することなどを指示された。被告人は指揮所の指示に従って奪取物は港の倉庫に運び出すようにする、紀伊国屋書店の本の間に決意表明を入れておけばプロパガンダになるから作っておいてもよいと言っていた。
   ウ 第一次朝霞、七軒町派出所闘争は甲野独自の考えでやった。被告人からの具体的指示はなかった(甲野46・12・30PS書11二〇八五、47・1・7KS書11二一八〇、47・2・16PS書13二六〇九)。
  (2) 三期
 店は広く客もまばらで一〇人前後いた。奥のテーブルに座った。甲野は、被告人から朝霞駐屯地の武器を奪取するように言われ、当初乙山の身元が明確でないことと準備不足を理由に返事を渋ったが、説得され、はいはいと言いながら聞いていた。乙山は右翼や警察のスパイではないので、現場に出て協力するに違いないから、乙山と組んで実行することにしたところ、被告人は更に他の攻撃目標としてハイツもあると言い、市販の都内の地図、朝霞駐屯地、ハイツの手製図面のコピーを示しながら、ハイツは銃の管理が杜撰であるなどとハイツ及び朝霞駐屯地の各現場の状況、朝霞駐屯地への侵入方法、武器奪取方法の説明をしてくれた。甲野としては見知らぬ朝霞駐屯地内部に入るのは不安であったことから、川越街道に面したハイツの方がやり易いと言うと、被告人は交番もやり易いぞと言い、相槌を打ったところ、被告人が目標をハイツ、朝霞駐屯地、交番の三つに設定し、順次襲撃することを相互に承知した。
 被告人は朝霞の弾薬庫からは大量の武器弾薬を、ハイツからはピストル二丁、カービン銃三丁を奪えと言った。武器としてはナイフ、スパナ、ブラックジャックを用意し、奪取したならば環七へ抜けて港の近くの倉庫にぶち込めばいい、その手配は被告人がする、環七と青梅街道の交差する辺りでドッキングすればいいと言うので、甲野がアジトに一時保管することを提案した。被告人は、後に川崎に移動し、フェリーで房総に渡してまつばら荘に隠し、山越で三里塚に持ち込めばいい、八月一二日深夜二時か三時に決行しろ、乙山に渡す約束の金は踏み倒せ、部隊は帝国ホテルに集めろ、ビラやアピールを紀伊国屋書店の左翼っぽい本の中に挟み込んでおけばプロパガンダになるなどとも言った(甲野47・5・23PS書15三一二五)。
  (3) 四期
 朝霞の自衛隊から武器奪取を甲野やらないかと言われた。小手調べにアメリカ軍か交番をやってもいいのではないかとの話も出たかもしれない。ハイツの名前は甲野が出したかもしれない。
 また基地の弾薬庫から六四年式小銃、弾薬を盗み出してくる、実行は乙山と丁原がやる、刃物みたいなものを事前に用意するとの話だった(甲野一審二二回49・3・14書16三二四七、一審二五回49・5・9書17三四九三)。
  (4) 五期
   ア 店の前には品物を陳列するウインドウがあった。客は一〇名前後いた。奥のテーブルに座った。
   イ 甲野は、被告人から朝霞駐屯地の武器を奪取するよう言われ、乙山の身元が明らかでないし、準備不足をも理由に返事を渋ったが、乙山が駐屯地に手引すると言っているから乙山と組んで実行するよう説得され、実行すると答えた。被告人は朝霞駐屯地への侵入方法、武器奪取方法の説明をし、更に市販の東京都、埼玉県の道路地図、朝霞駐屯地、ハイツの手書図面のコピーを示して、ハイツの現場状況の説明をして、ハイツは銃の管理が杜撰で襲撃候補地としていいところであると言った。甲野としては見知らぬ朝霞駐屯地内に入るのは不安であったことから、ハイツの方がやり易いと言ったところ、被告人は派出所でもいいと言い、最終的に、被告人が目標をハイツ、朝霞駐屯地、派出所の三つに設定し、順次襲撃すると決定した。三つのうち一つが成功すればいいということになった。甲野はとりあえずハイツを襲撃すると主張し、被告人もこれを了承した。
 被告人がハイツにはピストルやカービン銃がある、奪取物を川崎の倉庫に隠し、三里塚に持ち込むと言うので、甲野が弥生町にアジトがあるから一時保管することを提案し、被告人もこれを容れ、その後フェリーで運ぶことになった。武器としては話し合いの結果、ブラックジャック、スパナ、ナイフ、包丁を準備することになった。また被告人が出撃拠点はホテルがいいと言うので、甲野が帝国ホテルを推挙し、同ホテルを使うことになった。
 乙山に渡す約束の金を踏み倒す件、アピールの件は三期と同じ(甲野56・10・22PS書19三八二五、56・11・24PS書20四〇九〇、56・12・17KS書21四二九三、57・8・14PS書22四三六六、57・8・24PS書22四四二五、57・8・29PS(58丁)書22四四八四)。
  (5) 六期
 店の入口のすぐ左手にレジ、左側に木か竹で編んだような仕切様のものがあり、店の一番奥が調理場になっており、右奥寄りのテーブル席に腰掛け、ビールと食べ物を注文した。店の客は少なく、甲野らが座った周辺に客はいなかった。
 被告人は、東京とか埼玉の市販の道路地図、ハイツと朝霞駐屯地の手書きの図面のコピーしたものを出した。図面は甲野が被告人に渡したものより詳しくなっていた。
 甲野は、被告人から、朝霞駐屯地からの武器奪取を甲野の部隊にやってもらいたいと言われたが、乙山の身元が明確でないことと準備不足を理由に返事を渋った。乙山が制服等を手に入れると言っている以上乙山には武器奪取を成功させる見込みがあるはずだから乙山と組んでやってもらいたい、できないということだと甲野の責任問題になる、建党建軍の基本路線を確認して今ここでやらなければいけないなどと説得されたため、甲野は革命の捨て石になって死ぬ気でやらなければならないと思い、実行すると答えた。被告人から駐屯地の弾薬庫から六四年式小銃、弾薬を奪うことを指示され、乙山が言っていたとおりに駐屯地内へ変装して侵入し、弾薬庫の警衛を黙らせればうまくゆくことの説明を受けた。ハイツ、派出所についても話し合った。被告人からハイツの位置、状況の説明を受け、銃の管理は杜撰で検問所は無防備の状態であり、襲撃も簡単であると言われたので、これを聞いて甲野としては、ハイツが川越街道に面していて襲撃も現場からの離脱も速やかにできるからやり易いと述べ、いろいろ二人で話し合って、最終的に、攻撃目標は、第一にハイツ、次に朝霞駐屯地、それでも駄目なら派出所と決まった。ハイツは朝霞の小手調べ的な要素もあった。
 被告人は、ハイツ襲撃の日時を八月一二日の深夜二時あるいは三時と指定し、出撃拠点はホテルを使うのがよいと言うので、甲野は帝国ホテルを提案した。携える武器は小型で隠し持てるものがよいと話し合い、最終的に、被告人がブラックジャック、スパナ、ナイフ、包丁の中で準備できる物を準備すればいいと言った。ハイツ、派出所においても、相手を油断させるため自衛隊の制服を使うことになった。
 被告人は、奪った武器を川崎の倉庫に一旦隠し、陸路は検問等が厳しいのでフェリーで東京湾を横断し、三里塚に持ち込むと言ったが、甲野は、一気に川崎まで運ぶことに危険を感じ、丁井の下宿に隠すことを提案し、下宿の状況、丁井の信頼性を説明したところ、被告人も同意した。
 被告人は甲野に対し、成功したときは犯行声明といったものを雑誌「情況」に挟んで紀伊国屋書店のような大きな書店に置いておくこと、乙山はスパイではなく金目当てであろうから、調査報告書を乙山に示して、記載事項に間違いがなく、乙山はスパイでないとの確認をとること、確認をとるまでは乙山に対し襲撃目標変更を伝えないこと、もし乙山がスパイと判明した場合はすぐ中継連絡所に連絡をとること、乙山の要求する三〇万円は踏み倒すこと、東京に戻ったら、すぐ下見等の準備をし、制服の入手状況を確かめることを指示し、当日(八月一二日)上京したときには甲野のメンバーに会うことを約した。
 甲野は、中国料理店「青冥」にどのくらいの時間いたか覚えていない。
 (三) 戊野プロ
  (1) 二期
 戊野プロに入り、二人で乙山の実家と大井町専売所に電話を架け、駒沢大学に乙山が在籍していることを確認した(甲野46・12・30PS書11二〇九一、47・1・4KS書11二一五〇)。
  (2) 三期
 戊野プロで乙山の身元を聞いたりしたが、余りよく判らなかった(甲野47・5・23PS書15三一四一)。
  (3) 五期
 戊野プロで甲野が新聞販売店に電話を入れた結果、乙山の母親の居所が判明したので、被告人が母親の方に電話を架けた。被告人は、乙山が駒沢大学に行っているかとか、交通事故を起こして罰金か弁償金を払わずに逃げている、どこかのホテルに来てもらいたいなどと言っていたが、結局乙山の身元はよく判らなかった(甲野56・11・24PS書20四一〇〇、57・8・22PS書22四四〇三、57・8・29PS書22四五一三)。
  (4) 六期
 甲野が、この機会に乙山について調べたいと述べたところ、被告人が戊野プロに行ってみようと言い、二人で戊野プロにいった。被告人が戊野プロの人にいろいろ話を聞いたが、何も判らなかったので、甲野が日経新聞の専売所に電話をし、乙山の連絡先の電話番号を教えてもらい、被告人がそこに架電し、応対に出た乙山の母親に対し、交通事故の話をし、ホテルまで来てくれなどと言った。その後甲野は、新大阪駅で被告人から一万円貰って別れた。
   2 供述の出現状況の不自然性
 (一)「青冥」謀議供述出現の経緯
 甲野は、一一月一六日本件により逮捕され、しばらくの間、七月中旬レストラン「アラスカ」で被告人らと謀議をし、八月五日ころ及び同八日上野の和風喫茶等で丙川らと謀議をした旨供述していたが、一二月二七日に至り、これらの供述を嘘であるとして撤回し、警察官に対しては七月中旬大阪で被告人と謀議した旨を、検察官に対しては七月下旬又は八月上旬ころ池袋の喫茶店で被告人及び乙原とハイツ謀議をし、その後阪急梅田地下の中華料理店で被告人と会った旨を初めて供述するに至り、一二月三〇日検察官に対し、池袋の喫茶店における被告人及び乙原との謀議は嘘であるとして撤回した上、阪急梅田地下での謀議状況、謀議内容などにつき詳細な供述をし(ただし、第一次朝霞闘争、七軒町派出所闘争は甲野独自の考えでやったもので、被告人から具体的指示を受けていないことなど甲野証言とは重要な部分で内容の異なる点がある。)、四七年一月五日付けで中華料理屋の位置、外観及び店内状況の図面を作成し、同月一一日警察官に対し中華料理屋に行くに至った経緯について詳細な供述をした。
 (二) 逮捕後四〇日間の供述状況
 甲野の捜査供述によれば、甲野は、逮捕の翌日、本件後旅館「小富美」でKのインタビューに応じたのは被告人の指示によると供述したのを皮切りに、一回目の供述書(46・12・18書の一七五五)作成時までに、スナック「もっきり亭」、文学部長室など(46・11・20KS書7一一六二、46・11・21KS書7一一八二)、名古屋の喫茶店、飲食店「喜久屋」、レストラン「アラスカ」(46・11・25KS書7一二八一、一二九四)、喫茶店「穂高」(46・11・29KS書8一三七八)において、被告人と謀議をしたこと、下田病院、飲食店「久富」で被告人と会ったこと(46・12・12PS書9一六八一)、被告人から送金があったこと(46・11・23KS書7一二五五)等、ハイツ闘争前における甲野と被告人との会合や接触したことなどの大半を、積極的に供述している(会合時期や会話内容等は甲野証言と異なる)。しかも、この段階における甲野の供述は、甲野は首謀者ではなく、乙山の話などを被告人らに伝え、あるいは丙川らの指示を丁原に伝える連絡役であったこと、被告人から党のメンバーとなって武器奪取闘争に参加するよう再三再四誘いを受けたこと、被告人の外、丙川、丙田などの架空の人物からも指示を受けたこと、乙原、乙田をはじめ京大や十月社の者など多くの人が関与したこと、丁原は帝国ホテルで包丁の試し切りをし、ハイツ闘争後甲野に対し次は朝霞を攻撃させるよう迫るなど、積極的な態度であったことなど、関与者を増やし、責任をできるだけ被告人、丁原更に架空の人物らに押しつけ、もって自己の刑責を軽減しようとする意図に基づくものであったことは明白である。そして、被告人との関係の大半を供述した上、右の意図に基づき、レストラン「アラスカ」での武器奪取の謀議があったこと、八月上旬に二度の謀議があったことなど虚構の謀議の捏造までしていたと認められる甲野が、逮捕されてから一二月二七日までの四一日間、被告人に責任を被せる絶好の材料である「青冥」謀議を、ことさら供述していなかったというのは不可解、不自然である。
 (三) 供述変遷に関する甲野の説明
 甲野は、一二月二七日まで「青冥」謀議を供述しなかった点について「そういう意図的にはずしたということを言っているわけじゃないです。いい加減な供述をしておったし、また記憶もおそらく混乱しておったんであろう。」(二〇回証8二二九八)、あるいは「青冥のみに限らず、甲川さんとの接触、謀議、そういったものについては隠していたわけです。それでばれてくるにしたがって、徐々に認めていったということでしたから、青冥での接触がばれてきて自供した、そういういきさつであったんだろうと思います。」(二二回証9二五三一)と弁解している。
 意図的に「青冥」謀議を隠していたとの弁解については、甲野は既に一二月二七日以前の段階で、中国料理店「青冥」前の名古屋謀議や中国料理店「青冥」後の喫茶店「穂高」において、被告人から直接指示を受けたことを供述しているから、中国料理店「青冥」を供述すると、甲野と被告人を直接結び付けられて刑責が重くなる危険があったなどと考えて意図的に「青冥」謀議を隠したとは認められない。
 また、記憶の混乱によるものとの弁解も、逮捕後四〇日間も記憶が混乱していたとは認め難い。けだし「青冥」謀議に至るまでの被告人との会合場所を既に具体的に供述しているからである。甲野は中国料理店「青冥」において初めて被告人と本件について具体的、詳細な謀議を遂げたと供述していることに鑑みると、単なる記憶の欠落で説明のつくものでないことはいうまでもない。
 以上の点から考えると、逮捕後四〇日間も「青冥」謀議を供述しなかった理由についての合理的説明はなされていないものといわざるをえない。
 (四) 弁護人は、逮捕後四〇日間にわたり維持していた虚偽供述中の八月五日上野の和風喫茶店、八月八日の池袋の喫茶店における謀議に代わるまたも架空の謀議として「青冥」謀議なるものが登場してきたと主張する。
 確かに、「青冥」謀議供述出現直前に撤回された事項は、ハイツ襲撃の具体的計画の指示を受けたことや本件犯行決行の指示を受けたことなどを内容とする謀議であり、これを撤回したままにしておくと甲野が主犯と認定されてしまう危険があり、甲野は保身のため虚構を作り出したのではないか、との弁護人の右主張を完全に否定することは困難である。
   3「青冥」会合に至る経緯、会合の日時場所について
 (一)「青冥」会合に至る経緯
 被告人から電話を受けた場所が、府中駅前の喫茶店、調布駅前の喫茶店(二期)、下高井戸の喫茶店「ポエム」か「さぼうる」(三期)、調布駅前の喫茶店、調布駅前の喫茶店「パール」(五期)と変遷している。このうち府中という供述は調布と混同し、間違えて供述したものと認められるが、下高井戸の喫茶店と変遷したのは不自然である。この点、甲野は、下高井戸の喫茶店という供述は間違いで、他の電話の時と混同したのかもしれないと供述するが(57・8・27PS書22四四五二)、当初、これから大きな闘争をやるので、逆探知により甲野の身辺に警察の手が回るのを恐れて、初めて降りた調布と思われる駅前の喫茶店から電話連絡をとったとし、店の位置及び店内の図面を書いた上、当時の状況をマッチや両替のことなども含め詳細に述べており(47・1・11KS書22二二二〇)、このようにわざわざ平常と異なる場所に行って電話連絡したという特殊な体験に関する記憶が、わずか四か月余り後には他の体験との混同を生じたとは認め難い。むしろ、調布という供述が真実ではなく、絵空言であるが故に、短期間で容易に忘却し、あるいはなんらかの意図で、下高井戸の喫茶店という供述をしたのではないかとも考えられる。更に、電話連絡の日と「青冥」謀議の日との期間が、二期及び五六年一二月の二度「翌日」と変遷したこと、甲野の架電先がスナック「白樺」となったり、わからないと変わっていること、電話における被告人の発言も、至急大阪に来いという趣旨の発言の外に、朝霞の自衛隊をやれ(二期)、朝霞、練馬、高崎等について話がある(三期)、朝霞駐屯地に関して大事な話があるから調査書のコピーを持って来い(五期)等の変遷があることも不自然であり、また、新大阪駅で手渡したコピーの枚数、電話とコピーとの前後関係も一定せず、それらの変遷は、甲野供述の信用性に疑問を投げかけるものである。
 (二) 会合の日
 「青冥」会合の日について、甲野は七月下旬から八月上旬あるいは八月五日ころとするのであるが、弁護人は甲野は自己の供述の破綻を防ぐため、会合の日を意図的にぼかしており、不自然であると主張する。
 しかしながら、日時の記憶が時の経過とともに薄らぐのは前述のように不自然とはいえず、弁護人の主張には左袒できない。
 甲野供述によれば「青冥」での会合後戊野プロで丙山花子に架電したこととなっている。丙山花子への架電は、八月五日と認められるのであるから、甲野供述にいう会合の日は八月五日と解すべきである。
 ところで、甲野が八月五日に中国料理店「青冥」で初めてハイツ闘争を八月一三日に決行するように具体的な指示を受けたのであれば、準備期間は僅かに一週間しかなく相当短い期間といわざるをえない。しかも甲野が実際にハイツ闘争の準備をはじめたのは、八月九日夜であることを考えると、甲野の行動は、はなはだ悠長であって、重大事件を事前に計画した者の行動としては、合理性に欠けるといわざるをえない。
 このように会合の日とその後のハイツ闘争との期間、準備行動に着手した日時との間には、不自然な点が見受けられる。
 (三) 会合の場所
 甲野供述は被告人と適当な店を探し回った末中国料理店「青冥」をみつけ、店内で謀議をしたというのであるが、謀議内容は武器奪取の決意を促し、攻撃目標、攻撃方法等を決めるという秘密を要する事項である上、会合状況はテーブル上に地図や図面を広げるなど目立ちやすいものであり、このような謀議を、活動家や学生の出入りする所ではなく、昼どきに繁華街で偶然見つけた飲食店内で、ビールを飲んで昼食をとりながら行うことは、はなはだ奇異であり、周囲の者の注目を引く行為といわざるをえない。しかも隣席との間で視界をさえぎる物もないテーブルに向かい合って行なったというのは、一般客や店員などに聞かれる危険性もあり、不自然である。もっとも、甲野自身は「ヴィクトリア」や「ファンタジー」など初めて入った喫茶店で乙山らと武器奪取の謀議をしている。しかし、「青冥」会合の場合、設定者は甲野ではなく被告人であり、会合場所は被告人が土地勘をもつ大阪で、しかも被告人は「青冥」会合の前日ないし何日か前に甲野に大阪に来るよう指示したというのである。したがって、被告人としては、より機密性の高い会合場所を設定することは十分可能であったはずであり、現にその時までの大阪、京都における各会合は被告人及びその関係者が知っている場所で行われていたことをも考慮すると、これらの会合よりも一層機密性を要求される謀議の場所を場当り的に決めたという甲野供述は、そのような事態がおよそありえないとまでは言えないにしても、あまりに無計画、無防備な話であって、やはり不自然さは拭い去れない。
 (四) 以上、「青冥」会合に至る経緯、会合の日時場所についての甲野供述は、不自然な変遷を重ねており、その供述内容にも合理性を欠く点も見受けられ、その信用性には疑問が残る。
   4 攻撃目標決定の経緯
 (一) 供述の変遷
  (1) 攻撃目標としてのハイツ、派出所の位置付け
 三つの目標の実行順序が、被告人と甲野の話し合いで決まったのか、実行部隊の指揮者である甲野の考えに任せてくれたのかの異同があり、ハイツは「青冥」会合以前に甲野から被告人に提示したものか、中国料理店「青冥」で初めて話題になったものかについても供述に相違がある。
 しかも、ハイツが話題に上った経緯について、被告人から米軍と言われて、甲野は、練馬の方にハイツがあると述べたかもしれないとの供述もある。また、ハイツを攻撃目標と定めた理由について、乙山の信用性に疑問があって、朝霞駐屯地をやった場合右翼の謀略にひっかかるなどの危険があったと述べたり、制服着用によってどの程度相手の目をくらませるか小手調べ的に様子をみようという考えによるなどと供述したり、また朝霞は不案内で不安だったのでハイツにしたとの供述があるなどの変転が認められる。
 乙山の信用性についても、当初は乙山を疑っていたと供述しながら、その後は乙山は右翼や警察のスパイではないと思ったと供述が変遷している。
  (2) 検察官は、ハイツ闘争後の各闘争については、甲野が独自にやったとの供述(46・12・30KS)は、他の甲野供述と対比すれば、実質的には差異がなく、供述の変遷は存しないと主張する。すなわち、右調書で、甲野が被告人から朝霞駐屯地襲撃計画の内容、方法について説明されたと供述しており、その供述内容が甲野の五期、六期供述の「青冥」会合の内容と合致していること、ハイツ闘争後、喫茶店「タイムス」で被告人と電話連絡をとった際、甲野が朝霞駐屯地を襲撃するつもりであると伝え、被告人に激励された状況が供述されていることを指摘し、右調書の記載内容は実質的にはさほど変遷していないと主張する。しかし、右調書を素直に読むかぎり、朝霞駐屯地に関しては、中国料理店「青冥」で被告人が朝霞駐屯地襲撃計画の内容、方法を説明したというだけのことであって、甲野に対しこれを実行するよう勧めたとか、甲野がこれを実行することに決まったというものではなく(むしろ、被告人は、乙山の信用性の点から朝霞駐屯地の襲撃は危険であるとして、これを甲野のグループにはやらせない意向であるように読める。)、また、喫茶店「タイムス」の電話連絡に関しては、五期、六期供述では、中国料理店「青冥」で決まった計画に基づき次の目標を襲撃し必ず成功させると話したというのに対し、右調書では、甲野において独自に朝霞駐屯地襲撃を計画していることを伝えたというのであって、結局、中国料理店「青冥」で決まった甲野のグループの攻撃目標はどこか、朝霞駐屯地襲撃を甲野のグループが実行することを決めたのはだれかという点で、右調書と五期、六期供述とは大きく異なり、実質的に重大な変遷があるというべきであり、検察官の主張は採用できない。
 (二) 供述変遷の理由
 そこで供述の変遷についての合理的理由の有無を検討する。
  (1) 独自闘争供述について
 甲野は、朝霞駐屯地は甲野独自の考えでやったと供述した理由について、取調検察官は甲野が被告人の指示を受けたことを常に疑っていたので、被告人の指導を受けたと言っても真実だと思ってくれないと考えたこと、被告人が捕まっても本当のことは言わないと思ったこと、連日の調べから早く解放されたいと思ったこと、実行部隊である甲野らがどうせ責任を負わされると思ったことを挙げる(47・1・7KS書11二一八二)。
 これについて、検察官は、それまで甲野が「丙川グループ」など虚偽の供述を続けていたことに鑑みれば、取調官になかなかその供述を信用してもらえず、また、取調官も、甲野の供述を素直に聞けず、互に意思の疎通を欠いたため、結局細部までの状況を詰めずに曖昧な供述のまま調書が作成されたものと窺われ、その真意は、細かな点については一々被告人の指示を受けず、甲野達に任せてもらったとの趣旨であると主張する。
 なるほど、甲野は、四六年一二月二七日に従前の供述を一変させたのであるから、取調検察官が甲野の供述を容易に信用しない態度であったことは想像に難くない。しかし、問題の熊澤検察官に対する46・12・30PSにおいて、甲野は、検察官から「ハイツ襲撃をやるまでは被告人が細かく君に指示したりしていたのに、その後被告人の指示連絡なしで独自に闘争をやっていったのはどういうことからか。」と問答形式で問われたのに対し、ハイツ闘争後被告人から、乙山が信用できないと言われ、甲野自身も批判され、他方、乙山、丁原らのメンバーが積極的に「次は朝霞をやろう。」と言い、一生懸命闘争をやり抜く決意をする程に成長したので、その姿をみて、今後は被告人の指示を受けて動くよりも、乙山らと一緒なって自分たちだけで「赤衛軍」の一個の軍団として闘争を独自にやり抜いていこうという気持になったと答えている(46・12・30PS書11二一〇二)。これによると、甲野は詳しい理由をつけて積極的に独自闘争供述をしており、曖昧な供述のまま調書が作成されたものとは認められない上、右のような問答は、とりもなおさず熊澤検察官が甲野の独自闘争供述に疑問を持ち、朝霞駐屯地、派出所の闘争に関しても被告人の指示連絡があったという疑いを否定していない証拠であって、そのような態度の検察官に対し、中国料理店「青冥」で本件の具体的指示があったのが真実であるなら、甲野において当然これを供述してしかるべきである。
 それに加えて、当公判廷における証言態度(追及されると強く反発し、主張を容易に曲げない。)、捜査当時調書に納得出来ない点があれば加除訂正をしばしば申し出ていること、既に本件については起訴後の取調であることを考慮すると、当時甲野が、いくら取調官に信用してもらいたいとか連日の取調から早く解放されたいと考えていたとしても、取調官が疑問に思って発問したのに対し、自己の有利な事実を供述せず、自己に不利である虚構の事実をあえて供述したとは認め難い。
 次に、甲野は、当時用いた「独自」という言葉の意味は、犯行計画の細部は被告人から指示を受けず、甲野らに任せてもらったという意味であると供述するが(56・10・22PS書19三八二四)、前記46・12・30PSを素直に読むかぎり、前記問答でも明らかなとおり、「独自」とは、被告人からの命令に基づかないとの趣旨であって、甲野の中国料理店「青冥」における攻撃目標についての謀議に関する供述と際立って差異の存することは明らかといわざるをえず、右の甲野の弁解は信用できない。
  (2) その余の供述の変遷理由について、甲野は特段の理由を述べていない。
 検察官は、本件のような重大事件では、故意に事実を歪曲したり、記憶の稀薄化により供述が変遷することは十分ありうることであると主張する。
 しかしながら、前記の供述の変遷は、日時の経過に伴い供述内容が曖昧となったものではなく、単なる記憶の稀薄化によるものとは到底解されず、攻撃目標という謀議の最重要事項のみならず、攻撃目標決定理由、決定の経緯、実行順位に関する供述の変遷に合理的理由を見出せないのであって、「青冥」会合に関する甲野供述の信用性は、この点からも疑問がある。
 (三) 攻撃目標決定の経緯についての供述の不自然性
 「青冥」会合において、最終的に攻撃目標が三か所設定されたが、武器奪取という危険な行動をとるにあたっては、攻撃目標一か所を決めるのでさえ慎重な調査、討議と十分な準備を必要とするはずであると思われるところ、決行日まで一週間程度しか準備期間が残っていない段階で、それまで攻撃目標とされていなかったハイツを、突然第一の攻撃目標と設定し、しかも失敗を想定して、乙山とは全く関係のない派出所を含む三か所の攻撃目標を設定したということ自体、直ちには信用し難いところである。
 この攻撃目標決定の経緯は、甲野供述によると、被告人からハイツが川越街道に面しているという地理的条件、銃の管理状況、検問所の状況等の説明を受けたので、甲野はハイツの方がやり易いと申し述べたというのである。しかし、甲野供述によれば、「青冥」会合に至るまでの経緯は、甲野が被告人に自衛隊の駐屯地から武器を奪う話を持ち込み、喫茶店「にしむら」で、乙山との間で朝霞駐屯地を攻撃目標とし、実行の際乙山が直接手引するとの謀議がなされ、それを被告人に報告し、それを前提に自衛隊の制服の準備等を進めて来たというものであり、また、被告人は甲野をわざわざ大阪まで呼びつけ、「青冥」会合の当初から、朝霞駐屯地を攻撃するよう甲野に実行の決意を促したというのである。したがって、甲野供述によるかぎり、被告人が朝霞駐屯地攻撃の意欲を持っていたことは明白であり、そのような意欲を持つ被告人が、甲野からその申出を拒絶されてもいないのに、ハイツがいかにも攻撃しやすい所であるがごとき無用の事項を詳細に説明し、ハイツを第一順位の攻撃目標とすることに同意したというのは、不自然、不合理であり、信用できない。
 なお、この点、被告人は闘争さえ行なわれれば目標場所にはこだわらない意思であったとの甲野証言がある(八回証3四九九)が、これは前述のような「青冥」会合に至るまでの経緯と符合せず、措信し難い。
 (四) 「青冥」会合前後の甲野らの行動との不一致
  (1) 謀議内容とその後の事態の推移との不一致
   ア 甲野らは、八月一三日未明にハイツ闘争、翌一四日夜に第一次朝霞闘争、その中止直後の一五日未明に七軒町派出所闘争を行ない、更に同月二一日に朝霞駐屯地を目標に本件を敢行した。このように短期間に目まぐるしく攻撃目標が変わること自体、一連の闘争が綿密な謀議に基づいていないのではないかとの疑いを抱かせる。
 更に目標変更の経緯をみると、ハイツ闘争では変装が発覚しておらず、再び実行しようと思えば実行可能であったにもかかわらず、攻撃目標を、ハイツより実行が困難なはずの朝霞駐屯地に変更した。同所は被告人が攻撃を強く希望していたとされる目標場所であるところ、第一次朝霞闘争は犯行用の自動車も調達せず、現地にも行かないまま中止され、日時を改めれば同所を攻撃しうる状況であったのに、直ちに攻撃目標を予備的目標であるはずの派出所に変更した。七軒町派出所闘争でも変装が発覚せず、また他の派出所を目標とすることも可能であったのに、三つの攻撃目標の中では最も実行が難しいはずの朝霞駐屯地に再度攻撃目標を変更した。
 また、ハイツ闘争に当たり乙山は下駄ばき姿で帝国ホテルにきており、乙山には事前に計画を伝えていたとの供述にどうもそぐわない身づくろいであって変である。なお、第一次朝霞闘争は、事前の謀議に基づくものとしては、その準備がはなはだ杜撰の感は否めないところである。
 これら攻撃目標変更とその経緯等に照らすと、甲野の行動は正に場当たり的であると評しうるものであって、「青冥」会合において実行の容易さなどを考慮して攻撃目標に順位をつけたとする甲野供述はその後の事態の推移等と合致しないと認められる。
   イ 甲野は、ハイツ闘争後、ドッキング地点で甲林らの車に乗り込んだが、その車内での甲野の発言について、甲林は、甲野が「交番でも襲え。」と怒鳴ったと供述し(甲林46・11・26PS書43九七八八)、乙山は、甲野が「今日もう一発やろう。交番をボンやろう。」と言ったと供述する(乙山46・11・26KS書23四五九七)。この時に、甲野がこのような発言をしたことは、「青冥」会合においてハイツの次は朝霞駐屯地を攻撃するようにしたとする甲野供述と整合しない。
 もっとも甲野は右のような発言をしなかったと供述する。しかし、乙山供述と甲林供述とは、攻撃対象として交番が出てきた点で一致しているところ、いずれも逮捕直後の供述であって、これらを偶然の一致とみることはできず、もし甲野供述が真実であるなら、乙山と甲林の供述は、両名が逮捕前に口裏を合わせた結果であるということになろう。そこで、この点を検討するに、口裏合わせを裏付ける直接証拠はない。逮捕直後における両者の供述は、制服売買の話を乙山が持ち込んだ(甲林供述)のか甲林が持ちかけた(乙山供述)のか、喫茶店「ヴィクトリア」で弾薬庫を含む地図を書いた(甲林肯定、乙山否定)かどうかなど重要部分で食い違いがある。乙山は、丁谷との関係では、一一月二五日逮捕の直前に丁谷と会って、捕まっても弾薬庫のことは話さないよう口裏を合わせたと供述している(甲野46・12・16PS書25四九八四)。しかるに乙山自身の捜査、公判における供述は甲林供述と比較的整合性があるところ、五七年以降、自己の過去の供述が嘘であったと供述したため、捜査官から過去の供述に関する供述意図を聞かれていたが、甲林との口裏合わせの事実があるなら、当然それを窺わせる事実を供述してしかるべきであったのに、そのような供述は全くない。また、交番を襲うとの甲野の発言が、甲林や乙山の刑責軽減のために持つ効果は極めて少ない(甲林については皆無と言ってよい。)。更に、帝国ホテルでの甲野の乙山に対する脅迫文言について、甲林は、闘争に参加しなければ警察に手紙を出すと脅したと供述する(甲林46・11・26PS書43九七七八)のに対し、乙山は、組織により抹殺するという趣旨のものであったと供述する(乙山46・11・26KS書23四五八三)など甲野に責任を押しつけうるより重要な事実について甲林供述と乙山供述とで食い違いがある。
 以上の各事実を総合考慮すると、前記の甲野発言について甲林と乙山がわざわざ口裏を合わせたとは到底認められない。したがって、両者の供述の一致は、それが正に真実であったからこそ生じたものであると認められる。
  (2) 犯行準備等の状況との不一致
   ア 丁丘に対する武器奪取闘争参加勧誘の時期
 甲野は「青冥」会合後であると証言するが(一五回証6一四一九)、丁丘は、自衛隊等から武器を奪う闘争を一緒にやろうと誘われたのは七月中旬であると供述する(丁丘PS書48一一一六九)。
 そこで、丁丘供述の信用性を検討する。同人の公判廷における証言及びPS並びに甲谷供述及び乙島供述によれば、以下の事実が認められる。すなわち、丁丘は、四六年一二月検察庁で取調べられた際、当時記憶していたことをありのままに述べた(丁丘六四回証20六四三二)。武器奪取闘争への参加を誘われた時期についての供述内容は、七月中旬、丁丘が練馬区から千葉市内に転居したところ、その数日後に突然甲野に尋ねて来られ、前記のような勧誘を受けたというものである。勧誘を受けた後の状況について、丁丘は、即答をせず、甲野が帰った後、甲谷に電話し、甲野から言われたことを話し、甲谷から参加しないよう言われたと供述する。
 他方、甲谷は、七月下旬丁丘から甲野からどこかの基地に入るのに仲間に加わるように誘われたがどうしたらよいかと電話で相談され、断った方がよいと答えたと供述している(甲谷46・12・3PS書36七五三四)。また、乙島は、七月下旬ころ、甲谷の下宿に遊びに行った際、丁丘から甲谷に電話があり、甲谷から、右電話の内容は、丁丘が甲野から群馬の自衛隊の基地から銃を取って来るよう頼まれたがどうしたらよいかというものであったと教えられたと供述している(乙島46・12・4PS書49一一四五八、46・11・29PS書43九六七三)。以上の事実が認められる。
 これらによれば、丁丘供述は勧誘時から五か月ほどしか経過していない時期のもので、記憶はまだ鮮明であったと考えられ、勧誘された時期を特定するのに、転居という、記憶に残り易い出来事が存する上、勧誘は、甲野が住所も教えてない下宿に尋ねて来るという非日常的出来事によって行われたものであり、七月下旬までに丁丘が甲野から基地侵入の勧誘を受けた点については、甲谷供述及び乙島供述がこれを補強していると認められる。
 これに対し、甲野は、「青冥」会合以前に、喫茶店などで丁丘に自衛隊から武器を取って来る話があると伝えたこと、丁丘が過去に精神病院に入院したと聞き及び、そのころ丁丘が大学に来ていない上、出刃包丁を持って甲谷宅まで押しかけて行ったことから、同人の精神状態がおかしくなったのではないかと心配して、「青冥」会合以前に、千葉市内の同人の下宿を尋ねたことがあり、丁丘がこれらの事実と「青冥」会合後の甲野の勧誘とを混同している可能性があると供述する。しかし、丁丘が精神病院に入院し、甲谷宅に押しかけたことは他の証拠からは全く裏付けられていない上、甲野供述は、丁丘供述と異なるばかりか、「青冥」会合後の甲野の勧誘を丁丘がその場で断ったという点(一五回証6一四二六)において、勧誘された後電話で相談を受けた旨の前記甲谷供述及び乙島供述とも矛盾する結果となっており、信用できない。
 他方、丁丘供述は、その内容が明確で、事実の混同があるとは窺われず、その信用性は高いと認められる。
 以上によれば、甲野が丁丘を武器奪取闘争に勧誘した時期は、七月中旬遅くとも七月下旬と認められる。
   イ 丁原への勧誘時期、戦斗宣言等の作成時期
 甲野は、丁原に武器奪取闘争をやると伝え、本件犯行現場に置かれていた「戦斗宣言」と題する書面及び「緊急通達」と題する書面(符13、14、以下、これらの書面をまとめて「ビラ」という。)を作成したのはいずれも「青冥」会合後であると証言する(八回証3五二五、一五回証6一四八〇)。
 他方、丁原は、<1>七月中旬ころ(又は七月中)、甲野から、自衛隊から銃を取ることを計画している、「赤衛軍」に入ってくれと誘われたこと(丁原46・11・20KS書38八〇四一、46・11・23PS書40八六七一)、<2>ビラを、甲野が、七月末または八月初めころ、作成したこと(丁原46・11・27KS書38八一二六、46・11・30PS書40八五〇三)、<3>八月に入って間もなくのころ、自衛官の制服を着て基地から銃を奪う具体的な方法の話を聞いたこと(丁原46・12・16PS書40八五五〇、なお一審一四回48・7・5書55一二六六六でも、八月初め、甲野から、どこかの基地から銃を奪う話があったとしている。)を供述する。
 そこで、丁原供述の信用性を検討するに、供述内容は、個々の事実を淡々と述べるものであって、責任逃れや脚色といった点は見受けられず、大筋において、一貫した供述をしている。確かに戊田などの架空の人物の名前が出ている虚偽部分もあるが、それらは甲野が捜査段階に至って創作したものであって、丁原が捜査官の追及に迎合したため生じたものと解されるし、また、供述の変遷や客観的事実と異なる点も散見されるが、それらは記憶違い、忘却等によると説明できるもので、供述全体の信用性に疑問を抱かせるものではない。
 そして、前記<1>ないし<3>についてみても、供述の変遷は認められず、いずれも日にちは特定できないものの、具体的内容を明確に供述している。また、丁原において、これらの時期を意図的にずらす理由はなく、その信用性は十分認められる。
 他方、甲野は、捜査段階において、「青冥」会合の前の八月始めころ、ビラを作成したと供述したことがあり(47・5・23PS書15三一四三)、前記甲野証言は確たる根拠があって丁原勧誘の時期やビラ作成の時期を「青冥」会合の後であると証言しているものではないと認められ、その証言の信用性は低い。
 したがって、丁原を武器奪取闘争に勧誘した時期、ビラ等を作成した時期、自衛官の制服を着て基地から銃を奪う具体的な方法の話をした時期は、七月中旬から遅くとも八月始めまでであったと認められる。
   ウ ヘルメットの準備状況
 甲野は、丁原とともに工事現場から盗んできたヘルメットを赤色に塗りかえ、「赤衛軍」と記入した時期についてはっきりした記憶がないと証言する(一五回証6一四五二)。しかしながら、四期においては七月下旬(一審二二回49・3・14書16三二三五)、五期においては八月上旬の「青冥」後(56・11・30PS書21四一一九、56・12・17KS書21四三〇〇)と供述を変えており、供述を変えた理由については、自己の裁判では虚偽も述べたとするだけで、格別の理由を示していない。
 これに対して、丁原は七月下旬甲野と工事現場からヘルメットを盗み、赤色に塗りかえ、翌日ころ甲野が赤いヘルメットに白のマジックペンで「赤衛軍」等と記入したと供述している(46・11・23PS書40八六七三)。
 関係証拠によれば、丁原らがヘルメットを盗んだのは、七月二五日ころと認められる(丁島六平KS書44一〇〇三四等)。
 そこで検討するに、丁原供述は、ビラの作成時期の項において検討したように、特に時期をずらして供述をする必要もなく、信用でき、甲野供述は前後矛盾しているのみならず、特別の目的もなくヘルメットを窃取したと弁解するのは不自然であり、信用できない。甲野は七月二六日ころ、赤のヘルメットに「赤衛軍」と記入したものと認められる。
   エ まとめ
 以上によると、「青冥」会合以前に、甲野は武器奪取闘争を行なう考えで仲間を集め、現場に置くビラを作り、「赤衛軍」と記入したヘルメットを準備し、具体的な襲撃計画を立てていたと認められるのであって、中国料理店「青冥」で被告人から説得されて初めて武器奪取闘争実行の決意をし、そのための準備を始めたとの甲野供述は右認定事実と明らかに矛盾し、この点からも信用できない。
   5 その他の謀議内容
 (一) 地図、図面
 会合の際用いたとされる地図・図面については、二期当初は、ハイツと朝霞の見取図を書いたわら半紙大の白い紙があったと、見取図については詳細な供述をしながら、地図があったとは供述していなかったところ、二期の後半には東京都内の市販されている地図と朝霞、ハイツの周辺を書いてある手製のコピーした図面と供述し、五期では、東京都と埼玉県の道路地図と前記のコピーした図面あるいは被告人が手書きした図面及び甲野が甲沢に渡した三基地の図面のコピーとなり、六期では再び大学ノート大の東京都と埼玉県の道路地図合計二冊と前記のコピーした図面と変遷した。地図は見取図とともに卓上に持ち出されたはずであるのに、当初その一方についてのみしか供述していなかった点不自然であるし、地図の種類、内容について、捜査官の調書の取り方の違いにより表現が異なったに過ぎないとの甲野の弁解(57・8・27PS書22四四五五)を考慮しても、後に至るほど供述が詳細になった点に不自然さが残る。五期供述は、事件後一〇年以上経てから新たな事情を供述したものである上、その後それがさしたる理由もなく撤回された点、不自然である。
 しかも、甲野は、右図面等について、被告人から渡されていないと一貫して供述しているが、右図面は、甲野が被告人に渡した図面より被告人の調査により詳細になっていたというのであるから、武器奪取計画の実行部隊の責任者とされた甲野にとっては、計画遂行上極めて有益なものであったはずであり、何故受け取らなかったのか不可解といわざるをえない。
 地図、図面についても供述変遷が不自然であり、供述内容にも合理性を欠く点が見受けられる。
 (二) 出撃拠点
 ハイツ襲撃の際の出撃拠点として帝国ホテルを使うことについて、甲野は、六期供述では被告人がどこかのホテルがよいと言ったのに対し、甲野が帝国ホテルがよいと言ったとの具体的な会話状況を証言したが(八回証3五〇四)、捜査段階では、当初、ホテルを使うことについて供述がなく、三期において、被告人が、部隊は帝国ホテルに集めろ、ホテルを使う際には関係のない男を使えなどと指示したとなり、五期では話し合った結果帝国ホテルに決まったなどと供述していた。しかし、三期より前の調書には、同ホテルは勿論、出撃拠点について話し合ったとの供述さえなかったこと、捜査段階の供述より公判証言の方が詳細であることなどに鑑みれば、出撃拠点に関する甲野供述は、甲野の創作によるという疑いが残る。
 また、出撃拠点をホテルとするのは、人目につき易く危険であること、ハイツ襲撃に際し、攻撃目標との距離が長く、出撃拠点としては不適当であること、甲野らは第一次朝霞、本件ではいずれも待機場所、出撃拠点として成増駅前の喫茶店「宮殿」あるいは新宿の喫茶店「タイムス」を利用していることからすると、その供述内容自体不自然と認められる。
 (三) 奪取すべき物
 甲野は、朝霞駐屯地から奪取すべき物は六四年式小銃と弾薬であると被告人が明言したと証言した(八回証3四九三)。この点、従前の供述は、朝霞基地の弾薬庫を狙う(二期)、弾薬庫から武器弾薬を奪取する(三期)と漠然とした供述をしていたのに、四期では朝霞基地の弾薬庫から六四年式小銃と弾薬を盗み出してくることを話し合ったと具体的となり、更に五期では私たちは数十丁の六四年式自動小銃の奪取を計画したとなっており、尋問を経るにつれより詳細な供述となっていることが、看取される。しかも、本公判で初めて奪取する物を明示したのが被告人であると供述し、反対尋問では奪取物に手榴弾を含めるような証言をした(一三回証5一一〇四)が、その供述の変遷についての説明もなされていず、不自然である。
 (四) 輸送経路
 奪取した武器の輸送経路に関する被告人の発言内容について、二期供述では、港の倉庫に運び出すとされていたが、三期に至り、港の近くの倉庫に入れておき、川崎に移動し、フェリーで房総へ運び、まつばら荘に隠し、山越えして三里塚に運ぶと詳細となり、五期では川崎の倉庫に隠しフェリーで三里塚に持ち込むと変遷した。
 当初別のものであった倉庫と川崎とが混合した上、当初単純であった事実が新事実も加わってだんだん詳細になり、後にやや抽象的になるという複雑な変遷経過をたどったが、その供述中、まつばら荘という件については、同荘には信用性にやや問題の残る乙山がいる上、被告人にはその付近の土地勘もないと考えられ、被告人が、銃器という物騒な物を隠す場所としてあえてそのような場所を選んだとは認められず、その供述内容自体不合理である。いずれにせよ、三里塚で使用する武器を川崎から海路木更津へ輸送した上、三里塚に持ち込むとの計画自体、相当迂遠な方法と評せざるをえない。
 また、輸送部隊とのドッキング地点についても、被告人が言い出したのか、甲野が言い出したのか一定しない。しかも、ドッキンク地点に関する会話は後には供述されなくなっている。更に甲野の知人の丁井方に奪取した物を一時保管することとなった経緯についても供述が変遷している。
 丁井方については、当時被告人は全く知らなかったものと認められ、ドッキング地点、丁井方への一時保管の話は、甲野が創作したものとの疑いを否定できない。
 (五) 宣伝のビラ
 犯行後宣伝のビラを出す話について、当初供述がなく、喫茶店「穂高」において話し合われたとの二期供述を経て、三期に至りアピールを紀伊国屋書店の左翼系の本に挟むとの供述をするに至ったが、供述変転についての説明が何らされていず、不自然である。更に実際には甲野の準備したヘルメットやビラを本件犯行現場に置いて宣伝の目的を果たし(このような方針変更について「青冥」会合後に話し合った形跡はない。)、甲野供述と異なった形で事態が推移したことをも考え合わせると、宣伝方法についての話し合いに関する甲野供述は信用できない。
 (六) 三〇万円の踏み倒し方法等
 乙山の要求する三〇万円を踏み倒す話について、甲野は、捜査段階で、当初、供述せず、三期で初めて供述したが、記憶が呼び戻されたことについては、何らの説明もされていず不自然である。
 中国料理店「青冥」での被告人と甲野の具体的な着席位置について、捜査段階では一貫して特定していたところ、最後の取調から一年半後の当公判廷では、記憶があやふやであるとの理由で特定しなかったが(七回証3四八五、一一回証4八六二)、その余の謀議内容については具体的に供述していることに鑑みると、単なる記憶の稀薄化によるものと解するのは、やや釈然としない。
   6 戊野プロでの架電状況
 (一) 供述変遷
 二期供述では、甲野は被告人と二人で乙山の実家に電話したり、大井専売所に電話して乙山の駒沢大学在籍の有無を確認したりして、あるいは、甲野は新聞販売店に電話し、被告人は一回位どこかに電話したとの簡単な供述であった。ところが、五期供述に至り、被告人の会話内容が交通事故の話やホテルに来てもらいたいとの話となっている。
 当初は架電のこと自体供述されていなかったのに、五七年八月に供述内容が具体的となり、更にその後一層詳しい供述をしていることが明らかである。このように被告人が甲野以外の者に架電した際の、瞬間的、断片的で、内容もさして重要でない発言について、時の経過とともに、記憶が鮮明となるのは、明らかに不自然であり、甲野が取調官からえた知識を基に供述を創作した疑いが極めて強い。
 (二) 供述内容の不自然性
 その供述内容は、乙山について調査する目的というものであるが、乙山の信用性は襲撃計画遂行にあたって重要な事項であって、しかも謀議の当初甲野がこれを問題視したのであるから、乙山についてなお調査する余地があったのなら、これを先にしてから襲撃計画の細部を具体的に決定する謀議をするという手順になるはずであり、甲野供述は、「青冥」会合で全てを決めた後に、謀議の前提となるはずの情報の収集行為をしたという点で、やや不自然である。
 (三) 関係者の供述との不一致
 丙山花子(乙山の母)は、八月五日、戊川と名乗る男から来た電話の内容は、乙山が交通事故を起こし八月六日期限が来て告訴される、乙山はいろいろなことをしているので警察が探している、とにかく話がしたいので、戊川が社用で大阪へ行く八月六日午後八時、新阪急ホテルの一階ロビーに来い、よく話して身柄を引き取ってくれ、というものであり、相手は落ち着いた声であり、関西なまりであるという印象はなく、丙山は乙山が悪いことをし、戊川がそれに対して何らかの形(金銭)を要求するものと思ったと供述している。その供述の信用性を考えるに、同女は、受電の後数日内に受電日時や会話内容を記載したメモ紙片(符22)を作成し、四七年一月二八日警察官にこれを任意提出し、そのころ何度か警察官から事情聴取を受けて記憶を喚起していたものである上、証言内容と右メモとの矛盾もなく、自然であり、更に同女の本件に対する利害関係等を考慮すると、信用性は高いものと認められる。
 ところが甲野供述によると、被告人が、甲野の要請により調査目的で架電したというのであるが、右架電内容は、全く乙山の信用性を裏付けうる具体的情報に関するものではなく、結局、ここでも甲野供述は丙山証言及びメモ紙片と合致しておらず、信用できないといわざるをえない。
   7 その他の当事者の主張
 (一) 弁護人の主張
 弁護人は、「青冥」会合後甲野が被告人に初めて連絡をとったのが八月一一日であり、この間何らの連絡も存しないのは、「青冥」謀議の実行に際しての確認を被告人が怠ったこととなり、不自然であると主張する。また、日本読書新聞に被告人が本件を帝国主義軍隊解体闘争と把え、本件の犯行日時を八月二二日とする記事を寄稿していることは、被告人の事件の把握が「青冥」謀議とは乖離しており、被告人が予め本件を知らされていなかったことを示すものであるという。更にドッキング地点については深夜でも人目につき易い場所であり、丁井の下宿は、武器の搬入、保管場所としては不適切であること、甲野はいわゆるピース缶爆弾事件の証人として本件と同様の理由により虚偽供述をしていること等をあげて、甲野供述には信用性がないと主張する。
 まず、連絡の有無について考えると、甲野供述によれば、中国料理店「青冥」で被告人は甲野をハイツ闘争の実行責任者としたのであり、八月一二日には喫茶店「穂高」等で直接会っているのであるから、その間連絡がなかったことのみを把えて不自然とまではいいえない。
 読書新聞の点については、検察官は、弁護人とは逆に、当時のテレビや新聞が本件の犯行日を八月二二日とし、本件は武器奪取が目的とは思われないなどと報道していたことから、被告人が正確な記事を書けば、被告人に犯人の疑いがかけられることが必定であり、被告人がそのようなことをするはずがないと反駁する。むしろ、右記事が甲野らを含む青年戦士に対する最大限の賛辞を贈り、その戦果を讃えており、被告人の本件犯行の加担を推認させる事実の一つであると主張する。
 確かに検察官主張のような報道記事が存し、被告人が執筆した前記記事が日本読書新聞の九月六日号に掲載されたことは認められる。
 しかしながら、被告人の右記事をめぐっては、弁護人、検察官いずれの解釈も可能であり、いずれとも断定し難い。ただ少なくとも右記事において被告人が本件を称賛していた事実は否定できないところである。
 ドッキング地点が人目につき易く、丁井の下宿が武器の保管場所として不適切であるとは必ずしもいえないのであって、この点に関する弁護人の主張は採用できない(なお、前述の輸送経路の項参照)。
 最後に、いわゆるピース缶爆弾事件における甲野供述について、検察官及び弁護人は、それぞれ立論をしているが、右事件は、本件とは全く別個の事件であり、当裁判所としては、本件の証拠関係から甲野供述の信用性を検討すれば足り、それで十分であると考えるので、右の点に関する各当事者の主張については判断を示さないこととする。
 以上の次第で、弁護人の右主張はいずれも採用しない。
 (二) 検察官の主張
 検察官は、中国料理店「青冥」において被告人から甲野グループによるハイツ、朝霞駐屯地、派出所の順次攻撃を指示されたという大筋において甲野の自白が一貫しており、殊に六期供述は、禅との出会いによる悟りのなかで証言されたものであり、弁護人の執拗な反対尋問にもかかわらず、公判で一貫した供述をしているのであるから、その信用性は高いと主張する。
 しかしながら、既に検討を加えてきたように、「青冥」会合に関する甲野供述は、その全体にわたり多数の不合理な点がある上、客観的証拠、共犯者及び関係人の供述等との不一致が認められ、多岐の項目にわたって、不自然な変遷が認められるものであって、到底首尾一貫したものでないことはいうまでもない。
 また、禅の悟りのなかで証言されたものという点については、主尋問及び反対尋問における甲野の証言態度、対応振りは必ずしも悟りとは調和しないものであり、供述の具体的内容を捨象して、悟りによる証言故信用性があると解するのは相当でない。
 また、検察官は、甲野証言で、店が混んでいたこと、噴水があったことを言う点が信用性の補強となると主張するが、店が混んでいたというだけでは抽象的であること、噴水は阪急梅田三番街に行けば何時でも見うるものであるし、捜査段階において、噴水の写っている阪急三番街の写真(司法警察員作成の56・11・24実況見分調書添付写真第2、3号)が甲野に示されたこと(56・12・17KS書21四二九二)に鑑みると、右甲野証言に、八月五日甲野が被告人とともに同所を訪れたことを裏付けうるほどの証拠力はなく、右主張は採用しない。
 したがって、検察官の各主張もいずれも理由がない。
   8 まとめ
 以上の次第で、「青冥」会合に関する甲野供述は、重要な部分について供述の変遷があり、右変遷についての合理的説明がつかず、供述内容にも不合理、不自然な点が認められ、客観的な事実との矛盾、関係者の供述との不一致と多々存し、結局その供述全体の信用性には疑問があるといわざるをえない。
  一八 喫茶店「穂高」、むらさき寿司
   1 供述の概要
 (一) 一期
  (1) 被告人から池亀方に電話があり、喫茶店「穂高」に行った。乙林九久が帰ってから、被告人は闘争の意義を話し、どうしても闘い抜かなければならないと言った。メンバーに会うかと尋ねると、後にすると言われた。変装用の靴とメガネを受け取り、四万円貰った。
  (2) 寿司屋に乙丘と三人で行き、銃器奪取の話をした。乙丘は丁沢や丁林冬子に精通しているようだった(甲野46・11・29KS書8一三七九、46・12・18供書9一七六六)。
 (二) 二期
  (1) 八月一二日朝被告人から電話があり、喫茶店「穂高」に行った。乙林九久が帰ってから、被告人は乙林九久に中国共産党宛の親書を託したと話した。乙丘のいるところで被告人は、ハイツ闘争をやり抜け、やり抜いたメンバーは党員にすると言った。メンバーと会わないかと言うと、後にするとの返事だった。
  (2) 寿司屋に行き、被告人から証券会社の支店長の名刺を受け取り、乙山に渡す約束の金を踏み倒すのに使えと指示された。
  (3) 喫茶店「穂高」かむらさき寿司で被告人から四万円を受け取った(甲野46・12・27PS書10一九九三、46・12・30PS書11二〇九六、47・1・7KS書11二一八九、47・1・24PS書12二四六五)。
 (三) 三期
  (1) 八月一二日朝被告人から電話があり、喫茶店「穂高」に行った。乙林九久が帰ったあと、被告人は、生きるか死ぬか勝つか敗けるかは甲野の肩にかかっている、絶対にどんな事があっても必ずやり抜け、それでなければ男じゃないと激励してくれた。連絡中継所の電話番号を書いた紙片を渡された。メンバーに会うかと尋ねると仕事が済んでから会うと言われた。四万円受け取った。乙林九久に託した親書の話もした。
  (2) 乙丘と三人でむらさき寿司へ行った。前祝いで乾杯した。証券会社の支店長の名刺を渡され、乙山に渡す約束の金の踏み倒し方法について具体的に指示を受けた(甲野47・5・23PS書15三一四八)。
 (四) 四期
  (1) 喫茶店「穂高」で被告人と会い、ハイツ闘争をやることを話し合った。具体的な襲撃方法については、話し合っていないが、奪取した銃器は、甲野の友人方に一時保管し、貸倉庫等を移動して運ぶことになった。
  (2) 寿司屋で新日本証券の人の名刺を被告人から貰った。乙山に対しては、成果をみなければ払えないので、その場を取り繕うためのものである。本件後も甲野としては金を支払うつもりでいた(甲野一審二二回49・3・14書16三二六二、二審六回51・8・26書18三六八〇)。
 (五) 五期
  (1) 八月上旬被告人にハイツ闘争の準備状況を電話で報告すると、八月一一日ころの夜池亀方に待機せよと指示された。当日電話があり、翌日喫茶店「穂高」で被告人と会った。乙林九久が帰ってから後、どんなことがあってもやり抜け、今後の三里塚、沖縄を戦争として闘い抜き、勝つか敗けるかは甲野の双肩にかかっていると激励された。連絡中継所、メンバーと会うかどうか、四万円の授受、親書の件は三期と同じ。
  (2) むらさき寿司の件は三期と同じ(甲野56・11・30PS書21四一二一、56・12・17KS書21四三〇一)。
 (一) 六期
 五期と同じ。
   2 供述変遷
 (一) 謀議に至る経緯
 「青冥」会合の後甲野が準備状況等の報告のため被告人に架電し、八月一一日ころの夜下宿で待機せよとの指示を受けたことは、五期に至り初めて供述されたものであるが、被告人から池亀方に電話があった日については、一期供述では八月一三日の夜(この供述は、帝国ホテルに集まった日を八月一四日とする供述とともになされており、実質的には帝国ホテルに集まる前日である八月一一日の夜に電話があった趣旨の供述と認められる。)となっていたが、二期、三期で八月一二日午前となり、五期では八月一一日ころの夜と供述されていたことなどの変遷が認められる。
 (二) 喫茶店「穂高」における会話内容等
 喫茶店「穂高」での被告人の発言のうち、乙林九久に親書を託したこと、メンバーと会わないことについては、逮捕後二週間ころの段階から六期に至るまで、ほぼ一貫した供述がなされているが、ハイツ闘争に対する被告人の激励の言葉は、一期では、闘争の意義等を話し、どうしても闘い抜かなくてはならないなどと言ったとなっていたが、二期でハイツ闘争を必ずやり抜けと指示し、やり抜いたメンバーは党員にすると言ったとなり、三期に至り、生きるか死ぬか勝つか敗けるかということは甲野の肩にかかっている、どんなことがあってもやり抜いてくれ、そうでなければ男じゃないという趣旨を述べたと詳細となっている。更に、五期においては、一層激越な調子で激励されたと述べるに至っている。その他、中継連絡所の電話番号を教えた点は、二期供述で初めて供述されたこと、犯行に用いる変装用のメガネや靴は、甲野自身が買って用意した物であるが、一期では、喫茶店「穂高」において被告人から受け取ったと供述していた。また、四万円の授受の場所が二期ではむらさき寿司とも供述していたこと、本にアピールを挟む話が二期では喫茶店「穂高」での話となっていたなどの変遷も認められる。
 (三) むらさき寿司における会話内容等
 むらさき寿司での状況について、一期では、武器奪取の話が中心でしたと述べるだけで、具体的な供述がなく、むしろ乙丘が丁沢赤軍派議長や丁林冬子のことに精通しているようだったなど、謀議と無関係なことを主として供述していたが、二期初めに三〇万円を踏み倒すための証券会社支店長の名刺を貰ったと供述し、その後踏み倒す方法について具体的に話し合った旨の供述を経て、三期で具体的な踏み倒し方法について供述をはじめた。
   3 供述変遷の理由
 (一) 「青冥」会合後の準備状況報告の電話については、当初供述がなく、犯行後一〇年以上経って突然供述された点不自然であり、池亀方に電話があった日時についても、喫茶店「穂高」での会合という記憶喚起の切っ掛けがあるのに、供述が一定しなかったのは不自然である。
 (二) 被告人が中継連絡所の電話番号を教えたことは、逮捕後四〇日以上経てから初めて供述されたが、もし甲野が実際にメモを受け取ったのであれば、その記憶は残り易いはずであり、当初から供述しなかったのは不自然である。しかも当初の供述箇所は喫茶店「穂高」の項ではなく、八月一四日喫茶店「やまき」からペン丁本を使って指揮所に電話をしたという供述の直後であり、内容も喫茶店「穂高」で被告人から指揮所の電話番号を教えてもらい、甲野においてメモしておいた旨のもので、三期以降の供述と異なるものであって、その供述経過には疑問が残る。
 (三) 激励の言葉について、我々の運命がかかっている、死をも恐れぬ英雄主義で闘えなどと言われた旨の甲野証言自体、既に実行の決意をし、かなりの準備をした者に対する言葉としては、くどい印象を受けるところ、この点の捜査供述は、当初簡単であったのが、後になるほど詳細になったこと、「それでなければ男じゃない。」など後に供述されなくなる言葉もあったこと、むらさき寿司における激励の言葉は、逮捕後四〇日以上経てから初めて供述されたこと、英雄主義云々は三期に至り初めて供述されたことなど、その変遷経過をみると、単なる記憶の稀薄化によるものとは解し難い。というのは、甲野は、当初、メガネや靴を被告人から貰ったなど自己の責任を被告人に帰せしめる供述を繰り返していたのであり、そのような態度の者が、犯行後比較的間近な時期において、被告人の強い口調での激励の言葉をあえて隠したとか記憶喚起ができなかったとは認めにくいからである。更に、むらさき寿司に関する乙丘の四七年当時の捜査供述も甲野供述とは全く異なる点も無視し難い。
 (四) 検査官は、喫茶店「穂高」で被告人が中国書簡を乙林九久に託して指示を与えたと話した状況に関する甲野供述は、臨場感に溢れ、信用性が高いと主張する。
 しかしながら、弁護人も指摘するごとく、中国書簡は、甲野が供述するような中国に資金援助を求める秘密書簡でないことは、その書簡の記載内容(符7)から自ずと明らかである。しかも学生訪中団は、右書簡について学習会を開いており、被告人においても新聞記者にコピーをとらせ(K47・1・30PS書34七一三一)、更に公刊を企図していたとも認められ、到底秘密書簡とはいえない。甲野供述はこの点で明らかに事実に反するものであり、臨場感のみでその信用性を認める訳にはいかない。
   4 供述内容の整合性
 (一) 喫茶店「穂高」、むらさき寿司謀議における被告人の態度をみると、被告人の上京した日が八月一一日である(乙丘47・1・23PS書37七九三二)のにその日のうちに甲野と会わなかったこと、メンバーの役割分担や具体的な襲撃方法等が話題になった形跡がないこと(謀議内容のうち、甲野がハイツ闘争の準備状況を説明したという事実は、47・5・23PSを初めとする詳細な供述調書になく、当公判廷において初めて出てきたものであって、唐突であり、信用し難い。)など、首謀者である被告人は、早急には甲野と会わず、襲撃方法や準備状況に関心を示さなかったということとなるが、これは、あまりに淡泊な態度であって、その激励の仕方から見受けられるような、闘争の成功を切望する態度、更には細部にまで気配りを示した「青冥」謀議における態度と整合せず、このことと、謀議の場所が喫茶店や寿司屋であったこと、むらさき寿司では乙丘も同席したことなど、闘争を十数時間後に控えた段階における首謀者と実行指揮者との会合にしては極めて無警戒であることを合わせ考えると、真実甲野供述にあるような謀議をしたかどうか疑問が残る。
 (二) 架電についても、「青冥」会合後の準備状況報告の電話については、架電日時、架電先が判らないなどその供述は極めて曖昧である。
 池亀方への電話は「白樺」方式がとられていないことは明らかであり、会話内容が「青冥」会合後の準備状況報告のための会合の打ち合わせであることに鑑みれば、日頃盗聴を恐れている者の行動としては、不用意、無警戒といわざるをえない。
 難波予備校は七月一九日から夏期休暇に入り、被告人の担当の授業は八月一六日までなかったこと(丁森十平46・12・24KS書47一〇七九三)、被告人が主として居住していた乙丘の部屋には電話がなかったことに照らし、「青冥」会合後の時期において被告人との連絡が取れにくい状況であったと認められ、準備状況報告の電話についての甲野供述は措信し難い。
 (三) また、甲野らが犯行現場に遺留したビラ等(符13、14)の記載内容については、中国料理店「青冥」では全く相談されていないのに、首謀者とされる被告人に示されなかったのは不自然である。
 更に、乙山に対する三〇万円の踏み倒し方法が犯行直前のむらさき寿司まで具体化しなかったとの点も、緻密な計画に基づいた犯行とは相容れない事情といえよう。
   5 まとめ
 以上によると、喫茶店「穂高」で会うに至る経緯、喫茶店「穂高」、むらさき寿司に関する甲野供述は、それ自体不自然、不合理な点が認められ、不自然な変遷も存し、関係者の供述等とも整合せず、俄かには信用できない。
  一九 喫茶店「タイムス」への架電
   1 供述の概要
 (一) 一期
 八月一三日午後一時すぎ、新宿区内の喫茶店「くじゃく」において、丙田、丙川らに会い、一四日に朝霞駐屯地を襲撃するよう指示を受け、その際、丙川から、被告人が不成功に対し怒っている旨伝えられた(甲野46・11・30KS書8一四二九、46・12・4PS書8一五四五)。
 (二) 二期
  (1) 八月一三日未明喫茶店「やまき」でペン丁本を使って指揮所に電話を入れた。相手から一八日午後八時に電話する場所を指定しろと言われ、喫茶店「タイムス」の電話番号を伝えた。
 約束の時間に被告人から喫茶店「タイムス」に電話がかかってきた。
  (2) 甲野は、ハイツ闘争の失敗を報告し、独自に朝霞駐屯地襲撃計画を立て、準備をした、明日朝霞に行ってセールスをやる、社内事情を知っている優秀なセールスマンがいるので必ず契約書をとる、明日だめな場合にはその次の土曜日には必ずやり遂げるなどと言った。
  (3) これに対し被告人からお前の方からなんの連絡もないので心配していた、政治生命がかかっているから明日は必ずやり抜け、お前たちは空気が入っていない、仕事をやり遂げないで生きて家の敷居をまたいで帰るなと激励された(甲野46・12・30PS書11二一〇〇、47・1・24PS書12二四八二)。
 (三) 三期
  (1) 喫茶店「タイムス」で電話を受けるまでの経緯は二期と同じ。
  (2) 甲野は、ハイツ闘争の失敗を報告し、セールスを装って、打ち合わせのとおり今度は八月一四日に朝霞駐屯地を攻撃する。メンバーとは打ち合わせ済みであとは実行を待つばかりである、今後順次朝霞、交番等を成功するまで連続的に闘争して行くと伝えた。
  (3) これに対し、被告人から今度は絶対失敗するな、死んでもやり抜け、生きて敷居をまたいで帰ると思うな、甲野しっかりやれいいか、甲野君の武器奪取が成功しなければどうにもならないと激励された(甲野47・5・23PS書15三一五七)。
 (四) 五期
  (1) 謀議の日時は、八月一三日の夕方か八月一四日のいずれかである。八月一二日喫茶店「穂高」での会合の際、被告人からハイツ闘争後は喫茶店「タイムス」で待つように指示されたのか、八月一三日未明喫茶店「やまき」において、甲野が中継連絡所に架電した際、相手から喫茶店「タイムス」で待てと指示されたのかはっきりしない。
  (2) 甲野は、他の客がいたので、会社員を装い、「商談は成立しなかった、今度は一四日に朝霞の方をセールスする、営業課に全部通知済みだ、その方面に詳しいセールスマンがいるので安心してくれ、もし一四日にセールスできなければその次の土曜日に販売する(ハイツ闘争で武器奪取できなかった、一四日に第一次朝霞闘争を敢行する、襲撃メンバーに指示をしてある、朝霞駐屯地に詳しい乙山がいるので安心されたい、第一次朝霞闘争が成功しなければ次の土曜日に再び同所を襲撃するという意味)。」などと言った。
  (3) これに対し、被告人は、武器奪取不成功について、だめじゃないかなどと文句を言って叱り、今度は絶対失敗するな、政治生命がかかっている、仕事をやり切らないうちは生きて敷居をまたいで来るななどと激励した(甲野56・11・30PS書21四一四五、56・12・9PS書21四二〇二、56・12・17KS書21四三〇八、57・8・16PS書22四三八七)。
 (五) 六期
 五期と同じ。
   2 供述出現の経緯
 供述出現の経緯については、逮捕後二週間ころの段階において、甲野は、自己の刑責を軽減させる意図で、被告人の名を隠さず、レストラン「アラスカ」、喫茶店「穂高」等において被告人から指示を受けたと供述していたこと、その段階における甲野の虚偽供述は八月一三日午後一時ころから「くじゃく」謀議を始めたというもので、同日午後八時ころとされる喫茶店「タイムス」への架電を供述しても右虚偽供述との矛盾は生じない状況にあったこと、にもかかわらず、喫茶店「タイムス」への架電は逮捕後四〇日以上にわたり供述されなかったこと、喫茶店「タイムス」への架電は、「くじゃく」謀議の撤回にともない突然新たに供述されたこと、「青冥」会合についての供述の変遷に対応して、喫茶店「タイムス」への架電についても変遷があること(喫茶店「タイムス」で、第一次朝霞闘争を独自に行う旨を伝えたという供述が、中国料理店「青冥」での打ち合わせどおり行う旨を伝えたという供述に変遷した)、喫茶店「タイムス」への架電に関する供述内容は、始めは詳細でなく、時の経過に連れて詳細になったこと等の事実が認められる。このような供述出現の経緯はやや不自然であり、喫茶店「タイムス」への架電は「くじゃく」謀議の撤回を契機に捏造されたとの弁護人の指摘を完全に否定することは困難である。
   3 架電約束の日時場所
 甲野供述は、喫茶店「タイムス」への架電の日時及び架電の約束をした日時、場所について変遷しているが、これについて、検察官は、日時の経過により証人の記憶が薄れたためであり、信用性を損なうものではなく、甲野がその他の点については、ほぼ同一内容の供述を維持している点から考えると、枝葉末節の食い違いにすぎないと主張する。
 甲野は、五六年の段階で、架電の約束を八月一三日の喫茶店「やまき」でしたという供述を勘違いであるとして撤回し、その後五七年に至り、右供述を復活させるとともに、新たに、八月一二日の喫茶店「穂高」において、被告人からハイツ闘争後は喫茶店「タイムス」で待つように指示されたかもしれない旨の供述をしており、単なる記憶の稀薄化では説明のつかない点も見受けられるが、日時の点については、前述のごとく、時間の経過により記憶が稀薄化し、供述が曖昧となることは日常生起することで決して不自然とはいえない。そうすると甲野供述は記憶の最も鮮明であった一期、二期当時の供述が最も記憶に近いものと考えられ、甲野供述によれば、八月一三日未明喫茶店「やまき」で中継連絡所に架電し、八月一三日午後八時ころ喫茶店「タイムス」で被告人から電話を受けたということとなる(なお、甲野の56・12・9PSの「やまき」供述の撤回は、八月一五日未明喫茶店「ヴィレッジゲート」において甲野がどこかに電話をしたとの乙山供述(乙山46・11・29KS書23四六六九、46・12・28PS書25五一四七)の影響を受けているとの見方も可能であるが、真相は判然としない)。
 また、八月一三日未明喫茶店「やまき」において甲野が電話をした事実は、当日甲野と同所にいた乙山、丁原、甲林、乙島のいずれの捜査供述によっても裏付けられない。
 ところで、Kは、八月一三日午後六ないし七時ころ被告人から電話を受け、飲む約束をし、銀座の朝日新聞社で待ち合わせた上、被告人とともに阿佐谷へ行き、駅前のパチンコ屋に入り一時間ほどパチンコをした上、同日午後九時ころ飲食店「パピヨン」に入り飲食し、その間被告人は「甲野は何かやるやると言っていたのに、何にもやらなかった、あかん奴だ、今日会う予定だったのに来なかった。」と言っていたと供述しているが(K47・1・30PS書34七一三三)、検察官主張のように右K供述が信用できるのであれば(この点については後出第五の一三参照)、甲野の右供述と抵触することは明らかである。また、甲海一介は八月一三日午後四時ころ被告人と有楽町で会い、付近及び池袋の「笹」で飲んで被告人を自宅に泊めたと供述している(七〇回証22七二三一)。K供述と甲海供述のいずれが信用できるかが問題であるが、この点は、後に判断することとし、いずれの供述をとるとしても、甲野供述とは相容れない。
 以上の点に関する甲野供述は、その変遷に合理的理由を見出せぬ部分もあり、関係者の供述と抵触あるいは合致しないものであって、信用性に疑問が残る。
   4 会話内容
 会話内容については、「もし一四日にセールスできなければその次の土曜日に販売する。」との発言は、実行前に失敗を想定した話をした点奇異であり、同一箇所を二度にわたって襲撃することは無謀な企てといわざるをえず、また、第一次朝霞闘争後直ちに七軒町派出所闘争に移行したという客観的事実とも整合しない。殊に一番問題とすべきは、ハイツ闘争が不成功に終わった原因について双方から一言も発言がなかった点である。「青冥」謀議で第一目標とされたハイツ闘争について、被告人には失敗の原因についての報告がなされないまま、朝霞闘争に移るというのは、はなはだ不自然であり、当時被告人は上京しており、八月一四日帰阪したのであるから、容易に会うことができたはずである。しかるに、この点については、何らふれることなく第一次朝霞闘争の実施が電話連絡のみで決定されたとの甲野供述は、不合理といわざるをえない。
   5 まとめ
 以上、喫茶店「タイムス」への架電に関する甲野供述は、信用性に疑問が残る。
  二〇 池亀方への架電
   1 供述の概要
 (一) 一期
  (1) 八月一六日喫茶店「くじゃく」において丙川らと最終謀議をし、八月一八日ころ甲野が丙川に電話した際、乙山、丁原に会うよう指示されたので、木更津で会った。
  (2) 八月一三日ころKの要請によりヘルメット等の撮影をさせた(甲野46・11・30KS書8一四四二、46・12・7PS書9一五九六)。
 (二) 二期
  (1) 八月一六日から八月一九日までの間に被告人から池亀方に電話がありびっくりした。
  (2) 被告人はKに会えと指示し、甲野が、セールスマンを装い、今度の土曜日に必ずセールスをやるなどと伝えた。被告人は、今度はかならずやり抜け、我々の政治生命がかかっているなどと激励した(甲野46・12・27KS(59丁)書10一九一四、46・12・30PS書11二一〇五、47・1・3KS書11二一二七、47・1・7KS書11二一八一、47・1・15PS書12二二六二)。
 なお、47・1・24PS書12二四八五で全面的に撤回された。
 (三) 五期
  (1) 喫茶店「ヴィレッジゲート」で中継連絡所に架電し、甲野が、被告人に連絡がつくかと尋ねたところ、相手から、今すぐはつかないがそちらの連絡先はどこかと言われたので、池亀方の電話番号を教えた。八月一四日から八月二〇日までの間に被告人から池亀方に電話があった。
  (2) 甲野が原稿の催促をされているように装い、一四日の締切に間に合わなかった、最終締切日はこんどの土曜日だから、必ず原稿を間に合わせるなどと朝霞駐屯地襲撃について述べ、七軒町派出所闘争の不成功も報告した。被告人から、Kに会えと指示され、こんどはしっかりやってくれなどと激励された(甲野56・10・22PS書19三八二七、56・11・30PS書21四一六二、56・12・17PS書21四三一三、57・8・16PS書22四三九六、57・8・23PS書22四四二二、57・8・24PS書22四四三〇、57・8・29PS書22四五二〇)。
 (四) 六期
  (1) 甲野は、八月一五日未明、七軒町派出所闘争後、喫茶店「ヴィレッジゲート」から、中継連絡所に架電し、被告人に会いたいとして、池亀方の電話番号を伝え、何月何日何時に甲野の名で呼び出してくれと依頼した。その後、八月二〇日ころまでの間に、予定どおり被告人から池亀方に電話連絡を受けた。
  (2) 会話内容は、Kに会えとの指示があったか判らないとなった外は、五期と同じ。
   2 供述変遷
 (一) 架電、Kと会う指示
 池亀方への架電及びKと会う指示は二期の途中において撤回され、五期で復活したものであるが、この点に関し、検察官は、甲野が捜査官と意思の疎通を欠き、また、池亀方への架電と喫茶店「タイムス」への架電との記憶の混同があったため、捜査官を十分納得させることができず、結局ふてくされた形でそのような撤回の供述となった旨主張し、甲野の供述もこれにそうものである。しかし、熊澤検察官に対する47・1・24PSには、今まで池亀方への架電を撤回せずに述べてきたのは、もし撤回すると本当のことを述べている点まで信用されなくなると思ったなど、撤回の理由が述べられており(書12二四八五)、八月二二日の被告人から池亀方への架電についても47・1・15PS(書12二二八〇)ではこれを認める供述をしたが、47・1・24PSで撤回し、更に57・8・25PS(書22四四四四)では同様の理由で再び認めたものの、57・8・28PS(書22四四六九)では再び47・1・24PSと同一の理由で撤回していることから考えても、ふてくされた結果の調書とは認められないし、記憶の混同についても、右供述時は犯行後わずか約五か月後であること、池亀謀議は、大家のいるところで襲撃の報告や今後の襲撃の決意などを伝えたというものであって、甲野は大家に悟られないようあれこれ考え、強い緊張下にあって応対したはずであって、その記憶は残り易いと考えられること、原稿の催促を装ったこと自体、甲野自らの発想に基づき行った特異な行動であって、忘却や混同が起こりにくい事柄と考えられること等に照らし、記憶の混同によるものとは考えられない。したがって、甲野供述は池亀方への架電の有無自体について供述が二転しており、しかも供述変転の合理的理由付けが見出せないのであるから、その信用性には重大な疑問があるといわざるをえない。
 (二) その他の変遷
 原稿を催促されているように装った点については、二期の撤回前の供述ではセールスマンを装ったとの供述をしており、喫茶店「ヴィレッジゲート」で伝言した点は、犯行後一〇年以上経ってから初めて供述されたものであり、このように長期間経過後初めて記憶が蘇ったと解するのは不自然であり、記憶再生についての特段の事情も甲野は述べていないのであり、経験した事実の供述というよりも、五六年に至って考えついた虚偽事実を語っている疑いを払拭するのは困難である。
   3 供述内容の不自然性
 更に、甲野供述の内容についてみるに、被告人からの連絡事項は極秘を要する事項となるはずであるのに、「白樺」方式を用いず、連絡先として下宿の大家の居室あるいは玄関にある呼び出し電話を指定したという点、実際に電話を受けた際大家のいるところで受け答えをしたという点、いずれも不自然である。
 また、甲野はハイツ闘争に続いて、第一次朝霞闘争、七軒町派出所襲撃いずれにも失敗しており、甲野と被告人との間では、この点についての報告及び失敗の理由の説明がまずなされるべき事柄と考えられるのに、甲野供述によれば単に失敗した旨の報告をし、本件闘争を敢行する旨告げ、被告人に激励されたということであり、喫茶店「タイムス」への架電以上に甲野らの言動は不可解と評せざるをえない。
   4 K供述との整合性
 「Kに会え。」という被告人の指示については、もしこのような指示があったとすると、被告人とKとの間で何らかの連絡等があってしかるべきところ、Kは捜査、公判を通じてそのような連絡があったとは供述しておらず、特に、47・1・28PS、47・1・30PS、47・1・31PS(書34七〇四七等)では、八月一三日飲食店「パピヨン」で被告人と飲食したこと、八月二二日に被告人から電話があったことを供述し、八月一五日から八月二〇日までの行動を詳細に供述しているのに、右連絡についてはこれを否定しているのであって、前記ヘルメット等を撮影した事実を認め、かつ、必ずしも客観的裏付けが十分でない被告人との接触状況までをも供述していたKが、この段階でことさら右連絡を秘匿したとは考えられず、甲野供述は右K供述と整合しない。
   5 供述の迫真性
 検察官は、甲野供述には、文筆家を装った遣り取りのように迫真性があり、供述全体の信用性を高めるものであると主張する。
 しかし、検察官が記憶の混乱等の結果供述されたとする二期の撤回前のセールスマンを装った遣り取りにも同様の迫真性が認められる上、既に2で検討したように文筆家云々の甲野供述は、供述経過から考えて、到底措信し難いので、これと異なる前提にたつ検察官の見解は採用できない。
   6 まとめ
 以上のとおり、池亀謀議に関する甲野供述は、供述内容に不自然な点が存し、供述の撤回及び広範囲にわたる不合理な供述の変遷があり、また、関係者の供述と符合しない点もあり、措信し難い。
  二一 本件発生後の池亀方への架電、予備校への架電
   1 供述の概要
 (一) 一期
  (1) 八月二二日の朝被告人から池亀方に電話があり、Kに急いで会え、話はKにしてあると指示されたので、八月二三日旅館「小富美」でKと会った。
  (2) 八月二四日N(朝日新聞社記者N)と中目黒で別れ、被告人に連絡をとるため喫茶店に入り、予備校に電話した。被告人は、闘争はペケだったが偉大な前進だ、今度上京するから会おう、Kとの連絡を切り、Jを通じて部隊の連絡をしろと指示された(甲野46・12・18供書10一七七七、46・12・25KS書10一九三八)。
 (二) 二期
  (1) 池亀方への電話は一期と同じ。ただし撤回されている。
  (2) 予備校への架電の経緯は、一〇〇番電話となっている外は一期と同じ。被告人は、よくやった、偉い、何で連絡をとらなかった、Kとの連絡は切ったか、これからはJを通せ、上京時に会おうと言った(甲野46・12・30PS書11二一一二、47・1・7KS書11二一八九、47・1・15PS書12二二八〇、47・1・17PS書12二三四九)。
 (三) 五期
  (1) 池亀方への電話の件は供述が混乱しており、最終的にはなかったと供述。
  (2) 予備校への架電の経緯は一期と同じ。被告人は銃の奪取はできなかったが、偉大な勝利だ、素晴らしいと言って大喜びしている様子だった。更にKとの連絡を切れ、今後はJを通せ、近日中に上京するので会おうと言われた(甲野56・11・30PS書21四一七四、56・12・17KS書21四三二八、57・8・25PS書22四四四四、57・8・28PS書22四四六九)。
 (四) 六期
 予備校への架電は五期と同じ。
   2 池亀方への架電
 八月二二日被告人から池亀方への架電の有無については、供述が二転、三転している。しかも甲野供述が変転しているのみならず、八月二二日朝の段階で被告人が本件犯行の発生を知っていたとの証拠は全く存しない。また、K供述も「甲野に会ったらよろしく伝えてくれ。」とNHKニュースを見た被告人から伝言を頼まれたという内容であり、甲野供述と合致しない。
 以上の点から考えると、池亀方への架電に関する甲野供述は全く措信し難い。
   3 予備校への架電
 架電したという事実そのものは被告人も認めるところであり、即時発信交換証(符19)により裏付けられている。
 その会話内容について、甲野供述は当初「よくやった。偉い。」と褒められたにすぎなかったものが、四期では偉大な勝利と変わっており、変遷が認められる。
 しかもKとの連絡については、K、J両名とも甲野供述に反する内容の供述をしている。すなわち、犯人隠避の嫌疑を恐れたJが、Kに対して、今後は甲野と直接連絡することを避け、Jを介するようにしろと助言し、それにKが従ったという内容である。右各供述内容は、新聞記者として合理的な行動であり、甲野供述のJ、Kが本件に深く係わっていたとの点は、前判示のところから明らかなように措信できない。したがって、K、Jの各供述は十分信用でき、これに反する甲野供述は措信し難い。
 会話内容中本件犯行の評価に関する部分については、甲野供述と被告人供述とは異なっており、その供述の信用性は、被告人の供述の信用性の項で併せて検討することとするが、甲野供述を前提としても、その供述内容は共謀を基礎付ける事実とはいえないことに留意すべきである。
  二二 浅草
   1 供述の概要
 (一) 一期
 Jから被告人と会えと言われ、九月五日浅草のデパート屋上で被告人と会った。バス、タクシーに乗り、近くの飲屋に行った。被告人は、ドッキングの失敗でペケになった、実行メンバーは優秀な奴だから党員にしよう、これからは三里塚、沖繩でドンパチ進撃する、職員寮のドンは同時峰起だ、これからは長いのと丸いのとの二本建てだ、スウェーデンに飛んで左翼としての修業をやれ、それまで大阪に来て、和歌山の部落に潜れ、金は甲岡二介に頼んでいる、プロパガンダと資金稼ぎに記事を売り込めなどと言われた。その後プレイボーイ誌記者に売り込んだ(甲野46・12・14PS書9一六九七、46・12・18供書9一七七七)。
 (二) 二期
 Jから被告人の指示を受けろと言われ、九月五日浅草の松屋デパート屋上で被告人と会った。バス、タクシーに乗り、近くの飲屋に行った。被告人からよくやったと褒められ、連絡がないので心配したと言われた。また、メンバーは党員にする、八・二一、二二は自衛隊警察解体闘争として総括する、赤衛軍の闘いは開始された、スウェーデンに飛べ、大阪に着いたら戊野プロの指示を受けて和歌山の部落に行け、その間にパスポート、資金を入手する、金は甲岡と交渉中だ、柔らかい雑誌に記事を売り込めと言われた。その後プレイボーイ誌記者に記事の話を持ち込んだ(甲野46・12・27PS書10一九九五、46・12・30PS書11二一一四、47・1・3KS書11二一一七、47・1・7KS書11二一九〇、47・1・20PS書12二三六八)。
 (三) 五期
  (1) 飲屋に至る経緯は二期と同じ。
  (2) 被告人は赤衛軍の偉大な勝利と本件を総括し、第二、第三の朝霞をやり、爆発物による要人テロも準備していると述べた。またスウェーデンへの逃亡を指示され、東京→松本→名古屋→和歌山のルートを使い、部落に一時潜伏し、時期をみて国外に脱出しろと言われた(甲野56・11・30PS書21四一七五、56・12・17KS書21四三三〇、57・8・28PS書22四四七二)。
 (四) 六期
  (1) 飲屋に至る経緯は二期と同じ。
  (2) 被告人は、偉大な勝利だ、銃奪取はできなかったけれども警備兵を殺害したことで、政府、治安、警備当局に打撃を与え、深刻な社会不安を引き起こした、暴力革命を目指す革命勢力の士気を大いに高揚させたという点で銃の奪取はできなかったが、結果的には銃奪取に成功したか、ないしはそれ以上の政治的効果及び革命的意義があると評価した。そして、今後も銃器奪取闘争をやるべきだがいま暫く情勢を見よう、Kが警察の事情聴取を受けている、捜査が段々身辺に迫っているから国外へ逃亡しろ、東京、松本、名古屋という経路で東京を脱出して、連絡をとりながら和歌山の部落に一時潜伏せよ、と言い、国外逃亡を何度も説得した。逃亡先として、中国、スウェーデンが出た。最終的には国外に逃亡することで同意し、早急に東京を脱出することになった。
   2 逃亡ルート
 逃亡先として中国を例示されたという点は、本件の公判に至り初めて供述されたものである。それまでの一一年間、甲野がこれをことさら隠す理由は見出せず、仮に、当初から忘却し、何度となく繰り返された取調の際にも思い出さなかったのであるなら、本件公判に至り突然思い出せるはずはなく、右供述が真実の記憶に基づくものとは認められない。
 逃亡ルートについて、当初は大阪→和歌山となっていたが、五期に至り、松本→名古屋→和歌山となり、戊野プロの指示を受けろとの点が供述されなくなっており、これも右中国の点と同様に真実の記憶に基づく供述とは認められない。
 松本ルートについては、後に述べるように被告人の指示で松本に行ったとは解し難いので、この点についての甲野供述は措信し難い。
 逃亡先としてスウェーデンを例示されたという点は、被告人において同所に受け入れの心当たりがあることを窺わせる証拠はなく、不自然である。
 大阪→和歌山については、KもJも九月あるいは一〇月にそれぞれ関西の部落に一時甲野を隠して国外に逃亡させると被告人が述べたと供述しており、甲野供述と符合するので、この点については、甲野供述は信用できる。
   3 本件の評価等
 本件の評価及び今後の行動に関する部分については、被告人の供述と符合しない。
 前述のように、謀議に関する甲野供述は措信し難いところであるが、被告人は暴力革命を目指し、従来の新左翼運動を超える過激な武装闘争を主張していた者であるから、本件についても、前記の予備校への架電程度の会話(本件を積極的に評価し、甲野を褒める会話)はあったとしても、その余の部分については甲野供述の信用性には疑問が残るといわざるをえない。
   4 プロパガンダの指示
 甲野は一貫して被告人から記事を売り込めと指示されたと供述する。しかしながら、Kは、既に八月二三日に旅館「小富美」で甲野から平凡パンチやプレイボーイの発行社に知っている記者がいないかと聞かれたと供述しており(K47・1・28PS書34七〇六九)、K供述には不自然な点も窺われず信用できるものと認められるので、これに反する甲野供述は措信し難い。
  二三 松本からの架電
   1 供述の概要
 (一) 二期
 特別の目的もなかったが、松本に行き、一〇〇番電話で予備校に電話した。被告人に松本まで来ているが警察の尾行がきつくて行けないと嘘を言った(甲野47・1・3KS書11二一三八)。
 (二) 五期
 被告人の指示に従い松本に行った。一〇〇番電話で予備校に電話した。被告人に松本まで辿り着いたが、尾行があり動きがとれないと言うと、何をもたもたしている、早く国外逃亡しないとこっちも危ない、被告人のみならず他の者が皆迷惑すると叱責され、腹が立ったので電話を切って帰京した(甲野56・11・30PS書21四一七九、56・12・17KS書21四三三五)。
 (三) 六期
 五期と同じ。
   2 供述変遷の不自然性
 松本からの架電は、二期から供述されはじめたが、松本行きを被告人の指示に従った行動とする点は五期に至り初めて供述されたものである。既に二期において、松本行き、松本から架電した事実について供述していることから考えると、五期、六期供述は記憶の回復によるものとは解されず、被告人の指示、命令を基調とする五期、六期供述は、記憶に基づく供述とはいえず、措信し難い。
   3 二期供述
 架電した後、甲野が被告人宛に書こうとした手紙の下書によると、被告人との連絡を断つ原因となった被告人の発言は、「ほんまかいな。」というものであり(符72)、これが甲野の脳裏に強く印象に残ったものと認められ、二期における甲野供述は、外国に行きたくなかったので尾行がきついと嘘を言ったところ、被告人から都内から架電しているのではないかと疑われたというもので、前記下書とも整合しうるものである。
 更に、甲野は松本へ行くに際し、身辺整理等をなした形跡はなく、東京を出発する際受け入れ準備等について被告人側と連絡をとっていず、松本から直ちに帰京していることをも併せ考慮すると、二期供述は、これらの諸状況にも合致するもので信用できる。
  二四 K写真撮影、旅館「小富美」
   1 供述の概要
 (一) 一期
  (1) 被告人からプロパガンダのためKと会えと指示された。Kはメンバーと会いたいと言ったが、これを断り、乙島の下宿で犯行準備の状況を写真撮影させた。Kは、この間駄目だったな、二箇所同時蜂起は難しいなと言っていた。
  (2) 被告人の指示で八月二三日Kと旅館「小富美」で会った。Kは、銃を持って来い、社旗を立てた社用車で安全確実な方法で運ぶと言ったので、丁原に奪った警衛腕章を持って来させた。Kが被告人に言われているので責任をもって保管すると言うので警衛腕章を渡した。Kは、今ごろ被告人は祝杯をあげているとも言っていた。事件の内容については詳しく話していない(甲野46・11・25KS書7一三〇三、46・12・7PS書9一五九六、46・12・27KS書10一八九八)。
 (二) 二期
  (1) 被告人の指示でKに写真を撮らせた。計画の内容については話していない。Kが写真を撮った目的は判らない。被告人としては特ダネを与えるつもりだったかもしれない。
  (2) 被告人の指示で旅館「小富美」でKと会ったと供述したのは嘘である。
 Kが鉄砲あるのか、持って来い、社用車で運ぶと言ったので、丁原に警衛腕章を持って来させて渡した。Kは被告人から全部聞いている、腕章は焼却すると言った。
 N記者の家で、Kから甲野は上と下の中間だから完黙しろと言われ、逃走費として五万円受け取った(甲野46・12・30PS書11二一〇五、47・1・15PS書12二二六五、47・1・17PS書12二三二八、47・1・24PS書12二四八七)。
 (三) 四期
  (1) 自衛隊の弾薬庫から武器弾薬を奪う作戦をやると話したところ、Kが見せてくれと言うので、八月一九日乙島の下宿でKに写真を撮らせた。
  (2) Kが見せてくれと言うので、八月二三日旅館「小富美」でKに警衛腕章を撮影させた。甲野自身は宣伝をするつもりではなかった。Kが焼却すると言うのでお願いした。Kから逃走用のカンパとして五万円受け取った(甲野一審二四回49・4・4書16三三四五)。
 (四) 五期
  (1) 被告人の指示で八月一九日プロパガンダのためKに写真を撮らせた。
  (2) Kから被告人が本件を朝日ジャーナルの記事にしたい意向なので至急会いたいと言われ、八月二三日Kと会った。Kから被告人が祝杯をあげて大喜びしているとの電話を架けてきたと聞いた。事件の内容や赤衛軍の組織についてKのインタビューを受け、奪取物を見たいと言うので、丁原に警衛腕章を持って来させて渡した。五万円位のカンパを貰った(甲野56・11・30PS書21四一六二、56・12・17KS書21四三一四)。
 (五) 六期
  (1) 事件後のプロパガンダをさせるために、八月一九日ころ乙島の下宿でKに写真を撮らせた。
  (2) 事件直後Kに電話して本件を敢行したと言い、八月二三日旅館「小富美」で同人と会った。甲野としてはプロパガンダが目的である。Kに本件の内容について説明し、奪取物を見たいと言うので丁原に警衛腕章を持って来させ、渡した。Kは、被告人から電話があり、素晴らしい偉大な勝利だ、今祝杯をあげている、明日連絡をとれとの伝言があったと知らせてくれた。取材料という建前でKから五万円貰った。
   2 甲野供述の信用性
 一期供述は、Kも「赤衛軍」の一員であり、被告人の指示によりプロパガンダ担当員として行動したとの趣旨の供述であるが、本件証拠上明らかなように、Kが「赤衛軍」の一員として行動したものとは到底いえず、これに反する一期供述は信用できない。
 二期以降の供述においても、Kは被告人と気脈を通じて「赤衛軍」を側面から援助しているものとして捉えられているが、K及び被告人はいずれもこれを否定している。また、警衛腕章も甲野、被告人らと全く関係のない朝日新聞社社員が処分していること、Kの作成した取材ノート(符47)は甲野供述とは大きく食い違っていること、丁原供述も旅館「小富美」での状況について甲野供述とは符合しないこと等を考慮すると甲野供述は措信し難い。
   3 K供述
 これに比し、K供述は、首尾一貫しており、取材ノートの裏付けもあり、その信用性は高いものと解される。
 右K供述によると以下の事実が認められる。
 (一) 甲野は八月一九日ころ、乙島の下宿で犯行準備の状況をKに写真撮影させた上、京浜安保共闘と手を切り、日本共産党「赤衛軍」という独自の組織を作り、今度の土曜日に朝霞基地に侵入して武器を奪取すると告げ、本件犯行を予告した。
 (二) 八月二三日旅館「小富美」において、Kの取材に応じ次のように述べた。
  (1) 自分は日本共産党人民軍事委員会の一員である。宮本修正主義とは別の体質だが、別の組織とはいえない。六全協により党をパージされた部分等からなっている。
  (2) 本件は銃器と弾薬の奪取が目的である。六月末か七月にかけて計画をたてた。
  (3) 「赤衛軍」は、六月に結成され、メンバーは五〇名前後である。毛沢東に多くを学んでいる。
  (4) 自衛隊員を殺したことにより、京浜安保共闘の甲沼君の仇をとることができた。
   4 まとめ
 右認定事実によると、甲野の説明には、京浜安保共闘の色彩が色濃くあらわれていることが明らかである。これまで検討してきた甲野供述の日本共産党「赤衛軍」の説明とは趣を異にしており、被告人の関与については全く言及されていない点が注目される。
 Kの取材は、本件犯行の直前、直後であり、甲野は自らの活動を宣伝するために取材に応じたものと解されるが、自己の宣伝内容が実態と全く別個なものであれば、宣伝効果は全く期待できないといわざるをえない。そうすると、Kの取材内容が、従来の甲野供述と全く異なることは、甲野供述の信用性に疑念を投げかけるものといえる。
  二五 「プレイボーイ」誌記者の取材
   1 供述の概要
 (一) 「プレイボーイ」の記事は、誇張された部分もあるが、大体話したとおりに記載されている、また記者にヘッドはO・Tと明かしたと一貫して述べている(甲野46・12・14PS書9一七〇二、47・1・20PS書12二三八二)。
 (二) 同誌(符50)によるとその内容は次のとおりである。
 甲野は、日本共産党中央委員会の資金調達、兵站部の責任者である。現場には三軍団配置し、アジト確保と周辺待機の軍団、遊撃戦用の軍団もいた。甲野は関西の人間で、現場にいなかったので詳しくは知らない。二か月前から下見をした。武器奪取が目的だったが、失敗と自己批判している。甲林松子や京大の甲月の死も考えて欲しい。四五年末に党を結成した。ルンプロと学生中心の非合法組織だ。五月末から七月にかけて軍団が組織された。議長は名を知られた文化人だ。関東方面軍、関西方面軍合わせて約一〇〇人おり、拠点は関西の数校だ。毛沢東思想で理論武装し、遊撃戦を基本戦略としている。次の目標は、第二、第三の朝霞を決行することだ。テロを高く評価している。
   2 検討
 右記事によると、「赤衛軍」の主力は関西であり、議長は著名な文化人であるとされており、京浜安保共闘の影を全くひきずっていず、前記のK取材とはその党派の傾向が全く異なっている。
 大筋において甲野供述に最も合致している内容であり、甲野供述の前触れとも評しうるものである。したがって、今まで検討してきた甲野供述の信用性と同様その信用性には問題が残るといわざるをえない。
  二六 まとめ
 検察官は、甲野供述に変遷があると言っても被告人の著述を読んで関心をいだいた被告人を紹介され、その革命に対する情熱に感激し、あるいは心酔し、ついにはその革命構想に必要とされるメンバーの確保を指示され、被告人の著述で丁原、乙島らに対する革命思想の教育を行い、甲林を介して乙山から持ち込まれた武器奪取闘争の話を被告人に話し、被告人の指示で乙山と密談を重ね、その結果をふまえて被告人から本件一連の犯行の実行の指令を受け、あるいは激励され、乙山、丁原らをしてハイツを襲撃させたものの失敗に終わり被告人に叱責され、第一次朝霞、七軒町派出所の襲撃にも失敗して被告人から本件敢行の激を受け本件犯行を敢行させたという大筋において、甲野の自白が一貫していることに重要な意義があるというべきであると主張する。更に、甲野供述の、調書の記載からみると、まず、当初から自己が関与した全事件を打ち明けて自白するというのではなく、隠しきれないと思った事実について小出しに順次自白するという供述態度をとっていたのである。
 また、甲野は、本件犯行状況のみではなく、日本暴力革命のためのゲリラ部隊の建設、「赤衛軍」建軍の経緯、「白樺」方式による連絡方法の確立、乙山の身上調査報告書作成の経緯、国外脱出を強いられた状況についても詳しく供述しており、それが乙沢八郎証言、朝日ジャーナル、レジスターカード、電報用紙、Kメモ、K検面、丙山証言によって裏付けられ、相互にその信用性を高めており、甲野供述は全体として信用できると主張する。
 しかしながら、被告人と甲野の出会いから甲野の逃亡に関する話まで、及び甲野のマスコミとのインタビュー等各項目毎に甲野供述を詳細に検討してきたところから明らかなように、検察官の右主張に左袒することはできない。
 何故ならば、甲野供述は、検察官の主張する謀議経過に関しては全く信用できないところである。わずかに四月から六月にかけての被告人との接触状況及び甲野の逃亡に関する話について一部その供述の信用性が認められるにすぎないのである。したがって、甲野供述中信用性が肯定される部分を総合しても、甲野が被告人と新左翼の活動家として一致協力していこうと意思の一致をみたこと及び被告人が甲野の逃亡を画策したことが認められるにすぎず、甲野と被告人との共謀を右事実によって認定することは到底できないからである。
第四 乙山供述の信用性
  一 乙山供述の概要
   1 旧供述
 乙山は、四六年一一月二五日逮捕されたが、逮捕当初から自己の公判段階まで、ほぼ同趣旨の供述をしていた。その大略は次のとおりである。
 (一) 乙山は自衛官を退職した後、金に困り、四六年五月ころ、東京都品川区大井町所在の骨董屋に自衛官の古い制服や装備を買ってくれないかと持ちかけたところ、一〇〇点から二〇〇点まとまらないと買わないと言われ、売買に至らなかった。
 その間、乙山は自衛隊勤務当時の同僚丁谷に、自衛官の制服を盗んで、売る商売をしようと持ちかけていた。
 (二) 乙山は六月中旬中央電測企業株式会社に就職し、勤務先の同僚甲林と知り合った。同人が学生時代に学生運動にかかわっていたことを知り、六月下旬ころ、甲林に「山口や朝霞の自衛隊の情報なら知っている。今金に困っているので、この情報を買ってくれる人はいないか。」などと話し、自衛隊の情報の買手紹介を依頼した。
 (三) そのころ、乙山は丁谷に自衛官の作業服四着の調達を頼んだ。
 (四) 七月上旬、甲林から、買う人が見付かったので、相手と会う日時場所を決めてくれと言われ、七月一二日喫茶店「ヴィクトリア」で相手と会うことになった。
 (五) 当日、喫茶店「ヴィクトリア」で甲林とともに甲野と会った。甲野は京都大学の助手で京浜安保共闘、赤軍の政治局員もしていると自己紹介した。乙山は自衛官の制服、装備等を売り込む話をし、その際、制服制帽で自衛官に変装すれば基地に侵入できるので、武器を奪ったらどうかとか朝霞駐屯地の反戦自衛官の話もした。また、朝霞の弾薬庫や正門の図面等を書いて説明し、冬期訓練の話もした。
 甲野は、自衛官の作業服四組を一〇万円から二〇万円で買うことを承諾し、乙山は七月二〇日までに自衛官の作業服等を揃えることとなり、手付金として二万五〇〇〇円受け取り、甲野と別れた。喫茶店「ヴィクトリア」には一時間位いた。
 (六) その後、日ははっきりしないが、丁谷の自室で同人から朝霞の弾薬庫内部の模様や吉井の弾薬庫の話等を聞いた。
 (七) 甲野がまた会いたいと言うので、乙山は七月二六日ころ甲林とともに喫茶店「にしむら」で甲野と会った。乙山が二五万円位貰いたいと言うと、甲野は三〇万円出すから早急に手に入れてくれと要求した。乙山は必要な経費の説明をし、情報及び制服等の売買から制服等の売買に話を変え、納期限を七月三一日に延ばした。甲野にRGかと尋ねる等したが、会っていた時間は一〇分から一五分位だった。甲野から今後はホテルを使おうと言われた。
 (八) 他方丁谷に自衛官の制服等の入手方を催促し、八月一〇日にはこれを全部取り揃えた。
 (九) 乙山は、八月一二日、喫茶店「じゅらく」に呼び出された後、上野駅荷物預り所から取り揃えた自衛官の制服等を受け取り、これを甲野に引き渡すため、甲林に連れられて帝国ホテルへ赴いた。しかし、同ホテル内で検品はしたものの残代金を支払ってもらえないばかりか、甲野から調査報告書を見せられ、脅迫されたため、やむなくハイツ闘争から本件犯行まで加担することとなった。
   2 新供述
 (一) 乙山は服役中の五六年一一月、従前三〇万円は自衛官の制服等の売買代金と供述したのは嘘で、自衛官の制服等を引き渡し、犯行の手引をし、また、情報を提供したりする全ての代金であると供述を変え、自己の仲間を庇うために嘘をついたと弁解した。
 (二) 次に、五七年八月、甲林に右取引の話を持ち込んだ動機・目的について、従前供述した金目当てということに加え、部外者が基地内に入り違法行為をすれば、世論は自衛隊の怠慢を非難し、その原因は自衛隊を継子扱いしているからだと悟り、憲法改正の機運が高まると考えたからであると供述した。喫茶店「ヴィクトリア」における会話内容についても、反戦自衛官組織は一〇数名で、乙山はパイプ役である、乙山の組織で小銃や弾薬を奪い取る計画がある等と話し、甲野が共闘を申し込んだが、これを断り、援助、手引ならしてやると答え、また、ハイツ闘争についても話をしたと供述を変え、ハイツ闘争後は甲野に脅迫されて加担したものではないと述べた。供述変遷の理由については、右の点を供述すると、喫茶店「ヴィクトリア」で基地侵入と武器奪取の話を持ちかけたことを説明しなければならず、乙山自身の刑責軽減のため嘘をついたと弁解する。
 (三) 更に、五八年には以下のとおり供述した。
  (1) 自衛隊の在り方について、乙山の考えている自主防衛、戦略防衛のための自衛隊を社会的に認知してもらう方法として、まず、統合幕僚会議々長等の要人を誘拐して自己批判させることを考えたが、これは断念した。真岡猟銃強奪事件を契機に世論に衝撃を与えるためには、新左翼の過激派に銃を奪取させればよいと考えたが、弾薬の奪取まではさせないつもりだった。
  (2) この計画を実行するため自衛隊を退職した。五月大井町の骨董屋が超過激派であるとの噂があったので、自衛隊の古い作業衣を買わないかと持ちかけたが、過激派と思われなかったので、この話は立ち消えとなった。
  (3) 六月下旬ころ、甲林に対し、自衛官の装備一式を買い過激派の人達が中に入れば、自衛隊から大量の武器がとれる、乙山が手引してやるから過激派の幹部を紹介してくれ、資金と筋金入りの闘士を出してもらいたいなどと持ちかけた。
  (4) 七月一二日喫茶店「ヴィクトリア」において、甲野に対し、乙山自身は違憲論者で自衛隊改革もしたい、甲野の方も武器がいるだろうから利害関係が一致するんじゃないか、人と資金を出せ、そしたらお膳立てしてやるなどと言った。更に、朝霞駐屯地、吉井弾薬庫、高崎演習場の状況、武器奪取方法等を説明し、共闘を申し出た甲野から手付金名下に現金二万五〇〇〇円を受け取った。
  (5) 七月二六日ころ、喫茶店「にしむら」において、攻撃目標は朝霞にすること、制服を八月下旬くらいまでに用意すること、甲野側の拠出額を三〇万円に上げること、乙山が全面的に手引することなどを話した。
  (6) 八月一二日帝国ホテルに制服を持参したところ、甲野から脅され、また、自ら考えるところもあって、ハイツ闘争等の各闘争に参加した。
  (7) 五七年八月に違法行為の具体的計画はなかったと供述したのは、自衛隊員や情報提供者に迷惑がかかると思い、そこまで真実を話す決心がつかなかったからである。逮捕直前に作成したノート(59・1・25PS書31六三二九に写しが添付されている。)には真相を隠すため、故意に制服売買の話であったとの記載をした。
 (四) 当公判廷では大概五八年と同旨の供述をしている。
  二 新供述の信用性
   1 供述変遷の理由
 (一) 検察官は、乙山が強盗殺人という極刑が予想される重大事件の嫌疑をかけられたことから、判決前は極力自己防衛のため責任を甲野に転嫁する供述をしたものであり、判決確定後はそのような必要がなくなり、しかも乙山は被告人とは何ら特別の利害関係を持たない者であるから、新供述の方が真実であると主張する。
 (二) そこで供述変遷の合理性について検討を加える。
 乙山の新供述は、乙山が甲林に話をした目的にはじまり本件犯行に至るまで、従前の旧供述とは全く異なるものである。しかも本件犯行から約一一年後の五七年に至って供述がはじまり、五七年の供述と五八年の供述とは内容的にも相当相違している。
 (三) 乙山は、自己の捜査、公判において真実を供述しなかった理由について、他の人に迷惑をかけたくなかったこと、自己の責任を軽減したかったことなどを供述し、五七年のPSでも真相を語らなかったのは自衛隊員や情報提供者への迷惑を考えたと述べている。
 関係者への迷惑については、制服入手の関係者である丁谷、甲江、乙海の名を逮捕当日から供述していたことと矛盾し、右の者以外に乙山に情報を提供した者の存在を窺わせる証拠は乙山の新供述以外全く存せず、五七年PSについての弁解も首肯し難い。
 刑責軽減の点については、なるほど、乙山が自己の捜査、公判において、責任の軽減を意図していたことは認められる。しかし、乙山は、捜査の比較的早い段階で、甲野に脅された上、自衛官の殺害を指示され、乙山自身も殺意を持って実行したかのような供述をし(46・12・7PS書24四八二五、なお、この点について頭が混乱していたとの乙山証言(三〇回証12三三八七)は不合理で信用できない。)、その後殺意を否定する供述になったと認められる。自衛隊認知の目的は自衛官殺害の意思を否定する一材料となりうるものであるし、実際にも、新供述の内容は、自衛隊を憲法上認知させる目的で武器奪取計画を持ち込んだが、八月二一日の実行という甲野の指示は、乙山の計画より早すぎることなどのため、乙山において本件で武器を奪取する意図はなく、ビラ等を現場に置いてプロパガンダの実績をつくる意図で本件に参加した、したがって自衛官の殺傷は目的としていないというものである。これと同様の供述をすることは自己の責任軽減の材料ともなりえたはずであるにもかかわらず、これを従前一切供述しなかったのは不自然である。
 (四) また、乙山は、喫茶店「ヴィクトリア」での会合後、甲林に架電した際、甲野の実像が完全につかめず不安があったことから、いざというときを考えて、甲林に対し、本心は金銭目的で自衛隊の服を売買するつもりであるので、甲野に対してもそのように伝えてほしいと依頼したと供述した(乙山58・12・25PS書31六二六七。)しかし、甲林が甲野に対しその依頼に沿うような話をしたことを裏付ける証拠はなく、喫茶店「ヴィクトリア」では、甲野が乙山の話を持ち帰って検討することになっていたのに、その検討中に乙山自らその話は一部分嘘であったことを伝えさせようとしたというのは、いかにも不自然であり、措信し難い。
 (五) 更に、新供述では、乙山が中央電測企業株式会社に提出した履歴書に下関高校卒、広島大学理学部数学科中退と虚偽の記載をしたのは履歴書を悪用されるのを防止するためである(58・12・2425PS書31六二二六)、喫茶店「ヴィクトリア」で乙山を手伝ってくれる者について一〇人から二〇人位いると話したが、乙山自身実際にその位の人間が動くと判断していた(二九回証11三一七六)、喫茶店「にしむら」で甲野に対し乙山の提案が不満であるなら手付金を返し引き下がらせてもらうと言った(58・12・2425PS書31六二七〇)、第一次朝霞闘争について乙山は警衛の交替時間が八時三〇分であるという話を創作して甲野の命令をつぶした(三〇回証12三二六二)、スナック「光」で甲野が甲野の側にはひよこみたいなメンバーしか残っていないため乙山の力を借りたいと言った(三〇回証12三二六八)、喫茶店「ヴィレッジゲート」で乙山が自分は京大の先生ではなく組織の中間程度の者でしかないと言った(三〇回証12三二九七)、九月九日甲野が乙山に対していろいろ迷惑をかけてすまなかったと言った(三〇回証12三三八〇)などと新たな事実を供述している。しかし、これらの事実は乙山自身の責任の軽重とは直接結びつかない事実であって、しかも関係者の供述等とは整合せず信用性の低いものと認められる。
 右供述は、乙山自身の立場を合理化し、いわば格好をつける効果を持つものであり、このような意図に基づくと見られる事項が新供述全体にわたり多数存するのである。自己に対する裁判確定後であれば、多少大きなことを言っても二重に処罰されることはないところ、これらの供述は、正に判決確定後に初めて現われたものであり、格好をつけるためになされた可能性を排斥できない。
 (六) したがって新供述をするに至った理由についての乙山の弁解は到底首肯できない。
   2 関係者の供述等との整合性
 (一) 新供述は、甲林を介して甲野に対し、武器奪取行為の手引等する話を持ち込んだ政治的目的について述べているが、乙山が自衛隊在職当時その新供述で述べたような考えを持っていたことを裏付ける証拠が全く存しないのみならず、五月に骨董屋に古い作業衣を買わないかと持ちかけ、元同僚の丁谷に自衛隊の物資を盗んで売り払おうと持ちかけたことと明らかに矛盾するものである。
 もっとも、乙山は、骨董屋に自衛隊の装備の売買を持ちかけた動機について、その骨董屋が超過激派であるという噂があったので反応を見に行ったにすぎず、また、丁谷に自衛隊の物資の入手方を依頼した際金もうけが目的のように言い繕った動機について、丁谷に迷惑をかけないために真意を告げなかったと供述するが、前者はその内容が非常に奇矯であり、後者は、入手すべき物品は衣類なら何でもいいと依頼していることなど、依頼内容が武器奪取計画と合致せず、右弁解は全く首肯できない。
 (二) 丁谷供述
  (1) 次に、乙山は喫茶店「ヴィクトリア」の会合以前から既に武器奪取計画を立案していて、右会合において甲野に武器奪取の方法を教えたとの新供述については、一見これを一部裏付けるような丁谷の供述が存する。
 丁谷は、<1>六月末か七月初めころの午後六時ころ、上野の喫茶店「ファンタジー」において、乙山から、制服三着及び身分証明書三人分手に入れてくれ、組織で弾薬庫を狙うなどと言われた(丁谷46・12・15PS書37七八〇五)、<2>七月一〇日ころの午後六時ころ、新宿の喫茶店において、乙山から、今組織の仲間三人を連れてきた、ピストルを売ってきた、自分はあるところの政治局員でRGの第三書記をやったこともある、仲間には殺しを何とも思わないやつがいる、自分たちはピストルを相当持っている、自衛隊の小銃が一丁でもあれば工場で製造することも可能であるなどと言われた(丁谷46・12・10PS書37七七七七)。
 しかしながら、乙山は右<1>については、丁谷が左翼的考えを有していたので、同人を利用するために左翼運動に関係しているような芝居を打ったと供述しているのであり、右弁解は丁谷の言動とも合致し、十分措信でき、丁谷供述は、この点についての裏付け証拠とはいえない。
 また、<2>については、まつばら荘の営業日誌(符73)の七月一〇日欄には乙山が出かけたとの記載はない。右<2>の会合の会話内容からみると、乙山が甲野と会った日(七月一二日)以前からその会話内容にあるような発想をしていたとは解し難く、捜査段階で乙山は新宿の喫茶店での会合時期を喫茶店「にしむら」会合の後(七月末ころ)とし、話の内容は甲野の話の受け売りであると供述しており(乙山46・12・11PS書24四八九七)、右会話内容から考えると、この乙山供述の方が自然であることに照らし、右<2>の丁谷供述も、話の内容は別としても、少なくともその会合日時については措信し難い。
  (2) また、丁谷は喫茶店「ヴィクトリア」の会合直後の七月一四日ないし一五日ころ、神田の丁谷の居所で、乙山から、自衛隊の銃が欲しい、どこかとれるところはないかと相談され、自己の自衛隊勤務経験に基づき、演習部隊が野外演習している時なら取れるかもしれないこと、野外演習は冬期に勝田、宇都宮等でやること、吉井弾薬庫のことを話し、更に、朝霞駐屯地の弾薬庫の状況を、その位置図、内部図面を書いて説明したと供述する(丁谷46・12・10PS書37七七八三)。
 この点乙山供述の中には、右会話時期を甲林に話を持ちかけたころとするものがあるが(乙山46・12・10KS書24四八七〇)、右供述には変遷がある上、事前に銃器奪取場所の情報を聞いていたのなら、喫茶店「ヴィクトリア」で高崎射撃場という丁谷から聞いたことのない施設を持ち出した点不自然であり、右乙山供述は信用できず、この点に関しては丁谷供述が具体的で十分信用できる。
  (3) したがって、丁谷供述を全体的に把えると、「ヴィクトリア」会合以前に乙山が武器奪取計画を有していたことを窺わせるものとはいえず、新供述はこの点についても裏付け証拠を欠くものである。
 (三) 甲野供述
 検察官は、乙山の新供述は、甲野供述と武器奪取の話を持ち込んだ動機、ハイツ闘争における事前告知の有無、本件犯行に対する甲野の指示についてのわずか三点相違しているにすぎず、これらはいずれも枝葉末節的な事項であり、大筋においては一致しており、その信用性は高く、甲野供述を裏付けていると主張する。
 これに対して弁護人は、新供述は甲野供述とは検察官の指摘する三点以外にも無数の相違点が存し、信用性は著しく稀薄であると主張する。
 ところで、甲野供述は、乙山を反戦自衛官組織のリーダーで、武器奪取計画を有している者とし、乙山の行動を左翼運動として把握していることは明らかである。しかるに、乙山の新供述では、乙山は、自主防衛のための自衛隊を社会的に認知させ、憲法改正の機運を醸し出すためには、世間に衝撃を与えて世論を高揚させる要があり、そのため新左翼に武器を奪取させることを考えて、甲野に共闘を申し込んだとしており、右翼の運動であることは明瞭である。
 したがって、両者の供述は明らかに相反するものと断ぜざるをえない。
 なお、検察官は、乙山が自己の内心をあますところなく甲野に話したか否か疑問が残ると説くが、乙山は新供述において、喫茶店「ヴィクトリア」で甲野に違憲論者で自衛隊改革もしたいなどと述べたと供述しており、検察官の主張は、喫茶店「ヴィクトリア」における会話内容に関する新供述そのものと相容れないものであり、到底採用できない。
 (四) 甲林供述
 甲林は乙山の話は自衛官の制服等売買の話だったと一貫して供述しており、新供述と相容れないことはいうまでもない。
 (五) 以上のとおり、新供述は関係者の供述とは全く合致しないものである。
   3 乙山の現実の行動との整合性
 (一) ハイツ闘争については、甲野からこれらの闘争を指示された際、乙山において、朝霞駐屯地等自衛隊施設を目標とするよう主張した形跡はなく、乙山の現実の行動は、自主防衛のための自衛隊を認知させるという目的と合致していない。
 (二) また、朝霞駐屯地の弾薬庫には武器が保管されていないが、甲野は弾薬庫から武器が奪えると信じていたのに(この点は、乙山が情報を不正確に伝えたためか、甲野が聞き違えたためか定かではない。)、乙山は、この甲野の間違いを訂正しないまま本件犯行に臨み、朝霞駐屯地に侵入した後、武器庫ないし弾薬庫から武器を奪おうとはしなかった。
 このように乙山の現実の行動は、自衛隊からの武器奪取を本気で考えていた者の行動とはいい難い。
   4 まとめ
 以上検討したところから明らかなように新供述は事件発生から約一一年ないし一二年後に突如供述されたものであり、供述変遷の合理的理由が認められず、関係者の供述とも合致せず、乙山の現実の行動にもそぐわないものであって、全く信用できない。
  三 旧供述の信用性
   1 検察官の主張
 検察官は、乙山の旧供述は、ハイツ闘争後本件まで乙山が主たる実行正犯者として加担しており、その後の客観的経過とも符合せず、供述内容自体に不自然さ、不合理性を内包しており信用できないと主張する。
 しかしながら、乙山の旧供述は、金目当ての自衛官の制服等の売買の話として首尾一貫しており、甲林の一貫した供述とも大筋においては合致している。
 逆に甲野供述とは明らかに反しているが、甲野供述が措信し難いことは既に縷説したところであり再論しないが、旧供述の信用性否定の論拠となりえないのはいうまでもない。
 ちなみにここで、甲林供述の信用性を検討しておく。
   2 甲林供述の信用性
 (一) 検察官は、甲林供述は、自己の刑責を軽減することに腐心する態度で貫かれており、同人は当公判廷でも弁護人の主張に合わせる作為的な証言をしており、極めて信用性に乏しいと主張する。
 しかしながら甲林供述は、前述のように大筋においては終始一貫しており、検察官が乙山の新供述は刑確定後の利害関係のない供述で信用性が極めて高いと主張する点が、正にそのまま当てはまる上、乙山と異なり供述の変遷が存しないのであるから、検察官の論理に従えば一層その信用性は高いこととなる。その点はさておくとしても、供述の変遷が存しないことは、信用性判断に当たっては重要な一つの要点であることはいうまでもない。
 (二) 更にその供述内容を具体的に見てみるに、甲林は、本件の容疑で一一月二五日逮捕されたが、翌二六日の段階で、乙山が持ちかけてきた話の内容は、「今、金に困っているから、自衛隊の情報を買ってくれそうな者を知らないか。」というものであると供述した(甲林46・11・26PS書43九七六四)。また、右調書において、喫茶店「ヴィクトリア」の会合の際、乙山が弾薬庫等を含む地図を書いて説明したとも供述している。
 検察官主張のように虚偽供述をして武器奪取計画の媒介を否定する意図を持つ者が、捜査の当初から、弾薬庫の話が出た事実を認めたというのは、いかにも不自然である。
 加えて、乙山は、逮捕当日の一一月二五日の段階で、六月下旬ころ自己が甲林に話を持ち込んだことを秘匿しながら、甲林から、自衛隊の情報を買いたい人がいると持ちかけられたため、喫茶店「ヴィクトリア」で会うことになったと供述している(乙山46・11・26KS書23四五六五)。この乙山供述と甲林供述とは、自衛隊情報の売買の話である点で、一致していることに注目すべきである。検察官主張のように両者がいずれも虚偽供述をしているとすると、これを偶然の一致と解する外ないが、そのような解釈は正に牽強附会といえる。
 したがって、両者の供述の一致は、正に両者が真実を語ったからこそ生じたものと解するのが相当である。
 (三) 更に、甲野供述の乙山の話の項で検討したように、丁川二平の供述は十分信用できるものと考えられるが、甲林供述はこれと整合する点も見落してはならない。
 (四) 以上の点から考えると甲林供述は大筋において一貫しており、虚偽供述をなしたとの形跡は全く認められず、信用性のある第三者の裏付けも存するのであるから、乙山に関する甲林供述は十分措信できる。
   3 まとめ
 したがって、甲林供述と大筋において符合している乙山の旧供述も信用できるものと解するのが相当である。
  四 乙山に関する認定事実
 甲林供述及び乙山の旧供述ならびに関係各証拠を総合すると以下の事実が認められる。
   1 乙山は、借金に苦しんでいたため、金目当てに自衛隊から古着を盗み出して売りさばこうと考え、四六年五月ころから入手先の確保や売りさばき先の検討等を行っていた。
   2 乙山は、六月中旬ころから中央電測企業株式会社に勤務するようになり、同社社員の甲林と知り合い、話をするうち、同人が学生時代新左翼運動にかかわっていたことを知った。
 乙山は六月下旬ころ、都内御徒町付近の喫茶店で甲林に対し「俺は山口と朝霞の自衛隊の情報を知っている。今金に困っているから、この情報を買ってくれそうな者を知らないか。」と持ちかけ、情報の買手の紹介を甲林に依頼した。
 他方以前から入手を依頼していた自衛隊時代の同僚の丁谷に対し、自衛官の作業服等の入手を強く求めた。
   3 甲林は大学時代の知人で新左翼の活動家である甲野に乙山の話を伝え、甲野は乙山と会うこととした。
 七月一二日ころ喫茶店「ヴィクトリア」において、乙山は京都大学経済学部の助手で京浜安保共闘と赤軍の政治局員、中央委員と自己紹介した甲野に対し、「自衛隊内には反戦自衛官グループがあり、自衛官の制服等を盗み出せるので、それを売りたい。自衛官に変装すれば簡単に駐屯地内に侵入し、弾薬庫から武器弾薬を奪取できる。」などと話し、更に朝霞や高崎の基地内の模様を図面に書いて説明した。
 甲野は乙山の申出に応じ、制服等購入代金の一部として現金二万五〇〇〇円を支払った。
   4 乙山は、更に新たな情報等を入手しようと考え、七月一四日ころ、丁谷方において同人から朝霞駐屯地の弾薬庫の内部の模様、冬期訓練の話などを聞き、詳細な図面を作成してもらった。
   5 七月二六日ころ、乙山は喫茶店「にしむら」で再び甲野と会い、話し合いの結果、自衛官の制服等一式を二組三〇万円で売買する話がまとまった。
   6 乙山は丁谷を通じて自衛官二名分の制服、制帽等を八月一〇日までに調達した。
   7 八月一二日乙山は調達した制服等を甲野に引渡すこととなり、甲林とともに帝国ホテルに赴いた。
   8 乙山は、帝国ホテルで調査報告書を見せられ、協力しなければ抹殺するなどと甲野に脅されたため、売買代金欲しさも手伝ってやむなくハイツ闘争から本件犯行まで加担した。
第五 被告人供述の信用性
  一 被告人のPS
   1 証拠能力
 (一) 偽造の主張
  (1) 被告人の検察官に対する供述調書一通(以下、これを「本件調書」という。)が存するところ、弁護人は、被告人の法廷供述を基にして本件調書は真正に作成されたものではなく、刑訴法三二二条に定める書面とはいえないと主張し、その理由として次のように述べる。
 第一に、被告人は五七年八月八日本件につき強盗致死容疑で逮捕され、同月三〇日公訴を提起された。逮捕された後事実関係については全く供述していなかったが、八月二八日検察官の恫喝に屈し、一問一答式の取調に応じ、翌二九日調書の作成がなされた。被告人は、甲野からの制服売買の話、送金の趣旨、甲野を逃亡させようとした動機の三点についてのみ供述した。出来上がった調書の枚数は、検察官が被告人の面前で数えたところ七枚であった。被告人は、これに署名指印した。然るに、検察官請求の本件調書は一二枚、四三問にわたるものであり、明らかに調書の最終紙面を除き差し替えられたものである。
 第二に、鈴木主任弁護人は、八月三一日被告人と接見した。その際被告人から裁判所の心証を悪くしないために、検察官の求めに応じ、三点について供述した調書を作成したが、内容は<1>自衛隊の服、歩兵操典、通行証についての記憶の有無、<2>電信為替の件、<3>何故逃亡したのか、また、何故甲野を逃がそうとしたのかの三点であると聞いた。その遣り取りについてはメモを作成した。この事実は、被告人の取調状況に関する供述を裏付けるものである。
 第三に取調検察官の供述は次の点から信用できない。まず、被告人の取調状況について、八月一九日から黙秘をやめて供述を始めたというのであるが、これは被告人の供述と合致しない。次に、本件調書における被告人の供述内容が被告人の思想と乖離している。「赤衛軍」の落書の話を被告人が供述したというのに、調書に記載されていないのは不可解である。検察事務官が書きあげていく調書を被告人が折り曲げてくれたが、その動作に奇異な感じは受けなかったというのであるが、調書用紙は折るものだということを被告人は知らなかったのであるからそのような動作をするはずがないし、もし折ったとしたならば、右手二指を欠損している被告人が通常人と異なる奇異な紙の折り方をするのにすぐ気付いたはずであるのに全く不可思議という外ない。なお調書作成後被告人が歌を歌ったというけれども、これは被疑者の心情とは相容れない。
  (2) これに対して、検察官は、下書を作成して被告人に点検させていること、調書作成までに考慮期間をもうけていること、被告人が調書の折り曲げを手伝っていること、被告人は説得されると納得すると述べていること、調書が出来上がった後の休憩中に待合室で被告人が「別れの一本杉」を歌ったこと、被告人が第一回公判で調書が出来上がった途端後悔の念が噴き出し、悔いが残ると述べており、調書が真正に作成されたこと及びその任意性、信用性をも自認していることから考えると本件調書は真正に作成されたものであり、任意性も信用性も十分認められるものであると主張する。
  (3) そこで以下検討する。
   ア 第一に、本件調書の内容は、甲野から具体的な武器奪取闘争についての話が出たことはなく、殊に、ハイツ及び朝霞基地を攻撃するという具体的な計画や話が持ち込まれたことは全くない、四六年七月末か八月上旬ころ甲野と阪急梅田地下街で会ったことがあるかもしれないが具体的な記憶はない、本件はテレビ、新聞等の手段で知ったと思うというもので、甲野との謀議を否定するいわゆる否認調書である。
 検察官にとっては自己の主張を裏付けるものではなく、必ずしも証拠価値の高くない否認調書を刑事罰の危険を冒してまでわざわざ偽造する合理的理由は見出し難い。
   イ 第二に、被告人は、当公判廷において、差し替えられる以前の調書(以下、これを「本来の調書」という。)は総数七枚前後、問の数は二〇未満、被告人が認めた事実は、甲野から制服売買の話があった、送金は制服入手代金ではない、甲野を逃亡させようとした動機は反権力闘争を行った人間を助けてやろうと思ったからであるという三点であり、その余の問答については黙秘あるいは否認したと供述する。
 しかし、第一回公判の意見陳述では、七枚ほどの調書(正確な枚数はおぼえていない)、一〇いくつかの問があって大部分は黙秘と否認であり、三点についてのみその段階での記憶のありように即して答えたとなっていたものである。
 ところで、捜査段階から弁護活動に従事した証人丁井三平は、被告人との接見時にはメモ四枚を作成したが、本来の調書において被告人が認めた事実に関する接見メモが提出できないのは、この部分を紛失したためであると証言する。しかし、被告人調書は公判の終盤で問題となる可能性があり、初期段階には弁護人らに開示されておらず、その記載内容を推認する上で、被告人の記憶の鮮明なころに作成した接見メモは重要であったはずである。しかも、紛失したとされる部分が偽造の成否を判断する上で最も肝心なものであり、他の接見結果についてはメモが保存されていることに照らし、最も肝心な部分だけを単なる過失で紛失したとは信じ難い。
 同人作成の接見メモ(符75の1ないし3)には被告人の認めた事実の部分がほとんどなく、本来の調書についての被告人の供述は、調書の枚数、問の数なども含め、客観的証拠からは裏付けられていない(逆に本件調書の内容は、右接見メモの記載と必ずしも矛盾せず、むしろ、乙山、J、Kを知っているかと聞かれた点、歩兵操典の記憶があると答えた点などメモと整合する部分もある)。
 また、被告人は、送金について、検察官が借金の返済という主張を頑として書かず、その結果、本来の調書には、送金は制服入手代金ではないと記載されたが、接見時には弁護人に送金は甲野からの借金の返済であると述べたと供述する。
 しかしながら、被告人が借金の返済との主張を頑に維持していたのであれば、五七年八月当時の甲野の供述調書に被告人の弁解に対する甲野の供述をとるのが捜査の常道と思われるところ、甲野の供述調書には、被告人のいう借金返済の点については全く言及されていない。
 しかも被告人は弁護人に借金の返済であると話をしたと供述する。送金の趣旨が借金の返済であれば、有力な反証となりうるものと解されるのに、前記メモにはその旨の記載は全くなく、丁井証人も接見時に被告人からその話を聞いたとは供述していない。被告人の右供述は裏付け証拠を欠くものである。
 また、被告人の供述するような調書の記載では送金の趣旨は何か別のものであるという問題を残し、公判で主張されるはずの借金の返済という主張がとおり易くもなるのであって、借金の返済という主張を頑として書かなかったという捜査態度と送金は制服入手代金ではないと記載されたこととは整合しない。
 以上の点から考えると、本来の調書に関する被告人の供述は信用し難い。
   ウ 第三に、取調にあたった証人乙岡六介は右調書の成立の真正を証言しているところ、右証言には、五月上旬文学部長室に「赤衛軍」の落書があり、仲間からそれを消すべきであるという声があったこと、「いいやっちゃないか同盟」のことなど、甲野の供述を裏付けうる間接事実を被告人が認めたとする部分があるが、本件調書にはそのような事実が記載されていない。
 捜査官からすれば、右のような供述は、重要な事項であり、当然これを調書に記載しようと考えるものであり、調書に右の記載がないことは、乙岡証人が調書の記載は被告人と話し合って、被告人の納得する部分のみを記載したと供述することを裏付けるものである。
 逆に、調書を偽造するのであれば、右のような間接事実は、取調中被告人がこれを認めたか否かに関係なく、本件調書に記載できるはずであり、にもかかわらず、その記載がないことは、むしろ本件調書が書き換えられたものではないことを窺わせる。
   エ 第四に、本件調書の記載内容は、甲野と知り合った経緯、旅館「津乃村」、「文学部長室」、喫茶店「穂高」、甲野から事件後連絡の有無の五点については黙秘し、その余の大部分については記憶がないと供述し、数点についてのみ具体的な供述をしているものである。確かに丁数、問答数は被告人の供述とは違うが、その余の体裁は、被告人の供述と合致するものである。
   オ 本件調書には一部に措辞適切を欠き、それ故弁護人主張のように、被告人の思想と乖離しているかのような供述記載があるけれども、この点は信用性が問題になるとしても、直ちに調書の偽造を意味するものでないことはいうまでもない。
 なお、被告人が調書用紙を折り曲げたか否か、調書作成後被告人が歌を歌ったか否かなどの点は、いずれにしろ本件調書の成立に影響を及ぼすものではない。
 以上によれば、本件調書は真正に成立したものと認められる。
 (二) 不利益事実の承認
 本件調書は、いわゆる否認調書ではあるが、被告人と甲野との会合状況、その際の会話内容、送金の趣旨、甲野の逃亡協力の動機等について具体的に供述している。これらの事項は、甲野との共謀関係を基礎付けるあるいは推認させる事実に関するものであり、法三二二条一項にいう不利益事実の承認にあたるものと解する。
   2 本件調書の信用性
 被告人は、本件調書の記載内容については、その段階での記憶のありように即して述べたものであり、調書を作成した途端に後悔の念が噴き出してきたと供述している。したがって、不利益事実の承認を内容とする部分については、本件調書の信用性は一般的には高いと解するのが相当である。
 なお、供述の具体的内容及び信用性は該当箇所で検討する。
  二 旅館「津乃村」、エレガントホテル
   1 供述の概要
 被告人は、Jから、関東(ないし東京)の運動に詳しい者が被告人に会いたがっているとの紹介を受け、被告人も関東の運動状況について聞きたいと思いその者と会うことにした、会話内容は前記甲野供述とは異なるもので、具体的会話内容で特に記憶しているものはないが、革命戦略、戦術の話、特定の運動の中に立ち至った話はなかった、エレガントホテルの近くの飲屋には行っていないと供述する。
   2 旅館「津乃村」
 (一) 被告人は甲野供述にある会話をことごとく否定するが、旅館「津乃村」の会合が機密性の高い旅館の一室で行われたこと、会合時間は食事も含め二時間くらいであったこと、既にLが甲野から東京の運動状況を聞いた後、被告人は甲野との会話に入ったこと、話好きという被告人の性格等に照らし、被告人が甲野の発言を聞くのみであったとは考えられず、闘争に関し何らかの発言をしたはずであり、しかも、それは当然、過激な暴力闘争を主張する当時の被告人の考えを背景にしたもののはずであり、その意味で、被告人供述もそのまま信用することはできない。
 (二) 被告人が甲野と会う動機の一つは、関東の運動について知りたいというものであったこと、被告人が運動に関連して発言したとすれば、当時の自己の考えを述べたとみるのが最も自然であること、新左翼運動の活動家として一般的な共闘の話をしたとの甲野供述は信用できることに照らし、被告人は、少なくとも、過激な暴力それ自体を志向する当時の考え方について発言したものと推認される。そうすると、過激な暴力闘争の必要性の点で両者の考え方が一致し、一般的な共闘の話をなし、両者はある程度意気投合したものと解するのが相当である。
   3 エレガントホテル
 被告人はエレガントホテルで甲野と酒を飲んだことはないと供述するが、前記のようにこの点に関する甲野供述は信用性が高く、これに反する被告人の供述は措信し難い。
   4 居酒屋
 (一) 居酒屋に行ったことについて
 居酒屋に行っていないとする被告人供述は、犯行後一〇年以上経てのものであること、居酒屋に行ったことは本件の経緯には直接関係のない些細な事柄であって、記憶が消失し易いものであることに照らし、信用性に乏しい。これに反し、甲野供述は前記のように信用でき、被告人と甲野が居酒屋に行ったものと認められる。
 (二) 会話内容について
 前記のごとく(第三、七、4(二)(三))、四・二八闘争についての甲野供述は措信できないが、個人的事柄に関しては信用できる。したがって、そのような会話の結果、被告人は、心情的に甲野に親しみを感じたものと解するのが相当である。
  三 文学部長室、楽友会館
   1 供述の概要
 被告人は、Jから甲野が会いたがっているとの連絡を受け、会うことになり、五月四日ころ、喫茶店「学士堂」で甲野に会い、甲野の原稿について話をし、文学部長室に行った。乙田、乙沢八久を紹介し、酒を飲んで歓談したが、乙内一久の話が印象に残っている。その後スナック「白樺」に行き、甲沢を紹介し、同様の雑談をして甲野と別れた。翌朝文学部長室へ行くと、まだ甲野がいたので、ブランチに誘い、楽友会館に行ったが、甲沢とは会っていない。甲野とはそこで別れた。
   2 文学部長室
 (一) 被告人は、公判では単なる雑談に過ぎないと供述しているが、PSでは具体的な日時や場所ははっきりしないが、当時甲野と革命理論を論じ合ったことは当然あると思うと述べている。
 (二) 前判示のように、被告人が建党建軍の話を持ち出したとは認められないが、「赤衛軍」の話をしたと認められるのであり、被告人の公判供述は信用できない。
 そこで「赤衛軍」の話の具体的内容であるが、前述のごとく、被告人は当時暴力革命を志向し、既存の新左翼諸党派を批判し、それを超えた過激な武装闘争の必要性を力説し、大衆からの運動を称えていたのであるから、甲野の言うような党組織に編成された正規軍としてではなく、大衆から自然発生的に生ずる運動を助長拡大していく担い手、すなわち民兵としての「赤衛軍」の創設を甲野に説いたものと解されるが、それ以上の具体的内容については本件証拠上確定し難い。
 (三) 被告人は、三里塚闘争、沖縄闘争を軍事的に戦争として戦う話をしていないと供述するが(八四回証26八四二七)、乙沢八久は、会話の状況は、被告人が一方的に話していたものであり(証17五一六三)、三里塚、沖縄の話は出た可能性がある(同五一四七)と証言し、また、文学部長室での会合とほぼ同時期に執筆されたとみられる朝日ジャーナル五月二一日号の被告人の論稿には、「三里塚北総台地を真赤な荒野にしよう! 六月の三里塚戦争で、七〇年代の範例的典型を作り出そう!」などという主張がなされており、文学部長室の会合のころ、被告人が三里塚闘争に強い関心があったとみられ、したがって、三里塚闘争に関する話をしたことは認められる。ところで、右論稿の「戦争」の意味であるが、三里塚パンフ(符1)において、被告人は、三里塚闘争についても闘争する側が敵を「殺す質」を持つべきことを示唆し(二四頁)、弾圧の域を越えて戦争をしかけ(二六頁)、戦争局面を獲得する(二七頁)必要性を説き、武器を使い、本気で勝つことを考えよと呼びかけている(二七頁)。新左翼の活動家の表現は煽動的で大袈裟な表現が多く、被告人が、厳密な意味での「戦争」を志向していたとまでは解しえないが、三里塚で武器を手に、死傷もありうるような過激な暴力闘争をすべきことを考えていたことは明白であり、「戦争」というのもこのような過激な暴力闘争を意味するものと解される。そして、三里塚の話をしたとすれば、発言内容は、当時の被告人の考えであったはずで、右のような過激な暴力闘争を主張したと推認される。
 (四) したがって、被告人は、文学部長室において甲野に対し、暴力革命達成のためには既存の新左翼の運動を超えたより過激な武装闘争が必要であり、その担い手として「赤衛軍」を創設し、当面の三里塚、沖縄闘争においても過激な暴力闘争をすべきだと説き、これに共鳴感激した甲野が「赤衛軍云々」の落書をしたものと認められる。
   3 楽友会館
 楽友会館に関する甲野供述は、前記のとおり措信し難く、被告人の供述には特に信用性を疑わせる点も認められないので、被告人の供述どおり認定する。
   4 甲野の原稿の話
 甲野の原稿の公表に被告人が力を貸す話については、甲野もほぼ一貫してこれを認めており、被告人も会話のなされた場所については一致しないものの、そのような話があったと供述しており、その後の経緯からみても、五月京都の段階で話があったと認められる。
  四 池亀方、レストラン「アラスカ」
   1 供述の概要
 (一) 上京の目的は三里塚闘争へのカンパを集めること、七月から連載することになった日本読書新聞のコラムの件で打ち合わせをすること、ベルリン自由大学講師の件を断ることなどであり、レストラン「アラスカ」に行った目的は、右講師の件で乙川二久と会うためであった。
 (二) Jから甲野が入院していると聞き、下田病院に戊谷一也の案内で菓子折を持って見舞に行った。戊谷が帰った後、今日乙川二久に会って帰阪すると話したところ、紹介してくれと甲野に頼まれたのでレストラン「アラスカ」に同道することとなった。
 途中池亀方に寄ったが、ローザ・ルクセンブルク全集を見て話をしたことはない。また大麻を吸ったこともない。レストラン「アラスカ」へ向かう車内での会話については、記憶はないが、軍資金や兄の話はしていない。
 (三) レストラン「アラスカ」で乙川に講師の件を断り、甲野の原稿の口添えをした。乙川は用事が済むと帰った。
 K、O、P、Jの各記者や乙田、乙原が集まったので、一緒に飲酒歓談した。そこでの状況は、がさつな話でワァワァ大きな声を出すということではなかった。話の内容は雑談で、革命論等は展開しなかった。
 (四) 乙原は、中国物産の話をしており、被告人も三里塚パンフ(符1)を売りつけた。甲野が販売を手伝うというので甲野の指定した場所に後日七〇部位送った。甲野は一時間位いて先に帰った。
   2 被告人の上京目的等
 上京の目的に関する被告人の供述は、六月一八日甲丘宅を訪れた被告人に現金二万円を渡したとする甲丘手帳の記載、日本読書新聞七月五日号から実際に被告人の執筆が始まったこと、乙川二久証言等、裏付け証拠があり、信用できる。そして、レストラン「アラスカ」に行った目的についても、記者などの出入りがあるという場所的状況、そこに現実に乙川二久が来たこと、甲野の同席は事前に予定されていなかったことなどに照らし、乙川二久に会うためという被告人供述は信用できる。
   3 下田病院、池亀方
 被告人が下田病院に甲野を見舞に行ったことが認められるが、このことは、被告人と甲野との関係が相当親密であることを示すものといえる。
 池亀方での会話に関する被告人の供述は、司法警察員作成の62・12・20付け捜査報告書に徴し到底措信できない。
   4 レストラン「アラスカ」での会話内容
 (一) 被告人と乙川二久がベルリン自由大学の講師の件を話したことは乙川二久証言に照らし、信用できる。被告人が乙川二久に対し、甲野の論文が出来上がったら見てもらいたいと口添えしたことは、被告人と甲野が一致してこれを供述し、乙川もこれを否定する供述をしていないので、十分信用できる。
 (二) 革命、三里塚闘争の話
 乙川二久が帰った後の会話について、被告人は革命の具体的な戦略とか戦術の問題、三里塚闘争における鉄砲を用いたゲリラ戦の必要性等について、話し合ったことは全くない、三里塚闘争で銃器を用いる考えはなかった(八〇回証24七六五五)、戊海二也の精神の支配する中、闇で鉄砲、爆弾を持ち込めない(八四回証26八四四七)と供述する。
 しかし、乙原や当時三里塚の団結小屋に入っていた乙田が来たこと、被告人が三里塚パンフ(符1)を持参し、Kらに売ったこと、Kが、「被告人は今までの戦術では生ぬるい、これからはどんどんこのへんで爆弾を使わなければならない、やらなければあかんあかん、と言っていた。」旨を供述していること(K47・1・27PS書34七〇三四)などに照らし、三里塚闘争の話はあったと認められる。
 被告人は、当時銃器、爆弾闘争は考えていなかったと供述するが、前記パンフは要するに、勝つためには相手を殺す質を持って闘争に臨めと主張するもので、三里塚で銃器を用いることを否定する立場ではないのであって、右供述はこれと矛盾し、信用できない。
 既に甲野供述の信用性の項で検討したように、被告人らが一般的な話題として革命論や三里塚闘争について話をしたものと解される。そして右パンフにおける主張に照らし、被告人は、乙田ら現に三里塚闘争に取り組んでいる者を前に、闘争方針を被告人の主張する過激な暴力闘争に変更するよう説得に重点をおいた発言をしたものと認められる。
 これに対して、甲野は既に文学部長室での会合において、被告人に共鳴していたのであるから、これに賛同したものと認めるのが相当である。
 (三) パンフレット送付の件
 パンフレットは売りさばくために、甲野の申出により、丁原方に送ることになったとする被告人供述は、これに反する甲野供述が前述のように信用できず、前記丁原供述等と整合しているので、信用できる。
  五 七月名古屋会合
   1 供述の概要
 (一) 公判供述
 被告人は、七月上旬京都で会ったという甲野供述を否定し、六月の末ころ、難波予備校に、甲野から論文の原稿ができたので見てほしいとの電話を受け、その週の土曜日に名古屋で講演予定があったことから、その際に会うことにした。七月三日午後五時ころ、名古屋の河合塾前で待ち合わせ、大衆酒場に入り、甲野の原稿を見た。その際甲野から自衛隊の制服、ベルト、帽子、靴が手に入るので買わないかと言われた。ブローカー絡みの話と思い断った。その理由として借金で首が回らないと話したところ、甲野から用立てしようと言われ、何回か断ったが、結局五万円借りることになった。翌週の土曜日上京することから、甲野の馴染みの飲食店「久富」で借り受けることにした。
 もう一度制服等売買の話が出て、無下には断れず、その場で甲沢に電話し、商売の話を持ち込まれて困っている、明日会ってやってくれと頼んだ。明日は上京の予定と言下に断られたが、東京で会ってくれと頼むと渋々了解した。その後甲野と別れて帰阪した。
 その後七日初旬ころ、甲沢から甲野の話はあかんぞと言われた。
 (二) PS
 しかし、PSでは甲野と名古屋で会った記憶はありますが、それが何時であるか、その際どのような話をしたかについては覚えておりませんと供述する。
   2 会合時期
 七月三日ころ、名古屋で会った点については、丙島ノートには、甲野が七月三日から五日まで名古屋に行くとの記載があること、前述のようにこの時期に京都で会い、七月下旬に名古屋で会ったとの甲野供述は信用できないこと、被告人のPSには、時期は判らないが甲野と名古屋で会ったとの記載があるところ、甲野供述を除いた関係証拠によると、名古屋で会ったとすれば七月上旬の可能性が高いことに照らし、その時期に名古屋で会ったと認められる。
   3 会話内容
 (一) 借金の話
  (1) 被告人の困窮の程度、甲野の資力
 弁護人は、被告人の困窮の程度について、乙丘との生活費が毎月恒常的に二万五〇〇〇円不足し、また、乙丘の中国旅行の費用二〇万円以上、少なくともその内金として五万円が必要であり、七月三日ころ被告人は生活資金に窮しており、借金の話が出たのは不自然ではないと主張する。
 生活費についてみるに、乙丘家計簿によると、生活資金は必ずしも十分余裕がある状態ではないが、不定期ながら被告人の臨時収入が入金され、また、七月一三日にはクーラーの月賦を払い、ややぜいたくともいえる支出があるなど、生活資金に極端に困っている状態ではない。中国旅行の費用の捻出については金額的にみて甲野からの借金で賄えるものではなく、当時、五万円の内金が必要であったというなら、そのために借りた金を乙丘に渡し、乙丘がこれを生活費用に組み入れている点で不自然さが残る。しかも内金の入金時期については被告人の明確な供述がなく、乙丘も自分は知らないと述べ、乙林九久も明確な供述をしていず、実際に内金の入金がなされたのかも判然としない。したがって、弁護人の主張には賛成し難い。
 弁護人は、甲野の貸付の資金源について、六、七月に丙原から騙取した一一万円及び名古屋の実家に帰ったときにもらった小遣いであるとするが、それを根拠付ける証拠はなく、単なる弁護人の憶測にすぎない。
 当時甲野は、実家からの定期の仕送りもなく(46・12・27PS書10一九八三)、下田病院に入院した際には丙原の健康保険証を使用するなど、生活に余裕のある状態ではなかったと認められ、しかも喫茶店「ヴィクトリア」で乙山に約二万五〇〇〇円を渡すなど、生活費の外にも支出(ないしその予定)があり、この外に八月一二日を期限として五万円もの貸付をすれば、これから進めようとする一連の闘争の準備資金にも事欠く結果となるのであって、このような貸付約束を安易になしたとは認め難い。
  (2) 甲野供述
 被告人との関係に関する甲野の供述態度は、誇張、創作、こじつけなどが多々あるにしても、少なくとも現実にあったことは何らかの形で供述されている。しかし、被告人に金を貸した事実は全く供述されず、これを窺わせる供述もない。特に、逮捕後約四〇日ころまでの甲野供述は、京都で被告人から連絡役になってほしいと頼まれ、これを承諾したところ非常に喜ばれたこと、被告人や甲沢から意思を一致させて闘争をやろうと執拗に誘われたこと(46・12・18供書9一七五九)、四月に大阪の旅館で被告人と会った後、梅田近くのもつ焼飲屋で互に腹を割って話し合ったこと(46・12・25KS書10一八八〇)など、自己が被告人らから頼りにされていたという形で格好をつけた供述をしていたのであって、被告人の依頼を受けて金を貸した事実は、そのような供述態度に合致する好材料である。それにもかかわらず供述されなかったのは、その事実がなかったことを推測させる。以上、甲野の供述からみても被告人供述には疑問が残る。
  (3) 被告人の捜査供述
 被告人は、借金の返済という被告人の供述を、検察官が頑として調書に記載しなかったと供述するが、前述のとおり、被告人は捜査段階で借金の返済という供述をしなかったと認められ(第五、一、1、(一)(3)イ参照)、したがって、公判供述は、捜査供述と整合しない。
  (4) 以上の外、被告人の社会的地位、約束の金額が被告人の月収に相当する高額であることをも考慮すると、甲野が被告人に五万円の貸付を約束したとは到底解されず、借金の約束をしたとの被告人の公判供述は全く措信できない。
 (二) 原稿の話、制服売買を断る話
 公判供述は、まず甲野が持参した六〇枚ないし七〇枚の論文の原稿を一読した上、約一時間くらいにわたり批評や助言をしたというのであるが、この点につき、甲野供述(甲野46・12・12供書9一七六一)は日にちも異なり符合する供述とは認め難く、他にこれを裏付ける証拠がない。次に公判供述は、自衛隊の制服売買の話が持ち出されたが、お断りして、代わりに甲沢を紹介したというのであるが、この点については甲沢の供述もなくこれを裏付ける証拠がないのみならず、制服売買を断る話は金員貸借の話に牽連する前提の話であるから、前述のとおり金員貸借の話が措信できないものである以上、この制服売買を断る話もまた疑わしいものという外なく、以上要するにいずれの話についても被告人の公判供述は直ちに措信しうるものではない。
 (三) 甲林の話
 被告人と甲野との名古屋会合は、甲野が甲林から乙山の話を聞いた後であり、かつ一週間後に被告人の上京予定があるのに、甲野がわざわざ名古屋に赴いて会合していることから考えると、被告人の供述するように甲野の原稿を受け取るのが目的だったとは考え難く、甲林の話を被告人に伝えるのが目的だったと解するのが最も素直な見方であろう。甲野が被告人に甲林の話を伝えたものと推認される。
 被告人は、制服売買の話を断ったと公判で供述するが、PSでは甲野に協力してやろうと思ったと述べており、現に四万円を甲野に送金していることをも考慮すると、甲野の話を断っていないと解するのが相当である。
 甲野の話の具体的内容については、甲野供述、被告人供述いずれも真実を語ったものとはいえず、甲林の話以外に甲野が具体的な計画を話したかどうかについては本件証拠上は確定し難い。
  六 七月一〇日甲丘宅訪問
   1 供述の概要
 被告人は、七月一〇日ころ、上京し、お昼少し前甲丘宅に行き、三里塚について、かねてより甲丘から提案されていた条件闘争の件を断ったと供述する。
   2 甲丘KSの証拠能力及び一般的な信用性
 (一) 当事者の主張
 検察官は、七月一〇日午前一〇時ころ、被告人が甲丘宅を訪れ、自衛隊から武器を奪取する計画があると打ち明け、その金策を依頼したとする甲丘のKSに依拠して被告人の供述は措信できないと主張する。
 これに対して弁護人は、甲丘のKSは偽造変造されたものか、しからずとするも全く信用性に欠けると主張する。その理由として第一に、甲丘は四七年七月五日自宅で事情聴取を受け、六日、七日と大宮の鉄道公安室で取調を受け、一五日に完成した調書の読み聞けをされ、署名押印したとされているが、甲丘手帳(符17)の七月六日、七日欄の記載は鉛筆書きの上をなぞって記載したものであり不自然である。第二に、甲丘は警察関係者との交際が多く、本件に関しても四七年八月三〇日には千葉県警柏警察署まで出向いて被告人と思われる者の面通しをしており、取調警察官の高橋孝人は甲丘に被告人の潜伏先のリストまで教えている。第三に、甲丘の取調状況をメモしたとする高橋孝人作成のメモ(証11三〇二二)とKSとは必ずしも一致していない。第四に、甲丘は被告人の犯人隠避の疑いで逮捕されたが、他の逮捕者は起訴されたのに甲丘のみが処分を受けなかった。第五に、甲丘は右翼を標榜しながら、いわゆる「口入れ屋」的活動をしていた者で、警察と結託して甲野供述に符合する虚偽事実を捏造したものである。第六に、PSが存しないのは不自然である等々と縷々主張する。
 (二) 調書の真正な成立
 弁護人主張の鉛筆のなぞり書きについては、甲丘手帳三冊(符16、17、25)に散見されるところであり、同人の習性と解され、不自然とはいえない。
 また、甲丘の妻梅子は、甲丘が警察の取調を受けたこと、KSの署名は甲丘のものであると明確に供述しており、甲丘手帳(符17)、取調にあたった高橋孝人の供述及び同人作成の取調メモをも考慮すると、甲丘のKSが真正に作成されたものと認められ、弁護人の偽造、変造の主張は全く理由がない。
 (三) 供述の一般的信用性
  (1) 検察官は、甲丘が被告人から資金調達方を依頼されていた事実は、警察官において事前に予知することが全く不可能な事柄であること、供述内容は、秘密の暴露と認められる部分や臨場感にあふれる心理描写を含め、実際に体験した者でなければ語りえない迫真性のある内容に満ちていることから、甲丘供述の信用性は高いと主張する。
 しかし、甲丘手帳(符25)の六月一八日及び七月二三日の欄に甲丘が被告人に現金を渡したとの記載があり、これと七月一〇日時点で被告人からの送金が遅れていたとの甲野供述とを合わせれば、捜査官において、七月一〇日甲丘に対し資金調達を企図したという疑いを抱きうるのであって、これを予知することが全く不可能であるとする論旨には賛成できない。
  (2) また、取調場所が甲丘の自宅でも警察署でもなく、鉄道公安室である点は不自然であり、甲丘の求めによるとの高橋供述は、鉄道公安室での取調が三日間に及んでいることから考えても俄かに措信し難い。
 しかも甲丘KS及び高橋供述によると、甲丘方には四谷署、福島県警の公安担当の警察官が頻繁に出入りしており、本件捜査に際しても、高橋らと通常の参考人との関係以上の付き合いが看取される。右KSの内容は、被告人が甲丘に犯行計画を事前に明らかにしたというものであり、被告人との共謀の有無という事件の全貌を解明する観点からは高い証拠価値を認められることは、捜査官であれば容易に察しうることであるのに、PSが全く作成されていないのは不自然である(高橋は、KSのコピーは非公式に検察官に送ったと供述しているが、甲丘が五五年一〇月一三日死亡するまでの間にPSが作成されていないことから考えると、俄かに措信し難い)。更にKSによると甲丘は、犯人隠避容疑で逮捕された後は、被告人を快く思っていなかったと認められる。以上の諸点を総合考慮すると、甲丘のKSの作成過程は正常とはいえず、甲丘が警察官に対して迎合供述をした可能性も考えられないわけではない。したがって、甲丘のKSは法三二一条一項三号の要件は備えているものの、その信用性の有無については、特段の慎重な検討が必要である。
   3 甲丘供述の不自然性
 (一) 武器奪取計画の打ち明け
  (1) 甲丘供述の概要
 被告人が甲丘宅を訪問中、警視庁公安三課の椿警部補が尋ねて来たため、被告人を別室で待たせ、右警部補と応対していた。更に警視庁四谷警察署の萩原警部補が尋ねて来たので、その応対を終えて、被告人のところへ行き、警察官が来ていたこと、甲丘方にはときどき警察官が来ることを知らせた。
 その後被告人は甲丘に対し、自衛隊へ行って武器を奪ってこようと思っているんですよ、自衛隊員の中に我々に協力する奴がいるんですよ、武器の保管場所は知らないが、協力する自衛隊員がやってくれるんだから成功すると思いますよ、自衛隊から武器を調達し、三里塚闘争を徹底的に闘うのです、そのためには金が必要なのです、私の任務は何とかみんなが闘い抜けるように金を集めることです、何とか金をつくっていただけませんかと懇願したが、甲丘はこれを断った。
 話が終わってから福島県警の仲田巡査部長が来宅したので、互に身分を明かさないまま三人でビールを飲んだ(書40八七六八)。
  (2) そもそも甲丘は右翼思想の持ち主である上、右のように公安警察と密接な接触があるのに、これを知った直後、自衛隊からの武器奪取計画を打ち明けるなどということは、常識では考えられないし、そのような計画を推進している被告人が、これを打ち明けた直後、見知らぬ人物(したがって、警察官という疑いが残る)。と同席して飲酒するということも極めて不自然である。
 (二) 金策の必要性
 被告人が甲丘供述にあるような金策の必要に迫られたのであるなら、最初に、かねてより申し込みをしていた難波予備校からの借金を催促するはずである。当時の難波予備校の事務長である戊田三也のKS(書47一〇七六四)によると、五月下旬ころ被告人から初めて借金の申し込みを受け、その一週間後ころ催促され、その後数回催促され、七月二一日の催促でこれに応ずることにしたと認められる。したがって、被告人が七月上旬ころに借金を強く催促し、あるいは予備校側で右借金の申し込みを断った事実は存せず、右甲丘供述は右戊岡供述と整合しない。
 (三) 甲丘供述にあるような金策をするには、七月一〇日の時点で多額の資金が必要であるとの情報が被告人に伝わっていなければならないところ、本件証拠上喫茶店「ヴィクトリア」の会合より前に三〇万円ないしこれに近い金額が提示されたことは全く窺われない。
 むしろ、後記認定のごとく、七月二三日送金前の甲野との資金援助の約束は五万円であり、飲食店「久富」から帰阪直後に被告人は乙丘に九万円を渡しているのであるから、よりによって公安警察と密接な接触のある右翼傾向の者に自衛隊を対象とする武器奪取計画のための資金援助を求めるという危ない橋を渡ることは通常人の合理的行動とは全く解し難い。
 (四) したがって、武器奪取計画の打ち明け、金策の依頼に関する供述内容は極めて不自然、不合理といわざるをえない。
   4 甲丘宅訪問の目的
 (一)(1) まず、七月一〇日までの被告人と甲丘との交際状況について、甲丘供述、被告人供述、甲丘手帳(符25)及び名刺(甲丘六夫名義のもの)一枚(符26)によると、以下の事実が認められる。すなわち、被告人が甲丘を知ったのは甲丘の叔父である甲丘七介の紹介によること、甲丘宅を尋ねたのは、六月初めころと六月一八日であり、一回目は不在で甲丘に会えなかったが、一八日には甲丘と会い、二万円または五万円を受け取ったこと、六月二八日に大阪の南海ホテルで甲丘と会ったこと、被告人と甲丘は六月一二日、二五日、三〇日、七月五日に電話で連絡をとったこと、そのうち六月一二日の電話は被告人が一八日に訪問するにあたり甲丘の予定を聞いたものであることが各々認められる。
  (2) これら両者の接触の目的、経過等について、甲丘供述は、六月一八日には、被告人から一度大阪へ来てもらいたいと言われ連絡先を教わったのみで、用件についての話はなかった、どうしても金がいるなどと言われて二万円を貸した、この会合の趣旨に従い、六月二八日に大阪へ行き、被告人と会った、被告人は三里塚闘争その他の闘争の必要性とその支援資金を集めていることを話し、甲丘は条件闘争を提案したが断られた、その後の六月三〇日、七月五日などの電話は、被告人からのもので、三里塚闘争資金援助の依頼であったと思うが、七月一〇日には武器奪取の資金援助の依頼を受けたというものである。
  (3) これに対し、被告人供述は、当初から三里塚闘争の支援資金をもらうため甲丘宅を尋ね、六月一八日に支援資金五万円を受け取った、六月二八日は甲丘から会いたいと言われて会った、その際甲丘から条件闘争の話が出て、被告人は断ったが、なお甲丘が三里塚の話を聞きたいと言うので七月一〇日に会うことにしたというものである。
 (二)(1) そこで検討するに、六月一八日の訪問は、被告人にとっては、甲丘七介から紹介された人物に対し、予約をとった上での二度目の訪問であり、その席で何も用件を言わなかったとは考えられず、甲丘供述は極めて不自然であり信用できない。なお、右訪問の際、甲丘の知人が偶然同席していたようであるが、二八日に言ったとされる三里塚闘争その他の闘争への支援の話なら同席者がいても伝えうる事柄のはずであり、知人の同席は、用件を伝えるのに障害とはならなかったはずである。
  (2) これに対し、三里塚闘争の支援資金を貰いに行ったとする被告人供述は、六月一九日レストラン「アラスカ」でKらにパンフレットを売って三里塚への支援を求めていた当時の被告人の行動とも整合し、信用できる。
  (3) 甲丘が渡した金の趣旨についても、初対面の者同士でいきなり貸し借りがあったというのは唐突で不自然であること、甲丘手帳には右金員の交付について、「2万渡し」と記載されているが、他所をみると、貸金の場合は「3000貸し」(二月一五日の欄)などと記載され、「渡し」という記載は貸付とは異なる意味である可能性があることに照らし、貸金という甲丘供述は信用できず、支援資金という被告人供述が、右認定の訪問目的及び甲丘手帳の記載とよく整合し、信用できる。しかし、金額は、甲丘手帳に二万円と明記されており、甲丘において、この点につき自己の手帳にことさら虚偽を記載する理由はないことに照らし、二万円であったと認められ、五万円という被告人供述は信用できない(なお、甲丘は右翼で、被告人は左翼ではあるが、甲丘七介の紹介があること、三里塚闘争は、四六年当時は単なる新左翼の闘争とはいえず、農民闘争という性格を持っていたことに照らし、必ずしも支援が期待できない状況であったとは認められない)。
 (三) 六月二八日の大阪での会合は、経緯について確定し難い点が残るものの、会合の際、甲丘が三里塚闘争に関して条件闘争を提案し、被告人はこれを断ったことについて、両者の供述が一致し、そのとおりと認められる。
 (四) 六月三〇日の電話について、甲丘手帳には「甲川兄、梅子、戊丘兄にtel」と記載されているが、甲丘手帳では、他所の記載も含め、「tel」というのは甲丘が架電した場合を示し、相手から電話を受けた場合は「来電」と記載されていることに照らし、六月三〇日の電話は甲丘側から架電したものと認められる。したがって、被告人側から闘争支援依頼の電話を受けたことをにおわす甲丘供述は信用できない。そうすると、南海ホテルでの会合後も、甲丘から被告人に対し何らかの働きかけをしていたと認められ、それが七月一〇日の訪問に引き継がれた可能性は可定できない。
 (五) これに対し、被告人は、七月一〇日甲丘宅訪問の動機について、三里塚条件闘争の件を断るためであったと供述する。しかし、被告人はその件について、既に南海ホテルの段階で「問題にならない。」と強い調子で断っていること(甲丘KS書40八七六六)、甲丘の提案自体いわば思いつきにすぎないとみられるもので、この件を執拗に持ちかけたとは考えられないことに照らし、右被告人供述に対してもなお疑問が残る。
 (六) ところで、その後被告人は、甲丘の依頼に基づき、七月二四日ころ、有楽町で戊林五也に中国行きのビザを取れそうな人を紹介するのであれば、証人戊林五也は、中国経由で北朝鮮に入国する目的で、右ビザ入手の件を友人の戊森六也に相談した結果、時期ははっきりしないが春後半ころ、桜井市で、戊森六也から甲丘を紹介されたと証言する。右証言は、甲丘手帳の六月二八日の欄の「桜井、(戊森、戊林氏に会)」という記載と合致し、右紹介の日は六月二八日であり、紹介の時は同欄の記載の前後関係等に照らし、南海ホテルで被告人と甲丘が会う前であると認められる。そうすると、六月二八日の被告人と甲丘の会合、六月三〇日の甲丘からの電話は、甲丘が戊林五也から中国行きのビザ入手の件を依頼された直後のものであり、これらの際に、甲丘において、被告人が新左翼で共産圏への渡航に関する情報を持っているかもしれないと考えて、右ビザ入手の件を被告人に話した可能性がある。そして、このことと、七月一〇日に被告人が連れて来た学生が、八月に訪中する学生団体の代表格であったこととを考え合わせると、七月一〇日は、被告人が甲丘の依頼により中国渡航の情報に詳しい者を甲丘に紹介する目的で設定されたものである可能性が高い。
 これに対し甲丘は、戊林五也から中国渡航の件の相談を受けたのは、七月一一日の電話であるとし、その場ですぐ被告人が訪中予定の学生を連れて来たことを思い出し、被告人に連絡のつく七月一三日火曜日に初めてこの件を被告人に相談したと供述する。しかし、甲丘供述は前記戊林五也証言及び甲丘手帳の記載と矛盾する。また、甲丘手帳の七月一一日の欄に戊林五也から電話を受けた旨の記載はなく、更に甲丘は被告人への連絡が月曜日も可能であると聞いていたはずであり(甲丘KS書40八七六一)、七月一二日月曜日に連絡しない点も不自然であり、これらに照らし、右甲丘供述は全く信用することができない。
 ちなみに、被告人は右渡航の件の相談を受けた時期や七月一〇日甲丘宅に学生を同伴したかどうかについて明確な供述をしていない。
   5 まとめ
 以上、七月一〇日の青木宅の状況について、被告人供述が必ずしも信用できるものではないにしても、甲丘供述は、その作成経緯、供述内容自体の不自然性、不合理性、他の証拠との不整合性を総合考慮すると、警察の取調に迎合した虚偽供述をなした疑いを払拭できず、信用性には疑問が残る。
  七 飲食店「久富」
   1 供述の概要
 七月一〇日甲丘宅を訪問した後乙川二久、戊本(戊塚社)と会社印税を受け取り、甲野から預った原稿を乙川二久に渡し、更に雑誌社の依頼により乙谷と対談をした。乙林九久を紹介するため飲食店「久富」に乙谷を誘った。同所には、甲野の外、被告人の誘った乙林九平、乙原、乙本十久、J、Kらが来て飲酒歓談した。甲野から五万円を受け取り、次の店に行くまでに、八月一二日上京するので午後二時喫茶店「カトレア」で待ち合わせて全額返す約束をした。金は出来次第早く返すと言うと、甲野はK宛に送ってくれと言った。
 飲み足りないということで乙林九久行きつけのスナック「エスカール」に行き、飲酒歓談した。会話の具体的内容は記憶にないが、反戦自衛官組織のリーダーから銃器奪取闘争の話が持ち込まれたという話はしていない。
   2 検察官の主張
 検察官は、飲食店「久富」では、甲野の外、M・L派元議長の乙谷、戊島社の乙原、共産同元活動家乙本十久、戊沼社の乙林九久などそうそうたる者たちと会合したこと、飲食店「久富」で被告人が三里塚闘争を批判したとの乙谷供述を指摘し、被告人の供述は信用できないと主張する。
   3 飲食店「久富」での会合の目的
 飲食店「久富」での会合について、被告人は、甲野から飲食店「久富」に誘われた機会に、友人を集め、飲酒歓談したもので、甲野と会った目的は、借金のためであると供述するが、前述のとおり、借金の点に関する供述は信用できない。
 会合の参加者は、甲野、乙谷、乙原、乙本、乙林九久らであり、いずれも新左翼の活動家あるいは新左翼系の出版社社員で被告人と親交を結んでいる者である。乙谷は既に新左翼の活動から手を引いていたと供述するが、被告人の同人宛の手紙(符66)によれば被告人はともに闘っていくための意見交換等を申し込んでおり、また何回か被告人と面談しており、飲食店「久富」にも会わせたい人がいると言われて行き、甲野を引き合わされ、元京浜安保共闘、現在は日大文理を組織し、日大闘争に関与している者と紹介されていることから考えると右供述は俄かに措信し難く、乙林九久を紹介する目的だったとの被告人の供述も措信できない。少なくとも被告人は乙谷をともに運動をする者として働きかけていたものと認められる。
 このような参加者の顔振れから考えると、単なる飲酒歓談の場とはいえず、何らかの他の目的があって会合したものと解する余地もある。しかしながら、会合目的に関する甲野供述には前述のように信用性が認められないこと、飲食店「久富」は丙原の行き付けの店であって、被告人は初めて入る所であること、乙林九久、乙本、乙原らはそれぞれ別々に来て途中から参加し、Jらは会合の終了寸前に来るなど、人の集まり方がばらばらであること、他に会合目的に関し信用できる証拠も存しないことに照らし、それ以上は確定できない。
   4 飲食店「久富」における会話内容
 乙谷は、飲食店「久富」での被告人の発言内容について、既存の新左翼はだめであること、京大C戦線に対する批判、三里塚闘争の批判等であったと供述する。
 その信用性についてみると、第一に、その点に関する供述は、四七年から一貫している。第二に、乙谷の47・1・25PS(書37七七四六)の内容は、被告人が甲野を元京浜安保共闘で現在日大文理を組織していると紹介したこと、被告人が三里塚闘争を批判し、京大C戦線に対し怒っていたこと、戊畠が来たこと、京大C戦線の話の最中に乙本十久が来たことなど、甲野の供述より具体的で詳細な部分があり、記憶は明確であったことが認められる。右の点から考えると、乙谷の供述内容は具体的であり、十分信用できる。
 したがって、単なる雑談であったとの被告人、乙原らの供述は、供述内容も漠然としており、乙原供述に照らし信用できない。また、会話内容についても甲野供述が措信できないのは、前述のとおりである。
 以上の次第で、会話内容は、既成の新左翼の批判、三里塚闘争に関するものであり、被告人の発言は三里塚闘争等に関し、当時の被告人の考え方を背景に発言したものと認められ、内容はレストラン「アラスカ」などにおける発言と大差のないものであったと考えられる。
   5 スナック「エスカール」における会話内容
 スナック「エスカール」における会話内容については、甲野供述は乙山の身元調査に関しては措信し難く、他の関係者の供述に照らし、雑談であったものと認められる。
 なお、乙林九久は、スナック「エスカール」で被告人から甲野に借りて乙丘の渡航費用の工面がついたと聞いたと供述しているが(証23七二一一)、同人以外にその点について言及した関係者はいず、同人の供述が事件後一〇年以上経過した後の供述であり、その他の点についてはほとんど記憶がないと供述していること、前述のようにこの段階で渡航費用の工面に苦労していたとは考え難いことから判断すると、乙林供述は俄かに措信し難い。
  八 甲野が被告人に持ち込んだ話
   1 供述の概要
 (一) 本件調書
 甲野から、乙山が甲野に対し自衛隊の制服とか歩兵操典の類いの物が入手できるが、そのためには金が必要だという話を持ち込んでいることを聞かされたことがある。具体的な金額が出たか憶えていない。当時、被告人が著作物の中で、国家権力から武器を奪取して人民を武装させるという考えを発表していることを背景に、被告人にとっても自衛隊の制服が必要ではないかと暗に示しながら、被告人に金を出させようとしているものと思った。甲野が本当に自衛隊の制服を入手できるのか、本当にその気があるのか判らなかったが、それまで何回か甲野に会い、人間的なものに共感する点もあり、同人に協力してやろうという気になった。金を作ってやる約束をしたかもしれない。このような甲野の話がいつ持ち込まれたのか正確には憶えていないが、送金よりいくらか前だったと思う。聞いた場所ははっきりしない。
 (二) 公判供述
 前記七月名古屋会合の項で述べたように甲野から自衛隊の制服等の売買、ブローカー絡みのような話があったが、すぐ断り、代わりに甲沢を紹介したと供述する。
   2 甲野供述
 甲野は、乙山から持ち込まれた武器奪取計画を実現するため資金がいるということであると供述するが、甲野供述は前記のとおり信用できない。
   3 公判供述の信用性
 前記七月名古屋会合の項で判示したとおり、被告人の公判供述は措信できないものである。
   4 本件調書の信用性
 (一) 第一に、権力からの武器奪取について、被告人は、自己の著作でこれを主張したものはなく、武器奪取を考えたことはなかったと供述する。なるほど、被告人の著作において武器奪取を具体的に明示し主張したと認めるに足りるものはないが、過激な武装闘争については、多数の著作で主張していることが明らかである。被告人は、爆弾闘争など過激な武装闘争を主張し、三里塚闘争について、闘争する側が敵を「殺す質」を持つべきことを示唆し、武器を使い、本気で勝つことを考えよと呼びかけ(三里塚パンフ二四頁、二七頁)人民武装を強力に主張していた。更に闘争方法について、違法な方法であっても敵の物をとることはいいことであるという価値観を持っていたこと(四月九日付け週刊朝日四八頁(書41九〇八二)、右は既存の新左翼諸派が闘争資金をカンパさせる点を批判し、闘争資金は労働でも銀行強盗でもいいから自分の手をよごして獲得すべきであるという文脈で述べられたものであるが、被告人が敵の物をとることを一般的に肯定している点は認められる。)、京浜安保共闘を立派であるとし(前掲週刊朝日五〇頁)、その銃器強奪闘争等について、暴力派が自らを革命暴力へ高めるべくその方向を模索したものと評価したこと(中国書簡三九丁)に照らし、既成の新左翼運動を批判し、より一層過激な武装闘争による暴力革命を目指し、三里塚闘争でもより一層激越な闘争形態を主張していたことは明らかであり、これに反する被告人の公判供述は信用できない。
 したがって、権力からの武器奪取闘争に対しては、決してこれを否定するものではなく、逆に、極めて好意的な評価を持っていたと認められる。このように、過去に、従来の水準を質的に超えた殺傷能力もある武装闘争を主張し、権力からの武器奪取闘争に極めて好意的価値観を持って多数の著作を発表している被告人が、捜査段階で、検察官の取調に対し、自己の著作物の中で権力からの武器奪取に基づく人民の武装闘争の考えを発表していたと供述してもあながち不自然ではないのであって、右供述部分が一部正確ではないからといって、直ちに信用できないと断ずることはできない。
 (二) 第二に、甲野の人間的なものに共感する点もあったという供述部分について、弁護人、被告人ともこれを強く否定するのであるが、四月旅館「津乃村」、五月文学部長室等での会話、六月に、二日酔いをおしての下田病院への見舞など、これまでの被告人と甲野の交際の経緯、犯行後の逃走援助に照らし、不自然ではない。むしろ、日頃の言動にいい加減な部分のある甲野に対し、被告人が入れ込んだ理由として、人間的なものに共感する点もあったという理由は正鵠をえたものであり、右供述部分は被告人の胸中を吐露したものとして、本件調書における供述の信用性を増強するとさえいいうるものである。
 (三) 第三に、問題とする被告人の供述部分は、被告人が甲野の考えを推測し、それに協力する気になったと述べた点である。被告人は、送金という客観的事実を前に、その送金理由を弁解する必要にせまられたはずであるのに武器奪取との関連を肯定した供述の生成過程について、何ら合理的弁解をしていない。
 (四) 以上の点から考えると、甲野が持ち込んだ話に対し、被告人が協力してやろうという気になり、結局送金したことと武器奪取との関連性を肯定する本件調書は、十分信用できる。
   5 会話時期
 (一) そこで被告人と甲野との間に何時何処で右のような話がなされたかが問題であるが、被告人は本件調書では日時場所については記憶がないと供述しており、被告人供述からは確定し難い。
 (二) ところで、甲野は、本件犯行前、京浜安保共闘の者であるように装い取材を受けたが、その記事をみると、「権力からの武器奪取は続けていく。自衛隊からカービン銃を奪取する計画も立てている。それに、手榴弾がほしい。」(週刊朝日三月五日号、符49)、「こんごは、より大きい効果、価値のある武器を奪取していく闘争をくんでいる。対象は敵の軍隊、つまり自衛隊だ。自衛隊からライフル、爆弾を奪う。」(朝日ジャーナル五月二一日号、符3)などとあるところ、これらの記述は、その内容に照らし、担当記者の発想とは到底認められず、正に甲野の発想そのものであったと認められる。これらによると、甲野は、真岡猟銃強奪事件に続く闘争として、一貫して自衛隊からの武器奪取闘争を考えていたものであり、甲林から乙山の話を聞き、喫茶店「ヴィクトリア」で乙山から直接その話を聞き、具体的な武器奪取闘争を計画したものと認められるが、その具体的な日時までは認定できない。
 したがって、甲野と被告人との会話が名古屋会合の際なされた可能性も考えられる。しかし、被告人は飲食店「久富」から帰阪直後九万円を乙丘に渡しており、既に五万円の資金援助が約束されていたのであるならば、飲食店「久富」で被告人は甲野に右金員を渡すのが自然と解されるが、前記のとおり飲食店「久富」で五万円の授受がなされたとは認められない。これらの事情は、名古屋会合で資金援助の約束があったと認定するには、否定的な論拠といえるものである。
 (三) 他方、乙山の旧供述には喫茶店「ヴィクトリア」で制服の引渡時期を七月二〇日と約束したと述べているものもあり、被告人の送金が七月二三日であることを考えると、喫茶店「ヴィクトリア」後に前記のような約束がなされたと解する余地も存するのである。
 (四) 結局、証拠上は確定し難く、名古屋会合から送金までの間になされたと認定する外はない。また、場所についても、証拠上確定できない。
  九 送金の趣旨
   1 供述の概要
 被告人は、七月二一日、アルバイト先の難波予備校から四五万円を借り受け、同月二三日、現金四万円を、「ボウハラ(甲野の偽名)ニワタシテクレ、イチマンタリヌ、ワビル、タキタ」と記載した通信文を添え、電信為替により、Kに送金したが、これは八月一二日を最終期限とし、それまでに金の工面ができ次第返済する約束で借り受けた五万円のうち四万円を甲野の指示に従いK宛に送金して返済したものであり、残り一万円を八月一二日新宿の喫茶店「カトレア」で返済した。
   2 電信為替
 (一) 被告人は、原稿料の送金は電信為替だったので、決して特別の送金方法ではないと弁解するが、乙川二久供述もこれを裏付けるものではなく、首肯し難い。
 (二) 電信為替は、現金書留など通常の送金方法に比し料金が高い反面、早く到達する送金方法であって、この送金方法を用いたことは、被告人が送金を急いでいたことを物語っていると認められるが、八月一二日を最終期限としたというのであればこのように急ぐ必要はなく、被告人の供述は客観的事実との整合性が低い。
 (三) 特に、借金を本来の返済期日より早く返すに当たり、一万円不足したまま返し、しかもこれをわびたという行動はちぐはぐであり、事前に四五万円も入手していたこととも整合性が低い。被告人は四五万円は他に使途があって甲野に返せるのは四万円だけであったと供述するが、それほど窮迫しているのなら四万円を期日前に返済すること自体不自然であり、被告人供述は納得できない。
 (四) また、送金した日の七月二三日、被告人は甲丘、戊林五也の両名と戊林五也の中国渡航の件について話をするため大阪で会い、その際被告人は甲丘から現金二万円を受け取っている。その趣旨について甲丘は、翌日東京へ行く旅費と供述するが、甲丘手帳の七月二三日の欄は、「甲川さん折る(2万)」という記載になっている。右記載は旅費という趣旨には読めず、被告人の尽力に対する甲丘からの礼金であると読む方が自然であり、金額的にも二万円というのは、大阪東京間の往復旅費としてはやや多いものであって、右甲丘供述は信用できない。
 そうすると、送金直後、被告人には二万円の臨時収入があったと認められ、仮にその内から上京の際の航空運賃、帰阪旅費等を支払ったとしても、その残金と自己の手持ち金と合わせれば一万円ぐらい容易に作れたはずであり、にもかかわらずこれを追加返済しなかったのは、被告人において最早この一万円を甲野に渡す気がないことを示すものであり、残額一万円が是が非でも甲野に返すべき金ではなく、甲野に五万円を渡すかどうかは被告人の意思に任されていた事情にあったことを物語るものである。
   3 関係者の供述
 (一) J供述
 Jは、送金前被告人からKかJ宛に送金するとの伝言を受け、送金が到達後、Kから、一万円を抜いていいだろうかと相談され、いいんじゃないかと言った、一万円を気楽に抜いた点からしても、送金された金は気軽なもののように記憶しており、闘争資金ではなかったと証言する。しかし、捜査段階では、Kから、甲野に渡すよう頼まれて現金書留封筒を預った、それは被告人から送られたものであるように聞いた、その封筒をよく見なかったので差出人が誰か、名宛人が誰か記憶にないと供述している(JPS書43九九〇一)。
 真実、闘争等に関係しない金であるのなら、捜査段階においても被告人からの伝言や、Kから一万円を抜く相談を受けて抜くよう答えたことなどを供述し、したがって闘争資金ではないと主張してしかるべきであるのに、そうせずに、あえてJ自身は表面的にしか関与しておらず、送金はもっぱら被告人とK側の出来事であるといわんがばかりの供述をした点は、J証言とは整合せず、証言の真実性に疑問を持たせるものである。
 もっとも、Jが右証言のごとく積極的に仲介したことを供述するとあらぬ嫌疑をかけられるおそれがあるため、必要以上に慎重になって消極的な供述をしたという可能性も問題となるが、差出人も名宛人も記憶にないという供述は、右調書中の他の供述に比べても消極的すぎるものであって(例えば、乙山に関する調査報告書のコピーを見たことについては、甲野からこれを見せられたが、『何とか委員会は……抹殺の用意あり』という言葉があり不快な感じがした、これを見せられた理由はよく判らないが、甲野が調査能力を誇示したのではないかと供述する(書43九九〇五)。調査報告書の中身の記憶を語るのに比べ、送金に関しては、差出人や名宛人さえも語らないというのは極めて消極的である。)、他の供述からはそこまで慎重、過敏になってはいないと認められる。
 以上に加え、J証言は、受け取った封筒は薄い茶色の社用封筒だと思うという点でも、捜査供述(現金書留封筒とする。)と相違すること、また、図書の部会に移動する時にKが寄ってきて封筒を預ったという点など、事件後一五年以上を経た証言としては明確、詳細にすぎ、特に、送金の趣旨について気軽な金であったというのであるなら、送金は、さほど印象も強くない出来事であるはずで詳細な記憶が残るのはやや不自然であり、証言が真実記憶に基づくものかどうか疑わしい。
 更に、Jは被告人の友人であり、四六年当時被告人と親密な関係にあったばかりか、本件裁判においても、自ら証言しているように特殊な立場にあることなどを考慮すると、J証言は信用し難い。
 (二) 被告人の弁解に従えば、貸金の授受は飲食店「久富」で行われたことになるが、前記のように乙林供述は明確な供述ではなく俄かに措信し難く、他にこれを裏付けうる証拠はない。
   4 甲野が被告人に持ち込んだ話との関連
 前述のように被告人は甲野の申出を受け、甲野に協力する気になり、四万円を送金したものと考えられる。
   5 本件調書
 甲野の側からみると、甲野が被告人に話を持ち込んだ目的は、被告人から資金を出させるためであるが、約束した五万円という金額は当時としては決して少額ではないこと、被告人の資力は余裕のある状態ではなかったこと、現実に当初の約束より一万円不足する額が送金されたが、このことは五万円という金額自体、被告人が簡単には拠出を約束しなかったことを物語ることに照らし、甲野は、被告人に手に入れた制服等が闘争の有力な手段となりうることを理解してもらう必要に迫られていたと認められる。そして、甲野は、かねてより武器奪取を持論として唱えていたこと、喫茶店「ヴィクトリア」で乙山の話を聞き、弾薬庫等に興味を示し、武器奪取を実現する可能性もあると認識したことからみて、制服の入手により自衛隊駐屯地内への侵入が自由にでき、武器奪取闘争を含む過激な闘争が可能となることを被告人に理解させようとしたはずであり、前述の被告人供述(第五、八、1、(一)において、送金と武器奪取との関連性を認める点は、このような甲野の認識と立場によく整合し、信憑性がある。
 ところで、右被告人供述において、甲野が制服と武器奪取との関係を「暗に示した」という部分は曖昧であるが、右部分は甲野から武器奪取に関する発言がなかったともとれる記載であって、捜査官がこのような曖昧な形に供述を誘導し、あるいは勝手に記述したとは認められず、この部分は、被告人が甲野との謀議を徹底的に否認した結果生じた記載とみられるのであって、信用性が乏しく、甲野は、武器奪取の可能性を何らかの形で被告人に伝えたものと推認される。なお、被告人は、右調書で、本件の送金が自衛隊の制服等の入手代金かどうか曖昧な供述をしているが、前述のように本件の送金は借金の返済ではなく、また、本件の送金以外に被告人が甲野に送金した事実もないのであって、本件の送金が甲野から持ち込まれた話に対応してなされたものであることは明白である。
   6 まとめ
 本件送金の趣旨について、これが借金の返済や単なる売買代金ではないこと、被告人と甲野がそれまでの会合で意気投合していたこと、送金前後に甲野が、乙山との接触、メンバーのオルグ、ヘルメットの窃取など闘争の準備をしていたこと、本件犯行前後の被告人の発言(殊に後述のKへの発言)、甲野から被告人に武器奪取の可能性を伝えていたこと、犯行後間もない八月二四日甲野が被告人に連絡をとったこと、被告人が甲野の逃走を援助したことに照らし、本件送金は、制服等を用いて武器奪取をする考えのある甲野に協力するためなされたものと認められる。
  一〇 中国書簡
   1 書簡の内容
 ハイツ闘争の当日である八月一三日、日中学生友好会の訪中団が中国に向かい出発したが、その最高顧問であった乙林九久に対し、被告人は、自己が執筆した同月一〇日付けの中国共産党宛の書簡(符7、69はその写し)を託した。右書簡には、自らを日本暴力革命=世界革命派戦士と名付けた上で、<1>「八月七日、我が暴力派は、……警視総監の公舎へ時限爆弾を、不発に終わったとはいえ、仕掛け、しかも同時に、……千葉県成田警察署の部分爆破に成功した。」(四〇頁)、<2>「三里塚空港阻止闘争は、……我々にとっても、……この闘いの暴力的人民的力量の質が、直接に、沖縄をめぐる今秋から来年にかけての闘争を規定するだけに、……局面的部分的にでも『勝たねばならぬ』天王山的位置を占めているのである。」(四一頁)、<3>「巨大にしてアナーキーな大衆武装の『火の海』の形成と、共産主義暴力の形成とを同時に、……追及し……共産主義暴力は、……『死をも恐れぬ英雄主義』の精神にのっとり、堅忍不抜の努力を傾けて人民に奉仕する心で、率先して闘い、誰の目にもわかるような仕方で、自己を人民の前にさし出し、人民の心を、その奥深い処で、とらえ、人民の諸々の怒りと苦しみ、苦悩に火を放ち、……人民大衆の、天性の、創造力と英雄性、勇敢さと大胆さを……解放し、……人民戦争の時代に突入しなければならない」(四二、四三頁)、<4>「我々は『一回の警察襲撃は一億の人民の生きた階級教育であり、五人一〇人の遊撃兵士は一億の人民を確実に代表する』ことを確信して突き進まなければならない……こうしたことの『論理』が確実に認識されはじめただけでなく、一歩一歩着実に現実のものとなり、実践されはじめたのである。模例が人民の前に大胆に提起されはじめたのである。」(四三、四四頁)、<5>「我々『日本暴力革命=世界革命』派は、『早すぎた蜂起=遊撃戦争』の複合軍事を英雄主義的に闘いとり、人民戦争へと真赤な水路を切り開き、米日複合軍事体制を打ち砕くであろう。」(五一頁)、<6>「我々『日本暴力革命=世界革命』派は、真赤なプロレタリア国際主義の旗を高々と掲げ、人民の先頭に立って闘うであろう。」(七八頁)などと記載されており、検察官は、これらの記述が被告人において本件一連の犯行を予告し、実行する決意を表明しているものであると主張する。
   2 検討
 (一) 中国書簡には、「本当に権力を寒からしめるような、計画され組織された、中枢突破の軍事」(三六頁)を主張する部分もあり、また、京浜安保共闘ピストル強奪・派出所襲撃闘争等を刻苦奮闘したものとして評価すると解される部分(三九頁)もあり、その意味で、右書簡の内容が武器奪取闘争と相容れないものであるとは認められないが、右書簡には、前記引用箇所を含め、ハイツ闘争を初めとする一連の犯行を具体的に匂わせる記述は存しない。
 結局、右書簡は、暴力革命を目指し武装闘争を志向する者たちが当時の爆弾闘争等に示されるような過激な闘争に出る決意でいることを表明するものであって、各記述を個々的にみても、また、これらを総合してみても、特定の団体が武器奪取闘争をすることを予告するものとは認められない。
 (二) 右書簡の役割について、秘密書簡であるという甲野供述は、措信できず、これに対し、被告人の前記訪中団の性格付けのため作成したとの供述は、右書簡の内容、訪中団が右書簡について学習会を開いたことなどに照らし、首肯できる。
   3 まとめ
 以上、検討結果を総合すれば、右書簡が本件一連の犯行を予告し、実行する決意を表明しているものとは認められず、検察官の前記主張は理由がない。
  一一 喫茶店「カトレア」、同「穂高」、むらさき寿司、第一ホテル
   1 供述の概要
 (一) 被告人は八月一二日午後一時ころ、喫茶店「カトレア」で中央公論の編集者と会った。甲野は、約束した二時少し前に来た。編集者が帰ってから、甲野に借金の残金一万円を返し、雑談した。甲野はKから四万円受け取ったと言った。被告人は予備校から借金したことを話した。甲野の原稿の話から、甲野が今まで原稿ばかり書いてきたが、物書きばっかりやっていてもつまらない、何かでかい事をやると言い、何やるんやと問い質すと、明日の朝刊を見てくれと言われた。
 (二) その後喫茶店「穂高」に行き、乙丘を連れ出して三人でむらさき寿司へ食事に行った。甲野は友達に借金で首の回らぬ者もあり、頼りにされて困っているなどと言った。
 (三) 当夜は乙丘と第一ホテルに泊まったが、その際中国で聞かれた場合に備えて被告人の活動歴を話した。乙丘に甲野の人物評をした記憶はないが、聞かれれば答えたかもしれない。翌朝甲野の言ったことを確かめるため朝刊を見たが、乙丘との会話は記憶にない。
   2 会合場所
 (一) 被告人と甲野が八月一二日会った場所について、甲野は喫茶店「穂高」と言い、被告人は喫茶店「カトレア」と言う。
 乙丘のPSによると、乙丘は被告人と待ち合わせた喫茶店「穂高」においてエスカレーターで上がってくるのがよく見えるボックス席で三〇分位待っていると被告人が甲野を連れてきて、すぐむらさき寿司へ行ったと供述している(47・1・23PS書37七九四二)。
 乙丘は事件当時被告人の愛人であり、その後も交際が続いており、その供述の信用性は慎重に検討すべきである。
 乙丘の47・1・23PSでは、後述のように被告人の不利益となる事実についても供述され、乙丘は五七年に取調を受けた際、四七年当時述べたことは正しいと供述しており、右五七年供述には捜査官への迎合など信用性を疑わせる事情は認められないことに照らし、四七年供述は信用できる。したがって、会合場所に関する甲野供述は、右乙丘供述と矛盾し、措信できず、被告人は甲野と喫茶店「カトレア」で会ったものと認められる。
 (二) 会合日時の約束については、前記のとおり被告人の飲食店「久富」での返済約束に関する供述は措信できず、他に信用するに足る証拠は存せず、具体的には確定し難いが、少くとも事前に会合の約束があったものと解されるものの、その具体的内容は判明しない。
   3 会話内容
 (一) 既に被告人が甲野の武器奪取闘争の闘争資金を送金していること及び捜査段階では黙秘した五点中の一つであることから考えると、被告人供述よりも突込んだ具体的な話があったとも推測される。しかしながら、会話内容に関する甲野供述は、前記のとおり措信し難く、後述のように、被告人はそれぞれ別の機会に乙丘、Kに甲野が何かやると漏らしていたことを口外しており、殊に乙丘と被告人との関係からすれば被告人が乙丘に真実を隠していたとも考えられない。そうすると、被告人の供述は、関係者の供述とも符合し、信用できるものと解されるので、被告人の供述どおりの会話があったものと認定する。
 (二) また、中国書簡の話については、甲野は一貫して供述しており、既に46・11・29KSで述べているところである。
 捜査官が中国書簡を中西から押収し、その具体的内容を知ったのは四七年一月七日であり、甲野が八月一二日の会合以外に中国書簡を見る機会は全く存しなかったのであるから、甲野供述は信用性が高く、これに反する被告人の供述は措信し難い。
 したがって、甲野は被告人から喫茶店「カトレア」において中国書簡を見せられたものと解するのが相当である。しかしながら、中国書簡が甲野供述にいう秘密書簡でないことは既に論じたところである。
   4 むらさき寿司
 むらさき寿司における会話内容についても甲野供述は措信し難く、また被告人の供述もその内容は漠然としており、明確なものではない。
 乙丘PSによると、甲野の借金返済が切羽詰まっており、その対応策を被告人と甲野の両者で相談し合い、小切手の話も出たとのことである。乙丘PSは前述のように信用できるものと考えられるので、右供述どおりの事実を認定する。
 そうすると、被告人は、甲野の借金の相手方を事前に知っていたものと認められ、乙山に対して支払う三〇万円を踏み倒すことの相談に一脈相通ずるものがあるが、乙丘供述は、甲野供述とはその文脈において大きな隔たりがあり、会話内容については、その具体的内容を乙丘供述以上には確定し難い。
   5 第一ホテル
 (一) 被告人の供述は、自己の闘争歴を語った以外の点については記憶が曖昧である。
 これに対して乙丘は、47・1・23PSにおいて、八月一二日夜、新橋第一ホテルにおいて、被告人が、三時間近くにわたり、自己の思想的な変遷や闘争歴を話し、その後「自分も、もう三〇過ぎたんだから自分で人生を決めていかなければならん。男は三〇までにはけじめをつけて生き方をはっきりさせなければ駄目だ。昼間会うたあの戊原も相当な年だから自分の生き方を決めたがっている。けじめをつけるために何かやると漏らしていた。それがなあ、今晩何かやるんやと言っていた。」と言い、翌朝乙丘が、新聞を見ていた被告人に対し、載っているかと尋ねたところ、被告人が「何も載っていない。」と答えたと供述する。しかし、公判準備においては、新橋第一ホテルで、被告人から、甲野が活動家としてやっていきたいという欲求を持っていると聞いたというもので、一二日の夜に何かやるとの話は聞いていないと供述する。
 (二) 前記のとおり乙丘PSの一般的信用性は高いと認められる。また、当日、被告人と甲野は、喫茶店「穂高」で乙丘と会う以前に、二人だけで会話し、その際、被告人は、甲野からその日に闘争をすることを聞き知っていたが、乙丘の四七年供述は右の被告人の認識と整合する。また、四七年供述の内容は、そのとおりの会話であったのであるなら、被告人が甲野の闘争計画を具体的には知らなかったことを帰結しかねないような内容であって、捜査官がむりやり虚偽を供述させたとは解し難い。四七年供述の時期は右会話後約五か月であり、しかも乙丘が中国に渡航する前の晩の特異な体験であって、記憶は比較的鮮明であったと解された。
 これに対し、公判準備における供述は、全体的に記憶が稀薄化しており、曖昧な供述が多く、確たる証言とは言い難い。しかも、乙丘の四七年、五七年供述と矛盾すること、特に、被告人から、甲野が活動家としてやっていきたいという欲求を持っていることを聞いたという点は、前記ホテルでの会話後一四年以上経て供述されたもので、そのような話になった経緯も不鮮明で、真実の記憶に基づく供述かどうか疑わしい。加えて乙丘は被告人逃亡後も被告人と接触するなど被告人と親密な関係にあり、被告人に好意的な供述をし易い立場にあることをも考慮すると、右供述は到底信用できず、乙丘PSの信用性は十分存するものと認められる。
 (三) したがって、ハイツ闘争直前、被告人が乙丘に対し、その日甲野が何か闘争を行うとの発言をしたと認められる。
  一二 スナック「パピヨン」
   1 供述の概要
 被告人は八月一三日乙丘を羽田に見送った後、甲海と会い、その後飲酒歓談し、当夜は同人方に泊まった。同夜Kとスナック「パピヨン」で飲酒したことはない。
   2 K供述
 (一) 供述の概要
 Kは、午後六ないし七時ころ銀座の朝日新聞社において、被告人から、今会社の近くにいるが、Jはどうしているか、という電話を受け、今日は組合の出張で熱海か伊東に行っているので戻らないと返答した。今晩あいているから付き合わないかと誘われ、飲む約束をし、朝日新聞社で待ち合わせた上、被告人とともに阿佐谷へ行き、駅前のパチンコ屋に入り一時間ほどパチンコをした上、同日午後九時ころスナック「パピヨン」に入り飲食した。その際、被告人が甲野は依頼心が強く、夕方会うことになっていたのに約束の場所に現われなかった、被告人が苦しい中から金を作ってやったのに何もやらなかったと話し、甲野のことを「あかん奴だ。」と怒っていた。スナック「パピヨン」を出て被告人を自室に泊めた(K47・1・30PS書34七一三三)。
 (二) 一般的信用性についての弁護人の主張
 弁護人は、Kの右捜査供述は、捜査官がKを責めるなどし望むがままのものを作り出したものであり、右調書を録取した長山検察官に対し、記憶に従って供述し、供述のとおり録取されたとのK証言は、捜査官の圧力に負けて責任転嫁のための供述をしたことを認めたくないためになされたものであると主張する。
 しかしながら、弁護人は他の供述者の関係では、捜査供述と公判供述とが一致していることを信用性を認める有力な論拠としているので、K供述のみ別個の論理を用いてその信用性を攻撃するのは、誠に首尾一貫せず、ご都合主義的といわざるをえない。
 その点はさておくとしても、四七年一月段階の甲野供述は八月一三日午後八時ころ、喫茶店「タイムス」で被告人から電話を受け、被告人から激励を受けたというものである。ところが、Kの前記PSでは、被告人がスナック「パピヨン」で電話を架けたかどうか覚えていないが、あるいは架けたかもしれないとの供述がなされておる。弁護人主張のようにKが捜査官の圧力に負けてスナック「パピヨン」で被告人と会ってもいないのに、会ったと虚偽を供述したのであるなら、右架電について、ことさらこのような曖昧な供述をするはずがなく、捜査供述は、その大筋において、捜査官に押し切られたものとは認められない。
 Kは、当公判廷においても記憶が稀薄化した点は別としても、記憶の存する部分については大概捜査供述と同旨の供述をしており、供述の一貫性が認められ、その一般的信用性は高いものと解される。
 (三) 弁護人の個別的主張
  (1) 更に弁護人は、Kが八月二三日旅館「小富美」で甲野をインタビューした際被告人との関係を質す質問をしておらず、スナック「パピヨン」で既に話を聞いていたことと整合しない、スナック「パピヨン」でKが更に具体的な内容を突込んで聞いていないのは記者の行動として不自然である、飲んだ場所が有楽町ではなく阿佐谷であり、しかも一時間もパチンコをしているのは不自然である、甲海供述と相反している等々を理由としてK供述は虚偽であり、四六年一一月K方に被告人を泊めた事実を意図的にずらして供述したものであると主張する。
  (2) 場所的問題
 まず場所的問題については、Kは、被告人と近付きになるため被告人が泊まりたいと言えば泊めるつもりだったと供述しており、有楽町から阿佐谷まで行ったことは何ら不自然ではない。
 また、弁護人は、パチンコを一時間もしたのは不自然であると主張するが、Kは甲野とも八月一九日ころ本件犯行の準備状況を写真撮影した後一時間位パチンコをし、その後飲食店「みみずく」で飲んで自宅に連れ帰った事実も認められ(K47・1・31PS書34七一六二)、Kが当時パチンコに凝っていたことが裏付けられている。また被告人は、六月レストラン「アラスカ」でパチンコの景品のタバコを同席者に配っていたとの事実も関係者の供述から認められ、被告人もパチンコ好きだったものと解される。Kも自認するように、新聞記者は朝遅く夜も遅くまで行動する夜型の行動パターンであることから考えると、同好の士二人が時間も早かったのでパチンコに寄ったと解しても決して不自然とはいえない。
  (3) 取材態度
 次にスナック「パピヨン」でKが被告人に突入んだ取材をしなかった点については、同人がそれまでは被告人とは疎遠な間柄にあり、Jを通じて付き合い、一対一で飲酒歓談するのはスナック「パピヨン」が初めてであること、Kは甲野に何回か騙されており、甲野の行動には不信感を抱いていたこと(このことは、現に八月一九月ころには甲野の言を信用せず、犯行準備品を直接見聞するとの新聞記者としての矩を超えた行動をなしたことからも窺われるところである。)、被告人の話は、甲野が何もやらなかったというものであり、事件が発生したとの話に比すれば、格段に取材価値が低いこと等を考慮すると、直ちに被告人の話に飛び付かなかったとのKの供述をあながち不自然とまではいえず、弁護人のこの点に関する主張も採用し難い。
 また、八月二三日旅館「小富美」でのインタビューで被告人の関与の有無を甲野に質していないのは弁護人指摘のとおりである。しかし、後述のようにKは被告人から事件直後に電話を受けており、スナック「パピヨン」での話も被告人が本件の主犯者であるとの供述ではないことから考えると、新聞記者の行動としては迂闊とは評せようが、不自然とまでは解し難い。
  (4) 甲海供述
 甲海一介は、八月一三日午後四時ころ、有楽町の「松崎せんべい」で被告人と会った、Kも一寸顔を出したがすぐ帰った、その後被告人と二人で有楽町付近、更に池袋の「笹」で飲酒した後被告人を自宅に泊めたと供述している(七〇回証22七二三〇)。
 甲海供述は、K供述と真向から対立するものである。しかし、甲海供述は、事件後一五年以上経て初めてなされたものであり、編集者と著者との会合は、同人の職業柄日常茶飯事と認められ、特に記憶に残り易い出来事とも思われない。しかも当時の行動を記録したメモ、手帳類も存しないのに供述内容は具体的で、真実記憶に基づくものか疑問が残るといわざるをえない。それに加え、被告人の逃亡については中心的役割を果たすなど、被告人と親密な関係が続いており、中立的な証人とは到底いえず甲海供述はたやすく措信し難い。
  (5) 意図的な虚偽供述の主張
 更に、一一月の出来事を故意にずらしたとの主張について検討する。
 確かに、当時のJの手帳一冊(符64)によると、同手帳は、Jが備忘及び日程の調整等に用いていたもので、取材、会合、出張、買物、飲み会の日程等、公私を問わずJの行動予定がほぼ網羅されているところ、八月一三日に泊まり掛けで熱海または伊東に出かける予定があったことは記載されていないので、この点において、K供述は客観的証拠との整合性が低い。
 しかしながら、Jも右手帳は必ずしも自己の行動全てを記載したものではないと述べている(JPS書43九九一六)。また被告人が当日Jに会わなかったことは、J、被告人自身も認めているところであり、J不在のK供述を一部裏付けている。しかも、被告人とK、Jとの交友状況を考えると、被告人はJとは親密な関係を結んでいたが、Kと一対一で飲酒歓談するのは初めてであり、その飲酒するに至った経緯についてのK供述は内容が自然であり、経験した事実を語っているといいうるものである。
 その上、K供述は、後述の一〇月旅館「小富美」での被告人の発言とも照応しており、また会話内容も具体的で事件後の会話とは到底解されず、一一月の出来事であるとの弁護人の主張は到底採用できない。
  (6) 以上の次第で、弁護人の主張は、いずれも理由がなく、KPSの信用性は高いものと認められる。
 ただ供述内容中、甲野が夕方約束の場所に現われなかったという被告人の発言については、甲野の供述中に成功すれば会う約束だったと述べた部分もあるが、全体的にみると、この段階で被告人と会う約束があったとは供述していず、甲野供述と符合していない。甲野が、自己保身などのためにこの約束を隠す必要はなく、またこの約束があったことと、近接する「タイムス」謀議とは必ずしも矛盾するものではなく、捜査段階でこの約束を供述すべき機会はあったと考えられる。
 確かに甲野がハイツ闘争が失敗に終わったため面目が立たず、被告人との約束の場所に現われなかったことも可能性の一つとしては考えうるが、本件証拠上は確定し難い。したがって、会合約束に関するKPSは甲野供述の裏付けを欠き、信用性に疑問が残る。
   3 被告人供述
 被告人の供述は、既に説示したところから明らかなように、信用性の高いK供述と矛盾するもので措信し難い。
 したがって、八月一三日スナック「パピヨン」で被告人がKに対して甲野は依頼心が強く、苦しい中から金を作ってやったのに何もやらず、あかん奴だと怒っていたと認定する。
  一三 Kへの架電
   1 供述の概要
 被告人は、八月二二日本件のテレビニュースを見て、赤衛軍の存在を知り、自分の不明、認識不足をわびるためKに電話した。Kに、見たか、赤衛軍というのはあったなと言った。甲野への伝言を頼んだかもしれないが、記憶はない。
   2 K供述
 八月二二日午後零時半ころ、被告人からKの自宅に電話がかかり、「ニュースを見たか、甲野はあんなこと言っていたけれどやっぱりやったんだなー。判らん男だ。すごいことをやった。甲野に会ったらよろしく言ったと伝えてくれ。」と言われた。
   3 検討
 被告人の供述はかなり曖昧であるが、特にK供述を否定するものではなく、K供述は具体的であり、前記のごとく一般的信用性も高いので、K供述どおりの架電内容と認定する。
  一四 予備校での受信
   1 供述の概要
 八月二四日、予備校にいるとき甲野から電話がかかってきた。声の調子からして大変深刻な感じを受け、どうするかと聞いた。甲野は、情勢が厳しくなりそうなので国外逃亡も考えている、力を貸してもらえないか、と逃亡の協力を求めてきたのでこれを承諾した。頼まれたら嫌とは言えない性格である。上京の予定があるので会おう、上京予定についてはJに言っておくから聞いてくれと伝えた。その際本件を偉大な勝利だなどと言って褒めてはいない。被告人の美意識に反する。またKとの連絡を切れとも言っていない。
   2 Kとの連絡
 Kとの連絡の件については、既に甲野の項で検討したように、K、J供述が信用できる。右各供述は被告人の供述を裏付けているので、この点に関しては被告人供述も信用できる。
   3 本件の評価
 本件の評価に関する会話内容については、被告人供述と甲野供述とが前述のように異なっている。
 既に詳述したように、被告人はもともと暴力革命を目指し、従来の新左翼運動を超える過激な武装闘争を主張していたものであり、日本読書新聞にも本件を積極的に評価する論稿を寄せている。これらの事実に鑑みると本件は被告人の美意識に反するとの公判供述は全く措信できない。
 また、被告人は、前述のように、八月二二日Kへの架電の中でも甲野の行動を評価している。
 以上の点から考えると、甲野供述の中で被告人がなした本件の評価に関する部分は、被告人の従前の主張、行動及び本件前後の言動と合致しており、信用できるものと認められる。
   4 逃亡の協力依頼
 逃亡の協力依頼の点については、甲野供述は全くこれに触れていず、後述の九月浅草での会合の際初めて逃亡しろと言われたと供述している。
 八月二四日段階どころか逮捕されるまで、甲野は全く逃亡の準備もしていず、国外逃亡の協力依頼があったとの被告人供述は、当時の甲野の行動とも合致せず、唐突な感を否めず、信用性に疑問が残る。
   5 会合約束
 被告人が上京した時会う約束については、被告人供述及び甲野供述が一致しており、そのような約束がなされたものと認められる。
  一五 日本読書新聞
   1 記載内容
 被告人は、八月下旬に執筆した日本読書新聞九月六日号の「方位」というコラム欄において、本件について、「八月二二日には、帝国主義軍隊解体=朝霞自衛隊闘争……が……闘われ、ここに、日本は、本格的な非合法遊撃戦争の時代へ突入したのである。遊撃戦争は、……自衛隊を、帝国主義軍隊解体闘争の貫徹によって、自らの射程にとらえ、かくしてはじめて、具体的に、世界革命戦争の国際主義任務に応えようとしているのである。“機動隊・自衛隊”を打倒し解体し尽そうとする政治軍事闘争は、……『必らず』人の心をとらえ動かし、人々に、闘う勇気と不退転の決意を与えるのである。彼ら遊撃戦士は『死をも恐れぬ英雄主義』の精神にのっとり、堅忍不抜の努力を傾けて、人民に奉仕する心で、卒先して闘い、誰の目にもわかるような仕方で、誠を尽くして闘っているのだ。権力も資本も機動隊も自衛隊も人民の敵である。……遊撃戦士はこの人民の敵を解体し打倒しようとしている。我々は彼らと彼らの行為を支援しなければならないだろう。」などと主張し、本件闘争を賞賛し、本件を担った甲野らに賛辞を贈っている。
   2 被告人供述
 これに対し、被告人は、本件を帝国主義軍隊解体のプロパガンダ闘争として評価するものであって、自衛官が死亡した点は、これと整合せず、評価できないと供述する。
 しかし、右方位欄の記載からはそのような限定を読み取ることはできず、むしろ同欄では、凶器を用いて派出所を襲撃しピストルを強奪しようとした京浜安保共闘ピストル強奪・派出所襲撃闘争、機動隊約三〇人が重軽傷を負った沖縄返還協定調印阻止闘争等、相手を殺害しかねない他の闘争についても、好意的論述をしている。しかも被告人は、他の論稿において「警察の諸君死んでもらわなあかん。」(週刊朝日四月九日号、書41九〇八二)と主張し、三里塚闘争についても闘争する側が敵を「殺す質」を持つべきことを示唆するなど(三里塚パンフ符1、二四頁)、敵の死を肯定すると解される記述があることに照らし、前記の被告人供述は信用できない。
   3 まとめ
 以上、方位欄の記載からは、被告人が、本件犯行を全面的に賞賛していたものと認められる。
  一六 浅草
   1 供述の概要
 (一) 公判供述
 Jから甲野の逃亡について依頼された後、甲野と浅草の松屋デパート屋上で会った。甲野が赤衛軍の話を始めたので、聞きたくないと言って遮った。甲野が組織の方で二、三逃亡ルートを確保した、万一行き詰まったときにはよろしく頼むと言ったので、ホッとした。デパートから歩いて一杯飲みに行ったが、大衆酒場は甲野のいう「のぐち」ではない。そこでは甲野を褒めたり、逃亡ルートの話はしなかった。一時間位で別れた。
 (二) PS
 九月初めころ甲野と浅草松屋デパート屋上で会ったことはある、具体的にどんな話をしたか判然りした記憶はない。
 当時数人の人に甲野を国外に逃亡させられないかと頼んだことがある。第一には、甲野に対する同情があり、なんとか逃がしてやりたい気持があった。被告人の性格として、甲野に限らず窮地に立っている人を放っておけないという気持が先に出てしまう。同時に、被告人は当時甲野と繋りがあったこと、甲野に金を出してやっていること、甲野が本件を実行するにあたり、赤衛軍という被告人が著作物の中で用いた名称を使用していることなどから、この事件の責任について被告人に累が及んではかなわないという気持があったことも事実である。
   2 逃亡ルート
 既に甲野の項(第三、二二、2)で検討したように、大阪→和歌山の逃亡ルートに関する甲野供述には、Kらの裏付け証拠があり、信用できる。したがって、これに反する被告人の供述は措信し難い。
   3 会合場所
 被告人は、デパート屋上で話をした後飲みに行ったが、大衆酒場では事件の話など一切していないと供述するが、その供述自体不自然であり、「のぐち」で話し合いをしたとの甲野供述が素直であり、これを信ずべきものと解する。
   4 会話内容
 話の内容については、甲野の逃亡の件が主と考えられるが、甲野の言うように被告人の指示によるのか、あるいは被告人の言うように甲野の協力依頼によるのかの問題がある。
 (一) 被告人の公判供述
 被告人は、九月上旬、戊崎らに対し、朝霞事件に関係した人を中国に逃がせないかと相談したと供述し、右は戊崎供述とも合致し、信用できるところ、被告人は、右相談の動機について、八月二四日の電話の際、甲野から情勢が厳しくなりそうなので国外逃亡も考えている、力を貸してくれという依頼を受け、更に、九月上旬Jの実家に行った際、Kがなした甲野からの取材について、朝日新聞社側が警察に通報し、Kが苦境に立っている、甲野が逮捕されないよう逃がしてほしいと依頼されたためであると供述する。
 (二) 甲野の依頼
 甲野から国外逃亡の依頼があったという点は、被告人のPSにおいて、逃亡画策の理由の一つとして、窮地に立った甲野に対する同情があったと述べている。乙山は、九月上旬、甲野から、丁原はボリビアに飛ぶ、君はハンガリーからアルジェリアに出てパレスチナ戦線に加わらないかなどと国外逃亡を誘われたと供述し(乙山46・12・16PS書25四九七九)、右供述は具体的で、乙山においてこの点で虚偽を述べるべき理由もなく、信用できる。したがって、甲野の依頼があった可能性は否定できない。
 (三) Jの依頼
 Jからの依頼があったという点について、Jの公判供述も同旨であり、JのPSはこのような依頼をしなかったかに読めるものではあるが、右PS供述は責任回避のためとも解しうるもので、信用性が低い。また、Kは、甲野を取材したことから九月四日に警察の事情聴取を受け、その直後Jと会った際、Jから、九月五日に被告人が浅草のデパートの屋上で甲野と会うが、それは甲野を西の方にもって行き逃がすためであると言われ、これを聞いて甲野がうまく逃げれば自己の腕章の処分が発覚しなくて済むと考えたと供述すること(K47・1・23PS書33六九五一)に照らし、右被告人供述は関係者の供述とよく合致し、信用できる。
 (四) 被告人のPS
 被告人は、PSにおいて、逃亡画策の動機について、甲野に対する同情があったのと同時に、当時甲野と繋りがあったこと、甲野に金を出してやっていること、甲野が「赤衛軍」という被告人が著作物に用いた名称を使用していることから、事件の責任について被告人に累が及んではかなわないという気持があったと供述する。その信用性を検討するに、内容は、本件について甲野と謀議していないこと、「赤衛軍」建設について話し合っていないことを前提とする否認供述であり、既に検討したように不利益事実に関しては一般的な信用性は高い。ところで、被告人は、当公判において、自己が著作で「赤衛軍」なる名称を使ったのは一回のみであり、本件当時このことは忘却していたと弁解するが、「赤衛軍」の用語は、著作のタイトルとなった論文の締めくくりの部分においてスローガンとして用いられた、印象の強い言葉であること、右著作の刊行は三月であり、論文の公表時期をみても四五年七月でわずか一年程度前に過ぎないこと、被告人の蔵書の毛沢東選集第一巻に「民兵=赤衛軍」という書き込みがあり(符67、七九頁)、これも被告人がその重要性を感じて書き留めたものとみられることに照らし、本件後報道等で、「赤衛軍」と聞いても自己の主張を思い出さなかったとは考えられず、右被告人の公判供述は信用できず、PSがそれらの事実と整合し、信用性が高い。
 (五) K供述
 Kは、一〇月九日ころ、旅館「小富美」において、被告人が、甲野の逃亡を画策する動機について、六、七月ころ甲野を京都の被告人らのアジトに連れ回ったため、甲野が被告人らの組織や秘密を知り過ぎており、甲野が捕まると被告人らも危なくなるからであると述べたと供述する(K47・1・24PS書34六九六六)。アジトの連れ回りというのはこれを裏付ける証拠もなくやや不自然であるが、逃亡させないと被告人に危険が及ぶという点では右被告人のPSと一致しており、その限りでは右K供述も信用できる。
 (六) まとめ
 甲野供述は、被告人との共謀を前提とした上で、首謀者たる被告人から逃亡の指示を受けたというものであり、共謀についての供述が措信し難い以上、この点に関しても信用性に疑問が残るといわねばならぬ。
 他方、被告人供述についても、公判供述は必ずしも信用できないことは既に検討したところである。
 以上、逃亡画策の動機について、Jの依頼があったことは認められるが、これに尽きるとする被告人の公判供述は信用できず、右に加え、被告人自身に累が及ぶのを避けるという動機があったものと認められる。
  一七 九月甲丘宅
   1 供述の概要
 被告人は、頼みたいことがあるので御足労願いたいとの甲丘からの連絡を受け、九月三日一人で甲丘宅を訪問した。そこには戊月二助が同席し、甲丘から、むつ小川原の開発計画に対する反対運動を映画に撮る計画があるが、そのために映画監督の戊内三助を紹介してもらいたいという依頼を受けた。その際三里塚の青年の自殺の話をしたことはない。更に九月六日はその計画のスポンサーである甲島七夫と会うために甲丘と甲島宅に行き、浅草に一席設けてもらい映画の話をした。その帰り戊内宅に行きこの話を伝えた。甲丘から電話があり、九月一六日大阪の新阪急ホテルで甲丘、戊月三助と会い、右の話を進めてくれなどと言われた。間もなく南海ホテルで甲丘と会い、家庭教師を紹介してくれと頼まれた。一〇月初めに再び戊内に甲丘の話を伝え、一一月五日に甲丘、甲島と戊内とを会わせた。
   2 甲丘供述
 九月三日午後三時三〇分ころ、甲丘宅に来た被告人から、勝共連合、戊江五助、戊沢六助のことを尋ねられた。三里塚の青年が自殺したが被告人がその手記のコピーを持っていること、ナトリウムがあること、被告人らのグループは一人一人の責任でやって行くようになっており、横の連絡はつかず、一人が捕まっても他に累が及ばないようになっていること、急に金が必要なので覚せい剤とポルノ写真を買ってくれる人を捜していることなどの話を聞いた。右売買の件でもう一度相談に乗ってくれと言われ、九月六日晩翠軒で会うことにした。
 九月六日午後五時虎の門の晩翠軒で被告人と会った際、その晩甲丘が甲島七夫宅に遊びに行くことになっていたことから、これに被告人を誘い、甲島宅に行った。帰りの電車内で、被告人から、一人の若い子をどうしても逃がさなければならない、そのために七〇万円金がいるんです、とりあえず三〇万円位欲しいんです、これから一寸その打ち合わせに行かなければならないと言われた。
 九月一六日に被告人と会った際、被告人が、覚せい剤を入手できず、金を予備校から前借りしたと言った。
   3 九月三日の会合
 (一) 自殺の話
 甲丘は、三里塚の青年の自殺の話を聞いたと供述する。これに対し、被告人は、自殺した青年は、三里塚の青年行動隊に属する青年である戊橋七助という者で、自殺後間もない一〇月上旬ころ戊坂八助から、その青年の別れの言葉を書いた手帳を見せられたと供述する。右供述は具体的で客観的事実との不整合も窺われず、信用できる。したがって、九月三日に三里塚の青年の自殺関係の話が出ることはありえず、この点甲丘供述は不自然である。
 (二) 右翼の話
 Kは、前記浅草後の九月六日か七日にJから、被告人と甲野が会い、甲野を西に持っていける形が出来た、関西の部落の方に甲野を一時隠して船で海を越えさせる方法だ、被告人は左翼だが、右翼にも顔がきいているので、海を越えさせるのだという話を聞いたと供述する(K47・1・23PS書33六九五八)。
 また、甲丘手帳(符25)には、「戊江七助(戊井会)甲川兄」との記載がある。右記載は、被告人との関係で戊江の名前が出たことを示すものであり、被告人が同人の名前を九月以前に知っていたとは認められないのであるから(乙山の身上調査報告書に関する乙山供述が信用できないことは既に述べた。)、右記載は甲丘供述を裏付けるものといえる。
 したがって、Jが既に被告人との関係で右翼に言及しており、甲丘手帳の記載とあいまって、右翼の話に関する甲丘供述は信用できる。
 甲丘供述によると、勝共連合、戊江らのことを被告人に尋ねられ、戊沢が被告人の中国書簡を金で買おうと言っていると言われたことが認められる。
 (三) 組織の話
 被告人の組織の件については、既に七月の甲丘宅の項で検討したように、右翼の甲丘に対してそのような話をすること自体不自然さが拭えないところである。
   4 九月六日の会合
 甲丘供述において、九月六日は覚せい剤等の売買の件で会う約束であったのに、当日その話が出ずに、全く関係のない甲島宅に歓談に行った上、帰りの電車内で突然逃走資金の話になったという点は矛盾し、不自然である。
   5 逃走資金の調達
 九月一六日の会合に関する甲丘供述は、予備校からの借金は七月二一日であり、逃走資金の調達とは考え難く、また被告人が九月三日の段階で多額の費用を必要としていたのであるなら、これを九月一六日の段階で、まだ甲野が逃走してもいないのに、簡単に諦めたという点、不自然である。
 また、九月の一連の甲丘との接触は、甲丘供述によると甲野の逃走資金の調達目的ということになるが、前記のK供述及び被告人が当時知人に手当たり次第に外国への逃亡協力依頼をしていることに鑑みると、甲丘供述を無下には否定できない。
 しかしながら、他方甲丘手帳の九月一三日からの週の欄には「むつ小川原開発―憲法違反闘争」との記載があり、これは九月一三日、一四日の被告人からの架電及び一六日の新阪急ホテルでの面談が、甲丘のいうような薬とポルノの売買の話ではなく、被告人の供述するようなむつ小川原開発計画に対する反対闘争についての映画制作の話であることを窺わせるものであり、被告人の供述も俄かには否定し難い。
 また、甲丘手帳には、九月一六日に甲丘が被告人と会い、三人で食事をしたとの記載があるが、その一行上に「戊月」という記載があり、「三人」の意味は甲丘、被告人、戊月を指すとも読みうるもので(この点、三人目は被告人を乗せて来た自動車の運転手であるという甲丘供述(書40八七九八)はやや不自然である。)、この点は被告人供述を裏付けうるといえる。しかし、九月三日の欄に戊月が同席したという記載はなく、むしろ九月四日に甲丘が水戸へ行って戊月と会ったとの記載がある。一一月五日に甲丘が、午後一時に被告人と甲島、午後五時に戊内と会ったとの記載があり、甲丘、甲島、被告人と戊内とが一緒に会っていないことを窺わせるものである。このように被告人供述と整合しにくい記載もある。戊内三助は、被告人供述に沿う供述をするが、戊内と被告人との関係、体験してから供述まで長期間経ていることなどを考慮すると、信用性は低い。
   6 まとめ
 以上の点から考えると右翼の話に関する甲丘供述は信用できるものの、その余の部分については、甲丘手帳の記載に照らし、甲丘供述と相反する被告人供述の信用性も完全には否定できず、甲丘供述の信用性には疑問が残るといわざるをえない。
  一八 松本からの電話
   1 供述の概要
 甲野から電話を受けた時、潜行していると思っていたので意外に思った。党と軍との関係を長々と説明された。甲野から党が新しい闘争を計画しており、甲野の逃亡に構っておれないので、力を貸してくれと頼まれた。「ほんまかいな。」と聞くとプツンと切れた。
   2 検討
 前記のごとく、甲野の二期供述は十分信用できる。
 他方既に検討したように浅草で被告人と甲野とは甲野の逃亡の件で相談をしている。
 また、Jは、被告人が旅館「小富美」で朝日ジャーナルの原稿書きをしている時、甲野からの連絡がなくて困っていると被告人が言っていたと供述している(JPS書43九九一一)。更にKは、一〇月旅館「小富美」で、被告人が、松本からかけてきた甲野の電話に対して、尾行がついているのなら何故宿屋から電話をかけるのかと怒鳴ってやったと話しているのを聞いたと供述している(K47・1・24PS書34六九六六)。これらの供述は、特に不審な点も認められず、信用できるので、供述どおりの各事実を認定する。
 以上の認定事実に照らすと、被告人の供述は、相反するものであって措信し難い。
 したがって、甲野は特に理由もなく松本に行き、被告人に尾行がきつくて行けないと嘘の電話をかけたところ、被告人が「ほんまかいな。」と疑念を漏らしたことに憤慨し、電話を一方的に切ったものと認められる。
  一九 一〇月旅館「小富美」
   1 供述の概要
 一〇月初旬Kの依頼で朝日ジャーナルの原稿書きのため旅館「小富美」にかん詰めになった。その際被告人は、Kから同人が取材源秘匿の問題で社内では苦しい立場になっている事情を聞き、甲野は潜行しているだろうという話をした。しかし、被告人が甲野を六月ないし七月ごろアジトに連れ回っていろいろ見せて組織の秘密を知らせてしまったので、自分達も危なくなるという話やプレイボーイ誌の記事についての話はいずれも出なかった。
   2 関係者の供述
 (一) K供述
 被告人は、甲野を東京→松本→京都というルートで西の方に持って行き、暫く部落に隠して海を越えさせる、六、七月ころ甲野を京都の我々のアジトに連れて回って色々見せたため、我々の組織や秘密を知りすぎてしまったので、奴が捕まると自分達も危なくなるので逃がそうとしている、俺もそろそろ年貢の納め時だ、プレイボーイの記事を読むといかにも俺が甲野を指導してやったような事になっているが、本当にけしからん奴だなどと言った。スナック「パピヨン」で聞いた話と違うのでおやと思った(K47・1・24PS書34六九六五)。
 (二) J供述
 甲野からの連絡がなくて困っているとか関西の方に来させて部落にかくまうような趣旨の話を被告人がしたので、連絡場所にされては困ると言っておいた(JPS書43九九一一)。
   3 被告人供述
 被告人の供述は、Kの供述の裏付けを欠く上、それまで甲野の逃亡を援助していた被告人の行動とも相反するものであり、到底措信できない。
   4 K供述の信用性
 そこで、K供述の信用性を検討するに、被告人は、週刊プレイボーイ誌の記事を読んだことがないと供述し、弁護人はこれに加えて、右記事から朝霞事件の首謀者が被告人であると暗示されていることにはならないと主張する。しかし、当時被告人が甲野が朝霞事件の犯人であることを知ってその逃亡を画策し、にもかかわらず甲野が逃亡しないでいたところ、そのような状況下で朝霞事件に関する犯人との会見記事が出たのにこれを読まなかったとは考えられず、被告人の供述は信用できない。また、右記事には「赤衛軍」の組織の長について、聞いたらびっくりするほど名前を知られている人物で、文化人と思ってもらっていいという部分があるところ、そこで示される人物像は、活動家ではなく文化人に属し、しかも著名な人物で、闘争について過激な考えを持ち、甲野とのつながりのある者である。それまでの被告人と甲野との交際状況に照らせば、被告人がこれを読んだ際、右人物が被告人を暗に示すと考えることは当然であって、被告人は右記事を読んで自己を指していると考えたはずであり、前記K供述はこれと整合し、信用できる。
 ただ、甲野をアジトに連れ回って云々の話については、K供述以外にこれを裏付けうる証拠は存しない。甲野は、スナック「白樺」、同「もっきり亭」がアジトであるかのような供述をしているが、既に甲野の項で検討したように右供述は信用できない。甲沢が三里塚闘争に関与していた事実は認められるものの、アジトの話に結びつく証拠は存しない。したがって、この点に関するK供述には疑問が残る。
 しかし、前述のとおり、被告人は自己に累が及ぶことを甲野の逃亡協力の一理由としており、これに符合する供述部分は信用できる。
  二〇 被告人の犯行告白
   1 供述の概要
 五一年秋から五二年五月にかけて甲本十夫と仕事仲間として、かつ、いわゆる酒飲み友達として交際があった。
 その間甲本に無実の罪で官憲に追われていると言ったことがある。本件に関しては何も話をしていない。建前と本音の話はした記憶がない。共産党かとか浅間山荘事件に関係あるかとは聞かれていない。
 甲本は深情けで、人間関係切断できないので別れの挨拶はしていない。
 被告人から犯行告白を聞いていないとの甲本の七七回公判供述は大筋において真実である。
   2 甲本供述の概要
 (一) PS
 五一年一一月末か一二月初めころ、被告人方で、前に見た大学ノートの記述から問い質すと朝霞の自衛隊の事件で警察から指名手配されている、俺はやっていないが、やらせたことになっていると被告人が答えた。被告人の言を信じたが、更に何故自衛隊員を殺したんだと聞くと自衛隊員の武器を奪うためだと答えた。
 その二、三日後に作業現場で昼休み中被告人が落ち着かないので再び尋ねた。被告人は建前では俺はやらしてないことになっているが、本音では俺がやらしたんだ、俺は現場には行っていないが、俺がやらしたんだ、俺は武器を奪って来いと命じたんだが、途中で見付かってしまってあんなことになったんだ(書51一一八九六)。
 (二) 四〇回公判供述
 被告人方で強盗でもしたのかと追及したら、被告人は朝霞の自衛隊を襲わしたことになってるんで逃げ回っている、俺は無罪なんだけど、仲間が俺がやったというので逃げ回っているという話をした。
 二、三日後工事現場で被告人がしょぼくれているので尋ねた。被告人は、本音はやらしてるんだけど、建前はやらしてないことになってるんだから、そこのところは判ってくれよ、と言った。更に何のためにやらしたんだと聞くと武器を奪うためだと答えた。また、殺せとまでは命令していないが、押し入った者が歩哨に発見され、殺したんじゃないか、俺は現場に行っていないから判らないとも言った。
 甲本は二〇歳ころから窃盗、恐喝、傷害等で通算二年位服役した。
 (三) 七七回公判供述
 被告人方で朝霞の自衛隊を襲った事件で追われていると聞いた。被告人がやらしたとは聞いていない。
 工事現場で昼食時に被告人がうろうろしていて普段と違うので事件の話を聞いた。何故自衛隊を襲ったと聞くと、武器を奪うためだそうだと世間話風の話をした。俺は関係ない、やらしてないと言っていた。また、本音はやっていないんだけど、建前はやらせたことになっているんで逃げ回っているんだと言った。
 四〇回公判前には警察官や検察官が入院中の病院に来て出廷しろと言うので、二回目に出廷した。その前に熊谷の検察庁でPSを見せられ、本音と建前の話の練習をした。
 五七年七月ころ魚屋から盗みをして逮捕されたが、埼玉県警の島野警察官が来て、翌日釈放され、結局起訴猶予処分になった。その後島野に子供を遊びに連れて行ってもらうなど親身な付き合いがあり、同人に恩義を感じていた。
 鈴木弁護人らを私選弁護人に選任して審理を受けた覚せい剤取締法違反事件につき、六〇年一〇月一九日、懲役一年、三年間執行猶予の判決を受けたが、弁護士報酬はまだ払っていない。
 今回出廷するまで、島野から出廷するな、供述を変えると偽証だと再三言われていた。
   3 検察官の主張
 検察官は、PSと四〇回公判供述とはその内容が同旨であり、告白に至った経緯、告白した内容等は極めて自然で、警察の知りえない事実を供述しており、また、甲本がそのような供述をした動機も、被告人が突然甲本の前から姿を隠し、その後何の連絡もないことに立腹したことにあり、その信用性は極めて高いと主張する。
 また、検察官は、七七回公判供述について、四〇回公判の反対尋問において、弁護人は無益な尋問を続け、本論に入らずに当該期日を終了させ、その後甲本が犯した覚せい剤取締法違反被告事件において、被告人甲川の弁護人が甲本の弁護人となり、弁護料三〇万円が未払であること、弁護人は再三甲本に接触し、六二年六月九日、一〇日の両日甲本を新橋第一ホテルに宿泊させて事前準備を行い、前言を翻しても偽証罪にならないと誤導して出廷を決意させ、裁判所、検察官に全く連絡することなく、翌一一日の七七回公判に出廷させ、前記のような結論のみ浮び上がる供述をさせたものであって、供述変更の理由に首肯できるものはなく、七七回公判供述は信用できないと主張する。
   4 甲本供述の信用性
 (一) 供述の変遷
 本件の目的が武器奪取にあったことを打ち明けた時期について、四〇回公判供述は、犯行告白時であるのに、PSではその二、三日前(本件への関与を否定した時)となっていること、自衛官死亡の理由が歩哨に発見されたことにあるという点について、四〇回公判供述では、現場に行っていないから判らないという曖昧な発言であったのに対し、PSでは、現場に行っておらず判らないという供述はなく、被告人は右死亡理由をはっきりと言ったとなっていることなど、両者に整合しない部分がある。
 しかも、七七回公判では、犯行告白は全く聞いていないと一八〇度違った供述をするに至り、明らかに前後正反対の供述をしている。
 (二) 供述内容の不自然性
  (1) PSでは被告人方で事件との関係を聞いたところ、無関係と言われ、その言を信じたとされているのに、更に隊員を何故殺したのかと尋ね、武器を奪うためとの返答をえたこととなっている。
 しかしながら、被告人の言を信じた者が、更に被告人を追及する質問をなし、被告人が前言と矛盾する事件の内容に関する返答をしたのは、会話の流れとして甚だ不自然といわざるをえない。
  (2) 犯行を告白したとの甲本供述は、公安警察に追われて逃亡生活を続ける被告人が、いくら親しいとはいえ、逃亡先で知り合った仕事仲間にすぎない者から、本件への関与を疑う質問をされた際、これを強く否定せずに、たやすく前言を翻し、自己の関与ばかりか、謀議内容まで立入って秘密を打ち明けたというものであり、あまりに無警戒な話であって、やはり不自然さが残る。
 しかも、被告人は、犯行告白後も半年近く甲本と付き合いを続けており、転居もしていないこととなり、長期間の逃亡生活を続けている被疑者の行動としては不用心と評さざるをえない。
 (三) 迎合供述の可能性
  (1) 甲本は、二〇歳ころから窃盗、恐喝、傷害罪等で有罪判決を受け、二年近く受刑していた、本件で取調を受ける前も魚屋から盗みをして五七年七月ころ逮捕されたが、埼玉県警の島野警察官が来てくれ、翌日釈放され、結局起訴猶予となった、また島野には子供の面倒を見てもらったりして恩義を感じていた、五七年八月二一日付けで犯行告白を認めるPSが作成された、四〇回公判前も警察官や検察官が入院先の病院に来て出廷しろと再三言うので出廷したと供述する。
  (2) 甲本は、覚せい剤取締法違反罪で起訴され、鈴木弁護士らを私選弁護人として選任し、六〇年一〇月一九日前橋地方裁判所太田支部で懲役一年、三年間執行猶予の判決を受けたが、弁護士報酬は支払っていない、弁護人が再三接触してきて、六二年六月九日、一〇日と新橋の第一ホテルに宿泊し、前言を翻しても偽証罪にはならないと言われ、七七回公判に出廷したと供述する。
  (3) この甲本供述によると、甲本は捜査官側あるいは弁護人側いずれかと接触が繁くなると、その意にそうような供述をしているものと認められ、迎合供述をしているものと解しうる余地がある。
 殊に、甲本は前科を有し、PS作成当時は、窃盗事件が捜査係属中とも考えうるのであって、捜査官側に対しては、恩義を感じるとともに、極めて弱い立場に置かれており、迎合供述をし易い状況下にあったものと認められる。
 (四) 甲本が「四助」という被告人の偽名を読めなかったこと(甲本PS書51一一八八三)、その他生活状況、教育程度等に照らすと、本音と建前といった言葉は、甲本が日常用いる言い回しではなく、そのような言い回しの記憶があること自体やや疑問であって、この点に関するいずれの供述も真実の記憶に基づかないという疑いも残る。
 (五) 七七回公判供述の信用性
 甲本は裁判所に事前に連絡することなく突然出頭したものであり、その理由として弁護人の主張する点は、検察官に出頭予定を秘匿する理由とはなりえても、当裁判所に秘匿する理由とは全くなりえないものである。弁護人のこのような行動は、甲沢の供述録取書作成時と同様甚だ遺憾であり、甲本の出頭状況は不自然で、七七回公判供述は弁護人の影響下に供述された疑いが強い。
 しかも、その供述内容は、本音と建前の内容が入れ替わるのみならず、それまでの会話内容等も従前の供述とは全く正反対の内容となっており、供述変遷の理由として斉藤の述べる点も甚だ説得力に欠け、合理性が認められず、その供述の信用徃は極めて低い。
 (六) 結局、甲本供述は、全体的に観察すれば、自己矛盾の供述であるばかりか、いずれの供述も内容的に不自然さが認められ、当事者の影響により迎合供述をした疑いが強く、措信し難い。
 そもそも、公判廷において、前言を翻し、全く正反対の証言をなすような証人は、基本的に信頼性をおくことができない。
   5 被告人供述の信用性
 被告人の供述は、他の事項に関しては詳細な供述をしているのに、甲本との関係については甲本の七七回公判供述は大筋において正しいと供述するばかりで具体的な内容については言及しておらず不自然である。殊に本件に関しては全く甲本と話をしていないとの点は、甲本供述の具体的内容に鑑みれば、その供述内容の真偽は別としても、何らかの話し合いがなされたものと窺えることに照らし措信できない。
 したがって、被告人の供述も信用性が高いものとはいえない。
   6 まとめ
 以上検討の結果、検察官主張のごとき犯行告白の事実は認定できない。
第六 甲野の背後関係
  一 関係者の供述
 甲野の背後に被告人がいることに関する関係者の供述を検討する。
   1 丁原供述
 (一) 供述の概要
 二月ころ哲芸研の研究会で甲野が被告人の名前を出し、丁原も甲川論文を読んだことがあり、知っていると言った。
 七月中旬ころ、甲野から日本共産党赤衛軍という組織の存在を知らされた。甲野は赤衛軍の分団責任者で、被告人や戊石九助が中央委員会のメンバーと聞いた。
 丁原は被告人の考え方に同感であり、その考え方に基づいて本件を敢行した。
 一一月初めころ、甲野から、警察への任意出頭を求められたら、京都の甲沢、大阪の被告人の所へ行き状況報告し指示を受けるよう言われた(丁原46・12・25(その二)PS書38八一九〇、47・1・27PS書39八三九四)。
 (二) 検討
 丁原が本件に関して被告人が甲野の背後にいることを聞いたのは、七月の中旬ころと認められるが、丁原は専ら甲野から一方的に説明、指示を受ける立場にあり、被告人の関与に関するその供述内容の真実性は、甲野供述の二次的供述の性格を持つものであるから、同様の証明力が付与されるにすぎないものである。
   2 甲林供述
 (一) 供述の概要
 八月九日ハイツを下見した際、甲野から被告人は相当苦労されて京大の助手になられた、入院中見舞に来てくれたなどと被告人の話を聞かされた。甲野が被告人に心酔していることを知っており、甲野も被告人と同じ考えで何か企らんでいると思った(甲林46・12・14PS書43九八四一)。
 (二) 検討
 検察官は、甲野が甲林と喫茶店「ヴィクトリア」に向かう途中甲野の背後に被告人がいることを教えたと供述している点をとらえて、既に喫茶店「ヴィクトリア」の段階で甲野の背後に被告人がいることを甲林は知っていたと主張する。
 しかしながら、この点に関する甲野供述は三期から出現したものであり、他に裏付け証拠も存しない。既に甲野供述の信用性の項で検討したように喫茶店「ヴィクトリア」会合に関する甲野供述は措信し難い。
 したがって、甲林が甲野から被告人の話を聞いたのは八月九日と認められるが、その供述内容の真実性の問題は、丁原供述と同様である。
   3 乙山供述
 (一) 供述の概要
 乙山は、喫茶店「ヴィクトリア」で甲野が京都大学の専任講師であると自己紹介したことから、京都大学に行き、調査をした。喫茶店「にしむら」の会合前に、甲林を問い詰め、甲野の背後に関西方面の大物がいることを聞き出し、著作を読むなど調査した結果、帝国ホテルに行く前までに、甲野が日本大学の学生でクラブの部長をしているにすぎない者であり、背後にいるのは被告人かもしれないと考えた。
 (二) 検討
 乙山供述は、新供述で初めて供述されたものであり、新供述の信用性一般については既に乙山供述の信用性の項で検討したところである。
 しかも、乙山は、甲野の背後者を被告人と特定した理由の一つとして、当初、調査の結果、被告人が、論文で、自衛隊等から武器を奪取して武装闘争をするという主張をしていることが判ったと供述していたのが(乙山58・9・30PS書31六一九八)、被告人が武器を奪取して武装闘争をするという主張と読み取れることを論文に書いていた(乙山58・12・2425PS書31六二六六)と変わり、更に武器奪取闘争を志向しているセクトに関するものを読んで、その辺に被告人が浮び上がってきた(乙山二九回証11三二一〇)となり、最後に朝日ジャーナルの論文の話は聞いたが、被告人の本を読んでいない(乙山三二回証13三六九五)と変遷しており、その変遷は不自然である。更に、京大に行ったとの供述は日程的に極めて不自然であること、乙山の法廷供述は被告人を特定した根拠について曖昧に終結したこと、被告人を特定したという供述は犯行後約一二年を経て初めて供述されたことを考え合わせると、これを信用することはできない。
   4 乙島供述
 (一) 供述の概要
 七月下旬甲野に下宿の鍵を貸した際、甲野から何かの組織があって、その組織の自分の上に被告人がいると聞いた(乙島47・1・7書43九七五一)。
 (二) 検討
 乙島供述は漠然としており、具体性に欠けるが、他の関係証拠をも併せ加味すれば、甲野が「赤衛軍」の存在とその組織の中で甲野の上には被告人がいることを話したと解しうるものである。
 しかしながら、その供述内容の真実性は、丁原供述の場合と同様である。
  二 まとめ
 以上の検討の結果甲野が自己の背後に被告人がいることを本件前の七月あるいは八月上旬、丁原、甲林、乙島に明かしたことが認められる。
 しかしながら、丁原、甲林、乙島の各供述は、いずれも甲野の話を聞いたにすぎず、真実被告人が甲野の背後にいたかどうかについては、甲野供述を離れて独立した証拠価値(証明力)を有するものではない。結局甲野供述の派生的、二次的証拠にすぎないものであり、甲野供述の真実性にその証拠価値も依拠するものである。
 したがって、既に検討してきたように甲野供述は、被告人との共謀に関しては証拠価値が認められないのであるから、それ以上の証拠価値を有するものではない。
第七 総合的検討
  一 当裁判所の認定した事実
 被告人と甲野との接触状況を中心として証拠により認定できる事実は、既に該当箇所において個々的には摘示してきたが、その主要なものをここにまとめることとする。
   1 被告人は四六年当時暴力革命を志向し、既存の新左翼諸党派を批判し、それを超えた過激な武装闘争の必要性を主張し、大衆からの運動を称えていた。右思想は武器奪取闘争に対しても親和性があり、これを排除するものではない。
   2 四月一三日旅館「津乃村」において、被告人は甲野と会った。この会合は甲野がJに仲介を頼んで実現したもので、被告人は関東の運動の状況を知る意図であった。会合の結果、過激な暴力闘争の必要性の点で両者の考え方が一致し共闘の話をし、両者はある程度意気投合し、その後の居酒屋で、被告人は、甲野を「ならずもの」として褒め、心情的に甲野に親近感を抱いた。
   3 両者は、五月四日ころ京大文学部長室において、乙田らを交えて会った。この際も甲野の依頼によりJが仲介した。
 被告人は、暴力革命達成のためには既存の新左翼の運動を超えたより過激な武装闘争が必要であり、その担い手として「赤衛軍」を創設し、当面の三里塚、沖縄闘争においても過激な暴力闘争を展開すべきだと説いた。甲野はこれに共鳴感激し、文学部長室の壁面に「赤衛軍云々」との落書をした。
   4 被告人は、六月一九日ころ、入院中の甲野を見舞い、その後甲野とともに池亀方に寄り、レストラン「アラスカ」に行った。会合の経緯は、上京した被告人が甲野が入院していることを知って見舞に行ったところ、体調もほぼ回復していた甲野が被告人と行動を共にしたことにあり、被告人は乙川二久と面談することが主たる用件でレストラン「アラスカ」に行ったものである。
 レストラン「アラスカ」において、被告人は、乙原、乙田らを前に、暴力革命、三里塚闘争についての持論を展開し、三里塚闘争を被告人の主張する過激な暴力闘争に戦術転換するべきであると扇動した。甲野も被告人の主張に賛同した。
   5 甲野は真岡猟銃強奪事件に誘起されてか、既に七月以前から一般的な考えとして、自衛隊からの武器奪取の考えを持っていた。
   6 乙山は、借金の返済資金等に窮し、自衛隊の物資等を売って金もうけをしようと考え、六月下旬ころ、甲林に対し、山口や朝霞の自衛隊の情報を知っているので、買ってくれる人を紹介してくれと頼んだ。甲林は甲野にこの話をした。
   7 甲野は七月三日ころ甲林の話を伝えるため名古屋で被告人と会った。甲野は前記の甲林の話を知らせると同時に自己の思案していることも話したが、その具体的内容は確定できない。
   8 甲野は七月一二日喫茶店「ヴィクトリア」で乙山から直接乙山の話を聞いた。その内容は、自衛隊内には反戦自衛官組織があり、自衛官の制服等を盗み出せるのでそれを売りたい、自衛官に変装すれば簡単に駐屯地内に侵入し、弾薬庫から武器弾薬を奪取できるというものであった。
   9 被告人は、七月一〇日飲食店「久富」で甲野と会った。被告人が上京した主たる目的は雑誌社の依頼で乙谷と対談することにあり、飲食店「久富」での会合は副次的なものであった。飲食店「久富」という場所の設定は甲野がしたものである。両者の会合目的は、金の貸し借りではないが、その目的を特定することはできない。
 その後スナック「エスカール」にも行ったが、これらの席での話題は、既存の新左翼及び三里塚闘争の批判など闘争に関する一般的な話であり、被告人がレストラン「アラスカ」と同様の話をした。
   10 甲野は、七月初旬から七月二三日までの間に自衛官の制服を入手し、自衛官に変装して自衛隊基地に侵入し、武器奪取を行う考えを被告人に打ち明け、被告人にその闘争資金の援助を求めた。被告人は、これに応じて、七月二三日、甲野に渡すようにとの伝言をつけて、甲野の指定に基づき、K宛に闘争資金四万円を送金した。間もなく甲野は、Kに対する負債一万円を差し引いた残額三万円を受け取った。
   11 甲野は、七月中旬ころ、丁原、丁丘に対し、自衛隊等からの武器奪取闘争に参加するよう誘ったが、丁丘からは断られた。更に、七月二五日ころ、丁原とともにヘルメットを窃取し、これを塗り替えて「赤衛軍」等と記載し、また、八月初めころまでにビラを作成した。
   12 七月中旬ころ、丁原は甲野から「赤衛軍」が存在し、被告人らが中央委員会のメンバーだと教えられた。
 七月下旬ころ、乙島は甲野から同人の属する組織では同人の上部に被告人が組織されていると聞いた。
 八月九日ハイツ下見の際甲林は甲野から被告人の人物像について話を聞き、甲野も被告人と同じ考えで何かやると思った。
   13 甲野は、七月二六日ころ、喫茶店「にしむら」で乙山から制服の準備ができる時期等を聞き、自衛官の制服等一式を二組三〇万円で売買する話がまとまった。
   14 甲野は、七月下旬ころ甲林から乙山の履歴書を入手し、以前の勤務先など、乙山の素性などを調べ、その報告書を作成し、朝日新聞社に持ち込み、Kにコピーさせ、Jに見せた。
   15 甲野は、八月九日、詳細な事情を知らない甲林、丁原を伴ってハイツの下見をし、帝国ホテルの部屋を予約し、奪取する物の保管を丁井に依頼した。
   16 被告人は八月一二日喫茶店「カトレア」同「穂高」、むらさき寿司で甲野と会い、甲野はその晩何かでかいことをやると漏らしていた。
   17 八月一三日夜、被告人はKとスナック「パピヨン」で飲酒したが、被告人は、「甲野は依頼心が強く、苦しい中から金を作ってやったのに何もやらずあかん奴だ。」と甲野を怒っていた。
   18 本件前の一連の事件及び本件については、帝国ホテルで乙山に対し、調査報告書を見せ、周囲に組織の者がいる風を装い、ハイツ闘争に協力しなければ組織により殺害するとの脅迫をし、畏怖する甲林をも脅迫し、それぞれ闘争への参加を応諾させたことを付加する外は、第二の争いのない事実の項で認定したとおりである。
   19 甲野は、本件犯行後直ちにKに架電し、闘争を実行したことを伝え、八月二三日、Kの取材を受け、警衛腕章を渡し、取材費五万円を受け取った。
   20 被告人は、八月二二日、本件発生をテレビニュースで知るや直ちにKに架電し、犯行への驚嘆の意をあらわし、八月二四日甲野から電話を受けた際本件を評価し、甲野を褒め、日本読書新聞に本件に好意的な論稿を執筆し、本件を賞賛した。
   21 被告人は、九月上旬ころ、Jの依頼を受け、また、自己に累が及ぶのを避けるため、甲野の逃亡を画策した。
   22 甲野は、九月二一日、松本から被告人に架電して、尾行がきつくて行けないと嘘を言ったところ、被告人が「ほんまかいな。」と疑念を呈したことに憤慨し、電話を一方的に切った。
   23 被告人は、一〇月九日ころKに対し、甲野が捕まると自分達も危なくなるので、甲野を西の方に持って行き、暫く部落に隠して海を越えさせると言った。また、週刊プレイボーイを見ると如何にも俺が甲野を指導してやったような事になっているが、本当にけしからん奴だとも言った。
   24 被告人は、甲野との関係で逮捕されることを恐れ、行方を暗まし、逮捕されるまで一〇年以上にわたり逃亡生活を続けた。
  二 共謀の存否
   1 検察官の主張
 検察官は、被告人は、四六年七月上旬ころから同年八月下旬ころまでの間、中国料理店「青冥」等において、甲野から武器奪取計画の報告を受け、これを検討して甲野に対し、同年八月二一日朝霞駐屯地内に侵入し、包丁などの凶器を使用して脅迫し、あるいは暴行を加えて自衛隊員の反抗を抑圧した上、弾薬庫などから銃器・弾薬を強取する旨指示・命令を行い、甲野がこれを了承、賛同して甲野との間で共謀を遂げ、次いで甲野と共謀を遂げた乙山、丁原において本件犯行が敢行されたもので、被告人、甲野、乙山、丁原間に本件犯行の共謀による共同意思主体が成立し、その意思に基づいて本件が敢行されたのであるから、被告人に強盗致死、建造物侵入、公務執行妨害の共謀共同正犯が成立すると主張する。
 そこで、共謀の存否について総合的検討を加えることとする。
   2 共謀に関する直接証の不存在
 検察官は、本件の具体的謀議として、七月上旬の架電、「もっきり亭」謀議にはじまり「久富」謀議、「青冥」謀議等を経て池亀方への架電謀議まで一一回にわたる謀議の存在を主張し、更に闘争資金四万円の送金をあげる。
 しかしながら、既に詳細に検討してきたとおり、検察官主張の前記謀議等に関する甲野供述は措信し難く、他に右謀議の存在を直接証する証拠は存しない。
 検察官が主張する事実のうちわずかに闘資金の送金が証拠上認定できるにすぎないが、これとても検察官が主張する事実とは異なる性格のものであることは既述したところである。
 このように検察官主張事実の大半が認め難いのであるから、もはや共謀の認定は消極に働かざるをえない。
   3 ハイツ闘争から本件に至るまでの事態の推移と参加者の顔振れ
 (一) ハイツ闘争から本件に至るまでの事態の具体的推移をみると、甲野は、八月九日、自己の意図を打ち明けぬまま、丁原、甲林とともにハイツの下見をし、ハイツ闘争の当日である八月一二日、目的を告げぬまま甲林、乙山、丁原、乙島を帝国ホテルに集合させた上、初めて犯行計画を打ち明け、ここに実行担当者とされた同人らとの謀議が初めて行なわれた。ハイツ闘争が失敗に帰した後、八月一四日の第一次朝霞闘争は、実行に着手する前に準備不十分のため(闘争の足である自動車を用意できず)中止され、急きょ七軒町派出所闘争が企図されたが、これも失敗に終わった。最終的に本件を敢行することとなったが、当日に至り、俄かに材料を買い集めて粗雑な「赤衛軍」の旗を作り上げるといった有様であった。現地の下見はハイツ闘争においてはなされているものの、七軒町派出所闘争においては闘争のための下見といいうるほどのものはされておらず、第一次朝霞闘争及び本件においてはこれが全くなされていない。
 このように、実行者を武器奪取闘争に誘った状況、ハイツ闘争までの犯行準備の状況、ハイツ闘争直前に新井らを脅して加担を承諾させた帝国ホテルでの状況、実行担当者との謀議がこの時初めて行なわれ、その後も攻撃目標をくるくる変えたこと、闘争に用いる自動車の準備状況、七軒町派出所闘争後の犯行準備状況等の本件に至る事態の推移から見てみると、本件犯行が事前の周到な計画によるものとは言い難く、場当たり的な犯行の感がするのは否めないところである。
 (二) しかもハイツ闘争から本件までの参加者は、本件の切掛けとなった自衛官の制服等売買の話を持ち込んで来た乙山を除けば、いずれも甲野が日本大学文理学部の研究サークル等で知り合った新左翼の活動家あるいはその同調者にすぎない。結局甲野のいう「赤衛軍」の構成メンバーは、被告人を除けば、右の者らにすぎないものと認められる。
 闘争参加者の範囲が、甲野の身近な知人に限定されていることも、本件が甲野を超えた大きな組織の犯行と判断するには、消極的な一要素と解される。
 (三) したがって、本件と警視庁職員宿舎爆破闘争が同時期に敢行されているとはいえ、ハイツ闘争から本件に至るまでの事態の推移及び参加者の顔振れから考えても、本件が甲野をその一員とする大きな組織の周到な計画による犯行とは言い難い。
   4 乙山の話とハイツ闘争等の関連性
 乙山が甲野に持ち込んだ話は、自衛官の制服等が手に入るのでこれを売りたい、自衛官に変装すれば容易に自衛隊基地に侵入して武器が奪えるというものである。
 したがって、乙山の話を発端としたのであるから、自衛隊基地に侵入して武器を奪取する計画を練りあげるのが、事の流れとしては一貫していると考えられる。
 しかしながら、実際には米軍施設に対するハイツ闘争、次に警察施設に対する七軒町派出所闘争がまず敢行されており、自衛隊基地を対象とする本件は最後に実行されているのである。もっともその間に第一次朝霞闘争が企図されているが、これは準備が杜撰で、現地に赴くこともなく中止されていることから考えると、甲野には一体本件前の右闘争をどの程度実行する気があったのか疑問視されるところである。
 このように乙山の話と現実の甲野らの行動との間には、事の筋道としての連続性、一貫性を認め難く、現実の出来事を、乙山の話に基づき練りあげた武器奪取計画の実行とみるのには不自然さが認められる。
   5 実行責任者
 検察官は、甲野は被告人からハイツ闘争に発して本件に至るまでの各闘争計画の実行責任者に命じられた者と主張する。
 しかしながら、甲野はハイツ闘争から本件に至るまで一度たりとも実行行為を分担したことはないのみならず、犯行現場にすら赴いていないのである。実行責任者とされた者が甲野のような行動をとることは極めて不可解といわざるをえない。
 検察官は、これに対して次のように主張する。すなわち、甲野は、両親に対し、自分は革命の捨て石になる、親不幸を許してくれという書き置きを残して家出し、赤軍派に参加して、武装蜂起闘争に参加し、四四年九月から一一月までの間に神田戦争事件、巣鴨駅前派出所・池袋警察署火炎びん襲撃事件、東薬大火炎びん等製造事件、ピース缶爆弾製造事件、警視庁第八・九機動隊ピース缶爆弾投てき事件、アメリカ大使館公報文化局等時限式ピース缶爆弾仕掛事件等に関与したが、赤軍派の計画がことごとく失敗に終わり、深刻な挫折感を引きずっていたところ、被告人とめぐり会い、被告人の暴力革命理論に共鳴して、この人だったら自分を託せる、ここが死に場所と考えて行動を共にするうち本件を敢行する決意をしたのであり、甲野の過去の活動歴や被告人とめぐり会って行動を共にしてきた経緯に照らすと、甲野が私心をもって本件を敢行したとは到底考えられず、甲野は被告人の指示に基づき本件を敢行したものであると主張する。
 しかしながら、甲野の闘争歴については、これを裏付ける確たる証拠は全く存せず、ピース缶爆弾事件に関しては、同事件に関与したとの甲野供述が各裁判所において斥けられているところであり、甲野の過去の闘争歴に関する検察官の主張は確たる証拠に基づくものといえず、左袒し難い。
 前述のように、本件においても甲野は全く実行行為に関与しておらず、真実暴力革命を目指して捨て石になる覚悟で本件に及んだと解するには疑問が残り、甲野を本件の実行責任者とみるのは困難である。
   6 甲野の犯行準備の状況
 甲野は、前記認定のとおり、既に七月中から自衛隊の武器を奪取することを計画し、丁原、丁丘に闘争への参加を勧誘しており、また本件で使用されたヘルメットを準備している。
 これらの事実は、「青冥」謀議において甲野がハイツ闘争から本件に至るまでの一連の闘争の実行を命じられたとの検察官の主張と矛盾、抵触するものである。
   7 背後に被告人がいるとの甲野の発言
 検察官は、甲野の背後に被告人がいるとの甲野の発言を甲林、丁原、乙島らが聞いたことをもって、同人らはいずれも甲野の背後に被告人が存在していたことを十分知っていたものであるとして、甲野が被告人の名前を利用して個人的利益のために本件を敢行したにすぎないとの弁護人の主張は失当であると主張する。
 既に第六で論じたように、同人らが甲野の発言を聞いたからといって直ちに甲野の背後に被告人が存在していたとは即断できない。それは甲野供述の信用性の有無に係わるものであるが、既に詳細に判示したとおり肯認し難い。
 そもそも被告人と甲野との関係は、交際の経緯に照らし、一致協力して行動するとはされたものの、両者の間に組織といえるだけの実体が形成されていたとは認められない。甲野は、丁原に対しては党中央委員に戊石九助こと乙谷がいるとの虚言をも弄して「赤衛軍」の組織なるものを説き、「赤衛軍」へ加入するよう勧誘しており、丁原、乙島の従順さを利用して本件に加担させている。以上の点から考えると、背後に被告人がいる旨の発言をする甲野の意図は、有名人を長とする組織を背景とすることによって、自分を偉く見せ、丁原、乙島を自己に従わせることなどにあったとも解されるのであって、右甲野発言が真実を暴露する意図でなされたものとは認められず、発言内容の真実性は疑わしい。
   8 甲野のマスコミへの登場
 甲野は真岡猟銃強奪事件の翌日には、京浜安保共闘の幹部と称して週刊朝日に記事を売り込み、五月には再び同様に称して朝日ジャーナルに記事を売り込み、いずれの記事も誌上に掲載された。
 本件についても、甲野はKに犯行の予告をするとともに犯行準備状況を写真撮影させ、本件犯行直後にはKのインタビューに応じている。更に、Kに対し他の週刊誌記者の紹介を求め、これは断られたものの、週刊プレイボーイ誌に記事を売り込み、同誌に甲野の単独会見記が掲載された。
 このように甲野は従前から積極的にマスコミに記事を売り込み、本件についても事前、事後の二回にわたりKのインタビューを受け、犯行の予告すらしているのである。
 犯行を事前に報道機関に予告すれば、警察に通報される危険もあり、新左翼組織の非合法活動にたずさわる者としては最も慎むべき行動といえよう。したがって、甲野の行動は非合法の反権力闘争を行う者の行動としては思慮を著しく欠き、不可解な行動と評する外ない。
 甲野のこれらの行動は、地下組織による武器奪取闘争の一環として本件が行われたとの検察官の主張とは相容れぬあるいは調和しない行動と解される。むしろ、甲野の既成の新左翼を超えた活動家であるとの自己宣伝の道具として本件が敢行されたものとみると、甲野のこれらの行動は容易に説明がつくものといえよう。
   9 被告人の認識
 (一) 謀議関与を推認させうる事実
 被告人が武器奪取の可能性もある闘争のために四万円を送金したこと、ハイツ闘争直前に喫茶店「穂高」等で甲野と接触したこと、ハイツ闘争前、第三者に甲野が何かでかいことをやると漏らしたこと、本件犯行を知るや直ちにKに架電し、甲野が「あんなことを言っていた。」と発言したことなどに照らすと、被告人が、犯行指示はしていないにしても、送金に対応して闘争をなすよう甲野に催促し、甲野が犯行の決意をある程度打ち明けるなどの謀議をしたのではないかとの疑いが残る。しかも、権力からの武器奪取に好意的な被告人の発想、旅館「津乃村」、文学部長室等で過激な闘争に関し意気投合したという両者の交際の経緯、犯行後の甲野への賛辞、日本読書新聞紙上での犯行賞賛、被告人に累が及ぶのをも恐れての甲野の逃亡画策、プレイボーイ誌記事に関する被告人の発言、被告人の長年月にわたる逃亡等は、被告人が本件に関与したことを否定するものではなく、関与を推認させうる間接事実といえるものである。被告人の謀議関与は強く疑われるところである。
 (二) 被告人の具体的認識
 被告人は、七月初旬の名古屋会合から七月二三日の送金までの間に甲野から自衛隊の制服を入手し、それを利用して自衛官に変装して自衛隊基地に侵入し、武器を奪取するとの計画を打ち明けられ、資金協力を求められ、これを応諾し、闘争資金として四万円を甲野に送金したものである。
 しかしながら、甲野がハイツ闘争を何時計画したかについては明らかではなく、八月九日にハイツの下見をしていることから考えると、七月二三日以前において甲野がハイツ闘争から本件までの具体的闘争を計画していたものとは解し難い。
 被告人は八月一二日喫茶店「カトレア」において、甲野から今晩何かでかいことをやるとの犯行予告を受けているのであるが、具体的な襲撃場所、方法等については何ら説明を受けていない。
 したがって、被告人の認識としては、本件に至るまで甲野の七月の説明の域を越えるものではなく、甲野が何処かの自衛隊基地から武器を奪取するとの抽象的な認識しか有していなかったものと解するのが相当である。
 (三) 甲野逃亡への協力等
 検察官は、被告人の積極的な甲野逃亡への協力及び被告人の長年月にわたる逃亡は被告人の犯行関与を推認させる事実であると主張する。
 確かにこれらの事実は、被告人が新左翼の活動家であり、反権力闘争を志向している者である点を考慮してもなお、犯行への関与を強く推認させうる事実であることは否定できない。しかし、間接事実中の一つであって、これらを過大視することは許されない。けだし共謀共同正犯ではなく、幇助犯人であっても右の各行動は諒解可能であるからである。
 (四) 七月以前の両者の関係、「赤衛軍」
 また、被告人は、七月以前において、既成の新左翼運動を超えたより過激な武装闘争を主張し、被告人の提唱にかかる「赤衛軍」創設を目指して一致協力して活動していくことを甲野と確認している。しかしながら、両者の間で具体的な闘争として話し合われたのは、三里塚、沖縄闘争であり、右闘争においても、より過激な闘争形態の必要性が論じられていたにすぎず、何時何処で何をするという具体的な方法論、戦術論が両者の間で話し合われたものとは解し難く、結局一般的、抽象的に過激な闘争の必要性について両者の意思が一致しているにすぎないのである。更に、本件においては、「赤衛軍」の名が用いられているが、既に論じたように「日本共産党」の名称は被告人ではなく、甲野に由来するものと考えられ、「日本共産党=赤衛軍」の名称は、甲野の独創にかかるものである。被告人が右名称の創案に関与したものとは考えられず、右名称は、本件が甲野の主導によることを示す一事由とすらいえよう。
 したがって、七月以前の両者の関係及び「赤衛軍」の名称は、被告人の前記のような抽象的認識の判断を左右するものとは解し難い。
 (五) まとめ
 結局、ハイツ闘争はおろか本件についても被告人が事前に甲野から明かされていたと認めるに足る証拠は存せず、闘争資金の送金、甲野への逃亡協力及び長期間の逃亡、甲野との接触状況等という事実を考慮しても、被告人の認識は、前記のような抽象的なものに止まると解すべきである。
 以上要するに、被告人と甲野間に本件犯行に向け共同意思主体が成立しその意思に基づいて本件が敢行されるに至ったとは認められない。
   10 まとめ
 以上個々的に検討した結果を総合すると、本件は甲野と被告人との共謀に基づくものではなく、甲野が首謀者であり、新左翼の活動家としての自己宣伝のため周囲にいる日本大学の新左翼の活動家あるいは同調者及び元自衛官の乙山を使嗾して敢行したものであり、被告人は単に資金協力をしたにすぎず、甲野の背後には確たる新左翼の組織は存在しなかったものとみるのが相当である。
 したがって、検察官の主張は採用できない。
  三 被告人の刑事責任の有無
   1 実体法上の評価
 被告人は、七月初旬から七月二三日までの間に、甲野から自衛官の制服を入手し、それを利用して自衛官に変装して自衛隊基地に侵入し、武器を奪取するとの計画を打ち明けられ、資金協力を求められ、これを応諾し、七月二三日闘争資金として四万円を電信為替でK宛に送金し、間もなく甲野はKへの借金一万円を差し引かれた現金三万円を受け取ったが、その三万円の使途については明らかではない。
 ところで、武器奪取闘争は、奪取の際、武器管理者など相手の抵抗を排除するため、実行者において強度の暴行、脅迫に出うることが当然予想されるものであって、実行者が武器奪取闘争に出るかもしれないとの認識は、強盗の幇助犯の主観的要素として欠けるところがなく、本犯者の具体的犯行についての認識が欠けていても、幇助犯の認識としては十分である。
 また、犯行着手前の闘争資金の援助は、典型的な幇助行為であり、その使途が明らかでなくても、少なくとも受領者の心理において犯行遂行を容易とするものであって、本件送金が犯行実現の危険を増加させたという因果性を肯定できる。
 したがって、被告人の本件送金は本件犯行に対する幇助としての主観、客観両面の実体を備えたものと認められ、被告人には、実体法上、建造物侵入、公務執行妨害、強盗致死の幇助犯が成立するものと解する。
   2 訴訟法的検討
 (一) 本件訴因は事前謀議に基づく共謀共同正犯であるが、これを訴因変更せずに、幇助犯と認定できるかは問題であるので、この点を検討する。
 (二) 検察官の主張
 検察官は、被告人は建造物侵入、公務執行妨害、強盗致死の共謀共同正犯の責任を負うと主張し、その具体的事実の主張として、その冒頭陳述において、被告人らが自衛隊等から武器奪取を企図するに至った経緯の項で、本件送金を武器奪取闘争の活動資金として送金したと主張する。更に論告においても、七月上旬から八月下旬ころまでの謀議とともに、本件送金を闘争資金と主張しているのである。
 したがって、本件送金の事実は、起訴状記載の公訴事実中には記載されていないものの、検察官は、その冒頭陳述から論告に至るまで、最終謀議の形成過程を構成する一事実、すなわち、本件における謀議の構成要素として主張しているものと解するのが相当である。したがって、本件送金は訴因の一内容をなしており、そのような事実について、裁判所が認定することは、事実面において訴因を逸脱するものとはいえない。
 (三) 被告人、弁護人の防御活動
 検察官の前記主張に対応して、弁護人は、その冒頭陳述において、本件謀議の不存在―被告人と甲野の関係の中の甲野からの借金とその返済の項(第三の三)で、本件送金は借金の返済であるとの反対主張をなし、本件送金の趣旨について積極的な防御活動を展開した。被告人においても、本件送金を借金の返済とし、借金に至る経緯、借金の際の状況、早期返済の動機、残額返済の状況等、詳細な供述をなし、弁護人も、乙丘家計簿の記載の解釈その他被告人の所持金の変化や甲野と丙原の関係など甲野の資力の立証、送金の状況、趣旨についてのJに対する詳細な尋問、被告人質問、検察官の尋問などをし、その反証活動は十分なされている。更に、弁護人は、その最終弁論においても、第二章甲野供述を補強する証拠の不存在の中の第七為替の項において、本件各証拠を対比検討して、本件送金が検察官の主張する闘争資金ではなく、借金の返済であると詳細に反駁しているところである。
 このような六年余にわたる両当事者の積極的な訴訟活動及び現在既に本件発生から一七年余が経過していることを考慮すると、被告人及び弁護人の防御活動は尽くされた状態にあり、新たな主張、立証のなされる余地はなく、本件において共謀共同正犯の主張に対して幇助犯を認定しても、被告人及び弁護人に不意打を与えるものとは到底考えられない。
 (四) 結論
 本件における具体的な訴訟経過に鑑みれば、共謀共同正犯の訴因に対し幇助犯を認定するのは、いわゆる訴因の縮小認定に当たる。防御活動も十分尽くされており、当事者に対する不意打防止の観点からしても訴因変更は不要である。したがって、訴因変更を経ることなく、被告人に対して建造物侵入、公務執行妨害、強盗致死の幇助犯を認定する。
 (法令の適用)
 被告人の判示所為のうち、建造物侵入幇助の点は刑法六二条、一三〇条前段、罰金等臨時措置法三条一項一号に、公務執行妨害幇助の点は、刑法六二条、九五条一項に、強盗致死幇助の点は、同法六二条、二四〇条後段にそれぞれ該当するところ、右は一個の所為で三個の罪名に触れる場合であるから、同法五四条一項前段、一〇条により一罪として最も重い強盗致死幇助の刑で処断することとし、所定刑中無期懲役刑を選択し、右は従犯であるから、同法六三条、六八条二号により法律上の減軽をし、なお、犯情を考慮し、同法六六条、七一条、六八条三号を適用して酌量減軽をした刑期の範囲内で被告人を懲役五年に処し、同法二一条を適用して未決勾留日数中右刑期に満つるまでの分をその刑に算入することとし、別紙(一)記載の訴訟費用は、刑事訴訟法一八一条一項本文によりこれを被告人に負担させることとする。
 (量刑の理由)
 本件は、従来の新左翼運動にあきたらず、一層過激な闘争形態を目指した甲野が、自己宣伝も兼ねて、「日本共産党=赤衛軍」の名の下に、元自衛官乙山三夫及び日本大学の学生らを使嗾して、自衛隊から武器等を奪取する目的で、自衛官に変装の上、朝霞駐屯地内に侵入し、柳刃包丁を用いて動哨中の被害者を刺殺したのに対し、甲野と従来の新左翼運動を乗り越えようと意思の一致をみていた被告人がその準備段階において闘争資金を送金して援助したという建造物侵入、公務執行妨害、強盗致死幇助の事案である。
 正犯行為に関する一般的情状をみると、犯行の態様は、事前に、変装用の自衛官の制服制帽、柳刃包丁、偽装用のナンバープレート等を用意し、数人で役割を分担したなどの点で、計画性、集団性を認めうるものであり、暴行の程度は、被害者の不意をついて攻撃を加え、殺傷能力の高い柳刃包丁を用いて胸部等を数回にわたって突き刺したという点で、強烈なものである。犯行の結果は、春秋に富む被害者から、突如としてその命を奪ったという重大なもので、被害者には全く落度はなく、その苦痛及び無念さは計り知れず、また、遺族の受けた憤りと悲しみも大きいところ、十分な慰謝の措置はとられていず、遺族らの被害感情は強い。加えて、正犯行為は、過激な武装闘争を志向する集団が武器奪取を目的に自衛隊基地内に侵入し自衛官を殺害するという今迄に例をみない衝撃的な犯行であって、爆弾事件等が頻発し、騒然としていた社会にまたまた与えた新たな衝撃、不安は深刻であって、過激な武装闘争を志向する者達に与えた扇動的影響も軽視できない。犯行の動機は、武器を奪取し更にこれを政治闘争の場で殺傷のために用いるというもので、このような目的のためには手段を選ばぬ武器奪取闘争は、民主主義の基礎を揺るがしかねず、法秩序に対する重大な挑戦であり、悪質かつ危険なものである。
 しかし、他方、犯行は、計画性はあるものの、各種の準備は思いつきによるものが多く、襲撃目標の選択が場当たり的であるなど、熟慮されたものではなく、また、集団性はあるが、正犯の人数は三人であり、甲野は脅迫と詐言などを用いて周囲の者をひきずり込み、丁原はその一辺倒な性格から甲野の命ずるままに犯行に加わり、乙山はもともと金目当てであり、甲野から脅迫を受けて犯行に加わるようになったなど、集団の結合関係は稀薄で、思想的統一性もみられず、組織性はほとんどない。自衛官殺害は当初から予定していたものではなかった点で、死の結果は偶発的であるし、犯行の動機も非現実的でやや幼稚な面も窺われる。
 被告人の関与は、正犯行為の準備段階で四万円の闘争資金を送金したというものであるが、送金された金銭の使途はつまびらかではなく、送金が正犯行為遂行の不可欠の前提であったとまではいえない。送金の正犯行為に対する影響は心理的なものであり、被告人の認識も、正犯行為を具体的に特定して認識した上で送金したものではなく、送金と正犯行為との結びつきが強いと断ずることはできない。しかし、被告人は、それまでの甲野との接触時に、過激な武装闘争を主張し、同様の方向を目指す甲野の考えを支持し、甲野は被告人に心酔していたのであって、送金は、そのような状況下でなされたものである。
 送金の動機は、当時の被告人の過激な武装闘争論に基づくものである。自己の主義主張として如何なる暴力革命論、武装闘争論を説こうと自由であるが、人を殺傷する違法な武器奪取闘争のために資金援助をなすことは強い非難に値する。殊に被告人は、当時京都大学経済学部助手という社会的にも尊敬される研究者の一員であり、被告人の本件行為が一般社会に与えた影響のみならず、研究者の社会的評価を貶しめた点及び大学生、高校生ら学徒に与えた影響についてもその責任は重い。
 被告人は逮捕を免れるため犯行後一〇年以上にわたり逃亡し、しかもその間「只今潜行中 中間報告」等を出版し、捜査機関に対し公然と挑戦している。そこから窺われる無反省で、反規範的な態度は強く非難されるべきである。
 次に、時の経過による事情の変化を酌むべきかどうかについてみるに、一般的には、逃亡中の犯人の辛苦は原則として自業自得とみるべきであるし、期間の経過による様々な事情の変化を逃亡した犯人に有利に援用するには慎重であるべきである。しかし、本件当時の騒然とした社会状況も次第に鎮静化し、現在は社会情勢も落ち着き、新左翼運動も当時とは比較にならぬほど限局されたものとなっており、被告人自身自らを化石と評するほどである。このような社会情勢の変化を全く無視する訳にはいかない。
 被告人は、本件当時は三一歳の壮士であったが、逮捕された時は既に四二歳であった。その間、人生の最も充実した壮年期を逃亡生活に費やし、親の臨終の席にも出られなかった点は、身から出た錆とはいえ、被告人の幇助犯という刑責に鑑みれば、全く斟酌しないとも言い難い事情である。
 既に本件の関係者は丁原(病体)を除きすべて刑期を終え、事件のもつ社会的影響も時の経過により緩和された事情などは、多少とも考慮しうるであろう。
 被告人は、自己の刑責を否定し、遺族への慰謝の措置を講じないなど、反省の態度は十分とは認められない。しかし、被告人は、当公判廷において、最終的には、過激な暴力闘争を志向する当時の自己の考えは誤りであったことを明確に認めていること、その他現段階では被告人の活動母体は既に消滅していること、社会情勢の変化等に照らし、その再犯の可能性は必ずしも高くはない。
 以上、正犯行為の態様、結果の重大性、幇助行為の意義、長期間の逃亡等に照らし、被告人の幇助者としての責任は軽視できないものであるが、他方、本件正犯行為の特質、幇助行為の物理的因果性の稀薄さ、犯行後の事情、再犯の可能性の程、六年半余の長期の身柄拘束、関係者の量刑など諸般の情状を総合考慮すると、酌量減軽の上、被告人を懲役五年に処し、未決勾留日数を右刑期に満つるまで算入するのが相当であると思料する。
 よって、主文のとおり判決する。
 (裁判官 金山薫 裁判長裁判官杉山忠雄及び裁判官戸田久は、転補のため署名押印ができない。裁判官 金山薫)

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